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陰流の開祖であり、忍びの術の開祖でもある愛洲移香斎の物語です。
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14.太田備中守2






 風のまったくない蒸し暑い日だった。

 早雲は四人の山伏を連れて朝比奈川をさかのぼっていた。一人は小太郎、もう一人は太田備中守、そして、備中守の側近の上原紀三郎と鈴木兵庫助だった。兵庫助は鈴木道胤(ドウイン)の長男で、紀三郎と共に備中守から兵法(ヒョウホウ)をみっちりとたたき込まれた若手の部将だった。

 備中守は清流亭に半月程、滞在して、また八幡神社に戻っていた。半月の滞在中、備中守は福島越前守、葛山播磨守と会って、それぞれの考えを聞いた。そして、備中守の考えとして、今川家をまとめるには竜王丸をお屋形様とし小鹿新五郎を後見人にする以外にないと提案した。越前守は備中守の意見に同意して、是非、竜王丸派を説得してくれるよう頼んで来たが、播磨守の方は一筋縄では行かなかった。関東の軍勢をもって阿部川以西の竜王丸派を遠江の国まで追いやってくれと言う。そうすれば、駿河の国は以前のように落ち着くと言い張った。備中守は、竜王丸派を遠江に追う事はできるだろう、しかし、竜王丸が生きている限り、遠江で勢力を強めた竜王丸はいつの日か、駿河に攻めて来るだろうと言った。

「なに、一度、追い出してしまえば、後は何とでもなる」と播磨守は強きだった。

 備中守は、播磨守という男は竜王丸の暗殺さえもやりかねない男だと悟った。備中守は播磨守を威(オド)してやろうと考えた。

「播磨守殿、もし、竜王丸殿を遠江に追い出す事に成功した場合、恩賞として、我らは何をいただけるのですかな」と備中守は聞いた。

「備中守程のお人が恩賞を当てに戦をすると申すのですか」と播磨守はふてぶてしい顔をして言った。

 備中守は笑った。「ここの所、関東は戦続きで兵たちは疲れておる。決着が着かないまま戦が長引いているため、兵たちが活躍しても恩賞もろくに与えられんのじゃ。そんな兵たちを引き連れて箱根を越えるんじゃ。確かな恩賞がなければ兵たちは動かんじゃろうのう」

「成程、恩賞ですか‥‥‥」

「富士川より東の土地を我らにくれますかな。そうすれば、兵たちも喜んで小鹿殿を応援する事でしょう」

「それは‥‥‥」と播磨守は口ごもった。

 富士川以東の土地とは葛山播磨守の領地だった。たとえ、駿河一国が小鹿派のものとなっても、本拠地である領地を失うわけにはいかなかった。

「阿部川以西の竜王丸派の土地でしたら差し上げる事もできるかと思いますが、富士川以東はちょっと‥‥‥」

「富士川以東は播磨守殿の領地でしたな。たとえ、今川家のためとはいえ、本拠地を失う事はできませんか」

「それは、ちょっと‥‥‥」播磨守は額の汗を拭いながら困った表情をしていた。

「播磨守殿、播磨守殿がわたしの立場になったとして考えてみて下さい。駿河の国が東西に二つに分かれています。どちらの味方をした方が得か考えてみて下さい。播磨守殿なら、どちらの味方をしますかな」

「‥‥‥西です」と播磨守は仕方なく答えた。

「そうじゃろう。西と手を組んで、東を挟討ちにするというのが常套(ジョウトウ)手段と言えよう。勝てば東を山分けにする。たとえ負けたとしても、本国に引き上げるのに、それ程の距離もない。しかし、東と手を組んで阿部川辺りまで出張って来て、勝ったとしても近くの土地は貰えず、負戦(マケイクサ)になれば、全滅という事にもなりかねんからのう」

「備中守殿は竜王丸派と手を結ぶという事ですか」

「今川家がいつまでも二つに分かれたままだったら、そういう事になる可能性は充分にあるのう。我らの殿も富士川以東が手に入るとなれば、喜んで攻めて来る事じゃろう。そうならないように、わしは今川家を元に戻そうとやって来たわけじゃ。どうじゃろう、ここの所は身を引いて、竜王丸殿をお屋形様にし、小鹿新五郎殿を後見という事で妥協してもらえんものかのう」

「はい‥‥‥しかし、小鹿新五郎殿は扇谷上杉氏の一族ですが、その新五郎殿を見捨てるという事ですか」

「今の御時世は、関東では一族同士でも敵味方になって争っておるんじゃよ。同じ一族だからというだけで味方とは言い切れんのじゃ」

 播磨守は黙っていたが、ようやく、「少し、考えさせて下さい」と小声で言った。
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15.岡部美濃守

