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陰流の開祖であり、忍びの術の開祖でもある愛洲移香斎の物語です。
18.智羅天






 空がどんよりと曇っている。

 今にも雨が降りそうだった。

太郎は阿星山と金勝山との間にある岩場の上に座り込み、智羅天が出て来るのを待っていた。心を沈め、目を閉じ、耳を澄ませた。

 どこかに隠れているはずだ、と太郎は思っていた。

 ほんの一瞬だったが、左の方から誰かが自分を見ているような感じがした。目を開け、左を見ても、岩が連なっているばかりで智羅天の姿はなかった。

 太郎はまた目を閉じて、心を澄ませた。

 今度は後ろから気配が感じられた。太郎は体を動かさないようにして、岩のかけらを右手で拾うと、素早く振り返って、気配の感じた所に向かって投げ付けた。

 岩の陰から智羅天が顔を出し、「待っておったぞ」と言った。

「待っていた?」

「そうじゃ」と智羅天は岩の上に座った。

「なぜ、俺が、ここに来る事がわかる」

「わかる。お前の考えている事など、わしには、すべてわかる」

「嘘だ。わかるわけない」

「本当じゃ。人間、百年以上、生きてみると色んな事がわかって来るものじゃ」

「百年以上?」

「ああ。わしは今年、百十六になった。いや、十七かのう。あまり長く生きてるんで、自分の歳もはっきりわからんが、百歳を過ぎてる事は確かじゃ‥‥‥今、おぬし、また、わしが嘘をついてると思ったじゃろう‥‥‥だが、本当の事じゃ」

「人間、百歳以上も生きられるものなんですか」

「生きられる‥‥‥自然に逆らわずに生きていれば、百でも二百でも生きられる‥‥‥しかし、百歳までも生きているもんじゃない。もう、人間として生きられなくなってしまう。人が何を思っているかがわかってしまうというのは、とても、耐えられるものではないぞ。表面では優しい仏様のような顔をしていても、心の中では鬼のような事を平気で考えている奴ばかりじゃ。とてもじゃないが、そんな奴らの中で暮らせるもんではないわ。山の中に隠れて生きて行くしかないんじゃよ‥‥‥人間と話をしたのも何年振りかのう‥‥‥お前は、わしが一体、何者なのかを見極めるために、わしに会いに来たんじゃろう。一体、人の正体というものは何なんじゃろうかのう‥‥‥わしも昔は戦に何度も出て活躍した事もあった。しかし、それがどうだというんじゃ。昔、あれをした、これをしたと自慢してみても、人間は過去に生きる事はできん。結局、人間というのは、今という瞬間にしか存在する事ができんのじゃ。わしの正体は、今、おぬしの目の前にいる、これがすべてじゃ。ただの白髪爺いじゃよ」

 太郎は智羅天という老人を観察しながら話を聞いていた。

「ただのう、わしの命もあと半年しかないんでのう。死ぬ前に、わしの技を誰かに残したいんじゃよ。どうじゃ、おぬし、わしの技を受け継がぬか」

「技?」

「気合の術とでも言ったらいいかのう。おぬしの剣術にも、きっと役に立つものじゃ」

「どうして、俺に」

「おぬしの心が綺麗だからじゃ。武術というものはまず、第一に心じゃ。心が正しくない者に武術を教えても、ただの凶器になるだけじゃ。どうじゃ、この年寄りの最後の頼みを聞いてくれんかの」

 太郎は智羅天をじっと見つめてから、「お願いします、教えて下さい」と頼んだ。「でも、あと半年の命というのは本当なんですか」

「本当じゃよ‥‥‥百十七まで生きたとしても、やはり、死ぬというのは辛い事じゃ。また、その死ぬ日まで、はっきりとわかってしまうというのは、なお辛い‥‥‥そうと決まれば、さっそく始めよう。わしの知っている事は、お前にすべて、たたき込んでやる」

 太郎は智羅天の後をついて行った。

岩をいくつも乗り越えて行くと、目の前に大きな岩壁が現れた。深い谷底を見下ろしながら、その岩壁に張り付くようにして進むと、急に視界が開け、ちょっとした平地になっていた。そして、平地の先に、また岩壁がそそり立ち、その岩壁の下の方には洞穴があるのか、穴があいていた。

「どうじゃ、いい所じゃろう」と智羅天は言った。「日当たりもいいし、木の実や山菜も豊富じゃ。わしがこの場所を見つけたのは、もう五十年以上も前じゃが、未だに、誰もここの事は知らん。わしが死んだらおぬしにやろう。好きに使え」

 ここがわしのうちじゃ、と言って智羅天は洞穴の中に入って行った。

 太郎も後に従った。

 洞穴に入って、細い廊下のような所をしばらく行くと、明かりが見え、岩壁に彫られた仏像が浮き出るように見えた。その仏像の反対側の明かりの下の岩壁から、水が滲み出ていた。滲み出た水は岩でできた水桶に溜まり、溢れた水が少しづつ外へと流れている。洞穴はかなり奥まで続いているようだが、先は真っ暗で何も見えなかった。

