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陰流の開祖であり、忍びの術の開祖でもある愛洲移香斎の物語です。
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3.今川義忠1



 庭園にある梅の花が満開に咲いていた。

 二月一日、早雲は春雨を連れて北川殿に来ていた。一の付く日は、北川殿の娘、美鈴の踊りの稽古日だった。昼過ぎの一時(イットキ、二時間)余りの稽古の後、早雲は北川殿のためにお茶を点(タ)てた。

「結構なお点前ですこと」と北川殿は早雲の点てたお茶を一口飲むと言った。「兄上様にお茶を点ててもらったのは久し振りですわね。以前より、何となく、お茶を点てるのに余裕が感じられますわ」

 早雲は軽く笑って、「それは銭泡(ゼンポウ)殿が一緒ではないからでしょう」と言った。「あの人に見られておると思うと、やはり、緊張いたします」

「銭泡殿は名人ですわね」

「はい。珠光(ジュコウ)殿の直弟子(ジキデシ)だけの事はあります。さすがです。一つ一つの動作が流れるようで、まるで、猿楽能(サルガクノウ)の名人の演技を見ておるようです」

「踊りとお茶は通じる所があるのでしょうか」

「はい、あります。踊りとお茶だけじゃなく、茶の湯はあらゆる芸に通じます」

「あらゆる芸にですか」

 早雲は頷いた。「前回の旅で、珠光殿のお弟子さんで連歌師の夢庵(ムアン)殿というお方に出会いました。そのお方はお茶も連歌も武芸も一流と言ってもいいでしょう。なかなかのお人でした」

「夢庵殿ですか‥‥‥」

「はい。変わった男ですが、なかなか面白い男でした。今、宗祇(ソウギ)殿のお弟子になるために、近江の甲賀(コウカ)におります」

「お弟子になるために?」

「はい。宗祇殿は今、古今(コキン)和歌集に没頭しております。まだ、修行中だからと言って、弟子を取ろうとしないのです。夢庵殿は何とか一番弟子になろうと宗祇殿の側に仕えております」

「一番弟子ですか」

「はい。不思議な事ですが、宗祇殿にはまだ、お弟子さんがおらないそうです」

「え、そうなんですか。宗祇殿はもうかなりのお年だと伺っておりますが」

「はい。五十五、六になっておるでしょう。それでもまだ、修行を続けておるのです。大したお人です」

「宗祇殿にまだ、お弟子さんがいらっしゃらなかったなんて、とても信じられませんわ」

「はい。あれだけ有名でしたら、普通、お弟子さんの数十人おっても不思議ではありません。わたしも実際に会ってみて驚きました。たった一人で書物に没頭しておりました」

「そうですか‥‥‥宗祇殿というお方は、そんなお人だったのですか。五条殿が昔、お弟子になりたいと言って断られたのも無理ない事だったのですわね」

「そうですね」と言って早雲はお茶を飲み、庭の方を眺めてから、「ところで、お屋形様の戦(イクサ)の方は、何か知らせはございましたか」と北川殿に聞いた。

「はい。うまく行っているそうです。詳しくは分かりませんが、敵方のお城を三つ落として、今、掛川のお城で準備を整えているとの知らせが、一昨日、届きました。今頃は丁度、見付城を攻めているところだと思います。遅くても十日頃には、敵を退治して凱旋(ガイセン)して来るだろうとの事でした」

