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陰流の開祖であり、忍びの術の開祖でもある愛洲移香斎の物語です。
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21.孫次郎1






 雪が散らついていた。

 太郎坊がやって来たとの噂が、飯道山の山中に広まっていた。

 十一月の二十一日、志能便(シノビ)の術の稽古の始まる四日前の事だった。しかし、太郎坊を見たという者は一人もいなかった。

 観智坊は高林坊のお陰で、午前中の作業が免除されたので、その間、もっぱら座禅に熱中していた。成就院(ジョウジュイン)に禅に詳しい僧侶がいる事を高林坊から聞いて、その僧侶のもとで本格的に座禅の修行をしていた。

 師の風眼坊が天台宗の山伏であるため、観智坊も天台宗に属していた。天台宗の事など全然、知らない観智坊だったが、本願寺も元々は天台宗に属していたという事を、かつて、蓮如から聞いた事があった。高林坊の話によると、天台宗からは念仏門の浄土宗、天台密教(ミッキョウ)、禅宗、法華宗(ホッケシュウ)とあらゆる宗派を出したので、この飯道山にも、それらの専門家が数多く修行しているとの事だった。高林坊の話は難しかったが、浄土真宗の開祖である親鸞聖人(シンランショウニン)も、若い頃、天台宗の本山、比叡山で修行を積んだという事を聞いて、観智坊は驚いた。何となく、親鸞聖人が以前より身近に感じられて嬉しく思った。高林坊から、若い頃の親鸞聖人も比叡山で座禅修行をしただろうと言われ、観智坊もさっそく座禅を始めたのだった。

 初めのうちは雑念に悩まされて苦しかったが、慣れるにしたがって心が落ち着き、何とも言えない安らぎを覚えるようになって行った。また、禅の指導をしてくれる和尚が面白い人で、昔、明の国にいたという偉い禅僧の話を分かり易く色々と聞かせてくれた。観智坊は座禅というものが、武術の修行に大いに役立つという事を身を以て感じていた。

 噂通り、太郎坊は確かに来ていた。二十一日の午前、修行者たちが作業に励んでいる時、不動院にて高林坊と会っていた。宮田八郎と内藤孫次郎を連れていた。孫次郎の百日行の許可を得るためと、播磨に来ている十八人と五郎の代わりに新たに加える一人を飯道山に所属する山伏にするためだった。孫次郎の件はすぐに許可が下りたが、十九人の件は難しかった。

「一人や二人なら何とかなるが、十九人ともなると難しいのう」と高林坊は渋い顔をして言った。

「無理ですか‥‥‥高林坊殿にこんな事は頼みたくはないのですが‥‥‥あの、失礼ですが、銭の力で何とかなりませんか」

「銭か‥‥‥うむ。最近は何でも銭が物を言う御時世じゃからのう。しかし、十九人もいるとなると、かなりの銭が必要となろうのう」

「これだけ、ありますが」と太郎は持って来た革の袋を高林坊に渡した。

「ほう」と言いながら、高林坊は革袋を開けて驚いた。中には幾つもの銀の粒が入っていた。「凄いのう。これだけあれば何とかなろう。お偉方もこれだけの銀を見れば文句は言うまい。しかし、赤松家の武将ともなると景気いいもんじゃのう」

「いえ」と太郎は笑いながら首を振った。「お屋形様の所はそうかもしれませんが、わたしの所は借銭の山で、返済して行くのが、なかなか大変です」

「そうか。新しい城下を作ったそうじゃのう。大したものじゃ」

「十九人の件、お願いします」と太郎は頭を下げた。

「うむ。分かった。皆、おぬしの弟子という事でいいんじゃな」

「いえ。わたしの弟子でなくても構いません。その辺の所は高林坊殿にお任せします」

「そうか‥‥‥分かった。それで、百日行の方は、いつから始めるんじゃ」

「今日、修徳坊に入れて、明日からでも」

「うむ。修徳坊の方へはわしの方から言っておく。その間に行場(ギョウバ)巡りでもやっておってくれ」

「はい、お願いします」

「観智坊の事じゃがのう」と高林坊はニヤニヤしながら言った。「また、新しい伝説を作りおったぞ」

「えっ、あの観智坊殿が?」と太郎は驚いて、高林坊の顔を見つめた。

「おう。詳しい事は後で教える。今晩、例の所で飲もう。栄意坊の奴も連れて行くわ」

「はい。楽しみです」

 太郎は孫次郎を連れて行場を巡り、孫次郎を修徳坊に入れると修行者たちに気づかれないうちに山を下りた。八郎を連れて花養院に行き、松恵尼に挨拶をした後、智羅天(チラテン)の岩屋に向かった。

 岩屋は薄っすらと雪化粧していた。誰もいないと思っていたのに、何と、夢庵が住んでいた。

 如意輪観音(ニョイリンカンノン)像の描かれた広い岩屋の中で、夢庵が何かを一心に書いていた。太郎の顔を見ると、刀を持ったまま驚いていた。

「おぬしか? 今頃、どうしたんじゃ」

 夢庵は無精髭の伸びた顔で、寝ぼけたような声で聞いた。

「恒例の志能便の術です」

「なに、もう、そんな時期になったのか」

「はい。早いものです」

「今は昼か夜か」と夢庵は机の前に座ると聞いた。

「今は昼ですが‥‥‥夢庵殿、いつから、ここにおられるのです」

「あれは、確か、十月の二十三日だったかのう」

「もうすぐ、一月になりますよ」

「今日は何日じゃ」

「十一月の二十一日です」

「そうか‥‥‥もう、そんなになるのか‥‥‥」と夢庵は目をこすった。

 夢庵は五条安次郎を一休禅師のもとに送った後、我家の四畳半に帰った。仕事の続き、宗祇(ソウギ)の聞き書きをまとめようと机に向かったが、何となく集中できなかった。部屋の中には、安次郎が智羅天の岩屋に籠もろうとして用意した食糧やら書物やらが、そのまま残っていた。夢庵はそれをかついで、ここに来て、ずっと岩屋の中で仕事を続けていたのだった。

