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陰流の開祖であり、忍びの術の開祖でもある愛洲移香斎の物語です。
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11.三浦次郎左衛門尉






 駿府屋形内の長谷川法栄(ホウエイ)の屋敷に隠れている富嶽、多米権兵衛、荒木兵庫助の三人から、お屋形内の詳しい状況を聞くと早雲と小太郎の二人は、三浦屋敷の南隣にある木田伯耆守(ホウキノカミ)の屋敷に潜入し、待機していた。

 木田伯耆守は元、御番衆の一番組の頭だったが、小鹿新五郎がお屋形様になったために頭の地位を奪われ、家臣を引き連れて小河(コガワ)の長谷川屋敷に移っていた。四番組の頭だった入野兵庫頭(ヒョウゴノカミ)も木田と一緒に駿府屋形から去っていた。二人共、今川一族であるため、二の曲輪(クルワ)ではなく、本曲輪内に屋敷を持っていた。今は二人共、竜王丸の御番衆となって、入野は竜王丸のいる小河の長谷川屋敷を守り、木田は摂津守の青木城を守っていた。

 早雲と小太郎は誰もいない木田屋敷の台所で夜が更けるのを待っていた。二人は武士の格好をしている。お屋形内をうろつくのに一番目立たない格好だった。

 二人は下帯一つで北川に入り、水の中を潜って道賀亭の濠に出た。濠から上がると、すぐ側にある北川衆の屋敷に入った。北川衆の屋敷は四軒並んでいて、今は全部、空き家となっている。小太郎はいつも、その家に着替えを置いていた。そこで武士になった二人は堂々と本曲輪内を歩いて長谷川屋敷に入って行った。勿論、長谷川屋敷への出入りは誰にも見られないように注意を払った。そして、暗くなってから木田屋敷に忍び込んだのだった。

「さすがに、御番衆がウロウロしておるのう」と早雲は言った。

「まあな‥‥‥ここから抜け出すのは難しいわ」

「もし、三浦殿が本拠地に戻ると言っても出られないんじゃろうか」

「さあ、どうかのう。三浦は出られるかもしれんが、残った者は人質となろうのう。三浦が裏切ったら人質は殺される」

「うむ、じゃろうの」

「とにかく、三浦に会ってからじゃ」と小太郎は板の間に横になった。「本人が寝返る気もないのに、あれこれ考えてみてもしょうがない」

「それもそうじゃな」と早雲は板の間に上がった。

 台所は綺麗に片付けられてあった。余裕を持って引き上げたようだ。木田伯耆守が引き上げる頃は去る者は追わずだったので、きちんと掃除をしてから引き上げたのだろう。

「小太郎、今、小鹿派の軍勢はどれ位なんじゃ」と早雲が振り返って聞いた。

「今、駿府におる軍勢か」と小太郎は天井を見上げたまま言った。

「ああ」

「ここ、本曲輪に三番組と五番組がおるじゃろう。三百人余りおるのう。それと、小鹿新五郎の屋敷を守る宿直(トノイ)衆が二百位おるかのう。二の曲輪には二番組が百五十人。詰(ツメ)の城に、庵原安房守(イハラアワノカミ)と矢部将監(ショウゲン)の兵が二百。お屋形の回りに興津、蒲原、矢部美濃守の兵が三百といった所かのう」

 早雲は小太郎の側に腰を下ろすと懐から紙と筆を出して、小太郎の言う事を書きとめた。

「しめて、一千百五十か‥‥‥おい、福島越前守の兵は帰ったのか」

「おっ、忘れておった。越前守と葛山播磨守の兵、五百が阿部川におったわ」

「ほう。葛山の兵も来ておったのか」

「ああ。いくら遠いといっても兵を連れて来ないんじゃ越前守に主導権を握られるからのう」

「三浦の兵はおらんのか」

「五番組だけじゃな。阿部川を封鎖されて来られんのじゃろう」

「そうじゃのう‥‥‥しめて、一千六百五十人余りという事じゃな」

「一千六百五十か‥‥‥竜王丸殿の兵力はどんなもんじゃ」

「阿部川に六百、青木城に三百という所かのう」

「九百か」

「今、この辺りにおるのはのう。あと四百余りが三浦殿の大津城を包囲しておるじゃろう。それと、遠江勢によって天野兵部少輔の犬居城も包囲するつもりじゃが、これは、すぐにというわけにもいかんじゃろう」

「うむ‥‥‥三浦次郎左衛門を寝返らせたとして、その後はどうするんじゃ」

「後は葛山播磨と福島越前を仲間割れさせる」

「それで? どっちを味方に付けるんじゃ」

「ふむ。どっちがいいかのう」

「どっちも一筋縄で行く相手じゃない事は確かじゃ。下手をすれば関東の軍勢を呼び込む事も考えられるわ」

「関東か‥‥‥扇谷(オオギガヤツ)上杉か‥‥‥まずいのう。それだけはやめさせなくてはならんな」

 二人は一時程待つと行動を開始した。

 下弦の月が出ていた。

 木田屋敷の裏門から外に出ると、木田屋敷と三浦屋敷との間の通りに出た。通りに人影はなかった。小太郎が言うには警固の人数は増えたが以前程、警戒は厳しくはないという。以前は、お屋形内に敵、味方が共にいたので、それぞれが敵の動きを見張って、厳重に見回りをしていたが、今はお屋形内にいるのは皆、味方で、敵は外にいる。しかも、お屋形の回りにも軍勢が守っているので、敵が潜入する事など不可能だと安心しているようだった。

 早雲は以前、忍び込んだ小太郎の案内で、三浦屋敷の塀を乗り越えて屋敷内に入った。

 目の前に大きな建物があり、障子越しに明かりが見えた。

「あれが、湯殿じゃ」と小太郎は奥の方に見える建物を示しながら言った。

「この前、覗いたら、若い女子(オナゴ)が湯浴みをしておった。いい眺めじゃったぞ。三浦殿の愛妾(アイショウ)らしい。なかなかいい女子じゃった」

「ずっと、覗いておったのか」

「ああ。滅多に見られるもんじゃないからのう」

「のんきなもんじゃ」

「ちょっと覗いてみるか。また、おるかもしれん」

「明かりがついておらん。誰もおらんわ」

「そうか、残念じゃのう。もうちょっと早く来ればよかったかのう」

「そんな事より、三浦殿はどこにおるんじゃ」

「そこにおるじゃろ。向こう側の部屋じゃ」

 二人は身を低くしながら建物の縁側に沿って向こう側に回った。障子の向こうに三浦次郎左衛門尉の姿が見えた。文机(フヅクエ)に座って何かを読んでいる。その部屋には次郎左衛門尉以外、誰もいなかった。隣の部屋は暗い。誰もいないようだ。