「そうですか。それはよかったです。もうすぐ、お屋形様とも再会できるわけですね」

「はい。もうすぐ桜の花が咲きます。今年は盛大にお花見をすると言っておりました」

「恒例のお花見ですか」

「はい。でも、今年はいつも以上に盛大にやるそうです。駿河の武将たちは勿論の事、遠江の武将たちも招待すると言っておりました」

「各地の武将たちを駿府に招待するのですか。それは大変な事ですな」

「はい。備前守(ビゼンノカミ)殿と天遊斎(テンユウサイ)殿がお奉行(ブギョウ)になって、お花見の準備を進めておりますが、大変のようです」

「備前守殿と言うと、河合殿ですか」

「はい。河合備前守殿(義忠の弟)です」

「そうですか。それは大変でしょう。お屋形様もなかなかお忙しい事ですな」

「でも、今回の戦が終わって、お花見も無事に終われば、しばらくは、のんびりできるだろうと言っておりました」

「お花見が無事に終わる事を祈っております」

「兄上様もお花見には是非、参加して下さいね」そう言ってから北川殿は春雨を見て、「春雨さんもよ」と言った。

「はい、喜んで‥‥‥」と春雨は頭を下げた。

「春雨さん、兄上様が帰っていらしてから、何だか、とても嬉しいそう」

「そんな‥‥‥」と春雨は恥ずかしそうに俯いた。

 北川殿は春雨から早雲に視線を戻すと、「兄上様、いつまでも、お一人でいらっしゃるのはよくありませんよ」と言った。「そろそろ、お嫁さんをお貰いになって、ここ駿河の国に落ち着いて下さい」

「北川殿までが、そんな事を‥‥‥」早雲は少し慌てて、首を振った。「わしは禅僧ですよ。妻を貰うなんてできません。それに、この年になって嫁を貰うなんて」

「何を言ってらっしゃるんですか、兄上様はまだお若いですよ。それに風間殿だって、あんなお若い奥様がいらっしゃるんですもの。兄上様だって‥‥‥わたし、何となく不安なんです。兄上様がいつか、駿河から離れてしまうのではないかと‥‥‥とても心細いのです。兄上様が時々、訪ねてくれるのを、わたし、とても楽しみにしております」

「何をおっしゃいます。あんなにいいお屋形様がいらっしゃるじゃありませんか」

「はい。お屋形様はわたしに優しくしてくれます。でも、わたしはお屋形様のお屋敷ではなくて、ここで暮らしております。お屋形様から御家来の人たちのお話はよく伺いますが、ほとんどの人を知らないのです。時々、ここに訪ねていらしても、形式的な挨拶をするだけで、お話らしいお話なんてした事がありません。わたしが心を開いてお話できるのは、お屋形様と兄上様だけしかいないのです」

「そうだったのですか‥‥‥五条殿もよく見えるのでは」

「はい、よく見えます。でも、御自分から進んでお話にはなりません。わたしが聞けば答えてくれますが‥‥‥」

「春雨はどうです」

「春雨さんは色々と話してくれます。娘に踊りを教えて貰っておりますけど、本当は、わたしのお話相手としてお呼びしているのです。春雨さんが来る日は娘と二人で楽しみに待っております」

「そうだったのですか。それなら、月に三日だけじゃなくて、もっと増やしたらどうですか」

「そんな、春雨さんだって色々と御用がおありでしょうし、悪いわ」

「いえ、そんな事はございません」と春雨は言った。

「ほんと?」

「はい」

「嬉しいわ、そうしていただけると」北川殿は喜び、早雲を見ると、「それと、さっきのお話ですが駄目ですか」と聞いた。

「はあ?」と早雲はとぼけた。

「お嫁さんの事です。兄上様がお嫁さんをお貰いになって、お子さんでもできれば、ずっと駿河にいてくれそうだし、わたしとしても安心なんですけれど」

「北川殿、わたしが坊主だから、こうして身分の差もなく、お屋形様ともお会いする事ができるのです。今更、浪人に戻ったら、とても、ここには出入りできません」

「兄上様、何をおっしゃいますの。兄上様はわたしの兄上様ですのよ。浪人なんてさせませんわ。京にいた頃のように立派な武将になってもらいますよ」

「今川家の家臣になれと?」

 北川殿は頷いた。

「お屋形様も、いつも言っておられます。兄上様が出家したのは勿体ない事だと。兄上様が今川家に仕えてくれたら、とても助かるって言っております。兄上様、考えてみて下さい。そうすれば、春雨さんもとても喜びますわ」

