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陰流の開祖であり、忍びの術の開祖でもある愛洲移香斎の物語です。
11.松岡寺2






 山田光教寺より東へ一里程行くと、柴山潟(シバヤマガタ)と呼ばれる湖に出る。加賀三湖の一つで、柴山潟の北には今江潟があり、東には木場潟と呼ばれる湖があった。

 現在、柴山潟は半分以上埋め立てられ、今江潟はすべて埋め立てられ、木場潟も埋め立てられて小さくなっている。埋め立てられた所は水田となっているが、当時、この辺りは葦(アシ)の生い茂る湿地帯だった。

 湖には潟(カタ)の衆と呼ばれる漁師や湖上運送に携わる者たちが住み、小舟を自由に操って行き来していた。この者たちはほとんどの者が、かつては時宗の徒であったが、今は本願寺の門徒になっていた。

 木場潟の最南端、波倉の地に高田派門徒の最初の攻撃を受けた本蓮寺があり、木場潟に沿って、一里程、北東に富樫幸千代が本拠地とする蓮台寺城があった。そして、本蓮寺より東に一里程の所に松岡寺がある。また、松岡寺と蓮台寺城との距離も一里程だったが、その間にちょっとした山があって遮られていた。

 蓮如の供をした風眼坊の一行は柴山潟沿いの湿地帯を歩いていた。

「風眼坊様、この辺りには敵はいないでしょうね」とお雪が前を行く風眼坊に声を掛けた。

「分からんのう。しかし、気を付けた方がいいのう」

「富樫次郎は今、どこにいるのでしょう」

「それも分からんのう。しかし、次郎は大軍に囲まれておる。心配しなくても見つかる事はあるまい」

「そうですね‥‥‥」

 風眼坊は筒袖(ツツソデ)にたっつけ袴を着て、笠を被り、腰に小刀を差し、六尺棒を突いていた。

 お雪は吉崎に潜入して来た尼僧の持っていた吹矢と愛用の笛を帯に差し、笠を被って、杖を突いていた。

 蓮如は手拭いで頬被りをして、さらに笠を被り、使いなれた杖を突き、十郎は小刀を差し、背中に荷物を背負い、半弓を構えていた。

 この辺りは葦がそこら中に生えていて視界が効かなかった。こんな所に敵がいるとは思えないが、戦場からはぐれた敵と遭遇する可能性はあった。一行は周囲に気を配りながら進んで行った。

 先頭を行く風眼坊が急に足を止めた。

 水辺の側に一人の男が倒れていた。甲冑も着けず、武器も持っていなかったが、武士に違いなかった。

「死んでいるのでしょうか」とお雪が恐る恐る覗いた。

「南無阿弥陀仏」と蓮如が唱えた。

 風眼坊は近くまで行って調べた。

「傷はないようじゃのう」

「溺死ですか」と十郎が聞いた。

「いや、そうでもないようじゃ」

 風眼坊が倒れている武士に触れて調べていると、武士は急に動いた。

 お雪が悲鳴を上げた。

「どうやら、生きておるようじゃ。しかも、かなり酒臭い」

「何じゃ。ただの酔っ払いか」と蓮如は言った。

「らしいな」風眼坊が武士の頬をたたくと、武士は目を覚ました。

「ここはどこじゃ」と寝ぼけた声で言った。

 武士は起き上がると、「喉がカラカラじゃ」と言って、湖に顔を付け、水をたらふく飲み込んだ。

 武士は名を疋田豊次郎(ヒキタブンジロウ)といい、富樫次郎政親の家臣だと言う。

 豊次郎は河北郡倉月庄疋田郷の郷士で、代々、富樫家の家臣だった。豊次郎が生まれた頃、富樫家は二つに分裂し、幕府首脳部の細川、畠山の勢力争いも絡んで戦に明け暮れていた。文安四年(一四四七年)、豊次郎が四歳の時、両派は和解し、北加賀の半国守護として富樫次郎成春(シゲハル)、南加賀の半国守護として富樫五郎泰高(ヤスタカ)となった。疋田氏は富樫次郎成春の家臣となった。

 長禄二年(一四五八年)、北加賀守護の富樫次郎成春は、度重なる荘園横領によって守護職を解任され、北加賀の守護職は赤松次郎政則に与えられた。この交替劇の裏には、幕府首脳部の細川と畠山の権力争いが関係していた。三年前に畠山左衛門督(サエモンノカミ)持国が死亡し、畠山派だった成春が追放され、細川派の赤松が送り込まれて来たのだった。当時、十五歳だった豊次郎は父と共に戦に出て、侵入して来る赤松勢と戦ったが、結局、土地を守るため、赤松家の被官とならざるを得なかった。

 寛正五年(一四六四年)、南加賀の守護、富樫五郎泰高は隠居し、成春の遺児、次郎政親が家督を継いで富樫家は一つになった。富樫家は一つになったが、成春派の家臣たちの多くは政親の家臣にはならず、表向きは赤松家の被官を装いながらも、赤松を追い出し、泰高派の政親を倒す事を心に決めていた。豊次郎は成春派の重臣だった本折(モトオリ)越前守と共に、次郎政親の家臣となり、幼い政親の側近に仕える事となった。

 応仁元年(一四六七年)、大乱が始まり、旧領を回復した赤松政則は加賀から出て行った。ようやく、富樫次郎政親は加賀一国の守護となる事ができたが、反政親派は、政親の弟、幸千代を擁して西軍となり、越前の朝倉と組み、北加賀に於いて蜂起した。当時、政親と共に京都にいた豊次郎は東軍となり、国元にいる父親及び一族の者たちは皆、西軍と言う形になってしまった。

 文明三年(一四七一年)、朝倉が東軍に寝返ると次郎政親は京から下向して加賀に入り、南加賀の守護所を占拠していた幸千代の軍を北加賀に追い返した。ところが、幸千代は朝倉に敗れた甲斐と手を組み、勢力を増し、去年の七月、とうとう次郎政親を加賀から追い出したのだった。

