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陰流の開祖であり、忍びの術の開祖でもある愛洲移香斎の物語です。
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10.太郎坊移香






 枯葉を相手に太郎の修行は続いていた。

 毎日、刀を振り回しながら、跳びはねていた。

 何とか、四枚目まではできるようになったが、最後の一枚は難しかった。立木を相手に、風眼坊から教わった三つの技の稽古も怠りなくやっていた。

 冬はもうすぐ終わろうとしている。

 太郎と風眼坊は木剣を構えていた。

 風眼坊は八相に構えた。太郎がよくする構えであった。

 太郎は中段に構えた。そして、風眼坊の目と肩を見ながら進み出て、風眼坊の左腕を狙い打つために木剣を上げた。

 風眼坊は太郎の動きに合わせ、右足を大きく踏み込み、腰を落とし、構えていた剣を右側に回し、下からすくい上げるように太郎の左上腕を打った。

「よし、次だ」と風眼坊は木剣を目の高さに水平に構えた。

 右手で柄を持ち、左手は剣先から五寸程の所を手の平にのせるように構えていた。まるで、剣を捧げ持っているかのようだった。

 太郎は中段に構え、水平に構えられた風眼坊の木剣を見つめた。

 狙う所は胸から下しかなかった。

 太郎は中段から、上段の構えに変えた。

 上段のまま風眼坊に近づくと、上段から風眼坊の右腹を狙って木剣を横に払った。

 風眼坊は柄を握っている右手を軸に、左手を下に下ろし、剣を垂直にして太郎の剣を受け止めた。

 太郎はすかさず、受け止められた剣を上段に上げ、風眼坊の左腕を狙って打ち下ろした。

風眼坊は元の構えに戻り、太郎の剣を受け、右側にすり落とすと左足を深く踏み込み、左手は剣の先の方を押えたままで、太郎の喉元を突く、寸前に剣を止めた。

「まあ、こんなもんじゃな」と剣を引きながら風眼坊は言った。「あとは自分で工夫する事だ」

 太郎は頷き、お礼を言った後、「師匠、ここから離れるんですか」と不安な面持ちで聞いた。

「ああ、そろそろな」

「いつです」

「気が向いた時じゃ」

「俺も連れて行って下さい」

「剣なんていうもんは人から教わるもんじゃない。自分で工夫するもんだ。今のお前なら、あとは一人でもできる」

「師匠はどこに行くんです」

「当てはない。また、しばらくは旅が続くじゃろう‥‥‥」

「俺も連れて行って下さい。俺も世の中が見たいんです」

「お前は水軍の大将になるんじゃろう。これからは水軍の勉強でもしろ」

「大将になるために、もっと世の中の事が知りたいのです。ぜひ、俺も連れて行って下さい」太郎は必死になって頼んだ。

 風眼坊は木剣を突いて、海を眺めていた。「ここは戦乱に巻き込みたくないのう」

 風眼坊自身、これから、どこに行くという当てはなかった。

 京の戦が終われば、何かやるべき事が見つかるだろうと思っている。しかし、戦はまだ終わっていない。もうしばらく、ここに居てもいいのだが、長年の旅の癖で一ケ所にあまり落ち着いていられない。とにかく、一度、吉野に帰ってから大峯山にでも入ろうかと思っていた。

「お願いします。連れて行って下さい」太郎は風眼坊の横にひざまづき、風眼坊を見上げて言った。

「ああ」と風眼坊は曖昧に頷いた。「ただし、父親にちゃんと許可を得て来い」

 太郎は稽古が終わると家に戻り、祖父だけに訳を話し、許しを得、旅支度をすると陰ながら、祖母と母、そして、二人の弟と妹に別れを告げ、夜になると家を飛び出して山に向かった。

 もしかしたら、もう、風眼坊はいないかもしれないと思いながら、急いで夜の山道を登った。

 風眼坊は寝ていた。

 太郎は安心して小屋の中で横になった。

「どうした」と風眼坊が聞いた。

「旅の支度をして参りました。いつでも出掛けられます」

「気の早い奴じゃ‥‥‥親父の許しを得て来たか」

「はい」と太郎は嘘をついた。

「ふん。嘘つけ、お前の親父は今、熊野に行ってるはずじゃ」

「熊野?」

「ああ、新宮に用があるらしい。昨日、会った時、出掛ける所じゃった」

「父上とは、よく会っていたんですか」

「ああ、なぜか気が合っての‥‥‥何回か一緒に飲んだ」

「そうだったんですか‥‥‥」

「今日はもう寝ろ」

「俺を連れて行ってくれますね」

「ああ」と風眼坊は言うと、あくびをして寝返りをうった。





 朝飯を済ますと風眼坊は城下に下りて行った。

 太郎も付いて行くと言ったが、ちゃんと戻って来るから待っていろ、わしにも別れを告げる女子(オナゴ)がいるんじゃ、と言って出掛けて行った。

 太郎は一人で剣の稽古をして待っていた。

 風眼坊が帰って来たのは次の日の朝、日がかなり昇ってからだった。

「さて、行くとするかの」

 太郎は山の上から城下を見下ろした。

 今、改築工事をしている五ケ所城の詰の丸が見えた。真新しい瓦屋根がまぶしかった。

 海の方に目を移すと田曽浦の辺りに関船が二艘、浮かんでいる。

 父上はもう、帰って来ているのだろうか、と、ふと思った。

 また、しばらく、ここともお別れだな‥‥‥

 太郎は水平線を見つめた。

「いい所じゃった」と風眼坊がしみじみと言った。

 風眼坊も太郎の隣に立って海を見ていた。

「いい女子もいたしのう‥‥‥お前の親父殿に会えたのも良かった」

「父上に?」

「ああ、人と人との出会いというものは不思議なもんじゃ‥‥‥会いたいと思う奴には、なかなか会えなかったり、会うはずのない人間と出会ったり‥‥‥ここで、お前と会わなかったら、お前の親父、水軍の大将と会うなんて事はなかったじゃろう。わしは今まで、山ばかり歩いて来て海の事など考えてもみなかった。ここで、お前の親父に会って、世間を見る目が広くなって来たわ‥‥‥お前の親父とはこれからも何回か会う事になるじゃろう‥‥‥本当に気が合う奴っていうのは、なかなかいないもんじゃが、お前の親父とはほんとに気が合った。いい奴じゃ」

