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陰流の開祖であり、忍びの術の開祖でもある愛洲移香斎の物語です。
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第三部 本願寺蓮如



1.蓮如1






 毎日、うっとうしい雨が降っていた。

 蒸し暑くて、やり切れなかった。

「南無阿弥陀仏(ナムアミダブツ)‥‥‥」

 風眼坊舜香(フウガンボウシュンコウ)は雨を眺めながら、独り呟いた。

「南無阿弥陀仏‥‥‥か、どうも、わしには合わんのう‥‥‥」

 風眼坊は加賀の国(石川県南部)江沼郡の山田光教寺の門前にある多屋(タヤ)と呼ばれる宿坊にいた。

 火乱坊(カランボウ)の多屋であった。

 その多屋には火乱坊の家族が住み、下男や下女も数人いて、光教寺に参拝に来た門徒(モント)たちの世話をしていた。今朝早く、近江(オウミ、滋賀県)から来たという門徒が七人帰って行き、今晩、また、越中(富山県)の方から数人の門徒が来るらしいが、今は客間には風眼坊しかいなかった。

 火乱坊の家族は女房のおつた、十六歳になる息子の十郎、十四歳になる娘のおあみ、十二歳になる娘のおちか、八歳になる娘のおいさがいた。息子の十郎は本願寺法主(ホンガンジホッス)、蓮如(レンニョ)のいる吉崎御坊(ヨシザキゴボウ)の方に修行に出ていると言う。三人の娘は母親を手伝って門徒たちの世話をしていた。

 火乱坊は、ここでは慶覚坊(キョウガクボウ)という名前だった。真宗門徒となった時、蓮如より貰った法名だと言う。その慶覚坊は朝早く、用があると言って吉崎に出掛けて行った。ここから吉崎までは四里程(約十二キロ)の距離だった。

 風眼坊は客間の縁側から、ただ、ボーッとして雨に濡れた庭を見ていた。昨日の昼頃、ここに着き、昨夜は久し振りに慶覚坊と酒を飲んで、昔の事など懐かしく語り合った。

 慶覚坊が先頭になって昨日の晩と今朝早く、門徒たちと念仏を唱えていたが、風眼坊は一緒に念仏を唱える気にはならなかった。慶覚坊は、そのうち面白い事が始まるから、今のところはのんびりしていてくれ、と言うだけで、特に念仏を勧めるわけでもなかった。

 風眼坊は十日程前、浄土真宗本願寺派の親玉、蓮如に会うため、慶覚坊と共に大峯山を下りた。まず、近江の国、大津の顕証寺(ケンショウジ)に行き、蓮如の長男の順如(ジュンニョ)と会い、堅田の本福寺(ホンプクジ)で、慶覚坊の義理の父親の法住(ホウジュウ)という坊主と会った。

 法住はもう八十歳に近いというが、なかなか貫禄もあり、威勢のいい爺さんだった。さすがの慶覚坊も、この親父には頭が上がらないようだった。法住はただの坊主ではなく、湖賊(コゾク)と呼ばれる琵琶湖上を舟で行き来する商人の頭でもあった。

 慶覚坊と風眼坊は堅田から舟に乗り、琵琶湖を渡って海津まで行き、山を越えて敦賀に出て、越前の国(福井県)を通り抜けて、越前の国の再北端、加賀の国との国境近くにある、蓮如のいる吉崎御坊に向かった。

 蓮如が吉崎の地に来て、まだ三年しか経っていないのに、門前町は人で溢れる程、繁盛していた。本願寺の別院、吉崎御坊は三方を北潟湖(キタガタコ)に囲まれた山の上に建っていた。天然の要害と呼べる地であった。

 多屋の建ち並ぶ中の参道を行くと大きな門があり、そこから坂道を登って行くと本坊へと出る。広い境内に阿弥陀堂(本堂)、御影堂(ゴエイドウ)、書院、庫裏(クリ)、鼓楼(コロウ)、僧坊などが建っていた。

 二ケ月程前に火事があり、本坊はほとんど燃え、多屋も九軒燃えてしまったが、あっと言う間に再建されて、風眼坊が来た時には、まだ木の香りのする新しい建物が並んでいた。

 蓮如は留守だった。

 布教のために出掛けていると言う。今朝早く、菅生(スゴウ、加賀市)の道場に出掛けたが、いつ戻るのかは分からないと言う。

 慶覚坊の話だと、蓮如はすでに六十歳になるが、足が達者で、暇を見つけては布教の旅に出て、門徒たちと直接、話をしたり、聞いたりしていると言う。菅生まで行ったのなら、息子の蓮誓(レンセイ)に会いに山田光教寺まで足を伸ばすかもしれないと言った。

 慶覚坊の話を聞いて、風眼坊は自分が考えていた蓮如像と、実際の蓮如はちょっと違うらしいという事に気づいた。本願寺の法主というからには、どうせ、大きな寺の中で、派手な法衣(ホウエ)を着て、偉そうに踏ん反り返っている奴だろうと思っていた。しかし、これだけ吉崎御坊が流行っているにも拘わらず、まだ、自分の足で布教して歩いているとは驚きだった。

 風眼坊は蓮如に会うことなく吉崎を後にして、慶覚坊と共に山田光教寺に向かった。

 山田光教寺は蓮如の四男、蓮誓の寺だった。蓮誓はまだ二十歳の若者で、つい最近、嫁を貰ったばかりだった。蓮如は光教寺には来ていなかった。

 浄土真宗は開祖、親鸞(シンラン)のお陰で僧侶の肉食妻帯を許す宗派だった。蓮誓は蓮如の七番目の子供だった。

 慶覚坊は蓮誓の後見人として、この山田光教寺に来ていた。蓮如から、かなり信頼されているようだった。

 昨夜、一緒に酒を飲んで、どうして真宗の門徒になったのか、と聞いてみたら、慶覚坊は照れくさそうに笑って、女房のせいさ、と言った。

 成程、と風眼坊も納得した。

 以前、栄意坊から、火乱坊が真宗の門徒になって叡山(エイザン、天台宗総本山延暦寺)を相手に暴れていると聞いた時は、火乱坊と真宗の門徒というのが、どうもピンと来なかったが、その間に女がいたと聞いて風眼坊にも納得できた。

