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陰流の開祖であり、忍びの術の開祖でもある愛洲移香斎の物語です。
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風眼坊舜香(風摩小太郎)の略歴

 

 

1432年     備中の国、荏原荘で郷士の三男として生まれる。 1歳
1438年     この頃より武術を習う。 7歳
1449年 5月 伊勢新九郎(18)と共に故郷を出て、京の都に行く。 18歳
      10月 新九郎と別れ、関東に旅立つ。  
         腹をかすかして倒れるが、熊野の山伏に助けられる。 
1450年  熊野で山伏になり、風眼坊舜香を名乗って修行を積む。 19歳
      秋 熊野の山中の村で、目を患っているお光と出会う。 
1451年 春 本草学の修行をして、お光の目を治療する。 20歳
      秋 飯道山の親爺と会い、飯道山に来る。 
1452年 春 飯道山の剣術師範になる。 21歳
         高林坊、火乱坊、栄意坊と共に四天王として活躍する。 
      夏 花養院の松恵尼(19)と出会う。 
1453年 春 伊勢新九郎、飯道山に来て修行を積む。 22歳
1454年 春 百地弥五郎(16)、飯道山に来る。 23歳
      夏 栄意坊、飯道山を下り、旅に出る。 
      12月 新九郎、飯道山を下りて京都に戻る。 
1455年 春 飯道山を下り、火乱坊と共に旅に出る。 24歳
      秋 火乱坊と別れ、お光のもとに帰る。 
1456年 10月 長男、光一郎生まれる。 25歳
1457年  吉野、葛城山、飯道山をフラフラ。 26歳
      秋 奈美(松恵尼)の農家に始めて行く。 
         高林坊、飯道山を下りて葛城山に帰る。 
1458年 2月 長女、お風生まれる。 27歳
1460年 10月 ひょっこりと京都に現れる。《寛正の大飢饉》 29歳
1461年 7月 京都で7年振りに、新九郎と再会する。 30歳
1461~66年 山城の国で一揆衆と共に戦う。 30~35歳
1464年 5月 戦場で怪我をした金比羅坊を助ける。 33歳
1467年 1月 応仁の乱、始まる。京都で戦を傍観。 36歳
1468年 冬 五ケ所浦で太郎と出会う。 37歳
1469年 4月 太郎を連れて、飯道山に行く。 38歳
      夏 栄意坊と共に四国まで旅をする。 
      冬 故郷、備中に帰る。 
1470年 5月 飯道山に行き、太郎と楓の祝言を挙げる。 39歳
      秋 お光のもとに帰り、家族と暮らす。 
1471~72年 光一郎に武術の特訓をする。 40~41歳
1473年 1月 長男、光一郎(18)を飯道山の太郎のもとに送る。 42歳
      6月 長女、お風を嫁に出す。 
      7月 熊野に行き、仕事を頼まれ、修行者をつれて奥駈けをする。 
      冬 熊野、那智で仕事をしている。 
1474年 5月 大峯山上にいるが、訪ねて来た火乱坊と一緒に越前吉崎に向かう。 43歳
      閏5月 越前一乗谷にてお雪(1456-1518)と出会う。 
      6月 本願寺の一揆始まる。 
      10月 富樫幸千代の蓮台寺城落城。 
1475年 3月 お雪と一緒に吉崎の門前で町医者を始める。 44歳
      6月 本願寺の一揆、再び起こる。 
      8月 蓮崇を連れて吉崎を去る。 
      9月 飯道山にて、早雲と再会する。 
          蓮崇、早雲と共に百日行を始める。 
      12月 太郎と再会。蓮崇を飯道山に預けて播磨に行く。 
1476年 1月 早雲、お雪と共に太郎の城下にて年末年始を過ごしてから駿河に向かう。 45歳
         お雪と一緒に駿府で町医者を開業する。 
      2月 駿河守護今川義忠が討ち死にする。 
         今川家の家督争いが始まる。早雲を陰で助ける。 
      9月 今川家の内訌治まる。 
1477年 2月 早雲に『陰の組織』を作ってくれと頼まれる。 46歳
      3月 小太郎夫婦、飯道山に行き、観智坊と再会する。十人の若者を選ぶ。 
         小太郎夫婦と銭泡、播磨大河内城下に着き、太郎より陰の術を習う。 
      5月 飯道山から10人の若者を駿河に連れ帰り、陰の組織「風摩党」を結成する。
        名を風間小太郎から風摩小太郎に変える。 
      8月 栄意坊夫婦、駿河の風摩砦(丸子山中)に来る。風摩党、遠江に進撃する。 

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伊勢新九郎(早雲)の略歴

 

 

