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陰流の開祖であり、忍びの術の開祖でもある愛洲移香斎の物語です。
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15.高林坊






 年が改まり文明二年(一四七〇年)、太郎は十九歳になった。

 年末年始は忙しかった。

 信者たちが続々と山に登って来て、山の中の樹木よりも人の方が多いと思える程だった。

 太郎も信者たちの接待をさせられ、雪の積もった山の中を走り回っていた。剣の修行をしているよりもかえって疲れた。三箇日が過ぎると信者の数も減ってはいったが、それでも山に登って来る者は絶えなかった。

 ようやく、山も静かになり始めた七日の日、太郎はこっそりと山を抜け出した。

 目指す所は勿論、楓である。

 去年、望月又五郎を襲う前に会ったきり十日以上も会っていない。太郎は会いたくて会いたくてしょうがなかった。山では修行のためには女は近づけてはならないと教えるが、太郎にとって楓の存在は剣の修行以上に大きかった。楓に会うとかえって剣の修行の励みにもなった。

 太郎は楓に会うために山の中を駈け下りた。

 年が明けて初めての対面である。いつか、塀の外から覗くのはやめてくれと楓に言われてから、太郎はそっと寺の中に忍び込む事にしていた。そして、木の陰や庭石の陰に隠れ、小石を投げて楓にだけにわかるように合図をする。今日は楓を驚かしてやろうと企んでいた。

 太郎は花養院の裏の塀を乗り越えると、持って来た鉤付き縄を利用して寺の本堂の屋根に登った。天狗の面をかぶって屋根の一番上に座り込むと下を見下ろした。

 予想に反して、境内には誰もいなかった。楓たちも薙刀の稽古をしていない。

 太郎は回りに建ち並ぶ寺の屋根を見回し、遠くに見える山々を見渡した。山々は皆、雪をかぶって白く輝いていた。去年の夏の山歩きの事が懐かしく思い出された。

 今日は冷たい風もなく、天気がよく暖かかった。楓が自分の姿を見つけてくれるまで、屋根の上で、ちょっと昼寝をする事にした。

 本当に眠ってしまうつもりはなかったが、疲れていたせいと、暖かくて気持ちが良かったせいか、つい、うとうとと眠ってしまった。

 目が覚めると、寺の境内には村人たちが集まり、太郎を見上げて騒いでいた。

 松恵尼もいた。楓もいた。

 太郎はあぐらをかき、人々を見下ろしながら、さて、これから、どうするか、と考えた。

 今更、天狗の面を取るわけにはいかないし、天狗のまま消えなくてはならない。さて、どうしたものか。

 何か投げる物はないかと太郎は屋根の上を見渡した。

 何もなかった。仕方がないので、尻の下に敷いている曳敷(ヒッシキ)と呼ばれる毛皮をはずし、下から太郎を見ている人たちにわざと目に付くように掲げて見せた。

 太郎はそれを天に向けて放り投げると懐から手裏剣を出し、宙に浮いている毛皮に向かって投げ付けた。手裏剣は毛皮に当たると毛皮ごと飛んで行った。まるで、ムササビが飛んでいるかのように見えた。村人たちは飛んで行く毛皮に目を取られ、視線をもとの天狗の所に戻した時には、すでに天狗の姿はなかった。