 風眼坊と火乱坊は二十歳の頃、飯道山において、高林坊、栄意坊と共に『四天王』として活躍した。剣の風眼坊、棒の高林坊、槍の栄意坊、薙刀(ナギナタ)の火乱坊と呼ばれ、今の飯道山の基を築いた四人だった。

 火乱坊は近江と美濃(岐阜県中南部)の国境にある伊吹山の山伏だった。四年程、飯道山で薙刀を教えていた火乱坊は、風眼坊と共に山を下りて旅に出た。関東の地を巡り、二人は常陸の国(茨城県北東部)で別れ、風眼坊は熊野に帰り、火乱坊はさらに奥州(東北地方)まで足を伸ばした。その時、別れて以来、大峯の山上(サンジョウ)で出会うまで、二十年近くの歳月が流れていた。

 奥州を歩き回って、近江に帰って来た火乱坊は、京にでも出ようかと琵琶湖の湖畔の堅田まで来た時、ばったりと、今の女房、おつたと出会った。

 一目惚れだった。

 火乱坊は京に行く事など、すっかり忘れて堅田に居着いてしまった。

 おつたは本福寺の住職、法住の末娘だった。火乱坊はおつたと一緒になるために山伏もやめ、本願寺の門徒となった。法住の婿となった火乱坊は洲崎藤右衛門(スノザキトウウエモン)という俗名に戻り、法住の仕切っている琵琶湖の運送業を任された。

 藤右衛門は幸せだった。

 薙刀を櫓(ロ)に持ち代えて、毎日、琵琶湖を行き来していた。

 そんな時、藤右衛門は法住に連れられて、大谷の本願寺を訪ねた。その当時の本願寺は寂れていた。門徒など誰一人、訪れる事なく、ひっそりとしていた。蓮如の父親、存如(ソンニョ)がまだ生きていて、蓮如はすでに四十歳を過ぎているのに部屋住みの身だった。

 藤右衛門は法住と共に頻繁に大谷本願寺に訪れるようになった。やがて、存如が亡くなり、蓮如が本願寺八代目の法主となった。法主となった途端に、蓮如は積極的に布教活動を始めた。

 寛正(カンショウ)二年(一四六一年)、蓮如は大谷本願寺において親鸞聖人(シンランショウニン)の二百回忌を大々的に行なった。蓮如が生まれて以来、初めて本願寺が門徒たちで賑わった。その年、藤右衛門は蓮如のもとで出家して本願寺の坊主となり慶覚坊と名乗った。寛正四年には蓮如の供をして高野山、吉野方面に布教の旅をした。

 寛正六年に大谷本願寺が叡山の衆徒(シュウト)に襲われて破壊された。慶覚坊となった藤右衛門も法住と共に薙刀を担いで駈け付けたが、すでに遅く、本願寺は跡形もなく壊されていた。蓮如たちは皆、避難していて無事だったが、せっかく盛り返して来た本願寺が破壊されたのは残念な事だった。

 その後、蓮如は琵琶湖周辺の門徒の道場を点々としていた。

 やがて、応仁の乱が始まり、琵琶湖周辺にも戦乱が及んだ。蓮如は戦乱を避けながら、家族ともばらばらになり、一ケ所に落ち着く事なく移動していた。

 応仁二年(一四六八年)の春、ようやく落ち着く場所が見つかり、蓮如は家族と共に大津に移った。蓮如たちが大津に移って、しばらくして叡山の衆徒が堅田を襲い、堅田の町は全焼してしまった。堅田の人たちは皆、舟で沖の島まで逃げた。

 慶覚坊は叡山の僧兵や坂本の馬借(バシャク)たちを相手に薙刀を振り回して活躍したが、火には勝てず、沖の島に避難した。しばらくの間、慶覚坊の家族も堅田の住民たちと一緒に、そこで暮らす事となった。

 その年の夏、慶覚坊は蓮如の供をして北陸を経て関東へと五ケ月近く、布教の旅をして回った。その後も、蓮如が遠出する時は必ず、慶覚坊も供をした。

 そして、文明三年(一四七一年)五月、蓮如の供をして加賀の国に来て、七月に吉崎御坊が完成すると蓮如は吉崎に入り、慶覚坊は蓮誓の後見人として山田光教寺に来たのだった。

 慶覚坊がここに来て、すでに三年が経ち、慶覚坊は蓮誓を守り立て、蓮誓と共に布教の旅にも出て門徒を増やして行った。光教寺には見る見る門徒たちが集まり、吉崎に負けない位、賑わっていた。

 慶覚坊が吉野に行ったのは、吉野の門徒へ蓮如の書いた六字名号(ロクジミョウゴウ)を届けるためと、熊野の牛王紙(ゴオウシ)を仕入れるためだった。

 最近は、百姓たちだけでなく、百姓を支配している国人(コクジン)や地侍(ジザムライ)たちの武士が本願寺の門徒になる事が多くなって来ていた。彼らは信心から門徒になるわけではなく、門徒にならざるわけにはいかない状況に追い込まれて門徒になるのだった。

 自分の支配下にいた百姓たちが次々と本願寺の門徒となって行き、それを止める事は支配者と言えども不可能な事だった。彼らが今まで通りに百姓たちを支配して行くには、実力を持って百姓たちを押えるか、自ら門徒となって本願寺の組織の中で百姓たちを支配するか、以外に道はなかった。

 門徒となった百姓たちは、今までの百姓とは違っていた。今までの百姓は村と村のつながりは、それ程、強くはなかった。かえって、隣村とは用水などを巡っての争い事が絶えなかったと言っても良かった。ところが、門徒となった百姓たちは講(コウ)と呼ばれる門徒たちの集会によって結ばれ、村と村の交流が盛んになって行った。同じ門徒という事で、今まで交流のなかった離れた村の者たちとも付き合うようになり、村と村は強力に結ばれて行った。もし、支配者が力を持って百姓たちを支配しようとすれば、自分の支配下の百姓だけでなく、門徒たち、すべてを敵に回さなければならないという状況になっていた。支配者たちは自らも門徒となり、本願寺の組織の一員として、今まで通り、百姓たちを支配して行く道を選んだ。