1432年     備中の国、荏原荘に生まれる。 1歳
1449年 5月 風間小太郎(18)と一緒に故郷を出て、京の都に行く。 18歳
      10月 小太郎と別れ、京の伊勢貞高の家に居候する。 
1453年 春  小太郎(風眼坊)に呼ばれて、飯道山で修行する。 22歳
1454年 12月 飯道山を下りて京都に戻る。 23歳
1457年 春  伊勢貞高の世話で一族の娘を嫁に貰う。 26歳
1459年 2月 長女、生まれる。 28歳
1461年 7月 7年振りに、風眼坊と再会する。《寛正の大飢饉》 30歳
1464年 12月 足利義視の申次衆になる。 33歳
1465年 11月 日野富子、義尚を産む。 34歳
1467年 1月 応仁の乱、始まる。 36歳 
      8月 足利義視の供をして伊勢の国に下る。 
1468年 夏  義視の使いで京に行く途中、愛洲太郎(17)と曇天に会う。 37歳 
      9月 義視は京に戻るが、新九郎は伊勢に残る。 
1469年     新九郎の妹、駿河の国で長女を産む。 38歳
1470年     備中の国に帰ってから、京の家族のもとに戻る。 39歳
1471年 3月 再び、備中の国に行く。 40歳
          新九郎の妹、駿河の国で長男、竜王丸を産む。  
      5月 頭を丸め、早雲と号して旅に出る。 
1472年 6月 駿河に行き、今川義忠と妹の美和と出会う。 41歳 
      9月 長谷川法栄と出会い、小河荘に行き、石脇の地に早雲庵を構える。 
         ・富嶽と名乗る大道寺太郎と出会う。 
         ・荒木兵庫助という浪人と出会う。 
1474年 3月 早雲庵に、多米権兵衛が訪ねて来る。 43歳
         ・山賊退治。山賊の頭、在竹兵衛と出会う。  
      4月 早雲、山中才雲と富沢孫雲を連れ、鹿島香取に旅に出る。 
         ・太田資長(道灌)と出会う。 
1475年 3月 早雲、娘を嫁に出すため、京に戻る。富嶽も京都まで一緒に行く。 44歳 
      8月 薪村の酬恩庵に行き、一休と森女に会う  
      9月 飯道山に行き、風眼坊、栄意坊と再会する。 
          風眼坊、蓮崇と共に、百日行を始める(~12.19)。 
      12月 風眼坊らと共に、太郎のいる播磨に行く。 
1476年 1月 播磨で正月を迎え、風眼坊とお雪を連れて駿河に帰る。 45歳 
      2月 今川義忠(41)、一揆に討たれて戦死する。 
          今川家の家督争いが始まる。  
      6月 太田資長、今川家の調停のために駿河に来る。  
      9月 早雲と資長の活躍によって、竜王丸の家督が決まる。 
      10月 五条安次郎、早雲の紹介状を持って、一休禅師を訪ねる。 
1477年 8月 栄意坊、駿河に来る。 46歳 
      9月 応仁の乱、終わる。 

松恵尼の略歴





1434年     伊勢の国、関にて、関一族の小野高晴の長女として生まれる。名前は奈美。 1歳
1443年     この頃から薙刀を母より習う。 10歳
1449年     北畠教具(27)に見初められ、側室となる。 16歳
1450年 夏  子供を産むが死産。 17歳
      秋  父親、高晴が戦死する。 
1451年 春  教具のもとを去り、母の実家に行く。 18歳
1452年 春  出家して松恵尼を名乗り、甲賀の花養院に行く。 19歳
          飯道山の剣術師範の風眼坊(21)と出会う。 
1453年 春  伊勢新九郎(22)、飯道山に来る。 20歳
1454年 春  百地弥五郎(16)、飯道山に来る。 21歳
      冬  花養院にお祐(15)が来る。 
1455年 春  風眼坊と火乱坊、飯道山を下りて旅に出る。 22歳
      5月 花養院に楓(2)が多気から来る。 
         ・この頃より、近所の娘たちに薙刀を教える。 
         ・この頃より、北畠教具のために情報を集め始める。 
1456年     『小野屋』と号し、商人としての活動を始める。 23歳
      冬  『小野屋』の本店が多気の都に完成する。 
1457年 5月 母(44)、死す。 24歳
      8月 商売に失敗する。 
      9月 松恵尼ではなく、奈美として風眼坊と会う。 
1458年 3月 お祐(18)、百地弥五郎(20)と一緒になり、伊賀に行く。 25歳
         伊勢安濃津に『小野屋』の支店を出し、関東との取り引きを始める。 
1459年 5月 大和奈良に『小野屋』の支店を出す。 26歳
1460年 4月 伊賀上野に『小野屋』の支店を出す。 27歳
1463年     飯道山門前町、伊勢神宮門前町、多賀大社門前町、京都などで旅籠屋業を始める。 30歳
1465年     百地弥五郎、お祐夫婦に、南伊賀の諜報活動を頼む。 32歳
1467年 1月 応仁の乱、始まる。京都の情勢を探る。 34歳
1469年 4月 風眼坊が愛洲太郎を連れて飯道山に来る。 36歳
1470年 5月 太郎と楓が一緒になる。 37歳
1471年 3月 北畠教具(49)死す。 38歳
      4月 太郎と楓、五ケ所浦に帰る。
北畠氏