 藁科(ワラシナ)川の河原に赤とんぼが飛び回り、夜になれば秋の虫が鳴く季節となっていた。
  北川殿と竜王丸に会った数日後、太田備中守は中原摂津守の青木城下の客殿に入っていた。
  手引きをしたのは伏見屋銭泡だった。早雲庵にいた頃、銭泡は摂津守にも岡部美濃守にも茶の湯の指導をした事があった。銭泡は青木城下に行って摂津守と美濃守に会い、備中守が今川家を一つにするために、竜王丸派の重臣方と会う事を望んでいると告げた。
  摂津守も美濃守も備中守が駿府屋形に入ったと聞いて、やはり、小鹿派の味方をするつもりかと思っていたが、備中守が中立の立場として竜王丸派の意見も聞きたいと分かると、喜んで備中守を迎える事にした。備中守を味方にする事ができれば、小鹿派を倒す事もわけない。備中守に葛山播磨守(カヅラヤマハリマノカミ)の本拠地を攻撃して貰えば、播磨守は本拠地に帰らなくてはならなくなる。そうすれば、残るは福島越前守(クシマエチゼンノカミ)を何とかすれば、今川家は一つになる事も可能だった。美濃守はさっそく、備中守を迎える準備を始めた。
  備中守が青木城下の客殿に入ったのは七月二十四日だった。その日は清流亭の時と同じく歓迎の宴があり、重臣たちは顔を出さなかった。
  次の日、備中守は摂津守の屋敷内にて摂津守と対面し、同屋敷内の広間において竜王丸派の重臣たちと語り合った。
  岡部美濃守、朝比奈和泉守、斎藤加賀守、堀越陸奥守、三浦次郎左衛門尉、福島土佐守、長谷川法栄、天野兵部少輔、天野民部少輔、福島左衛門尉、朝比奈備中守、伊勢早雲らの、それぞれの意見を聞いた後、太田備中守は、これからどうするつもりか、と聞いた。
  美濃守は、備中守に是非とも味方になって小鹿派を倒す事を主張した。福島土佐守も美濃守の意見に賛成したが、他の者たちは同意しなかった。できれば、関東の軍勢の力は借りたくはないと誰もが思い、できれば話し合いによって事を解決したいと願っていた。
  早雲が、竜王丸をお屋形様とし、小鹿新五郎を後見という事にして、今川家を一つにしたらどうか、と提案した。美濃守は早雲を睨みながら顔を真っ赤にして怒った。摂津守派と竜王丸派を一つにまとめたのは早雲だった。その早雲が、今度は小鹿派と手を結ぼうと言う。摂津守派の美濃守が怒るのは当然だった。福島土佐守も早雲をなじった。天野兵部少輔も早雲のやり方は汚いと言い張った。しかし、元、竜王丸派の者たちは、それしか方法はあるまい、と早雲の意見に賛成した。
  ここに集まっている者たちは、まだ誰も早雲と備中守がつながっているという事を知らない。また、備中守が小鹿派の者たちに、竜王丸派と一つになるように画策(カクサク)している事も知らない。ただ、元、竜王丸派の者たちは前以て、早雲から相談を受け、小鹿派と手を結ぶ事に同意していた。
  備中守が駿府屋形に滞在していた頃、早雲は美濃守にそれとなく、小鹿派と手を結んだらどうかと聞いてみたが、そんな事、問題外じゃと相手にされなかった。摂津守派の岡部美濃守、岡部五郎兵衛、福島土佐守、この三人を落とせば、後はうまく行くのに、それは難しい事だった。早雲は自分の力でこの三人を落とす事ができないと悟り、備中守に頼んだのだった。備中守は青木城に入る以前から、この場に座る重臣たちの意見はすべて、早雲から聞き知っていたのだった。その日、備中守は皆の意見を聞くだけにとどまり、自らの意見は口に出さなかった。
  客殿に帰ると備中守はのんびりと湯を浴びた。湯から出ると、また御馳走攻めが待っていた。昨日に引き続き、広間には仲居たちが山のような料理をずらりと並べている。備中守はその様子を横目で眺めながら居間の方に向かった。
16.早雲登場






 岡部美濃守が早雲庵に来た日の午後、早雲は小太郎と一緒に八幡山内の太田備中守の本陣、八幡神社に向かった。

 雨は上がり、日が出て来て、また蒸し暑くなっていた。

 神社の境内には桔梗紋の描かれた旗が並び、厳重に警戒されていた。早雲は備中守から貰っていた備中守直筆の書状を警固の武士に見せ、備中守のいる宿坊に案内して貰った。

 宿坊には備中守はいなかった。宿坊にいた上原紀三郎の案内で、二人は備中守がいるという河原に向かった。河原なんかで何をしているのだろうと二人は首を傾げながら紀三郎の後に従った。

 阿部川の支流の広い河原では、備中守の指揮のもと、戦の稽古が始まっていた。騎馬武者は一人もおらず、皆、徒歩(カチ)武者だった。弓と長槍を持った徒歩武者が二手に分かれ、備中守の掛声に合わせて一斉に動いていた。