 太郎は改めて風眼坊を見た。今まで気がつかなかったが、風眼坊と父親とは丁度、同じ位の年齢だった。

 二人は山を下りた。

 北へと向かっていた。

 太郎が毎朝、水を汲んでいた沢に出た。太郎はここに来るたびに、小春の事を思い出していた。

 今頃、幸せに暮らしているだろうか。

 やはり、木地師の所に嫁に行ったのだろうか。

 小春の家の前まで来ると、小春の父親が息子と二人で丸太をくりぬいて舟を作っていた。

「とっつぁん、元気か」と風眼坊は小春の父親に声を掛けた。

 小春の父親は顔を上げると、「へい、お陰様で」と言い、風眼坊と一緒にいる太郎を見て、軽く頭を下げた。

「六兵衛殿は、今、家におるかの」と風眼坊は聞いた。

「へい、いると思いますだ」

「そうか、子供の目は治ったか」

「へい、お陰様で、もう、すっかりと」

「そいつは良かった、それじゃあな」

 小春の父親に見送られて、風眼坊と太郎はそこを去った。

「知り合いなんですか」と太郎は不思議そうに聞いた。

「まあな、あのとっつぁんの子供の目を治してやったんじゃ」

「そうだったんですか」

「奴らも可哀想な奴らよ。奴らは土地を持っとらんからの、木を細工して色々な物を作っているが、それが売れなければ食っていけん。京の戦騒ぎで物価がどんどん上がっている。物価が上がれば、みんな、食うのが精一杯じゃ。とっつぁんの作った物は売れなくなる。仕方なく、娘を手放さなくてはならなかったそうじゃ」

「娘を手放す?」

「ああ、宇治の遊女屋に売ったそうじゃ」

「え?‥‥‥」太郎は自分の耳を疑った。

 小春が遊女屋へ‥‥‥

 嫁に行ったんじゃなくて、遊女屋へ‥‥‥

 急に、目の前が真っ暗になったように感じられた。

「小春が遊女屋へ行ったっていうのは本当ですか」

 太郎は風眼坊の錫杖をつかみ、風眼坊の足を止めて、聞いた。

「可哀想じゃのう‥‥‥お前、その娘、知ってたのか」

「はい‥‥‥」

「惚れてたのか」

「‥‥‥」

「忘れるんじゃな‥‥‥身分が違いすぎる」

「‥‥‥身分‥‥‥身分とは一体、何なんです」

「人が人を支配するために人が作ったものじゃ。一番上に天皇がいる。次に将軍じゃ。将軍の下に武士がいる。武士にだって色々な身分があるじゃろ。国を支配する守護職(シュゴシキ)、その下に地頭、その下に国人だの、郷士だの。そして、武士の下には百姓、百姓の下には山の民や川の民などがいる‥‥‥今、この仕組みが壊れようとしている。力のある者がのし上がって来ようとしている。しかし、身分というものがなくなる事はないじゃろう。上に立つ者が人々を支配していくためには、どうしても身分というものを決めなくてはならんのじゃ。俗世間から離れているはずの坊主の世界にもそれはある。支配する者がいる限り、身分というものは消えんじゃろう‥‥‥」

「五ケ所浦にある遊女屋にいる女たちも小春と同じように売られて来た娘なんですか」

「そうじゃ。誰が好き好んであんな世界に入る。一度、あの世界に入ったら抜け出す事は難しい」

 風眼坊はまた、歩き始めた。

 太郎は呆然と立っていた。

 太郎は京に行く途中、行き会った娘たちの事を思い出していた。人相の悪い男たちに囲まれて、哀しそうに歩いていた。小春もあんな風に連れて行かれたのだろうか‥‥‥

「何してる、早く来い」と風眼坊が言った。

「俺は小春を助けます」と太郎は言った。

「やめとけ、かえって不幸になる」

「どうしてです」

「お前はいいが、その娘は苦しむ」

「どうしてです」

「どうしてかな、それは自分で答えを出せ。それにはまず、お前が武士だという事を忘れなくてはならん」

「武士でなかったら何なんです」

「ただの人間じゃ。さっき、お前があのとっつぁんに会った時、どう思った」

「どうって?」

「俺は武士だ。あのとっつぁんより身分が高いんだ。俺の方が偉いんだ。そう思わなかったか」

「‥‥‥」確かに、風眼坊の言う通りだった。身分が何だと思いながらも、心の中ではいつも、自分は水軍の大将の伜だ、そこいらの奴らとは違うんだと思っていた。

「まず、お前自身が身分という枠から飛び出さなくてはならん。お前は武士の子として、今まで育てられて来た。急に見方を変えろと言っても無理じゃろう。徐々に変えて行くんじゃな‥‥‥そう、深刻な顔をするな。もっと、気を楽に持て」

