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陰流の開祖であり、忍びの術の開祖でもある愛洲移香斎の物語です。
14.太田備中守2






 風のまったくない蒸し暑い日だった。

 早雲は四人の山伏を連れて朝比奈川をさかのぼっていた。一人は小太郎、もう一人は太田備中守、そして、備中守の側近の上原紀三郎と鈴木兵庫助だった。兵庫助は鈴木道胤(ドウイン)の長男で、紀三郎と共に備中守から兵法(ヒョウホウ)をみっちりとたたき込まれた若手の部将だった。

 備中守は清流亭に半月程、滞在して、また八幡神社に戻っていた。半月の滞在中、備中守は福島越前守、葛山播磨守と会って、それぞれの考えを聞いた。そして、備中守の考えとして、今川家をまとめるには竜王丸をお屋形様とし小鹿新五郎を後見人にする以外にないと提案した。越前守は備中守の意見に同意して、是非、竜王丸派を説得してくれるよう頼んで来たが、播磨守の方は一筋縄では行かなかった。関東の軍勢をもって阿部川以西の竜王丸派を遠江の国まで追いやってくれと言う。そうすれば、駿河の国は以前のように落ち着くと言い張った。備中守は、竜王丸派を遠江に追う事はできるだろう、しかし、竜王丸が生きている限り、遠江で勢力を強めた竜王丸はいつの日か、駿河に攻めて来るだろうと言った。

「なに、一度、追い出してしまえば、後は何とでもなる」と播磨守は強きだった。

 備中守は、播磨守という男は竜王丸の暗殺さえもやりかねない男だと悟った。備中守は播磨守を威(オド)してやろうと考えた。

「播磨守殿、もし、竜王丸殿を遠江に追い出す事に成功した場合、恩賞として、我らは何をいただけるのですかな」と備中守は聞いた。

「備中守程のお人が恩賞を当てに戦をすると申すのですか」と播磨守はふてぶてしい顔をして言った。

 備中守は笑った。「ここの所、関東は戦続きで兵たちは疲れておる。決着が着かないまま戦が長引いているため、兵たちが活躍しても恩賞もろくに与えられんのじゃ。そんな兵たちを引き連れて箱根を越えるんじゃ。確かな恩賞がなければ兵たちは動かんじゃろうのう」

「成程、恩賞ですか‥‥‥」

「富士川より東の土地を我らにくれますかな。そうすれば、兵たちも喜んで小鹿殿を応援する事でしょう」

「それは‥‥‥」と播磨守は口ごもった。

 富士川以東の土地とは葛山播磨守の領地だった。たとえ、駿河一国が小鹿派のものとなっても、本拠地である領地を失うわけにはいかなかった。

「阿部川以西の竜王丸派の土地でしたら差し上げる事もできるかと思いますが、富士川以東はちょっと‥‥‥」

「富士川以東は播磨守殿の領地でしたな。たとえ、今川家のためとはいえ、本拠地を失う事はできませんか」

「それは、ちょっと‥‥‥」播磨守は額の汗を拭いながら困った表情をしていた。

「播磨守殿、播磨守殿がわたしの立場になったとして考えてみて下さい。駿河の国が東西に二つに分かれています。どちらの味方をした方が得か考えてみて下さい。播磨守殿なら、どちらの味方をしますかな」

「‥‥‥西です」と播磨守は仕方なく答えた。

「そうじゃろう。西と手を組んで、東を挟討ちにするというのが常套(ジョウトウ)手段と言えよう。勝てば東を山分けにする。たとえ負けたとしても、本国に引き上げるのに、それ程の距離もない。しかし、東と手を組んで阿部川辺りまで出張って来て、勝ったとしても近くの土地は貰えず、負戦(マケイクサ)になれば、全滅という事にもなりかねんからのう」

「備中守殿は竜王丸派と手を結ぶという事ですか」

「今川家がいつまでも二つに分かれたままだったら、そういう事になる可能性は充分にあるのう。我らの殿も富士川以東が手に入るとなれば、喜んで攻めて来る事じゃろう。そうならないように、わしは今川家を元に戻そうとやって来たわけじゃ。どうじゃろう、ここの所は身を引いて、竜王丸殿をお屋形様にし、小鹿新五郎殿を後見という事で妥協してもらえんものかのう」