 早雲は北川殿を見て、春雨を見て、仕方なさそうに、「考えてみます」と答えた。

「それと、風間様にも時々、顔を見せるようにお伝え下さい」と北川殿は言った。

「小太郎に何か用でも?」

「いいえ、せっかく近くにいらっしゃるのですから、時々、遊びにいらして欲しいのです」

「しかし、それはちょっと難しいですよ。小太郎の奴はただの町医者ですから、ここに出入りするというのは、ちょっと無理だと思いますが」

「そうですか‥‥‥でも、春雨さんみたいにお屋形様のお許しを得ればいいんでしょう」

「まあ、そうですが、町医者のままでは無理でしょうな」

「そうですか‥‥‥」北川殿は急にがっかりしたような顔付きになった。

「小太郎がわたしのように頭を丸めれば、出入り出来るとは思いますが、あいつが頭を丸めるとは思えませんし」

「何もそこまでしなくても‥‥‥」

「そうじゃ。山伏に戻ればいいんじゃ」と早雲は思い出したように言った。

「山伏?」

「はい。小太郎は大峯山(オオミネサン)の山伏だったのです」

「大峯山というのは聞いた事あります。凄いお山だとか」

「はい。山伏の中でも大峯山は格が違います。あらゆる山の山伏たちが大峯山に修行に参ります。ここの富士山の山伏でさえ、大峯で修行をしないと偉くはなれないはずです。小太郎はその大峯山の大先達(センダツ)という位(クライ)を持っております」

「大先達というのは偉いのですか」

「一般の信者さんたちではなく、大峯山に修行に来る山伏たちの修行を指導する役目です。富士山におる山伏たちも、大峯に修行に行った者なら風眼坊(フウガンボウ)という小太郎の山伏名を知っておるはずです」

「風間様はそんなに偉い行者(ギョウジャ)様だったのですか‥‥‥どうして、また町医者なんかに」

「心境の変化とでも言いましょうか」

「心境の変化? 兄上様のお知り合いの方は、みんな、変わったお人ばかりですのね。兄上様は幕府をおやめになるし、銭泡(ゼンポウ)さんは大きなお店を潰してしまうし、富嶽(フガク)さんていう絵画きさんも元はお侍だったのでしょう? 春雨さんは京の都で有名な踊り子さん。そして、風間様は大峯山の偉い行者さん。これだけのお人が兄上様の早雲庵を出入りしているなんて凄い事ですよ」

「そう言われてみると色々なのがおりますね」

「風間様が大峯山の行者様でしたら、お屋形様にもお許しを得る事はできますわね」

「はい、多分。北川殿の御祈祷師(ゴキトウシ)として、出入りする事はできるかと思います」

「よかったわ」と北川殿は嬉しそうに笑った。「もっと、色々なお方に出入りして貰いたいわ。わたし、色々な事が知りたいのですの。お屋形様の戦の事も本当は詳しく知りたいのですけど、わたしには詳しい事を教えてはくれません。女がでしゃばる問題ではないんでしょうけど、わたしも、もっと色々な事が知りたいのです。そして、兄上様のように色々な所も見てみたいですわ‥‥‥そんな事はできないのは分かっております。せめて、兄上様や皆様の旅のお話を聞くのが、とても楽しみなのです」

「分かりました。小太郎に山伏に戻るように言っておきます。あいつも色々な所を旅しておりますから、色々と面白い話が聞けると思います」

「お願いします」

 お茶の後、軽い食事を御馳走になると、早雲と春雨の二人は北川殿と別れた。今まで気づかなかったが、二人を見送ってくれた北川殿の笑顔は何となく寂しそうだった。



 小太郎夫婦は町医者を開業していた。しかし、予想外に客の入りは思わしくなかった。吉崎ではうまく行っていたので、ここでも大丈夫だろうと簡単な気持ちで始めたが、そんなにも世間は甘くはなかった。吉崎では蓮崇たちが宣伝してくれたお陰もあったが、まさか、こんなにも暇だとは二人とも思ってもいなかった。暇なので毎日、薬ばかり作っているが、その薬を使ってくれる者は現れなかった。

