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陰流の開祖であり、忍びの術の開祖でもある愛洲移香斎の物語です。
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8.大峯山



 四月の末、山藤の花の咲く頃、無事に百日行を終えた風間光一郎と宮田八郎と探真坊見山の三人は、太郎坊移香の弟子となった。

 百日間、終わってしまえば大した事ないと自慢げに言えるが、三人にとって、長い長い百日間だった。

 山歩きには慣れている風間光一郎にとっても、それは、長く辛い百日間だった。

 同じ道を毎日、毎日、ただ、歩いている。何で、こんな事をしなくてはならないんだ。こんな事はやめて、早く山を下り、どこかに旅に出ようと何度、思った事だろう。

 行きたい所はいくらでもあった。今は戦をやっているが、京の都も行ってみたい。京の都はここからはすぐだ。京に行く途中にある琵琶湖も見てみたい。山の上から見た事はあるが実際に側まで行って見たかった。海のように広いというが、ずっと、山の中ばかりにいた光一郎はまだ、海というものを知らない。海の水は塩辛いと聞いているが、実際になめてみたいし、広い海で泳いでもみたかった。

 見てみたいものや、やりたい事が一杯あった。

 特に、陽気もよくなり、桜の花が咲き始めた頃、こんなくだらない事なんかやめて、駿河の国の富士山を見に行こうと本気で山を下りようと思った事があった。もし、一人で百日行をしていたら、歩き通す事ができなかったかもしれない。宮田八郎が一緒だったので歩き通す事ができたと言えた。八郎のお陰と言っても、八郎が光一郎を助けたわけではない。助けたのは光一郎の方だった。

 八郎にとって百日間というのは、もう、毎日、毎日が死に物狂いだった。しかし、光一郎のように、途中でやめて山を下りようと思った事は一度もない。何としてでも、たとえ、死んだとしても、歩き通さなくてはならないと思っていた。どうしても、太郎坊の弟子にならなければならない。弟子になれないなら死んだ方がましだと考えていた。

 足が棒のようになり動かなくなっても、足の裏が血で真っ赤になっても八郎は杖を突きながら、足を引きずり歩き通した。雨に打たれ、熱を出してフラフラしていても、毎日、歩き通した。

 飯道山に戻って来るのは、いつも、八郎が一番最後だった。同じ時間に出発しても、帰って来る時間は八郎がいつも二人より一時(二時間)近くも遅れていた。暗くなってから、ようやく戻って来て、死ぬように倒れ込んだ。光一郎と探真坊の二人は、もう、明日は無理だろうと顔を見合わせるが、次の日になると、八郎は生き返り、無理に作り笑いを浮かべて歩き出して行った。

 光一郎は初めの頃、八郎に向かって、いつも、「お前には無理だ。さっさと山を下りた方がいい」と言っていた。しかし、光一郎が山を下りようかと思う時、八郎の真剣になって歩いている姿を見ると、途中でやめるわけにはいかないと自分に言い聞かせ、また、歩き始めるのだった。

探真坊はこの百日行で考え方が少しづつ変わって行った。

 探真坊は山の中を歩きながら、どうして、こんな事になってしまったのか考えていた。わざわざ、仇(カタキ)の弟子になるために、何で、こんな事をしているのだろうか‥‥‥

 あの日、志能便の術の稽古、最後の日、探真坊は仇討ちだと太郎坊に掛かって行った。死ぬ気だった。太郎坊を殺して自分も死ぬ覚悟だった。ところが、簡単にあしらわれ、逃げられた。探真坊は太郎坊を追いかけた。しかし、太郎坊を追いかけたのは自分だけではなく、光一郎と八郎がいた。二人は太郎坊に弟子にしてくれと頼んだ。探真坊も二人に倣った。

 なぜ、あんな態度に出てしまったのかわからなかった。弟子になろうなんて思ってもいなかった。後で考えてみると、弟子になれば、いつも、太郎坊の側にいられる、側にいれば、いつか、仇を討つ事ができるだろうと思ったが、あの時は、そんな事まで考えていたわけではない。

 あの一瞬、仇討ちの事は忘れていたといった方が正しいような気がする。光一郎や八郎と同じように、純粋な気持ちで、太郎坊の弟子になりたいと思ったに違いなかった。弟子になりたいという気持ちも本当なら、仇を討ちたいという気持ちも本当だった。

 今まで、仇を討つために武術の修行を積んで来た。いや、武術だけではない。仇討ちのためだけに生きて来たとも言える。それを、仇の弟子になって修行するというのは矛盾だった。

探真坊が十五歳の時、父親、山崎新十郎は太郎坊と陰の五人衆に殺された。探真坊は母親と妹を連れて、母親の実家のある河内の国に帰った。

 河内の国に帰った途端、母親は倒れ、二ケ月間、寝込んだ末、この世を去った。探真坊は仇討ちを誓い、剣の修行に励み、妹を嫁に出すと近江の国に戻って来た。飯道山に登るが、すでに受付は終わり、断られ、仕方なく岩尾山に登った。父親が殺されたのも母親が病で死んだのも、すべて、あの太郎坊のせいだった。その憎き仇の弟子になるために、こうやって山の中を歩いている。

 どうして、こんな風になってしまったのだろうか。

 探真坊は山の中を歩きながら、その矛盾と戦っていた。

 初めの頃は仇の弟子になる事などやめて、山を下りようと思っていた。しかし、弟子にならなければ、太郎坊が飯道山に現れるまで、あと一年近く、待たなければならないと思い、頑張って歩いた。そのうち、雪が解ける頃になると、たとえ、あと一年位、待ってもいいから、どこかで一人で修行に励み、太郎坊以上の腕になって見事に仇を討とうと思うようになり、百日行をやめる決心をした。

