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陰流の開祖であり、忍びの術の開祖でもある愛洲移香斎の物語です。
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29.ほととぎす1



 蒸し暑い夕暮れだった。

 太郎は飯道山に来ていた。阿星(アボシ)山と金勝(コンゼ)山との間の例の岩の上に座って、内藤孫次郎を待っていた。今度こそ、百日行、満願(マンガン)の日だった。

 丁度、関東では、太田備中守が五十子の長尾伊玄(イゲン、景春)と戦うために、梅沢に向かっている頃だった。

 孫次郎は力強い足取りで、晴れ晴れとした顔をして太郎の前に現れた。

「師匠、お久し振りです」と孫次郎は頭を下げた。

「よくやった」と言うと太郎は岩の上から消えて、孫次郎の前に現れた。

「百八十六日か」

「はい」と孫次郎は照れ臭そうに笑った。

「辛かっただろう」

「はい。色々な幻が現れました。何度、やめてしまおうと思ったかしれません」

「そうか」と太郎は満足そうに頷いた。「よく、やり遂げた」

 太郎は孫次郎を高林坊のもとに連れて行き、正式に飯道山の山伏とした。

 孫次郎の新しい名前は次郎坊頼山(ライザン)となった。次郎坊はそのまま剣術組に入り、今年一杯、修行に励む事となった。太郎は次郎坊に、この山では自分の正体は絶対に言ってはならんと口止めした。

 その日の晩、高林坊、栄意坊たちと飲むと、次の日、播磨に帰って行った。高林坊から、三月に駿河から風眼坊が、加賀から観智坊が来て、太郎の教え子たちを十人づつ連れて行った事を聞いた。太郎は風眼坊が播磨に来て、陰の術を身に付けて行った事を告げた。ようやく、風眼坊も駿河に腰を落ち着けて、何かを始めたとみえると高林坊は羨ましそうに言った。そのうち、光一郎を駿河まで行かせて師匠の様子の調べようと太郎は思った。

 次郎坊は剣術組に入って修行に励んだ。播磨にて修行を積んでいたため、腕には自信を持っていたが、飯道山では次郎坊の腕も通用しなかった。次郎坊より強い者は何人もいた。次郎坊が太郎坊の弟子で、百日行を成し遂げたという事は山中の者、誰もが知っていた。次郎坊は太郎坊の弟子という名を汚さないためにも、必死に頑張らなくてはならなかった。太郎坊が志能便の術を教えに来る十一月の末までに、誰よりも強くならなければならないと思い、夜遅くまで一人で修行に励んでいた。

 やがて、次郎坊にも仲間ができた。中でも支那弥三郎(シナヤサブロウ)という男とは気が合った。弥三郎の父親は幕府の奉公衆(ホウコウシュウ)の一人で、弥三郎も飯道山の修行が終わったら幕府に仕えるのだと言う。次郎坊は弥三郎から、その話を聞いた時、そんな偉い武士の伜もこんな山の中で修行しているのかと驚いたが、弥三郎はそんな偉ぶった所はなく、次郎坊と一緒に夜遅くまで修行に励んでいた。

 相変わらず、夢庵もよく遊びに来ていた。夢庵は太郎から、孫次郎の事を時々、見てくれと頼まれていたので、飯道山に来ると必ず、次郎坊に声を掛けて来た。初め、孫次郎は夢庵に声を掛けられて戸惑っていたが、夢庵がこの山では有名人で、しかも、太郎坊の弟子でもあると聞いて、夢庵に対して師匠のような態度で付き合う事にした。いつもふざけた格好をして現れたが、さすがに、太郎坊の弟子だけあって武術の腕は確かだった。師範たちに聞くと、誰も夢庵の本当の実力は分からないと言う。もしかしたら、わしらより強いかもしれんと言う者もいた。

 夢庵が連歌師、宗祇(ソウギ)の弟子だという事を聞くと弥三郎の目の色が変わった。次郎坊は連歌など、今まで縁がなかったので何とも思わなかったが、弥三郎は連歌の事を多少知っているらしく、宗祇という名前をまるで神様のように思っているようだった。弥三郎はやたらと、夢庵から連歌の事を聞いていた。ついには自分も宗祇の弟子になりたいとまで言い出した。

 夢庵は笑いながら、「一年間は剣術に専念する事だ。連歌師に旅は付き物じゃ。旅に出れば命を狙われる事も何度もあるじゃろう。まず、自分の身も守れんような奴は弟子にはして貰えんぞ」と言った。

