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陰流の開祖であり、忍びの術の開祖でもある愛洲移香斎の物語です。
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9.笛の音2






 六月の二十五日、毎月恒例の吉崎の講が行なわれた。

 朝早くから吉崎の門前町は祭りさながらの賑やかさだった。

 数多くある多屋及び宿屋は、すべて門徒で埋まっていた。

 蓮崇の多屋の客間にいた風眼坊も追い出され、蓮崇の家の方に移された。家の方の広間にも門徒たちが雑魚寝(ザコネ)していた。さらに、多屋に収まり切れなかった者たちは吉崎の総門の外に溢れ、あちこちに固まっては一心に念仏を唱えていた。

 風眼坊は、その門徒の数に、ただ驚くばかりだった。

 その日は、朝早くから夜遅くまで吉崎の地に念仏が絶える事がなかった。

 風眼坊は久し振りに髷(マゲ)を結い、蓮崇から借りた着物を着て、町人姿になって賑わう町中を歩いていた。蓮崇から、門徒たちは気が立っているので山伏の姿で出歩くのはまずいと言われ、素直に着替えたのだった。風眼坊も群衆の怖さは知っていた。いくら腕が立っても、これだけの群衆に囲まれたら逃げる事はできない。つまらない事での争い事は避けたかった。

 町中を歩いていると、やはり、高田派門徒に囲まれている松岡寺の事が門徒たちの噂に上っていた。早く助けなければならないと言う意見が圧倒的に多く、今日の講の場で上人様が何と言うかが、みんなの注目となっていた。

 風眼坊は御山の方に足を向けた。

 本坊へと続く坂道の下にある北門は閉ざされていた。

 門の前には門徒たちがずらりと並び、門が開くのを待っていた。

 並んでいる者に、門はいつ開くのか、と聞くと、よく分からないが、あと一時(イットキ、二時間)か二時(四時間)位したら開くだろう、と気の長い事を言った。もっとも、蓮如を一目見るために遠くからはるばるやって来た門徒たちにとって、一時や二時位、何でもないのだろう。

 風眼坊は中に入れて貰おうと、門番に慶覚坊や慶聞坊や蓮崇の名を言ってみたが、門番は門の中には入れてくれなかった。仕方ないので引き返して蓮崇の多屋に戻った。

 蓮崇の多屋も門徒たちで溢れ、内方(ウチカタ)衆(門徒たちの妻や娘)は忙しそうに働いていた。

 蓮崇も慶覚坊も朝早くから出掛けて行っていなかった。

 風眼坊のいるべき所はどこにもなかった。

 風眼坊は蓮崇の多屋には入らず、門前町の外に出た。

 ようやく人込みを抜け、北潟湖のほとりに出ると草の上に腰を降ろし、湖越しに吉崎御坊を眺めた。湖上にも門徒を乗せた舟が行き交っていた。

 風眼坊は吉崎を眺めながら熊野の本宮を思い出していた。熊野も祭礼の日には信者たちで溢れるが、熊野に集まる信者たちと、ここに集まる門徒たちはどこか違っていた。

 風眼坊は草の上に寝そべりながら、どう違うのだろうか、と考えていた。

 一方、本坊では蓮如が朝から休む暇もなく、集まった門徒たちに説教をし続けていた。説教は各多屋ごとに行なわれた。まず、北門と本坊の間の坂道に並ぶ有力坊主の多屋から始め、北門の外にある多屋へと進み、最後に、多屋に収まらなかった門徒たちへの説教となった。四半時(シハントキ、三十分)毎に門徒たちを入れ換えては蓮如は説教をしていた。それでも、日が暮れるまでに、この日、吉崎に集まって来た門徒たち全員に説教をする事はできなかった。

 蓮如の説教は、いつもと変わらなかった。

 敵に囲まれて、いつ、戦になるともしれない松岡寺の事には一言も触れなかった。門徒たちは期待はずれという気持ちを抱きながら、念仏を唱え、蓮如の前から引き下がって行った。

