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陰流の開祖であり、忍びの術の開祖でもある愛洲移香斎の物語です。
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第三部 本願寺蓮如



1.蓮如1






 毎日、うっとうしい雨が降っていた。

 蒸し暑くて、やり切れなかった。

「南無阿弥陀仏(ナムアミダブツ)‥‥‥」

 風眼坊舜香(フウガンボウシュンコウ)は雨を眺めながら、独り呟いた。

「南無阿弥陀仏‥‥‥か、どうも、わしには合わんのう‥‥‥」

 風眼坊は加賀の国(石川県南部)江沼郡の山田光教寺の門前にある多屋(タヤ)と呼ばれる宿坊にいた。

 火乱坊(カランボウ)の多屋であった。

 その多屋には火乱坊の家族が住み、下男や下女も数人いて、光教寺に参拝に来た門徒(モント)たちの世話をしていた。今朝早く、近江(オウミ、滋賀県)から来たという門徒が七人帰って行き、今晩、また、越中(富山県)の方から数人の門徒が来るらしいが、今は客間には風眼坊しかいなかった。

 火乱坊の家族は女房のおつた、十六歳になる息子の十郎、十四歳になる娘のおあみ、十二歳になる娘のおちか、八歳になる娘のおいさがいた。息子の十郎は本願寺法主(ホンガンジホッス)、蓮如(レンニョ)のいる吉崎御坊(ヨシザキゴボウ)の方に修行に出ていると言う。三人の娘は母親を手伝って門徒たちの世話をしていた。

 火乱坊は、ここでは慶覚坊(キョウガクボウ)という名前だった。真宗門徒となった時、蓮如より貰った法名だと言う。その慶覚坊は朝早く、用があると言って吉崎に出掛けて行った。ここから吉崎までは四里程(約十二キロ)の距離だった。

 風眼坊は客間の縁側から、ただ、ボーッとして雨に濡れた庭を見ていた。昨日の昼頃、ここに着き、昨夜は久し振りに慶覚坊と酒を飲んで、昔の事など懐かしく語り合った。

 慶覚坊が先頭になって昨日の晩と今朝早く、門徒たちと念仏を唱えていたが、風眼坊は一緒に念仏を唱える気にはならなかった。慶覚坊は、そのうち面白い事が始まるから、今のところはのんびりしていてくれ、と言うだけで、特に念仏を勧めるわけでもなかった。

 風眼坊は十日程前、浄土真宗本願寺派の親玉、蓮如に会うため、慶覚坊と共に大峯山を下りた。まず、近江の国、大津の顕証寺(ケンショウジ)に行き、蓮如の長男の順如(ジュンニョ)と会い、堅田の本福寺(ホンプクジ)で、慶覚坊の義理の父親の法住(ホウジュウ)という坊主と会った。

 法住はもう八十歳に近いというが、なかなか貫禄もあり、威勢のいい爺さんだった。さすがの慶覚坊も、この親父には頭が上がらないようだった。法住はただの坊主ではなく、湖賊(コゾク)と呼ばれる琵琶湖上を舟で行き来する商人の頭でもあった。

 慶覚坊と風眼坊は堅田から舟に乗り、琵琶湖を渡って海津まで行き、山を越えて敦賀に出て、越前の国(福井県)を通り抜けて、越前の国の再北端、加賀の国との国境近くにある、蓮如のいる吉崎御坊に向かった。

 蓮如が吉崎の地に来て、まだ三年しか経っていないのに、門前町は人で溢れる程、繁盛していた。本願寺の別院、吉崎御坊は三方を北潟湖(キタガタコ)に囲まれた山の上に建っていた。天然の要害と呼べる地であった。

 多屋の建ち並ぶ中の参道を行くと大きな門があり、そこから坂道を登って行くと本坊へと出る。広い境内に阿弥陀堂(本堂)、御影堂(ゴエイドウ)、書院、庫裏(クリ)、鼓楼(コロウ)、僧坊などが建っていた。

 二ケ月程前に火事があり、本坊はほとんど燃え、多屋も九軒燃えてしまったが、あっと言う間に再建されて、風眼坊が来た時には、まだ木の香りのする新しい建物が並んでいた。
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2.蓮如2