「どんな日照りの時でも、この水は涸れた事がない。冷たくて、うまい水じゃぞ。こういう水を飲んでいれば、わしのように長生きする」と智羅天は言って、笑った。

 智羅天は明かりを手に持つと洞穴の中を案内した。洞穴の中は迷路のようになっていた。曲がりくねった細い廊下を抜けると急に広い所に出た。

 天井も高く掘られていて、正面の岩壁には如意輪(ニョイリン)観音座像が彫られてあった。

「多分、この岩屋は、これを彫った者たちが住んでおったのじゃろう」と智羅天は観音像の彫られた岩壁を照らした。「なかなか、住みよいぞ」

 その広い所を抜けると、また、細い通路に出て、もうひとつ広い部屋があった。先程の部屋よりは広くない。それでも畳を敷いたら五十枚は敷けそうな広さがあった。

 こちらの部屋の岩壁には仏様は彫ってなかったが、岩棚の上に、二尺程の木彫りの聖観音像と不動明王像が置いてあった。

「これは、わしが彫ったんじゃよ」と智羅天は言った。

「えっ? 彫り物もやるんですか」

「長い事、生きて来たからのう‥‥‥色々な事をやって来たわい」

 その部屋を抜けると、また、曲がりくねった廊下が出口へと続いていた。

 出口は入り口よりもちょっと高い位置にあり、綱を伝わって下へ降りるようになっていた。

「どうじゃな、わしのうちは」と智羅天が太郎を振り返って聞いた。

「素晴らしい洞穴です」と太郎は感激していた。「こんな所に、こんな洞穴があったなんて、全然、知りませんでした」

「そうじゃろうのう。普通の奴らは岩を乗り越え、こんな所まで来られるはずはないからな。だが、お前は、やがて、ここを見つけ、来るはずになっておった。まだ、まだ、先の事じゃがな」

「えっ?」

「お前がここに来るのは、後十年位、経ってからじゃ。わしがすでに死んでからじゃ。それじゃあ、つまらんので、ちょっと早めたわけじゃ」

「そんな先に起こる事を変えたりできるんですか」

「できる。それは巡り合わせというものじゃ。もし、お前とわしが会わなかったとしたら、お前はわしの事など全然知らずに、十年位経って、ここに来たじゃろう。しかし、お前はわしに会ってしまった。今までに、あの山道を何百人もの人間が歩いた。だが、わしの存在に気づいたのは、お前が初めてじゃ。そこで、わしはお前の前に姿を現したというわけじゃ」

「もし、俺が、あなたの気配に気づかなかったとしたら、あなたは姿を現さなかったのですか」

「ああ、二度とお前の前に現れなかったじゃろう」

 太郎は不思議そうに智羅天の姿を見ていた。

「さあ、始めるか‥‥‥まず、自分の目で確かめんとわからんとみえるからのう」

 智羅天は綱を伝わって下に降りると、平地の中程まで歩いて行って、「いいぞ、どこからでも、かかって来い」と両手を広げた。

「智羅天殿、木剣はありませんか」と太郎は聞いた。

「そんな物はない。真剣で構わんぞ」

 真剣で来いと言われても、太郎に、それはできなかった。

 太郎は辺りを見回し、手頃な木の枝を見つけると刀で斬り落とした。邪魔になる小枝を斬り落とし、刀を腰からはずして木に立て掛けると、その棒切れを中段に構えた。

 智羅天の方は手に何も持たず、構えるわけでもなく、ただ、立っているだけだった。

「丸腰の相手はやりにくいと思っておるな‥‥‥そちらが来んのなら、こちらから行くぞ」

 智羅天はただ、普通に歩くように太郎に近づいて来た。それは隙だらけだった。

 太郎は軽く打ってやろうかと思い、棒切れを振りかぶろうとした。ところが手が動かなかった。

 金縛りにでもあったかのように、体の自由がまったく利かなかった。どうしたのだろうと思っているうちに、智羅天は太郎の目の前まで来て、太郎の手首を取った。

 手首が痺れ、あっという間に、太郎の体は宙に浮き、投げ飛ばされていた。起き上がろうとしたが、まだ、両手は痺れていた。

 一体、何が起こったのか、太郎にはまったくわからなかった。

 智羅天を見ると、さっきと同じく、ただ、立っているだけだった。

「どうじゃな」と智羅天は太郎を見下ろして笑った。

「わからん」と太郎は地面に座り込み、両手首をさすりながら言った。

「これが、気合の術というものじゃ‥‥‥もう一度、やってみるか」

 太郎は痺れた手首をさすりながら棒切れをつかむと、今度は上段に構えた。そして、太郎の方から仕掛けて行った。ただ、立っているだけの智羅天の頭めがけて、棒を打ち下ろした。

 一瞬、棒が智羅天の頭上、五寸あたりで止まったように思えた。

 確かに、太郎は智羅天の頭上すれすれで止めるつもりでいたが、何か別の力によって止められたように感じられた。

 そして、また、太郎は腕を痺らせ、投げ飛ばされていた。





 太郎はしばらく、山の中に籠もって修行をするという許しを得て、飯道山の修徳坊を引き払い、智羅天の岩屋に移って来た。

 移って来て、まず、初めにやらされたのは呼吸法であった。真っ暗な岩屋の中に座らされ、心を静め、ゆっくりと口から息を吐いて、鼻から吸うのを繰り返す。

 気合の術において、一番、重要なものは『気』であった。

 血液が体内を流れているのと同じように『気』もまた、体内を流れている。その体内の『気』を充実させるためには、正しい呼吸法が必要である。体内の『気』が充実し、精神を統一すれば、視覚は八倍になり、聴覚は十四倍、感の鋭さも数十倍になると智羅天は言った。

 智羅天と立ち合った時、一瞬、太郎の体が動かなくなったのは『すくみの術』をかけられたからであった。『すくみの術』とは、相手の『気』の流れを止めてしまう技である。この技は、そう簡単にできるものではないが、『気』の修行を積めば、できるようになると言う。

