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陰流の開祖であり、忍びの術の開祖でもある愛洲移香斎の物語です。
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7.お雪2






 鳶(トビ)が気持ちよさそうに青空を飛んでいた。

 風眼坊はお雪と智春尼を連れて山道を歩いていた。

 今日はそれ程、暑くもなく、すがすがしい陽気だった。

 女連れなので風眼坊はのんびり景色を眺めながら歩いていた。お雪はずっと俯いたままで一言も喋らなかった。智春尼はそんなお雪を心配そうに見守っていた。

 蓮崇に、蓮如の事を守ってくれと言われた風眼坊だったが、慶聞坊が蓮如の事は自分が守るから大丈夫だと言った。蓮如が正式に命令を下すまでは自ら動く事はしない。もし、そんな事になれば、慶聞坊も戦の先頭に立つので、その時は、風眼坊に蓮如の事を頼む事になるが、それまでは自分が蓮如を守ると言い切った。

 慶聞坊は今までずっと蓮如の側近く仕え、蓮如の旅には常に付き合い、また、蓮如の子供たちに読み書きまでも教えていた。自分が突然、蓮如の前からいなくなれば、蓮如が多屋衆たちの動きに気づいてしまうだろう。あくまでも戦に反対している蓮如には、ぎりぎりの時まで、多屋衆たちの動きを気づかせない方がいい、そのためにも自分は蓮如が正式に戦の命令を下すまでは動かないと言った。

 風眼坊も慶聞坊の言う通りにした方がいいだろうと思った。

 慶覚坊も蓮崇も忙しそうに動いていたが、風眼坊にはするべき事が何もなかった。門徒になってしまえば手伝う事ができるが、他所者のままでは口を出す事もできなかった。

 風眼坊は戦が始まるまで、お雪に付き合うかと思い、慶覚坊に、近くにいい行場(ギョウバ)はないかと聞いた。九谷の奥にいい所があると教えて貰い、そこに二十一日間、籠もる事にした。戦が始まったら知らせてくれと慶覚坊に頼み、お雪と智春尼を連れて山に入ったのだった。

 九谷は山中温泉の奥にあり、この間、風眼坊が蓮如たちと出会った山の中にあった。後に九谷焼で有名になるが、この当時はまだ陶器を焼いてはいなかった。吉崎からもそう遠くなく、丁度いい場所だった。風眼坊一人だったら半日もあれば着く距離だが、女を二人も連れているので足が遅く、目的地に着いた頃には日が沈みかけていた。

 途中、二人の山伏と擦れ違った。お雪を捜していた平泉寺の山伏だった。風眼坊は二人の山伏を倒して谷底に投げ捨てた。

「何も殺さなくても」とお雪と智春尼は風眼坊を白い目で見た。

「わしも殺したくはなかったが、そなたがこの山にいる事が分かると困るんじゃ。二十一日間の祈祷の間は誰にも邪魔されたくないんでな」

 その場を見ていた若者がいた。近くの村に住んでいる杉谷孫三郎という若者だった。

 孫三郎は突然、山の中から飛び出し、風眼坊に剣術を教えてくれと頼み込んで来た。

 風眼坊は断ったが、若者はしつこく後に着いて来た。風眼坊は仕方なく、その若者に食糧や祈祷に必要な物の調達を頼んだ。若者は喜んで引き受けた。どうせ、二十一日間も山に籠もるのだから、この若者に剣術を教えるのも暇潰しになるだろうと考え直した。

 次の日、滝の側に小屋を立て、護摩壇(ゴマダン)を作り、祈祷のための準備を始めた。

 孫三郎も朝早くから来て手伝った。孫三郎は手先が器用で何かと便利な男だった。ただ、どういう理由から剣術を習いたいのか知らないが、そっちの方の素質は余りなさそうだった。