 二人はまた、山の中に入った。

 太郎は小春の事を思いながら、風眼坊の後を追っていた。

 風眼坊は山の中の細い道をどんどん進んで行った。

 太郎も山歩きは慣れているが、風眼坊は山の中をまるで平地のように、平気な顔をして歩いていた。こんな所に道なんかあったのかと思うような山奥でも細い道が続き、風眼坊は迷わず、その道をたどって行った。

「師匠、この道は何の道ですか」

「不思議じゃろう。この道は山人の道じゃよ。普通の人間はまったく知らんが、山がある限り、こういう道は必ずあるんじゃよ。街道が表の道なら、これは裏の道じゃ。世の中にはな、表があれば、必ず、裏があるという事をまず、覚えておけ」

 山を抜け出ると、ちょっとした平地に出た。細い川が流れ、川のほとりに二軒の家が建っていた。

「あの家が、この辺りの山を仕切っている六兵衛の家だ」と風眼坊はその家に向かって行った。「奴は、この辺りの事なら何でも知っている」

 六兵衛と呼ばれる男は痩せて、腰の曲がった老人だった。どう見ても、この辺りを仕切っている程の男には見えない。どこにでもいるような田舎の爺さんだった。

 六兵衛は一人、木の屑の中に座り込んで、小さな阿弥陀如来の木像を彫っていた。回りには大小様々の観音様、お地蔵さん、恵比寿様などの木像が並んでいた。

 風眼坊が顔を出すと、「風眼坊殿か、そろそろ、ここのお山も飽きてきたと見えますな」と老人は笑いながら言った。その顔は、いかにも嬉しそうだった。

「そろそろ陽気も良くなったんでな、吉野に花見にでも行こうと思っておる」

「そりゃ、また、結構な事で‥‥‥」

 六兵衛は風眼坊と一緒にいる場違いな侍姿の太郎を見たが、別に何も言わなかった。

「ところで、六兵衛殿、何か変わった事でも起きてませんか」

「そうよのう、まだまだ、この辺りは平和じゃ。宇治と山田で神人(ジニン)共のちょっとした、いざこざがあったがの、何とか治まったらしい。それと、多気の御所が何やら動き出してるらしいのう」

 多気の御所とは伊勢の国司、北畠教具の事である。

 教具は去年の夏、守護代の世保(ヨヤス)政康を攻め、神戸(カンベ)城で切腹させ、伊勢の国をほぼ支配下に納めていた。

 愛洲一族は南北朝時代からの付き合いで北畠氏と同盟を結んでいた。同盟とはいえ、北畠氏と愛洲氏では家格も違うし勢力も違う。愛洲氏は北畠氏の被官という形にならざるを得なかった。

「世話になったな」と言うと風眼坊は紙包みを老人に渡した。

「おお、こりゃ助かる。最近の若いもんは怪我ばかりしとるのでな」

「六兵衛殿も達者でな」

「わしゃ、まだまだ元気じゃよ」

 二人は老人に別れを告げた。





 風眼坊は足が速かった。

 太郎は息を切らせながら、やっとの思いで風眼坊の後を付いて行った。

 歩く所は山の中の細い道ばかりだった。

 時々だが、山から出て街道にぶつかる事もあった。人並みに街道を歩く事ができるのは、まるで極楽のようだった。しかし、その極楽も長くは続かない。また、山の中に入って行く。薄暗い曲がりくねった細い道を登ったり下りたり、それはまさに裏の道だった。

 こんな所は人が通る道じゃない。鬼か天狗の通る道だ。太郎は風眼坊の後ろ姿を恨みながら歩いていた。

「師匠、ちょっと待って下さい。速すぎますよ」

「お前が遅いんじゃ。もう少しで山の上に出る。我慢しろ」

 やっとの思いで、這うように太郎は登った。

 風眼坊は山の頂上から回りを眺めていた。

 太郎は頂上に着くと回りを見るどころではなかった。倒れるように横になった。

「師匠、師匠は一日、どの位、歩くんです」

「さあな、二十里(約八十キロ)は歩けるじゃろう」

「山の中を?」

「ああ」

 太郎の方は汗をびっしょりかき、息を切らせてハァハァ言っているが、風眼坊の方は汗もかかず、普段とまったく変わっていなかった。

「太郎、お前、本気で強くなりたいか」

「はい、なりたいです」

「今のままじゃ、無理じゃな」

「何でもします。お願いです。教えて下さい」

「まず、基本からやらなけりゃ駄目じゃ」

「基本?」

「山歩きじゃよ。わしと同じ速さで歩けなけりゃ、まず、無理じゃ」

「どうしたら、そんな速く、歩けるようになるんですか」

「訓練しかない‥‥‥お前を面白い所に連れて行ってやろう」

「どこです」

「付いて来ればわかる」と風眼坊はニヤリと笑った。

 太郎はやっと汗がひくと立ち上がり、回りを見下ろした。下の方に川が流れているのが見えた。その川に沿って道が続いている。

「ここはどこです」

「まだ、五ケ所浦からたいして離れていない。あそこに見える川は宮川だ。山田の方に流れている。それで、あの道は熊野街道だ。熊野と伊勢をつないでいる」

 風眼坊は川と反対側に目を移した。

 太郎も反対側を見た。反対側は山がいくつも連なっているだけだった。

「今日は見えんが、天気がいいと山の向こうに海が見える。この山をこっち側に下りると、丁度、一之瀬城の辺りに出る」

「へえ、あそこに‥‥‥」

 一之瀬城も愛洲一族の城であった。

 南北朝時代の初め頃、愛洲氏は北畠氏を助け、南朝方で活躍して勢力を広げ、五ケ所浦を本拠地として、ここ一之瀬と伊勢神宮の近くの玉丸(田丸)とに分家して、それぞれ栄えていた。一之瀬城はその頃、後醍醐天皇の皇子、宗良親王(ムネナガシンノウ)を迎えた事もあった。

