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陰流の開祖であり、忍びの術の開祖でもある愛洲移香斎の物語です。
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3.阿修羅坊






 年が明けて、文明四年(一四七二年)、正月も十日が過ぎ、京の町もようやく、落ち着きを取り戻していた。

 いくら荒れ果て、惨めな焼け跡と化しているとはいえ、京は都に違いなかった。

 戦乱を避けながらも、京にしがみついている者たちは多く、以前のような派手さはないが、それなりに新年を祝っていた。晴着をまとった者たちが焼け残った寺社に集まり、戦の終わる事を祈り、新年の挨拶を交わし、子供たちは正月の遊びに夢中だった。

 遠い地から京に集まって来ている兵たちも、敵と睨み合いながらも故郷の事を思って新年を祝っていた。

 まだ、木の香りも新しい北小路町の浦上美作守(ミマサカノカミ)則宗の屋敷の離れの書院で、美作守は独り、刀の手入れをしていた。

 風もなく、日差しは弱いが暖かく、静かな昼下りだった。三日前に降った雪が、まだ、庭にかなり残っていた。

 浦上美作守則宗‥‥‥赤松家の重臣である。

 嘉吉の変で滅ぼされた赤松氏は長禄二年(一四五八年)、当時まだ四歳だった赤松次郎政則に家督が許され再興された。美作守は当時より政則の側近にあり、幼い主君を補佐して赤松家のために尽くして来た。

 赤松家は応仁の乱において、旧領の播磨、備前、美作の三国を取り戻し、四職家(シシキケ)としても復活し、応仁二年(一四六八年)に政則は侍所頭人、美作守は所司代に任命された。

 侍所とは室町幕府の政治機関の一つで、京都の警備や刑事事件の裁判などをつかさどり、都においての権力は絶大だった。長官の事を所司、又は頭人と言い、所司代とは副長官の事である。長官に任命されているのは赤松政則だったが、実際、侍所の長官としての権力を握っていたのは浦上美作守だった。浦上美作守は赤松家の重臣であるばかりでなく、今や、東軍においても重要な地位にいた。
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4.風間光一郎



 正月も十日が過ぎたというのに、門前町はやけに賑やかだった。

 祭りさながらに参道脇に露店が並び、人々が行き交っている。

 着飾った村の娘たちが道端に固まって、キャーキャー騒いでいたり、まだ昼間だというのに、遊女屋の前では遊女たちが客を呼んでいる。

 行き交う客はほとんどが、十七、八の若い男たちだった。彼らはぞろぞろと飯道山の赤鳥居をくぐって参道を登って行く。また、山から下りて来た者たちは店を見て回り、中には遊女屋に入って行く者もいる。

 参道脇に出ている露店は武具を扱っている店が多かった。太刀や打刀(ウチガタナ)、小刀、匕首(アイクチ)、槍、弓矢、薙刀、長巻(ナガマキ)など、あらゆる武器が並んでいるが、それらの数は少なく、木剣や六尺棒、稽古用の槍や薙刀がずらりと並んでいる。そして、それら稽古用の物が良く売れているようだった。

 文明五年(一四七三年)正月の十四日、春のような暖かい日だった。例年のごとく、明日から始まる飯道山の武術修行の受付が今日だった。

 年々、集まって来る修行者の数は増えていった。世の中はどんどん物騒になって行く。強い者が生き、弱い者は滅ぼされるという時代になりつつあった。

 比較的平和だった、この甲賀の地にも戦乱の波は押し寄せて来ていた。

 近江国内で京極氏と六角氏が争い、一進一退で決着は着かず、六角氏は敗れると度々、甲賀の地に逃げ込んで来ていた。六角氏が逃げ込んで来れば、当然、敵の京極勢が攻め寄せて来る。田畑は荒らされ、民家は焼かれたり破壊された。飯道山の山伏たちも六角勢に加わり、戦に出て京極勢と戦い、活躍する者もあれば討ち死にする者も何人もいた。

 また、甲賀内での争い事も増えて来ていた。狭い領地の奪い合いで、親子、兄弟が争ったり、隣人の領地をふいに奪い取ったり、隙や弱みを見せれば、たちまちのうちにやられてしまう。

 他人は勿論のこと、身内さえも信じる事のできない殺伐な時代になって来ていた。生き残るために、誰もが強くなりたいと思い、この山にやって来た。

 以前は、ここに集まって来る若者たちは、ほとんどの者が地元甲賀の郷士の伜たちだった。しかし、去年あたりから、遠くの地から旅をして来る若者たちが増えて来ている。隣の伊賀の国の者はもとより、大和(奈良県)、美濃(岐阜県)、尾張(愛知県西部)の国からもはるばると修行に来ていた。
5.夕顔






