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陰流の開祖であり、忍びの術の開祖でもある愛洲移香斎の物語です。
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24.文明九年、春2






 出口御坊は正面に本堂、左側に御影堂(ゴエイドウ)があった。右側は簡単な塀に仕切られ、塀の向こうに廐(ウマヤ)と僧坊があり、その奥の方に書院、そして、蓮如の家族たちの住まいである庫裏(クリ)があった。

 観智坊は書院の一室に案内されて、しばらく待たされた。書院の入り口の近くの部屋に蓮如の執事、下間頼善がいたが、観智坊が誰だか気づかなかった。

 やがて、蓮如が慶覚坊と一緒に現れた。

 懐かしかった。

 蓮如は別れた時と変わってはいなかった。相変わらず日に焼けた顔で、きびきびとした身ごなしで質素ななりをしていた。

 観智坊は頭を深く下げて蓮如を迎えた。

「風眼坊殿のお知り合いだとか」と蓮如は聞いた。

「はい。風眼坊殿の弟子の観智坊と申します」と観智坊は頭を下げたまま答えた。

「なに、風眼坊殿のお弟子さんか」

「はい」と観智坊は顔を上げた。

 不思議な事に蓮如は目をつむっていた。

「風眼坊殿は達者かな」

「はい。今、駿河の方で、何やら騒ぎが起こって、その騒ぎを治めたそうです」

「そうか。駿河の方で活躍しておるか‥‥‥そいつは良かった」

「はい。風眼坊殿より上人様のお噂は伺っております」

「そうか‥‥‥風眼坊殿には色々と世話になったからのう。お雪殿はどうしておるじゃろう」

「それはもう、風眼坊殿とは仲睦(ナカムツ)まじくやっておられます」

「そうじゃろうのう」と蓮如は嬉しそうに頷いてから、「もしや、そなた、蓮崇ではないのか」と聞いた。

「えっ?」と観智坊は驚いた。

 蓮如は目を開けて、改めて観智坊を見た。

「慶覚坊が、しばらくでいいから目をつむって声だけを聞いてくれ、と言いおった。何の真似だか知らんが、どうしても、そうしてくれと言うのでやってみたんじゃ。目をつむって、そなたの声を聞いておると自然と蓮崇の顔が浮かんで来たんじゃ」

「上人様‥‥‥」

「本当に蓮崇なのか」蓮如は観智坊の顔をじっと見つめた。

「はい。蓮崇です。しかし、生まれ変わりました」

「生まれ変わったか‥‥‥確かに、生まれ変わったのう。見事に生まれ変わったもんじゃ」

「はい。蓮崇は吉崎で死にました。そして、今、観智坊として生まれ変わりました」

「観智坊か‥‥‥」と蓮如は頷いた。「それでは観智坊に聞くが、これから、どうするつもりじゃ」

「加賀に行きます。加賀の門徒たちを放っては置けません」

「加賀に行って、戦をするつもりなのか」

「いえ。今の状況から、しないとは言い切れませんが、出来るだけ回避するつもりでおります。ただ、一方的に攻められている門徒たちを見捨てられません。わたしは、この先、表には出ません。本願寺の裏の組織を作るつもりでおります」

「裏の組織?」

「はい。今の組織は縦の関係は、はっきりとできております。しかし、横のつながりがありません。わたしは各道場をすべて、つなげようと思っております。離れている河北郡の道場と江沼郡の道場がお互いに情報の交換ができるようにしたいのです。今、門徒たちは、バラバラです。このままでは、せっかく、門徒となって生きがいを感じていた者たちまで、本願寺から離れて行ってしまいます。守護が何をしようとしているかを探り、その情報をすぐに門徒たちに知らせる事ができれば、門徒たちもひどい目に会わなくても済みます」

「横のつながりか‥‥‥」

「はい」

「わしも加賀の事は気になっておる。しかし、わしにはどうする事もできんのじゃ。加賀に行く事すらできん。わしは加賀の国中を歩いた。一人でも多くの人に教えを広め、落ち着いた静かな心で念仏を唱えて欲しかった。勿論、わしの力だけではないが門徒たちは増えた。加賀の門徒たちは、わしから見たら皆、子供のようなものじゃ。しかし、子供たちは、だんだんと、わしから離れて行った。わしは子供たちを見捨ててしまったんじゃ。確かに、あの時、吉崎は危険な状態にあった。あの時、そなたを破門にしても、わしが残っておったら戦になってしまうかもしれなかった。わしは、そなたの破門を無駄にしたくはなかった。わしは吉崎を離れた。しかし、他に方法はなかったのか、と時々、思う事があるんじゃ。何と言おうとも、加賀の門徒たちを見捨ててしまった事は事実じゃ‥‥‥わしは時々、苦しんでおる門徒たちの夢を見る事があるんじゃよ。何とかせにゃならん、しかし、わしにはどうする事もできん‥‥‥情けないんじゃよ。本願寺の法主(ホッス)でありながら、門徒たちを助ける事もできんのじゃ」

「上人様‥‥‥」

「観智坊とやら、わしの代わりに加賀の事を頼める者は、そなたしかおらん。加賀の門徒たちの事を頼むぞ」

「ははっ」観智坊は頭を深く下げた。
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25.一休禅師






 裏山で、ウグイスが鳴いていた。

 一休(イッキュウ)和尚のいる酬恩庵(シュウオンアン)は薪(タキギ)村を見下ろす小高い丘の上に建っていた。

 五条安次郎は柴屋宗観(サイオクソウカン)という名の僧侶となって、一休和尚のもとで厳しい修行を積んでいた。

 夢庵(ムアン)と甲賀で別れてから四ケ月の月日が流れていた。その四ケ月は並々ならぬ四ケ月だった。まさしく、一休という名の化物との戦いと言ってもいい程だった。

 四ケ月前、安次郎は、いつまでも夢庵に付き合ってはいられないと夢庵のもとを逃げて来た。あのまま、夢庵と一緒にいたら疲れ切ってしまい、自分を見失ってしまいそうだった。しばらく智羅天(チラテン)の岩屋に籠もって書物に没頭しようと思っていたが、夢庵から一休の事を聞くと、一休という禅僧に会いたくなって来た。一休の事は早雲からも何度も聞いていた。会って損はないと思った。どうせ、甲賀にいても宗祇(ソウギ)の弟子にはなれそうもない。一年くらい、一休のもとで禅の修行をするのも悪くはないと思った。はっきり言って、この時、安次郎は禅というものを知らなかったと言ってもいい。

 安次郎は一休に歓迎された。一休は夢庵の事も早雲の事も懐かしそうに聞いていた。

 一休はまったく不思議な人物だった。一見しただけだと、ただの汚い田舎の爺さんにしか見えない。髪の毛は伸び放題、無精髭も剃らず、色あせた綿入れを着込んで、これが、あの有名な一休和尚かと、安次郎は初めて見た時、がっかりした。かなりの年だとは聞いていたが、実際に会って見ると、さすがに年を取っている。七十歳を過ぎているに違いないと思ったが、実際は八十歳を過ぎていると聞いて、信じられなかった。その八十歳を過ぎた老人のやる事や言う事が、一々機知に富んでいて面白いのだった。一休がそこにいるというだけで、その場が明るくなるような感じを受けていた。そして、ここの雰囲気が駿河の早雲庵に似ていた事も、安次郎には気に入っていた。早雲庵と同じように、ここにも頻繁(ヒンパン)に人々が出入りしていた。一休は、和尚さん、和尚さんと皆に慕われ、和尚の方も誰にでも差別無く付き合っていた。訪ねて来る者の中には、和尚の事を生神様のごとくに敬(ウヤマ)っている者たちもいる。安次郎には、なぜ、この和尚がそれ程までに慕われるのか、分からなかった。

