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陰流の開祖であり、忍びの術の開祖でもある愛洲移香斎の物語です。
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19.陰の術






 太郎は智羅天が残した岩屋で寝起きしながら、飯道山に通っていた。

 この岩屋はまったく住み良かった。夏は涼しく、冬は暖かい。冬になっても、岩壁から滲み出る、うまい水は凍る事もなく、毎日、流れ出していた。

 半年振りに飯道山に戻った太郎は久し振りに金比羅坊に会った。

 金比羅坊は目を見張り、「おぬし、どんな修行をしてたのか知らんが、まるで、仙人のようじゃのう」と言った。

「どうして、仙人なんです」と太郎が聞いても、金比羅坊にはうまく答えられなかったが、「おぬしの回りには神気のようなものが漂っているようじゃ」と首を傾げながら言った。

 太郎は金比羅坊と高林坊に頼まれて、剣術の師範代をする事になった。

 久し振りに道場に向かうと木剣の響きが懐かしく感じられた。去年の今頃は、自分もこうやって稽古に励んでいたのだった。もう、ずっと昔の事のように思えた。

 今年もあと一月で終わりだが、今年、一年間の修行者で、今まで残っているのは剣術だけでも二十三人いた。去年と比べれば倍である。入って来る時の人数も多かったが、残っている者も多かった。それだけ、世の中が乱れ、強くなければ生きて行けない世の中になって来ていた。

 太郎が道場に入って行くと皆が稽古をやめて太郎の方を見た。そして、仲間と何やらコソコソ話し始めた。『天狗太郎』という声が、あちこちから聞こえて来た。

 太郎は師範の勝泉坊善栄、師範代の浄光坊智明、中之坊円学に挨拶をした。

 金比羅坊は手を休めて話をしている修行者たちに、「真面目にやれ!」と怒鳴った。

 修行者たちは慌てて稽古を続けた。

「太郎坊か」勝泉坊は太郎をじっと見ながら、「大分、修行したとみえるな」と満足そうに頷いた。「まあ、あいつらを鍛えてやってくれ」

「天狗殿がいよいよ、山から出て来たか」と中之坊は笑った。

「お前は知らんだろうが、お前はこの山の名物男だぞ。お前の事をみんなが『天狗太郎』と呼んでおる」と浄光坊は言った。「まさしく、今のお前は天狗のようじゃのう」

 太郎は師範代として、若い者たちに稽古をつけてやった。

 稽古が終わり、帰ろうとした時、太郎は五人の若者たちにつかまった。

「太郎坊殿」と若者の一人が言った。「わたしは杉谷と言います。望月三郎の幼なじみの杉谷です」

「杉谷‥‥‥ああ、あの時、色々と探ってくれたのは、お前だったのか」

「はい」

「あの時は御苦労だった」と太郎は改めて杉谷を見た。

 一年前、望月又五郎を襲った時、敵の内情を探ってくれたのが杉谷だった。彼の情報のお陰で、うまく行ったとも言えた。

「太郎坊殿、俺たちにも『陰の術』を教えて下さい」と杉谷は言った。

「陰の術?」

「はい、敵の屋敷に忍び込む術です」

「ほう‥‥‥陰の術ねえ‥‥‥」

 太郎がまったく知らないうちに、『陰の術』などという術の名前までが出来ていた。きっと『陰の五人衆』の使った術だから『陰の術』という名になったのだろう。

「お願いします」と五人が揃って頭を下げた。

 『陰の術』と言われても、太郎に教えられる事は木登りと手裏剣くらいだが、教わりたいと言うのなら教えてやってもいいと思った。

 次の日から、剣術の稽古が終わった後、太郎は『陰の術』を教えるという事になった。五人だけだと思っていたのに、集まって来たのは二十人近くもいた。

 太郎はまず、刀の鍔を利用しての塀の乗り越え方、鉤縄(カギナワ)を利用しての木の登り方、手裏剣の投げ方を教えた。

 天狗太郎が『陰の術』を教えているという噂を聞き、習いたいという者が続々とやって来て、その次の日には五十人近くにもなった。五十人も集まって来ると、太郎の方も大変だった。教えるからには『陰の術』というものを完成させなければならなかった。いつまでも、木登りばかりやらせておくわけにも行かない。