 次郎左衛門尉のいる建物の西側にも大きな建物があり、どうやら、それは主殿(シュデン)のようだった。主殿の方にも人のいる気配はなかった。主殿の南面から西面にかけて庭園が広がり、庭園にも人影はなかった。

 早雲は立ち上がると、小声で次郎左衛門尉に声を掛けた。

 次郎左衛門尉は顔を上げると、正面に立っている早雲を見た。

「早雲です」と言いながら口を押える仕草をした。

「早雲殿か」と次郎左衛門尉は言った。驚いている様子は少しもなかった。じっと早雲を見つめてから、「一体、どうしたのじゃ。こんな所に」と落ち着いた声で聞いた。

「御無礼な事とは存じましたが、三浦殿と至急、お話をしなければならなくなりましたので、こうして、やって参りました。何卒、お許し下さい」早雲も次郎左衛門尉を見つめながら、静かな声で言った。

「わしに話?」

「はい。できれば内密にお願いしたいのですが」

「内密にか‥‥‥よかろう。わさわざ、危険を冒して、ここまで来たからには余程の話なんじゃろう。しかし、ここではまずいのう。よし、主殿の方で話を聞こう」

 次郎左衛門尉は部屋から出ると主殿に向かった。早雲と小太郎は庭を通って主殿に向かった。主殿の向こうに表門が見えた。門は閉ざされ、門番小屋から明かりが漏れていたが、人影は見えなかった。やがて、主殿の廊下に手燭(テショク)を持った次郎左衛門尉が現れ、一室に入ると襖(フスマ)を閉めた。南側の門番から見えない襖が開くと、次郎左衛門尉は早雲と小太郎を手招きした。

 そこは畳十二枚が敷き詰められた広間だった。回りは山水の画かれた襖で囲まれ、奥の方には上段の間があるようだった。

 小太郎は耳を澄まして回りの状況を窺った。誰かが隠れて、二人を狙っている可能性もあったが、そんな気配は感じられなかった。

 次郎左衛門尉は燭台に火を移すと二人を見た。

「それにしても、よく、お屋形内に入れたものじゃな。早雲殿は昔、行者(ギョウジャ)だったという噂を聞いた事があったが、まさしく、行者のようじゃ」

「風眼坊は紛れもない行者です」と早雲は小太郎を示した。「風眼坊の案内でここまで来る事が出来ました」

「風眼坊殿か‥‥‥北川殿におられた方じゃな」

 小太郎は次郎左衛門尉を見つめながら頷いた。

「北川殿と竜王丸殿が急にお屋形内から消えられたが、それも、そなたの仕業と見えるのう。大したもんじゃ」次郎左衛門尉は軽く笑うと早雲の方を見て、「それで、至急の話とは?」と聞いた。

「はい。三浦殿、竜王丸派と摂津守派が一つになったのは御存じでしょうか」

「存じておる」

「そこで、お願いがございます」

 次郎左衛門は何も言わずに、早雲を見ていた。

「実は、三浦殿に寝返ってもらいたいのです」と早雲は単刀直入に言った。

「わしに竜王丸派になれと申すのか」

「はい。竜王丸派と摂津守派が一つになった事により、阿部川以西は我らの勢力範囲となりました。三浦殿の本拠地を除けばです。このままの状態ですと、三浦殿の本拠地を我らの手で奪い取るという事になりかねません。我らのもとには血の気の多い者がかなりおります。摂津守殿を初めとして福島土佐守殿、岡部五郎兵衛殿などがおります。彼らは三浦殿の城を落とせと主張しております。彼らは戦がしたくて、うずうずしておるのです。わたしは今川家内で戦をするのは絶対に反対です。一つの戦が始まれば連鎖反応を起こして、駿河中で戦が始まる事でしょう。そうなったら、今川家は終わりです。誰をお屋形様にするかなどという家督争い以前に今川家の存亡に関わって参ります。戦を始めさせないためにも、三浦殿に寝返って欲しいのです。いかがでしょうか」

 次郎左衛門は黙っていた。

「今川家のためです」と早雲は言った。「三浦殿が小鹿新五郎殿を押した気持ちは分かります。今の今川家を発展させて行くには、備前守殿よりも、摂津守殿よりも、まして、まだ六歳の竜王丸殿よりも、小鹿新五郎殿の方がふさわしいと思うのは当然です。しかし、強引にお屋形を占拠して新五郎殿をお屋形様にしても、それだけでは何も解決にもなりません。返って、それぞれの派閥の溝を深めただけです。竜王丸殿の後見役となっておられる摂津守殿は少々、頼りないとお思いでしょうが、何とぞ、重臣の方々が助けて、今後の今川家を見てやって下さい。お願い致します」

「‥‥‥今川家のためか」と次郎左衛門尉は呟いた。

「はい。お願いします」

「わしが寝返ったとして、それで、うまく行くと申すのか」

「とりあえずは、戦を避ける事ができます」

「‥‥‥そなたの言う事は分かった。しばらく、考えさせてくれ」

「はい。しかし、時があまり、ありません。今朝、福島土佐守殿が大津城を落とすと言って、兵を引き連れて現地に向かいました」

「そうか‥‥‥一つ、聞きたいのじゃが、もし、寝返ったとして、どうやって、ここから出ればいいんじゃな。今更、寝返ったから出ると言っても播磨守が頷くとは思えん」

「三浦殿が寝返った場合、三浦殿の身内は勿論の事、下男、下女にいたるまで、すべて、ここから逃がすつもりです」

「なに、下男、下女まで逃がすと?」

「はい」と早雲は力強く頷いた。

「そんな事ができるのか。わしの屋敷は最近、播磨守の手下に見張られておるのだぞ」

「やはり、そうでしたか」

「うむ。そなたらがわしの寝返りを考えたように、播磨守もわしが寝返りはせんかと怪しんでおるのじゃ」

「大丈夫です。三浦殿が寝返る気がおありなら何とか考えてみます」

「そうか‥‥‥」

「明日の今頃、また、参ります。その時、御返事をお聞かせ下さい」

「明日の今頃か‥‥‥分かった」

「失礼いたします」

 早雲と小太郎の二人は次郎左衛門尉に頭を下げると庭に下り、闇の中に消えて行った。

 次郎左衛門尉は二人の消えた庭園をじっと見つめていた。





 次の日の夜、早雲と小太郎が三浦屋敷に行くと、次郎左衛門尉は身内の者を集めて、昨夜と同じ広間で待っていた。

 二人を広間に入れると、宿直(トノイ)衆の格好をした武士が外を窺って襖を閉めた。

「信じられませんな。わしらの警戒を破って、ここに来るとは」と右京亮(ウキョウノスケ)が言った。

「いやあ、苦労しました」と早雲は言った。

 小太郎は懐の中に隠した右手で手裏剣を握っていた。次郎左衛門尉の本意が分かるまでは油断できなかった。襖の向う側に敵が隠れてはいないか、耳を澄まして探っていた。

「さっそくですが、昨日の件の答えは出ましたでしょうか」と早雲は聞いた。

 次郎左衛門尉は頷いた。そして、早雲と小太郎に同席している三人を紹介した。

 次郎左衛門尉の左に座っていたのが寺社奉行の三浦石見守(イワミノカミ)、右側に座っている二人は弟の御番衆の五番組頭、三浦右京亮と甥の宿直衆の三番組頭、三浦彦五郎だった。

