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陰流の開祖であり、忍びの術の開祖でもある愛洲移香斎の物語です。
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8.北川殿3






 雨は朝になってもやまなかった。幸い、何事も起こらずに夜が明けた。

 前日、ほとんど眠れなくて疲れていたのと下手人が分かった事もあって、早雲はぐっすりと眠り、雨降りだったが、さっぱりとした朝を迎えていた。

 早雲が井戸で顔を洗っていると、春雨が台所から出て来て近づいて来た。

「気持ちのいい朝じゃな」と早雲は笑った。

「どこが」と聞いて春雨は首を振り、「うっとおしいわ」と言った。

「うっとおしいか‥‥‥」と早雲は空を見上げた。

 春雨も、どんよりとした空を見上げた。

 早雲は春雨に目を移すと、「北川殿は大丈夫か」と聞いた。

「ええ。大丈夫よ」と春雨は頷いて、早雲に手拭いを渡した。「女たちじゃないわ。あんな恐ろしい事をして平気でいられるはずないもの」

「じゃろうな。下手人は分かったんじゃよ」

「え、ほんと? 誰だったの」

「外部の者じゃ」と早雲は言った。

「だって、あの日、誰も入って来なかったんでしょ」

「それが、忍び込んだ形跡が見つかったんじゃ」

「ほんと、どうやって忍び込んだの」

「そこの裏に隠れておったらしいのう」と早雲は裏庭の隅にある蔵を示した。

「へえ、あの裏から台所を見てたってわけ」

 早雲は頷いた。

「まあ、恐ろしい‥‥‥でも、どうやって、あの裏に入ったの」

「それはのう‥‥‥濠に丸太の橋を架けて渡ったんじゃ」

「真っ昼間に?」

「そうじゃ。北川衆の格好をして濠のゴミをさらっておる振りをしてな」

「へえ、そうだったの。恐ろしいわね。それで、下手人は誰だったの」

「小太郎が言うには山伏じゃろうとの事じゃが、誰がその山伏を使ったのかまでは、まだ分からんのじゃ」

「ふーん。でも、身内じゃなかったのね」

「ああ。そういう事じゃな」

「よかった」と言って笑うと春雨は台所の方に戻って行った。

 春雨は信じたようだった。春雨が今の話を女たちに話してくれるだろう。毒を入れたのが身内じゃなかったと一安心するだろう。下手人が分かった今、さらに騒ぎを大きくしたくはなかった。この先、まだ、力を合わせて行かなければならないのに、身内同士でお互いを疑っていたら、うまく行くわけがない。大谷の事は何とかごまかして処分しようと思っていた。

