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陰流の開祖であり、忍びの術の開祖でもある愛洲移香斎の物語です。
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3.阿修羅坊






 年が明けて、文明四年(一四七二年)、正月も十日が過ぎ、京の町もようやく、落ち着きを取り戻していた。

 いくら荒れ果て、惨めな焼け跡と化しているとはいえ、京は都に違いなかった。

 戦乱を避けながらも、京にしがみついている者たちは多く、以前のような派手さはないが、それなりに新年を祝っていた。晴着をまとった者たちが焼け残った寺社に集まり、戦の終わる事を祈り、新年の挨拶を交わし、子供たちは正月の遊びに夢中だった。

 遠い地から京に集まって来ている兵たちも、敵と睨み合いながらも故郷の事を思って新年を祝っていた。

 まだ、木の香りも新しい北小路町の浦上美作守(ミマサカノカミ)則宗の屋敷の離れの書院で、美作守は独り、刀の手入れをしていた。

 風もなく、日差しは弱いが暖かく、静かな昼下りだった。三日前に降った雪が、まだ、庭にかなり残っていた。

 浦上美作守則宗‥‥‥赤松家の重臣である。

 嘉吉の変で滅ぼされた赤松氏は長禄二年(一四五八年)、当時まだ四歳だった赤松次郎政則に家督が許され再興された。美作守は当時より政則の側近にあり、幼い主君を補佐して赤松家のために尽くして来た。

 赤松家は応仁の乱において、旧領の播磨、備前、美作の三国を取り戻し、四職家(シシキケ)としても復活し、応仁二年(一四六八年)に政則は侍所頭人、美作守は所司代に任命された。

 侍所とは室町幕府の政治機関の一つで、京都の警備や刑事事件の裁判などをつかさどり、都においての権力は絶大だった。長官の事を所司、又は頭人と言い、所司代とは副長官の事である。長官に任命されているのは赤松政則だったが、実際、侍所の長官としての権力を握っていたのは浦上美作守だった。浦上美作守は赤松家の重臣であるばかりでなく、今や、東軍においても重要な地位にいた。

 美作守は庭に面した日の当たる書院の縁側で、脇差二振りを目の前に置き、眺めては考え事をしていた。どちらの脇差も実戦で使われていた物らしく、柄(ツカ)に巻いてある組み紐は擦り切れ、色褪せている。鞘(サヤ)も所々、色が剥げ、傷があちこちに付いていた。

 美作守は一つを手に取ると、鞘を払い、刀身を眺めた。

 刀身は曇りなく、良く手入れがしてあった。備前長船(ビゼンオサフネ)の刀であるが名刀と言える程の物ではない。かと言って、雑兵(ゾウヒョウ)が持っているような『数打(カズウチ)』又は『束刀(タバガタナ)』と言われ、需要に合わせて大量に生産され、束にして取引されるような安物でもない。仮にも武将と呼ばれる程の武士なら誰もが普段、持っているような実戦向きな刀だった。

 美作守は慣れた手付きで目貫(メヌキ)を抜いて柄をはずした。出て来た茎(ナカゴ)には紙が巻いてあった。紙を開いてみると『岩戸』と書いてあり、下に赤松性具入道の花押(カオウ、書き判)が書いてある。

 美作守はしばらく、その紙を見つめていたが、やがて、その紙を元のように茎に巻き、柄の中に隠した。そして、もう一つの脇差も同じように柄をはずした。こちらの脇差にも紙が隠してあった。こちらの紙には『不二』と書いてあり、やはり、性具入道の花押が書いてある。美作守はその紙をじっと見つめ、また、元に戻した。

 『岩戸』と『不二』、そして、性具入道の花押‥‥‥一体、これは何を意味するものなのだろうか。

 美作守にはまったくわからなかった。

 一刀は性具(ショウグ)入道の弟、左馬助則繁(サマノスケノリシゲ)の物であった。

 嘉吉の変の時、城山城(キノヤマジョウ)が落城する前に脱出した左馬助は九州まで逃げ、更に朝鮮まで渡って海賊まがいの事をして暴れていた。

 文安五年(一四四八年)に九州に戻ると、筑前(福岡県)の少弐(ショウニ)氏と共に肥前(佐賀県、長崎県)において大内氏と戦うが敗れ、播磨に帰って来た。

 すでに、播磨の国は山名氏の領国となっていたが、山名氏に反発している者たちや隠れ潜んでいる赤松家の遺臣たちも、かなりいた。左馬助は彼らと連絡を取り、ひそかに兵を集め、かつては自分の城だったが、今は廃城となっている善防師(ゼンボウシ)城(加西市)において、再起を図って挙兵をした。初めのうちは調子良く行った。しかし、山名宗全が大軍を引き連れて京から攻め寄せて来ると恐れをなして逃げる者も多く、敗れてしまった。