 日も暮れ、ようやく門徒たちの数が減り始めた頃、今、吉崎の地にいる有力坊主たちが蓮如のもとに内密に集められた。

 厳重に警戒された本坊の中の書院の広間に集まったのは、そうそうたる顔触れだった。

 執事(シツジ)の下間頼善(シモツマライゼン)と下間蓮崇。

 多屋衆の法敬坊(ホウキョウボウ)、円広坊、善光坊、本向坊、長光坊、定善坊(ジョウゼンボウ)、法円坊、法覚坊、道顕坊、法実坊、善知坊、そして、慶聞坊。

 長光坊は越前和田の本覚寺蓮光の弟で、定善坊は越前藤島の超勝寺巧遵(ギョウジュン)の弟であり、この二人は、吉崎において、かなり強い勢力を持っていた。

 近江からは堅田の法住の弟、法西が来ていた。法西は松岡寺が敵に囲まれて危ないとの噂を聞いて、心配して駈け付けて来たのだった。法西は慶覚坊の義理の叔父だった。

 加賀江沼郡の有力坊主としては、熊坂の願生坊(ガンショウボウ)、黒瀬藤兵衛、庄四郎五郎、安藤九郎、坂東四郎左衛門、柴山八郎左衛門、篠原太郎兵衛、黒崎源五郎、そして、慶覚坊がいた。

 熊坂願生坊は荻生(オギウ)願成寺(ガンショウジ)の門徒で、熊坂庄に道場を持つ坊主。

 黒瀬藤兵衛は河崎専称寺の門徒で、黒瀬道場の坊主。

 庄四郎五郎は弓波(ユナミ)勝光寺の門徒で、庄道場の坊主。

 安藤九郎も勝光寺門徒で、庄四郎五郎の片腕と言われていた。

 坂東四郎左衛門は九谷道場の坊主。

 柴山八郎左衛門は柴山潟(シバヤマガタ)で活躍する運送業者たちの頭で、本願寺の坊主となってからは柴山潟の漁師までも配下に入れて、勢力を広げていた。

 篠原太郎兵衛は塩浜道場の坊主で、塩焼き衆の頭であった。

 黒崎源五郎は黒崎称名寺の門徒で、橋立道場の坊主。浜方(ハマカタ)衆と呼ばれる漁師たちの親方だった。

 そして、慶覚坊は黒崎と同じように、浜方衆を多く門徒に持つ山田光教寺蓮誓の後見人だった。

 江沼郡の有力坊主は、ほぼ全員が、この場に集まっていた。

 能美(ノミ)郡からは、高田派門徒に攻められて破壊された波倉(ナミクラ)本蓮寺の蓮照(レンショウ)が来ていた。蓮照は腹違いの蓮如の弟である。それと、板津(小松市)に道場を持つ蛭川(ヒルカワ)新七郎が来ていた。

 石川郡からは、善福寺の順慶(ジュンキョウ)と安吉(ヤスヨシ)源左衛門が来ていた。順慶は越前超勝寺巧遵の弟で、藤島定善坊の兄だった。安吉源左衛門は手取川流域にかなり広い領地を持つ国人であるが、一方、手取川の河原者たちの頭でもあり、彼の一声で手取川の運輸は完全に止まり、手取川上流にある白山本宮の息の根を止める事ができる、とまで言われる程、実力を持った男だった。本願寺が武士による支配体制とは違って、百姓だけでなく、河原者や山の民のような職人層を数多く抱えていたのは強みだった。

 河北郡からは、砂子坂(スナコザカ)道場の高坂四郎左衛門が来ていた。

 一同は薄暗い広間の中で、誰一人として口を開く者もなく、蓮如が現れるのをじっと待っていた。

 蓮如はなかなか、出て来なかった。

 重苦しい沈黙が流れていた。

 突然、どこからか、笛の調べが流れて来た。

 広間に集まった者たちは皆、笛の調べに耳を傾けた。誰もが、この吉崎の本坊で、笛の調べを聞くのは初めてだった。一体、誰が吹いているのか、と誰もが思った。

 心を和ませる美しい調べだった。

 笛の調べに聞き惚れている時、蓮如が静かに現れた。

 蓮如は正面に腰を下ろし、集まって来た者たちの顔をゆっくりと見回すと、「御苦労様でした」と言って皆に合掌をした。

 笛を吹いていたのはお雪だった。蓮如に頼まれて吹いていたのだった。

 蓮如は幕府からの奉書を受け取った時、ようやく、覚悟を決めた。

 蓮如も人の親だった。自分の息子が危険な目に会っているのを見捨てておける程、強い心を持ってはいなかった。親としては、すぐにでも蓮綱を助け出せ、と命令を出したかった。しかし、本願寺の法主として、また、宗教者として、それは絶対に口にしてはならない事だった。それを口に出せば、蓮綱を助け出す、という事だけでは収まらなくなってしまう。法主の命令として門徒全員が動きだし、敵をたたき潰すまで止まらなくなってしまうだろう。人の親としては命令を出したいが、法主としては絶対にできない事だった。