 本願寺としては、門徒となりたいと言う者を断るわけにもいかず、自分の勢力を拡大するために門徒たちを利用してはならない、という事を誓わせてから門徒とした。その起請文(キショウモン)を書かせるのに熊野の牛王紙を必要としたのだった。

 浄土真宗では阿弥陀如来の他の神や仏は認めてはいないが、相手が武士なので、起請文として一般的に通用する熊野牛王紙を選んだのだった。

 また、武士だけではなく、他の宗派の寺院にしても同じ事が言えた。当時の寺院は、ほとんどが国人や郷士(ゴウシ)と呼ばれる在地武士と結び付き、彼らから土地を与えられて保護され、その土地からの年貢で生計を立てていた。ところが、領地の百姓たちが次々と本願寺門徒となってしまい、他の宗派の寺院に年貢など払う必要ないと思うようになって行った。以前だったら、少し威せば素直に従った百姓たちが、門徒になってからは、そうは行かなくなった。百姓たちは徒党(トトウ)を組んで反抗するまでに成長していた。それだけではなく、頼みとする武士までも門徒となってしまっては、寺院としても背に腹は変えられないと、今までの宗派を捨てて本願寺の坊主となって行った。

 当時の村というのは、現在のように行政機関の一部としての村には、まだ成長していなかった。一つの村に幾つもの荘園があり、支配者が何人もいて、まとまりがなかった。

 一つの荘園に複数の支配者がいる場合もあり、また、一人の百姓が幾つもの荘園にまたがって田畑を耕している場合もあった。そして、荘園領主というのは京の都にいて、現地に代官を置き、年貢の取り立てを任せていた。やがて、守護大名の武力によって荘園制度はだんだんと崩れて行くが、土地で働いている百姓に取っては支配者が変わるだけで何の変化もなかった。しかし、農業技術の向上と農業器具の一般化によって、百姓たちも少しづつ力を持って行った。

 やがて、応仁の乱となり、各地で戦乱が始まった。百姓たちはただ戦乱から逃げ惑うだけでなく、自ら身を守る事を覚えた。また、百姓たちを指揮する立場の者たちも現れていた。彼らは代官として、その地に行き、土着して勢力を広げ、百姓と支配者の間に立って来た者たちだった。彼らは今までの支配者たちと違い、土地に密着して百姓たちを直接、支配して行くようになった。国人とか郷士とか言われる土着の武士だった。

 一つの村が一人の支配者によって支配されるようになると、その村の百姓たちも村を守るために団結するようになって行った。しかし、まだ、村と村同士の交流はあまり盛んではなかった。そんな状況の中、蓮如の布教する本願寺の教えが広まって行った。

 蓮如の教えは簡単だった。

 今まで、宗教など縁のなかった下層百姓は勿論の事、山や海や川の民にまで広まって行った。門徒は講という寄り合いに集まり、蓮如の教えを聞いた。門徒になれば誰でも講に参加できた。各地に道場ができ、門徒たちはお互いに交流を結んだ。今まで知らない者たちが同じ門徒という事で話を交わし、つながりを持つようになって行った。

 講によって村は一つの共同体となり、門徒にならなければ村の一員として認めてもらえないようになり、門徒の数は見る見る増えて行った。



 風眼坊は縁側から雨を眺めながら、「さて、これから、どうするか」と思った。

 山を勇んで下りたのはいいが、蓮如とも会えず、さし当たってやる事はなかった。

「風眼坊様」と慶覚坊の娘、おあみが客間の掃除をしながら声を掛けて来た。

「はあ」と風眼坊は、おあみの方を見ながら気のない返事をした。

「風眼坊様は、お上人(ショウニン)様のお弟子さんじゃないん?」おあみは興味深そうに風眼坊を見ていた。目がくりっとしていて、母親似の可愛い娘だった。

「ああ、わしは山伏じゃよ」と風眼坊は答えた。

「お父さんと、どこでお会いになったんですか」

「もう、ずっと前じゃ。その当時は、お父さんも山伏じゃった」

 おあみは頷(ウナヅ)いた。「お母さんから聞いた事あるわ。でも、ずっと昔でしょ」

「そうじゃな。もう二十年も前の事じゃ」

「二十年も前‥‥‥」おあみはそう言って庭にある池の方を眺めた。風眼坊に視線を戻すと、「二十年前のお父さんて、どんなだったん」と聞いた。

「そうじゃのう。まあ、とにかく強かったのう」

「今も強いわ」とおあみは笑って、「他には?」と聞いてきた。

「他にはのう。まあ女子(オナゴ)によく持てたのう」

「ふうん‥‥‥お父さん、持てたんだ‥‥‥」

「ああ、持てたさ。いい男じゃったからのう」

「おじさんより?」

「ああ、わしよりな。おあみちゃんて言ったかな、話は変わるけど、おあみちゃんは蓮如殿に会った事はあるのかい」

「お上人様ですか、ええ、会った事ありますけど‥‥‥」

「お上人様っていうのは、どんな人だい」

「どんな人って、偉いお人よ」

「まあ、そりゃ、偉いだろうけど、どんな風な人なんだい」

「そうねえ」とおあみは少し考えてから、「偉いお人なんやけど、偉そうにしてないお人やね」と言った。

「ふうん‥‥‥」

「あたしね、ここに来るまで、あのお人がお上人様だって知らなかったの。堅田にいた頃、何回か、お上人様に会ったの。でも、あたし、そんな偉いお人だなんて知らなくて、ただ、近所のどこかにいる面白いお坊さんだと思ってたの。ここに来てから、みんなで吉崎のお上人様に挨拶に行ったの。広いお部屋に案内されて、偉いお上人様って、どんなお人なんだろうと思っていたら、堅田にいた頃、何回か会った、あのお坊さんが出て来たんだもの。あたし、びっくりしちゃった」