 太郎は素早く屋根から飛び降りると天狗の面をはずし、本堂の裏を回って、何気なく境内に入り、騒いでいる村人たちに混じって一緒に屋根を見上げた。

 楓だけが太郎に気がついていた。太郎は楓に合図を送ると、さりげなく花養院の門を出た。楓は松恵尼に何事か囁くと太郎の後を追って外に出て来た。

「どんな気分」と楓は太郎に近づくと笑いながら言った。「屋根の上で昼寝をするのは?」

「最高さ」と太郎も笑った。

「馬鹿みたい」

「久し振りに会ったのに、その言いぐさはないだろ」

「ごめん‥‥‥だって」と楓は太郎の顔を見て、また、笑った。「また、抜け出して来たんでしょ」

「まあな」

「怒られたって、知らないから」

「気にすんな。それより、元気だったかい」

「うん、あたしは大丈夫よ。元気、元気」

「正月は忙しかった?」

「うん、とても忙しかったわ‥‥‥でも、懐かしい人が来たわ。栄意坊様よ。あなたも知ってるでしょ」

「ああ、栄意坊殿ね、師匠の事、何か、言ってなかった」

「風眼坊様は今、備中(岡山県西部)にいるんですって」

「備中?」

 備中と言われても、太郎には備中がどこなのか、見当もつかなかった。

「風眼坊様の故郷なんですって、そこで、一揆の騒ぎが起こって、風眼坊様も何かをやってるらしいわ」

「何かって」

「知らない‥‥‥あなたのお師匠様の事だから、どうせ、変わった事でもして、みんなを驚かしてるんじゃないの」

「かもな‥‥‥それで、栄意坊殿はどうした」

「帰ったわ。しばらく、赤目に帰って、のんびりするかって言ってたわ。去年の四月、あなたをここに連れて来てから、風眼坊様と栄意坊様は二人して、ずっと、西の方まで旅してたんですって。お酒を飲みながらの珍道中だったんですって。船に乗って四国まで渡って、石鎚山っていう凄いお山に登ったって言ってたわ。でも、あなたのお師匠様も桜の咲く頃には、ここに戻って来るらしいわ」

「ふうん‥‥‥桜の花ねえ‥‥‥」

「それより、あなた、陰の五人衆って知ってる?」

 太郎はビクッとして立ち止まり、楓を見た。「陰の五人衆? 何だい、それ」

「とぼけたって駄目よ。今、その噂で持ち切りよ。望月三郎様とその陰の五人衆が望月又五郎様を一瞬のうちに倒し、所領を取り戻したって‥‥‥陰の五人衆は皆、黒装束に身を固めて、まるで、陰のようにお屋敷に忍び込んで、あっという間に又五郎様の一族を攻め滅ぼしたんだって‥‥‥そしてね、その陰の五人衆の中には天狗太郎という飯道山の天狗様がいたっていう噂もあるわ。一体、誰なんでしょうね、その天狗太郎っていうのは‥‥」

 楓は太郎の顔を横目で見つめた。

「さあね、俺はそんな天狗なんか見た事ないね」

「そりゃそうでしょうね‥‥‥きっと、鏡の中を覗きこめば見る事ができるわ」

 太郎は楓を見ながら声をあげて笑った。





 正月も十五日になり、今年も一年間の修行をするために、若者たちが続々と山に登って来た。世の中が物騒になって来たせいか、今年は例年より多く、二百人近くの若者たちが集まって来ていた。

太郎は剣術の組から棒術の組に変更する事にした。

 去年、山に登って来た時、高林坊道継と岩之坊真安の模範試合を見て以来、棒術に興味を持ち、どうしても山にいる間に身に付けておきたいと思っていた。

 午前中は今まで通り講義を聴き、午後は棒術の稽古をするという毎日が、また始まった。

 山に登って来た若者たちは午前中に受付をし、午後は先達山伏に連れられて行場を巡り、その後、山内をぞろぞろと歩き廻っていた。

 彼らは『天狗太郎』と『陰の五人衆』の噂を信じ、自分たちもあんな技を習いたいと山に登って来ていた。しかし、実際には、山に『天狗太郎』と呼ばれる者はいないし、『陰の五人衆』について知っている者もいなかった。それでも彼らは信じていた。きっと、この山のどこかに天狗太郎はいる。陰の五人衆もどこかに隠れている。陰というからにはそう簡単に姿を現さないだろう。一年間、ここで修行をしていれば、いつか、必ず会えるだろうと‥‥‥

 太郎は講義が終わると棒術の道場に向かった。

 『太郎坊移香』の名も山の中で有名になって行った。

 山に登って来た途端に百日間の山歩きの行ををやり、一年も経たないうちに、剣術の実力一と言われていた金比羅坊を倒した。そして、鐘を鐘撞き堂に運び上げた天狗も、実は、太郎坊だったという事が金比羅坊によって、山の者たち皆に知れ渡って行った。それに、『天狗太郎と陰の五人衆』の噂についても、はっきりとした確証はないが、もしかしたら、太郎坊の仕業ではないかと思っている者も何人かいた。