「うちの仕事をしなくてもいいのか」と風眼坊が聞くと、厄介者(ヤッカイモノ)扱いされているので、返って、いない方がいいのだと言った。

 一日掛かりで、何とか雨露を凌げる程度の小屋はできた。

 暗くなっても孫三郎は帰ろうとはしなかった。

「帰らなくてもいいのか」と聞くと、帰ってもしょうがない、ここに置いてくれ、と言った。

 孫三郎がいてくれれば風眼坊にしても何かと助かるが、どうして帰りたくないのだ、と聞いてみた。

「俺は邪魔者なんです」と孫三郎は小声で言った。

「邪魔者?」

「はい。おらん方がいいんです」

「どうしてじゃ」

 孫三郎はぼそぼそと身の上を話し始めた。

 孫三郎は九谷の側の小杉という村の杉谷家に生まれた。杉谷家は古くは木地師(キジシ)だった。孫三郎の祖父の代より定着し始め、今では村の名主的な家柄だった。

 孫三郎は杉谷家の長男として生まれたが、母親が病弱で孫三郎が幼い頃、亡くなってしまった。父親は後添いを貰い、後添いとの間に三人の子供があった。

 子供の頃の孫三郎は何不自由なく育てられた。母親が亡くなった後も祖父に可愛いがられていた。ところが、五年前、祖父が亡くなると、家の中の雰囲気ががらりと変わってしまった。まず、継母(ママハハ)が辛く当たるようになり、継母の子供たち、孫三郎の弟や妹までが、孫三郎の事を邪魔者扱いするようになって行った。父親は継母たちの態度を見ても見ぬ振りだった。また、孫三郎の方も性格が父親に似ていて、文句を言いたくても言えないような気の小ささだった。自分が情けないと思うが、どうしようもなかった。

 杉谷家では下人たちを大勢抱え、焼き畑や木工細工をやらせ、自らも僅かながらも田を耕していた。弟や妹は田植えや稲刈りの仕事を手伝ったりしていたが、孫三郎は仕事の手伝いさえ、させて貰えなかった。毎日、薄暗い土間の片隅で木工細工をやっていた。継母は孫三郎の顔を見ると、お前は手先が器用だから御先祖様のように山の中に入って木地師になればいいと、遠回しに出て行けと言っていた。

 孫三郎は何度も家を飛び出そうと思った。結局は飛び出す度胸もなく、毎日、継母の小言を聞きながら、土間の片隅で木工細工をやっていた。

 そんな、ある日、九谷に行った孫三郎は本願寺門徒の講というものに出会った。

 突然、太鼓の音が鳴り響き、村人たちがぞろぞろと太鼓の鳴る方へと歩いて行った。孫三郎は何事かと村人たちの後を付いて行った。

 村はずれにあるお堂の前に村人が大勢、集まっていた。やがて、村人たちはお堂の中に入って行った。お堂の中に一人の坊主がいて、その坊主の回りに村人たちが坐り、一斉に念仏を唱えはじめた。お堂の中に入り切れない村人たちはお堂の回りに坐り込んでいた。孫三郎も回りの者たちに坐らされ、念仏を唱えさせられた。一体、これは何だ、と聞きたかったが、皆、真剣な顔をして、お堂の中の坊主を見つめていて聞く事ができなかった。

 何気なく坊主の説教を聞いていた孫三郎は、なぜか、目が覚めるような思いがした。

 次の月も、孫三郎は講を見に九谷まで行った。坊主の説教をお堂の外に坐り込んで聞き、自分も門徒になりたいと思った。しかし、その事を言い出す勇気がなかった。

 次の月も、孫三郎は九谷の道場に向かった。途中で坊主に追い越された。その坊主は、いつも道場で説教をしている坊主だった。孫三郎は心の中で、何度も『南無阿弥陀仏』と唱え、勇気を出して、その坊主に声を掛けた。坊主は振り返った。孫三郎は勇気を振り絞って、門徒にして下さいと頼んだ。坊主はニコッと笑うと喜んで門徒にしようと言った。その坊主は慶覚坊だった。

 本願寺の門徒になった孫三郎は以前とは違って、なぜか、毎日毎日が楽しくなったような気がした。相変わらず継母は小言を言ってうるさかったが、前程、気にならなくなっていた。

 孫三郎は毎月、必ず九谷の道場に通い、また、山を下りて河崎の専称寺や、荻生(オギウ)の願成寺、吉崎御坊の講にまで出掛けて行く程、熱心な門徒となって行った。

 すでに、門徒たちの間にも不穏な空気は流れて来ていた。そのうち戦が始まるというのだった。本願寺が異端な教えを広めている高田派を倒すために、立ち上がるというのだった。

 孫三郎には信じられなかった。

 本願寺が戦をするなど、とても信じられなかった。しかし、本願寺が戦を始めるとすれば、孫三郎も武器を取って戦わなければならない。今まで、刀なんか振り回した事などなかったが、本願寺のためには刀を振り回さなければならなかった。

