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陰流の開祖であり、忍びの術の開祖でもある愛洲移香斎の物語です。
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7.北川殿2






 夜は何事も起こらなかった。

 朝日が昇ると共に警固の侍は入れ代わった。

 北川殿を警固する侍は北川衆と呼ばれ、お屋形様の屋敷を警固する宿直(トノイ)衆と共に、名誉ある職種であり、その任務に就く者は重臣たちの親族に限られていて、皆、一流の兵法者(ヒョウホウモノ)でもあった。そして、その装束(ショウゾク)も目立っていた。武家の正装である狩衣(カリギヌ)を常に着用して、長い太刀を佩(ハ)いている。お屋形様の屋敷の宿直衆も狩衣姿だったが、宿直衆は萌葱(モエギ)色(やや黄色みを帯びた緑色)で、北川衆は浅葱(アサギ)色(わずかに緑色を帯びた薄い青色)だった。一目見ただけで北川衆か宿直衆かは見分けが付いたし、他の武士との見分けも簡単だった。なお、奉公衆または御番衆と呼ばれる、お屋形全体の警固をする者たちは、実戦的な小具足姿で弓矢を背負い、お屋形内を闊歩(カッポ)していた。彼らは必要とあらば、その姿のまま重臣たちの屋敷内に入る事も許されていた。

 今日の昼番を担当する北川衆は表門は吉田、小島、大谷の三人、裏門は清水と山崎の二人だった。吉田は夜、裏門を守り、引き続いて表門の勤務に移っていた。交替で勤務を行なうため、毎日、誰かが一人、寝ずに一日中勤務する事になっている。その代わり、休みの時は昼の勤務が終わってから、一日休み、次の日は夜勤になっているので充分に休む事ができた。

 昨日、あんな事件が起きたため、昼も気を緩めずに見張らなければならなかった。裏門を守る者は一人が側にある蔵の屋根の上に上がって、北側と西側の濠を見張る事となり、表門を守る者の一人は、牛車(ギッシャ)のしまってある小屋の屋根から東側と南側の濠を見張る事となった。南側はお屋形様の屋敷の土塁に面しているので危険はないと思ったが、一応、見張らせた。

 早雲はずっと下手人(ゲシュニン)の事を考え続けていた。先は長いので少し休んだ方がいいと思って横になってみても、頭から毒殺の事が離れず、結局、一睡もできないで朝を迎えていた。

 早雲が顔を洗いに井戸に行くと小太郎が近づいて来た。

「何事もなかったわ」と小太郎は言った。

「御苦労じゃったのう」と眠そうな目をこすりながら早雲は言った。

「眠れなかったのか」と小太郎が聞くと、

「ああ」と言いながら早雲はあくびをした。

「何か分かったか」と小太郎は聞いた。

「少しはな」と早雲は答えた。

 二人は座敷に戻ると、さっそく検討を始めた。富嶽も顔を洗うと参加した。

 まず、いつ、味噌の中に毒が入れられたかが問題だった。朝食の時には入っていなかった。北川殿の朝食は四つ(午前十時)だった。それぞれの部署に食事を配り、北川殿に食事を運ぶと、仲居たちは自分たちの部屋で食事を取る。彼女たちの部屋は台所の隣にあるが、板戸を閉めると台所は見えない。食事をする時は、外から見えないように閉める事となっていた。食事の時間は半時(一時間)で、その後、後片付けが始まる。後片付けが終わると一休みして、夕食の仕込みが始まり、昨日の場合は七つ(午後四時)過ぎ頃、一段落したので休憩をしていた。桜井が亡くなったのはその時だった。

 毒が入れられたと思われる時間は、仲居たちが朝食を取っていた半時の間か、後片付けの後の休憩の時か、桜井が殺される、ほんの少し前か、だった。その他の時間には台所には仲居たちがいたので、台所の片隅にある味噌甕(ミソガメ)の中に毒を入れる事は不可能と言えた。

「それで、下手人は誰なんじゃ」と小太郎は聞いた。

「そう、焦るな」

 次に問題となるのは、なぜ、味噌の中に毒を入れたかだった。味噌の中に毒を入れた場合、竜王丸を殺す事のできる可能性は極めて低かった。という事は、敵の狙いは直接、竜王丸を殺す事ではなく、北川殿を恐れさせ、竜王丸がお屋形様の候補の座から下りるという事を狙っていたのかもしれなかった。

「それじゃあ、誰が死んでも構わなかったと言うのか」

「そうじゃ。もし、夕べ、味噌の中の毒が見つかっていなければ、夕べ、もう一人の犠牲者が現れ、そして、今朝も誰かが死ぬ事となったんじゃ。次々に身内の者が殺されれば、北川殿も恐怖にかられ、竜王丸殿をお屋形様にする事を諦めると言い出すかもしれん」

「うーむ。成程のう」と小太郎は唸った。「昨日の時点で、ここから出て行くと言い出す位じゃからのう。次々に身内の者が殺されたら、間違いなく、ここから出て行くじゃろうのう」

 次に誰がやったか、という事だが、まず、仲居衆から行くと被害者の桜井は消える。休みで、朝から出掛けていた和泉(イズミ)も消える。朝比奈氏の西尾、長谷川氏の瀬川、堀越氏の淡路の三人も消していいだろう。次に、桜井が死んだ時、現場にいた長門(ナガト)も消していいだろう。毒の事を知っていながら、何の恨みのない同僚が目の前で死ぬのを平気で見ていられるとは思えない。まして、長門と桜井が普段から仲のいい事は誰もが知っている。そして、夕べ、桜井の次の毒味を担当していた嵯峨(サガ)も消える。あの時、味噌の中の毒が発見されなかったら、嵯峨は死んでいた事になる。

「すると、残るのは三芳(ミヨシ)だけか」と富嶽が仲居たちの名が並んでいる紙を見ながら言った。その紙には名前だけでなく、素性、毒味の順番、休みの日が書いてあった。

「三芳というのは岡部氏じゃのう。岡部氏というと‥‥‥」

「摂津守派じゃ」と早雲は言った。

「摂津守派は今、一番弱いからのう。竜王丸殿が下りてくれれば竜王丸派の重臣たちを自分の派閥に引き込めると考えたのかのう」

「その可能性はある。竜王丸派についている者たちは、名目はお屋形様の嫡男に家督をと言っておるが、今までのように、幕府の重臣としての今川家を見ておる。幕府あっての今川家だと思い込んでおる者が多い。幕府を恐れて、関東を非常に警戒しておるところがある。小鹿新五郎と河合備前守の二人は関東との関係がある。竜王丸殿が候補の座から下りた場合、竜王丸派の重臣たちが関東とは関係のない中原摂津守を押すという事は充分に考えられる事じゃな」