「偉いけど、偉そうにしてないか‥‥‥」

「うん。ここのお寺さんにも何回か来たけど、前の方に坐って、お説教するんじゃなくて、門徒さんの人たちの中に入って、みんなと一緒にお話してたわ」

「ほう‥‥‥」

「おじさん、吉崎には行かなかったん」

「行ったけど、お上人様はいなかった」

「そう。また、ふらふらと、どこかに行ったのね、きっと」

「おあみ!」と母親が呼んでいた。

「いけない」と言って、おあみは笑うと台所の方に行った。

 風眼坊はまた雨を眺めると、「南無阿弥陀仏‥‥‥」と呟いて首をひねった。





 夕方になり雨が止んだ。

 風眼坊はふらっと外に出た。

 雨が止んだせいか、光教寺への参道には遠くから来たらしい門徒たちや、近くから来た漁師たちが行き交っていた。近くと言っても、ここから海までは一里程(約四キロ)ある。それでも、日に焼けた顔をした漁師たちが話をしながら続々と光教寺の方に向かって歩いていた。風眼坊も光教寺へと行ってみた。

 昨日、慶覚坊と一緒に光教寺に行った時は、すでに暗くなっていたので、寺もひっそりとしていたが、今は門徒たちが大勢集まって本堂の中で何やら楽しそうに話をしていた。

 本堂といっても仏像があるわけでもなく、中央に『南無阿弥陀仏』と書かれた掛軸と偉そうな坊主の絵の描かれた掛軸が掛けてあるだけで、ひっそりとしたものだった。あの絵に描かれているのが蓮如なのだろうか、と風眼坊は思った。

 一応、天台宗に属している風眼坊から見ると、これが本願寺流の寺院なのか、と不思議な感じがした。風眼坊が見慣れている寺院には本尊があり、その回りにも何体もの仏像がいて、護摩壇(ゴマダン)があり、数多くの仏具が並び、重々しい雰囲気があった。ところが、ここにはそんなものは何もなく、ただの広間に過ぎなかった。広間にしても、必ず、上段の間というのが上座にあるものだが、ここには、それすらもなかった。しかも、門徒たちは気楽に本堂に上がって世間話をしている。風眼坊には理解できない事だった。

 風眼坊は本堂をちらっと覗くと、裏にある庫裏の方に向かった。

 庫裏からは、うまそうな匂いが漂って来た。台所を覗くと蓮誓の若い妻、如専(ニョセン)が二人の下女を使って、てきぱきと働いていた。まだ、嫁に来たばかりだと聞いていたが、若いわりには、しっかりした娘だった。

 風眼坊に気づくと頭を下げて、近づいて来た。「何か‥‥‥」

「いや、あの蓮誓殿はおりますか」と風眼坊は聞いた。

「はい、居間の方にいると思いますけど。何か御用でしょうか」

「いえ、用という程の事ではありませんが、わしには、どうもまだ、本願寺の教えと言うのがよく分からんのですよ。わしは大峯の山伏で、慶覚坊とは古い知り合いです。二十年振りにばったり会って、一緒にここまで来たんじゃが、どうも、よく分からんのじゃよ。慶覚坊の奴は今朝早くから吉崎の方に行ったきり帰って来ん。そこで、蓮誓殿から本願寺の教えというのを聞きたいと思って来たわけじゃが」

「そうだったのですか。あたしは、てっきり、門徒のお方かと思っておりました。慶覚坊様と一緒に行者(ギョウジャ)さんに化けていたのかと思っておりました。ほんとの行者さんだったのですか」

「慶覚坊は行者に化けていたんですか」

「ええ。行者さんに化けて、この間の火事の下手人(ゲシュニン)を捜しに豊原寺(トヨハラジ)に行くって聞いておりましたから」

「火事っていうのは吉崎の火事の事ですか」

 如専は頷いた。

「下手人は山伏だったのですか」

「よく分かりませんけど、そういう噂です」

「成程、それで、わしらが吉崎を歩いていた時、回りから変な目で見られたんじゃな」

「この辺りはまだ、大丈夫ですけど、吉崎辺りをその格好で出歩くと危険ですよ。吉崎の多屋には結構、血の気の多いのが、かなり、いるそうですよ」

「そういうわけじゃったのか」

 如専は頷いて、「もうすぐ、本堂で、上人様が法話をしますけど、その格好では出ない方がいいですよ」と言った。

「蓮誓殿が法話をなさるのですか」

「はい。そうです」

「毎日、なさっているのですか」

「ここにいる時は毎日です」

「成程、大変ですな」

「お勤めですから」と如専は当然の事のように笑って、風眼坊を蓮誓のいる居間に案内してくれた。

 蓮誓は文机(フヅクエ)の前に坐って何かを写していた。写経しているのかと思ったが、お経ではなかった。何か、手紙のような物を写している。

 如専は風眼坊を案内すると、また台所に戻って行った。

「なかなか、働き者の嫁さんじゃな」と風眼坊は如専を見送りながら蓮誓に言った。

「はい。よく働きます。大叔母にそっくりですよ」と蓮誓は笑った。

 如専は大叔母の勝如(ショウニョ)の姪だった。蓮誓は七歳の時、大叔母のいる加賀二俣(フタマタ)の本泉寺(ホンセンジ)に預けられた。まだ、父の蓮如が部屋住みの頃で、貧しくて子供たちを手元で育てる事ができず、仕方なく手放したのだった。大叔母に預けられたのは蓮誓だけでなく、次男の蓮乗(レンジョウ)、三男の蓮綱(レンコウ)もそうだった。蓮誓より下の兄弟は手元で育てられたが、蓮誓より上の兄弟は、長男の順如以外は皆、どこかに預けられたのだった。

 勝如の亭主は如乗(ニョジョウ)といい、すでに亡くなっていたが、北陸の地に本願寺の教えを広めるのに貢献したのが如乗だった。蓮如が北陸の地を選んで吉崎に来たのも、叔父の如乗の活躍のお陰だった。