 太郎はゆっくりと呼吸をしていた。暗闇の中でも、目が慣れてくると、ぼんやりとだが回りが見えてくるような気がした。

 『気』が集まり、『気』が通えば、力は自然と、それに従う。力だけに頼り、『気』を無視すれば、体を壊す事になる。まず、力を抜き、体を楽にして、『気』を練ろ、と智羅天は言った。

 天地を形成している、すべての物が『気』によって生じた物である。宇宙にまだ、何もなかった無の状態の時に、一点の『気』が生じ、軽い物は『天』となり、さらに、その『天の気』が集まってまとまり、『太陽』となった。また、『気』の重い物は凝り固まって『地』となり、さらに、『地の気』の中より、おのずから『水』が生じて来た。

 『天の気』を『陽気』といい、『地の気』を『陰気』という。

 すべての物は『陰』と『陽』によって成り立っている。表が陽で裏が陰、天が陽で地が陰、太陽が陽で月が陰、昼が陽で夜が陰、男が陽で女が陰、生が陽で死が陰、等‥‥‥

 『地の気』から生まれた『水』は、やがて『木』を生み、『木』は『火』を生み、『火』は『土』を生む、『土』は『金』を生み、『金』は『水』を生む。

 また、『水』は『火』を殺し、『火』は『金』を殺し、『金』は『木』を殺し、『木』は『土』を殺し、『土』は『水』を殺す。

 この『木』『火』『土』『金』『水』を五気と言い、この五気の相生、相剋と、『陰』『陽』二気の相剋、交替により、万物自然は変化しながら生きている‥‥‥と智羅天は太郎に自然の仕組みを教えた。よくわからないが、成程、そういうものかと感心しながら、智羅天の難しい話を聞いていた。

 太郎はしばらくの間、真っ暗な岩屋の中から出る事を許されなかった。ただ、座って、呼吸だけしろと智羅天は言った。

 真っ暗闇である────昼も夜もわからない。

 食事の時間になると、智羅天は明かりを点け、太郎に食事を作らせた。食事が終われば、また、明かりを消し、座れと言う。

 いくらなんでも、一日中、座ってばかりもいられない。どうせ、真っ暗闇でわからないのだから、そっと、外に出ようと試みるのだが、いつも、岩屋を出ようとすると智羅天に投げ飛ばされた。

 太郎には智羅天がどこにいるのかまったくわからなかった。人の気配などまったく感じられないのに、逃げようとすると目の前に必ず、智羅天はいた。太郎には智羅天の姿は見えないが、智羅天には良く見えるらしかった。

 二日位までは、太郎も隙を見て外に出ようと試みたが、やがて、諦め、それよりも、智羅天のように闇の中でも目が見えるようになろうと思い、座り込んだまま息を整え、心を落ち着けて目を闇に凝らしていた。

 昼も夜もわからず、闇の中だけで暮らすのは苦痛であり、気が狂いそうだった。

 まず、鼻が敏感になった。

 岩屋の中の饐えたようなカビ臭さが鼻について離れなかった。気にすればする程、臭くて、たまらなかった。

 やがて、その臭いにも慣れ、気にならなくなると、次に、耳が敏感になって来た。どんな小さな音でも太郎の耳に響いた。

 ある時、外で強い風が吹いているのか、岩屋の中まで、その風が入って来た。

 風は岩にぶつかって無気味な音を鳴らした。無気味な音はあちこちから聞こえて来た。その気味の悪い音が、太郎の頭の中をぐるぐると回り始めた。

 太郎は気が狂いそうだった。

 耳をふさいでみても、頭の中を駈け巡る無気味な音は消えなかった。

 太郎は気が狂ったかのように叫びながら岩屋を飛び出そうとして、また、投げ飛ばされた。投げ飛ばされても、太郎は逃げようとした。何度も、何度も投げ飛ばされ、太郎は気を失った。どれだけ気を失っていたのかわからないが、気が付いた時、頭の中の音は消えていた。

 太郎はまた、真っ暗闇の中に座り込んだ。どんなに耳が敏感になっても、智羅天の気配だけは、まったくわからなかった。

 一体、どこで、何をしているのだろうか。

 この岩屋にはいないのだろうか。

 そう思っていると、「逃げるなよ」と声を掛けてくる。

 声のした方を向いてみるが、そこに智羅天がいるような気配はない。

 もしかしたら、俺は魔物にでも化かされているのではないかと思う事もあった。

 ある時、変な音が聞こえて来た。

 智羅天の寝起きしている如意輪観音像の彫ってある部屋からだった。初めのうちは、智羅天が何かやっているのだろうと気にはしなかったが、やがて、その音は耳につき、頭が混乱してきた。

