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陰流の開祖であり、忍びの術の開祖でもある愛洲移香斎の物語です。
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10.日輪坊と月輪坊






 晴れ晴れとした顔をして、太郎が大峯山から帰って来たのは、予定の一ケ月を半月も過ぎた七月の十六日だった。

 山に籠もっていたので知らなかったが、下界はお盆だった。

 帰って来る途中、あちこちで、庶民たちが『念仏踊り』を踊っていた。『風流(フリュウ)踊り』とも呼ばれ、鉦(カネ)や鼓(ツヅミ)で囃し立てながら、百姓や町人たちが村々を巡って熱狂的に踊り狂っていた。

 疫病などの悪霊払いとして始まった『風流踊り』は、やがて、庶民から武家や公家にまで広まり、盛大に行なわれるようになって『盆踊り』として定着して行く。この風流踊りは、京に戦が始まった頃より、なりをひそめていたが、また、去年あたりから盛り返して、盛んに行なわれるようになって来ていた。

 昼頃、甲賀に入った太郎は、まず、飯道山に行って、高林坊に謝らなければならないと思ったが、それよりも、楓と百太郎の顔が一目見たくて花養院に顔を出した。

 孤児院では、相変わらず、子供たちが元気に遊び回っていた。

 太郎は百太郎を捜したが見当たらなかった。楓の姿も見えなかった。

 子供たちの朝飯の後片付けでもしているのか、それとも、寺の寺務でもしているのかな、と思ったが、何となく、花養院の雰囲気が、いつもと違うような感じがした。みんなが自分を見る目が何となく変だった。

 太郎は自分の姿に気づいた。薄汚い山伏の格好のままだった。ここでは仏師の三好日向だったという事をつい忘れてしまった。

 太郎は孝恵尼に、大峯山に登って来たので、こんな格好をしていると訳を話してから、「楓はどこにいますか」と聞いてみた。

 孝恵尼は口ごもっていた。太郎がしつこく聞いたら、やっと、京に行ったと答えた。

 どうして、と太郎が聞いても話してくれなかった。松恵尼に聞いてくれと言う。

 何か、松恵尼に頼まれて、京まで行ったのかと思い、詳しく聞こうと、太郎は庫裏(クリ)の方に向かった。

 松恵尼は誰か、客人と会っているようだった。

 太郎は客間の前の縁側に座って声を掛けた。

「あら、まあ」と松恵尼は言って笑った。「やっと、帰って来ましたね。どうぞ、お入りなさい」

 太郎が中に入ると、松恵尼は旅の商人らしき男と話をしていた。

 松恵尼は太郎と商人をお互いに紹介した。

 商人は伊助という名で、三十半ば位の薬売りだった。太郎たちが作っている薬を売り歩いてくれている商人の一人だ、と松恵尼は説明した。

「ほう、あなたでしたか」と伊助は太郎を見ながら言った。「まだ、若いのに大したもんですな。あの薬はなかなか評判いいですよ。良く売れます」

「ありがとうございます。売ってもらえるので、本当に助かっています。これからも、よろしくお願いします」と太郎は伊助に頭を下げた。

「いや、それは、こちらの言う事ですよ。これからもお願いしますよ」伊助は商人らしく丁寧に頭を下げた。

「ところで、楓の事なんですけど」と太郎は松恵尼に目を移した。

「わかっています」と松恵尼は頷いた。「楓は今、京にいます。実は、こうなる前に、あなたに話しておかなくてはならなかったのですが、遅すぎました」

「遅すぎた?」

「ええ、楓の素性の事です」

「楓の素性? 楓の両親は楓が赤ん坊の時、死んだのではなかったのですか」

「両親はすでに亡くなっています。しかし、弟が一人いたのです」

「弟?」と太郎は松恵尼の顔を見つめた。

「その弟というのが普通の人だったら、問題はなかったのですけど‥‥‥」

「武士だったんですね」と太郎は聞いた。

 松恵尼は頷いた。「しかも、ただの武士ではありません」

「身分のある武将か何かですか」

「ありすぎます‥‥‥播磨、備前、美作の三国の守護職に就いている赤松兵部少輔殿が、楓の弟なのです」

「赤松兵部少輔‥‥‥」

「赤松兵部少輔殿の名前を聞いた事はありますか」と松恵尼は聞いた。

 太郎は首を振った。聞いた事はなかった。播磨、備前、美作の国と言われても、京の都より西の方にあるというのを知っているだけで、はっきり、どこにある国なのかわからなかった。

