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陰流の開祖であり、忍びの術の開祖でもある愛洲移香斎の物語です。
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1421年 近江国に生まれる。 1歳
1448年6月 宗砌、宗匠職、連歌会所奉行に任じられる。 28歳    
1451年 この頃、宗砌に師事し連歌に専念。 31歳
1452年 この頃、相国寺を出て、東山近くの白川辺りに草庵を結び、古典、連歌の修行を積む。 32歳
1454年11月 宗砌、山名宗全と共に但馬に下国。宗祇も後を追う。 34歳
1455年1月16日 宗砌(74)但馬にて死す。 35歳
1455年4月 『宗砌句』の編集を終え、上京し専順に師事する。
1457年4月 能阿弥、宗匠となる。 37歳
1457年8月13日 師専順、惟仲、親慶、日晟、青阿、与阿、原春、久茂、正頼、光好、師敏らと『何路百韻』
1460年 この頃より、堺の宗友と交友。 40歳
1461年正月1日 専順の発句を起句にした独吟『何人百韻』 41歳
1461年9月23日 北畠被官章棟の発句を起句にした独吟『何人百韻』
1462年4月 専順らと連歌会に出る。 42歳
1463年3月 尾張国丹羽郡犬山郷政所にて『何舟百韻』独吟。 43歳
1463年5月下旬 『ささめごと』なる。
1464年正月1日 専順の発句を起句にした独吟『名所百韻』 44歳
1464年3月 安富盛長主催の『熊野千句』(発句心敬、専順、行助一座)に専順門として参加。
1465年正月16日 心教、実中、行助、元説、専順、士阮、宗怡、公範らと『何人百韻』 45歳
1465年4月16日 奈良に下向し、興福寺大乗院に尋尊を訪ねる。
1465年12月14日 細川勝元、元説、賢盛、通賢、心敬、専順、常安、行助、具忠、世縁、弥太郎、頼宣、光信らと『何船百韻』
1466年正月18日 北野会所月次連歌『何人百韻』に能阿弥(奉行)、賢盛、行助、専順らと同座。 46歳
1466年2月4日 心敬、行助、専順、英仲、元用、弘仲、量阿、清林、宗怡、紹永、士阮、能通、慶俊、政泰、与阿、弘玄、常広らと『何人百韻』
1466年閏2月20日 吉野の花一見の帰途、奈良に寄り、尋尊に対面。
1466年4月以前 細川勝元、盛長、心敬、道賢、行助、賢秀、専順、常安、通賢、元説、宗怡、頼宣、元綱、幸綱、元次、能範らと『熊野法楽千句』
1466年6月 関東に下向。
1466年7月 駿河府中の今川義忠を訪ね、8月、清見潟に月を眺めて連歌一折。五条安次郎(宗長)と初めて一座。
1466年7月16日 『行助句集』なる。
1466年9月 相模より北上、武蔵越生の太田道真の山家を訪ね、月末に武蔵五十子の陣に着く。
1466年10月 武蔵国五十子の新田家純の陣所にて長尾孫六(景忠?)に指南書、『藻塩草(長六文)』を送り、太田道真、道灌父子の保護を受け、連歌を指導。
1467年3月 長尾孫四郎(景春?)にあて連歌指導書『吾妻問答』なる。 47歳
1467年7月末 心敬、『藤河題百首和歌』を詠み、相模大山に隠棲。
1468年秋 結城氏の招請に日光、白河へ旅立ち『白河紀行』を著す。48歳
1468年10月22日 白川関にて、尹盛、牧林、穆翁、旬阿らと『百韻』
1469年秋 上洛。 49歳