「夢庵殿、外にも出ないで、ずっと、この中に籠もっておったのですか」と太郎は岩屋の中を見回しながら聞いた。

「いや、そういうわけでもないがのう‥‥‥外はいい天気か」

「いえ、雪が散らついております」

「雪か‥‥‥うむ。ちょっと外でも眺めて来るかのう」

 岩屋の入り口に座り込んで、雪を眺めながら、太郎は夢庵から、安次郎が訪ねて来た事や駿河での早雲と風眼坊の活躍を聞いた。

「師匠も頑張っておるようですね」と太郎は笑った。

「らしいのう」と夢庵は頷いてから苦笑した。「あの二人にはわしも参ったわ。わしよりも十歳も年を食っておる癖に、山の中を平地のように歩いておる。確か、去年の今頃じゃったのう、山歩きをしたのは」

「今年もまた、百日行が始まります」と太郎は言った。

「なに、また、誰かがやるのか」

「はい。わたしが連れて来た播磨の若者です。なかなかの素質を持っておるので、わたしの弟子にしようと思っております。百日行を見事、やり通したらの話ですけど」

「ほう。おぬしの弟子になるには百日行をしなければならんのか」

「はい。こいつも一応、やっております」

 太郎は八郎の方を示した。

「ほう。おぬしもやっておったのか。凄いもんじゃのう」と夢庵は八郎を見直していた。

「はい。あの時は、もう死ぬ気で歩きました」

「そうじゃろうのう‥‥‥わしは一月程しか歩かなかったが、えらい辛かったわ。その三倍も歩くとなると、死ぬ気でやらん事には無理じゃろうのう」

「明日から始めます。百日間、ずっと、付き合ってやりたいんですが、わたしにはできません。夢庵殿、時々でいいですから奴の事を見守ってやって下さい」

「おう。そんな事ならお安い御用じゃ」と夢庵は喜んで引き受けてくれた。「わしに一緒に歩けと言われても自信ないがのう。時々、見る位ならできるわ。しかし、今から始めるとなると、一番きつい時期じゃないのか」

「はい。一番きつい時期です。しかし、この時期、百日行をやり遂げれば、やり遂げた後の喜びも、また格別となるでしょう」

「うむ、そうじゃろうのう。明日から始めて、いつまでじゃ」

「来年は正月が二回あるので、二月五日になります」

「なに、来年は正月が閏月(ウルウヅキ)か、冬が長く感じられるのう」

「はい‥‥‥ところで、夢庵殿、宗祇殿のお弟子さんにはなれたのですね」

「いや、まだじゃ」と夢庵は首を振った。

「えっ! 一年以上もねばって、まだなのですか」

「ああ。百日行と同じじゃな。弟子になるまでの道程が長い程、弟子になった時の喜びもまた格別というものじゃ」

「そうですけど、しかし、長過ぎますね」

「来年こそは弟子になる。わしは今、そのために、宗祇殿から一年の間に聞いた様々の事をまとめておるんじゃ。それを宗祇殿に認めてもらい、弟子にしてもらう」

「そうですか‥‥‥頑張って下さい」

 その日の晩、夢庵も連れて『とんぼ』に行った。とんぼの親爺は相変わらず、無愛想だったが、太郎の顔を見ると精一杯の愛想笑いをしてくれた。やがて、高林坊と栄意坊、そして、棒術の師範代の西光坊が一緒にやって来た。

 話題の中心は観智坊の事だった。太郎はみんなから観智坊の事を聞いて、あの男がそれ程、お山で有名になったとは信じられなかった。師の風眼坊から紹介された時、何となく、冴えない親爺だと思った。どうして、風眼坊がこんな男を弟子にしたのか理解できなかった。百日行をやり遂げたと聞いて、この男がよくやり遂げたものだと感心はしたが、一年間、この山で武術の修行をした所で、大して上達するまいと思い、ここに来るまで、観智坊の事など、すっかり忘れていた。その観智坊の事が高林坊の口から話題に出て来るとは、まったく信じられなかった。みんなの話を聞きながら、やはり、師匠は人を見る目というものを持っている。それに比べ、自分は外見だけで判断してしまった事を悔いていた。これからは充分に気をつけなければならないと反省した。

 観智坊は五月まではおとなしかった。若い者たちから『親爺』と呼ばれて、慕われていたが、ただ、それだけで、目立った事もなく、地味な一修行者だった。それが、五月に規則を破って山を下り、一升酒をくらって戻って来てから変わった。次の朝、酒臭い息をして高鼾(タカイビキ)で寝ていた所を西光坊にたたき起こされたという風に、すでに伝説となっていた。罰として井戸掘りを命じられ、一月半後、見事に井戸を掘った。その井戸掘りも、実は一人で掘ったのではなく、夜中に二人の鬼を使って掘っていた。その鬼は三尺程の小さな鬼で夫婦だった。一人は左鬼、もう一人は右鬼と呼ばれ、観智坊の命ずるままに、よく働いていた。そして、観智坊の井戸から水が涌き出て来る前夜、南の空に大きな流れ星を見たという者まで現れた。

「まったく、誰が考えたのか、その事がお山中に噂になっている。その後、観智坊は見る見る腕を上げて、信じられん事じゃが、一番若い師範代の明遊坊(ミョウユウボウ)といい勝負をする程にまでになったんじゃ」と高林坊は言った。