1383年  2代目国司顕泰(1361-1402.42歳)、正二位権大納言、右大将に叙任される。 
       霧山城の下に『多気御所』を構え、南勢四郡の玉丸・阿坂・神山・藤方・木造の諸城と大和の宇陀郡の沢、秋山両城を支配。
       北伊勢では地侍の木俣氏ら北勢48家、中伊勢では平家の血を引く関氏一族が、鈴鹿から神戸一帯を、安濃郡ではやっと再興した長野家が、武威を振るう。
       伊賀四郡では仁木氏滅亡で、土豪がはびこり、群雄割拠の有り様。
1392年  南北両朝合一する。
1393年  足利義満、伊勢神宮参拝。北畠、足利両家の同盟成立。
1398年  和泉の国堺で大内義弘、反乱を起こし、顕泰、出兵し義弘を討つ。
       顕泰の嫡子、満泰、戦死。甲賀郡、伊賀の半国、北畠氏の所領となる。
1402年  3代目国司満雅、弟の顕雅を大河内城に、雅俊を木造城に分家する。
       満雅、多気から一志郡の阿坂城に移る。
1412年  4代将軍義持、両朝廷迭立を破り、小倉宮親王、北畠氏を頼って伊勢に下る。
1414年  幕府は土岐持益を総大将に仁木満長、世保康政、坂内城主、北畠俊泰ら5万の大軍を伊勢に向ける。 
       満雅、坂内城を攻め、裏切り者を処分。
       一族の木造俊泰、幕府軍に投じ、土岐軍の案内をする。
       幕府軍、阿坂城を攻めるが、落城させる事はできず、城攻めを断念して、京に帰る。
       満雅、京に伊賀、甲賀の者を潜入させ、幕府批判を言い触らす。
1428年  称光天皇が逝去すると、またも、北朝の彦仁王が帝位につく。
       小倉宮親王、またもや、伊勢に下る。
       土岐持頼、幕府の命を受け、出陣。一色義貫、京極氏、赤松氏、山名氏も参加。
       北畠満雅、1万の兵を率いて阿坂城を出る。
       北畠満雅、自刃。
       4代目国司教具、6歳で跡を継ぐ。
       阿坂城侍大将、鳥屋尾岩見守、水谷浅右衛門、戸木村羽野の宮田源之丞、須賀瀬の渡辺善介、家城の家城主馬。
       霧山城侍大将、野呂帯刀、横山仁兵衛、岡田左馬助、村岡三河守。
       大河内城主、北畠顕雅(満雅の弟)。
       木造城主、木造少将雅俊( 〃 )。
       垂水、藤方、小森上野(津市)、一志郡内の榊原、八田、天花寺、曽原、船江、波瀬、岩内、大淀城(松坂)、鈴鹿、安濃両郡の関、神戸、今徳、椋本、林、萩野、岡本、安濃郡の長野、雲林院。
       幕府内部の事情からか、土岐、京極、山名、赤松の幕府軍、鈴鹿峠から撤退。
1429年  土岐持頼、またも攻めるが、大和、宇陀の被官、沢城主の秋山右近将監、沢隼人正、芳野宮内少輔の『大和三人衆』、津の藤方城の藤方刑部らの兵に攻められ、敗走する。
1430年  北畠教具(8)、赤松満祐の計らいで、将軍義教と謁見する。将軍より教の字を授かる。正三位右中将・参議に任じられる。
1440年  義教は伊勢守護世保泰政を解任し、北畠氏を任ずる。
1441年  義教、伊勢神宮参拝する。
       嘉吉の乱、将軍義教、赤松満祐に殺される。 
       赤松満祐の嫡子、教泰(19)、北畠氏を頼り、伊勢に落ちのびる。丹生俣の草庵に匿われるが、妻や家来66人と共に自殺する。
1452年  北畠教具(30)、上京し、将軍義政と謁見する。娘たちを関一族の神戸下総守、安濃郡の長野氏に嫁がせ、守りを固める。
1458年  教具(36)、従二位になる。
1460年  教具の嫡子、政郷(12)、従五位上に昇任。
1467年 1月 応仁の大乱、始まる。
      8月 足利義視が北畠氏を頼り、伊勢に来る。教具、丹生の里(多気郡勢和村)に迎賓館を建てる。
1468年 6月 教具、木造城を制圧。白子城、若松城、柳城、林城を陥落させる。楠原城も攻め落とし、守護の世保康政(39)は神戸城で切腹。 
      9月 義視、京に帰る。
1469年 8月 教具、上京して、権大納言に任ぜられる。
1471年 3月 教具(49)、多気の都で没する。
康正 元年(1455)   737文 播磨
  2年(1456) 5月 880文 山城
      940文 京都
長禄 元年(1457)   1000文 播磨
    3月 1000文 奈良
    8月 1080文 奈良
    9月 1340文 奈良
    12月 1480文 奈良
  2年(1458) 1月 1250文 奈良
    閏1月 1000文 播磨
    9月 1000文 奈良
    9月 1300文 奈良
    12月 1240文 奈良
  3年(1459) 1月 1250文 奈良
    1月 1440文 奈良
    12月 1660文 奈良
  4年(1460) 1月 1250文 奈良
    3月 1300文 奈良
    4月 700文 奈良
    4月 770文 奈良
    9月 831文 若狭
      1220文 京都
寛正 2年(1461)   1000文 京都
      1020文 京都
    12月 1000文 京都
      1600文 播磨
      1730文 播磨
  3年(1462) 2月 714文 京都
    6月 1000文 山城
    12月 620文 京都
    12月 720文 京都
      830文 大和
      588文 奈良
  4年(1463) 9月 470文 紀伊
      400文 京都
  5年(1464) 5月 1110文 紀伊
    5月 1250文 紀伊
    5月 1420文 紀伊
    12月 1250文 大和
      770文 奈良
  6年(1465) 1月 600文 京都
    10月 1492文 紀伊
      1075文 京都
文正 元年(1466)   700文 京都
