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陰流の開祖であり、忍びの術の開祖でもある愛洲移香斎の物語です。
5.五ケ所浦






 秋晴れの空に、ポッカリと白い雲が一つ浮かんでいる。

 入り組んだ入江の中、海は穏やかだった。

 今、熊野からの商船が入って来たばかりで港は賑わっていた。

 人々が忙しそうに動き回っている。船からの積み荷が降ろされ、そして、別の荷物が船の中に運ばれていた。船から降りた客たちはあたりを見回しながら、連れの者と話を交わし、城下町の方へと流れて行った。

 五ケ所浦の城主、愛洲伊勢守(イセノカミ)忠行の城は城下町を見下ろす丘陵の上に建っていた。のちに言う本丸に相当する詰の城が丘の頂上にあり、北方と西方は五ケ所川の断崖に接し、東は断層をなし、濠をめぐらし、南が大手門となっている。居館は丘の中腹にあり、城全体を守るように深い外濠がめぐらされてあった。

 その城の北には浅間権現を祠る浅間山があり、東には馬山があり、北西にはアカガキリマと呼ばれる山々が連なり、五ケ所浦を守っていた。

 城下町は城の大手門に続く大通りと海岸沿いに走る街道、港から五ケ所川に沿って伊勢神宮へと続く街道を中心に栄えていた。城の周辺には武家屋敷が並び、港の周辺には宿坊や蔵が並び、市場もあった。

 水軍の大将、愛洲隼人正宗忠の城は五ケ所浦の城下から南に二里程離れた田曽浦にあり、田曽岬の砦から海を睨み、五ケ所浦の入り口を押えていた。太郎もその城で生まれたが、今はそこにはいない。隠居した祖父、白峰と共に五ケ所浦の城下町にある屋敷で暮らしていた。白峰の屋敷は城下の東のはずれにあった。志摩の国へと続く街道に面していて浜辺の側だった。

 五ケ所浦は比較的、平和だった。何度か、暴風雨には見舞われたが、京や奈良のように飢饉に襲われ、一揆に悩まされるという事はなかった。

 京ではようやく、寛正の大飢饉は治まった。それでも相変わらず、土一揆がひんぱんに起こり、河内の国(大阪府南東部)では、未だに畠山氏が合戦を繰り返している。

 ここ、五ケ所浦で太郎は平和に暮らしていた。

「えい!」

「やあ!」

 太郎は同い年の大助と浜辺で剣術の稽古をしていた。

 大助は船越城を守る愛洲主水正(モンドノショウ)行成の息子である。太郎が水軍の大将の伜で、大助は陸軍の騎馬武者の大将の伜だった。後の愛洲氏を背負って立つ二人であるが、今はまだ、そんな事は知らない。毎日、仲間たちと一緒に海や野を走り回って遊んでいた。

 今も、水軍の子供達と陸軍の子供達が、どっちが強いかという事で言い争いになり、それでは一騎打ちをやろうという事になった。水軍からは太郎、陸軍からは大助が選ばれ、戦さながらに、「我こそは、誰々‥‥‥」と叫び、木の棒を構えている。

 他の子供たちは二手に別れ、ワイワイはやしたてながら眺めていた。

 太郎は祖父、白峰より剣術、槍術、馬術、弓術を教わり、かなり上達していた。しかし、まだ十一歳の子供である。毎日、武術の稽古はしているが遊びの方が忙しい。まだ、それ程、真剣にやっていたわけではなかった。

 太郎と大助はお互いに掛声をかけると剣を構えたまま、相手に近づいて行った。エイエイと何度も打ち合った。やがて、「痛い!」と太郎が叫ぶと、太郎が持っていた棒が空高く舞い上がった。