「糸を引いておったのは摂津守じゃったのか」と小太郎が言って、一人で頷いた。

「まだ、はっきり決まったわけではない」と早雲は小太郎を見ながら首を振った。「その可能性あり、という事じゃ」

 次に侍女と乳母の三人だが、伊勢氏の萩乃と朝比奈氏の菅乃(スガノ)は白。乳母の船橋は白とは言えないが、北川殿の側に仕えておる乳母なら、わざわざ、味噌の中に毒を入れなくても、竜王丸を殺す機会はいくらでもあると言える。敵の立場から考えると、目的は竜王丸をお屋形様の候補の座から下ろす事で、一番いいのは、やはり、竜王丸を殺す事だ。それができないので、誰でもいいから身内の者を殺して、北川殿に恐怖を味わせようとしたに違いない。そう考えて行くと、仲居を始め、侍女と乳母は白と言っていい。彼女たちは毒味が終わった後に、毒を入れる事ができた。そうすれば竜王丸を直接に殺す事ができる。それをしなかったという事は彼女たちは白と言い切ってもいいだろう。

「何じゃと! 仲居の三芳が、さも下手人のように話しておきながら、女たちは白じゃと。勿体ぶらずに話せ。わしは眠いんじゃ」と小太郎は喚(ワメ)いた。

「まあまあ、順を追って話しておるんじゃ。落ち着いて聞け」

 次に北川衆たちを検討してみると、伊勢氏の三人、吉田、村田、久保の三人は消える。村田と久保は夜勤明けで家に帰っていて、屋敷内にいなかったので完全に白と言える。竜王丸派の久野(クノ)氏の大谷と斎藤氏の山崎の二人も消える。残るは五人という事になるが、小田は昨日の昼間、裏門の警固、清水と小島は表門、山本は休み、中河は夜警のため侍部屋にいた。

 ここで下手人の立場になって考えると、台所に一番近い裏門の警固に当たった時に実行に移すというのが、一番、怪しまれないという事になる。別に急ぐ事もないのだから、自分が一番やり易い時に実行した方がいいと言える。表門の警固をしている時に侍部屋の前を通って、さらに裏門を警固している者にも見られる可能性があるのに、危険を冒してまで実行に移す者はいないと考えられる。侍部屋で休んでいる者も、台所に入るには裏門の警固兵に見られる。裏門は侍部屋からは見えないので、警固している者は誰にも見られる事なく台所に行く事ができる。

「下手人は小田じゃったのか」と富嶽が唸った。

「待て、裏門を守っているのは二人じゃ。もう一人に見られるじゃろう。もう一人は誰だったんじゃ」と小太郎は北川衆たちの名を並べた紙を覗いた。

「山崎じゃ」と富嶽が山崎の所を指さした。

「それが怪しまれずに台所に行けるんじゃ」と早雲は顔を上げると小太郎と富嶽の顔を見た。

「なぜじゃ」と小太郎は聞いた。

「厠(カワヤ)じゃよ」と早雲は言った。「普通、門番は侍部屋の側にある厠を使う事となっておるが、急を要する時は台所内の厠を使っていいという事になっておるんじゃ。裏門におった喜八から聞いたんじゃが、台所に仲居たちがおらん時は大抵、内緒で使っておるという事じゃ」

「という事は、小田が仲居のいない時、台所の厠に行くと行って台所に入って、毒を入れたという事か」

「いや」と早雲は首を振って、小太郎と富嶽の顔を見て軽く笑った。「もう一人おるんじゃ」

「なに?」と小太郎は言った。

「昨日、休みじゃった山本も昨日の昼、やたらと台所に出入りしておるんじゃ」

「そいつは確かなのか」

「ああ。昨日、裏門を守っておった山崎から確認を取った。昨日の夜、表門を守っておった中河の話によると、山本は仲居の長門に惚れておって、休みにどこかに行こうと誘いを掛けておったらしい。長門の休みは今日なんじゃ。山本は今日、夜勤じゃから昼間、一緒にどこかに行こうと思っておったらしい。ところが、生憎(アイニク)、振られて、昼過ぎに諦めて北町に遊びに行ったらしいわ」

「中河というのは、二、三日前に、山本が二の曲輪から帰って来るのを見たとか言った奴じゃな」と小太郎は聞いた。

「ああ、そうじゃ」

「その中河という奴は山本という奴とは仲が悪いのか。やたら、山本の奴を下手人にしたいようじゃが」

「恋仇らしいのう。一緒に夜警をしていた村田が言っておった」

「恋仇か‥‥‥まあ、長門という娘は可愛いからのう。それで、長門の方はどうなんじゃ」

「そんな事は知らん。本人に聞いてみろ」

「という事になると、怪しいと言える者は小田と山本の二人という事になるのう」と富嶽が言った。

「小田は今日、休みじゃぞ」

「分かっておる。昨日の仕事が終わると家に帰っておるんじゃ。今、孫雲と才雲の二人に見張らせておる。小田が下手人なら昨夜の騒ぎの結果をどこかに報告に行くじゃろう。もし、昨日の夜のうちに行動したとしたら、もう手遅れとなるが、一応、見張らせておる」

「山本はないんじゃないかのう」と小太郎は言った。「惚れた女子(オナゴ)が死ぬかもしれんのに毒など入れるか」

「振られた腹いせと言う事も考えられるが、まず、ないじゃろうな。山本が下手人だったら、惚れた女子をまず逃がしてから毒を入れるじゃろう。女子を誘い、一緒にどこかに行く約束をしてから毒を入れ、そのまま、ここには帰って来ないという事になろう。しかし、女子を連れ出す事に失敗しておる。毒を入れる事は次の機会に、という事になるじゃろうな」