 早雲は三人共、会うのは初めてだったが、小太郎は右京亮と石見守の二人を知っていた。小太郎の方は知っていても、勿論、相手の方は知らなかった。

「早雲殿、実際問題として、わしら一族の者たち、すべてがここから抜け出す事など、できるのですかな」と次郎左衛門尉は聞いた。

「はい。戦をやめさせるために、三浦殿に、ここから出ていただくわけですから、犠牲者は一人も出したくはありません。皆さんを無事に、ここからお出ししたいと思っております」

「女子供もおるのじゃぞ」と石見守が言った。

「はい。存じております」

「そなたが北川殿を知らぬ間に、ここからお連れした事は存じておるが、あの時とは数が全然違うぞ」

「はい。その事なんですが、詳しい人数などを教えていただけませんか」

「うむ。その前に、早雲殿、そなたの言う通りにしたとして、そなたが、わしらを裏切らないという証(アカシ)がないと、わしら一族の命をそなたに預けるという事はできかねるが」

「証ですか‥‥‥」

「そうじゃ。わしらを寝返らせておいて、その事を葛山播磨にでも知らせれば、小鹿派は分裂し、その方の思う壷(ツボ)という事になるからのう」と石見守は言った。

「うーむ。確かに‥‥‥しかし、わたしを信じてもらうしか‥‥‥」

「それは無理じゃ」と石見守は首を振った。「そなたを信じろと言っても、今、現在、わしらとそなたは敵という立場じゃからのう」

「うーむ。しかし、」

「そなたが人質として、ここに残る事じゃ」と石見守は言った。

「わしが人質ですか‥‥‥」

「そうじゃ」

「うむ‥‥‥しかし、わしがここにおっては作戦の指揮が執れんが‥‥‥」

「そなた以外の者でも構わんが、ただし、重臣に限るのう」

「‥‥‥分かりました。わたしが人質となりましょう」と早雲は言った。

「確かじゃな」

 早雲は小太郎を見てから頷いた。

「それでは話を進めますかな」と次郎左衛門尉が言った。

 次郎左衛門尉の屋敷には側室(ソクシツ)が一人と侍女(ジジョ)が二人、仲居が五人、門番が十二人いた。門番十二人のうち八人が通いで、城下に家を持ち、家族がいる。その他に、城下の方にも下屋敷があり、本拠地から連れて来ている家臣たち三十人が詰めていた。

 寺社奉行の石見守の屋敷も本曲輪内にあり、家族も共に住み、三十人近い部下がいる。部下たちもほとんどの者が家族と共に城下に住んでいた。

 五番組の右京亮と宿直衆の彦五郎は二曲輪内に屋敷を持ち、当然、家族と住んでいる。五番組の中の侍たちの三分の一は三浦家の家臣の子弟たちだった。彼らの中にも家庭を持っている者はいた。宿直衆の中にも三浦家の者が二十人程いて家庭持ちもいる。

 総勢、五百人以上の一族あるいは家臣たちがいた。

「さて、どうやって、これだけの人数を播磨守に気づかれずに、ここから出すというのですかな」

「右京亮殿、お聞きしたいのですが、確か、右京亮殿の五番組は今晩から三日間、夜番で、二十五日から昼番に代わるとお聞きましましたが、その通りですか」と早雲は聞いた。

「はい。そうですが」

「という事は、二十四日の日暮れから二十五日の日暮れまで、丸一日、勤務に就くという事ですか」

「はい、その通りです」

「という事は、その日、三番組は丸一日、休みという事ですか」

「はい」

「という事は、三番組の連中は本曲輪にはいないという訳ですか」

「特に命令がない限りは、それぞれ、自分の家に帰っています。」

「その家というのは城下ですか」

「はい。頭とか数人の者は二の曲輪に屋敷を持っていますが、ほとんどの者は城下の長屋に住んでいます」

「そうですか‥‥‥」

「その日に抜け出すと言うのか」と次郎左衛門尉が聞いた。

「いえ。これだけ人数が多いと一度に出る事は難しい。しかし、一度にやらない事には、敵にばれてしまう可能性が高い」

「一度に? そんな事は不可能じゃ」と石見守が言った。

「そうです。女子供を先に逃がした方がいい」と右京亮が言った。

「はい。少しづつ逃がした方が確かかもしれませんが、家族たちにも近所付き合いというものがあるでしょう。突然、その家がも抜けの空になったら回りの者に怪しまれます。播磨守殿や越前守殿が気づいた時には、すでに全員がここから抜け出していなくてはなりません」

「成程。突然、隣の家に誰もいなくなったら確かに気づかれるわな」

「しかし、一度に、全員が消えるなどという事が本当にできるのか」

「そこを何とか考えなくてはなりません」

「うむ‥‥‥」

「右京亮殿、二十五日から二十七日まで昼番で、二十八日、二十九と夜番ですよね」と早雲は聞いた。

「はい。二十七日の日暮れから二十八日の日暮れまでは、我ら五番組が休みとなります」

「ふむ。来月の警固はどうなっておりますか」

「来月は、五番組は二の曲輪に移ります」

「今、二の曲輪には二番組が守っていますが、二番組と共に五番組も守りに加わるのですか」

「いえ。二番組は休みとなります。三番組も休みです。二番組、三番組は三月四月と二ケ月続けて勤務に就いていたので、来月は休みとなります。休みと言っても国元に帰る事は許されず、城下にいて待機していなければなりませんが」

