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陰流の開祖であり、忍びの術の開祖でもある愛洲移香斎の物語です。
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9.山伏流剣法






 太郎は五ケ所浦に帰って来た。

 まるで、乞食のような格好になり、気でも狂れたかのように目の焦点も定まらず、歩くのもやっとのようだった。

 祖父、白峰の屋敷までたどり着くと太郎は倒れた。

 山の上から故郷の海と町を見て、感激したのは覚えている。その後は、もう無我夢中で山を下りた。

 太郎は肉体的にも精神的にも疲れ果て、二日間、眠り込んでいた。

 目を覚ました時、側に父が座っていた。

 父に何かを言おうとしたが、何を言っていいのか、わからなかった。

「面白かったか」と父は言った。

 太郎は父の顔を見つめ、ただ頷いた。

 父は笑った。

「わしもな、お前位の頃、家を飛び出した事があった‥‥‥爺さんもあったらしい‥‥‥うちの血筋らしいな‥‥‥人にはな、それぞれ、やるべき事というものがある。そして、それは自分で見つけなくてはならん。お前がこれから何をやるべきかを‥‥‥」

 太郎は父の顔を見ながら泣いていた。なぜか、父の声を聞いたら急に涙があふれてきて止まらなかった。

 父はそれ以上は何も言わず、ただ、太郎を見守っていた。

 太郎は安心して、また、眠りの中に入っていった。

 太郎は元気になると山に登った。

 小春にも会いに行ったが、彼女はいなかった。

 母親に聞くと、「あれは、嫁に行った」と言った。

「どこに」と聞くと太郎から顔をそむけ、「遠い所だ」と言うだけで、何も教えてくれなかった。

 太郎は山の頂上から遠い水平線を見つめていた。

 旅から帰って来てから何もやる気がおきず、山に登ってはぼうっと海を見ていたりしていた。

 父も祖父も何も言わなかった。

『お前はもう大人だ。自分の事は自分で考えろ』

『お前のやるべき事があるはずだ。それを見つけて、ちゃんとやれ』

 太郎の脳裏からは、自分の目の前で殺されていった者たちの苦痛の顔や悲鳴が離れなかった。

 それに、嫁に行ってしまった小春の事も忘れられなかった。

 どうして、俺が帰って来るまで待っていてくれなかったんだ。

 たったの一ケ月じゃないか‥‥‥

「俺は一体、何をしたらいいんだ」

「俺がやるべき事とは、一体、何なんだ」

 太郎は毎日、それを考えていた。

 快晴和尚が何かを教えてくれないかと思い、長円寺にも行ってみたが、和尚はまだ帰って来ていなかった。誰もいない寺の本堂の奥に古ぼけた黄金色のお釈迦様が留守番していた。太郎は独り、本堂に座り込んでもみたが答えは得られなかった。


 十日余りが過ぎた。

 太郎は今、山頂から沈む夕日を睨んでいた。

「これだ!」と太郎は叫んだ。「これしかない!」

 太郎は刀を抜くと目の前に水平に捧げ、刀の刃を見つめた。

 とにかく、強くなる事だ‥‥‥

 強くなければ何もできない‥‥‥

 太郎は立ち上がると刀を構え、気合と共に、夕日に向かって刀を振り下ろした。

 次の日から、太郎は変わった。

 夜明け前に起きると海に出掛けた。

 小舟に乗ると誰も来ない入江に行き、小舟に乗ったまま、重い木剣の素振り、槍の素突きをした。祖父の自慢の強い弓を借りて弓の稽古もした。そして、帰ると朝食を取り、祖父を相手に剣槍の稽古、弟の次郎丸に稽古をつけてやったりして、昼からは山に入り、山の中を走り回り、立木を相手に木剣を振り回した。