 山之内庄において、豊次郎は次郎政親方として幸千代方と戦ったが、攻めて来る敵の中には豊次郎の弟たちや幼なじみの者たちもおり、豊次郎に限らず、同族同士で敵味方となって戦っている者が多かった。

 豊次郎は途中で戦うのが嫌になり、戦場から離れて山の中へと入って行った。色々な事を考えながら山の中をさまよい、しばらくして山から出て来ると、すでに戦は終わり、次郎政親は越前に逃げていた。

 幸千代は軽海(カルミ)の守護所近くの蓮台寺の小高い山の上に城を築いて、本陣としていた。

 豊次郎は今更、幸千代方に寝返る事もできず、仕方なく越前一乗谷を目指して行ったが、途中、山代の湯まで来た時、湯女(ユナ)の誘いに負けて酒を飲み、やけくそになり、もう、どうにでもなれ、と毎日、酒浸りになった。持っていた銭も使い果し、太刀まで質に入れて飲んでしまい、あげくには遊女屋の用心棒となっていた。

 もう、豊次郎にとって富樫家の家督争いなど、どうでもよかった。しかし、富樫次郎政親が、ようやく越前から加賀に進攻して来たという事を耳にし、しかも、本願寺門徒が次郎方に付くと聞いて、居たたまれず遊女屋を飛び出して来たのだった。

 噂によると、次郎方が圧倒的に有利だと言う。幸千代方は本願寺門徒にやられるだろうとの事だった。幸千代方が負けるという事は疋田一族が負けるという事だった。一族が負ければ、当然、一族の土地は奪われる事になる。豊次郎一人が次郎方にいたとしても、一族の土地すべてを守る事はできないだろう。何とかしなければならないと思いながら、豊次郎は遊女屋を飛び出したが、どうしていいのか分からず、また酒にすがり、酔っ払いながらも、とにかく、次郎のもとに行こうと北を目指して歩き、柴山潟のほとりまで来て潰れてしまったのだった。

「それで、そなたは富樫次郎のもとに戻ってどうするつもりなんじゃ」と風眼坊は聞いた。

「分かりません。しかし、何とかしなければ‥‥‥」

「刀も飲んでしまわれたのですか」とお雪が聞いた。

「おっ」と豊次郎は腰を探ると、「らしいのう」と情けない顔をした。

「覚えておらんのか」と蓮如が聞いた。

「ああ、どこで、刀を酒に代えたのか、まったく覚えておらん」

「呆れた奴じゃのう」

「こんな所で寝ているなんて、ほんとに危険ですよ」

「分かっとる」

「それにしても、酒臭いのう」と風眼坊は鼻をつまんだ。

 豊次郎はフラフラした足取りで、一行の後を付いて来た。

 富樫次郎の陣に向かうにしても、こんなに酔っ払ったままで武器も持たずに行ったら、怪しまれるだけだった。それに、次郎がどこに陣を敷いているのかも分からない。とりあえず、風眼坊たちと共に門徒たちが陣を敷いている本蓮寺に行き、充分な情報をつかんでからの方がいいだろうという事になり、豊次郎も一緒に本蓮寺に向かっていた。

 本蓮寺に近づくにつれて、あちこちに旗指物(ハタサシモノ)が見えて来た。旗の色は様々だったが、どれも皆、南無阿弥陀仏と書いてあった。本願寺の門徒衆が陣を敷いていたのだった。

 門徒たちは様々な武器を手にして、古びてはいるが一応、皆、甲冑を身に着けていた。そして、彼らを指揮しているのは国人と呼ばれる在地領主、すなわち武士であった。武士たちは馬に乗り、色鮮やかな甲冑に身を包んでいた。彼らの中には丸めた頭に頭巾を被った者も何人かいた。

 この辺りに陣を敷いている者たちは、江沼郡から来た門徒たちで、まだ戦をしてはいなかった。

 一行は蓮如の書いた書状を見せながら門徒たちの陣を抜けて、本蓮寺へと向かった。

 本蓮寺は武装した門徒たちで溢れていた。

 今、現在、この本蓮寺が前線基地となっていた。続々と本蓮寺に江沼郡から兵糧米(ヒョウロウマイ)が運び込まれていた。

 本蓮寺は高田派門徒の最初の攻撃に会い、本堂、庫裏、蔵は破壊された後、火を掛けられて全焼してしまっていた。辛うじて山門だけが昔の面影を残していた。焼けた本堂の跡に仮の道場が建てられ、その道場の後ろに小屋が三つ建てられてあった。寺の回りは土塁が高く築かれ、その土塁の上に南無阿弥陀仏と書かれた旗が幾つも並んで立てられ、風になびいていた。

 本蓮寺の住持職は、越前超勝寺巧遵(ギョウジュン)の従兄弟(イトコ)に当たる蓮恵(レンエ)であったが、蓮恵は八年前に二十五歳の若さで亡くなってしまった。蓮恵の子の蓮心が跡を継いだが、蓮心はまだ十二歳だった。そこで、蓮如は異母弟の蓮照を後見として送り込んでいた。蓮照を大将として、勝光寺門徒の庄(ショウ)四郎五郎、柴山潟衆を率いる柴山八郎左衛門、浜方(ハマカタ)衆を率いる黒崎源五郎、塩焼き衆を率いる篠原太郎兵衛らの国人門徒が守っていた。

 風眼坊は本蓮寺において、一人の武将の怪我の治療を行なった。

 右足の矢傷で、大した治療もせずに放って置いたため、膿(ウミ)が出て、肉は腐りかけていた。すでに、毒が体に回って凄い熱だった。

 風眼坊は傷口を綺麗に洗ってみたが、すでに変色している足を見て、切らなければ駄目だと判断した。風眼坊は傷口の上を紐できつく縛り、側にいた武士から太刀を借りた。そして、蓮如と十郎とお雪に怪我人を押えさせ、一刀のもとに足を切り落とした。血の噴き出す切口に血止めの薬を塗り、毒消しの薬を飲ませた。