 左馬助は山名氏を倒すには、山名氏に対抗できるだけの勢力を持つ畠山氏を味方にしなければ不可能だと考え、善防師城を無事に抜け出すと畠山持国を頼って河内の国(大阪府南東部)に逃げた。畠山持国は左馬助を五年近く匿っていたが、やがて、幕府に知られ、管領細川勝元は細川持常に左馬助討伐を命じた。左馬助は隠れていた当麻寺(タイマジ)を囲まれ、無念のうちに自害して果て、その首は京の都で梟された。

 そして、長禄三年(一四五九年)、赤松家が再興された翌年、管領細川勝元を通して、左馬助の所持していた物が赤松政則のもとに届けられた。その中に、太刀や槍、虎皮の袖なしと共に、この脇差があった。初めて脇差の柄をはずして、その紙を見つけた時は、ただのお守りだろうと思っていた。

 ところが、去年の夏、今度は性具入道の甥にあたる彦五郎則尚の遺品が届けられ、その遺品の中にあった脇差の柄の中にも同じような紙が入っていた。

 彦五郎も嘉吉の変の時、無事に城山城を脱出し、その後、赤松の遺臣たちを率いて赤松家再興のために山名宗全と戦うが敗れ、享徳四年(一四五五年)五月に自害して果てていた。

 ただのお守りにしては妙だった。性具入道の花押が、なぜか、気に掛かった。

 それに、この刀が不釣合いだった。四職家の一つである赤松家の武将が持つような刀ではない。いくら、戦に負けたとはいえ、赤松家の侍大将が持つべき刀ではなかった。所領の備前にはいくらでも名刀があった。左馬助にしろ、彦五郎にしろ、名刀の何振りかは持っていたはずだ。なのに、なぜ、こんな脇差を差していたのか。

 よりによって、左馬助、彦五郎の二人が揃って、不釣合いな脇差を差していた‥‥‥しかも、左馬助は朝鮮にまで行って海賊まがいの事をしていたと言う。その間、ずっと、この脇差を大事に差していた。この脇差より立派な物を手に入れる機会はいくらでもあった事だろう。しかし、手放さなかった。

 何かある‥‥‥

 この性具入道の花押入りの紙切れには、何か重要な意味があるはずだ‥‥‥

 もしかしたら、まだ、他にも、このような紙を隠した脇差があるのかもしれない。

 美作守は嘉吉の変の時の赤松一門の者を調べてみた。

 まず、性具入道、そして、弟の伊予守義雅、龍門寺真操、兵部少輔祐之、左馬助則繁、兵庫助則之、嫡男の彦次郎教康、甥の彦五郎則尚、以上八人であった。その他、性具入道のすぐ下に民部大輔祐政、常陸介祐尚(彦五郎の父)という二人の弟がいたが、嘉吉の変の前に、すでに亡くなっていた。

 性具入道は城山城にて自害、入道の太刀や脇差は城と共に燃えてしまった。

 兵部少輔と兵庫助は坂本城落城の前に戦死している。二人の脇差はどこに行ってしまったのか、まったくわからない。

 龍門寺真操は坂本城において自害、真操の脇差は坂本城落城の時、燃えてしまったのか、それとも、網干(姫路市)の龍門寺に残されているかもしれないと思って、手下を使って捜させてみたが見つからなかった。

 左馬助と彦五郎の脇差は今、手元にある。

 残るは、伊予守と彦次郎。彦次郎は伊勢で自害した。もしかしたら、北畠氏が保管しているかもしれない。

 伊予守は今のお屋形、政則の祖父に当たる。伊予守は敵に回った赤松播磨守の陣において自害したが、太刀と脇差を形見として子の彦三郎に与えた可能性はある。しかし、彦三郎の子、政則は伊予守の脇差は持っていなかった。また、彦三郎の弟である勝岳性存に聞いてもみたが知らないと言う。

 伊予守の脇差は一体、どこに行ってしまったのだろうか。

 もし、政則の姉が生きていたとしたら、形見として、その脇差を持っている可能性はあった。

 太刀の方は残っていて、今も政則が大事に保管している。その太刀は伊予守が持つにふさわしい応永備前の業物(ワザモノ)であった。しかし、太刀の柄の中には何も入っていなかった。

 美作守は二つの脇差を並べたまま、しばらく、考え込んでいた。

 今まで、二つの意味のわからない紙の事は気にはなっていたが、何かと忙しくて、そんな事に構っている暇などなかった。ようやく、正月の忙しさもおさまり、久し振りに見てみたが、相変わらず、『岩戸』と『不二』の意味はわからない。

『岩戸』とは、天の岩戸の事だろうか、それとも、どこかの地名の事か‥‥‥

『不二』とは、富士山の事か、それとも、二つとは無いという意味か‥‥‥

『岩戸』と『不二』、富士山のどこかに岩の戸があるのか‥‥‥

 富士山と言っても、駿河(静岡県中東部)の富士山とは限らない。播磨富士もあれば、備前富士、有馬富士、阿波富士、讃岐富士、近江富士もある。まだまだ、あるだろう。そのどこかの富士山のどこかに、岩戸があると言うのか‥‥‥