 道場に入ると太郎は高林坊道継に挨拶をした。

「太郎坊か‥‥‥剣術の道場では、大分、暴れたらしいな」と高林坊は笑いながら言った。

「若いうちは何でも身に付ける事ができる。棒を習うのもいいじゃろう。剣にしろ棒にしろ修行に変わりはない。だが、ただ強くなりゃいいというものでもないぞ。心の修行も大事じゃからな」

「心の修行?」

「今の世は乱れとる。京ではまだ戦をやっておるし、この辺りでも争いは絶えん。若い連中は皆、その争いに勝ち抜くために、このお山に武術を習いにやって来る。人を殺す術をじゃ‥‥‥のう、太郎坊、不動明王様が剣を持っておるが、あれは何を斬るためのものかわかるか」

「不動明王の剣?」

「ああ、あの剣の意味がわからなければ、いくら強くなったとしても、それは畜生と同じだ‥‥‥まあ、頑張るんじゃな」

「はい‥‥‥」

「ところで、お前、いつまで、このお山におるんじゃ」

「一年という事ですから三月までです」

「三月か‥‥‥もうすぐじゃな。まあ、本物の修行というのはどこでもできる。心掛け次第じゃ。このお山にいるうちは剣だけではなく、棒でも、槍でも、薙刀でも、何でも身に付けておいた方がいいだろう。どうじゃ、今日はお前の剣を見せてくれんか。明日から若い者たちの山歩きが始まる。今年はやけに多い。わしらも色々と忙しくなる。どうじゃ、やってみんか」

「はい、お願いします」

「よし、手加減はせんぞ。昔は風眼坊の剣とよくやり合った。お互いにそれで腕を磨き合っていたんじゃが、最近は教えるばかりで自分の修行がおろそかになっておる。こんな事じゃいかんのじゃがな」と高林坊は笑った。

 棒術の修行をしている二十数人の山伏たちの見守る中で、太郎と高林坊の試合が始められた。

 高林坊は右手で六尺の棒を持ち、自分の目の前に垂直に杖を突くように構えた。

 太郎は木剣を中段、清眼に構え、垂直に立つ棒を見つめた。棒は剣と違い、柄と刃の区別がない。垂直に立っている棒の上も下も剣の刃になる事ができる。太郎は油断なく、六尺棒の上から下まで見つめていた。

 高林坊は棒を突いたまま、じっと太郎を見ている。その目は太郎を睨んでいるわけではなく、ぼんやりと風景でも眺めているかのように静かだったが、何か圧倒されるものがあった。じわじわと追い詰められているように感じた。目の前に自然に立っている高林坊の姿がだんだんと大きくなり、目の前に立ちはだかる岩壁のように思えて来た。

 太郎は剣を振りかぶると高林坊に近づき、右足を大きく踏み込み、高林坊の右手首を狙って剣を振り下ろした。

 高林坊は棒を引き、太郎の剣をはずすと、引いた棒を回転させ、太郎の打ち下ろした両拳めがけて棒を打ち下ろした。

 太郎は木剣を上げ、その棒を受け止めた。

 高林坊は大きく踏み込むと、受け止められた棒の先を太郎の顔、目がけて突いて来た。

 太郎は腰を落とし、それを横に払う。

 高林坊は棒を大きく引くと、今度は、棒の反対側を後ろから大きく振りかぶり、太郎の頭上に振り下ろした。

 太郎は体を左に開き、木剣で受け止める。

 高林坊はもう一度、棒を引き、後ろから振りかぶって太郎の両腕を狙う。

 太郎は高林坊の棒を受け流すと、高林坊の右手首を狙って剣を打った。

 高林坊はそれを巻き落とし、そのまま、太郎の腹を突いて来た。

 太郎は右にかわした。

高林坊は棒を引いた。

 太郎は踏み込み、高林坊の右手首を狙う。

 高林坊は下から棒を振り上げ、太郎の両拳を打ち、そのまま、太郎の喉元まで棒を詰め寄せた。

「参りました」と太郎は木剣を下ろした。

 高林坊も棒を引いた。

「成程のう」と高林坊は唸った。「お前は恐ろしい奴じゃのう‥‥‥わしは金比羅坊がお前に負けたと聞いた時は信じられんかった。何かの間違いじゃろうと思っておったが‥‥‥うーむ、確かに強いのう‥‥‥これからも励めよ」

