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陰流の開祖であり、忍びの術の開祖でもある愛洲移香斎の物語です。
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3.蓮崇



 蓮如が吉崎の地に本願寺別院を建てようと決めたのは、三年前の文明三年(一四七一年)の五月の事だった。丁度、越前の朝倉弾正左衛門尉孝景(ダンジョウザエモンノジョウ)が西軍から東軍に寝返って、越前守護職に任命され、越前の国の平定に取り組み始めた時期と一致していた。

 当時、越前の国は斯波(シバ)氏が守護職だったが、斯波氏は家督争いを始め、応仁の乱が始まると、斯波左兵衛佐義敏(サヒョエノスケヨシトシ)は東軍に付き、斯波治部大輔義廉(ジブノタイフヨシカド)は西軍に付いた。朝倉弾正左衛門尉は守護代の甲斐八郎敏光と共に西軍に属して京都において戦っていた。ところが、弾正左衛門尉は乱の始まった翌年、嫡男の孫次郎氏景だけを京に残して越前に戻って来た。騒ぎ出した国人たちを静めるためとの名目だったが、実は東軍より、寝返れば越前守護職に任命するとの内密の誘いを受け、寝返るための下準備のための下向だった。せっかく、守護職になるからには、国内において自分の勢力を広げる必要があった。いくら、自分の後ろに幕府が付いているとしても、今の状況において寝返ったら、越前国内の国人たちをすべて敵に回してしまう事になる。弾正左衛門尉は周到な下準備をして、文明三年の五月、突然、東軍に寝返った。

 正式に越前守護職となった弾正左衛門尉は一乗谷を拠点に、府中(武生市)の守護所を攻め落とし、西軍側の国人らを次々に倒して行った。斯波治部大輔は守護代の甲斐八郎敏光を越前に送るが、甲斐八郎も敗れ、甲斐八郎は加賀の西軍、富樫幸千代と結び、朝倉弾正左衛門尉を倒す機会を狙っていた。

 一方、加賀の国の守護は富樫氏だった。富樫氏も二つに分裂していた。両派は争いを繰り返していたが、文安四年(一四四七年)に和解が成立して、加賀の国を二つに分け、南加賀の守護として富樫五郎泰高、北加賀の守護として五郎の甥の富樫次郎成春が治めるという事となった。ところが長禄二年(一四五八年)、北加賀守護の次郎成春は荘園横領のため守護職を解任され、新しく、北加賀の守護となったのが、ようやく再興された赤松氏だった。

 赤松次郎政則は小寺藤兵衛を守護代として加賀に送り込み、富樫次郎方の抵抗にも屈せず、北加賀を武力を持って平定した。富樫次郎は加賀を追い出され、亡命中に病死した。この次郎成春には、鶴童丸と幸千代という二人の子があった。南加賀守護の五郎泰高は富樫氏を一つにまとめるために自ら隠居し、家督を次郎成春の嫡子、鶴童丸に譲った。やがて、鶴童丸は元服して次郎政親と名乗った。

 応仁の乱が始まった時の加賀の国は、北加賀守護として赤松次郎政則、南加賀守護として富樫次郎政親がいて、共に東軍方だった。しかし、加賀の隣国の越前と能登は西軍に属し、また、赤松氏によって加賀を追い出された成春の一党は、政親の弟、幸千代を立てて、加賀を取り戻すために西軍に付いたため、北陸地方では西軍が圧倒的に有利だった。

 やがて、赤松次郎政則は旧領の播磨を回復して、北加賀から出て行った。当然、幸千代党は赤松氏のいなくなった北加賀に入って来た。富樫次郎政親は東軍として、苦しい立場に追い込まれた。そんな時、西軍だった朝倉弾正左衛門尉孝景が東軍に寝返ったのだった。北陸における情勢は一変して、東軍の有利となって行った。

 文明四年(一四七二年)八月、越前の西軍、甲斐八郎敏光は朝倉弾正左衛門尉と戦い、敗れて加賀に逃げた。その時の戦は、吉崎御坊の近くの細呂宜(ホソロギ)郷において行なわれたが、本願寺は関係しなかった。加賀に逃げた甲斐八郎は加賀の西軍、富樫幸千代と結んだ。

 去年(文明五年)の七月、幸千代は白山山麓の山之内庄(鳥越村)に拠る次郎政親を攻撃した。次郎は越前の朝倉に救援を頼むが、救援が来るまで持ちこたえられず、敗れて越前に逃げた。勢いを得た幸千代と甲斐八郎は、八月に朝倉弾正左衛門尉を攻めて勝つが、決定的な勝利とはならず加賀に引き上げた。

 今年の一月にも甲斐八郎は朝倉弾正左衛門尉と戦うが敗れ、風眼坊が蓮如と旅をしていた、つい最近も甲斐八郎は朝倉弾正左衛門尉に敗れていた。

 甲斐八郎は富樫幸千代の本拠地、蓮台寺城(小松市)に潜んで越前を窺い、富樫次郎は朝倉弾正左衛門尉の一乗谷に潜んで加賀を窺っていた。


 風眼坊は慶覚坊と一緒に蓮如の供をして吉崎に行った。

 吉崎御坊は初めて来た時と変わっていた。初めて来たのは二十日程前だった。たったの二十日間で、吉崎御坊は城塞と化していた。吉崎御坊は北西南と北潟湖に囲まれ、自然の城塞ともいえる所に建っているのに、さらに、細呂宜郷へと続く東側に深い濠が掘られ、大聖寺川から水を引き入れ、高い土塁を築き、門前町を守っていた。