 性具入道が書いたのだから、やはり、播磨富士が妥当な所だろう。播磨富士と言えば笠形山だ。笠形山のどこかに岩戸があり、そこに何かを隠したというのだろうか‥‥‥

 わからなかった。

 美作守が首を傾げながら、脇差を抜いたりして眺めていると、突然、庭の方から物音が聞こえた。黙って、この離れの書院まで入って来る者はいないはずだった。

 美作守は抜いたままの脇差を構え、物音の方に振り向いた。

 カラスが木の上で羽根をばたつかせていた。戦が始まってからというもの、カラスの数が増えていた。今の京の都は兵士とカラスの町のようだった。

 美作守は舌を鳴らすと、脇差を鞘に納めた。

「いい正月じゃな」と、ふいに声がした。

 カラスと反対の方に山伏が立って笑っていた。

 阿修羅坊だった。

「いい天気じゃ」と阿修羅坊は錫杖を鳴らしながら、空を見上げた。

「何だ、おぬしか、脅かすな‥‥‥相変わらず、天狗のような奴じゃのう」

「カラスの側には天狗がおるものじゃ。それにしても、この庭はぐちゃぐちゃじゃのう」

 阿修羅坊は高下駄に付いた泥を落とした。

「ここに来るのに、わさわざ、そんな所を通る奴はおらんからのう」

「刀の手入れですかい」と阿修羅坊は縁側に腰を降ろした。

「どうした。いい土産でも持って来たのか」

 阿修羅坊は首を振った。「残念ながら、そう簡単にはいかんらしい」

「どこまでわかったんだ」

「大した事はわからん」と阿修羅坊は言ってニヤリと笑った。

「勿体ぶらずに話せ」

「ああ。まず、お屋形様の姉君の事だが、確かにいたという事ははっきりした」

「なに、姉君がいた」と美作守は身を乗り出した。

「そう、先走るな。順を追って話す‥‥‥三十年前、嘉吉の変の時、お屋形様の父上は天隠龍沢殿に連れられて、母親の実家、三条家の所領だった近江(滋賀県)浅井郷丁野(ヨオノ)村に隠れたんじゃ。

 十二歳の時に元服して彦三郎義祐(ヨシスケ)と名乗り、小谷山の裾野の須賀谷に移られた。

 十七歳の時に家臣の中村弾正忠の娘を嫁に貰ったんじゃ。その娘というのはお屋形様の母君、北の方様じゃな。その北の方様が近所の郷士の家で見つけ出して、下女として雇ったのがお咲という娘で、これが姉君の母親というわけじゃ。

 お咲はよく気の付く娘だったらしくてのう、北の方様のお気に入りの下女だったらしい。やがて、そのお咲が彦三郎殿の目に止まり、お手付きとなったわけじゃが、北の方様には内緒だったらしいのう。二年程、北の方様の目を盗んで会っていたらしいが、とうとう、見つかっての、お咲は追い出されたんじゃ。しかし、すでにその時、お咲の腹の中には子供ができておったんじゃ。

 お咲は実家に戻ったが、実家というのは彦三郎殿の隠れ家とは目と鼻の先じゃ。自然、北の方様にもお咲の腹が大きくなっていくのがわかってしまった。北の方様はお咲に対して、いやがらせをしたらしいのう。女の嫉妬という奴じゃ。北の方様は嫁いで来てから四年にもなるのに子供ができんかったから余計、お咲の事が頭に来たんじゃろうのう。

 お咲は今浜(長浜市)の親戚の家に預けられ、無事に赤子を産んだ。

 彦三郎殿は北の方様に隠れて、我が子に会いに今浜まで何度か通っていたらしい。ところが、翌年、盗賊どもに襲われて、一家は全滅、皆殺しになったそうじゃ。その盗賊というのは、前の年に京の都で暴れ回っておった奴ららしい。京で好き勝手な事をしておったが、追われて近江に逃げて来て、今浜を襲い、金目の物を奪うと関東の方に去って行ったそうじゃ。

