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陰流の開祖であり、忍びの術の開祖でもある愛洲移香斎の物語です。
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28.関東






 太田備中守が今川家の内訌を治めて、江戸城に戻って来たのは去年の十月の事だった。

 江戸城に戻ると備中守は休む間もなく、五十子(イカッコ)の陣(本庄市)に向かった。

 五十子の陣は古河公方(コガクボウ)、足利成氏(シゲウジ)に対する関東管領(カンレイ)、上杉民部大輔顕定(ミンブノタイフアキサダ)の本陣だった。

 五十子は古河の西およそ十一里(約四十四キロ)程の所にあり、利根川と鎌倉街道に挟まれ、鎌倉と上野(コウヅケ)の国(群馬県)を結ぶ重要な位置にあった。関東は今、利根川を境に東と西に二分され、西側が上杉氏、東側が古河公方の勢力範囲となっていた。

 当時の利根川は現在とは異なり、千葉県の霞ケ浦に流れてはいなかった。関東平野に流れ出た利根川は、前橋市の東側を通り、駒形の北、伊勢崎市の南、世良田の南を通り、群馬県と埼玉県の県境を流れて、北河原町辺りから南下し、行田(ギョウダ)市を経て岩槻(イワツキ)市へと向かい、岩槻市の北辺りで荒川と合流して東京湾へと流れていた。利根川も荒川も度々の洪水で流れを変え、二つの川に挟まれた行田市から岩槻市の一帯は水郷地帯となっていた。

 古河公方に対するため、利根川を挟んだ五十子に上杉方が陣を敷いたのは、もう十七年も前の事だった。初めの頃はただの砦に過ぎなかったが、戦が長引くにつれて規模も大きくなって、屋敷も数多く建ち、広野の中に出現した城下町のようになっていた。

 五十子の陣は濠と土塁に囲まれ、天皇と将軍から下賜(カシ)された旗が翻(ヒルガエ)り、関東管領の山内(ヤマノウチ)上杉民部大輔顕定、相模守護の扇谷(オオギガヤツ)上杉修理大夫定正(シュリノダイブサダマサ)、越後守護の上杉兵庫頭房定(ヒョウゴノカミフササダ)の嫡男、上杉左馬助(サマノスケ)定昌(顕定の兄)、山内上杉家の家宰(カサイ、執事)の長尾尾張守忠景(オワリノカミタダカゲ)、備中守の父親、太田道真(ドウシン)らを中心に、武蔵、上野、相模の兵、七千人余りが駐屯していた。

 備中守は五十子の本陣に着くと、直ちに、長尾四郎右衛門尉景春(シロウウエモンノジョウカゲハル)の立て籠もる鉢形(ハチガタ)城を攻撃するように勧めたが、備中守の意見は入れられなかった。四郎右衛門尉などに何ができる。放って置けば、そのうちに降参して戻って来るに違いないと誰もが思っていた。備中守が、四郎右衛門尉の後ろには、長年の戦続きで力を付け始めている国人(コクジン)たちがいると説得しても無駄だった。皆、自分たちの権力の座にどっかりと座り、国人たちが自分たちに反抗するわけはないと高をくくっていた。

 備中守はがっくりと気落ちしながら、江戸城へと帰って行った。

 古河公方と関東管領の争いが始まったのは、二十年も前の享徳(キョウトク)三年(一四五四年)の年の暮の事だった。十二月二十七日、公方の足利成氏が管領の上杉右京亮憲忠(ウキョウノスケノリタダ)を殺害したのが原因だった。

 成氏の父親、持氏(モチウジ)は幕府軍によって滅ぼされた。幕府軍の中心となっていたのが右京亮の父親、安房守憲実(アワノカミノリザネ)だった。成氏は父親の仇として右京亮を自邸に招いて謀殺してしまった。この事件の裏には、持氏と共に没落した関東の豪族たちが成氏を中心に集まり、上杉氏に対立するという動きがあった。その後、各地で戦が始まり、幕府も動き、幕府軍として今川治部大輔範忠(ジブノタイフノリタダ、竜王丸の祖父)が鎌倉を攻略した。以後、公方の成氏は鎌倉に戻る事はできず、上野、下野、武蔵、下総、四ケ国の接点である古河を本拠地とした。

 享徳四年の正月から寛正(カンショウ)二年(一四五六年)にかけて、戦も各地で行なわれたが、やがて膠着状態となり、上杉方は太田備中守父子に江戸城、河越城、岩槻城を築かせて守りを固め、公方の方も古河城を築いて守りを固めた。

 長禄(チョウロク)三年(一四五九年)十月、両軍は武蔵の国の太田庄(北埼玉郡)、上野の国の羽継原(ハネツグハラ、館林市)、海老瀬口(邑楽郡板倉町)などで激しく戦った。この戦は上杉方の敗北に終わった。この頃、本陣として五十子の陣が築かれた。翌年も川崎城(栃木県矢板市)、喜連川(キツレガワ)城などで戦があり、またもや、上杉方の負けだった。その後、各地で小競り合いはあったが、成氏の軍と上杉の軍との直接対決はなかった。

 応仁二年(一四六八年)十月より上杉軍の反撃が始まった。利根川の綱取(ツナトリ)河原(伊勢崎市)にて両軍が激突して、上杉方の大勝利となった。

 文明三年(一四七一年)になると、上杉軍は各地で成氏方の城を落とし、六月には、ついに古河城も落とし、成氏は下総の国の千葉城に逃げ込んだ。ところが、翌年の二月には、成氏は勢いを盛り返して、古河を奪回する事に成功した。

 長い戦の間、戦死した者も多く、関東管領の山内上杉家の当主は房顕(フサアキ)から顕定に代わり、扇谷上杉家も持朝(モチトモ)から顕房(アキフサ)、政真(マサザネ)、そして定正と代わって行った。

 文明五年六月、上杉軍の中心になって活躍していた山内上杉家の家宰、長尾左衛門尉景信(サエモンノジョウカゲノブ)が五十子の陣中で没した。左衛門尉の死は上杉方にとって大打撃だった。応仁二年と文明三年の戦に勝利する事ができたのは、左衛門尉の活躍のお陰とも言えた。