 すでに門番は入れ代わっていた。夜勤明けの村田と久保が帰って行った。裏門は清水と小島が守り、小島は弓を持って蔵の屋根の上に登って屋敷の回りを見回していた。

 表門には、大谷が素知らぬ顔をして警固に付いているに違いなかった。昨夜、小田に任せると言った手前、小田が出て来るまでは気づかぬ振りをして放っておこうと思った。

「やはり、ここじゃったか」と小太郎がやって来た。着物はびっしょり濡れていた。

「雨の中、御苦労じゃったの」と早雲はねぎらった。

「なに、そんなものは何でもないわ。奴がとぼけた顔して出て来たぞ」

「そうか‥‥‥おぬしから見て、確かに奴だと思うか」

「間違いないようじゃのう。何となく目が落ち着かんし、おどおどしておるようじゃ」

「そうか。とぼけて、このまま、ずっとおるつもりかのう」

「一人じゃったら、とっくに逃げておる事じゃろう。しかし、家族がおるからどうにもならんのじゃ」

「家族は知らんのじゃろうな」

「言えまい」

「可哀想な奴じゃな」

「確かに可哀想じゃが、このまま、ここにおいとくわけにもいかん。どうするんじゃ」

「小田に何か考えがあるらしいから、小田が来てから決めよう」

「そうするか。あの男も御番衆の頭をしておっただけあって、なかなかの男じゃな。こんな所に置いておくのは勿体ない位じゃ」

「それは言えるのう」

 多米と才雲がニヤニヤしながらやって来た。

「御苦労じゃったな」と早雲は二人に言ってから、「孫雲も戻って来たか」と才雲に聞いた。

「はい。もう、鼾をかいて寝てますよ」

「お前らはどこ行くんじゃ」

「ちょっと、盛り場の方へ」と多米が言った。

「女子か」

「まあ、そんなところで‥‥‥」

「夕方までには帰れよ」

「はい。分かってます」

 二人が裏門を出ようとした時、表の方から悲鳴と何かが倒れる物音がした。

 小太郎と早雲はすぐに表に走った。多米と才雲も後を追った。

 表門の外の橋の上に、大谷が斬られて倒れていた。

 首が半分程斬られ、血が溢れるように噴き出している。生暖かい血の匂いが辺りに漂っていた。大谷は太刀を抜こうとしたらしいが抜く前にやられていた。雨が大谷の血を濠の中へと流していた。

 小太郎は大谷の死体を飛び越えて、濠に架かる橋を渡り、左右を見回したが怪しい物影はなかった。小太郎は側にいた荒木を御番所に走らせた。

 早雲は、大谷と共に表門を守っていた吉田と久保に事情を聞いた。

 久保は夜勤明けで、続けて昼勤務のため、門番小屋の中で横になっていたと言う。交替制の勤務のため、毎日一人、夜勤明けで、そのまま昼勤務に付く者がいた。その者は明け六つ(夜明け頃)に勤務を交替すると朝食の四つ(午前十時)まで仮眠を取る事となっていた。久保は小屋の中にいたので、何が起こったのか全然分からない。悲鳴を聞いて、小屋から出て来た時には大谷は倒れ、斬った者の姿はなかったと言う。

 吉田はその時、表門の南側にある廐(ウマヤ)の屋根の上に登って屋敷の回りを見張っていた。大谷を斬った下手人の姿をはっきりと見ていた。大谷を斬ったのは六人組の御番衆(ゴバンシュウ)だったと言う。その御番衆は昨日の朝も、今日と同じ頃に来て、何か異常はないか。物騒だから充分に注意するように、と言うと帰って行った。今朝もまた同じ事を言いに来たのだろうと別に気にも止めず、吉田が別の方に目をやっている隙に大谷は斬られてしまった。そのまま廐の屋根にいれば、敵がどこに逃げたのか見られたものを、慌てていたため屋根からすぐに降りて表門に向かい、外に出たが、敵の姿はなかったと言う。

「昨日も同じ六人が来たと言うのか」と早雲は吉田に聞いた。

「はい。多分、同じ六人だったと思います」

「昨日の朝、ここにおったのは喜八と誰じゃ」

「大谷と小島です」

「小島は裏門にいたな。後で聞いてみよう。喜八は昨日も屋根の上におったのか」

「いえ。昨日はわしは夜勤明けで、仮眠を取ろうと思っておりましたが、前の日にあんな事が起きましたので、寝る事ができずに門の所におりました。屋根の上にいたのは大谷です」

「大谷が屋根におったのか‥‥‥成程。それで、その六人組というのは、喜八の知らない奴だったんじゃな」

「はい。見た事もないような」

「御番衆というのは、いつも六人で見回りしておるのか」と小太郎が聞いた。

「はい、六人です。二人が御番衆の者で、あとの四人はその二人の従者です」

「昨日、その六人はどっちから来て、どっちに行ったんじゃ」

「大手門の方から来て、道賀亭(ドウガテイ)の方に行きましたが」

「大手門から道賀亭か‥‥‥いつもの道順か」

「いいえ。いつもは道賀亭の方には行きません。北川殿の北を通って北門の方に行きます。一昨日、あんな事があったので、警戒が厳重になって道賀亭の方まで見回りをしているのかと思っておりました」