「三番組は休みですか‥‥‥本曲輪は誰が守るのです」

「一番組と四番組です」

「新しく編成された組ですね」

「はい。ほとんどの者が、お屋形様、いえ、小鹿新五郎殿の家臣たちです」

「新五郎殿の家臣ですか‥‥‥頭も当然、新五郎殿の家臣という事ですね」

「はい。一番組の頭は新五郎殿の弟で新六郎殿、四番組の頭は草薙大炊助という首取りの名人です」

「来月になったら難しくなりますね。今月中に何とかしなければならない」

「今月と言ったら後七日しかない」と右京亮が言った。

「七日か‥‥‥」と次郎左衛門尉は唸った。

「早雲殿、女子供も含めて五百人程もいる我らを一体、どうやって大津に戻すつもりなんじゃ」と石見守は厳しい顔付きで聞いた。

「大津までは行きません」

「なに?」

「摂津守殿の青木城まで行けば後は安全です。摂津守殿を初めとして朝比奈殿、岡部殿、天野民部少輔殿らが三浦殿一族の方々を喜んで迎えましょう。後は陸路であれ、海路であれ、無事に国元までお帰りになれます」

「成程、そうじゃった。阿部川さえ渡ってしまえばいいわけじゃ。それなら、何とかなりそうじゃわ」

「しかし、気づかれずに事を運ばなくてはなりません。阿部川には五百余りの兵がおると聞いております」

「うむ、確かに、越前守と播磨守の兵が五百はおる。しかし、浅間神社の西の河原には今川の兵はおらん。浅間神社は今の所、中立の立場じゃ。小鹿派にしろ竜王丸派にしろ、浅間神社を敵に回したくないので、浅間神社の領域には踏み込まずにいる。摂津守派が阿部川を押えていると言っても、浅間神社への参拝客や商人たちを止めたりはせんのじゃ。あそこの河原を渡れば、簡単に川向こうに行く事ができるわ」

「そうでしたか、確かに、浅間神社の領域には武士はおりませんでした。僧兵や山伏ばかりがウロウロしておりました」

「女子供はお宮参りという事でお屋形を出て、阿部川を渡るとして、わしら御番衆や宿直衆はどうしたらいいのです」と右京亮が聞いた。

「宿直衆の勤務はどのようになっておりますか」

「宿直衆は三つに分かれていて、十日交替でお屋形様の屋敷を守っております。一番組が一日から十日まで、二番組が十一日から二十日まで、三番組が二十一日から三十日までという具合です」

「十日働いて、後の二十日は休みというわけか」と小太郎が聞いた。

「いえ、十日間はお屋形様の屋敷を守り、次の十日間は、お屋形様がお出掛けになる時は必ず、お供をしなければなりません。本当の休みというのは残りの十日間です。しかし、今は休みでも国元に帰るというわけには参りません」

「成程‥‥‥」

「彦五郎殿の休みはいつですか」

「今です。今月一杯休みです」

「そいつは都合がいい」と小太郎は膝を打った。

「彦五郎殿の組の者は皆、彦五郎殿の家臣なのですか」

「いえ、違います。しかし、三浦家の者たちは皆、わたしの組におります」

「という事は今、皆、休んでおるというわけですな」

「はい」

「宿直衆は何とかなりそうじゃな。問題は御番衆じゃのう」と石見守が言った。

「御番衆がいなくなれば、すぐに分かってしまう」と次郎左衛門尉が言った。

「御番衆が、いつ消えるかが問題ですね」と早雲は言った。

「勤務に就いている時か、休みの時か」と右京亮が言った。

「それと、わしが出て行くのも難しい」と次郎左衛門尉が言った。

「見張られておりますか」と小太郎が聞いた。

「朝比奈殿の屋敷から見張っているらしいのう」

「表門を見張っておるのですか」

「ああ。裏門も御番所から見張っているに違いない」

「という事は今、皆さんがここに集まっておるという事は気づかれておるわけですね」

「いえ、わしらがここを守っている時は裏門の方は安全です。多分、気づいてはいないと思いますが」と右京亮が言った。

「そうですか‥‥‥石見守殿も見張られておりますか」

「いや、わしは見張られてはおらんとは思うが‥‥‥」

 今日の所は、ここまでという事でお開きとなり、早雲と小太郎は三浦屋敷の一室に泊まった。





 三浦屋敷において、早雲らが脱出作戦を練っている頃、北川殿の客間では、葛山播磨守(カヅラヤマハリマノカミ)が弟の備後守(ビンゴノカミ)と妖気の漂う一人の山伏と酒を酌み交わしていた。

 山伏の名は定願坊(ジョウガンボウ)といい、富士山の登山口、大宮の浅間(センゲン)神社の山伏だった。古くから葛山氏とはつながりがあり、葛山氏のために情報を集めたり、戦においては奇襲攻撃をかけ、敵を混乱させたりして活躍していた。中居の毒殺騒ぎや、北川殿を襲撃した例の河原者たち、中原摂津守の屋敷に火を付けた者たちは皆、定願坊の配下の山伏だった。

 駿府屋形内には富士山の山伏の他にも、天野氏が連れて来た秋葉山の山伏も暗躍していたが、彼らも皆、定願坊の指揮下に入っていた。

「大津の様子はどうじゃ」と播磨守は酒盃(サカズキ)を口に運びながら定願坊に聞いた。

「籠城(ロウジョウ)の支度をしております」

「ふむ。敵の様子は?」

「朝比奈殿、福島土佐守(クシマトサノカミ)殿、長谷川殿がおのおのの城に帰り、戦(イクサ)の準備をしております」

「やはり、戦になるのか」

「土佐守殿はやる気満々ですな」

「じゃろうのう、参った事じゃ」

「播磨守殿らしくないですな。ようやく、播磨守殿の望んでいた戦になるというのに」

「ふん。負ける戦など誰も望んではおらん。三浦殿の方はどんな様子じゃ」と播磨守は弟の備後守に聞いた。

「特に変わった様子はないです」

「三浦殿は国元の状況を知らんのか」

「そんな事もないでしょうが、どうにもできないのでしょう」

「うむ。しかし、参った事よのう。まさか、竜王丸派と摂津守派が手を結ぶ事となるとはのう。一体、誰がそんな事を考えたんじゃ、天遊斎殿か」

「いや、天遊斎殿は伜殿を亡くして、今はそれどころではないでしょう」

「岡部美濃守殿か」

「いや、早雲殿じゃよ」と定願坊が言った。

「なに、早雲‥‥‥ふーむ。またも早雲か‥‥‥北川殿をここから連れ出したのも奴じゃろう。今まで気にもせんかったが、なかなかの曲者(クセモノ)じゃのう」

「その早雲殿が三浦殿を寝返らせるために動いている模様じゃ。昨日からどこに行ったのか姿が見えん」

「姿が見えん?」

「風眼坊とかいう大峯の山伏と共に姿を消した」

「風眼坊か‥‥‥わしはその風眼坊とやらにはまだ会った事はないが、どんな奴なんじゃ」

「大峯山の大先達(ダイセンダツ)じゃ。吉野から熊野にかけて知らぬ者はいないと言ってもいい程、有名な山伏じゃ」

「ほう、そんなに有名な男なのか」

「ああ、驚いたわ。わしも大峯には行った事があるが、もう二十年以上も前の事じゃ。その頃、風眼坊などという名など耳にした事もなかった。まだ、風眼坊も若かったから有名ではなかったんじゃろう。ところが、二、三年程前に大峯に行って来た者に聞くと、誰もが風眼坊を知っておるんじゃ。駿河に来ているなら、世話になったお礼をしたいと言い出す者までもおる」