    12月 690文 山城
応仁 元年(1467) 7月 788文 京都
    8月 833文 京都
    10月 583文 京都
    12月 688文 京都
    12月 690文 京都
  2年(1468) 1月 570文 周防
    8月 2727文 京都
    8月 1440文  
      526文 京都
文明 元年(1469) 2月 550文 京都
    4月 520文 周防
      1900文 京都
  2年(1470) 10月 1500文 京都
    12月 976文 奈良
  3年(1471) 12月 1025文 京都
    12月 770文 若狭
    12月 1666文 山城
  5年(1472) 1月 997文 京都
    8月 500~1000文 播磨
  6(1474)   526文 京都
  7(1475) 12月 710文 奈良
  8年(1476)   1250~1538文 近江
  9年(1477) 8月 400~722文 播磨
  10年(1478) 11月 1190文 山城
    11月 1230文 奈良
      835文 京都
  11年(1479) 3月 962文 京都
    11月 625文 京都
    11月 1190文 京都
  12年(1480) 2月 824文 京都
    7月 600文 奈良
    11月 689文 奈良
      825文 京都
      555文 京都
  13年(1481) 1月 855文  
    2月 885文 奈良
      589文 京都
  14年(1482) 10月 879文 京都
      977文 京都
    12月 1000文 京都
  15年(1483) 1月 1250文 京都
    2月 1139文 京都
    12月 1786文 近江
      910文 京都
  16年(1484) 1月 1818文 近江
    2月 910文 京都
    2月 1429~2000文 近江
    10月 1250文 京都
    11月 1330文 京都
      800文 京都
    12月 1280文 京都
      1000文 京都
  17年(1485) 10月 1330文 京都
    12月 833文 京都
  18年(1486) 8月 1053文 京都
    11月 1230文 京都
    12月 800文 京都
長享 元年(1487) 11月 1110文 京都
    12月 787文 京都
  2年(1488) 10月 905文 京都
    11月 625文 京都
延徳 元年(1489) 2月 625文 京都
  2年(1490) 3月 625文 京都
    11月 700文 京都
    12月 833文 京都
  3年(1491) 2月 833文 京都
    12月 910文 近江
    12月 1160文 奈良
明応 元年(1492)   769文 京都
  2年(1493) 2月 769文 京都
    11月 588文 京都
  3年(1494) 2月 769文 京都
      555文 京都
  4年(1495) 2月 555文 京都
    7月 1000文 京都
      500文 京都
  5年(1496) 11月 625文 京都
  6年(1497) 6月 625文 京都
  8年(1499)   769文 京都
  9年(1500) 2月 770文 京都
    9月 1330文 播磨
文亀 元年(1501) 2月 1163文 大和
  2年(1502)   555文 京都
    5月 884文 京都
    7月 833文 京都
  3年(1503)   800文 京都
永正 元年(1504) 5月 800文 京都
    9月 1200文 大和
      700文 甲斐
  2年(1505) 4月 769文 奈良
      585文 京都
1443年   中院通淳の子、内大臣通秀(1428-94)の弟として生まれる。 1歳
       若年の頃より宮廷に出入りする。
1451年   父親(54)死す。兄(24)夫婦に育てられる。 9歳
1454年    お家芸の和歌に熱中する。 12歳
1457年   女に熱中する。 15歳
1458年   旅に出て、山賊に身ぐるみを剥がされる。 16歳
        鞍馬山に登り、賢光坊という山伏より棒術を習う。
1459年    徳大寺家に通い、笛を習う。 17歳
1460年   飛鳥井雅親(45)に和歌を習う。 18歳
1462年    富士山を見るために東国地方を旅する。 20歳
       近畿を中心に歌枕を歴訪する。
1463年   連歌師、心敬(58)の弟子になる。 21歳
       専順(53)の弟子の宗祇(43)と出会う。
        村田珠光、将軍の茶の湯の師匠になる。
1464年   珠光(42)の弟子になり、茶の湯に熱中する。 22歳
       この頃、珠光の弟子に志野宗信(24)がいる。
       一休禅師(71)より小伯(肖柏)という名を貰う。
       伏見屋銭泡(37)、一路庵禅海(49)が珠光の弟子となる。
1465年   篠道耳(21)、珠光の弟子になる。 23歳
1466年   石黒道提(33)、珠光の弟子になる。 24歳
1467年   珠光と別れ、摂津の国、池田猪名野川のほとりに隠棲し、夢庵と号す。 25歳
1468年    池田筑前守允正の本願によって、曹洞宗大広寺が創建される。 26歳
1470年 1月 赤松家の新しい城下、置塩に呼ばれる。 28歳
1471年 8月 能阿弥(75)、大和の国、長谷寺にて死す。 29歳
1473年    宗祇の書いた『初心抄』を読む。 31歳
1474年 7月 置塩城下に呼ばれ、しばらく滞在する。 32歳