「ほう。見事なもんじゃのう」と小太郎が言った。

「うむ。一糸乱れぬ動きじゃな」と早雲も言った。

 紀三郎が備中守に声を掛けると、備中守は隣の武将に軍配団扇(グンバイウチワ)を渡して、二人の方に近づいて来た。

「こんな所まで、わざわざどうも」と備中守は笑いながら言った。

「見事ですね」と早雲は兵の動きを見ながら言った。

「いや。早いもので、駿河に来て、もうすぐ二ケ月になりますからな。皆、だらけて来ておるんじゃ。ちょっと気合を入れていた所じゃよ」

「騎馬武者がおらんようじゃが」と小太郎は不思議に思って聞いた。

「ああ。奴らは正規の武士ですからな。怠けておったら首が飛びます」

「というと、あの連中は?」

「あれは、今回のために集めて連れて来た百姓の伜たちじゃ。これからの戦は奴らが主役となろう」

「奴らが主役?」

「うむ」と頷いて備中守は兵たちを眺めながら、「早雲殿は応仁の乱の時、京で活躍した足軽というものを御存じでしょう」と聞いた。

「はい、知っております」と早雲は言った。「しかし、活躍したというよりは都の荒廃をさらに大きくしたと言った方が正しいでしょう」

「うむ、それも聞いた。わしはその噂を聞いて、こいつは使えると思ったんじゃ。今までも百姓たちは戦に参加しておった。しかし、騎馬武者にくっついて戦場を走り回っていただけじゃ。騎馬武者を助けて戦をしていても、騎馬武者がやられてしまえば四散してしまう。戦力とは言えんかった。今までの戦の中心は騎馬武者たちの一騎討ちじゃ。しかし、こう戦が大きくなって、決着も着かないまま長引いて来ると、戦のやり方も変わって来る。のんびりと一騎討ちなどやってる場合ではなくなって来ているんじゃ。これからは個人個人の戦から集団の戦に変わって行くじゃろう。そうなると、奴らが戦の主役となるわけじゃ。奴らの進退一つによって戦の勝ち負けが決まってしまう事になる。奴らを命令一つで自由自在に操る事が重要となるんじゃ。そこで、こうして訓練をしているというわけじゃ」

「確かに、戦の仕方は変わって来ている」と小太郎は言った。「本願寺一揆の戦のやり方は、まさしく、備中守殿の申される通りです」

「本願寺一揆というと加賀の?」と備中守は小太郎を見ると聞いた。

 小太郎は頷いた。「一揆の連中はほとんどが徒歩武者で、一団となって行動し、一々、兜首(カブトクビ)など取りません」

「そうか、兜首も取らんのか‥‥‥うーむ。確かに、兜首など一々気にしなければ、戦もうまく行くかもしれんが、兜首を取る事を禁じれば士気が落ちる事も考えられるのう」

「武士から兜首を取る事を禁じる事はできないでしょう」と早雲は言った。

「うむ。難しい‥‥‥いや、失礼した。こんな所で立ち話もなんじゃ、とにかく、宿坊の方に参ろう」

「こっちの方はよろしいのですか」

 備中守は笑いながら頷いた。
17.五条安次郎






 山々が色付き始め、あちこちで、冬の準備が始まっていた。

 十月になって、太田備中守(ビッチュウノカミ)と上杉治部少輔(ジブショウユウ)が関東に帰って行くと、駿府屋形もひっそりと静まり、急に薄ら寒くなったようだった。

 重臣たちも一人、二人と国元に帰って行った。遠江から来ていた者たちは、天野氏も含め、皆、帰って行った。蒲原越後守、由比出羽守、矢部将監(ショウゲン)、興津美作守、庵原安房守(イハラアワノカミ)らも帰って行った。そして、葛山播磨守(カヅラヤマハリマノカミ)も帰って行った。

 葛山播磨守は備中守と会ってから、まるで、人が変わったようだった。もしかしたら、早雲を暗殺するかもしれないと思われる程、早雲と敵対していたくせに、清流亭で会ってからは手の平を返すように、親しみを持って、やたらと早雲に近づいて来た。

 早雲殿、早雲殿と言って、毎日のように用もないのに、北川殿に訪ねて来ては世間話をしていた。今川家の重臣たちも、その変わりように呆れていた。

 初めのうちは早雲たちも、また、何かをたくらんでいるに違いないと警戒していたが、播磨守の態度は、見ていておかしくなる程、素直だった。まず、初めに気を許したのは北川殿だった。北川殿は、播磨守が小鹿(オジカ)派の中心になって竜王丸をお屋形様の座から引き落とそうとしていた事を知らない。播磨守が毎日のように訪ねて来るので、竜王丸を押してくれた重臣の一人だと思い込んでいた。また、播磨守は自分の本拠地、富士山の裾野での事を面白可笑しく、北川殿に話して聞かせるので、北川殿も播磨守を歓迎した。そればかりでなく、播磨守は竜王丸や美鈴ともよく遊んでくれた。早雲たちもやがて気を許して、気楽に話をするようになって行った。播磨守は早雲や小太郎よりも十歳も年下だった。憎らしい所もあるが、可愛い弟ができたような感じで播磨守と付き合っていた。

 最後の日、播磨守は北川殿に別れの挨拶をしに来た。早雲たちに是非、葛山に来てくれと勧め、正月にまた来ると言って、八ケ月も滞在していた駿府を後にした。

 早雲と小太郎は播磨守を城下のはずれまで見送った。

「おかしな奴じゃったのう」と小太郎は馬上の播磨守を見送りながら言った。

「まったくじゃ」と早雲は苦笑しながら頷いた。「あんな奴は初めてじゃ」

「策士には違いないが正直者じゃ。自分が正しいと思えば、とことんやり通すが、間違ったと気づけば、すぐに間違いを改めるという奴じゃな」

「らしいのう。人の上に立つ者は正直でないと家来たちが付いては来んからのう。ああいう大将の家来になった者は働きがいもあるじゃろうのう」

「ぼやぼやしておると、小鹿新五郎の奴は、あいつに駿河の半国、取られる事に成りかねんぞ」

「新五郎だけじゅない。竜王丸殿も立派な大将に成らなかったら、奴に駿河を取られるかもしれん」

「立派な大将に成らんと思うか」と小太郎は早雲を見た。

「いや。なる」と早雲は力強く頷いた。

「わしもそう思うわ。なかなか利発な子じゃ。ただ、これからは並の大将では生きては行けんじゃろう。備中守殿も言っておられたが、名門というだけでは駄目じゃ。名門である事を忘れ、民衆たちの心をとらえ、国人たちを含めて、民衆たちを一つにまとめなければならん」

