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陰流の開祖であり、忍びの術の開祖でもある愛洲移香斎の物語です。
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31.応仁の乱、終わる



 畠山右衛門佐義就(ウエモンノスケヨシナリ)という男がいた。

 応仁、文明の乱の西軍の武将だった。

 長期間に渡る応仁、文明の乱には、これといった山場もなく、華々しい英雄も現れなかったが、もし、一人を挙げるとすれば、畠山義就という事になるかもしれない。二十四歳の時から五十四歳で亡くなるまでの間、幕府に逆らい続け、実力を以て河内の国と大和の国を支配し、有力大名を相手に戦に明け暮れていた。

 文明九年(一四七七年)九月二十二日、畠山義就は京都の陣を引き払って、河内の国へと帰って行った。総勢二千人にも及ぶ義就軍は隊列を整え、悠々と引き上げて行った。幕府は東軍に寝返って山城守護となっていた山名弾正少弼政豊(ダンジョウショウヒツマサトヨ)の兵に追撃を命じたが、反撃を恐れて戦う事ができず、退去した後の陣地を占拠するのが精一杯だった。

 飽くまでも戦い続けると主張した畠山義就が京から引き上げると、残っていた西軍の大将、大内周防介(スオウノスケ)政弘、土岐左京大夫成頼(トキサキョウノダイブシゲヨリ)らは幕府に和睦を申し入れて旧領を安堵され、以前の守護職を取り戻して、十一月になると皆、領国へと引き上げて行った。

 十一年間にも及んだ応仁の大乱は終わりを告げた。しかし、義就ただ一人だけは幕府と和睦する事なく、反乱軍と見なされた。孤立した反乱軍となっても義就は戦い続け、河内の国と大和の国を実力を持って支配して行く事となる。

 義就は河内(大阪府南東部)、紀伊(和歌山県と三重県南部)、越中(富山県)、三国の守護であり、管領職(カンレイシキ)も勤めた幕府の有力者、左衛門督持国(サエモンノカミモチクニ)の息子として生まれた。母親が卑賎(ヒセン)の出だったため、石清水(イワシミズ)八幡宮に稚児(チゴ)として預けられる事となっていた。

 持国の跡継ぎとして異母弟である尾張守持富(オワリノカミモチトミ)が決まってはいたが、たとえ、卑賎の出であっても実子がいるのに、家督を異母弟に譲る事はないという家臣たちの動きがあり、義就は十二歳の時、正式に持国の跡継ぎに決定した。すでに、この頃、畠山家の被官たちは分裂し、二派に分かれて争っていた。持国の勢力のあるうちは、それらの争いは表面には現れなかった。ところが、持国が病に倒れ、幕府内でも細川勝元の方が勢力を持つようになると、被官たちの争いは表面化して来た。被官たちの争いは畠山家の家督争いという形になって現れた。

 享徳(キョウトク)三年(一四五四年)の四月、義就、十八歳の時、越中系の国人たちが義就を廃して、以前、後継者に決まっていた持富の子、弥三郎を擁立(ヨウリツ)しようとした。しかし、この事件は未然に発覚し、弥三郎は管領の細川右京大夫勝元を頼って逃亡し、国人たちは切腹、あるいは殺された。これで一段落したと思われたが、八月に勝元の支援のもと、弥三郎は畠山邸を襲撃した。持国は無理やり隠居させられ、義就は伊賀の国まで逃げて行った。

 畠山家の家督は弥三郎に決定した。ところが、その頃、将軍義政と細川勝元も対立しており、義就は義政の応援を得て十二月には上洛し、弥三郎は京都から越中に逃亡した。その後、河内、和泉(大阪府南部)辺りで、義就方と弥三郎方の小競り合いはあったが、弥三郎は二度と京都に帰る事はできなかった。

 康正(コウショウ)元年(一四五五年)三月、持国が亡くなると義就は正式に家督を継いだ。その後、四年間、義就は将軍義政の信頼を得て、うまくやり、弥三郎を陰ながら応援していた勝元の入り込む隙はなかった。ところが、長禄(チョウロク)三年(一四五九年)、義就が大和に進撃した事によって事態は一変した。勝元の中傷もあって将軍義政と義就との間にひびが入った。その隙を見逃す勝元ではなかった。勝元は弥三郎の恩赦(オンシャ)を願い出て、許可を得る事に成功した。

 翌年、紀伊の国で根来寺(ネゴロジ)が騒ぎを起こし、それを治めるために義就は軍勢を送った。しかし、逆に根来寺の僧兵に敗れてしまった。多数の有力家臣を失った義就は根来寺に報復するため大軍を紀伊に向けた。義就の軍勢のほとんどが紀伊に向かった隙に、勝元は義就を追い落とすために動きだした。昨年の秋、弥三郎が急死したため、弥三郎の弟、次郎政長に畠山家の家督を継がせようとたくらんだのだった。