 太郎はみるみる強くなっていった。

 初めの頃は祖父、白峰も太郎を簡単にあしらっていたが、一ケ月もすると白峰も油断ができなくなる程の腕になっていた。





 冬になろうとしていた。

 太郎は枯葉を踏みながら山を登っていた。

 山頂に着いた時、ふと、人影が目に入った。

 いつも、太郎が座り込んで海を眺めている所に、一人の山伏が座り込んでいた。

 今まで、この山で人と出会う事はなかったし、この場所を知っているのは太郎と今はいない小春だけだった。太郎は身を隠して、しばらく、山伏の後ろ姿を見ていた。

 頑丈そうな年季の入った錫杖を肩に立て掛け、竹笈(タケオイ)を背負い、長い太刀を腰に差している。兜巾(トキン)の下の長い髪が揺れていた。

 熊野の山伏だろうか、と太郎は思った。しかし、こんな所で何をやっているのだろう。

 山伏だから山の中にいるのは当然と言えるが、ここ五ケ所浦では、山伏たちは港や町にはうようよいるが、この辺りの山で見た事はなかった。

「おい」と山伏は海の方を向いたまま、よく響く低い声で言った。

「そこにいる奴、わしに何か用か」

 山伏はそう言ったが、相変わらず太郎に背を向けていた。

 この山伏、後ろに目があるのか、と思いながら、太郎は木の陰から出て来た。

「いい所じゃな」と山伏は言った。

 太郎は山伏の後ろに立ち、海を眺めた。

 今日の海は少し荒れていた。

「お前は、ここの者か」と山伏は聞いた。

「はい」と太郎は山伏の背に答えた。

「愛洲の一族か」

「はい」

「ここは、まだ平和じゃのう」

「はい」

「わしに構う事はない。木剣でも振ったらどうだ」

「え? どうして、それを‥‥‥」

「そこいらの木を見ればわかる」

 山伏が言った木というのは、太郎が毎日、木剣でたたいている木の事だった。木剣の当たる所は木の皮が破れ、へこんでいる。そんな木が十数本あった。

「強くなりたいのか」と山伏は聞いた。

「はい‥‥‥」

「強くなって、どうする」

「‥‥‥わかりません。でも、強くならなければ何もできません」

「強くなったからって何ができる」

「‥‥‥でも、わたしは強くなりたい」

「まあ、いいだろう。弱いよりは強い方がいい‥‥‥わしが相手してやってもいいぞ。木なんかよりましじゃろう」

 山伏は初めて太郎の方を向くと、ニヤッと笑って立ち上がった。

「小僧、かかって来い」

 太郎は何くそと思った。

 毎日の厳しい稽古で、多少、自信は付いていた。愛洲一族の中でも『愛洲の隼人』と恐れられた祖父を相手に三本のうち、一本は勝つ事ができた。たかが、山伏ごときに負けるはずはない。

「俺は小僧ではない」と太郎は山伏を睨んだ。

「すまんな、名を知らんのでな」

「愛洲太郎左衛門久忠だ」

「ほう、偉そうな名だな。名前負けという奴か」

「何だと!」

「まあ、いいから、かかって来い。どの位、強いか試してやる」

 太郎は木剣を構え、「刀を抜け!」と言った。

「これで充分じゃ」と山伏は錫杖を鳴らした。

 太郎は右足を少し後ろに引き、頭の右横に垂直に木剣を構えて山伏を見た。

 山伏は錫杖を右手に持って、地に突いてるだけで別に構えてもいない。

「どうした、小僧」と山伏はせせら笑った。

 太郎は気合と共に駈け寄り、山伏の右手を狙って剣を振り下ろした。

 山伏の右手は手首あたりで砕け折れるはずだった。ところが、どうしたわけか、太郎の木剣は手を離れ、高く飛び、太郎自身は転がっていた。

 山伏の方は錫杖を突いたまま、笑っている。

「小僧、どうした。もう終わりか」

「何を‥‥‥」

 太郎は木剣を拾うと、容赦しないと山伏の頭めがけて木剣を振り下ろした。

 今度は木剣を手から離さなかったが、投げ飛ばされたのは前回と同じだった。

「もう一度」と太郎は山伏に向かって行った。

 何度やっても同じだった。

 何がどうなって、こうなるのかわからないが、太郎の木剣が山伏を打つ前に、太郎は投げ飛ばされていた。

「どうした。もう、棒振りは終わりか」

 太郎は山伏の前に座り込んで山伏を見上げた。そして、両手をつくと、「お願いです。わたしに剣術を教えて下さい」と頭を下げた。

「ほう」と山伏は錫杖を肩にかついで太郎の顔を見た。

「わたしは、どうしても強くなりたいのです」

「わしのやり方は、ちと、きついぞ」

「どんな事でもします」

「そうか‥‥‥まあ、いいじゃろう。ここが気に入ったしな。今年の冬はここで過ごすか」

「ありがとうございます」

 太郎は両手をついたまま、山伏を見上げた。

 山伏は海の方を見ながら腰を下ろした。

「太郎左衛門とか言ったな。おぬし、いくつじゃ」

「十七です」

「十七か‥‥‥若いのう。わしの名は風眼坊舜香じゃ。吉野の山伏じゃ。よろしくな」

「吉野? 吉野というと熊野から大峯山を越えた向こうですか」

「うむ、そうじゃ。行った事あるのか」

「いえ、ありません。でも、前に熊野に行った時、行ってみたいと思いました」

「そうか、熊野に行ったか‥‥‥吉野もいい所じゃ。だが、今頃は寒いからの。うむ、ここは暖かそうじゃ。お前に剣術でも教えながら、一冬、暮らすかのう」

「お願いします」

「うむ」と風眼坊は太郎の顔を見ながら頷いた。「太郎、そこで頼みがある。わしはここに小屋を建てる事にした。斧と鋸があったら貸してくれんか。それと、すまんが米もな」

「わかりました。何とかします。ところで風眼坊殿、山伏というのは皆、あなたのように強いのですか」

「いや、そうとは限らん。武士の中にも強いのがいたり、弱いのがいたりするのと同じじゃ。わしは特別な修行をして来たんでな」

「特別な修行?」

「ああ、大峯山には天狗がおっての、その天狗から、わしは剣術を教わったんじゃ。昔、判官(ホウガン)義経公が鞍馬の天狗に剣を習ったじゃろ。あれと一緒じゃ。わしは大峯の天狗から習ったんじゃ」