 探真坊が決心を固め、山を下りようとした時、見たのが、やはり八郎の姿だった。足を引きずりながら歩いている八郎の姿だった。あんな奴、見た事なかった。毎日、毎日、死に物狂いで歩いて、弱音一つ言わない。苦しいくせに、わざと陽気に笑って見せる。

 八郎の姿を見ているうちに、探真坊は自分が惨めに思えて来た。何だかんだと尤もらしい理由を付けて山を下りようとしているが、結局は百日行が辛いから、やめたいだけの事だった。ただ、逃げたいだけだった。太郎坊の弟子になるのをやめるにしろ、一人で、どこかで修行するにしろ、百日行が終わってから決めればいい。とにかく、一度、始めたからには、最後までやり通そうと探真坊はまた歩き始めた。

 その気持ちも、また変わって行った。桜の花が咲く頃には、今度は仇討ちなんか止めて、山を下りようと思うようになった。しかし、八郎のように純粋な気持ちで、太郎坊の弟子になりたいと思う気持ちが勝り、探真坊は百日間、歩き通す事ができた。

 太郎はそんな三人を、かつての智羅天のように見守っていた。自分の弟子になるために、辛い思いをして歩いている三人の姿を見るのは、今の太郎にとっても辛い事だった。

 自分はあいつらの師匠になる資格はないと思っていた。

 今の太郎は一人の女、夕顔によって精神がばらばらになっていた。夕顔の事が忘れられなかった。会わなければ、この泥沼から抜け出せると思うが、会わずにはいられなかった。自分という者がこれ程、弱い人間だとは思ってもいなかったが、実際、弱い人間だった。

 酒もまた飲み始め、毎日、酔っ払っていた。酒にすがって、やっと生きているような状態だった。どうしようもなく、今の自分がいやだった。

 三人の百日行は一人の落伍者もなく、四月の末に終わった。太郎は三人が弟子になる事を許した。

 弟子になるに当たって、探真坊見山はそのままだったが、宮田八郎、風間光一郎の二人は山伏に変身した。宮田八郎は八郎坊観山、風間光一郎は風光坊包山と名付けられた。

 太郎は三人の弟子を、まず、智羅天の岩屋に連れて行った。そして、初めて、天狗の面を取って正体を明かした。

 天狗の面の下から出て来た火山坊の顔を見た時の三人の驚きようは、見ていて面白い程だった。三人とも口をぽかんと開けて、太郎坊の素顔を見つめていた。

 八郎坊は驚きのあまりひっくり返り、風光坊は持っていた錫杖を落とし、探真坊は太郎坊を指さしたまま、「まさか‥‥‥まさか‥‥‥」と口の中で呟いていた。

 一番、驚いていたのは、やはり探真坊だろう。仇を討つために修行していた岩尾山において、すでに仇に会っていたのだった。しかも、その仇から命を助けられた事もあったし、仇討ちのための手裏剣術まで教わっていたのだった。

 三人とも太郎坊と火山坊が同じ人物だと納得させるのに時間が掛かった。

 太郎はその事をまず口止めした。太郎坊は年末になると、どこからか来て、また、去って行くという事にしておかなければならない。また、三人が太郎坊の弟子だという事も口外してはならないと命じた。

 太郎はしばらくの間、三人をこの岩屋に住ませ、ここから飯道山に通わせる事にした。午後は今までのように武術の稽古に出て、午前中はここで修行させた。

 太郎自身も忙しく、三人に付きっきりで教える事はできなかった。三人に課題を出して、それぞれに修行させるしかなかった。まず、陰流天狗勝の技を一づつ教え、三人が完全に覚えるまでやらせた。それと陰の術(志能便の術)も、年末の一ケ月間では教えない難しくて危険な技も教えていった。また、三人に山の中に生えている薬草を採らせ、薬も作らせていた。

 三人の弟子を持つというのは思っていたより大変な事だった。百日行をやらせたのはいいが、三人の食費を太郎が持たなくてはならなかった。三人とも一年間の食費は持って飯道山に来たが、それ以上は持っていない。百日行をやれと言った以上、飯を食わせないわけにはいかなかった。太郎は智羅天の形見の太刀を売ろうか、それとも智羅天が彫った仏像を売ろうか、迷っていたが、楓に言われ、花養院の松恵尼に相談してみる事にした。

 松恵尼は太郎から話を聞くと頷き、ニコッと笑った。

「心配しなくても大丈夫ですよ」と松恵尼は太郎に、綺麗な布に包まれた木箱を渡した。開けてみると銀貨が詰まっていた。

 風眼坊が送って来た物だと言う。もし、太郎が銭を必要としているようだったら渡してくれと頼まれたと言う。

 風眼坊は去年、大峯山で働いていたが、その報酬が予想外に多かったので、自分で持っていてもしょうがないし、息子を預けた太郎に使ってもらおうと送って来たのだった。

 太郎は師匠、風眼坊に頭が下がった。師匠には世話になりっぱなしだった。今、思えば、太郎がこの山で生きて行けたのも師匠のお陰だった。三度三度、飯が食えたのは師匠が銭を出してくれたからだった。

「これだけあれば、何とかなるでしょう」と松恵尼は笑った。

「充分すぎます」と太郎は頭を下げた。

「気にする事はないわ。喜んで使いなさい。風眼坊殿の息子さんを立派な武芸者に育てる事が何よりの恩返しになるのよ」

「はい‥‥‥」

 太郎は心の中で師匠に合掌をしていた。必要な分だけ貰い、後は松恵尼に預かって貰う事にした。そして、百日行が終わってからは三人の弟子に薬を作らせ、その薬は松恵尼がさばいてくれた。どういう経路で薬をさばくのかわからないが、松恵尼は喜んで、薬を銭に換えてくれた。その銭で何とか三人の食費は賄う事ができた。

