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陰流の開祖であり、忍びの術の開祖でもある愛洲移香斎の物語です。
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31.吉崎退去2






 二十一日の夜明け前、空はまだ暗かったが、あちこちで燃えている篝火(カガリビ)によって、吉崎御坊は暗闇の中に浮かび上がっていた。

 御山への入口である総門の両脇に続く高い土塁の前にも篝火が並び、大勢の門徒たちが、寝ずの番をしていた。

 堅く閉ざされていた門が開いて、二人の男が外に出て来た。

 二人が出ると、また、門は閉ざされた。

 二人の男は篝火の光りを背に受けながら、濠に架けられた橋を渡って町人たちの町の中に入って行った。町人たちの住む町も、北潟湖と大聖寺川から水を引き入れた外濠で囲まれていたが、まだ、御山程の厳重な警固はされていなかった。

 総門から出て来た二人は、空き家になっているはずの風眼坊とお雪の家に入って行った。その二人というのは、旅支度をした順如と荷物を担いだ下人だった。順如は縁側から家の中に上がると、真っ暗な部屋の中に声を掛けた。

「準備はできておるか」

「はい。大丈夫です」

 暗闇の中で答えたのは、蓮如の執事の下間頼善(シモツマライゼン)だった。頼善の他にも部屋の中には人影があった。

「よし、行くぞ」と順如は言った。

 部屋からぞろぞろと出て来たのは、蓮如の五人の子供と、蓮如の妻の如勝、頼善の父親の玄永、それと、蓮誓夫婦と慶覚坊だった。

 蓮誓夫婦と慶覚坊は昨日の朝、まだ暗いうちに山田を出て、巳(ミ)の刻(午前十時)前に吉崎に着いていた。三人は蓮如たちと合流しようと思い、蓮誓夫婦を風眼坊の家に置いて、慶覚坊は御山に登った。

 その頃、御山では蓮如と順如と頼善の三人が、どうやって吉崎を去るかを検討していた。いい考えが浮かばないようだった。

 夜中に、ここを出ると簡単な気持ちでいたが、実際に、ここから、こっそり消えるというのは大変な事だった。抜け穴を使えば御山からは出られる。しかし、そこから先は無理だった。総門は勿論の事、船着き場にも大勢の門徒たちが寝ずの番をしている。そんな中を子供を連れて、誰にも気づかれずに外に出られるはずはなかった。

 慶覚坊も一緒に加わって考えた。

「とにかく、総門の外に出る事ですね」と慶覚坊は言った。「総門から出てしまえば、後はどうにでもなります。陸路で行こうが舟で行こうが」

「そうじゃ、総門の外にも船着き場がある。そこから塩屋に向かえばいい」と頼善は言った。

「あそこの船着き場には門徒たちはおらん」と慶覚坊は言った。

 さっそく、総門の外に抜け出す作戦は実行に移された。まず、子供たちは昼間のうちから二組に分けて、頼善と頼善の父親、玄永の二人によって風眼坊の家に連れて行った。

 吉崎を守っている門徒たちも、蓮如の子供たちとはあまり面識がないので、玄永の孫、頼善の子供として、ごまかして総門から出る事ができた。

 問題は蓮如の妻の如勝だった。如勝の顔を知っている者は多かった。如勝が総門から出て行く分には何も問題なかったが、戻って来ないとなると問題になる。考えたあげく、如勝には化粧をさせ、派手な着物を着せて、遊女に扮して順如と一緒に出て行く事にした。順如の遊び癖は門徒たちの間でも有名だった。順如なら一晩位、戻って来なくても誰も心配しなかった。二、三日、戻って来なかったら、気が変わって、そのまま、近江に帰ったのだろうと思うに違いなかった。

 順如は如勝を子供たちのもとに送ると、また、御山に戻った。頼善は船着き場に行って船の手配をした。塩屋の湊まで行けば、若狭の国、小浜(オバマ)まで行く船が待っているという手筈になっていた。

 順如は御山に戻ると夜明け前を待ち、蓮如と共に御山を下りた。下人に化けていたのは蓮如だった。順如は女のもとに行くと言いながら門番にいくらかの銭を渡して総門を開けさせた。