 明日から、太郎が孫次郎を連れて百日行を始めるというので、あまり、遅くまで飲まず、その晩、太郎と八郎は二の鳥居の側にある高林坊の屋敷に泊めてもらった。





 初日から、ひどい天候だった。

 降っている雪はそれ程でもないが、風が強く、昨日、積もった雪が地吹雪となって舞っている。前が全然、見えなかった。

 飯道山の山頂までは、八郎が張り切って先頭を歩いていたが、山頂に着いてみると、回りは何も見えなかった。どっちに行っていいのかも分からず、八郎は先頭を太郎に譲った。太郎、孫次郎、八郎と並んで飯道山を下り、地蔵山へと向かった。足元の道がやっと見える程度で、回りの景色などまったく見えない。これでは、道を覚えてもらうつもりで連れて来た意味がなかった。それでも金勝山(コンゼサン)を過ぎた辺りから、風も治まり、日が差して来た。八郎はまた張り切って先頭を歩いた。

 孫次郎も山歩きは初めてではない。播磨の大河内城下において、太郎が作った、片道およそ五里程の奥駈け道を何度も歩いていた。自分でも山歩きには慣れているつもりだったが、初日の地吹雪には参っていた。何も見えないだけでなく、強い風のために体中が冷えてしまって、もし、このまま、一日中、この調子だったら、死んでしまうのではないかと本気で思ったりしていた。風も治まり、ようやく回りの景色が見えて来ると、今度は、その風景に驚いた。孫次郎が歩き慣れていた播磨の山々とは全然、違った風景だった。奇妙な形をした岩山だらけで、それが、雪を被った様は、まるで、絵に見た異国の山水画の様だった。こんな所が実際に、この世にあったのかと感動しながら孫次郎は歩いていた。

 その日は何とか、日が暮れる前に太神山(タナガミサン)にたどり着いた。道を覚える事は、孫次郎にとっても何でもなかったが、あちこちにある仏様に唱える訳の分からない真言(シンゴン)を覚えるのは大変な事だった。真言の意味は分からないが、それを唱える事によって、自分も偉い行者(ギョウジャ)になったような気がして、何となく嬉しかった。

 次の日は昨日とは打って変わって青空が広がった。天気がいいのは気持ち良かったが、道の雪が溶けて、飯道山に帰って来るまでに泥だらけになってしまった。二日間、歩いてみて、それ程、きつくはないな、これなら百日でも歩けるだろうと安心していたら、明日からは一日で往復するのだと言われ、孫次郎には信じられなかった。太郎が、自分をからかっているのだろうと思ったが、本当の事だった。

 一日で往復などできるのだろうか、孫次郎には自信がなかった。八郎から、昔やった時の苦労話を聞いて、果たして、自分にやり遂げる事ができるかどうか自信がなかった。しかし、どうしても太郎の四番目の弟子になりたかった。もし、この百日行をやり遂げる事ができなければ、二度と大河内には帰れないだろう。大河内に帰れないという事は、また、日雇(ヒヤト)いの人足(ニンソク)に戻るという事だった。せっかく、殿様に見いだされて武士になれたというのに、人足には戻りたくはなかった。何としてでも歩かなければならなかった。立派な武士になって、人買いに売られて行った妹を助けなければならなかった。

 三日目、本当なら一人で行く事になっていたが、初日の天気が悪すぎたので、八郎が一緒に行ってくれる事となった。朝、雪こそ降っていないが、空模様はあまりよくなかった。思っていた通り、昼過ぎから雪が散らついて来た。風はなかったが、雪は夜まで降り続いた。

「やるぞ!」と孫次郎は張り切って出掛けて行ったが、帰り道、阿星山(アボシサン)を過ぎた辺りで、すっかり日が暮れてしまった。雪の降る夜道を雪に埋もれながら、くたくたになって倒れ込むように、ようやく、飯道山の宿坊にたどり着いた。八郎は孫次郎を励ましていたが、実際、八郎もこの雪には参っていた。

 八郎が百日行を始めたのは正月の十六日、何百人もの修行者と一緒だった。修行者たちの最後に付いて歩いていたので、始めから雪と格闘するという事もなかった。それに比べ、孫次郎はまだ三日目だというのに、この有り様だった。人の事だとはいえ、これは大変な事だと思った。もし、孫次郎が百日行をやり通したなら、自分たちよりも、もっと辛い目を味わうに違いない。まして、孫次郎はたった独りだった。たった独りで、この悪条件の中、百日行をやり遂げた後、孫次郎は八郎たちにとっても恐るべき男になるに違いない。孫次郎を励ましながらも八郎は、こいつに追い越されないように、自分ももっと修行を積まなければならないと感じていた。

 いよいよ、今日の七つ(午後四時)から『志能便の術』が始まる。八郎と孫次郎が奥駈けを歩いている頃、太郎は飯道山の不動院にて高林坊たちと打ち合わせをしていた。

 今年もいつもの様に、剣術師範代の中之坊、槍術師範代の竹山坊(チクザンボウ)、棒術師範代の一泉坊(イッセンボウ)の三人が手伝ってくれる事となった。中之坊は志能便の術が、まだ陰の術と呼ばれていた頃から太郎を手伝ってくれ、もう六年目となり、後の二人も五年目だった。三人共、教える事もすっかり心得ている。今までは、ただの手伝いとしてやってくれたが、太郎は三人を正式に陰の術の師範代にしてくれるように高林坊に頼んだ。高林坊と他の三人も、太郎がそんな事を言ったものだから、もう、太郎が来なくなるのではないかと心配した。太郎は、そんな事はない。これからも毎年、来ますと言ったので、高林坊も安心して考えておくと答えた。