「ほう。そんな有名な山伏がどうして、こんな所に来ておるんじゃ」

「それが、どうも早雲殿とかなり親しいようじゃな」

「早雲が以前、行者だったという噂を聞いた事があったが、早雲も大峯の行者だったのか」

「かもしれんのう。今出川殿(イマデガワドノ、足利義視)の申次衆(モウシツギシュウ)となったのが三十の半ばじゃ。それまで何をしていたのか、まったく分からん。大峯にいたという可能性も充分に考えられるのう」

「伊勢早雲か‥‥‥その早雲が三浦殿の寝返りをたくらんでおるのじゃな」

「ああ」

「三浦殿の寝返りか‥‥‥時間の問題じゃな」

「三浦殿を寝返らせてもいいのですか」と備後守は言った。

「今の状況を考えてみろ。三浦殿の本拠地は敵に囲まれている。助けようがないわ」

「しかし、三浦殿に寝返られたら、わしらはかなり不利な立場に立つ事になります」

「分かっておるわ。しかし、大津城を助けるために、わしらが出陣すれば、ここが手薄になる。敵はわしらの兵力を二つに分散しようとたくらんでおるのかもしれん」

「それでは、三浦殿が寝返るのを黙って見ていろと言うのですか」

「仕方あるまい。三浦殿が寝返らなくても国元の連中は寝返るかもしれん」

「そんな馬鹿な」

「国元の連中にすれば、今川家のお屋形様は小鹿新五郎殿でなくても構わんのじゃ。自分らの土地を守ってくれる者がお屋形様じゃ。竜王丸殿が土地を守ってやると言えば寝返るのは当然の事じゃ。三浦殿の伜を家督とし、三浦殿は知らぬ間に隠居じゃ。隠居した三浦殿が我らのもとにいたとしても何の得にもならんわ」

「三浦殿を寝返らせないようにはできないのですか」

「無理じゃな。勝間田、横地らが生きていれば、味方に引き入れて何とかする事もできたじゃろうが、今はそれも無理じゃ。遠江勢は皆、竜王丸派ときておる」

「三浦殿がここから出て行くのを黙って見てろ、と言うのですか」

「そうとは言わん。三浦殿をここから出すわけには行かん。国元が寝返った時の場合の人質じゃ」

「人質?」

「最悪の時は、三浦殿に見せしめとして死んでもらうかのう」

「えっ!」と驚いて、備後守は兄の顔を見つめた。

「戦の血祭りという奴じゃよ」と播磨守は平然と言って、酒を飲んだ。

「なかなかですな」と定願坊は気味の悪い笑みを浮かべた。「敵の作戦をこちらで利用するというわけですな」

「そういう事じゃ。今川家が四つや三つに分かれていたままでは戦にはならん。二つに分かれて初めて戦が起こる。三浦殿が寝返れば駿河の国は阿部川を境にして、はっきりと二つに分かれる。三浦殿を血祭りに上げれば、竜王丸派も黙ってはおるまい。戦が起こるのは確実じゃ」

「しかし、三浦殿が寝返れば、兵力において敵の方が上回る事になりませんか」

「いや、大丈夫じゃ。天野殿に国元に帰ってもらい、遠江勢が駿河に来られないようにする。そうすれば、兵力においては互角じゃろう。戦が始まれば、わしらは高みの見物じゃ。どっちが勝とうが関係ないというわけじゃよ」

「そううまく行けばいいんですけど」

「大丈夫じゃ。いくら、早雲でも三浦一族の者、すべてをここから出す事などできまい。三浦殿が無事にここから抜け出したとしても、弟の右京亮がいる。右京亮がここから抜け出す事は不可能じゃ」

「それもそうですね。三浦一族の者はかなりいる。三浦殿に逃げられても血祭りに上げる者はいくらでもいる。家族の者もいるし」

「三浦殿が抜け出したら、まず、最初に小松とかいう愛妾を血祭りに上げてやれ」

「あの小松殿ですか」と定願坊は首を振って、「勿体ないですな」と言った。

「なに、慰(ナグサ)み物にしてからでも構わんさ」と播磨守はニヤリと笑った。

 備後守も笑った。

「しかし、見張りは怠るなよ」と播磨守は厳しい顔に戻って、弟に言った。

「はい」と備後守も真顔に戻って頷いた。

「定願坊殿、そなたには由比に向かってもらいたいのじゃが」と播磨守は言った。

「出羽守殿ですな」

「そうじゃ。出羽守殿は今、本拠地に戻って籠城の支度をしておる事じゃろう。そなたの手で寝返らせてくれんか」

「まあ、これも時間の問題ですかな」

「まあな」

「ところで、渚姫(ナギサヒメ)はいかがですか」と定願坊は聞いた。

「おう。いい女子(オナゴ)を見つけてくれたのう。お屋形様はもう渚姫に夢中じゃ。朝から晩まで、いや、勿論、夜もじゃ、一時も側から離さんわ。そろそろ、小鹿から奥方を呼んでもいい頃なんじゃが、危険じゃからと言って未だに呼び寄せんのじゃ。いい女子を連れて来てくれた。ほんとに礼を言うぞ」

「そいつはようございましたな」

「そろそろ、わしらも女子でも呼んで、楽しむ事にするかのう」

「ここにですか」と備後守は聞いた。

「おう、そうじゃとも。もう、呼んであるんじゃ。定願坊殿が戻って来ると聞いてのう。久し振りに騒ごうと思ってな。さあ、場所を替えようかのう」

 播磨守は二人を遊女たちの待つ居間の方に案内した。

 庭園の池のほとりに、あやめの花が並んで咲いていた。





 早雲が三浦屋敷に人質として滞在してから四日が過ぎた。

 二十六日の昼、小太郎が職人たちを引き連れて来て、三浦屋敷の庭園に簡単な舞台を作った。小太郎は仕事が済むと職人を連れて、さっさと帰って行った。

 翌日、女芸人率いる旅の芸能一座がやって来て、三浦一族の家族の見守る中、芸人たちは舞台狭しと華麗に踊り、流行り歌を披露した。

 舞台は一時程で終わり、芸能一座は喝采を浴びて帰って行った。

 その日の晩、小太郎が一人で三浦屋敷にやって来た。小太郎は武家姿で、しかも、三浦家の家紋『丸に三つ引き』の付いた素襖(スオウ)を着ていた。今、本曲輪の警固を担当しているのは三浦右京亮の五番組だった。小太郎は堂々と門を通って来た。