 孫三郎は悩んでいた。

 昔、祖父が刀を振っているのを見た事があった。しかし、祖父は孫三郎に刀の使い方を教えてくれなかった。父親は刀なんか一切いじらなかった。使い方を知っていそうもない。

 孫三郎は物置から祖父の刀を出して、試しに振って見た。重さがずしりと応えた。これで人を斬るのかと思ったら、急に恐ろしくなって刀を振るどころではなかった。

 孫三郎は悩んだ。

 戦が始まれば門徒として戦わなければならないが、刀の使い方さえ知らない自分はどうしたらいいのだろう。講に行くと、若い者たちは皆、戦になったら活躍して、偉くなって道場主になるんだと言い合っていた。孫三郎もそうしたかったが、そんなふうに活躍なんてできそうもなかった。ただ、逃げるような、みっともない事だけはしたくなかった。でも、それさえも自信がなかった。

 どうしたらいいのだろうか‥‥‥

 そんな時だった。偶然、目の前で見事な風眼坊の太刀さばきを見た。あっという間に、二人の山伏が倒れていた。目にも留まらないような素早い太刀さばきだった。

 孫三郎は風眼坊の顔を見た。そして、連れの女二人も見た。悪い人たちのようには思えなかった。悪いのは斬られた方だろうと思った。きっと、阿弥陀様のお導きに違いないと思った。孫三郎は迷わず風眼坊に頭を下げ、剣術を教えてくれと頼んだ。

「何じゃ。おぬしも門徒じゃったのか」と風眼坊は孫三郎の話を聞くと言った。

「はい。門徒として、恥ずかしい態度を取りたくないので剣術を教わりたいのです」

「逃げたくはないのじゃな」

「はい」

「逃げなければ死ぬ事になるぞ。それでもいいのか」

「死にたくはありません」

「どっちか選ばなければならないとしたら、どうする」

 孫三郎は俯いたまま答えなかった。

「やはり、逃げるか」と風眼坊は言った。

 孫三郎は首を振った。「いいえ、逃げません」

「それじゃあ、死ぬか」

「‥‥‥はい。逃げる位なら死にます」

「うむ、分かった。おぬしに立派な死に方を教えてやろう」

「えっ! 死に方ですか」

「そうじゃ。生きるためには、まず、死に方を知らなければならんのじゃ。死に方が分かれば、生き方も分かるというものじゃ」

「立派な死に方ですか‥‥‥」

「わしらは二十一日間、ここで祈祷をする。お前も、ここにいても構わんが、色々と雑用をやってもらう事になるぞ。いいか」

「はい。構いません」

「よし。二十一日間で武士にも負けない位、立派な死に方ができるように鍛えてやろう」

「ありがとうございます」孫三郎は風眼坊に深く頭を下げた。





 加持祈祷が始まった。

 二十一日間にわたる厳しい修法の日々が始まった。

 お雪は両親の仇(カタキ)、富樫次郎政親を呪い殺す事を新たに決心し、恨みに燃えていた。美しい顔付きも、まるで凍ったように冷たい表情だった。智春尼はそんなお雪を黙って見守り、風眼坊にすべてを任せてすがっていた。

 一方、風眼坊に立派な死に方を教えてやると言われた杉谷孫三郎は、本気で死ぬ事について悩んでいた。

 一同は、まだ夜が明ける前の寅の刻(午前四時)に起床して、近くの滝での水垢離(ミズゴリ)から一日が始まった。

 いくら夏とはいえ早朝の滝の水は身震いする程、冷たかった。一時(イットキ、二時間)近く、風眼坊と共に風眼坊の教えた印(イン)を結び、真言(シンゴン)を唱え、お雪と孫三郎は滝を浴びた。

 智春尼の用意した朝食を取ると、辰の刻(午前八時)まで、お雪は読経をし、孫三郎は、祈祷のための護摩札を作った。急な事だったのでお経が手に入らず、風眼坊は蓮如から借りて来た『御文(オフミ)』を、お雪に読ませるつもりでいたが、ここに来る途中で倒した平泉寺の山伏が持っていた『般若心経(ハンニャシンギョウ)』を読ませる事にした。