 打ち合わせが済むと太郎は山を下り、播磨から帰って来ていた十八人と会った。太郎は彼らに、五郎の代わりとなる一人を捜してくれと頼んでいた。約束の時間に二の鳥居の前に行くと、皆、揃っていた。新たに加わる一人も来ていた。その一人は鳥居弥七郎だった。太郎が初めて飯道山に来た時、剣術組にいた鳥居兵内の弟で、兄と同じく剣術の腕はなかなかのものだった。鳥居弥七郎は太郎が現れたのを見て、どうして火山坊がこんな所にいるのだろうと思った。弥七郎は太郎坊の顔を知らなかった。火山坊が実は太郎坊だったと聞いて、信じられないと驚いていた。回りの者たちも、俺たちも信じられなかったが、本当の事だ、と言って笑っていた。

 太郎は、今月中には、お前らも正式に飯道山の山伏になれるだろうと言い、それまでは、のんびりと休んでいろと言い渡して解散した。皆、久し振りの故郷でのんびりできると喜んで帰って行った。

 志能便の術まで、まだ、大分、時があった。太郎はまた山に戻り、隠れながら棒術道場を見下ろせる木の上に登った。一目、観智坊の姿を見てみたかったのだった。観智坊は若い山伏を相手に稽古をしていた。その動きを見た時、太郎も実際に驚いた。高林坊たちの言っていた事は本当の事だった。確かに、凄い上達振りだった。まったくの初心者から、たったの一年でこれ程までに上達するものだろうか‥‥‥

 太郎には信じられなかった。四十を過ぎた、この男をこれ程までにする力というのは、一体、どこから来るのだろうか、なまじの精神力ではなかった。これだけ強くなるには、必ず、裏に何かがあるに違いなかった。何かをしなければならないという使命感のようなものが強く働かない限り、これ程までに上達はしない。ただ、強くなりたいと思っているだけでは、これ程までにはならないだろう。

 太郎の場合は、初め、金比羅坊を倒すために稽古に励み、その後は、高林坊を倒したいと稽古を積んだ。そして、智羅天と会い、自分も智羅天のようになりたいと辛い修行に耐えた。しかし、観智坊の場合は、そういうものではなく、何か内面に秘密があるように感じられた。一体、その秘密とは何なのだろうか。

 太郎はその事に興味を感じた。

 木から下りると、太郎は修行者たちの宿坊(シュクボウ)に向かった。観智坊が掘ったという井戸を見てみたかった。修行者たちが皆、道場の方に行っているので宿坊は閑散としていた。食堂で働く男が、丁度、井戸から水を汲んでいた。男は念仏を唱えながら井戸水を汲んでいた。太郎は男に近づいた。男は振り向いて懐かしそうに、「太郎坊殿」と言った。

 太郎もこの男を知っていた。太郎がこの山で修行をしていた頃から、ここにいて修行者たちの食事を作っていた。太郎は修徳坊で寝起きしていたが、食事の方は修徳坊と時間がずれるので、ここに来て食べていた。観智坊もそうだった。太郎は夜、遅くになって飯を食いに来ては、何度もこの男に怒鳴られた経験があった。

「お久し振りです」と太郎は笑った。

「いよいよ、今年も始まりますな」

「はい。親爺さんも毎日、大勢の飯作りで大変ですね」

「なに、毎日、若い者たちと喧嘩しながら楽しくやっておるわ。毎年、この時期になると、ちょぴり淋しい思いをするがのう。一年間、面倒を見て来た悪ガキ共も、後一月もしたら、皆、いなくなってしまうと思うとのう‥‥‥」

「そうでしょうね」

「お前様のように、騒ぎばかり起こしておった者の方が返って、おらなくなると淋しいもんじゃ」

「俺はそれ程でもないでしょう」

「いや、何の、あの頃は憎らしいガキだと思っておったよ。また、不思議なもんで、憎らしいガキだった者の方がおとなしい者たちよりも、よく覚えておるし、お山を下りてからも活躍しておるようじゃ」

「今年の観智坊殿はどうでした」

「観智坊殿、あのお方は偉いお人じゃよ」

「この井戸を掘ったとか」

「ああ。凄かったよ。わしもずっと見守っておったが、よくまあ、これだけの物を一人で掘ったものじゃ」

「念仏の井戸と呼ばれておるそうですね」

「うむ。観智坊殿が念仏を唱えながら掘り続けておったのでな。実際の所、穴の中から聞こえて来る念仏は不気味じゃった。地獄の底から聞こえて来るようじゃったのう。実際に、観智坊殿はあの時、地獄を経験しておったのじゃろう。しかしのう、今でも不思議なんじゃが、井戸から水が出た時じゃった。丁度、日が昇る時分じゃったかのう。穴の中から念仏が聞こえて来た。今日も早くからやってるのうと思って聞いておったんじゃ。ところが、何となく、その念仏がいつもと違うような気がしたんじゃ。どう違うと言われても分からんが、何となく違うと感じたんじゃよ。おかしいなと思って、わしは耳を澄ませて聞いておった。やはり違うんじゃ。何とも言えない、いい響きでのう。まるで、極楽から聞こえて来るような念仏じゃった。わしはその念仏に聞き惚れておった。そしたら、すぐに水が出て来たんじゃよ。不思議じゃったのう‥‥‥わしは後で、その事を観智坊殿に話したんじゃ。どうして、念仏が変わったのか知りたくてのう。観智坊はそうでしたか、と嬉しそうな顔をしておったが、自分でもよく分からないと言っておった‥‥‥わしは今でも、あの時、奇跡が起こったと思っておるんじゃ‥‥‥」

「奇跡ですか」

「ああ、奇跡じゃ。昔、お前さんが鐘を運んで、雨を降らせた時と一緒じゃ。奇跡が起こったんじゃよ。長年、このお山におると色々な事が起こるもんじゃ」

 太郎は食堂の親爺さんと別れると不動院に顔を出した。高林坊はいなかった。高林坊から観智坊の素性を聞こうと思ったが、もしかしたら、松恵尼が知っているかもしれないと、太郎はさっそく花養院に向かった。