「はい‥‥‥」

 太郎は完全に自分の負けだと思っていた。打ち合う前から、それはわかっていた。技以前に、人間の大きさが高林坊と太郎では全然、違っていた。まだまだ、修行が足らんと改めて、自分に言い聞かせた。





 太郎はまた、独り稽古を始めた。

 棒術の稽古が終わると剣術の道場に行き、また、鉄の棒を夜遅くまで振り回した。

 山を下りるまでに、高林坊の棒術に、太郎は剣術で勝ちたかった。

 鉄の棒を振りながらも、太郎の前に高林坊の姿がちらついて離れなかった。

 高林坊の姿はどんどん大きくなり、仁王のように太郎の前に立ちふさがった。太郎は、その幻を打ち払おうとするかのように鉄の棒を振り回した。

 太郎にはわからなかった。

 あの高林坊の大きさは、一体、どこから来るものなのだろうか。

 強く睨んでいる目なら、こちらも睨み返せばいい。しかし、高林坊の目は睨んではいなかった。何を見てるのかわからない、ボヤッとした目だった。こちらが睨んでも、軽くかわされるだけでなく、逆に、太郎自身が何か目に見えない大きな力に包み込まれて行くような感じがして来る目だった。

 一体、あの目は何なのだろうか‥‥‥

「お~い」と誰かが闇の中から声を掛けて来た。

 闇を透かして見ると金比羅坊が近づいて来るのが見えた。

「今度は、何をやらかすつもりだ」金比羅坊は太郎に近づくとニヤニヤしながら聞いた。

「何もしません」と太郎は首を振った。

「何もせんのか‥‥‥まあ、いい」と金比羅坊は近くの切り株に腰を下ろした。「今日な、ちょっと用があって里に下りたんじゃ。ついでだからな、望月の所に寄って来た」

「望月、うまく、やってましたか」

「おう、家臣も新しく入れて賑やかにやっておった。芥川、服部、三雲、あの三人も、まだ、いやがったよ」

「まだ、いた?」

「ああ、正月もうちに帰らずに、ずっと、いたそうじゃ」

「へえ、あいつら、一体、何やってんだ」

「女子よ。望月の妹っていうのが、あいつの妹とは思えん程、いい女子でな、三人して、何とかものにしようと思って頑張ってるらしいわ‥‥‥今、噂で持ち切りの『陰の五人衆』も女子には形無しじゃ。コノミ殿、コノミ殿ってな、三人揃って追いかけ回しておったわ。見ていて、おかしくてたまらんかったぞい」

 金比羅坊は大笑いした。「まあ、わしも人の事は言えんがな‥‥‥太郎坊、おぬしにも女子がおるらしいのう」

「え?」

「とぼけても無駄じゃ。花養院に、よく天狗が現れるそうじゃのう。どうやら、その天狗殿は楓殿が目当てらしいともっぱらの評判じゃ」

「金比羅坊殿は楓を御存じなんですか」

「知らんでかい。昔から花養院には美人がいるって有名じゃ。松恵尼殿を初め、いつも、美人が揃っておった。今は楓殿じゃ。何人の男が山を抜け出し、楓殿に会いに行ったかわからんわい。しかし、みんな、楓殿の石つぶてにやられて逃げ戻って来たわ」

「石つぶて?」

「ほう‥‥‥おぬしにはつぶてを投げなかったとみえるのう‥‥‥楓殿の石つぶてといったら有名じゃ。百発百中じゃ。わざわざ、楓殿の石つぶてに当たりに行く馬鹿者もおったわい。おぬしも気を付けた方がいいぞ。今の所はうまくやってるらしいが、つぶてに当てられんようにな、ハハハ‥‥‥」

「金比羅坊殿」と太郎も切り株に腰を下ろした。

「何じゃ」

「高林坊殿と打ち合った事はありますか」

「ああ、一度ある。完全にわしの負けじゃった‥‥‥おぬし、今度は高林坊殿に勝つつもりか」

「はい、勝ちたい。でも、どうやったら勝てるのかわかりません」

「うむ、そりゃ難しいのう。何しろ、高林坊殿はこのお山で一番、強いからのう‥‥確かに、高林坊殿に勝てば、おぬしは一番になる‥‥‥しかし、今まで、高林坊殿に勝つ事ができたのは風眼坊殿だけじゃ。こりゃ難しい事じゃわい」

