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陰流の開祖であり、忍びの術の開祖でもある愛洲移香斎の物語です。
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5.一乗谷2






 すでに、辺りは暗くなり始めていた。

 大橋長次郎の家に向かった三人は、途中で、ばったり、加賀屋の女将と出会ってしまい、加賀屋にちょっと寄るという事になってしまった。

 加賀屋というのは長次郎の家の近くの遊女屋だった。この城下で一、二を争う程の大きな遊女屋だという。女将はかなりの年配だったが上品な色気の漂う女だった。

「あら、先生がお二人揃ってどちらへ」と女将は声を掛けて来た。

「いや、こりゃ、まずい所で出会ってしまったのう」と老人は笑った。

「先生、一体、いつになったらできるんです」と女将は老人を睨んだが口元は笑っていた。

「いやあ、ここの所、忙しくてのう」と老人はつるつる頭を撫でた。

「いつも、そればっかり。ねえ、先生、ちょっと、うちに寄ってくれません。見て貰いたい物があるんですよ」

「なに、また、新しいのを仕入れたのか」

「はい。とても気に入っているんですよ」

「そうか。それじゃあ、ちょっと拝ませてもらうかのう」

 風眼坊は女将を見た時、朝倉家の重臣の奥方だろうと思っていた。ところが、連れられて来た所は大きな遊女屋だった。

 風眼坊と先生と呼ばれた老人と長次郎は加賀屋の豪華な座敷に案内された。三人が座敷に入ると間もなく、酒が運ばれて来た。

「ここの酒は地元で作っておるんじゃが、なかなか、いけますよ」と老人は言った。

 この老人は曾我式部入道蛇足(ジャソク)という絵師だった。代々、朝倉家の家臣で、父の代より朝倉家のお抱え絵師となっていた。父の名を兵部墨溪(ヒョウブボッケイ)といい、子供の頃より絵が巧みで、文化面を重んじて来た朝倉家は彼を京の相国寺(ショウコクジ)に入れた。

 当時、相国寺は水墨画の大家を次々と世に出しており、文化の中心と言えた。墨溪は相国寺で如拙(ジョセツ)の弟子の周文(シュウブン)の弟子となった。墨溪の子の蛇足も相国寺に入り、朝鮮から来た画家、秀文(シュウブン)の弟子となって絵の修行を積み、また、大徳寺の一休(イッキュウ)禅師のもとで禅を学んだ。蛇足という画号は一休禅師が付けてくれたものだった。

 蛇に足があるという事、これ如何(イカン)、という公案に対して、蛇足は、すぐに筆を取り、足という字の草書体を蛇で現す絵を描いた。一休禅師は、お見事と言って、蛇足という号を彼に贈ったと言う。

 やがて、女将が小さな絵を何枚か持って入って来た。女将はその絵を大事そうに蛇足に渡した。

「これなんですけどね。見て下さいな」

 絵は三枚あった。蛇足は三枚の絵を並べて置いた。

「どれも皆、見事な物ですな」

「皆、有名な人の描いた物ですか」と女将は蛇足の顔を覗くようにして聞いた。

 三枚とも小さな絵で、一瞬の内に素早く描いた絵のようだった。

 一枚はとぼけた顔をした布袋(ホテイ)様、一枚は物憂い顔をした観音像、もう一枚は白目をむいた達磨(ダルマ)像だった。どれも皆、違った筆使いのようだった。

「うーむ」と蛇足は唸った。どれも、落款(ラッカン、署名や押印)がなかった。

「まず、これじゃがな」と蛇足は布袋様の絵を手に取ると、「多分、可翁(カオウ)禅師じゃな。もう、百年以上も前の人じゃ」

 蛇足は次に達磨像を手に取り、これは、多分、親父が描いた物じゃと言った。

「えっ、これは、大先生が描いた物ですか‥‥‥」と女将は達磨像をじっと見つめた。

 蛇足の父、墨溪は去年、旅の途中、伊勢の国において亡くなっていた。八十二歳だった。知らせを受けて、蛇足は慌てて一休禅師のもとから国元に帰って来たのだった。それから、ずっと、この城下にいて、お屋形様の側近くに仕えている。多分、この達磨像は墨溪が五十年近く前に描いた物に違いなかった。

