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陰流の開祖であり、忍びの術の開祖でもある愛洲移香斎の物語です。
9.小河屋敷






 ひばりが鳴きながら飛んでいる。

 庭先に咲く菜の花には、紋白蝶が飛び回っている。もうすぐ、桜の花の咲く時期だった。

 早雲は二人の弟子を連れて、久し振りに早雲庵に戻って来ていた。

 誰もいないはずの早雲庵には、相変わらず、住み着いている者たちがいた。ところが、今回、住み着いている者たちは、いつもと趣(オモムキ)の変わった者たちだった。人相の悪い連中たちが早雲庵を占領していた。

 住み着いていたのは二年前に早雲庵を襲った山賊たちだった。在竹兵衛(アリタケヒョウエ)と名乗る頭の率いる十三人の山賊たちが早雲庵を占領していた。

 在竹兵衛は早雲の顔を見るとニヤッと笑って、「遊びに来たぜ」と言った。

 早雲は山賊たちを見回した。

 皆、ニヤニヤしながら早雲を見ていたが、何となく、その目付きは以前のように凄みはなく、穏やかに感じられた。

「よく来たな、と歓迎したいところじゃが、悪いが、今は遊んでおる暇はないんじゃ」

「まあ、そう言うな」と在竹もニヤニヤした。

 早雲が庵の中に入って行くと、皆、ぞろぞろと付いて来た。

 早雲が囲炉裏の側に腰を下ろすと、在竹は正面に座り、他の者たちは土間に座り込んだ。

「何の真似じゃ。何もそんな所に座らなくてもいい。好きに上がれ」と早雲は言ったが、山賊たちは土間に座ったまま早雲を見上げていた。

「おぬしが忙しい事は知っておる」と在竹は言った。「わしらも仲間に入れて貰おうと思って、こうしてやって来たわけじゃ」

「仲間に? 何の仲間じゃ」

「とぼけるな。おぬしが何やら動いている事は知っておる。それも、わしらがやってるような、けちな事じゃねえ。どでかい事をやっておるんじゃろう」

「どでかい事か‥‥‥そうかもしれんが、今のところ、山賊は間に合っておる」

「まあ、最後まで話を聞いてくれ。わしらも初めから山賊だったわけじゃねえ。成り行きに身を任せていたら、こうなっちまったというだけじゃ。わしらは皆、元は武士じゃ。戦で主家をなくして、食い詰め浪人となったんじゃ。似た者同士が集まって、山賊稼業を始めた。自慢するわけじゃねえが、わしらは今まで弱い者いじめをした事はねえ。狙う相手はいつも、あくどい奴ばかりじゃ。わしらも初めのうちは、それで満足していた。わしらのお陰でちったあ、今の世がましになるじゃろうと思ってな。しかし、せこい事をやっておる事に気づいたんじゃ。小悪党をやっつけた所で世の中が変わるわけがねえ。そんな事はただの自己満足に過ぎねえってな‥‥‥山の中に隠れて暮らすのにも飽きて来たんじゃ。つまらん事で死んだ仲間も何人かいた。くだらん死に様じゃた。どうせ死ぬのなら、もっと、どでかい事をやりたくなったんじゃ。そこで、こうして、ここに来たわけじゃ」

「どでかい事をするのに、どうして、ここに来るんじゃ」

「わしらも馬鹿じゃねえ。今、駿府(スンプ)のお屋形で何かが起きてるという事は気づいておる。何が起きてるのか知らねえが、ただ事ではねえ事は確かじゃ。今川家の重臣たちが皆、駿府に集まり、一向に帰る気配がねえ。戦の作戦でも練っておるのかとも思ったが、どうも、そうじゃねえらしい。となると答えは一つ、お屋形様の身に何かが起こったに違いねえ。お屋形様が寝込んだとなると、家督争いが起こるのは確実じゃ」

「おい、待て、どうして家督争いが起こるのが確実なんじゃ」

「そんな事は誰でも分かるわ。お屋形様の嫡子、竜王丸殿はまだ六つじゃと聞く。そして、お屋形様の下には二人の弟がおる。その二人の仲が悪い事は評判じゃ。仮にお屋形様の座は竜王丸殿に決まったとしても、その後見役を誰にするかというので争いは始まる。それに、今の地位に不満のある重臣どもが、お屋形様に気に入られていた重臣たちと対立するのも目に見えておるわ‥‥‥そこで、わしらはここに来てみた。おぬしがここで、のんびり昼寝でもしておれば、わしらの勘ぐりははずれた事になるが、もし、おぬしがいなかったら、家督争いが始まったに違いねえとみたんじゃ‥‥‥案の定、ここには誰もいなかった‥‥‥」

「成程な」と早雲は在竹を見ながら苦笑した。

「早雲殿、おぬしは不思議な男じゃのう」と在竹は言った。「二年前、初めておぬしと会った時、何となく、おぬしとは縁がありそうな気がしたんじゃ。それはわしだけではない。おぬしたちに打ちのめされた奴らも、おぬしを恨むどころか、事ある事におぬしの噂をしておったわ‥‥‥時折、駿河に戻って来て、わしらは遠くからここを見る。いつも、大勢の者たちに囲まれて楽しそうにやってるおぬしを見て、皆、心の中では自分もあの中に入りたいと思っていたんじゃ。しかし、口に出す者はいなかった。そして、今回、駿府のお屋形がおかしいと気づいた時、誰もがここに行こうと言い出した。おぬしが何かを始めていたなら、おぬしを助けようと全員の意見が一致したんじゃよ。わしらみんなが、おぬしならきっと何か、でかい事をやるに違いねえと思ったんじゃ‥‥‥早雲殿、頼む、わしらの頭になってくれ」

 在竹兵衛は姿勢を改めると頭を下げた。

 在竹の後ろに控えていた十三人の男たちも一斉に、「お願いいたします」と頭を下げた。

 早雲は山賊たちを見回した。

 山賊たちは早雲の返事を待って、早雲の顔を見つめていた。一癖も二癖もありそうな人相が並んでいたが、早雲を見つめる目は真剣だった。皆、本心から早雲のために命を賭けようとしている事が伝わって来た。

「確かに、今、わしは人手が欲しい。本当にわしのような者について来てくれるのか」

 在竹兵衛は早雲を見つめながら頷いた。

 早雲も頷き、「分かった」と言った。「みんなの命はわしが預かる事にする」

「やった!」と山賊たちは両手を上げて喜び合っていた。

「ただし」と早雲は付け足した。「今のわしは竜王丸殿の執事という事になっておるが、領地というものは持っておらん。おぬしたちを食わして行く事はできん。わしが今まで、この地で生きて行く事ができたのは、この辺りの村人たちのお陰なんじゃ。村人たちの相談に乗ってやり、その見返りとして食べ物を貰って来た。おぬしたちもここにおる限りは村人たちの役に立ってくれ。それができない者はここから去る事じゃ」