 雨が降っていた。

 霧が立ち込め、三間(ケン、約五メートル)先も見えなかった。

 風眼坊と老僧の信証坊、慶聞坊の三人は、崩れ掛けた炭焼き小屋で雨宿りをしていた。

「うっとおしいのう」と風眼坊は雨垂れを見ながら言った。

「梅雨じゃからのう」と慶聞坊は霧の中を見ながら言った。

 信証坊は奥の方で横になっていた。昨日、かなり険しい山道を歩いたので、やはり疲れたのだろう。昨日の夕方、急に雨に降られ、この炭焼き小屋に飛び込んで一夜を明かしたが、朝になっても雨はやまなかった。

「火乱坊、いや、慶覚坊の事じゃが、吉崎の火事の事で、何か調べておると聞いたんじゃが、下手人は見つかったのか」と風眼坊は慶聞坊に聞いた。

 慶聞坊は慌てて首を振って、「内緒です」と小声で言った。

「内緒?」

「ええ、慶覚坊殿のしている事は上人様には内緒なんです。信証坊殿に聞かれると上人様に筒抜けになってしまうんですよ」

「どうして、内緒にしておくんじゃ」と風眼坊も小声で聞いた。

「上人様は争い事はお嫌いです。この間の火事は失火じゃ、付火なんかじゃないと上人様はおっしゃります」

「それで、本当の所はどうなんじゃ」

 慶聞坊は後ろを振り返り、信証坊を気にしながら小声で話した。「多分、付火です。その事は上人様も知っております。しかし、表沙汰にして事を荒立てたくないんですよ」

「ふうん。下手人はやはり豊原寺なのか」

「多分‥‥‥」

「本願寺が繁盛している妬みか」

「それもあります。しかし、もっと現実的な事です」

「現実的な事というと、やはり、銭か」

「そういう事です。叡山は本願寺を叡山の末寺(マツジ)だと思っております。上人様は大谷にいた頃、叡山からの独立を宣言して、天台宗から離れたのです。寂れていた頃の本願寺なら、叡山も何も文句は言わなかったでしょう。しかし、上人様の代になって本願寺は賑わって来ました。叡山は本願寺の宗旨(シュウボウ)が違うとか、文句を言っては来ましたが、実の所、目的は礼銭だったのです。上人様は礼銭を断りました。大谷の本願寺は叡山の衆徒らによって破壊されました。上人様は近江に逃げられました。しかし、叡山は執拗に追いかけて来ては門徒たちを苦しめたのです。とうとう、金森(カネガモリ)の門徒と叡山の衆徒らが合戦を始めました。上人様は合戦を許しませんでした。結局は、銭で解決する事になってしまったのです。上人様は、叡山のふもとにいる限りは争う事を避ける事は難しいじゃろうと、北陸の地に進出なされたのですよ。しかし、この地にも天台宗の大寺院がいくつもあります。豊原寺、平泉寺を初めとして、白山に所属している寺院がいくつもあるのです。上人様は、それらの寺院を刺激しないようにと努めておられますが、上人様がこの地に来て以来、門徒たちの数は見る見る増え、吉崎の別院は毎日、祭りさながらの賑わいです。上人様が吉崎参詣を禁止しても、また、すぐに門徒たちは集まって来ます。豊原寺にしろ平泉寺にしろ、目と鼻の先にある吉崎の繁栄を黙って見てはおれんのでしょう。豊原寺は叡山と同じように、天台宗の末寺として礼銭を出せと言って来ました。上人様は断りました。それで、この間の火事騒ぎです」

「成程のう。しかし、豊原寺は何で、こそこそと付火なんかするんじゃ。堂々と攻めては来んで」

「越前には朝倉氏がおります。本願寺は今の所、朝倉氏と組んでおります。豊原寺の目的は本願寺から礼銭を巻き上げる事だけです。本願寺を相手に合戦をする気などありません。まして、朝倉氏を敵に回したくはないでしょう。応仁の乱が始まってからというもの、叡山もそうですけど、奴ら、大寺院の荘園はほとんど在地の国人たちに侵略されてしまっております。また、無事だとしても、戦が続いているお陰で年貢が届かん有り様です。平泉寺には白山の信者たちが、かなりおるから、まだいいんですけど、豊原寺は大分、苦しくなっておるんじゃないですか」