 浅間神社の門前町は、参道に面して神社に所属する大手の商人たちの店が並び、神社前の広場には一年中、市が立っていた。参道の西側には歓楽街があって、遊女屋や飲屋が並び、阿部川の辺りには宿屋が並んでいる。参道の東側には町人たちの長屋があり、小さな店が並び、さらに奥の方は神社に奉仕している職人たちの町になっていた。

 小太郎夫婦の家は、その職人たちが多く住んでいる一画にあった。左隣は筆結いの職人、右隣は蹴鞠(ケマリ)の鞠を作る職人が住み、道を挟んで正面には紙漉(ス)きの職人が住んでいる。さらに右斜(ハス)向かいには蒔絵師(マキエシ)、轆轤師(ロクロシ)、鋳物師(イモジ)、鍛冶師(カジシ)、経師(キョウジ)、絵師(エシ)などが住んでいた。職人たちには怪我が付き物なので、開業する前、二人で挨拶に回ったが、今の所、効果はなかった。ただ、都合がよかったのは医者に一番肝心な薬草類を売る店が、わりと近くにあった事位だった。

「ねえ、遠江(トオトウミ)の国に行かない?」とお雪が小太郎の作った薬を紙に包みながら言った。

「戦場に行くのか」と小太郎は顔を上げた。

 また、始まったかと、小太郎は思った。

「だって、ここにいたって誰も来ないじゃない。戦場に行けば苦しんでいる人たちを助けられるわ」

「それはそうじゃが、ここは加賀の国とは違う。加賀では、わしらの後ろには蓮如殿を初めとして本願寺のお偉方がおったんじゃ。だから、戦場を行き来する事ができた。ここでは、わしらはただの町医者に過ぎん。ただの町医者が戦場をウロウロしていたら、間者(カンジャ)だと間違えられて捕まり、首を撥(ハ)ねられるだけじゃ」

「ここのお屋形様に頼めばいいんでしょう」

「お屋形様の許しがあれば戦場に行く事はできるじゃろう。しかし、わしらはただの町人じゃ。直接、お屋形様に会う事はできんし、早雲に口添えして貰わなけりゃならんじゃろう。お屋形様が帰って来るまではどうする事もできんわ」