 勝元の作戦はうまく行った。その年の九月、突然、義就の守護職は取り上げられ、政長が正式に畠山家を継いだ。政長が軍勢を率いて上洛すると義就は河内へと逃げて行った。

 管領の勝元は義就を京都から追い払うだけでなく、すぐさま、山名、一色、京極らの武将に追撃を命じた。義就は追い詰められ、南河内の岳山(タケヤマ)城に立て籠もった。岳山城は幕府軍の大軍に囲まれ、すぐに落城するかに見えたが、義就は寛正(カンショウ)四年(一四六三年)四月まで三年近くも持ちこたえた。義就の籠城中には全国規模の大飢饉もあり、数万人もの飢え死に者が出たが、その間も幕府は戦を続けていたのだった。岳山城が落城すると、義就は紀伊の高野山(コウヤサン)へと落ち伸びて行った。

 その後も、勝元は義就の討伐(トウバツ)を諦めなかった。しかし、高野山から吉野の山奥に入って行った義就の消息はつかめなかった。吉野の山奥には、未だに南朝方の豪族が大勢おり、幕府に刃向かう義就は南朝方に匿われて、捜し出す事はできなかった。

 義就が吉野に隠れていた頃、将軍義政は弟の義視(ヨシミ)を還俗(ゲンゾク)させて跡継ぎとした。義視の後見として勝元が選ばれ、申次衆(モウシツギシュウ)に伊勢家に居候(イソウロウ)していた早雲が選ばれた。義就の敵である政長は勝元の後ろ盾によって管領職に就いていた。

 寛正六年(一四六五年)の八月、義就は吉野から大軍を率いて不死鳥のように蘇(ヨミガエ)り、歴史の舞台に再登場した。義就、二十九歳の時であった。

 この義就の行動をじっと見つめていたのが、細川勝元と対立し始めていた山名宗全(ソウゼン)だった。勝元と宗全は畠山持国が生きていた頃は、互いに手を結んで持国と敵対していたが、持国が亡くなって畠山家も分裂し、以前の勢力を持たなくなると、互いに対立するようになって行った。勝元が政長を応援しているので、宗全としては義就と手を結ぶ事は当然の結果と言えた。しかも、義就がただ者ではない事も宗全は見抜いていた。幕府軍を相手にしながら三年近くも持ちこたえた事も驚嘆に値するが、懲りずに、また現れて、幕府と渡り合おうとしている根性は、まさしく、ただ者ではなかった。宗全は是非とも味方に引き入れたいと熱い視線を送っていた。

 この頃、幕府内では畠山氏と同じく管領家である斯波(シバ)氏でも相続争いが始まり、義就の討伐軍を送る事はできなかった。義就は壷坂寺(ツボサカデラ、奈良県高取町)に陣を敷いて京都の状況を見守っていた。

 その年の末、将軍義政の妻、日野富子が義尚(ヨシヒサ)を生んだ。義尚を将軍家の後継者にしようとする伊勢貞親(サダチカ)、富子の兄、日野勝光らと、義視を応援する勝元との対立が始まり、幕府内でも相続争いが始まろうとしていた。

 翌年の九月、伊勢伊勢守貞親らは義視を暗殺しようとして失敗し、幕府から追われた。有力な支持者を失った富子は山名宗全と手を結んだ。同じ頃、大和の豪族、古市(フルイチ)兵庫助の手引きによって、義就も宗全と手を結び、三年半振りに河内に攻め込むと政長軍を破った。十月には幕府の意向を無視して、宗全の援助の元に上洛し、千本釈迦堂に陣を敷いた。

 将軍義政の妻、日野富子を味方にした宗全の勢力が勝元より上回り、年末には、義就は義政より赦免(シャメン)された。そして、翌年の正月、管領だった畠山左衛門督(サエモンノカミ)政長は罷免(ヒメン)され、宗全派の斯波治部大輔義廉(ジブノタイフヨシカド)が管領となり、義就は政長に代わって、河内、紀伊、越中、三国の守護職に任命され、幕府に出仕する事となった。すべてを失い窮地(キュウチ)に陥った政長は万里小路(マデノコウジ)の自邸を焼き払い、相国寺(ショウコクジ)の北側の上御霊社(カミゴリョウシャ)の森に立て籠もった。義就も政長の挑戦を受けて立ち、ここに十一年にも及ぶ応仁の乱と呼ばれる戦乱の火蓋が切られたのだった。

 この時、宗全の行動は素早く、将軍の住む花の御所を警固すると言って軍勢を以て取り囲み、政長が禁中を襲う恐れありとして、天皇、上皇を花の御所に移した。政長より救援を頼まれた勝元だったが、賊軍(ゾクグン)の汚名を負わされるかもしれず、身動きができなかった。敗れた政長は炎上する御霊社の中から抜け出して、勝元の領国、摂津に没落して行った。

 宗全派が戦勝気分に浮かれている隙に、勝元は着々と戦の準備を始めていた。五月二十四日、勝元は花の御所の前に建つ宗全方の一色修理大夫義直(イッシキシュリノダイブヨシナオ)邸を焼き払い、幕府奉公衆の力を借りて花の御所を占拠する事に成功すると反撃を開始した。畠山政長も軍勢を引き連れて勝元の陣に到着し、各地から続々と京の都に軍勢が集まって来た。