 辰の刻から加持祈祷が始まった。

 平泉寺の山伏が持っていた小さな不動明王像を本尊とし、護摩壇の回りには、やはり、平泉寺の山伏が持っていた法具を並べ、また、孫三郎に作らせた器に酒や穀物を供えた。

 お雪に呪文を唱えさせ、風眼坊も呪文を唱えながら護摩壇に札をくべた。

 お雪は憎き富樫次郎を呪い殺すための祈祷と信じて疑わなかったが、風眼坊は調伏(チョウブク)の祈祷をしたのではなかった。護摩を焚いてする祈祷には、息災(ソクサイ)護摩、増益(ゾウエキ)護摩、敬愛護摩、調伏護摩の四種類があり、それぞれ、護摩壇の形や色、向かう方角とかが決まっていた。

 この時、風眼坊がやった護摩は様々な災害を消滅するために行なう息災護摩だった。

 風眼坊はお雪を地獄から救いたいと思っていた。親の仇を討つために自分というものを捨てているお雪に、改めて、自分というものを見つめさせ、新たな人生を歩ませたいと思っていた。俗界から離れ、自然の中で二十一日間暮らしているうちに、お雪の本当の姿が現れて来る事を願っていた。

 風眼坊とお雪が祈祷を行なっている時、孫三郎は薪(タキギ)集めをしたり、雑用に励んでいた。

 一時近くの祈祷が終わると、風眼坊とお雪はまた、滝を浴びた。

 午(ウマ)の刻(正午)になると、孫三郎もお雪と共に合掌したまま、一時の間、座禅をした。未(ヒツジ)の刻(午後二時)から、お雪は一心に護摩にくべる札に呪文を書き、孫三郎は木剣を振った。申(サル)の刻(午後四時)からは、お雪は蓮如の書いた『御文』を写し、孫三郎は思い切り立木を打った。酉(トリ)の刻(午後六時)に夕食を取り、その後、一時程、滝を浴びて、戌(イヌ)の刻(午後八時)には横になった。

 雨が降ろうと風が吹こうと体の具合が悪かろうと、毎日、同じ事の繰り返しだった。

 孫三郎は早くも二日目から体中が痛くて、もう駄目だと弱音を吐いた。風眼坊は、それなら、さっさと帰っていいぞと冷たく言った。孫三郎は一人でぶつぶつ文句を言っていたが、結局、帰らなかった。

 お雪は五日目に熱を出した。智春尼は、もう、やめてくれと言って風眼坊に頼んだが、お雪はへこたれなかった。虚ろな目をしながらも歯を食いしばって、日課を消化して行った。六日目にはもう倒れてしまうのではないかと思う程だったが、余程、富樫次郎への恨みが強いのか、ただ執念だけで持ちこたえていた。七日目には、まだ気だるさは残っているようだったが、何とか熱は下がったようだった。

 熱との闘いに勝ってからのお雪は、以前とはどこか変わったような気がした。以前は滝を浴びるのにも、どこか抵抗を感じていたようだったが、積極的に滝を浴びるようになり、一人で夜遅くまで滝を浴びるようになっていた。まるで、次郎に汚された体の汚れを清めているかのように感じられた。

 孫三郎の方も七日目あたりから、ようやく体の痛みも取れ、木剣を振る姿もどうにか様になって来ていた。十日目から風眼坊は細い竹の枝を持って、孫三郎の相手をした。体の痛みはようやく取れた孫三郎だったが、今度は風眼坊の打つ竹の枝が鞭のように当たって、体中がミミズ腫れのような打ち身傷だらけになって行った。風眼坊はただ避けろと言うだけで孫三郎に剣術の技は教えなかった。

 十六日目にちょっとした事件が起きた。

 加持祈祷が終わり、お雪が滝を浴びに行ったので、風眼坊がちょっと里の様子でも見ようと山を下りて行った隙に起きた事件だった。お雪ももう一人で滝を浴びられるし、座禅もできるだろうと思い、ほんのちょっと里の様子を見たら戻って来るつもりだった。

 智春尼も山菜を積みに出掛けて行って留守だった。

 孫三郎がいつものように座禅を組むべき場所に向かう時だった。何気なくチラッと小屋の中を覗いた時、丁度、滝から上がったお雪が着替えをしていた。

 孫三郎の目はお雪の眩しい位に白い裸体に釘付けとなった。側にいつもいるはずの智春尼の姿はなかった。風眼坊が山を下りて行ったのは知っていた。

 孫三郎の頭に血が上り、目の前は真っ赤になり、その真っ赤の中にお雪の白い裸だけがはっきりと見えていた。

 孫三郎も若い一人の男に違いなかった。お雪のような綺麗な女と一緒に生活していて、何も感じないわけではなかった。朝夕、一緒に滝を浴びて、濡れた着物から透けて見えるお雪の裸を想像しては、それを打ち消し、必死に堪えていた孫三郎だった。