「これは、一体、どうした事じゃ」と蓮如は目を丸くして慶覚坊に聞いた。

「はい。上人様が留守の間に、多屋衆によって吉崎を守るために決めたのです」

「まだ、分からんのか。本願寺は戦には参加せん」

「それは充分に分かっております。しかし、この間の火事の事もあります。本願寺がする気がなくても、本願寺を敵と見ている者たちは大勢おります。決して、戦うわけではありませんが、身を守らなければなりません」

「これでは、まるで城と同じではないか。本願寺がこんな構えをしたら、それこそ、敵を挑発する事になりかねん。敵が攻めて来たら逃げればいいんじゃ。吉崎がなくなっても、本願寺の教えは残る。本願寺の教えは寺にあるのではない。守るべきものは寺ではなくて、門徒たちじゃ。決して、門徒たちを戦に巻き込んではならん」

「それは分かります。しかし、ここには上人様の裏方様(奥様)やお子さんたちがおられます。全員が無事に逃げるまでは、ここを守らなくてはならないのです。お分かり下さい」

 蓮如は黙った。裏方や子供たちの事を出されては蓮如にも返す言葉がなかった。

 一行は多屋衆が警固する門を通って門前町に入り、門徒たちの行き交う中、本坊へと向かった。御影堂(ゴエイドウ)では大勢の門徒たちが坊主の説教を聞いていた。蓮如は御影堂の前を通ると、書院で待っていてくれと言って庫裏(クリ)に入って行った。

 書院は蓮如が客と会う場所であり、蓮如が『御文(オフミ)』を書く場所だった。風眼坊と慶覚坊と慶聞坊の三人は御影堂の見える部屋に案内された。

「やはり、上人様は戦には絶対、反対のようじゃのう」と慶覚坊は首を振ると腰を落とした。

「上人様は純粋すぎるんです」と慶聞坊は縁側から御影堂を眺めていた。

「上人様の耳には入れてないんじゃが、高田派の門徒が、とうとう、本願寺の道場に火を付けたんじゃよ」と慶覚坊が声をひそめて言った。

「そいつは本当ですか」慶聞坊は驚き、慶覚坊の側まで来ると腰を下ろした。

「ああ。本願寺の門徒はいきり立っておる。今の所は、何とか押えておるが、危ない状態にあるんじゃよ」

「どうして、蓮如殿にその事を知らせんのじゃ」と風眼坊は慶覚坊に聞いた。

「知らせれば上人様は現場に行く。上人様は門徒たちに争い事をやめるように説得なさるじゃろう。そして、門徒たちは上人様の言う事をよく聞いて、騒ぎは治まる事じゃろう。しかし、それは一時的な事で終わってしまう。すでに、門徒たちは昔の門徒たちとは違うんじゃ。上人様は布教の為に組織を作られた。上人様の教えが末端の道場までも届くように、完璧な組織を作られた。しかし、その組織というのは一歩間違えれば、すぐに、戦闘集団と化す可能性を秘めておるんじゃ。本願寺と門徒との間に立つ坊主たちの中に、かなりの国人層が入って来ておる。その坊主たちは上人様の作った組織を利用し、上人様の教えを武器として、前以上に支配を強化しておるんじゃよ。勝手に、破門などという制度を作って門徒たちを威してさえおる」

「本願寺には破門はないのか」

「ある事はある。しかし、破門というのは本願寺の教えの中にはないんじゃ。阿弥陀如来様は、すべての者を救うという本願を掛けられた。どんなに悪い奴もじゃ。その教えの中に、破門などというものはない。上人様もそうお考えじゃ」

「そうか‥‥‥そうじゃろうのう」

「このままでは済まされまい。上人様はどうなさるつもりなんじゃろう」と慶聞坊は首の後ろをたたいた。

「難しいのう」と慶覚坊は青空を眺めた。

 どこかで、カッコウが鳴いていた。

「ちょっと聞きたいんじゃがのう」と風眼坊は二人に聞いた。「さっき、話に出た高田派の門徒というのは、どんなんじゃ」

「親鸞聖人から出た同じ浄土真宗の一派です」と慶聞坊が答えた。「高田派の本山は下野(シモツケ、栃木県)高田の専修寺(センジュジ)なんです。それで、高田派と言うんですけど、十代目の真慧坊(シンエボウ)は専修寺を高田から伊勢の一身田(イッシンデン、津市)に移しました。それでも、未だに高田派と呼んでおります。

 高田派には親鸞位(シンランイ)というのがありまして、法主(ホッス)は代々、その親鸞位に上るという事になっておるんです。高田の真仏上人(シンブツショウニン)はただ一人、親鸞聖人様より秘密の教えを授けられ、親鸞聖人様と同じ位に上られた。そして、代々、その秘密の教えを伝授された、ただ一人だけが親鸞位となって、浄土真宗の正統な法主になると言うんです。

 自惚れもいいところです。親鸞位などというのは、高田派が親鸞聖人様がお亡くなりになってから勝手に考え出したものなのです。親鸞聖人様はお弟子も持たずに、お寺もお建てにはなりませんでした。自分の事を半僧半俗の愚禿(グトク)とまで、おっしゃっておりました。その親鸞聖人様が秘密の教えなど授けるわけがありません。第一、浄土真宗の教えの中に、秘密にしておくようなものなど何もありません。