 風眼坊は大口をあけて笑った。

「天狗というのは本当にいるんですか」太郎は怪訝そうに聞いた。

「なに、お前、見た事ないのか」と風眼坊は真面目な顔に戻って言った。

「はい、ありません」

「そうか、そのうち、わかるじゃろう‥‥‥とにかく、わしの剣術は山伏流じゃ。武士が使う剣術とは少し違う。わしらはあいつらのように重い鎧など身に着けんからの、身軽じゃよ」

「わたしの剣術も普通のとは違います。水軍の剣法です」

「ほう。お前、水軍の小伜か‥‥‥と言うと、お前はあの愛洲隼人の伜か」

「はい。父上を御存じですか」

「名は聞いた事がある‥‥‥成程な」と風眼坊は太郎の顔をまじまじと見つめた。

「それでは、斧と鋸を持って来ます」と太郎は立ち上がった。

「おお、頼むぞ」

 太郎は山を下りて行った。

 風眼坊に何度も投げ飛ばされ、体中が痛かったけど心はウキウキしていた。





 ちょっとした山小屋が出来上がった。

 山頂より少し下の日当たりが良くて、風のあまり当たらない場所に山小屋は建った。

 太郎はこんな大工の真似をするのは初めてだったが、風眼坊の言う通りに動き回っていた。

「やっと、できた」と太郎は小屋の中から夕暮れの海を眺めた。

「思ったより立派な小屋ができたな」と風眼坊は小屋の中に敷くために積んである藁(ワラ)束に腰掛けた。「さて、いよいよ、明日から始めるか」

「はい」と太郎は力強く頷いた。

 小屋を建てていた三日の間、太郎は木剣を持たなかった。

 朝、起きるとすぐ、海にも行かずに真っすぐに山に登って来た。自分の手で小屋を作るなんて、今まで考えてもみなかったのに毎日が楽しかった。たとえ、小さな小屋でも自分たちの手で作り上げたんだ。完成した小屋を見ながら、太郎は何となく嬉しかった。

 次の日、太郎が夜明け前に山に登ると風眼坊はすでに起きて、海に向かって座禅をしていた。

「水を汲んで来い」と風眼坊は言った。「今日から、びしびしやるぞ。辛かったら、いつ、やめても構わん。お前の勝手だ。強くなりたかったら耐えるんじゃな」

「やめません」と太郎は言い、桶を持って山を下りて行った。

 水を汲む場所は小春といつも会っていた、あの沢だった。


 風眼坊舜香‥‥‥彼は座り込んで考えていた。

 七年前の寛正の大飢饉以来、彼は一揆衆の中に身を投じていた。国人や郷士らと共に郷民を指揮して、京や奈良で支配者を相手に戦って来た。

 今の世をどうにかするには、とにかく、今の社会制度を破壊する事だと思っていた。そして、最終目的は幕府権威を破壊する事。しかし、各地で一揆が起こっても幕府はびくともしなかった。

 寛正の飢饉の時、近畿だけでも十万人以上の民衆が飢えて死んだ。しかし、武士が飢えて死んだという事はなかった。

 その後も疫病の流行、暴風雨のための洪水などで人々は続々と死んでいった。

 幕府は何もしなかった。

 そして、応仁の乱が始まった。

 風眼坊は京にいて、戦の成り行きを傍観していた。

 どちらが勝ったとしても支配体制は弱くなる。そうすれば、各地で土着の国人たちが暴れ出すだろう‥‥‥

 戦況が長引きそうだとわかると、しばらくは、また山に籠もって時を待つかと思い、風眼坊は京を離れた。別に当てもなく、冬も近い事だから南の方に、紀州の熊野にでも行くかと山の中を歩いて来た。甲賀、伊賀を抜け、伊勢に入った。伊勢まで来たのだから、ついでに伊勢神宮にでも寄って行くかと外宮、内宮と寄り、五ケ所浦を望む山の上まで来た時、太郎と出会った。

 新九郎の奴は今頃、どうしているか‥‥‥

 お互いにやっている事は別々だが、考えている事は似ていた。

 京にいる時は何度か、新九郎と会っていた。しかし、乱が始まった年の秋、新九郎は足利義視と共に京から消えた。それ以来、会っていない。

 風眼坊から見れば、あんな義視のような男にくっついていても、しょうがないとは思うが奴には奴の考えがあるのだろう。

 まあ、いい。しばらくは、のんびりとやるか。

 太郎が水を汲んで戻って来た。

 次に太郎は食事の支度をを命じられた。

「師匠、教えて下さい」食事が済むと太郎は風眼坊の前にひざまづいた。

「まず、わしの木剣を作れ」

「はい」

「わしはちょっと、城下を見て来る」

 風眼坊は山を下りて行った。

 小屋を作った時、あまった何本かの丸太の中から手頃なのを選ぶと、太郎は鉈を持って縦に割った。丁度いい太さに割れると割れ目にそって、少しづつ小刀で削っていき形を整えていく。

 現代の木刀と違って反りはない。とにかく、丈夫である事が第一条件であるため、太くて重い。刃と棟を区別するために、棟の方を三分(約一センチ)程の幅で平に削った。できあがると太郎は立木を相手に、その木剣を振ってみた。折れる事はなかった。