「それは大丈夫じゃ。もう実行している」と在竹は言った。

「なに?」

「早雲殿が留守の間、色々な者が訪ねて来たが、奴らなりに結構、相手をしておったわ」

「ほう、村人たちが怖がって誰も近づかなかったに違いないと思っておったが、相変わらず、来ておったのか」

「ああ。朝早くなど起きた事のない連中が、海に行って漁の手伝いをしたり、湊の荷揚げの手伝いに行ったり、村に行って垣根を直したり、毎日、慣れない事に汗をかいて働いておる。ここにいる限り、早雲殿の顔を汚すわけには行かんからのう。今まで、人のために何かをやるなんて、した事のない連中じゃが、結構、楽しくやってるようじゃ」

「そうか」と早雲は土間に座っている者たちの顔を眺めた。確かに、以前と目つきが変わっていた。村人たちのために働いていたのは本当のようだった。

「そこまでやってくれておるなら、充分にここにいる資格はありじゃ。みんな同じ仲間じゃ。よろしく頼むぞ」と早雲は彼らに頭を下げた。

 正式に、早雲から早雲庵にいる事を許された山賊たちは、早雲庵の南側の一段低くなっている地をならして自分たちの住む庵を建て始めた。早雲は、何も改めて庵を建てる事などない。部屋は空いているのだから、そこを使えばいいと言ったが、古くからここにいる者たちの部屋を占領するわけにはいかないと、早雲が帰って来てからは、一度も、部屋の中で寝ようとはしなかった。仕方なく、早雲も許して、彼らは庵を作り始めた。

 朝早くから日が暮れるまで汗を流しながら庵作りをしている山賊たちを見ながら、変われば変わるもんじゃ、と感心しながら早雲は眺めていた。村人や湊の人足たちも手伝いに来て、和気あいあいと仕事に励んでいた。

 在竹兵衛率いる山賊たちは皆、おかしなあだ名で呼び合っていた。在竹の事は皆、お頭と呼び、在竹の言う事には絶対に逆らわなかった。確かに、在竹は頭と呼ばれるだけの凄みと貫禄があった。二年前、早雲たちを宇津ノ谷峠で襲った四人組は、『師匠』『薬師(クスシ)』『造酒祐(ミキノスケ)』『軍師』と呼ばれていた。

 富嶽に槍を奪われた男は薬師と呼ばれ、山菜や薬草に詳しいらしい。食う物がない時は、薬師が山菜を取って来てくれたので助かったと言う。

 山羊髭(ヤギヒゲ)の男は師匠と呼ばれ、色々な事を知っているらしい。

 腕をポリポリ掻く癖のある男は軍師と呼ばれ、いつも、この男が作戦を立てて、人を襲っていたと言う。

 多米(タメ)にやられた剣術使いは造酒祐と呼ばれ、酒なしではいられない呑兵衛(ノンベエ)だった。その他に、今回の庵作りの中心になっている『普請奉行(フシンブギョウ)』と呼ばれる男や、下手な狂歌を歌う『雅楽助(ウタノスケ)』、銭勘定(ゼニカンジョウ)の達者な『勘定奉行』、坊主頭に数珠(ジュズ)を首から下げている『入道』、下手な笛を吹く『笛吹き』、物真似上手な『猿楽(サルガク)』、柄(ガラ)にもなく字がうまい『祐筆(ユウヒツ)』、喧嘩っ早い『喧嘩屋』、左利きの『ぎっちょ』がいた。皆、一癖も二癖もある面白そうな連中だった。

 早雲庵は相変わらず、賑やかだった。





 北川殿に河原者たちの襲撃があってから三日が過ぎた。

 北川殿母子はひそかに駿府屋形から逃げ出して、山西(ヤマニシ)の長谷川次郎左衛門尉(ジロウザエモンノジョウ)の小河(コガワ)の屋敷に避難していた。

 御番所に連れて行かれた河原者たちは、寺社奉行の三浦石見守(イワミノカミ)からの命令で取り調べを受ける事なく殺された。河原者たちの処分は寺社奉行の管轄だったが、御番衆が寺社奉行に知らせるよりも早く、寺社奉行から河原者たちを引き取りに来た。御番衆(ゴバンシュウ)は真相を突き止めるために引き渡す事を拒んだが、もし、今回の騒ぎが公に知れ渡った場合、事は重大な事となる、と言われ、拒む事はできなかった。

「北川殿が襲われ、北川衆が殺されたという事は、本曲輪の警固に当たっておった四番組の名誉に関わるだけでなく、責任者の切腹という事も充分に考えられる事じゃ。また、当寺社奉行としても、河原者が北川殿を襲ったとなれば責任を取らなくてはならなくなる。そこで、今回の騒ぎはなかった事にする。北川殿を襲った河原者などおらなかったんじゃ。亡くなった北川衆は病死という事にする。勿論、これはわしだけの考えではない。上からの命令じゃ」と石見守は言って、河原者たちを引き取って河原に連れて行き、そこで首をはねてしまった。

 三浦石見守というのが、どこの派閥に属しているのか分からないが、小鹿逍遙の命令で動いたのに違いなかった。逍遙の立場からすれば、裏で糸を引いている者の正体は知りたいが、それが公表された場合、騒ぎが大きくなって、戦にまで発展してしまう事を恐れたのだった。北川殿が襲撃されたという事実は抹消された。

 河原者に腕の付け根を斬られた村田はその日のうちに出血多量で亡くなった。村田と中河の二人は病死という形で片付けられてしまった。

 早雲はその騒ぎの後、駿府屋形から去る事を決め、北川衆、侍女、仲居らを集めて、この先、さらに危険な事が起こるだろうから、去りたい者は遠慮せずに去るように勧めた。乳母の船橋と仲居の嵯峨の二人が北川殿から去って行った。あとの者はたとえ死んでも、北川殿と竜王丸を守ると誓い、留まった。

 北川殿はその日、浅間神社に今川家の安泰を願うためにと称して参拝に行った。北川殿母子は例の牛車(ギッシャ)に乗り、北川衆に守られて浅間神社に向かった。参拝の帰り、一行は小太郎の家に立ち寄った。北川殿の牛車がみすぼらしい小太郎の家に入ったので、何事だと回りの者たちが集まって来た。

「ここにおられる風眼坊殿というお方は、今でこそ、こんな町中に住んでおられるが、京の都でも有名なお医者様じゃ。北川殿は風眼坊殿がここにおられると聞いて、こうして、やっていらしたのじゃ」と門前で警固に当たっていた小田は説明した。