「はい‥‥‥しかし、小鹿新五郎殿は扇谷上杉氏の一族ですが、その新五郎殿を見捨てるという事ですか」

「今の御時世は、関東では一族同士でも敵味方になって争っておるんじゃよ。同じ一族だからというだけで味方とは言い切れんのじゃ」

 播磨守は黙っていたが、ようやく、「少し、考えさせて下さい」と小声で言った。

「そうしてくれ。わしももう少し、ここでのんびりするつもりじゃ。関東に戻れば、また、戦に明け暮れる事になろうからの。しばらく骨休みのつもりで、のんびりするつもりじゃ」

「はい‥‥‥備中守殿、小鹿派の者が備中守殿の提案に賛成したとしても、竜王丸派の者たちが何と言うか問題です」

「竜王丸派の者に文句はあるまい」

「それが、竜王丸派には中原摂津守殿を押している者たちもおります。竜王丸派は摂津守殿を後見にするという事で、摂津守派と手を結びました。竜王丸派は、竜王丸殿をお屋形様とし摂津守殿を後見という事で、小鹿派と対抗しております。備中守殿のお考えを素直に認めるとは思われませんが‥‥‥」

「ふむ。なかなか複雑になっておるのう。とにかくは竜王丸派の者と話し合わなければならん。播磨守殿、竜王丸派の中心になっておられるのは、どなたですかな」

「竜王丸派の中心といえば朝比奈天遊斎殿でしょう。そして、摂津守派の中心は岡部美濃守殿です」

「朝比奈天遊斎殿と岡部美濃守殿か」

「表向きはそうですが、実際に、竜王丸派の中心となっているのは伊勢早雲でしょう」

「伊勢早雲?」と備中守は首を傾げた。

「先代のお屋形様の奥方、北川殿の兄上です。竜王丸殿の伯父に当たるお人です。竜王丸殿の執事という事になっておりますが、正式に今川家の家臣ではありません。しかし、なかなか手ごわい男です。敵に回したくない男とでもいいましょうか」

「ほう。播磨守殿がそれ程までに言うとは余程の男らしいのう。是非、会ってみたいものじゃ」

「備中守殿が動かなくても、早雲の方から近づいて来る事でしょう」

「そうか‥‥‥しかし、ここにいては早雲といえども入っては来れまい」

「いえ。早雲は元、山伏だったらしく、厳重な警戒など屁とも思わず、お屋形内に潜入して来ます」

「ほう。面白そうな男じゃのう」

 備中守は福島越前守、葛山播磨守の小鹿派の大物二人を説得させると、清流亭を出て八幡神社に戻って来た。そして、今、早雲の案内で、竜王丸に会うために山伏姿となって朝比奈の城下に向かっていた。野田沢川に架かる橋を渡って、町並を抜け、朝比奈屋敷の隠居屋敷の門をくぐったが、北川殿も竜王丸もいなかった。

 留守を守っていた荒木が出て来て、北川殿も竜王丸も河原の弓場だと言う。相変わらず、熱心に弓の稽古に励んでいるらしい。

「おぬし、よく、こんな山の中にいつまでもおられるな」と早雲は荒木に聞いた。

「はい。静かでいい所です」と荒木は答えた。

「静かでいい所か‥‥‥確かにそうじゃが、おぬしらしくない事を言うのう。多米は何しておるんじゃ」

「はい。多米の奴も河原に行きました」

「ほう。北川殿の護衛をしておるのか」

「はい。それだけではありませんが‥‥‥」

「一体、どうしたんじゃ。おぬしら二人がこんな山の中でおとなしくしておるとはのう。信じられん事じゃ」

 早雲は四人の山伏を連れて西の河原に向かった。北川衆の清水と山本の二人が河原の手前の道を見張っていた。

 河原では、北川殿が汗びっしょりになって弓を引いていた。竜王丸と美鈴が、寅之助と侍女の菅乃、お雪、春雨と一緒に北川殿を見ている。多米が的の近くに立って、富嶽が北川殿が弓を射るのを手伝っていた。