 薪村は京都と奈良の中程にあり、近くに木津川が流れていた。この辺りは木津川が淀川と合流する辺りにある石清水(イワシミズ)八幡宮の領地で、薪村の背後にある山から八幡宮で使用する薪を切り出していた。切り出した薪は木津川の河原に集められ、船で八幡宮に運ばれた。薪村は薪の浜と呼ばれ、薪の切り出しの作業の間は杣人(ソマビト)や人足たちが大勢集まって賑わうが、後は静かな村だった。一休和尚がこの薪村に来たのは、もう二十年も前の事だった。

 一休は自ら虚堂(コドウ)七世と称していた。虚堂と言うのは宋(ソウ)の国(中国)の禅僧である。宋に渡って虚堂智愚(チグ)のもとで厳しい修行を積み、法を継いで帰国したのが大応国師(ダイオウコクシ)と呼ばれる南浦紹明(ナンボジョウミン)だった。余談になるが、茶の湯で使う台子(ダイス)を宋の国から日本に伝えたのは大応国師だといわれている。その台子は筑前の国(福岡県北西部)の崇福寺(ソウフクジ)から京都の大徳寺(ダイトクジ)に伝わり、天竜寺開山の夢窓(ムソウ)国師によって広められた。台子というのは仏様にお茶を捧げるための道具だったが、将軍義政の同朋(ドウボウ)衆の能阿弥(ノウアミ)によって、書院での茶の湯の席で使われ始めた。台子飾りは能阿弥から村田珠光(ジュコウ)に伝わり、数寄屋(スキヤ、茶室)での佗(ワ)び茶の中に取り入れられて行った。

 大応国師の一番弟子が、京都五条の橋の下で、乞食と共に二十年間、修行を積んだという大燈(ダイトウ)国師である。大燈国師は宗峯妙超(シュウホウミョウチョウ)といい、大徳寺の開山だった。大燈国師の弟子に徹翁義亨(テットウギコウ)、その弟子が言外宗忠(ゲンガイソウチュウ)、その弟子が華叟宗曇(ケソウソウドン)である。華叟の弟子が一休だった。それは、虚堂から一休へと続く、厳しく純粋なる禅の流れだった。彼らは皆、権力に背を向けて、大寺院には住まず、本物の禅を実践していった傑物(ケツブツ)たちだった。

 虚堂二世の大応国師が二百年程前に、この薪村に妙勝寺(ミョウショウジ)という寺院を建てたが、南北朝時代の争乱によって焼失し、そのまま放置されたままになっていた。一休は何度か、この地を訪れ、今まで誰も妙勝寺を再興しなかった事を嘆(ナゲ)き、是非とも自分の手で再建しなければならないと思った。純粋なる禅を守るためにも、大応国師の創建した妙勝寺は再興しなければならないと思った。そして、二十年前に京と堺の商人の喜捨(キシャ)によって、それが実現したのだった。ところが、その妙勝寺も応仁、文明の乱の兵火によって、また焼け落ちてしまった。戦で焼失してしまったのは妙勝寺だけでなく、京に於ける一休の拠点であった瞎驢庵(カツロアン)、売扇庵(バイセンアン)も焼け、大徳寺も焼けてしまった。戦の間、一休は堺の近くの住吉に乱を避けていた。戦もようやく治まりかけた文明四年(一四七二年)、一休は妙勝寺の地に酬恩庵という庵を建て、戻って来ていた。
26.鞠子屋形1


 青空にポッカリと駿馬(シュンメ)のような形をした雲が浮かんでいる。

 春の日差しを浴びて、小太郎は縁側で薬作りに励んでいた。

 お雪は庭で洗濯物を干している。

 北川の方から時折、ウグイスの鳴き声が聞こえて来た。

 のどかな一日だった。

 今川家の内訌(ナイコウ)騒ぎから半年近くが過ぎ、駿府(スンプ)もようやく落ち着いて来ていた。小太郎の町医者も忙し過ぎる事もなく、暇という事もなく、適度な忙しさを保っている。小太郎とお雪も夫婦らしい、のんびりとした幸せな日々を送っていた。 北川殿母子は先月の半ば、ようやく鞠子(マリコ)の新屋敷に移った。正月は向こうで迎える予定だったが、去年の冬、雨の日が多くて仕事が思うようにはかどらず、完成したのは閏(ウルウ)正月になってからだった。完成するまでの間、北川殿は何度もお忍びで鞠子まで通って、早雲を困らせていた。

 鞠子の新屋敷は鞠子屋形と呼ばれた。鞠子屋形は駿府のお屋形様の屋敷と比べたら半分程の広さだったが、北川殿よりはずっと広く、濠(ホリ)と土塁(ドルイ)に囲まれて、四方には櫓(ヤグラ)も立ち、完璧な防御機能を備えていた。屋形の裏側には北川殿の望み通りの射場(イバ)も付いているし、竜王丸が武術の稽古に励む広い庭もあった。大きな廐(ウマヤ)もあり、侍女や仲居たちの離れもあり、庭の隅の方に北川殿が早雲庵と名づけた二間続きの茶屋もあった。屋形の前には、北川衆たちの屋敷が並ぶ予定だが、まだ完成していない。北川衆たちは家族を駿府に残したまま、北川殿母子を警固するため鞠子に移っていた。

 早雲は竜王丸の執事(シツジ)となり、頭は丸めたままだったが還俗(ゲンゾク)していた。元々、偽坊主だったため、正式に今川家の重臣となるのに偽坊主のままでいるわけには行かなかった。色々と調べられれば嘘を付いてもばれてしまう。後になってばれれば信頼を無くしてしまう。早雲は還俗して伊勢早雲と名乗り、鞠子屋形に詰めていた。

 富嶽もまた早雲の家来となって還俗し、大道寺(ダイドウジ)太郎という昔の名前に戻っていた。早雲の弟子となっていた才雲、孫雲の二人も山中才四郎、富沢孫三郎に戻り、秋葉山の山伏、荒川坊は荒川又四郎と名乗って早雲の家来になっていた。多米権兵衛、荒木兵庫助、在竹兵衛(アリタケヒョウエ)率いる山賊衆十三人も皆、早雲の家来となり、早雲は今、二十人の家来持ちとなっていた。家来はいるが、正式な屋敷はまだなかった。山賊衆は相変わらず早雲庵で暮らし、村人たちのために働いている。富嶽、多米、荒木の三人は普請奉行(フシンブギョウ)となって、鞠子屋形の門前の早雲の屋敷作りに励んでいる。富沢、山中、荒川の三人は早雲の命で、鞠子、駿府、早雲庵を行ったり来たりしていた。

 早雲が還俗したため、北川殿は何としてでも、春雨と早雲を一緒にさせようと張り切っていたが、俗人に戻って、すぐに嫁を貰うのは体裁が悪いから、一年間、待ってくれと断っていた。春雨にすれば、今まで諦めていたのに、早雲と一緒になれるのなら一年位待つのは何でもなかった。一年後を楽しみに春雨は北川殿の侍女を勤めていた。

「ねえ、陽気が良くなって来たわね」と洗濯を済ませたお雪が、縁側の小太郎に声を掛けて来た。

「そうじゃのう」と小太郎も手を止めて空を見上げた。

「こんないい天気に、うちにいる手はないわね」

「そうじゃのう。今日は仕事を休みにして、どこかに行くか」

「そう来なくっちゃ」とお雪は嬉しそうに笑った。

「どこに行くかねえ」

「静かな所で、のんびりしたいわ」

「随分と年寄り臭い事を言うのう」

「だって、ここは朝から晩までうるさいんだもの」

「そう言えばそうじゃのう‥‥‥静かな所か」

「ねえ、お母さんに会いに行かない」

「お母さん?」と小太郎は不思議そうにお雪を見た。

「松恵尼様よ」とお雪は言った。

「そうか」と納得してから、「飯道山まで行くのか」と小太郎は聞いた。

「蓮崇(レンソウ)様はどうしたかしら」

「一年間、武術の修行に励んで、加賀に帰ったじゃろうな」

「強くなったかしら」

「さあ、分からんのう。まあ、自分の身位は守れる腕になったじゃろう」

「そんな腕で、裏の組織なんて作れるのかしら」

「蓮崇殿には頭があるからのう。何とかやるじゃろう」

「そうね。ねえ、今日、雨なんか降らないわよね」

「降らんじゃろ」

「じゃあ、洗濯物はこのままでいいわね。さあ、行きましょ」
27.鞠子屋形2






 花見は大盛況だった。

 浅間(センゲン)神社の門前町は二日の間、静まる事なく騒ぎが続いていた。

 小太郎の家にも、石脇の早雲庵にいる早雲の家来や村人たちが大勢押しかけて騒ぎ続けていた。小太郎もお雪もいる場所がなくなり、二日目には、とうとう、お屋形内の北川衆の屋敷に避難する有り様だった。