 見ていた子供達はワイワイ叫んだ。

「よし、今度は船の上で勝負だ」と太郎は左手を押えながら言った。

 その時、城下の方から槍や薙刀をかつぎ、武装した騎馬武者が五、六人、勢いよく街道を走り去って行った。その後を十人位の兵たちが同じく武装して走って行った。

「何だろう」と太郎は武者たちの去って行く方を見ながら言った。

「盗賊が捕まったんじゃないのか」と大助は言った。

「ああ、そうか」と太郎は頷いた。

 最近になって、ここ、五ケ所浦にも得体の知れない人相の良くない食いつめ浪人共が入って来ていた。食いつめ浪人だけでなく、乞食や浮浪者の数も増えて来ている。城下に入る道々の警戒は厳しくなっているが、彼らはどこからか山づたいに入って来て、増える一方だった。

「早く、続きをやろう。どこで、やったって俺の勝ちだ」と大助は腕を組みながら言った。

 浜辺にあった小舟に二人は乗ると海に出た。

「よし、この辺でいいだろう」

「よし、やるか」

 二人は小舟の上で棒を構えて立った。

 太郎は平気で立っているが、大助はバランスを取りながら立っているだけが精一杯で、棒を構える所ではなかった。太郎がちょっとでも舟を揺らすと、大助は舟から落ちそうになった。

「いくぞ!」と太郎は声をかけた。

「ちょっと待て」

 大助は小舟のへりに手をかけ、やっと立っていた。うまくバランスを取り、どうにか棒を構えると、「いいぞ」と言ったが、太郎が気合と共に近づいて来ると舟は揺れ、大助はそのまま海に落ちてしまった。

 浜辺では見ていた子供達がワイワイ騒いでいる。

 大助は海に転んだまま、「負けたよ」と言った。

「これで、あいこだな」

 見ていた子供達も海の中に入って来て、今度はみんなで小舟の上で相撲をとろうという事になり遊び始めた。





 こんもりとした低い山々が五ケ所浦を囲んでいる。

 あちらこちらに色づいた紅葉が目立ち始めて来ていた。

 ところどころに白い雲が浮かんでいるが、秋晴れのいい天気だった。

 鳶(トビ)が数羽、気持ち良さそうに飛び回っている。

 太郎は山を登っていた。

 最近は海へは行かず、山の中を歩き回っている。そして、山に登る時はいつも独りだった。

 太郎も十四歳になり、いつまでも仲間たちと遊んでいる年ではなかった。やがて、元服(ゲンブク)して父と共に船に乗り、水軍として活躍する事を知っていた。自分も父のように水軍の大将として強い海の男になる事を、いつも夢見ていた。海に出てしまえば、なかなか山にも登れなくなるだろう。

 でも、それだけではなかった。樹木や草におおわれた薄暗い細い道を登ったり、岩肌をよじ登ったりして、ようやく山頂にたどり着くと急に視界が開け、町や海を遠くまで見下ろせるのが何とも言えず爽快だった。しかも、海の反対の方を見れば、山々がずっと向こうの方まで連なっている。初めて山頂からそれらの山々を見た時、太郎は本当にびっくりした。

 五ケ所浦で遊んでいた頃、海は大きくて、ずっと遥か向こうまで続いている。その事は知っていた。そして、自分もいつか、船に乗って遥か沖の方まで行くのだと思っていた。しかし、五ケ所浦を三方から囲んでいる山々の向こうが一体どうなっているか、など考えた事もなく、ただ漠然と山の向こうに伊勢神宮があり、そのまた、ずっと向こうに京の都があるという事を知っているだけだった。

 ところが、山の頂上に登ってみても、お伊勢様どころか、京の都など、まったく見えなかった。見えるのはただ、山、山、山のみだった。どこを見ても山がいくつも連なっている。それは海と同じように、ずっと広く大きかった。

 太郎は汗をかきながら山頂にたどり着くと、辺りを見回した。

 五ケ所浦の城下町は南東の方に小さく見えた。父の乗っている関船も沖の方にポツンと見える。何艘かの小早が海上を滑るように行き来していた。

 太郎はすでに五ケ所浦を囲む山々はほとんど登っていた。

 この辺りには大して高い山はない。ほとんどが二百メ-トルから四百メ-トル位の山々だった。一、二時間もあれば、すぐに登る事ができる。しかし、どの山も必ずしも眺めがいいというわけではなかった。むしろ、山頂に木が生い茂り、薄暗く、回りの風景など見る事ができない山の方が多かった。