 蓮如の家族、蓮誓夫婦、それに、順如とお駒、慶覚坊、下間頼善の十三人と、荷物持ちの下男が三人、子供の面倒を見る下女が三人、合わせて十九人が船に乗り込んだ。

 大聖寺川は吉崎の辺りでは、かなりの川幅があった。船は向こう岸を目指して川を横切り、対岸に沿って川を下った。

 対岸から見る吉崎の御山は篝火に照らされ、そこだけが、まるで昼間のように明るかった。

 船の中から皆、黙って、川向こうに浮かぶ御山を見つめていた。

 文明三年(一四七一年)、吉崎に来てから四年余りの月日が流れていた。

 蓮如は、初めて吉崎に来た時の事を思い出していた。

 京で戦が始まり、堅田が叡山に攻められて焼かれ、堅田の住民が琵琶湖の中に浮かぶ沖の島に避難している頃だった。すでに、大谷の本願寺も叡山に焼かれ、当時、蓮如の家族は住む所もなくバラバラになって、近江門徒の世話になっていた。蓮如はしばらく、叡山のふもとから離れようと決心した。

 蓮如は落ち着くべき場所を捜すために、東国へ布教の旅に出た。そして、この吉崎の地を見つけた。その旅の途中で会ったのが蓮崇だった。蓮崇は吉崎に移るための事前工作に奔走(ホンソウ)した。朝倉との交渉を初め、吉崎の地の木の伐採(バッサイ)から、寺の普請(フシン)、町割りなど、中心になってやったのが蓮崇だった。もし、蓮崇がいなかったら、蓮如が吉崎に来られなかったかも知れなかった。吉崎は蓮崇と共に始まり、蓮崇と共に終わったと言えた。吉崎を去る蓮如の側には蓮崇はいなかった。

 慶覚坊も蓮崇の事を思っていた。

 慶覚坊が初めて蓮崇に会ったのも東国への旅の時だった。蓮如の供をして北陸に来た慶覚坊は、二俣本泉寺にて湯涌谷から来たという蓮崇と出会った。蓮崇は蓮如にしつこく頼み込んで、東国への旅に付いて来た。

 慶覚坊は初め、蓮崇の事を代々本願寺の執事である下間一族の一人だと思い、一緒にいた蓮如の執事の下間頼善同様に少し間をおいて付き合っていた。しかし、蓮崇はこまごまとした事にまでよく気づき、下人たちと一緒によく動き回っていた。下間一族にも変わった男がいるものだと思いながら眺めていた。やがて、蓮崇が一族には違いないが、下間一族の娘と一緒になって、婿に入ったという事を聞いた。

 慶覚坊と同じ立場だった。慶覚坊は婿に入ったわけではなかったが、堅田の法住という近江門徒の中心をなす男の娘を妻にしたため、本願寺の門徒になったのだった。年は慶覚坊の方が二つ上だったが、同じ立場という事もあって、何となく気が合った。

 吉崎に進出するに当たって、蓮崇と共に越前に来て下準備をしたのも慶覚坊だった。慶覚坊と違って、口がうまい蓮崇は常に表に立っていた。慶覚坊は蓮崇の護衛という立場だったが、蓮崇と付き合う事によって慶覚坊も少しづつ口が達者になって行き、加賀に来てからは山の中を歩き回って、門徒を増やす事ができたのだった。

 蓮崇は武芸の方はまったく駄目でも、口を使う事と、普請や作事(サクジ、土木建築)に関しては驚く程の才能を持っていた。吉崎御坊の建設の中心になって職人たちをうまく使い、てきぱきと作業を進めて行った。勿論、蓮崇にとっても寺の建設など初めての事だったが、職人たちも驚く程の早さで工事は進んで行った。吉崎を去って、今度はどこに落ち着くのか、まだ分からないが、また、寺院を建てるのは確かだった。しかし、もう、蓮崇はいない。今更になって、慶覚坊は蓮崇を失った事が、本願寺にとって大きな損失だったという事に改めて気づき、噂を流したに違いない超勝寺の兄弟たちを恨んでいた。

 蓮如の妻の如勝は、初めて吉崎に来た時の事を思い出していた。老いた母親と蓮如の子供たちを連れて、如勝は吉崎にやって来た。吉崎には、まだ町はなく、御山の回りに何軒かの多屋が建っているだけだった。

 如勝は京都の商人の娘として生まれた。姉の影響もあって、十七歳の時、大谷の本願寺に行き、蓮如の法話を聞いて門徒となった。如勝は熱心な門徒だった。毎月の講には必ず、顔を出した。当時、蓮如の妻だった如祐とも親しくなり、時には台所に入って手伝いをしたり、子供たちの世話をしたりもした。