 終わってみれば、小鹿(オジカ)新五郎の評判が上がり、竜王丸(タツオウマル)の影はまったく薄くなっていた。新五郎自らは、自分が新しいお屋形様だとは口にしなかったが、国人たちに対して、常にお屋形様らしく振る舞っていた。竜王丸は初日の花見が始まる前に国人たちの前に現れて、お屋形様として紹介されたが、ただ、それだけで、後はまったく出番はなかった。

 国人たちは昼間、浅間神社に行き、満開の桜を見ると共に様々な芸能を見物して、夜には豪勢な宴会に招待された。その宴会は、お屋形様の屋敷ではなく、客殿である望嶽亭(ボウガクテイ)や清流亭で行なわれた。奉行となったのは福島越前守(クシマエチゼンノカミ)と三浦次郎左衛門尉(ジロウザエモンノジョウ)の二人で、新五郎の人気集めのための宴会と言ってもよかった。三浦次郎左衛門尉は一時、竜王丸派となってはいたが、それは本拠地が危険にさらされたためで、元々、新五郎がお屋形様になる事には賛成だった。越前守にうまく丸め込まれて、今では、完全に小鹿派に戻っていた。

 今川家の六人の重臣、朝比奈氏、岡部氏、福島(クシマ)氏、三浦氏、葛山(カヅラヤマ)氏、天野氏のうちで、竜王丸派と言えるのは、今、岡部美濃守(ミノノカミ)、ただ一人だった。

 美濃守は中原摂津守(セッツノカミ)をお屋形様にしようと竜王丸派と争っていたが、早雲を知る事によって、今では完全に竜王丸派になっていた。元々、真面目で冷静な男だったが、あの時は欲に目が眩(クラ)んで、魔が差したかのように判断を誤ったと後悔していた。その事に気づいた今では、今川家のためには、絶対に竜王丸がお屋形様にならなければならないと主張していた。

 以前、竜王丸派の中心だった朝比奈天遊斎は隠居して長老の座からおり、代わりに弟の朝比奈和泉守(イズミノカミ)が朝比奈氏の中心となったが、この和泉守は、はっきり言って何を考えているのか分からなかった。天遊斎が隠居する前は確かに竜王丸派だったのに、今、やたらと小鹿新五郎に近づいている節があった。

 和泉守は今まで、いつも兄の天遊斎に頭を押えられて、何事も兄に従っていた。しかし、兄が隠居して政治の舞台から消えると、子供のためには小鹿派になった方がいいかもしれないと考えるようになっていた。天遊斎の跡継ぎは先代のお屋形様と共に戦死した。天遊斎の孫が跡を継ぐ事になったが、孫はまだ十一歳、その孫を後見する天遊斎の三男、左京亮(サキョウノスケ)は二十一歳だった。次男の備中守(ビッチュウノカミ)は遠江(トオトウミ)にいる。天遊斎もすでに五十歳を過ぎている。先はそう長くはないだろう。そうなると、朝比奈家を背負って立つのは、自分の息子である新太郎の他にはいないと考えた。新太郎は二十九歳になっている。新太郎のためにも、朝比奈家のためにも、小鹿派になって、新五郎を応援した方がいいかもしれないと和泉守は思うようになっていた。

 葛山播磨守は早雲と出会ってから竜王丸派となったが、これも本心の程は分からなかった。やたら、早雲殿、早雲殿と言って近づいて来るが、実際、播磨守にとって、今川家のお屋形様が誰であろうと関係ないという感じだった。領地が駿府から離れているため、そう、ちょくちょく駿府には来られない。本人は竜王丸派だと主張してはいるが、当てにはできなかった。もう一人、当てにできないのが天野氏だった。まったく、何を考えているのか分からなかった。今川家が阿部川を境に二つに分かれた時、天野氏は竜王丸派となった。遠江の者たちが皆、竜王丸派となり、天野氏の本拠地を襲うと言ったら簡単に寝返った。ところが今、何かをたくらんで、越前守とつながっているような感があった。越前守とつながり、何をしようとしているのか分からないが、竜王丸派ではない事は確かだった。

 福島越前守と三浦次郎左衛門尉は完全に小鹿派だった。彼らは本拠地にはほとんど帰らず、駿府にいて、小鹿新五郎の機嫌を取りながら好き勝手な事をやっていた。
28.関東






 太田備中守が今川家の内訌を治めて、江戸城に戻って来たのは去年の十月の事だった。

 江戸城に戻ると備中守は休む間もなく、五十子(イカッコ)の陣(本庄市)に向かった。

 五十子の陣は古河公方(コガクボウ)、足利成氏(シゲウジ)に対する関東管領(カンレイ)、上杉民部大輔顕定(ミンブノタイフアキサダ)の本陣だった。

 五十子は古河の西およそ十一里(約四十四キロ)程の所にあり、利根川と鎌倉街道に挟まれ、鎌倉と上野(コウヅケ)の国(群馬県)を結ぶ重要な位置にあった。関東は今、利根川を境に東と西に二分され、西側が上杉氏、東側が古河公方の勢力範囲となっていた。

 当時の利根川は現在とは異なり、千葉県の霞ケ浦に流れてはいなかった。関東平野に流れ出た利根川は、前橋市の東側を通り、駒形の北、伊勢崎市の南、世良田の南を通り、群馬県と埼玉県の県境を流れて、北河原町辺りから南下し、行田(ギョウダ)市を経て岩槻(イワツキ)市へと向かい、岩槻市の北辺りで荒川と合流して東京湾へと流れていた。利根川も荒川も度々の洪水で流れを変え、二つの川に挟まれた行田市から岩槻市の一帯は水郷地帯となっていた。

 古河公方に対するため、利根川を挟んだ五十子に上杉方が陣を敷いたのは、もう十七年も前の事だった。初めの頃はただの砦に過ぎなかったが、戦が長引くにつれて規模も大きくなって、屋敷も数多く建ち、広野の中に出現した城下町のようになっていた。

 五十子の陣は濠と土塁に囲まれ、天皇と将軍から下賜(カシ)された旗が翻(ヒルガエ)り、関東管領の山内(ヤマノウチ)上杉民部大輔顕定、相模守護の扇谷(オオギガヤツ)上杉修理大夫定正(シュリノダイブサダマサ)、越後守護の上杉兵庫頭房定(ヒョウゴノカミフササダ)の嫡男、上杉左馬助(サマノスケ)定昌(顕定の兄)、山内上杉家の家宰(カサイ、執事)の長尾尾張守忠景(オワリノカミタダカゲ)、備中守の父親、太田道真(ドウシン)らを中心に、武蔵、上野、相模の兵、七千人余りが駐屯していた。

 備中守は五十子の本陣に着くと、直ちに、長尾四郎右衛門尉景春(シロウウエモンノジョウカゲハル)の立て籠もる鉢形(ハチガタ)城を攻撃するように勧めたが、備中守の意見は入れられなかった。四郎右衛門尉などに何ができる。放って置けば、そのうちに降参して戻って来るに違いないと誰もが思っていた。備中守が、四郎右衛門尉の後ろには、長年の戦続きで力を付け始めている国人(コクジン)たちがいると説得しても無駄だった。皆、自分たちの権力の座にどっかりと座り、国人たちが自分たちに反抗するわけはないと高をくくっていた。