 町人たちは驚いて、家の中を覗こうとしたり、さっそく知り合いに知らせに走ったりして、やじ馬の数はどんどん増えて行った。

 北川殿は四半時(シハントキ、三十分)程して出て来ると、そのまま、お屋形内に帰って行った。

 北川殿がいなくなると小太郎の家は人で埋まっていた。今まで誰も見向きもしなかったのに、北川殿が一度、訪ねて来ただけで、これだけの人が集まるとは、やはり大したものだった。小太郎とお雪の二人はその日、大忙しだった。

 その頃、北川殿に戻っていたのは、北川殿に扮していた春雨と竜王丸に扮していた寅之助だった。本物の北川殿母子は町人の格好になって、小太郎の家の裏口から抜け出し、仲居の瀬川、早雲、富嶽、多米、荒木、孫雲、才雲に守られ、門前町を抜けて山西の長谷川次郎左衛門尉の小河屋敷に向かっていた。勿論、徒歩だった。北川殿にとって五里も歩くのは初めての事だったが、物見遊山(モノミユサン)をしているつもりになって楽しそうだった。美鈴も竜王丸も嬉しそうに走り回っていた。千代松丸も瀬川の背中で喜んでいた。

 その日は無理をせずに鞠子(マリコ)の斎藤加賀守の屋敷に泊まり、次の日、小河屋敷に着いた。

 小河屋敷は小河城、または長者(チョウジャ)屋敷とも呼ばれ、平地にあったが濠と土塁に囲まれ、本曲輪と二の曲輪に分かれた堂々たる城郭だった。東側の大手門から入るとそこが二の曲輪で、左側に大きな廐があり、曲輪内は塀で二つに分かれている。塀の中央にある中門をくぐると正面に大きな屋敷があり、右側には侍長屋があって、家臣を初め大勢の浪人たちが居候(イソウロウ)していた。二の曲輪にある屋敷には次郎左衛門尉の息子、伊賀守元長が住んでいた。伊賀守はまだ二十二歳だったが、次郎左衛門尉の跡継ぎにふさわしい文武共に優れた若者だった。

 本曲輪に行くには中門をくぐらず、塀に沿って真っすぐに進み、石段を登ると本曲輪の正門があった。本曲輪には主殿、客殿、庭園、常屋敷などがあり、裏の方には台所、蔵、遠侍(トオザムライ)、侍長屋などがあった。

 北川殿母子は客殿に入った。北川殿と共に来た仲居の瀬川は次郎左衛門尉の娘だった。

 瀬川は一度、嫁に行ったが亭主が戦死し、小河屋敷に戻って来ていた。そんな時、北川殿が京から来たため、北川殿に仕える事となった。瀬川がこの屋敷に帰って来たのは、三年振りだった。三年前に祖父が亡くなった時、休みを貰って帰って来たが、それ以来、なかなか帰って来る事はできなかった。瀬川は自分の実家で北川殿を守る事となり張り切っていた。

 北川殿を守って小河屋敷に来た富嶽、多米、荒木の三人は北川殿に戻り、代わりに春雨、寅之助、北川衆の吉田、山崎が小河屋敷に移った。侍女や仲居衆も何人かに分かれて、北川衆に守られて皆、小河屋敷に移動した。

 北川殿に残ったのは北川衆の小田、清水、小島の三人と侍女の菅乃、仲居の和泉、三芳、そして、富嶽、多米、荒木、荒川坊だけとなった。小田、清水、小島の三人は家族がお屋形内にいるため、簡単に小河屋敷に移る事はできなかったし、お屋形内の状況を知るためにも残っていた方が良かった。侍女の菅乃と仲居の二人も北川殿と一緒に行きいようだったが、客の取り次ぎをして貰うために侍女の一人は必要だったし、不意の客が訪ねて来た時、ちょっとした料理を出して貰うためにも、勝手をよく知っている仲居二人には残って貰った。

 小太郎とお雪の二人は北川殿が来て以来、町医者が忙しく、突然、閉めるわけにも行かないので、昼間は町医者をやり、夕方、客がいなくなると、こっそり、北川殿に来て朝になると、また家に帰って行った。

 北川殿が小河屋敷に移ったのは内密に行なわれ、この事を知っていたのは小河の次郎左衛門尉、斎藤加賀守、朝比奈天遊斎、五条安次郎の四人だけだった。他の重臣たちは北川殿が駿府から出て行くとは思ってもいなかった。長老の小鹿逍遙にも知らせようと思ったが、伜の新五郎に知られてしまう可能性もあるので、気が付くまでは知らせない事にした。

 北川衆、侍女、仲居衆たちの移動が無事に終わると、早雲は弟子二人を連れて早雲庵に帰り、駿府と小河屋敷の動向を見守っていた。弟子の二人はその日から交替で、小河屋敷と駿府を往復して状況を早雲に知らせるのが日課となり、早雲の方は以前のごとく、早雲庵を訪ねて来る者たちの相手をしていた。

 お屋形様の屋敷の評定は相変わらず進展しなかった。北川殿を襲撃した河原者を裏で操っていたと思われる天野氏も、あれ以来、鳴りを潜めているようだった。

 早雲が早雲庵に戻って来てから四日目、二月二十七日の夕方、中原摂津守の屋敷が燃えるという騒ぎが起こった。幸いに負傷者は出なかったが屋敷の半分以上が燃え、付け火の下手人は捕まらなかったという。中原摂津守は屋敷が焼けたため、お屋形様の屋敷に移ろうとしたが、小鹿新五郎、河合備前守らに止められ、仕方なく、本曲輪の南西にある客殿、清流亭に移った。

 北川殿における仲居の毒殺、小鹿屋敷の仲居の毒殺、北川殿の河原者の襲撃は消されたにしろ、続く、中原屋敷の火事と騒ぎが続いたため、本曲輪を守っている四番組の職務怠慢が話題となり、まだ、交替には早かったが、急遽、三番組と交替する事となってしまった。

 三番組の頭は葛山備後守(カヅラヤマビンゴノカミ)だった。小鹿派の中心、葛山播磨守の弟で、備後守率いる三番組は御番衆の中でも一番の兵力を持っていた。本曲輪の警固が代わった事によって、本曲輪内の動きがまったく分からなくなり、さらに三月になって、二の曲輪の警固が二番組に代わると二の曲輪の情報も入らなくなってしまった。

 二番組の頭は蒲原左衛門佐(カンバラサエモンノスケ)で、河合備前守派の蒲原越後守の弟だった。間違いなく備前守派で、北川殿に情報を流すはずがなかった。北川殿は孤立した状態となっていた。