 蓮如上人様は親鸞聖人様の正しい教えを広めなされました。上人様がここに来る前は、この北陸の地にも物取り信心(シンジン)が当然のごとく行なわれていたのです。寺の坊主は門徒たちから物を受け取り、その量の多寡によって極楽往生を決めておったのですよ。高田派の坊主は勿論の事、本願寺の坊主でさえ、平然とそれをやっておったのです。上人様はまず、本願寺の坊主に物取り信心は異安心(イアンジン)だとしてやめさせました。高田派の坊主は未だに、それをやっております。

 上人様が北陸に進出して来て、本願寺の教えを広めたため、高田派の門徒はかなり減って来ております。高田派の坊主にしてみれば、銭が本願寺に逃げて行ったのと同じ事なのです。本願寺を敵に回すのも当然の事と言えます」

「やはり、銭が絡んでおるのか」と風眼坊は眉を寄せた。

「早い話がそうじゃ。しかし、上人様にはそこの所が分からん。高田派は間違った教えを広めておる。法敵として戦わなければならんとおっしゃる。上人様はお互いの教義で戦おうとする。中には上人様の教義を理解して、高田派から本願寺に転宗した坊主もおる。しかし、教義なんかどうでもよく、ただ、欲のために本願寺を憎んでおる坊主たちも、かなりおるんじゃ。そんな坊主たちに扇動されて、高田派の門徒たちは本願寺の門徒たちを目の敵にしておる。そんな奴らに上人様が何を言おうとも無駄なんじゃ」と慶覚坊は強い口調で言った。

「力を持って戦うしかない、と言うわけか」

 慶覚坊も慶聞坊も何も答えなかった。しかし、風眼坊には二人が心の中で、仕方がないが、それしかないと思っている事は分かった。

 その後、二人はその事に触れなかった。慶覚坊は慶聞坊に今回の旅の事を聞いていた。

 やがて、蓮如が現れた。和やかな、いつもの顔に戻っていた。



 吉崎御坊で蓮如と別れると、慶聞坊は自分の多屋に帰った。慶聞坊は寄って行けと言ったが、慶覚坊は、蓮崇(レンソウ)の所にいるから後で来てくれと言って別れた。

 慶聞坊の多屋は御坊のすぐ下にあった。御坊へと続く坂道の両脇に多屋が並んでいる。ここに並んでいるのは、各地の大坊主の多屋だと慶覚坊は風眼坊に説明した。慶聞坊の多屋は近江の国、金森(カネガモリ)の門徒たちの多屋だと言う。

 坂道を下りると北門があり、さらに行くと大通りにぶつかった。大通りを左に曲がり、二軒目の多屋が慶覚坊の言った下間(シモツマ)蓮崇の多屋だった。

 蓮崇はいなかった。

 蓮崇は吉崎御坊で蓮如の側近く仕え、取り次ぎの役をしていると言う。

 蓮如がふらっと旅に出てしまい、二十日間も留守にしてしまったので、何かと忙しいのだろうと慶覚坊は笑った。

「蓮如殿は、よく、ああいう風に、ふらっと旅に出るのか」と風眼坊は聞いた。

「春先から秋にかけて、ほとんど、旅に出ておると言ってもいいじゃろう。上人様はここに落ち着くつもりはない。ここにいる限りは、できるだけ北陸の地に門徒を増やそうとしておる。ここに集まって来る者たちは、すでに門徒たちじゃ。上人様が、ここに集まる門徒たちを大事にしないというわけじゃないが、上人様は自分の足で歩き、一人でも多くの人たちと接し、教えを広めたいのじゃろう。上人様が本願寺の法主となった時は、もう四十歳を過ぎておった。それまで、ずっと部屋住みの淋しい暮らしをなさっておられた。上人様が部屋住みの頃、わしは何度か会った事があるが、いつも、部屋の中に籠もって写経なされておられた。あの頃の反動が今になって出て来たんじゃないかのう。もう、六十歳だというのに達者なもんじゃ」

 風眼坊と慶覚坊は客間の一室に通された。山田光教寺の門前にある慶覚坊の多屋よりも、大きくて立派な建物だった。二人の通された客間は庭に面していて、その庭には池があり、鯉が泳いでいた。庭を囲む塀の向こうに大きな蔵が四つも並んで建っていた。

「ようやく、梅雨も上がったようじゃのう」と慶覚坊は空を見上げながら言った。

 風眼坊が大峯山を下りたのが五月の末で、今日は、もう、閏(ウルウ)五月の二十二日だった。早いもので、もう一月が経っていた。

「さっきの話じゃがのう」と慶覚坊は言った。「上人様に何人、子供がおると思う」

「子供か‥‥‥大津にいた順如殿じゃろ。山田の蓮誓殿、越中にいた蓮乗殿、それと、波佐谷にいた蓮綱殿、全部、男というわけもないじゃろうから、六人位か、それが、どうかしたのか」

「残念じゃのう。そんなに少なくないわ」

「十人もおるのか」

「いや」と慶覚坊は首を振って、「十七人じゃ」と言った。

「なに、十七人‥‥‥」風眼坊は驚いた。あの蓮如に十七人もの子供がいるなんて、とても考えられなかった。「そいつは大したもんじゃのう。いや、凄いのお‥‥‥そうか、何人も奥方がおるんじゃな」