 当時、剣の修行を始めるには、まず、木剣を作る事から始まった。太郎は祖父から木の選び方から作り方まで教わり、もう、何本もの木剣を作っている。初めのうちは何本も失敗した。ものの役に立たない木剣を何本も作ったが、今では完全にものにしていた。

 風眼坊はなかなか戻って来なかった。

 太郎は立木を相手に木剣を振った。

 日が暮れかかっても風眼坊は帰らなかった。

 太郎はとにかく、木剣を作っていた。何本あったとしても困るものではない。太郎は一日で三本の木剣を作った。

 夜になっても風眼坊が戻って来ないので、太郎は山を下りた。





 次の朝、太郎が山に登って行った時、風眼坊はまだ帰っていなかった。

 太郎は水を汲みに行き、食事の支度をして、一人で食べ、また、木剣を作り始めた。

 風眼坊が戻って来たのは昼近くになってからだった。

「いい町じゃな。わしは気に入ったぞ」と風眼坊はニヤニヤした。

「木剣はできました」と太郎は四本の木剣を風眼坊に見せた。

「ほう‥‥‥うまいもんじゃのう。お前、武士なんかやめて、轆轤師(ロクロシ)にでもなったらどうじゃ」

「剣術を教えて下さい」と太郎は頭を下げた。

「わかっておる」

 風眼坊は木剣を一つ手に取ると軽く素振りをして、二、三度、地面を強く打つと満足そうに頷いた。

「よし、かかって来い」

「はい」

 太郎はいつものように、木剣を頭の右横に垂直に構えた(八相の構え)。

 風眼坊は中段に構えた。しかし、右手だけで木剣を持ち、左手は垂らしたままだった。

 太郎は後ろの右足を一歩進め、木剣を八相の構えから風眼坊と同じ中段になおすと、木剣の先を風眼坊の目に向け、少しづつ近づいて行った。

 風眼坊は木剣を下段に下ろすと左手を柄(ツカ)に添えた。

 太郎は素早く近づくと木剣を上げ、風眼坊の頭めがけて振り下ろした。

 風眼坊は左足を大きく踏み込み、身を沈めると下段の木剣を下から斬り上げた。

 風眼坊の木剣は太郎の木剣の柄に当たった。丁度、太郎が剣を握っている右手と左手の間である。太郎の手は痺れ、木剣は手から離れ、空高く、舞い上がった。

 風眼坊は体勢を直し、木剣を太郎の喉元に詰めると、「わかったか」と言った。

 太郎は頷いた。

「真剣でやっていたら、お前の両の腕はなくなっている。まず、この技を覚える事だ」

 風眼坊はそう言うと小屋の中に入って行った。

 太郎は木剣を拾うと下段に構え、下から敵の両腕を斬る稽古をした。

 その一瞬のうちに決まる技は、太郎が今まで祖父から習っていた剣法と違っていた。

 祖父の教える剣法は、とにかく打ち合う事だった。敵が打った剣をこちらの剣で受け、力まかせに押したり引いたりして、敵の体勢が崩れた所をすかさず打つというものだった。そのやり方だとなかなか勝負はつかないし、体力がものを言った。

 風眼坊の教える剣法は違った。敵の剣と我の剣のほんの一瞬の差で勝負は決まった。まさに、その一瞬で生と死が別れる必殺の剣法だった。

 太郎は立木を相手に、その技の稽古をした。

 下から斬り上げるため、今までの立木では駄目だった。横に手頃な枝を出している木を見つけ、その枝の付け根を狙って下段から木剣を振り上げた。





 太郎は毎日、立木を相手に下段からの斬り上げの稽古をしていた。

太郎のお陰で、枝を折られた立木が増えていった。

 風眼坊は小屋から出て来ると太郎の動きをじっと見ていた。

「今度は、あの枝をたたけ」

 風眼坊は一丈(約三メ-トル)以上もある枝を指した。

「え? そんなの無理です」

「貸してみろ」

 風眼坊は太郎から木剣を取ると下段に構えた。体を沈めると気合と共に飛び上がった。

 風眼坊の木剣は下から枝の根本を見事に打ち、五寸(十五センチ)程の太い枝は折れ、太郎の頭の上に落ちて来た。太郎は慌てて、その枝を避けた。

 太郎に木剣を返すと風眼坊は何も言わず、山の中に入って行った。

 風眼坊は最近、山に入って薬草を採って来ては小屋の回りに干したり、小屋の中で煎じたりして薬を作っていた。

「何してるんです」と太郎が聞いたら、「わしの商売じゃ」と風眼坊は言った。

「さすがに、ここは暖かいのう。冬だというのに、まだ、色んな草がある」

 これは腹痛に効く、こいつは目の薬だ、これはトリカブトと言って痛み止めとして使うが猛毒じゃ、気を付けた方がいい。風眼坊は干してある色々な薬草を一つ一つ説明してくれた。太郎はただ感心して聞いているだけで良くわからなかった。以前、小春に食べられる草や実の事を教わって驚いたが、薬になる草がこの辺りに、こんなにもあったのかと不思議に思った。