 太郎は今年こそ、師匠に会いに行こうと決めていた。師匠の居場所はわかっているし、心の整理をつけたかった。女というものに悩まされ、そこから抜け出す事ができない自分を何とかしたかった。かつて、剣術の事で悩み、修行を積む事で抜け出す事ができたが、今回は、まるで泥沼にでもはまったかのように、もがけばもがく程、どんどん深みにはまって行き、抜け出す事ができなかった。

 三人の弟子を持つ師匠となった太郎だったが、こんな状態で人に物など教えられるわけがない。偉そうな事を言っても、それでは自分はどうなんだと自問してしまう。

 心の修行というのをもっと積まなければ駄目だと思った。しかし、どんな事をしていいのかわからない。師匠に問えば、何か、手掛かりを与えてくれるだろうと思っていた。

 太郎は大峯山で修行するため一ケ月間の休みを下さいと、今年の初めに高林坊に頼んでおいた。高林坊は、すぐには無理だが何とかなるだろうと言ってくれた。そして、六月になって、やっと、待ちに待った休みが貰えた。

 太郎は大峯山に行く前に、三人の弟子たちに課題を出して、自分で工夫して修行するようにと言った。

 三人は熱心だった。特に、探真坊は仇討ちという目標があるため、太郎を倒すため、死に物狂いになって修行に励んでいた。八郎坊も風光坊も探真坊に負けるものかと修行するので、太郎が一々、ああしろ、こうしろと言わなくても、自分たちで必死に修行を積んでいた。三人の腕は見る見る上達して行った。

 太郎は六月の初めの蒸し暑い日、大峯山に向かって旅立って行った。



 久し振りの旅だった。何となく、心が弾んでいた。

 しかし、戦の影響はあるとは言え、まだ、実際に大規模な戦をやっていない甲賀の地から、伊賀の国を通り、大和の国に入って行くと、いやでも戦という現実が目に入って来た。そういう悲惨な状況を目の当りにすると、太郎の心の迷いなど取るに足らないものに感じられた。感じられるがどうしようもなかった。たとえ、取るに足らないものでも、今の太郎にとっては重大な問題だった。

 太郎は大峯山に登るに当たって、まず、吉野の喜蔵院を訪れた。喜蔵院には前に智羅天の彫り物を持って来た事があった。楓と二人で、故郷、五ケ所浦に向かう時だった。あれから、もう三年が経っていた。随分と長かった三年のような気がした。あの時、楓を連れていなかったら間違いなく大峯山に登っていただろう。

 いつか、来ようと思っていて、ようやく来る事ができた。しかも、師匠がこの山にいる。期待に胸を膨らませ、太郎は喜蔵院の門をくぐった。

 喜蔵院の山伏に風眼坊舜香の事を聞くと、もう、山上の蔵王堂にはいないと言った。

 突然、千日間の山籠もりの行に入ったと言う。山上ケ岳より、さらに先の大普賢岳の中腹の崖にある笙(ショウ)の窟(イワヤ)にいると思うが、千日、過ぎないと山を下りて来ないと言う。

 千日と言えば三年近くだ。太郎が会う事はできないのかと聞くと、会う事くらいはできるだろう。ただ、無言の行をやっているから話はできないと言った。

 窟に籠もって千日間の無言の行‥‥‥気の遠くなるような修行だった。師匠程の人でも、まだ、これ以上、修行を積まなければならないのか‥‥‥師匠の存在がどんどん自分から遠くに離れて行ってしまうような気がした。

 たとえ、話ができなくてもいい、せっかく来たのだから、会うだけでも会って、師匠の修行の姿だけでも見ようと太郎は思った。

 丁度いい具合に、円弘坊祐喜と言う先達が、明日、出羽の国(山形県と秋田県)の羽黒山から来た三人の山伏を連れて、熊野までの奥駈けをするというので、太郎も、その笙の窟まで一緒に連れて行ってもらう事にした。

 次の朝、寅の刻(午前三時)に起き、水垢離(ミズゴリ)を行ない、仏前で般若心経を唱え、朝餉(アサゲ)を取ると出発した。本来なら吉野川まで戻ってから始めるのだが、今回、登る者たちは皆、山伏で、この大峯山は初めてでも、地方で修行を積んでいる者たちなので、吉野の町の入り口にある発心門から始めるとの事だった。

 真言を唱えながら発心門の銅の鳥居の回りを回り、仁王門をくぐって蔵王堂に行き、蔵王権現の前でお経を唱えた。蔵王堂の境内にある大威徳(ダイイトク)天神を拝み、二天門をくぐり、僧坊、宿坊の建ち並ぶ吉野の町中を抜け、勝手明神、大梵天、白山明神、雨師(ウシ)観音、子守明神などの祠(ホコラ)や社殿の前で真言を唱えながら、山の中に入って行った。修行門の鳥居のある金精明神の蹴抜(ケヌキ)の塔では真っ暗な塔の中に入れられ、真言を唱えながら塔の中をぐるぐると回った。

 山の奥に入るにしたがって、太郎は感動していった。さすが、修験道の本場だった。飯道山と比べたら規模が全然違った。山々が一回り以上も大きく、また、高さも全然違う。

 険しい岩だらけの難所も幾つかあったが、太郎には何でもなかった。ただ、この大峯山という山の深さに感動していた。やはり、来て良かったと思った。たとえ、師匠に会えなくても、この山に来られただけでも良かったと思った。

 昨日の夕方、太郎が喜蔵院に着いた時、老山伏が信者たちを前に因縁(インネン)について説教をしていた。

「皆さんは無事に大峯山に登りました。この大峯山は誰もが登れるというお山ではありません。前世において、この大峯山と縁のあった人だけが登る事ができます。縁のなかった人は心の中で大峯山の事を思っていても、実際に登る事はできません。また、それぞれの人において、この大峯山に登る時期というのも決まっております。その時期を惜しくも逃してしまった人は、もう、一生、大峯山には登る事はできません‥‥‥」