 松恵尼は、まず、赤松氏の事から太郎に話してくれた。

 嘉吉の変の将軍暗殺から、赤松氏の滅亡、生き残った楓の父親、赤松彦三郎の事、そして、赤松家の再興、応仁の乱での赤松氏の活躍、今現在の赤松氏の事など、太郎にわかり易く話してくれた。

 伊助も側で聞いていた。松恵尼が、伊助にも、これから楓の事で色々と仕事をしてもらうので、一応、聞いておいた方がいいだろうと言った。

 赤松氏の事を話し終わると、今度は楓の事だった。楓がどこで生まれて、どういう経路で花養院に来たのか、そして、太郎が留守の間に、何があって、楓がどうしたのか話してくれた。

 太郎は静かに聞いていた。内心は驚いていても、表情には出さなかった。

 楓が赤松家の娘‥‥‥

 播磨、備前、美作、三国の大名の当主の姉‥‥‥

 太郎の故郷、五ケ所浦の殿なんて問題にならない程、大きな領土だった。伊勢の北畠氏より大きいと言う。楓が、そんな殿様の姉だったとは‥‥‥

 思ってもみない事だった。太郎には、どうしたらいいのかわからなかった。

 松恵尼が話し終わると、今度は、伊助が京に行った楓の様子を話してくれた。

 伊助は京にいて、浦上屋敷をずっと張り込んでいたと言う。それを聞いて太郎は驚いた。どう見ても普通の商人にしか見えない、この伊助が、そんな大それた事をするとは、とても考えられなかった。

 伊助の話によると、楓は赤松家のお屋形様の姉君として、毎日、赤松家の家臣たちに披露されていると言う。『楓御料人様』と呼ばれ、大層立派な着物を着て、噂によると、まるで、天女のように綺麗だと言う。やがて、お屋形様と対面するため、播磨の方に行くらしいが、はっきりとした日取りまではわからなかったとの事だった。

 太郎は百太郎の事を伊助に聞いてみた。伊助は百太郎の事まではわからなかった。しかし、赤松氏は楓の事をお屋形様の姉君として大層、大事に扱っているので、百太郎も無事に違いないと言った。

 太郎はさっそく、京に行こうと決めた。

 松恵尼は楓の身の安全は保証するから、弟に会って戻って来るまで、ここで待っていた方がいいと言ったが、太郎にはそんな悠長な事はできなかった。もしかしたら、もう二度と楓と百太郎に会えなくなるのではないかという不安に襲われていた。

 太郎は松恵尼と伊助に挨拶をして花養院を出ると、飯道山にも寄らず、そのまま、京へと向かって行った。

 松恵尼は太郎が出て行く姿を見送りながら、笑っていた。

「困ったものね」と松恵尼は伊助に言った。

「やはり、京に向かいましたか」と伊助も笑っていた。

「人の言う事なんて、聞きはしないわ」

「無理もないですよ。突然、女房と子供をさらわれたようなものですからね。心配で、じっとしていられないのでしょう。ただ、楓殿より、太郎坊殿の身の上の方が心配ですな」

「ええ」と松恵尼は急に真面目な顔をして頷いた。「赤松氏がどう出るか、ですね」

「楓殿の亭主を素直に迎え入れてくれるか」

「多分、それはないでしょう。太郎殿は赤松氏にとって、ただの邪魔者でしかないでしょうね」

「すると、命が危ないですな」

「伊助、頼みますよ。太郎殿はそう簡単にやられないとは思いますが、もし、殺されでもしたら、楓に合わす顔がありませんからね。次郎吉にも連絡を取ったから、そろそろ、こっちに来ると思うけど、来たら、すぐに後を追わせるわ」