 風眼坊舜香の風眼坊とは、熊野で修行していた時、彼が住んでいた小さな僧坊の名前である。昔、その僧坊に住んでいた山伏が、風眼という病にかかって失明した。今でいう淋疾性の結膜炎である。そのために、いつの間にか、その僧坊の事を山伏たちが風眼坊と呼ぶようになり、失明した山伏が亡くなってからも住む者はいなかった。風眼坊はそんな事はお構いなしに空いているのを幸いに、その僧坊に住み着いた。以来、風眼坊舜香と呼ばれている。勿論、彼は風眼病みではない。

 ある日、風眼坊が山から下りて村々を回っていた時、ある村に風眼を病んでいる若い娘がいた。風眼坊と言う名を聞いた村人は、きっと風眼を治してくれる聖人様だと風眼坊に祈祷を頼んだ。風眼坊は頼まれるまま祈祷をした。祈祷をしただけで目の病が急に治るわけはない。そこで、口から出まかせに東の山の中腹に小さな泉が涌いている。その泉の水で目を洗えば必ず良くなると言った。その泉の事はついさっき、山の中で見つけたので知っていた。しかし、その水が目に効くというのは出まかせだった。出まかせを言いながらも風眼坊は心から、この風眼を病んでいる娘を治してやりたいと思った。まだ、彼も若かったし、その娘も若く、綺麗な娘だった。失明させるには可哀想すぎた。

 その日から風眼坊は本草(ホンゾウ)学を学び始めた。うまい具合にいい師にも巡り会い、徹底して仕込まれた。目に関する病の事は専門家と言える程、腕を上げた。その腕でもって風眼坊は今まで旅を続けてきている。

 あの時、風眼を病んでいた娘は、あやうく失明しそうな所を風眼坊の治療によって快復した。娘はたいそう喜び、風眼坊はその村で神様扱いされた。その後、何度もその村を訪ね、その時の娘、お光との間には光一郎という息子までできていた。

 今では目だけでなく内科はもとより、切傷、刺し傷、やけどなどの外傷の治療もする。風眼坊舜香は加持祈祷や先達として民衆を山に案内するだけのただの山伏ではなく、剣術使いでもあり医者でもあった。

 太郎は見上げる程の枝を相手に格闘していた。

 風眼坊のように飛び上がる事はとてもできなかった。木剣を枝に当てる事はできるが、かろうじて当たるだけで打つというまではいかない。枝が折れるはずはなかった。





 太郎は下段に構え、中段に構えた風眼坊と対峙していた。

 風眼坊が近づいて来て、中段の木剣が瞬間的に上段に上がった。

 太郎は木剣を素早く下段から斬り上げた。

 木剣と木剣が当たり、鈍い音が響いた。

 太郎が下段から斬り上げた木剣を風眼坊は右手を木剣の中程に移動して受け止めた。

「よし、いいだろう」と風眼坊は頷いた。

 この技を習ってから、すでに一月が過ぎていた。あの後、何度か風眼坊と立ち合ったが、いつも、太郎の下段からの剣より風眼坊が上段から打ち下ろす剣の方が一瞬、早かった。今、ようやく、風眼坊よりも早く斬り上げる事ができた。

「じゃあ、次のを教えるか」

 風眼坊は中段に構えた。「お前も中段から来い」

 太郎も中段に構えた。

 中段に構えたまま進み、わずかに体を右に開き、風眼坊の左腕めがけて木剣を振り下ろした。

 風眼坊はわずかに腕を縮め、太郎の剣を避けると、その剣に乗せるように剣を打ち下ろし、太郎の左腕、紙一重の所で剣を止めた。

「わかるか」と風眼坊は言った。

「はい」

「これは、太刀先の見切りじゃ」

「太刀先の見切り?」

「ああ、敵の太刀筋をよく見極め、ぎりぎりの所でかわし、そして、打つ。太刀先の見切りができれば、最小限の動きで太刀をかわす事ができる」

 風眼坊は辺りを見回し、小枝を拾うと小刀で先を尖らせた。次に、大きな枯葉を拾い、先を尖らせた小枝で立木に留めた。

 何をする気なのか、と太郎は風眼坊を見ていた。

 風眼坊は小屋の中から太刀を持って出て来た。

「いいか、よく見ておけ」

 風眼坊は太刀を抜くと、立木に向かって振りかぶり、斬り下ろした。

 小枝で留めてあった枯葉が真っ二つに斬れ、片側がヒラヒラと地に落ちた。

「これが、できるまでやれ」

 そう言うと風眼坊は太刀を鞘に納め、小屋の中に入って行った。

 太郎は立木に寄って、半分に斬られたまま小枝で留められている枯葉をよく見た。

 枯葉の上から下まで綺麗に斬られている。しかも、立木の方には、まったく傷跡も残っていなかった。

 太郎は早速、やってみる事にした。枯葉を見つけると小枝で留め、刀を抜いて構えた。

「エイ!」と斬り下ろす。

 刀は空を斬った。二度めも空を斬った。三度めは枯葉は半分程、二つに斬れた。しかし、立木の方も一寸程深く斬ってしまっていた。

 太郎は枯葉を拾っては真っ二つに斬る稽古をした。思っていたより難しかった。

 何度か、立木の方にはあまり傷を付けずに枯葉を斬る事はできた。しかし、真っ二つにはならない。太刀先が当たる、ほんの一寸ばかりが斬れるだけだった。真っ二つにするには枯葉の長さに合わせて、太刀先を真っすぐに斬り下ろさなくてはならない。ただ、刀を上から下に振り下ろす円運動だけでは駄目だった。