 大した武将だった。足を切り落としても、わめかず、気絶もしなかった。

 慣れた手付きで怪我人の治療をする風眼坊を見ていた蓮如、お雪、十郎の三人は驚きの気持ちを隠せなかった。

 三人共、風眼坊が医者に化けると言った時、本当に信じていたわけではなかった。山伏流に病人や怪我人の前で祈祷をして治すのだろうと思っていた。ところが、風眼坊の治療は現実的だった。傷口を洗い、症状を見極め、思い切った事に足を切り落としてしまった。

 足が切り落とされるのを目の前で見て、普通なら悲鳴を上げてしまうかもしれなかったお雪だったが、風眼坊の張り詰めた気持ちが、その場を覆っていたので、悲鳴を上げる事も忘れ、ただ一心に風眼坊のする事を手伝っていた。ようやく治療が終わり、風眼坊から「御苦労様」と言われた時になって、急に気が遠くなり、風眼坊の腕の中に倒れてしまったお雪だった。

 蓮如が蓮照には会わないと言うので、本坊の方には行かなかったが、柴山八郎左衛門から大体の状況を知る事ができた。

 今、本蓮寺周辺には江沼郡の光教寺、勝光寺、称名寺の門徒及び、能美郡の門徒、およそ五千人が待機していた。

 富樫次郎政親は越前の門徒衆を率いて、本蓮寺より木場潟沿いに北に十五町(約一、六キロ)程先の小高い丘に陣を敷いていると言う。その数、一万人余りで、木場潟の湖上には柴山潟衆、今江潟衆、木場潟衆、一千人が船の上で待機している。

 また、松岡寺には江沼郡の願成寺(ガンショウジ)、専称寺の門徒及び、板津(小松市)庄の門徒、大杉谷川沿いの川の民や山の民らが八千人程集まり、その中の一千人は本蓮寺と松岡寺の中央にある山の上に陣を張って蓮台寺城を見張り、三千人は前進して、一山越えれば、すぐに蓮台寺城の裏に出るという所まで進んでいた。

 一千人が陣を敷いている山の上は、かつて、幸千代方が陣を敷いて松岡寺を攻撃していたが、六月三十日の決戦の時、何人もの犠牲者を出しながらも何とか攻め落とし、敵を追い出す事ができた。この山を本願寺方が取った事によって、大分、有利になったと言えた。

 対する敵の高田派と幸千代連合軍は約二万の兵力を以て蓮台寺城を守っていた。

 そして、蓮台寺城より北東一里程の距離にある軽海の守護所には五千人余りの兵が守り、これに対して、本願寺方は軽海潟を挟んで対岸にある鵜川(ウカワ)浄徳寺に陣を敷いていた。越前超勝寺巧遵の兄で浄徳寺の住持である慶恵(キョウエ)を大将とし、山上庄(辰口町)の門徒、石川郡の手取川流域の河原衆ら七千人余りが対峙していた。

 また、河合藤左衛門率いる山之内(鳥越村)衆三千人も、富樫次郎方として浄徳寺と松岡寺の中間辺りに陣を敷いていた。

 この時点では、白山の衆徒は動いていなかった。白山としては今回の戦を富樫家の家督争い及び、浄土真宗内の勢力争いと見ていた。白山としては戦に参加する理由はなかった。次郎方からも、幸千代方からも、再三、誘いは来ていたが動かなかった。今回の戦に参加して勝ったとしても、大して得る物はなく、まして、負けてしまえば、加賀の国は浄土真宗一色になってしまう。絶対に負けるわけにはいかなかった。負けないためには強い方に味方するしかなかったが、今の所、どちらが有利という見通しがつかない。白山衆徒は武装して門前を守りながらも不気味に動こうとはしなかった。

 風眼坊たちは柴山八郎左衛門から状況を聞くと、松岡寺へと向かった。

 出発する時になって疋田豊次郎がいない事に気づいた。本蓮寺の門前町に入るまでは、確かに一緒にいた。そして、風眼坊が怪我人を診ている時には、どこに行ったのか、いなかった。辺りを捜してみたが見つからないので、一行は豊次郎を置いて行く事にした。もしかしたら、先に富樫次郎の陣に向かったのかもしれないと一行が本蓮寺を後にして歩き出した時、後ろから呼び止められ、振り返ると豊次郎がこちらに向かって走っていた。

 いつの間にやら甲冑を付け、太刀も帯びていた。右手には瓢箪(ヒョウタン)を持ち、風眼坊たちに追い付くと、「わしも連れて行ってくれ」と言った。

「どうしたんじゃ、その格好は」と風眼坊は聞いた。

「貰った」と豊次郎は笑った。

「門徒にか」

「ああ、気前がいいもんじゃ。ほれ、酒も貰ったわ」

「また、飲んでいるんですか」とお雪は豊次郎を睨んだ。

「そう、怒るな。別嬪(ベッピン)が台なしじゃ」

「付いて来るのは構わんが次郎殿の陣は北じゃぞ。わしらは、これから松岡寺に向かうんじゃが、それでもいいのか」

「おう。松岡寺も味方じゃろう。考えたんじゃがのう、わしは次郎殿に付いて戦うより、本願寺に付いて戦おうかと思っておるんじゃ」

「どうして」

「次郎殿に付いて戦うと、どうしても、幸千代方にいる同族と戦わなければならん。しかし、本願寺に付いて戦えば敵は高田派の門徒じゃろう。同族と戦わずに済むかもしれん」

「まあ、理屈はそうじゃが、高田派門徒と組んでいる幸千代方は、やはり、本願寺から見たら法敵と言う事じゃ」

「まあ、そうじゃが、わしら疋田一族の中にも本願寺の門徒になった奴が何人かおるんじゃ。奴らは、今まで、次郎殿を敵として幸千代殿に付いて戦をやって来た。しかし、今、本願寺が次郎殿に付いてしまった。幸千代殿に付いてしまった門徒たちはどうしておるのかと考えたんじゃ」