 木枯らしが鳴いていた。

 太郎は一人、酒を飲んでいた。

 十一月も半ば、日に日に寒さが厳しくなって行った。

 太郎がいるのは『とんぼ』という小さな居酒屋だった。狭い店内は客で一杯で騒がしかった。太郎は一人、何かを思い詰めているかのように黙々と酒を飲んでいた。

 もと山伏だったという無口で無愛想な親爺が一人でやっている店だった。自然、山伏の客が多かった。今も、太郎の知らない数人の山伏たちが愚痴や人の悪口を飛ばしながら、騒がしく飲んでいる。

 太郎がこの店に来る時はいつも一人だった。店の隅に座って一人で黙って酒を飲んでいた。初めて、この店に来たのはもう、ずっと前の事だった。

 初めて、この山に連れて来られた時、師匠の風眼坊と栄意坊、そして、高林坊と飲んだのが、この店だった。一晩中、飲んでいて、朝になって高林坊と一緒に参道を駈け登ったのを覚えている。その後も、太郎が五ケ所浦から戻って来た時、高林坊と金比羅坊と飲んだのも、ここだった。それ以来、来た事はなかったが、今年の夏、何気なく、ちょっと一杯飲むつもりで寄ったのが始まりだった。それからは毎日のように、この店に顔を出すようになって行った。まっすぐに家に帰らないで、一杯飲んでから帰るという習慣が付いてしまっていた。

 まっすぐ、家に帰っても楓はいなかった。当然、息子の百太郎もいない。戦が長引いているお陰で、この甲賀の地にも戦の影響が広がっていた。花養院では戦で両親を亡くした孤児たちを引き取って世話をしていた。

 孝恵尼と妙恵尼という尼さんが担当して孤児たちの世話をしていたが、孤児の数が多くなり過ぎて、二人だけではどうしようもなくなって来た。そこで、今まで寺の寺務と村娘たちに薙刀を教えていた楓に手伝ってもらう事になった。初めの頃はほんの手伝いだったので、帰りが遅くなるという事もなかったが、孤児の数が増えるにしたがって楓の帰りは遅くなって行った。

 楓にしてみれば、一児の母親として、また、自分も孤児だったので、孤児たちを放っては置けなかったのだろう。今では二十人近くいる孤児たちに夕飯を食べさせ、後片付けをしてから帰るので、どうしても帰りが遅くなってしまう。

 初めは太郎も真っすぐに帰って、楓の帰りを待っていたが、そのうち、誰もいない家に帰っても面白くなく、ちょっと一杯、飲んでから帰るようになって行った。それだけなら、まだ良かった。この店でちょっと一杯飲んで、真っすぐ家に帰れば、楓と百太郎が待っていた。初めの頃はそうだった。しかし、だんだんと太郎の方も家に帰るのが遅くなって行った。一杯が二杯になり、三杯になり、やがて、店を変えて飲むようになる。お決まりの過程を太郎もたどって行った。
6.駿河



 満開の桜の花越しに、雪を被った富士山が春の日差しを浴びて輝いていた。

 駿河(静岡県)の春は暖かかった。

 駿府(スンプ、駿河の府中)から一山越えた、山西の小高い丘の上に小さな庵(イオリ)が立っている。その庵の屋根の上に人影があった。

 早雲である。

 早雲こと伊勢新九郎は雨漏りの修理をしていた。

 早いもので、早雲が駿河の地に住み着いて、すでに、二年の月日が流れようとしていた。

 二年前、突然、駿府を訪れた早雲は、今川治部大輔(ジブノタイフ)義忠とその奥方になっている妹の美和に歓迎された。

 足利幕府とも縁が切れ、一介の僧侶となっている早雲だったが、京の都から来た一人の文化人として予想以上の歓迎を受けた。特に、妹の美和の喜びようは格別だった。兄妹といっても、今まで、兄妹のような付き合いはまったくなかったと言ってもいい二人なのに、やはり、血がつながっているのか、また、異郷において再会したせいか、美和は兄の突然の来訪を心から喜んでくれた。