「あ~あ。つまんないわ」

「つまらなくてもしょうがない」

「ねえ、ここにも貧しい人たちはいるんでしょ」

「貧しい人?」

「ええ。うちもなくて河原とかに住んでいる人たち」

「そりゃあ、おるじゃろう」

「ねえ、そういう人たちの中には、必ず、病人がいるわ」

 小太郎は薬研(ヤゲン)の手を止めて、お雪を見た。

 お雪の顔は本気だった。言い出したら何を言っても聞かないお雪だった。小太郎は仕方ないと諦めた。

「今から行くのか」と小太郎は聞いた。

「そうよ」

「もう夕方になるぞ。明日にしよう」

「今、苦しんでいる人がいるかもしれないでしょ」とさっそく、お雪は準備を始めた。

「やれやれ」と小太郎も作っていた薬を片付け始めた。

 荷物をまとめて、出掛けようとした時、早雲と春雨がやって来た。

「あら、お出掛け?」と春雨が声を掛けた。

「あら、いらっしゃい」

「今日は美鈴殿の踊りのお稽古があったんでな」と早雲は言った。

「おう、そうか、今日は一日か」

「どこかに行くのか」

「いや、いいんじゃ」と小太郎はお雪を見ながら、「明日にしよう」と言った。

 仕方ないわね、というような顔をしていたが、お雪もどうやら諦めて、二人を迎え入れた。

 部屋に上がって火鉢にあたると早雲は、「おぬし、山伏に戻る気はないか」と小太郎に聞いた。

「何じゃい、急に」

「実はのう。北川殿が、おぬしたちに遊びに来てほしいと言うんじゃ」

「何か用なのか」

「いや、用はない。ただの話し相手じゃ」

「話し相手?」

「ああ。わしも今日、初めて気づいたんじゃが、北川殿には気楽に話ができる相手がおらんらしい」

「お屋形様がおるじゃろう」

「お屋形様はおるが、何かと忙しい。戦に行ってしまえば、たったの一人じゃ」

「大勢の侍女(ジジョ)や家来がおるじゃろう」

「侍女や家来はおるが、奴らにしてみれば、北川殿は御主人様の奥方様じゃ。気楽に無駄話などしておったら首が飛ぶわ。それに、侍女たちとは同じ屋根の下で暮らし、毎日、顔を合わせておるから話題も少ないんじゃろ。わしらが顔を出すと、北川殿はとても喜ぶんじゃ。そして、おぬしたちにも時々、訪ねて来て欲しいと言うんじゃよ」

「ほう‥‥‥わしらは別に構わんぞ。近くにおる事だし、今の所、毎日、暇を持て余しておる」

「客は来んのか」

「さっぱりじゃ」と小太郎は首を振った。

「そうか‥‥‥そこでじゃ。おぬしが今の町医者のままでは、北川殿には出入りできんのじゃ」

「身分か」

 早雲は頷いた。「町人のままで、お屋形様の奥方の屋敷に出入りする事はできん。また、できたとしても同座はできん」

「土下座(ドゲザ)せにゃならんわけじゃな」

「そういう事じゃ」

「山伏に戻れば大丈夫なのか」

「多分な。おぬしは大峯の大先達じゃろう。お屋形様のもとに出入りしておる富士山の山伏たちよりは偉いはずじゃ」

「まあ、そうじゃろうのう」

「北川殿の御祈祷師にしてもらうんじゃ」

「成程」

「あのう」とお雪が言った。「先生が山伏に戻ってしまったら、あたしはどうなるんですか」

「お雪殿、心配はない」と早雲は言った。「山伏は妻帯しても構わんのじゃ。今のまま、小太郎の奥さんでおればいい」

「そうですか、それなら、また、風眼坊様に戻ればいいのに」

「また、山伏に戻るのか‥‥‥」

「北川殿に出入りする時だけでいいんじゃ」

「もう、山伏には戻るまいと思っておったんじゃがのう」

「北川殿は子供の時、京の伊勢家の養女になって、屋敷の奥の方で育てられ、駿河に来てからは、ずっと、あの北川殿におる。友達というものがおらんのじゃ。心を割って何でも話し合える人というのがおらんのじゃよ。春雨を娘の踊りの師匠にしたのも、実は話し相手が欲しかったんだそうじゃ」

「そうか、子供らしい思い出もないんじゃな」と小太郎は言った。

「そうじゃ。わしらのように野や山で遊んだ事もあるまい」

「おぬしにもう一人、妹がおったが、あの娘とはよく遊んだのう」

「そうじゃったな。北川殿も備中におれば、ああやって遊ぶ事も出来たが、京の伊勢家では、そんな事はさせなかったじゃろう」

「あたしたちを見送る時の北川殿、とても寂しそうだったわ」と春雨が言った。

「あんな凄い御殿の中で何不自由なく暮らしておるように見えるが、実際は好きな事もできずに寂しいのかもしれんのう」

「そうじゃ。わしらはこうやって集まっては馬鹿な事を言って騒いでおるが、北川殿にはそんな真似はできん。どこかに出掛ける時も大勢の供に囲まれておって、好きな所にも行けん‥‥‥わしは罪な事をしてしまったのかもしれん」

「罪な事?」

「ああ。北川殿は子供の時から今のような暮らしをして来た。はっきり言って世間の事など何も知らん。今の暮らしが当然の事と思っておったに違いない。そこに、わしが現れて北川殿の知らない世界の事を色々と話してしまった。北川殿が喜ぶので、わしは色んな事を話した。それが悪かったのかもしれん。北川殿は色々な世界を知り始め、実際に自分もそういう世界を見てみたいと思った。しかし、そんな事ができないのは分かっておる。そこで、せめて、もっと話だけでも聞きたいと色々な人に会いたがっておるんじゃ」