 この当時、山は神霊が宿る神聖な場所とされていた。普通の人々にとって山は近寄るべき所ではなく、まして、誰も登ったりはしない。古くから信仰の対象となってきた山だけが名前もあり、山頂に神を祀るために登山道もついていた。

 五ケ所浦にも一つだけ、そんな山があった。

 城の丁度、真後ろにある円錐形の山である。大して高い山ではないが、海の方から城下町を見ると中程にポツンと飛び出た、その山は目を引いた。いつ、誰が登ったのかわからないが、山頂に小さな祠(ホコラ)があり浅間権現が祀ってあった。富士山の修験者(シュゲンジャ)がこの五ケ所浦に来た時、この山を小さな富士山と見て、祀ったものだろう。太郎も、その浅間山には一番初めに登った。予想に反して、その山の頂上は木が生い茂っていて眺めは良くなかった。

 太郎が今いる山は眺めも良く、山頂あたりが少し広くなっていて日当たりもよく、一番、気に入っていた。

 太郎は山頂に座ると汗を拭きながら、隣に見える山を眺めていた。

 山頂あたりに岩肌が飛び出していて、何となく面白い山だと思った。ここから見れば、すぐに行けそうな程、近くに見える。

 汗がひくと太郎は、その山を目がけて山を下り始めた。

 道などはない。

 木が生い茂っていて回りも見えない。目指す山の方向を頭に入れ、とにかく、その方角を目指した。しかし、山の中を真っすぐ進む事は大変な事だった。急な所は木を頼りに、それにつかまりながら下りて行った。岩場に出れば、それを迂回しなければならない。伸び放題の草やつる、蜘蛛の巣や虫などに悩まされ、やっとの思いで、どうにか山を下りる事ができた。

 そこには沢が流れ、小さな滝が水しぶきを上げていた。

 沢は細いが流れは急だった。

 沢の向こうは木が生い茂っていて薄暗い。そこを登っていけば目指す山だろうと思うが、はっきりと分からない。

 とにかく、喉が渇いたので沢の水を飲む事にした。水は冷たくてうまかった。水を腹一杯、飲むと太郎は空を見上げた。

 青空が眩しかった。

 ‥‥‥静かだった。

 沢の上流の方を見ると薄暗く、何となく気味が悪かった。下流の方は大きな岩が立ちはだかっていて先が見えない。

 急に心細くなってきた。

 その時、後ろでガサガサと音がした。

 太郎はビクッとして刀に手をかけた。刀といっても太刀ではない。小刀である。祖父から貰った物で、あまり斬れは良くないが頑丈にできていて、山で木やつるを斬ったりするのには役に立った。

 熊か‥‥‥と太郎は思った。

 今まで熊に会った事はない。しかし、祖母や母から、山には鬼や熊がいるから行ってはいけないとよく聞かされていた。鬼などはいないと知っているが熊はいるとも知っていた。

 太郎はおそるおそる振り返ってみた。

 女の子が木切れを背負って、ちょこんと立っていた。

 女の子は無邪気な顔で笑っていた。太郎は腹が立っていた。こんな女の子に驚かされた自分に腹を立てていた。

「なんだ、お前は」と太郎はぶっきらぼうに言った。

 女の子はそれには答えず、大きな目で太郎をじっと見つめ、「おめえはお侍さんやな」と言った。

「ああ、俺は愛洲の水軍の大将じゃ」太郎は胸を張って答えた。

「嘘や」と女の子は首を振った。「おめえは大将じゃねえ」

「ほんとだ。今はまだ違うけど、もうすぐ、なるんだ」

「ふうん‥‥‥おめえ、えれえんやね」

 女の子は感心しながら太郎を見ていた。

 太郎も悪い気がしなかった。

 女の子の名前は小春といった。

 この沢の少し下流の方に住んでいるという。沢の回りで木を拾っていたけど、人の気配がしたので隠れていた。でも、太郎が自分と同じ子供だったので安心して出て来たのだと言った。