 武士としてではなく、俗世間と縁を切った僧侶として来たため、今川家中の者たちも心を許して、気持ち良く、早雲と付き合ってくれた。

 ここに落ち着くつもりはなかったが、つい、居心地が良かったため居着いてしまった。また、妹が早雲を駿河の地から帰そうとはしなかった。別に行くあてもないのなら、ずっとここにいてくれと言い、義忠も身内の者が側にいてくれた方が美和も何かと心強いだろうから、ぜひ、そうしてくれと勧めてくれた。
7.火乱坊



 霧が立ち込め、しとしとと雨が降っている。

 恨めしそうに、空を睨んでいる山伏がいた。

 空を睨んでいるといっても、霧が深くて空など見えない。ただ、上の方を睨んでいるだけだった。

 太郎の師匠、風眼坊舜香だった。

 風眼坊は今、大和の国大峯山、山上(サンジョウ)ケ岳の山頂の蔵王堂にいた。

 二年近くも熊野の山の中の小さな村で、家族と一緒にのんびりと暮らしていた風眼坊は、去年の正月、息子の光一郎を飯道山の太郎坊のもとに送り、三月には、十六になる娘、お風を嫁に出した。父親としての義務を果たして一安心し、六月にフラフラと、久し振りに熊野の本宮にやって来た。そこで、昔、世話になった大先達の山伏に会ってしまい、せっかく戻って来たのだから仕事をしていってくれと頼まれた。別に用があるわけでもなかったので、風眼坊は引き受けた。夏から秋にかけて、熊野から険しい山中を抜け、ここ、山上ケ岳を通って吉野までの間を修行者を引き連れて、行ったり来たりしていた。

 冬の間は熊野に下りていたが、春になったら、どこかに行こうと思っていた。しかし、今の所、行くべき所が見つからなかった。大先達の山伏に頼まれるままに、また、大峯山に登って来ていた。

 大峯山は修験道の根本道場であった。
8.大峯山



 四月の末、山藤の花の咲く頃、無事に百日行を終えた風間光一郎と宮田八郎と探真坊見山の三人は、太郎坊移香の弟子となった。

 百日間、終わってしまえば大した事ないと自慢げに言えるが、三人にとって、長い長い百日間だった。

 山歩きには慣れている風間光一郎にとっても、それは、長く辛い百日間だった。

 同じ道を毎日、毎日、ただ、歩いている。何で、こんな事をしなくてはならないんだ。こんな事はやめて、早く山を下り、どこかに旅に出ようと何度、思った事だろう。

 行きたい所はいくらでもあった。今は戦をやっているが、京の都も行ってみたい。京の都はここからはすぐだ。京に行く途中にある琵琶湖も見てみたい。山の上から見た事はあるが実際に側まで行って見たかった。海のように広いというが、ずっと、山の中ばかりにいた光一郎はまだ、海というものを知らない。海の水は塩辛いと聞いているが、実際になめてみたいし、広い海で泳いでもみたかった。

 見てみたいものや、やりたい事が一杯あった。

 特に、陽気もよくなり、桜の花が咲き始めた頃、こんなくだらない事なんかやめて、駿河の国の富士山を見に行こうと本気で山を下りようと思った事があった。もし、一人で百日行をしていたら、歩き通す事ができなかったかもしれない。宮田八郎が一緒だったので歩き通す事ができたと言えた。八郎のお陰と言っても、八郎が光一郎を助けたわけではない。助けたのは光一郎の方だった。

 八郎にとって百日間というのは、もう、毎日、毎日が死に物狂いだった。しかし、光一郎のように、途中でやめて山を下りようと思った事は一度もない。何としてでも、たとえ、死んだとしても、歩き通さなくてはならないと思っていた。どうしても、太郎坊の弟子にならなければならない。弟子になれないなら死んだ方がましだと考えていた。

 足が棒のようになり動かなくなっても、足の裏が血で真っ赤になっても八郎は杖を突きながら、足を引きずり歩き通した。雨に打たれ、熱を出してフラフラしていても、毎日、歩き通した。

 飯道山に戻って来るのは、いつも、八郎が一番最後だった。同じ時間に出発しても、帰って来る時間は八郎がいつも二人より一時(二時間)近くも遅れていた。暗くなってから、ようやく戻って来て、死ぬように倒れ込んだ。光一郎と探真坊の二人は、もう、明日は無理だろうと顔を見合わせるが、次の日になると、八郎は生き返り、無理に作り笑いを浮かべて歩き出して行った。

 光一郎は初めの頃、八郎に向かって、いつも、「お前には無理だ。さっさと山を下りた方がいい」と言っていた。しかし、光一郎が山を下りようかと思う時、八郎の真剣になって歩いている姿を見ると、途中でやめるわけにはいかないと自分に言い聞かせ、また、歩き始めるのだった。
9.楓