 備中守はがっくりと気落ちしながら、江戸城へと帰って行った。
29.ほととぎす1



 蒸し暑い夕暮れだった。

 太郎は飯道山に来ていた。阿星(アボシ)山と金勝(コンゼ)山との間の例の岩の上に座って、内藤孫次郎を待っていた。今度こそ、百日行、満願(マンガン)の日だった。

 丁度、関東では、太田備中守が五十子の長尾伊玄(イゲン、景春)と戦うために、梅沢に向かっている頃だった。

 孫次郎は力強い足取りで、晴れ晴れとした顔をして太郎の前に現れた。

「師匠、お久し振りです」と孫次郎は頭を下げた。

「よくやった」と言うと太郎は岩の上から消えて、孫次郎の前に現れた。

「百八十六日か」

「はい」と孫次郎は照れ臭そうに笑った。

「辛かっただろう」

「はい。色々な幻が現れました。何度、やめてしまおうと思ったかしれません」

「そうか」と太郎は満足そうに頷いた。「よく、やり遂げた」

 太郎は孫次郎を高林坊のもとに連れて行き、正式に飯道山の山伏とした。

 孫次郎の新しい名前は次郎坊頼山(ライザン)となった。次郎坊はそのまま剣術組に入り、今年一杯、修行に励む事となった。太郎は次郎坊に、この山では自分の正体は絶対に言ってはならんと口止めした。

 その日の晩、高林坊、栄意坊たちと飲むと、次の日、播磨に帰って行った。高林坊から、三月に駿河から風眼坊が、加賀から観智坊が来て、太郎の教え子たちを十人づつ連れて行った事を聞いた。太郎は風眼坊が播磨に来て、陰の術を身に付けて行った事を告げた。ようやく、風眼坊も駿河に腰を落ち着けて、何かを始めたとみえると高林坊は羨ましそうに言った。そのうち、光一郎を駿河まで行かせて師匠の様子の調べようと太郎は思った。

 次郎坊は剣術組に入って修行に励んだ。播磨にて修行を積んでいたため、腕には自信を持っていたが、飯道山では次郎坊の腕も通用しなかった。次郎坊より強い者は何人もいた。次郎坊が太郎坊の弟子で、百日行を成し遂げたという事は山中の者、誰もが知っていた。次郎坊は太郎坊の弟子という名を汚さないためにも、必死に頑張らなくてはならなかった。太郎坊が志能便の術を教えに来る十一月の末までに、誰よりも強くならなければならないと思い、夜遅くまで一人で修行に励んでいた。

 やがて、次郎坊にも仲間ができた。中でも支那弥三郎(シナヤサブロウ)という男とは気が合った。弥三郎の父親は幕府の奉公衆(ホウコウシュウ)の一人で、弥三郎も飯道山の修行が終わったら幕府に仕えるのだと言う。次郎坊は弥三郎から、その話を聞いた時、そんな偉い武士の伜もこんな山の中で修行しているのかと驚いたが、弥三郎はそんな偉ぶった所はなく、次郎坊と一緒に夜遅くまで修行に励んでいた。

 相変わらず、夢庵もよく遊びに来ていた。夢庵は太郎から、孫次郎の事を時々、見てくれと頼まれていたので、飯道山に来ると必ず、次郎坊に声を掛けて来た。初め、孫次郎は夢庵に声を掛けられて戸惑っていたが、夢庵がこの山では有名人で、しかも、太郎坊の弟子でもあると聞いて、夢庵に対して師匠のような態度で付き合う事にした。いつもふざけた格好をして現れたが、さすがに、太郎坊の弟子だけあって武術の腕は確かだった。師範たちに聞くと、誰も夢庵の本当の実力は分からないと言う。もしかしたら、わしらより強いかもしれんと言う者もいた。

 夢庵が連歌師、宗祇(ソウギ)の弟子だという事を聞くと弥三郎の目の色が変わった。次郎坊は連歌など、今まで縁がなかったので何とも思わなかったが、弥三郎は連歌の事を多少知っているらしく、宗祇という名前をまるで神様のように思っているようだった。弥三郎はやたらと、夢庵から連歌の事を聞いていた。ついには自分も宗祇の弟子になりたいとまで言い出した。

 夢庵は笑いながら、「一年間は剣術に専念する事だ。連歌師に旅は付き物じゃ。旅に出れば命を狙われる事も何度もあるじゃろう。まず、自分の身も守れんような奴は弟子にはして貰えんぞ」と言った。

 弥三郎は夢庵の言う事を真剣に聞き、宗祇の弟子になるために、もっと強くならなければと決心して、次郎坊を誘い夜遅くまで修行に励んだ。
30.ほととぎす2






 梅雨も上がった暑い夏、河内の国、淀川のほとりに建つ出口御坊(デグチゴボウ)では、一人の坊主が誕生していた。

 曇天であった。

 曇天は一年間、みっちりと本願寺の教えをたたき込まれて、一人前の坊主になっていた。

 蓮如より『六字名号(ミョウゴウ)』と『親鸞影像(シンランエイゾウ)』を戴き、乗信坊(ジョウシンボウ)という名を貰って堺へと帰って行った。

 堺には樫木屋(サカキヤ)道場と紺屋(コウヤ)道場の二つの道場があった。

 樫木屋道場は北の庄にあり、明(ミン)の国から来た人たちのための宿屋を経営する道顕坊(ドウケンボウ)の建てた道場だった。貿易業にも手を広げ、漢方薬を中心とした商売もしていて、かなりの財産を蓄えていた。

 道顕坊の父親は賢一官(ケンイッカン)という明国の貿易商で、母親は堺でも古くから有名な万代屋(モズヤ)の娘だった。道顕坊は当然、明国の言葉も分かり、父親の跡を継いで、明人相手の宿屋を経営していた。道顕坊は三年前に稼業を息子に託して隠居し、今は本願寺の坊主として布教活動に専念している。蓮如が出口に来てからは度々、門徒たちを引き連れては出口に行き、蓮如の説教を聞いていた。去年には、とうとう蓮如を堺に引っ張り出す事に成功して、道場の隣に、蓮如のために信証院(シンショウイン)という別院を建てた。信証院ができてから蓮如も度々、堺に来るようになり、堺の門徒たちも喜んでいた。

 もう一つの紺屋道場は南の庄にあり、染め物屋を営む円浄坊(エンジョウボウ)の建てた道場だった。

 円浄坊は染め物を扱う商人であるが、名前の通り染め物業に従事する紺屋(コウヤ)と呼ばれる河原者たちの頭でもあった。樫木屋道場が商人や町人たちの門徒が多いのに比べ、紺屋道場の門徒たちは当然、河原者や湊(ミナト)で働く人足たちが多かった。

 蓮如は身分による差別を認めてはいなかったが、根強い差別を無くす事は難しい事だった。蓮如の前では道顕坊も円浄坊も対等でも、実際は同じ門徒でありながら樫木屋道場の門徒たちは、紺屋道場の門徒たちを軽蔑の目で見ていた。曇天のいた河原に時々、顔を見せて説教をしていたのは紺屋道場の坊主だった。

 この頃、堺の町はまだ濠と土塁に囲まれてはいなかった。

 堺は町の中央を東西に走る大通り、大小路(オオショウジ)を境にして、北が摂津(セッツ)の国、堺北の庄、南が和泉(イズミ)の国、堺南の庄に分かれていた。すでに南の庄は隙間もない程、ぎっしりと家屋が建ち並んでいたが、北の庄はあちこちに田畑が散在していた。どうして南の庄ばかりに家屋が集中したのかというと、北の庄が住吉神社の荘園として荘官が管理していたのに対して、南の庄は早くから地下請(ヂゲウ)けといって、住民たちによる自治が行なわれていたため、商人たちが集まって来たからだった。