 当時に比べれば、少しさびれた感はあるが、伊勢神宮と熊野を結ぶ陸路を押え、その城より南の海岸線に点在している竃方(カマガタ)を支配していた。竃方で取れた塩はすべて、一之瀬の城下に集められ、あちこちへと取り引きされて行った。

 太郎も小さい頃、一度、行った事があった。その一之瀬城に太郎と同じ位の娘がいて、一緒に遊んだ記憶がかすかに残っている。あの子ももう、いい娘さんになってるだろう。もう、嫁に行ったのかもしれない‥‥‥

「おい、行くぞ、のんびりしてると日が暮れる」

「今日はどこまで、行くんですか」

「三瀬谷じゃ。そこに知り合いがいる」

「あと、どの位です」

「そう、辛そうな顔をするな。この山を下りたら、すぐじゃ」

「そうですか‥‥‥行きましょう」

 膝をガクガクさせながら、やっと山を下りると川が流れていた。

「これが宮川ですか」と太郎は聞いた。

「残念だが違うな。宮川はあの山の向こうじゃ」

 風眼坊は目の前に連なっている山を指した。たいして高くない山々だが、今の太郎には目の前にそびえる程、高い山に感じられた。

「あの山を越えたらすぐじゃ。元気を出せ」

「はあ‥‥‥」

 元気が出るわけなかった。もう、くたくたで足はフラフラしている。太郎は山の中で拾った木の枝を杖にして、かろうじて歩いていた。





 三瀬谷の宿坊に泊まり、朝早くから、また山の中に入って行った。

 太郎の足は言う事を聞かなかった。動かすたびに足が痛かった。それでも、風眼坊には何も言わず、黙々と風眼坊の後を付いて行った。

 山の中で初めて人と出会った。二人連れの乞食だった。彼らは風眼坊と太郎の前をのろのろと歩いていたが、二人に気づくと山の中に消えてしまった。あれ、どこに行ったんだろう、と太郎は茂みの中を覗いてみた。しかし、彼らの姿はどこにも見えなかった。

「どこに行ったんです」と太郎は風眼坊に聞いた。

「どこにも行きはせん。隠れてるだけじゃ」

「どうして」

「姿を見られたくないからじゃろう」

「どうして」

「奴らは『かったい』じゃ」

「かったい? かったいがどうして、こんな山の中にいるんです」

「じゃから、人に見られないためじゃ。奴らは街道を歩く事ができん。それで、山の中を歩いておるんじゃ。わかったか」

「はい‥‥‥でも、こんな山の中を歩いてどうするんです。一体、どこに行くつもりなんです」

「熊野じゃ。この道はずっと熊野まで続いておるんじゃ。奴らは熊野権現にすがって、病を治して貰おうと熊野に向かっておるんじゃ」

「この道が、ずっと熊野まで‥‥‥」

 こんな山の中の細い道がずっと熊野まで続いているとは、太郎にはとても信じられなかった。

「それじゃあ、こっちはどこまで続いてるんです」太郎は今、来た道の方を指した。

「鎌倉じゃ。そして、それから、ずっと奥の陸奥(ムツ)の国まで続いている」

 太郎には、ますます信じられなかった。

 『かったい』とは癩病(ハンセン病)患者の事である。彼らだけが通る道というのが、普通の人の知らない山の中に熊野を中心にして各国に伸びていた。

 その他に、山の中には木地師、鍛冶師、杣人、狩人など山の民たちが通る道、山伏や修行僧、巫女の通る道などがあり、表の街道と同じように山の中を網の目のように張り巡らされてあった。しかし、その道は普通の人が見ただけではわからず、彼らだけの道だった。

 太郎は今、かったいの道を杖を突きながら、やっとの思いで歩いていた。

 一山、越えると街道に出た。道行く人々がのんきそうに歩いている。太郎は杖を突き、足を引きずり、汗びっしょりになり、必死の思いで歩いていた。

 風眼坊は今度は山に入らなかった。街道をどんどん歩いて行く。

「ここを真っすぐ行けば、吉野だ」と風眼坊が太郎を振り返った。

「もう山には入らないんですか」

「入りたいか」

「いえ、いいです」

 風眼坊は太郎の情けない姿を見ながら、おかしそうに笑った。

「当分、山には入らん」

 太郎は、ほっとした。

 二人は宇治、山田(伊勢神宮)と吉野を結ぶ、伊勢街道を吉野に向かって歩いた。

 その日は伊勢と大和の国境近くの波瀬という所の神社に泊まった。

 次の日になると、太郎の足も大分、良くなった。痛みも取れている。

 風眼坊は街道を真っすぐに吉野へは向かわなかった。また、山の中に入って行った。

「どこに行くんです。吉野じゃないんですか」

「お前をいい所に連れて行くと言ったじゃろう。それは吉野じゃない」

「どこです」

「近江(オウミ)じゃ。近江の山の中じゃ。お前が気に入りそうな所がある」

 波瀬から山の中を北上して峠を越えると大和の国(奈良県)に入った。山また山である。太郎は薄暗い細い道を風眼坊の後をただ、ひたすら付いて行った。しばらく行くと街道に出た。

「この道を右に行けば伊勢に戻って多気に行く。北畠氏の本拠地、多気の御所じゃ。賑やかな所じゃ。山の中じゃがな、まるで、戦前の京のように栄えておる。左に行けば南都、奈良じゃ」