「本願寺の蓮如殿のようにか」

「まあ、そうじゃが。直接に民衆たちの中に入って行くお屋形様でなくてはならんのじゃ。お屋形様が百姓たちと直接、話をしたからと言って、お屋形様の価値が下がるわけではない。お屋形様は何をやってもお屋形様なんじゃ。身分など関係なく、すべての者たちの事を親身に思えるようなお屋形様になって欲しいんじゃ」

「小太郎、おぬし、竜王丸殿が成人するまで、ここにおってくれんか」と早雲は言った。

「なに?」と小太郎は早雲を見た。本気で言っているようだった。

「後十年もここにおるのか」と小太郎は少し戸惑ったような顔をして、早雲に聞いた。

「ここにおって竜王丸殿を導いてやって欲しいんじゃ。勿論、わしもやる。しかし、世の中は色々な見方があるという事を教えるには、色々な人が回りにおった方がいいと思うんじゃ。なに、改まって何かを教えなくてもいい。時々、側に行って、それとなく教えてやればいい。どうじゃ、やってくれんか」

「先の事までは分からんのう。十年と言えば長いからのう。後、十年、生きられるかも分からん。まあ、当分はここにおるとは思うがのう」

「うむ。頼むぞ」

 二人が北川殿に帰ると五条安次郎が待っていた。
18.陰の二十一人衆






 ここで、しはらく、場面を播磨に移して、時をさかのぼると、雪に覆われた大河内城下の山の中で、ひそかに陰(カゲ)の術の修行が行なわれていた。

 早雲と小太郎夫婦を正月に迎えた太郎は、二月になると、楓との約束を守って、楓と助六の二人に陰の術を教えていた。太郎は他所(ヨソ)の女(きさ)に子供を作った罰として、二人に陰の術を教えなければならなかった。

 太郎は城下の西のはずれの夢庵の屋敷を建てる予定地にて、二人に陰の術を教えた。稽古の時間は昼過ぎの一時(イットキ、二時間)だけだったが、二人は熱心で、太郎が帰った後も、毎日、日暮れまで稽古に励んでいた。二人共、子供の頃から武術を習っていて、特に、助六は踊りを得意としているので、身が軽く、覚えは早かった。手裏剣術も教えたが、石つぶてを得意とする楓はすぐに身に付けてしまった。楓も助六もお互いに負けるものかと稽古に励むので、二人は見る見る上達して行った。

 稽古を始めた頃、太郎は、どうせ、女なんかに陰の術なんて無理だろうと思っていたが、考えを改めなくてはならなかった。女の方が小柄で身が軽いので、かえって、向いているかもしれないとも思うようになっていった。二人は白づくめの装束(ショウゾク)を着て、雪山の中で稽古に励んでいた。

 楓と助六は、太郎が一ケ月間教えようとしていた事を半月で身に付けてしまったので、残りの半月で実地訓練を行なった。まず、月影楼(ツキカゲロウ)を稽古場にして、太郎に見つからないように、太郎が隠したある物を捜させた。太郎に見つかったら、また、外に出てやり直すというようにして稽古させた。初めの頃はお互いに対抗意識を燃やして、別々に行動していたが、どうしても太郎に見つかってしまうので、やがて、二人は手を組んで行動を共にするようになった。捜す物は大きな物からだんだんと小さくして行き、最後には、ただの紙切れを捜させた。二人はあらゆる手段を使って太郎を翻弄(ホンロウ)して、ついには、その紙切れも見つけ出した。その頃になると、二人の腕はかなり高度になっていた。もし、誰かが知らずに月影楼に入って来たとしても、月影楼の中にいる三人の存在に気づく事はないと言えた。月影楼での実地訓練は十日間で終わった。

 最後の五日間は、太郎と一緒に城下のあらゆる所に忍び込んだ。評定所(ヒョウジョウショ)、重臣たちの屋敷、商人たちの屋敷、町人たちの長屋、旅籠屋、遊女屋などに忍び込み、住んでいる者たちの人数を数えさせ、屋敷の間取り図を書かせた。

 最後の仕上げとして、太郎の弟子、風間光一郎、宮田八郎、山崎五郎の三人のうちの誰でもいいから、姿を見られずに、首に墨で線を書いて来いと命じた。二人は力を合わせて、光一郎と八郎の二人の首に見事、線を書いて来た。

 一ケ月の稽古の後、太郎は月影楼の三階に楓と助六を呼んで、ねぎらいのため、ささやかな宴を開いた。

「二人共、御苦労だった。事故も起こらずに無事に終わった。二人共、思っていたより、よく陰の術を身に付けてくれた。はっきり言って以外だった」と太郎は二人に言った。

「以外?」と楓は笑いながら太郎を睨んだ。

「ああ」と太郎は頷いた。「初め、女なんかに陰の術を教えてもしょうがないと思っていた。仕方なく、教えていたんだが教えているうちに、陰の術に男も女もないという事に気づいた」

「そうよ。女だって立派にできるのよ」と助六が胸をたたいた。

「うむ。その事が分かっただけでも、今回、二人に教えてよかったと思っている。しかし、今回、二人に教えたのは陰の術の基本だ。これで、すっかり陰の術を身に付けたと思ってはいかん」

 楓が太郎を見ながら笑っていた。
19.観智坊露香1






 場面は変わって、近江の国、甲賀の飯道山。

 百日行を無事に終えた下間蓮崇(シモツマレンソウ)は観智坊露香(カンチボウロコウ)という山伏に生まれ変わって、武術の修行を始めた。観智坊の百日行が終わったのは去年の十二月の十九日だった。観智坊は昔の太郎と同じように吉祥院(キッショウイン)の修徳坊(シュウトクボウ)に入って、一年間の修行を積むように師の風眼坊から命じられた。午前中は作業として弓矢の矢を作り、午後は棒術の稽古だった。