 太郎は今まで、午前中は岩屋の中で座ったり、木を彫ったりしていたが、これからは、『陰の術』という、太郎の知らないうちに出来てしまった術に取り組まなければならなくなった。石垣を登ったり、岩を登ったり、家の戸をこじ開けたり、穴を開けたりする武器も、太郎は自分で考えた。それらの武器の使い方を教えるだけでなく、智羅天から教わった陣方や方位学、そして、祖父から教わった水軍の兵法など、役に立ちそうなものを選んで彼らに教えて行った。

「まず、敵に勝つには敵をよく知る事だ」と太郎は皆に言った。「敵の陣地や屋敷に忍び込むには、まず、見取り図を作り、見張りの場所、敵の兵力などを調べる。また、敵の内情をよく知っている者にそれとなく近づき、うまく聞き出す。やり方は色々とあるが、とにかく、敵の事をよく知らなければならない。そして、敵の虚を突く事だ」

 太郎は味方同志の合図の仕方や、敵の目をごまかして逃げるやり方なども教えた。

 わずか一月足らずであったが太郎は知っている限りの事を修行者たちに教えて行った。





 年が改まって、文明三年(一四七一年)の正月、太郎は忙しく、山の中を走り回っていた。

 山に登って来る信者たちは去年よりも多く、朝から晩まで、参道は人で埋まっていた。

 太郎は信者たちの接待役にあたっていた。去年は太郎も修行者で、ただの手伝いとしてやっていたのだが、今年から正式に剣術の師範代の役が付き、先達(センダツ)山伏という資格も貰っていた。信者たちを行場に案内したり、護摩壇の前で祈祷もしなければならない。去年のように途中から抜け出すわけには行かなかった。ようやく、八日頃から信者たちの数も減ってきて、太郎は十一日から四日間、休みを取る事ができた。

 十日の夜、仕事もやっと片付くと太郎は妻、楓の待つ里に下りて行った。

 花養院の近くに太郎と楓の新居はあった。去年の末、そこが空き家となったので、松恵尼が二人のために借りてくれたのだった。

 それは小さな家だったが、子供の頃から尼寺で育った楓にとっては、初めての自分の家である。楓は毎日、掃除をして家の中を綺麗に整えていった。

「お帰りなさいませ」と楓は板の間に手をついて太郎を迎えると嬉しそうに笑った。

「これが、俺たちのうちか‥‥‥」と太郎は初めて見る二人の新居を眺めた。

「どう、あなた」と楓は部屋の中を案内した。

「これが、俺たちのうちか‥‥‥」と太郎は部屋の中を見回しながら満足そうに笑った。

 台所と居間と納戸(寝室)だけの小さな家だったが、井戸もあり、風呂もあり、小さな庭も付いていた。居間の隅にある文机(フヅクエ)の上には信楽焼きの花瓶に梅が一枝差してあり、壁には流れるような字で、和歌の書かれた小さな掛軸が飾ってあった。

「どう?」と楓は聞いた。

「最高さ」と太郎は楓を抱き寄せた。

「長い間、御苦労様」と楓は太郎を見つめながら言った。

「楓のお陰さ」と太郎も楓を見つめていた。

 楓は酒の用意をして待っていた。

「あなた、新年、おめでとうございます」と楓は言うと太郎に酒を注いだ。

「ああ、そうだ、忘れていた。おめでとう」と太郎は酒を飲み干すと酒盃を楓に渡し、酒を注いでやった。

 楓は嬉しそうに酒を飲み干した。

「師範代になられたそうですね」

「まあな、そんな役を貰ってから、色々と忙しくなったよ」

「いいじゃありませんか。里でも、あなたの事は有名よ」

「どう、有名なんだ」

「『陰の術』よ。多分、今年は、あなたから陰の術を習おうと、若い人たちが続々と山に登って行くわ」

「『陰の術』とは良く付けたもんだ‥‥‥今のように世の中が乱れているから、みんなから教えてくれと言われるが、もし、これが平和の世であってみろ。あんな術は盗人(ヌスット)や山賊の術だぞ。教えていながら自分でもいやになって来る時もある」