 左衛門尉の後任を誰に決めるか、山内上杉家の老臣たちは評定を開いた。評定の結果、山内上杉家の家宰職には、左衛門尉の弟で、上野の国の総社長尾氏を継いでいた尾張守忠景に決定した。当然、跡を継ぐものと信じていた左衛門尉の嫡男、四郎右衛門尉景春はこの処置に不満を持った。

 四郎右衛門尉はこの時、三十一歳で、父と共に戦を何度も経験した一角の武将だった。しかし、老臣たちは、この重要な時期を乗り切るためには、四郎右衛門尉よりも尾張守の方が頼りになると判断した。山内上杉家の当主、民部大輔顕定がまだ二十歳の若さという事もあり、家宰には、経験と共に思慮分別のある尾張守が選ばれたのだった。老臣たちの評議の結果、尾張守が選ばれたわけだったが、四郎右衛門尉は、民部大輔が尾張守の嫡子、修理亮(シュリノスケ)を可愛がっているために、その父親を家宰職に付けたに違いないと疑っていた。

 四郎右衛門尉は父の葬儀を本拠地の白井(シロイ、群馬県子持村)にて行なうと言って、五十子の陣を後にし、その後、五十子には戻って来なかった。四郎右衛門尉は民部大輔に対する恨みを持ったが、すぐに叛旗(ハンキ)を翻したわけではなかった。上杉家を相手にして勝てるとは思っていない。負けると分かっていながら謀叛(ムホン)をたくらむ程の愚か者ではなかった。ところが、四郎右衛門尉が五十子の陣を去って、白井城に籠もっているという事はすぐに噂になり、反上杉派の者たちから、ひそかに誘いの手が差し延べられた。古河公方からも誘いの声は掛かった。それでも四郎右衛門尉は動かなかった。古河公方に利用される程、馬鹿ではないと、じっと回りの状況を見守っていた。

 やがて、四郎右衛門尉にも状況がはっきりと見えて来た。今まで上杉方の武将として物を見ていたため、上杉方の国人たちは皆、心から上杉氏に属しているものと思っていた。しかし、実際には上杉方に属してはいても、上杉氏のやり方に不満を持っている者が以外に多い事に気づいた。

 四郎右衛門尉は頭を丸めて、伊玄(イゲン)入道と号し、喪(モ)に服すと称して白井城から出なかったが、着実に謀叛の計画を進めていた。上野の国はもとより武蔵の国、相模の国の不満分子とも連絡を取りながら、実行に移す時期を待っていた。この時点では、古河公方とは組んではいなかった。いずれ組まなくてはならなくなる事は分かっていたが、今はまだ時期が早かった。自分の実力を充分に分からせてから高く売り込むつもりでいた。

 伊玄入道が動き出したのは文明八年(一四七六年)になってからだった。伊玄は白井城を出ると五十子の陣には入らず、五十子の南、三、五里程の鉢形城に入った。鉢形城は祖父、左衛門尉景仲が築いた城だった。景仲は山内上杉家の家宰であると共に、上野の国の守護代と武蔵の国の守護代も兼ねていた。景仲は武蔵における拠点として、犬懸(イヌカケ)長尾氏の所領であった鉢形に城を築いたのだった。犬懸長尾氏の当主は景仲の息子、景明が継いでいた。古河公方との戦の始まった当初、景仲は鉢形城を本陣にしようと思ったが、鉢形城は守るのにはいいが、攻撃に出るのには不向きだと考え、利根川と鎌倉街道に挟まれた五十子を選んだのだった。

 鉢形城に入った伊玄は五十子の陣を睨んだまま行動には出なかった。五十子では、伊玄が裏切ったとの噂が流れたが、まさか、ここに攻めて来る程の度胸はあるまいと侮(アナド)っていた。一応、鉢形城に対する守りも固めてはいたが、攻めて来ると思っていた者は誰もいなかった。ところが、梅雨の上がった六月の末、突然、伊玄は五十子の陣を攻めて来た。江戸城の太田備中守が駿河に出掛けた留守を狙っての事だった。伊玄は猛攻撃を掛けた。しかし、五十子の陣はびくともしなかった。やはり、兵の数には勝てなかった。五十子の五千人に対して、伊玄の方は一千にも充たなかった。

 伊玄は鉢形城に退くと長期戦の覚悟をして、兵糧を集めると共に敵の糧道を断つ作戦に出た。伊玄が表立って叛旗を翻した事によって、今まで迷っていた国人たちも上杉氏に敵対する決心をして、鉢形城に続々と集まって来た。上野の国では、今まで上杉方として活躍していた上州一揆が分裂して、旗頭だった長野左衛門尉が伊玄に付き、上野の国から五十子に向かう兵糧を押えた。武蔵の国や相模の国でも、ひそかに伊玄に同意して、今後の展開次第では、上杉氏に謀叛をしようとたくらむ者も多かった。

 そんな時、太田備中守は駿河から戻り、五十子の陣に来たのだった。五十子の陣は、六月に伊玄が攻めた時より兵の数も増え、守りも強化していた。伊玄が何度、攻めて来ようとも簡単に撃退する自信はあった。備中守が伊玄に同意する者が現れないうちに、早く討伐した方がいいと提案したが、笑われるだけで相手にされなかった。

 江戸城に帰ると備中守は、含雪斎(ガンセツサイ)に滞在している銭泡のもとに行って愚痴をこぼした。

「無駄足となりましたか」と銭泡は言った。

「困ったもんじゃ」と備中守は渋い顔をして首を振った。「世の中の流れというものが見えんのじゃ。早いうちに四郎右衛門(伊玄)を倒さん事には後で取り返しの付かない事となる」

「また、大きな戦が始まるのですか」と銭泡は聞いた。

「多分のう」と備中守は頷いた。「その事が分からんのじゃよ。五十子の陣は、すでに前線基地ではなくなっておる。大将たちは鎧(ヨロイ)も身に着けん。昼間っから女をはべらして、酒を飲んで連歌会をやっておる。上の者がだらけておるから、下の者までが遊山(ユサン)気分で遊んでおる。濠は塵芥(チリアクタ)で埋まり、兵の数より遊女の数の方が多い始末じゃ。情けないわ」