 弥三郎は夢庵の言う事を真剣に聞き、宗祇の弟子になるために、もっと強くならなければと決心して、次郎坊を誘い夜遅くまで修行に励んだ。

宗祇の弟子となった夢庵は、最近、宗祇より『伊勢物語』の講義を受けていた。

 宗祇は夢庵を相手に、今まで自分が独学したものを、講義という形で表現しようとしていた。夢庵にただ教えているだけでなく、自分の頭の中を整理しているのだった。去年は『古今集(コキンシュウ)』の講義をした。去年はまだ、夢庵は弟子ではなかったが、飛鳥井雅親(アスカイマサチカ)の兄弟弟子という事で、宗祇は夢庵に頼んで講義を聞いてもらった。その時も、自分が身に付けたものを自分なりに整理していたのだった。

 その時の講義をまとめて、夢庵が書いたのが『弄花抄(ロウカショウ)』だった。この『弄花抄』が、宗祇に認められて、晴れて夢庵は弟子になれた。四年後、夢庵はもう一度、宗祇より古今集の講義を半年間に掛けて受ける。これが、宗祇による『古今伝授(コキンデンジュ)』の第一号だった。

 宗祇は近江の国に生まれ、幼い頃より相国寺(ショウコクジ)に入って禅の修行を積んだ。

 三十歳の頃より連歌に興味を持ち始め、心敬(シンケイ)、専順(センジュン)らに連歌の指導を受けた。さらに、一条兼良(カネラ)、飛鳥井雅親らに和歌と古典を学び、吉田兼倶(カネトモ)から神道(シントウ)も学んだ。

 当時、連歌師として特に有名だったのは、後に、宗祇によって七賢(シチケン)と呼ばれた、蜷川智蘊(ニナガワチウン)、高山宗砌(ソウゼイ)、能阿弥(ノウアミ)、惣持坊行助(ソウジボウギョウジョ)、連海坊心敬(レンカイボウシンケイ)、春楊坊専順(シュンヨウボウセンジュン)、杉原伊賀守の七人がいた。

 蜷川智蘊は一休禅師との交流もあり、幕府の政所代(マンドコロダイ)を務めていた。智蘊は宗祇が二十八歳の時に亡くなってしまったため、直接の指導を受ける事はできなかった。

 高山宗砌は元山名家の家臣で、後に出家して、和歌を清厳正徹(セイガンショウテツ)に学び、連歌を朝山梵燈(ボントウ)に学び、幕府より北野天満宮連歌会所(カイショ)の奉行職(ブギョウシキ)に任命されていた。奉行職は宗匠(ソウショウ)とも呼ばれ、連歌会における最高の地位だった。宗祇も宗砌を最も尊敬していたが、宗砌は宗祇が三十四歳の時、但馬に帰ってしまい、翌年には亡くなってしまった。直接、指導を受ける事はできなかった。

 能阿弥は将軍の同朋衆(ドウボウシュウ)の一人で、多芸に秀でた人だった。元、朝倉家の家臣で、絵師でもあり、茶人でもあり、連歌師でもあった。宗砌の後を継いで連歌会所の宗匠になったのが能阿弥だった。能阿弥は将軍の同朋衆だったため、宗祇は会う事はできなかった。

 惣持坊行助も山名家の家臣だった。宗砌の弟子で比叡山の僧侶だった。行助は細川勝元の師範として仕えていたので、連歌会では同席した事はあっても、直接に指導を受ける事はできなかった。

 連海坊心敬は宗砌と同じく、清厳正徹に和歌と連歌を学んだが、二人の作風はまったく異なっていた。宗砌の連歌が華麗で技巧的であるのに対して、心敬の連歌は情緒(ジョウチョ)的で禅にも通じる『佗(ワ)び』の境地を好んでいた。三十代の頃の宗祇には、まだ、心敬の良さが分からなかった。

 春楊坊専順は宗祇の直接の師匠だった。専順は宗砌の弟子であり、宗祇は専順より宗砌流の連歌を学んだ。また、専順は連歌師だけでなく、立花(タテバナ)の師範でもあった。後に立花を大成した池坊専応(イケノボウセンオウ)は専順の孫弟子である。

 杉原伊賀守は幕府の奉公衆の一人であり、後に出家して宗伊と号した。宗伊(ソウイ)と号した後、宗祇と度々、連歌会を催したが、三十代の頃はまだ、二人共、相手の存在を知らなかった。