 風眼坊はそう説明すると進路を左に取った。二里程、街道に沿って歩き、また、山の中に入った。目の前に、屏風のようにそそり立つ岩山がせまっていた。

「あの山を越えるんですか」と太郎は恐る恐る聞いた。

「そうだ、いい山じゃろう」

 風眼坊は気楽に答えて、楽しそうに山を眺めた。

 あの凄い岩をよじ登るのか、もうどうにでもなれと太郎はやけくそ気味になっていたが、岩場は通らなかった。かなり、きつい山道だったが岩場を避けるように道は続いていた。

 山頂に着くと眺めが良かった。この辺りでも一番高い山のようだった。東から北にかけて、岩山が続いているのが見えた。所々に奇妙な変わった形をした岩が飛び出している。

この山の隣に同じ位の高さの山があり、尾根続きにつながっていた。細い道も尾根続きにつながっている。道と言っても、ただ、見ただけではよくわからないが、風眼坊に連れられて山の中ばかり歩いて来たお陰で、太郎にもその山の道がだんだんとわかってきた。

 二人は尾根づたいに道を進んで行った。下り道が多くなり、歩くのも、それ程、辛くなかった。尾根道は沢で遮られていた。

「伊賀に入ったぞ」と風眼坊は言った。

 二人は沢の流れに沿って歩いた。歩くにつれて、沢の回りに奇怪な形をした岩々が、そそり立って来た。滝もかなりあった。沢は深くはないが、流れはかなり速い。細い道は、その沢を中心に右に行ったり、左に行ったり、曲がりくねっている。沢を渡る時は、水の中に入らなければならなかった。春とはいえ、水は凍るように冷たかった。

 沢の両側に岩壁がせまっている所では、岩に張り付くようにして通らなければならなかった。もし、落ちたら速い流れに流され、先に滝でもあれば死ぬかもしれない。

 かなり高い滝も二、三あった。そんな所は山の中を迂回したり、滝のそばの岩場を岩に抱き付くようにして下りて行った。

 また、急に深い淵になり、水の流れがゆっくりしている所もあった。水は綺麗に澄んでいて下の方まで良く見える。夏だったら泳いで渡れるが今はまだ寒い。岩に張り付きながら渡って行った。

「ここは赤目の滝と言ってな、修験者の行場じゃ。面白い所じゃろう」と風眼坊は言った。

 確かに面白いと言えば面白いが、太郎は凄い所だと思った。太郎の育った五ケ所浦の山々に、こんな岩だらけの所はない。しかも、その岩の中に沢が流れていて滝がいくつもある。山の神秘さというものに、太郎は益々、引かれて行った。