「知らない世界か‥‥‥」

「ねえ、あたしたちもお話をしに伺いましょ」とお雪は言った。「あたしも独りぼっちだったから、北川殿の気持ちはよく分かるわ。本当に心を許して話し合える人がいないって、とても辛い事だわ」

「小太郎、せっかく、気分を一新にして町医者になった所を悪いが、北川殿のために、もう一度、山伏に戻ってくれ」

「あなた、お願い」とお雪も頼んだ。

 早雲、春雨、お雪の三人が、小太郎を見つめた。

「しょうがないのう‥‥‥また、風眼坊に戻るか」

「悪いのう」と早雲は小太郎の膝をたたいた。

「山伏になるのは構わんが、支度がない。全部、飯道山に置いて来てしまったわ」

「そんなもの、何とでもなるじゃろう」

「まあ、そうじゃがのう。こんな事になるなら錫杖(シャクジョウ)だけでも持ってくればよかったのう」

「おぬしの師匠の形見とかいう例の錫杖か」

 小太郎は頷いた。「あれ程の錫杖は今時、なかなか、ないからのう。あの錫杖を持っておるだけで、そこいらの山伏は恐れ入るわ」

「ほう。あの錫杖はそんな凄い物じゃったのか」

「ああ。真新しい錫杖を持っておったんじゃ、様にならんのう」

「そうか‥‥‥いや、待て、この間、お屋形様の蔵の中に貫禄のある錫杖があったぞ」

「お屋形様の蔵の中に?」

「ああ。去年の正月、銭泡殿とお屋形様の蔵の中を整理したんじゃ」

「おぬしがか」

「銭泡殿がお屋形様の持っておるお宝の鑑定をしたんじゃ。その時、埃(ホコリ)だらけの錫杖があった。銭泡殿も錫杖の鑑定まではできなかったんで、そのままにして置いたが、あれは、かなりの値打物に違いない」

「ほう、そんな錫杖までお屋形様は蔵にしまっておるのか」

「今のお屋形様ではあるまい。先代か、またその先代のお屋形様じゃろう」

「ふうん。しかし、お屋形様の蔵にしまってある錫杖など、どうする事もできまい」

「いや、わしがそいつを貰って来てやる」

「なに、貰う?」

「ああ。お宝の鑑定をしたお礼に、お屋形様は、何でも好きな物を一つやろうと言ったんじゃ。その時、銭泡殿もわしも何も貰わなかった。お屋形様は、いつでもいいから、欲しい物があったら持って行っても構わんと言ったんじゃ」

「ほう。随分、気前がいいんじゃな」

「お屋形様も驚いたんじゃろう。蔵の中に、あんなにもお宝が眠っておったとは、思ってもおらなかったに違いない。初めから自分の物だったにしろ、銭泡殿に見て貰わなかったら、埃にまみれて未だに眠っておった事になるからのう」

「そんなにも豪華お宝が眠っておったのか」

「わしにもよく分からんが、将軍家でも、喉から手が出る程、欲しがる物もあるそうじゃ」

「ふうん。それで、その錫杖はそのお宝の中に入らなかったというわけじゃな」

「そうじゃ。わしがそいつを貰って来るわ。今日はもう間に合わんから、明日にでも行って貰って来る」

「お屋形様がおらなくとも大丈夫なのか」

「ああ、蔵奉行(クラブギョウ)がその事は知っておる」

「それじゃあ、その年期の入った錫杖を持って山伏に戻るかのう」

「あのう、あたしはこの格好のままでいいの」とお雪が聞いた。

「ああ、構わんよ」と小太郎は答えた。

「しかし、北川殿に出入りするのに、山伏と普通の町人の娘というのも変じゃのう。かといって、巫女(ミコ)の格好までしたら大袈裟じゃしのう」

「北川殿のお医者様になればいいんじゃない」と春雨は言った。

「それが駄目じゃから、小太郎に山伏に戻って貰うんじゃろ」と早雲は言った。

「そうか、身分が違い過ぎるのね‥‥‥あたしみたいに何かを教えれば、身分は関係ないのね」

「関係ないという事はないが、お屋形様が春雨の踊りを認めたから出入りができるんじゃ。男の芸人なら出家して阿弥号を名乗らなければならんが、女の芸人に対しては昔から甘いらしいのう。もっとも、公式の場では、たとえ、踊りを教えておったとしても同席する事はできんがな」