「まあ、今の裏方様は三人目じゃが、一度に二人も持った事はない。最初の裏方様がお亡くなりになって、次ぎの裏方様を貰い、その裏方様もお亡くなりになったので、三人目を貰いなさったのじゃ」

「ほう、すると、今の裏方様というのは若いのか」

「二十七じゃ」

「成程のう。そんな若い女房を貰えば達者なはずじゃ‥‥‥もしかしたら、その裏方様の腹の中にも、子供がおるんじゃないかの」

「いや、まだのようじゃ」

「すると、今、あの御坊には何人の子供がおるんじゃ」

「十二歳の女の子を頭に、六歳の女の子まで五人おられる」

「そいつは大変な事じゃのう。子供たちの面倒を見るだけでも大変じゃ」

 慶覚坊は頷いた。「皆、二番目の裏方様のお子さんなんじゃ。二番目の裏方様は上人様がこの地に来られる前にお亡くなりになられた。苦労なされた事じゃろう。大谷の本願寺を叡山の衆徒どもに破壊され、一ケ所に落ち着く事なく点々として、ようやく大津に落ち着けたと思ったら、具合が悪くなって亡くなってしまわれたんじゃ。上人様はここの繁栄振りを見せてやりたかった事じゃろうのう」

「そうか、色々な事があったんじゃのう」

 最初の裏方様はもっと辛い目に会われて、上人様が本願寺を継いだ事も知らずに亡くなってしまった、という話をしている時、下間蓮崇は現れた。

 一度、会った事のある坊主だった。

 慶覚坊に初めてここに連れて来られた時、取り次ぎに出て来て、上人様は近くの道場に出掛けて行って留守だと言った坊主だった。年の頃は風眼坊たちより少し若い、四十前後に見えた。

「やあ、参った、参った」と言いながら部屋に入って来ると、蓮崇は二人の側に坐り込んだ。

「そなたですか。上人様と御一緒だったという行者殿は」

 慶覚坊は二人を紹介した。

「ほう、それは頼もしい事ですなあ」と蓮崇は慶覚坊から風眼坊の剣術の話を聞くと、改めて風眼坊を見直した。

「もうすぐ、そなたの腕を借りる事になるかもしれません。その時はお願いしますよ」

「何か、始まるのですか」と風眼坊は聞いた。

「はい。そろそろ、仏敵を退治しなければならない時が迫って参りました」

「仏敵と言うと高田派の事ですか」

 蓮崇は重々しく頷いた。

 風眼坊は蓮崇の顔を見ながら、軍師のような男だと思った。

 風眼坊は昔、応仁の乱の始まる前、山城の国(京都府南東部)で一揆衆と共に、正規の武士相手に戦った事があった。一揆衆と言っても、ほとんど在地の国人たちが百姓たちを指揮して、戦っていたわけだったが、その指揮する国人たちの中に必ずと言っていい程、軍師振る奴がいた。そういう奴らのほとんどは自ら作戦を立て、うまく行っている時は、やたらと自分の作戦を誉めて威張っているが、自分の作戦がはずれて、味方が不利になると真っ先に逃げ、何だかんだと言って責任転化してしまう奴らだった。

 ほんの少し話しただけだったが、何となく、蓮崇もその手の男じゃないかと、ふと思った。

「風眼坊殿も山の中で、偶然、上人様と出会うなんて奇遇な事ですな。上人様の言うように、阿弥陀如来様のお導きとしか言いようがありませんな」

「わしが風眼坊に会ったのも、ひょっとしたら阿弥陀様のお導きかのう」と慶覚坊が笑いながら言った。

「そうかも知れん」と風眼坊は頷いた。「何しろ、二十年振りじゃからのう」

「わしが平泉寺の山伏を追って、吉野まで行かなかったら会えなかったんじゃからのう」

「という事は、御山(吉崎御坊)の火事のお陰というものかのう」と蓮崇が笑いながら言った。

「縁起でもないぞ」と慶覚坊がたしなめた。

「そうじゃ。もう二度と付火などさせんわ」蓮崇はそう言うと、真面目な顔に戻って、「ところで、高田派の動きはどうじゃ」と慶覚坊に聞いた。

「危ない所まで来ておるのう」と慶覚坊も厳しい顔付きで答えた。「高田派としては一刻でも早く、本願寺と事を構えたいようじゃが、幸千代が押えておる。幸千代は手を出さなければ本願寺は動かないという事を知っておる。幸千代としては本願寺を敵にしたくはないのじゃろう。形としては本願寺は東軍となっておる。本願寺を敵としている高田派は西軍の幸千代と手を結んだ。幸千代は去年、宿敵の次郎を加賀から追い出した。次郎を追い出したとはいえ、加賀にはまだ、次郎党はかなりおる。今の内に次郎党を寝返らせるか、追い出すかして、加賀の国をまとめ、目処(メド)が立ったら甲斐八郎と共に越前に出て、朝倉共々、次郎を攻めるつもりなんじゃ。それまでは本願寺には触れずにおるつもりじゃろう」

「成程のう。しかし、高田派がそう、いつまでも黙ってはおるまい」

「その事じゃ。しかし、高田派の坊主も馬鹿じゃない。幸千代の力を借りなくては、本願寺に勝てるとは思ってはおらん。ただ、門徒同士の争いから戦端が開かれる可能性は充分にある」