「ほう、次郎吉も来るんですか‥‥‥奴に会うのも久し振りだな。奴は今、大和にいるんでしょう」

「そうよ。それに『金勝座(コンゼザ)』にも働いてもらうわ」

「へえ、『金勝座』もですか、懐かしいですね。松恵尼殿がこれだけ大掛かりに動き出すのも久し振りの事ですね」

「可愛いい娘のためですからね」

「違えねえ。わしものんびりしてるわけにはいかねえな。それじゃあ、出掛けます」

「頼むわよ」

「へい」と頷き、荷物を背負うと、伊助は出て行った。





 太郎は山道を太神山に向かって速足で歩いていた。

 太神山を越えて、琵琶湖に出て、京に入ろうと思っていた。

 太郎の足は速かった。

 太郎の後ろには阿修羅坊の手下、日輪坊と月輪坊が跡を付けていた。二人は汗びっしょりになって必死に走っていた。

 日輪坊と月輪坊の二人は阿修羅坊に命ぜられると、さっそく、甲賀に来て、太郎坊が帰って来るのを見張っていた。帰って来れば、花養院に顔を出すだろうと、昼間は花養院、夜になると楓の家を見張った。

 見張るのも大変だった。家の方は誰もいないので家の中で待っていれば良かったが、花養院の方はうまい隠れ場所もなかった。花養院の前はたんぼが広がっているだけで、稲の穂はまだ、充分に隠れられる程、伸びてはいない。隣に般若院という寺があるが、寺の中からだと花養院の門は見えなかった。仕方がないので、般若院の隣を流れる川の土手から見張る事にした。その川の対岸に盛り場があるので、酔っ払った振りをしたり、毎日、同じ所にいても怪しまれるので、少し、離れているが川とは反対側にある神社から見張ったり、毎日、見張る場所を考えるのが大変だった。

 太郎坊が帰って来たのは、二人が張り込んだ日から五日目だった。

 その時、二人は川で子供たちと一緒にドジョウを捕っていた。

 昼近く、薄汚れた格好の山伏が町の方からやって来て、花養院の前で立ち止まり、しばらく、飯道山の方を見上げていたが花養院の中に入って行った。思っていたよりも若い山伏だった。強いとは聞いていたが、それ程、強そうに見えなかった。しかし、かなり、修行は積んでいるらしく、若いわりには山伏としての貫禄があった。

 二人はあいつに違いないと思った。二人は阿修羅坊より、太郎坊を消せと命令されていた。見たところ、太郎坊を消すのはわけない事だと二人は顔を見合わせてニヤリと笑った。

 月輪坊の得意技は吹矢だった。吹矢の先にはトリカブトの毒を塗っていた。月輪坊の吹矢にやられた者は間違いなく即死だった。

 日輪坊の得意技は棒術で、彼の持っている棒はただの棒ではなかった。太い六角の赤樫の棒に鉄の棒が六本埋め込んであった。刀の刃などは一発で折る事ができるし、人に当たれば骨を砕き、打ち所が悪ければ死ぬ事になった。

「兄貴、どこで殺る?」月輪坊は川から上がると、長さ三尺程(約九十センチ)の吹矢の筒を弄んだ。

「焦るな。人に見られない所でこっそりとやるんじゃ」と日輪坊は花養院を見張りながら言った。

「奴が京に向かう途中でやればいいな。兄貴の出番はなさそうじゃのう」と月輪坊は筒の中を覗いていた。

「ふん。そう簡単に行けばいいがのう」と日輪坊も川から上がった。

 二人は花養院の方に向かった。

「こいつで奴はいちころや。あんな奴、早いとこ片付けて播磨に帰ろうや」

「われは、もう、女子(オナゴ)が恋しくなったのか」

「おう、早く帰って、思い切り抱きたいわ」

「今頃、どこぞの男でもくわえ込んでるんじゃねえのか」

「アホ言え。おそよに限って、そんな事あるか。わしの帰りをじっと待ってるわ」

「そうかい。われもうまい事やったのう。確かに、おそよはいい女子じゃ。もし、われが太郎坊にやられたら、わしが可愛いがってやるわ。心配せんでええぞ」

「兄貴、たとえ、兄貴でもそんな事は許さん」

「冗談や」

 こうして、二人は花養院から飛び出して来た太郎坊を追って来たわけだったが、まさか、こんなに足が速いとは予想がはずれていた。二人も山伏である。常人よりは山歩きには自信を持っているが、太郎坊は山道を平地のごとく、まるで、飛ぶような速さで走っていた。ここで、太郎坊を見失ってしまったら阿修羅坊に痛い目に合わされるのはわかっている。二人は必死で、太郎坊の後を追っていた。