 色あせた紫陽花が雨に打たれていた。

 もう梅雨も上がったはずなのに、今年は、いつまでも、ぐずついた天気が続いていた。

 今日も一日、蒸し暑くなりそうだった。

 太郎が大峯山で師匠、風眼坊舜香を捜している頃、飯道山に一人の山伏が登っていた。播磨の国、瑠璃寺の山伏、阿修羅坊だった。二年振りに、また、甲賀にやって来たのだった。

 二年前、十二月になったら、また来て、太郎坊という男に会おうと思い、一旦は帰った阿修羅坊だったが、年末に来る事はできなかった。

 京にいて、西軍の大将、山名宗全の様子を探っていた。

 秋頃より、宗全が病にかかって伏せているとの噂が広まっていた。西軍側では、そんな事はないと否定していたが、真相を探るため、阿修羅坊は西軍の本陣に潜入していた。

 宗全が重病だという事を探り出すと、そのまま播磨へと向かい、山名軍との戦に明け暮れていた。去年三月には、とうとう宗全が亡くなり、敵の動揺に付け込んで、備前の国、美作(ミマサカ)の国から山名軍を一掃する事に成功した。ようやく一段落した今年の夏、阿修羅坊は再び、京に戻って来た。そして、また、赤松政則の姉を捜すために甲賀にやって来たのだった。

 太郎坊は、どうせ、いないだろうし、花養院の松恵尼は何も喋らないだろう。ここに来ても、どうせまた、無駄足になるだろうと半ば諦めていた阿修羅坊だったが、楓が戻って来ている事を知ると自分の運の良さが信じられない程だった。

 阿修羅坊の頭の中では、楓こそが絶対に赤松政則の姉に違いないと決めてかかっていた。その楓に、こうも簡単に会えるとは夢のようだった。

 高林坊の話だと、夫の太郎坊は今、大峯山に行っていて留守で、楓は花養院で朝早くから夜遅くまで孤児たちの世話をしていると言う。

 さっそく、阿修羅坊は花養院に行き、隠れて楓を捜した。

 すぐにわかった。

 その顔を見た途端、間違いなく、赤松政則の姉だとピンと来た。政則に似ていた。そして、母親のように別嬪(ベッピン)だった。すぐに会いたかったが、花養院で会うのは松恵尼がいるのでまずかった。

 楓のうちに訪ねて行った方がいいだろうと思い、阿修羅坊は花養院に張り込み、楓が帰る後を付いて行って楓のうちを突き止めた。このまま訪ねようかと思ったが、夫の留守に、夜、訪ねて行って警戒されたら、話もうまく行かないだろうと、次の朝、出直して来ようと決めた。
10.日輪坊と月輪坊






 晴れ晴れとした顔をして、太郎が大峯山から帰って来たのは、予定の一ケ月を半月も過ぎた七月の十六日だった。

 山に籠もっていたので知らなかったが、下界はお盆だった。

 帰って来る途中、あちこちで、庶民たちが『念仏踊り』を踊っていた。『風流(フリュウ)踊り』とも呼ばれ、鉦(カネ)や鼓(ツヅミ)で囃し立てながら、百姓や町人たちが村々を巡って熱狂的に踊り狂っていた。

 疫病などの悪霊払いとして始まった『風流踊り』は、やがて、庶民から武家や公家にまで広まり、盛大に行なわれるようになって『盆踊り』として定着して行く。この風流踊りは、京に戦が始まった頃より、なりをひそめていたが、また、去年あたりから盛り返して、盛んに行なわれるようになって来ていた。

 昼頃、甲賀に入った太郎は、まず、飯道山に行って、高林坊に謝らなければならないと思ったが、それよりも、楓と百太郎の顔が一目見たくて花養院に顔を出した。

 孤児院では、相変わらず、子供たちが元気に遊び回っていた。

 太郎は百太郎を捜したが見当たらなかった。楓の姿も見えなかった。

 子供たちの朝飯の後片付けでもしているのか、それとも、寺の寺務でもしているのかな、と思ったが、何となく、花養院の雰囲気が、いつもと違うような感じがした。みんなが自分を見る目が何となく変だった。