「というと山本も白じゃな」と富嶽は紙に並んでいる山本の名を消した。

「すると、やはり、残るは小田だけじゃな」

「決定じゃな。逃げられる前に捕まえた方がよさそうじゃ」と小太郎は立ち上がろうとした。

「待て」と早雲は小太郎を止めた。「小田の立場に立って考えてみろ」

「何を考えるんじゃ」

「小田は北川衆の中で、吉田に次いで偉い地位にあると言える。三浦殿から聞いたんじゃが、小田は北川殿が駿河に来るまでは四番組の頭じゃったんじゃよ」

「御番衆というやつか」

「そうじゃ。その頭だったんじゃ。お屋形様に見込まれて、ここの警固を任されたらしい。はっきり言って吉田はもう年じゃ。いつ、隠居してもいいと言える。そうなれば小田が北川衆の頭となる。もし、竜王丸殿がお屋形様になって、お屋形様の屋敷に入る事となれば、小田はお屋形様の屋敷を守る宿直衆の頭という事になろう。それだけの地位にありながら、誰かにそそのかされたにしろ、味噌の中に毒を入れるような事をするか」

「うーむ。普通なら、そんな事はせんのう」

「という事じゃ」と早雲は言って、手を広げた。

「全員、消えましたが‥‥‥」と富嶽が言った。

「どういう事じゃ」と小太郎は早雲を見た。

「寝ずに考えた結果がこれじゃ」

 小太郎は急に笑い出した。「初めからやり直しじゃな」

「どこで間違ったと思う」と早雲は首をひねりながら紙を見た。

「下手人は外から来たのさ」と小太郎は言った。

「それも考えた。しかし、外から来た者が味噌の中に毒を入れるというのは不自然じゃ。誰が死んでもいいのなら井戸の中に入れた方がてっとり早いわ。それなのに井戸には入れずに味噌の中に入れた。なぜかというと、下手人自身も井戸の水を飲むからじゃ。そうなると、やはり身内という事になる」

「いや、井戸に毒を入れた場合、最初に井戸水を飲んだ者は死ぬが、二人目の犠牲者が出る事はないじゃろう。味噌の中に入れた方が効果はある。毒味をしなければ、全員が死んだという事も考えられるからのう」

「そうか‥‥‥外部の者が下手人という事も考えられるか‥‥‥」

「ふん。始めからやり直しじゃ。わしは少し寝るぞ」

「まあ、もう少し付き合え」

「まだ続きがあるのか」

「ああ、夜は長かったからのう。色んな事を考えたわ」

 富嶽は北川殿にいる者たちの名前を別の紙に新たに書き写していた。

 早雲は話の続きを話し始めた。

 小太郎は柱にもたれながら聞いていた。

 今度は、下手人を後ろで誰が操っていたかを考えると、竜王丸が消えて、一番得する者は誰かという事になる。

 竜王丸が消えれば、当然、竜王丸派だった者は別の派に移る事となる。竜王丸派は朝比奈氏、斎藤氏、長谷川氏、そして、遠江の堀越氏、朝比奈氏、福島氏、久野氏だった。長老の天遊斎のいる朝比奈氏は、お屋形様の嫡男が下りれば、当然の事のように次男の河合備前守を押す事となろう。斎藤氏と長谷川氏の二人は、朝比奈氏と共に備前守派になる可能性もあるが、普段から行き来のある中原摂津守に付く可能性もある。遠江の四氏は、今川家が関東に近付く事を恐れている。四氏は摂津守派になる可能性が高いと言える。

 という事は竜王丸派は、竜王丸が候補から下りれば備前守派か摂津守派に分かれるという事になる。今、一番、勢力のある小鹿派に行く者はいない。もし、朝比奈氏が備前守に付いたとすると小鹿派と五分の勢力になり、斎藤氏、長谷川氏までもが付くと小鹿派を上回るという結果になる。また、摂津守派に遠江の四氏が付くと小鹿派には及ばないにしろ、今の倍近くの勢力を持つ事となる。

「小鹿派じゃないと言いたいのか」と小太郎は言った。

「その通りじゃ。わしは最初、小鹿派の葛山が臭いと思っておったが、こう考えて来ると小鹿派じゃない事ははっきりした。小鹿派にしてみれば、竜王丸殿がいる事によって今の有利な状態を保てるが、竜王丸派の者が分散した場合、自分たちが不利になる。自分たちが不利になる事をあえてするまい」

「となると、河合備前守か中原摂津守か、という事になるのう」

「恐ろしい事じゃ」と富嶽が言った。

「まさしくな。しかし、可愛い甥御(オイゴ)を醜(ミニク)い家督争いから遠ざけるために、あんな騒ぎを起こしたとも考えられるぞ」

「優しい叔父上たちじゃな」と小太郎は笑った。 

 そこで、その二つの派閥らしい者を拾ってみると、清水、小島、山本、乳母の船橋、中居の和泉と嵯峨の六人が河合備前守派。そして、中原摂津守派はたった一人で、仲居の三芳だけだった。その中で、朝から出掛けていた和泉と長門に惚れている山本と、昨夜、毒味をするはずだった嵯峨の三人は消える。残る四人は清水、小島、乳母の船橋、仲居の三芳だった。

「そこまでじゃ。そこまで考えたら朝になっちまったというわけじゃ」と早雲は言った。

「御苦労じゃったな。四人にしぼれただけでも大したもんじゃ。わしは寝るわ」

 小太郎は部屋から出て行った。

「早雲殿も少し休んだ方がいいですぞ」と富嶽は言った。

「そうじゃな」と早雲は頷いた。

「わしは充分に寝たから、わしが見回るわ」

「悪いな。それじゃあ、少し、休ませてもらうわ」

 早雲も部屋から出て行った。夜の間は、早雲たちはこの部屋で寝ているが、昼間は寝られなかった。この部屋は客と会うための部屋だった。早雲も小太郎のように侍部屋に向かった。