1470年正月1日 武蔵国品川にて、宗祇独吟『名所百韻』 50歳
1470年正月3日 宗祇独吟『夕何百韻』
1470年正月12日 再び関東に下り太田道真の河越館で、心敬、中雅、印孝、長敏、永祥、義藤、大胡修茂、満助、長刹、興俊、幾弘らと『河越千句』を巻き、連歌指導書『角田川(吾妻問答と内容は同じ)』を執筆。
1470年秋 心敬、白河、会津に下向。兼載、心敬の弟子となる。
1471年正月と6月 相模三島の陣所および美濃国群上群篠脇城において、東常縁より、古今集講釈を受ける。 51歳
1471年3月21日~23日 三島明神法楽として『三島千句』独吟。
1471年3月29日 心敬、太田道真のために連歌作法書『私用抄』を著す。
1471年夏 心敬、相模大山に隠棲する。『老のくり言』なる。
1471年8月 能阿弥、大和長谷寺において没す。
1472年秋 関東を発って帰洛。 52歳
1472年7月26日 美濃において聖護院道興、専順、紹永、慶蘭丸らと『何路百韻』
1472年10月6日 遠江の堀江駿河守賢重邸において宗祇両吟『山何百韻』
1472年12月16日~ 21日 斎藤妙椿の革手城にて、専順、紹永、圭祐、慶菊丸、藺仲、梵揚、師阿、守保、経泰、重光、永兼、由阿らと『美濃千句』
1473年2月4日 連歌作法書『宗祇初心集』なる。 53歳
1473年8月19日 宗祇、宗元、元用と三吟『何路百韻
1473年秋頃より、飛鳥井雅親邸内(近江柏木)に種玉庵を営み、連歌と古典研究に没頭。
1474年正月5日 宗祇、元盛と両吟、『何木百韻』 54歳
1474年2月 第一句集『萱草(わすれぐさ)』を編む。
1474年6月 心敬、太田道灌主催の『江戸歌合』に合点する。
1474年11月 専順の発句に独吟『何船百韻』
1475年4月16日 相模大山において心敬(70)没す。 55歳
1475年9月25日 是観、宗珍、賢林、杲船、春海、証了、一覚、快宿、良深、重阿、可済らと『○○千句』
1475年12月 源氏物語解釈『種玉編次抄』なる。
1475年 夢庵肖柏に初めて『古今和歌集』を講義。
1476年正月28日 宗祇、初めて将軍家の連歌会の連衆に加わる。 56歳
1476年正月 長尾にあてて連歌指導書『連歌心付之事』なる。
1476年2月11日 春日末社法楽『何路百韻』独吟。
1476年3月6日 美濃国河瀬にて、専順、紹永、甚昭、俊重、清玉、氏忠、正玄、承世、重阿、猿若、玄初、続家、実永らと『十花千句』
1476年3月20日 美濃にて専順(66)死す。
1476年4月23日 畠山政長、賢盛、長興宿禰、長則、祥盛、国久、周木、栄阿、賢林、世縁、盛春、立阿、木阿らと『何船百韻』
1476年5月 先師7人の佳句を集めて『竹林抄』を編み、一条兼良に序文を依頼。
1476年 肖柏、宗祇の源氏物語聞書『弄花抄』なる。
1477年正月22日 京にて、『何船百韻』を大内政弘、杉美作守重道、光知、日与、弘朝、伊訓、弘相、国規、武道、利玄、房行、正任、弘実、日顕、立承、基佐、宗親と一座する。 57歳
1477年7月 種玉庵において、源氏を講す。
1477年11月 京洛における戦乱終焉(応仁の乱終わる)。
1477年 肖柏の『伊勢物語肖聞抄』が成立。
1477年 名声高くなり、幕府貴顕の連歌会に招かれる事が多くなる。
1478年3月下旬 宗祇、宗観(宗長)を伴い、上杉房定を頼って越後に下向。 58歳