「成程な。と言う事は、あの蓮台寺城の中にも本願寺門徒がおるかもしれないと言うんじゃな」

「多分、おるはずじゃ。奴らは次郎殿を敵としてなら戦うだろうが、本願寺を相手には戦うまい」

「ふーむ。複雑な状況になっておるわけじゃのう」風眼坊はチラッと蓮如を見た。

 蓮如は豊次郎の顔を見つめていたが何も言わなかった。

「それで、おぬしは、どうするつもりなんじゃ」

「まだ、分からん」と豊次郎は首を振った。「分からんが、何としてでも蓮台寺城に籠もっておる同族の者たちを助けたい」

「おぬしの言う事を聞いておると、今回の戦では本願寺方が勝つと決め込んでおるようじゃが、どうしてじゃ」

「どうしたも、こうしたも、事実じゃろうが、違うのか」

「はっきり言うとな、今の所は互角じゃ」

「互角?」と豊次郎は怪訝な顔をした。

「そうじゃ。もしかしたら本願寺が負けるかもしれん」

「次郎殿が負けると言うのか」

「その可能性もありと言うのじゃ」

「うーむ、互角か‥‥‥」

「しかし、もし、敵の中に本願寺の門徒がおるとしたら勝つ見込みはある」と風眼坊は言った。「とにかく、松岡寺に行ったら、その作戦を考えよう」

「ちょっと、待て。作戦を考える? 一体、おぬしは何者じゃ」

「わしは医者じゃ」

「おぬしらはどうも怪しい。おぬしは医者には見えんし‥‥‥」

「正真正銘のお医者様です」とお雪が言った。「さっき、怪我人の治療をして来たばかりです」

「ほう、治療をね。そう言う別嬪の姉さんは何者なんじゃ」

「わたしはお医者様の弟子です」

「なに、弟子だ?」

「はい。修行中ですけど」

「そっちの目付きの悪い爺さんは何者じゃ」

「わしが目付きが悪いとな」

「ああ。見るからに盗賊の親玉という感じじゃ」

「盗賊の親玉か‥‥‥そいつはいい。この方はのう、庭師じゃ」

 蓮如に下男に化けてもらった風眼坊だったが、どうしても、蓮如を下男と呼ぶ事ができず、その時、ひらめいたまま、庭師と言ったのだった。

「庭師だ? 庭師がどうして医者と一緒にこんな所を歩いておるんじゃ」

「どちらも戦には欠かせんからじゃよ。庭師というのはのう、土木工事の専門家じゃ。番匠(バンショウ、大工)と共に陣を敷くのに欠かせんものじゃ」

「まあいい。おぬしらが何者であっても味方には違いあるまい。わしが怪我した時は姉さんに見て貰うかのう。よろしく、頼むわ」

「わたしの治療はちょっと荒いわよ。診てあげてもいいけど悲鳴なんか上げないでね」

「へっ、悲鳴なんか上げるか」

「お雪殿も言うのう」と風眼坊は笑った。

 一行はすでに戦地に入っていた。

 本蓮寺から松岡寺に向かう途中、幾つもの死体が転がっていた。身に着けていた武器や甲冑は勿論の事、着物まで剥がされて転がっていた。

 その死体は皆、敵方の者だった。本願寺方の死体は皆、引き取られて行ったのだろうが、敵方の死体は放ったままだった。最も、敵方の者が、ここまで死体を引き取りに来る事は不可能だったが、哀れなものだった。この暑さの中、放って置かれた死体は腐り、蛆虫(ウジムシ)がわき、異臭を放っていた。

 ただ、この哀れな死体たちにも廻向(エコウ)している者たちがいた。

 時宗の徒であった。彼らは柴山潟の近くの潮津(ウシオツ)の道場の者たちだった。今回の戦では、本願寺方となって出陣して来たが、たとえ、敵であろうと死んでしまえば仏様じゃ、見て見ぬ振りはできぬと、こうして、廻向して回っているのだと言う。

 蓮如はその事を聞いた時、自分が情けなく思われて来た。同じ、浄土宗でありながら、時宗の徒はこうして死者を弔(トムラ)っている。それに引き換え、本願寺の門徒たちは戦をして人を殺している。この辺りに転がっている死体は皆、本願寺門徒が殺したに違いなかった。しかも、身ぐるみまで剥がして‥‥‥

 確かに、蓮如は門徒たちに死者の弔い方は教えなかった。しかし、本願寺の門徒たちが殺し、そして、死んでしまった者をそのまま、放って置くとは何という事だろうか‥‥‥それに比べ、時宗の徒の死者に対する振るまい方はどうだろう‥‥‥

 今まで、蓮如は時宗の教えに反感を持って来た。純粋な浄土宗とは認めていなかった。しかし、教えは純粋でなくても、やっている事は、人間として当然の事ではないのだろうか、と思った。

 当時、死に対する穢(ケガ)れは、現代人が想像もできない程、嫌がられていた。

 現代では、宗教と言えば、どの宗派でも葬式をするが、当時、一般人の葬式を行なったのは時宗だけだった。身分の高い者たちは自分たちの菩提寺(ボダイジ)を持ち、そこの僧侶に行なわせた。しかし、僧侶とはいえ、死者に触れる事はなかった。直接、死者たちに触れるのは『清め』と呼ばれる者たち、あるいは、河原者と呼ばれる賤民(センミン)だった。彼ら賤民は差別されてはいても、穢れを清める特殊能力を持った者たちとして、死者を取り扱う際にはなくてはならない存在だった。それでは、一般人は死者をどうしていたかというと、ただ、決められた場所に捨てるだけだった。しかも、それは死の寸前であった。家の中で死んでしまうと家が穢れるというので、死ぬ前に外に出さなくてはならなかった。