 そんな悩みと戦っている時、蓮如のもとに幕府からの奉書が届いた。

 蓮如は、その奉書を逃げ道に選んだ。幕府から言われれば仕方がないという事にして、自分の信念を曲げた。

 親鸞聖人は寺も持たず、弟子も作らず、ただ、教えだけに生きて来た。蓮如も親鸞聖人と同じような生き方をしたかった。しかし、蓮如は本願寺の法主に成るべくして生まれた。誰一人として訪れる事のない寂れた本願寺を経験し、何とか、本願寺を栄えさせようと必死だった。叡山と戦ってまで、自分の信念を曲げず、親鸞聖人の本当の教えを広めて来た。ただ、ひたすら本願寺のために生きて来た。そして、今、本願寺は数多くの門徒を抱え、栄えている。蓮如はせっかく手にした、今の本願寺を失いたくはなかった。今の本願寺といっても寺院とか財産ではない。蓮如が失いたくなかったのは大勢の門徒たちだった。

 親鸞聖人だったら、たとえ、幕府が何と言って来ようと信念を曲げなかったかもしれない。しかし、蓮如は信念を曲げた。

 もし、今、ここで戦を命じなければ、松岡寺は高田派門徒に襲撃される。蓮綱及び松岡寺にいる多くの門徒を見殺しにした蓮如は門徒たちから見放されるだろう。せっかく築いた本願寺が崩壊する事になる。また、もし、今、命じれば、松岡寺は救われるが戦は拡大して大勢の門徒たちが戦の犠牲者となる。

 蓮如にとって、大勢の門徒たちが戦の犠牲者になるのは非常に辛い事だが、本願寺が崩壊するのは、それ以上に辛い事だった。

 蓮如は命令を下す覚悟を決めた。

 覚悟は決めたが、自分の口から門徒たちに戦を命じる事など、なかなかできなかった。いよいよ、それを言わなければならない時が迫って来ても、その一言を言う決心がつかなかった。

 そんな時、ふと、一昨日(オトトイ)の夜、聞いたお雪の笛を思い出して聞きたくなった。お雪の笛を聞いているうちに、なぜか、心が落ち着き、みんなの待つ広間へと行く事ができたのだった。

 この日、文明六年六月二十五日、蓮如は法敵高田派打倒を宣言した。

 蓮如が門徒たちに戦を命じたのは、この日が最初で最後となったが、この日から、一般に『一向一揆』と呼ばれる本願寺門徒による百年間に及ぶ闘争の日々が始まったのであった。

 蓮如の口から『法敵を打倒せよ』との命令を聞いた有力坊主たちの反応は以外にも静かだった。誰もが蓮如の苦悩を知っていた。決して口に出したくない事を口に出さなくてはならない状況に追い込まれてしまった蓮如の苦悩を、誰もが痛い程、分かっていた。

 蓮如が『法敵打倒』を宣言した時も、お雪の吹く笛の調べは静かに流れていた。

 蓮如は再び合掌して『南無阿弥陀仏』と唱えると、静かに広間から出て行った。

 蓮如を見送ると、坊主たちはお互いに顔を見合わせ、一斉に頷き、それぞれの多屋へと戻って行った。すでに、これからの作戦は充分に練られてあった。後は、ただ、その作戦通りに行動を移せばいいだけだった。