「それは術のせいじゃないわ。剣術や薙刀だって、使う人の心次第でどうにでもなるわ」

「そうだ、心なんだよ」と太郎は頷いた。「一番、重要なのは心なんだ。俺も去年一年、山で修行して、改めて、心というものの重要さがわかってきた。まだ、まだ、俺も修行せにゃならん」

「頑張って下さい。あたしは、どこまでもあなたに付いて行きます」

「頼むぞ‥‥‥だがな、十四日までの休みのうちは修行はやめだ。修行の事など忘れて、お前と二人だけで楽しく過ごそう」

「はい」と楓も嬉しそうに頷いた。

 次の日、珍しい客が二人の新居を訪れた。

 望月三郎、三雲源太、芥川左京亮の三人だった。太郎は三人を懐かしそうに迎えた。

「よく、ここがわかったな」と太郎は三人に聞いた。

「陰の術よ」と三雲が自慢げに言った。「おめえが、どこで、何をやっているか調べるなどわけねえ」

「それにしても、おめえも隅に置けんな」と芥川は言った。「山の中で修行ばかりしてると思ってたら、いつの間にか、ちゃんと、女の方にも手を出している」

「おめえ、人の事など言えんぞ」と三雲が芥川の肩をつついた。「手が早えったらありゃしねえ」

 芥川左京亮はとうとう望月三郎の妹、コノミの心を捕え、去年の秋、一緒になっていた。

「望月、あれから、うまく、やってるのか」と太郎は聞いた。

「まあな、陰の術のお陰さ」と望月は笑った。

 四人は山での修行の事や、その後の事など懐かしく話しながら、楓の作った料理をつまみに酒を酌み交わした。

「服部の奴はどうしてる」と太郎は聞いた。

「奴は伊賀に帰ったよ」と望月は言った。「伊賀の方も色々と小競り合いがあって大変らしい。奴は一応、服部家の総領だからな。いつまでも遊んでられないんだろう」

「本当はコノミ殿にふられて、ガックリきて伊賀に帰ったのさ」と三雲は笑った。

「そう言うお前はどうなんだ。芥川、服部、三雲、三人して、コノミ殿を追いかけ回していたんじゃなかったのか」と太郎は三雲に言った。

「あれ、どうして、そんな事、知ってんだ」

「俺も陰の術を使うんだよ」と太郎は笑った。

「俺はもう、きっぱりと諦めたさ」

「こいつには、もう、他に女がちゃんといるんだよ」と芥川が言った。

「いねえよ、そんなの」と三雲は慌てて否定した。

「三雲、俺たちに隠し事は通じないぜ。白状した方がいいんじゃねえのか」

「参ったなあ、でも、もう少し待ってくれよ。俺だって恥をかきたくねえからな」三雲は困ったような顔をして言った。

 そんな三雲を見ながら、「まあいい、まあいい」とみんなして笑った。

「ところで、お前、去年、半年も山に隠れていたそうだが、一体、何をしてたんだ」と望月が太郎に聞いた。

「ちょっとな、仙人にでもなろうと思ってな、山に籠もってみたんだが、やっぱり駄目だったよ」と太郎は笑いながら言った。

「今度は仙人か。天狗が仙人になるのか、こいつはいいや」と芥川は笑った。

 太郎は智羅天の事は楓以外、誰にも喋っていなかった。智羅天から教わった気合の術も誰にも見せてはいない。自分の身が危険にさらされた時以外、気合の術は使うまいと心に決めていた。

