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陰流の開祖であり、忍びの術の開祖でもある愛洲移香斎の物語です。
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第一部 陰流天狗勝



1.誕生



 静かな海だった。

 もうすぐ、満月になろうとする月が南の空にポッカリと浮かんでいる。そして、きらめく星空の下に一艘の船がポツンと浮かんでいた。

 ここは熊野灘(ナダ)、志摩半島の南、五ケ所湾の入口、田曽岬のすぐ先であった。

 ポツンと浮かんでいる船は『関船(セキブネ)』と呼ばれる中型の軍船で、その見張り櫓(ヤグラ)の上に、一人の男が仁王立ちになっている。総髪(ソウハツ)の頭に革の鉢巻を巻き、腹巻と呼ばれる鎧(ヨロイ)の胴を付け、三尺余りもある長い太刀を佩(ハ)き、十文字槍(ヤリ)を左手に持ち、遠く東の空を睨んでいる。今にも戦が始まるかのような出立ちであった。

 海は静かだった。船の上にも、その男以外に人影は見えない。

 その男の名を愛洲太郎左衛門宗忠(ムネタダ)と言う。愛洲一族の一人で後の水軍の大将である。

 愛洲一族は南北朝以前から南伊勢一帯に勢力を持つ豪族で、南北朝時代には伊勢の国司、北畠氏を助けて南朝方で活躍をした。しかし、時は流れ、今は伊勢の国(三重県)の南端、五ケ所浦でひっそりと暮らしていた。

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2.風眼坊舜香




 雲一つない日本晴れの秋空だった。

 見晴らしのいい山の頂上に山伏(ヤマブシ)が一人、風に吹かれて座わり込んでいる。

 眼下には穏やかな青い海が広がり、東北には富士の山が神々しく、そびえている。

 ここは駿河の国(静岡県)久能山。

 古くは山中に天台宗補陀落山久能寺が甍(イラカ)を並べて栄えていたが、南北朝の頃、全山が焼かれ、今は荒れ果てていた。

 夏の間、伸び放題に伸びていた草が風に吹かれて揺れている。

 山伏は海の方に向かって座ってはいても、海を見ているようでもなく、時々、右を向いては手に持った頑丈そうな錫杖(シャクジョウ)を鳴らし、左を向いては、また錫杖を鳴らしていた。

 この山伏が持っている錫杖を菩薩(ボサツ)錫杖といい、杖の先に金属製の六つの円環がついている。この六輪は布施、持戒、忍辱(ニンニク)、精進(ショウジン)、禅定(ゼンジョウ)、知慧(チエ)の六波羅密(ロクハラミツ)を示しているという。

 山伏が錫杖を振るたびに、その六輪は神秘的な音を風の中に響かせていた。
3.水軍剣法



 愛洲太郎左衛門宗忠の長男、太郎は七歳になっていた。

 京都や奈良では土民や馬借らが蜂起し、民家や寺は焼かれ、庶民は逃げ惑っていても、ここ、五ケ所浦はまだまだ平和だった。現世利益(ゲンゼリヤク)と極楽往生を願い、熊野詣で、伊勢参りの旅人たちが行きかっていた。

 太郎はそんな平和な町で、のびのびと育っていた。毎日、近所の子供たちと真っ黒になって海で遊んでいる。代々、水軍の家柄だけあって、泳ぎは教わらなくても自然に覚えてしまい、朝から晩まで海に行って遊んでいた。

 後の江戸時代の武士とは違い、武士の子は武士らしくなどと言って、枠にはめて育てるという事はまだなく、町の子供たちと一緒になって遊び回っていた。

 今年になって、春から祖父の白峰より剣と槍を習い始め、祖母より読み書きを習い始めた。四歳になる次郎丸という弟や昨年、生まれたばかりの澪(ミオ)という妹もできた。
4.寛正の大飢饉



 異常気象が続いていた。

 長禄三年(一四五九年)、春から夏にかけて雨が全然降らず、日照りが毎日続いた。

 秋になると畿内を中心に大暴風が襲来した。賀茂川は大氾濫し、民家を流し、京中の溺死者だけでも相当な数にのぼった。しかも、京都への輸送が麻痺して米価が暴騰し、餓死者も続出した。その結果、京都、大和の土民が徳政を求めて蜂起した。