1478年4月18日 宗観にあて『百人一首注』を書く。越後にて越年。
1479年2月 宗観の伊勢物語講釈『宗観聞書』なる。 59歳
1479年3月 越前一乗谷において朝倉弾正(孝景)あて連歌指導書『老のすさみ』を著す。
1479年秋 宗祇、帰洛する。
1479年12月 卜部兼倶、宗祇あて『大嘗会之事』なる。
1480年3月 夢庵肖柏、兼良に源氏有職の事を質疑する。 60歳
1480年5月 宗観、宗作、宗雅を伴い、大内政弘を頼って周防山口に下向。 さらに博多まで至り、10月、『筑紫道記』が成る。
1480年8月 宗観、宗作、宗雅の前で『何路百韻』独吟。
1480年9月8日 長門国豊浦宮司武内忠国宅にて、忠国、宗賀、良性、宗作、桂舜、宗観、興泰、千代丸、乗盛、宗親と『何人百韻』
1480年9月28日 博多竜宮寺にて、空吟、弘相、朝酉、英誉、岸孝、宗観、宗賀、良本、永賀、眼阿、鶴寿と『何木百韻』
1481年2月24日 俊賀、直珍、正任、心田介、宗作、唯阿、宗観、良性、安利、能孝、宗親、光永らと『何路百韻』。 61歳
1481年3月 肥後国八代の城主相良小次郎長敏あて指導書『宗祇発句判詞』なる。
1481年夏 宗祇、帰洛する。ついで第二句集『老葉(わくらば)』自撰し、注釈して大内政弘に贈る。
1481年8月 種玉庵で夢庵肖柏に『古今集』を講じる。翌年正月に終わる。
1482年2月2日 政種、宗伊、信重、堯珍、正兼、肖柏、宗文、正存、正親、正能、秀王番、正誠、正貞、寿隆、正時、春海、種家、正信らと『何人百韻』 62歳
1482年2月25日 摂津湯山において、宗伊、宗祇両吟『何路百韻』
1482年3月7日 守穆、正善、政宣、世縁、宗船、玄清、宗観らと『薄何百韻』
1482年3月20日 長谷前大僧正通興坊において、聖、実、旨宗、中納言入道、道空、宗伊、頼宣、芸阿、調阿、徳阿、政孝らと『何人百韻』
1482年10月 弟子宗観、基佐らと、大原十如院において前句付を試む『大原三吟』
1483年正月16日 下京において、盛家、泰言甚、基佐、顕乗、宗観、盛安、恵淳らと『何人百韻』 63歳
1483年3月末 関東下向、越年、越後(上杉氏)を回って翌16年晩秋帰洛。
1485年3月 能勢頼則、『住吉法楽千句』を張行。 65歳
1485年3月27日 宗伊、盛郷、明鏡、頼連、宗作、光信、世縁、顕乗、政宣、智璞らと『何路百韻』
1485年閏3月 三条西実隆に『源氏物語』『伊勢物語』を講釈、翌18年6月に終わる
1485年7月 『帚木別注』を著し、実隆に贈る。
1485年8月 第二連歌集『老葉』を再編する。
1485年8月30日 仏陀寺会にて、明鏡、肖柏、盛郷、顕乗、是観、世縁、智璞、祖通、元用らと『何人百韻』
1486年2月6日 白洲亭にて、浄誉、氏昭、宗昭、頼重、宗友、則直、宗作、良珠、周賢、明賢、恵林らと『何人百韻』 66歳
1486年2月25日 将軍義尚、細川政元、政国、政春、具忠、慶琳、元平、光清、恵俊、元長、景有、通秀、弥阿、世縁、賢盛、頼連、賢家、宗春、元用らと『千句三物』
1486年3月27日 賢仲、盛郷、頼連、肖柏、光信、世縁、長久、玄清、恵俊、宗作、宗悦らと『何船百韻』
1486年6月 宗春、『百句連歌』を後土御門院に進じ、兼載と名を改める。
1486年7月4日 朝倉氏景、死す。宗祇、弔意のため越前に下向し、9月14日上洛。