 専順に師事した宗祇の名が、連歌師として徐々に広まって行ったのは、四十歳を過ぎた頃からだった。

 応仁の乱の始まる前は、師の専順らと共に管領の細川勝元のもとにも出入りし、行助、心敬らと共に連歌会を催していた。

 文正元年(一四六六)の五月、宗祇は関東に下った。すでに関東に下向していた東下野守常縁(トウシモツケノカミツネヨリ)より『古今集』の講義を受けるためだった。宗祇は連歌の道を極めるには、やはり『古今集』を徹底的に身に付けなければならないと感じていた。飛鳥井雅親や一条兼良から、古今集を学ぶなら東下野守をおいて他にないと言われ、迷わず関東に向かったのだった。下野守は清巌正徹に師事して『古今集』の奥義を極め、古今集に関して右に出る者はいないと言われていた。

 関東に行く途中、宗祇は駿河の今川義忠に歓迎された。駿河に来たのは二度目だった。その時、十九歳だった安次郎に再会したのだった。宗祇は真っすぐに東下野守のいる下総の国に向かったが、下野守は本家である千葉家の争いを静めるために戦の最中だった。とても、古今集の講義を受けられる状況ではなかった。事が治まるまで関東の地を旅しながら待とうと思った。

 宗祇は五十子(イカッコ)の陣にも招待されて、長尾尾張守忠景(オワリノカミタダカゲ)や長尾左衛門尉景信(サエモンノジョウカゲノブ)、四郎右衛門尉景春(カゲハル、伊玄)父子らに連歌の指導をしている。尾張守には『藻塩草(モシオグサ)』と名付けた指南書を送り、四郎右衛門尉には『角田川(スミダガワ)』と名付けた指南書を送っている。後に『藻塩草』は『長六文(チョウロクブミ)』と呼ばれ、関東の武士たちの間に広まった。長六文の長六とは、尾張守の通称、長尾孫六郎を縮めたものであった。その時、当然、太田道真、備中守父子も宗祇から指導を受けていた。河越城や江戸城にも赴き、備中守父子の歓迎を受け、連歌会も度々行なった。さらに、宗祇は日光を通って白河までも足を伸ばし『白河紀行』を著した。白河からの帰り、下総の東下野守を訪ねると、下野守はすでに京に帰ってしまっていた。宗祇はすぐに帰ろうとしたが、すでに年の暮れ、正月に連歌会を開くから、是非、もう少し滞在してくれと備中守に頼まれ、宗祇は留まる事にした。

 正月を江戸城で過ごした宗祇は京に戻ったが、京の都は応仁の乱で焼かれ、昔の面影はまったくなかった。かつての知人たちも皆、京から逃げてしまい、どこにいるやら分からなかった。目当ての東下野守もどこにいるのか分からない。宗祇はまた関東の地に戻った。備中守や鈴木道胤らの世話になりながら、連歌の指南書を執筆して、武将たちの招待を受けては連歌会を催していた。やがて、心敬も京の戦を避けて江戸城にやって来た。

 お互いに再会を喜び、宗祇は改めて心敬の指導を受けた。その時、宗祇は心敬から連歌の深さを学んだ。ただ、古歌を真似て表面的に綺麗にまとまった技巧的な歌を詠むのではなく、禅に通じる『佗び、寂び』の境地を表現しなければならないという事を学んだ。心敬は『古今集』『新古今集』を学ぶのは最も大事な事だが、『源氏物語』『伊勢物語』も学ばなければならないと言った。心敬は『源氏物語』にも詳しかった。

 翌年の正月には道真の河越の屋敷において、心敬、宗祇、その他、連歌好きの武将たちによって、千句の連歌会が開かれた。その後、宗祇は越後の上杉左馬助定昌(サマノスケサダマサ)の滞在していた白井(シロイ)城、大胡(オオゴ)新左衛門の大胡城、岩松治部大輔(イワマツジブノタイフ)の金山(カナヤマ)城を訪ねた。どこに行っても歓迎され、江戸に帰って来たのは、その年の秋の終わり頃だった。

 江戸城に帰り、備中守から東下野守常縁の居場所を聞いた宗祇は、さっそく石浜城(荒川区)に向かった。下野守は本拠地の美濃(ミノ)の国、山田庄(岐阜県郡上郡)を美濃の守護代、斎藤妙椿(ミョウチン)に奪われたと聞いて、慌てて美濃に帰ったが、無事に取り戻す事ができ、また関東に戻って来ていた。