 ちらっと聞いただけだったが、そんなような事を言っていた。まさに、その通りだと思った。

 太郎が最初に大峯山に登りたいと思ったのは元服の時、熊野に来て、無音坊という先達に大峯山の事を聞いた時だった。もう八年も前の事だった。その後も、師の風眼坊から大峯山の話を聞く度に、いつも、登ってみたいと思っていた。そして、今、やっと登る事ができた。

 登ろうと思えば、いつでも登れると誰もが思う、しかし、人間、生きて行くのが何かと忙しく、登ろう、登ろうと思いながらも、時に流され、登る時期を逃してしまうのではないのだろうか。

 太郎にしても、もし、五ケ所浦を飛び出さないで、父親の跡を継いでいたなら、大峯山に登る時期を逃してしまったかもしれない。

 また、それは、大峯山に登る事だけではなく、人と人の出会いにも言えるんじゃないだろうか。この広い世の中で、短い人間の一生かけても、会う事のできる人というのは限られている。それも、すでに前世において決められているのかもしれない。何かの縁があって出会う人たちをもっと、よく知らなければならないんじゃないだろうか。

 たとえば、ただ、道で擦れ違う人にしたって、何かの縁があるのかもしれない。縁があれば、どんな遠くの人とも会えるし、また、縁がなければ、どんなに近くにいたって会う事はできない。飯道山のようなせまい所にいたって、知らない人はいくらでもいる。夕顔との出会いも縁があって、今のような関係になったのだろうか‥‥‥

 縁という不思議な力について、太郎は大峯山に登りながら、しきりに考えていた。

 しかし、岩壁をよじ登りながら山頂に近づくにつれて、太郎の頭の中の因縁の事もすっかり消え、なぜか、頭の中が気持ちいい程に空っぽになって行った。

 西の覗きの絶壁で逆さ吊りにされて懺悔をし、裏行場を巡って、一行は山上蔵王堂に到着した。

 まだ、日は高かった。

 蔵王堂の蔵王権現と役の行者の前で、お経を唱えると、やっと解放された。

 太郎は蔵王堂の山伏に風眼坊の事を聞いてみた。

「風眼坊殿は、もう、一月程前から、お山に籠もったままです。どこに籠もっているのかは誰にもわかりません。普通、千日行は笙の窟で行ないますが、どうも、そこにはいないようです。今、笙の窟では妙空聖人殿といわれる真言の行者さんが千日行をやっておられます。妙空聖人殿はもう三年近く、笙の窟で修行しておられます。もうすぐ、満願の千日になるはずです。風眼坊殿はそこを避け、自分だけが知っている、どこかの窟に籠もっているに違いありません。風眼坊殿はこの大峯山の隅から隅まで知り尽くしています。我々には風眼坊殿がどこに籠もってしまったのか、まったくわかりません。千日経って、風眼坊殿が出て来るのを待つだけです」

「そうですか‥‥‥」太郎は気落ちした。それでも、何としても師匠に会いたかったし、絶対に会えると思っていた。

「その笙の窟というのは、ここから遠いのですか」と太郎は聞いてみた。

「いや、ここから、二里(八キロ)と離れていません。でも、そこには風眼坊殿はいませんよ」

「はい‥‥‥でも、捜してみます」

「無駄だとは思うが、もし、見つかったら、わしらにも居場所だけは教えて下さい」山伏はそう言うと蔵王堂の中に戻って行った。

 千日行か‥‥‥

 今、この瞬間も、師匠はどこかの窟で独り、厳しい修行を続けている。大した偉い人だ、と太郎は感心していた。そんな師匠に比べて、自分の存在がとても小さく、惨めに感じられた。

 蔵王堂には先達山伏に連れられた白い浄衣(ジョウエ)を着た信者たちが金剛杖を突きながら、続々と登って来ていた。裏行場を巡り、蔵王堂から出て来ると皆、汗を拭きながら和やかに話をしていた。太郎はその場を離れ、眺めのいい岩の上に腰掛けると、しばらく、ボーッと遠くの山々を眺めていた。

 いい眺めだった。

 本当に来て良かったと思った。

 太郎は日が暮れるまで、ボーッとしていた。

 霞んだ山の中に沈んで行く、真っ赤な夕日を見つめていた。

 綺麗だと思った。

 ふと、智羅天に真っ暗闇の中から連れ出されて見た朝日の事が思い出された。あの時は、光という物のありがたさを体で感じていた‥‥‥

 なぜ、急に、あの時の事が思い出されたのだろう‥‥‥

 わからなかった。

 夕日は赤く燃えながら、山の中に沈んで行った。

 夕日の姿が完全に山に隠れると、太郎は円弘坊らのいる宿坊に向かった。



 次の日、小雨の降る中、円弘坊に連れられて、太郎と羽黒山から来た三人の山伏は笙の窟に向かっていた。

 山上の蔵王堂から下りの坂道を進んで行くと、やがて、小篠の宿(シュク)に着いた。ここにも僧坊がかなり建ち並んでいた。その中には近江飯道山の宿坊、梅本院と岩本院もあった。

 円弘坊の話によると、ここは真言宗系の山伏たちの拠点になっていると言う。

 真言宗系の山伏を見分けるのは簡単だった。彼らは、皆、剃髪していた。天台宗系の山伏は髪を伸ばしたままだった。それは、それぞれの開祖の違いから来ていた。天台宗系の山伏は修験道の開祖とされる役の行者、小角(オヅヌ)を開祖とし、真言宗系の山伏は修験道中興の祖とされる醍醐寺の開祖、理源大師聖宝(リゲンタイシショウホウ)を開祖としていた。そして、お互いに開祖にならえと天台宗系は有髪、真言宗系は剃髪となっていった。