 講が終わり、ほとんどの門徒たちが帰り、また、元の客室に戻った風眼坊は、蓮崇の娘が持って来てくれた煮物を肴(サカナ)に一人で酒を飲んでいた。

 風眼坊の所にも、お雪の吹く笛の調べは聞こえていた。

 なかなか風流な奴がいるもんだな、と風眼坊は笛の調べに聞き惚れながら酒を飲んでいた。まさか、その笛を吹いているのが、お雪だとは風眼坊も知らなかった。

 笛の調べも終わり、急に静かになった。夕べの騒々しさが、まるで嘘のような静けさだった。

 嵐の前の静けさか、と風眼坊は思った。

 やがて、蓮崇と慶覚坊、そして、慶聞坊が帰って来た。

 三人とも、やけに静かだった。部屋に上がり込むと、三人はお互いに顔を見合わせて、溜息をついた。

「まともに見ておられんかったわ」と慶覚坊が言った。

「ええ、辛そうでしたね」と慶聞坊が言った。

「声が震えておったのう」と蓮崇は言った。

「そうか‥‥‥蓮如殿も、とうとう、決断なされたか」と風眼坊は三人の顔を見ながら言った。

「風眼坊殿、上人様の事、よろしくお願いします」と慶聞坊が言った。

「いよいよ、慶聞坊殿も動き出すのか」

「はい。松岡寺の蓮綱殿のもとに行きます」

「なに、松岡寺に? 戦の中心地に乗り込むのか」

 慶聞坊は頷いた。

「蓮崇殿はどこに乗り込むんじゃ」と風眼坊は聞いた。

「わしは二俣の本泉寺に行きます」

「ほう。あの勝如尼殿を口説きに行かれるのですな」

 蓮崇は頷いた。「河北郡の門徒に動いて貰わん事には勝ち目はありませんから、何としてでも、勝如尼殿を説得しなければなりません」

「大変なお役目ですな」

「はい。しかし、その前にやる事があります」

「その前に?」

「ええ、ちょっと、一乗谷まで行かなければならないのです」

「一乗谷? 富樫次郎か」

「そうです。上人様は高田派を倒す事しか言いませんでしたが、高田派を倒すという事は、必然的に次郎と組む事になります。手を組むに当たって、色々と取り決めなければならないのです」

「成程な、本願寺の有利になるように事を運ぶわけじゃな」

「そうです。まあ、次郎の方は何とかなるでしょう。やはり、問題は、二俣の勝如尼殿でしょうね」

「色々と、御苦労な事ですな」

「はい‥‥‥実は風眼坊殿、この吉崎御坊を守るために近江から門徒が一千人、来る事になりました。皆、古くからの上人様の門徒たちです。門徒ではない風眼坊殿が、上人様の側にいる事を快く思わない者がおるかもしれませんが、何とぞ、彼らとうまくやって下さい。上人様の身にもしもの事が起きたら、戦に勝ったとしても、どうにもなりませんから」

「分かりました。上人様の側から離れる事になったとしても、陰ながら、上人様の身の上は守ります」

「お願いします。すでに、この吉崎に、上人様の命を狙う者が入り込んでおります。充分に気を付けて下さい」

「なに、すでに、刺客(シカク)が入っておると言うのか」

「ああ、そうじゃ」と慶覚坊が答えた。「昨日ものう、門徒たちに紛れ込んで高田派の奴らが何人かおった」

「ほう。すでに、戦は始まっておるというわけじゃな」

「そういう事じゃ」

「わしの出番がようやく来たというわけじゃな。それじゃあ、さっそく、今からでも上人様の命を守るために仕事に掛かるかのう」

「いや、今晩のところは大丈夫じゃ。各地の坊主たちが交替で守る事になっておるからのう。明日から頼むぞ」

「風眼坊殿、お願いしましたよ」と蓮崇は言うと立ち上がった。

「さて、そろそろ、行くか」と慶覚坊も立った。

「今頃、どこに、行くんじゃ」と風眼坊は聞いた。

「最後の打ち合わせじゃ」と慶覚坊は笑った。

「あそこでか」

「あそこでじゃ」

 三人は出て行った。

 風眼坊は寝そべった。

 蚊がうるさく飛び回っていた。





 翌日、朝早くから坊主たちは皆、戦の準備のために本拠地に帰って行った。

 慶覚坊も慶聞坊も蓮崇も出掛けて行った。

 風眼坊は蓮如に会いに本坊に向かっていた。

 昨日の町人姿のままだった。腰に刀も差していなかった。

 山伏になってからというもの山伏以外の自分など考えられなかったが、仮の姿にしろ、久し振りに町人姿になってみて、ふと、自分から山伏を取ったら何が残るのだろう、という考えが浮かんだ。大峯山に所属する山伏、風眼坊舜香ではなく、ただの風間小太郎に戻った時、一体、自分には何ができるのだろうと思った。幸い、この吉崎の地では、大峯の山伏と言っても通用しなかった。風眼坊はしばらく山伏をやめてみるのもいいかもしれないと思い、こうして町人姿のままでいるのだった。