 沢から少し離れ、山の中をしばらく歩くと急に視界が開け、目の前に大きな滝が白いしぶきを上げて落ちていた。

「不動の滝じゃ」と風眼坊は言うと、両手で印を結び真言(シンゴン)を唱え始めた。

 お前もやれと言うので、太郎は意味が全くわからないまま風眼坊の真似をした。

「ノウマクサンマンダ、バーザラダ、センダマカロシャダ、ソワタヤ、ウンタラター、カンマン」

「どういう意味です」と太郎は聞いた。

「意味か」と風眼坊は太郎を見て笑った。「お前が強くなるための呪文じゃよ」

 そこから、少し行くと小さな庵が建っていた。

「おい、栄意坊(エイイボウ)、いるか」と風眼坊が庵に向かって言った。

 返事はなかった。

 風眼坊は庵の中を覗いた。「留守のようじゃな。まあ、いい。待ってるか」

 風眼坊は庵の中に入って行った。太郎も中に入った。

 中には筵(ムシロ)が敷いてあった。隅の方に山伏が背負う笈と法螺貝が置いてあり、壁に錫杖が立て掛けられてあった。

 風眼坊は草鞋を脱いで上がりこむと座りこんだ。

「お前も上がれ」

 太郎も草鞋を脱ぐと足や袴に付いた泥を落とし、筵の上に上がった。

 風眼坊は隅に置いてあった瓶子(ヘイジ)を手に取り、蓋を取って中を覗くと匂いを嗅いだ。

「酒がある。飲みながら待っていよう」

「いいんですか。そんな勝手な事をして」

「いいんじゃ。奴とわしは兄弟みたいなもんじゃ」

 風眼坊はお椀を見つけると酒を注ぎ、一口飲んだ。

「うまい。山歩きの後の酒は格別じゃな。お前も飲め」

 二人は酒を飲みながら、栄意坊を待っていた。

 一時(二時間)程して、酒が空になる頃、栄意坊行信は戻って来た。

 栄意坊は髭だらけの男だった。山伏の格好はしているが、すでにボロボロになっていて、ボロ布をまとっているようなものだった。

 小屋に入って来て、風眼坊の顔を見ると、まず、「オー!」と吠えた。

「風眼坊か、久し振りじゃのう」と髭だらけの顔の中で目だけが笑っていた。

 栄意坊は右手に短い槍を持ち、左手に竹の籠をかかえていた。

「今朝な、お不動さんからお告げがあったんじゃ。来客ありとな。それも珍客来たりとな。そこで、ほれ、魚を取って来たんじゃよ」

 栄意坊は籠の中を見せた。五、六匹の大きな魚が入っていた。

「おぬし、相変わらずじゃな」と風眼坊は栄意坊の胸を小突いた。

「ハハハハハ」庵が壊れそうな程、大きな声で栄意坊は笑った。

「魚はありがたいがの、こいつがなくなったわ」と風眼坊は空の瓶子を栄意坊に見せた。

「なに、酒がない。ウーム、そいつは困ったの‥‥‥延寿院に行けば、酒などいくらでもあるが、あそこはあまり行きたくねえ」

 栄意坊は取ってきた魚を土間に置くと腰を下ろした。魚はまだ生きていて、籠の中で跳ねていた。

「どうした、また、喧嘩でもしたのか」と風眼坊は栄意坊に聞いた。

「いや、そうじゃねえがな、あそこはどうも抹香(マッコウ)臭くていかん」

「まあ、おぬしにはこの草庵の方が似合っとるよ」

「何を言うか、そりゃお互い様じゃ‥‥‥そうじゃ、おぬし、弥五郎を覚えとるか」

「弥五郎‥‥‥百地(モモチ)の弥五郎か」

「そうじゃ。奴がこの近くにおるんじゃよ」

「ほう。百地の小僧がこの辺りにか」

「まあ、あの頃は小僧じゃったが、今はもう、かあちゃんを貰ってガキまでおるよ」

「何してるんじゃ」

「表向きは百姓をやってるが裏の方も盛んらしい。若いのを五、六人使ってる」

「ほう。百地の小僧がな、偉くなったもんじゃの」

「よし、奴の所に行こう」と栄意坊はまた、大笑いした。





 百地の小僧と風眼坊が呼んでいた百地弥五郎は三十歳前後の、がっしりとした体格の物静かな男だった。

 弥五郎の家は栄意坊の庵から一里程の所に、山に囲まれて隠れるように建っていた。かなり、大きな農家だった。

 風眼坊、栄意坊、太郎、そして、弥五郎は囲炉裏を囲みながら、栄意坊が持って来た魚を焼き、酒を飲んでいた。

 太郎は三人が話している昔話を、物珍しそうに聞いていた。それによると、十五年位前、三人は同じ山で修行していたらしかった。『大峯山』『飯道山(ハンドウサン)』と言う山の名前が、三人の口から何度も出て来た。

 『大峯山』は太郎も知っていたが、『飯道山』と言うのは聞いた事もない山だった。

「ところで、親爺は健在か」と風眼坊が聞いた。

「まだ、頑張ってますよ」と弥五郎が焼魚をかじりながら、頷いた。「相変わらず口は達者です。でも、もう年だ。体の方が動かんのでしょう。今は高林坊(コウリンボウ)殿が親爺の代わりをやってます」

「なに、高林坊が」と風眼坊は驚いた。「あいつ、まだ、あの山にいたのか」

「一度、葛城(カツラギ)に帰ったんですけどね、親爺に呼ばれて戻って来たんです」

「高林坊か‥‥‥」と栄意坊が懐かしそうに言った。「うむ、奴は強かったからのう。棒を持たせたら敵なしじゃ」

「棒の高林坊と言えば有名じゃったからのう」と風眼坊も懐かしそうだった。

「何を言うか」と栄意坊は風眼坊の方を向いた。「おぬしだって有名じゃろうが、剣の風眼坊ってな。おぬしに勝てる奴は誰もおらんかったぞ」

「泣く子も黙る、槍の栄意坊という強いのもいたのう」と風眼坊は酒を飲みながら、栄意坊を横目で見た。

「それから、手裏剣の得意な小僧もいたっけ」と栄意坊が笑いながら弥五郎を見た。

「あの頃は、ほんと、みんな、凄かった。わしは、みんなが怖かったですよ。飯道山の四天王、剣の風眼、槍の栄意、棒の高林、薙刀の火乱。あの頃は凄かったですね。わしは、とても四人にはかなわない。そこで、手裏剣を始めたんです」

「懐かしいのう」と栄意坊はしみじみと言った。

「おい、火乱坊(カランボウ)の奴は何してるんじゃ」と風眼坊がどちらともなく聞いた。

「わしは、この間、会ったぞ」と栄意坊が言った。「この間と言っても、もう二年程前じゃがの、戦が始まる前に京で会った。あの時は無礙光宗(ムゲコウシュウ)とかに首を突っ込んで、叡山(エイザン)相手に薙刀を振り回してるとか言っとったぞ」