 南の庄の自治を担当していたのは会合衆(エゴウシュウ)と呼ばれる十人の商人たちだった。遣明船(ケンミンセン)を堺から出航させるのに貢献した備中屋の湯川宣阿(センア)を筆頭に、漁師の網元である和泉屋道栄(ドウエイ)、材木屋で一休禅師の弟子である尾和宗臨(オワソウリン)、塩を扱う万代屋仁左衛門(モズヤニザエモン)、高利貸業を営む我孫子屋(アビコヤ)助次郎、塩を扱う住吉屋の小島林太郎左衛門、材木屋の三宅主計(カズエ)、絹屋の池永兵庫助、鉄と炭を扱う野遠屋(ノトヤ)彦三郎、村田珠光(ジュコウ)の弟子でもある天王寺屋の津田源次郎の十人だった。彼らは皆、貿易業や納屋(ナヤ)業(貸し倉庫)を営む豪商たちだった。豪商たちは中央の大小路に面した一画に広い敷地を持ち、豪勢な屋敷を建てて暮らしていた。

 南の庄の中心となっていたのは開口(アグチ)神社だった。開口神社は三村(ミムラ)大明神と呼ばれ、住吉神社の奥の院であり、堺の住民たちにとっては氏神(ウジガミ)として親しまれていた。広い境内には社殿や堂塔が建ち並び、神宮寺(ジングウジ)として真言宗の大念仏寺があり、中でも三重の塔は堺の象徴だった。

 開口神社の南には住吉神社の御旅所(オタビショ)があり、毎年六月の晦日(ミソカ)に、住吉神社から神輿(ミコシ)の渡る盛大な祭りが行なわれた。町は綺麗に区画されていて、それぞれに町の名前が付いていた。

 赤松家の鉄を中心に武器を扱う松恵尼の『小野屋』も南庄の中ノ町のはずれにあった。
31.応仁の乱、終わる



 畠山右衛門佐義就(ウエモンノスケヨシナリ)という男がいた。

 応仁、文明の乱の西軍の武将だった。

 長期間に渡る応仁、文明の乱には、これといった山場もなく、華々しい英雄も現れなかったが、もし、一人を挙げるとすれば、畠山義就という事になるかもしれない。二十四歳の時から五十四歳で亡くなるまでの間、幕府に逆らい続け、実力を以て河内の国と大和の国を支配し、有力大名を相手に戦に明け暮れていた。

 文明九年(一四七七年)九月二十二日、畠山義就は京都の陣を引き払って、河内の国へと帰って行った。総勢二千人にも及ぶ義就軍は隊列を整え、悠々と引き上げて行った。幕府は東軍に寝返って山城守護となっていた山名弾正少弼政豊(ダンジョウショウヒツマサトヨ)の兵に追撃を命じたが、反撃を恐れて戦う事ができず、退去した後の陣地を占拠するのが精一杯だった。

 飽くまでも戦い続けると主張した畠山義就が京から引き上げると、残っていた西軍の大将、大内周防介(スオウノスケ)政弘、土岐左京大夫成頼(トキサキョウノダイブシゲヨリ)らは幕府に和睦を申し入れて旧領を安堵され、以前の守護職を取り戻して、十一月になると皆、領国へと引き上げて行った。

 十一年間にも及んだ応仁の大乱は終わりを告げた。しかし、義就ただ一人だけは幕府と和睦する事なく、反乱軍と見なされた。孤立した反乱軍となっても義就は戦い続け、河内の国と大和の国を実力を持って支配して行く事となる。

 義就は河内(大阪府南東部)、紀伊(和歌山県と三重県南部)、越中(富山県)、三国の守護であり、管領職(カンレイシキ)も勤めた幕府の有力者、左衛門督持国(サエモンノカミモチクニ)の息子として生まれた。母親が卑賎(ヒセン)の出だったため、石清水(イワシミズ)八幡宮に稚児(チゴ)として預けられる事となっていた。

 持国の跡継ぎとして異母弟である尾張守持富(オワリノカミモチトミ)が決まってはいたが、たとえ、卑賎の出であっても実子がいるのに、家督を異母弟に譲る事はないという家臣たちの動きがあり、義就は十二歳の時、正式に持国の跡継ぎに決定した。すでに、この頃、畠山家の被官たちは分裂し、二派に分かれて争っていた。持国の勢力のあるうちは、それらの争いは表面には現れなかった。ところが、持国が病に倒れ、幕府内でも細川勝元の方が勢力を持つようになると、被官たちの争いは表面化して来た。被官たちの争いは畠山家の家督争いという形になって現れた。

 享徳(キョウトク)三年(一四五四年)の四月、義就、十八歳の時、越中系の国人たちが義就を廃して、以前、後継者に決まっていた持富の子、弥三郎を擁立(ヨウリツ)しようとした。しかし、この事件は未然に発覚し、弥三郎は管領の細川右京大夫勝元を頼って逃亡し、国人たちは切腹、あるいは殺された。これで一段落したと思われたが、八月に勝元の支援のもと、弥三郎は畠山邸を襲撃した。持国は無理やり隠居させられ、義就は伊賀の国まで逃げて行った。

 畠山家の家督は弥三郎に決定した。ところが、その頃、将軍義政と細川勝元も対立しており、義就は義政の応援を得て十二月には上洛し、弥三郎は京都から越中に逃亡した。その後、河内、和泉(大阪府南部)辺りで、義就方と弥三郎方の小競り合いはあったが、弥三郎は二度と京都に帰る事はできなかった。

 康正(コウショウ)元年(一四五五年)三月、持国が亡くなると義就は正式に家督を継いだ。その後、四年間、義就は将軍義政の信頼を得て、うまくやり、弥三郎を陰ながら応援していた勝元の入り込む隙はなかった。ところが、長禄(チョウロク)三年(一四五九年)、義就が大和に進撃した事によって事態は一変した。勝元の中傷もあって将軍義政と義就との間にひびが入った。その隙を見逃す勝元ではなかった。勝元は弥三郎の恩赦(オンシャ)を願い出て、許可を得る事に成功した。

 翌年、紀伊の国で根来寺(ネゴロジ)が騒ぎを起こし、それを治めるために義就は軍勢を送った。しかし、逆に根来寺の僧兵に敗れてしまった。多数の有力家臣を失った義就は根来寺に報復するため大軍を紀伊に向けた。義就の軍勢のほとんどが紀伊に向かった隙に、勝元は義就を追い落とすために動きだした。昨年の秋、弥三郎が急死したため、弥三郎の弟、次郎政長に畠山家の家督を継がせようとたくらんだのだった。

 勝元の作戦はうまく行った。その年の九月、突然、義就の守護職は取り上げられ、政長が正式に畠山家を継いだ。政長が軍勢を率いて上洛すると義就は河内へと逃げて行った。

 管領の勝元は義就を京都から追い払うだけでなく、すぐさま、山名、一色、京極らの武将に追撃を命じた。義就は追い詰められ、南河内の岳山(タケヤマ)城に立て籠もった。岳山城は幕府軍の大軍に囲まれ、すぐに落城するかに見えたが、義就は寛正(カンショウ)四年(一四六三年)四月まで三年近くも持ちこたえた。義就の籠城中には全国規模の大飢饉もあり、数万人もの飢え死に者が出たが、その間も幕府は戦を続けていたのだった。岳山城が落城すると、義就は紀伊の高野山(コウヤサン)へと落ち伸びて行った。

 その後も、勝元は義就の討伐(トウバツ)を諦めなかった。しかし、高野山から吉野の山奥に入って行った義就の消息はつかめなかった。吉野の山奥には、未だに南朝方の豪族が大勢おり、幕府に刃向かう義就は南朝方に匿われて、捜し出す事はできなかった。