「ほう、北川殿の侍女は弓の稽古もなさっておるのか。さすがじゃのう」と備中守は北川殿を見ながら言った。

「あれが、北川殿です」と早雲は言った。

「なに、あのお方が北川殿?‥‥‥信じられん」

「あちらにおられるのが、竜王丸殿です」と早雲は竜王丸の方を示した。

「どちらじゃ」と備中守は聞いた。

 竜王丸と寅之助は同じ格好をして、しかも、二人とも真っ黒に日に焼けていた。双子のように良く似ていた。

「小さい方のお方です」

「ふーむ。驚きじゃわ。まさか、北川殿が弓を引いておられるとはのう。誰に話したとて、信じては貰えまい」

 北川殿の放った矢は見事に的の中央に当たった。

「お見事!」と多米が叫んだ。

 北川殿は早雲の姿を見ると、弓を富嶽に渡し、汗を拭きながら近づいて来た。

「兄上様、いかがでした。大分、上達したでしょう」

「はい。大したものです。これ程までに早く上達するとは驚きです」

「風間殿もご一緒でしたか。お久し振りです。そうそう、お雪が風間殿に会いたがっておりますよ。お雪のためにも、風間殿、ちょくちょく訪ねて来て下さいね」

「はい」と小太郎は照れながら答えた。

「あの、そちらのお方は?」と北川殿は備中守を見て、早雲に聞いた。

「北川殿、こちらのお方は江戸から来られた太田備中守殿です。御存じでしょうか」

「太田備中守殿‥‥‥お噂は亡きお屋形様より伺っております。嫌ですわ、こんな姿を見られて」北川殿は急に恥ずかしそうに俯いた。「兄上様もどうして、こんな所に太田様をお連れするのです。困りますわ」

「申し訳ございません」と早雲は謝った。「備中守殿に北川殿の本当のお姿を見ていただきたかったのです。それに、今回は非公式な対面です。北川殿と備中守殿ではなく、京から下向して来られた御料人様と関東から来られた一山伏として、会ってもらいたいのです」

「分かりました」と北川殿は早雲に頷き、備中守を見て、軽く頭を下げた。

 備中守も軽く頭を下げた。

「兄上様、お屋敷の方でお待ち下さい。わたしもすぐに戻ります」

「北川殿」と備中守が言った。「わたしに遠慮なさる事はございません。充分にお稽古なされてからお帰り下さい。わたしは待っております」

「ありがとうございます」

 早雲は備中守を連れて屋敷に向かった。後を追って、お雪と春雨がやって来た。

「どうしたんじゃ」と小太郎がお雪に聞いた。

「北川殿が一緒に行けと言ってきかないんです」とお雪は答えた。

「二人が抜けたら向こうが大変じゃ」と早雲は言った。

「はい。そう言ってもききません。弓を構えて、行かなければ射ると言うのです」

「困ったものじゃ。わしが残るわ」と小太郎は言った。

「うむ、そうしてくれ。お雪殿も小太郎と戻ってくれ」

 小太郎とお雪が河原に戻り、早雲らは屋敷に向かった。





 備中守は、弓の稽古をしていた時とは、まるで別人のように着飾った北川殿と竜王丸に対面し、関東の話などを半時程すると早雲と共に帰って行った。

 帰り道、早雲は備中守に、「竜王丸殿をどう見ますか」と聞いた。

「父親に負けない程の武将になる事じゃろう」と備中守は力強く答えた。

 小太郎は早雲たちと一緒に帰って来なかった。北川殿がお雪に暇を出したので、早雲も、久し振りにお雪と共に過ごせ、と置いて来たのだった。

 小太郎とお雪は積もる話をしながら城下を散歩して、北川殿が手配してくれた旅籠屋に入り、二ケ月振りに、二人だけで、のんびりと過ごした。

「お雪というより、お黒じゃな」と小太郎はお雪の顔を眺めながら言った。

「しょうがないでしょ、北川殿があれだもの。あたしたちが笠を被っているわけにはいかないわ」

「まあ、そうじゃな。働き者の女房って感じで、なかなかいい」と小太郎は笑った。

「ありがとう。でも、北川殿が武芸に熱心になってくれたお陰で、前よりは退屈しなくても済むわ。前は、毎日、する事がなくて逃げ出したいくらいだった」

「そうじゃろうのう。お前はじっとしておられない性格じゃからのう」

「あたし、北川殿に小太刀(コダチ)を教えているのよ」

「そうだってな。小太刀の方も上達しておるのか」

「小太刀の方はそれ程でもないけど、弓術の方は凄い上達振りよ。ほんと、驚く程、見る見る上達して行くの」

「早雲と同じ伊勢家の血が流れておるからのう。元々、素質はあるんじゃろうのう」

「ほんと、早雲様の弓術には驚いたわ。まるで神業よ。凄いなんてもんじゃないわ。富嶽様も初めて見たみたい。口を開けたまま驚いていたわ」

「確かにな」と小太郎は頷いた。「奴の弓は神業じゃ。しかし、弓だけじゃない。馬術も神業じゃ。奴はまるで、馬の言葉が分かるかのように、どんな馬でも乗りこなすんじゃ。奴にかかったら、どんな駄馬でも名馬に早変わりじゃ」