 小太郎は三浦屋敷内の遠侍(トオザムライ)にいる早雲の姿を見付けると、早雲と共に次郎左衛門尉の居室に向かった。次郎左衛門尉は一人、文机の前に座って書物を読んでいた。

 二人は次郎左衛門尉の部屋に上がった。

「首尾はいかがじゃ」と次郎左衛門尉は小太郎を見ると聞いた。

「成功です。すべて、うまく行きました。小松殿を初め、侍女、仲居衆、門番、すべて、青木城に入りました」

「そうか‥‥‥」

「後は、明日の昼、一族の女子供たちが浅間(センゲン)さん参りと称して、浅間神社の渡しから阿部川を渡れば、向こう岸に長谷川殿が待っております。長谷川殿の船に乗って、藁科(ワラシナ)川を下れば、もう安全です」

「うむ。わしは明日の夜、ここを出ればいいのじゃな」

「はい。わたしがお供いたします」と早雲は言った。

「そうか‥‥‥播磨守殿と越前守殿はまだ、気づいてはおらんのじゃな」

「今の所は気づいておりませんが、明日が問題です」

「なに、明日は五番組は日暮れまで休みじゃ。休みの日に家族を連れ、浅間参りをしたからといって怪しみはせんじゃろう」

「はい。ただ、明日の天気が心配です」と小太郎が言った。

「雨か」

「かもしれません」

「まずいのう。雨が降ったら、やりずらい」と早雲は言った。

「運を天に任せるしかない」と小太郎は言った。

「そなたの祈祷(キトウ)で何とかならんのか」と次郎左衛門尉は小太郎に言った。

「今から祈祷を始めたとしても、明日では、とても間に合いません」

「そうか‥‥‥運を天に任すしかないか」と次郎左衛門尉は外を眺めた。

 もう、暗くなっていた。確かに、雨が降りそうな空模様だった。

「早雲殿、人質として、そなたをここに閉じ込めたわけじゃったが、どうやら、今は、わしの方が人質になっているようじゃのう」と次郎左衛門尉は笑った。

 三浦屋敷には次郎左衛門尉の他に側室の小松、侍女が二人、仲居が五人、門番が十二人、次郎左衛門尉の近習の侍が三十人仕えていた。その内、門番の八人と近習の二十人は通いだった。城下に家庭を持っている者や、城下にある三浦屋敷に住んでいる者たちだった。通いの者たちはどうにでもなったが、住み込みの者たちをここから出すのは難しかった。特に側室の小松が出て行ったまま戻って来ないと分かれば、葛山播磨守に怪しまれる。また、門番は次郎左衛門尉が抜け出した後も残っていなければ怪しまれる。全員を移動させるには身代わりが必要だった。

 舞台を作るために、小太郎が連れて来たのは在竹兵衛(アリタケヒョウエ)率いる山賊衆だった。『普請奉行』と呼ばれる大林主殿助(トノモノスケ)を中心に舞台を作ると、彼らは住み込みの門番と近習侍と入れ代わった。小太郎は彼らを連れ、無事にお屋形の外に出た。次の日に来た芸能一座は、富嶽に率いられた春雨とお雪、それと河原者を集めた女ばかりの一座だった。舞台が終わると、側室の小松、侍女、仲居らと河原者は入れ代わった。富嶽と春雨、お雪に守られて、彼女らは無事に青木城に入った。残った河原者の女たちは侍女や仲居に扮し、もうしばらくは、ここに滞在して貰う事となった。こうして、三浦屋敷に住み込んでいた者たちの移動は終わった。石見守と右京亮の屋敷は次郎左衛門尉の屋敷のように見張られてはいないので、明日の昼、家族と共に抜け出し、空になった屋敷に門番として、多米や荒木などが入る事になっていた。

 今、三浦屋敷にいるのは次郎左衛門尉と通いの近習の侍十人、早雲、在竹兵衛率いる山賊衆十三人と河原者の女たちだった。

「早雲殿の御家来衆は一風変わった者たちが多いですな」と次郎左衛門尉は笑った。

「はい。つい最近まで山賊でしたから」と早雲も笑った。

「なに、山賊?」

「はい。しかし、今は心を改めて、村人たちのために働いております」

「村人たちのために?」と次郎左衛門尉は怪訝な顔をした。

「はい。わたしの家来になると言って来たんですけど、わたしには奴らを食わせるだけの甲斐性がないものですから、それぞれが村人たちのために働いて稼いでいるわけです」

「そうであったか‥‥‥」

「奴らも元は皆、武士でした。戦に敗れ、浪人となり、仕方なく山賊稼業などを始めましたが、根っからの悪人ではありません。最近は刀など腰に差す事もなく、毎日、朝から晩まで汗を流して働いております。今回、わたしが頼んだら、今川家のためならと喜んで来てくれました」

「そうでしたか‥‥‥早雲殿、そなたという御仁は変わったお人ですな。山賊どもを家来にし、しかも、その山賊たちを更生させておる。普通の者にできる事ではない。また、村人たちのために働いていたとはのう」

「わたしは武士をやめて、この地に参りました。武士をやめて旅を続けておるうちに、今まで、気がつかなかった事が色々と見えて参りました。武士でおった頃のわたしは、百姓たちの事など考えてもみませんでした。しかし、武士をやめて旅をすると、自分が武士の世界ではなく、百姓や村人たちと同じ世界に住んでおるという事に気づいたのです。武士たちは、わたしをただの乞食坊主としか扱ってはくれません。初めのうちは、わたしも腹が立ちました。この田舎侍が何を言うと‥‥‥しかし、武士を捨てた今、昔の事を言っても仕方ないと諦めて、村人たちの世界に入って行こうと決めました。自分から進んで村人たちの中に入って行くと、結構、村人たちは乞食坊主のわたしでも大切に扱ってくれるのです。わたしは旅を続けておるうちに、武士も百姓も河原者も皆、同じではないのか、と思うようになりました。いや、同じようにならなければならないと思うようになったのです。そこで、わたしはここに落ち着いてからも、村人たちの世界に入って行って、今まで彼らと共に暮らして来たのです。わたしが今まで暮らして来られたのも、彼らのお陰と言ってもいいでしょう」

「成程のう」と次郎左衛門尉は何度も頷いた。

「世の中は武士たちの知らない所で、少しづつ変わって来ております。今までのように、守護という肩書だけで下々の者が言う事を聞くという時代ではなくなりつつあります。古くから土地と直接につながりのあった国人たちが力を持ち、守護に敵対しております。以前、守護の後ろには幕府がおりました。幕府の威光があって守護という地位は安泰でした。しかし、これからは幕府を頼りにしてはなりません」