 石浜城は江戸城と目と鼻の先にあった。宗祇はようやく下野守に会えると喜んで出掛け、下野守も宗祇を歓迎してくれた。しかし、古今集の事は、今はそれどころではないと断られた。甲冑に身を固めた下野守の姿はすでに歌人ではなく、武人だった。宗祇は諦めざるを得ず、江戸城に帰った。

 下野守に断られた宗祇は京に帰ろうとも思ったが、京の戦はまだ続いていると言う。京に帰っても住む所さえなかった。宗祇は備中守に言われるまま江戸城に世話になる事にした。ただで世話になるわけにもいかないので、宗祇は連歌論書『吾妻問答(アヅマモンドウ)』を執筆した。

 翌年の三月の事だった。突然、伊豆の国の三島にいるという東下野守より知らせが届いた。これから美濃の国に帰るが一緒に来ないかと言う。宗祇はすぐに旅支度をすると三島に向かった。三島では戦があったばかりだった。古河公方(コガクボウ)の軍勢が堀越公方(ホリゴエクボウ)を襲撃したのだった。下野守は堀越公方を助けるため、千葉介実胤(チバノスケサネタネ)、中務少輔自胤(ナカツカサショウユウヨリタネ)兄弟と共に出陣していた。

 宗祇は三島の陣にて下野守と会った。古河公方は下野、下総の軍勢を以て、堀越公方を急襲したが失敗に終わり、数多くの兵を失い、逃げて行ったと言う。下野守は、わしはもう年じゃ、ここらがいい潮時じゃろう。後の事は備中守に任せて国に帰ると言った。

 宗祇は三島神社にて連歌千句を独吟(ドクギン)し、下野守と共に美濃の国に向かった。

 美濃の国、山田庄の篠脇(ササワキ)城にて、宗祇はやっと念願の古今集の講義を受ける事ができた。文明三年(一四七一年)の事だった。宗祇が下野守を頼って関東に下向してから五年の歳月が流れていた。宗祇は二年余りの間、下野守のもとに滞在して、古今集を中心に和歌の奥義を学んだ。滞在中にも美濃の国に避難していた師の専順らと『美濃千句』を催したり、『宗祇初心集』を執筆したり、遠江や奈良などに赴いて連歌会を開いたりと活動していた。そして、文明五年の秋、近江甲賀の飛鳥井雅親の屋敷内に種玉庵(シュギョクアン)を営んで、古典の研究に没頭し始めたのだった。

 文明六年、七年と、ほとんど種玉庵に籠もりっ切りで研究を続けた。夢庵が訪ねて来たのは文明七年の十月だった。文明八年になると、宗祇が動かなくても世間の方が黙っていなかった。正月早々、将軍家から招待を受け、四月には畠山左衛門督政長(サエモンノカミマサナガ)から招待され、出掛ける機会も多くなってはいても、まだ、研究は続けていた。

 今年になって『伊勢物語』や『源氏物語』の研究を始めたが、そろそろ動き出す時期が近いと、夢庵は感じていた。

 連歌会の中心となっていた宗砌(ソウゼイ)はもういない。宗砌の後を継いだ能阿弥も三年前に亡くなってしまった。幸いに北野天満宮は戦災を免れたが、連歌会所の奉行職には今、誰も就いていなかった。夢庵の師でもあった心敬も二年前に相模の国の大山(オオヤマ)で亡くなったという。専順も美濃の地において、去年、亡くなった。残るは宗祇だけだった。京の戦もそろそろ終わるだろう。戦が終わった時、それは宗祇の活躍の始まりに違いない。連歌会所の奉行職に就く者も宗祇をおいては他にいないだろう。宗祇が動き出すのも、もう間近だと夢庵は思っていた。

 伊勢物語の講義の後、夢庵は四畳半の茶室に戻ると横になった。

 梅雨に入って、毎日、雨が降っていた。去年の梅雨時は智羅天の岩屋に籠もっていた。真っ暗な岩屋の中で剣術と陰の術に熱中していた。あの岩屋は湿気が少なく快適だった。今年も梅雨の間はあそこで過ごしたいが、そうも行かない。弟子となった今は勝手な事はできなかった。毎日、宗祇に付き合って『伊勢物語』を聞かなければならない。伊勢物語を聞く事は嫌ではなかったが、このじめじめとした蒸し暑さが溜まらなかった。