「ふむ‥‥今日、屋根の上から見ていて、その六人はやはり大手門の方から来たのか」

「いえ、それが福島越前守(クシマエチゼンノカミ)殿の屋敷の裏の通りから出て来ました」

「やはりな。その通りの先は道賀亭じゃな」

「はい、そうです」

「その六人は偽者じゃ」と小太郎は言った。「道賀亭で御番衆に化けて、ここにやって来たのじゃろう」

「しかし、なぜ、大谷は斬られたのです」

「それはな」と早雲が言って、小太郎を見てから、「それは大谷が毒を入れた下手人を見たからじゃ。口封じのために消されたのじゃろう」と答えた。

「大谷が下手人を見た?」と吉田は不思議そうな顔をした。

「ああ、そうじゃ。詳しい話は後で聞かせる。それより、あの道賀亭には誰かおるのか」

「はい。警固の者が数人と下男、下女が数人おるようです」

「客はおらんのじゃな」

「いないとは思いますが、詳しくは存じません」

 四番組の頭、入野兵庫頭(イリノヒョウゴノカミ)が数人の御番衆を連れてやって来た。早雲は訳を話し、詳しい事は吉田に聞いてくれと言うと、小太郎を連れて道賀亭の方に向かった。

 大谷の妻が飛んで来て、無残な亭主の遺体にすがって泣き叫んでいた。回りにやじ馬が集まって来て騒ぎ始めた。

 道賀亭は本曲輪(クルワ)の北東の隅にあり、北川殿の東側、表門の正面にあるが、北川殿と道賀亭の間に、北川衆の村田、小島、久保、大谷の四軒の家が並んでいた。その四軒の家は塀で囲まれているため、道賀亭に行くには、その塀に沿って一番端まで行かなくてはならなかった。曲者(クセモノ)の六人は道賀亭から北川衆の家の並ぶ一画の南側、福島越前守の屋敷との間の通りから出て来て、北川殿の正門前を通って、多分、北川衆の家の北側の塀と北川に沿った土塁との間の通りを抜けて道賀亭に戻ったものとみられる。

 早雲と小太郎は北川衆の家の北側を通って道賀亭に向かった。

 道賀亭を囲む濠は北川殿の濠とほぼ同じく、五間(ケン)幅のようだった。濠の向こうに土塁はなく板塀で囲まれていた。表門は東側にあり、門は閉ざされたままだった。

 早雲と小太郎は橋を渡って門の側まで行ってみた。あちこちに複雑な彫刻の施された見事な唐門(カラモン)だった。中はシーンと静まり返っている。門をたたいてみたが、何の返事もなかった。

「どうやら、敵はここで御番衆に化けたようじゃな」と小太郎は言った。

 正面は土塁で、左側も土塁、右側に屋敷は見えるが人影はない。道賀亭を使わない限り、正面の道を人が通る事もないだろう。敵はここで御番衆の支度に着替えたに違いなかった。

 二人は道賀亭を一回りして裏門に向かった。裏門は北川衆の家に面していた。北川衆の家の中で子供たちが遊んでいるのが見えた。

 裏門は半分だけ開いていた。

 門番が一人、雨を恨めしそうに眺めている。

「北川殿の者じゃが、ちょっと聞きたい事がある」と早雲は言った。

 門番はうさんくさそうな顔をして僧侶姿の早雲と山伏姿の小太郎を見ていたが、「もしかしたら、早雲和尚様で」と言った。

「ああ、わしは早雲じゃが、六人組の御番衆を見なかったか」

「はい。見ましたとも」と門番は言って、「先程、悲鳴がしたようでしたが、何か起こったのですか」と聞いて来た。

「北川殿の門番が殺されたんじゃ」

「えっ、北川殿の門番が‥‥‥それはまた大変な事で‥‥‥ああ、それで、さっき、御番衆の方々が曲者を追って走って行ったのですな」

「どっちに行った」

「はい。そこの通りを向こうに」と門番は北側の通りを示した。

「表の方に行ったのじゃな」

「はい」

「表門はいつも閉めたままなのか」

「はい。ここをお使いになる時は前以て知らせが参ります。その時以外は閉めたままです」

「昨日の今頃、六人組の御番衆を見なかったか」

「昨日の今頃ですか‥‥‥さあ、見なかったと思いますが‥‥‥」

「そうか、悪かったな。物騒な世になったから気を付けろよ」

 二人は北川殿に戻った。

 雨はようやく小降りになって来ていた。大谷の無残な遺体はなかった。やじ馬もいなかった。数人の河原者が血で汚れた橋を清めていた。

 小太郎は濡れた着物を着替えに侍部屋に行った。

 早雲が屋敷に上がると小田隼人正(ハヤトノショウ)が待っていた。

「遅すぎました」と小田はうなだれた。「夕べ、奴の家に行って話を聞いたのです」

「奴は白状したのか」と早雲は聞いた。

 小田は頷いた。「奴は長沢にそそのかされて、味噌の中に毒を入れたと言いました。しかし、毒だとは知らなかったそうです。腹下しの薬だと言われ、そう信じて味噌の中に入れたそうです」