「確かにのう。今回の戦で、ほとんどの荘園が国人たちに横領されたらしいのう。本願寺の荘園は大丈夫なのか」

「本願寺には荘園はありません」

「なに、荘園がない?」

「はい、本願寺は門徒で持っておるのです。門徒がおらなくなった時は本願寺もなくなるというわけです」

「本願寺は土地を持っとらんのか‥‥‥そいつは知らなかった」

「雨はまだ降っておるのか」と信証坊が声を掛けて来た。

「はい。まだ降っております」と慶聞坊が振り向いて答えた。

「そうか」と言いながら、信証坊は二人の方に来て外を眺めた。
3.蓮崇



 蓮如が吉崎の地に本願寺別院を建てようと決めたのは、三年前の文明三年(一四七一年)の五月の事だった。丁度、越前の朝倉弾正左衛門尉孝景(ダンジョウザエモンノジョウ)が西軍から東軍に寝返って、越前守護職に任命され、越前の国の平定に取り組み始めた時期と一致していた。

 当時、越前の国は斯波(シバ)氏が守護職だったが、斯波氏は家督争いを始め、応仁の乱が始まると、斯波左兵衛佐義敏(サヒョエノスケヨシトシ)は東軍に付き、斯波治部大輔義廉(ジブノタイフヨシカド)は西軍に付いた。朝倉弾正左衛門尉は守護代の甲斐八郎敏光と共に西軍に属して京都において戦っていた。ところが、弾正左衛門尉は乱の始まった翌年、嫡男の孫次郎氏景だけを京に残して越前に戻って来た。騒ぎ出した国人たちを静めるためとの名目だったが、実は東軍より、寝返れば越前守護職に任命するとの内密の誘いを受け、寝返るための下準備のための下向だった。せっかく、守護職になるからには、国内において自分の勢力を広げる必要があった。いくら、自分の後ろに幕府が付いているとしても、今の状況において寝返ったら、越前国内の国人たちをすべて敵に回してしまう事になる。弾正左衛門尉は周到な下準備をして、文明三年の五月、突然、東軍に寝返った。

 正式に越前守護職となった弾正左衛門尉は一乗谷を拠点に、府中(武生市)の守護所を攻め落とし、西軍側の国人らを次々に倒して行った。斯波治部大輔は守護代の甲斐八郎敏光を越前に送るが、甲斐八郎も敗れ、甲斐八郎は加賀の西軍、富樫幸千代と結び、朝倉弾正左衛門尉を倒す機会を狙っていた。

 一方、加賀の国の守護は富樫氏だった。富樫氏も二つに分裂していた。両派は争いを繰り返していたが、文安四年(一四四七年)に和解が成立して、加賀の国を二つに分け、南加賀の守護として富樫五郎泰高、北加賀の守護として五郎の甥の富樫次郎成春が治めるという事となった。ところが長禄二年(一四五八年)、北加賀守護の次郎成春は荘園横領のため守護職を解任され、新しく、北加賀の守護となったのが、ようやく再興された赤松氏だった。

 赤松次郎政則は小寺藤兵衛を守護代として加賀に送り込み、富樫次郎方の抵抗にも屈せず、北加賀を武力を持って平定した。富樫次郎は加賀を追い出され、亡命中に病死した。この次郎成春には、鶴童丸と幸千代という二人の子があった。南加賀守護の五郎泰高は富樫氏を一つにまとめるために自ら隠居し、家督を次郎成春の嫡子、鶴童丸に譲った。やがて、鶴童丸は元服して次郎政親と名乗った。

 応仁の乱が始まった時の加賀の国は、北加賀守護として赤松次郎政則、南加賀守護として富樫次郎政親がいて、共に東軍方だった。しかし、加賀の隣国の越前と能登は西軍に属し、また、赤松氏によって加賀を追い出された成春の一党は、政親の弟、幸千代を立てて、加賀を取り戻すために西軍に付いたため、北陸地方では西軍が圧倒的に有利だった。

 やがて、赤松次郎政則は旧領の播磨を回復して、北加賀から出て行った。当然、幸千代党は赤松氏のいなくなった北加賀に入って来た。富樫次郎政親は東軍として、苦しい立場に追い込まれた。そんな時、西軍だった朝倉弾正左衛門尉孝景が東軍に寝返ったのだった。北陸における情勢は一変して、東軍の有利となって行った。

 文明四年(一四七二年)八月、越前の西軍、甲斐八郎敏光は朝倉弾正左衛門尉と戦い、敗れて加賀に逃げた。その時の戦は、吉崎御坊の近くの細呂宜(ホソロギ)郷において行なわれたが、本願寺は関係しなかった。加賀に逃げた甲斐八郎は加賀の西軍、富樫幸千代と結んだ。