 太郎は松恵尼から観智坊の前歴を聞いた。本願寺の偉い坊主だったと言う。本願寺の事は師匠から聞いていたが、実際に、どんなものなのか分からなかった。松恵尼は今、加賀では、本願寺の門徒たちが守護を相手に戦っていると言う。本願寺の門徒というのは百姓や山の民、川の民など下層階級の者たちが多く、それらが一団となって、武士を相手に戦っていると言う。観智坊は門徒たちの指導的な立場にいた人で、訳あって本願寺を破門となったが、門徒たちを助けるために飯道山で修行している。観智坊は山を下りたら加賀に戻って、本願寺の裏の組織を作って門徒たちをまとめ、守護を倒そうとしていると松恵尼は言った。太郎には、百姓たちが一団となって武士を倒すと言われても、実感が涌かなかったが、観智坊が度偉い事をしようとしている事は分かった。その度偉い事をするために、あれ程、腕を上げたのだった。

 本願寺とは一体、どんなものなのだろうか‥‥‥

 太郎も一度、加賀に行って、この目でその状況を見てみたいと思った。自分で行くのは無理だとしても、『陰の二十一人衆』を加賀に送って状況をつかもうと思った。





 智羅天の岩屋に戻って、藍色の忍び装束に着替えると、太郎は山の中を通って飯道山に向かった。夢庵が一緒に行くと言って付いて来た。何と、夢庵も黒い忍び装束を持っていて、それに着替えると後を追って来た。

 太郎は初めの頃、黒い忍び装束を着ていたが、今は色々な色の忍び装束を持っていた。色々と試した結果、真っ黒よりも、茶色とか柿色とか紺色とかの方が目立たないという事も分かり、また、雪山では白い装束を身に着ける事もした。今、太郎が着ているのは表が藍色で裏は白地だった。

 太郎は今、剣術の師範をしていない。もう天狗の面をして顔を隠す必要はなかった。また、わざわざ山道から登場しなくてもよかったのたが、毎年、突飛に登場していたので、今更、普通に登場するわけには行かなかった。太郎坊はどこからともなくやって来て、また、どこかに消えて行くという伝説通りにしなければならなかった。

 夢庵はちゃんと太郎の後を付いて来た。太郎の前では武術の稽古なんかしていなかったかのように装っていたが、ひそかに稽古を積んでいたに違いなかった。まったく、とぼけた人だった。

 太郎と夢庵は木の上から颯爽(サッソウ)と修行者たちの前に登場した。

 初日の今日は高林坊も栄意坊も姿を見せていた。高林坊を初め師範たちは、太郎と一緒に空から落ちて来た夢庵の姿を呆れた顔をして見ていた。まさか、夢庵がこんな所に現れて来るとは、まったくの予想外な事だった。これまでも、ちょこちょこと山に来ては遊んでいたが、夢庵が陰の術を身に付けていた事を知っている者はいなかった。

 意外な事だった。剣術の腕はかなりのものだとは皆、知っていたが、いつも飄々(ヒョウヒョウ)としている夢庵が、太郎坊と一緒に空から現れるとは、高林坊さえ、こんな男は初めてだと呆れていた。

 高林坊が夢庵に初めて会ったのは、去年の末、風眼坊が連れて来た時だった。女物の派手な帯を腰に巻いて、芝居の役者が着るような派手な着物を着ていた。一目見ただけで、目を背けたくなるような、ふざけた男だと思った。風眼坊が変わっているのは知っていたが、こんな男と付き合っているとは馬鹿げた事だと思っていた。そう思っていたが、風眼坊がかなり気に入っているようなので口には出さなかった。

 次に会ったのは恒例の年末の師範たちの飲み会の時だった。何で、あんな奴が来るんだと思ったが、どうしてもと風眼坊も太郎坊も言うので、高林坊は仕方なく許した。しかし、その宴の最中、高林坊は夢庵と一言も口を利かなかった。風眼坊たちは、これから太郎のいる播磨に行くと言う。もう二度と夢庵とも会うまいと思っていたが、年が明けて、二月の半ば頃、夢庵はひょっこりと飯道山に現れた。いつものふざけた格好だった。夢庵はやたら慣れ慣れしく高林坊に近づいて来たが、高林坊は忙しい振りをして避けていた。夢庵はその後、度々、飯道山に来ては好き勝手な事をしていた。栄意坊とは気が合うのか、よく二人でいる所を目にしたが、高林坊は何も言わなかった。

 そのうちに夢庵は山伏たちの話題に上るようになり、夢庵が剣術の名人だという事を高林坊は耳にした。高林坊には信じられなかった。あんなふざけた奴が武術などに縁があるはずはないと思っていた。夢庵が道場で修行者たちを鍛えていると聞いて、高林坊はひそかに見に行った。夢庵は木剣を片手に持って修行者を相手にしていた。それは、まさに遊んでいるようだった。しかし、夢庵の構え、太刀さばきを見て、高林坊にも夢庵の強さはすぐに分かった。信じられなかったが、あの強さは本物だった。

 夢庵は不思議な男だった。何をしていても遊んでいるように見えた。何をしていても楽しそうだった。何もしないで、ぼうっとしている時でさえ楽しそうに見えた。不思議な男だった。山に来て、好き勝手な事をしていても誰にも嫌がられる事もなく、かえって、夢庵がそこにいるというだけで、その場が和やかになるというような感じがした。

 普通、あんな格好をしてウロウロしていれば変な目で見られ、人々から後ろ指さされるだろう。ところが、夢庵の場合は違った。何もかもが、夢庵という男を表現していて、夢庵はああでなければ駄目だとか、夢庵だから何もやっても許されるという風に、人に思わせてしまうのだった。高林坊もその一人だった。夢庵という男が分かって来ると、高林坊も夢庵の持っている何かに惹(ヒ)かれて行った。そして、付き合ってみると、ますます、不思議な男だと惹かれて行くのだった。