「無礙光宗?」何じゃそれは、という顔をして風眼坊は栄意坊を見た。

「おう、何でも浄土真宗のうちの本願寺派だそうじゃ。蓮如(レンニョ)とかいう坊主が布教を広めているらしい。奴も物好きよのう」

「南無阿弥陀仏か」

「そうじゃ。南無阿弥陀仏って言いながら、叡山の法師共をたたっ斬ってるんじゃ」

「それじゃあ、叡山の法師共は法蓮華経ってわめきながら斬られてるのか」

「そうじゃろうのう。気の毒じゃが相手が悪い。南無三(ナムサン)と叫びながら斬られてるんじゃろのう」

「へえ、火乱坊殿は相変わらず、薙刀を振り回していますか」と弥五郎が笑った。

「奴らしいわい」と風眼坊も笑う。

 風眼坊は弥五郎が注いでくれる酒を盃に受けた。

「それより、あの頃、いい女子(オナゴ)がおったろうが」と風眼坊は話題を変えた。

「いい女子じゃと?」と栄意坊は弥五郎の酒を受けながら、怪訝そうに風眼坊を見た。

「ああ。女だてらに小太刀(コダチ)をよく使うのが‥‥‥あれは、いい女子じゃったぞ」

「わしゃ、知らんぞ」と栄意坊は今度は弥五郎の方を見た。

「そうか、あれはおぬしが山を下りてからか」と風眼坊は酒を飲んだ。

「山に女子がおったのかい」と栄意坊は変な顔をして風眼坊を見ていた。

「山に女子がおるわけねえじゃろ。里じゃ。松恵尼(ショウケイニ)がおる尼寺で修行しておった」

「おお、松恵尼なら知っとる。あれもいい女子じゃった。尼にしておくには勿体なかったのう‥‥‥すると、その女子というのも尼か」

「違う。剣の修行をしていただけじゃ。のう、弥五郎、いい女子じゃったのう」

「はあ」

「何をとぼけておる。お前が一番、騒いでおったんじゃぞ」風眼坊は弥五郎の肩をたたいた。

「まあ‥‥‥」と言いながら、弥五郎は囲炉裏の中に薪を数本くべた。

「どうしてるおるかの、今頃」風眼坊は目を細めて酒をすすった。

「もう、いい年じゃろ。尼になっていなけりゃ、二、三人子供がおるって」栄意坊は焼魚に食らい付いていた。

「実は、その女子‥‥‥」と弥五郎が小声で言った。

「お前、その女子の事、知ってるのか」風眼坊も焼魚に手を伸ばしながら聞いた。

「はい‥‥‥実は、わしの女房です」

「何じゃと‥‥‥」風眼坊は焼魚を持って、口を開けたまま、弥五郎を見つめた。

「はい、すみません」と弥五郎は頭を下げた。

「それじゃあ、いい女子というのはお前の女房の事か」と栄意坊は目を丸くした。「成程、確かに、いい女子だわい。風眼坊が騒ぐのも無理ない‥‥‥ハハハ、面白いのう。小僧にしてやられたか」

「お前もやるのう」と風眼坊はまた、弥五郎の肩をたたいた。「自慢の手裏剣で、あの小太刀をものにしたか‥‥‥どうした女房は。勿体つけんで、ここに出せ」

「はあ、それが、ちょっと今、里に帰ってるんです」

「また、ガキが生まれるんじゃな」と栄意坊は弥五郎をつついた。

「ええ、まあ‥‥‥」と弥五郎は照れた。

「そうか、そいつはめでたいのう‥‥‥そうじゃったのか、まあ、お前なら似合いの夫婦じゃろ。良かったのう。ところで何人目の子供が生まれるんじゃ」

「三人目です」

「なに、三人目じゃと、あの娘に三人も子供がおるのか‥‥‥わしらも年を取るわけじゃのう」

「そうじゃのう。わしらももうすぐ四十じゃ。月日の経つのは早いわ」栄意坊は急にしんみりとして、囲炉裏の火を見つめた。

「確かに早いですね。わしも山を下りてから、もう十年が経ちました」弥五郎は囲炉裏に薪をくべた。

「おい、太郎」と栄意坊が急に呼んだ。「みんな、いい奴じゃろう。おぬしは幸せだぞ。いい師匠を持ったのう‥‥‥強くなれよ」

「はい」と太郎は三人を見比べながら頷いた。

 京への旅をしてからというもの、太郎の生き方は少しづつ変わって来ていた。

 風眼坊舜香、栄意坊行信、百地弥五郎、太郎の前にいる三人は武士の世界では見る事のできない人たちだった。どこが、どう違うのかと言われてもよくわからないが、確かに違っていた。

 太郎は三人の顔を見比べながら、三人の話を聞いていた。太郎の知らない事ばかりだったが聞いていて面白かった。





 太郎は山伏に変身した。

「今日から、お前を正式にわしの弟子にする」と風眼坊は真面目な顔をして言った。「わしの弟子になったからには武士は捨てろ。山伏になれ」

 急にそんな事を言われて、太郎はまごついたが、風眼坊は考える隙を与えなかった。強制的に山伏にされてしまった。

「今日から、お前の名は愛洲太郎左衛門ではない。太郎坊イ香じゃ」

「太郎坊イコウ?」

「そうじゃ、忘れるな」

「イコウとは、どう書くんです」

「好きなように書け。わしの舜香の香と、わしの一番初めの弟子じゃから、イロハのイを付けただけじゃ。イ香、どうじゃ、いい名じゃろう」

 太郎坊イ香‥‥‥太郎坊はいいけど、イロハのイ香とは、何か変な名前だった。

 山伏となった太郎坊イ香は風眼坊舜香と栄意坊行信と共に、錫杖を突きながら弥五郎の家を出て、近江の国(滋賀県)、甲賀の飯道山へと向かった。

「太郎坊、なかなか似合っとるぞ」栄意坊は太郎の山伏姿を見て笑った。

 栄意坊自身もボロボロの衣から真新しい衣装に着替え、伸び放題の髭を整えていた。乞食同然だった栄意坊も、貫録のある山伏に変身していた。

「お前、本当に付いて来るのか」と風眼坊は栄意坊に聞いた。

「ああ。久し振りに高林坊の棒をたたきたくなったんでな」

「相変わらず、気楽な奴じゃのう」

「お互い様じゃ」栄意坊は景気よく笑った。

 三人の山伏は山の中から名張街道に出ると北に向かった。

 伊賀の国はほとんどが東大寺の荘園になっていた。しかし、伊賀の郷族たちは東大寺の支配に対して、結束して反抗していた。外部の侵入に対しては団結して戦うが、内部での抗争も絶えなかった。豪族たちは皆、砦を構え、回りを窺い、隙を見ては自領を増やすために争っていた。

 伊賀の国は険しい山々に囲まれ、国内にも低い山々が連なっている。盆地と言えば上野と名張の二ケ所しかない。こんな所で大小様々、百近くの国人や郷士たちがひしめき合って争っている。当然のように武術が発達して行った。そして、それは独特の武術であった。