「腹下しの薬じゃと?」

「はい。奴が言うには、北川殿に仕える者たちを腹下しにして寝込ませ、隙を狙って竜王丸殿をさらうつもりだったらしいのです」

「竜王丸殿をさらう? さらってどうするんじゃ」

「竜王丸殿を遠江にさらって行って、新しい今川家を作るんだそうです。竜王丸殿をお屋形様にして、天野氏を中心にして新しい今川家を作り、遠江の国をまとめ、その後、今川家の正統だと言って駿河に進攻し、偽の今川家を倒すんだと言っておりました」

「ほう、とんでもない事を考えるもんじゃのう。大谷の奴はそれに同意して実行に移したというわけか」

「はい。ところが、腹下しの薬だと思っていたのが毒だった。大谷も驚き、どうしたらいいものか分からなかった。すぐにでも、長沢のもとに行き、なぜ、こうなったのか問い詰めたかったが、その日は怪しまれると思って我慢した。そして、昨日、仕事が終わったらすぐに長沢のもとに駈け込んだ。長沢を問い詰めたが、そんなはずはない。あれは確かに腹下しの薬じゃと言い張るばかりで、本当の事を教えてはくれない。しまいには、仲居を毒殺したのはお前だと言い触らしてやると威され、ようやく、騙(ダマ)されていた事に気づいたそうです。奴は充分、反省していたようじゃし、仲居を殺した事には違いないが、殺意があったわけではないので、わしは奴の事を福島左衛門尉に任せようと思いました。そして、今朝、左衛門尉が評定に行く前に、訳を話して頼んで来たんです。左衛門尉は快く引き受けてくれました。しかし、遅かった。間に合わなかったわ」

「そうか‥‥‥そうじゃったのか」

「大谷の事、どうするつもりですか」と小田は聞いた。

「下手人を見たために殺された、という事にするつもりじゃ」

「そうですか‥‥‥ありがとうございます」

「なに、大谷の子供たちのためじゃ」

「はい‥‥‥」

「しかし、竜王丸殿をさらうという件、まんざら、嘘でもなさそうじゃのう。天野氏とやらは、その位の事をたくらんでおるかもしれん」

「まさか」

「勿論、竜王丸殿をさらうとは言わん。駿府は危険じゃからと言って遠江に移すと言い出すじゃろう。腹黒い天野氏の事じゃ。竜王丸殿を急に自分の城へは連れては行かんじゃろう。まず、堀越氏を味方に付けて、堀越城に竜王丸殿を入れる。そうすれば、遠江にいる今川衆は皆、竜王丸殿をお屋形様として集まって来るに違いない。うまくすれば、今の竜王丸派の重臣たちも集まるかもしれん。そうなると、今川家が二つに分かれる。争いが始まれば、最も勢力のある天野氏が主導権を握るという事になろう。竜王丸殿を飾りにして天野氏は益々、大きくなれるというものじゃ」

「そして、駿府に攻めて来るのですか」

「いや。天野氏にとって駿府を取る事は二の次じゃ。まず、遠江の国を全部、我物とするじゃろうな」

「竜王丸殿を飾りにして自分の勢力を広げるとは‥‥‥途方もない事を考えるものですね。わしらにはとても考えられん事じゃ。天野氏は今度はどんな手で来るんでしょう」

「さあな。そいつは分からんのう‥‥‥待てよ。奴らが昨日の朝もここに来たと聞いた時、昨日も殺す気じゃったが、大谷が屋根の上におったので諦めたんじゃろうと思ったが、昨日の朝は殺す気はなかったのかもしれん。ただ、様子を見に来ただけだったのかもしれんのう。昨日の夜、大谷が長沢の屋敷に行った。そして、騙されたと気づいた。それでも、まだ、威せば使えると思った。しかし、大谷の後を才雲と孫雲が付けていた事に知り、大谷が疑われている事に気づいた。そこで、大谷が天野氏の事を喋る前に口を封じたという事になる。そうなると、昨日の夜、大谷の家を訪ねたそなたも敵に見られておるという事になる。敵は今度、そなたを殺そうとするかもしれんぞ」