「それは、ひどいですな」と銭泡は顔を歪めた。

「わしは、左衛門尉(景信)殿が亡くなられ、跡継ぎに尾張守(忠景)殿が決まった時、これはまずいと思った。しかし、わしが山内家の事に口出しするわけには行かなかった。山内家の重臣たちが決めた事に、わしが口出しする事はできなかったんじゃ。わしは仕方なく、我が殿(扇谷上杉修理大夫定正)に言ったんじゃ。上杉家のために、このままでは良くない。家宰職は尾張守殿だとしても、せめて、武蔵の国の守護代は四郎右衛門を任命するように殿の口から管領殿に伝えてくれとな。殿は笑って、人様の家の事に口出しするなと言ったわ。殿の悪口は言いたくはないが、道朝(ドウチョウ、扇谷上杉持朝、定正の父)殿と比べると、考える事が小さ過ぎるわ。今回も上杉家全体の事より、山内家に騒ぎが起これば扇谷家の勢力が強くなり、やがては管領職に就く事を夢見ているのかもしれん」

「その四郎右衛門殿はまた、五十子の陣を攻めるのでしょうか」

「多分、攻めるじゃろう。今度は前のように簡単には行かんかもしれん。わしは四郎右衛門と何度か一緒に城攻めをやった事がある。奴はよく、わしの所に来ては戦の仕方を聞いていた。物覚えもいいし、敵に回したら厄介な相手になる事は間違いない。向こう見ずな所もあるが、今回の奴の出方を見ると、充分な作戦の上での行動のように思えるんじゃ。実はのう。奴が白井に帰る前、奴はわしの宿所に来たんじゃよ。奴は興奮しておった。尾張守殿が家宰職に就いたのは、尾張守殿の伜、修理亮のせいだと言っておった。修理亮は管領殿の側近の侍で、管領殿に可愛いがられておるんじゃ。年の頃も管領殿と同じ二十歳そこそこじゃ。反面、左衛門尉殿と四郎右衛門の父子は、管領殿から見たら煙たい存在でもあった。先代の管領殿が亡くなられた時、今の管領殿は越後の上杉家から迎えられたのじゃが、その事に大いに貢献したのが左衛門尉殿じゃった。言ってみれば、今の管領殿は左衛門尉殿のお陰で管領になれたというようなものじゃ。当時、管領殿はまだ十三歳じゃった。十三歳で戦の中に巻き込まれたんじゃ。管領として五十子の陣に迎えられたが、管領とは名ばかりで、実権を握っていたのは勿論、左衛門尉殿じゃ。左衛門尉殿は上杉家のためにやるだけの事はやった。しかし、管領殿にとってみれば、左衛門尉はうるさい存在でしかなかったのかもしれん。その左衛門尉殿が亡くなり、管領殿は喜びこそすれ悲しみはせんじゃったろう。そして、老臣たちが跡継ぎに四郎右衛門ではなく、尾張守殿を選んだ事で、管領殿も喜んだ事じゃろう。しかし、四郎右衛門が思っている事は筋違いじゃ。最終決定は管領殿がするに違いないが、四郎右衛門より尾張守殿を選んだのは老臣たちじゃ。四郎右衛門の態度は父親に似て尊大で、老臣たちにも評判が悪かったんじゃ。四郎右衛門は真っ赤な顔をして修理亮父子が許せないと言った。さすがに、管領殿が許せないとは言わなかったが、四郎右衛門が管領殿を恨んでいる事は分かった。四郎右衛門は怒りに任せて、わしに謀叛の相談を持ちかけたんじゃ。わしは聞かない振りをした。頭をよく冷して回りを見る事じゃ、と言ってやった。四郎右衛門は白井に帰った。白井に帰ったまま喪に服していると聞いて、短気を起こさずに済んだと、わしは一安心したんじゃ。四郎右衛門は動かなかった。そして、今年の春、ようやく腰を上げて鉢形城に入った。五十子には入らずに鉢形に入ったのは、もしかしたら謀叛をたくらんでいるのではと、わしも疑った。わしは駿河に向かう前、五十子に行った。四郎右衛門が鉢形に陣を敷いた事によって、いくらか緊張状態にあった。しかし、ただ拗ねているだけじゃ、そのうちに詫びを入れて来ると思っている者がほとんどだったんじゃ。わしにはどうする事もできんかった。もし、四郎右衛門が本気なら、わしが駿河に行っている隙に何かを始めるだろうと思っていた。何も起こらない事を願っていたが、やはり、事は起こった。早いうちに四郎右衛門を討たないと本当に取り返しのつかない事となる」

「備中守殿、わしには難しい事はよく分からんのじゃが、どう、取り返しのつかない事が起こるのですか」と銭泡は聞いた。

「新しい力が出て来ているんじゃよ」と備中守は言った。

「新しい力?」

「鎌倉幕府が滅んで以来、関東の地は権力者が目まぐるしく入れ代わった。その度に戦が起こり、滅ぼされて行った者たちは多い。土地に根をはる国人たちは生き残るために必死じゃった。生き残るためには寝返りも頻繁に行なわれた。強い者に付かなければ滅ぼされるんじゃ。やがて、生き残るために同族同士で手を結んで、一揆というものが形成された。白旗一揆とか藤家(トウケ)一揆とか平(タイラ)一揆とかじゃ。そのうちに同族同士で結ぶより、隣同士の者たちで結んだ方がいいという事になって行った。武州一揆とか上州一揆とかじゃ。奴らはしっかりした基盤というものを持っている。奴らが生き残る道は、今までは強い者と結ぶ事じゃった。公方と管領が争う事となり、関東は利根川によって二つに分かれた。二つに分かれたと言っても、必ずしも西側の国人たちが、上杉氏に従っているというわけではないんじゃ。上杉氏のやり方に反発を感じている者もかなりおる。反発を感じてはいるが、上杉氏に逆らえば滅びる事となる。生き残るために仕方なく、上杉氏に従っているに過ぎん。そこに、上杉家の家宰の家柄である長尾家から堂々と上杉氏に謀叛をする者が現れた。上杉家から見れば、家臣の一人が上杉家に逆らって、無駄な事をしていると思うじゃろうが、国人たちから見れば、そうではないんじゃ。上杉方でありながら上杉家に不満を持っている者たちにとって、四郎右衛門は一揆の旗頭になり得る存在なんじゃよ。そんな者たちは四郎右衛門の動きをじっと見つめておるんじゃ。奴らも上杉氏を敵に回して戦うとなれば命懸けじゃ。四郎右衛門に付いて行けると見極めるまでは、そう簡単には動かんじゃろうが、時が経つにつれて、四郎右衛門に同意する者が増える事は確実じゃ」