 北門をくぐって坂道を登り、本坊の山門をくぐろうとして風眼坊は門番に止められた。いつも門番は立っていたが、一々、止められる事はなかった。誰もが自由に行き来していた。ところが、今日は門番に止められ、「何の用か」と問われた。

 風眼坊は、「上人様に会いたい」と言った。

 すると、「どこの門徒だ」と聞いて来た。

 門徒ではない、と言うと、通すわけにはいかんと手に持った棒で行く手を遮った。何を言っても無駄だった。門徒ではないと言った途端、門番は聞く耳を持たなかった。

 昨日までは、『来る者は、拒まず』だった蓮如の方針も、昨夜、蓮如が、『法敵打倒宣言』を行なうと、さっそく門徒たちによって曲げられてしまった。この先、門徒たちは蓮如から、どんどん離れて独走してしまいそうな気がした。

 風眼坊が諦めて、引き返そうとした時、「風眼坊とか、言ったな」と後ろから声を掛けられた。

 風眼坊が振り返ると偉そうな坊主がニヤニヤしながら立っていた。

「慶覚坊の知り合いだったな。一体、おぬしは何者じゃ」

 蓮崇の蔵の中にいた坊主だった。風眼坊が門徒でない事から、蔵の中に入るのを禁じた和田の長光坊という坊主だった。

「わしか、わしは」大峯の山伏じゃ、と言おうとしてやめた。「わしは慶覚坊と古くからの知り合いじゃ」

「それは聞いた。何者じゃと聞いておるんじゃ」

「何者と聞かれてものう」

「この前、会った時は山伏の格好じゃったのう。風眼坊と言う名前からして、山伏に違いあるまい。一体、どこの山伏じゃ」

「あの時は山伏の格好をしておったが、実は、わしは医者じゃ」

「なに、医者?」

「ああ、目医者じゃ。専門は風眼でな。いつの間にか風眼坊と呼ばれるようになったんじゃよ」

「目医者じゃと? 信じられん」

「何なら、そなたの目を診てやろうか」

「いらん。わしの目はどこも悪くはない」

「そうか、そいつは残念じゃ。誰か、目の具合の悪い奴はおらんか」

 門番の一人が真っ赤な目をしていた。風眼坊は診てやった。軽く目を水で洗ってやり、後で薬を持って来てやると言った。長光坊も風眼坊の態度を見て、目医者だという事は信じてくれたようだった。

「上人様ものう。時折、目がかすむとおっしゃるんでな、わしが診てやっておったんじゃが、門徒でないとここに入れないと言うのでは、上人様の目は治せん事になるのう」

 長光坊はうさん臭そうに風眼坊を見ていたが、武器も持っていないようだし、たった一人では何もできまいと思い、「分かった。通れ」と首で指図した。

 風眼坊は門をくぐった。

 うまく行った、と思った。とっさの機転で、目医者と言った事がうまく行った。自分でも、どうして目医者などと言ったのか不思議だったが、山伏を捨てても、自分には医者としての生きる道があるという事に改めて気づき、何となく気分が良かった。

 長光坊は風眼坊の後に付いて来たが、蓮如の妻、如勝が、「あら、風眼坊様」と迎え入れると門の方に帰って行った。

 子供たちの面倒をみていたお雪は風眼坊の姿を見ると、「一体、どうしたんです、その格好は」と目を丸くして聞いた。

「今日は山伏ではなくて、目医者として来たんじゃよ」と風眼坊は笑った。

「目医者? 風眼坊様は目医者様なのですか」

「ここにいる間はのう。山伏だと危険なんでな、目医者でおる事にしたんじゃ。どうやら、ここでの生活も慣れたようじゃのう」

「はい、何とか‥‥‥」

 蓮如の末っ子の六歳になる祐心(ユウシン)という女の子が風眼坊を見上げながら、風眼坊の着物を引っ張っていた。

「可愛いいのう」と言って風眼坊はしゃがんだ。

 お雪と遊んでいたのは祐心と、その上の七歳になる男の子の蓮悟(レンゴ)、そして、その上の八歳になる女の子の了如(リョウニョ)の三人だった。この他に、十一歳になる男の子の蓮淳(レンジュン)と十二歳になる女の子の妙心(ミョウシン)がこの吉崎御坊にいるが、この場にはいなかった。