 赤子は幸運にも無事じゃった。ある山伏によって助け出され、どこかへ連れ去られたんじゃ。その山伏というのは伊勢の世義寺(セギデラ)の山伏じゃった」

「なに、伊勢だと」

「そうじゃ。伊勢の世義寺じゃ」

「伊勢か‥‥‥伊勢といえば北畠じゃな。北畠が絡んでおったのか‥‥‥」

「という事じゃ」

「どうして、北畠の山伏がそんな所におったんじゃ」

「わからん。わからんが、その世義寺の山伏がお屋形様の姉君をさらって行った事は確かじゃ」

「どこへ」

「それもわからん」と阿修羅坊は首を振った。

「伊勢の北畠か‥‥‥」美作守は唸りながら腕を組んで、庭の方を眺めた。

 松の木のてっぺんにカラスが超然と止まっていた。

「その山伏だが」と阿修羅坊は言った。「長禄元年(一四五七年)十二月に吉野において戦死しておる」

「ちょっと、待て」と美作守は驚いた顔を阿修羅坊に向けた。「長禄元年に吉野で戦死?」

「例の事件じゃ」と阿修羅坊は頷いた。

「なぜ、北畠の山伏が例の事件に拘わっておるんじゃ」

「それもわからん。わからんが、北畠氏が何らかの関係を持ってる事は確かじゃ。これから、伊勢に行って調べて来る」

 美作守は庭の枯木をぼんやりと眺めながら、何かを考えていた。

 その隙に阿修羅坊は消えた。来た時と同じく、音もなく庭から去って行った。

 美作守は何事もなかったかのように、また、二振りの脇差を見ながら考え込んでいた。

 阿修羅坊の言った例の事件とは、赤松家の遺臣たちが後南朝の二皇子を殺害して、神爾(シンジ、八尺瓊の曲玉)を奪い返そうとした事件である。結局は失敗に終わり、赤松の遺臣たちが大勢、殺された。

 まだ、赤松家が再興される前の事であった。

 赤松家の遺臣たちは何とか、赤松家を再興しようと赤松左馬助や彦五郎らを立て、再三、蜂起したが、山名宗全の前にことごとく敗れ去った。

 享徳四年(一四五五年)彦五郎が自害し、残るは伊予守の遺児、彦三郎と出家した弟の勝岳、二人だけになった。赤松の遺臣たちは彦三郎に赤松家再興の夢を託した。

 それより十二年前の嘉吉三年、後南朝の泰仁(ヤスヒト)王を奉じた南朝の臣、楠木、越智(オチ)氏らが御所を夜襲し、三種の神器(ジンギ)のうちの神璽と宝剣(草薙の剣)を奪うという事件があった。宝剣は比叡山の衆徒らによって回収されたが、神璽は御南朝の本拠地、吉野の山奥に持ち去られてしまった。

 赤松家の遺臣たちは、その神璽を取り戻す事を条件に赤松家の再興を幕府に申し出て許された。かくして、赤松の遺臣たちは吉野の山奥に潜入し、偽って尊秀(タカヒデ)皇子、忠義皇子に仕えた。その時、彦三郎も妻の姓、中村を名乗って潜入していた。

 長禄元年(一四五七年)十二月、赤松の遺臣たちは二皇子を殺害して神璽を奪った。しかし、吉野の郷民らに追撃されて多くの死者を出し、神璽も奪われてしまった。彦三郎も重傷を負い、やっとの事で近江まで逃げ帰ると、そのまま、寝たきりになってしまった。

 その翌年、生き残った赤松の遺臣が郷民の手から神璽を取り戻し、無事、京の御所に戻された。その功によって、彦三郎の嫡男、次郎政則を当主に赤松家の再興が許されたのであった。

 政則の姉を連れ去った伊勢の山伏が、この事件に拘わって戦死していたと言う‥‥‥

「伊勢の北畠か‥‥‥」美作守は庭を見つめながら独り呟くと、二振りの脇差を布でくるみ、古びた鎧櫃(ヨロイビツ)の中に片付けた。

 カラスが一鳴きして、飛び去って行った。





 まだ、薄暗い早朝、雪に覆われた山道を大勢の若者たちが黙々と歩いて行った。

 甲賀、飯道山。

 今年も例年のごとく、武術修行に来た若者たちの山歩きの行が始まっていた。

 本堂前の広場に集まった三百人近くの若者たちは順番に飯道権現を拝み、行者堂の役(エン)の行者を拝み、山道へと向かって行った。

 高林坊を初め、先達山伏たちが本堂の前に並んでいる。その中に、瑠璃寺の山伏、阿修羅坊の姿があった。

 阿修羅坊は京の浦上屋敷を出ると真っすぐ、伊勢へと向かった。

 伊勢の世義寺(伊勢市)に行き、お屋形の姉君を連れ去って吉野で戦死したという山伏、東蓮坊が姉君をどこにやったかを探るためだった。すでに、東蓮坊が死んでから十五年も経っている。東蓮坊を知っている山伏はなかなか見つからなかった。

 北畠氏と世義寺のつながりも、それとなく聞いてみたが、今は、あまり、つながりはないようだった。先代の教具の頃は、世義寺の山伏たちも北畠氏のために色々と活動していたらしいが、去年の春、教具が亡くなり、政郷の代になってからは、山伏をあまり近づけなくなったと言う。

 東蓮坊という山伏は、北畠教具の命令で赤松彦三郎義祐の身辺に近づき、どういう理由かわからないが、彦三郎の娘をさらい、その後、吉野に行って赤松家の浪人たちと共に討ち死にしたに違いない。しかし、それを命じた北畠教具もいない今、娘の行方を捜すのは難しい事だと改めて思った。