 桜の花が満開となり、浅間神社の境内が花見客で賑わう頃となっても、今川家の跡目は決まらなかった。毎年、恒例のお屋形様主催の花見の宴も今年はなく、その頃になって、城下の者たちや浅間神社の門前町に住む者たちが、お屋形様の事を噂し始めた。

 お屋形では、戦での戦死者が予想以上に多かったため、今年の花見の中止にする、と触れさせたが、町人たちは、お屋形様の身に何かが起こったに違いないと噂し出した。亡くなったとは思ってはいないが、重い病気に罹って、寝込んでいるに違いないと思っている者が多かった。

 早雲庵に出入りする村人たちの噂にも、お屋形様の事が中心になっていた。訪ねて来る誰もが、お屋形様の事を心配して早雲に尋ねた。早雲はその度に、お屋形様は何でもない。今、遠江に進撃するための作戦を練っている。お屋形様は願をかけて、遠江の国を今川家のものにするまでは酒をお断ちになられた。お屋形様が酒を断ったので、重臣たちもそれに従ったため、今年の花見は中止となった。しかし、来年は盛大に花見を行なう事になろう、と嘘を付かなければならなかった。

 夕方になって孫雲が駿府から戻って来た。

 早雲庵にはまだ何人かの客がいた。早雲は客の相手を才雲に任せると、孫雲を春雨庵に誘った。

「何か変わった事が起きたか」と早雲は薄暗い庵の中で聞いた。

「特にこれといった事はありませんが、福島越前守(クシマエチゼンノカミ)の屋敷の出入りが激しい模様です」

「福島越前守の屋敷といえば、北川殿のすぐ近くじゃったな」

「はい。廐の屋根の上から正門を見る事ができます」

「うむ。どんな奴らじゃ」

「使いの者たちです。どこからの使いなのかは分かりませんが、今月になってから、やけに多くなって来ています。それと、御番衆の者たちも出入りしているようです」

「御番衆か‥‥‥葛山が陰で動いておるのか」

「分かりませんが、富嶽殿が言うには、葛山だけでなく、隣に屋敷のある岡部美濃守、そして、竜王丸派の朝比奈殿も越前守に誘いを掛けているようです」

「ほう、各派で越前守を取り合っておるのか」

「はい。越前守が動けば、庵原(イハラ)、興津(オキツ)、蒲原(カンバラ)も動く事となります。その四氏を味方に付ければ、どこの派閥でも有利となれます」

「ふむ。福島越前守か‥‥‥」

「越前守がどこに行くかで、局面はすっかり変わってしまうだろうと富嶽殿は言ってました」

「そりゃそうじゃ。越前守が備前守派から抜ければ、備前守を押す者は天野兵部少輔(アマノヒョウブショウユウ)だけとなる。その天野氏も本気で備前守を押しているようには見えん。可哀想じゃが、備前守は候補の座から降りる事となろう」

「そうなんですか」

「多分な」

「それと、天野民部少輔(ミンブショウユウ)が中原摂津守派の岡部五郎兵衛の屋敷に出入りしているようです」

「なに、天野民部少輔が岡部五郎兵衛の屋敷に?」

「はい。清水殿の屋敷のすぐ前が、岡部五郎兵衛の屋敷なんですが、暗くなってから天野民部少輔が岡部五郎兵衛の屋敷に入って行くのを門番が見たそうです」

「本人が直接にか」

「はい」

「民部少輔といえば竜王丸派じゃったな。それが摂津守派の岡部の屋敷に出入りしておるのか。分からんのう」

「噂によると天野民部少輔はかなりの女好きとの事です。富嶽殿の話ですと、弱い立場にいる摂津守派が、天野氏を寝返らせるために女を餌(エサ)に民部少輔を誘っているに違いないと言ってました」

「うむ、女で釣るか‥‥‥兄貴が福島越前を誘い、弟が天野民部を誘っておるというわけか‥‥‥岡部五郎兵衛は二の曲輪内に住んでおったのか」

「はい。小田殿の話によると、岡部五郎兵衛も元、御番衆の頭だったそうです」

「ほう。何番組じゃ」

「今、二の曲輪を守っている二番組です」

「蒲原越後じゃな」

「はい。岡部五郎兵衛が頭だった頃、蒲原は副頭だったそうです」

「ふーむ。つながりがあるわけじゃな。しかし、蒲原の兄貴は備前守派じゃのう。果たして、二番組の頭はどっちの派なんじゃろうのう。複雑で頭がおかしくなるわ」

「はい‥‥‥」

 早雲は腕を組んで、しばらく考えていたが、顔を上げると、「ところで、北川殿が消えた事はまだ、誰も気づいてはおらんな」と孫雲に聞いた。

「はい。北川殿を訪ねて来る者たちは決まっておりますから、それに、本曲輪の警固が三番組に変わってから、どこにも騒ぎは起こっていないようです」

「成程、葛山に警固が変わってから何の騒ぎも起きないという事は、今までの騒ぎに葛山も絡んでおったという事かのう‥‥‥しかし、天野と葛山とのつながりは今の所、ないんじゃろう」

「朝比奈備中守殿の話によると、天野氏同士も天野氏と葛山氏もまったく出入りはないそうです」

「そうか‥‥‥」

 御番衆の交替があって、今までのように情報がつかめなくなると、富嶽は二の曲輪内に屋敷を持つ北川衆の小田と清水の二人に二の曲輪の情報を探らせた。さらに、竜王丸派の福島左衛門尉、朝比奈備中守、今は勤務に付いていない四番組の頭、入野兵庫頭らも情報収集の手伝いをしてくれた。本曲輪でも竜王丸派の重臣たちが回りの屋敷の様子を探って、北川殿にいる富嶽のもとに情報を流してくれた。それらの情報は孫雲、才雲の二人によって、早雲庵にいる早雲のもとに届けられるというわけだった。

 早雲は、重臣たちの名が並んでいる例の紙を眺めながら、「待てよ」と言った。「葛山と天野はつながっておるかもしれん」

 孫雲もその紙を覗いたが、早雲の言う意味は分からなかった。

「長沢じゃ」と早雲は言った。

「長沢というのは、殺された大谷が出入りしていた所ですね」

「そうじゃ。奴は三番組の副頭で、天野氏の出身じゃ。三番組の頭は葛山じゃ。天野両氏と葛山播磨守は表立って会う事はないが、長沢を中継ぎとして通じておったんじゃ」

「長沢が中継ぎ‥‥‥」

「つまりじゃ、葛山播磨守が天野氏への言伝(コトヅテ)を弟の備後守に頼む、備後守は長沢に渡し、長沢から天野氏に伝わるという寸法じゃ」

「成程、そんなからくりだったんですか‥‥‥それで、長沢の屋敷に天野氏からの使いの者たちが頻繁に訪ねていたというわけですね」

「そうじゃな。長沢は葛山へと通じる入り口となっていたわけじゃ」

「でも、どうして、天野氏は表だって葛山と組まないのでしょう」

「多分、葛山と天野の狙いは、今川家に家督争いを起こさせる事じゃろう。今川家が家督争いを始めて勢力が弱まれば、お互いに得するからのう。葛山は今川家が争っておる隙に駿河の国を我物にしようとたくらみ、天野の方は遠江の国を我物にしようとたくらんでおる。家督争いを起こさせるには、お互いが同じ派閥に付くよりも、別々の派閥に付いて、戦をするように煽(アオ)った方がいいんじゃよ」