「この観音様は誰が描いたのですか」と女将は聞いた。

「これか‥‥‥はっきりとは分からんが、多分、雪舟(セッシュウ)のような気がするのう」

「雪舟‥‥‥有名なんですか」

「いや、まだ、それ程でもないが、きっと、有名になる事じゃろう。わしは若い頃、雪舟と一緒に相国寺で修行した事があった。京に戦の始まった頃に雪舟が明(ミン)の国に渡ったと噂を聞いたが、その後、帰って来たのかどうかは分からん」

「ほう、明に渡ったか‥‥‥」と風眼坊は観音像を見つめた。

「一体、どうやって、この絵を手に入れました」と蛇足は女将に聞いた。

「はい。うちに出入りしている呉服屋さんから、いただいたのよ」

「そうですか‥‥‥その呉服屋さんというのは、どこからいらしたのですか」

「はい。敦賀の呉服屋さんなんですが、何でも、周防(スオウ、山口県南東部)から来たという商人から譲られたんだそうです」

「周防から来た商人‥‥‥」と蛇足は言うともう一度、三枚の絵を眺めた。「もしかしたら、これは皆、雪舟が描いた物かもしれん」

「えっ?」と女将は驚いた。

「雪舟は明に渡る前、五年近く、周防の山口におったんじゃよ。もし、明から帰って来ておるとすれば、戦を続けている京には戻らんじゃろ。もしかしたら、雪舟は今、山口におるのかもしれん。大内氏の城下、山口はかつての京の都以上に栄えておると聞くからのう」

「すると、この達磨様もですか」

 蛇足は頷いた。「一瞬、見た時は親父が描いた物じゃと思ったが、良く見ると筆の使い方が違うようじゃ。それに、この布袋も百年以上前に描かれた物だとするには、紙がそう古くはないようじゃしな。うむ、これは皆、雪舟が描いた物と見ていいじゃろう」

「雪舟か‥‥‥」と風眼坊は言った。

「風眼坊殿は雪舟という絵師を御存じですか」と長次郎は聞いた。

「いや。わしは絵の事はよく分からんのじゃが、その雪舟という名はどこかで聞いた事があるんじゃ。どこだったのか思い出せんのじゃが‥‥‥」風眼坊は首を傾げ、「雪舟というお方はいくつ位の人ですか」と蛇足に聞いた。

「わしより三つか四つ下じゃったから五十五位かのう。若い頃、絵を描くために山歩きをよくしておったから、行者たちとも付き合っておったかもしれんのう」

「思い出したわ」と風眼坊は手を打った。「確か、大峯の山上の蔵王堂に雪舟と名前の書いてある山水画があったんじゃ。見事な絵じゃったわ」

「そうか、雪舟は大峯山にも登っておったのか。もっとも、明に渡って、明の山を登るんじゃと言っておったからのう。もしかしたら、白山にも登ったかもしれんのう」

「雪舟ですか‥‥‥」と女将は言って、改めて絵を眺めた。

「女将、この絵は表装して、大事にした方がいいぞ。今に、えらい値打物になる事、間違いなしじゃ」

「大事にしますとも。先生にそれ程まで言われるとは思ってもおりませんでした。名前も書いてありませんし、どうせ、無名の絵師の描いた物だと思っておりました。たとえ、無名の人の絵でも、わたし、気に入ってましたから大事にするつもりでおりました。それが明の国まで渡ったという偉いお人が描いたなんて、とても信じられないようです。先生、見ていただいて、どうも、ありがとうございました。お礼と言っては何ですが、今晩はゆっくりしていって下さい」