「そういうわけだったのですか‥‥‥という事は、四郎右衛門殿の今後の出方によっては、上杉方が分裂する恐れもあるわけですね」

「そんな事になったら公方殿の思う壷じゃ。それだけは絶対に食い止めなくてはならん‥‥‥しかし、四郎右衛門を敵に回したくはなかった」

「備中守殿が四郎右衛門殿と直接に話したらいかがです」

「それができれば苦労はないわ。そんな事をしたら、我が殿は余計な事をしたと、わしの事を恨むじゃろう。そうでなくても、わしが出しゃばり過ぎるとうるさいんじゃ」

「それでは備中守殿はどうするつもりなのです」

「しばらくは様子を見るしかあるまい。どいつが四郎右衛門に同調するかを確かめて、そいつらを片付けて行くしかあるまいのう」

 備中守は言いたいだけの事を言うと、およのを抱きたくなって来たわと言って笑い、含雪斎から出て行った。およのとは駿河から連れて来た娘だった。側室にするつもりだったが、まだ、妻には言ってない。城下にある鈴木道胤の経営する旅籠屋で暮らしていた。

 備中守が帰ると、銭泡は備中守に頼まれていた珠光流の茶室の絵図面を書き始めた。備中守は、どうしても庭園内に珠光流の茶室を建てたいと願っていた。銭泡としても、珠光流の茶の湯を関東に広めるためにも、この江戸城内に茶室を作る事はいい事だと思って賛成した。

 銭泡は備中守から聞いた戦の事も忘れて、絵図面に熱中して行った。





 正月を江戸城で迎えた銭泡は、茶室造りに熱中していた。

 銭泡も十日頃までは、江戸城に訪ねて来る客人たちを相手に、茶の湯の接待に忙しかったが、その後はまた、職人たちを指図して茶室造りに励んでいた。さすがに、備中守の城下だけあって、職人たちも一流の者たちが揃っていた。備中守が江戸城を築く時に、鎌倉から呼んだ棟梁(トウリョウ)が城下に住んでいて、銭泡の思い通りの茶室ができそうだった。

 備中守が沈んだ顔をして、銭泡の前に現れたのは正月も末になってからだった。

「とうとう、やりおったわ」と備中守は言った。

 銭泡には、すぐに備中守が何の事を言っているのか分からなかった。

 備中守の話によると、とうとう長尾伊玄入道が五十子の陣を襲撃して、上杉軍を倒したと言うのだった。銭泡には信じられなかったが事実だと言う。

 五十子の陣でも正月は浮かれていた。それでも、鉢形城の伊玄には油断しなかった。長尾尾張守が中心となって、兵たちの士気を高めて守りを固めていた。正月の三箇日に攻めて来るかもしれないと思っていたが、攻めては来なかった。備中守も十日頃、五十子の陣に新年の挨拶に出掛けたが、守りを固めている兵たちを見て、これなら大丈夫だろうと安心した。父親の道真は越生(オゴセ)に帰っていたので、帰りに越生に寄って江戸城に帰って来た。

 備中守もようやく、のんびりと正月気分に浸ろうとした時だった。五十子から急の知らせが届いた。五十子の陣が崩壊したと言う。備中守にはとても信じられなかった。あれだけ尾張守が守りを固めていたのに、五十子の陣が崩壊したとは、どう考えても信じられなかった。

 去年の六月の末、長尾伊玄は五十子の陣を襲撃したが失敗に終わった。力攻めをしても、びくともしないという事に気づいた伊玄は作戦を変更した。敵の兵糧(ヒョウロウ)を奪い取って、干し殺しにしようと考えたが、それは大した効果はなかった。五十子の陣を完全に包囲してしまう程の兵力を伊玄は持っていない。伊玄は作戦を変更して、味方の者を五十子の陣内に送り込む事とした。武蔵七党の一つ児玉(コダマ)党を味方に引き入れる事に成功した伊玄は、児玉党を五十子の陣に送り込んだ。五十子の陣では、伊玄の裏切りに対して守りを固め、兵力の増強を図っていた。児玉党は伊玄が鉢形に陣を敷いて児玉党の領地に侵入し、略奪を繰り返しているので退治してくれと言って五十子の陣に入った。長尾尾張守は何の疑いもなく、児玉党を引き入れた。そればかりでなく、五十子の陣の南にある城下町にも町人に扮した部下を潜入させた。

 五十子の陣は利根川以東の敵に対するため、北東に向かって守りを固めた単郭の城だった。一里程先に利根川が流れ、後方一里程に鎌倉街道が走り、五十子の南で鎌倉街道は二つに分かれて、一本は白井(群馬県子持村)方面、もう一本は大胡(オオゴ)方面に向かっていた。

 五十子に陣ができ、数千人もの兵が駐屯すると、そこは消費都市となって、様々な物資が集められた。陣が長引くにつれて、自然と各地から商人や職人たちが住み着くようになり、城下町を形成して行った。城下町ができたのは五十子の陣の裏側、鎌倉街道との間だった。丁度、鉢形城に向いている方だった。

 去年の六月、伊玄は五十子の陣を襲撃した時、城下町の一部を焼き払った。その後、長尾尾張守は兵たちを使って城下町を囲むように濠を掘り、土塁を築いた。鉢形城に対する守りは以前より、ずっと堅くなっていた。しかし、城下町に入るのは、それ程、難しくはなかった。伊玄は部下を次々に城下町に送り、そこに住まわせ、陣内にいる児玉党と連絡を取らせた。また、浜川(高崎市)の長野左衛門尉とも連絡を取り、襲撃すべき時期を待っていた。