 今日も、夢庵が太郎と一緒に空から降りて来た時、初めは驚いていたが、夢庵ならやりかねないと高林坊は納得していた。修行者たちは、あの夢庵が太郎坊と一緒に現れたものだから、ワイワイ言って囃(ハヤ)し立てていた。太郎もそれには驚いた。夢庵が修行者たちの間で、こんなにも有名だったとは驚きだったが、太郎も、夢庵だったら、その位の事はやりかねないと納得していた、夢庵のお陰で、今回、太郎の存在は幾分、薄くなっていた。

 今年、一年間の修行に耐え、志能便の術に参加したのは七十四人だった。例年よりは若干多かった。これも観智坊のお陰だったのかもしれない。初日、太郎はみんなに、志能便の術とはどういうものなのかを実話も混ぜて話して聞かせ、また、夢庵に模範演技もして貰った。夢庵は初めから志能便の術の師範をやるつもりだったかのごとく、鮮やかに技を披露した。八郎が孫次郎に付き合って、まだ、山の中を歩いているため、自分で演じてみせるつもりだったが、太郎の出る幕はまったくなかった。

 その日、孫次郎と八郎が飯道山に戻って来たのは志能便の術の稽古が終わってからだった。太郎は夢庵と一緒に奥駈け道の方に飛ぶように帰った。飯道山の山頂まで行って、待っていると、ようやく、疲れ切った顔をして孫次郎が帰って来た。

「もう少しだ、頑張れ」と太郎は声を掛けたが、頷くだけで返事をする気力もないようだった。

 後から来た八郎の方もかなり参っているようだった。

「どうだ」と太郎は八郎に聞いた。

「かなり、きついです」と八郎はやっとの事で言った。「雪が重くて‥‥‥」

「そうか‥‥‥明日から、一人で大丈夫そうか」

「はい。もう大丈夫だとは思いますが‥‥‥もう一日、付き合ってやろうと思っています。この時期、たった一人で歩くのは厳し過ぎます」

「そうか‥‥‥うむ。それじゃあ、明日も付き合ってやってくれ」

「志能便の術の方は大丈夫ですか」

「夢庵殿が手伝ってくれている。夢庵殿はもう完全に志能便の術を身に付けているんだよ」

「そうですか‥‥‥」

「おぬしの代わりはわしがする」と夢庵が言った。「安心して奴に付き合ってやれ」

「はい。お願いします」と言って、八郎は孫次郎が多分、倒れているだろう修徳坊に向かった。

 太郎と夢庵は智羅天の岩屋に向かった。

「夢庵殿、あの暗闇の中で物を見る修行を積みましたね」と太郎は歩きながら聞いた。

「おう。おぬしから聞いた話を思い出してのう。わしもやってみた。思っていたより辛かったわ。修行を積めば、暗闇の中でも彫り物が彫れると聞いて、わしも暗闇で物が書けるかと挑戦してみたが、それは無理じゃった。しかし、夜道は平気で歩けるようになったわ」

「夢庵殿には参りますね。ボヤボヤしていたら俺まで追い越されてしまいます。俺も播磨に帰ったら初心に帰って修行を積みます」

「なに、おぬしより強くなるには、この先、ずっと、あの岩屋で修行しなければなるまい。だが、わしはおぬしと会えて、ほんとに良かったと思っておるんじゃ。おぬしと会えなければ、たとえ飯道山の側におったとしても、今のように飯道山の山伏たちや修行者たちと仲よくはできなかったじゃろう」

「そんな事はないでしょう。俺と会わなくても夢庵殿は飯道山の側にいれば、今と同じように飯道山で有名になっていた事でしょう」

「いや、それは違うぞ。人と人が付き合うには縁というものがあるんじゃ。もし、縁がなければ、たとえ側におったとしても付き合う事はできんのじゃよ。今回、高林坊殿を紹介して貰ったので、わしとしても自由に行き来ができたんじゃ。高林坊殿の黙認という形で、わしはお山で遊ぶ事ができたんじゃよ」

「縁ですか‥‥‥確かに、それはありますね」

「おぬしらと初めて会った時、こんな風になるとは想像すらできなかったのう」

「そうですね。初めて会った時は本当に驚きましたよ。あの時の牛は元気ですか」

「おう。最近は田畑を耕しておるわ」

「あの金色の角のままですか」

「そうじゃ。奴もあの辺りでは有名人じゃ。いや、有名牛じゃのう」

「有名牛ですか」と太郎は笑った。

 あの牛が田畑を耕している姿を想像しただけで可笑しかった。あの姿で田畑を走り回っていれば有名になるのは当然の事だった。

 その年、夢庵は最後まで『志能便の術』の師範代を立派に務めた。





 一ケ月の志能便の術の稽古は終わった。

 孫次郎の百日行は、まだ三分の一の三十二日目だった。結局、八郎はそのまま志能便の術をやっている間、ずっと孫次郎に付き合っていた。八郎自身が人一倍辛い思いをして百日行をやり遂げたため、孫次郎が苦しみながら歩いているのを見て、放っては置けなかったのだった。八郎自身も辛かったが、先輩として孫次郎を励ましながら歩いていた。