 小太郎が昼過ぎに目を覚ました時、早雲の姿はなかった。

 隣の部屋では夜勤の中河が寝ていた。休み明けの山本はまだ帰っていないようだった。

 小太郎は表門を覗き、廐で寝ている多米たちを覗いてから屋敷に上がった。

 早雲と富嶽が相変わらず、北川殿にいる者たちの名前の並んだ紙を眺めていた。その紙には何人かの名前が線で消されてあったが、残っているのは一人ではなかった。

「まだ、検討中らしいのう」と言いながら小太郎は座り込んで紙を覗いた。「疑わしき者の数はまた増えたのか」

「別の見方でやってみたんじゃ。それより、また一人、仲居が亡くなった」と早雲は言った。

「何じゃと」と小太郎は厳しい顔をして二人を睨んだ。「どうして、わしを起こさんのじゃ」

「ここじゃない」と早雲は言った。「小鹿屋敷じゃ」

「小鹿屋敷? いつの事じゃ」

「今朝じゃ」

「やはり、毒か」

「そうらしい。ここと同じじゃ。小鹿屋敷でも仲居が毒味をして亡くなったんじゃ」

「小鹿屋敷か‥‥‥その仲居はどこの娘だったんじゃ」

「小鹿屋敷の仲居にも重臣たちの娘が何人か入っておるらしいが、今回、殺されたのは逍遙殿の家臣の娘だそうじゃ」

「そうか‥‥‥小鹿も狙われておったのか」

「やはり、今回の毒殺の糸を引いておったのは備前守か摂津守らしいのう」

「小鹿屋敷では、ここの味噌の中に毒が入っておったという事を知らなかったのか」

「味噌の事は知らなかったらしい。ただ、仲居が毒殺されたという事実だけは、三浦氏から知らせを受けて注意しておったらしいのう」

「それで、やはり、味噌の中に入っておったのか」

「それは分からん。四番組の入野兵庫頭(イリノヒョウゴノカミ)から知らせがあって、味噌の中を調べろとは言ってやったが、その後、返事はない」

「そうか‥‥‥」

「まあ、小鹿屋敷の事は小鹿屋敷に任せておいて、わしらはこっちの事を片付けなくてはならん。身内の中に危険な者が混ざっておったら、この先、何が起こるか分からん」

「そうじゃな。見方を変えたと言っておったのう。どう変えたんじゃ」

「今まで、派閥にこだわっておったような気がするんじゃ。よく考えてみると派閥などというのは、一族全部が同じ派閥だとは限らん。その者が今まで付き合って来た者たちに左右されると気づいたんじゃ。そこで、できる限り、一人一人の過去を調べてみたんじゃ」

「一人一人に聞いたのか」

「いや。女たちは侍女の二人に聞き、男たちは喜八に聞いたんじゃ。お屋形様の奥方を守る者たちなので、過去の経歴などもちゃんと書き留められてあったわ」

「ほう。それで?」小太郎は興味深そうな顔をして、先を促した。

 女たちの方は皆、重臣たちにかなり近い者たちばかりだった。

 侍女の萩乃は伊勢伊勢守の姪(メイ)で、伊勢守の養子になった北川殿とは従姉妹(イトコ)という関係だった。

 もう一人の侍女、菅乃は朝比奈天遊斎の娘、乳母の船橋は福島(クシマ)越前守の妹でもあり、福島左衛門尉の妹でもあった。

 仲居の方は、和泉は蒲原越後守の従姉であり、二番組頭の蒲原左衛門佐(カンバラサエモンノスケ)の従姉でもある。

 三芳は岡部美濃守の妹で、中原摂津守の側室の姉でもあった。

 西尾は朝比奈和泉守の娘、瀬川は長谷川次郎左衛門尉の娘、淡路は堀越陸奥守の姪、長門は新野左馬助の姪、亡くなった桜井は三浦次郎左衛門尉の姪、嵯峨は庵原安房守の娘だった。

「ほう、そうそうたるもんじゃのう」と小太郎は唸った。

 確かに小太郎の言う通り、今川家の名門の娘たちばかりだった。この中に毒を入れた者がいるとは思えなかった。

 北川衆の方は女たちとは違って、重臣たちの一族には違いないが、嫡流(チャクリュウ)ではなく、庶流の者たちばかりだった。ほとんどの者たちが、ここに来る前は御番衆の一員だった。

 吉田は早雲と同じ備中の国の伊勢氏、村田と久保の二人は京の伊勢氏。

 小田は矢部氏でも矢部将監(ショウゲン)、矢部美濃守とは別の流れで、今はそれ程の勢力を持っていないが、昔は重臣の一人だった矢部氏の流れだった。そして、北川殿に来る前は四番組の頭をやっていた。

 清水は入江氏の庶流で、本家は福島越前守の被官となっている。北川殿に来る前は、お屋形様の屋敷を守る宿直衆の副頭だったという。

 小島は興津氏の庶流で、元、四番組の一員で、小田の推薦によって北川衆になっていた。

 大谷は遠江の久野氏の庶流で、元、三番組の一員だった。大谷が三番組にいた頃の頭は、今、遠江高天神城主となっている福島左衛門尉だった。

 山本は庵原氏の庶流で、ここに来る前は庵原氏の本城庵原山城を守っていた。

 中河は三浦氏の庶流で、二年前に北川衆となったが、それまでは宿直衆をやっていた。

 山崎は斎藤氏の庶流で、ここに来て、まだ一年と経っていなかった。ここに来る前は斎藤氏の鞠子(マリコ)城を守っていたと言う。

「庶流ばかりじゃな。しかし、元、御番組やら宿直衆やらが多いのう。ここを守る位じゃから、お屋形様に余程、信頼されておる奴ばかりなんじゃろうのう」

 この線から行くと、怪しいと思われる者は乳母の船橋、仲居の三芳、長門、嵯峨の四人。北川衆では清水、小島、大谷、山本、中河、山崎の六人となる。この中で、桜井が死ぬ時に一緒にいた長門と、桜井の次に毒味をしようとしていた嵯峨、長門に惚れている山本と中河の四人は消える。残るは乳母の船橋と仲居の三芳、北川衆の清水、小島、大谷、山崎の六人だった。