 伊玄も敵が浮かれている正月に襲撃するつもりでいた。しかし、長尾尾張守もその事を見抜いて、決して油断を見せなかった。機会は正月の十七日にやって来た。長尾尾張守が本拠地の上野の国の総社(前橋市元総社町)に帰った。尾張守も疲れが出て来たのだろう。伊玄が攻めて来ないと見極め、久し振りに総社に帰って行った。伊玄はさっそく長野左衛門尉に使者を送り、明日の未明に決行する事を告げた。

 文明九年(一四七七年)正月十八日、夜明け前、五十子の陣中から火の手が上がった。最初、火が出たのは西側の武器庫だった。兵たちが騒ぎ出すと、次に東側の武器庫からも火が上がった。やがて、次々に火の手が上がり、陣内は混乱状態に陥った。さらに城下町にも火の手が上がり、児玉党が門を開くと、鬨(トキ)の声と共に伊玄の兵が南側から、長野の兵が東側から一斉に攻め込んで来た。

 伊玄の兵はまず、四隅の櫓を占拠すると土塁の上から陣内に矢を放った。陣内の兵は対戦するどころではなかった。寝込みを襲われ、皆、武器も持たずに我先にと逃げ出して行った。それでも戦慣れした武将は反撃して来たが、敵に回りを囲まれてしまえば、どうする事もできなかった。越後勢に守られて管領たちが無事に逃げると、皆、引き上げて行った。

 伊玄は深追いはさせなかった。戦いはまだ始まったばかり、先は長い。今、貴重な戦力を失いたくはなかった。管領を殺したとしても管領がいなくなる事はない。すぐに新しい管領が迎えられる事は分かっていた。

 戦は干前(ヒルマエ)にはけりが着いた。

 伊玄は管領の屋敷に入ると、主立った者たちを集めて労をねぎらった。その後、五十子の陣は鉢形城の前線基地となった。

「それで、管領殿は御無事だったのですか」と銭泡は聞いた。

「御無事じゃ。今、阿内(アウチ、前橋市)におられると言う。我が殿も無事で、細川口(前橋市)におられるらしい。越後の左馬助(定昌)殿は白井城に向かったとの事じゃ」

「白井城と言えば、四郎右衛門(伊玄)殿のお城では?」

「そうじゃ。その城を奪い取るつもりらしい」

「そうですか‥‥‥大変な事になりましたな」

「最悪の事態じゃ。詳しい事情が分からんので、どうして、あの五十子の陣がやられたのか納得ができん。確かに、五十子の陣は東の敵に対して構えられた陣で、南からの敵を想定して構えた陣ではなかった。しかし、この前行った時、鉢形に対しての構えも充分に備わっていた。あれだけ守りを固めながら、どうして敗れたのか理解できん」

「今、五十子には四郎右衛門殿がおるのですか」

「らしいのう」

「備中守殿も御出陣なさるのですか」

 備中守は首を振った。「今、わしがここを動いたら、敵の思う壷(ツボ)にはまる事となろう」

「この辺りにも、四郎右衛門殿に与(クミ)する者がおるという事ですか」

「かもしれん。四郎右衛門が五十子を崩壊させたという事は、まず、古河の公方殿が黙ってはいまい。公方殿と四郎右衛門が手を組む事は明らかじゃ。そうなると、利根川以西の上杉方の国人たちの中にも、上杉氏に不満を持っている者たちは四郎右衛門のもとに集まる事となろう。この辺りにも上杉氏に不満を持っている者は多いんじゃ」

 備中守は銭泡と別れると城下に下り、平川(神田川)の近くにある大山(オオヤマ)の宿坊に向かった。そこは相模大山の山伏たちの溜まり場であり、彼らは備中守のために情報集めをしていた。うまい具合に、彼らの頭である竜仙坊(リュウセンボウ)はいた。竜仙坊は備中守が顔を出すと、笑いながら、「そろそろ、お呼びが掛かる頃だろうと待っておりました」と言った。

「ほう、相変わらずの早耳じゃのう」

「わざわざ、こんなむさ苦しい所においでにならなくても、お呼び下されば、こちらから出向いたものを」

「なに、ついでがあったんじゃ」

「『紀州屋』ですか」と竜仙坊は言った。

 備中守は竜仙坊を見ながら、「その事まで知っておるのか」と聞いた。

 竜仙坊は笑いもせずに頷いた。「敵を知るには、まず、おのれからと」

 紀州屋には駿河から連れて来た、およのがいた。紀州屋は鈴木道胤の江戸での拠点であり、旅籠屋を経営していた。備中守はおよのの事はまだ内密にしていたのに、竜仙坊は知っていた。

「正月は帰ったのか」と備中守は話題をそらした。

「はい。お陰様で、よい正月を迎える事ができました」

「そうか、そいつは良かった。今年は忙しくなりそうじゃぞ」

「そのようで‥‥‥」

 備中守は竜仙坊に、今、管領のいる阿内や上杉修理大夫のいる細川口、伊玄のいる五十子の陣の様子を探ってくれと頼んだ。竜仙坊は頷いて、すでに二十人程の山伏たちが大山から、こちらに向かっている。明日には到着するだろうから、明後日には活動できると言った。

「相変わらず、手回しのいい事じゃ」

「はい。お屋形様を見習っておりますので」

「調子のいいのも相変わらずじゃ。頼むぞ」

「かしこまりました」

 宿坊を出ると備中守は『紀州屋』に向かった。

 次の日から備中守は何事もなかったかのように銭泡から茶の湯を習っていた。

 庭園内の茶室が完成したのは、それから一月後の閏(ウルウ)正月の半ばだった。

 茶室の名は銭泡と一緒に考えて、『筑波(ツクバ)亭』と名づけた。

 茶室の完成と共に備中守の茶の湯の修行も終わり、銭泡は鈴木道胤(ドウイン)の船に乗って、大森寄栖庵(キセイアン)の小田原城へと向かった。

 備中守は、竜仙坊のもたらす各地からの情報を聞きながらも動かなかった。越後勢は白井城を奪い取る事に成功した。管領も扇谷の殿も新たな陣を構え、差し当たっての危険はなかった。伊玄と直接に戦う前に、まず足元を固めなれけばならなかった。江戸城の北一帯に勢力を持つ豊島氏の動きが気になっていた。