 太郎は琵琶湖まで来ると、どうしようか迷っていた。

 日が暮れて、辺りは暗くなっていた。このまま、闇の中を走って京まで行こうと思えば行けた。しかし、京の戦はまだ終わってはいない。どこが、どうなっているのかわからない。足軽たちが、どこかに隠れているかもしれない。足軽たちに負けない自信はあるが、余計な事に巻き込まれたくはなかった。楓のいる場所はわかっている。ここで焦ってみても、いい結果は出ないだろう。

 太郎はここで夜を明かし、明日の早朝に京に向かう事にした。

 日輪坊と月輪坊の二人は何とか、太郎坊に付いて来る事ができた。しかし、もう、くたくただった。太郎坊を倒すどころではない。疲れ切って、立っているのもやっとだった。

 太郎坊が草の上に横になると、二人は崩れるように、その場に倒れた。

 太郎は横になって、星空を見上げていた。

 世の中、色々な事が起こるものだと、しみじみ思っていた。

 自分の心の悩みを解決するため、大峯山に籠もっている間に、楓は俺の悩みなんか比べものにならない程の悩みを抱え込んで、一人で悩んでいたに違いなかった。

 楓御料人様か‥‥‥武士の娘だとは聞いていたが、大した家の娘だ‥‥‥

 赤松氏か‥‥‥楓の弟という事は俺の弟でもあるわけだ。

 一体、どんな奴だろう‥‥‥

 楓もやはり、会いたくて京まで出て行ったのだから、俺もこのまま播磨まで行って、弟とやらに会って来るか‥‥‥

 そんな事を考えている内に、太郎は眠ってしまった。

 どの位、寝ていただろうか、太郎はふと、人の気配で目を覚ました。

 目を開けてみると、まだ暗かった。

 太郎は身動きせずに耳を澄ました。

 静かだった。

 琵琶湖の水の音がするだけだった。

 しかし、誰かが息を殺して近くにいた。

 何者か‥‥‥

 京が近いから足軽の類(タグ)いが、太郎の金でも狙っているのか‥‥‥

 太郎はわざと寝た振りをしていた。

 やがて、奇妙な音がした。矢羽根だと思った。

 その音を聞いた途端、太郎は反射的に起き上がり、五尺の杖を構えた。

 杖の下の方に、小さな矢が刺さった。

 刺さると同時に、太郎の体は宙に飛んだ。

 吹矢の筒を口にくわえたままの月輪坊の目の前に突然、現れた太郎は、杖の先で月輪坊のみぞおちを突いた。

 月輪坊は筒を口に入れたまま、力なく崩れた。

 太郎がその吹矢の筒を手に取ってみようとした時、太郎の頭上に唸りをあげて鉄の棒が落ちて来た。

 太郎は飛び、鉄の棒を避け、手にした筒を第二の敵の顔に投げ付けた。

 吹矢の筒は鉄の棒によって、真っ二つに折れ飛んだ。

 鉄の棒は太郎目がけて、何度も打って来た。

 日輪坊は重い棒をまるで、腕の一部のように操り、なかなかの腕を持っていた。飯道山に行けば師範代位は勤まるだろう。しかし、太郎の敵ではなかった。

 太郎の杖に喉元を突かれ、そのまま、気絶して倒れた。

 太郎は倒れている二人の山伏を見ながら、何者か、と考えた。見た事もない山伏だった。

 太郎は自分の杖に刺さったままの矢を取って眺めた。矢の先に何かが塗ってあった。匂いを嗅いでみてトリカブトだとわかった。という事は、この二人は太郎の命を狙っていた事になる。