 宗教は、かつて、生きている者たちのより所だった。やがて、寺院が土地を失い、勢力もなくなると、生き残る手段として檀家(ダンカ)の死者の弔いをやるようになり、現代では、仏教といえば葬式というようになって行った。

 蓮如はこの時、生きている者たちの事は勿論の事、死んで行った者たちも浄土に送らなければならないと改めて、思っていた。

 蓮如は時宗の僧と共に死者の廻向を始めた。風眼坊にも蓮如の今の気持ちは痛い程分かった。お雪と十郎、そして、豊次郎は死者に触れる事を嫌がったが、風眼坊が、わしの加持(カジ)で穢れは落としてやる、と言うと、まず、お雪が蓮如を手伝った。お雪がやっているのに、十郎と豊次郎が見ていわけにもいかず、十郎も豊次郎も死者に手を触れた。一同は時宗の徒と共に敵の死者を弔った。

 一行が松岡寺に着いたのは日が暮れる頃だった。

 皆、土と汗にまみれた顔をしていたが、晴れ晴れとしていた。





 疋田豊次郎は相変わらず、酔っ払っていた。

 松岡寺に来るまで、偉そうな事をまくし立て、たった一人でも敵地に乗り込んで、一族を救い出すとまで言っていた豊次郎だったが、松岡寺の陣中の中で酒を見つけると、門徒たちの中に入って行き、酔い潰れるまで飲んでいた。

 蓮如は松岡寺に着くと、途端に上人様に戻った。

 さっさと勝手知っている松岡寺の庫裏に上がり込み、驚いている回りの者たちを尻目に、息子の蓮綱を呼ぶと坊主共を集めろと命じた。

 蓮如は相変わらず、ぼろを纏っていたが、上人様として振る舞い、初めて、戦の指揮を執った。松岡寺にいる幹部連中を集めて、絵地図を見ながら、現在の状況と、これからの作戦を詳しく聞き、「負けてはならん。絶対に勝つのだ」と強い口調で言った。

 松岡寺は以前とまったく変わっていた。寺院と言うより、完全な城塞だった。

 松岡寺は大杉谷川を見下ろす小高い丘の上に建っていたが、大杉谷川から水を引き入れ、松岡寺の回りには幾重にも濠が掘られてあった。その濠の幅は三間(約五、五メートル)以上もあり、橋が架けられてあった。そして、濠の後ろには高い土塁が築かれ、松岡寺は勿論の事、多屋までが土塁に囲まれ守られてあった。その土塁の要所要所に見張り櫓(ヤグラ)があり、弓を構えた兵士が見張っていた。

 土塁に囲まれた松岡寺の境内には、以前、ちょっとした庭園だった所に、兵士の溜まる長屋が建てられ、米蔵の数も増え、弓矢がどっさりと積んである武器庫まであった。土塁の上には本蓮寺と同じく、南無阿弥陀仏と書かれた旗が幾つも刺してあり、風になびいていた。

 松岡寺の住持職の蓮綱は大将らしい甲冑を着て、立派な太刀を下げ、僧侶という身分も忘れて、自分が一軍の大将になったという事を誇りに思い、武将らしく振る舞っていた。先月の末、敵が攻めて来た時も堂々としていて大将らしく振る舞っていた。

 蓮綱は生まれながらにして本願寺の坊主だったが、元々、抹香(マッコウ)臭い事は性に合わなかった。幼い頃から山や川で遊ぶのが好きで、いつもガキ大将でいた。武士の子として生まれたかったと、何度、思った事だろう。武士として、一軍を率いる大将になりたいというのは子供の頃からの夢だった。しかし、その夢を諦めて、ここ、波佐谷松岡寺の住職となった。

 住職となっても、蓮綱はほとんど寺にはいなかった。いつも、山の中に入って布教活動を行なっていた。布教活動をするというより、寺の中にじっとしていられない性分だった。蓮綱は山や川に住む連中たちの中に入り、坊主としてというより、彼らの仲間といった方がいい程、溶け込んで行った。

 門徒を獲得するやり方は父親の蓮如そっくりだったが、蓮綱はそんな布教をしていた頃の父親を知らなかった。幼い頃より父親のもとを離れ、二俣の本泉寺に預けられた蓮綱にとって、蓮如の存在は父親と言うよりは本願寺の法主、上人様と言ったほうがピンと来た。そして、時折、見る父親は机の前に坐って、難しい本を読んでいるか御文を書いていた。蓮綱は蓮如が足を使って門徒を増やして行ったと言う事を何度か話には聞いていても、実際に目にした事はなかった。

 蓮如が突然、松岡寺に現れた時、蓮綱は軍配団扇(グンバイウチワ)を手にして床几(ショウギ)に坐り、大将として、どうあるべきかを一人、研究していた。そんな時、自分の名を呼ぶ蓮如の声を聞き、初め、耳を疑ったが、紛れもなく蓮如の声だと気づき、慌てて、軍配団扇をつかんだまま駈け出した。蓮如の姿を見て、驚き、そして、自分の姿を見て後悔した。

 蓮綱はまず、蓮如に怒鳴られるだろうと思った。本願寺の僧でありながら、甲冑に身を固めている自分の姿を怒るだろうと思った。蓮如が争い事を好まない事は昔から知っていた。それなのに自分は争い事の張本人のような格好をしていた。しかし、蓮如は蓮綱の姿について何も言わなかった。ただ、坊主たちを集めろ、と一言命じただけだった。

 この時、松岡寺にいた主な有力門徒たちは、まず、慶聞坊、そして、江沼郡から来た熊坂の願生坊と黒瀬藤兵衛、そして、大杉谷川流域の山の民の頭とも言える宇津呂備前守(ウツロビゼンノカミ)、金平(カネヒラ)金山の金(カネ)掘り衆の頭、猪股吉兵衛、板津(小松市)衆を率いる内山六郎右衛門だった。