 孫三郎はお雪の事をどこかの身分の高いお姫様だと思っていた。故あって、こんな山奥で祈祷をしているが、自分のような者が近づく事もできないような身分の高いお方だと思っていた。そういう高い身分の者でなかったら、風眼坊のような偉い行者さんが付きっきりで祈祷などするわけがないと思っていた。いくら、自分が好きになったとしても、それは報われる事のない事だと諦めていた。また、自分にはお雪をどうこうするような度胸などあるわけないと決めていた。ところが、お雪の裸を目の前にして魔が差したというか、孫三郎は狂ったようにお雪の裸に抱き付いて行った。

 びっくりしたお雪は悲鳴を上げた。孫三郎は強引にお雪を押し倒した。お雪は抵抗したが孫三郎の力には敵わなかった。

 お雪は急に抵抗をやめて孫三郎を見つめ、「地獄に落ちたかったら、わたしを抱きなさい。わたしの体は、すでに地獄に落ちていますから」と言った。

 そして、静かに『南無阿弥陀仏』と唱えた。

 孫三郎は、お雪の『南無阿弥陀仏』という声に、ようやく我に帰った。

 我に返るとお雪から離れ、小屋から飛び出して行った。孫三郎は真っすぐ滝に行き、そのまま滝に打たれた。

 ――俺は、何という事をしてしまったんだ‥‥‥

 孫三郎は滝に打たれながら自分を責めていた。

 しばらくして、お雪が現れ、孫三郎の隣で滝に打たれ始めた。

 二人は一緒に真言を唱えながら滝に打たれた。

 風眼坊が戻って来た時には何事もなかったかのように、お雪は熱心に『御文』を写し、孫三郎は立木を相手に木剣を振っていた。

 ほんの一瞬、孫三郎が男になり、お雪が女になった事件は、二人だけの秘密として二人の修行は続いた。ほんの些細な事件だったが、その事件の後、二人は少しづつ変わって行った。

 お雪は自分が女だという事を意識するようになり、顔付きがどことなく優しくなって行った。以前は仇討ちの事しか頭になく、心を閉ざして、自分の世界に籠もりきりだったが、ようやく心を開き始めて来たようだった。内側ばかり見つめていた目が、ようやく外側に向けられ始めていた。

 孫三郎の方は以前に比べて、おどおどした所がなくなり、堂々としてきて男らしくなったようだった。自分に自信を持つようになり、それは剣術にも現れて来た。以前はただ、木剣を振っているという感じだったが、ようやく木剣を打つ事ができるようになっていた。真剣を持たせた場合、以前だったら、ただ、当たるというだけだったが、ようやく、斬れる程の腕になっていた。

 風眼坊は二人の間に何があったのか知らず、ただ、二人がいい結果に向かっている事を、この大自然のお陰だと自然の偉大なる力に感謝していた。





 風眼坊がお雪と共に山に籠もっている時、下界では大変な事件が起きていた。

 朝倉弾正左衛門尉に敗れ、富樫幸千代を頼って加賀の国に逃げていた甲斐八郎が弾正左衛門尉と和解し、兵を引き連れて越前の国に引き上げてしまったのだった。二人の仲を取り持ったのは、美濃の国(岐阜県中南部)の守護代、斎藤妙椿(ミョウチン)だと言う。斎藤妙椿は大勢の兵を引き連れて越前の国に進攻し、豊原寺に着陣すると、一乗谷の朝倉と加賀の国、蓮台寺城にいる甲斐に使いを送って、見事に二人を和解させ、さっさと引き上げて行ったという。

 風眼坊は、その話を九谷の本願寺の道場で聞いた。

 甲斐八郎が越前に戻ったという事は、今まで均衡を保っていた富樫次郎と富樫幸千代との関係が崩れ、幸千代は加賀に孤立するという状況となっていた。次郎はこの絶好の機会を見逃す程、愚か者ではあるまい。まだ、本願寺も動いていないようだが、本願寺に取っても、宿敵、高田派門徒を倒すのに絶好の機会と言えた。ただ、朝倉は和解した甲斐八郎との手前、次郎のために兵を出す事はないかもしれないが、相手が幸千代と高田派門徒だけなら、次郎と本願寺方に充分な勝算があると言えた。後は幕府からの奉書が蓮如のもとに来るのを待つだけだった。