 女将は絵を大事そうに持って帰った。

「あの女将は、なかなか、絵の事が分かるんじゃよ」と蛇足は言った。「もう前から、女将に絵を描いてくれと頼まれておるんじゃがな、まだ、描いておらんのじゃ」

 女将と入れ違いのように、若い遊女が三人、入って来た。

 どうする、と三人は顔を見合わせた。

 三人の美女を目の前にして、席を立つような無粋者(ブスイモノ)はいなかった。

 絵の事も剣術の事も本願寺の事も忘れ、三人は美女たちと一緒に楽しい宵を過ごした。





 次の日の昼頃、大橋長次郎の屋敷に風眼坊を訪ねて来た女の客があった。

 丁度、風眼坊が大きなあくびをしていた時だった。長次郎の娘がお客さんだと伝えに来た。

「お客? 何かの間違いじゃろ。わしが、ここにいる事は誰も知らんはずじゃ」

「でも、確かに、風眼坊様に御用があるとおっしゃいましたけど」と娘は首を傾げた。

 おさやと言う名の十七歳の娘だった。長次郎には悪いが、長次郎に似ずに母親に似て可愛いい娘だった。

「そのお客というのは、もしかしたら、爺さんかい」と聞いた。

「いいえ、若くて綺麗な女の方です」

「女?」

「はい。風眼坊様は見かけによらず、以外と手がお早いみたいですね」と、おさやはませた口調で言った。

「何を言うか。とりあえず会ってみるか」と風眼坊は立ち上がった。

 長次郎はすでに道場の方に出掛けていて、いなかった。

 風眼坊は昨夜、年甲斐もなく飲み過ぎて、今朝は起きられなかった。昼近くになって、ようやく起き出し、ボーッとしている時、おさやがお客だと言いに来たのだった。

 風眼坊が玄関まで行ってみると、確かに若い女が立っていた。

 顔を隠すように頭に薄い着物を被っていた。見るからに身分の高そうな女で、風眼坊が知っている女たちとは種類の違う女だった。

 女は風眼坊を見ると被り物を取って頭を下げた。

「昨日は、どうも失礼いたしました。あの、風眼坊殿に折り入ってお話があるのですが」と女は落ち着いた声で言った。

「もしかしたら、昨日、富樫殿の屋敷にいた‥‥‥」

「はい。雪と申します」

 風眼坊を訪ねて来た女は富樫次郎政親の側室、お雪の方だった。どうして、彼女が風眼坊を訪ねて来たのか分からなかったが、何か、思い詰めているような感じだった。

「お一人ですか」と風眼坊は聞いた。

「いいえ、外に供の者がおります。風眼坊殿、申し訳ありませんが、御足労願いたいのですが」

「ここでは具合が悪いのですか」

「はい。申し訳ありません」

 何となく、昨日、会った時とは違うような感じだった。昨日は、やけに冷たそうな娘だと思ったが、今日は、何となく違う雰囲気だった。

 風眼坊はお雪の後に付いて行く事にした。お雪の供というのは小柄な尼僧だった。

 風眼坊が連れて行かれた所は城下を見下ろす山の中にある草庵だった。その草庵には誰もいなかった。供の尼僧は中には入って来なかった。

 囲炉裏のある板の間に上がるとお雪は坐った。

「ここは、外におられる尼僧殿の草庵ですかな」と風眼坊は聞いた。

 お雪は頷いた。

「なかなか、いい所ですな」

「はい。ここなら、誰にも話を聞かれる事はありません」

 風眼坊はお雪を見ながら板の間に腰を下ろした。

 お雪の用というのが風眼坊には分かっていた。昨日、富樫屋敷で話した加持祈祷の事以外には考えられなかった。

「風眼坊殿、昨日のお話は本当でしょうか」とお雪は風眼坊を見つめながら言った。

「はい。本当です」

「人を呪い殺す事もですか」

 風眼坊は頷いた。

「しかし、昨日も言った通り、すぐに効き目は現れませんよ」

「どの位かかるのですか」

「早くても一年」

「遅ければ?」

「遅ければ、まあ、十五年位かかる事もある」

「十五年も‥‥‥どうして、そんなにも開きがあるのですか」

「それは、呪った人の運命とか、寿命とかに左右されるんじゃよ。たとえば、百歳まで寿命のある人を呪いによって命を縮めるというのは大変な事なんじゃ。どう、縮めてみても、二十年位までじゃろうな。今の世の中は戦乱に明け暮れておるので、人一人の命など軽く思いがちじゃが、人一人がこの世から突然、消えていなくなるというのは大変な事なんじゃよ」