 風眼坊は三人の可愛いい子供たちを見ながら、「この子らが蓮如殿の子供だとは、とても信じられんのう。どう見ても孫じゃな」と笑った。

「そうですよね。あたしも、お孫さんだと思っておりました」

「可愛いいもんじゃのう」

「風眼坊様は、お子さんはおられるのですか」

「ああ、おる。そなた位のが二人な。一人は今、近江の山で修行をしておって、もう一人はもう嫁に行ったわ」

「そんな大きなお子さんがおられたのですか」

「ああ‥‥‥ところで、蓮如殿は?」

「はい。朝早くから書斎に籠もったままです」

「そうか‥‥‥」

 風眼坊は書斎に行って、閉められた襖(フスマ)越しに声を掛けた。

 返事はなかった。

 二度、三度と声を掛けたが返事はなかった。

 風眼坊は静かに襖を開けてみた。蓮如はいなかった。

 風眼坊は書斎に入ると部屋の中を見回した。つい、先程まで、蓮如がここにいたという形跡はあった。厠(カワヤ)でも行ったのだろうと、しばらく待ってみたが蓮如は戻って来なかった。書院の入り口にいる取り次ぎの坊主も蓮如は書斎に籠もったままだと言った。と言う事は、この書院の中にいる事は確かなはずだ。風眼坊は別の部屋も捜してみた。

 書斎の隣には客と会う対面所があり、その隣には広間があったが、蓮如はどこにもいなかった。勿論、厠にもいない。一体、どこに消えたのだろうと、風眼坊は廊下から外を眺めた。

 門の所に長光坊がいるのが見えた。奴があそこにいる限り、蓮如をここからは出すまいと思った。もしかしたら、すでに、この中に敵の間者(カンジャ)が忍び込んで蓮如をさらって行ったのか、とも思ったが、この御坊は厳重に守られていた。入る事はおろか、出る事さえ、簡単にはできそうもなかった。

 風眼坊は庭園の方を眺めた。門の脇から、この本坊の敷地内の北の一画が、ちょっとした庭園になっていた。その一画だけ木が生い茂り、蓮如がこの地に御坊を建てる前の面影を残していた。その庭園には小さな池があり、茶屋といえる程ではないが、ちょっとした東屋(アズマヤ)があった。その東屋の側に新しく小屋が建てられ、その小屋の所に人影が見えた。木に隠れてよく見えないが、何となく蓮如のような気がした。