1486年9月30日 孝清、日与、肖柏、頼連、賢仲、泰言甚、証了、宗長、政宣、恵俊、玄清、宗鈍らと『山何百韻』
1486年12月 清水寺において、宗祇独吟『名所百韻』
1487年4月12日 三条西実隆に古今集講釈を始める。 67歳
1487年10月9日 種玉庵において、泰言甚、宗悦、宗友、宗船、恵俊、宗長、玄清、宗怒、肖柏、恵林、盛安、重阿、眼阿らと『葉守千句』始行。
1487年11月10日 宗般、玄清、宗怒、宗長、宗悦、泰言甚、宗友、肖柏、恵俊、恵林、盛安、重阿らと『何木百韻』
1487年 閏11月 伏見宮邦高親王第において『伊勢物語』を講義。聴衆には勝仁親王(後柏原天皇)、邦高親王、菊亭公興、庭田雅行ら。
1488年正月1日 宗長と『何木百韻』を両吟。 68歳
1488年正月22日 肖柏、宗長と『水無瀬三吟百韻』を巻く。
1488年3月 能勢頼則、細川政元、肖柏、正存、正時、正純、宗長、宗鑑、堯珍、正頼、実任、正種、宗般らと『千句三物』
1488年3月28日 宗祇、北野会所奉行(宗匠)となる。
1488年4月5日 連歌会所開きの『何路百韻』 あらぬ名をかるや天びこ時鳥
1488年4月 近江国鈎の陣所において、足利義尚のために伊勢物語を講ずる。
1488年4月 正善、肖柏、紹宣、光信、宗長、守穆、正玄、玄清、周寅、恵俊、宝球、光釈、重阿らと『朝何百韻』
1488年4月25日 政春、禅予、寿官、政信、肖柏、賢仲、政宣、光信、臨招、堯珍、盛郷、恵俊、本阿、宗長、珍海、成衡、全藤らと連歌会開きの『何路百韻』
1488年5月9日 越後に下向。
1488年7月 宗長独吟『大神宮法楽千句』の加点する。
1488年9月30日 越前より上洛。
1489年3月 畠山政長あて『連秘抄』なる。 68歳
1489年3月末 周防に下向し『山口抄(伊勢講)』なる。
1489年5月11日 宗元と『何路百韻』を両吟。
1489年8月 『会席廿五禁』なる。
1489年9月半ば  帰洛する。
1489年9月27日 賢家、肖柏、元秀、盛能、一覚、重長朝臣、基佐、盛郷、臨招、玄清、秀王番、恵俊、与一、蓮阿、道祖鶴丸らと『夢想百韻』
1489年12月18日 宗祇、宗匠職を兼載に譲る。
1489年12月26日 政誠、貞仍、玄宣、丹三位、禅予、寿官、兼載、恵俊、臨招、康慶、経安、木阿、全藤、政宣、俊成らと『○○千句』
1490年正月11日 宗祇宅にて、賢仲、兼載、玄清、宗作、経安、恵俊、賢胤、宗純、重阿らと『何人百韻』 70歳
1490年2月25日 行二、兼載、忠胤、肖柏、一覚、政宣、泰綱、宗長、恵俊、玄清、尚行、蓮阿らと『何人百韻』
1490年3月5日 政宣、基佐、宗長、有孝、兼載、肖柏、松丸らと『何船百韻』
1490年3月9日 賢仲、肖柏、兼載、玄清、宗長、恵俊、宗作、賢久、派一、匡久らと『何人百韻』
1490年8月 本能寺日与法印坊において、肖柏、宗長、基佐、玄清、宗作、日与の7人の弟子の前句付に加点をした『七人付句判詞』なる。
1490年9月 住吉参籠の時、『夢想百韻』独吟。
1490年9月20日 秀順、肖柏、長澄、宗友、宗般、日順、国家、宗益、重順、平弁、良珠、長長、玄清らと『山何百韻』
1490年12月22日 保護者の飛鳥井雅親(栄雅)が74才で亡くなったため、種玉庵を室町の花の御所近くの三時智恩寺(尼御所入江殿)の隣の竹林に移す。