「うむ、門徒同士からのう‥‥‥」

「朝倉の方はどうなんじゃ」と今度は、慶覚坊が蓮崇に聞いた。

「朝倉の方も、まだ、完全に越前を統一しとらんからのう。あっちに行ったり、こっちに行ったりで、まだ、当分、次郎を連れて加賀に攻めて来る気はないようじゃのう」

「それじゃあ、次郎の奴は、イライラしておるじゃろう」

「いや、朝倉弾正殿と富樫次郎では役者が全然違うわ。弾正殿は次郎に屋敷まで建ててやり、まるで、戦の前の京の都のような一乗谷の賑わいの中で、毎日、女をはべらし、遊んで暮らしておるわ。イライラしておるのは側近の者たちで、本人の方は戦などするより、女子を抱いておった方がいいという有り様じゃ」

「話にならんな。次郎というのはいくつじゃ」と風眼坊は聞いた。

「まだ、二十歳じゃ」と慶覚坊が答えた。

「まだ、二十歳か。こいつは朝倉に骨抜きにされるぞ。対する幸千代の方はいくつなんじゃ」

「まだ、十六じゃ」

「何じゃ、二人共、ただの飾り物にすぎんのじゃないのか」

「まあ、そういう事じゃな。お互いに家臣共が加賀の国を取りっこしているわけじゃよ」

「本願寺としては、そんな事はどうでもいい事じゃが、このままでは済むまい。いつか、戦になる。戦になれば、本願寺もただ見ておるだけというわけにはいかんじゃろうのう」

「そうじゃ。上人様にも、そろそろ、心を決めておいてもらわん事にはのう」

「そいつは難しいのう」と風眼坊は慶覚坊と蓮崇の顔を見比べた。

「そうなんじゃ、そいつが一番、難しい事なんじゃ」と蓮崇は困った顔をして言った。

 その時、女の子が部屋の外から声を掛けた。

「分かった。今、行く」と蓮崇は答えた。

「わしの娘じゃ。酒の用意ができたそうじゃ。わしのうちの方に行こう」

 風眼坊と慶覚坊は、蓮崇の後について別棟の屋敷に入り、見事な襖(フスマ)絵に囲まれた広間に案内された。広間の中央あたりを屏風(ビョウブ)で仕切り、屏風の向こうにお膳が四つ並べられてあった。すでに慶聞坊が坐っていた。

「やあ、慶聞坊殿、早いですな」と蓮崇が言った。

「今、来たところです。客間の方に行こうと思ったら、みんなを呼んで来るからと、こっちに案内されました」

「そうじゃったのか、まあ、坐ってくれ」

「ここで飲むのも久し振りですねえ」と慶聞坊は蓮崇に言った。

「そうじゃのう。慶聞坊殿は上人様と年中、旅をなさっておるからのう」

「ええ、上人様の気まぐれにも困ったものですよ。突然、旅に出ると言い出しますからのう。それも、足の向くまま気の向くままです。一度、旅に出たら、いつ、帰れるかも分かりません。参りますよ」

「まあ、そう言わんでくれ。おぬしが一緒じゃから、わしらも安心できるんじゃよ」

「ええ、分かっております。それが、わしのお勤めですから」

「上人様も、二十八日の報恩講(ホウオンコウ)が終わるまでは旅には出んじゃろう。まあ、今日は、ゆっくり飲んで休んでくれ」

 四人は酒を酌み交わし、昔話に花を咲かせた。



 北潟湖の水面が眩しかった。

 風が少しもなく、朝から蒸し暑い一日だった。

 柿染衣(カキゾメゴロモ)の山伏と墨染衣の坊主の二人連れが、北潟湖に沿って南下していた。

 二人の後ろに荷物を積んだ馬を引いて、一人の下男が従っていた。その馬は荷物を積んだりするのに使う駄馬(ダバ)ではなかった。名馬と呼べる程の馬だった。どう見ても、この三人にはふさわしくない立派な馬だった。

 山伏は風眼坊舜香、坊主は下間蓮崇だった。二人は朝倉弾正左衛門尉孝景の本拠地、越前一乗谷に向かっていた。名馬は勿論、朝倉弾正への贈り物だった。

 昨夜、酒の席で蓮崇は、明日、一乗谷に行って朝倉弾正と会って来ると言った。

「朝倉に会ってどうする気じゃ。越前の高田派門徒の奴らを倒して貰うつもりか」と慶覚坊は聞いた。

 蓮崇は首を振って、みんなの顔を見比べると、「幕府を動かして貰う」と、ニヤニヤしながら言った。

「えっ! 幕府を動かす」と慶聞坊は驚いて蓮崇を見つめた。

 慶覚坊も風眼坊も蓮崇の言った言葉には驚いた。

 三人の驚きようを見ながら、蓮崇は満足そうに頷いた。

「弾正殿に頼んで幕府を動かして貰うんじゃ」と蓮崇はもう一度、言った。

「幕府なんか動かしてどうするんです」と慶聞坊が聞いた。

「上人様に腰を上げて貰う」

「幕府の力でか」と慶覚坊が聞いた。

「そうじゃ。幕府の命となれば、さすがの上人様でも腰を上げなければなるまい」

「確かに、そうですけど、しかし、上人様を苦しめる事になりますよ」と慶聞坊は言った。

「それは分かっておる。しかし、もう、来る所まで来てしまったんじゃ。門徒たちは高田派の奴らにやられても、上人様がきっと何とかしてくれると信じておる。しかし、上人様は、今のこの状態をどうにかしようとは考えておられない。ただ、争い事は避けよ、とおっしゃる。上人様は、ここが襲われたら、どこかに逃げればいいとおっしゃる。上人様はそれでもいい。しかし、この土地で生活している者たちは、ここから逃げるわけにはいかんのじゃ。自分らが住んでいる、この土地を守らなけりゃならん。この土地を戦などない阿弥陀様の浄土のようにしたいと願っておるんじゃ。何もしないで浄土など得られん。やはり、戦うべき時は戦わなけりゃならんのじゃないのか」