 東蓮坊は近江浅井郷の鶏足寺(ケイソクジ)に潜んで彦三郎を見守っていた。その頃、鶏足寺には山伏に化けた赤松の遺臣、中村某が新禅坊と名乗り、同じく、彦三郎を見守るために潜伏していた。東蓮坊は長い間、鶏足寺にいるうちに、その新禅坊と知り合い、意気投合して、赤松家のために吉野まで行ったと思われる。

 吉野に行った二人は彦三郎と共に、偽って後南朝の皇子に仕え、神璽を奪おうとするが失敗して殺される。吉野に行った時、東蓮坊は赤子を連れてはいなかった。赤子は伊勢のどこかにいるのかもしれない。

 教具なら知っているはずだが、今の政郷が知っている可能性は低かった。政郷はまだ、二十代初めと聞いている。東蓮坊が死んだ時は十歳にもなっていない。知っているはずはなかった。

 ここまで来て、お屋形様の姉君を見つける手掛かりはプッツリと切れてしまった。

 これ以上、世義寺にいてもしょうがない。無駄だと思うが、北畠氏の本拠地、多気にでも行ってみるかと世話になった山伏に挨拶をして帰ろうとした時だった。ふと、思い出したらしく、その山伏が鉄心坊という老山伏がいるが、東蓮坊の事を知っているかもしれないと言った。

 鉄心坊は世義寺にはいなかった。『伊勢山上(サンジョウ)』と呼ばれる山伏の霊場、飯福田寺(イブタジ)にいると言う。飯福田寺は松坂から奈良街道に入り、北畠氏の支城、大河内城と坂内城の城下町を通り、二条という所から街道を離れ、山の中に入った所にある。

 阿修羅坊はさっそく、飯福田寺に向かった。

 雪を踏み分け、飯福田寺に来てみたが鉄心坊はいなかった。岩内(ヨウチ)の瑞巌寺(ズイガンジ)にいると言う。阿修羅坊は雪の降る中、飯福田寺の東にある観音岳を越えて山麓の瑞巌寺へと向かった。

 鉄心坊はいた。

 瑞巌寺の僧坊で、丸くなって火鉢にあたっていた鋭い目付きの痩せた老山伏が鉄心坊だった。髪も髭も真っ白で、七十歳位に見えた。余程、修行を積んでいるらしく、神気に似た威厳が漂う大先達の山伏だった。

 阿修羅坊は挨拶を済ますと、さっそく、東蓮坊の事を聞いてみた。

 東蓮坊は鉄心坊の弟子だったと言う。もう昔の事だから、言っても構わんだろうと鉄心坊は話してくれた。

 阿修羅坊の思った通り、東蓮坊は北畠教具の命令で赤松彦三郎の身辺を探っていたと言う。彦三郎だけでなく、教具は嘉吉の変後の赤松一族すべての者の身辺に誰かを見張らせていた。教具は嘉吉の変の後、北畠氏を頼って来た赤松彦次郎教康を見殺しにしてしまった事を後になって悔い、赤松家のために何かしてやりたいと思っていた。赤松浪人たちが必死になって、赤松家を再興しようとしているのを見て、陰ながら助けようと思っていたらしい。

 鉄心坊は東蓮坊が近江より連れて来た赤子の事は覚えていた。東蓮坊は赤子を多気の御所まで連れて行った。それから、その赤子がどこに行ったのか詳しくは知らないが、甲賀の尼寺に預けられたらしい、と東蓮坊が言っていたと言う。それ以上の事は鉄心坊は知らなかった。

 その晩、阿修羅坊は瑞巌寺に泊めてもらい、老山伏と仕事抜きで語り合い、次の日の朝、甲賀へと向かった。

 甲賀の飯道山を拠点に、甲賀中の尼寺を当たってみようと思っていた。そこで、ばったり会ったのが高林坊だった。実に、二十年振りの再会だった。

 かつて、若き日の二人は葛城山(カツラギサン)で修行していた。年は阿修羅坊の方が二つ上だが武術の腕はほぼ互角で、二人でよく稽古したものだった。二人が共に葛城山で修行したのは一年足らずだったが、二人は修行以外でも気が合って、よく遊び回ったものだった。

 やがて、阿修羅坊は播磨の瑠璃寺に帰り、しばらくして、高林坊は飯道山に来た。別れる時、また、そのうち会おうと約束したが、結局、会う事はなく、二十年経った今、偶然に再会したのだった。

 二人は二十年の歳月を忘れ、青年時代に戻って昔の事を懐かしく語り合い、夜が明けるまで飲み明かした。

 次の日から、阿修羅坊は甲賀中の尼寺を巡った。

 高林坊に、山下の花養院の松恵尼に聞けば、もしかしたら、知ってるかもしれないと言われ、行ってみたが、そんな古い事はちょっとわからないと言われた。初めから、そんな簡単にわかるわけないと思っているので、阿修羅坊は心当たりがあったら聞いてみてくれと頼み、松恵尼と別れた。