 太郎は立ち上がり、見に行く事にした。智羅天に投げ飛ばされる覚悟をしながら、手探りで壁を伝わり、狭い通路を通って智羅天の部屋に入った。

 音は続いていたが、真っ暗で何も見えなかった。

「智羅天殿」と太郎は闇に声を掛けた。

「どうじゃ、なかなか、いいじゃろう」と智羅天の声がした。

 なかなか、いいじゃろうと言われても、何も見えない太郎にとって、何がいいのだか、まったくわからなかった。

「何をしてるんですか」と太郎は聞いた。

「まだ、見えんのか」と智羅天は言った。「目で見ようとするから見えんのじゃ。心の目で見よ、心眼を開け」

 智羅天は明かりを点けた。

 光の中で、太郎の目に入った物は木彫りの地蔵様だった。

 智羅天は座り込んで、地蔵様を彫っていたのだった。

 しかも、真っ暗闇の中で‥‥‥

 太郎は驚きで声も出なかった。

「どうじゃ」と智羅天は地蔵様を右手で持ち、太郎に見せた。「あと、少しで完成じゃ」

「智羅天殿、もしかしたら、俺がいる部屋にある観音様と不動明王様も、こうやって、暗闇の中で彫った物なんですか」

「そうじゃよ」と当然のように言うと智羅天は明かりを吹き消した。

 また、闇の中から木を彫る音が聞こえて来た。

 太郎は壁を伝わって、元の場所に戻ると座り込んだ。

 あんな、神業みたいな事が本当にできるのだろうか‥‥‥

 不思議だった‥‥‥

 普通だったら、とても信じられない。しかし、現実に智羅天はそれを平気な顔でやっていた。

 とんでもない人と出会ったものだ‥‥‥

 太郎は改めて、智羅天の凄さを感じ、彼が生きているうちに、彼から、すべてのものを学び取ろうと心に決めた。





 六日目の朝、太郎は外に出る事を許された。

 外は、まだ暗かった。

五日間、岩屋の中にいたと智羅天に言われたが、太郎にとっては十日以上も暗闇の中に閉じ込められたような気がした。

 五日の間、呼吸だけに専念していたお陰で、太郎にも『気』というものが、おぼろげながら、体でわかりかけて来ていた。まず、岩屋の中の気の流れが感じられるようになった。そして、自分の体内の気の流れも、何となく、感じられるようになっていた。

 外に出て、太郎がまず感じた事は、空気がうまいという事だった。今まで、空気など、意識して吸った事などなかったが、太郎は何度も深く呼吸をした。

「どうじゃな、『気』というものは有り難いもんじゃろ」と智羅天は言った。

 太郎と智羅天は東の方を向かって岩の上に腰を降ろしていた。

 すでに、鳥たちは起きていて、あちこちで鳴いていた。

 風が出て来て、樹木が揺れた。

 太郎は自分が自然という大きなものに包まれている事を体で感じていた。

 やがて、空が明るくなって来た。

 それは偉大なる光であった。

 暗闇の中に閉じ込められていた太郎にとって、その光は悦びであった。心の底から言い知れぬ感動が涌き起こってきた。

 太郎はじっとしていられなかった。

 太郎は立ち上がり、光に向かって駈け出すと、体を伸ばして体全体に光を浴びた。

 鳥が嬉しそうに飛び回っていた。

 風が楽しそうに鳴いていた。

 樹木や草花も喜んでいた。

 石や岩、山々までも光を浴びて嬉しそうだった。

 皆、一日の始まりを喜んでいるようだった。

 太陽が顔を出した。

 太郎には、太陽までも笑っているように感じられた。

 太郎自身も自然と口がほころび、笑いたくなっていた。太郎は耐え切れず、声を出して笑い始めた。

 智羅天も一緒になって笑っていた。

「どうじゃ、嬉しいじゃろうが‥‥‥なぜ、嬉しいか、わかるか」と笑いながら智羅天は聞いた。

 太郎も笑いながら頷いた。

「ただ、ここにいる。自分がここにいて、生きている。それだけじゃ。それだけでも、本来なら嬉しい事なんじゃよ。それに気づかなくてはならん。生きていると言う事は、この大きな自然の中に生かされているという事じゃ。日が昇るのは今日だけの事ではない。毎日、繰り返される事じゃ。これを当たり前の事だと受け取ってはいかん。いつでも、今のような気持ちで生きて行かなければならんのじゃぞ」

 太郎は感謝の念を込めて、太陽に向かって合掌していた。そして、改めて、光の中の風景を眺めた。それは、鮮やかな色と色とが、うまく調和して、美しい風景だった。すべてのものが、光を浴びて、生き生きとしていた。

 阿弥陀如来様の西方浄土‥‥‥

 ふと、太郎の頭の中に浮かんで来た。それは死後の世界にあるのではなくて、今、現在の、この世界の事ではないのだろうか。

 しかし、誰もその事には気がつかないで、おのれの欲のために争い事を繰り返し、この浄土を穢土(エド)にしてしまっているのではないだろうか‥‥‥

 光の中で、朝食を済ませると、「わしは、ちょっと、奈良まで行って来る」と智羅天は言った。

「奈良へ?」と太郎は聞いた。

「ああ、あのお地蔵さんを置いて来る」

「あのお地蔵さんを売って来るんですか」

「馬鹿もん! 仏様を売るなどと言うと罰が当たるぞ。わしはただ、頼まれたから、お地蔵さんを彫り、それを置いて来るだけじゃ。まあ、向こうは礼金をくれるじゃろうがの。それは、お地蔵さんからの御利益(ゴリヤク)として、わしに与えて下さるものじゃ。遠慮のう貰って来るがの‥‥‥お前は、わしが帰って来るまでに、あの岩を登れるようにしておけ」

 智羅天は岩屋のある岩壁を見上げながら言った。

「あれを?」と太郎も見上げた。

 高さ二十丈(約六十メートル)はありそうに見える。しかも、垂直にそびえる岩壁だった。

「あれを登るなんて、そんなの無理です」と太郎は言った。

「無理か、無理でないか、やってみなければわかるまい。わしが登れるんじゃから、登れん事はない」智羅天はそう言うと岩屋の中に入って行った。

 太郎は岩壁を見上げた。

 よく見ると足場はあるように思えた。しかし、途中で足を踏みはずせば下に落ち、死ぬかもしれないという恐怖心はあった。太郎は岩壁を下から眺め、どこをどう登った方がいいのか道を選んでいた。