「六人か‥‥‥寝る前は四人じゃったのう。二人、増えたわけか」

「その四人も、この六人の中に入っておるんじゃよ」

「ほう。その中に下手人がおるのは確実なんじゃな」

「身内に下手人がおるとすればな」

「外部の線も調べたのか」

「一応はな。しかし、外部から曲者(クセモノ)が侵入したとは考えられんのじゃ。誰にも見られずに味噌の中に毒を入れるとなると、北川殿の内情に詳しくないと難しい。仲居の休憩する時間まで知っておらんと難しいじゃろう。たとえ、それを知っておったとして、真っ昼間から忍び込むじゃろうか。北川殿の北側の通りはいくら人通りは少ないとはいえ、誰が見ておるか分からん。わざわざ、危険な昼間に忍び込むとは思えん。下手人が外部から来たとすれば、夜に忍び込むじゃろうと考えたんじゃが、どうじゃ」

「うむ。確かに、昼間よりは夜の方が忍び安い事は確かじゃのう。夜なら台所に誰もおらんしな」

「そうじゃ。そこで、下手人は内部の者という事に絞ってもいいと思うんじゃ」

「そうじゃな。その線で行くか」と小太郎は頷き、「まず、乳母の船橋か‥‥‥この女は古くからおるのか」と聞いた。

「いや、千代松丸殿が生まれてからじゃから、まだ、四ケ月位じゃろう」

「船橋には亭主はおらんのか」

「ああ、忘れておった。船橋の亭主は由比出羽守殿の弟で御蔵奉行(オクラブギョウ)だそうじゃ」

「通いか」

「そうじゃ。すぐそこの由比殿の屋敷から通っておる」

「ふーん。その船橋とやらは複雑な状況におる事となるのう。亭主は何派か知らんが、亭主の兄が摂津守派で、実の兄二人は備前守派と竜王丸派に分かれておる。本人はどこにおるんじゃろう」

「分からん。しかし、敵が誰だか分からんが、そんな複雑な立場におる者に、北川殿の味噌の中に毒を入れろと命じるかのう」

「わしだったら命じんな。どこから秘密がばれるか分からんからな」

「そうじゃろう。わしもそう思う。船橋は白じゃな」

「仲居の三芳はやはり臭いのう。岡部美濃守の妹で、しかも、妹が中原摂津守の側室となれば、文句なしに摂津守派じゃな」

「三芳じゃと思うか」と早雲は小太郎に聞いた。

「思わん」と小太郎は首を振った。

「なぜ」

「わしがここに来て、もう十日になるが、三芳という女は面倒見がいいようじゃ。若い中居たちにも評判はいい。三芳が仲間を殺すような女には見えんがのう」

「うむ。わしもそう思いたいが、確かな確信はないのう。保留という事にしておくか」

「次に北川衆の清水じゃが‥‥‥」と富嶽が言った。

「元、宿直衆の副頭か‥‥‥お屋形様にかなり信頼されておったと見えるのう」

「小田と同じく、二の曲輪内に立派な屋敷を持っておるそうじゃ」と早雲は言った。

「じゃろうな。竜王丸殿がお屋形様になれば、当然、宿直衆に戻るという事になるのう。小田との仲も悪いようには見えんし、毒など入れるような男には見えんな」

「四十を過ぎておるしな、家族もおる。今更、そんな危険を犯して身を誤るような事はせんじゃろうのう。白じゃな」

「次は小島じゃ」と富嶽は言った。

「元、四番組の一員で、小田の推薦でここに来たそうじゃ」

「小田の推薦という事は、小田と何かつながりがあるのか」

「いや、特につながりはないらしい。腕を見込まれたらしいのう」

「確かにできそうじゃな。小田の推薦で入ったのなら小田を裏切るような事はあるまい」

「いや、それは分からん。かなりの腕を持っていながら、ここにおっては使う事がほとんどないと言っていいじゃろう。かつての同僚たちは戦に行って活躍して、出世した者もかなりおるようじゃ。傍目(ハタメ)から見れば、北川衆というのはお屋形様直属の上級な武士じゃ。誰もがなれるというものではない。侍たちの憧れの職種でもある。しかし、戦に出る事はなく、北川衆のまま終わるか、文官となって守護所勤務になるかじゃ。平和な時代だったら、それでも満足するという事もあるが、今のような乱世となると、若い者たちは皆、戦に出て活躍し、一城の主になるという事を夢見るはずじゃ」

「小島もそうじゃというのか」

「小島は三十二じゃ。今、働き盛りと言える。戦に出たいと思うのも当然じゃろう。あのまま四番組におれば、今頃は組頭になって戦で活躍したかもしれん。高天神城の福島左衛門尉と掛川城の朝比奈備中守の二人は御番衆の頭から城主になっておる。そんな事を聞けば、小島だって戦に出たくて、うずうずしておるに違いないわ」

「北川衆をやめるという事はできんのか」

「難しいらしい。やめるには入れ代わりに入る者を決めなくてはならん。なりたいという者はいくらもおるが、北川衆になるには重臣たちの審査が行なわれ、重臣たち全員が賛成して、最後にお屋形様の了解がなくてはならんのだそうじゃ」

「なかなか大変なんじゃのう」

「応仁の乱が始まって以来、戦続きで、小島がやめたいと思っても代わりの者が決まらなかったんじゃろう」

「しかしのう。戦に出たいからと言って毒殺などするかのう」

「もし、他の派閥の有力者に頼まれて、竜王丸殿がお屋形様候補の座から下りれば優遇すると言われたとして、小島が動くかどうかじゃな」

「その前に、武辺者と言われておる小島が、毒を使って仲居を殺すなどという卑怯な手を使うとは思えんのう。たとえ、その事がばれなかったにしろ、そんな事をしたとなれば、自分の中に傷が残るという事になる」

「言えるな。そもそも、その毒殺という卑怯な手を誰が考え出したかが分からん」

「山伏かも知れんのう」小太郎は言った。「膠着(コウチャク)状態が続いておる、こういう時期、裏で山伏たちが活動しておるという事は充分に考えられる事じゃな」

「やはりのう‥‥‥小島は白という事じゃな」

「多分な。敵の立場から見て、小田とつながりのある小島を誘い込む事は危険じゃからのう‥‥‥おいおい、このまま行ったら、また、誰もいなくなっちまうんじゃないのか」と小太郎は言った。