 その日は日が暮れるまで、やってみたができなかった。

 次の日から太郎の枯葉拾いが始まった。籠を背負い、その中に枯葉を山に積んで来る。そして、その枯葉を一枚づつ、二つに斬るのが日課となった。

 風眼坊は一体、何を考え、何をやっているのか太郎にはわからなかった。

 薬作りをしている時は山と小屋を行ったり来たりしていたが、今はそれも終わったとみえて、ほとんど小屋にはいない。フラッと小屋を出て行くと二、三日戻って来なくなった。小屋にいる時は時々、太郎の相手をしてくれるが、新しい技はまだ教えてくれない。

 太郎は毎日、枯葉を相手に闘っていた。





 年が明けて、応仁三年となった。

 京ではまだ、戦が続いている。長期戦に入り、戦況の変化はあまり見られないが、不思議な事に頭が入れ代わってしまっていた。

 去年の九月、足利義視は伊勢から京に戻って来た。しかし、将軍義政を取り巻く側近たちとうまくいかず、身の危険を感じ、またもや十一月に比叡山に逃げ出した。そこを西軍の山名宗全に迎えられ西軍に寝返った。

 幕府は東軍の陣内にあったとしても、幕府内にいる日野富子、日野勝光、伊勢貞親など、皆、義視の敵だった。将軍義政でさえ我が子、義尚を可愛いがり、義視を煙たく思うようになっていた。義視の後見人の細川勝元にとっても将軍と天皇を擁している今、義視の存在はそれ程、重要ではなかった。もともと、日野家の勢力を押えるため、富子が男の子を産む前に義視を将軍職に就けようと義視の後見人となっていたわけで、今となっては、それは不可能になって来た。いつまでも義視の後見人をしているより、義尚をもり立て、日野家と手を結んだ方が宗全と対抗するのに得策と言えた。

 東軍に戻ってみても、義視のいるべき場所はなかったのである。

 西軍に寝返った義視は西軍においては将軍とかつぎあげられたが、権大納言正二位の官位は剥奪され、官軍に敵対する賊徒と成ってしまった。

 邪魔者のいなくなった日野富子は、まだ、わずか五歳の我が子、義尚を正式に将軍の後継者に決定させた。

 東軍の細川勝元は天皇と将軍を擁し、頭に足利義尚を掲げ、西軍の山名宗全は足利義視を掲げ、頭は入れ代わったが戦況は変わらず、お互い睨み合っていた。


 太郎は世間とは関係なく、山の中で、ひたすら剣術の修行をしていた。

 太刀先の見切りは、かなり上達していた。まだ、大きな枯葉を真っ二つにするのは無理だが、小さな枯葉ならば立木を傷つけずに二つに斬る事ができた。それを風眼坊に見せるとただ頷き、今度は一本の立木だけでなく、五本の立木に枯葉を留めた。高さもバラバラである。

「あらゆる体勢から、それができなくては駄目だ。移動しながら一瞬のうちに、すべてを斬れ」

 風眼坊が見本を見せてくれた。

 あっという間だった。あっという間に五つの枯葉が二つに分かれた。

 まるで、神業のようだった。風眼坊が一体、どれ位、強いのか想像もつかなかった。凄い師に出会ったものだと太郎は改めて思った。

「いいか、一々構えている暇はないぞ」と風眼坊は太郎に刀を返した。

 一枚目、二枚目までは太郎にもやれたが、三枚目、四枚目、五枚目は駄目だった。まったく斬れていないか、斬りすぎて立木まで傷ついている。

 五本の立木の中央に立ち、中段に構え、まず、目の前の枯葉を上から斬り、下段に下ろした刀はそのままで、次の立木の所に駈け寄り、枯葉を下から斜めに上に斬り上げる。三枚目の枯葉は斜めに斬り下げ、四枚目の枯葉を横に斬り、最後の枯葉を斜めに斬り下げる。これを一瞬のうちにやり、しかも、枯葉だけを斬る。

 それが、完全にできるようになるまで一月以上もかかった。

 その後は枯葉の位置を極端に変えた。飛び上がらなければならない程、高い位置に枯葉を留め、次々に飛び上がり五枚の枯葉を斬る。これは、なかなかできなかった。四枚目、五枚目になると、飛び上がるだけが精一杯で、太刀先の見切りなどできるものではない。