「確かにのう」と慶覚坊は頷いた。「確かに、今は危ない状態じゃ。いくら本願寺の門徒たちの数が多いとはいえ、烏合(ウゴウ)の衆に過ぎん。はっきり言って、今、高田派の門徒たちが富樫幸千代と組んで本願寺を攻めて来たら、本願寺は潰れるかもしれん。本願寺が勝つためには、門徒たちを一つにまとめなければならん。それができるのは上人様だけじゃ」

「その通りじゃ」と蓮崇は言った。「一つにまとめなければならんのじゃ。そこで、幕府の力を借りるんじゃよ」

「朝倉にどう頼むつもりじゃ」と風眼坊が聞いた。

「ただ、加賀の守護職、富樫次郎に味方するように、幕府の方から本願寺に対して命ずるように頼むつもりじゃ」

「それで上人様は動くかのう」と風眼坊は聞いた。

「動く」と蓮崇は自信たっぷりに言った。「上人様も今回だけは目をつぶって下さるじゃろう。上人様も悩んでおられるのじゃ。上人様は俗世間とは関係なく、ただ、教えを広めたかっただけなんじゃ。しかし、門徒たちは皆、俗世間で生きておる。門徒たちが増えるという事は教えが広まるという事なんじゃが、それだけでは済まされなかった。今まで孤立していた村々がお互いに門徒同士で付き合うようになり、お互いに領主に対して不満を言うようになって来たんじゃ。今までは当然のように、厳しい年貢を払って来た百姓たちが隣村の状況やらを聞いて、領主に反抗するようになって来た。どの村も皆、領主が違い、年貢高もばらばらじゃ。高い所もあれば安い所もある。百姓たちはその事に気づき、団結して領主に対抗する事を覚えた。一度、覚えてしまった事はもう止められん。そこに、坊主として在地の国人たちが入って来たものだから始末に追えん。国人たちは荘園を横領しようと百姓たちをけしかけておる。百姓たちはもう命ぜられるままに、おとなしく高い年貢を払うような百姓ではなくなっておるんじゃよ。団結すれば、何でもできると思っておるんじゃ。上人様は何度も『御文』を書いて、領主に逆らうな、他宗を誹謗するな、とおっしゃるが、なかなか門徒たちは言う事を聞かんのじゃ。上人様も口には決して出さないが、やらなければならない時が来たと思って下さるに違いない」

「そうじゃのう。ここに来て三年になるが、確かに百姓たちの顔付きが変わって来ておる。最初の頃は、百姓たちは何となく暗くて情けない顔をしておった。わしは、雪深い北国に住んでるせいじゃと思っておった。しかし、最近、この御山に来る百姓たちの顔はみんな、生き生きしておる」と慶覚坊は言った。

「それは言えますねえ」と慶聞坊も同意した。

「朝倉が幕府に頼んだとして、幕府が動くかのう」と風眼坊は言った。

「それは富樫次郎次第でしょう」と蓮崇は答えた。「加賀には幕府の御領所と、公家や大寺院の荘園がかなりあります。ところが、戦乱状況でそれらの年貢は京まで届きません。次郎が加賀の国をまとめ、国人たちに横領されておる荘園を本所(領主)に戻し、年貢を送ると約束すれば幕府は動くでしょう」

「成程のう。それで、朝倉への伝(ツテ)はあるのか」

「蓮崇殿は朝倉弾正の猶子(ユウシ)になっておるんじゃよ」と慶覚坊が言った。

「なに、猶子に‥‥‥」

「名字だけじゃがな」と蓮崇は照れた。

 名字だけの猶子とは、名義上、養子となり、名字を名乗っても構わないというものだった。たとえ、名義上だけでも、一応、一族として扱われた。蓮崇は朝倉の一族になっていたと言う。

 風眼坊は改めて、蓮崇という男を見た。どういう風にして朝倉の猶子になったのかは分からないが、そこまで準備をしているとは、なかなか大した男だと思った。

 蓮崇は、本物の山伏が一緒なら豊原寺や平泉寺の衆徒たちも手を出さないだろうから、明日、一緒に来てくれ、と風眼坊に頼んだ。わしは情けない事に腕の方はさっぱりじゃ、誰かに襲われたら逃げるしかない。しかし、頼み事をするのに手ぶらでも行けん。わしと荷物を守るために、是非、一緒に来てくれと頼まれた。

 風眼坊も、一度、京の都のように栄えているという一乗谷を見てみたかったし、朝倉弾正左衛門尉という男にも会ってみたかった。風眼坊は一緒に行く事にした。

 蓮崇は歩きながら風眼坊から他所の国の事など聞き、また、自分も蓮如と共に東国の方に旅した事など話した。

 一行は水田の広がる広々とした平野を北の庄(福井市)を目指していた。もう、田植えはほとんど終わり、水を引き入れた田に稲の苗が並んでいた。



 蓮崇は北の庄の南、麻生津(アソウツ、浅水)に生まれた。母親が熱心な本願寺の門徒だったため、幼い頃、口減らしのため和田の本覚寺(ホンガクジ)に入れられた。

 寺に入ったといっても小僧になったわけではなく、下男のように朝から晩までこき使われた。それでも食う物があるだけ増しだった。十五歳の時、本覚寺に来た蓮如の叔父、如乗に連れられて加賀の二俣本泉寺へと行く事となった。如乗は蓮崇の隠れた才能を見抜いたのかも知れなかった。