 太郎は小春の白い顔を珍しそうに見ながら、小春の話を聞いていた。

 太郎が知っている女の子は、みんな、日に焼けて黒い顔をしていた。小春のような透けるように白い顔は見た事がなかった。小春は色が白いだけでなく、目がクリッと大きく、鼻筋の通った綺麗な顔立ちをしていた。

 太郎は山に登る事などすっかり忘れ、小春に見とれていた。

 二人は沢のふちの岩に腰を下ろし、お互いの話に夢中になっていった。

 太郎は小春に聞かれて、五ケ所浦の事や海の事を話した。小春は五ケ所浦にも行った事はないし、海も見た事ないと言った。

 太郎には不思議に思えた。山を一つ越せば、五ケ所浦だって、海だって、すぐそこにある。小春が生まれてこのかた、この沢の付近しか知らないという事が、太郎にはとても信じられなかった。

「あら、いけない。もう、帰らないと怒られる」と小春は慌てて立ち上がった。

「送って行く」と太郎は言った。今まで、女の子にそんな事を言った事はなく、自分でも不思議だった。

「いいだ」と小春は言って首を横に振った。

「なぜだ」と太郎は聞いた。

「怒られるだ」

「どうしてだ」

「知らん。でも、お侍は何をするか分かんねえから近寄っちゃなんねえと‥‥‥」

「俺は何もしないぞ」

「うん。おめえはいい人や」と小春は木切れを積んだしょいこを背負った。

「重くないのか」

「重いけど、もう慣れただ」と小春は笑った。

 太郎も笑った。

 小春は歩き出した。

 太郎は小春の後ろ姿を見送っていた。

 小春は振り返り、「また、会えるだか」と聞いた。

「うん‥‥‥明日、また、ここに来る」と太郎は答えた。

「うん」小春は頷いて笑うと、急いで沢を下りて行った。

 チョコチョコと沢を下りて行く小春の後ろ姿を見ながら太郎は笑っていた。

 次の日、太郎は小春と一緒に山に登り、小春に海や城下町を見せてやった。

 小春は初めて見る海の広さに驚き、城下町の賑やかな家並みや湾に浮かぶ船など、見る物、すべてが珍しく、太郎に色々と聞いては大きな目をさらに大きくして驚いていた。

 太郎の言う事を一々感心して聞いている小春を見ているのは楽しかった。

 小春は喜んでいた。

 太郎は小春から色々な山の花や草の名前を教えて貰った。山の中には色々と食べられる草や実がある事も小春は知っていた。

 小春に会う事が太郎の日課となった。毎日、会いに行けるわけではなかったが、家の者に無断で飛び出して行く事も何度かあった。

 毎日、毎日がウキウキして楽しかった。





 翌年、文正元年(一四六六年)春、桜が満開に咲き誇る頃、太郎は元服した。

 名前もただの太郎から、愛洲太郎左衛門久忠という重々しい武将らしい名前に改まった。太郎が生まれた愛洲家では代々、元服した時に熊野の三所権現に詣でるという習わしがあった。

 太郎も元服の式が終わると、父親から貰った真新しい腹巻と立派な太刀を身につけ、小姓(コショウ)に槍を持たせて父の船に乗り込んだ。

 頭の上に載っている慣れない烏帽子(エボシ)が潮風に揺れた。

 今までも『安宅船(アタケブネ)』と呼ばれる、この大型の軍船に乗った事はあるが、沖の方まで出るのは初めてである。目の前に広がる大きな海を目指して、気持ち良く進んで行く軍船の船首に父と一緒に立っていると、自分も今日からは一人前の大人なんだという実感が胸の底から込み上げて来た。