「そうだったのか」と孫雲は納得してから、「そいつは大変だ。早く、富嶽殿に知らせなくちゃ」と顔色を変えた。

 早雲は頷いて、「明日の一番に才雲に行って貰おう」と言った。

「俺が今、行って来ます」と孫雲は立ち上がろうとした。

「馬鹿言うな、途中で暗くなっちまうぞ」と早雲が止めたが、「大丈夫です」と言って孫雲は飛び出して行った。

「張り切っていやがる」と早雲は孫雲の後姿を見送りながら苦笑した。

 才雲が近づいて来て、孫雲はどこに行ったのかと聞いた。

「北川殿に忘れ物をして来たそうじゃ」と早雲は笑った。

「馬鹿な奴じゃ」と才雲は笑ってから、「ところで、早雲殿、姉御(春雨)はここに戻って来ないのですか」と聞いた。

「ああ。北川殿の侍女になっちまったからな。どうしてじゃ」

「姉御がいなくなったんで、飯の支度が大変なんですよ」

「山賊たちが手伝ってくれておるじゃろう」

「手伝ってはくれますが、はっきり言って、あいつら、うまい物を食った事、ないんじゃないですか。あいつらが作った物はまずくて」

「贅沢言うな。飯が食えるだけ、ありがたいと思え」

「しかし‥‥‥北川殿にいた時の事を思うと、うまい物が食いたいですよ」

「そうじゃな。北川殿の仲居の作った飯はうまかったのう」

「でしょう」

「飯炊き女を置く程、銭はないしのう、当分の間は我慢しろ。状況によっては、北川殿に戻るか、あるいは小河屋敷に行くかもしれん」

「ほんとですか」

「ああ。何が起こるか分からんが、何かが起こる事は確かじゃ。それまで、ここで剣術の腕でも磨いていろ。今度はかすり傷だけでは済まんかもしれんぞ」

「はい」と頷き、才雲は早雲庵の中に帰って行った。

 西の山に日が沈みかけていた。

 このままでは今川家の存亡に拘わる事となる。東の葛山、西の天野、両氏の思い通りに事を運ばせるわけには行かなかった。今川家を一つにまとめなければならなかった。今までのように、ただ、事の成り行きを見ているだけでは駄目だと思った。自ら動かなければならない時期に来ていると言えた。

 早雲は夕日を眺めながら、どうしたらいいのか考えていた。





 小河屋敷内の桜が満開に咲いていた。

 浅間神社の花見は中止となったが、小河屋敷では北川殿を慰めるために、ささやかな花見の宴が開かれ、北川殿は楽しそうに桜の花の下を子供たちと一緒にはしゃいでいた。毎年、花見には参加していても、いつも雛(ヒナ)人形のように座っているだけで、花弁(ハナビラ)の散る中を思いきり遊ぶ事なんてできなかった。ここに来て、回りの目も気にせずに好きな事ができるのは楽しかった。

 北川殿母子は毎日、小河屋敷の客殿でのびのびと暮らしていた。

 ここでは、北川殿は本名のお美和殿と呼ばれ、竜王丸は五郎と呼ばれていた。お屋形様に頼まれて、しばらく預かる事となった、京から来た、さる高貴なお方、という事になっていた。小河屋敷に北川殿の顔を知っている者は数人しかいなかった。その数人の者も、着飾って上段の間に座っている北川殿をチラッと見た事あるにすぎない。まさか、北川殿が駿府から逃げて、こんな所に来ていると思う者はいなかった。ただ、北川殿に仕えているはずの瀬川が戻って来ている事を不審に思う者はいたが、瀬川は北川殿に頼まれて、お客様の世話をしているのだと言った。早雲も時々、顔を見せるので、もしや、京の伊勢家に縁(ユカリ)のあるお方に違いないと小河屋敷の者たちは思っていた。

 美和は日当たりのいい客殿の縁側で早雲と会っていた。

「早雲殿、駿府の様子はいかがですか」と美和は聞いた。

 いつものように兄上様とは呼べなかった。

「はい、特に変わった事は起きていないようです」

「竜王、いえ、五郎の事、皆、お忘れではないのでしょうね」

「はい。朝比奈殿、斎藤殿、長谷川殿、それに遠江の人たち、皆、五郎殿を押しておられます」

「でも、小鹿殿がお強いのでしょう」

「いえ、今の所は小鹿派と五郎殿、河合殿は並んでおると言えましょう」

「そうですか、しかし、お屋形様と仲の良かった備前守殿と摂津守殿が、五郎と争う事になるなんて、今でも信じられません」

「そうですな。欲に囚われて、皆、人が変わってしまったようです」

「五郎の事、お願いしますね」

「はい。お美和殿、何か不自由な事はございませんか」

「いいえ」美和は首を振った。「何となく、ここに来て、のんびりしております。こんなにのんびりとした気持ちになるのは、駿河に来て初めてかもしれません。いいえ、生まれてから初めてかもしれません。わたしはいつも、誰かから見られて暮らしておりました。それが当たり前の事だと思っておりましたので、別に辛くはありませんでしたが、ここに来て、誰からも見られていないと思うと、何となく、ほっとした気持ちになります。こうして縁側に座る事も、ここに来て初めてなんですよ」

「そうだったのですか‥‥‥」早雲は妹を見た。

 美和は嬉しそうに笑っていた。

「気持ちいい」と言って眩しそうに空を見上げた。

 早雲は、どうしたら今川家を一つにできるかを常に考えていたが、いい考えは浮かばなかった。葛山氏と天野氏をはずして、話し合いの場を設ける事ができればいいのだが、それは不可能に近かった。河合備前守派の福島越前守と中原摂津守派の岡部美濃守を何とかして竜王丸派に誘い、小鹿新五郎に竜王丸の後見をして貰うという線でまとめる以外になさそうだった。その線でまとまれば、葛山は文句を言えないだろう。竜王丸派としても誰かを後見にしなければならないのだから、とりあえずは納得するだろう。