 この当時は、剃髪の山伏より有髪の山伏の方が圧倒的に多かった。

 小篠の宿の行者堂の前で真言を唱え、小篠の宿を後に龍ケ岳に沿って坂道を登り、山を一つ越えると、金の阿弥陀仏を祀った祠のある大篠の宿に着く。また、山を越えると剣光童子を祀る脇の宿に着いた。ここから大普賢岳への登りとなった。

 一行は大普賢岳の山頂へは登らず、途中から奥駈け道をそれて、しばらく急な坂を下りて行った。石の鼻と言う岩場を乗り越え、さらに岩の中を下りて行くと鷲(ワシ)の窟があった。鷲の窟はあまり広くはなかった。それから少し行くと目的地の笙の窟があった。

窟の中に髪も髭も伸び放題の痩せ細った妙空聖人が修行していた。

 笙の窟は南に面した崖の中にあり、窟の中は思っていたより狭かった。中央に石を積み、その上に不動明王を祀った祠が建っていた。窟の右側には岩から滲み出る水が溜めてある。窟の中はかなり湿っぽいが、修行を積むのには持って来いの場所だった。

 妙空聖人は不動明王の祠の前に座り込み、声を出さずに一心に祈っているようだった。こちらに背中を向けて座っているので顔までは見えないが、聖人の回りには神気が漂い、まるで、神々しい仙人のようだった。

 円弘坊は連れて来た四人を窟の前で止め、妙空聖人に向かって合掌をした。太郎と羽黒山の三人も円弘坊にならって合掌をした。

 笙の窟を後にして、側にある朝日の窟、指弾の窟を見て回った。朝日の窟は籠もる事はできるが、笙の窟程広くはない。指弾の窟は狭く、とても長期間、籠もれるような窟ではなかった。もう一つ蟇(ガマ)仙人の窟と呼ばれる窟があるが、三十年程前に崩れてしまい、今は籠もれる程の窟ではないと円光坊は言った。以前は、その蟇仙人の窟が一番広く、多くの修行者が修行していたと言う。

 師匠、風眼坊の姿はどこにもなかった。妙空聖人以外、この辺りには誰もいないようだった。

 太郎はここから引き返すつもりだったが、せっかく、ここまで来たのだから奥駈けをしなければ勿体ないと皆から言われ、一応、熊野まで行ってみる事にした。奥駈け道を一通り歩いてみて、それから、師匠を捜してみようと思った。

 初めて来た山なので、師匠を捜すにも、どこに何があるのか、まったくわからない。また、山が大き過ぎて、そう簡単に見つけられそうもなかった。師匠はきっと、この山の事なら何でも知っているに違いない。そして、自分だけが知っている窟に隠れて修行しているのだろう。まず、円弘坊から知っている事を全部、教えてもらい。それから、一人で山の中を歩き回ってみようと思った。

 笙の窟から奥駈け道に戻り、大普賢岳に登った。山頂には普賢菩薩を祀った祠があった。そこから、弥勒ケ岳に向かう。弥勒ケ岳には蟻の戸渡りや薩摩転び、内侍(ナイジ)落としなどの難所があり、その難所を越えると児泊(チゴドマリ)の宿に着く。ここは、ちょっとした休憩場所だった。一行もここで一休みをした。

 ようやく、雨も止み、日が差して来た。

「風眼坊殿はどこにいると思いますか」と太郎は円弘坊に聞いてみた。

「わかりませんなあ」と円弘坊は首を振った。「しかし、千日行をやるには食糧の供給ができる場所でなくてはなりません。いくら、修行とはいえ、物を食わずに千日も生きていられるわけがないですからな。笙の窟は、あそこから一里半程下った所に天ケ瀬村というのがあります。あそこの村人の助けがあって、初めて、千日行ができるというわけです。また、これから行く弥山(ミセン)の宿や神仙(ジンゼン)の宿に籠もって修行する人もいますが、弥山の宿は三里程下りた所の坪の内村、神仙の宿は一里程下りた所にある前鬼(ゼンキ)村の助けを借りています。ですから、風眼坊殿も、その三つの村の近くにいるに違いありません。でも、捜すのは大変ですよ」

「その風眼坊殿というお人も千日の行をなさっておられるのですか」と羽黒山の山伏が聞いた。

「ええ」と太郎は答えた。

「凄いもんですな。千日行なんて話には聞いた事がありますが、もう、昔の事で、今は、そんな荒行をする人なんていないと思っておりました。しかし、実際、いるんですね。やはり、大峯山は本場だけあって凄いですな。あの聖人様を拝ませてもらっただけでも、田舎から、わざわざ出て来た甲斐がありました」

「本当じゃのう。まるで、生きている神様のようじゃったのう」

「円弘坊殿、笙の窟の辺りには、まだ、他にも窟があるのですか」と太郎は聞いた。

「あるらしい。いくつかあるらしいが危険な所にあって近づけんそうじゃ。風眼坊殿なら行きそうだがな。しかし、このお山は奥が深いからのう、奥深く迷い込んでしまったら、二度と出て来られなくなる事もある。わしらはそういう奴を仙人と呼んでおるが、風眼坊殿を捜すのはいいが仙人にならんように気を付けてくれよ」

「その仙人になる人というのは結構いるのですか」と羽黒山の山伏が聞いた。

「いるようじゃのう。このお山に入るのには、わしら、大峯の先達を連れていなければならん決まりなんだが、中には、独りで勝手に入って行く奴もおる。この間も、釈迦ケ岳の下の谷の側で死んでいる仙人が見つかった。出雲の大山(ダイセン)から来た山伏じゃった。大峯を甘く見たんじゃろう。それでも、遺体が見つかれば、まだいい方で、山奥でひっそりと死んで行き、未だに行方不明のままの仙人もかなりおるじゃろうのう」