「なあ、どうやったら仙人になれるんだ」と三雲が真顔で聞いた。

「アホ、太郎坊の話を本気にする奴があるか。仙人なんているわけねえだろ」と芥川は三雲を小突いた。

「じゃあ、一体、何してたんだ」

「滝に打たれたり岩屋の中で座ったり、山の中を走り回って修行してたんだろ」と芥川が言った。

「実はな、薬草の勉強をしてたんだ」と太郎は皆に言った。「薬草に詳しい山伏がいてな。その人について色々と教わってたんだよ」

「薬草? そんな事、習って、どうするんだ。薬売りでもやるんか」と望月が不思議そうに聞く。

「ああ。俺の師匠、知ってるだろう。あの人は薬を売りながら旅をしている。俺も女房を食わして行くには何かをしなくちゃならねえからな」

「そうか‥‥‥おめえも大変だな」と芥川。

「何も薬売りなんかしなくても、お前、今、師範代やってんだろ。食うには困らんのじゃないのか」と望月。

「ああ、今はな。しかし、去年は、まさか俺が師範代をやるなんて考えてもいなかったよ」

「そりゃ、そうだな」

「お前らに、いい薬があるから、やろう」と太郎は隣の部屋から袋を持って来た。

「これは飲み過ぎに効く薬だ」と太郎は黒い丸薬を見せた。「これは腹痛だ。お山で作っている飯道丸よりは効くぞ。お前みたいに、いつも下痢してる奴にはすぐ効く」と太郎は三雲に渡した。

「もう、下痢なんか治ってるよ。あれはお山の食い物が俺の腹に合わなかっただけだ」

「こいつは戦に行った時など食い物がない場合、一日、三粒づつ飲めば、何日でも物を食わずに生きていられる薬だ」

「ほう、そんな便利な物があるのか」と三人は感心しながら太郎の出す丸薬を眺めた。

 太郎は色々な薬を皆に見せ、作り方も教えてやった。





 太郎と楓は智羅天の墓の前に座って冥福を祈っていた。

 太郎は智羅天の岩屋に楓を連れて来た。勿論、道などはなく、いくつも岩を乗り越えなければここには来られないのだが、薙刀の名人で、身の軽い楓なら登れるだろうと思い、また、この岩屋をどうしても楓にだけは見せたかった。

 智羅天が死んだ今、この岩屋を知っているのは太郎だけである。しかし、一人だけで知っていても面白くない。楓にも教えて二人だけの隠れ家にしたい、と子供のような考えで、太郎は楓を伴ってここまで登って来た。

「凄い所ね」と楓は岩壁を見上げながら言った。

 岩壁には長い氷柱(ツララ)がいくつも張り付いて、光っていた。

「ここは俺たちの別宅だよ。俺たちしか知らない」

 太郎は積もった雪の中を楓の手を引きながら、岩屋の中へと連れて行った。

「暖かいだろ」と太郎は手燭(テショク)の明かりを点けながら言った。

「ほんと、暖かい」

 太郎は楓を連れて岩屋の中を案内して回った。

「中は広いのね」と楓は感心していた。

 岩壁に彫られた如意輪観音像を見せると楓は、「わあ、凄い!」と声を上げて眺めた。

「この岩屋の守り本尊だ」

「凄いわ。一体、誰が彫ったの」

「智羅天殿の話によると、昔、この辺りに金勝(コンゼ)族っていう連中が住んでいたんだそうだ。彼らは遠く明(ミン)の国の方から流れて来た人たちで、奈良にある大仏様も彼らが作ったそうだ。狛坂寺にも阿弥陀如来様が彫ってあるだろう。あれも金勝族が彫ったらしい。その人たちが、昔、ここに住んでいて、この如意輪観音様を守り本尊にしていたんだろう」

「へえ、そうなの。でも、その人たちは一体、どこに行っちゃったの」

「奈良の大仏様を作ってから、有名になって、仏像を作るためにあっちこっちに出掛けて行って、みんな、バラバラになっちゃったんだろう」

「ふうん‥‥‥」

「今、有名な仏師(ブッシ)たちは皆、その流れを汲んでいるのかもしれない。もしかしたら、智羅天殿もその子孫だったのかもしれない」

「成程ね」

「次はこっちだ」と太郎は楓の手を引いて次の部屋に連れて行って、智羅天が彫った木彫りの弥勒菩薩、不動明王、聖観音、そして、太郎が自分で彫った智羅天像を見せた。

「これ、ほんとにあなたが彫ったの」と智羅天像を見ながら楓は驚いていた。「あなた、何でもやるのね」

「これは自分でも不思議に思う。多分、智羅天殿の霊が俺に取り憑いて、これを彫らせたんじゃないかと思うよ。三日間、何も食べず、一睡もせずに彫り続けた。あれは、今、思うと、ちょっと異常だった」