 なぜだ‥‥‥

 誰が一体、何のために‥‥‥

 太郎は倒れている二人を木に縛り付けると、湖畔に落ちていた破れ鍋で琵琶湖の水を汲んで、二人の顔にぶつけた。

 吹矢を使った山伏の方が意識を取り戻した。

 太郎は日輪坊の鉄の棒を構えて月輪坊を威し、なぜ、自分を狙ったかを聞いた。

 月輪坊はしぶとかった。なかなか、喋ろうとしなかった。

 太郎は鉄の棒で、月輪坊の右足のすねを打った。

 月輪坊は悲鳴を上げ、苦痛で顔を歪めたが喋ろうとはしなかった。

 太郎は左足を打とうとした。月輪坊はやっと、喋りたくなったようだった。

 月輪坊は阿修羅坊に頼まれて、太郎の命を狙ったと言った。

 阿修羅坊とは誰だ、と聞くと、播磨の国、瑠璃寺の山伏だと言う。

 なぜ、命を狙ったか、と聞いたが、それは知らないと言う。ただ、命令されただけだと言った。

 阿修羅坊というのは、今、どこにいるか、と聞いてみたが、わからないと言う。もしかしたら、播磨に帰ったかもしれないと言った。

 その阿修羅坊というのは赤松氏の山伏か、と聞くと、月輪坊は頷いた。

 赤松氏が俺の命を狙っていた‥‥‥

 なぜだ‥‥‥

 お屋形の姉君になる人に、どこの馬の骨ともわからない亭主はいらんと言う事か‥‥‥

 成程、そっちがその気なら、こっちにも考えがある。俺一人で赤松家など、ぶっ潰してやる。そう太郎は決心した。

 太郎は手に持っていた鉄の棒で、月輪坊の腹を突き、また、気を失わせた。

「畜生!」と怒鳴りながら、太郎は鉄の棒を琵琶湖の中に放り投げた。





 琵琶湖の湖上を漁師の小舟が動いていた。

 太郎は湖畔に座り込んで、湖を眺めていた。

 すでに、夜は明けている。

 二人の山伏を倒し、自分が狙われている事を知った太郎は、赤松氏に腹が立ち、まだ、夜中なのに、そのまま京に向かった。しかし、歩いているうちに、だんだんと冷静になっていった。

 相手は三国の守護大名だ。軽はずみな事をしたら、命が幾つあっても足らないぞ‥‥‥

 ここの所はよく考えなければ駄目だ、と自分に言い聞かせていた。

 こんな時こそ、陰の術を使え‥‥‥

 敵に勝つには、まず敵を知れ‥‥‥

まず、楓の無事を確かめる事だ。そして、楓と会って、楓の気持ちも聞かなければならないだろう。楓が、どんな気持ちで京に行ったのか、これから、どうするつもりなのか、聞かなければならない。

 とにかく、敵の事を色々と調べる事だ。それと、自分の命を狙う者がいる以上、これからは少しの油断もできない。ちょっとした油断が命取りになる。気を付けなければならなかった。

 陰流、陰の術、今まで自分が身に付けたもの、すべてを実際に使ってみて試すのに、絶好の機会と言えた。

 太郎は立ち上がると琵琶湖に背を向け、京に向かった。山科に入るとウロウロしている足軽をつかまえ、身ぐるみを剥がして足軽に変装した。

 西軍だか、東軍だかわからないが、山科の地に数百人の軍勢が陣を構えていた。

 太郎は山の中に入り、京に向かった。

 六年振りだった。

 京の都は変わっていなかった。返って、ひどくなっていた。以前、焼け残っていた大きな寺院なども、すでに消えている。高い建物など全然なく、辺り一面、荒涼とした焼け野原と化していた。しかし、前のように、賀茂川が死体で埋まっているという事はなかった。賀茂川の水は流れていた。そして、筵(ムシロ)囲いの簡単な小屋が並び、河原者や乞食たちが住み着き始めていた。