 問題は天野氏だった。今川家に内訌を起こそうとたくらんでいる天野氏は、竜王丸派と小鹿派が一つにまとまる事に反対するに違いない。河合備前守を押す天野兵部少輔は、最後まで備前守を押し通す事は考えられる。また、竜王丸派にいる天野民部少輔も内訌を起こすために、中原摂津守派に移るという事も考えられる。天野氏がいる限り、今川家が一つにまとまるという事は考えられなかった。しかし、今の時点で、天野氏を駿府から追い出す事は難しかった。遠江の国で何か騒ぎでも起こり、天野氏の本拠地が危ないという状況にでもなればいいのだが、横地、勝間田氏の消えた今、天野氏に逆らう程の勢力を持つ者はいなかった。

 朝比奈和泉守が小鹿派の福島土佐守、長谷川次郎左衛門尉が備前守派の福島越前守と摂津守派の岡部美濃守、斎藤加賀守が摂津守派の由比出羽守と備前守派の庵原安房守、堀越陸奥守が小鹿派の新野左馬助を誘っていたが、皆、そう簡単に誘いに乗っては来なかった。

 朝から雨が強く降り、満開の桜の花を散らしていた三月の十二日、お屋形様の屋敷の大広間は揺れていた。

 河合備前守派の福島越前守が突然、蒲原越後守、庵原安房守、興津美作守らを引き連れて小鹿新五郎派に寝返った。河合備前守はこんな事をまったく予想もしていなかったらしく狂乱状態に陥り、朝比奈天遊斎らに連れられて屋敷に帰って行った。

 次の日も、その次の日も評定の席に河合備前守は姿を現さず、お屋形様候補の座から降りたと思われたが、三日目には晴れ晴れとした顔をして現れ、いつもの通り上座に座った。

 備前守が立ち直った裏には天野兵部少輔の動きがあった。天野兵部少輔は二の曲輪内の自分の屋敷から本曲輪内の備前守の屋敷に移っていた。今までは福島越前守が備前守派の中心となっていたため、兵部少輔の出る幕はなかったが、越前守らが抜けた事により、兵部少輔は備前守の軍師的存在となって直接に策を授けているようだった。福島越前守に裏切られ、一時はお屋形様の座を諦めた備前守だったが、兵部少輔に励まされて、もう一度、挑戦する気になっていた。

 福島越前守が小鹿派に移った事により、越前守と仲の悪い福島土佐守が、思った通り小鹿派から抜け、朝比奈和泉守の説得もあって竜王丸派に移っていた。

 越前守らが小鹿派に移った事により、小鹿派の勢力が竜王丸派を上回ってしまったが、竜王丸派と小鹿派を一つにまとめようと考えている早雲にとっては都合が良くなったと言えた。後は、中原摂津守派の岡部美濃守を竜王丸派か小鹿派に動かす事ができれば、今川家を一つにまとめる事はできそうだが、妹が摂津守の側室になっている美濃守を動かす事は難しかった。難しいが、早いうちに何とかしなければならない。しかし、いい考えは浮かばなかった。

 早雲は久し振りに駿府に来ていた。

 小太郎の家の縁側に寝そべり、考え事をしていた。

 小太郎とお雪は忙しそうに、次々に訪ねて来る客たちを診察していた。

「おい」と小太郎に声を掛けられた時は、いつの間にか、日が暮れかかっていた。

「のんきな奴じゃのう、人が忙しく働いておるのに昼寝か」

「あっ、いや」と早雲は起き上がった。

「わしらはこれから北川殿に行くが、おぬし、どうする」

「勿論、わしも行く。富嶽と三人でこれからの事を相談しようと思って待っておったんじゃ」

「鼾(イビキ)をかきながらか」

「鼾なんかかいておったか」

「ああ、気持ちよさそうに眠っておったわ」

「そうか‥‥‥」

 早雲、小太郎、お雪の三人はお屋形の北門に向かった。浅間神社の門前町とお屋形の北門との間の北川の河原に武装した兵が十人ばかり、回りを見ながらウロウロしていた。

「何じゃ、あれは」と早雲が小太郎に聞いた。

「知らん‥‥‥どこの兵じゃろう」

 おかしいと二人は思ったが、北川殿にいる富嶽に聞けば何か分かるだろうと橋を渡って、門をくぐろうとした。が、門番に止められた。

 小太郎は毎日、朝晩出入りしているため、門番とは顔馴染みになっていたが、その門番も通してはくれなかった。過書(カショ)が、今日の昼から変わり、その過書を持っていない者は、たとえ顔見知りでも、たとえ重臣の方でも通してはならないとの厳命を受けていると言う。

 小太郎は力づくでも通ろうとしたが、早雲は止めて、「河原をうろついておるのは、どこの者たちじゃ」と聞いた。

「さあ、わしらにも分かりません。つい今しがた、阿部川の方から来て河原を見回っております。河原にいる限り、わしらも文句を言う事はできませんので放っておりますが、一体、何者が何のためにあんな所にいるのか分かりません。何が起こるか分からんので厳重に見張れとの事です」

 早雲たちは諦めて引き返した。

「一体、どういう事じゃ」と小太郎は腹を立てながら早雲に聞いた。

「分からん。分からんが何かが起こる事は確かじゃ。わしはちょっと一回りして来るわ」

 早雲は阿部川の方に走って行った。

「お雪、先に帰っていてくれ。わしもちょっと見て来るわ」

 小太郎も早雲の後を追った。

 半時程後、小太郎の家で三人は顔を突き合わせて考え込んでいた。

 お屋形の南、一里程の阿部川の河原に五百人以上の軍勢が待機していた。命令一つで、お屋形を完全に包囲する事のできる軍勢だった。

「一体、どこの軍勢じゃろう」と早雲は言った。

「とうとう、武力に訴えて来たようじゃのう」と小太郎は言った。

「お屋形を占領しようとたくらんでおる事は確かじゃ。しかし、一体、誰が」

「河合備前守じゃない事は確かじゃな」と小太郎は言った。

 早雲も同意して頷いた。「備前守はそれ程の軍勢を持ってはいまい。天野兵部少輔の軍勢が遠江から来たという事も考えられんしな」

「中原摂津守でもないぞ。岡部の軍勢が山を越えて来た様子もない。一体、この軍勢はどこから来たんじゃ。あれだけの軍勢が動けば誰も気づかんはずがない。駿府から一番近い場所に本拠地を持っておるのは誰じゃ」