「まだ、できんのか」風眼坊が久し振りに帰って来て、太郎に声を掛けた。

「もう少しです」

「そうか‥‥‥木剣を持て」

 二人は木剣を持って向かい合った。

「行くぞ」

 風眼坊は木剣を太郎の右腕めがけて振り下ろした。

 太郎は腕をほんの少し移動させ、それを避けた。

 風眼坊は下ろした剣をそのまま、斬り上げた。

 太郎はまた腕を少し移動して避けた。

 次に、風眼坊は剣を太郎の横腹を狙って横に払った。

 太郎は体を少し後ろにずらし、その剣を避けた。風眼坊の木剣が太郎の着物をかすった。

 今度は、風眼坊の剣は太郎の頭めがけて落ちて来た。

 太郎はそれを横にかわし、風眼坊の剣の上に自分の剣を重ねるように打ち下ろし、風眼坊の右腕を打った。

しかし、そこには風眼坊の右腕はなかった。

 太郎は空振りした剣をそのまま上に斬り上げた。

 またもや空振り、太郎は中段に構え直した。

 風眼坊も中段に構えた。

「大分、上達したようだな」と言うと風眼坊は不思議な構えをした。

 左足を大きく前に出し、木剣を頭の右側に刃を上に向け、切っ先を太郎の方に向け、両手を交差させるように構え、左の肩ごしに太郎を見ていた。

「かかって来い」

 太郎は中段に構えたまま、風眼坊の構えを見ていた。風眼坊の剣先が太郎の顔を刺すかのように向けられている。

 太郎は素早く剣を上げると、風眼坊の左肘を狙って剣を打ち下ろした。

 風眼坊はわずかに身を右に開き、体を沈めて太郎の剣をかわした。かわすと同時に、剣を回転させるようにして太郎の右腕を狙って打ち下ろした。

「構えに惑わされるな。剣の通る道は常に一本だけだ。もう一度、来い」

 また、風眼坊は同じ構えをした。

 太郎は今度は八相に構えた。さっきと同じく、風眼坊の左肘を狙って打った。

 今度は、風眼坊は左に抜けて、太郎の剣をかわした。

 太郎は斬り下ろした剣を下から斬り上げようとした。

 しかし、風眼坊の剣の方が早かった。

 風眼坊は一度めの時は、太郎の左側に抜け、二度めは右側に抜けていた。

 右側から風眼坊の木剣が太郎の両腕を押えていた。

「今日は、これまで」と風眼坊は笑った。

「はあ?」太郎はポカンと風眼坊の顔を見ていた。

 日が暮れるまで、まだ、時はある。風眼坊がこんな事を言うのは初めてだった。

「今晩は酒でも飲もう。たまには息抜きするのもいいさ」





 月が出ていた。

 丁度、真っ二つに斬られたかのような月だった。

 小屋の中で風眼坊と太郎は火を囲み、酒を飲んでいた。

「早いもんだな」と風眼坊は酒盃を見つめながら言った。「わしがここに来てから、もう三月にもなる」

「もう、どこかに行かれるんですか」と太郎は心配そうに聞いた。

「いや、もう少しいよう。今の所は行くべき所もない」

 太郎はまだ、風眼坊と別れたくなかった。この三ケ月で太郎は見違える程、強くなった。体付きも一回り大きくなったようだ。しかし、まだまだだ。風眼坊と比べたら子供同然だった。もっと、風眼坊から色々と教わり、もっと強くなりたかった。

「昨日、お前の親父に会ったぞ」と風眼坊は言った。

「‥‥‥」最近、太郎は父親に会っていなかった。

 京から戻って来てからというもの、父の船にも乗っていない。田曽浦の父の城にも行っていなかった。

 やはり、怒っているのだろうか‥‥‥

「いい男じゃな」と風眼坊は言った。「こんな田舎に置いておくには勿体ない男じゃ」

「父上はわたしの事、何か言ってましたか」太郎は風眼坊の酒盃に酒を注ぎながら聞いた。

「ああ、お前の事を頼むと言われた」

「それでは、わたしの事を怒ってはいないんですね」

「さあ、それはどうかな‥‥‥これからの世は食うか、食われるかの世になるだろう。食われないためには世の中の流れをしっかりと見極めなくてはならん。お前にしっかりと、そこの所を教えてやってくれと頼まれた‥‥‥わしが教える事など何もないがな」