「なに、幕府を頼りにしてはならんと」

「これからは今川家は独自に国人たちとの絆を強め、国をまとめなければなりません」

「幕府は頼りにならんと言うのか」

「はい。土地を直接に支配しておる者が勢力を広げて、残る事でしょう」

「土地を支配しておる者がか‥‥‥」

「守護でありながら国元の事は守護代に任せ、幕府に仕えておった者たちは皆、守護代に権力を奪われる事となるでしょう」

「それは本当なのか」

「本当です。お亡くなりになられたお屋形様は、京に行った時、幕府の実態を見て、その事に気づいておったに違いありません。お屋形様は新しい今川家、幕府の後ろ盾が無くても立派に生きて行ける今川家を作ろうとしておったのかもしれません。しかし、その途中で亡くなわれてしまわれた。失礼ながら、備前守殿、摂津守殿、小鹿新五郎殿は今現在の幕府のありようを御存じありません。その事が心配です」

「うーむ」と次郎左衛門尉は唸って、腕を組んだ。

「時は驚く程の速さで動いております」と早雲は言った。「その時に乗り遅れた者は滅びると言ってもいいでしょう」

「時が驚く程の速さで動いておるか‥‥‥わしには分からんのう」

「これからは戦をするにも、ただ勝てばいいというだけでなく、回りの状況を常に見ながら事を決めなければならなくなるでしょう。生き残るためには駆け引きという物が必要です。今回、三浦殿は寝返るという事に少し抵抗を感じておる事と思います。しかし、状況を判断して、生き残るためにはそれは仕方のない事と思います。三浦殿、竜王丸殿のために何卒、お願い致します。竜王丸殿を立派なお屋形様にするかはどうかは重臣の方々の手に掛かっております。お願い致します」

 早雲は深く、頭を下げた。

「早雲殿、頭を上げて下され。わしらはどうも考え方が狭いようじゃのう。早雲殿のように広い視野に立って物を見るという事ができないようじゃ。寝返ると決めたからには、竜王丸殿をお屋形様として、新しい今川家を作る事を約束致します。早雲殿も竜王丸殿を立派なお屋形様に教育して下され」

「はい。それはもう」

「雨が降って来たようじゃ」と小太郎が言った。

「雨か‥‥‥」と次郎左衛門尉は耳を澄ました。

「明日の朝にはやんでくれるといいが‥‥‥」

「わしは、北川殿に行って敵の様子を見てくるわ」と小太郎は部屋から出て行った。

「北川殿に行ったのか」と次郎左衛門尉が早雲に聞いた。

「播磨守が今日の事を気づいたかどうか、調べに行ったのでしょう」

「どうやって、そんな事を調べるんじゃ」

「風眼坊は北川殿の事は隅から隅まで知っております。屋根裏にでも忍び込んで、播磨守の様子を探るのでしょう」

「屋根裏に忍び込むのか、あそこの警固はかなり厳しいぞ」

「山伏の考える事は武士とは違います。武士が厳しい警固をしておったとしても、山伏にとっては何でもありません。特に風眼坊は武術に関しては専門家ですから」

「ふーむ。この屋敷の屋根裏にも忍び込めるのか」

「はい。多分」

「恐ろしい男じゃのう」

「敵にはしたくない男ですね」

「ふむ、まさしく‥‥‥」

「わたしもそろそろ失礼致します」

 早雲は次郎左衛門尉の居室から出た。

 次郎左衛門尉はしばらく雨音を聞いていたが、何事もなかったかのように、また書物に目を落とした。





 一晩中、降っていた雨は朝方にはやみ、日が差して来た。

 三浦右京亮の率いる五番組は、昨日の昼番警固の終わった日暮れから今日の日暮れまで、丸一日休みだった。三浦一族の者たちは家族を連れ、浅間参りと称して、各自、屋敷を抜け出して浅間神社の横の阿部川の渡しに集まっていた。お参りと称しているため、皆、普段着のままで荷物など持ってはいなかった。寝返りが分かった後、家財を没収される可能性はあったが仕方なかった。阿部川の向こうには、山伏姿の小太郎が同じく山伏姿の荒川坊、才雲、孫雲らと待っていて、家族たちを藁科川まで連れて行き、藁科川には長谷川法栄の舟が待機していた。彼らは法栄の舟に乗って、青木城のすぐ側まで行く事ができた。

 当時、阿部川と藁科川は合流していない。阿部川は賤機(シズハタ)山の西麓を流れ、浅間神社の所で二つに分かれ、一つはそのまま真っすぐ藁科川に平行するように流れ、もう一つは駿府屋形の北側を流れる北川となる。北川は駿府屋形の手前で二つに分かれ、一つは屋形の西側を阿部川の本流と平行するように流れる。北川の本流の方は駿府屋形の北側を流れてから北上し浅畑沼へと流れる。屋形の西側を流れる阿部川は駿河湾に流れ着くまでに、何本もの支流を生みながら流れていた。

 小鹿派の軍勢は屋形の西側の二本の阿部川の間に陣を敷き、竜王丸派の方は藁科川の西岸に陣を敷いていた。阿部川と藁科川の間の距離は十五町(約一、六キロ)程あり、草原が続いていた。阿部川は洪水の度に流れを変えるため、当時の技術では開墾する事はできなかった。

 浅間神社の領域内の阿部川の河原には当然、小鹿派の軍勢はなく、難無く、三浦一族及び家臣の家族たちは藁科川を下って青木城へと入って行った。

 日暮れ時、五番組は昼番の三番組と入れ代わり、本曲輪の勤務に入った。五番組には三浦家の家臣以外の者もいたが、彼らには内密に事は運ばれて行った。寝返りを知らされた者たちは、裏切り者が出ないように誓紙を交わし、血判まで押して行動に移した。幸いに裏切り者は出なかったようだった。

 夜も更けた頃、三浦次郎左衛門尉は山伏姿となって、早雲と一緒に屋敷を抜け出し、右京亮に連れられて本曲輪の北門から抜け出した。次郎左衛門の供の侍五人も山伏姿に変わっていた。北門を抜けた一行は浅間神社の門前町を抜け、阿部川の河原を渡り、長谷川法栄の舟に乗って青木城に入った。

 夜明け前の勤務交替時間の半時程前、緊急命令によって、五番組の者たち全員が北門に集められた。

「急遽、敵に囲まれている大津城を救出せよ、との命が下った。我ら五番組は先陣として、直ちに現地に向かえとの事じゃ」と右京亮は全員に告げた。

「阿部川を福島越前守殿の舟にて下り、河口にて大型の船に乗り換え、海路、大津に向かえとの事じゃ。馬には乗らず、このまま阿部川に向かう。なお、敵に気づかれぬよう、浅間神社の河原から舟に乗り込む」