 本願寺が叡山の悪僧たちに破壊された後は、近江の堅田や金森(カネガモリ)までも出掛けて行った。

 やがて、応仁の乱が始まり、如勝の家は焼かれ、近江の坂本にいる親戚を頼って避難した。翌年、父親が亡くなった。戦騒ぎで婚期を逃してしまった如勝は、父親が死ぬと兄夫婦と別れ、母親を連れて金森に移った。金森には蓮如の家族が避難していた。蓮如はその頃、東国の旅に出ていて留守だったが、如勝は金森の門徒たちの世話になりながら暮らした。

 翌年、大津に近松顕証寺ができると、如勝母子も金森から大津に移り、金森の道西(ドウセイ)の口添えもあって顕証寺で働く事になった。大谷の本願寺が焼かれてから家族がバラバラになって生活していた蓮如たちも、ようやく、顕証寺に落ち着く事ができ、蓮如の妻、如祐は幸せそうだった。しかし、その幸せも長くは続かず、顕証寺に移って二年足らずで、如祐は亡くなってしまった。まだ三十三歳の若さだった。如祐の側に仕えていた如勝は、自然と母親を亡くした子供たちの世話をするようになって行った。

 二年後、蓮如は吉崎に進出し、御坊が完成すると家族を呼んだ。如勝も年老いた母親と蓮如の子供たちを連れて吉崎に移った。その頃の如勝は、すでに蓮如の子供たちの母親代わりだった。子供たちも如勝によくなついていた。如勝は蓮如の子供たちの世話をしていたが、蓮如の身の回りの世話をしていたわけではなかった。蓮如の世話をしていたのは蓮如の娘の見玉(ケンギョク)だった。

 見玉は蓮如の四番目の子供だった。見玉は幼い頃、禅宗の喝食(カッシキ)に出されて出家し、蓮如の叔母、見秀尼(ケンシュウニ)のもとで修行していたが、見秀尼が亡くなると蓮如のもとに戻って来た。その見玉が吉崎に来て一年経った頃、二十五歳の若さで急に亡くなってしまった。見玉がいなくなると如勝は蓮如の世話もするようになった。執事である下間玄永の勧めもあって、蓮如は如勝を正式に妻とする事となった。

 自然の成り行きと言えた。古くからの門徒たちは皆、如勝が熱心な門徒である事を知っていた。身分的にいえば釣り合わなかったが、阿弥陀如来のもとでは皆、平等であると主張し、寺院から上段の間まで取り払ってしまった蓮如に対して、その事を言い出す者はいなかった。その事を一番気にしていたのは如勝だった。如勝は何度も断ったが、蓮崇に説得されて蓮如の妻になる事に決めた。母親も蓮如のもとに引き取られた。母親は蓮如よりも若かったが、娘が蓮如の妻になる事に対して信じられない事のように喜んでくれた。

 母親としては、娘の幸せが一番の気掛かりだった。婚期を逃し、すでに二十六歳になってしまった娘が嫁に行く事を半ば諦めていたのに、上人様の嫁になるという、奇跡に近い事が現実に起こり、阿弥陀如来様のお陰だと、一心に感謝の気持ちを込めて念仏を唱えていた。

 戦で家を焼かれ、翌年、夫を亡くして以来、急に老け込み、心から笑うという事のなかった母親も、蓮如のもとで暮らすようになってから笑いが戻り、本当に幸せそうだった。その母も、すでに亡くなっていた。念仏を唱えながら静かにあの世へと旅立って行った。

 吉崎という土地は、如勝にとって一生忘れられない思い出の多い土地だった。

 如勝は七歳になる祐心(ユウシン)を抱きながら、篝火に照らされた吉崎御坊を見つめていた。

 鹿島の森を過ぎた辺りで、ようやく、東の空が白み始めて来た。

 塩屋の湊に着くと、一行は素早く大型の船に乗り移り、若狭の国、小浜を目指して海に乗り出して行った。





 霧のような、小雨が降っていた。

 八月の二十四日、肌寒い一日だった。

 小雨の中、吉崎には各地からの門徒が続々と押しかけて来た。

 時節がら各地の坊主たちは皆、数十人の兵を引き連れて吉崎にやって来た。連れて来た兵が吉崎警固に加わったため、門前町を囲む外濠まで警固を拡大し、また、大聖寺川や北潟湖の水上にも船に乗った兵が配置された。今日か明日にも、山川三河守が吉崎を攻めて来るとの噂もあり、今回、吉崎に集まって来た者の中に女子供の数は少なかった。