「へえ、そうなの。人は見かけによらないのね」

「それは言えるな。お前の笛を初めて聞いた時、わしもそう思ったわ」

「あたしだって、そうよ。初めて、あなたの治療を見た時、凄い人だって見直したのよ。それから、あなたから離れられなくなっちゃったんじゃない」

「そうじゃったのか‥‥‥わしはお前を初めて見た時から、面白い女子(オナゴ)じゃと興味を持っておったぞ」

「それ、もしかして、一目惚れっていうの」

「そうなるかのう」

「まあ、嬉しい」とお雪は小太郎に抱き着いて来た。

 小太郎とお雪がいちゃいちゃしている頃、夕暮れの城下を以外な二人が散歩していた。

 多米権兵衛と北川殿の侍女、菅乃だった。二人は並んで北川殿の弓の稽古場のある河原へと向かっていた。菅乃は俯き、多米は真面目な顔付きでブスッとして歩いていた。

 河原まで来ると、多米は川の側まで行って対岸の方を見た。

 日が山陰に沈もうとしていた。

 菅乃も多米の隣に立つと夕日を眺めた。

「子供の頃、兄上や弟と一緒に、ここでよく遊びました」と菅乃は言った。

「そうでしたか‥‥‥」

「まさか、弥太郎兄さん(朝比奈肥後守)が、亡くなってしまうなんて‥‥‥」

 多米は黙って、菅乃の横顔を見ていた。

「弥次郎兄さん(朝比奈備中守)は、遠くに行ってしまうし」

「今は帰っておられるのでしょう」

「はい。でも、北川殿のお屋敷に一度、御挨拶に来ただけで、ここと青木城を忙しそうに行ったり来たりしております」

「そうですか‥‥‥」

「多米様は竜王丸殿の御家来にはならないのですか」

「わたしは早雲殿の家来です。早雲殿がこの先、武士に戻るかどうかは分かりませんが、わたしは早雲殿に付いて行こうと決めております」

「早雲殿に?」

「はい。わたしだけではありません。荒木も、富嶽殿も、早雲庵にいる者たちは皆、早雲殿を慕っております。早雲殿のためなら命も惜しくないと思っております。わたしは長い間、浪人をして各地を旅して参りました。しかるべき武将に仕官しようと思って旅を続けておりました。そして、早雲殿と出会い、このお人より他にないと決心したのです」

「そうだったのですか‥‥‥」

「菅乃殿はこの先、ずっと、北川殿にお仕えするおつもりなのですか」

「はい。そのつもりです。北川殿はいい人ですし、それに、わたしには他の生き方は分かりません。わたしは十六の時から北川殿にお仕えしています。十六の時まで、ここで暮らし、その後はずっと駿府の北川殿で暮らしています。その他の所は全然知らないのです」

「そうでしたか‥‥‥」

「北川殿にお仕えする前、お嫁に行くというお話もありました。でも、相手のお方がどうしても好きになれず、北川殿にお仕えする道を選びました。わたしはもう二十四です。お嫁に行く事は諦めております。一生、北川殿にお仕えし、竜王丸殿の御成長を見守ろうと思っております」

「菅乃殿、そなたのような美しいお方が何を申されます。北川殿にお仕えするのもいいが、もっと御自分を大切にすべきだと思います。もっと御自分の幸せも考えるべきです」

「自分の幸せですか‥‥‥今も幸せです‥‥‥多米様、わたしの本当の名前は八重と言います。どうぞ、八重とお呼び下さい」

「お八重殿ですか」

「はい。多米様、八重のような者でも、お嫁に貰って頂けますか」

「えっ? 今、何と申しました」

「いいんです‥‥‥」

 多米は八重の顔を見つめた。

 八重は俯いていた。美しい人だと思った。

 信じられなかったが、多米は八重が言った事をはっきりと耳にしていた。耳にしていたが、今の多米にはどうする事もできなかった。八重は朝比奈天遊斎の娘だった。今川家の重臣の娘だった。三河の国の片田舎の郷士の三男の多米とは、どう考えても釣り合いが取れなかった。