 花の御所を奪われた宗全は堀川の西に陣を構え、以後、西軍と呼ばれ、勝元は東軍と呼ばれた。西軍には山名一族を初めとして畠山右衛門佐義就、斯波治部大輔義廉、六角四郎高頼(タカヨリ)、土岐左京大夫成頼、一色修理大夫義直らが集まり、東軍には、細川一族、畠山左衛門督政長、斯波左兵衛佐義敏(シバサヒョウエノスケヨシトシ)、京極大膳大夫持清(キョウゴクダイゼンノダイブモチキヨ)、赤松兵部少輔(ヒョウブショウユウ)政則、富樫次郎政親(マサチカ)らが集まった。西軍の兵力、十一万六千余人、東軍の兵力、十六万一千五百余人だと言われている。

 二十六日の早朝、両軍は上京において激突した。東軍の有利の元、戦は続いたが、七月の末、大内周防介政弘が大軍を率いて兵庫に上陸する事によって戦局は反転した。勝元は官軍としての形式を確保するため天皇と上皇を花の御所に移した。ところが、東軍の総大将に任命されていた足利義視が、突然、伊勢に出奔(シュッポン)してしまったのだった。

 幕府内では将軍義政、義視が東軍で、日野富子と子の義尚が西軍だった。去年、謀叛(ムホン)を起こして追放されていた伊勢伊勢守貞親も四月には許されて戻って来ていた。義尚の養育係でもある貞親も当然、西軍である。義視は彼らと共に花の御所内で暮らしていたが、身の危険を感じて逃げ出したのだった。この時、早雲も義視に従って伊勢に逃げている。

 畠山義就は大内勢の進撃と共に細川氏の軍事的拠点であった西岡(ニシガオカ、京都市西京区、向日市、長岡京市)を占領して、河内に引き上げるまでの十年近く、自ら山城守護と称して南山城を支配し続けた。

 応仁元年から翌年にかけて、京の都は上京を中心に灰燼(カイジン)と化した。やがて、戦の主役は武士から足軽へと変わって行き、足軽の乱暴狼藉(ロウゼキ)によって、益々、都は荒廃して行った。

 太郎と曇天の二人が京都に来たのはこの頃だった。二人共、応仁の乱による地獄を経験した事によって、その後の人生は変わった。太郎は水軍の大将となるべく道を断念する事となり、曇天は本願寺の坊主になって行った。早雲も応仁の乱によって変わって行った一人だった。武士をやめ、頭を丸めて僧となり、当てのない旅に出た。この頃、小太郎も京都にいた。しかし、小太郎はただの傍観者(ボウカンシャ)でしかなかった。小太郎が変わったのは、その後の蓮如との出会いによるものだった。

 応仁二年の末、京都に戻った義視は西軍に迎えられた。早雲は義視と共に京には戻らなかった。

 応仁三年の正月、義尚の将軍継承が決定された。この頃になると、戦は地方にまで広まっており、多くの大名は騒ぎを治めるために国元へと帰って行った。

 文明三年(一四七一年)五月、越前の朝倉弾正左衛門尉孝景(ダンジョウザエモンノジョウタカカゲ)が西軍から東軍に寝返った。この年、蓮如が北陸に進出した。

 文明四年の正月、山名宗全が細川勝元に和平を申し入れるが実現しなかった。西軍では畠山義就、東軍では赤松政則が同意しなかった。

 文明五年、両軍の大将、山名宗全、細川勝元が相次いで亡くなった。

 文明六年、山名政豊と細川政元の間に停戦協定が成立し、政豊は東軍に帰参した。

 そして、文明七年九月、畠山義就は京の陣を引き払って河内に帰った。戦をやめるために帰ったのではなく、戦を始めるための帰国だった。

 十一月には、大内政弘、土岐成頼も幕府と和睦して帰国した。足利義視は土岐成頼と共に美濃の国に引き上げた。京の都から軍勢が引き上げ、ようやく、応仁の乱は終わった。

 十一年にも及んだ応仁の乱は幕府の無力さを表面に現す事となり、幕府の権力の元に成り立っていた守護大名及び荘園領主(有力寺院)も勢力を失う事となった。長期間、守護大名が京都に滞陣している隙に、新しい勢力が出現して、守護大名や荘園領主を脅(オビヤ)かす事となり、守護大名による領国制及び荘園領主による荘園支配は崩壊して行く事となる。新しい勢力は農民や郷士たちを直接に支配して来た国人たちだった。彼らはやがて、荘園を侵略して、守護大名を追って戦国大名への道を歩む事となる。

 応仁の乱の終結は、決して戦が終わったのではなく、その後、百年以上も続く戦国時代の幕開けとなったのだった。





陰の流れ《愛洲移香斎》第四部 早雲登場 終
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