「お雪さんも医術を教えたらいいんじゃない」

「馬鹿な事を言うな。そんなものを教えてどうする」

「あのう、笛でしたら教えられますが‥‥‥」とお雪は言った。

「そうじゃ、笛があったわ。お雪の笛は天下一品じゃ」と小太郎は手をたたいた。

「笛が吹けるの」と春雨は聞いた。

「はい」

「お雪、聞かせてやれ」

 お雪は頷くと立ち上がり、隣の部屋に行った。笛を持って戻って来ると、音慣らしをして吹き始めた。小太郎もお雪の笛を聞くのは久し振りだった。何度、聞いてもいい音だった。心に染み込む、快い音色(ネイロ)だった。

 早雲と春雨の二人もうっとりとしながら聞いていた。

 お雪の吹いた曲は、今の季節、春にぴったりの曲だった。春の暖かい日差しの中で、気持ち良くまどろんでいるような感じがした。桜の花弁(ハナビラ)がひらひらと舞う中を天女が華麗に舞う姿が想像された。

 小太郎は笛の調べを聴きながら春雨の反応を見ていた。踊り子である春雨は笛についても、かなりの耳を持っているはずだった。春雨の耳にかなえば、お雪の笛も一流であると言える。春雨の表情からは小太郎の満足の行く答えが得られた。

 お雪が静かに笛を口から話すと、春雨は、「凄いわ」と言いながら手をたたいた。

「見事じゃ」と言いながら、早雲も手をたたいていた。

「それ程の腕を持っていれば、どこに行っても通用するわ。ほんと、凄いわね‥‥‥」

 春雨はたまげて、それ以上、声がでないようだった。

「芸人だったわけでもあるまいに、よく、それ程までに吹けるようになったものよのう」と早雲は感心していた。

「はい‥‥‥」と笑ったまま、お雪は答えなかった。

 仇(カタキ)討ちをするために、真剣になって学んだとは言えなかった。

「一体、誰から習ったの」と春雨は聞いた。

「叔母です。叔母は若い頃、京のお公家さんのもとに奉公(ホウコウ)しておりました。その頃、笛を習ったそうです。叔母はお仕えしていた御主人様がお亡くなりになると、出家して加賀に帰って参りました。あたしはその叔母から笛を初めとして読み書きやら色々と教わりました」

「その叔母というのは智春尼(チシュンニ)殿の事か」と小太郎は聞いた。

 お雪は頷いた。

「あの人も笛の名人じゃったのか、知らなかったわ」

「そのお公家さんていうのは何というお方なの」と春雨が聞いた。

「さあ、そこまでは分かりませんけど」

「そう、でも大したものね。余程、小さい頃からやってたんでしょうね」

「はい。習い始めたのは七歳頃でしたけど、本格敵にやり始めたのは十歳頃からです」

「そうでしょうね。それだけの腕を持っていながら隠しておくなんて勿体ないわ」

「別に隠しておいたわけでは‥‥‥」

「今度、あなたの曲で踊らせてね」

「ほう、そいつは面白そうじゃのう」と早雲はお雪と春雨を見比べた。

「小河(コガワ)の長者殿に言えば、さっそく、舞台の用意をしてくれるわ」

「うむ、是非、見たいものじゃ」

 いつの間にか、暗くなっていた。

 お雪と春雨は慌てて、夕食の支度を始めた。

 小太郎は明かりを灯し、火鉢に炭を入れた。春とはいえ、夜になると、まだまだ冷え込みは厳しかった。
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