 観智坊は志能便の術の稽古を終えて悩んでいた。

 いよいよ、明日で一年間の武術修行も終わる。もう、山を下りる事ができるのだった。観智坊は迷わず、真っすぐに蓮如(レンニョ)に会いに行こうと思っていた。蓮如が今、どこにいるのかは分からない。しかし、大津の顕証寺(ケンショウジ)に行って聞けば、すぐに分かるだろう。蓮如と一目会って、山伏、観智坊として加賀に向かうつもりでいた。ところが、太郎坊から志能便の術を習ってから、観智坊の気持ちは揺らいでいた。以前、風眼坊から聞いてはいたが、志能便の術というものが、敵の城や屋敷に忍び込む術までも教えるとは思ってもいなかった。しかも、具体的だった。観智坊がこの先、本願寺の裏の組織を作るに当たって、一番重要な事を太郎坊は教えてくれた。観智坊は毎日、太郎坊の言う事を一言も漏らさずに聞いて、教わった技術は稽古が終わった後に必ず復習していた。しかし、一ケ月は短かった。一ケ月で教わった事はほんの基本だった。後は各自、工夫して自分だけの志能便の術を作るようにと言って、志能便の術の稽古は終わった。

 観智坊は悩んでいた。

 太郎坊の言う通り、後は自分で考えた方がいいか、それとも‥‥‥

 加賀に戻ったら、この山にいる時のように自分の修行をする時間などないかもしれない。ここに戻って来る事もないだろう。となると、後になって後悔するよりは、加賀に行くのが二、三ケ月、遅れたとしても、太郎坊からもっと志能便の術を教わった方がいいかも知れないと思った。今、加賀に帰ったとしても向こうも雪に埋もれている。志能便の術を完璧に身に付けて、春になってから行っても、そうは変わらないだろう。観智坊はもっと太郎坊から志能便の術を教わろうと決心した。

 最後の日、観智坊は師範代の明遊坊と試合をやって見事に勝った。観智坊が初めて、この道場に来た時、一年後にこんな結果になるだろうと誰が予想していただろうか。

 修行者たちは、何で、この道場に、こんな冴えない親爺がいるんだと半ば馬鹿にし、こんな親爺に負けるわけないと思っていた。事実、初めの頃、観智坊は誰よりも弱かった。観智坊が見る見る上達して行ったのは、まさしく努力の賜物(タマモノ)だった。人一倍、稽古に励んでいた。観智坊が急に強くなったのは、あの井戸掘りの後からだった。修行者たちも呆れる程、一日一日と強さを増して行った。その頃になると観智坊を馬鹿にする者もいなくなり、親爺という呼び方にも、尊敬の念が籠もるようになって行った。修行者たちは実の親父であるかのように、観智坊に何でも相談を持ちかけ、観智坊は親身になって答えてやった。そのうちに、修行者たちも親爺には負けられないと、皆、真剣に稽古に励むようになって行った。皆、一年間を振り返ってみて、自分なりによくやったと感激していた。そして、これも皆、観智坊が一緒にいたからだと観智坊に感謝していた。

 観智坊と明遊坊の試合は一番最後だった。試合が終わって、お互いに合掌を済ますと、修行者たちの中から『親爺!』という声があちこちから起こり、喝采(カッサイ)が起こった。

 喝采はいつまで経ってもやまなかった。中には感激して涙を流している者もいる。

 高林坊たち師範たちも、この有り様を見て感動していた。今まで、こんな事は一度もなかった。観智坊を見ながら修行者たちが皆、心を込めて拍手を贈っていた。やがて、喝采は他の道場へも飛火した。他の道場の者たちも棒術道場に集まって、観智坊に拍手を贈った。高林坊でさえ胸の中がジーンとして来て、目が自然と潤んで来るのを感じていた。

 観智坊露香‥‥‥この名は、今年の修行者たちにとって、一生、忘れられない名前となるだろう。そして、この飯道山にとっても忘れられない名前となろう。観智坊とは、以前、この飯道山にいて剣術を教えていた山伏の名前だった。戦死して今はもういなかったが、その勧知坊という男に似ていたため、高林坊が字を変えて観智坊と付けた名前だった。その勧知坊のように強くなれという気持ちを込めたわけだったが、観智坊はたったの一年で、その勧知坊の強さを越え、人間的にもずっと大きな存在となって行った。

 高林坊はこの飯道山に来て、今日程、感動した事はなかった。この山に長く居過ぎたため、修行者たちに教える事さえ惰性のようになってしまっていた。高林坊も昔は、一年間の修行を終えた者たちを送る時には、一年間の様々な事が思い出され感動していたものだった。久し振りに感動していた高林坊は、知らず知らずのうちに感動する事さえも忘れてしまっていた自分に気づいていた。高林坊も観智坊から色々と教わる所があった。それは、自分もかつて経験しておきながら、今、忘れてしまっていた様々な事だった。それは些細な事だったが、若い者たちの指導的立場にいる自分にとって、決して忘れてはならない事だった。高林坊は観智坊の事を思い出すたびに、それらの事を思い出して、自分の戒(イマシ)めにしようと思っていた。

 喝采がようやく静まった後、高林坊は集まって来た全員の修行者たちに最後の挨拶をして、皆に別れを告げた。

 修行者たちは、それぞれ宿坊に帰り、飯道権現(ゴンゲン)に合掌をして山を下りて行った。

 観智坊は修徳坊に帰って、一年間、世話になった人たちに挨拶をして回り、最後に不動院にいた高林坊のもとを訪れた。

「いよいよ、お山を下りるか」と高林坊は気軽に声を掛けて来た。

「はい。お世話になりました」と観智坊は頭を下げた。

「いや。お世話になったのは、こっちの方かもしれん。観智坊殿は若い者たちの面倒をよくみてくれた。本当は、わしらが観智坊殿のように、みんなの面倒をみなければならなかったんじゃ。わしらはただ、奴らに武術という術を教えていたに過ぎなかった。観智坊殿は奴らに、心というものを教えてくれた。今年の修行者たちは観智坊殿がおったお陰で、幸せもんじゃ」