 去年(文明五年)の七月、幸千代は白山山麓の山之内庄(鳥越村)に拠る次郎政親を攻撃した。次郎は越前の朝倉に救援を頼むが、救援が来るまで持ちこたえられず、敗れて越前に逃げた。勢いを得た幸千代と甲斐八郎は、八月に朝倉弾正左衛門尉を攻めて勝つが、決定的な勝利とはならず加賀に引き上げた。

 今年の一月にも甲斐八郎は朝倉弾正左衛門尉と戦うが敗れ、風眼坊が蓮如と旅をしていた、つい最近も甲斐八郎は朝倉弾正左衛門尉に敗れていた。

 甲斐八郎は富樫幸千代の本拠地、蓮台寺城(小松市)に潜んで越前を窺い、富樫次郎は朝倉弾正左衛門尉の一乗谷に潜んで加賀を窺っていた。
4.一乗谷1






 今日も暑かった。

 朝から蝉がやかましく鳴いていた。

 和田の本覚寺から朝倉氏の本拠地、一乗谷はすぐ側だった。

 足羽(アスワ)川に沿って遡(サカノボ)り、途中で川を渡って、さらに川に沿って進んだ。両側に山が迫って来る辺りで、南側の谷から足羽川に流れ込んでいる川があった。その谷の入り口まで来ると蓮崇は風眼坊に、この先が一乗谷だと言った。あの山の上に城があると言って指差したが、山の上の建物までは見えなかった。

 風眼坊と蓮崇はその支流に沿って一乗谷に入って行った。しばらく行くと門があり、門の両脇には一丈半程(約四、五メートル)の高さのある土塁が築かれてあった。

 蓮崇は門番の侍と一言二言、喋(シャベ)ると、風眼坊たちに合図をして門の中に入って行った。

 門をくぐり抜けると蓮崇は、ここは下城戸(シモキド)と呼ばれ、裏口に当たる門だと説明した。大手口に当たる上城戸は二十町程(約二キロ)先の反対側にあるという。

 下城戸の辺りには下級武士の長屋や職人たちの長屋が並んでいた。あまり賑やかではなかった。大きな屋敷が並ぶ間を抜けると、今度は町人たちの家が並び、人々が行き交っていた。

 大きな武家屋敷らしい建物の所を左に曲がると河原に出た。対岸の方を見ると、正面の少し高くなった所に土塁に囲まれた大きな屋敷があった。その屋敷の回りにずらりと武家屋敷が並んでいる。

「あれが、お屋形じゃ」と蓮崇は大きな屋敷を見ながら言った。「お屋形の横を通って、この道を真っすぐ行けば山の上の城に通じている」

 広い河原を歩き、川に架けられた橋を渡った。

 河原には小屋がいくつも立ち、人足やら流人(ルニン)やらが住んでいた。橋の上から城下を見回すと、山の上の城へと続く右岸に武士たちの屋敷が多く並び、左岸の方に町人たちが住んでいるようだった。

 お屋形の回りには濠(ホリ)が掘ってあり、水が溜めてあった。幅五間(約九メートル)はありそうな広い濠だった。濠の向こうの土塁も城戸の所と同じく一丈半はありそうだ。土塁の角の所には見張り櫓(ヤグラ)があり、弓を持った武士が風眼坊たちを見下ろしていた。

 これは、なかなか守りを固めているな、と風眼坊は思った。

 お屋形の正門は川に面している方にあった。濠に橋が架けられ、大きな門の両脇に武装した武士が二人、守っていた。

 蓮崇は門番に何かを話した。

 門番はどこかに行き、偉そうな髭を伸ばした武士を連れて来た。髭の武士は蓮崇を見ると顔をほころばせ、蓮崇の事を本願寺殿と呼んで歓迎した。

 蓮崇は馬に積んである荷物の中から包みを一つ出すと、その髭の武士に、つまらない物ですが、と言って渡した。

 髭の武士は蓮崇と並びながら、お屋形の中に入って行った。

 風眼坊は馬を引いている下男の弥兵と一緒に後に従った。

 門の中を入ると両側に木の塀があり、広い庭は仕切ってあった。

 左の塀の向こうから馬のいななきが聞こえて来た。どうやら左手に見える大きな建物は廐(ウマヤ)らしい。それにしても大きな廐だった。十頭以上の馬がいるようだ。これ程の廐を持つとは余程の馬好きらしい。蓮崇がわざわざ馬を連れて来た意味が、ようやく風眼坊にも理解できた。