 雨の中、どこかで、ほととぎすが鳴いていた。

 夢庵は西行法師の歌を思い出して、節回しを付けて口ずさんだ。

  〽五月雨(サミダレ)の~
       晴間も見えぬ雲路(クモジ)より~
           山ほととぎす鳴きて過ぐなり~




 雨の降る中、加賀の国でも、ほととぎすは鳴いていた。

 ほととぎすの鳴き声を聞いていたのは観智坊露香(カンチボウロコウ)だった。まだ、木の香りのする新しい道場の縁側から空を見上げていた。

 道場は湯涌谷(ユワクダニ)の山奥にあった。ここは本願寺の道場でもあり、武術道場でもあった。

 三月の半ば、飯道山に行って、若い者十人を連れて来た観智坊は彼らと共に山の中を切り開き、道場を作り始めた。梅雨の始まる前に何とか完成して、今、洲崎(スノザキ)十郎左衛門と十人の陰の衆は、武術の素質のある若者を捜しに各地に飛んでいる。目標としては一人が十人づつ連れて来て、百人前後に武術を教えるつもりだった。毎年、百人前後を教えて行けば、五年後には五百人となる。五百人いれば加賀中にばらまく事ができるだろうと思っていた。

 観智坊が十郎と弥兵を連れて、加賀に戻って来たのは二月の事だった。

 三人共、旅の商人に扮していた。山伏姿のままだと騒ぎになる可能性があった。つまらぬ騒ぎは起こしたくなかった。

 越前を抜けた一行は加賀との国境にある吉崎を偵察した。近江から来た門徒に扮して、吉崎にお参りをしながら、それとなく様子を窺った。蓮如はいなくなったが、相変わらず、賑やかに栄えていたので観智坊は安心した。門前町にある商人たちの泊まる木賃宿(キチンヤド)に滞在して、町の噂やらを聞くと、今、吉崎御坊にいるのは本覚寺(ホンガクジ)の蓮光と超勝寺(チョウショウジ)の三兄弟、浄徳寺慶恵(ジョウトクジキョウエ)、定地坊巧遵(ジョウチボウギョウジュン)、善福寺順慶(ゼンプクジジュンキョウ)だという。この四人が中心になって何もかも決めているようだった。観智坊が破門になる前、本覚寺と超勝寺は仲が悪かった。本覚寺は蓮崇(レンソウ)派として超勝寺と対立していた。ところが、蓮崇がいなくなると手を結んで、仲よくやっているようだった。

 観智坊は昔、住んでいた多屋(タヤ)に行ってみた。下間玄永(シモツマゲンエイ)が守ってくれていると思っていたが、多屋は無残に焼け落ちて、放置されたままになっていた。観智坊はたまたま通り掛かった坊主に聞いてみた。

 坊主の話によると、昔、ここに蓮崇という悪僧が住んでいたが破門となり、多屋は破壊されたと言う。誰がそんな事をしたのか、と聞くと、分からんが、多分、ばちが当たったのだろう。かなり、溜め込んでいたらしいが、皆、略奪された。その後、定地坊がこの地に多屋を建てようとしたが、完成間近という時に火事となって燃え落ちてしまった。皆、蓮崇の霊の祟(タタ)りだと恐れて、その後は放置されたままだと言う。

 坊主が去ると観智坊は焼け跡の中に入ってみた。坊主の言った通り、焼け落ちている建物は観智坊が住んでいた多屋とは違った。多屋の向こう側にある四つの蔵は破壊されてはいたが、焼け落ちてはいなかった。

 観智坊は蔵の中を覗(ノゾ)いてみた。野良猫が飛び出して来ただけで中には何もなかった。四つ目の蔵、かつて、観智坊たちが密談をしていた蔵も蜘蛛(クモ)の巣だらけだったが、そのままだった。定地坊はこれらの蔵を修理して、そのまま使うつもりだったらしい。観智坊は密談に使っていた蔵の板の間に上がると、一人ニヤっと笑った。

 観智坊たちは吉崎を離れると山田光教寺、波佐谷松岡寺(ハサダニショウコウジ)の門前町に寄った。どちらも主人がいなくなって、どことなく淋しい感じがした。

 軽海(カルミ)の守護所の城下にも寄った。城下町は以前よりずっと賑やかだった。本願寺の坊主らしい者も、かなり出入りしているようだった。

 軽海から北上して手取川を渡り、野々市(ノノイチ)の守護所にも寄った。守護所はそのまま野々市にあったが、富樫次郎政親(マサチカ)は高尾山(タコウサン)のふもとに新しく完成した屋敷に移っていた。守護所から、その屋敷の間には広い道が通り、道の両脇には新しく屋敷や蔵を建設していた。新しい城下町を作っているようだった。