1491年2月 『兼載鼻紙』なる。 71歳
1491年3月24日 種玉庵において、人麿影供三十首和歌張行。
1491年5月2日 宗祇、越後(上杉氏)に下向。
1491年10月3日 若狭より帰洛。
1491年10月15日 正種、肖柏、宗益、宗長、玄清、猿丸らと『何木百韻』
1491年10月20日 有馬の湯において肖柏、宗祇、宗長三吟『湯山三吟』
1492年正月22日 兼載、其阿、基佐、玄清、宗長、一覚、阿弥、宗覚、仙覚、但阿、領重、恵俊、宗益、竹阿らと『何路百韻』 72歳
1492年正月23日 秀文、宗長、兼載、玄清、快乗、恵俊、宗祐、宗益、宗牧、眼阿、武員らと『何路百韻』
1492年2月8日 日増、兼載、日顕、基佐、宗長、証了、玄清、乗厳、領重、恵俊、弘茂、宗益、恵顕、貞顕らと『何人百韻』
1492年3月19日 七条道場にて、兼載、基俊、玄清、弥阿、一覚、恵俊、宗覚、弘覚、領重、但阿らと『山何百韻』
1492年4月8日 兼載、肖柏、盛次、宗長、玄清、恵俊、宗益、眼阿らと『何船百韻』
1492年6月25日 紀州小松原において『何路百韻』独吟。
1492年11月15日 三条西実隆第において源氏物語論義行なわれる。
1492年12月7日 宗祇、実隆に未来記雨中吟を講ずる。
1493年3月25日 基定、宗巧、基佐、宗長、玄清、慶祐、宗益、盛安、浄阿、泰言甚、正宗らと『何船百韻』 73歳
1493年春 第三の句集『下草(初編)』なる。
1493年閏4月5日 越後に下向。
1494年3月 上洛。74歳
1494年3月9日 清水寺坂本坊において、快勝、兼載、行二、肖柏、泰言甚、宗長、玄清、正孝、宗益、基佐、行時、鎮秀らと本式連歌『何人百韻』
1494年4月11日 笠岡友竹宅にて、宗知、友竹、宗藤、宗作、元通、宗歓、高安、安真、茂椿、宗貞らと『薄何百韻』
1494年10月30日 正種、宗般、康正、肖柏、正盛、寿安、堯珍、正存、宗忍、仲徳、正時、寿椿、頼則、専海、為俊、弥太郎、正頼、建知、公胤らと『何路百韻』
1495年正月6日 北野会所において、聴雪、兼載、玄宣、玄清、友興、長泰、宗長、恵俊、宗忍、宗忠、慶卜、正佐、宗坡、盛郷らと新撰菟玖波集成就祈念連歌の『何人百韻』 75歳
1495年3月 連歌指導書『淀の渡』なる。
1495年3月 『新撰菟玖波集』のため夢庵肖柏、摂津より上洛。
1495年6月2日 『新撰菟玖波集』全二十巻の草稿なる。
1495年7月18日 東素純に古今伝授する。
1495年9月26日 『新撰菟玖波集』を後柏原天皇日奏覧。
1496年正月9日 清水寺にて『何人百韻』独吟。 76歳
1496年3月23日 『新撰菟玖波集』撰集報賽のため、長門国にて『住吉社法楽百首和歌』を奉納。
1496年6月7日 護道、兼載、広秀、恵俊、玄清、宗長、宗哲、宗仲、寿慶、宗坡らと『何人百韻』
1496年8月5日 桜井宅にて、重宗、兼載、宗長、秀隣、光信、玄清、恵俊、宗仲、宗親、宗坡、寿慶らと『何路百韻』
1496年8月15日 兼載、正善、玄宣、護道、紹宣、光信、守穆、玄清、恵俊、宗仲、真存、寿慶らと『山何百韻』
1496年10月 『源氏不審抄出』なる。
1496年11月18日 『下草』再編す。
1497年5月 赤松政則の死去と義村の跡目相続の祝賀に播磨に行く。 77歳
1497年6月 上杉房能の跡目相続の祝賀に越後下向。