愛洲白峰 太郎の祖父、五ケ所浦陰流師範 1411-1482
愛洲? 太郎の祖母 1414-1483
愛洲? 太郎の母 1434-
愛洲兵庫助直忠 太郎の弟 1461-1510
青木新三郎 駿河、陰の衆 1459-
赤松楓 太郎の妻、赤松政則の姉、薙刀、陰の術を使う 1454-
赤松日向守久忠 愛洲太郎左衛門、太郎坊移香 1452-1538
赤松百太郎 太郎の長男 1472-
赤松百合 太郎の長女 1475-
赤松兵部少輔政則 播磨、美作、備前守護 1455-1496
芥川小三郎 左京亮の従弟 播磨陰衆 1457-
浅田修理 山賊、<雅楽助>と呼ばれる 1438-
朝比奈和泉守 今川家の重臣、天遊斎の弟、小瀬戸城主 1424-
朝比奈左京亮 天遊斎の三男、朝比奈城代 1457-
朝比奈天遊斎 今川家長老 1418-
朝比奈備中守泰煕 天遊斎の次男 掛川城主 1441-
朝日姫 中原摂津守の妾 岡部美濃守の妹
足利義政 将軍 母は日野重子 妻は日野富子 1436-1490
足利義視 義政の弟 1439-1491
足利左馬頭政知 堀越公方 義政の弟 母は斎藤朝日氏 1435-1491
足利左兵衛督成氏 古河公方 1438-1497
飛鳥井雅親 公家 権大納言。和歌、書に堪能 1417-1490
我孫子屋助次郎 高利貸業 堺会合衆 1429-
天方山城守 天方城主 1440-
天野兵部少輔 犬居城主 1437-
天野民部少輔 笹峰城主 1431-
荒川坊又次郎 秋葉山の山伏 1447-
荒木兵庫助 伊勢の浪人 1445-
在竹兵衛 山賊の頭 <お頭>と呼ばれる 1439-
淡路 北川殿の仲居、堀越陸奥守の姪 1451-
庵原安房守 庵原城主 1439-

池田庄次郎 平一郎の弟 播磨陰の衆 1456-
石黒孫左衛門 加賀湯涌谷の国人門徒 1432-
和泉屋道栄 漁師の網元 堺会合衆 1412-1484
出雲 北川殿の仲居 斎藤氏 1460-
伊勢伊勢守貞親 幕府政所執事 1417-1473
伊勢伊勢守貞宗 幕府政所執事 1444-1509
一泉坊 棒術師範代 志能便の術師範代 松恵尼の弟 1443-
一休宗純 大徳寺の禅僧 1394-1481
一条兼良 歌人 学者 宗祇の師 1402-1481
一路庵禅海 珠光の弟子 1416-
和泉 北川殿の仲居、蒲原越後守の姪 1441-
今川義忠 今川家のお屋形 1436-1476
入野兵庫頭 今川家家臣、四番組の頭 1445-
岩根与五郎 播磨陰の衆 1458-
岩松治部大輔家純 上野国金山城主

上杉刑部少輔朝昌 扇谷上杉定正の弟
上杉左馬助定昌 越後国守護房定の嫡男 顕定の兄 1453-1488
上杉治部少輔政憲 堀越公方の執事 犬懸家 1436-
上杉修理大夫定正 相模国守護 扇谷家 1443-1494
上杉民部大輔顕定 関東管領 山内家 1454-1510
上田彦三郎 播磨陰の衆 1458-
上原紀三郎 太田備中守の側近侍 1454-
内山主膳 山賊、<軍師>と呼ばれる。 1446-
雲知宗滴 一休の弟子 知客 1422-

栄意坊行信 飯道山薙刀師範 1433-
家原の大左衛門 天野山金剛寺の河原者の頭 1431-
円浄坊 本願寺の坊主 堺紺屋道場主 1436-

大石源左衛門 山内上杉家の家臣   -1477
大久保源内 1476年の飯道山修行者、剣術組 1459-
大胡新左衛門 上野国大胡城主 河越千句に参加 1427-1486
大沢主計 山賊、<造酒祐>と呼ばれる。 1446-
太田源六郎資康 道灌の嫡男 妻は三浦義同の娘 1471-1513
太田新六郎 道灌の次男 母はおよの 1478-
太田図書頭資忠 道灌の弟 岩槻城主 1446-1479
太田道真 備中守の父親 1411-1492
太田彦六郎資家 信濃守 資忠の嫡男 1469-1522
太田備中守資長 道灌 扇谷上杉家の執事 江戸城主 1432-1486
大谷 北川衆、久野氏 1449-1476
大林主殿助 山賊、<普請奉行>と呼ばれる。 1444-
大原源八 1476年の飯道山修行者、棒術組 加賀陰の衆 1459-
大森寄栖庵 扇谷上杉家の重臣 岩原城主 1418-1494
大森式部少輔実頼 寄栖庵の長男 小田原城主 1440-1491
大森信濃守藤頼 寄栖庵の次男 1449-1498
岡部五郎兵衛 今川家の重臣、方ノ上城主 1438-
岡部美濃守 今川家の重臣、朝日山城主 1432-
小川新太郎 弥平太の長男 志能便の術七期生 1459-
小川夏 新太郎の妹 1462-
小川弥平太 山路屋の主人 弥平次の兄 1424-
小川弥六郎 1476年の飯道山修行者、棒術組 駿河陰の衆 1459-
隠岐弥次郎 加賀陰の衆 1458-
興津美作守 今川家の重臣、横山城主 1426-
小栗宗湛 幕府の御用絵師 1413-1481
小鹿逍遙 小五郎範頼 今川家の長老 1426-1484
小鹿新五郎範満 今川義忠の従弟 1447-1487
小田隼人正 北川衆、矢部氏 1435-

風間小太郎 風眼坊舜香 剣術の達人 医師 1432-
風間光一郎 風光坊包山 太郎の弟子 播磨陰の衆 1456-
葛城五郎次 加賀陰の衆 1458-
葛山播磨守 今川家の重臣、葛山城主 1442-
葛山備後守 今川家御番衆、三番組の頭 1448-
桂姫 小鹿新五郎の妾 1460-
狩野越前守 絵師、小栗宗湛の弟子 1434-1530
河合備前守範勝 今川義忠の弟 棄山 1439-1485
河内屋 江尻津の商人
川名辺越前守 太田家の家老 1439-
観智坊露香 下間蓮崇 風眼坊の弟子 本願寺門徒 1435-1499
蒲原越後守 今川家の重臣、蒲原城主 1443-
蒲原左衛門佐昌長 今川家御番衆、二番組の頭 1446-

北川殿 美和 今川義忠の妻 早雲の妹 1452-1529
木田伯耆守 今川家御番衆、一番組の頭 1444-
北島藤内 山賊、<師匠>と呼ばれる。 1443-
木戸三河守孝範 元堀越公方家臣
池永兵庫助久重 絹屋、堺会合衆 1436-
慶覚坊明覚 洲崎藤右衛門 泉入道 蓮誓の後見 1433-
慶聞坊竜玄 蓮如の弟子 1445-1520
吉良左京大夫政忠 世田谷御所 1440-1502

福島越前守 今川家の重臣、江尻城主 1434-
福島左衛門尉助春 越前守の弟 高天神城主 1439-
福島土佐守 今川家の重臣、花倉城主 1446-
久野佐渡守 久野城主 1445-
久保 北川衆、伊勢氏 1445-
黒川助三郎 播磨陰衆 1458-
黒田小五郎 1476年の飯道山修行者、棒術組 加賀陰の衆 1459-
黒田源次 山賊、<ぎっちょ>と呼ばれる。 1454-

光善坊 春日神社の供御人 有力商人 本願寺門徒 1434-
高林坊道継 飯道山の武術総師範 1432-
小島 北川衆、興津氏 1445-
五条安次郎忠長 柴屋宗観 宗長 元義忠の祐筆 1448-1532
小山助九郎 駿河陰の衆 1459-

才雲 山中才四郎 神道流 1451-
西光坊 棒術師範代 1441-
斎藤出雲守 太田家の長老 1417-
斎藤土佐守 太田家の家老 出雲守の嫡男 1437-
斎藤加賀守安元 今川家の重臣、鞠子城主 1434-1508
尾和四郎左衛門宗臨 材木屋、堺会合衆 1426-1501
三宅主計頭 材木屋、堺会合衆 1435-1486
坂口京次郎 山賊、<喧嘩屋>と呼ばれる。 1455-
坂崎寅之助 浮浪児 1470-
嵯峨 北川殿の仲居、庵原安房守の娘 1459-
桜井 北川殿の仲居、三浦次郎左衛門尉の姪 1456-1476