「よく、見ておけ」と父、宗忠が言った。「いいか、このでっかい海が、これからのお前の舞台だ。戦場だ。死ぬも生きるも、泣くも笑うも、すべてが、この海の上だ」

 太郎は父親を見た。

 父親は目を細めて静かに海を見つめていた。その横顔には水軍の大将としての威厳と力強さがこもっていた。

 俺も父親のような海の大将になる‥‥‥と太郎は心の中で強く決心をした。

 熊野灘は珍しく荒れていた。

 波しぶきを浴びながらも太郎は父と共に揺れる船首に立っていた。穏やかな海よりも荒れている海のほうが、かえって、今日の元服の門出にふさわしいと思った。

 船は揺れながら進路を南にとり、紀伊半島を回り、田辺湾に入って行った。

 田辺に着くと先達(センダツ)と呼ばれる山伏が待っていた。太郎もその山伏には何度か会った事があった。

 五ケ所浦には熊野の先達や伊勢の御師(オンシ)と呼ばれる人たちが数多く出入りしていた。彼らは地方に行って熊野詣でや伊勢参りの宣伝をしたり、参詣者たちの道案内や宿屋の提供などをしていた。太郎を迎えた『無音坊玄海』という先達はよく、祖父、白峰の屋敷に出入りしていた。

 熊野詣でと言うのは熊野本宮大社、熊野速玉大社(新宮)、熊野那智大社の『熊野三所権現』を参詣するもので、古くは、ここ熊野は観音の浄土と考えられていた。やがて、阿弥陀信仰が盛んになると阿弥陀の西方浄土に当てられ、貴族たちが現世利益と死後の極楽往生を求めて熊野詣でをするようになった。鎌倉時代になると、その信仰は武家の間に広まり、さらに室町時代では民衆たちの間にも根を下ろして行った。当時、『蟻の熊野詣で』と言われ、お伊勢参りに匹敵し得る程の多数の参拝客を集めていた。

 太郎は父と別れ、船を降りると無音坊に連れられて光明院という寺に入り、無音坊から熊野の事について色々と聞かされた。

 ここ、光明院は地方から来た参詣客のための宿泊所で宿坊(シュクボウ)と呼ばれ、山伏の装束をした人たちで、ごった返していた。

 次の日、太郎も山伏の格好に着替えさせられた。鈴繋(スズカケ)という白い浄衣を着て、結袈裟(ユイゲサ)をかけ、兜巾(トキン)を頭にのせ、脚に脚半を巻き、八目の草鞋を履いた。『いらたか』という念珠を手に持ち、金剛杖を突き、無音坊の後に従った。

 田辺から山の中に入り、本宮に向かう道を『中返路(ナカヘジ)』と言い、また別名『小栗街道』とも言った。時宗の遊行上人(ユギョウショウニン)たちが『小栗判官(ホウガン)』という物語を作り、熊野を宣伝して回ったため、そう名付けられた。

 『かったい』『がきやみ』、今でいうハンセン氏病(癩病)患者の事であるが、白布で顔や手を包んで柿色の衣を着た彼らが熊野には随分と群がっていた。彼らは人々から嫌われ、一般の人々の中に住む事が許されず、寺社の近辺に隠れてひそかに生きていた。熊野権現は古くから他の寺社と違い、不浄を嫌わずという事で、彼らは救いを求め、皆、ここに集まって来ていた。

 『小栗判官』という物語は『かったい』になった判官が土車に乗り、道行く人々の善意によって険しい山々をいくつも越え、本宮の近くの湯の峰という温泉にたどり着き、熊野権現の介抱によって病が治り、健康な体に戻って再生するという物語である。

 その『小栗街道』を太郎は無音坊と共に歩いている。道中には『九十九王子』といわれる熊野の若宮が祀ってあり、それを一つ一つ拝んでは進んで行った。太郎も訳がわからないまま、無音坊の教える真言(シンゴン)を唱えては無音坊の後に従った。

 本宮、那智、新宮と七日がかりで太郎の熊野詣では終わった。

 七日間の山歩きはかなり厳しかったが、太郎はますます山の不思議さ、神秘さに引かれていった。本宮から、さらに奥に入ると大峯という山々があり、その山の中を通り抜けると吉野という所に出る。無音坊はそこを通って、二度、吉野まで行った事があると言った。