 蓮誓は加賀の二俣本泉寺において、勝如から二人の兄と一緒に本願寺の教えを学び、育てられた。姪の如専は、その本泉寺のすぐ近くに住んでいて、小さい頃より本泉寺に手伝いに来ていた。寺の中で育ったのも同じで、寺の台所仕事は慣れたものだった。

 蓮如は北陸に進出して来て、吉崎の地に本願寺の別院を建てる事に決めると、蓮誓に慶覚坊を付けて吉崎に送り込んだ。別院が完成するまでの二ケ月余りの間、蓮誓は北潟湖に浮かぶ小島、鹿島明神の堂守りという名目で滞在し、慶覚坊と共に海辺を中心に布教して回った。その頃、蓮如は本泉寺を拠点にして布教活動を行なっていた。そして、別院が完成すると吉崎に移り、蓮誓を山田光教寺に入れたのだった。

 蓮誓が、そんな身の上話を風眼坊にしている時、太鼓の音が鳴り響いた。

「お勤めの時間です。すみませんけど、少し待っていて下さい」と言って蓮誓は出て行った。

 風眼坊は蓮誓の話を聞きながら、息子の光一郎の事を思い出していた。弟子の太郎のもとに送ったが、今頃、何をしているのだろう。飯道山に行ってから、もう一年以上が経っている。飯道山の修行は一年だった。一年経っても帰って来ないので、少し心配になって、こっそり飯道山に行って様子を見てやろうと思ったが、何となく、息子に会いに行くのが照れ臭くて行けなかった。

 ここに来る途中も、飯道山の側を通りながら飯道山には寄って来なかった。慶覚坊が飯道山に寄ってみるか、とでも言えば寄って来たのだが、慶覚坊は飯道山の事などおくびにも出さなかった。まあ、息子は息子なりに何とかやっているだろう、と会うのを諦めて、ここまで来たのだった。

 自分の息子と目の前にいた蓮誓を比べて見て、何となく、蓮誓の方がしっかりしているように思えた。

 蓮誓は何を写していたのだろう、と風眼坊は文机の上を覗いてみた。

 手紙のようだが、どうも手紙ではないらしい。教えのような事が、誰にでも読めるように片仮名まじりで書いてあった。

「それ、当流親鸞聖人の勧めましますところの一義の心というは、まず他力の信心をもて肝要とせられたり‥‥‥」

 親鸞聖人とは一体、誰なのか、風眼坊には分からなかったが、最後まで読んでみる事にした。最後まで読んでみて、なぜか、風眼坊の心を打つ物があった。実に分かり易く、本願寺の教えが書いてあった。これなら、何の教養のない者たちでも、聞いていれば、すぐ分かる単純な教えだった。

 風眼坊も勿論、阿弥陀如来は知っていた。熊野の本尊は阿弥陀如来だし、飯道山の本尊も阿弥陀如来だった。しかし、阿弥陀如来というのが、どんな仏様なのか、考えた事もなかった。他の仏様と同じように人々を救ってくれる仏様で、『南無阿弥陀仏』と唱えれば極楽に往生ができるというので、信者たちは何かと言うと『南無阿弥陀仏』と唱えているのだろうと思っていた。浄土宗やら、時宗やら、浄土真宗やら色々とあるが、みんな同じで、死んだ後の事など誰も分からないのをいい事に、坊主どもが、いい加減な事を言って、人々を惑わしているのだろうと思っていた。しかし、風眼坊が今、読んだ文には、阿弥陀如来は、すでに、すべての者を救っていると書いてあった。

 本願とは、人々が救ってくれと願うのではなくて、阿弥陀如来の方が、すべての人々を救うという願いを掛けられたのだと言う。すべての人々は、どんな悪人であろうとも、すでに阿弥陀如来に救われているのだと言う。そして、その事に気づいたら、感謝の気持ちをお礼の意味を込めて『南無阿弥陀仏』と唱えるのだと言う。助けてくれという気持ちで『南無阿弥陀仏』と唱えるのではなく、助けていただいて有り難うございますという気持ちで『南無阿弥陀仏』と唱えるのだと言う。

 風眼坊は繰り返し繰り返し、その文を読んだ。

 すべての人々は、すでに救われている‥‥‥

 こんな教えがあるのか‥‥‥

 凄い教えだと思った。

 風眼坊は天台宗の山伏だが、天台宗の教えは難しくて複雑で、何が何だかさっぱり分からなかった。やたらと難しくしている節さえある。ところが、この本願寺の教えは何と簡単で分かり易いのだろう。こんなに分かり易かったら門徒が増えるわけだった。

 蓮如は門徒を増やして、どうするつもりなのだろう‥‥‥

 風眼坊は、蓮如のような純粋な宗教者というのを知らなかった。宗教者の振りをしているが、一皮剥けば欲の固まりのような坊主しか、今まで会った事はなかった。風眼坊自身、今まで大峯の山上にいて、信者たちに偉そうな事を言っていたが、宗教心から言っていたわけではない。早い話が金儲けに過ぎなかった。信者を増やせば本山は儲かる。その手助けをしていたようなものだった。蓮如もやはり、金儲けのために門徒を増やしているのだろうと風眼坊は思った。

 しかし、すべての者は阿弥陀如来によって、すでに救われている、そして、感謝の気持ちをこめて『南無阿弥陀仏』と唱えるという教えは、風眼坊にも頷けるものがあった。

 風眼坊は長い間、山伏として自然の中で生きて来た。自然の中にいると、目に見えない大きな力というものを感じる。それは、人間の力ではどうする事もできず、また、言葉で説明する事もできない大きな力だった。そして、その大きな力に包まれて生きているという事に、自然と感謝の気持ちというのが涌いて来るものだった。その大きな力というのが、本願寺では阿弥陀如来なのだろうと思った。

 蓮誓が戻って来た。

 風眼坊は蓮誓と一緒に夕飯を御馳走になった。

 風眼坊が読んだ文というのは、蓮如が書いた『御文(オフミ)』と呼ばれるもので、本願寺では、お経の代わりになるものだと蓮誓は言った。そして、風眼坊の知らなかった親鸞聖人というのは、二百年前に浄土真宗を開いた聖人で、蓮誓とは血のつながりのある御先祖様だと言う。本堂に掲げてある絵像は、その親鸞聖人だった。