 平野での集団の戦と違い、狭い山間部では個人個人の技術を必要とした。山の中を素早く移動し、敵の隙を見て戦うやり方は山伏の兵法(ヒョウホウ)がもっとも適していた。彼らは山伏から武術を習い、技を磨いていった。武術を教える山伏の道場は伊賀の各地にあったが、その中心となっていたのは上野にある四十九院であった。

 風眼坊、栄意坊、太郎坊の三人は昼頃、上野に入った。木津川を渡ると四十九院はすぐだった。

「寄って行くか」と栄意坊は四十九院のこんもりとした森を見ながら言った。

「誰か、知ってる奴はいるか」と風眼坊も森の方を見ながら聞いた。

「よくは知らんが、北之坊がいるらしい」

「あいつか‥‥‥」

「どうする。一暴れして行くか」と栄意坊は笑った。

「わざわざ、問題を起こす事もあるまい」と風眼坊は首を振った。

「ふん。おぬしも最近、おとなしくなったのう」

「触らぬ神に祟りなしじゃ」

「ハ、ハ、ハ」

 三人は四十九院を素通りして北に向かった。

 伊賀盆地を抜け、山に入り、桜峠を越え、近江の国、甲賀に入った。

 ここ、甲賀も伊賀と性格的に似ていた。甲賀も険しい山々に囲まれた山国で、郷士たちの団結は固かった。一応、近江の守護、六角氏の支配のもとにあったが、領内の事には一切、干渉しないという取り決めがあった。その代わり、いざという時には甲賀の武士団は六角氏に協力をするという事になっていた。そして、甲賀でも山伏兵法は盛んだった。

 その中心をなしていたのが飯道山である。飯道山は修験道の祖、役の小角(エンノオヅヌ)の開基とされ、飯道権現を祀り、紀州の熊野とも深いつながりを持っていた。山上には五十近くの僧坊が建ち並び、一大武術道場として栄えていた。

 この当時、本地垂迹説(ホンジスイジャクセツ)により神と仏は一緒に祀られていた。飯道権現は阿弥陀如来の仮の姿とされ、山上には飯道神社、飯道寺があり、飯道寺の僧侶が別当として、神社の社務も司っていた。

 信楽(シガラキ)焼きで有名な信楽の庄を通り、三人が飯道山の門前町に着いた時には、日はすでに暮れようとしていた。

 門前町には遠くから来たらしい参拝客や山伏たち、大きな荷物を積んだ荷車などが行き交い、賑わっていた。参道の両脇には丁度、桜の花が満開に咲き、参拝客相手の宿坊や旅籠屋(ハタゴヤ)、土産屋、お茶屋などが並んでいる。

 三人は大鳥居の所まで来ると立ち止まった。

「懐かしいのう」と風眼坊は鳥居の先に続く参道の方を見ながら言った。

「ここは、変わらんのう」と栄意坊は風眼坊とは逆に町の方を見渡しながら言った。「おい、ちょっと一杯、やって行かんか」

「うむ。それもいいが、どうせなら、高林坊も一緒の方がいいじゃろう」

「それもそうじゃの。まずは、奴に会ってからか」

 大鳥居をくぐり、寺院や宿坊の建ち並ぶ参道を進むと、また、鳥居があり、そこから、石段が薄暗い山の奥の方に続いていた。

「何度、この道を登ったり下りたりした事かのう」と風眼坊が石段を見上げながら言った。

「そうじゃのう。懐かしいのう」と栄意坊も感慨深げに石段を見上げていた。

 太郎はこの山の中に一体、何があるのだろうと思いながら、薄暗い石段を見上げていた。遠くから見た所、それ程、高い山ではなかった。ゴツゴツした岩山でもなく、五ケ所浦の山々に似ていた。

 三人は石段を登った。かなり急な登りだったが、風眼坊も栄意坊も走るように登って行った。太郎は二人の後を死に物狂いで追いかけて登った。

 赤い鳥居をくぐると、そこが山の上だとは信じられない程、所せましと僧坊が建ち並んでいた。

 太郎は驚いた。

 山の上に寺があり、その寺で武術の修行をしていると言うのは風眼坊たちの話から想像していた。しかし、山の上にこんなにも多くの建物が建っているとは想像すらできない事だった。

 あちこちの木の間から掛声が聞こえて来る。木剣のぶつかり合う音など、もう、辺りは暗くなって来ているのに、祭りさながらの賑やかさだった。

「やってるのう」と栄意坊が嬉しそうに言った。

「まずは、高林坊に会うか」と風眼坊も嬉しそうだった。

「おお。あいつ、びっくりするぜ。まさか、おぬしとわしが一緒に訪ねて来るとは夢にも思うまい」

「太郎坊、お前はここで修行するんじゃ」と風眼坊が突然、言った。

「一年間、みっちり、しぼられろ。強くなるぞ」と栄意坊も言った。

「ここで、一年?」と太郎は師の風眼坊を見た。

「そうじゃ。ここの修行はきついぞ。強い奴らが揃っておるからな」

 太郎は一年も、こんな所で修行するなんて思ってもみなかった。

 せいぜい一ケ月位、この山で修行して、その後、風眼坊と一緒に色々な所を旅をして回るんだと自分で決めていた。

 こんな所で一年も修行するなんて‥‥‥

 とにかく、風眼坊の弟子になった以上、師の言う事は聞かなければならない。とりあえず、ここがどんな所だか見て、気に入らなかったら飛び出せばいいと太郎は覚悟を決めた。

 三人は本堂に向かって、建ち並ぶ僧坊の間を歩いて行った。
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