「十五年ですか‥‥‥」とお雪は呟いた。

「富樫の若殿は、そなたが、わしと会っている事を知っておるのですか」と風眼坊は聞いた。

 お雪は首を振った。

「今日は鷹狩りに行きました」

「ほう、あの殿が鷹狩りにねえ」

「珍しい事には、すぐ飛び付くのです。そして、すぐに飽きてしまいます」

「成程‥‥‥そんな感じですな」

「実は、わたしが呪い殺したいのは、その富樫次郎です」とお雪は言った。

 風眼坊はお雪の顔を見つめた。その美しい顔から出て来た言葉だとは信じられなかった。

「何じゃと、富樫次郎を呪い殺す」

 お雪は風眼坊を見つめ、ゆっくりと頷いた。

「そなたは次郎の側室じゃろう」

「はい」

「さては、次郎を殺すつもりで近づいたのか」

「はい。しかし‥‥‥」

「しかし、殺す事ができなかった」

 お雪は頷いた。

「どうして、また」

「両親の仇(カタキ)です」

「両親を次郎に殺されたのか」

「はい」

「どうして」

「分かりません、突然、大勢の侍が来て、みんなを殺して行きました」

「そなたの父親というのは武士だったんじゃな」

 お雪は頷いた。

「それは、いつの事じゃ」

「七年前です」

「成程のう。しかし、そなたのような美しい娘が仇討ちなどで、大事な一生を台なしにしてしまうとはのう」

「今のわたしには両親の仇を討つ事だけが、すべてです」

「うむ、まあ、色々な人生があるからのう」と風眼坊は言ったが、首を横に振った。

「お願いします。祈祷して次郎を殺して下さい」

「どうしても、呪い殺したいのか」

「はい、どうしても。自分の手で殺す事はできません。後は、呪い殺すしかありません」

「うむ」と言うと風眼坊は立ち上がり、土間の中を歩き回った。

 お雪は両手を合わせて、風眼坊を見つめていた。

 風眼坊は足を止めて、お雪を見ると、「七年前と言うと、そなたは幾つじゃ」と聞いた。

「十二です」

「兄弟は?」

「弟がおりましたが両親と一緒に殺されました」

「そうか‥‥‥」

 風眼坊はまた、考え事をするように歩き回った。

 当時、お雪が十二だったとすれば、次郎の方も十二、三だろう。そんな子供に兵の指図などできるわけはなかった。しかし、子供であろうと富樫家の家督を継いでいれば、仇の親玉には違いなかった。

 風眼坊は足を止めて、お雪を見た。

「お願いします。呪い殺して下さい」とお雪は頭を下げた。

「やってもいいが、ここではできんぞ。祈祷をするには、それだけの準備がいる。まず、護摩壇(ゴマダン)のある場所、しかも、俗界から離れた山の中じゃないといかんな。それに、祈祷をするのは、わしじゃが、そなたも斎戒沐浴(サイカイモクヨク)をして身を清め、呪文を唱え続けなければならんぞ」

「えっ、わたしもですか」

「そりゃそうじゃ。そなたが、それだけの誠意を見せん事には、天も願いを聞き入れてはくれん」

「わたしも一緒にしなければならないのですか‥‥‥」

「そりゃそうじゃよ。神頼みにしたって自分で頼むじゃろう。人に頼んで貰う奴などおらんじゃろう」

「‥‥‥」

「そなたは、わしに祈祷を頼むのなら、わしを信じてもらわなければならぬ。まず、信じる事が一番重要な事じゃ。信じなければ何事もうまくいかん。効き目が現れるまで、ずっと信じ続ける事ができなければ、いくら祈祷をやったとて成功などせん。どうじゃ、それでも、やるかな」

 お雪は、俯いていた。

「そなたは、また、次郎の所に戻るつもりかな。今まで殺す事ができなかったんじゃから、これ以上、次郎の側にいる必要もないじゃろう。どうかな。それとも、女というものは嫌な男でも一緒にいるうちに情が通うと言うからのう」

「いえ、そんな事はありません」とお雪は力強く首を振った。その目は潤んでいた。

「そうか‥‥‥」

 風眼坊はお雪に背を向けるようにして、板の間に腰を下ろした。

 しばらくして、お雪が風眼坊に声を掛けた。

「その祈祷というのは相手が死ぬまで、ずっと、続けるのでしょうか」

「いや、祈祷を続けるのは二十一日間じゃ。しかし、効き目が現れるまでは俗界とは交わらずに暮らさなければならん。きついぞ。自分の一生を台なしにする事になるぞ」

「もう、台なしになっております‥‥‥」

「そうじゃろうのう‥‥‥ゆっくりとよく考えて決める事じゃ。わしは明日の朝、もう一度、ここに来る。そなたの気が変わらなければ、ここにおってくれ。気が変わったら、次郎の所に戻るがいい」