「分からん。いなくなったら、また、初めからやり直すさ」

「次は、三番組にいた大谷」と富嶽は言った。

「三番組の頭は当時、福島左衛門尉じゃったと言ったのう」

「そうじゃ。左衛門尉は竜王丸派じゃ」

「今の三番組の頭は誰なんじゃ」

「葛山備後守。播磨守の弟じゃ」

「葛山か‥‥‥頭が交替する時は、その組員というのは、そのままなのか」

「詳しくは知らんが、左衛門尉が何人か引き連れて出て行き、備後守が何人か引き連れて補充するんじゃないかのう」

「そうか‥‥‥大谷の奴は、すぐそこの家に住んでおるのか」

「ああ。三年前に嫁を貰って、ここから移ったそうじゃ。今、二人の子がおるらしいのう」

「子供がおったら、危ない事に顔を突っ込むとは思えんが、はっきり、白とは言えんのう。保留という事にして、最後は山崎じゃ」

「山崎は新顔じゃが、ここに来る前に斎藤氏の鞠子城を守っておったというのじゃから、わしは白じゃと思うがどうじゃ」

「うむ、ここに来て、まだ一年も経っておらんのなら、北川衆になったという誇りもあるじゃろうしな。竜王丸殿を守るという事に生きがいを感じておるかもしれんが、はっきり、白とは言いきれんのう」

「とりあえず、保留という事にしておくかのう。保留となったのは何人じゃ」と早雲は富嶽に聞いた。

「三人です。仲居の三芳、北川衆の大谷と山崎じゃ」

「三人か‥‥‥」

「三芳の事は春雨とお雪に任せよう。山崎は吉田に任せ、通いの大谷は村田と久保に任せる事としよう」

「そういえば、小田を見張っている二人から何か知らせはあったのか」と小太郎は早雲に聞いた。

「ああ。福島左衛門尉の屋敷に出掛けた位で、特に怪しい行動はないそうじゃ」

「小田は福島左衛門尉とは知り合いなのか」

「小田が四番組の頭だった頃、左衛門尉は三番組の頭じゃった。その辺のところで、古い知り合いなんじゃろう」

「左衛門尉なら竜王丸派じゃな。二人共、屋敷は二の曲輪の中なのか」

「そうじゃ。小田は四番組の頭の時から、ずっと同じ屋敷に住んでおるらしい。左衛門尉もそうじゃろう。重臣たちの屋敷には及ばんが、なかなか立派な屋敷だそうじゃ」

「ふーん。喜八は屋敷を貰わなかったのか」

「一人で来たからと言って断ったそうじゃ。お屋形様は大層な屋敷を用意してくれたらしいがのう」

「勿体ない事じゃな。その屋敷には誰かが入っておるのか」

「さあ、知らんが誰かが入っておるんじゃろう」

「さて、わしは見回りして来るわ。大谷も山崎も昼番じゃったな。ちょっと顔色でも見て来るかのう」

 小太郎は部屋から出て行った。

 富嶽は紙を眺めながら、まだ考えていた。

「疲れたのう」と早雲は言うと、そのまま横になって体を伸ばした。

 宝処寺の鐘が七つ時(午後四時)を知らせていた。お屋形様の屋敷の評定の終わる時刻だった。五条安次郎がそろそろ新しい情報を持って来るだろう、と早雲は天井を眺めながら思った。





 お屋形様の屋敷内の評定では、北川殿と小鹿屋敷の仲居の毒殺の件が話題に上り、竜王丸派の天野民部少輔と小鹿派の葛山播磨守、天野兵部少輔の三人が、しきりに備前守派の福島越前守と摂津守派の岡部美濃守を非難していたと言う。

 越前守も美濃守も絶対に、わしらがやったのではないと否定していたが、三人は備前守派か摂津派のどちらかがやったに違いないと決め付けていた。そして、そんな卑怯な手を使う者をお屋形様にするわけには行かんと言い出し、備前守か摂津守の二人のどちらかが直接、命じたかのように言い出すと、備前守と摂津守がお互いに自分ではないと相手を攻めて言い合いになり、評定の場で兄弟喧嘩が始まりそうになったと言う。それ以外に、これといった進展はなく、今日の評定は終わった。それぞれの派が評定の場よりも、評定が終わった後に陰に隠れて動いているようだった。

 その日の夜、休みだった小田隼人正(ハヤトノショウ)が訪ねて来た。当然、その後を付いて才雲が帰って来た。小太郎は才雲から話を聞くと、孫雲は小田に頼まれて、小田屋敷の斜め前にある長沢屋敷を見張っていると言う。小太郎が長沢というのは何者だと聞いたが、才雲は知らなかった。その長沢の屋敷に大谷が訪ねて来て、そいつを見張っていろと小田に頼まれたと言う。どうして、大谷がそんな所に行ったのかも才雲は知らなかった。それだけ言うと才雲は孫雲の所に戻って行った。

 小太郎は小田から詳しい事情を聞こうと屋敷に上がった。

 小田は早雲と話していた。

「小太郎、おぬしも聞いてくれ」と早雲が呼んだ。

「今、才雲から、大谷が長沢とかいう奴の屋敷におるとか聞いたが、どういう事じゃ」

「それを今から聞くところじゃ」

 小田の話によると、長沢藤三郎というのは三番組の副頭だと言う。大谷が三番組にいた頃の同僚で、昔から仲が良かった。大谷が長沢の屋敷に遊びに行くのは前から知っていたが、最近になって、やけに出入りが激しくなった。この二、三日も毎日のように来ていて、なぜか、小田の屋敷の方を気にしているような感じがする。何となくおかしいと思っていても、同僚を疑いたくないので放っておいたが、昨日、あんな騒ぎがあったので、もしかしたらと思い、元、三番組の頭だった福島左衛門尉の所に行って長沢の事を調べた。

 長沢藤三郎は天野氏の一族だと言う。今川家が遠江の守護職だった頃、天野氏は今川家の被官となり、長沢の祖先がお屋形様に仕えるため駿府に来た。やがて、遠江の守護職は今川氏から斯波(シバ)氏に代わり、天野氏の本家は斯波氏の被官となったが、長沢氏はそのまま駿府にいて、代々、お屋形様の身辺に仕えていた。藤三郎も御番衆となって、同じ組にいた大谷と仲が良くなった。大谷の祖先も遠江の久野(クノ)氏だったので、近づいて行ったのかもしれない。