「わしをですか。わしを殺す気なら、昨日の夜に襲う事もできたはずです。別に何事もなく家に帰りましたが」

「敵も襲えなかったのじゃろう。そなたはかなりの使い手じゃろう。しかも、大谷の家からそなたの屋敷までの途中には大手門があり、その近辺には夜警の御番衆がかなりおる。さらに、二の曲輪に入ってからは、丁度、両天野氏の屋敷の前を通るじゃろう。そんな所で騒ぎを起こせば天野氏が疑われる可能性もあるというわけじゃ。それに、そなたの家の回りには御番衆の頭の屋敷が並んでおる。そんな所でも騒ぎは起こせまい。となると、この北川殿が危ない。そなたは今日は夜勤じゃろう。今晩、敵は、そなたの命を狙って来るとみていいじゃろうな」

「今晩ですか‥‥‥来ますかね」

「そなたを殺すのが第一の目的、第二の目的は北川殿に恐怖を味わせ、お屋形様の候補の座から下りてもらう事じゃ」

「と言う事は、わしだけを殺しに来るのではないのですね」

「多分な。手当り次第に斬って来るじゃろうな。北川殿と竜王丸殿を殺す事はあるまいが、仲居たちも危ない目に会うかもしれん」

「分かったぞ」と言いながら小太郎が入って来た。「おお。小田殿か、早いのう」

「小太郎、何が分かったんじゃ」

「毒を持って来た奴じゃよ」

「なに?」

「秋葉山の山伏じゃ。秋葉山の山伏がお屋形内に潜伏して活動しておるに違いないわ。今日の六人の御番衆も奴らかもしれん」

「突然、何を言っておるんじゃ。秋葉山の山伏が、何で、こんな所におるんじゃ。仮に駿府に来たとしても、そう簡単に、この屋形内に入れるわけがなかろう」

「天野氏はここに来る時、兵を引き連れておったじゃろう。その中に山伏がおったんじゃ。天野氏の家臣として、すでに入っておるんじゃよ」

「そうか‥‥‥確かに天野氏の本拠地、犬居城は秋葉山のすぐ側じゃ。山伏を使うのは当然の事と言えるのう。というと、今回の毒殺騒ぎの裏に奴らがおると言うのか」

「間違いないわ」

「となると今晩、攻めて来るのも山伏とみてよさそうじゃのう」

「なに? 敵が今晩、攻めて来るのか」

 早雲は小田に話した事をもう一度、小太郎に話した。

「うむ、あり得るのう‥‥‥今晩か‥‥‥楽しみじゃ」

 小太郎は、「寝るわ」と言って出て行った。

「小田殿、今晩、夜警をする者たちに武装して来るように伝えて下さい」

「昼間の者たちも夜に回した方がいいですか」

「いや。そのままでいい。みんなで徹夜をしたら、明日の昼、守る者がおらん事になってしまう。それこそ敵の思う壷じゃ」

「分かりました」

「小田殿も帰って、少し寝た方がいいかもしれんのう」

 小田は頷くと出て行った。

 早雲は腕組みをしたまま座り込んでいた。頭の中では、夜襲の後、どうするか、と先の事を考えていた。





 夜は深まっていた。

 シーンと静まり返っているが、北川殿内にいる者たちは皆、武装したまま起きていた。

 早雲は絶対に今夜、敵は襲撃して来ると予想した。

 小太郎も早雲に同意して作戦を練った。夜、しかも、狭い屋敷内なので、飛び道具は使わないようにした。最悪の場合、敵が火矢を射る事も考えたが、お屋形様の屋敷の隣にある北川殿に火を掛けるはずはなかった。今回の敵の襲撃は、ただの威しにすぎないだろう。素早く何人かを傷付け、素早く逃げるに違いなかった。まごまごしていたら夜警をしている御番衆に捕まってしまう。捕まってしまえば、北川殿を襲撃した事によって、勿論、命はないが、裏で糸を引く者の正体が駿府中にばれてしまう事になる。敵としては絶対に捕まるわけにはいかない。素早く攻撃して、素早く逃げなければならなかった。こちらとしても、一瞬のうちに敵を倒さなければならなかった。