 尼寺の数は思っていたより多かった。片っ端から、当たってみたが収穫はなかった。

 あの赤子が今、生きていれば、今年で十九歳になっている。二人ばかり十九歳の尼僧がいたが、どちらも身元がはっきりしていて別人だった。

 赤子の時、尼寺に預けられたとしても尼僧になるとは限らない。里子に出されたかもしれない。そうだとすると、ますます捜し出すのは難しい。十七、八年前に赤子を預からなかったかどうかも聞いてみたが、いい返事は返って来なかった。ほとんど庵主が代わっており、そんな昔の事はわからなかった。

 阿修羅坊は途方に暮れ、今度は北畠氏と何らかの関係のあった尼寺を捜してみる事にした。これも難しかった。

 かつて、甲賀の地は北畠氏の所領だった事がある。五十年程前の先々代の満雅の時であった。ところが、満雅は天皇の帝位継承問題で幕府と争って敗れ、甲賀の地は六角氏の所領となった。やがて、応仁の乱が始まり、北畠氏は東軍となり、六角氏は西軍となっている。お互いにまだ戦をしてはいないが、西軍の六角氏の地にいて、東軍の北畠氏とつながりのある尼寺を捜すのは難しかった。

 阿修羅坊が飯道山に来て、すでに十日が過ぎていた。収穫はまったくなかった。

 例の赤子が甲賀に来たという事さえ確認できない。あの老山伏が嘘を付いたとは思えないが、もしかしたら、全然、見当外れな事をしているのかもしれないと阿修羅坊は自分のしている事に自信が持てなくなって来た。

 こういう時は何もかも忘れてしまうのが一番だと思い、久し振りに山歩きでもするかと、今日、こうして朝早くから、大勢の修行者たちを高林坊と一緒に見送っていたのだった。

 若者たちが全員、出掛けた後、阿修羅坊は高林坊と共に若者たちの後に従った。踏み固められた雪道を二人はのんびりと歩いた。

 今日は仕事の事は忘れてしまおうと思うが、頭の中は、これからどうやって捜すかという思いが、ぐるぐると駈け巡っていて忘れる事はできなかった。高林坊が何かと話しかけて来るが阿修羅坊の耳には入らず、ただ、聞き流しているばかりだった。

 高林坊は、最近まで、この山で修行していたという太郎坊とかいう山伏の話をしていた。阿修羅坊は聞いている振りをしながら、ただ、適当に相槌を打っていた。

「ちょっと、待て」と阿修羅坊は急に言って立ち止まった。

「どうした」と高林坊も立ち止まった。

「今、何と言った」

「うん? 太郎坊が花養院にいた娘を嫁に貰って、帰って行ったと言ったが‥‥‥」

「花養院に娘がいた?」

「ああ、楓という娘じゃ‥‥‥そういえば、あの楓という娘、松恵尼殿が育ててはいたが、自分の娘ではないはずじゃ」

「その娘というのは年はいくつじゃ」

「十七、八じゃろうのう。いや、年が明けたから、十八、九になってるかのう」

「その娘というのは、いつから花養院にいるんじゃ」

「さあのう」と高林坊は首を振った。「わしはよく知らんが、小さい頃から松恵尼殿が育てていたらしい」

「ううむ‥‥‥で、その太郎坊というのはどこに帰ったんじゃ」

「さあ、知らんのう。生まれは伊勢じゃと聞いた事はあるがのう。詳しくは知らん」

「伊勢? 調べればわかるじゃろう」

「それは、わからんかもしれんのう」

「なぜじゃ。修行者の身元も調べんのか、この山は」

「太郎坊は特別なんじゃ。わしと同期にこの山に来た風眼坊という奴がいるんじゃが、太郎坊はそいつの弟子なんじゃ、それで、身元など一々調べなかったんじゃよ。今、思えばおかしなもんじゃがのう、わしも太郎坊の事は何も知らん。本名も知らんし、ここに来る前はどこで何をしていたのかも知らん。わしが思うには、奴は武士の出じゃろうとは思うがのう。とにかく、武術に関しては凄い才能を持っておる。このわしでも敵わん程じゃ」