「それじゃ、わしは行くからの」と智羅天はお地蔵様を背中に背負い、錫杖を突きながら出て来た。

「難しく考える事はない。足を踏みはずしたら下に落ちるだけの事じゃ」

「落ちたら、痛いですよ」と太郎は言った。

「そりゃ、痛いじゃろうのう。痛いと思うなら落ちなけりゃいい」

「‥‥‥そうですね。それで、いつ、戻って来るんです」

「そうじゃのう。久し振りに下界に降りるから、のんびりして来るかの。若い女子でも抱いての」

「若い女子?」

「適度に女子を抱くのも長生きの秘訣じゃ」智羅天は笑うと山を下りて行った。

 大きな岩をぴょんぴょん飛び越えながら樹木の中に消えて行った。

「元気なもんだ」と太郎は智羅天の下りて行った方を見ながら言った。

「あの年で若い女子だと‥‥‥何が、わしの命はあと半年だ‥‥‥あと半年で死ぬ者が、あんなに元気なわけないだろう」と太郎は独り、呟いた。

 若い女子か‥‥‥

 百十七歳になる智羅天にとって、若い女子とは一体、いくつ位の女なのだろうか。

 やはり、人並みに十六、七の娘だろうか。

 それとも、二十歳前後の年増か。

 いや、智羅天にとっては五十や六十の婆さんでも若い女子に見えるのかもしれない。

 そんな事はどうでも良かった。智羅天が誰を抱こうと俺には関係ない。それより、俺も楓に会いたい‥‥‥と思った。

 太郎は岩壁を見上げた。

 よし、早いとこ、あれを登ってしまい、楓に会いに行こうと決めた。

 太郎はさっそく、岩に取り付いた。

 中程までは楽に登る事はできたが、そこからが大変だった。

 かなり高い。下に戻る事もできず、飛び降りる事もできない。力を消耗するので、じっとしている事もできなかった。上に辿り着くまで休む事もできない。

 上を見上げても、あと、どの位なのかわからない。下を見れば目が回った。上に向かって登るよりほか、なかった。

 左足の足場が崩れて下に落ちて行った。

 太郎は息を吐くと、大きく吸い込んだ。そして、上を睨み、また、よじ登った。

 俺はなぜ、こんな馬鹿な事をしてるんだろう‥‥‥と太郎は思った。

 しかし、馬鹿だろうが、何だろうが、やめるわけには行かなかった。やめる時は死ぬ時だった。まだ、死ぬわけには行かない‥‥‥

 太郎は岩にしがみつきながら、よじ登った。

 途中に、ちょっとした岩棚があった。

 両手を休ませる事ができた。両手は休ませられたが、体を動かす事はできなかった。岩に貼り付いたまま、身動きができなかった。

 しばらく休むと、また、太郎は岩にしがみついた。ただ、上だけを睨み、手探りで岩をつかみ、一歩一歩、よじ登って行った。

 あともう少し、あともう少しと思いながら、太郎は休まず登った。

 やっとの思いで、無事に頂上まで辿り着き、しばらく、頂上で寝そべっていた。

 頂上は思っていたより狭かった。

 太郎は仰向けに寝そべって空を見上げた。空は青く澄んでいた。

 そよ風が涼しくて、いい気持ちだった。

 さて、下りて楓の所に行くか、と太郎は立ち上がった。立ち上がると眼下に景色が広がって見えた。

 この辺りは、本当に岩ばかりがそそり立っていた。金勝山、太神山も良く見えた。後ろを見れば、阿星山、そして、飯道山も見えた。それらの山々は、今まで見慣れているはずなのに、久し振りに見たような懐かしさをおぼえた。

 下りようと思ったが、前も後ろも切り立った崖だった。

 一体、どうやって下りたらいいんだ。

 登って来た所を下りて行くのは登る以上に難しい。後ろの崖は、上から見たのでは一体、どうなっているのかわからないので下りるわけには行かなかった。

 左の方に行ってみた。左もやはり、切り立っていた。途中までは下りようと思えば下りられそうだが、それから先はどうなっているのか、まったくわからない。

 右の方に行ってみた。両側が切り立った崖の上が細い道のように続いていた。その道も、だんだんと細くなり、途中で切れていた。しかし、二間程(四メートル弱)先に細い道がつながっているように見える。下を見れば深い谷で、落ちれば必ず死ぬだろうが、二間程なら楽に飛び越せる。