 蓮崇は武士と共に正面の屋敷に入って行った。

 風眼坊は弥兵と一緒に外で待った。やがて、髭の武士は出て来て門の方に帰って行った。武士は蓮崇から貰った包みを手の平の上で弾ませながらニヤニヤしていた。風眼坊たちの側を通って行ったが、風眼坊たちの方には見向きもしなかった。

 あんな男に門番を任せて置くとは朝倉弾正も人を見る目はないな、と風眼坊は思った。あの手の男は金でどうにでもなる。いくら、濠や土塁で守りを固めても、このお屋形は守っている兵によって落ちるだろう。
5.一乗谷2






 すでに、辺りは暗くなり始めていた。

 大橋長次郎の家に向かった三人は、途中で、ばったり、加賀屋の女将と出会ってしまい、加賀屋にちょっと寄るという事になってしまった。

 加賀屋というのは長次郎の家の近くの遊女屋だった。この城下で一、二を争う程の大きな遊女屋だという。女将はかなりの年配だったが上品な色気の漂う女だった。

「あら、先生がお二人揃ってどちらへ」と女将は声を掛けて来た。

「いや、こりゃ、まずい所で出会ってしまったのう」と老人は笑った。

「先生、一体、いつになったらできるんです」と女将は老人を睨んだが口元は笑っていた。

「いやあ、ここの所、忙しくてのう」と老人はつるつる頭を撫でた。

「いつも、そればっかり。ねえ、先生、ちょっと、うちに寄ってくれません。見て貰いたい物があるんですよ」

「なに、また、新しいのを仕入れたのか」

「はい。とても気に入っているんですよ」

「そうか。それじゃあ、ちょっと拝ませてもらうかのう」

 風眼坊は女将を見た時、朝倉家の重臣の奥方だろうと思っていた。ところが、連れられて来た所は大きな遊女屋だった。

 風眼坊と先生と呼ばれた老人と長次郎は加賀屋の豪華な座敷に案内された。三人が座敷に入ると間もなく、酒が運ばれて来た。

「ここの酒は地元で作っておるんじゃが、なかなか、いけますよ」と老人は言った。

 この老人は曾我式部入道蛇足(ジャソク)という絵師だった。代々、朝倉家の家臣で、父の代より朝倉家のお抱え絵師となっていた。父の名を兵部墨溪(ヒョウブボッケイ)といい、子供の頃より絵が巧みで、文化面を重んじて来た朝倉家は彼を京の相国寺(ショウコクジ)に入れた。

 当時、相国寺は水墨画の大家を次々と世に出しており、文化の中心と言えた。墨溪は相国寺で如拙(ジョセツ)の弟子の周文(シュウブン)の弟子となった。墨溪の子の蛇足も相国寺に入り、朝鮮から来た画家、秀文(シュウブン)の弟子となって絵の修行を積み、また、大徳寺の一休(イッキュウ)禅師のもとで禅を学んだ。蛇足という画号は一休禅師が付けてくれたものだった。

 蛇に足があるという事、これ如何(イカン)、という公案に対して、蛇足は、すぐに筆を取り、足という字の草書体を蛇で現す絵を描いた。一休禅師は、お見事と言って、蛇足という号を彼に贈ったと言う。
6.お雪1






 暑い盛りの昼下り、風眼坊はお雪と智春尼を連れて吉崎に戻って来た。

 昨日の晩は崩川(クズレガワ、九頭竜川)の河原の側にあった地蔵堂で休んだが、一乗谷からの追っ手は来なかった。

 吉崎に戻って来ると風眼坊はお雪を蓮如に預けた。

 お雪には、「祈祷にいい場所を捜しに行って来る。ここは絶対に安全じゃ。しばらくの間、ここで待っておってくれ」と言った。初めから風眼坊は祈祷などする気はなかった。仇討ちに取り付かれて、自分の一生を台なしにしてしまうお雪を見ていられなかった。本願寺の教えによって仇討ちを諦め、自分を取り戻してくれる事を祈っていた。

 風眼坊は蓮如にすべての事を話し、お雪の事を頼んだ。

 蓮如は引き受けてくれた。きっと、阿弥陀如来様の教えによって、お雪を地獄から救うと約束してくれた。娘さん一人、救えないようでは、こんな寺にいる資格はありませんからな、と蓮如は笑った。