 観智坊は加賀の国を旅して見て回り、一年半前に、この国において大戦(オオイクサ)があったとは思えない程、静かになってしまったと感じていた。あの時の門徒たちは一体、どこに行ってしまったのだろうか、不思議でたまらなかった。時期的に冬が終わったばかりで、皆、状況を見守っているだけなのだろうか。

 蓮台寺(レンダイジ)城に押し寄せ、富樫幸千代(コウチヨ)を実力を以て倒した門徒たちは、一体、どこに行ってしまったのだろうか。

 自分たちの力で新しい国を作ろうとしていた門徒たちは、あの時の事は夢だったと諦め、また、以前の貧しくて苦しい生活に戻ってしまったのだろうか。

 観智坊は信じられない面(オモ)持ちで湯涌谷に向かった。

 二俣の本泉寺にいる家族のもとに顔を出そうと思ったが、今の観智坊には住む所もない。新しい道場ができてから呼ぼうと思い、会いたかったが会いには行かなかった。

 湯涌谷に着いた観智坊は自分の屋敷に今、誰が住んでいるのか覗きに行った。観智坊はそこに住むつもりはなかった。誰が住んでいようと構わなかったが、気になったので行ってみた。驚いた事に、あの立派な屋敷は消えていた。屋敷のあった所に小さな道場が建ち、あとは広場になっていて子供たちが遊んでいた。

 どうしたのだろうと子供と一緒にいた娘に聞いてみた。やはり、ここの屋敷も蓮崇が破門になった際に破壊されたのだと言う。ここの屋敷までも破壊されたと聞いて、観智坊は改めて、蓮崇の評判が悪い事を思い知らされていた。

 観智坊は弥兵を家に帰すと、十郎と共に石黒孫左衛門の屋敷に向かった。

 観智坊は慶覚坊から預かっていた書状を見せた。孫左衛門は十郎の事を知っている。十郎が慶覚坊の門徒を一人連れて、何か重要な事を知らせにやって来たものと思った。書状を受け取って静かに読み始めたが、急に顔を上げると観智坊の顔をじっと見つめた。

「信じられん事じゃ」と孫左衛門は呟(ツブヤ)いた。

 孫左衛門は書状を最後まで読むと、「まことか」と聞いた。

 観智坊は頷き、十郎は、「まことです」と答えた。

「信じられん」と孫左衛門はもう一度言って、観智坊の顔を見つめた。「観智坊殿と申すのか」

 観智坊は頷き、「戻って参りました」と力強く言った。

「そうか‥‥‥戻って来てくれたか」と孫左衛門は大きく頷いた。「裏の組織を作ると書いてあったが」

「はい。それを作り、門徒たちを一つにまとめるつもりです」

「そうか‥‥‥今、門徒たちはバラバラじゃ。皆、好き勝手な事をしておる。このままでは木目谷を取り戻す事などできんじゃろう」

「わたしは加賀の国をずっと旅して参りました。門徒たちはすっかり影を潜めてしまったかのようでした」

「確かにのう。上人様がおられなくなり、そして、本泉寺、松岡寺、光教寺から御子息たちがおられなくなって、門徒たちは本尊(ホンゾン)様を失ってしまったんじゃ。蓮崇殿は極悪人となり、慶覚坊(キョウガクボウ)殿や慶聞坊(キョウモンボウ)殿までもが加賀から去って行った。本尊を無くしたばかりでなく、門徒たちを一つにまとめる指導者までも失ってしまった。門徒たちは上人様に見捨てられてしまったと諦めてしまった者が多いんじゃよ。上人様がいなくなったら、もう勝ち目はないと諦めてしまったんじゃ‥‥‥以前、吉崎を中心に一つにまとまっていたが、今、吉崎は中心ではないんじゃ。吉崎には本覚寺の蓮光殿が留守職(ルスシキ)として入っておられるが、蓮光殿は加賀の事情を詳しくは知らんのじゃ。留守職という権力の座に座って、各道場に対して無理難題ばかり押し付けて来る。まるで、加賀の守護にでもなったつもりでおる。国人たちの反発を買って、十一月に報恩講を行なっても国人門徒たちは一人も出席せんわ。各自で勝手に報恩講をやっておる有り様じゃ。国人門徒たちに見放された蓮光殿は超勝寺と組んで、南守護代の山川三河守(ヤマゴウミカワノカミ)に近付いている模様じゃ。門徒たちも憂(ウ)さ晴らしのため、道場に集まっては飲み食いしたりして騒いでおるようじゃ。上人様が見たら嘆かれるじゃろうが、これが今の加賀の状況じゃ」