「小鹿、河合、中原の三人じゃ」

「小鹿はそれだけの軍勢を動かせるのか」

「いや、無理だとは思うがのう。一番臭いのは葛山じゃが、あんな向こうから、あれだけの軍勢が動けば気づかんはずがないしのう」

「早雲よ、竜王丸派の者じゃあるまいな」

「まさか、そんな事はあるまい」

「うむ。福島越前守はどうじゃ」

「越前守か‥‥‥越前守ならそれ位の軍勢を動かす事はできるとは思うが、土佐守ならともかく、越前守が武力に訴えるような事をするとは思えんのう」

「しかし、越前守は船を持っておるじゃろう」

「船くらい持っておるじゃろう。江尻津が本拠地じゃからな」

「船で軍勢を阿部川まで運んだという考えはどうじゃ」

「うむ。あり得る。しかし、越前守が武力を持ち出すとは‥‥‥」

「越前守はこの間、寝返ったばかりじゃ。小鹿派の中心になっておるのは葛山じゃろう。葛山に踊らされたのかもしれんぞ」

「いや。越前守はそんな人に踊らされるような男ではない。なかなか腹黒い男じゃ」

「そうかもしれんが、葛山は越前守の上手を行く男かもしれんぞ」

「うーむ。それは言えるのう。葛山が裏で何かをしておる事は確かじゃが、絶対にぼろを出さんからのう」

「たとえばじゃ。あの越前守が寝返ったという事は、小鹿派に勝ち目があると睨んだからじゃろう。もしかしたら、その時点で、お屋形を占領する計画があったのかもしれん。葛山は自分の軍勢を駿府に運ぶつもりでおった。しかし、ここで葛山の軍勢で駿府を占領し、小鹿新五郎がお屋形様に納まった場合、葛山の勢力が益々大きくなる事を恐れた越前守は、自分の軍勢を使う事を主張したのかもしれんぞ」

「うむ。という事は葛山はお屋形を占領した後、どういう行動に出るつもりなんじゃろう」と早雲は聞いた。

「葛山はどう思っておるのか分からんが、越前守は戦をするつもりで、お屋形を囲むわけではないじゃろう。戦に持ち込まないで事を解決させる策があるに違いない」

「それは、どんな策じゃ」

「例えば、まず、竜王丸殿を人質に取る。竜王丸殿を取られた竜王丸派は小鹿派の言いなりになる。ついでに、河合備前守も中原摂津守も人質に取るか‥‥‥」

「人質に取ったからといっても事は解決せんぞ。お屋形内におる重臣たちはどうするんじゃ。重臣たちも人質か」

「分からん。一体、何をしでかすつもりじゃ。ここにおって、あれこれ言っていても始まらん、とにかく、北川殿に行って富嶽たちと相談しよう」

「おい、小太郎、簡単にそう言うが、どうやってお屋形に入るんじゃ」

「そんな事、簡単じゃ」

「なに、潜入する方法があると言うのか」

 小太郎はニヤッと笑った。





 早雲と小太郎の二人はびっしょりになって北川殿にやって来た。

 二人は小太郎の家の裏を流れる北川を渡り、本曲輪と二の曲輪を仕切っている濠の中に潜り、その濠と道賀亭(ドウガテイ)の濠をつないでいる半間(ハンケン、約一メートル)ばかりの穴を抜けて、本曲輪に侵入して来たのだった。

 小太郎は何かがあった時の場合、門を通らずに、お屋形内に侵入する方法はないものかと、いつも考えていた。土塁をよじ登る方法など色々と考えていたが、ある日、土塁を眺めながら道賀亭のはずれまで来て、ふと、この濠の水はどうやって入れたのだろうと考えた。そして、濠の水を見ているうちに、かすかだが濠の水が流れているように感じ、思い切って濠の中に潜って、この穴を発見したのだった。穴は濠の一番深い所で、本曲輪と二の曲輪を分けている濠とつながっていた。そして、その濠は北川とつながっている。小太郎はこの発見をしてから、もしかしたら、北川殿の濠も北川とつながっているかもしれないと思い、潜ってみたが、北川殿の濠はつながってはいなかった。

 濡れた着物を着替えると、早雲と小太郎は北川殿にいる者たちを全員、広間に集め、たった今、見て来た事を皆に話した。北川衆の清水は昼晩だったので、すでに帰っていた。二の曲輪に住む小田と清水は交替で二の曲輪の動きを探っていた。

「すると、その軍勢はこのお屋形を囲むという事ですか」と富嶽が聞いた。

「多分な。明日の夜が明ける頃には完全に包囲する事じゃろう」と早雲が言った。

「それだけではない。今、ここを守っている御番衆と、二の曲輪を守っている御番衆も同時に行動を起こすに違いないわ」と小太郎が言った。

 福島越前守が寝返った事により、越前守派の蒲原越後守も寝返って小鹿派になっていた。二の曲輪を守っている二番組の頭、蒲原左衛門佐は越後守の弟で、兄と共に小鹿派になった可能性が強かった。そうなると、お屋形の警固は小鹿派の者たちに任されているという事となる。本曲輪を警固している葛山備後守の率いる三番組、百八十人と、二の曲輪を警固している二番組、百六十人、そして、阿部川の河原で待機している五百人余りの軍勢によって、お屋形が占領されるのも時間の問題だった。

「小鹿派の連中が、このお屋形を占領するのですか」と小田が信じられないという顔をして聞いた。

「多分な。小鹿派以外、こんな事をたくらむ者は考えられんのじゃ」と早雲は答えた。

「そんな事になったら大変な事になる」

「ああ。大変じゃ」

「そうなると、重臣の方々はどうなるんですか」

「そこが分からんのじゃよ。重臣たちを閉じ込めて置けば、必ず、騒ぎが起こるじゃろう。国元の部下たちが黙ってはおらんじゃろうからな」

「ここに攻めて来ますよ」

「しかし、重臣たちがこの中にいる限り、攻める事はできん」

「でも、いつまでも閉じ込めて置くわけにも行かんでしょう。こんな事が、もし他国に知れたら今川家は終わりですよ。駿府を攻めれば、今川家の重臣たちは皆、討ち死にです」

「そうか‥‥‥それを狙っておるのかもしれんのう」と小太郎は言った。「葛山にしろ、天野にしろ、今川家の家督争いなんかどうでもいい事じゃ。この際、一気に今川家を潰そうとたくらんでおるのかもしれんぞ」

「お屋形内に閉じ込めておいて、葛山と天野の連合軍でここを攻めると言うのか」と早雲は聞いた。

「それもありえるが、それは最後の手段じゃろう。御番衆まで味方に付ければ何でもできる。この間のように河原者たちを使う事も充分に考えられる。例の寺社奉行は三浦何とかと言ったのう。三浦も小鹿派じゃ。この前のように騒ぎを揉み消すのは訳ないわ」