「父上がそう言ったのですか」

「ああ」

「食うか、食われるかの世になる‥‥‥それは本当ですか」

「多分な、そうなるだろう」

 太郎は京の都の事を思い出していた。

 食うか、食われるかの世‥‥‥

 弱い者は逃げ惑い、強い者は好き勝手な事をしていた。

 放火、略奪、殺人、暴行‥‥‥

 悲鳴、叫び、絶叫、不気味な笑い‥‥‥

 地獄絵そのものの世界‥‥‥

 ここも、あんな風になってしまうのだろうか‥‥‥

 あんな事が当たり前の世の中になってしまうのだろうか‥‥‥

 いや、そんな風にさせてはならない。俺がもっと強くなって世の中を良くしなければならない、と太郎は少し酒に酔ったのか、心の中で決心した。

 風眼坊は薪を火の中にくべた。

 太郎は風眼坊の酒盃に酒を注いだ。

「お前も飲めよ‥‥‥酒を飲むのも修行じゃ」

「はい」太郎は酒盃の酒を飲みほした。

 風眼坊が注いでくれた。

「師匠、世の中はどんどん悪い方に向かっているんですか」

「さあな、それはどうかな。良いか悪いかっていうのは、そう簡単に決められるもんじゃないからのう」」

「京ではまだ、戦をやってるんですか」

「まだ、やってるな‥‥‥この戦が終われば何かが変わるだろう。お前、京に行ったとか言ったな。あの京を見て、どう思った」

「ひどすぎます。人間が虫ケラのように殺されていました‥‥‥特に、足軽たちのやり方は汚くて、ひどすぎます」

「足軽か‥‥‥確かに、奴らのやり方は汚い。だが、奴らだって初めから、あんな足軽だったわけじゃない。奴らのほとんどは食えなくなって地方から出て来た百姓や、一揆や戦で焼け出されて住む所も失った連中たちだ。それに、奴らはただ、武士にあやつられているだけだ。奴らが百人死のうが千人死のうが、武士たちにとって痛くも痒くもないからな。奴らを当然のように前線に送り込んでいる。今、京で戦をやってるのは足軽だけじゃろう。東軍に雇われた足軽と西軍に雇われた足軽が前線で戦っている。武士どもは後ろの方で高みの見物じゃ。こんな事やってても足軽の死体が増えるだけで、戦の決着など着くはずがない。しかしな、足軽の奴らだって生きるために必死になってるんじゃ。死にたくないと思うのは誰だって一緒だ。百姓だろうと足軽だろうと武士だろうと、たとえ、虫ケラだってな‥‥‥いいか、物事というのは一つの視点だけで見てはいかんぞ。あらゆる視点から見なくてはいかん。今の世の中を見るのも武士の目から見た今の世と、百姓から見た今の世と、足軽どもから見た今の世は全然、違う。しかし、どれが正しくて、どれが正しくないという事もない。みんなが正しい。わかるか。物の本質というのをはっきりと見極めなくてはならん。難しい事じゃがな‥‥‥お前は水軍の大将になるんだろう。大将は特に、それが必要じゃ」

「師匠、師匠は初めから山伏だったのですか」

「わしか‥‥‥わしも昔は武士じゃった。田舎の武士じゃがな。お前位の時に、わしも京に出たんじゃ、友と二人でな‥‥‥もう二十年も前の話じゃ。初めて見た京の都は賑やかで華やかじゃった。まるで夢の都じゃったな。田舎出のわしらにとって、見る物、聞く物、何でもが珍しかった‥‥‥あの時は面白かったのう。二人して色々な事をしたわ‥‥‥あれから、もう二十年か‥‥‥時の流れというのは早いもんじゃな‥‥‥」

「どうして武士をやめたんですか」

「どうしてかのう‥‥‥成り行きじゃな‥‥‥しばらくは京で面白おかしく暮らしていたが、そんなのはそう長く続くわけがない。二人とも無一文になってのう。わしと一緒に行った奴は京に親戚があっての、遠い親戚らしいが、とりあえず、そこに居候する事になったんじゃ。わしはもっと世間が見たくての、銭もないのに関東めざして旅に出た。毎日、悲惨じゃったのう。腹をすかして、とぼとぼと歩いておったわ。しかし、ついに倒れちまった。その時、助けてくれたのが山伏だったんじゃよ。わしの師匠じゃ。師匠には色々と世話になったし色々な事を教わった‥‥‥今はもう死んじまったがな。あの時、師匠に会わなかったら、今のわしはないじゃろう。あのまま、行き倒れて死んでしまったか、あるいは今頃、京で足軽でもやっておるかもしれん‥‥‥」

 風眼坊は酒を飲みほした。

 太郎は酒を注いでやりながら、師匠も若い頃は色々な事をやって来たんだな、と思った。

「京に一緒に行った人は、今、どうしてるんですか」

「奴か、奴は未だに侍をやっとるよ。この前、京で会った時は将軍の跡継ぎの申次衆などやっておったが、今頃は何をしてるか‥‥‥」

「将軍様の跡継ぎの‥‥‥じゃあ、偉くなったんですね」

「偉いんだか、どうだか‥‥‥まあ、偉いのかもしれんのう。奴が何を考えてるのか、わしにもわからん‥‥‥だが、いい奴よ」

 そう言えば曇天もいい奴だった、と太郎は思い出していた。

 まだ、無事に生きてるだろうか‥‥‥

 あいつの事だ。きっと、うまく、やってるだろう。

 何となく、曇天とはまた、どこかで会えるような気がしていた。

「何、しんみりした面をしてるんだ。今日はとことん飲め」

 風眼坊は陽気だった。

 太郎には目の前の山伏、風眼坊舜香が何を考えて生きているのか全然、わからなかった。何かをしようとしている事は感じられる。一体、何をしようとしているのか。

 また、太郎自身、これから何をやったらいいのかわからなかった。

 父の後を継いで水軍の大将になるのもいいだろう。しかし、他にも何か別な生き方があるような気がする。とにかく、今の太郎はもっと強くなり、そして、もっと世の中というものを自分の目ではっきりと見たかった。

 夜も更け、酔うにつれて風眼坊は色々な所を旅した時、見聞きした事を話してくれた。

 太郎は自分の知らない土地の事など、ただ感心しながら聞いていた。
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