「そうでしたか‥‥‥そんな有り様だったのですか‥‥‥しかし、国人門徒たちはお互いに連絡を取り合っておるのでしょう」

「いや、それもうまく行ってはおらん。今、わしらは見張られておるんじゃよ。連絡を取り合おうとしても難しいんじゃ。奴らは門徒たちを虫けらのように平気で殺してしまう。わしらも、奴らの手下を見つければ捕まえて殺す事もあるが、奴らの方が上手じゃ。次から次へと新手が現れて、わしらの命まで狙っておるんじゃ」

「石黒殿も狙われておるのですか」

「ああ。わしだけではない。本願寺の有力門徒は皆、狙われておるんじゃ。幸いにまだ、殺された者はおらんがのう」

 孫左衛門はどうしようもないと言った顔をして首を振った。

 状況は観智坊が思っていた以上に悪いようだった。庭の方を見ていた観智坊は孫左衛門に視線を戻すと、「高橋殿は相変わらず、瑞泉寺(ズイセンジ)の避難所におられるのですか」と聞いた。

「ああ。高橋殿はあそこで、蓮崇殿、いや、観智坊殿じゃったな。観智坊殿が提案した裏の組織作りをやっておる。やってはおるが、野々市の様子を探る程度で、道場と道場をつなげるまではできんらしい」

「そうですか‥‥‥」

「観智坊殿、そなたが戻ってくれたのは心強いわ。是非とも裏の組織を作って、門徒たちを一つにまとめてくれ。わしのできる事なら何でも力になるわ。あっ、それにのう、蓮崇殿の屋敷じゃが無くなってしまわれたんじゃ」

「はい。見て来ました」

「そうか、見て来たのか‥‥‥蓮崇殿が破門になった後、善福寺の門徒たちが襲って来て破壊して行ったんじゃ。門徒たちが動いたのは善福寺の順慶殿の指図に違いないが、門徒たちは純粋に蓮崇殿が上人様を裏切ったものと信じておったんじゃ。わしらには止める事はできなかった」

「いいんです。わしはもう蓮崇ではありません。初めから、あの屋敷に住むつもりはありませんでした」

「そうか‥‥‥済まん事をした‥‥‥」

 観智坊は湯涌谷から越中の瑞泉寺に行き、避難所にいる高橋新左衛門と会った。孫左衛門の言っていたように、新左衛門は裏の組織作りを続けていたが、新左衛門自身が自由に動けないため、各道場をつなげる程の大々的な組織を作る事はできなかった。守護所である軽海と野々市には見張りを入れてはいても、思うように敵の動きまでは探る事ができないと言う。新左衛門自身も本拠地の木目谷に戻る事を半ば諦めているようだった。そんな時、蓮崇が山伏となって現れたため、夢のようだ、まさしく、如来様のお陰だと大袈裟に喜んでくれた。

 観智坊と新左衛門は今後の事を話し合った。

 観智坊は避難民たちに、飯道山でならった弓矢の矢の作り方を教えた。材料である篠竹(シノダケ)は近くの山田川にいくらでもあった。矢羽根は鷲(ワシ)、鷹(タカ)、鶴、鷺(サギ)らの羽根を使うが、避難している門徒たちの中には狩人もおり、羽根を集める事も問題ない。後は、鏃(ヤジリ)を瑞泉寺の鍛冶屋(カジヤ)に頼めば何とかなった。矢を作って本願寺に収めれば、避難民の飯代位にはなるだろう。片身の狭い思いをしなくても済むと新左衛門は喜んでくれた。

 観智坊は十郎と一緒に新しい道場を建てるべき場所を捜した。裏の組織の中心となるべき道場なので、山の中の隠れた所でなくてはならず、しかも、様々な情報を仕入れるためには、あまり山奥でも具合が悪い。野々市か軽海の近くにしようとも思ったが、観智坊の名では、知らない土地に行っても自由が利かないと思い、とりあえずは湯涌谷の奥を本拠地にする事と決めた。本拠地が決まった所で、観智坊は十郎を連れて飯道山に向かったのだったが、その前にやるべき事があった。