和歌と貴族の世界  連歌とは何か  連歌師宗祇の実像  わび茶への道  一休とは何か
1455年   近江の国、浅井郡須賀谷にて生まれる。幼名は次郎法師丸。 1歳
1456年 12月 赤松遺臣、偽って南朝に仕える。 2歳
1457年 12月 赤松遺臣、北川御所、川上御所を襲うが失敗する。 3歳
1458年 8月 小寺藤兵衛、神璽を奪回して内裏に返還する。 4歳
     9月 赤松家、再興される。
1459年    赤松家、加賀半国、出雲の国宇賀荘、伊勢の国高宮保を宛がわれる。 5歳
       宇賀荘の替地として、備前の国新田庄を拝領する。
     4月 父、義祐、神器掠奪戦の時の重傷がもとで死す。
1461年 8月 次郎法師丸、松原八幡宮に二百俵、妻鹿瀬川の田を寄付。 7歳
1465年 11月 次郎法師丸、元服して、次郎政則を名乗る。 11歳
      浦上美作守則宗に助けられて、多くの功績あり。洛中で名声を得る。
1467年 1月 応仁の乱、始まる。 13歳
     5月 政則、播磨、備前、美作を宛がわれ、赤松軍は数日で播磨を平定する。次いで、備前福岡を陥れる。
      8月 赤松軍、大内軍に猪名野で破れ、播磨に帰る。加賀守護代の間島河内守、戦死。
      姫路城の本丸、鶴見丸、亀井丸を修理する。
1468年 11月 政則、侍所所司に任じられる。 14歳
1469年    中村五郎左衛門、三ヶ年戦って、美作を平定する。 15歳
     11月 政則、播磨備前美作三ヶ国の守護職と兵部少輔に任じられる。
     12月 姫路城に目代として小寺豊職を置き、本拠地を置塩城に移す。
1470年 2月 天王寺合戦。浦上則宗は山名教之、一色義直を攻めて大勝する。 16歳
1471年 4月 政則、父申恩院の十三回忌の法要を建仁寺で行う。 17歳
1472年   政則、細川氏の娘、亜喜(16)を嫁に迎える。 18歳
1473年 3月 山名宗全(70)、死す。 19歳
     5月 細川勝元(44)、死す。
    6月 政則、京都を出て、領国経営に乗り出す。
1474年 5月 政則の長女、まつ、生まれる。 20歳
      政則、美作に出兵する。
     9月 政則、上村柳(16)を側室に迎える。
1477年 11月 応仁文明の乱、終わる。 23歳