 風眼坊はお雪を預けると、書院を覗いたが蓮崇はいなかった。慶聞坊がいたので蓮崇の事を聞いたら、まだ、帰って来ないと言う。逆に、一緒じゃなかったのですか、と聞かれた。風眼坊は訳を話し、今度は慶覚坊の事を聞いた。慶覚坊は蓮崇の多屋で、蓮崇と風眼坊の戻って来るのを待っているはずだ、と言った。

 風眼坊は蓮崇の多屋に向かった。

 母屋に顔を出して、蓮崇のおかみさんに慶覚坊の事を聞くと、蔵の方にいると言う。

「蔵?」と聞き返すと、一番奥の蔵だと言う。何で、蔵なんかにいるのか不思議に思いながらも蔵の方に向かうと、「うちの人は一緒じゃなかったのですか」と聞かれた。

 風眼坊はまた訳を話して、蔵の方に向かった。

 多屋の台所の横を通って木戸を抜け、四つの大きな蔵の並ぶ敷地に入った。四つも蔵を持っているとは、余程、溜め込んでいるとみえる。一番奥の蔵まで行くと、風眼坊は蔵の中に向かって慶覚坊の名を呼んだ。

 風眼坊は蔵の戸を開けようとしたが開かなかった。

「誰じゃ」と蔵の中から慶覚坊の声がした。

「わしじゃ。風眼坊じゃ」

「おお、帰って来たか」

 戸が開き、慶覚坊が出て来た。

「何をしておるんじゃ。こんな蔵の中で」

 慶覚坊は辺りを見回して、「蓮崇殿はどうした」と聞いた。

 これで三度目だった。風眼坊は途中で別れた事を説明した。

「なに、一乗谷で大橋に会ったのか」と慶覚坊も長次郎の事は覚えていた。

「そうだったのか、まあ、中に入れ」
7.お雪2






 鳶(トビ)が気持ちよさそうに青空を飛んでいた。

 風眼坊はお雪と智春尼を連れて山道を歩いていた。

 今日はそれ程、暑くもなく、すがすがしい陽気だった。

 女連れなので風眼坊はのんびり景色を眺めながら歩いていた。お雪はずっと俯いたままで一言も喋らなかった。智春尼はそんなお雪を心配そうに見守っていた。

 蓮崇に、蓮如の事を守ってくれと言われた風眼坊だったが、慶聞坊が蓮如の事は自分が守るから大丈夫だと言った。蓮如が正式に命令を下すまでは自ら動く事はしない。もし、そんな事になれば、慶聞坊も戦の先頭に立つので、その時は、風眼坊に蓮如の事を頼む事になるが、それまでは自分が蓮如を守ると言い切った。

 慶聞坊は今までずっと蓮如の側近く仕え、蓮如の旅には常に付き合い、また、蓮如の子供たちに読み書きまでも教えていた。自分が突然、蓮如の前からいなくなれば、蓮如が多屋衆たちの動きに気づいてしまうだろう。あくまでも戦に反対している蓮如には、ぎりぎりの時まで、多屋衆たちの動きを気づかせない方がいい、そのためにも自分は蓮如が正式に戦の命令を下すまでは動かないと言った。

 風眼坊も慶聞坊の言う通りにした方がいいだろうと思った。

 慶覚坊も蓮崇も忙しそうに動いていたが、風眼坊にはするべき事が何もなかった。門徒になってしまえば手伝う事ができるが、他所者のままでは口を出す事もできなかった。

 風眼坊は戦が始まるまで、お雪に付き合うかと思い、慶覚坊に、近くにいい行場(ギョウバ)はないかと聞いた。九谷の奥にいい所があると教えて貰い、そこに二十一日間、籠もる事にした。戦が始まったら知らせてくれと慶覚坊に頼み、お雪と智春尼を連れて山に入ったのだった。

 九谷は山中温泉の奥にあり、この間、風眼坊が蓮如たちと出会った山の中にあった。後に九谷焼で有名になるが、この当時はまだ陶器を焼いてはいなかった。吉崎からもそう遠くなく、丁度いい場所だった。風眼坊一人だったら半日もあれば着く距離だが、女を二人も連れているので足が遅く、目的地に着いた頃には日が沈みかけていた。