 丁度、その頃、太郎が光一郎を連れて『志能便(シノビ)の術』を教えるために播磨から来ていた。そして、志能便の術の修行者の中には、本願寺の坊主、慶覚坊(キョウガクボウ)の息子、洲崎(スノザキ)十郎左衛門がいた。十郎左衛門は変身した蓮崇から、蓮如(レンニョ)が加賀を去った事や、守護の富樫(トガシ)次郎と本願寺門徒の争いなど、国元の事情を聴き、急いで加賀へと帰って行った。

 その年の棒術の稽古は六日間だけで終わった。二十六日から翌年の正月の十四日までは稽古(ケイコ)も休み、作業も休みだった。新米山伏の観智坊は年末年始の忙しい中、怒鳴られながら山の中を走り回っていた。

 正月の十四日、飯道山に大勢の若者たちが各地から、ぞくぞくと集まって来た。その日は一日中、雪が強く降っていたが、そんな事にはお構いなしに、次から次へと若者たちは期待に胸を膨らませて山に登って来た。その数には観智坊も驚いた。先輩の山伏から話には聞いていたが、まさか、これ程多くの若者が集まって来るとは驚くべき事だった。今年、集まって来たのは六百人を越えていたと言う。山内の宿坊はすべて若者たちで埋まり、山下の宿坊や旅籠屋も若者たちで埋まっていた。

 次の日、若者たちは行場(ギョウバ)を巡り、山内を案内され、後は最後の自由時間だった。観智坊は山から下りられないので実際に見てはいないが、昼間っから遊女屋には若者たちが並んで順番を待っていたと言う。また、この日、若者たちが集まって来る事は有名になっていて、各地から遊女たちが門前町に集まり、不動町の横を流れる小川のほとりに粗末な小屋を掛けて、若者たちを引き入れていたと言う。先輩の山伏たちが言うには、この日、人気の遊女は一日に何十人もの若者をくわえ込むので、しばらくの間は、遊女屋には行かん方がいいと笑っていた。

 いよいよ、次の日から一ケ月の山歩きが始まった。今年も雪が多かった。

 観智坊は若者たちが山歩きをしている間、道場で棒術の基本を習っていた。

 棒術の師範は高林坊だったが、高林坊は毎日、稽古には出られなかった。師範代の西光坊(サイコウボウ)が中心になって教えていた。西光坊は以前、太郎がこの山に来た時、太郎を奥駈道(オクガケミチ)に案内した山伏だった。あの当時、西光坊は棒術師範代でも下の方だったが、今では高林坊の代わりを務める程に出世していた。西光坊の下に東海坊、一泉坊、明遊坊(ミョウユウボウ)の三人の師範代がいた。

 棒術の修行者は一年間の若者たちの他に、各地の山から修行に来ている山伏も多かった。山伏たちはしかるべき先達(センダツ)の紹介があれば、いつでも飯道山に来て修行する事ができたが、最近は修行者の数が多くなっているので、山伏たちもなるべく、正月から修行を始めるようにしていた。今年は棒術の組には十八人の山伏がいた。そして、去年一年間、修行して、さらに、もう一年修行をしようと残っている若者が六人いた。観智坊は彼らと共に棒術の修行に励んだ。

 観智坊が風眼坊の弟子だと知っているのは師範と師範代だけだった。誰もが、四十歳を過ぎている観智坊が、今頃、棒術の修行をするのを不思議がった。観智坊は、その事を聞かれるたびに笑って、若い頃、ろくな事をしなかったので、今になって修行をするのだと言った。師範の高林坊を除き、師範代たちも含め、観智坊は一番の年長だった。知らず知らずのうちに、誰もが観智坊の事を名前では呼ばずに『親爺』と呼ぶようになって行った。

 棒の持ち方すら知らない観智坊だったが、一ケ月のうちで基本はしっかりと身に付けて行った。何も知らなかった事がかえって良かったのかもしれない。自分は年は取っていても、武術に関してはまったくの素人だと年下の者たちから素直に教わっていた。また、人一倍、努力もした。稽古が終わってからも、毎日、その日に習った事を体で覚えようと何回も何回も稽古に励んだ。百日間の山歩きのお陰で足腰は強くなっていたが、腕の力は人と比べると、まったく弱かった。観智坊は毎日、鉄の棒を振り回して上半身も鍛えた。
20.観智坊露香2






 賑やかな飯道山の祭りも終わり、秋も深まって行った。

 観智坊がこの山に来て、すでに一年が過ぎていた。長かったようで、短かった一年だった。この山に来て観智坊は色々な事を学んだ。今まで考えてもみなかった様々な事を知った。体付きや顔付きまでも、すっかりと変わり、もう、どこから見ても立派な山伏だった。

 観智坊はすっかり生まれ変わっていた。

 若い者たちから『親爺、親爺』と慕われ、今の生活に充分に満足していた。棒術の腕も自分でも信じられない程に上達して行った。若い者たちの面倒味がいいので、先輩の山伏たちからも、このまま、この山に残らないかと誘われる事もあった。今のまま修行を積んで行けば、ここの師範代になる事も夢ではないとも言われた。