1497年9月4日 帰洛する。ついで、摂津辺りに下向。
1497年11月19日 近衛尚通(26)のため、宗祇、古今集を講ず。
1498年正月27日 寺井邸にて、知清、宗宣、宗長、宗鈍、玄清、宗徳、宗作、宗因、恵俊、匡久、珠全、宗坡、宗哲、宗碩、公春、守元らと『山何百韻』 78歳
1498年2月5日 尚通あての古今集講釈(伝授)終わる。
1498年5月18日 斎藤利綱に古今集講義する。
1498年秋 種玉庵において、源氏物語を講ず。
1498年閏10月6日 相国寺にて、集料、玄宣、正善、宗作、紹宣、宗長、政宣、玄清、宗碩、宗坡、守穆、寿慶らと『何人百韻』
1498年11月4日 日泰、基佐、泰言甚、証了、玄清、日城、宗長、慶祐、宗碩、宗坡、為貞、宗哲、理円、匡久、寿慶、敏定らと『何木百韻』
1498年11月 近衛邸にて百人一首、詠歌大概、伊勢物語を講ず。
1499年正月4日 種玉庵において、宗長、玄清、宗鈍、頼茂、宗仲、匡久、宗碩、宗哲、宗恵、公春、宗坡、恵俊、昌綱、盛安、幸千代と共に『何人百韻』 79歳
1499年2月19日 清水寺にて、願阿、肖柏、泰言甚、宗長、統秋、国清、玄清、宗作、宗哲、心海、領重、宗碩、宗中、公春、寿慶らと『何水百韻』
1499年2月25日 細川政元、政賢、右馬助義高、玄宣、高国、三好元長、肖柏、宗長、宗哲、恵俊、泰言甚、宗作、日顕、盛郷らと『千句三物』
1499年3月15日 実隆邸において、宗祇、宗長、玄清ら俳諧云捨。
1499年6月23日 小倉実澄に新撰菟玖波集奥書を講義。
1499年3月~7月 弟子への遺誡として宗祇独吟『何人百韻』
1499年7月6日 赤沢邸にて、政定、兼載、政宣、玄清、承意、心海、昭仙、宗仲、宗碩、吉成、国行、寿慶、盛安、左柏、阿茶丸らと『何船百韻』
1499年、 自撰発句集『宗良葉(うらば)』自撰する。
1500年4月9日 慶千代丸、兼載、玄清、宗仲、宗碩、宗坡、匡久、正運、周安、鶴松丸らと『山何百韻』 80歳
1500年5月7日 近衛政家、前関白、勧中、左衛門督、玄清、兼載、民部卿、慶乗、周清、長泰朝臣、実治朝臣、宗仲、済継朝臣、忠綱、光継、寿慶らと『何路百韻』
1500年7月7日 匡久、肖柏、泰言甚、基佐、慶千代丸、玄清、心海、宗仲、宗碩、宗全、宗坂、寿慶らと『何人百韻』
1500年7月11日 寺井兵衛尉亭にて、知清、肖柏、国高、泰言甚、宗純、玄清、等順、等順、寿慶、宗仲、匡久、宗碩、家清らと『何人百韻』
1500年7月16日 宗祇、宗碩を伴い越後の旅に出立。
1500年7月28日 種玉庵焼失。
1500年8月 越智久通あて連歌作法書『浅茅』なる。
1501年6月~9月 越後の自然斎旅宿で、宗碩に古今集講釈し『十口抄』なる。 81歳
1501年6月 宗祇、越後において、病に倒れる。
1501年6月 宗長、駿河を立って、越後に下向。
1501年6月 肖柏の『連歌新式今案等』なる。
1501年9月 古今相伝文書を実隆に送る。
1502年2月末 宗長と宗碩を伴い、越後を立ち関東に向かう。 82歳
1502年4月25日 伊香保の湯にて、宗祇、宗碩、宗坡三吟『何衣百韻』
1502年7月30日 箱根湯本において、宗祇、客舎で病没。 駿河桃園の定輪寺に葬られる。
1502年秋 宗長の『宗祇終焉記』なる。
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