 太郎は迷わず飛び越えた。道らしきものはあったが、やはり、それも行き止まりだった。行き止まりだったが、飛び出た岩に縄が結び付けられ、縄は下の方まで伸びていた。

 その縄を利用して簡単に下に下りる事ができた。下りた所は岩屋の入り口から大して離れていない所だった。

 あのくそ爺いめ、わざわざ、こんな所を登らせやがって‥‥‥と太郎は、自分がやっとの思いで登った岩壁を見上げた。よく、こんな凄い所を登ったもんだと自分自身に呆れた。

 そして、智羅天が下りて行った道を通って、太郎は楓に会いに山を下りて行った。





 太郎は一晩、楓の所で過ごし、次の日の昼頃、岩屋に戻って来た。智羅天はまだ、帰って来ていなかった。

 太郎は岩に掛けてある縄を利用して、また、岩の上まで登り、しばらく、景色を眺めながらボーッとしていた。

 夕べ、楓から、望月彦四郎が戦死したと知らされた。太郎が初めて飯道山に登った日、師の風眼坊と模範試合をした、あの望月彦四郎が戦死したと言う。

 彦四郎は三年間、飯道山で修行を積み、去年の十二月の最後の稽古が終わると、一年間の修行者たちと一緒に山を下りて行った。

 京で始まった戦は決着の着かないまま、あちこちに飛火して、あちこちで戦が行なわれていた。ここ、近江でも同族である六角氏と京極氏が東軍、西軍に分かれて争っている。その争いに甲賀の郷士たちも巻き込まれて、すでに、何十人かが戦死していた。しかし、あの望月彦四郎が戦死したというのは以外だった。あれ程の腕を持っていても、あっけなく戦死してしまうものなのか‥‥‥

 彦四郎はまだ二十六歳だったと言う。

 山にいて、下界の戦の事など、すっかり忘れていた太郎だったが、身近にいた者の死によって、改めて、戦の恐ろしさを感じていた。

 もしかしたら、故郷、五ケ所浦でも戦が始まっているのだろうか。

 みんな、無事でいるだろうか。

 急に心配になってきて、故郷に帰りたくなってきた‥‥‥

 しかし、まだ、帰れない。まだ、まだ、この山でやるべき事が、たっぷり残っていた。

 太郎は南の方に向かって、遠く故郷にいる家族たちの無事を一心に祈った。

 知らないうちに、もう、日が沈もうとしていた。

 智羅天はまだ、帰って来なかった。

 太郎は下に下りて、夕食の支度を始めた。一人で夕食を食べ、そして、岩屋の中で眠った。

 朝、起きてみると、智羅天はいつの間にか戻っていた。

「のんびり、休んだか」と智羅天は暗闇の中で太郎に声を掛けた。

 声を掛けられるまで、太郎には智羅天が側にいた事など、まったく気がつかなかった。

「惚れた女子とも会って来たらしいのう」と智羅天は言った。

「どうして、わかるんです」と太郎は姿は見えないが声のする方に声を掛けた。

「顔に書いてある」

 太郎は顔をこすった。

 智羅天の笑い声がした。

「書いてあると言っても表面に書いてあるわけじゃない。人の心が読めるようにならなくては一人前の兵法者(ヒョウホウモノ)とは言えんぞ」

 人の心どころか、太郎には智羅天の姿さえわからなかった。

「どうやったら、人の心がわかるんです」

「それは修行しかない。さてと、今日からびっしりと、わしのすべてをお前に叩き込むぞ」

「はい、お願いします」

「お前は本草(ホンゾウ)学が学びたくて、山に戻って来たんじゃったな」

「どうして、そんな事までわかるんです」

「修行じゃ。まず、それを教えてやろう」

「知ってるんですか」

「知っておる。薬草の事から人間の体の事まで知っておる」

「人間の体?」

「人間の体が、どういう仕組みになっておるかわかるか」

 太郎は首を振った。

「人間の体はこの大自然の仕組みと同じじゃよ。そのうち、教えてやる。それより、もうすぐ、梅雨が来る。その前に草むしりでもしておくか」

 智羅天と太郎は、その日から毎日、山の中を走り回り、薬草を採っていた。薬草だけでなく、食用になる草や実も採った。それらは驚く程、種類があった。今までは、どんな物でも、太郎にとってはただの草でしかなかったのに、その中に薬草になる草、食べられる草、毒を持っている草など色々とあった。それらの草の名と特徴を覚え、どんな役に立つかを覚えるだけでも大変な事だった。

 やがて、梅雨に入って長雨が続いた。

 智羅天と太郎は岩屋に籠もり、毎日、薬を作っていた。

 腹痛や頭痛、傷口の消毒、化膿止めの薬は勿論の事、食糧がない時や水がない時でも、何日か持ちこたえるための薬もあった。眠り薬、体が痺れて自由が利かなくなる薬、一粒飲んだだけで簡単に死んでしまう毒薬などもあった。

 それから、智羅天が作ったという人間の内部の図も見せてもらった。

「よく見ろ。人間の体の中はこうなっておる。これは骨の仕組みじゃ。こっちは臓腑(ハラワタ)じゃな」と二枚の図を太郎の前に並べた。

「智羅天殿が、これを調べたのですか」

「そうじゃ」

「人の体を切り裂いて?」

「まあ、無縁仏の体をちょっと借りてな」

「死体を?」

「まさか、生きている人間を切り裂くわけにも行くまい‥‥‥心配するな。そいつらは、みんな、わしが冥土に送ってやったわ」

 太郎は顔をしかめながら、人体の図を見ていた。

「何です。この腹の所の蛇みたいなのは」

「これが、はらわたじゃ。腹の中には、この蛇みたいな長いのが詰まっておるんじゃよ。どうして、こんな物が腹の中にあるのか、わしにもよくわからんがの。中を裂いてみたら、糞が詰まっておったから、多分、食った物がそこを通って糞になるんじゃろう。何だか、わけのわからん物が人間の体の中には色々詰まっておったわい。特に、頭の中には豆腐のような白くて柔らかいもんが、たっぷり入っておった」