 豊島氏は備中守が江戸に進出する以前から、この地に勢力を持つ古くからの豪族だった。表向きは管領の上杉氏に従ってはいても、備中守の事を快く思ってはいない事は確かだった。備中守は江戸の地に独特な城を築き、扇谷上杉氏の家宰として活躍した。名将としての名が上がれば上がる程、豊島氏にとって備中守の存在は脅威となった。いつの日か、備中守に自分たちの領地を奪われるに違いないという脅威を感じていた。かと言って、自分たちに扇谷上杉氏に刃向かう程の力がない事も分かっていた。ところが、長尾伊玄が寝返り、五十子の陣を襲撃して大勝したと聞き、豊島氏は伊玄と共に上杉氏と戦う決心を固めた。豊島氏はひそかに五十子の伊玄と連絡を取りながら、備中守を倒す計画を綿密に練っていた。

 豊島氏が行動に出たのは桜も散った三月の始めだった。豊島勘解由左衛門泰経(カゲユザエモンヤスツネ)、平右衛門泰明(ヘイウエモンヤスアキ)兄弟は石神井(シャクジイ)城、練馬城、平塚城(北区)を結ぶ一線を固めて、江戸城と河越城、岩槻城を結ぶ連絡道を断ち、江戸城を孤立させた。

 同じ頃、本国の相模の国においても伊玄に与同する者が現れた。小沢城(愛甲郡愛川町)の金子掃部助(カネコカモンノスケ)、小磯城(中郡大磯町)の越後五郎四郎、溝呂木(ミゾロギ)城(厚木市)の溝呂木氏らが伊玄の命により、守護である扇谷上杉修理大夫の留守を狙って、相模の国を乗っ取ろうと動き始めていた。

 修理大夫からの催促もあり、備中守はさっそく戦の準備を命じ、自らは江戸城から動かなかったが、家老の斎藤土佐守と川名辺越前守に自慢の足軽兵を付けさせ相模に向かわせた。相模国内の扇谷上杉勢によって溝呂木城、小磯城はわずか一日で落城したが、小沢城はしぶとかった。備中守の軍勢も相模勢と合流して小沢城に総攻撃を掛けたが、金子掃部助は手ごわかった。大軍を以て包囲し、ようやく、小沢城が落城したのは、ほぼ一ケ月後の四月十八日の事だった。

 小沢城の城攻めが続いている間にも各地で戦が行なわれた。四月十日、勝原(スグロハラ、坂戸市)にて、備中守の弟で岩槻城主の図書頭資忠(ズショノカミスケタダ)と伊玄方の小机城主、矢野兵庫助との戦いがあり図書頭が勝っていた。

 四月十三日、いよいよ、備中守自らが出陣して、豊島平右衛門の籠もる平塚城を攻めた。それを救援するために現れた兄、勘解由左衛門に率いられた豊島一族は、備中守と江古田、沼袋原で決戦を挑んだ。結果は備中守の圧倒的勝利に終わり、豊島平右衛門を初めとして一族百五十名以上を失って勘解由左衛門は石神井城に逃げ込んだ。備中守は追撃し、石神井城を包囲した。備中守の総攻撃に会い、石神井城が落城したのは四月の二十一日の事だった。勘解由左衛門は数名の部下と共に夜陰に紛れて逃走し、平塚城へと落ち伸びて行った。備中守は戦陣を整えるため、ひとまず江戸城に戻った。

 豊島氏を倒し、足元の邪魔が消えた所で、備中守はいよいよ五十子の伊玄攻めの準備を始めた。江戸城の留守を守るため、扇谷上杉修理大夫の弟、刑部少輔朝昌(ギョウブショウユウトモマサ)と新井城の三浦新介義同(ヨシアツ)、赤塚城の千葉中務少輔自胤(ナカツカサショウユウヨリタネ)を置いた。三浦新介は備中守の娘婿だった。さらに、吉良左京大夫政忠(キラサキョウノダイブマサタダ)と木戸三河守孝範に武蔵の国を守らせ、大森寄栖庵と松田左衛門尉頼秀(サエモンノジョウヨリヒデ)に相模の国を守らせると、備中守は自ら三百騎と足軽隊を率いて五十子へと向かった。

 梅雨入り前の暑い日だった。





 五月の五日、備中守は五十子の近くの梅沢(児玉町)に陣を敷いた。

 陣を敷くとすぐに、備中守は数人の供を連れて地形を調べに回った。

 備中守の兵力は足軽を含めて一千三百人余り、対する伊玄側は鉢形城に一千人余り、五十子の陣に二千五百人余りいた。とても、備中守の兵力で倒せる相手ではなかった。備中守はすでに、阿内(アウチ)に陣を敷いている管領民部大輔の家宰、長尾尾張守のもとに使者を送って、援軍を頼んでいた。五十子の陣を取り戻すには、伊玄をおびき出して、その隙に、尾張守の軍勢で五十子の陣を取り戻して貰うより方法はなかった。作戦を成功させるためには、この辺りの地形を知り、伊玄を攻め易い場所におびき出さなくてはならない。一応の地形は竜仙坊より聞いていたが、作戦を練るためには、実際に自分の目で見なくてはならなかった。もし、作戦を間違えれば、全滅するかもしれない。そんな事になったら上杉家は滅亡するかもしれないと備中守は慎重だった。

 竜仙坊たちは備中守が来る前に五十子の城下町に入っていた。城下町にて、備中守に命ぜられた通り、石神井城の豊島氏は備中守によって滅ぼされ、相模の伊玄派も全滅したとの噂を流していた。