 しかし、敵がどこから来るのかが分からなかった。天野屋敷は二の曲輪内にある。夜中に二の曲輪から本曲輪に来るという事は考えられない。本曲輪と二の曲輪をつなぐ大手門には大勢の御番衆が詰めていて、用のない者は通さない。まして、徒党を組んで入れるわけはなかった。という事は、すでに昼のうちから本曲輪内のどこかに潜入しているという事になるが、それがどこなのか、まったく見当も付かなかった。

 小太郎は道賀亭が怪しいと思って、夕方、一回りしてみたが、曲者が隠れている気配はなかった。この前のように一時的に隠れる事はできるが、何時間も隠れているのは難しそうだった。

 北川殿は表門、裏門、共に厳重に閉ざされていた。お屋形様の屋敷に通じる門も、お屋形様の屋敷側、北川殿側両方とも閉ざされている。そして、表門、裏門とも濠に架かる橋には鉄菱が撒いてあった。

 表門の内側に北川衆の小田と山本、裏門の内側に村田と中河が武装して待機している。裏門の側の蔵の上に才雲が座り込んで外を見張り、台所の入口の前では富嶽が酒樽に腰掛け、裏門から表門に向かう通路となる屋敷の北側に、莚を敷いて荒木兵庫助が刀を抱いて寝ている。侍部屋の中では非番の吉田と山崎が武装したまま仮眠を取り、その屋根の上では小太郎が腹ばいになって表通りを見張っていた。屋敷の玄関の前に多米権兵衛が槍を抱えて座り込み、廐の屋根の上では孫雲が風流に下弦の月を眺めている。北川殿の居間の前の縁側に早雲が寝そべり、荒川坊は鉄の棒を持って庭園の南西隅に立っていた。

 屋敷の中の奥の間では、北川殿母子を中心にして仲居たちが囲み、侍女の萩乃と菅乃、仲居の和泉、春雨とお雪の五人が白い鉢巻を頭に巻いて、小太刀(コダチ)を腰に差し、薙刀(ナギナタ)を構えて守りを固めていた。

 準備は完了したが、一体、敵はどこから入って来るのか。

 早雲は縁側に寝そべって、月を眺めながら考えていた。

 時はゆっくりと流れていた。

 もうすぐ、夜明けとなる時刻だった。丁度、気の緩(ユル)む頃だった。小太郎はみんなの所を回って、何事が起こっても決して部署を離れるな、と言った。

「いつもと変わりません」と孫雲が廐の屋根から小太郎に言った。「御番衆がウロウロしています。警戒が厳重で、こんな中、敵が攻めて来るとは思えませんが‥‥‥」

「もう少しで夜が明ける。夜明け前というのが一番危険なんじゃ。わしらだけでなく、御番衆たちも一安心して、気が緩むんじゃ。すっかり明るくなるまで気を緩めるんじゃないぞ。ちょっとした油断が命取りになるからのう」

 小太郎は早雲のいる縁側に向かった。早雲は肘(ヒジ)枕をして横になっていた。

「敵はどうやって来るかのう」と小太郎は早雲に声を掛けた。

 返事はなかった。

 小太郎は早雲の顔を見た。微かな寝息が聞こえた。

「図太い野郎だ」と言うと、小太郎は庭園の隅にいる荒川坊に声を掛け、自分の部署、侍部屋の屋根の上に向かった。廐の前を通ると、また、孫雲が声を掛けて来た。

「キヨメの奴らが入って来ました」

「そうか、奴らに化けてるかもしれん。よく見張ってろ」

 キヨメというのは、夜が明ける前、駿府屋形内の掃除を担当している河原者であった。彼らは阿部川の河原に住み、駿府屋形の掃除を初め、糞尿(フンニョウ)の処理、庭園の整備、井戸掘り、濠の中のゴミ拾いなどの雑用をやらされていた賤民(センミン)たちであった。小太郎はお雪にせがまれ、数日間、その河原者たちの病人を治療していた事を思い出した。お屋形様が急に亡くなってしまったため、その事もできなくなってしまった。河原者の頭とも仲良くなれたが、当分、行けそうもなかった。