 親鸞は最初、天台宗の僧として比叡山に登って修行をしたが、納得がいかず、山を下りて法然(ホウネン)の念仏門に入った。法然のもとで、ひたすら念仏修行を続けていたら、他の宗派の圧力によって念仏禁止令に遭い、越後(新潟県)に流罪(ルザイ)になってしまう。流罪になった越後で妻を貰い、流罪が解かれた後は、関東の地に行って布教活動を行なった。

 親鸞の教えは徹底していて、阿弥陀如来のもとでは皆、平等だとし、弟子も作らず、寺も作らず、自分が死んだら墓もいらない、賀茂川に捨てて魚の餌食にしてくれとさえ言ったという。事実、親鸞は教えを広めても、寺も弟子も作らずに死んだ。

 親鸞の遺骨は賀茂川に捨てられはしなかったにしろ、特別な墓も作られず、京の葬送地、鳥辺野(トリベノ)に埋められた。それではあまりにも哀れだと、親鸞の廟堂(ビョウドウ)を建てたのが、親鸞の末娘の覚信尼(カクシンニ)だった。その廟堂が、やがて本願寺となり、覚信尼の子孫たちによって守られ続け、二百年後の蓮如の代になって、ようやく、花開く事になったのだった。

 父、蓮如は親鸞聖人様の教えを忠実に広めているのだ、と蓮誓は誇らしげに言った。そして、自分は父のする事を手伝わなければならないという使命感に燃えているようだった。

 風眼坊は蓮誓と話していて、同じ父親として蓮如が羨ましく感じられた。そして、前とは違った意味で蓮如という男と会ってみたいと思った。





 風眼坊は旅に出た。

 慶覚坊こと火乱坊は吉崎に行ったまま、その日は帰って来なかった。何をしているのか、次の日も帰って来なかった。奥さんや子供たちは、いつもの事だと平気でいるが、風眼坊の方は何もしないで、じっとしているのは苦手だった。せっかく、加賀の国まで来たのだから、白山(ハクサン)にでも登って来るかと、ふらっと旅に出た。

 白山には、昔、一度だけ登った事があった。その時は越前の国(福井県)の平泉寺(ヘイセンジ、勝山市)から登って、加賀の国の白山本宮(鶴来町)の方に下りた。白山への登り口はその二つと、もう一つ美濃の国の長滝寺(チョウロウジ)から登る参道があり、それぞれ、越前馬場、加賀馬場、美濃馬場と呼ばれていた。白山への正式な参道はその三つだったが、風眼坊がいる山田光教寺からは加賀馬場も越前馬場も遠かった。風眼坊は山の中に入り、かまわず東の方に進めば何とかなるだろうと気楽な気持ちで、大聖寺川に沿って登って行った。

 風眼坊は知らなかったが、山田光教寺の東二里程の所に白山三箇寺と呼ばれる三つの大寺院があり、そこからも白山への登山道があった。しかし、風眼坊にとって道など関係なかった。どんな山の中に入っても、長年の経験によって目的地に向かう事ができた。

 その日の昼過ぎ、風眼坊は山中の湯という湯治場に着いた。まだ、日も高かったが、久し振りにのんびりするかと、湯につかって遊女を呼んで楽しんだ。

 次の日は一日中、雨が降っていたので、そのまま温泉に滞在し、女と酒を楽しみ、その次の日、山奥の道で風眼坊は二人の乞食坊主と出会った。

 一人は六十歳を越えていそうな老僧、もう一人は三十歳位の体格のいい男だった。

 風眼坊は前を行く二人に追い付くと、何気なく声を掛けた。

 ただ、どこに行く、と聞いただけだったが、二人は警戒して風眼坊を見た。

 若い坊主は老僧を庇うように、持っている六尺棒を構えた。その構えを見て、なかなかできるな、と思った。こんな山奥を歩いているのだから、どうせ、時宗(ジシュウ)の遊行聖(ユギョウヒジリ)に違いない、と声を掛けたのだったが、山伏を見て警戒するとは、もしかしたら本願寺の坊主かな、と聞いてみた。

 逆に、若い坊主が、白山の山伏か、それとも豊原寺か、と聞いて来た。

「わしはここの者ではない。大峯の山伏じゃ」風眼坊は錫杖を突いたまま二人を見ていた。

「大峯というと、大和の大峯か」若い坊主が六尺棒を構えながら風眼坊を睨んだ。

「そうじゃ」と風眼坊は頷いた。

「大峯から来た者が、どうして、わしらが本願寺の者だと知っておる」

「知っておったわけじゃない。この間、吉崎に行った時、変な目で見られたからのう。本願寺の奴らは山伏を嫌っておると思ったんじゃ」

「何で、吉崎に行った」

「ただ、蓮如とかいう坊主に会いたかっただけじゃ」

「なに! 何の用で」若い山伏は今にも飛び掛りそうな剣幕だった。

「別に用などはない。ただの気まぐれじゃ」

「慶聞坊(キョウモンボウ)、もういい」と老僧が言った。

「しかし‥‥‥」

「そのお人は、わしらに害を及ぼす気はないようじゃ」

「さすが、年寄りは物分かりがいいようじゃな」風眼坊は老僧を見て笑った。

「それに、そのお人はなかなか強い。おぬしが相手をしても負けるかもしれん」

「そんな事はありません」

「争い事は避けるべきじゃ」と老僧は首を振って、「ところで、大峯の行者殿が、どうして、こんな所を歩いてなさるのじゃ」と風眼坊に聞いた。

「白山の登ろうと思っての」

「嘘つくな、こんな所を通って白山など行けはせん」と慶聞坊と呼ばれた坊主が怒鳴った。

「素人(シロウト)衆はそう思う。しかし、わしら山伏にとっては、山はみんな、つながっておる。山の中にはのう、わしらしか知らん道があって、そこを通れば、どこにでも行けるんじゃよ」