 途中、二人の山伏と擦れ違った。お雪を捜していた平泉寺の山伏だった。風眼坊は二人の山伏を倒して谷底に投げ捨てた。

「何も殺さなくても」とお雪と智春尼は風眼坊を白い目で見た。

「わしも殺したくはなかったが、そなたがこの山にいる事が分かると困るんじゃ。二十一日間の祈祷の間は誰にも邪魔されたくないんでな」

 その場を見ていた若者がいた。近くの村に住んでいる杉谷孫三郎という若者だった。

 孫三郎は突然、山の中から飛び出し、風眼坊に剣術を教えてくれと頼み込んで来た。

 風眼坊は断ったが、若者はしつこく後に着いて来た。風眼坊は仕方なく、その若者に食糧や祈祷に必要な物の調達を頼んだ。若者は喜んで引き受けた。どうせ、二十一日間も山に籠もるのだから、この若者に剣術を教えるのも暇潰しになるだろうと考え直した。
8.笛の音1






 下界は物凄く暑かった。

 もう一度、山の中に戻って、思い切り滝を浴びたい気分だった。

 孫三郎は顔に流れる汗を拭いながら、「暑い、暑い」と文句を言っている。

 智春尼も暑くて溜まらないと、時折、恨めしそうに太陽を仰いでいた。しかし、風眼坊とお雪の二人は、そんな事、まったく気にならないかのようだった。

 お雪は何が嬉しいのか、始終ニコニコしながら歩いていた。照り付ける強い日差しも、流れる汗も、何もかもが楽しくてしょうがないようだった。

 一方、風眼坊の方は何か考え事をしているらしく、黙り込んだまま歩いている。つい、急ぎ足になってしまい、ふと、みんなの事に気づいて足を緩めるが、また、いつの間にか、速足になってしまっていた。

 風眼坊は、甲斐八郎という心強い味方を失った富樫幸千代の事を考えていた。

 果たして、幸千代はどう動くか。

 甲斐八郎は世話になった幸千代のもとを離れるに当たって、朝倉弾正左衛門尉が富樫次郎のために動かないようにさせると約束したに違いない。そして、弾正左衛門尉としても次郎を匿っているにしろ、次郎が加賀に進攻するに当たって表立って兵を出す事はないだろう。

 多分、朝倉としては今、越前の国をまとめる事に躍起になっている。甲斐と和解したというのも単なる方便に違いない。

 朝倉と甲斐が加賀の事から手を引いたとなると、やはり、両者の鍵を握っているのは本願寺という事になる。本願寺を味方に付けた方が勝利を納めるという事になるだろう。

 それと、白山の衆徒がどう動くかも問題だった。

 幸千代には高田派の門徒が付いている。高田派の門徒が付いている限り、本願寺の敵という事になるが、幸千代は高田派門徒のために本願寺を敵にする事になるのか。

 それとも、本願寺に恨みを持っている白山の衆徒を味方に引き入れるか。

 いや、白山衆徒も朝倉に逆らってまで幸千代の味方はするまい。

 となると、やはり、幸千代と高田派門徒対次郎と本願寺門徒の戦という事になりそうじゃ。本願寺が一つにまとまれば勝ち目は絶対だが、蓮如が見て見ぬ振りをしていると勝ち目はないかもしれん。蓮如の命令一つで、幸千代の命も、本願寺の命も決まるという事になりそうじゃ。

 決め手は蓮崇の画策した幕府の奉書次第じゃなと風眼坊は思った。
9.笛の音2






 六月の二十五日、毎月恒例の吉崎の講が行なわれた。

 朝早くから吉崎の門前町は祭りさながらの賑やかさだった。

 数多くある多屋及び宿屋は、すべて門徒で埋まっていた。

 蓮崇の多屋の客間にいた風眼坊も追い出され、蓮崇の家の方に移された。家の方の広間にも門徒たちが雑魚寝(ザコネ)していた。さらに、多屋に収まり切れなかった者たちは吉崎の総門の外に溢れ、あちこちに固まっては一心に念仏を唱えていた。

 風眼坊は、その門徒の数に、ただ驚くばかりだった。

 その日は、朝早くから夜遅くまで吉崎の地に念仏が絶える事がなかった。

 風眼坊は久し振りに髷(マゲ)を結い、蓮崇から借りた着物を着て、町人姿になって賑わう町中を歩いていた。蓮崇から、門徒たちは気が立っているので山伏の姿で出歩くのはまずいと言われ、素直に着替えたのだった。風眼坊も群衆の怖さは知っていた。いくら腕が立っても、これだけの群衆に囲まれたら逃げる事はできない。つまらない事での争い事は避けたかった。