 如乗は本泉寺に帰ると蓮崇を出家させ、心源(シンゲン)と言う坊主にした。心源は如乗によく尽くし、よく働いた。頭の回転が早く、如乗が思った事の先へ先へと考えて、手際よく働いた。心源は読み書きを知らなかったが、如乗から教わった。

 本泉寺に来て十年が経ち、下間玄信(シモツマゲンシン)の娘と一緒になった。下間家は本願寺の執事(シツジ)を代々勤めている家柄で、玄信は蓮如の執事をしている下間頼善(ライゼン)の叔父に当たる人だった。心源は玄信の養子となって下間心源と名乗り、湯涌谷(ユワクダニ)の道場を任されるようになった。

 嘘のような、夢のような出世だった。

 如乗と出会って本泉寺に来てからというもの、子供の頃の惨めな思いが、まるで嘘のようだった。順風に乗った船のように、すいすいといい調子だった。本願寺の教えを心から信じ、教えを広め、門徒を増やし、毎日、阿弥陀様に感謝の気持ちを込めて念仏していた。寛正の大飢饉の時も本願寺の教えにすがって、門徒たちと共に乗り越えた。子供も三人でき、道場も栄えた。

 丁度、京で戦が始まった頃だった。この地方で悪疫が流行って、心源の門徒たちが何人か死んで行った。門徒たちは阿弥陀様など信じられないと騒ぎ出したが、心源は病気で苦しんでいる者たちに教えを説いて、浄土へと送った。ところが、心源の長女が疫病に罹ってしまった。心源は阿弥陀如来にすがり、念仏を唱え続けたが、娘は苦しんだあげく、あの世へと旅立って行った。娘はまだ七歳だった。

 門徒たちが疫病で亡くなった時、あれ程、熱心に教えを説いていた心源は、自分の娘が亡くなり、身内を亡くした門徒たちと同じように、本願寺の教えが信じられなくなっていた。

 心源はしばらく道場にも顔を出さないで、悲しみに打ちひしがれていた。その間、一言の念仏も唱えなかった。娘の死から一月経った頃より道場にも出るようになったが、以前のように熱心にはなれなかった。口数も少なくなり、ただ、道場主として惰性で教えを説いていたようなものだった。

 そんな時、本願寺法主の蓮如が二俣の本泉寺に現れた。東国への巡錫(ジュンシャク)の途中だった。 

 心源は確かな教えを求めて蓮如と会った。蓮如と会うのは初めてではなかった。蓮如はまだ部屋住みの頃、何度か本泉寺に来ていた。その時、蓮崇も蓮如に会っていたが、本願寺の法主となった蓮如に会うのは初めてだった。

 蓮如から聞いた教えは別に新しいものでも何でもなかった。しかし、心源は蓮如に会って、何かが分かったような気がした。それが何なのか分からないが、何かが分かりかけていた。心源は蓮如に、自分も一緒に旅に連れて行ってくれと頼んだ。なかなか許しは得られなかったが、蓮崇は何とか頼み込み、付いて行く事となった。一行の中には慶聞坊、慶覚坊、そして、従兄の下間頼善も一緒だった。

 心源は蓮如と共に東国を回り、四ケ月の旅の後、加賀には帰らず、近江の国、大津にて蓮如に仕えていた。蓮如も心源が側にいてくれると何かと便利なので助かっていた。

 心源は蓮如から蓮崇という新しい法名を貰った。蓮崇となった心源は、蓮如の側近く仕えるうちに、心から本当の本願寺の教えというのが分かって来るようになっていた。

 加賀にいた頃は、阿弥陀如来様というのは遥か遠くの方にいて、我々が念仏を唱えると手を差し延べて、救ってくれる有り難い仏様だと思っていた。しかし、蓮如の教えでは違っていた。阿弥陀如来様は遠くにいるのではなく、我々のすぐ側にいて、我々はすでに阿弥陀如来様によって救われていると言う。たとえて言うなら、我々は阿弥陀如来様の大きな手の平の上にいるようなもので、阿弥陀如来様は我々のする事、すべてお見通しなのだと言う。阿弥陀如来様は決して差別をなさらず、すべての者たちを救っている。我々はその事に感謝して、念仏を唱えるのだと言う。その事に気づいた時、蓮崇は阿弥陀如来様のその偉大なる慈悲心に驚くと同時に、そんな大きな教えを説く蓮如が阿弥陀如来様そのもののように大きく見えて来た。

 蓮崇が大津に来て、約一年後の文明元年(一四六九年)の十一月、今まで三井寺(ミイデラ)に借りていた南別所の地に、正式に本願寺の寺、顕証寺(ケンショウジ)が建てられた。