「山伏の道か‥‥‥」と老僧が言った。

「いや、山伏だけじゃないがのう。山の中で暮らしている者たちは、みんな、知っておる」

「成程のう、そんな道があるのか‥‥‥」

「本願寺の坊主というのは、こんな山奥まで入って布教をしておるのか」と今度は風眼坊が聞いた。

「人がおる所なら、どこにでも行く」と慶聞坊が答えた。

「なぜじゃ」

「教えを広めるためじゃ」

「広めて、どうする」

「人々を救うんじゃ」

「救って、どうする」

「どうもせん。教えを広めるのが、わしら、坊主の使命じゃ」

「ふん、使命か。そんな事をして何の得がある」

「得があるから、やっておるわけじゃない」

「信じられんのう」

「そなたは山伏をやっておって、何の得があるんじゃな」と老僧が聞いた。

「得か‥‥‥」と風眼坊は考えてみた。「得など別にないのう」

「得などないのに、どうして、山伏なんぞやっておるんじゃ」

「ふむ、こいつはやられたのう。そんな事、今まで考えた事もなかったわ」

「人は損得で動くものとは限らんのじゃよ。わしら、本願寺の坊主は阿弥陀如来様が差し向けたお使いの者じゃ。阿弥陀如来様の尊い教えを下々の者たちの間に広め、人々を救う事がお勤めなんじゃ」

「お勤めね。しかし、門徒が増えれば本願寺が儲かる事も事実じゃろう。あの吉崎の繁栄振りじゃと、そうとう儲かっておるに違いない」

「おぬし、何と言う罰当たりな事を言うんじゃ」慶聞坊が目を吊り上げて怒鳴り、棒を振り上げた。

「まあ、落ち着け、慶聞坊」老僧は慶聞坊をなだめて、「そなたの言う事はもっともな事じゃ」と風眼坊に頷いた。「しかし、上人様は決して、門徒たちが下さる、お志しが目当てで教えを広めておるわけではない。教えを広めた結果として、門徒たちが吉崎に集まって来て、あのような状態になってしまったんじゃ。上人様は返って、門徒たちが集まって来る事に迷惑なされておるようじゃ」

「どうして、迷惑なんかするんじゃ」

「上人様は争い事を好まん。あれだけ吉崎が賑わってしまうと、白山の衆徒や豊原寺、平泉寺の衆徒が本願寺を妬んで騒ぎ出すんじゃよ。上人様は京や近江にいた時、叡山の衆徒たちと争って、ひどい目に会っておる。もう、二度と天台宗とは争いたくはないんじゃよ」

「ふうん。おぬしたち、随分と上人様に詳しいようじゃのう。そうは見えんが、もしかしたら本願寺の中で偉い坊さんなのか」

「本願寺の坊主に偉いとか、偉くないとか、そんな階級なんぞ、ありゃせん。皆、同じ、坊主じゃ。皆、阿弥陀如来様のお使いじゃ」

「本願寺には階級などないのか」

「そうじゃ、阿弥陀如来様のもとでは皆、平等なんじゃ。坊主だからと言って門徒たちよりも偉いというわけでもない。皆、同朋(ドウボウ)なんじゃ」

「皆、同朋? 公家や武士や百姓も皆、同朋なのか」

「そうじゃ」と老僧は頷いた。「阿弥陀如来様のもとでは皆、同朋じゃ。浄土真宗の開祖親鸞聖人様は阿弥陀如来様の教えを広めなされた。しかし、お弟子もお作りにならず、お寺もお作りにならなかった。ところが、親鸞聖人様が亡くなられた後、聖人様の教えを受けた者たちは、自ら聖人様のお弟子を名乗り、聖人様の教えを広めなされた。教えを広めるには教団を組織しなければならない。教団を作るという事は聖人様の教えに背く事になるんじゃ。しかし、仕方がなかった。親鸞聖人様が亡くなってから、すでに二百年も経ち、聖人様の教えは幾つかの派に分かれ、少しづつ間違った方向に進み始めた。ひどいのになると、坊主が阿弥陀如来様と同じ位に立ち、門徒たちの極楽往生を決める事ができるという、自惚れた宗派まで出て来る始末じゃ。坊主は門徒たちのお志し次第で、勝手に極楽往生を決めている。門徒たちも決定(ケツジョウ)往生のために、坊主に多額のお志しを差し上げるという異端な宗派が流行ってしまう事となったんじゃ。蓮如上人様は、そんな異端な宗派が流行るのを嘆き、浄土真宗を親鸞聖人様の教えに戻そうと布教を始めたんじゃよ。極楽往生は決して銭次第で決まるわけじゃない。信心によって決まるものじゃとな」