「女が走って来ます」と孫雲は言った。

「女? どんな女じゃ」と小太郎は聞いた。

「ええと、綺麗な女です」

「馬鹿者、河原者の女か、と聞いておるんじゃ」

「いえ、違います。かなり身分の高い女のようです。河原者たちに追われているようです」

「おかしいのう。どうして、今頃、そんな女がウロウロしておるんじゃ」

「女がこっちに来ます」

「助けて!」という女の悲鳴が聞こえた。

「橋を渡って、門の側まで来ます」

「喚(ワメ)いておるか」と小太郎は聞いた。

 女が門をたたきながら、「助けて!」と叫んでいた。

「はい。喚いています。河原者たちも門に近づいて来ます」

「違う。鉄菱にやられて喚いておるかと聞いておるんじゃ」

「いえ。鉄菱は踏んでないようです。あっ! キヨメの連中が鉄菱を掃いています」

「敵じゃ!」と小太郎は怒鳴った。

 その頃、裏門にも河原者たちが近づいていた。

 蔵の上から才雲が眺めながら、「キヨメが来ました」と裏門を守る村田と中河に言った。

「もうすぐ、夜明けじゃ。何事も起こらんようじゃな」と村田は言った。

「早雲殿の取り越し苦労だったみたいですね」と中河は笑った。

 四人の河原者が竹ぼうきで、通りを掃きながら近づいて来ていた。その中の一人が裏門の前の橋の上の鉄菱に気づき、橋の上を掃き始めた。

「おい。それは掃かなくてもいい」と才雲は怒鳴ったが、河原者は構わず掃いていた。

 やがて、三人の河原者も近づいて来て、鉄菱の掃かれた橋を渡って来た。

「敵だ!」と才雲は怒鳴って、蔵から飛び降りた。

 河原者たちは塀の下の鉄菱も掃いて濠の中に落とし、塀を乗り越えて侵入して来た。

 表門の河原者も同じように塀の下の鉄菱を掃き落とし、塀を乗り越え侵入して来た。さらに、お屋形様の屋敷の裏門の橋を渡って、土塁に沿って、お屋形様の屋敷と北川殿をつなぐ橋を渡り、塀の下の鉄菱を掃き落として塀を乗り越え、南側の庭園に侵入して来た者もいた。

 河原者たちは竹ぼうきの中に武器を隠していた。ほうきの柄がそのまま六尺棒だったり、鉄の棒だったり、槍や薙刀や太刀が隠してあったりした。

 表門に侵入した五人の河原者を相手に、小田、山本、多米、山崎、吉田が当たり、裏門の四人には、村田、中村、才雲、荒木が当たり、南側の庭園に侵入した四人に、荒川坊、早雲、小太郎、孫雲が当たった。

 表門では、小田は太刀で薙刀を構える敵を袈裟斬りにし、多米は槍で鉄棒を持つ敵の胸を突き、山崎は苦戦の末、多米に助けられながらも、見事に敵の首を斬り上げた。吉田は薙刀を持って、女に扮していた敵と戦い、苦戦していたが、小田に助けられた。山本は顔を斬られ、危うくやられそうになったところを小太郎に助けられた。

 庭園側の四人はすぐに片付いた。小太郎と早雲がそれぞれ一刀のもとに倒し、荒川坊は鉄棒で敵の頭を砕き、苦戦していた孫雲を助けた。

 裏門の敵が一番しぶとかった。まず、中河が喉元を槍で突かれて即死した。中河を殺した敵は仲居たちの部屋と庭園とを仕切っている塀を蹴破って、庭園側から屋敷に侵入しようとしたが、早雲がそれを阻(ハバ)んだ。槍を持った敵は早雲と斬り合いを始めたが、腕は早雲の方が数段上だった。敵は早雲に右腕を斬り落とされ、刀の柄頭(ツカガシラ)で眉間(ミケン)を殴られて気絶した。村田も右腕の付け根を薙刀で斬られて倒れた。村田を斬った敵は台所から屋敷に侵入しようとしたが、台所の入り口を守る富嶽と戦い、富嶽に手首を落とされた後、腹を蹴られて気絶した。荒木は一人の敵を倒し、左腕を斬られた才雲を助けようとして、敵の槍に右足を刺された。怒った荒木は唸りながら敵に突進して、敵の首を斬り落とした。斬られた首は塀を飛び越えて濠の中に落ちた。