「これですか」と太郎は図の中の頭の所に描いてある丸い物を指さした。

「そうじゃ‥‥‥これは心の臓じゃ」と智羅天は胸の所の丸い物を指さした。

「まあ、一応、人間の体の中はこうなっているという事だけ覚えておればいいじゃろう」

「次はこれじゃ」と智羅天はもう一枚の紙を太郎に見せた。

「こっちは良く覚えておけ」

 その図には人の体のあらゆる所に点が打ってあり、それぞれに難しい名前が付いていた。

「何です、この点は」

「ツボじゃよ」

「ツボ?」

「人の体にはツボという不思議な物がある。そのツボは病にも効くし、また、攻撃する時の急所にもなる。ほれ、この手首の所のツボ、これはお前と立ち合った時、わしが使ったツボじゃ。手が痺れたじゃろう。中には死に至らしめるツボや、一月や一年経ってから死ぬようなツボもある。急所の攻め方は後で体術と一緒に教えてやる」

 雨が降り続いている間、太郎は智羅天から本草学やツボによる医術をみっちりと叩き込まれた。





 長かった梅雨も上がり、暑い夏がやって来た。

 太郎は、毎日、智羅天に投げ飛ばされていた。木剣を持つ事は許されなかった。お互いに素手のままやり合っていた。

 太郎はツボの痛さを体で教えられた。気絶させられた事も何度もあった。

 ここをつかみ、こうやって、こうやれば敵は倒れると智羅天は教えてくれるが、太郎が、それを試みようと思っても、智羅天はその技をやらせてはくれない。敵がその技で来た時は、この技で破れと太郎をまた違う技で投げ付ける。太郎は投げ飛ばされ、体中が痛く、息も乱れるが、智羅天の方は息も乱さず、汗もかかず、ただ、自然に立っているだけだった。

「いいか、気合の術に力はいらんぞ。敵の力をうまく利用して、逆を取ったり、投げたりするんじゃ。もっと、力を抜け」

 力を抜けと言われても、投げ飛ばされてばかりいては、腹も立ち、頭に血がのぼり、カッカとしてきて、智羅天に飛び付く。すると、また、投げ飛ばされた。

「怒ってはいかん。怒ると気が乱れる。気だけではなく判断力も鈍る。もっと、気を練らなきゃいかんな」

 太郎はまた、五日間、暗闇の中で座らされた。

 どうやったら、智羅天に勝つ事ができるか‥‥‥

 こうやろう、ああやろうと考えても駄目だ。智羅天はそういう俺の心を読んで、裏をかいてくる。何も考えなければ智羅天にも俺の心はわかるまい。しかし、何も考えずにいて、智羅天に勝つ事ができるか‥‥‥

 何も考えなければ、ただ、立っているだけだ。少しでも、何かをやろうと心の中で思えば、それは感づかれてしまう。

 太郎は息を吐いたり、吸ったりしながら、無になろうとしていた。

 こちらも相手の心が読めればいいのだが、智羅天が何を考えているのか、太郎にはまったくわからなかった。

 六日目に外に出ると、今度は、太郎は何も考えずに、ただ、立っているだけでいた。

「ほう、少しは気が据わって来たと見えるのう」と智羅天は言った。

「だが、立っているだけでは敵は倒せんぞ」と智羅天の方から攻めて来た。

 太郎は攻めて来る智羅天の力を利用して、投げ飛ばしてやろうと待ち構えたが、結局は同じで、投げ飛ばされるのは太郎の方だった。

 散々、智羅天に投げ飛ばされては、太郎は自主的に岩屋に籠もって座り込んだ。

 初めの頃は、ただ座って、呼吸をするのは苦痛だったが、今はもう慣れ、心も落ち着くし、体内が綺麗に洗われるような気がして、さわやかな気分になれた。これが座禅というものなのかと太郎は思った。

 五ケ所浦にいた時、よく祖父、白峰がやっていた。あの頃の太郎は座禅など、まったく興味がなく、ただ、座っているだけで何がわかるんだと、半ば、馬鹿にしていたものだったが、こうやって、自分でやってみると禅宗というものが武士たちの間で流行るのもわかるような気がした。常に死と隣り合わせに生きて行かなければならない武士にとって、心を落ち着け、気を練る事は重要な事であった。

 智羅天は暗闇の中で、今度は弥勒菩薩像を彫っていた。

 太郎は智羅天に投げ飛ばされては、岩屋に座り込み、岩屋に座り込んでは、智羅天に投げ飛ばされる毎日が続いた。

 そして、夜になると陰陽五行説による、戦の陣法や気象学、方位学、人相、手相、骨相学などを学んで行った。





 時はあっと言う間に過ぎ、十一月になっていた。

 太郎は相変わらず、智羅天に投げ飛ばされていたが、智羅天が使う技は、ほとんど体で覚える事ができた。指先でツボを押す攻め方、手首を取られた時のはずし方、肩や胸を取られた時のはずし方、後ろから抱えられた時のはずし方などを体で覚えて行った。

「わしの知っている事は、皆、お前に授けた」と智羅天は言った。「後は、お前がわしに勝つ事だけじゃ。どうじゃ、できるかな。わしの命もあと少しとなった」

「あと少しだなんて、とても信じられません」

 智羅天は太郎が初めて会った時から、まったく変わっていなかった。自分では百十七歳だと言い、確かに古い事を色々と知っているが、太郎にはどうしても信じられない。顔色も良く、身も軽く、太郎を簡単に投げ飛ばしている。とても、死期がせまっている人間には見えなかった。

「人間には、それぞれ、天が決めた寿命というものがある。それは、どんな事をしても避けられないんじゃよ。また、寿命がある者はどんな危険な目に会っても死ぬ事は絶対にないものじゃ」と智羅天は笑った。