「この前の試合では、師匠は高林坊殿の棒に負けました。逆に栄意坊殿の槍は高林坊殿に勝ちました」

「ああ、あの時か。あれは模範試合じゃ、本当の実力ではない。一番強いのは何といっても風眼坊殿じゃ。しかし、あの時、風眼坊殿が二人に勝ってしまったら、あとあと剣の修行をしている者たちが自惚れるんじゃ。槍や棒より剣が一番強いと言ってな‥‥同じお山の中で争い合っていたら修行にならんからのう。ああいう、うまい具合にしたわけじゃよ」

「そうだったんですか‥‥‥金比羅坊殿は高林坊殿と立ち会った時、高林坊殿の姿が大きく見えませんでしたか」

「いや‥‥‥おぬしにはそう見えたのか」

「はい、山のように大きく見えました‥‥‥」

「そうか‥‥‥それはのう、おぬしが強くなったから、そう見えるんじゃ」

「強くなったから?」

「そうじゃ、自分が強くなったから相手の強さがわかるんじゃ‥‥‥どうやら、おぬしは益々、強くなって行くようじゃのう‥‥‥残念ながら、わしにはそういう経験がないんで、どうやったらいいのかわからんが、昔、わしは風眼坊殿から聞いた事がある。剣の修行というのは、初めのうちは、やればやる程、強くなれる。ところが、ある程度まで行くと、必ず、壁にぶつかる。その壁にぶつかると剣が自由に使えなくなる。しかし、その壁を乗り越えんと本当に強くはなれん。また、その壁が大きく強い程、乗り越えた後、その人間は成長する。太郎坊、今、おぬしは高林坊殿という大きな壁にぶち当たっておるんじゃ。何とか工夫して、ぶち破れ。おぬしなら、できるぞ」

「‥‥‥」

「それと、心(シン)、体(タイ)、業(ギョウ)の三つが揃って、初めて強くなれるとも言っておった」

「心、体、業‥‥‥」

「心(ココロ)と体(カラダ)と業(ワザ)じゃ‥‥‥わしが言えるのは、こんなもんじゃ。壁を突き破るには、やはり、自分で苦労するしかないじゃろう‥‥‥わしはいつでも、おぬしの相手ならしてやるぞ。遠慮なく言って来い」

 金比羅坊は太郎を一人残して去って行った。

「心、体、業か‥‥‥」と太郎は一人、呟いた。

 高林坊が心の修行も大事だぞ、と言った事を太郎は思い出した。

 不動明王の剣‥‥‥とも言っていた。

 太郎は冷たく、冷えきった鉄の棒を振りながら考え込んでいた。





 『法華経』の講義をやっていた。

 太郎は講師の方に目は向けてはいるが聴いてはいなかった。太郎の前に立ち塞がる高林坊という壁は、益々、大きくなるばかりで打ち破る事はできなかった。

「太郎坊」と隣の応如が声を掛けてきた。

「はあ?」と太郎は顔を横に向けた。

「どうしたんだ。最近、元気ないじゃないか」

 応如は今年になって、ようやく、弘景から書を習う事を許され、午前中は今まで通り、この講義を聴いていたが、午後になると弘景の草庵に通っていた。

「お前らしくないぞ。何か、気になる事でもあるのか」

「ああ、壁にぶつかっている」と太郎は言った。

「壁?」

「お前、書をやっていて壁にぶつかった事はないか」

「壁ねえ‥‥‥ないねえ」

「そうか‥‥‥」

「剣術の事か」

「ああ‥‥‥なあ、お前の師匠っていうのはどんな人なんだ」

「一言で言えば変人だな‥‥‥変わった人だ‥‥‥でも、いい字を書く。とにかく、凄い字を書く‥‥‥俺から見たら雲の上の人のようだ」

「ふうん、そんなに偉いのか」

「まあ、偉いんだろうな」

 講義が終わると太郎は応如と一緒に弘景の草庵に向かった。

 草庵は僧院が建ち並んでいる所から少し下った、日当たりのいい静かな平地に建っていた。小さな草庵だった。

 草庵の中に弘景はいなかった。

「畑の方にいるんだよ」と応如は言った。

「畑?」

「ああ、師匠は毎日、畑仕事をしている」

 太郎は応如の後を付いて行った。

 樹木の中を抜けて行くと、そこに小さな畑があり、野良着を着た一人の老人が穴を掘って木の根を抜こうとしていた。日陰の所々には雪が積もっていたが、日当たりのいい畑には雪はなかった。