 風眼坊はそう言うと草庵から出た。

「用は済んだぞ」と外で待っている尼僧に言うと風眼坊は山を下りた。

 風眼坊が山を下りると尼僧は草庵の中に入って、お雪を見た。

 お雪はうなだれていた。

 可哀想に‥‥‥と尼僧は思いながら、何も言わず、お雪を見ていた。

 尼僧の名は智春尼(チシュンニ)といい、お雪の叔母だった。両親と弟が殺された時、お雪は智春尼の寺で、読み書きを習っていた。

 いつものように読み書きを終え、家に帰ると家はめちゃめちゃになっていた。

 お雪は泣き叫びながら家に入り、そこに、この世の地獄を見た。ついさっきまで、笑ったり、話をしたりしていた父や母や幼い弟が真っ赤に染まって死んでいた。

 十二歳だったお雪に取って、それは物凄い衝撃だった。

 その後、自分がどうなったのか覚えていない。気が付いたら叔母の側で眠っていた。

 お雪はその時、自分は死んだものと思い込み、ただ、家族の仇を討つ事だけに生きて来ていた。叔母は何度もやめさせようとしたが、お雪の決心は固く、無駄に終わった。叔母としては、ただ、お雪の事を見守ってやる事しかできなかった。

 お雪は自分の体を投げ出してまで仇を討つ事に執着した。自分を生きる屍(シカバネ)だと思う事によって、仇である次郎に身をまかせた。次郎を殺す機会はいくらでもあった。しかし、どうしても、お雪には殺す事ができなかった。情けない事に、ただ、毎日、次郎に抱かれ、次郎が事故にでも会って死んでくれればいいと願う事しかできなかった。

「どうします」と智春尼はお雪に優しく声を掛けた。

 お雪はうなだれたままだった。

「わたしは外で聞いておりました。わたしはあの風眼坊というお方の言う通りにした方がいいと思います。あなたはもう充分過ぎる程、この世の地獄を見て来ました。また、自ら地獄の中に飛び込んで行かれました。もう、充分です。あのお方にすべてをお任せして、後は、御両親と弟の御冥福(ゴメイフク)を祈って静かに暮らしましょう。そうすれば、きっと、みんなの仇を討つ事ができます」

 お雪はゆっくりと顔を上げると、叔母の顔を見つめ、ゆっくりと頷いた。

「それでは、もう、あそこには戻らないのですね」

 お雪はもう一度、頷いた。

 その時、この草庵に近づいて来る足音が聞こえた。

 二人はビクッとして顔を見合わせ、智春尼が慌てて入り口の方に向かった。

 近づいて来たのは風眼坊だった。風眼坊は草庵に入って来ると、「明日の朝まで待つと、さっき言ったが、考えてみたら、そんなにのんびりしているわけにはいかんわ」と言った。

 驚いたように、二人は風眼坊を見ていた。

「次郎が鷹狩りから戻って来て、そなたがいない事に気づいたら、次郎は大騒ぎして、そなたを捜すに違いない。そしたら、こんな所、すぐに見つかってしまう。どうじゃ、まだ決心は付かんか」

「付きました」と智春尼が言った。「風眼坊殿にすべてをお任せすると‥‥‥」

「よし、それでいいんじゃな」

 お雪は頷いた。

「そうと決まれば、早いうちにこの城下から出た方がいいのう。次郎はどこで鷹狩りをやっておるんじゃ」

「一乗山だと言っておりました」

「一乗山と言うのはどこにあるんじゃ」

「詳しくは知りませんけど、上城戸の先の方です」

「上城戸か。都合がいい。下城戸から逃げよう」

 今、着ている着物だと目立つので、智春尼の法衣(ホウエ)を借り、お雪を尼僧姿にして、三人は山を下りた。

 城下を出る途中、長次郎の家に寄って、急に帰る事になった、という事を告げた。うまい具合に長次郎は帰っていた。長次郎は巻き込みたくはなかったが、城戸を抜けるのが心配だったので、一緒に付いて来て貰う事にした。

 長次郎には二人の尼僧は本願寺の尼僧だと説明した。風眼坊の言った事を信じなかったようだが、長次郎は何も聞かず、城戸まで付いて来て、風眼坊たちを見送ってくれた。

「今度は、もっと、ゆっくり来るわ」と風眼坊は手を振った。

「はい。いつでも歓迎しますよ」と長次郎も手を振った。

「蛇足殿にも、よろしくな」

 二人の尼僧を連れた山伏は吉崎へと向かって行った。
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