支那弥三郎 幕府奉公衆の伜 飯道山の修行者 宗鑑 1460-
しほ 家原の大左衛門の長女 1461-1497
清水太郎左衛門 北川衆、入江氏 1436-
下間頼善 蓮如の執事 1435-
下田長七郎 駿河陰の衆 1459-
周厳禅師 鎌倉建長寺の長老 道灌の叔父 1417-
種玉庵宗祇 連歌師 1421-1502
叔悦禅師 鎌倉円覚寺住職 道灌の弟 1438-
春陽坊専順 連歌師 華道宗匠 宗祇の師 1418-1489
定願坊 富士山の山伏 1425-
乗信坊曇天 武田新五郎 本願寺の坊主 1453-1538
松恵尼 花養院の院主 1434-
新庄七郎 播磨陰の衆 1458-
神保新助 1476年の飯道山修行者、棒術組 加賀陰の衆 1459-
森 一休の侍者 盲目の芸人 鼓打ち 1443-
心敬 連歌師 宗祇の師 1406-1475

菅乃 八重 北川殿の侍女、朝比奈天遊斎の娘 1453-
杉谷新五郎 与藤次の弟 播磨陰の衆 1457-
助六 金勝座の舞姫 陰の術を使う 1453-
洲崎十郎左衛門 慶覚坊の長男 加賀陰の衆 1458-
すすき 曇天の妻 聾唖 1455-1475
鈴木道胤 備中守の家老 品川城主 商人 1431-
鈴木兵庫助 道胤の嫡男 1455-
小島林太郎左衛門 塩屋 堺会合衆 屋号は住吉屋 1431-
すみれ 曇天の娘 1473-1475

瀬川 北川殿の仲居、長谷川法栄の娘 1449-

早雲 伊勢新九郎 弓術 馬術の達人 北川殿の兄 1432-1519
霜柱宗隆 一休の弟子 1458-
祖心紹越 越州 一休の弟子 1456-
孫雲 富沢孫三郎 神道流 1450-1487

高岡 新入りの北川衆 長谷川氏 1453-
高田 新入りの北川衆 岡部氏 1455-
高野信介 駿河陰の衆 1459-
高野宗太郎 1476年の飯道山修行者、棒術組 1459-
高橋新左衛門 加賀木目谷の国人門徒 1426-
高山源三郎 源太の弟 播磨陰の衆 1458-
高山宗砌 連歌師   -1455
多岐勘九郎 勘八郎の弟 播磨陰の衆 1457-
滝川与兵衛 駿河陰の衆 1459-
田代五郎兵衛 駿河陰の衆 1459-
竜王丸 氏親 今川義忠の嫡男 1471-1526
田中大炊助 太田家の家老 1422-
多米権兵衛泰英 槍の名人 1444-

竹山坊 槍術師範代 志能便の術師範代 1442-
千里姫 小鹿新五郎の妾 1459-
千代松丸 竜王丸の弟 1475-

土山寅之助 加賀陰の衆 1458-

泥牛宗樹 一休の弟子 1454-
鉄梅宗景 一休の弟子 1441-
津田源次郎宗柏 漁師の網元 夢庵の弟子 屋号は天王寺屋 144-1527

等阿弥 時宗の僧 1404-
東海坊 飯道山棒術師範代 1442-
道顕坊 藤左衛門 本願寺の坊主 堺の樫木屋道場主 1428-
東下野守常縁 美濃国篠脇城主 歌人 宗祇の師 1401-1494
鳥居弥七郎 兵内の弟 播磨陰の衆 1457-

内藤孫次郎 次郎坊頼山 太郎の弟子 1459-
長尾尾張守忠景 関東管領上杉氏の執事 1431-1501
長尾修理亮顕景 忠景の嫡男 1455-1509
長尾四郎右衛門尉景春 忠景の甥 1443-1514
中河 北川衆、三浦氏 1451-1476
中野左馬太郎 山賊、<笛吹き>と呼ばれる。 1449-
長野左衛門尉為兼 上州一揆の旗頭 1477-
長野太郎三郎 播磨陰の衆 1458-
中之坊 飯道山剣術師範代 志能便の術師範代 1439-
中畑藤次郎 駿河陰の衆 1459-
中原摂津守範慶 今川義忠の弟 虚山 1443-
中山次郎五郎 1476年の飯道山修行者、棒術組 1459-
渚姫 小鹿新五郎の妾 1458-
長沢藤三郎 今川家御番衆、三番組の副頭 天野一族 1449-
長門 北川殿の仲居、新野左馬助の姪 1453-
夏見勘兵衛 駿河陰の衆 1459-

新野左馬助 今川家家臣、新野城主 1431-
西尾 北川殿の仲居、朝比奈和泉守の娘 1448-
西山左近 1476年の飯道山修行者、薙刀組 加賀陰の衆 1459-

野口庄三郎 山賊、<入道>と呼ばれる。 1440-
野田 新入りの北川衆 朝比奈氏 1447-
野田七郎 1476年の飯道山修行者、棒術組 加賀陰の衆 1459-
野遠屋彦三郎 鉄と炭を扱う 堺会合衆 1438-
野村太郎三郎 1476年の飯道山修行者、棒術組 1459-

萩乃 北川殿の侍女、伊勢氏 1444-
長谷川法栄 今川家の重臣、次郎左衛門尉正宣 小河城主 1430-1516
畠山右衛門佐義就 持国の長男 1437-1490
畠山左衛門督持国 管領 1398-1455
畠山左衛門督政長 管領 義就の従弟 1442-1493
畠山弥三郎 義就の従兄 1436-1459
服部孫十郎 藤十郎の弟 播磨陰の衆 1456-
春雨 旅芸人、早雲庵の留守番 1449-
伴与七郎 播磨陰の衆 1458-

湯川宣阿 鉄屋 堺会合衆 屋号は備中屋 1407-1483
日野富子 足利義政の妻 1440-1496
広瀬与五郎 山賊、<勘定奉行>と呼ばれる。 1451-
広野右近助 山賊、<猿楽>と呼ばれる。 1453-

風外紹安 一休の弟子 1450-
富嶽 大道寺太郎重時 絵画き 1435-
藤林平五郎 平次郎の弟 播磨陰の衆 1458-
伏見屋銭泡 茶人、珠光の弟子 1428-
船橋 北川殿の乳母、福島越前守の妹、由比出羽守弟の妻 1450-

細川右京大夫勝元 管領 1430-1473
細川右京大夫政元 管領 1466-1507
没輪紹等 墨斎 一休の弟子 1446-
堀越陸奥守一秀 堀越城主 1432-

槙原平四郎 駿河陰の衆 1459-
牧村右馬介 1476年の飯道山修行者、槍術組 1459-
松井孫四郎 山賊、<薬師>と呼ばれる。 1447-
松尾藤六郎 播磨陰の衆 1457-
松田左衛門尉頼秀 扇谷上杉家の被官 1443-

みい 助六の娘 1471-
三浦石見守 今川家寺社奉行 1442-
三浦右京亮 今川家御番衆、五番組の頭 1447-
三浦次郎左衛門尉 今川家の重臣 大津城主 1438-
三浦彦五郎 今川家宿直衆副頭 1449-
三浦陸奥守義同 新介 太田道灌の娘婿 1454-1516
三雲源次郎 源太の弟 播磨陰の衆 1457-
美鈴 北川殿の娘 1469-
美濃部源三郎 加賀陰の衆 1458-
宮田八郎 八郎坊 太郎の弟子 播磨陰の衆 1455-
明遊坊 飯道山棒術師範代 1445-
三芳 北川殿の仲居、岡部美濃守妹、中居摂津守側室姉 1445-