 この時、内山六郎右衛門は本蓮寺と松岡寺の中程にある山の上に、宇津呂備前守と猪股吉兵衛は松岡寺より半里程北の江指の地に陣を敷いていたが、蓮如が来たと言うので、慌てて松岡寺に飛んで来たのだった。

 蓮如は皆を集めると、これからの作戦を聞いた。そして、一言、唸るように、「絶対に勝て!」と言った。そして、「早く勝って、さっさと、この戦を終わりにするんじゃ!」と付け足した。

 それは、たったの一度だけだった。次の日も、次の日も作戦会議は毎日行われたが、蓮如は顔を出さなかった。庫裏の一番奥の客室に籠もって、何かを書いていた。

 風眼坊とお雪は忙しかった。

 医者という触込みで松岡寺に乗り込んで来たため、毎日、引張り凧の忙しさだった。

 初めは、やはり、偉そうな武将の怪我の治療だったが、やがて、腕がいいとの評判が広まり、一般の門徒たちの治療もするようになって行った。そして、銭のない者からは無理に銭を取らないとの評判が広まると、いよいよ、大忙しとなって行った。

 実際、風眼坊は驚いていた。今までの情報からして、まだ、それ程の犠牲者は出ていないと思っていたのに、事実は門徒の中にもかなりの犠牲者がいた。そして、その犠牲者たちの話によると、戦死した者もかなりいるようだった。先月の十二日の本蓮寺襲撃の時の犠牲者は分からないが、先月の末の決戦の時の戦死者は少なくとも百人はおり、負傷者においては一千人はいそうだった。

 風眼坊はお雪と一緒に毎日、負傷者の治療をしたが、蓮如には喋らなかった。これ以上、蓮如を苦しめたくはなかった。

 それにしても、お雪はよく働いた。これが富樫次郎の側室だったお雪の方かと疑いたくなる程、別人のように負傷者たちの面倒をよく見ていた。本蓮寺では治療の後に気絶してしまったが、松岡寺に来てからはそんな事はなかった。本蓮寺の時より、ひどい負傷者もいたのに、お雪は目を背ける事もせず、風眼坊の言うままに治療の手伝いをしていた。

 風眼坊たちが蓮如と共に、この松岡寺にいたのは一月足らずだったが、誰ともなく、お雪の事を観音様と呼ぶようになっていた。風眼坊から見ても、確かに、お雪の負傷者に対する態度は観音様と言えるものだった。

 酔っ払いの疋田豊次郎はどうしたかと言うと、河北郡二俣本泉寺へと旅立って行った。風眼坊が、豊次郎を使って、敵の中にいる本願寺門徒を寝返させようと蓮如に持ちかけた。蓮如は話に乗って来た。

 幸千代に付いている武士たちは、ほとんどが北加賀の者たちだった。北加賀には本願寺門徒が多かった。彼らの身内の中に本願寺の門徒がいる可能性は高い。その門徒を利用して、敵の陣地にいる身内を寝返させるのだと風眼坊は言った。

 武士と言う者は土地を守るために戦をする。特に、在地の国人たちは自分の土地を守るために、その土地を保証してくれる者のために戦に出ている。負ければ、すべての土地を失う事になるので必死になって戦う。すべて、土地のためだ。その土地を保証してくれる者が、たまたま、富樫幸千代だったというだけで、彼らは幸千代方として戦っている。実際、彼らにとって、それは幸千代だろうが、次郎だろうが、どっちでもいい事だった。もし、本願寺が土地の保証をしてくれれば、それでも構わないはずだ。彼らにとって、一番、重要な事は自分の土地を保証してくれる者が戦に勝つ、と言う事だけだった。

 今の状態では、次郎と幸千代は五分五分の状態にある。しかし、河北郡の門徒が動けば、必ず、本願寺方、すなわち、次郎方が有利になる事は確かだ。そうなれば、北加賀の国人たちは土地を守るためには寝返る事もあるだろう。しかし、武士として寝返りを潔しとしない者もかなりいるだろう。そこで、彼らに逃げ道を与える。敵に寝返る事を潔しとしない者でも、本願寺門徒となる事によって、次郎を敵にするのは構わないが本願寺とは戦をしないという事で、幸千代の陣から引き上げる事ができる。そして、土地を本願寺に寄進すれば、その土地は本願寺の荘園となり守護不入の土地となる。本願寺が負けない限り、次郎が勝とうが幸千代が勝とうが、土地を取られる事はなくなるというわけだ。また、敵の中には武士たちに率いられて戦に来ている百姓たちもかなりいる。彼らの中には必ず、本願寺の門徒がいるに違いない。強制的に駆り出されて、兵となっている門徒たちがかなりいるはずだ。彼らも助け出さなくてはならない。

 風眼坊は、延々と蓮如を口説き、豊次郎をその寝返り作戦に使おうと提案した。

「本願寺が土地を持つのか」と蓮如は不満顔をした。

「門徒の土地です。本願寺が領主になって、今までより低い年貢を取れば、百姓たちは喜びます」

「しかし、戦に勝つために、侍たちを門徒にするのはのう‥‥‥」

「今回の戦に勝つためです」

「‥‥‥しかし、あの疋田とかいう男は大丈夫なのか。いつも、酔っ払っておるようじゃが」

「大丈夫です。奴は、まだ、どうしたらいいのか悩んでおるのです。奴ははっきり言って純粋です。今のこの世について、奴なりに真剣に考えております。応仁の乱よりこのかた、将軍から下々の者まで同族同士、兄弟同士で争い、それが当たり前の世の中になっております。奴には、それがどうしてもできないのです。どうして、同族同士で争わなくてはならないのか、奴には分からず、つい酒に逃げてしまうのです。奴に、ちゃんとやり方を教えれば立派にやりとげるでしょう。その事はわたしが保証します」