「いい所じゃ‥‥‥」と無音坊がしみじみと言ったのを、太郎は後々まで印象深く憶えていた。

 新宮に着くと父、宗忠がすでに待っていた。

 七日間、山を歩き回っていた太郎にとって、熊野灘の海と父の軍船、そして、海の匂いのする父に会うのは懐かしく思われ、嬉しかった。

 その晩、太郎は父たちと一緒に酒を酌み交わして元服を祝った。大人になった気負いもあったせいか、太郎は慣れない酒を飲み過ぎて酔っ払ってしまった。

 気がついた時、太郎は布団の中に寝かされていた。

 喉がやたらと渇いていた。

 起き上がろうと体を動かした時、太郎の手が温かく柔らかい物に触れた。

 太郎はビクッとして隣りを見た。

 白い顔が目に入った。若い娘が横に寝ていた。

 一瞬、小春か‥‥‥と思ったが、そんな事があるはずはないし、娘から匂う甘い香りは小春のものではなかった。

 太郎は夕べの事を思い出した。太郎の横に座ってお酌をしてくれた菊という娘だった。

 部屋の中を見回してみると、二人だけで誰もいない。

 遠くの方から波の音が聞こえて来るだけで、辺りは静まり返っていた。

 太郎は菊を揺り起こした。

 菊は目をあけると、「どうしたの」と甘えるような声を出した。

「ここはどこだ」と太郎は聞いた。

「ここは極楽よ」と菊は言うと、太郎の首に両腕を絡ませてきた。

「よせ!」と太郎は言ったが、菊は構わず裸の体を擦り寄せ、太郎に絡みついてきた。

 太郎は初めて自分も何も身に着けずに寝かされていた事に気づいた。どうして、こうなったのか何も覚えていない。

「太郎左衛門様」と菊は太郎の耳もとで囁いた。「菊は太郎左衛門様が好きでございます。可愛いがって下さいませ」

 太郎には菊を払いのけるだけの勇気はなかった。

 太郎左衛門‥‥‥聞き慣れない名前だった。しかし、それは新しい自分の名前だった。

 ただの太郎から太郎左衛門久忠となった俺は今、何をしているのだろう‥‥‥と思いながらも、もうどうにでもなれと菊の温かく柔らかい体の中に埋もれて行った。

 朝、目が覚めると菊の姿はなかった。

 頭がやたらと痛かった。

 もう、皆、起きているらしく、外がやけに騒がしかった。

 夕べの自分を思い出しながら、うとうとしていると、やがて、父が迎えに来た。

 太郎は急いで支度をして船に乗り込んだ。

 菊にもう一度、会いたいと思ったが、彼女は姿を現さなかった。

「お前も今日からは一人前の男だ」と父が笑いながら言った。

 太郎を乗せた軍船は五ケ所浦を目指して進んで行った。

 来る時とは違って、海は静かだった。

 太郎は艫櫓(トモヤグラ)の上から遠くなって行く熊野の山々を眺めていた。

 海猫が船の上を飛び回りながら鳴いていた。





 熊野から帰って来ると太郎の生活は変わった。

 父と共に船の上で三日間過ごし、祖父のもとで三日間過ごす事になった。祖父のもとでは、今までの様に剣術、槍術、弓術の稽古をやり、加えて、水軍の戦術、戦略などを学んだ。父のもとでは『小早』という小船を使って実技の訓練をした。

 毎日が忙しくなり、前のように山登りなどをして遊んでいる時間が少なくなった。それでも、足腰の鍛練と称して祖父の隙をうかがっては山に登り、小春と会っていた。

 最近は小春と会っても以前のように、無邪気に話したり笑ったりできなくなっていた。互いに相手を意識し始め、気楽に話もできない。太郎にとって小春の白い顔が、やけに眩しく感じられた。

 夏のある日、ちょっとした戦があった。

 五ケ所浦より西三十キロ程の所に古和浦という所がある。そこを本拠とする古和一族が竃方(カマガタ)の権利をめぐって反乱を起こした。

 竃方というのは製塩を生業にしている人たちの集落で、五ケ所浦から西方の入り組んだ海岸に点在していた。彼らは源平時代の平家の落人で、吉野の山中からこの海岸に逃れて来た。しかし、漁業権はすでに、ここに住んでいる者たちに握られており、耕す土地もなく、仕方なく、浜に竃を作って製塩を始めたのだという。