 風眼坊は行ってみようと、一旦、書院から出た。書院の外でお雪が待っていた。

「上人様、どうでした」とお雪は心配そうに風眼坊に聞いた。

「あ、うん‥‥‥どうじゃな、仕事には慣れたか」

「ええ、何とか‥‥‥上人様はまだ、沈み込んでいましたか」

「ああ、お雪殿、ちょっと一緒に来てくれんか」

「えっ?」

「実は、蓮如殿はここにはおらんのじゃ」と風眼坊はお雪の耳元で囁いた。

「えっ!」

「どうも、庭園の方におるらしい。門の所にうるさいのがおるからのう。お雪殿と一緒なら怪しむまい。ちょっと庭園まで一緒に来てくれ」

「上人様は庭園にいるのですか」とお雪は小声で聞いた。

「それを確かめに行くんじゃ」

 二人は庭園に向かった。

 門番の一人が二人に気づき、長光坊もこちらを見たが、こちらに来る様子はなかった。

「この庭園は上人様が造ったそうですよ」とお雪は言った。

「ほう、蓮如殿は庭も造るのか」

「はい。近江の大津にいた時も造ったそうです」

「ほう。蓮如殿が庭造りをのう‥‥‥」

 風眼坊は蓮如らしき人影を見た小屋に向かった。

 小さな小屋だった。物置に違いないと思ったが、こんな所で、一体、何をしているのだろうと、小屋の戸を開けると蓮如はいなかった。小屋の中央に大きな穴が開いていた。

「何ですか、これ」とお雪は穴の中を覗いた。

「この小屋は前から、あったのか」

「いえ、あたしが山に行く前はありませんでした。山から戻って来ると建っていました。何でも、蓮崇殿がここに建てたんだそうです」

「蓮崇殿が?」

「はい。この庭園を直すとかで、そのための道具をしまっておく物置だと言っていましたけど、何なのでしょう、この穴は」

 風眼坊は穴の中に声を掛けた。

「誰じゃ」と穴の中から蓮如の声が返って来た。

「風眼坊です。何をしてるんです」

「おお、そなたか」

 蓮如はしばらくして、穴の中から顔を出した。その顔は泥だらけだった。

「何をしてるんです」

「駄目じゃ。真っ暗で何も見えん」

「一体、この穴の中に何があるんです」

「二人だけじゃな、ここに来たのは」

「ええ、そうですけど」

「誰かに見られなかったか」

「門の所にいる長光坊殿に見られましたが‥‥‥」

「そいつはまずいのう」と言うと蓮如は着物の泥を払い、外に誰もいない事を確認すると、二人を小屋から出し、戸を閉めて鍵を掛けた。

 三人は東屋の方に行くと回りを窺った。人がいる気配はなかった。

「蓮如殿、あの穴は何です」と風眼坊は小声で聞いた。

「抜け穴じゃ」と蓮如も小声で答えた。

「抜け穴?」

「ああ、蓮崇の奴が、もしもの時のために掘ってくれたんじゃ」

「蓮崇殿が抜け穴を‥‥‥どこに出るんです」

「それを調べに行ったんじゃが、真っ暗で先に進めんかったんじゃ」

「あの抜け穴の事を知っておるのは蓮崇殿だけですか」

「多分な。風眼坊殿、お雪殿、この事は内緒にしてくれ」

「ええ、分かっております」

 頼むぞ、と言うように頷くと、蓮如は遠くを眺めた。「実はのう。わしは蓮綱の所に行こうと思っておるんじゃ」

「えっ、松岡寺にですか」

 蓮如は遠くを見つめたまま頷いた。「門徒たちに戦をしろと言いながら、自分だけ、こんな所でのんびりしておるわけにはいかんわ」

「一人だけで行くつもりだったのですか」

「ああ」

「危険です。すでに蓮如殿は命を狙われておるんですよ」

「なに、わしの命が狙われておる」

「ええ、すでに、この吉崎の地に刺客が入っておるそうです」

「わしの命など取ってどうするつもりなんじゃ」

「すでに、本願寺は戦を始めました。蓮如殿は武士でいえば大将という事になります。大将の首を取る事が戦の常道です」

「わしが大将か‥‥‥」

「そうです。そして、この吉崎は大将がいる本城というわけです。やがて、ここにも敵が押し寄せる事となるでしょう」

「そうか‥‥‥ここも戦場になるのか‥‥‥」

 蓮如は辛そうに溜め息をついた。

「松岡寺の事ですが、慶聞坊殿が向かいました」と風眼坊は言った。「慶聞坊殿が蓮綱殿の命は絶対に守る事でしょう」

「そうか、慶聞坊も戦に行ったのか」

「はい。そこで、慶聞坊殿の代わりに、わしが蓮如殿の命を守ってくれと、蓮崇殿から頼まれたわけです」

「風眼坊殿が、わしの命を‥‥‥」

「はい。ただ、わしは門徒でないために、坊主たちからは嫌われておるようです。もしかしたら、ここから追い出されるような事になるかもしれません。しかし、わしは陰ながら、蓮如殿をお守りいたします」

「陰ながら守る?」

「はい。山伏には陰の術という術があります」

「陰の術?」

「はい。誰にも気づかれずに、あらゆる所に忍び込んだりする術です」

「ほう、そんな術があるのか‥‥‥」

 『陰の術』とは、弟子の太郎坊が名づけたものだったが、元々、一般の人々が入らない山の中を走り回っている山伏たちは神出鬼没で、存在そのものが陰の術と言えた。太郎が『陰の術』として、飯道山で教えている術のほとんどは、風眼坊程の山伏ともなれば、すでに身に付いていた。

「陰の術のう‥‥‥」と蓮如は呟いた。

 お雪は風眼坊を見つめながら、改めて、不思議な人だと思った。自分でも気づかないうちに、お雪は風眼坊という男に惹かれて行った。
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