「なに、おぬしより強いのか、そいつは」

「ああ、多分な‥‥‥」

「いくつなんじゃ、その太郎坊というのは」

「まだ、二十歳位さ」

「ほう、まだ二十歳で、そんなに強いのか」

「ああ。奴はまだまだ強くなるじゃろう」

「とにかく、伊勢なんじゃな。そいつの生まれは」

「多分な」

「伊勢か‥‥‥そいつの師匠の風眼坊とやらは、この山におるのか」

「いや、いない。どこにおるのかもわからん」

「じゃろうな、そんな気がしたよ」と阿修羅坊は苦笑した。

「花養院の松恵尼殿に聞けばわかるかもしれんぞ」と高林坊は言った。

「また、松恵尼殿か‥‥‥」

「風眼坊と松恵尼殿のつながりは良く知らんが、風眼坊はここに来れば、必ず、あそこに寄る。松恵尼殿なら風眼坊の居所位はわかるかもしれん」

「その娘の名前、楓とか言ったな」と阿修羅坊は確認した。

「ああ、そうじゃ」と高林坊は頷いた。

「わしは、ちょっと、花養院に行って来る」阿修羅坊はそう言うと、来た道を戻って行った。

「相変わらず、せわしいのう」と高林坊は阿修羅坊の去って行く姿を見送り、修行者たちの後を追って歩き始めた。





「一筋縄では、行かんわい」

 阿修羅坊はまた、考え込んでいた。

 笠と蓑(ミノ)を付け、手拭いで頬被りをし、百姓のなりをして道の脇にある小さな祠(ホコラ)の横に、しょぼくれたように座り込んでいる。

 強い北風に枯枝が音を立てて揺れていた。

 たんぼの向こうに農家が一軒あり、その向こうに花養院の門が見えた。

 昼過ぎだというのに人影はなかった。

 空は雲で覆われ、薄暗く、今にも雨が降りそうだった。

 松恵尼には何度も会ったが、どうも、本当の事を言っていないようだった。

 楓という娘は甲賀の郷士の娘だと言う。幼い頃、両親に先立たれ、松恵尼が育てていたと言う。その郷士というのも調べてみたが確かにいた。娘がいたかどうかまではわからなかったが、その郷士が戦死し、妻は病で亡くなっている。身内は無く、もし、娘がいたとすれば尼寺で預かったとしてもおかしくない。

 楓が一緒になった太郎坊の事も聞いてみたが、よくは知らないと言う。伊勢の郷士の伜ではないかというだけで、やはり、本名はわからないと言う。よく、そんな身元のわからない男の所に娘同然のように育てた娘をやったな、と聞くと、「それはしょうがない。お互いに好き合ったんだから一緒にするしかないでしょう」と笑いながら言う。

 風眼坊殿の弟子だから、安心して嫁にやったと言う。その風眼坊の居所を尋ねると熊野の山の中の小さな村だと言う。村の名までは知らないが、今は家族と一緒にのんびり暮らしているだろう。もうしばらくすれば、また、ひょっこりと現れるだろうと言っていた。

 どうも、松恵尼は何かを隠しているように感じられた。とぼけ方がうまい。尼にしておくには勿体ない美しい顔でにっこり笑われると、なぜか、ごまかされてしまう。

 飯道山で松恵尼の事を調べてみたが、出家した時と出家した寺の名前、それと、松恵尼が花養院に来たのが二十年も前という事がわかっただけで、詳しい事は何もわからなかった。係の者に聞いてもみたが、十年程前、山が火事になり、その時、文書類がほとんど焼けてしまい、二十年も前の事などわからないとの事だった。

 阿修羅坊は松恵尼の正体をつかもうと、山伏たちや村人たちに、それとなく、松恵尼の事を聞いて回った。

 松恵尼は甲賀に来た当時、まだ十九歳で、それはもう綺麗で、まるで、生きている観音様のようだったと言う。誰もが尼さんにしておくのは勿体ないと思い、村の若い者たちは用もないのに花養院の回りをうろうろしていたらしい。ところが、松恵尼は女だてらに薙刀の名人で、近寄る男たちはみんな、やられてしまった。中には、わざわざ、松恵尼の薙刀にやられに行く馬鹿者もいたと言う。そのうちに、松恵尼は村の娘たちに薙刀を教えるようになった。

 多分、武士の出だとは思うが、はっきりした事はわからない。北畠氏とのつながりはないか、と聞いてもみたがわからなかった。

 応仁の乱が始まった頃、身分の高そうな侍が何度か花養院に出入りしていたが、どこの武士だかはわからない。最近は、あまり、侍たちも訪ねて来なくなったと言う。

 松恵尼の母親が住んでいたという農家が見つかり、何かがつかめるだろうと行ってみたが、義助という下男と甚助という大工がいただけだった。義助は母親が亡くなった後に雇われたので、松恵尼の昔の事など、まったく知らなかった。甚助の方はただ、家の修理を頼まれただけだから何も知らない。義助に、松恵尼はよく、この家に帰って来るのか、と聞くと、お客さんが見えた時、ここに連れて来て泊める事もあるが、用が無ければ全然、来ないと言う。

 その農家というのが、今、阿修羅坊がいる祠と花養院の間にある、たんぼの中の一軒屋なのだが、阿修羅坊がここに来て以来、松恵尼は一度も、その農家には行かなかった。

 阿修羅坊が甲賀に来て、すでに一月が過ぎてしまっていた。

 お屋形の姉君捜しは、ここに来て、行き詰まってしまった。少しも進展しない。

 もしや、楓という娘が、そうではないかと思うが、その楓は、今、どこにいるのかわからず、楓と一緒になった太郎坊というのも正体がつかめない。

 太郎坊という奴は『志能便(シノビ)の術』とかいうのを作り、十一月の末になれば、それを教えるために飯道山に戻って来ると高林坊は言うが、それまで、のんびりと待っているわけにもいかない。