播磨赤松一族  山名宗全
1432年   相模国太田にて、太田資清の長男として生まれる。幼名は鶴千代。 1歳

1439年閏2月 足利持氏、自害する。 8歳

1440年    鎌倉五山の一つ建長寺に入り学問を学ぶ。 9歳

1441年    嘉吉の変。将軍義教、赤松氏に殺される。 10歳

1442年    学問を治め、建長寺を出る。 11歳

1446年    元服、源六郎資長を名乗る。 15歳

       この頃、足利学校にて軍学を学ぶ。

1449年1月  足利成氏を京から迎え、関東公方とする。管領は山内上杉憲忠(1433-54)。 18歳

       持朝(1418-1467)隠居し道朝と号し、顕房(1435-1455)、扇谷上杉家を継ぐ。

       山内上杉家の家宰長尾景仲、扇谷上杉家の家宰太田資清の二人が補佐する。

1452年1月  この頃、品川に館を築いて移る。 21歳

1453年    左衛門大夫に任じられ、備中守従五位下に進む。 22歳

1454年12月27日 足利成氏、関東管領山内上杉憲忠(22)を殺害。房顕(1435-66)、管領となる。

1455年1月  資清、顕房(21)の死により隠居し道真入道を号し、資長に家督を譲る。 24歳

      資長、扇谷上杉政真(1450-1473)の家宰となる。政真の後見に道朝。

      道真は入間郡越生の自得軒に隠退し、歌の道を楽しむ。

    6月16日 今川範忠、鎌倉に入る。足利成氏、下総古河に拠る(古河公方)。

    12月  資長、成氏の兵と相模藤沢で交戦する。

1456年     扇谷上杉氏の命で、江戸城築城を開始する。 25歳

1457年4月8日 江戸城完成する。岩槻、河越両城も父と共に築城。 26歳

    《江戸城の中に静勝軒という高楼を建て、そこを居室とする》

    10月  成氏、古河城を修めて、これに移転する。

    12月19日 義政、弟の政知を関東に下す(堀越公方)。

1458年7月29日 幕府、信濃小笠原光康に上野岩松尚純を援助し、成氏を討伐するよう命じる。 27歳

1459年10月14日 山内房顕ら、成氏と武蔵国太田庄で交戦し、犬懸上杉教房戦死する。 28歳

    10月15日 越後守護上杉房定、成氏と上野国で交戦。

1460年10月21日 幕府、関東、奥羽の諸将に成氏の討伐を命ずる。 29歳

1461年10月23日 政知の執事犬懸上杉教朝、突然自害し、その子、政憲跡を継ぐ。

    12月19日 幕府、駿河の今川義忠に足利政知の援助を命じる。 30歳

1462年     栄意坊と出会い、意気投合し、江戸城に呼ぶ。 31歳

1463年8月  山内上杉家の家宰長尾景仲(1388-,76)死す。嫡男景信(1413-,73)が継ぐ。 32歳

    11月 幕府、今川義忠に成氏討伐を命ずるが、義忠動かず。

1464年 春  資長、上洛し将軍義政に謁す。 33歳

1466年2月 山内上杉房顕、五十子の陣中で没す(32)。顕定(1454-1510)、管領を継ぐ。 35歳

     閏2月 山内上杉憲実(1410-,57)死す。

    6月3日 幕府、関東奥羽の諸将に討伐を命ずる。

1467年9月6日 扇谷上杉持朝死す(52)。 36歳

1469年    道真、河越にて、宗砌、心敬らと千句の連歌を賦す。 38歳

1471年    長男、源六郎(右衛門尉資康、-1513.9)生まれる。 40歳

    3月  成氏、伊豆国三島に出兵し、政知と交戦する。上杉顕定の将兵ら政知を助け、成氏の軍を破る。

    5月23日 扇谷上杉政真の将、太田資忠(資長弟)、上野館林城を攻略。

    6月24日 上杉顕定の武将長尾景信、成氏を古河城に破る。成氏、千葉孝胤を頼る。

1472年2月3日 成氏、結城氏広の助けで、古河城を奪回する。 41歳

1473年6月  山内上杉顕定の執事長尾景信(1413-,61)死す。 42歳

       顕定、弟景忠に跡を継がせる。子の景春、顕定に背き、成氏に味方する。

    11月24日 上杉政真(24)討ち死にする。政真の叔父定正が扇谷上杉家を継ぐ。

1474年4月  相模の草原にて、早雲と出会う。 43歳

    6月17日 資長、心敬を招き、江戸城にて、歌合わせを開催する。

1475年4月16日 心敬没す(70)。 44歳

1476年2月9日 今川義忠、流れ矢にて死す。 45歳

    6月  今川氏の内訌鎮定のため、資長、上杉政憲と共に駿河に出陣。

    6月  上杉顕定の家宰、長尾景春(1443-1514)、武蔵国鉢形に拠って顕定にそむき、五十子の陣営を襲撃する。

    8月  資長、京都五山の詩僧、竜統、霊彦らに江戸城静勝軒の記を、得公らに江亭記を作らせる。

    11月13日 室町第火災に遭い、典籍ことごとく焼失する。

1477年1月18日 景春、上杉顕定、定正らを五十子に襲撃し、上杉軍は上野国に走る。 46歳

    3月18日 溝呂木合戦。長尾景春与党、溝呂木氏を討つ(城攻)。溝呂木城を落とす。

    3月18日 小磯合戦。長尾景春与党、越後五郎四郎を討つ(城攻)。小磯城を落とす。

    3月   小沢合戦。景春与党、金子掃部助を討つ(城攻)。

    4月10日 勝原合戦。景春与党、矢野兵庫助を討ち取る(野戦)。

    4月12日 平塚合戦。景春与党、豊嶋平右衛門尉泰明(泰経の弟)を討ち取る(城攻、自身出撃)。

    4月13日 江古田、沼袋合戦。景春与党、豊嶋勘解由左衛門泰経らを討つ(野戦、自身出撃)。

    4月18日 小沢合戦。景春与党、金子掃部助を討つ(城攻)。

    4月28日 石神井合戦。景春与党、豊島泰経を討ち取る(城攻、自身出撃)。

    5月14日 用土原合戦。長尾景春を討つ(野戦)。景春、鉢形城に逃げる。

    7月  成氏、景春を支援するため、上野滝に出陣。顕定、定正、白井に退陣する。

    10月2日 荒巻合戦。長尾景春を討つ(野戦、自身出撃)。

    11月14日 塩売原合戦。長尾景春を討つ(野戦、自身出撃)。

1478年1月5日 成氏、顕定らと和睦し、武蔵国成田に退く。 47歳

    1月24日 定正、道灌、河越に帰る。

    1月25日 平塚合戦。豊嶋泰経らを討つ(城攻、自身出撃)。

    1月27日 丸子合戦。豊嶋、矢野らを討つ(城攻、自身出撃)。

    1月28日 小机合戦。豊島、矢野らを討つ(城攻、自身出撃)。

    2月   入道して道灌と号す。





    