 太郎は自分の姿に気づいた。薄汚い山伏の格好のままだった。ここでは仏師の三好日向だったという事をつい忘れてしまった。

 太郎は孝恵尼に、大峯山に登って来たので、こんな格好をしていると訳を話してから、「楓はどこにいますか」と聞いてみた。

 孝恵尼は口ごもっていた。太郎がしつこく聞いたら、やっと、京に行ったと答えた。

 どうして、と太郎が聞いても話してくれなかった。松恵尼に聞いてくれと言う。

 何か、松恵尼に頼まれて、京まで行ったのかと思い、詳しく聞こうと、太郎は庫裏(クリ)の方に向かった。
11.浦上屋敷






 夜になっても、浦上屋敷の警戒は厳重だった。

 屋敷の表門には篝火(カガリビ)を昼間の様に焚き、武装した武士たちが寝ずの番をしていた。裏門の方にも二人の見張りが目を光らせている。忍び込むには屋敷を囲んでいる高い塀を乗り越えるしかなかった。塀の高さは一丈(約三メートル)余り、登れない事はない。塀の廻りに空濠が掘ってあるが、戦が長引いたせいか、ゴミ捨て場のようになっていて、ほとんど埋まっていた。もともと、大して深い濠ではなかったようだ。ただ、塀の上に尖った竹がいくつも差してあった。

 太郎は浦上屋敷と隣の屋敷との間の路地に入り、人通りのないのを確かめると、五尺の杖を塀に立て掛け、その上に乗って塀の中を覗いた。中は暗く、人の気配はなかった。尖った竹に気を付けながら塀の上に登り、杖に縛り付けた紐を手繰り寄せて、杖を持つと静かに塀から降りた。

 塀の中の地面には何の仕掛けもなく、見張りもいなかった。太郎は身を伏せて、中の様子を窺った。

 広い庭園の向こうに御殿のような大きな屋敷が建っている。大広間の縁側を何人もの人が慌ただしく動いているのが見えた。これから、宴会でも始まるのだろうか。

 浦上屋敷の見取り図は、すべて、太郎の頭の中に入っていた。

 庭園の左側に見える離れの建物が浦上美作守の書院のはずだった。明かりはついていない。誰もいないようだった。美作守もあの大広間にいるのだろうか。

 書院とは反対の右側に目を移すと庭園の中に小さな茶屋があり、そこから、明かりが漏れていた。大きな池にせり出している島のような所に茶屋は建っていた。

 太郎は木陰や岩陰に隠れながら近づいてみた。近くまで行っても人の気配はなかった。茶屋の中には誰もいなかった。ただ、明かりの油だけが燃えている。

 宴会の後に、美作守がここでお茶でも飲むのだろうか‥‥‥

 それとも、毎晩、ここに明かりを点ける習慣なのだろうか‥‥‥

 太郎は迷った。ここで待っていた方がいいか、それとも、今のうちに美作守の書院に忍び込んだ方がいいか‥‥‥
12.播磨へ



 深夜、ぐっすりと眠っている阿修羅坊の頭の上に吹矢の矢を置いて来た太郎は、そのまま、播磨には向かわなかった。楓と百太郎の身が安全だとわかった以上、焦って、急ぐ必要もなかった。ひとまず甲賀に戻り、準備を整えてから、改めて出立しようと思っていた。それに、一番肝心な事だが、播磨の国がどこにあるのか、どうやって行けばいいのか太郎にはわからなかった。

 阿修羅坊が日輪坊、月輪坊の二人を助けている頃、太郎は飯道山の智羅天の岩屋に帰って来ていた。

 探真坊、風光坊、八郎坊の三人の弟子は、それぞれ修行に励んでいた。

 太郎の顔を見ると皆、修行をやめて飛んで集まって来た。

「お師匠、お帰りなさい」と八郎坊がニコニコしながら言った。

 まだ、太郎は師匠と呼ばれる事に抵抗を感じていたが、そんな事に構っていられなかった。

「随分と帰りが遅かったですね」と風光坊が汗を拭きながら言った。

「ちょっと遅すぎたな」と太郎は岩の上に腰を下ろした。

「お山では火山坊殿が帰って来ないと騒いでますよ」と探真坊が冷静に言った。

「ああ。お山には悪いが、まだ、当分、帰れそうもない」

「えっ、また、どこかに行かれるのですか」

「今度はどこに行くんですか」と八郎坊が聞いた。

「ちょっと遠くの方にな。お前ら三人も連れて行くつもりだ」

「ほんとですか、どこに行くんすか」八郎坊が身を乗り出して聞いてきた。

「播磨だ」

「播磨?」と三人が同時に言った。
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