「分かった。そなたの言う通りにしよう‥‥‥しかし、そなたは不思議なお人じゃ。そなた程の人が、どうして、いつまでもフラフラしておるのじゃろう。勿体ないのう‥‥‥」

 風眼坊は豊次郎に蓮如の書いた書状を持たせて、蓮崇のいる本泉寺に送った。

 書状には、この者、内密の使命を持って、本泉寺に遣わす。この者に協力して、本願寺に勝利をもたらすように願う、蓮如兼寿、と書かれてあった。





 朝から暑い一日だった。

 風眼坊と十郎は蓮如と同じ客室で寝起きしていた。

 松岡寺に来てから風眼坊は医者としての仕事が忙しく、蓮如の身を守るという使命は十郎に任せ切りだった。幸いに、この警戒厳重な松岡寺に忍び込む程の者もおらず、何事もなかったが、すでに、蓮如がここにいる事は敵も気づいている事だろう。安心はできなかった。

 風眼坊がまだ寝ぼけ眼(マナコ)でいる頃、お雪が風眼坊を呼びに来た。

 お雪は、ここに来てからというもの益々、生き生きとして張り切り、美しくなって行った。毎日、暑いというのに、一人で涼しい顔をして忙しく働いていた。

「分かった。ちょっと待ってくれ」と風眼坊は言うと井戸の方に向かった。

 朝日が輝き、今日も猛暑になりそうだった。

 最近、雨がまったく降らないので、辺り一面、乾燥しきっていた。

 風眼坊が井戸で顔を洗っている時だった。

「戦じゃ!」と叫びながら松岡寺の門に駆け込む者がいた。

 七月の二十六日、風眼坊たちがここに来てから半月程が経っていた。

 伝令の話によると、今日の早朝、蓮台寺城の城下において戦が始まり、今、決戦の最中だと言う。松岡寺からも至急、援軍を頼むとの事だった。

 伝令からの話を聞くと、蓮綱は出撃命令を下した。

 松岡寺に待機していた五千人のうち、二千人を松岡寺に残し、三千人を前線に向かわせた。前線に向かった三千人は江沼郡の門徒で熊坂願生坊と黒瀬藤兵衛が率いて行った。

「忙しくなるぞ」と風眼坊はお雪に言うと、お雪に薬の調合を命じ、薬を仕入れに町に出掛けた。

 いよいよ、決戦か‥‥‥戦の勝利よりも犠牲者が余り出ない事を風眼坊は願った。

 風眼坊は門徒たちの怪我の治療をしてから、信仰の強さというものを改めて知った。門徒たちはどんなに苦しい時でも、念仏を唱える事によって、それに耐えて来ていた。彼らにとって、どんな麻酔薬よりも、念仏の方が効くといってもいい程だった。

 この念仏が戦場において使われた場合、集団催眠にかかり、命ぜられるままに敵に突進して行くという事になる。味方が有利の場合、それは物凄い効果を現すだろう。ところが、不利になって来た場合、それは自殺行為に等しく、大量の犠牲者を出してしまう事になる。そんな事にならないように願いながら、風眼坊は前線に向かう兵士たちを見送った。

 この日より十日程前、河北郡の門徒がようやく動き始めていた。

 二俣本泉寺を初め、鳥越弘願寺(グガンジ)、木越(キゴシ)光徳寺、磯部聖安寺(ショウアンジ)、英田(アガタ)広済寺、そして、石川郡の吉藤(ヨシフジ)専光寺、宮腰迎西寺(ミヤノコシギョウサイジ)、大桑善福寺(ゼンプクジ)、それらの門徒、総勢一万二千余りが動き出した。

 彼らはまず、幸千代の本拠地である野々市(ノノイチ)の守護所を襲い、敵を追い出して占領した。そして、野々市に本陣を敷き、幸千代の家臣たちの領地を次々に攻めた。兵力となる者たちが皆、南加賀に出陣しているので、留守兵の守る敵の城や館はたやすく落とす事ができた。

 蓮如の書状を持って、本泉寺に向かった疋田豊次郎は蓮崇と会って作戦を検討し、敵の中にいる同族を寝返えさせるために倉月庄疋田郷(金沢市)に帰って行った。

 久し振りに故郷に帰った豊次郎は年寄り衆を集め、早速、本願寺側の提案を伝えた。年寄り衆は豊次郎の言う事になかなか賛成しなかったが、本願寺門徒によって野々市の守護所が占拠されたという事を知ると、本願寺の実力を思い知り、豊次郎の言う事を聞かざる得ない状況に追い込まれて行った。本願寺の門徒にならない限り、疋田郷にも門徒たちは攻めて来るのは確実だった。一万もの大軍に攻められたら、ひとたまりもなかった。

 豊次郎の提案に賛成して本願寺の門徒となったのは疋田氏だけではなかった。木越光徳寺の近くを領する大場氏、磯部聖安寺の近くを領する諸江氏は、すでに門徒となっていたが、やがて、山本氏、中原氏、千田氏、高桑氏、浅野氏ら倉月庄の有力な郷士、ほとんどの者が本願寺の門徒となって行った。そして、彼らは戦場に出ている自分たちの身内を連れ戻すために使いの者を送った。

 二十六日の早朝、決戦が始まると、倉月庄の郷士たちは野々市を占拠している本願寺門徒を倒すという名目で、さっそうと蓮台寺城を出ると、さっさと郷里に帰ってしまった。その兵は、そのまま本願寺の兵力となり、自領を拡大するために幸千代方の武士たちの領地の侵略横領を開始した。

 また、遊撃軍として各地の高田派の寺院を襲っていた慶覚坊、蛭川新七郎、安吉源左衛門、高坂四郎左衛門らの成果も現れ、寺院を破壊され、追い出された坊主や門徒たちは皆、蓮台寺城へと逃げて行った。蓮台寺城では倉月庄の者たち二千人余りが減ったが、各地から、寺を追われた高田派の坊主や門徒たちが皆、集結して来た為、以前以上の兵力となっていた。