「恐ろしや‥‥‥」

 そこから、また、登り坂になり、岩をよじ登ると、国見岳の頂上に出た。頂上は狭いが、見晴らしは良かった。さらに、岩に囲まれた尾根道を進んで行くと行者還岳(ギョウジャカエリダケ)という名の岩山に着く。この岩山は南側が絶壁になっていて、苦労して頂上まで登っても、そこから先へは行けない。また、戻らなければならなかった。

 役の行者でさえ、熊野から吉野を目指してここまで来たが、この絶壁に恐れをなして引き返したというので、この名が付いた山である。この山を下りて、進むと、金剛童子を祀った祠があり、岩肌から清水が流れていた。ここで口を潤し、さらに進む。ここから先は、なだらかな道が続いていた。一の多和(タワ)という水場を通り、理源大師聖宝を祀る講婆世宿に着く。ここから聖宝八丁と呼ばれる急坂を上ると弥山の宿に着いた。今日の泊まりはここだった。

 弥山の宿には、いくつかの僧坊が建ち並び、御手洗(ミタラシ)池があり、小高い丘の上に弁財天を祀る社(ヤシロ)があった。

 ここには四人の山伏がいた。三人は熊野から来て吉野に向かう途中で、一人は、ここで断食の行をしているという。

 太郎は彼らに、風眼坊の事を聞いてみたが、皆、知らないと言った。

 宿坊で食事を済ませると太郎は外に出た。空を見上げたが、曇っていて星も見えなかった。円弘坊が言っていたように、明日も雨になるかもしれなかった。

 一体、師匠は、どこに隠れてしまったのだろうか‥‥‥

 太郎が鳥居の側に腰を下ろして、ぼんやりしていると、羽黒山の山伏、松寿坊が近づいて来た。

 松寿坊は三人の内で一番若く、食事の支度や雑用などをやらされていた。太郎と同じ位の歳だが、太郎は飯道山において先達山伏という資格を持っているので、太郎の食事も彼が作っていた。先輩にこき使われているのを見かねて、太郎は何かと手伝ってやっていた。

 松寿坊は太郎の側まで来ると、太郎に断って隣に腰を下ろした。

「太郎坊殿、そなたは足が速いですなあ」と松寿坊は言った。「わしはみんなに付いて行くのがやっとです。それに岩登りは苦手です。恐ろしくてしょうがないです」

「慣れですよ」と太郎は言った。

「慣れですか‥‥‥まだ、あと五日もあります。これから先、もっと、危険な所が一杯あるんでしょうね」

「多分な」

「わしには自信がないです。もし、途中で付いて行けなくなったら、谷底に突き落とされると聞いています。もしかしたら、生きて帰れないかもしれない‥‥‥」

「そんな心配する事はない。初めは誰でも恐ろしいものだ」

「来るんじゃなかった‥‥‥」

「大丈夫だよ」と太郎は励ました。

 松寿坊は太郎に身の上話を始めた。

 こんな山奥まで来て、心細くなったのだろう。太郎は黙って松寿坊の話を聞いてやった。言いたい事を全部、言ってしまうと、すっきりしたのか、明日も早いから、もう休みましょうと先に帰って行った。

 風が出て来た。

 太郎も宿坊に帰った。



 師匠、風眼坊の姿は見つからなかった。

 すでに、太郎が大峯山に入ってから十六日が過ぎていた。

 羽黒山の山伏たちと一緒に奥駈けの最終点、熊野の本宮まで行き、そこで彼らと別れ、一人で、また、大峯山に戻った太郎だった。羽黒山の山伏たちは、そこから、新宮、那智の滝まで足を伸ばすと言っていた。

 太郎はまず、神仙の宿の近くの前鬼村に行って、そこに住んでいる山伏たち、みんなに当たってみた。師匠を知っている者は何人もいたが、師匠の居場所を知っている者は一人もいなかった。師匠に食糧を運んでいるという者も見つからない。それでも、一応、神仙の宿の周辺を二日がかりで捜してみたが無駄だった。危険な場所に人が籠もれそうな窟がいくつかあったが、最近、人がいたという形跡はまったく、なかった。

 次に、弥山から三里程下りた所にある坪の内村に行った。ここでも師匠の事を聞いて回ったが、居場所を知っている者はいなかった。勿論、食糧を運んでいる者もいない。弥山の周辺を捜してもみたが無駄だった。

 次に、笙の窟の下にある天ケ瀬村に行った。ここでも師匠の事を聞いて回ったが、何の収穫もなかった。大普賢岳の周辺を捜してもみたが、やはり、見つからなかった。

 もう、日が暮れようとしていた。

 今日も、また、笙の窟の隣にある朝日の窟にでも泊まろうかと、太郎は山を下りていた。

 太郎が笙の窟の前を通った時、妙空聖人の姿が見えなかった。

 初めて見た時も、昨日見た時も、今朝見た時も、中央の祠の前に座り込んでいた。ところが、今はいなかった。

 妙空聖人だって生きている。年がら年中、同じ所に座っているとは限らないが、太郎は気になって窟の中を見回した。そして、窟の回りも見回した。

 辺りは暗くなっていたが月明かりが差し込んでいて、窟の中まで良く見えた。窟の中には妙空聖人の姿は見当たらなかった。回りにも見当たらない。

 一体、どこに行ったのだろう‥‥‥

 窟の右側が小高い丘のようになっていた。その丘の向こうに何かあるのかなと思って、太郎はその丘の上に登ってみた。丘の向こうには何もなく、聖人の姿もなかった。

 どこに行ったのだろうと、もう一度、窟の中を見ると聖人の姿があった。

 妙空聖人は不動明王の祠の裏の辺りに座り込んでいた。向こうから見た場合、丁度、祠の陰に隠れて見えなかっただけだった。何をしているのだろうと、太郎は少し近づいてみた。目が慣れて来るにしたがって、聖人の姿が良く見えて来た。