「そんな‥‥‥わしはただ自分の事が精一杯で‥‥‥」

 高林坊は観智坊を見ながら満足げに頷いた。「師範たちを代表して、わしから観智坊殿に礼を言うわ。ありがとう。また、いつか、このお山に来てくれ。皆、おぬしの事を歓迎して迎えるじゃろう」

「はい。ほんとに色々とお世話になりました」

「これから、どうするんじゃ」

「はい。実は高林坊殿。太郎坊殿が今、どこにおられるのか御存じないでしょうか」

「太郎坊? 太郎坊に何か用なのか」

「はい。実は志能便の術をもう少し、教えていただきたいのです」

「なに、志能便の術をか」

「はい」

「本願寺のためじゃな」

 観智坊は神妙な顔をして頷いた。

「うむ。今晩、師範たちが集まって恒例の飲み会があるんじゃ。太郎坊もそれに出るはずじゃ」

「その飲み会というのは下の町でやるのですか」

「そうじゃ、おぬしもその飲み会に参加せんか」

「えっ? そんな、わたしはただの修行者です、そんな席には、とても出られません」

「なに、おぬしは身を以て修行者たちに生きるという事を教えたんじゃ。充分に参加する資格はあるわ。それに、師範たちの集まりと言っても公式ではないんじゃ。遊女たちも大勢参加するしのう。そうじゃ、夢庵殿も顔を出すじゃろう」

「夢庵殿は立派に『志能便の術』の師範代です」

「今年はな。しかし、去年は何もしなかった癖にずうずうしく参加しておったよ。そう、堅苦しく考える事もない。気楽に出てくれればいいんじゃよ」

「はい‥‥‥」

「どうせ、太郎坊に話があるんじゃろう。太郎坊は明日の朝早くには播磨に帰ってしまうじゃろう。その席で話さないと、会えないうちに帰ってしまうぞ」

「はい。どうしても会いたいです」

「会って、播磨まで付いて行くのか」

「はい」

「おぬしの事じゃ。思った事はきっと成し遂げるじゃろう。まあ、頑張れよ。宴会は今晩の六つからじゃ。修徳坊で待っておってくれ」

「はい‥‥‥」

 観智坊は高林坊の言われるままに宴会に参加した。宴会の始まる前に、観智坊は太郎坊に志能便の術の事を頼んだ。観智坊の事は夢庵を初めとして、みんなから聞いていたので、その観智坊がこうまでして頼むからには、考えがあっての事だろうと思った。播磨に来るというのなら、喜んで教えましょうと太郎は言った。観智坊は喜んで、宴の間中、太郎の側を離れなかった。一時程で宴はお開きとなり、皆、好きな所に散って行った。高林坊が珍しく、太郎たちを誘った。何となく、今日の高林坊はいつもと違っていた。やたらと陽気だった。太郎がどうしたのか、と聞くと、若い頃を思い出したんじゃと笑った。

 高林坊は、栄意坊、太郎、八郎、夢庵、観智坊の五人を引き連れ、料亭『湊屋(ミナトヤ)』を出ると、以外にも遊女屋の門をくぐった。高林坊が遊女屋に入るとは太郎は驚いていた。また、いつものように『とんぼ』に行くものと思っていたのに、高林坊は平気な顔をして遊女屋『花屋敷』の門をくぐった。栄意坊はやたら懐かしそうに遊女屋を眺めていた。

「ほう、ここは昔と変わってないのう」と栄意坊は言った。

「よく、遊んだのう、あの頃は」と高林坊は栄意坊の肩をたたいた。

「あの頃は、遊女屋が我家じゃったからのう」

「ああ。わしらを捜すには昼はお山、夜は遊女屋じゃった。あの頃はお山でも暴れたが、遊び方も豪快じゃったのう」

「あの頃の自分と、今の自分を比べると分別(フンベツ)臭くなったもんじゃのう」

「おう。わしもその事に気づいたんじゃ。そこで昔に帰ろうと思っての。久し振りに、ここに来たというわけじゃ。あの頃の遊女屋で、今も残っておるのはここだけじゃ」

 通された部屋に高林坊は六人の遊女を呼ぶと、栄意坊と昔の思い出話を色々と話してくれた。今の高林坊しか知らない太郎たちには想像もできない位、若い頃の高林坊たち四天王は滅茶苦茶な事をしていた。その頃に戻ったかのように、高林坊と栄意坊は遊女たちとふざけ合っていた。こんな高林坊を見るのは初めてだった。いつも、武術総師範にふさわしい毅然(キゼン)とした態度しか見せなかった。太郎の師の風眼坊や栄意坊が、遊女たちをはべらしていてもおかしいとは思わないが、高林坊までもが、こんな事をするとは意外な事だった。しかし、昔話を聞いてみると、皆、若い頃は羽目をはずして遊んでいたのだった。彼らから比べれば、太郎を初めとして、八郎、光一郎、五郎たちはおとなしいものだった。みんな、若いうちはもっと羽目をはずして騒いだ方がいいのかもしれないと太郎は思った。

 夢庵は元々、こういう雰囲気は好きな方なので一緒になって騒いでいた。

 八郎もようやく山歩きから解放された喜びから、はしゃいでいた。

 観智坊は初めのうちはおとなしかったが、久し振りに飲んだ酒に酔っ払って、久し振りに見た若い娘に溺れて行った。

 太郎も昔、夕顔という遊女と遊んだ時の事を思い出しながら、久し振りに馬鹿騒ぎをしていた。

 一度、隣の部屋から、うるさいと苦情もあったが、栄意坊が一睨みすると黙って引き下がって行った。去年は髭を剃って、さっぱりした顔をしていたが、今年は見慣れた髭面に戻っていた。やはり、栄意坊には髭があった方がいい。

 夜更けまで騒ぎまくり、結局、みんな、酔い潰れて、女を抱く所ではなかった。
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