「ふうん‥‥‥でも、凄いわね。ほんとに魂が籠もってるっていう感じ。今にも、このお爺さん、動き出しそう」

「ありがとう」

 二人は如意輪観音の部屋で焚火をして、雪で濡れた着物の裾を乾かした。

「俺は三月で、お山を下りようと思っている」と太郎は焚火の炎を見つめながら楓に言った。「多分、三月になったら師匠が来るだろう。そしたら、お山を下りようと思っている。一度、五ケ所浦に帰ろうと思っているんだ。一年の約束で出て来たんだが、すでに、二年になってしまった‥‥‥みんな、心配しているだろう‥‥‥」

 楓は太郎の顔を見つめながら話を聞いていた。

「なあ、楓、お前も一緒に来てくれるな」

「当たり前でしょ。どこにでも付いて行くわ。でも‥‥‥」

「でも、何だい」

「あなたは水軍の大将の息子さんでしょ‥‥‥あたしなんか連れて行っても大丈夫なの」

「何、言ってんだよ。お前は俺の女房だぜ。それにお前は立派な武士の娘だよ。お前以上の女はいない。両親だって、ちゃんと、お前の事を認めてくれるさ‥‥‥それより、お前の方は大丈夫なのか」

「大丈夫よ。松恵尼様は許してくれるわ」

「よし、そうと決まれば、あと三ケ月、世話になったお山のために頑張るとするか」

「ねえ、五ケ所浦って、どんな所なの」

「暖かい所だよ。冬だって雪なんて降らないし、海で取れる魚や貝類がうまい。平和な田舎だよ。最近はこの辺りも物騒になって来たけど、五ケ所浦はまだ相変わらず、平和だろう」

「そう‥‥‥あたしは小さい頃から、ずっと、ここにいるだけで、どこにも行った事がないわ。一度、海っていうのを見たかったわ」

「海か‥‥‥懐かしいな。俺も、早く、海が見たくなって来た」

 太郎と楓は休みの間、世間から隠れて、暖かい岩屋の中で二人だけの時を過ごした。





 今年も、甲賀、伊賀の若者たちが山に登って来た。その数は三百人を越えていた。そのほとんどが、太郎の編み出した『陰の術』を習いたくて登って来た者たちだった。

 今年から、陰の術も、太郎を師範として正式に武術教程の中に組み込まれる事になった。ただし、誰にでも教えるわけには行かないので、厳しい修行に耐え、最後まで残った者たちに、最後の一ケ月間、修行させるという事に決まった。

 今の所、陰の術の師範は太郎一人しかいない。三月一杯で山を下りるという事は高林坊に告げ、許されたが、十一月の末から一ケ月間は山に戻って来て、陰の術を皆に教えてやってくれと頼まれた。太郎は引き受けた。

 恒例の一ケ月間の山歩きが始まった。

 毎年の事だが、この山歩きで半分はふるい落とされる。人数が、あまりにも多すぎるので、今回は三百人を三つに分け、第一隊は西光坊元内が率い、第二隊は中之坊円学が率い、第三隊は太郎坊移香が率いる事になった。

 初めの六日間は飯道山から太神山までの片道を歩く。

 太神山に三百人も収容できる宿坊がないので、各隊を一日づつ、ずらせて歩く事になった。第一隊が太神山に向かって歩き始めた日、第二隊と第三隊は金勝山まで行って戻って来た。二日目は第二隊が太神山に向かい、第三隊はまた、金勝山までの往復、そして、第一隊が戻って来ている三日目は、第三隊が太神山に向かい、第一隊は金勝山までの往復という具合に、六日間は飯道山から太神山までの距離、六里半(約二十六キロ)を歩かせた。