「ほう、成程のう。銭次第じゃないとのう。蓮如上人様とは一体、どんなお方じゃ」

「吉崎に行ったと言っておったが、上人様とはお会いにならなかったのかな。上人様は、会いたい者がおれば誰とでも会うはずじゃが」

「留守じゃった」

「そうか。そいつは生憎じゃったのう」

 老僧の名は信証坊(シンショウボウ)といい、蓮如とは古くからの付き合いで、蓮如と共に北陸の地に来て、蓮如の教えを広めるため、山奥の村々に説いて回っていると言う。

「ところで、阿弥陀如来の教えの事じゃが、阿弥陀如来の本願によって、すでに、みんな、救われておると書いてあったが、あれは本当なのか」と風眼坊は信証坊に聞いた。

「本当じゃとも。じゃが、何に書いてあったのじゃ」

「蓮如上人様が書いたとかいう『御文』とかいう文じゃが」

「そなた、『御文』を見た事あるのか」

「ああ、偶然、光教寺の蓮誓殿の居間で見た」

「なに! どうして、おぬしが蓮誓殿の居間になどに入ったんじゃ」慶聞坊が目をむいて風眼坊を睨んだ。

「ただ、何となくじゃが、入ったら悪いのか」

「いや、別に悪くはないが、そなたは蓮誓殿を知っておったのか」信証坊は別に驚くでもなく、落ち着いた声で聞いた。

「いや、知っているという程のものじゃないが‥‥‥おお、そうじゃ、おぬしたち、もしかしたら、火乱坊、いや、慶覚坊を知らんか」

「知っておるが‥‥‥」と慶聞坊が言った。

「そうか、やはり、知っておったか。わしは、その慶覚坊の昔馴染みなんじゃ。大峯で二十年振りに、ばったり会ってのう。それで、一緒に加賀までやって来たというわけじゃ」

「何じゃ。おぬし、慶覚坊殿の昔馴染みですか。それならそうと早く言って下さい。わしと慶覚坊殿は兄弟みたいなもんです。何じゃ、そうだったんですか」

 慶聞坊の態度が急に変わった。風眼坊を睨みつけていた顔が急に穏やかになった。

「おぬしが、あいつと兄弟分か、ほう、そいつは奇遇じゃのう」

「そう言えば、慶覚坊殿は堅田に落ち着くまでは、確か山伏じゃったのう。思い出しましたよ」

「おう、火乱坊という伊吹山の山伏じゃった」

「そうですか。慶覚坊殿の昔馴染みですか‥‥‥」

「老師、さっきの話じゃが‥‥‥」と風眼坊は信証坊を見た。

「おう、そうじゃったな。阿弥陀如来様の本願によって、すべての者が、すでに救われておるというのは本当じゃ」

「阿弥陀如来など信じておらん奴らもか」

「そうじゃ。阿弥陀如来様は差別などなさらん。すべての者を救って下さるのじゃ」

「信じておっても、信じておらなくても救われるのなら、何も、信じなくてもいいんじゃないのかのう」

「それは違うぞ。すでに、救われておるという事に気づかなくてはならんのじゃよ。救われておっても、その事に気づかなくては、救われておるという事にはならんのじゃ」

「よく分からんが‥‥‥」

「うむ、例えば、そうじゃな」と信証坊は少し考えてから話し続けた。「例えば、山奥に入って道に迷ったとする。何日も山の中をさまよい歩いても、なかなか人里が分からない。じゃが、実際には目と鼻の先に一軒の山小屋があるんじゃ。回りをよく見ると草に隠れておるが、その山小屋に続く細い道があるんじゃよ。その細い道が阿弥陀如来様の教えじゃ。そして、山小屋が極楽浄土じゃ。その細い道が分からなければ、いくら、山小屋が目と鼻の先にあったとしても行く事ができずに、苦しんで死ぬ事になるんじゃよ」

「成程、分かるような気もする」と風眼坊は頷いた。「わしも、山の中で迷って死んだ者を何人か見た事があるが、確かに、人里近くまで来て、死んでおるというのを見た事があった」

「そうじゃろう、そんなもんじゃ。またのう、ただでさえ、その細い道が見えんのに、欲という深い霧に立ち込められたら、ますます、迷い込んでしまうんじゃよ」

「欲という深い霧か‥‥‥成程のう、うまい事を言うもんじゃのう」

「そして、すでに阿弥陀如来様に救われておるという事に本当に気づいた時、感謝の気持ちから、おのずから自然と『南無阿弥陀仏』という念仏が口から出て来るんじゃよ。その時、その人の極楽往生は決定するんじゃ。その後は、ただ、阿弥陀如来様にすべてを任せ、いつものように仕事に励み、感謝の気持ちを込めて念仏を唱えればいいんじゃ」

「う~む‥‥‥南無阿弥陀仏か‥‥‥」

 やがて、三人は真砂(マナゴ)という木地師(キジシ)の村に入った。木地師は普通、漂泊の民だが、この頃になると漂泊をやめて、代々一ケ所に落ち着いて一つの村を作っている木地師も多かった。

 ここに住む木地師たちは平泉寺に所属している木地師で、初めの頃、彼らは越前と加賀の国境の山々をさまよいながら、春から秋までの間、焼畑耕作の仕事をして、雪深い冬になると、この谷に下りて来て木工細工の作業をしていた。それが、いつの頃からか焼畑をやめて、木地師を専業にやる者たちが出て来て、この地に落ち着くようになって行った。焼畑をやめて木地師の仕事だけでも生活できるようになったのは、この谷の入口辺りにある山中の湯と山代の湯が湯治客で栄え、お椀などの食器類の需要が増したからであった。今では、この谷に三十家族程の木地師たちが住み、お椀を初め、お膳やら、しゃもじなどを作っていた。

 信証坊は村長(ムラオサ)の家を訪ねると、村の者たちを集めて貰って説教を始めた。男たちは山の中に入っているので、あまりいなかったが、女たちが大勢、集まって来た。

 老僧は木の屑の散らかっている庭に腰を下ろし、女たちを自分の回りに坐らせると、分かり易く、女人(ニョニン)往生を説いて聞かせた。

 風眼坊も後ろの方で信証坊の説教を聞いていたが、成程と納得させられる事が幾つもあった。信証坊は四半時(シハントキ、三十分)程、説教をすると、お礼として差し出された物の中から、ほんの僅かな食糧だけを貰って、その村を後にした。

「どうも、この村の奴らは門徒のようじゃのう」と風眼坊は慶聞坊に聞いた。

「ええ、この村は慶覚坊殿が開拓したんです。初めて来た時は、聞く耳など持たんという有り様だったそうです。慶覚坊殿が苦労したお陰で、今では、すっかり村をあげて門徒になってくれました」

「ほう。あいつがのう」

 風眼坊には信じられなかった。あの慶覚坊が、さっきの老僧のように皆を集めて説教をしている姿など想像もできなかった。二十年の歳月は人を随分と変えるものだと思った。

「それで、これから、どこに行くんじゃ」と風眼坊は聞いた。

「さあ」と慶聞坊は首を振った。

 風眼坊は信証坊に聞いた。

「この先じゃ」と信証坊は前を見つめながら言った。

「この先にも門徒の村があるのか」

「いや、ここから先はまだ行った事がない。おぬし、悪いが道案内をしてくれんかのう。こんな山の中で会ったのも、きっと阿弥陀如来様のお導きじゃ。頼むわ」

「そんな事は構わんが、ひどい道じゃぞ」

「大丈夫じゃ。年は取っておるが足だけは達者じゃ」と老僧は笑った。
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