 どうも、松恵尼が曲者(クセモノ)だった。身元がまったくわからないというのもおかしい。何かを隠しているに違いなかった。本人に聞いても、すでに、仏に仕える身、俗世間の事はもう、すっかり忘れてしまいました、と笑いながら言うだけだった。松恵尼の行動を見張ってもみたが怪しい所は少しも無かった。毎日、判で押したような退屈な生活だ。あんな生活をしていて何が楽しいのだろうか。松恵尼の美しい姿を見ては、勿体ないと思う阿修羅坊だった。

 二月の末になって、かねて、呼んでいた阿修羅坊の手下が二人、瑠璃寺からやって来た。阿修羅坊は二人を飯道山に入れ、花養院の見張りを命じ、北畠氏の本拠地、多気へと向かう事にした。

 太郎坊というのが伊勢の出身なら、北畠氏と何らかの関係があるかもしれない。そして、高林坊が言うには余程、腕が立つらしい。本名はわからないにしろ、若くして腕の立つ武士を捜し出すのは簡単だった。二年間、修行して、強くなった太郎坊は当然の事として、自分の腕を試すために城下に出るはずだ。必ず、伊勢の国のどこかの城下にいるだろう。もし、太郎坊が一介の郷士の伜だとすれば、まず、『伊勢の都』と呼ばれる多気に行くはずた。太郎坊の線から楓を捜してみようと思っていた。

「背水の陣でも敷いてみるか‥‥‥」と阿修羅坊は呟いた。

 甲賀を去る前に、松恵尼にすべてをぶちまけてみようと考えた。松恵尼が隠しているに違いない何かを聞き出すには、こっちも、すべて、打ち明けた方がいいだろう。

 浦上美作守には口止めされてはいたが、赤松家とは何の関係もない、あの尼僧に打ち明けたとしても差し支えはないだろう。もし、松恵尼が阿修羅坊の睨んだ通り、北畠氏と関係あったとしても、北畠氏なら赤松家と同じ東軍だし、赤松家に対して悪いようにはすまい。一か八か、すべてを話し、松恵尼の反応をみようと思った。

 阿修羅坊は山伏の姿に戻り、旅支度をして花養院を訪ねた。

 松恵尼にすべてを話し、協力してくれと頼んだ。

 松恵尼は静かに阿修羅坊の話を聞いていた。特に反応は示さなかった。

 赤松氏と言っても、北畠氏と言っても、顔色ひとつ変えず、ただ、黙って阿修羅坊の話を聞いている。

 話が終わると、「御苦労様です」と松恵尼は言い、「赤松殿の姉君様が見つかるといいですね」と人事のように言った。

 阿修羅坊の期待は外れた。こっちが、本当の事を言えば松恵尼も打ち解け、本当の事を話してくれるだろうと思ったが、考えが甘かった。

「また、一からやり直しじゃ、とりあえず、北畠氏の多気にでも行ってみるか」と阿修羅坊は言い残し、松恵尼と別れた。

 外は小雨が散らついていた。

 阿修羅坊は南に向かって旅立って行った。しかし、真っすぐに多気には向かわなかった。また戻って来て、三日間、花養院を見張っていた。松恵尼が阿修羅坊の話を聞き、何らかの反応を示すはずだった。ところか、松恵尼は何の反応も示さなかった。

 三日目の夜、阿修羅坊は夜空を見上げていた。

 星が綺麗だった。

 阿修羅坊は今度こそ、本当に甲賀を後にした。



 一月後の三月の末、再び、飯道山に阿修羅坊の姿があった。

 髭は伸び、目がくぼみ、疲れきっているようだった。

 手下の二人から報告を受けると、ただ頷き、伸びた髭を撫でていた。

 松恵尼は相変わらず、尻尾を出さなかった。このまま見張っていても、多分、尻尾は出さないだろう。

 それより、木造(コヅクリ)の城下で耳にした事が気になっていた。

 正月の十五日、山名宗全が細川勝元に和平を申し入れたという。結果は失敗に終わったらしいが気になっていた。今、和平が成立してしまえば、赤松家に取っては不利になる。

 赤松家は東軍となり西軍の山名氏と対立しているため、名目上、播磨、備前、美作と以前のように守護職に就いてはいるが、完全に領国となっているのは播磨だけだった。備前と美作には、まだ、山名方の国人がかなりいる。和平が成立してしまえば、備前、美作は山名宗全のものとなるのは必定だった。

 また、山名氏の方から和平を申し入れたという事は、宗全入道はかなり弱気になっているという事だ。もしかしたら、病になっているのかもしれない。宗全入道、すでに七十歳に近い。病に倒れたとしてもおかしくはない。もし、そうだとすれば、山名軍をたたくのは今をおいて他にない。

 阿修羅坊はとりあえず、京に戻る事にした。

 十一月の末になれば、太郎坊はこの山に来るだろう。その頃、もう一度来ればいいと思い、手下を連れて飯道山を後にした。



 皮肉な事に、太郎坊と楓は一月後の四月二十日、飯道山に戻って来た。
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