 戦はあっけなく、けりがついた。が、太郎にとっては初陣(ウイジン)だった。

 太郎は氏神に祈願をし、父と共に軍船に乗り込むと古和浦へと向かった。

 古和浦はのこぎり状の海岸の一番奥まった所にある。古和一族の軍船は、その入り口の所で待ち構えていた。

 鐘が鳴り、太鼓の音が響き渡り、掛声と共に弓矢の撃ち合いで合戦は始まった。

「今日の戦は、お前に任せる」と父、宗忠は言うと、酒をぶら下げて関船の屋形の上で寝そべった。

「お前が大将だ。今までに習った事を実際にやってみろ」宗忠は笑うと、寝そべったまま酒を一口飲んだ。

 太郎は突然の父の言葉に何と答えたらいいのか、わからなかった。その間にも太郎や父の回りを矢が飛びかっていた。

「父上、そんな所にいては危険です」と太郎は言ったが、宗忠は平気な顔をして笑った。

「構わん、お前の好きにやってみろ」と太郎に背を向け、のんきそうに酒を飲み始めた。

 やがて、火矢が飛びかい、接近戦となり、太郎は兵たちの指揮をしながら、自らも槍を持って戦った。

 無我夢中だった。

 太郎は敵の船に乗り移り、敵の大将を倒した。

 河合彦次郎に助けられたにしろ、敵の大将をやっつけた。

 戦が終わり、父の前に来た時には返り血を浴びて真っ赤になり、血の臭いが鼻についていた。

 父は相変わらず寝そべったまま酒を飲んでいたが、太郎の顔を見つめると、「よく、やった」と力強く言って、笑った。

「はい」と太郎は息をハアハアさせながら、父を見上げた。

 宗忠は嬉しそうに頷いた。


 久し振りに太郎は山に登っていた。

 山頂に立ち、夏空にポッカリと浮かんだ雲を見上げながら、ニヤリと笑うと小春の住む沢の方に下りて行った。

 初めの頃は道などなかったが、太郎が何度も行き来しているうちに自然と道ができてしまっている。沢に下りると真っすぐに小春の家に向かった。

 小春の父親は木地師(キジシ)と呼ばれる山の民だった。当時、田畑を持たずに山の中だけで生活している山の民と呼ばれる人々がいた。木地師というのは轆轤師(ロクロシ)とも呼ばれ、山中の樹を伐り、轆轤を使ってお椀や木皿やお盆、しゃもじなどを作り、それを売って生計を立てていた。他にも山中には、金(カネ)掘り、杣人(ソマビト)、鍛治師(カジシ)、鋳物師(イモジ)、石切り、塗師(ヌシ)、炭焼き、狩人などの人々が生活している。彼らは山の中を移動して暮らし、平地の者とはほとんど付き合わず、身分の低い者とされていた。

 太郎は小春の父に一度だけ会った事があった。太郎が挨拶をしても太郎の方をちらっと見ただけで何も言わず、丸木舟を作っていた。その顔が何となく怒っているように見え、苦手だった。

 小春は家の前で赤ん坊をおぶって庭の掃除をしていた。

 丸木舟を作るためにアラキドリした丸太が二本、並んで置いてあった。

 太郎が近づいて行くのに気づくと小春は笑い、太郎に近づいて来た。

「今日は誰もいないわ」と小春は言った。

 この辺りには三家族が固まって暮らしている。彼らが、いつここに来たのかはわからない。小春が生まれる前からここに居るわけだから、少なくとも、もう十五年はここに落ち着いている。かといって彼らが定住した訳ではない。また、いつ、移動して行くかわからなかった。

 太郎と小春は沢に沿って歩いていた。

今、男たちは皆、山に入っている。女たちは木で作ったお椀や箸(ハシ)などを持って城下に売りに出かけている。小春は弟のお守りをして留守番だと言う。小春にはもう一人、弟がいるが父の手伝いで山に入っていた。