 一瞬の出来事だった。

 小太郎と早雲は各部署を見回った。

 侵入して来た敵は全部で十三人、そのうち死んだのは八人いた。無事に逃げた者は一人もいない。五人が気絶していた。

 身内では中河が喉を突かれて即死、村田が右腕を肩から斬られて重傷を負った。山本は顔を斬られ、荒木は右足を突かれ、荒川坊は右腕を斬られ、才雲は左腕を斬られ、孫雲は右肩を斬られていたが、皆、軽傷だった。

 小太郎はお雪と共に治療に当たった。

 富嶽と多米らは気絶している敵を縛り、小田は御番衆に知らせに行った。

 早雲は気絶していた者を起こし、何者だ、と尋問したが、敵はふてぶてしい顔をしたまま話そうとはしなかった。多米が早雲と代わり、槍の石突で突きながら尋問したが敵の口は堅かった。

 やがて、御番衆と一緒に本物の河原者がやって来て、死体と縛られた敵を引き取って行った。

「一体、何者なんじゃ、こいつらは」と河原者たちに化けて、武器を片手に死んでいる者を眺めながら、本曲輪を守る四番組の頭、入野兵庫頭が言った。

「それはこっちが知りたいわ」と早雲は言った。

「しかし、北川殿に潜入するとは、まったく、ふてえ野郎じゃ。やはり、竜王丸殿を狙っていたのじゃろうか」

「じゃろうのう」

「ついさっきも、河合備前守殿の屋敷で一騒ぎあったばかりです」

「備前守殿の屋敷で何かあったのか」

「ここ程じゃまりませんが、門番の一人が殺されました」

「門番が殺された?」

「はい。女が助けてくれと来て、門を開いた途端、女を追って来たと思われる曲者に殺されました」

「その女は?」

「女も曲者も消えました。消えましたが、この本曲輪内にいる事は確かです。あれだけ、厳重に見回りをしているというのにこの様じゃ。信じられん事じゃが、曲者は重臣たちの屋敷に潜伏しているとしか考えられん。第一、ここを襲うなどという事は、裏に余程の大物が隠れて糸を引いているという事です。わしらの手に追える相手ではなさそうです。こいつらを御番所に連れて行っても、上から圧力が掛かって取り調べる事もできないでしょう」

「そうか‥‥‥」

「それに、御番衆の内部でも、それぞれの派閥に分かれて、陰に隠れてこそこそやっています。今回も、こいつらを手引きした者が、御番衆の中にいたのかもしれん。疑いたくはないが、その可能性も充分に考えられるのです」

「御番衆もか‥‥‥」

 兵庫頭は頷いた。兵庫頭は数人の御番衆を北川殿の回りに配置すると帰って行った。

 夜が明けて来た。

 小太郎が近づいて来た。

「身内の方はどうじゃ」と早雲は聞いた。

「村田が危ない。血が止まらん。多分、駄目じゃろう」

「そうか‥‥‥駄目か‥‥‥」

 村田は京から北川殿に付いて来た伊勢家の侍だった。十五になる娘がいて、そろそろ、嫁に出さなくてはならないが、父親としてどうしたらいいか、と相談された事があった。駿河はいい国じゃ、駿河に来て本当によかったと笑いながら早雲に言った事もあった。まさか、こんな事で亡くなる事になろうとは‥‥‥無念でたまらないだろう。

「中河は即死。あとの者は皆、大した事はない。かすり傷のようなものじゃ」

 早雲は庭に落ちている槍を見つめていた。

 中河の喉を刺した槍だった。

「逃げるか‥‥‥」と早雲はポツリと言った。
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