 この六日間で三十人近くの落伍者が出た。

 七日目からは太神山までの往復十三里(約五十二キロ)を歩く事になる。第一隊が出発してから四半時(シキントキ、三十分)おきに、次の隊が出発して行った。朝、七ツ時(四時)に起き、山門内外の掃除または水汲みをして、洗顔、朝食を取り、読経をして、明け六ツ時(六時)から一番初めの隊が歩き出して行った。

 山歩きに慣れない者たちにとって、日が暮れるまでに山道を十三里歩くのは、かなりきつい修行である。しかも、山道には雪が積もっていて歩きづらかった。初めのうちは日暮れまでには帰って来られない。五ツ時(午後八時)を回ってしまう。帰って来て夕食を取るのだが、体が疲れきってしまい、食事も喉を通らず、倒れるように寝てしまう者がほとんどだった。

 太郎は百人近くもの若者たちの先頭に立って山を歩いていた。太郎がのんびり歩いているつもりでも、若い者たちにとって付いて行くのは大変な事だった。まだ、片道しか歩いていない六日間で、二十人近くの者が抜けて行った。太郎の隊が一番多かった。

 一ケ月の山歩きで半分は落とさなければならないのだが、六日間のうちで二十人近くというのは多すぎた。太郎は七日目から努めて遅く歩くようにし、八日目からは一番最後をのんびりと散歩する事にしていった。飯道山に帰って来るのはいつも、日が暮れて、真っ暗になっていた。八十人も連れて、ゆっくり歩くのは自分の早さで独り歩くより、ずっと疲れる事だった。

 太郎が一番最後に付いて、ゆっくり歩いていても、山を下りて行く者の数は減らなかった。それに、今年の冬はやけに寒く、雪の日が多かった。どんなに吹雪いていても山歩きは中止にはならない。吹雪の中を雪に埋もれながらも歩き通した。そんな日の次の朝には、特に山を下りて行く者は多かった。

 一ケ月の山歩きが終わり、太郎の第三隊に残った者はわずかの三十二人だった。自分のやり方が間違っていたのかと太郎は思ったが、第一隊、第二隊で残った者の数も第三隊と大して変わってはいなかった。

 結局、最後まで残った者は合計で九十五人だった。三百人のうち二百人は山を下りていった。本気で修行をしたいと思って登って来た者より、興味本位の軽い気持ちで『陰の術』という不思議な術を自分も身に付けようと登って来た者が多かったに違いなかった。

 残った九十五人のうち、剣術の組に入って来たのは三十六人だった。この中で、最後まで残っているのは十人位だろうと太郎は思った。

 武術の稽古は午後からである。午前中はそれぞれ、作業を行なう事になっていた。作業は色々とあった。信者たちに配る魔よけの札を作ったり、護摩を焚く時にくべる札を作ったり、薪を作ったり、信楽焼きで有名な信楽の庄がすぐ側にあるため、山の中にも窯(カマ)があり、陶器も作っているし、飯道丸という腹痛に効く薬も作っていた。その他、参道の修復、時には里に下りて行って、治水の土木工事をやる事もある。それに、この山で使う物は食糧以外は、箸から武器に至るまで、ほとんど自給していた。

 太郎は午前中、陰の術の稽古に使う武器を色々と考え、山にいる鍛冶師に頼んで作って貰っていた。手裏剣、鉤縄の鉤、それに、少し大きめな刀の鍔、鉄菱、岩を登る時や、穴を掘ったりする時に使う苦無(クナイ)など、習う者たち全員の手に渡るように充分な数を作らせた。その他、縄ばしごなど自分の手で作れる物は自分で作り、三雲が考え出した黒装束も使い易いように改良して、楓に頼んで作って貰っていた。また、あらゆる屋敷や砦、城などに忍び込む場合を想定して、どんな武器が必要なのかを考え、色々な武器を作って、それを使い易いように改良していった。それだけでなく、それらの武器を使い、夜の闇に紛れ、実際に寺や砦や郷士の家などに忍び込んだりしていた。