 聖人は壁に向かって座り込んでいた。壁には小さな地蔵菩薩の石像が置いてあった。

 聖人は、その地蔵菩薩に何かを祈っているようだった。

 太郎は合掌をして、その場を去ろうとした。

 その時、急に聖人は振り向いた。そして、素早く、太郎の方に近づいて来ると太郎を見上げた。その動きは異様だった。その顔も、何かに取り憑かれているような異様な顔だった。耐え切れない程の苦痛に、やっとの思いで耐えているかのような歪んだ顔付きをしていた。その中で、目だけが異様に鋭く光っている。そして、その目で太郎を仰ぎ見ると、太郎に向かって合掌をした。

 太郎は一体、何事かと思ったが、真剣な聖人の態度を見たら何も言えなくなり、ただ、黙って、立っているだけだった。

 聖人は真っすぐ、太郎を見上げていた。しかし、良く見ると、その目はすでに、何も見えないようだった。

 聖人は太郎に向かって、しばらく、一心に合掌していたが、やがて、苦痛に歪んだ顔が少しづつ穏やかな顔付きに変わって行った。そして、太郎に向かって深く頭を下げた。「ありがとうございます」と聖人はかすれた小声で何度も言っていた。

「満願の今日、お許しいただいて、本当にありがとうございます」と聖人は言った。「これで、千日の行をやった甲斐がありました‥‥‥」

 どうやら、聖人は太郎を地蔵菩薩の化身(ケシン)か何かと勘違いしているらしかった。

 太郎は黙って、そのまま立っていた。

 聖人は太郎の前に伏せたまま、喋り続けた。

「私は皆様から聖人様などと呼ばれておりますが、決して、そんな偉い人間ではございません。最低の人間です‥‥‥私は人を何人も殺して参りました。罪もない人を何人も殺して来たのございます。それはもう、数えきれない程です。悪事もして参りました‥‥‥

 決して、許される人間ではないのです‥‥‥聞いて下さい。私はもと関東の武士でございます。父の跡を継ぎ、武将として真面目に生きて参りました。主君に忠実な部下でした。主君のやる事は何でも正しいものと信じ、主君から命令された事は何でも実行して参りました。それが、絶対に正しい事だと信じ込んでいたのです。

 命令に従い、人を何人も殺して参りました。主君を裏切ったという同僚の首も斬りました。その同僚は、子供の頃から仲のいい奴でした。殺したくはありませんでしたが、主君を裏切ったという事は許せませんでした。見逃してくれと頼む同僚を、私は心を鬼にして殺しました。そして、その家族までも私は殺したのです‥‥‥

 女や子供を殺すのも平気でした‥‥‥抵抗のできない百姓たちを皆殺しにした事もありました‥‥‥泣き叫ぶ女、子供を見ても、まったく、平気でした。何の罪悪感もありませんでした。主君の命令に従い、当然の事をしたのだと思っておりました。お陰で、出世だけは致しました‥‥‥

 親が決めて、娶った最初の妻は子供を産まないまま、病で亡くなりました。それから、しばらくの間、私は独り身を通しました。別に不便でもありませんでした。仕事だけが生きがいでした。そんな私が五十を過ぎてから、年甲斐もなく、一人の女に惚れました。相手は人妻でした‥‥‥人妻でしたが、どうしようもありませんでした。どうしても、その女が欲しかったのです‥‥‥

 私はその女を手に入れるため、その女の夫を殺しました。直接、手を下したわけではありませんが、私が殺したのも同じ事です。私は自分の地位を利用して、その女の夫を最も危険な任務に就けました。そして、私の思った通り、その女の夫は遺体となって戻って参りました。私はその女に近づき、うまい具合に慰めて、自分のものにしてしまいました。

 幸せでした‥‥‥本当に幸せでした‥‥‥

 五十を過ぎて、初めて、家庭というものの温かさを感じていました。やがて、子供もできました。男の子と女の子、一人つづでした。子供は可愛いかった。本当に可愛いかった。あの頃は、本当に幸せでした‥‥‥

 しかし、その幸せは長くは続きませんでした。流行り病で二人の子供と妻も亡くしてしまいました‥‥‥一遍に三人を亡くし、また、独りになってしまいました。今回の独りは耐えられませんでした。仕事など、まったく手につきません。いつまでも家に籠もったまま、悲しみに打ちひしがれておりました‥‥‥

 そんな時、私は初めて、回りの者たちが自分の事をどう思っていたかを知りました。誰もが、罰(バチ)が当たったと言っておりました。今まで、罪もない人間を何人も殺して来たから、罰が当たったんだと言っておりました。そんな事はない、私は間違った事はしていない。罰など当たるはずはない。そんな事は絶対にない、と自分に言い聞かせようと思いましたが駄目でした‥‥‥

 今まで、自分が殺して来た者たちの叫び声や苦痛の顔が一人一人浮かんで来て、頭から離れなくなってしまったのでございます。妻でさえ、夫を殺したのが私だと気づいてしまったのか、恨めしそうな顔をして私の枕元に現れました‥‥‥

 自分の妻や子供を亡くして、初めて、今まで自分がやって来た事が、人間の仕業とは思えない程、残酷で非道な行ないだったと気づきました。泣き叫んでいる子供を殺すなんて、本当に、人間のする事ではありません。絶対に、許される事ではありません。それを私は、命令だからと言って、平気でやっていたのです‥‥‥