 以前に比べて、人の行き来も多くなっていた。そのほとんどが武装した兵を引き連れた商人たちだった。牛に引かせた荷車に荷物を山のように積み込み、大通りを行き来している。荷物の中身は食糧が多いようだった。

 焼け跡の中に、新しく建てられた小屋もいくつかあった。徐々にではあるが、幾つかの町が焼け跡から立ち直っているような感じがした。

 京の戦もそろそろ終わるだろうと松恵尼が言っていたが、確かに、そんな気配があった。このまま終わってくれればいい、と思いながら太郎は京の町中を歩いていた。

 目指す浦上屋敷は北の方にあると聞いていたので、真っすぐ北の方へと歩いていた。やがて、人通りもなくなり、荒れたままの焼け跡に出てしまった。

 道を間違ったかなと思ったが、浦上屋敷の側には将軍様の住む花の御所があり、武装した武士たちがうようよいると聞いている。そんな所は、今まで、どこにもなかった。もっと、ずっと北の方に違いないと荒野をどんどんと進んで行った。

 そのうち、遠くの方に寺の屋根のような大きな建物が幾つも重なって見えてきた。多分、あの辺りに違いないと思った。太郎はそこを目指して、焼け落ちた家々の残骸を踏みながら歩いて行った。

 ウロウロしている足軽たちの姿が見え出した。もうすぐだと思った。

 泥と埃(ホコリ)にまみれ、やっとの思いで焼け跡から出ると、そこは両側に濠や土塁の築かれた大通りだった。ここでも戦があったのだろうが、今は人影もなかった。

 太郎は大通りを北に向かって歩いた。

 やがて、大通りを行き来する兵士たちの姿が多くなり、旗差し物の立ち並ぶ陣地が見えて来た。東軍だか、西軍だかわからないが、かなりの軍勢がいるようだった。

 このまま進むのはまずいと思い、道を変えた。濠を飛び越え、土塁を乗り越え、また、焼け跡の中に入って行った。小さな路地があったので、そこを通る事にした。その路地はやたらと曲がりくねっていて、方向がさっぱりわからなくなってしまった。

 こんな事では、いつまで経っても目当ての浦上屋敷に着けそうもない、と自分に腹を立てながら歩いていた。とにかく、高い場所を見つけ、そこに登って、花の御所を身つける事だと思った。

 どこかに高い場所はないかと歩いているうちに、太郎は変な所に出てしまった。

 狭い路地の両脇に小さな小屋が並んでいた。こんな所に、焼け跡の真ん中に、まだ新しい小屋が並んでいるなんて不思議な事だった。

 一体、誰が、こんな所に住んでいるのだろうか、と太郎は覗いてみた。

 女がいた。中庭の井戸の側で若い女が二人、裸になって水を浴びていた。

 太郎は目を疑った。

 どうして、こんな所に女が‥‥‥しかも、若い女が‥‥‥

 答えはすぐ出た。遊女たちに違いなかった。男ばかりの戦場に女の存在は不可欠だった。どうせ、地位の高い武将たちが利用しているのだろうが、こんな所に遊女屋があるとは驚きだった。二人の女は太郎に気づいても恥ずかしがりもせず、キャーキャー言いながら太郎に手を振った。

 女というものを見るのは久し振りのような気がした。つい、ふらふらと女の方に行きたくなったが衝動を抑え、女たちに手を振り返すと太郎はその場を離れた。

 やっと、焼け残った寺を見つけると、早速、屋根に登った。鉤縄(カギナワ)を持って来れば良かったと思った。突然の事だったので、着の身着のままで出て来てしまった。手裏剣とかも持って来れば良かったと後悔した。それでも、わけなく屋根に登る事はできた。

 屋根の上からの眺めは良かった。そして、涼しかった。

 太郎がいる寺の目と鼻の先に、武装した兵士たちがうようよいるのが見えた。辺り一面、兵士たちで埋まっているかのように、その数は凄かった。色々な色の旗差し物が立てられ、色々な色の幕があちこちに張られ、祭りさながらの賑やかさだった。