 多米は八重こと菅乃に一目惚れしていた。北川殿を守るために、早雲に命じられて駿府の屋敷に入って、初めて菅乃を目にした時から惚れていた。惚れてはいても、相手は北川殿の侍女、高根の花で、自分が思いを寄せる事さえできない人だと諦めていた。それが今回、富嶽と一緒に朝比奈城下にやって来て、その高根の花と以前より近くに接する事ができるようになった。

 駿府の北川殿にいた頃の菅乃はほとんど屋敷内にいたため、言葉を交わす事は勿論の事、遠くから見る事しかできなかったが、ここでは北川殿を初め、皆、のびのびと暮らしていた。北川殿は城下を散歩したり、武芸の稽古に励んだり、駿府にいた頃には想像もできない程、気ままに暮らしている。当然、侍女や仲居たちも屋敷ばかりにいる事もなく、北川殿と一緒に出歩いていた。多米や荒木も自然に侍女や仲居たちと言葉を交わすようになり、身分という壁が取り払われたような感じだった。

 ある日、多米は菅乃と二人だけになった時、自分の思いを打ち明けた。もう、どうしようもなく、胸がはち切れそうになり、駄目で元々、打ち明けてしまえば、かえって、すっきりするだろうと、多米は、「好きです」と打ち明けた。

 菅乃はポカンとしたまま何も言わなかったが、多米は胸のつかえが、やっと取れたかのように気分はすっきりした。その日から菅乃が自分を見る目が変わった事に気づき、多米は信じられなかったが嬉しかった。そして、今日、ついに声を掛けて、菅乃を誘って河原まで来たのだった。

 菅乃は十六歳の時から北川殿に仕えて来たため、男を知らなかった。北川殿に仕えるまでは朝比奈家のお姫様として屋敷の奥で育てられたので、男に言い寄られた事もないし、北川殿に仕えてからも、ほとんど屋敷から出なかったので、男に言い寄られた事は一度もなかった。そして、そんな事など一生ありえないだろうと思っていた。それが突然、多米から好きだと言われた。信じられなかった。信じられなかったが嬉しかった。

 多米は嫌いな男ではなかった。駿府にいた時の活躍も知っている菅乃には、頼もしい男として多米は写っていた。しかし、好きという感情は特になかった。多米も北川衆と同じように北川殿を守るための侍の一人に過ぎなく、自分とは縁のないものだと思っていた。それが、多米の一言によって、多米という男がずっと身近に感じられるようになり、さらに、好意さえ感じるようになって行った。多米の姿を見ると小娘のように胸が時めき、体中がポーッと熱くなって来た。

 菅乃が多米に、お嫁に貰ってくれるか、と聞いたのは本心だった。本心だったが、それが適えられない事だという事も知っていた。知ってはいても、一度、口に出して言ってみたかったのだった。

「お八重殿、待っていて下さい。わたしは必ず、お八重殿をお迎えに参ります」と多米は思い切って言った。

「えっ?」と菅乃は驚いた顔を多米に向けた。

「いつか、必ず‥‥‥」

「はい‥‥‥」と菅乃は多米を見つめた。

 多米は菅乃に見つめられ、夢でも見ているのではないかと、地に足が着いていない状態だった。

「そろそろ、戻りますか」と多米はやっとの事で言うと夕焼け空に目を移した。

「はい」

 夕暮れの中、二人の影は寄り添いながら河原を後にした。

 多米が菅乃に愛の告白をしたように、荒木も仲居の淡路に自分の気持ちを告白していた。

 淡路は今川一族の堀越陸奥守の姪だった。荒木の方も多米と同様、前途多難な恋の道程(ミチノリ)だった。二人とも、こちらに来てからは人が変わったかのように、女遊びは勿論の事、博奕(バクチ)さえもせず、朝は早くから起き、真面目に仕事に励んでいた。以前の二人を知っている者が見たら、こっけいに思う程、二人とも真剣に女に惚れていた。
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