 長沢が天野氏だったと聞いて、天野氏が駿府に来て以来、長沢屋敷にやたらと人の出入りがある事も納得できた。しかし、大谷までもが出入りするという事は納得しかねた。そこで、一応、早雲に言っておいた方がいいかもしれないと、やって来たのだと言う。

「天野氏か‥‥‥」と早雲は言った。

「天野氏も二つあるが、どっちじゃ」と小太郎は聞いた。

「それは分かりません。三番組の今の頭は葛山備後守じゃから小鹿派です。多分、長沢も小鹿派じゃろう。しかし、天野氏は今の所、竜王丸派と河合備前守派に分かれています。どっちの天野氏とつながりがあるのか分かりません」

「大谷が長沢の屋敷に急に出入りするようになったのはいつ頃からじゃ」

「長沢はお屋形様と共に戦に行っておったから、戦から帰って来てからです。わしと大谷はほとんど勤務が逆じゃから、わしがこの目で見たのは今日が初めてじゃが、門番が毎日のように訪ねていたのを見ています」

「門番は大谷の事をよく知っておるんですか」

「ええ、知っております。今はそうでもないが、わしも昔はよく若い者たちを屋敷に呼んで騒いだもんじゃった‥‥‥わしの屋敷の回りには御番衆の頭たちの屋敷が並んでいます。奴らの屋敷を見張らせるために、門番たちに、どこの屋敷にどんな奴が出入りしたかを一々、書き留めて置くように命じていたんです。そしたら、大谷の名が毎日のように出て来るんで、おかしいと思ったのです」

「毒殺のあった昨日はどうじゃった」

「昨日は来なかったらしい」

「臭いな」

「大谷の奴は今も長沢の屋敷におるんじゃな」

「孫雲が見張っておるらしい」と小太郎は言った。

「孫雲が?」

「わしの屋敷を見張っていたんで、頼んでおきました」

「すまなかった」と早雲は謝った。「今朝の時点では、そなたの事も疑っておったんでな。今は疑ってはおらん」

 早雲は小田隼人正に下手人の疑いのある者の名前の書かれた紙を見せた。

「この三人の中に下手人が?」

「多分」

「やはり、大谷も入っておりましたか‥‥‥大谷の事はわしに任せてくれませんか」

「いいでしょう」と早雲は頷いた。「大谷が天野氏の所に出入りしているというだけでは、まだ、決め手になりませんからね。もう少し、様子を見た方がいいでしょう。しかし、もし、大谷が下手人だとしたら、なぜ、そんな事をしたと思います」

「推測に過ぎませんが、長沢から何事かを言われて、竜王丸殿を裏切る事になったらしい。長沢は天野氏とつながりがある。天野氏の重臣に取り立てるとでも言われたのかもしれません」

「天野氏の重臣か‥‥‥北川衆でおるよりも、そっちの方がいいかのう」と小太郎は聞いた。

「北川衆は名誉ある仕事には違いありませんが、贅沢はできませんからね。大谷と長沢の二人を比べて見ても、格は大谷の方が上じゃが、住んでいる屋敷を比べてみると長沢の方がずっと立派です。長沢が三番組の副頭になって、今の屋敷に移ったのは一年程前じゃが、大谷は長沢の贅沢な生活振りを見て、北川衆が嫌になったのかもしれん‥‥‥小島の奴もそうじゃ。わしが北川衆に推挙したばかりに戦にも出られなくなってしまった。悪い事をしたと後悔しておるわ。あのまま御番衆でいれば、間違いなく、今頃は頭じゃろう。小島の奴は決して、そんな愚痴をこぼす事はないが、ほんとに悪かったと思っております」

「北川衆と御番衆では、そんなに俸給が違うのか」

「いえ、俸給はそれほど違いませんが、御番衆には色々と余禄があるのです」

「成程のう。重臣たちから袖の下が入るというわけじゃな」

「はい、そうなのです。特に副頭という地位は、頭に取り持つという事で裏銭がかなり集まるのです」

「話は変わるが、天野氏というのはそんなに勢力を持っておるのか」と小太郎は聞いた。

「はい、持っております。前回の戦で、東遠江において勢力を持っていた横地氏、勝間田氏が滅びました。今、現在、遠江において一番勢力を持っているのが天野氏と言ってもいいでしょう。これから、今川家中において、横地、勝間田両氏の領土の奪い合いが始まる事でしょう。一応は前回の戦の恩賞として、掛川城の朝比奈備中守、高天神城の福島左衛門尉、堀越城の堀越陸奥守殿、久野城の久野佐渡守殿、新野城の新野左馬助殿、そして、天野両氏に分け与えられるという事になるでしょうが、今の所、家督騒ぎでそれどころではありません。今川家が内部争いをしている隙に、天野氏は実力を持って領地を広げようとたくらんでいるのかもしれません。そして、領地が広がれば当然、その土地を守る城が必要となり、その城主にしてやるとでも誘われれば、大谷なら飛び付く可能性はあります」

「という事は天野氏にとっては、今川家の内訌が続いた方が都合がいいと言う事か」

「はい、その通りです。天野氏から見れば、お屋形様が丁度いい時にお亡くなりになったと言えます。宿敵であった横地、勝間田氏がいなくなり、今川家の勢力もまだ、それ程入っていない今は、遠江の国を取るのに絶好の時期だと言えます。お屋形様は遠江進出に当たって掛川と高天神に城を築きましたが、そこを守っている兵は二百足らずに過ぎません。天野氏の実力を持ってすれば倒す事など簡単です。それをしないのは、やはり、今川家が恐ろしいからです。その今川家が家督争いを始めれば、遠江の事まで手が回らないでしょう。その隙に、天野氏は遠江を我物にしようとたくらんでいるに違いありません」

「すると、天野氏は今川家に家督争いをさせるために、駿府に乗り込んで来たという事になるのう」と早雲は言った。

「そうです。天野氏は今、竜王丸派と河合備前守派の二つに分かれていますが、それも評定を混乱させる手だてかもしれません。天方氏も天野氏と同じ穴の貉(ムジナ)でしょう」