 決戦は二十六日の朝から二十八日の日暮れまで、丸三日間、行なわれた。

 松岡寺にいた風眼坊には、はっきりした情報はつかめなかった。噂では、二十六日の早朝、次郎の方から仕掛けたと言う。木場潟の東岸及び、軽海の守護所を囲む軽海潟の西岸の二ケ所において三日間、戦は行なわれたが、結局、決着は着かなかった。

 木場潟の合戦では、初日は次郎政親、本願寺方が有利に展開して行った。しかし、二日目には幸千代方の総攻撃に合い、しかも、山から降りて来た敵に側面から攻撃され、味方は分断されて混乱に陥り、辛うじて本蓮寺まで退却した。やっとの思いで本蓮寺にたどり着いた次郎は部下たちを怒鳴り散らし、越前に帰ると喚いていたと言う。

 三日目、本蓮寺の近くまで陣を進めた幸千代方の守護代、額熊夜叉(ヌカクマヤシャ)は一気に本蓮寺を潰しに掛かって来た。本蓮寺はもう少しのところで落城だったが、手薄になっていた蓮台寺城を宇津呂備前守率いる本願寺門徒が搦手(カラメテ)から襲い掛かり、城に火を掛けた。本城を襲われた熊夜叉は、あと寸前で落とせる本蓮寺の攻撃を諦め、蓮台寺城に引き上げて行った。蓮台寺城を攻めていた本願寺方も深入りはせずに引き上げた。

 次の日、幸千代方は蓮台寺城の防備を固め、本願寺方は本蓮寺の防備を固め、お互い、守りを固めるだけで攻撃には出なかった。そして、また、膠着(コウチャク)状態へと入って行った。

 一方、軽海潟の合戦では西岸において、守護所を守る幸千代方の狩野(カノウ)伊賀入道と浄徳寺に集結している門徒たちの間で行なわれ、一進一退という有り様だったが、本願寺方はじわじわと敵を包囲し、守護所と蓮台寺城との連絡線を断ち、孤立させて行った。

 狩野伊賀入道は早くも守護所に立て籠もり、籠城作戦に入って行った。

 この二ケ所の合戦だけを見ると五分五分というところだったが、加賀国全体に目をやると圧倒的に本願寺方の有利に展開していた。蓮台寺城を守る武士にしても、高田派門徒にしても、すでに帰る所がなくなっていた。もう、後がないといえた。

 高田派の坊主及び門徒たちは憎き本願寺を倒すために必死だったが、幸千代というよりも、守護代の額熊夜叉に付いて来た国人たちの中には、北加賀にいる家族たちの事を心配し、寝返った倉月庄の郷士たちの噂を聞いて、心のぐらついて来ている者も多かった。

 敵を内部から崩すために、慶覚坊は高田派の寺院を破壊するだけでなく、寺から追い出された高田派門徒に化けさせて、本願寺の門徒を蓮台寺城に送り込み、敵の心を動揺させる噂を流していた。

 蓮崇は寝返った倉月庄の郷士たちを使って、大野庄(金沢市金石町周辺)、安江庄(金沢市安江町)、押野庄(金沢市押野町)、大桑庄(金沢市大桑町)などの国人たちの寝返りを勧めていた。

 幸千代方の蓮台寺城は内部から、少しづつ崩壊への道へと進んでいた。

 本願寺が様々な戦略を駆使している時、幸千代方は何もしなかったわけではなかった。しかし、本陣とした蓮台寺城の場所が悪かった。元々、幸千代の本拠地は北加賀の野々市だった。次郎を追い出すため南加賀に進出して、次郎を追い出す事に成功すると南加賀に腰を落着けてしまった。

 幸千代方としては蓮台寺城を本拠地にして、加賀の国を一つにまとめて行くつもりだった。越前の甲斐八郎が幸千代のもとにいた時は西軍という立場もあり、加賀の国を一つにまとめられそうな兆しはあった。ところが、国内を統一する前に甲斐八郎が朝倉弾正左衛門尉と和解してしまい、越前に引き上げてしまった。そして、今まで押えていた高田派門徒が蜂起し、それを合図のように、次郎と本願寺が手を結び、幸千代に対抗して来た。幸千代は高田派と組み、敵を倒す決意をした。

 一気に倒してしまうつもりだった。しかし、敵はなかなか、しぶとかった。つい、目の前の敵の事しか頭が行かず、改めて北加賀に戻って、戦陣を立て直すという事ができなかった。そうこうしているうちに北加賀は本願寺門徒に占領されるという有り様となり、戻る事ができなくなっていた。

 幸千代の守護代、額熊夜叉は本拠地を本願寺にやられた事を知ると、能登、越中の西軍に援軍を頼み、越前の甲斐八郎にも援軍を頼んだ。

 甲斐八郎と朝倉弾正左衛門尉は和解した時、お互いに加賀の事には干渉しないという取り決めをしていた。甲斐も朝倉も加賀に兵を送り込まなかった。

 能登(石川県北部)も越中(富山県)も隣国の騒ぎに干渉する程の余裕はなかった。越中でも加賀と同様に、畠山家の分裂で国内が二つに割れて争っていた。能登も同様だった。幸千代を助ける為に英雄気取りで出陣したら、たちまち留守を狙われ、それこそ自分らが帰れなくなってしまう。加賀が東軍側になってしまうと京への陸路が閉ざされてしまうので、何とか助けてやりたいとは思うが、能登の守護代の遊佐(ユサ)美作守も、越中の守護代の遊佐河内守も、すぐに動く事はできなかった。

 松岡寺の多屋には前線から続々と負傷者が送られて来た。とても、風眼坊とお雪の二人だけでは間に合わず、多屋の内方(ウチカタ)衆(妻や娘)にも手伝ってもらい、蓮如も出て来て手伝ってくれた。今回の三日間の合戦において、敵の犠牲者の数は分からないが、本願寺及び次郎方では死者は五、六百人、負傷者は二千人余りにも達していた。風眼坊とお雪たちが面倒みたのは、その中のほんの一部に過ぎなかった。
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