 その噂を聞いて、伊玄は動揺した。強い味方だと思っていた豊島氏がこうもあっけなく、備中守にやられるとは想像すらできなかった。せめて一年間、備中守を封じ込めて置く事ができれば何とかなると思っていたのに、考えが甘かったと後悔していた。備中守とは戦いたくはなかったが、伊玄は決心を新たにして、当面の敵、備中守を倒す事に専念しなければならなかった。

 伊玄は備中守の戦の仕方は充分、心得ているつもりだった。前回、五十子の陣を攻めたやり方も備中守に教わったやり方だった。言わば、備中守は伊玄にとっては戦の師と言えた。自分が考える事はすべて、備中守に分かると言える。伊玄は前回、自分が敵陣に味方を潜入させた方法を備中守も考えるに違いないと思い、厳重な警戒を敷いた。陣内に出入りする者は完全に取り調べをし、また、城下町の出入りも厳重にした。しかし、陣内の兵たちを調べるのはともかく、城下の住人まで調べる事は難しかった。

 城下には、陣内で消費する様々な物資を運ぶため、各地からの人足たちが出入りしていた。それらの人足の中に備中守の部下が潜入している事も考えられるが、その事を一々調べる事は不可能と言えた。竜仙坊たち山伏たちは厳重な警戒にも拘わらず、城下に潜伏して伊玄の動きを備中守に伝えていた。

 備中守は梅沢に陣を敷いたその日の夜、さっそく、鈴木道胤の息子、兵庫助と上原紀三郎の二人を使って五十子の陣に夜襲を掛けた。ただの威しであったが、寝静まった頃の襲撃だったので、陣中は大騒ぎとなった。次の日、備中守は本陣を梅沢から針ケ谷に移した。

 針ケ谷は丁度、五十子の陣と鉢形城の中央に位置し、ちょっとした山があった。備中守は五十子の陣を睨むように、その山裾に陣を敷いた。この時、全軍が移動したわけではなかった。足軽隊は斎藤土佐守と共に梅沢の陣に残しておいた。その夜も夜襲を行なったが、五十子の陣でも待ち構えていて側に寄る事はできなかった。ただ、篝火(カガリビ)だけは絶やさずに燃やし続けた。

 三日目の夜、備中守は足軽たちを使って五十子の陣の南西の山に篝火を焚かせ、今度は、夜明け近くに夜襲をさせた。五十子の陣では待ち構えていた。

 四日目の昼前、いよいよ、五十子の陣から軍勢が出撃して来た。長野左衛門尉率いる上野衆だった。左衛門尉は百騎程引き連れて針ケ谷の陣に攻めて来た。備中守は一応、迎え討ったが、無理はさせなかった。備中守の兵は四散した。左衛門尉も深追いはせず、意気揚々として五十子の陣に引き上げた。

 四散した備中守の兵たちは、すぐに針ケ谷に集結した。援軍が来るまでは無駄な戦いは避けなければならなかった。ここに来てから何度も阿内に使者を送ったが、なかなか期待する返事は来なかった。備中守にも阿内の陣中の様子は想像できた。また、重臣たちが何だかんだと言って、意見が一つにまとまらないのだろう。山内上杉家が扇谷上杉家の家宰である備中守の力を借りて、五十子の陣を取り戻したと言われたら、体裁が悪いと思っているのに違いなかった。長尾尾張守が重臣たちを説得している姿が目に浮かんでいた。

 備中守は尾張守が来る事を信じていた。来るまでは、何とか味方の兵力を減らせるわけには行かなかった。そして、伊玄の兵力を弱めなれればならない。今回、長野左衛門尉との合戦で、左衛門尉は備中守など大した事ないと思うだろう。敵を油断させるのも作戦の一つだった。

 その夜、備中守は足軽たちを使って、五十子の陣の正面、利根川側に篝火を焚かせ、兵庫助と紀三郎の騎馬隊に正面から夜襲させた。伊玄方は油断なく応戦して来た。

 翌朝、伊玄は昨夜、篝火の焚かれた場所に物見を出したが、粗末な旗が幾つも立っているだけで、人影はどこにもなかった。

 備中守は毎夜、違う場所に篝火を焚かせて、違う場所からの夜襲を繰り返した。

 伊玄方は二千五百人の兵を交替で、昼夜の守りを固めていたが、備中守の篝火作戦に翻弄(ホンロウ)されていた。伊玄には備中守が援軍が来るまでの時間稼ぎをしている事が分かっていたが、兵たちは動揺していた。毎夜現れる篝火と、いつ、どこから来るか分からない夜襲攻撃に皆、イライラしていた。

 長野左衛門尉は敵の援軍が来る前に邪魔な備中守を片付ける事を主張し、度々、出陣して行ったが、備中守は戦う事なく四散してしまい、倒す事はできなかった。そればかりではなく、備中守の兵を追い散らして悠々と退却していると、隠れていた足軽兵の奇襲を受けて散々に目に会っていた。

 その足軽兵というものを主力に使った戦を見たのは左衛門尉は初めての事だった。身軽な装備の足軽兵は隊列を作って行動し、大将の命令通りに一斉に動いていた。各自がバラバラに行動するのではなく、攻めるも守るも命令に忠実だった。左衛門尉の軍にも足軽はいる。しかし、それは騎馬武者に付属している兵に過ぎなかった。騎馬武者と共に行動をし、騎馬武者を助けながら戦をするが、乱戦となり、騎馬武者とはぐれてしまえば、ほとんど戦力とはならなかった。

 足軽隊が出現するまでの戦では、互いの兵力を表すのに騎馬武者の数だけを数えていた。例えば、兵力三百騎と言った場合、兵の総数は一千二百人から一千八百人程となった。騎馬武者の回りに歩兵が三人から五人は従っていた。同じ三百騎でも、遠くまで遠征する場合と城に籠もる場合では兵の総数はかなり違った。遠征する場合、歩兵の数は一千二百人前後と少なくなるが、その他に兵糧を運んだりする荷駄(ニダ)隊や黒鍬者(クロクワモノ)と呼ばれる陣場作りや道路作りなどに使われる人足たち非戦闘員が五百人前後従っていた。城に籠もって戦う場合は近所の農兵たちを多数引き入れるので、総数はかなりの数に上った。