 花の御所らしき建物もわかった。花の御所を取り囲むように陣を張っているのは東軍だろう。すると、今、太郎がいる辺りは西軍という事になる。

 太郎が屋根の上に立って、回りを眺めていたら、下の方から声を掛ける者があった。まずい、西軍の侍に見つかったか、と下を見下ろすと、足軽らしき男が二人、上を見上げていた。

「おーい、何してる」と下の足軽は叫んでいた。

「いい眺めじゃ」と太郎は言った。

「面白そうじゃのう」と足軽は言った。

 太郎は上に来いと合図した。

「よし、待ってろ」と言うと、二人は太郎の視界から消えた。

 やがて、二人は登って来た。

「おめえ、よく、こんな所に登る気になったのう」と髭だらけの三十年配の足軽が言った。

「おう、いい眺めや」ともう一人の痩せこけた足軽が言った。

「こいつは気分がええのう。あいつら、やたら威張ってばかりいる武士どもが豆粒のように小さく見えるわい」と髭面は言った。

「本当やのう。こうやって見るとみんな小せえのう。みんな、踏み潰してやりてえのう」

「そいつはいい。東軍も西軍もみんな、踏み潰しちまえばいいわ」

 しばらく、二人は眺めを楽しんでいたが、髭面が太郎を見て、「おい、おめえ、どこのもんだ」と聞いてきた。

「俺か‥‥‥俺は赤松方じゃ」と太郎は言った。

 とっさの事で、赤松しか思い浮かばなかった。もっとも、太郎は東軍だの西軍だのと言われても、東軍に誰がいて西軍に誰がいるなどという事は、まったくと言っていい程、知らなかった。

「何やと、赤松やと」と痩せこけた足軽が太郎を睨んだ。「赤松といやあ東軍やねえか、東軍の野郎が何で、こんな所にいるんや」

「まあ、ええじゃねえか」と髭面がなだめた。「東軍だろうと西軍だろうと、わしら足軽にゃあ関係ねえ。足軽は足軽でええじゃねえか。いつまでも、武士どもの言いなりになんかなってる事はねえ。はした金で雇われて、命をかけて戦って、結局、死ぬのは足軽だけじゃ。今回の戦で、一番、アホな目を見たのは足軽じゃ。ああ、アホくさ」

 髭面は屋根の上に寝転んだ。

「あれが花の御所か」と太郎は痩せ足軽に聞いた。

「ああ、そうや。そして、あの屋敷が赤松やろ」

 痩せ足軽は、あの陣は誰の陣、あの屋敷は誰の屋敷と指差して教えてくれた。浦上美作守の屋敷も教えてもらった。

 太郎は二人を屋根の上に残し、浦上屋敷を目指した。

 浦上屋敷はやはり、警戒が厳重で、足軽のなりをした太郎が近づく事さえできなかった。

 浦上屋敷の前の大通りには露店が並び、武器や小物類を売っていた。簡単な飯屋も何軒かあり、人の往来も激しかった。足軽たちは道端に座り込み、愽奕を打っている。戦の陣中とは思えない程、賑やかだった。

 太郎は足軽たちの溜まり場に潜り込んで、足軽たちの噂話を聞いていた。

 楓の事も話題になっていた。彼らの話によると、楓は昨日の朝、播磨に向けて旅立ち、浦上屋敷にはもう、いないようだった。百人もの武士たちに囲まれて播磨に旅立って行ったと言う。

 どうやら、楓は無事のようだった。

 彼らは阿修羅坊の事も話していた。楓を捜し出して、ここに連れて来た阿修羅坊は楓と共に播磨には行かなかったらしく、まだ、浦上屋敷にいるらしいとの事だった。

 彼らの話を聞いていると、太郎はおかしくてしょうがなかった。楓はお屋形様と小さい頃に別れ、近江のさる高貴な公家の屋敷に預けられていたと言う。それを阿修羅坊が三年掛かりで捜し出してお連れした。一緒に連れて来た子供は、楓がさる高貴なお方と一緒になってできた子供だが、可哀想に父親は武将として戦に出て、見事に戦死してしまった。悲しみに打ちひしがれていた時、楓は阿修羅坊に捜し出され、お屋形様の姉君として迎えられたのだと言う。