「成程のう‥‥‥しかし、そなた、よく、そんな遠江の事まで知っておるのう」

「いや、これはみんな、今日、福島左衛門尉の所で聞いて来た事です。実は、わしもそんな事を聞いて驚きました」

「福島左衛門尉か‥‥‥この間、挨拶に来た時は、ほとんど、話などしなかったが、なかなかの男のようじゃのう」

「お屋形様が高天神の城主にしただけの事はあります。やがて、朝比奈備中守と共に、今川家を代表する重臣になる事でしょう」

 小田隼人正は帰って行った。入れ代わるように富嶽が入って来た。

「どこ行っておったんじゃ」と早雲が聞いた。

「仲居の部屋です」

「何じゃと」

「絵を描いておりました」

「仲居を描いておったのか」

「はい、富士山もいいが、女子(オナゴ)もいいのう」と富嶽は笑った。

「ほう、今度は似絵(ニセエ)画きになったのか」

「この屋敷には別嬪(ベッピン)が揃っておるので、描くのも楽しいわ」

「ほう、今度は女子を描いておるのか。ちょっと、見せてみろ」と小太郎がニヤニヤしながら言った。

「あまり、似てはおらんが」と言って、富嶽は描いた絵を見せた。

「これは、和泉じゃな」

「ええ」と富嶽は頷いた。

「おぬし、和泉に惚れたか」

「いえ、そんな‥‥‥」

「顔が赤くなっておるぞ」

「のんきなもんじゃ」と早雲は照れている富嶽を見ながら言った。

「早雲、さっきの小田の話じゃが、どう思う」と小太郎は聞いた。

「裏で糸を引いておったのは天野氏のようじゃのう」

「天野氏?」と富嶽は二人を見た。

 早雲は小田の話を富嶽に聞かせた。

「ほう、以外な者が出て来ましたのう」

「天野氏が今川家を分裂させようと考えておるのなら、何としてでも、ひとつにまとめなければならんのう」

「しかし、まとめるのは難しいが、分裂させるのは簡単じゃ。今回の毒殺騒ぎも勝手に下手人を作って、どこの者だったと言えば騒ぎはさらに大きくなるじゃろう。少しずつ煽(アオ)って行けば、いずれ、戦にまで持って行く事も可能じゃ」

「それはそうじゃが、敵が分かっただけでも、幾分、有利になったと言えるぞ」

「まあな。それで、大谷の奴はどうするつもりじゃ」

「大谷か‥‥‥まだ、毒を持っておる可能性があるからのう。何とかせにゃならんが‥‥」

「逆に大谷を使って、敵を撹乱できんかのう」と小太郎は言った。

「逆に使う?」

「奴に偽の情報をつかませて敵に流し、混乱させるんじゃが‥‥‥天野氏が困るような、何かいい手はないかのう」

「天野氏が困る事か‥‥‥困る事と言えば留守にしておる国元の事じゃろうのう」

「国元に騒ぎが起きたと言うのか‥‥‥無理じゃな。そんな嘘はすぐにばれる。それよりも、両天野氏が争いを始めるような事になればいいんじゃがのう」

「仲たがいをさせるのか‥‥‥」

「わしも考えるが、おぬしも考えておいてくれ。わしは仕事に戻るわ」

「おう、頼むぞ」

 小太郎は出て行った。

 富嶽は懐から例の紙を出して広げると、「下手人は大谷じゃったか」と言いながら、大谷の名前の所を丸で囲んだ。

 早雲はその紙を覗きながら、「一件落着じゃ」と言いかけて、紙を富嶽から奪うとよく見直した。

「ちょっと待て。大谷の奴はその日、表門におったはずじゃ。どうして、台所まで行けるんじゃ。台所に行くには裏門の奴に見られるはずじゃ。用もないのに台所などに入れば怪しまれる事になる。まさか、台所の厠まで行くというのもおかしな話じゃ」

「それが怪しまれずに、台所に入る方法があったのです」と富嶽は言った。

「なに、おぬし、そんな事を知っておるのか」

「はい。つい今し方、分かりました。わしは仲居の所で絵を描いておったんじゃが、門番がお茶を貰いに台所に入って来ました。門番は一応、仲居に声を掛けますが、仲居たちは一々、出ては行きません。話を聞くと、台所にはいつでもお湯が沸いておって、門番たちは好きな時にお茶を取りに来るというわけです。台所に誰もおらん食事時間や休憩時間を見計らって、台所に行く事は可能なのです。特に仲居たちが食事をしておる頃は、門番たちも交替で食事を取っておるため、必ず、お茶を取りに来るとの事です」

「そうか、お茶か‥‥‥お茶を取りに行くのなら裏門の奴らに見られても、堂々と台所に入れると言うわけか‥‥‥成程のう」

「そこで、昨日、食事をしておる時、誰がお茶をくれと言って来たか聞いてみました」

「おう、そしたら?」

「裏門におった山崎が来て、表門の大谷が二度来たそうです」

「大谷が二度もか‥‥‥しかし、よく、そんな事を覚えておったな」

「長門が覚えておったんです。長門はその日、山本にしつこく誘われておって、断ったのにまた来やしないかと、台所に来る者の声を聞いておったんだそうです」

「成程な、山本の奴も余程、嫌われておるとみえるな‥‥‥しかし、山本のお陰で、大谷が二度も来たという事がはっきりしたわけじゃ。決まりじゃな」

「しかし、困った事ですな。わしは仲居たちに下手人は外部の者じゃと言っておきましたが、仲居たちも内部の者を疑っておるようです。大谷が下手人だと分かれば、仲居たちは勿論の事、みんなに袋だたきにされますよ」

「そうじゃろうのう。袋だたきにされる前に御番衆に引き渡した方がよさそうじゃな」

「魔が差したんじゃろうが、家族の者たちが可哀想じゃな」

「家族か‥‥‥」と早雲は呟いた。

「おや、雨が降って来たようじゃ」と富嶽が外を見ながら言った。

 雨の音は段々と激しくなって行った。

「今晩の夜警は大変じゃな」と言うと早雲は部屋から出て行った。

「どちらへ」

「別に用はないがの、急に甥御殿の顔が見たくなっての」

 今の早雲にとって、北川殿とその子供たちは大事な家族だった。決して、その家族たちを不幸な目に合わせてはならなかった。

 早雲は縁側に出て、庭園の中の茶屋の中で仁王立ちをしている小太郎を眺めながら、北川殿の居間に向かった。
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