 観智坊もすでに四十歳を過ぎていた。先もそう長いわけではない。加賀の事は気になるが、果たして、自分が加賀に戻ったとして、一体、何ができるのだろうか、裏の組織を作るといっても、そう簡単にはできないだろう。自分がしなくても、誰かがやるに違いない。加賀の事は門徒たちに任せて、自分はここで新しい人生を送ろうと考えるようになって行った。やがて、師範代になる事ができれば、家族を呼んで、この地で暮らそう。そして、息子をこの山に入れて鍛え、加賀に送ってもいい。自分がこれから何かをやるより、若い息子に託した方がいいかもしれないと思うようになって行った。

 若い者たちに囲まれて、観智坊は毎日、楽しかった。若者たちは観智坊を頼って色々な相談を持ちかけて来た。観智坊は親身になって相談に乗り、解決してやった。観智坊は若者たちから、一年間の修行が終わったら、是非、うちに来てくれと誘われたり、一緒に酒を飲もうと誘われたり、女遊びをしようと誘われたり、引っ張り凧だった。観智坊も皆のために、どうしても師範代にならなければならないと稽古に励んでいた。

 観智坊の一日は夜明け前の修徳坊の掃除で始まり、本尊の阿弥陀如来の前での法華経(ホケキョウ)の読経をし、朝飯を食べると矢作りの作業場へと行き、午後は棒術の稽古だった。

 十月の初めの事だった。観智坊がいつものように読経を済ませ、自分の部屋に戻ろうとした時、仏壇の片隅に見慣れた字の書かれた紙切れが目に付いた。一瞬、誰の字だったか分からなかったが、その字に懐かしいものを感じた。観智坊は仏壇に近づいて、その紙切れを手に取って調べた。それは蓮如の書いた『御文(オフミ)』だった。勿論、蓮如の自筆ではない。誰かによって写されたものだった。よく見れば、全然、蓮如の筆跡とは違った。しかし、観智坊には一瞬、それが蓮如の自筆のように見えた。目の錯覚だったかと観智坊は思い、その御文を読んでみた。

 御文は今年の七月に書かれたものだった。どこの誰が写したのかは分からない。内容は、いつもの御文と同じような事が繰り返し書かれてあった。観智坊はその御文を読みながら、胸の奥に熱い物を感じていた。自然と涙が溢れ出て来て止める事はできなかった。涙で目が曇り、最後まで読めなかった。観智坊はその御文を読みながら、蓮如と初めて会った時から、別れた時までの事を一瞬の内に思い出していた。

 観智坊はその御文を握ったまま、棒術の道場へと走って行った。
21.孫次郎1






 雪が散らついていた。

 太郎坊がやって来たとの噂が、飯道山の山中に広まっていた。

 十一月の二十一日、志能便(シノビ)の術の稽古の始まる四日前の事だった。しかし、太郎坊を見たという者は一人もいなかった。

 観智坊は高林坊のお陰で、午前中の作業が免除されたので、その間、もっぱら座禅に熱中していた。成就院(ジョウジュイン)に禅に詳しい僧侶がいる事を高林坊から聞いて、その僧侶のもとで本格的に座禅の修行をしていた。

 師の風眼坊が天台宗の山伏であるため、観智坊も天台宗に属していた。天台宗の事など全然、知らない観智坊だったが、本願寺も元々は天台宗に属していたという事を、かつて、蓮如から聞いた事があった。高林坊の話によると、天台宗からは念仏門の浄土宗、天台密教(ミッキョウ)、禅宗、法華宗(ホッケシュウ)とあらゆる宗派を出したので、この飯道山にも、それらの専門家が数多く修行しているとの事だった。高林坊の話は難しかったが、浄土真宗の開祖である親鸞聖人(シンランショウニン)も、若い頃、天台宗の本山、比叡山で修行を積んだという事を聞いて、観智坊は驚いた。何となく、親鸞聖人が以前より身近に感じられて嬉しく思った。高林坊から、若い頃の親鸞聖人も比叡山で座禅修行をしただろうと言われ、観智坊もさっそく座禅を始めたのだった。

 初めのうちは雑念に悩まされて苦しかったが、慣れるにしたがって心が落ち着き、何とも言えない安らぎを覚えるようになって行った。また、禅の指導をしてくれる和尚が面白い人で、昔、明の国にいたという偉い禅僧の話を分かり易く色々と聞かせてくれた。観智坊は座禅というものが、武術の修行に大いに役立つという事を身を以て感じていた。

 噂通り、太郎坊は確かに来ていた。二十一日の午前、修行者たちが作業に励んでいる時、不動院にて高林坊と会っていた。宮田八郎と内藤孫次郎を連れていた。孫次郎の百日行の許可を得るためと、播磨に来ている十八人と五郎の代わりに新たに加える一人を飯道山に所属する山伏にするためだった。孫次郎の件はすぐに許可が下りたが、十九人の件は難しかった。

「一人や二人なら何とかなるが、十九人ともなると難しいのう」と高林坊は渋い顔をして言った。

「無理ですか‥‥‥高林坊殿にこんな事は頼みたくはないのですが‥‥‥あの、失礼ですが、銭の力で何とかなりませんか」

「銭か‥‥‥うむ。最近は何でも銭が物を言う御時世じゃからのう。しかし、十九人もいるとなると、かなりの銭が必要となろうのう」

「これだけ、ありますが」と太郎は持って来た革の袋を高林坊に渡した。

「ほう」と言いながら、高林坊は革袋を開けて驚いた。中には幾つもの銀の粒が入っていた。「凄いのう。これだけあれば何とかなろう。お偉方もこれだけの銀を見れば文句は言うまい。しかし、赤松家の武将ともなると景気いいもんじゃのう」