 太郎は投げ飛ばされてばかりいたので、投げられる事もうまくなった。投げられる事に逆らわず、素直に投げられた。高く投げ飛ばされた時は空中で体を回転させて、うまく着地する事ができるようになり、低い時には体を丸めて地上を回転して立ち上がった。

 太郎と智羅天は木枯らしの吹く中、向かい合って立っていた。

 どちらも動こうとはしなかった。お互いに相手を見てはいるが睨み合っているわけではなく、二人とも遠くの山でも眺めているような目付きで、お互いを見ていた。

 太郎の方から普通の歩き方で近づいて行った。太郎は右手を伸ばすと智羅天の左肩をつかんだ。

 智羅天は右足を半歩踏み出すと、太郎の右手首を右手で下からつかみ、ねじった。

 太郎は左手で水月(スイゲツ、みぞおち)に当て身を入れようとしたが、智羅天の左手で受け止められ、そのまま、体をひねるように投げ飛ばされた。

 次も、太郎は智羅天の肩を取りに行った。そして、また、投げ飛ばされた。しかし、投げ飛ばされる時、太郎はとっさに智羅天の首の後ろの急所に手刀を入れた。それは、自分でも気が付かないうちに、左手が自然に伸びて、智羅天の首を打っていた。太郎は宙で回転して着地した。

 智羅天は太郎に背を向けて立ったまま、「でかしたのう‥‥‥」と言った。

「はい」と太郎は嬉しそうに返事をして智羅天の前に行き、「もう一度、お願いします」と頼んだ。

 その時、智羅天の体がグラッと傾き、そのまま、倒れて行った。

「師匠!」太郎は驚いて、倒れた智羅天の側に駈け寄った。

「いよいよ、わしの命も終わりの時が来た‥‥‥」と智羅天は太郎を見つめて、かすれた声で言った。

「師匠‥‥‥今の俺の当て身のせいなんですか」

 智羅天は苦しそうな顔をしながら頷いた。「だがのう、この事は、もう、ずっと前から、わかっておった事なんじゃ」

「俺にやられるというのが、ですか」

「そうじゃ‥‥‥わしが死ぬ場面はもう、ずっと前から、わしには見えていた。そして、去年の事じゃ。お前を初めて見た時、こいつじゃなとわかったんじゃ。だから、わしはお前にわしのすべてを教え込んだんじゃ」

「自分を殺すために、俺に技を教えたと言うんですか」

「それは違うぞ。死というものが、たまたま、わしにわかっていただけの事じゃ。もし、そんな事がわかっていなくても、わしはお前にわしの術を教えたじゃろう‥‥‥いいか、人間というのは結果のために生きているわけではない。結果はどうであろうと、今を生きて行かなければならんのじゃ。結果がどうであろうと、やらなければならん事はあるもんじゃ‥‥‥わしは死ぬ前に、わしの術を受け継いでくれる者が欲しかった。わしの願いはかなったんじゃ‥‥‥お前に授けた、わしの術をお前がどう使おうと、それはお前の勝手じゃ。だが、言っておくが、お前は自分で思っている以上に強くなっている。やたらに、当て身や砕きを使ってはいかんぞ。人の生命というものは、いや、人だけではない。生命あるもの、すべての生命を粗末にしてはいかん。たとえ、虫けらでも親や子はいるものだ。虫けらでも死ねばそいつの親や子は悲しむ。この事をよく覚えておけ。これが、わしの最後の教えじゃ‥‥‥それと、わしが彫っていた弥勒菩薩像はお前にやる。それを大和、吉野の喜蔵院に持って行けば、いくらかの礼金をくれるじゃろう。その金で、お前の惚れてる女子と一緒に暮らせ」智羅天はそう言うと笑った。

「師匠‥‥‥」

「それとな、わしの太刀、あれもお前にやる。大事にしてくれ‥‥‥」

 智羅天は笑ったままの姿で息を引き取った。



 智羅天が亡くなってから、太郎は独り、岩屋に籠もっていた。

 暗闇の中に座っていると、智羅天がどこかにいるような錯覚に襲われた。今でも、智羅天が暗闇の中で、仏像を彫っているような気がした。


 太郎は智羅天が残していった弥勒菩薩像を明かりの中で丹念に眺めた。その木彫りの像には智羅天の魂が籠もっていた。慈悲あふれるその微笑は、智羅天の最期の微笑に似ていた。

 この岩屋の中には、他にも智羅天の彫った聖観音像、不動明王像、阿弥陀如来像、毘沙門天像、弁財天像があった。聖観音像と不動明王像は太郎が座っていた部屋の中にあり、他の像は、それぞれ、迷路のようになっている通路の行き止まりの所に祀ってあった。どれも、皆、見事な仏像だった。大胆さの中に細心さがあり、鋭さの中に温かさがあった。

 太郎は智羅天の像を彫ってみようと思った。材料の木はいくらでもあった。智羅天が使っていた小刀やノミもある。

 太郎は木を刻み始めた。昼も夜も休まず、食事も取らず、木を彫る事に熱中した。木剣は何本も作ったが、木像を作るのは初めてだった。しかし、右手に持った小刀は不思議と滑らかに木を削って行った。

 智羅天の像は三日目に完成した。それは、智羅天が岩の上に座り込んで笑っている姿だった。太郎が初めて智羅天に会った時の姿だった。

 太郎は智羅天の像を不動明王像と観音像の間に置き、合掌をして頭を下げると山を下りて行った。
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