 観智坊は十郎を連れて吉崎に向かった。

 商人の姿のまま木賃宿に入った二人は暗くなるのを待って活動を始めた。播磨に行った時、太郎より貰った藍(アイ)色の忍び装束(ショウゾク)を身に着け、蓮崇の多屋跡に向かった。

 吉崎御坊は総門を堅く閉ざし、厳重に警固されていたが、潜入するのに大して苦労はしなかった。二人とも、ここの事は隅から隅まで知っている。弱点がどこにあるのか心得ていた。無事に多屋跡に着いた二人は、かつて、密談に使われた蔵に向かった。蔵の中に入って、板の間の板をはがすと甕(カメ)が幾つも埋まっていた。甕にかぶされた莚(ムシロ)を剥がすと、驚いた事に、中には銭や銀の粒、砂金の詰まった袋などが詰まっていた。

「凄い!」と思わず十郎は声を出した。「一体、これはどうしたのです」

「この前の戦の戦利品じゃ。ほとんど武器を購入する時に使ったが、まだ残っておったんじゃ。今度、また戦になった時に使おうと思って隠しておいたんじゃよ」

「凄いですね」

「ああ、高田派の奴らは随分と溜め込んでおったもんじゃ」

「ここに隠してある事は誰も知らないのですか」

「誰も知らん。ここを出る時、玄永殿に教えようかとも思った。しかし、やめたんじゃ。こんな銭を見たら門徒たちが戦を始めるかもしれんと思ったんじゃ。わしは放っておく事にした。誰かが見つければ、それでもいいし、見つからなければ、それもまたいいと思っていたんじゃ。まさか、自分でこうやって盗み出す事になるとは思ってもいなかったわ」

「盗み出すだなんて」

「これだけあれば、当分の軍資金になるじゃろう」

「これ、全部、持って行くんですか」

「いや、銭はいい。銀と砂金だけで充分じゃろう」

 観智坊と十郎は軍資金を担いで、板の間を元に戻すと蔵から抜け出し、木賃宿に戻った。大成功だった。これだけの資金があれば当分の間は何とかなる。一旦、湯涌谷に戻って金銀を隠すと、二人は飯道山に向かったのだった。

 観智坊は縁側から雨空を眺めながら、百人もの修行者を集めるのはいいが、奴らをどうやって食わして行こうか考えていた。吉崎から持って来た金銀はあっても、百人もの食い扶持に当てたら、半年もしたら無くなってしまう。吉崎に残っている銭を全部運んだとしても一年は持たないだろう。奴らを食わして行くには、奴らに何かをやらせなければならない。修行が終わった後は、薬を売り歩かせるつもりだったが、修行中にやらせるわけには行かない。勿論、薬は作らせるつもりだが、それで銭が得られるとは思えない。薬を扱う商人に知り合いでもいれば引き取ってくれるだろうが、そんな知り合いもない。

 どうしたらいいものだろうか。

 観智坊は一人で悩んでいたが、そんな悩みはすぐに解決された。湯涌谷の頭、石黒孫左衛門がたっぶりと食糧を運び込んで来た。湯涌谷にこんなにも食糧が余っていたのかと不思議に思って聞いてみると、山之内衆と手取川の安吉(ヤスヨシ)源左衛門から贈られて来たのだと言う。

「しかし、見張られていて連絡が取れないのではなかったのですか」と観智坊は聞いた。

「陸路は奴らの天下じゃが、海と川はわしらの天下じゃ。奴らは船というものを持っておらんからのう。この米は手取川を下って海を渡り、浅野川を上って来たんじゃ。これだけあれば、当分、持つじゃろう。足らなくなったら、いつでも言えば送るそうじゃ」

「そうですか‥‥‥ありがたい事です。もしや、わたしの事もばらしたのですか」

「いや、上人様が裏の組織を作るために派遣した近江の山伏が来たと言っただけじゃ。山伏なら裏の組織を作るのにふさわしいじゃろうと、こうして食糧を送って来たというわけじゃ。観智坊殿、食う事の心配はいらん。門徒たちが付いておる。その門徒たちのために立派な組織を作ってくれ」

「分かりました。皆さんの好意を決して無駄にはいたしません」

 観智坊は山に積まれた米や麦の俵(タワラ)、野菜などを眺めながら遠くで鳴いている、ほととぎすの声を聞いていた。
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