 お雪の祈祷も孫三郎の修行も、無事に終わろうとしていた。

 今日が満願の二十一日目だった。

 いつものように早朝の滝浴びから一日が始まっていた。

 朝日を浴びて、お雪の顔も、孫三郎の顔も、水しぶきの中で輝いていた。

 朝食を終えた後、いつものように孫三郎が護摩札作りに行こうとするのを風眼坊は止めた。

「もう、札は作らなくてもいい。薪拾いも終わりだ」

「もう、祈祷は終わりなのですか」

「そうじゃ。今日が最後じゃ」

「もう、終わりですか‥‥‥」孫三郎は残念そうな顔をして、「明日、山を下りるのですか」と風眼坊に聞いた。

「ああ」と風眼坊は頷いた。

「お願いします。俺も連れて行って下さい」

「連れて行ってもいいが、お前は以前のお前とは違う。そろそろ、うちに帰った方がいいんじゃないのか」

「いえ、もう少し教えて下さい」

「まあ、好きにするがいい」

「ありがとうございます。ところで、今日はこれから何をすればいいのですか」

「そうじゃのう。約束通り、お前に立派な死に方を教えてやろう」

 お雪が読経を始めると、風眼坊は孫三郎を連れて、いつもの広場に出掛けた。

 孫三郎が木剣を構えると、風眼坊はいきなり、真剣を抜いて構えた。

「えっ!」と孫三郎は驚いた。

「死に方を教えてやる。かかって来い」

 かかって来いと言われても、真剣の先を突き付けられて、かかって行けるわけはなかった。もしかしたら、師匠は本当に俺を殺すつもりなのだろうか。

 孫三郎は木剣を中段に構え、真剣を見つめたまま身動きができなかった。

「刀を見るな!」と風眼坊は言った。

「えっ!」

「相手の目、両肩、両方の拳をよく見るんだ」

「目と肩と拳‥‥‥」

「一ケ所に目をやるな!」

「‥‥‥」

「一ケ所に目を囚われずに、全体を見るようにするんじゃ」

「全体を見るように‥‥‥」

 孫三郎は突き付けられた刀を忘れて、風眼坊に言われた通り、全体を見るように努力した。

「そうじゃ。目付けの方は、まあ、よくなって来たが、今度は構えの方がおろそかになって来たぞ。敵に気を取られてはいかん。臍(ヘソ)の下に力を溜めて、じっくりと構えるんじゃ」

 孫三郎は風眼坊から言われた通りに構え、汗びっしょりになりながら真剣に対していた。

 風眼坊は真剣を中段の構えから上段へと上げた。

 孫三郎の視線も風眼坊の刀に合わせて上へと上がった。

「敵の構えに惑わされるな! どんな構えであろうと刀の通る道はたった一つだけじゃ。その道を見極めるんじゃ。敵の太刀先の通る道を見極める事ができれば、自分の太刀を自由に操る事ができる」