夢庵肖柏 連歌師、茶人 飯道山陰の術師範代 1443-1527
村田珠光 茶人、禅僧 1423-1502
村田 北川衆、伊勢氏 1439-1476
村松修理亮 今川家の普請奉行 1436-

望月弥次郎 三郎の従弟 播磨陰の衆 1457-
万代屋仁左衛門 塩屋 堺会合衆 1428-

弥兵 観智坊の下男 1429-
矢部将監 今川家の重臣、吉原城主 1443-
矢部美濃守 矢部城主 1462-
山上孫八郎 加賀陰の衆 1458-
山崎五郎 探真坊見山 太郎の弟子 太郎の祐筆 1455-
山崎 北川衆、斎藤氏 1452-
山崎屋六右衛門 薪村の材木商人 1425-
山名宗全 持豊 1404-1473
山名弾正少弼政豊 但馬、因幡、伯耆、備中国守護 1441-1499
山中新次郎 十郎の弟 播磨陰の衆 1458-
山本 北川衆、庵原氏 1451-

由比出羽守 川入城主 1439-
夕顔 元遊女 飲屋の女将 南蔵坊の妾 1455-
小太郎の妻 笛の名手 医師 1456-

吉岡勘助 山賊、<祐筆>と呼ばれる。 1450-
義助 松恵尼の下男 1412-
吉田喜八郎 北川衆 備中伊勢氏 1412-
よの 太田備中守の妾 1458-

竜仙坊 雨降山大山寺の山伏 道灌の配下 1436-

蓮綱兼祐 蓮如の三男 1450-1531
蓮誓康兼 蓮如の四男 1455-1521
蓮如兼寿 本願寺の法主 信証坊 1415-1499

若菜姫 小鹿新五郎の妾 1457-
和田新吾 播磨陰の衆 1458-
和田の源兵衛 法道寺に属する河原者の頭 1437-
愛洲移香斎の略歴






1452年    伊勢の国、五ケ所浦にて水軍の大将、愛洲隼人正宗忠の長男に生まれる。1歳
         幼名は太郎。
1455年    弟、泰忠、生まれる。 4歳
1457年    妹、澪、生まれる。 6歳
1458年    太郎、武術を祖父、白峰より習い始める。 7歳
1461年    弟、直忠、生まれる。 10歳
1465年秋   太郎、木地師の娘、小春と出会う。 14歳
1466年春   元服、太郎左衛門久忠を名乗る。 15歳
     夏   初陣。
1467年1月   応仁の乱、始まる。 16歳
1468年夏   太郎、曇天と共に京都に旅立つ。 17歳
         太郎、旅の途中で、伊勢新九郎と出会う。
     秋   太郎、故郷に帰り、剣術の独り稽古を始める。
     冬   太郎、大峯の山伏、風眼坊舜香と出会い、剣術を習う。
1469年3月   太郎、風眼坊と共に五ケ所浦を去る。 18歳
         栄意坊、百地弥五郎と出会う。
     4月   太郎坊移香を名乗って山伏となり、飯道山で修行を始める。
         太郎坊、百日行をやる。
     7月   剣術師範代の金比羅坊と出会う。
         三雲、芥川、服部、望月三郎、応如と出会う。
     8月   天狗騒動。花養院の松恵尼、楓と出会う。
         五人の特訓、始まる。
     12月25日 稽古仕舞い。太郎、金比羅坊に勝つ。
         望月屋敷の襲撃。『天狗太郎と陰の五人衆』
1470年1月15日 稽古初め。太郎、高林坊と試合をして完敗。《不動明王の剣》 19歳
         太郎、独り稽古を始める。『高林坊の壁』
         書僧の弘景と出会う。
     1月20日 太郎、再び、百日行を始める。
         観音の滝を浴び、花養院で倒れる太郎、楓に看病してもらう。
     1月26日 改めて、百日行を始める。『高林坊の壁』『楓の影』
         85日目、師の風眼坊と出会う。《千手観音の手》
     5月8日 百日目、智羅天登場。
     5月9日 高林坊と立ち合い、引き分け。
         風眼坊、現れる。松恵尼の家で、太郎と楓の祝言。
     5月11日 太郎、智羅天の岩屋に籠もる。智羅天から『気合の術』『本草学』を学ぶ。
     11月12日 智羅天、死す。《命あるもの、すべての命を粗末にするな》
         ◇智羅天の形見、来国光二尺六寸。
     12月1日 太郎、修行者たちに『陰の術』を教える。
1471年1月11日 太郎と楓、新居で新年を迎える。 20歳
         剣術師範代、陰の術師範、先達山伏の役が付く。
     1月15日 新入り修行者を引き連れて、一ヶ月の山歩き。
     4月   太郎、楓を連れて、故郷五ケ所浦へ帰る。
         吉野の喜蔵院に智羅天作の仏像を納め、智羅天の別名が三好日向だと知る。
     夏   太郎、水軍として活躍。水軍の若者に剣術を教える。
     11月20日 飯道山へ向かう。25日より『陰の術』を教える。
1472年1月 御前試合。剣術の名を『陰流』と決める。 21歳 
          陸軍の勇者、池田長左衛門に勝ち、殿より名刀、応永備前を下賜される。
     3月 池田長左衛門一味を斬り、五ケ所浦を去る太郎と楓。
         多気の都で、町道場主の川島与三郎と倉田無為斉と出会う。
     3月29日 北畠教具の一年忌の法要。松恵尼と出会い、松恵尼の過去を知る。
     4月 百地砦で若者たちに『陰の術』を教える。百地弥五郎、栄意坊と再会。
     4月20日 太郎と楓、飯道山に戻る。
     4月22日 太郎、火山坊を名乗り、岩尾山で修行を始める。
     6月 岩尾山に偽天狗太郎が現れる。太郎坊を仇と狙う山崎五郎と出会う。
     7月22日 火山坊、岩尾山を下り、智羅天の岩屋にて独り工夫をする。
     9月末 火山坊のまま、飯道山に戻り、剣術師範代となる。
     11月11日 太郎の長男、百太郎生まれる。
     11月25日 天狗の面をして『志能便の術』を教える。
1473年1月14日 太郎、三好日向として、飯道山の市で木剣を売る。 22歳
         風間光一郎、宮田八郎、探真坊見山(山崎五郎)、飯道山に来る。
     1月16日 一ヶ月の山歩きが始まる。
     夏   太郎、酒に溺れるようになる。
     8月   太郎、夕顔と出会う。
     11月25日 天狗の面をして『志能便の術』教える。
     12月24日 風間光一郎、宮田八郎、探真坊見山、太郎の弟子にしてくれと言う。
1474年1月10日 太郎、風間光一郎、宮田八郎、探真坊見山の3人に百日行を命じる。 23歳
     1月16日 3人、新入り修行者たちと一緒に、百日行を始める。
     6月1日 太郎、大峯山に、風眼坊に会いに行く。
     7月   太郎、大峯山から帰って来ると、楓はいない。楓を捜しに旅立つ。
     8月   太郎、赤松家の武将となる。
     9月5日 太郎、領地の大河内庄に入る。
     10月15日 披露式典。松恵尼も来る。
     11月25日 八郎を連れて飯道山に行き『志能便の術』を教える。
1475年3月4日 長女百合生まれる。 24歳
     3月12日 探真坊、きくと祝言を挙げる。
     4月8日 太郎、但馬国に進撃、朝来郡を占領する。
     7月2日 きさ、次男千太郎を産む。
     8月4日 きさと子供を大河内城下に呼ぶ。
       14日 太郎の屋敷、完成する。
       20日 楓と子供を置塩城下から呼ぶ。甲賀から松恵尼も呼ぶ。
     10月6日 夢庵、宗祇に会いに近江甲賀柏木に行く。
     11月25日 光一郎を連れ飯道山に行き『志能便の術』を教える。
         風眼坊、早雲、夢庵と再会。慶覚坊の長男十郎と観智坊(蓮崇)と会う。
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