1394年  後小松天皇の落胤として京都に生まれる。幼名は千菊丸。 1歳
     洛西の民家で、母と共に五年間過ごす。
1399年  安国寺に入り出家して、周建を名乗る。 6歳
1410年  西金寺の謙翁宗為に師事し、宗純と名を改める。 17歳
1414年  謙翁宗為、死す。宗純、自殺未遂。 21歳
1415年  堅田禅興庵の華叟宗曇に師事する。 22歳
    京に出て香包作り、雛人形の彩衣作りの内職をする。
1418年 『洞山三頓棒』を悟り、一休の号を師から賜る。 25歳
1420年 夏 鴉が鳴くのを聞き、大悟する。 27歳
1427年  長男、岐翁紹偵が生まれる。 34歳
1428年 6月27日 塩津高源庵にて、華翁宗曇(77)死す。 35歳
1429年  南江宗沅(43)と出会う。 36歳
1429年 8月16日 養叟、大徳寺住持26世に就任する。 36歳
1432年  南江と共に和泉国堺に現れる。 39歳
1433年  後小松天皇、崩御。南江、一休と別れ還俗して漁師になる。 40歳
1435年  木剣あるいは尺八を携え、再び、堺に現れる。 42歳
1436年11月22日 大徳寺の大燈国師百年忌法要に列席する。 43歳
1438年  京に現れ、草庵に住む。 45歳
1442年  嘉吉の乱を避け、譲羽山に民家を借りて住む。 49歳
1443年  一休、京都大炊御門室町の陶山公の別邸(売扇庵)に住む。 50歳
1444年  養叟、大徳寺を十刹から降ろし弁道所とする。叢林を退き林下に下る。 51歳
1445年 8月28日 養叟、再び、大徳寺住持に再任する。 52歳
1448年  疾病流行、飢饉となる。 55歳
1448年12月 蜷川新右衛門親当(72)死す。
1449年 4月 京都大地震。 56歳
1450年 7月 近畿台風。1月~7月まで、疾病のため京都に死者多し。 57歳
1452年  一休、売扇庵の南に瞎驢庵を建て、移る。 59歳
    この頃、村田珠光(1423-1502)、一休の元で参禅する。
1453年  大徳寺炎上する。 60歳
1454年  京都盗賊横行。徳政一揆。 61歳
1456年  一休、薪村に移る。妙勝寺を再建する(唐門、仏殿、開山堂)。 63歳
    養叟、堺に陽春庵を建立。商人助四郎国正が寄進。
    この頃、金春禅竹(1405-1471)出入りする。
1457年 4月8日 一休『骸骨』を書く。 64歳
1458年 6月27日 養叟死す(83)。 65歳
1459年  一休、京都徳善寺に住む。 66歳
    天下飢饉。京都大風雨。
1460年  寛正の大飢饉。一休、大徳寺の華叟和尚三十三回忌に参禅。 67歳
1461年  一休、嵯峨に遊び、大応国師の墓所龍翔寺の塔を修復する。 68歳
1461年11月 一休、蓮如の営む親鸞聖人二百回忌に参禅する。
1463年 夏 南江(77)、住吉の草庵で死す。 70歳
1463年 7月 一休、大徳寺内の瞎驢庵に住む。
    この年、三日病がはやり死者多数でる。
    宗祇、一休の元に参禅する。
1465年  蓮如、大谷を破壊され、近江に逃げる。 72歳
1467年  応仁の乱始まる。 74歳
    一休、薪村の酬恩庵に帰る。兵火により、瞎驢庵、売扇庵、大徳寺ら焼亡。
    この頃、珠光、夢庵、蛇足(1416-)、禅竹ら、出入りする。
1468年  一休、酬恩庵にて、徹翁和尚(大徳寺2世)の百年忌を営む。 75歳
1469年  西軍の兵火により、妙勝寺焼失。一休は十津川峡、和泉を転々とする。 76歳
1469年 秋 一休、住吉の松栖庵に仮寓する。
1470年  一休、住吉坂の井の上、雲門庵に移る。 77歳
    この頃、石津の上市村に隠れ住む一路庵禅海(元、仁和寺門主)出入りする。
    一休の弟子に瑞子、成子、墨斎(没倫紹等)、鉄梅、益州、雲知坊ら。
1470年 冬 一休、住吉の薬師堂にて盲女森(丹後生まれ、鼓打ち)と出会う。
1471年 春 住吉にて森女と再会する。 78歳
1471年 秋 森女、一休の元を去る。
1472年  一休、薪村に酬恩庵を再建して戻る。 79歳
1472年 秋 森女、酬恩庵に来る。
1473年  曽我墨谿、伊勢にて亡くなり、蛇足、一休に別れを告げ、越前に帰る。 80歳
1474年 3月 一休、大徳寺第48世住職となるが、居成によって退く。 81歳
1474年 8月 一休、瘧に罹る。
1474年 9月 森女、流産する。
1475年  一休、酬恩庵内の虎丘に寿塔を建てる。 82歳
1476年11月 宗観、弟子になる。 83歳
1477年 1月 宗祇と夢庵、一休を訪ねる。 84歳