 町中を歩いていると、やはり、高田派門徒に囲まれている松岡寺の事が門徒たちの噂に上っていた。早く助けなければならないと言う意見が圧倒的に多く、今日の講の場で上人様が何と言うかが、みんなの注目となっていた。

 風眼坊は御山の方に足を向けた。

 本坊へと続く坂道の下にある北門は閉ざされていた。

 門の前には門徒たちがずらりと並び、門が開くのを待っていた。

 並んでいる者に、門はいつ開くのか、と聞くと、よく分からないが、あと一時(イットキ、二時間)か二時(四時間)位したら開くだろう、と気の長い事を言った。もっとも、蓮如を一目見るために遠くからはるばるやって来た門徒たちにとって、一時や二時位、何でもないのだろう。

 風眼坊は中に入れて貰おうと、門番に慶覚坊や慶聞坊や蓮崇の名を言ってみたが、門番は門の中には入れてくれなかった。仕方ないので引き返して蓮崇の多屋に戻った。

 蓮崇の多屋も門徒たちで溢れ、内方(ウチカタ)衆(門徒たちの妻や娘)は忙しそうに働いていた。

 蓮崇も慶覚坊も朝早くから出掛けて行っていなかった。

 風眼坊のいるべき所はどこにもなかった。

 風眼坊は蓮崇の多屋には入らず、門前町の外に出た。
10.松岡寺1






 吉崎御坊の城塞化は日を追って進んで行った。

 各地から武装した門徒たちが吉崎を守るために集まり、要所要所に陣を張って、濠を掘り、土塁を築き上げ、逆茂木(サカモギ)を組み、夜ともなれば篝火(カガリビ)が焚かれて、蟻の入り込む隙もない程の警戒振りだった。

 それでも、蓮如を殺そうとする刺客(シカク)は蓮如のすぐ側までやって来た。

 風眼坊は目医者に成り済まし、蓮崇の多屋から本坊の庫裏(クリ)に移って、蓮如の側近くに仕えていた。

 蝉(セミ)がうるさく鳴いている暑い昼下りだった。

 二俣の本泉寺から来たという尼僧が蓮如に会いたいとやって来た。

 その尼僧は本泉寺の勝如尼からの書状を手にしていた。その書状には、蓮崇が本泉寺に来て、戦をしろと門徒たちを煽っているので、やめさせるように言ってくれ、という内容の事が長々と女文字で書かれてあった。その文字は確かに勝如尼の字にそっくりだった。蓮如はすっかり信じてしまった。そして、勝如尼に何と返事を書いたらいいのか悩んだ。

 風眼坊は、その尼僧と蓮如が会う場に控えていた。風眼坊は、その尼僧が気に入らなかった。どことなく落ち着きのない目付きをしていた。年の頃は三十前後、女のわりには背が高く、痩せていて、よく日に焼けていた。

 蓮如は尼僧に、今日はもう暗くなるから、泊まって行けと言った。

 風眼坊はお雪に、それとなく、その尼僧を見張ってくれと頼んだ。お雪は喜んで引き受けてくれた。風眼坊の勘が外れたのか、その夜は何事も起こらなかった。

 夜が明け、いつものように蓮如が水を浴びている時だった。すでに起きていたのか、尼僧が庭の方から現れた。しかし、庫裏(クリ)の中から蓮如を見守っていた風眼坊には尼僧の姿は見えなかった。

 その時、「危ない!」と言うお雪の声がした。

 風眼坊は飛び出し、蓮如の体を庇うのと同時に、尼僧に向かって手裏剣を投げた。尼僧は吹矢で蓮如を狙っていた。その尼僧の後ろにお雪がいた。

 風眼坊の投げた手裏剣は尼僧の左肩に刺さり、尼僧の吹いた矢は井戸の側に積んであった薪(タキギ)に刺さった。風眼坊は素早く移動すると尼僧を捕えた。

 吹矢の矢の先には、思った通り猛毒が塗ってあった。

 尼僧は何も喋らなかった。喋らなくても、差し向けた相手は高田派に違いなかった。

 風眼坊は尼僧を長光坊に引き渡した。

 お雪のお手柄だった。

 お雪は一晩中起きていて、尼僧を見張っていたと言う。

 風眼坊が、よく吹矢なんていう武器を知っていたなと聞くと、照れ臭そうに、実は、わたしも、あれで富樫次郎の命を狙っていたと言った。その言い方は遠い昔の思い出話をしているかのようだった。
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