 そう言うと右京亮は隊列を整え、北門を抜けて北川を渡り、すでに、人々が働き始めている門前町を抜け、阿部川の河原に出た。阿部川には越前守の舟はなかった。越前守の家臣に扮した小太郎らがいて、阿部川の下流に敵が陣しているので、予定を変更して、藁科川を下る事となったと告げた。藁科川を下って行けば敵に襲撃される、と寝返りの事を知らない者が反対したが、大丈夫だ、今、藁科川にはそれほどの敵はいない。敵は藁科川を渡って、阿部川を挟んで我らの兵と対峙しておる、と小太郎に言われて納得した。

 五番組の百五十人余りの兵は阿部川を渡り、藁科川に用意してあった長谷川法栄の舟に乗って川を下った。小太郎の言った通り、藁科川には竜王丸派の軍勢の影はなかった。しかし、舟は河口まで行かず、青木城へと続く渡し場で止まり、皆、舟から降ろされた。そこまで来て、初めて、右京亮は全員に寝返る事を告げた。まったく、そんな事を知らなかった者たちは驚き、まさか、と信じられなかったが、敵の本拠地のすぐ近くまで来てしまった今、どうする事もできなかった。一行はそのまま青木城にと向かった。

 藁科川を下って行く五番組を見送った小太郎は荒川坊、才雲、孫雲を連れて、門前町に戻り、福島家の着物から三浦家の着物に着替え、お屋形に戻った。まだ、北門には三番組の者はいなかった。警固の兵の消えた本曲輪はひっそりと静まっていた。

 小太郎たちは素早く三浦屋敷に向かって在竹兵衛と会い、うまく行った事を告げ、全員に引き上げ命令を流した。さらに、小太郎は石見守の屋敷にいる富嶽、二の曲輪内の右京亮の屋敷にいる多米、彦五郎の屋敷にいる荒木にも退去せよと告げた。

 夜が明け、三番組が本曲輪の勤務に就き、五番組がいない事に気づき、騒ぎ出した頃には、三浦屋敷の門番に扮していた早雲の配下、及び、仲居に扮していた河原者たちは全員、駿府屋形から抜け出し、三浦屋敷は門を閉ざしたまま誰もいなかった。

 三番組の頭、葛山備後守は、すぐに右京亮の屋敷に使いの者を送ったが、誰もいないとの事だった。備後守自らが三浦次郎左衛門尉の屋敷に行き、閉ざされた門を打ち破って中に入ったが、やはり誰もいなかった。

 備後守は慌てて、兄、播磨守のいる北川殿に向かった。播磨守はまだ寝ていた。備後守は緊急事態だと、播磨守を起こすよう頼み、対面の間で待った。

「何事じゃ」と播磨守は不機嫌そうな顔で現れ、備後守を客間の方に誘った。

「三浦殿が消えました」と備後守は言った。

「何じゃと」と播磨守は振り返ったが、何の事だか理解できないような顔をした。

「三浦殿の屋敷には誰もおりません」と備後守は繰り返した。

「何じゃと、誰もおらん?」播磨守はポカンとした顔で備後守を見た。

「はい」と備後守は頷いた。

 ようやく、目が覚めたのか、「どういう事じゃ。昨日の昼はおったはずじゃろ」と播磨守は怒鳴った。

「昨日は確かにおりました。門番も仲居衆も、いつもの通りにいたはずです。一晩で、全員が消えたなどとは、とても信じられません」

「夜もちゃんと見張っていたんじゃろうのう」

「はい。表門は朝比奈屋敷から、裏門は宝処寺から見張っておりました。どちらも、別に異状ありませんでした。女たちがぞろぞろ屋敷から出て行けば気づかないはずはありません」

「ふん。早雲の仕業じゃろう。やはり、三浦殿は寝返ったか‥‥‥すぐに弟の右京亮を捕えろ」

「それが、右京亮の屋敷も誰もいません」

「なに?」

「右京亮だけじゃなく、五番組の者は誰もおりません」

「何じゃと。五番組全員が消えたというのか」

「はい‥‥‥」

「馬鹿な事を言うな。あれだけの者たちが、どこに消えたというのじゃ」

「分かりません。分かりませんが、我々が本曲輪に入った時は警固の兵は誰もおりませんでした」

「何という事じゃ‥‥‥信じられん」

「はい。信じられません」

「寺社奉行の石見守はどうじゃ。まさか、石見守も消えたのではあるまいの」

「さあ。そこまでは調べておりませんが‥‥‥」

「すぐに調べろ、いたら、有無を言わさずにすぐに捕えろ。宿直衆の彦五郎もじゃ。いいか、家族の者たちも全員、捕えろ」

「はい」と頷くと、備後守は飛び出して行った。

 半時程して備後守は戻って来たが、その表情は暗かった。

「誰もおらんじゃと!」と怒鳴った後、播磨守はじっと黙り込んだ。

 しばらくして、播磨守は急に笑い出した。

「敵ながら見事じゃわい‥‥‥早雲とやら、やるのう。三浦一族の者を一人残らず、ここから連れ出してしまうとはのう。敵ながら、あっぱれじゃ」

「どうするんです、これから」と備後守は兄に聞いた。

「考え方によっては、これで、すっきりしたとも言えるわ。これで、今川家は完全に二つに分かれた。決着を着けるには後は戦しかあるまい」

「しかし、戦を始めるきっかけとなる血祭りに上げる者がいなくなりました」

「きっかけなど何とでもなるわ。ただ、三浦殿が寝返った事により、味方の士気にかかわるような事があってはならん。当分の間は、三浦殿は一族の者を引き連れて、敵に囲まれた大津城を救出に出掛けたという事にしておけ」

「はい」

「早雲か」と播磨守はポツリと言った。「敵に回すのは勿体ない男よのう」

「確かに‥‥‥」と備後守は頷いた。

 播磨守は去年の花見の時、チラッと見た早雲の顔を思い出していた。北川殿の兄上にしては粗末な墨染めを着て、あまり見栄えのいい男ではなかった。妹がお屋形様の奥方になったのをいい事にして、お屋形様に寄生している下らん奴だと思っていた。ところが、早雲という男はそんな男ではなく、恐るべき男だった。味方に引き入れたい程の男だったが、竜王丸の伯父に当たる早雲を味方にする事は不可能と言えた。しかし、策士(サクシ)である播磨守は、自分と同じ策士の早雲が敵にいる事によって、かえって、この先、面白くなって来たと心の中で思っていた。
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