「師匠、戻りました」と応如は老人に声を掛けた。

 老人は顔を上げると、「おお、丁度いい、ちょっと手伝え」と言った。

「はい」と応如は返事をすると、老人の所に行き、穴を掘り始めた。

 太郎もただ見ているわけにもいかず、手伝う事にした。三人がかりでやっても、回りを掘り起こして根を引き抜くのは一苦労だった。

 太郎は今まで、こんな事をやった事はない。

 土の中に、木の根というのが、こんなにも張り巡らされているとは思ってもいなかった。木が立っているのは毎日のように見ている。しかし、目に見えない土の中に、こんなにも深く、そして、四方八方に太い根を張っていたとは知らなかった。考えてみれば、あれだけの太い木が風雨にも負けずに立っているには、太い根を土中に張らなければならないというのは当然の事だ。当然の事だが、こうやって根を引き抜いてみなければ、ずっと気が付かないでいたかもしれなかった。

 やっと、太い根を引き抜く事ができた。

「さて、今度はあれだ」と弘景老人は休む暇もなく、次の根の方に向かった。

 太郎は応如の顔を覗き込んで聞いた。「お前、毎日、こんな事やってたのか」

「こんな事は毎日、やってはいないが、まあ、毎日、野良仕事はしているよ」

「書の稽古はしないのか」

「ああ‥‥‥これが書の稽古なんだそうだ」

「これがか」

「書を書くのは人間だ。まず、人間を作らなけりゃ、いい字は書けないんだそうだ」

「へえ、まず、人間をね‥‥‥」

「何をやっとる。さっさと仕事をせんか」老人は、すでに穴を掘っていた。

「はい」と二人は駈け寄り、穴を掘り始めた。

 三人は日が暮れるまで、根を引き抜いていた。太郎もいつの間にか、根を掘り出す事に熱中していた。剣の事も忘れ、土の中に隠れている太い根を掘り出していた。

「今日は、これ位にするか」と弘景老人は手に付いた土を払いながら言った。

 太郎は掘り出されて、地上にさらされた太くゴツゴツした根を広げている木の塊を見ていた。

「どうじゃな、剣の修行も大変じゃろうが、根を掘り出すのも一苦労じゃろう」と老人は太郎に言った。

「はい‥‥‥でも、どうして、わたしが剣の修行をしている事を」

「ハハハ‥‥‥その位、手を見ればわかる」

 草庵に戻り、太郎は帰ろうとしたが弘景老人に引き留められ、夕食を御馳走になる事になった。応如は一人で食事の支度をしている。太郎も手伝おうと思ったが、「おぬしは客人じゃ。まあ、ゆっくりして行きなされ」と言われたので、弘景に伴われて板の間に上がった。

 弘景は中央にある囲炉裏に薪を並べると、火を起こして火を点けた。

「太郎坊殿と言われたな」と弘景は言った。

「はい」と太郎は頷いた。

「どうじゃな、剣の修行の方は」

「はあ‥‥‥」

「わしは剣の事は知らんがの‥‥‥さっき、掘り返した木の根を見たじゃろう。あれがなければ、木というのは立っておる事はできんのじゃよ‥‥‥書で言えばな、表面だけを見て、いくら、その字を真似て書こうと思っても、それだけではいかん。まあ、いい手本を見て、それを真似ていれば、ある程度まではうまくなるじゃろう。だがな、そういう字というのは根がないんじゃ。いくら、銘木でも根がなけりゃ立っている事はできん‥‥‥まず、しっかりした根を張らなけりゃいかんのじゃ。それは剣にも言えるんじゃないかの」

 太郎は囲炉裏の中の火を見つめながら、弘景の話を聞いていた。

「今のおぬしを見ると心が曇っておるな‥‥‥そういう時は何もかも忘れてみるのもいいもんじゃぞ」

 太郎は夕食を御馳走になると帰って行った。
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