 午後になると道場に出向いて若い者たちに剣術を教えた。太郎は皆に良くわかるように丁寧に教えた。しかし、太郎は師範代としては年が若過ぎた。体つきも普通である。顔も、どちらかといえば優しい顔をしている。一見しただけでは強いという感じはなかった。

 一年間の修行をするために山に入るのは、ほとんどの者が十七、八歳だったが、中には太郎と同じ位な者も何人かいた。彼らにとって自分と同じ年の者に教えられるというのは面白くなかった。しかも、まったくの初心者というのはいない。皆、子供の時から剣槍を習い、さらに、腕を磨くために山に来ている。誰もが自分の腕に多少の自信を持っていた。

 初めのうちは、皆、おとなしく稽古をしていたが、そのうちに、杉山八郎を中心にした四人が太郎の言う事を聞かなくなっていた。太郎は別に気にもせず、杉山たちを金比羅坊に任せる事にしたが、なお、杉山たちは太郎に逆らって行った。

 金比羅坊が見かねて、「あんな奴ら、やっつけてやったらどうだ」と言うので、太郎も彼らとやり合う事になった。

 うまい具合に今日は師範の勝泉坊はいなかった。

 金比羅坊が皆の稽古をやめさせ、「今日は、本当の剣術というものを見せてやる」と言った。

「誰でもいい。この太郎坊と試合をやってみたいという奴はおらんか」と金比羅坊は皆の顔を見比べた。

 誰も返事をしなかったが、やがて、杉山八郎が太郎を睨みながら前に出て来た。

「よし、まず、お前がやってみろ」と金比羅坊は言って太郎に合図をした。

 二人は互いに合掌して木剣を構えた。

 杉山は上段、太郎は下段だった。

 他の者は、二人を囲むように座って、二人を見つめた。

 金比羅坊も中之坊も浄光坊も目を見張って、太郎を見つめていた。去年、長い間、山に籠もって以来、誰も太郎の本当の腕を見た事がなかった。腕が数段上がっている事は誰が見てもわかったが、実際、どれ程、強いのか、誰にもわからなかった。

 太郎は下段のまま動かなかった。

 杉山は太郎の構えを見ながら、隙だらけだと思った。目を睨んでも太郎の目はぼんやりとしているだけで、どこを見ているのかもわからない。大した事はないと杉山は上段のまま、太郎に近づいて行った。杉山が近づいても太郎は動かなかった。いよいよ、剣が届く距離になっても太郎は動かない。

「こいつ、アホか」と杉山は太郎の頭めがけて木剣を打ち下ろした。。

 太郎の頭は砕け、太郎は倒れるはずだった。しかし、杉山の剣は空を切った。太郎はほんの少し、頭を移動しただけであった。

 杉山は空振りした剣を下段から振り上げた。太郎は、また、顔をかわした。

 次に、杉山は一歩踏み出し、剣を横に払った。太郎は後ろにフワッと飛び、その剣を避ける。

 杉山は次から次へと太郎に向かって剣を振ったが、それは、すべて、太郎にかわされて行った。

 杉山の剣は太郎に触れる事もできない。まるで、空気を相手に剣を振っているようであった。

 見ている方も皆、唖然として太郎の動きを見ていた。

 それは、杉山が振る剣の風圧によって、フワッフワッと風に舞う木の葉のように感じられた。

 杉山に攻められて後ろがなくなると、太郎はフワッと飛び上がり、杉山の頭上を軽く飛び越えた。それは、まるで、天狗そのものだった。そして、最後には杉山の木剣を空高く弾き飛ばしていた。

 太郎が合掌して引き下がっても、皆、茫然としていた。

 今、目の前で行なわれた太郎の技は、誰もが現実のものとは思えなかった。

 しばらくして、やっと我に帰った金比羅坊が、「それまで!」と言った。

 茫然として立ち尽くしていた杉山も我に帰り、木剣を拾うと引き下がって行った。

「次に誰か、やってみたい奴はいるか」と金比羅坊が皆を見回したが、誰も出ては来なかった。

「よし、今日はこれまで!」
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