 その月の二十一日より二十八日まで、新しい顕証寺において親鸞聖人の報恩講が大々的に行なわれた。各地の坊主たちを初め近江や京の門徒たちが大勢集まり、毎日、念仏に明け暮れた。その念仏が叡山まで聞こえ、衆徒たちが攻めて来るのではないかと心配だったが、さすがに、三井寺(園城寺、延暦寺の山門派に対して寺門派として対立していた)の敷地内には山門も攻めて来る事もできず、無事に報恩講も終わった。

 蓮崇は一年半、大津顕証寺にいて蓮如の側で働いた。自分でも知らないうちに、蓮崇は本願寺にとって必要な存在となっていた。門徒たちやお客の接待は、今まで執事の下間頼善と父親の玄英がやっていたが、門徒たちが増え、顕証寺が栄える事によって、頼善父子は寺務の方が何かと忙しくなり、一々、客の接待までできなくなっていた。そんな頃、蓮崇が加賀よりやって来て、同じ一族と言う事もあって、接待役は蓮崇が取り仕切るようになって行った。

 蓮如の方針によって、本願寺には坊主たちの上下関係などなかったが、門徒たちは当然のように、蓮崇は本願寺でも偉い坊主だと思うようになり、また、自分でもそんな風に見られる事を内心、喜んでいた。

 文明三年の五月、蓮崇は蓮如と共に北陸に行き、家族の待つ湯涌谷に帰った。実に三年振りだった。蓮崇は大津にいた頃、蓮如の吉崎進出の下準備のため、何度か、越前までは来ていた。しかし、妻と子の待つ湯涌谷には帰らなかった。帰ろうと思えば帰れたが、蓮如に早く良い知らせを聞かせてやろうと思い、じっと我慢して来たのだった。

 蓮如は吉崎の地に本願寺の別院を作る事に決め、それが完成するまで、加賀二俣の本泉寺を本拠地にした。蓮崇は久し振りに湯涌谷の道場に帰り、妻や子と再会した。道場は妻が守っていてくれた。

 七月の末、吉崎別院が完成すると、蓮崇は家族を連れて吉崎に行く事になった。湯涌谷の道場は妻の弟、下間信永(シンエイ)が預かる事となった。

 吉崎に来た蓮崇は相変わらず蓮如の側近くに仕え、忙しい毎日を送っていた。



 風眼坊と蓮崇は崩川(クズレガワ、九頭竜川)の渡しを渡って北の庄を抜け、足羽(アスワ)川に沿って東に向かい、その日は和田の本覚寺に泊まった。本覚寺の蓮光は蓮崇を歓迎した。

 子供の頃、蓮崇がこの寺にいた頃、蓮光もまだ子供だったが、お互いに口を聞いた事もなかった。あの頃は、蓮光はこの寺の跡継ぎで、蓮崇の方はただの使用人に過ぎなかった。蓮崇は子供の頃の蓮光の事をはっきりと覚えていたが、蓮光の方は蓮崇の事など覚えていなかった。蓮崇はあえて昔の事は言わなかった。

 蓮崇が如乗に連れられて、この寺を出てから、再び、この寺を訪れたのは二十六年後の事だった。蓮如が吉崎に進出する前の事で、朝倉氏との交渉のため、下間一族の一人として、この寺を訪れた。蓮光を初め誰も蓮崇の事は覚えていなかった。子供の頃、見向きもされなかった自分が今、こうして、本覚寺の住持職の蓮光と対等に口を利いている。改めて、自分は偉くなったのだと感じていた。

 和田本覚寺は一乗谷の近くにあり、古くから朝倉氏と親しく付き合って来ていた。蓮崇は蓮光と共に一乗谷に行き、本願寺が吉崎に進出する事の許可を得る事ができた。

 当時、朝倉氏はまだ正式に越前守護職には就いていなかったし、東軍に寝返ってもいなかった。しかし、内密に幕府の上層部と連絡を取って越前に帰り、着々と寝返りの準備を進めていた。

 蓮如は、その事を知っていた。

 朝倉に寝返りを薦めたのは、幕府の政所執事(マンドコロシツジ)の伊勢伊勢守貞親であった。伊勢守は蓮如の最初の妻と二番目の妻とは親戚だった。また、将軍義政の妻の実家、日野家とも蓮如は親戚であった。その伝によって蓮如の長男、順如は幕府に出入りするようになり、朝倉氏の動きを知る事ができた。

 吉崎の地、越前の国細呂宜郷は興福寺大乗院の荘園だった。

 蓮如はすでに大乗院からは許可を取っていた。細呂宜郷を支配している大乗院経覚(キョウガク)も蓮如とは親戚の間柄だった。経覚は細呂宜郷からの年貢が届かないので、是非、吉崎の地に本願寺を建てて、年貢が届くようにしてくれと蓮如に頼んだのだった。

 後は在地の実力者の許可を取らなければならなかった。

 越前の守護職は斯波氏だったが、越前国内において実力を持っているのは朝倉氏だった。その朝倉氏が東軍に寝返るとは願ってもない事だった。幕府内において、朝倉氏の寝返りがほぼ確定となった頃、蓮如は蓮崇を越前一乗谷に送った。話はうまく行き、吉崎に進出する事は決定した。

 文明三年(一四七一年)、正式に朝倉氏の越前国守護職が決まった五月の末、蓮如は北陸の地へと旅立った。



 本覚寺に着いた風眼坊と蓮崇は、蓮光より一乗谷の様子を聞いた。朝倉弾正左衛門尉は今、一乗谷にいるだろうとの事だった。

 次の日の朝早く、風眼坊と蓮崇は一乗谷に向かった。
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