「いえ」と太郎は笑いながら首を振った。「お屋形様の所はそうかもしれませんが、わたしの所は借銭の山で、返済して行くのが、なかなか大変です」

「そうか。新しい城下を作ったそうじゃのう。大したものじゃ」

「十九人の件、お願いします」と太郎は頭を下げた。

「うむ。分かった。皆、おぬしの弟子という事でいいんじゃな」

「いえ。わたしの弟子でなくても構いません。その辺の所は高林坊殿にお任せします」

「そうか‥‥‥分かった。それで、百日行の方は、いつから始めるんじゃ」

「今日、修徳坊に入れて、明日からでも」

「うむ。修徳坊の方へはわしの方から言っておく。その間に行場(ギョウバ)巡りでもやっておってくれ」

「はい、お願いします」

「観智坊の事じゃがのう」と高林坊はニヤニヤしながら言った。「また、新しい伝説を作りおったぞ」

「えっ、あの観智坊殿が?」と太郎は驚いて、高林坊の顔を見つめた。

「おう。詳しい事は後で教える。今晩、例の所で飲もう。栄意坊の奴も連れて行くわ」

「はい。楽しみです」

 太郎は孫次郎を連れて行場を巡り、孫次郎を修徳坊に入れると修行者たちに気づかれないうちに山を下りた。八郎を連れて花養院に行き、松恵尼に挨拶をした後、智羅天(チラテン)の岩屋に向かった。
22.孫次郎2






 観智坊が飯道山で武術の修行に励んでいた頃、かつて、観智坊の下男だった弥兵は松恵尼の別宅である農家を義助(ヨシスケ)と一緒に守っていた。留守を守ると共に、松恵尼の持っている田畑を義助と一緒に耕作していた。加賀の湯涌谷(ユワクダニ)という山の中で育った弥兵は、畑仕事は知っていても稲を育てる事は知らなかった。義助に教わりながら、毎日、観智坊が山を下りて来る一年後を楽しみに待っていた。

 義助の方も、いい連れができたと喜んでいた。義助はもう六十歳を過ぎていた。元気だけはいいが、体の方は昔のようには言う事を利かない。松恵尼に言えば、もう、田畑の仕事はしなくてもいいと言うのは分かっていたが、義助は死ぬまで、この農家を守り、松恵尼の土地で働き続けたかった。松恵尼に弥兵の事を頼まれた時、義助は、はっきり言って嫌々ながら引き受けた。義助にとって松恵尼から留守を任されている、この農家は彼の城と言えた。できれば、他の者を彼の城に入れたくはなかった。

 初めの頃、義助は弥兵に対して必要以外の事は話さなかった。弥兵もまた必要な事以外は話さない。二人は同じ部屋で寝起きしていても、一言も喋らずに一日を過ごす事が何度もあった。松恵尼の農家は広く、部屋も幾つもあったが、義助は掃除をする時以外、それらの部屋に入る事を許さなかった。二人は囲炉裏のある板の間の脇の狭い部屋で暮らしていた。

 弥兵は朝晩、必ず、壁に貼り付けた『南無阿弥陀仏』と書かれた紙切れに向かって、熱心に念仏を唱えていた。義助はそんな弥兵を見て、馬鹿な事をしていると思っていた。義助も念仏くらいは知っている。しかし、義助の知っている念仏は、阿弥陀如来の仏像に対して唱えるものだった。飯道山の本尊である阿弥陀如来像の前で、義助も念仏を唱える事はあるが、こんな紙切れに向かって、同じ念仏を繰り返し繰り返し唱えている弥兵の行動は、義助には馬鹿らしい行為としか目に写らなかった。

 義助も当然の事ながら飯道山の信者の一人だった。念仏よりも真言(シンゴン)の方を信じていた。真言の意味は義助にも分からない。意味は分からないが、分からない事がかえって、ありがたさを増していた。真言は念仏のように朝晩決まって唱えたりはしない。唱えるべき場所に行って唱える。壁に貼り付けた、ただの紙切れに向かって、毎日、真剣に念仏を唱えている弥兵の心境が義助には理解できなかった。

 一月経ち、二月と経って行くうちに、無愛想な二人もやがて打ち解けて行った。義助は字が読めなかったが、弥兵は読む事ができた。できたと言っても漢字は駄目で、片仮名だけだったが、観智坊に教わって読めるようになっていた。

 弥兵は観智坊に書いて貰った片仮名で書かれた蓮如の御文(オフミ)を、宝物のように大切に持っていた。何度も読んだり写したりしているため、それらの御文はすでに暗記していた。

 義助は弥兵から字を教わる事となった。義助も字が読めるようになったら、どんなにか、いい事だろうと思っていた。しかし、今まで字を習う機会なんてなかった。この年になって字を習っても仕方がないとも思ったが、弥兵が教えてくれるというので義助は教わる事にした。手本は観智坊の書いた御文だった。初めの頃は義助も、ただの手本としていただけだったが、何度も何度も繰り返し写しているうちに、義助にも蓮如が言おうとしている事が自然と分かるようになって行った。やがて、義助も弥兵と一緒に念仏を唱えるようになって行った。初めは何となく照れ臭かった義助だったが、念仏に没頭する事によって、煩(ワズラ)わしい事など何もかも忘れて、心の中が綺麗に洗われるような、すがすがしい気持ちになる事ができた。弥兵から本願寺の事や蓮如上人の事も聞き、義助もだんだんと弥兵の気持ちが分かるようになり、念仏を唱える姿も様になって来た。やがて、念仏を唱える事が義助の日課となり、毎日の楽しみとなって行った。壁に貼ってある紙切れも蓮如上人が書いたものだと知り、その有り難さも分かって、黄金の仏様であるかの様に大切にした。