 太郎は小春に戦の話などしながら、半時(ハントキ、一時間)ばかり過ごして帰って行った。

 小春は太郎の後姿を見送りながら、太郎が一回り大きくなったように思えた。そして、だんだんと太郎が自分から遠い存在になって行くような気がしていた。





 太郎の祖父、白峰の屋敷から東へ十町(約一キロメートル)程の山の中腹に長円寺という臨済禅(リンザイゼン)の山寺がある。その山寺に快晴和尚という変わった坊さんが住んでいた。

 古和一族とのいざこざも、ようやく治まり、五ケ所浦に平和が戻って来たある日、太郎は弟の次郎丸を連れて長円寺に遊びに来ていた。

 祖父、白峰に言わせると快晴和尚というのは偉い坊さんだと言うが、太郎が見た所、少しも偉いとは思えなかった。禅寺にいるのだから禅坊主なのだろうが、座禅をしている所など見た事もない。暇さえあれば日なたで昼寝をしているか、海辺に行って海女(アマ)たちをからかって遊んでいた。人に会えばニコニコして愛想よく挨拶をするが、それがいつも決まっていた。

「今日もいい天気じゃのう」

 晴れの日なら、それでもいいだろう。しかし、雨の日でも風の日でも、台風が来た時でさえ、ニコニコして、そう挨拶をしていた。挨拶された方が何と答えていいか面食らってしまう。

 太郎はひそかに馬鹿な和尚だと思いながらも、何となく引かれる所があって、よく遊びに来ていた。偉ぶった所は全然ないし、太郎に対しても子供扱いしたりしないので、和尚と話をするのは面白かった。

「和尚、身分というのは一体何だ」と太郎は寝そべって空を見上げながら聞いた。

 日当たりのいい草の上で、和尚と太郎、次郎丸の三人が川の字になって寝そべっていた。

「身分か‥‥‥そりゃ、一体何じゃろのう」と和尚はとぼけた。

「どうして、山にいる人や、家船(エブネ)で暮らしている人は身分が低いんだ」

「そりゃ、難しい問題じゃのう」

「どうして、木地師はあんな山の中に住んで居て、町に出て来ないんだろう」

「難しいのう」

「どうして、身分なんてものがあるんだろう。ねえ、和尚、どうしてだ」

「難しいのう」

 次郎丸がクスクス笑った。

 太郎は次郎丸の方を見た。

「だって、和尚さん、おかしいよ。さっきから、難しいのう、ばっかりだよ」

「うむ、難しいのう」と和尚はもう一度言った。

 次郎丸は腹を抱えて笑っていた。

 太郎は空を見上げながら、「どうしてだろう」と呟いた。

「そんなの簡単だ」と声がした。

 声の方を向くと、小坊主がニヤニヤしながら立っていた。

 曇天(ドンテン)という生意気な小坊主だった。年は太郎と同じ位で、頭の回転が早く、機転がきくので快晴和尚は自分の弟子にしていた。

「お前ら、侍が身分なんてもんを作ったんだ」と曇天は言った。

「まあ、そうとも言えるな」とポケッと空を見たまま、和尚は言った。「世の中の仕組みじゃよ。上の者たちが民衆たちを支配するために身分というものができて行ったんじゃ」

「どうして、山の人たちは身分が低いんだ」と太郎はまた聞いた。

「低くない」と曇天は言った。

「太郎、曇天の言う通りじゃ」と和尚は言った。「人間は皆、同じじゃよ。身分の高い低いなどない。みんながそう言うからといって、それを信じてはいかんぞ。自分の目でちゃんと確かめろ。世の中にはな、矛盾した事がまだまだ、いっぱいある。それらをちゃんと見極める目を持っていなくてはならん。特に、人の上に立つ人間はな」

「和尚は、そんな目を持っているの」と太郎は聞いた。

「わしの目か‥‥‥わしの目も最近、曇って来たからのう。世の中の事がだんだんとわからなくなって来たわい」

「和尚さんも年だからな」と曇天は言うと草の上に座りこんだ。

「いい天気じゃのう」と和尚は決まり文句を言った。

 太郎は雲一つない秋空を眩しそうに見つめていた。

 確かに、今日はいい天気だった。

「いい天気じゃのう」と次郎丸が和尚の真似をした。



熊野本宮大社


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酔雲
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歴史小説を書いています。
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