 一揆である。

 しかし、それだけでは治まらなかった。

 翌年も、春から初夏にかけて雨が一滴も降らず、日照りが続いた。あちこちで農民たちが、わずかな水を求めるために血を流していった。夏になると一転して長雨が続き、異常低温となり、夏だというのに人々は冬の支度をしなければならなかった。そして、秋には、また大暴風が吹き、おまけに蝗(イナゴ)が大発生して田畑は全滅という悲惨な状態となった。山陽山陰地方では夏頃から食糧がまったくなくなり、人が人を食うという餓鬼道(ガキドウ)まで出現していた。

十二月二十一日に年号を長禄から寛正(カンショウ)と改元したが、それは気休めに過ぎなかった。
5.五ケ所浦






 秋晴れの空に、ポッカリと白い雲が一つ浮かんでいる。

 入り組んだ入江の中、海は穏やかだった。

 今、熊野からの商船が入って来たばかりで港は賑わっていた。

 人々が忙しそうに動き回っている。船からの積み荷が降ろされ、そして、別の荷物が船の中に運ばれていた。船から降りた客たちはあたりを見回しながら、連れの者と話を交わし、城下町の方へと流れて行った。

 五ケ所浦の城主、愛洲伊勢守(イセノカミ)忠行の城は城下町を見下ろす丘陵の上に建っていた。のちに言う本丸に相当する詰の城が丘の頂上にあり、北方と西方は五ケ所川の断崖に接し、東は断層をなし、濠をめぐらし、南が大手門となっている。居館は丘の中腹にあり、城全体を守るように深い外濠がめぐらされてあった。

 その城の北には浅間権現を祠る浅間山があり、東には馬山があり、北西にはアカガキリマと呼ばれる山々が連なり、五ケ所浦を守っていた。

 城下町は城の大手門に続く大通りと海岸沿いに走る街道、港から五ケ所川に沿って伊勢神宮へと続く街道を中心に栄えていた。城の周辺には武家屋敷が並び、港の周辺には宿坊や蔵が並び、市場もあった。

 水軍の大将、愛洲隼人正宗忠の城は五ケ所浦の城下から南に二里程離れた田曽浦にあり、田曽岬の砦から海を睨み、五ケ所浦の入り口を押えていた。太郎もその城で生まれたが、今はそこにはいない。隠居した祖父、白峰と共に五ケ所浦の城下町にある屋敷で暮らしていた。白峰の屋敷は城下の東のはずれにあった。志摩の国へと続く街道に面していて浜辺の側だった。
6.応仁の乱



 時代は乱世へと向かって行った。

 寛正五年(一四六四年)、女の子ばかりで跡継ぎの男の子のいなかった将軍、足利義政は僧となっていた弟の義尋(ギジン)を無理やり還俗(ゲンゾク)させて、義視(ヨシミ)と名乗らせ養子とした。

 ところが、翌年、夫人の日野富子が長男義尚(ヨシヒサ)を生んだ。義政としては早く将軍職を義視に譲って、自由の身になって風流を楽しみたかったのに、富子は反対した。絶対に自分が生んだ義尚を将軍にさせたかった。
7.旅立ち






 京で始まった戦は、ここ愛洲の城下にも影響して来た。とは言っても、戦が始まったわけではない。しかし、いつ、どこから何者かが攻めて来るかもわからないので、戦闘の準備に追われていた。

 今回の戦は東軍、西軍に分かれて戦っているが、誰が東軍で、誰が西軍なのか、はっきりとわからなかった。一族の中でも東と西に分かれて戦っている。自分がどちらに付くかという、はっきりした根拠を持っている者は少ない。当面の敵が東に付くなら、こちらは西だというようなもので、利害によって寝返りも頻繁に行なわれた。

 愛洲一族は今の所、東でも西でもないが、有力な者から、こちら側に付いてくれと言われたら、自分たちの立場を守るために付かざるえない。また、何者かが攻めて来たら、それを倒すために、敵と反対側に付かざるえない。