 弥兵は観智坊から飯道山に登る事を禁じられていた。観智坊にすれば、飯道山で若い者たちにしごかれている惨(ミジ)めな姿を下男であった弥兵に見られたくなかった。弥兵は観智坊が本願寺を破門になっても、観智坊の事を尊敬している。そんな弥兵に惨めな姿を見せたくはなかった。弥兵は観智坊の約束を守り、祭りの時でさえ飯道山には登らなかった。義助が誘っても、弥兵は山のふもとまでは行ったが、二の鳥居から先には決して登らなかった。しかし、朝晩の念仏の前には、必ず、山の方に向かって静かに合掌をして、観智坊の無事を祈っていた。

 観智坊の山での活躍はすぐに門前町に噂として広まった。井戸の事も、夜遅くまで稽古に励んでいる事も、噂となって弥兵の耳にも入って来た。弥兵は観智坊の事が町人たちの話題にのぼるのを我が事のように喜んでいた。
23.文明九年、春1






 播磨(ハリマ)の国、大河内(オオコウチ)城下に来た観智坊と弥兵は、太郎の客としての扱いを受けていた。城下の殿様である太郎の屋敷内の客間を与えられ、梅山という専属の侍女(ジジョ)まで付けられ、少し戸惑いながら新年を迎えていた。

 雪に埋もれている大河内城下の新年は、加賀で毎年、迎えていた新年と似ていたが、異国の地で、しかも、豪勢な武家屋敷で迎えた新年は、自分が下間蓮崇(シモツマレンソウ)から、新たに観智坊露香(カンチボウロコウ)に生まれ変わったという事を実感として感じていた。そして、去年、一年間で身に付けた様々な事を、今年は実践に移さなければならない。本願寺のために裏の組織を作り、門徒たちのために守護を倒さなければならないと決心を新たにしていた。

 観智坊は太郎から志能便(シノビ)の術を習うために、ここに来たわけだったが、太郎の弟子ではなかった。太郎の師、風眼坊舜香の弟子で、太郎とは兄弟弟子だった。同じ師を持った縁として、これから先、何かと協力する事もあるかもしれない。今、お互いをよく知っておくのはいい機会といえた。それと、太郎は自分ではどうしても理解できない本願寺の一揆とは一体、どんなものなのか、観智坊から聞いてみたかった。

 正月は太郎も何かと忙しく、観智坊の相手をしている暇はなかった。観智坊の事は五郎に任せていた。鳥居弥七郎が来た事によって、太郎は五郎を陰(カゲ)の衆からはずし、太郎の祐筆(ユウヒツ)として使う事とした。祐筆の最初の仕事として観智坊の接待を命じ、飯道山では教えない高度な志能便の術を教えるように命じていた。

 陰の衆二十一人は正月の半ばに各地に散って行った。行き先は前回と同じだったが、八郎たち三人だけは前回の摂津(セッツ)の国から、今回は加賀の国まで飛ばした。距離も遠いため、期間も一ケ月半に延ばし、非常時意外は途中連絡もしなくてもいいという事にした。観智坊のためにも加賀の情報は必要だった。八郎は芥川小三郎、上田彦三郎を連れて、張り切って北陸へと向かった。観智坊から、加賀では山伏は警戒されるので、商人とか農民に扮した方がいいと言われたので、三人は薬売りの商人に扮して出掛けて行った。

 正月も末になると、太郎にも暇ができて、観智坊とゆっくりと会う事ができた。太郎は観智坊を月影楼(ツキカゲロウ)の三階に誘って、お茶を点(タ)てて持て成した。太郎もようやく、人前でお茶を点てられるようになっていた。観智坊は茶の湯の事に詳しくはなかった。一応、飲み方を知っている程度で、点て方までは分からなかった。

 観智坊は太郎がお茶を点てる点前(テマエ)を見ながら、さすがに一流の武芸者だけあって、その動きには隙(スキ)がないと思っていた。

 不思議な事だった。一年余りの修行によって、物の見方まで変わっていた。以前の観智坊だったら、太郎の動きに隙のない事は分からない。ただ、ぼうっと太郎の動きを見ていたに過ぎなかった。また、他人の強さというものも分かるようになっていた。以前は、相手を見て、自分より強いという事は分かっても、どれ位強いかなど分からなかった。今では、相手の目付きや肩や腰の動きから、どれ程の腕を持っているか分かるようになっている。不思議な事だったが、以前、自分より絶対に強いと思っていた武士たちでさえも、実際に強いと思われる者は、ほんの僅かしかいないという事が分かった。観智坊は改めて、飯道山の武術の質の高さというものを感じていた。そんな観智坊でも、今、目の前でお茶を点てている太郎の強さが、どれ程のものなのか分からなかった。

 観智坊は五郎から志能便の術、ここでは『陰(カゲ)の術』と呼んでいるが、その術を習っていた。太郎からではなく、弟子の五郎から習うと聞いて、観智坊は少々がっかりしていたが、五郎の陰の術は見事なものだった。飯道山で教えていたのとは、まるで違い、かなり高度な技術を必要とするものばかりだった。五郎の陰の術に比べたら、飯道山で教えている志能便の術は子供騙(ダマ)しのようだった。弟子の五郎がこれ程の技を身に付けているとすれば、師匠の太郎はそれ以上に違いない。上には上がいるものだと、観智坊は修行に終わりのない事を感じていた。
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