1477年 9月 河内兵、津に入る。一休、輿に乗り和泉の小嶋に避難する。
1477年10月 小嶋を出て、住吉の雲門庵に入る。
1478年 1月 宗観、宗祇の弟子となる。 85歳
    尾和宗臨の援助で、一休、大徳寺の再建をす。
1481年11月21日 一休死す。 88歳
1501年12月20日 尾和四郎左衛門宗臨死す。
1513年   一休三十三回忌に大徳寺に森女、参詣。
1423年 奈良御門に住む村田検校の子として生まれる。幼名茂吉。 1歳
1433年 称名寺に入り、下僕となる。 11歳
1440年 称名寺の法林庵に住む。 18歳
1442年 破門となり、還俗する。 20歳
    諸所を放浪する。
1447年 京に出る。三条町に小庵《南星庵》を結ぶ。 25歳
1449年 足利義政(1435-1490)15歳で、8代将軍となる。 27歳
1452年 瞎驢庵の一休(1394-1481)の元で参禅する。 30歳
1455年 一休より休心珠光の号と圜悟禅師の墨蹟を頂く。 33歳
1456年 能阿弥(13971471)の弟子となり、立花と唐物の目利きを学ぶ。 34歳
1461年 志野次郎左衛門宗信(1441-1522)弟子となり、お香を学ぶ。 39歳
1463年 将軍義政の茶の湯師範となる。六条堀川西に数寄屋《休心庵》を構える。 41歳
1464年 ・夢庵(1443-1527.22)が弟子になる。 42歳
    ・伏見屋銭泡(1428-1505.37)が弟子になる。
1464年春 上洛した太田備中守(道灌)に茶の湯の指導をする。
    ・一路庵禅海(1416-1488.49)が弟子になる。
1465年 ・篠道耳(1445-1518.21)が弟子になる。 43歳
1465年春 上洛した今川義忠に茶の湯の指導をする。
1465年11月 足利義尚(1465-1489)生まれる。
1466年 ・石黒道提(1434-1497.33)が弟子になる。 44歳
1467年 応仁の乱始まる。奈良《香楽庵》に非難する。 45歳
   この頃、薪村の一休をよく訪ね、曾我蛇足(1416-)、金春禅竹と交わる。
    ・堺の会合衆、天王寺屋津田源次郎《宗柏》(1444-1527.24)が弟子になる。
    ・源次郎の従弟、鳥居新三郎《引拙》(1448-1517.20)が弟子になる。
1468年 伏見屋銭泡、珠光の元で全財産を使い果たして旅に出る。 46歳
    珠光、還俗して、村田珠光を名乗る。
1470年 金春禅竹(1405-1470)没す。 48歳
1471年8月 能阿弥、大和長谷寺にて没す。 49歳
1473年 曾我墨溪(1392-1473)没す。 51歳
    ・古市澄胤(1452-1508.22)が弟子になる。
    ・西福院(1451-1513.23)が弟子になる。
1474年9月 澄胤を連れて、飯道山の祭りに来る。風眼坊と出会う。 52歳
1474年10月 小野屋と共に、加賀本泉寺に行き、蓮如と出会う。
1476年 ・松本珠報(1427-1498.50)弟子となる。 54歳
1476年11月 将軍の室町殿が焼け、富子は義政のいる小河邸に入る。
1477年11月 応仁の乱終わる。 55歳
1478年 京に戻り、珠光庵に住む。珠報も供をする。 56歳
1479年 ・堺の天王寺屋津田源三郎《了専》(1459-1534.21)が弟子になる。 57歳
1481年 一休没す。 59歳
1482年2月 将軍義政、東山山荘の造営を始める。 60歳
1483年 ・堺の誉田屋宗宅(1462-1530.22)が弟子になる。 61歳
    ・堺の竹倉屋紹滴(1468-1529.16)が弟子になる。
1483年6月 将軍義政、東山山荘の常御所に移る。
1485年 前将軍義政、臨川寺三会院にて得度し、喜山道慶と称す。 60歳
    この日、義政は茶の湯の座敷から上段の間をなくす。
    『珠光の茶の湯完成する』
1490年 将軍義政没す。珠光は奈良の独炉庵に隠棲する。 68歳
    ・尊行院(1459-1527.32)が弟子になる。
    ・四郎《宗珠》(1470-1535.21)が弟子になる。
1493年 一休十三回忌に出席。 71歳
1502年5月 没す。独蘆軒南星珠光西堂 80歳


◇弟子
足利義政 津田宗柏(天王寺屋) 津田了専 志野宗信 石黒道提 篠道耳 誉田屋宗宅 尊行院 一路庵禅海 西福院 竹倉屋紹滴 松本珠報 牡丹花肖柏 古市澄胤 粟田口善法 鳥居引拙 村田宗珠 珠徳
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