 今回、備中守の兵力は騎馬武者三百に足軽一千人だった。一千人の足軽の内、六百人は騎馬武者に従い、残りの四百人は百人づつ四隊に分けた足軽隊を編成していた。対する伊玄方は五十子の陣に騎馬武者五百騎前後に歩兵が二千人程、鉢形城に騎馬武者二百騎前後に歩兵が八百人程で守っていた。実際、備中守の三百騎は伊玄方の五百騎以上の戦力を持っていると言えた。しかし、城攻めをするだけの戦力はなかった。守りを固めている城を落とすには、少なくとも相手の倍以上の戦力を必要とした。倍以上の戦力を以てしても、かなりの損害を覚悟しなければならなかった。

 備中守は四つに分けた足軽隊を使っては伊玄方を翻弄していた。待ちに待っていた長尾尾張守からの返事が届いたのは、ここに着陣してから八日目の五月の十二日の事だった。

 翌日の十三日、阿内に陣を敷いていた管領山内上杉軍と扇谷上杉軍が移動を開始し、五十子の北一里程の那波(ナワ)郷(伊勢崎市)に着陣した。総勢五千人程の軍勢だった。

 伊玄は全軍に戦の準備をさせ、鉢形城にも上杉軍の動きを知らせた。兵糧は充分にある。五千の兵に囲まれても簡単には落ちないという自信はあった。鉢形の兵がうまく攻撃してくれれば、上杉勢を追い散らす事も不可能ではなかった。伊玄は、もうすぐ始まるであろう梅雨を待っていた。梅雨になれば、いつまでも城攻めを続ける事はできない。諦めて引き返すに違いなかった。

 十四日、備中守は兵をまとめると鉢形城に向かった。それは、伊玄にとって以外な事だった。備中守の兵力では鉢形城を落とす事はできない。しかし、出撃を押える事はできる。備中守は鉢形城を釘づけにするために向かったに違いなかった。

 備中守が動き出すのと同時に上杉勢も動き出した。長尾尾張守率いる上杉勢三百騎余りが五十子の陣の横を素通りして鉢形城に向かった。

 上杉勢は五十子の陣を攻めるとばかりに思っていたが、上杉勢が狙っていたのは鉢形城だった。鉢形城もそう簡単に落ちる城ではなかった。しかし、兵糧が乏しかった。豊島氏によって運ばれる予定だったが、豊島氏は備中守に敗れてしまい、兵糧はまだ届いてはいない。城を守っているのは児玉党の者たちで、上杉勢に囲まれたら寝返ってしまう事も考えられた。鉢形城を失ってしまえば完全に孤立してしまう。鉢形城が落ちて、五十子の陣を囲まれてしまえば、この先、まったく動きが取れなくなってしまう。鉢形城は伊玄にとって、五十子の陣以上に重要な拠点だった。絶対に失うわけには行かなかった。

 伊玄は長野左衛門尉に二百騎を付けて、鉢形城に向かう上杉勢を追撃させた。

 尾張守と左衛門尉は五十子の陣と鉢形城のほぼ中間の用土原(ヨウドハラ)において、ぶつかり合った。両軍とも譲らず、一時余りも続く決戦だったが、突然、左衛門尉の軍の後方に現れた備中守の足軽隊によって勝負は決まった。足軽隊は後方から騎馬武者の馬を狙って矢を放ったため、左衛門尉の兵は混乱に陥って次々に倒されて行った。この戦で左衛門尉自身も討ち取られた。

 伊玄は逃げ帰って来た兵を納めると、五十子の陣を捨てる決心をした。片腕だった左衛門尉を失ったのは、かなりの痛手だった。このままでは鉢形城を取られる。鉢形城を取られたら、この先、反撃もできなくなる。五十子の陣を上杉方に返せば、上杉方としても、梅雨の中、鉢形城を攻める事もあるまい。伊玄は全軍に鉢形城に退去する事を命じた。

 備中守は尾張守と共に全軍をまとめると、今度は五十子に向かって来た。この時、伊玄は初めて、備中守の誘いに乗ってしまった事に気づいた。備中守は初めから鉢形城を攻めるつもりはなかったのだ。鉢形城を攻めると見せかけて、左衛門尉を誘い出したのだった。その事に気づいたが、伊玄は五十子を捨てるという決心は変えなかった。軍事的拠点として、伊玄にとって五十子はそれ程、重要ではなかった。一旦、鉢形城に戻って再起を図った方がいいと思った。古河公方と連絡を取り、五十子を挟み討ちにすれば、五十子の陣を再び、崩壊させる事も可能だろうと思った。

 伊玄は備中守が五十子の陣を包囲する前に五十子を出て、備中守の兵を避けるようにして鉢形城に向かった。伊玄は退去に当たって、火を放てとは命じなかったが、伊玄のいた管領の屋敷から火の手が上がった。

 伊玄が退去するのを見ながら、長尾尾張守は追撃して伊玄を倒すべきだと主張した。追撃をしても伊玄を倒す事は不可能だと備中守はやめさせようとした。左衛門尉を倒したと言っても、伊玄の軍勢は二千人近くはいた。前回のように挟み討ちにする暇はない。後方で戦をしている隙に伊玄は鉢形城に入ってしまうだろう。伊玄を討ち取る事もできないのに、味方の損害を増やす事になるだけだと備中守は言ったが、尾張守は聞かなかった。

 尾張守は大石源左衛門に追撃を命じた。源左衛門は精鋭を率いて追撃したが、伊玄の殿軍(シンガリ)に阻まれ、伊玄に近づく事はできず、深追いし過ぎて討ち死にしてしまった。

 伊玄が五十子の陣を退去すると、五十子を包囲するつもりで、近くで待機していた太田道真率いる扇谷上杉勢が五十子の陣に入った。管領屋敷から出た火は大広間などのある主殿を焼いただけで治まった。管領の常の住まいである屋敷は無事だった。やがて、管領山内上杉民部大輔顕定及び、扇谷上杉修理大夫定正も四ケ月振りに五十子に迎えられた。

 五十子の陣を取り戻した翌日から雨が降り始め、うっとおしい梅雨が始まった。
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