「‥‥‥」

「いいか、そのまま動くな!」

 風眼坊はそう言うと、左足を一歩踏み出して、上段の刀を孫三郎の頭を目がけて打ち下ろした。

 風眼坊の打ち下ろした刀は孫三郎の顔の前、すれすれの所を通って、木剣を構えている右拳の上、すれすれの所で止まった。

 孫三郎は風眼坊の刀が下りて来ても微動だにしなかった。

「どうだ、分かったか。太刀先の通り道が」

「‥‥‥は、はい、分かりました」

 風眼坊は頷くと刀を納めた。

 孫三郎は息を大きく吐き出すと肩を落とし、中段に構えていた木剣を降ろした。

「よし。これで大丈夫じゃ。お前は、これで見事に死ぬ事ができる。戦になっても惨めに逃げ出す事もあるまい」

「本当ですか」

「ああ、本当じゃ。今回の修行はこれで終わりじゃ」

「はい。ありがとうございました」

「ところで、お前に頼みがあるんじゃが」

「何ですか」

「ああ。祈祷の方も無事に終わりそうじゃしな。精進(ショウジン)明けと言う事で、酒を手に入れて欲しいんじゃがな。できるかのう」

「酒ですか。はい、そんな事ならわけありません。すぐに、うちから持って来ます」

「おお、そうか、そいつは助かる。今晩はみんなで飲もう」

 孫三郎は山を下りて行った。

 最後の加持祈祷も終わり、最後の滝打ちの行も終わり、お雪は晴れ晴れとした顔付きで、風眼坊の前に坐っていた。お雪の後ろに智春尼も嬉しそうにお雪を見守っていた。

「二十一日間、よく頑張ったな。ようやく終わりじゃ。そなたは今日、改めて生まれ変わったのじゃ。今までの辛かった地獄の日々は、すべて清算された。これからは仏様の力で、いつの日にか、富樫次郎が非業の死を迎える事を信じ、その事は仏様に任せ、新たな人生を送る事じゃな」

「はい」とお雪は頷いた。

「どうじゃな、気分の方は」

「はい‥‥‥何となく、体が軽くなったような、何だか、本当に生まれ変わったような気がいたします。見る物すべてが以前とは違って、美しく見えるような気がいたします」

 風眼坊は満足そうに頷いた。

「そうじゃろう。そなたの心に染み付いておった邪悪な物が綺麗さっぱり落ちたのじゃよ。お不動さんが、そなたの心に染み付いておった邪悪な物をすべて、自分の身に引き受けて下さったのじゃ。お不動さんが、そなたの代わりに両親の仇を取って下さるじゃろう」

「ありがとうございました」

「本当に何とお礼を申したらいいのか‥‥‥」と智春尼の目は潤んでいた。

「さて、これから、そなたはどうするつもりじゃな」

「‥‥‥まだ、分かりません」

「まあ、そうじゃろうのう。しばらくは吉崎の蓮如殿のもとにおって、これからの事を考えるがいいじゃろう」

「‥‥‥あの、風眼坊殿はこれからどうするのですか」

「わしか、わしも、しばらくは吉崎におる事になるじゃろう」

「そうですか‥‥‥」

「どうも、ありがとうございました」と智春尼は風眼坊に深く頭を下げた。

「礼なら、わしじゃなく、あのお不動さんに言う事じゃな」

 二十一日間、護摩を炊き続けた護摩壇の向こうにいる、その小さなお不動さんは剣を振り上げ、火炎を背負い、忿怒の相をしていたが、その目は慈悲深く、お雪を見守っているようだった。

 久し振りに、うちに帰った孫三郎は酒だけでなく、うちにあった鹿の肉やら、野菜やら、米やら、やたらと背負って戻って来た。

「お前、何を持って来たんじゃ」と風眼坊が驚いて聞くと、「精進明けですから酒だけじゃ淋しいと思いまして、うちにあった御馳走をみんな持って来ました」

「大丈夫なのか、そんな事をして」

「はい。初めてです」と孫三郎は笑った。

「は?」

「俺、初めて、あの母親に逆らいました。母親は目を丸くして、俺をただ見ていただけでした。そして、親父は何も言わなかったけど、俺の事を、俺の事を認めてくれたみたいでした」

「そうか‥‥‥」

「はい。何だか、自分に自信が持てるようになったみたいです」

「そうじゃろ。死に方が分かれば、自然、生き方も分かるものじゃ」

 孫三郎の持って来た御馳走を料理して、久し振りに酒を飲み、辛かった二十一日間の事を話しながら楽しい晩を過ごした。

 この時、初めて、風眼坊はお雪の明るい笑顔を目にした。その笑顔を見る事ができただけでも、今回の祈祷は決して無駄ではなかったと思った。

 お雪の仇、富樫次郎がいつ死ぬのかは天に任すほかはなかった。風眼坊が見たところ、次郎の今の生活振りからして、そう長生きはするまいと思っていた。そして、お雪が新しい人生を歩き始め、いつしか次郎の事も忘れてしまえばいいと願った。

 次の日、一行は山を後にした。

 途中、未だに、お雪を捜している二人の山伏と擦れ違った。

 お雪は、殺さないで、と風眼坊に言った。

 風眼坊は孫三郎に、倒して来い、と命じた。

 孫三郎は木剣で、二人の山伏を簡単に倒してしまった。その意外な展開に、一番驚いていたのは倒した本人の孫三郎だった。しばらくの間、倒れている二人の山伏と自分の手にした木剣を見比べながら、その場に立ち尽くしていた。

「おーい、早く来い」と先に行った風眼坊から声を掛けられ、孫三郎は慌てて後を追って行った。
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