「重臣たちを暗殺するというのか」

「全部は殺さん。見せしめの為に二、三人は病死するじゃろうのう。そのうちに恐れて、小鹿派に転向する者も現れて来るじゃろう」

「それも考えられん事はないが、そんな事をすれば、葛山は恨みを買う事となる。この場は思い通りになったとしても、後で何をされるか分からん。葛山はそんな卑怯な手は使わんとは思うがのう。それより、わしが思うには、福島越前守はここを占領して竜王丸殿を人質に取り、竜王丸殿が成人するまで小鹿新五郎に後見人になって貰うという事にまとめようとしておるんじゃと思うんじゃが」

「竜王丸殿を人質に取るなら何も占領する事もなかろう」

「いや、占領しておかないと竜王丸派の者が攻めて来ると考えたのじゃろう。占領しておいて、越前守は竜王丸殿を評定の間の上段の間に座らせ、竜王丸殿をお屋形様とし、小鹿新五郎を後見人にしたらどうかと提案する。そうするとどうなると思う」と早雲は皆の顔を見回した。

「竜王丸派の者は賛成するじゃろうのう。どうせ、誰かが後見人にならなければならんのじゃからのう」と小太郎は言った。

「小鹿派も賛成すると思うがのう」と富嶽は言った。

「そうじゃ。とりあえずは後見人でも、十年という歳月があれば何とか、お屋形様になれるかもしれんと思って、小鹿派も賛成するじゃろう。そうなると反対するのは、河合備前守派の天野民部少輔と中原摂津守派の岡部兄弟だけとなる。竜王丸派と小鹿派が一体になってしまえば、民部少輔も岡部兄弟も反対を続けるわけには行かんじゃろう。こうして、今川家が一つになった所で、福島越前守はお屋形を包囲している軍勢を解くというわけじゃ」

「成程」と富嶽は頷いたが、「しかし、どうして、今まで、そううまく行かなかったんじゃろ」と早雲に聞いた。

「評定の間では邪魔する者がおったからじゃ。話をそこまで持って行く前に腰を折られたんじゃろう。竜王丸殿をお屋形様にして小鹿新五郎を後見人にしたらどうか、と言っても、天野兵部少輔や岡部兄弟が、お屋形様は、まだ、竜王丸殿と決まったわけではない。後見人の話など、お屋形様が決まってからじゃ、と言われれば、話はちっとも進まんし、小鹿新五郎としても、後見人になるよりはお屋形様の方がいい。そうなると、話はまた振り出しに戻る。毎日、そんな事をやっておるんじゃろう。そこで、越前守はお屋形を占領して、重臣たちを緊張状態に置き、一気に話をまとめようと考えたに違いないわ」

「成程のう‥‥‥しかし、ここには竜王丸殿はおらんぞ」と小太郎は言った。

「そうなんじゃ。越前守はここに竜王丸殿がおると思って、その作戦を練った。しかし、ここに竜王丸殿はおらん。そうなると、どういう事になるかの」

「まず、竜王丸殿はどこに行ったか聞くじゃろうのう」

「それから?」

「竜王丸殿なしで話を進めるかのう‥‥‥」

「それもあり得る。竜王丸殿がおらなくても一つにまとめる事はできるじゃろう。ただし、天野氏がどう出るかじゃ。天野氏にとって今川家が一つにまとまっては具合が悪い。絶対に邪魔をするはずじゃ。それと、葛山の本心も分からん。本当に小鹿新五郎をお屋形様にしたいのか、それとも、天野氏と同様、今川家に内訌を起こさせたいのか‥‥‥」

「もし、天野と同じ穴の貉(ムジナ)だとすると葛山も邪魔をするじゃろうな」

「天野民部少輔ですけど摂津守派になりつつあります」と小田が口をはさんだ。

「本当か」と早雲は聞いた。

「はい。女で釣られたようです。最近、岡部五郎兵衛の家に入り浸りです」

「そうか‥‥‥となると、両天野氏は竜王丸派と小鹿派が一つになるのを邪魔して来るのは確実じゃな」

「越前守の思うようにはならんようじゃな」と小太郎が言った。

「明日の事は明日になってみないと分からん。それよりも、わしはここを捨てようと思っておるんじゃ」と早雲は言った。

「竜王丸殿がおられん事は明日にはばれるじゃろう。そうなると、ここを守っておってもしょうがない。返って、ここにおるのは危険と言える。みんな、逃げた方がいいじゃろう」

「全員、小河屋敷に移るんですか」と富嶽が聞いた。

「いや、富嶽と多米と荒木の三人はもう少し、ここに残って貰う。ただし、長谷川殿の屋敷でじゃ。小田殿も二の曲輪に屋敷があるから残って貰う。小田殿はこれからすぐに帰って貰い、明日の朝、清水殿と一緒にここに来て、初めて誰もおらん事に気づいたという事にするんじゃ。後の者は皆、小河屋敷に移る。どうじゃ、それでいいか」

 早雲は皆を見回した。

 侍女の菅乃、仲居の和泉と三芳、北川衆の小田と小島、富嶽、多米、荒木、荒川坊が皆、頷いた。

「あの」と小島が言った。「家族はどうしたらいいんです」

「奥さんと子供が一人じゃったな」と早雲が聞いた。

「はい」

「子供はいくつじゃ」

「九つです」

「泳げるか」

「はい、泳げますけど、どうしてです」

「門からは出られんのじゃ。別の所から出る」

「あの、あたし、泳げません」と言ったのは和泉だった。

「泳げんか、他に泳げない者はいるか」

 三芳と小島の奥さんが泳げなかった。

「参ったのう。長谷川殿の屋敷で預かって貰う事にするかのう」

「ちょっと待て」と小太郎は言った。「もしかしたら、出て行く事はできるかもしれんぞ」

「どうしてじゃ」

「わしは今まで、ここから出て行く時に過書を見せた覚えはない」

「そう言えばそうじゃのう。入る時は調べるが出て行く者を調べはせんのう。やってみる価値はありそうじゃのう」

 小田が二の曲輪に帰って行った。

 富嶽、多米、荒木の三人は長谷川次郎左衛門尉の屋敷に向かった。

 和泉と三芳の二人が北門に向かった。早雲たちは隠れて、二人の様子を見ていたが、追い返される事なく門を出る事ができた。小太郎の思った通り、出て行く者を一々、調べはしなかった。次に小島親子が出て行った。これも、うまく行った。

 小太郎と早雲は菅乃と荒川坊を連れて、北門に向かった。門番は変わっていた。早雲と小太郎が入るのを拒んだ者たちはいなかった。早雲たちはすんなりと出る事ができた。

 小太郎は忘れ物をした振りをして戻ろうとしたが、やはり、過書が違うと言われ、入る事はできなかった。

 北川殿から抜け出した一行は、その晩は小太郎の家に泊まり、次の日、小河屋敷に向かった。
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