 水軍も陸軍も各砦に見張りを置き、武士はもとより漁師、農民に至るまで、いざ、事が起こったら、すぐに戦えるように準備におこたりはなかった。

 熊野詣でや伊勢参りの参拝客の数も徐々に減って行き、物価はどんどん上昇して行った。
8.京の都






 なれや知る都は野辺の夕雲雀(ヒバリ)あがるを見ても落つる涙は‥‥‥

 『応仁記』の中で細川家の家臣、飯尾常房が京の都を詠んでいる。

 京の都、それは焼け野原に変わってしまっていた。

 合戦の勝敗はつかないまま膠着状態に入っている。東軍も西軍も互いに陣地の防御を固めて睨み合っていた。

 一年以上も続く合戦で、両軍とも数多くの死傷者を出したわりには、戦果ははかばかしくなかった。

 そして、今、この合戦の主役は武士から足軽たちに移っている。彼らは一応、東軍、西軍と分かれているが、やっている事は、ただ、京の町を破壊するだけの事だった。彼らにとって、東軍が勝とうが西軍が勝とうが、そんな事はどうでもよかった。ただ、公然と白昼堂々と放火、略奪、強盗ができる事で喜んで走り回っていた。

 合戦そのものは停滞し、京は焼け野原になり荒れ果てていった。
9.山伏流剣法






 太郎は五ケ所浦に帰って来た。

 まるで、乞食のような格好になり、気でも狂れたかのように目の焦点も定まらず、歩くのもやっとのようだった。

 祖父、白峰の屋敷までたどり着くと太郎は倒れた。

 山の上から故郷の海と町を見て、感激したのは覚えている。その後は、もう無我夢中で山を下りた。

 太郎は肉体的にも精神的にも疲れ果て、二日間、眠り込んでいた。

 目を覚ました時、側に父が座っていた。

 父に何かを言おうとしたが、何を言っていいのか、わからなかった。

「面白かったか」と父は言った。

 太郎は父の顔を見つめ、ただ頷いた。

 父は笑った。

「わしもな、お前位の頃、家を飛び出した事があった‥‥‥爺さんもあったらしい‥‥‥うちの血筋らしいな‥‥‥人にはな、それぞれ、やるべき事というものがある。そして、それは自分で見つけなくてはならん。お前がこれから何をやるべきかを‥‥‥」

 太郎は父の顔を見ながら泣いていた。なぜか、父の声を聞いたら急に涙があふれてきて止まらなかった。

 父はそれ以上は何も言わず、ただ、太郎を見守っていた。

 太郎は安心して、また、眠りの中に入っていった。
10.太郎坊移香






 枯葉を相手に太郎の修行は続いていた。

 毎日、刀を振り回しながら、跳びはねていた。

 何とか、四枚目まではできるようになったが、最後の一枚は難しかった。立木を相手に、風眼坊から教わった三つの技の稽古も怠りなくやっていた。

 冬はもうすぐ終わろうとしている。

 太郎と風眼坊は木剣を構えていた。

 風眼坊は八相に構えた。太郎がよくする構えであった。

 太郎は中段に構えた。そして、風眼坊の目と肩を見ながら進み出て、風眼坊の左腕を狙い打つために木剣を上げた。

 風眼坊は太郎の動きに合わせ、右足を大きく踏み込み、腰を落とし、構えていた剣を右側に回し、下からすくい上げるように太郎の左上腕を打った。

「よし、次だ」と風眼坊は木剣を目の高さに水平に構えた。

 右手で柄を持ち、左手は剣先から五寸程の所を手の平にのせるように構えていた。まるで、剣を捧げ持っているかのようだった。

 太郎は中段に構え、水平に構えられた風眼坊の木剣を見つめた。

 狙う所は胸から下しかなかった。

 太郎は中段から、上段の構えに変えた。

 上段のまま風眼坊に近づくと、上段から風眼坊の右腹を狙って木剣を横に払った。

 風眼坊は柄を握っている右手を軸に、左手を下に下ろし、剣を垂直にして太郎の剣を受け止めた。

 太郎はすかさず、受け止められた剣を上段に上げ、風眼坊の左腕を狙って打ち下ろした。

風眼坊は元の構えに戻り、太郎の剣を受け、右側にすり落とすと左足を深く踏み込み、左手は剣の先の方を押えたままで、太郎の喉元を突く、寸前に剣を止めた。
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