 私は頭を丸め、殺した人たちの冥福を祈るため、修行の旅に出ました。今まで自分がして来た報いとして、辛い修行をやり、自分を痛め付けて参りました。山という山は皆、登りました。それでも、私が殺して来た者たちは私を悩まし続けました。寝ても、覚めても、その人たちの亡霊に悩まされました。やがて、私の目は見えなくなりました。目が見えなくなっても、亡霊たちははっきりと見えました。目が見えていた時以上に、はっきりと見えるようになりました‥‥‥

 私は最後の修行に、このお山での千日行を選びました。死ぬ気で、この行を始めました。もう、疲れました。もう、本当に疲れました‥‥‥地蔵菩薩様、どうか、もう、私をお許し下さい。お願い致します‥‥‥」

 妙空聖人は太郎に深く頭を下げた。

「お許し下さい、許して下さい‥‥‥」

 聖人は何度も何度も、許して下さいと言っていた。

 太郎には、どうしたらいいのかわからなかった。許すと一言、言ってやりたかったが、太郎が言うわけにはいかなかった。

 その時、不思議な事が起こった。

 急に、強い風が吹いて来た。樹木が音を立てて揺れ、岩に当たった風は不気味な音を響かせた。

 聖人は顔を上げた。そして、じっと太郎の顔を見上げていた。やがて、見えない目が潤んできて、涙を流し始めた。そして、太郎を見上げたまま、「ありがとうございました」と呟いた。

 太郎には一体、何が起こったのかわからなかったが、妙空聖人は許されたに違いないと思った。

 太郎は風の音にまぎれて、その場から去った。

 妙空聖人は、まだ、何物かを見上げたまま、涙を流していた。



 次の日の朝、太郎が笙の窟の前を通ると、妙空聖人は、いつもの様にいつもの所に座り込んでいた。しかし、何となく様子が変だった。何となく、いつもと違うような気がした。

 側まで行って、よく見ると、聖人は合掌したまま成仏していた。その顔は、穏やかで、幸せそうだった。

 太郎は聖人に両手を合わせた。胸の奥にジーンと来るものがあった。



 太郎は笙の窟に籠もっていた。

 師匠、風眼坊を捜すのは諦めていた。

 今、会えないのは、きっと、縁がないからだろうと思うようになっていた。縁があれば、また、いつか、どこかで会えるだろう。会う時が来れば、別に捜さなくても会う事ができるだろうと思っていた。

 妙空聖人の遺体は天ケ瀬村の山伏たちによって、丁寧に荼毘(ダビ)にふせられ、笙の窟の右側の丘の上の朝日の当たる場所に埋葬された。

 太郎はこの窟で自分の事をよく考えてみようと思った。飯道山に戻ってからというもの、毎日忙しくて、ゆっくりと考え事もできなかった。

 やらなければならないと思う事が一杯あり過ぎた。しかし、それをする事ができないので、焦りばかりが募って行った。頭の中は混乱して来るばかりだった。太郎はゆっくりと落ち着いて考えてみた。

 やらなければならない事というのは、本当に、やらなければならない事なのだろうか。

 陰流の完成‥‥‥

 陰の術の完成‥‥‥

 そして、剣術の師範代‥‥‥

 やらなければならない事というのは、この三つしかなかった。たった、三つしかないのに何を焦る事があるのだろう。

 陰流、陰の術は、完成させようと思っても簡単にできるものではなかった。常に工夫を重ねながら、完成するべき時に完成するのではないだろうか。いくら、焦ってみたって完成などするわけがない。

 俺は一体、何で、あんなに焦っていたのだろう。

 自分の時間がなかったからか。

 嘘だ。酒を飲む時間はいくらでもあったじゃないか‥‥‥

 夕顔‥‥‥

 楓‥‥‥

 二人の女‥‥‥この問題は難しかった。簡単に答えは出そうもなかった。

 太郎はしばらく、何も考えないでいる事にした。

 これも難しかった。何も考えないでいようとしても、つい、何かを考えてしまう。ただ、ボーッとしているというのは非常に難しい事だった。

 何かが頭の中に浮かぶと、太郎はすぐに打ち消した。何も考えないようにと思った。

 何度も、何度も繰り返しているうちに、何も考えないようにしようと思う事じたい、そう考えているんだから、それさえも考えないようにしなければ駄目だという事に気づいた。

 太郎はそれも考えないようにした。

 雑念を振り切り、頭の中を空っぽにするのには何日も掛かった。

 一体、どれ位経ったのだろう。

 この窟に籠もってから何日経ったのかさえ、忘れてしまっていた。

 朝日と共に起き、一日中、何も考えないで、何もしないで、飯だけは食べたが、日が沈むと横になって寝た。

 毎日、その繰り返しだった。

 人にも会わなかった。ここまで来る者は誰もいなかった。山奥に、たった独りでいるのに不思議と孤独感はなかった。何か、不思議な大きな力に包まれているような感じがしていた。

 頭の中が空っぽになって、すっきりすると、太郎はまた考えてみた。

 二人の女‥‥‥

 楓は楓‥‥‥

 そして、夕顔は夕顔‥‥‥

 そして、酒は酒‥‥‥

 俺は、酒に飲まれていた‥‥‥

 酒を飲んでいるつもりだったが、逆に、酒に飲まれていた。酒にすがっていた。酒を頼みとしていた。酒に逃げていた。

 酒は酒なんだ。すがる物でも、頼みとする物、逃げる物でもなく、まして、飲まれる物でもない。酒は飲む物なんだ。

 女‥‥‥やはり、女は女だ。

 楓は楓で、夕顔は夕顔‥‥‥

 よくわからないが、頭の中はなぜか、すっきりとしていた。

 心も、以前のように、ばらばらではないようだった。自分に自信が持てるようになっていた。今の俺なら、あの三人の師匠として、やっていける自信が持てた。

 太郎は腰の小刀を抜いて、空を斬ってみた。

 心の迷いは消えていた。

 太郎は山を下りる事にした。
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