 噂によると、俺は、すでに戦死したさる高貴な武将という事になっていた。

 阿修羅坊は、すでに、俺があの二人にやられて死んだものと思っているのだろうか。

 俺の命を狙う男、阿修羅坊の顔を見ておいた方がいいな、と太郎は思った。とにかく、明るいうちはどうする事もできなかった。暗くなったら浦上屋敷に忍び込んでみようと決めた。

 夕方近く、太郎は大通りを歩く伊助の姿を見つけた。

 伊助は浦上屋敷とは反対の方に向かって歩いていた。太郎は後を付いて行き、人気のない所まで行くと声を掛けた。

「太郎坊殿、捜しましたよ。一体、どこにいたのですか」

 太郎は自分の格好を伊助に示した。

「成程、うまく、化けたものですな。ところで、楓殿はもう、ここにはいませんよ。播磨に向かいました」

「ええ、聞きました」

「どうします、播磨に行きますか」

「はい。しかし、ちょっと、ここでやる事があります。伊助殿は阿修羅坊という山伏を御存じですか」

「阿修羅坊といえば、楓殿をここに連れて来た山伏です。それがどうかしましたか」

「阿修羅坊は私の命を狙っています」

「まさか、阿修羅坊が‥‥‥」

「ここに来る途中、阿修羅坊の手下二人に殺されそうになりました」

「そうだったのですか‥‥‥やはり、赤松氏はそなたの命を狙って来ましたか‥‥‥」

「わたしは、その阿修羅坊という男を知らない。阿修羅坊もまだ、わたしを知らないでしょう。わたしは一度、阿修羅坊に会ってみたいのですよ。自分を狙っている男を知らないでいれば、これから先、不利ですからね」

「成程‥‥‥阿修羅坊は今、浦上屋敷に逗留していると思いますが」

「伊助殿は浦上屋敷に入った事はありますか」

「いえ、しかし、調べてはあります」

 伊助は回りを窺い、人がいないのを確かめると荷物を下ろし、荷物の中から一枚の紙切れを出した。

 その紙切れには、簡単だが浦上屋敷の見取り図が書いてあった。太郎はそれを見ながら、伊助を改めて見直していた。ただの薬売りではない事はわかっていたが、これ程の事をやるなんて、さすが、松恵尼の手下だと思った。

「伊助殿、浦上屋敷に忍び込んで調べたのではないでしょうなあ」

「まさか」と伊助は笑った。「人から聞いた話をもとに作ったものです。もし、万が一、楓殿が屋敷に閉じ込められでもしたら助け出さなくてはならないと思い、調べたものです。しかし、取り越し苦労でした。楓殿は閉じ込められるどころか、大層、大事にされていたようです。播磨に行ったとしても大丈夫でしょう。今の所、楓殿の身に危険が迫る事はないでしょう」

 太郎は頷き、「この見取り図ですが貰ってもよろしいですか」と聞いた。

「ええ、構いませんがどうします。浦上屋敷に忍び込むのではないでしょうね」

「ちょっと、阿修羅坊の顔を見て来ます。それと、浦上美作守の顔も‥‥‥」

「危険です。見つかったら間違いなく殺されますよ」

「わかっています。しかし、わたしは飯道山で『志能便の術』を教えています。この位の事ができなければ、恥ずかしくて修行者たちに教える事ができません。大丈夫です。ただ、二人の顔を見て来るだけです。伊助殿、助かりました。これのお陰で危険な目に会わなくてすみそうです」

「気を付けて下さいよ」と伊助は心配そうに言った。

 太郎は大丈夫ですと言うように笑いながら頷いた。「ところで、伊助殿はこれからどちらへ」

「とりあえずは花養院に帰って、松恵尼殿に楓殿が播磨に向かった事を知らせて、改めて、播磨の方に向かおうと思います」

「そうですか、伊助殿も播磨へ‥‥‥これからも、よろしくお願いします。それでは、あちらで、また会いましょう」

「無理しないで下さいよ」と念を押して伊助は甲賀に帰って行った。

 太郎は見取り図を見ながら、暗くなるのを待った。
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