 御山の山門は閉ざされたままだった。

 山門だけでなく、御山へと続く坂道の入口に立つ北門も閉ざされ、坂道の両脇にある多屋に用のある者だけが通る事を許されていた。

 どこの多屋も武装した門徒たちで埋まっていた。蓮崇の多屋は下間一族が管理する事となり、一族の者が加賀河北郡から来た門徒たちの世話をしていた。

 蓮崇と慶聞坊の姿が見当たらなかった。誰もが御山にいるものと信じていたため、不思議に思う者はいなかった。吉崎は念仏一色に染まっていた。そして、誰もが、明日から始まるに違いない戦の事を考えていた。

 夜になっても念仏は絶えなかった。篝火があちこちで焚かれ、祭りのように賑やかだったが、皆、緊張した面持ちでいた。

 長かった夜が明けた。

 結局、山川三河守は攻めて来なかった。

 当日の早朝、各地の有力坊主のもとに執事の下間玄永からの知らせが届いた。講の始まる前に集まってくれとの事だった。

 御山の太鼓が鳴ると同時に御山の山門が開いた。坊主たちがぞろぞろと入って来た。さすがに、武装したままの坊主はいなかった。皆、墨染めの法衣を身に着けていた。

 坊主たちが案内されたのは御影堂(ゴエイドウ)ではなく、書院の広間だった。去年、戦の命が出された場所だった。いよいよだな、と思いながら、皆、広間に畏まって座り、蓮如の現れるのを待っていた。

 この日、広間に集まったのは二十一人だった。

 多屋衆の法実坊、長光坊、法覚坊、円光坊、善光坊、本向坊。

 越前から、超勝寺蓮超の代理として定地坊巧遵。

 加賀江沼郡からは、熊坂願生坊、黒瀬藤兵衛、庄四郎五郎、坂東四郎左衛門、柴山八郎左衛門、篠原太郎兵衛、黒崎源五郎。

 能美郡からは、浄徳寺の慶恵、蛭川新七郎、中川三郎右衛門、宇津呂備前守、そして、山之内衆の河合藤左衛門と二曲右京進(フトウゲウキョウノシン)。

 北加賀からは、代表として善福寺の順慶が来ていた。

 戦となった場合、南加賀において武将となるべき者たちは、すべて集まっていた。

 しばらくして、執事の玄永が現れて正面の脇に座った。

 いよいよ、上人様の登場かと、皆、前回の時を思い出しながら、蓮如が現れるのを黙って待っていた。

 確か、前回の時、笛の調べが流れていたのを何人かの者が思い出していた。今回も流れるだろうかと期待している者もあったが、笛の調べは流れなかった。

 足跡が近づいて来た。

 皆、固唾(カタヅ)を呑んで、入り口の方を見守った。

 予想に反し、現れたのは本覚寺の蓮光だった。蓮光は集まっている皆を見回しながら、広間に入って来ると正面に座った。

 静まっていた広間が、ざわざわとしだした。誰もが、蓮光が上座に座る事に納得しなかった。

「蓮光殿、そなたがどうして、その席に座るのか、まず、その事を説明して貰いたい」と浄徳寺の慶恵が言った。

 喋り方は静かだったが、一門である我らを差し置いて、その席に座る事は許せないという気持ちがこもっていた。巧遵と順慶の二人も乗り出すようにして蓮光を責めた。

 蓮光は落ち着いていた。

 超勝寺の連中が騒ぐ事は前以て分かっていた。蓮如から直々に留守職(ルスシキ)を頼まれた蓮光にとって、たとえ、一門であろうとも恐ろしくはなかった。

「浄徳寺殿の質問に答える前に、発表すべき事柄が三つ、ございます。それをまず、お聞き下さい」と蓮光はよく通る声で言った。

 順慶が何かを言おうとしたが、隣にいた慶恵が押えた。

「まず、一つは、前回の掟を破り、門徒たちを扇動したかどにより、下間蓮崇は破門となりました」

「何じゃと」と言ったのは定地坊巧遵だった。

 あちこちから、「嘘じゃ」「信じられん」とか言う声が聞こえて来た。

「上人様はどうした。はっきりと上人様の口から聞かない限り、そんな事は信じられん」と言ったのは熊坂願生坊だった。

「そうじゃ、そうじゃ」と皆、熊坂に同意した。

「静かに!」と執事の玄永が言った。

 この中でも、最年長である玄永の一言で皆、口をつぐんだ。

「二つ目は、上人様は急に吉崎を去る事となりました」

 皆、信じられないという顔をして蓮光を見つめていた。

 誰もが、黙っていた。

「いつじゃ」と慶恵は聞いた。

「二十一日です」と玄永が答えた。「上人様は門徒たちが戦をしようとしているのを嘆き、もはや自分の力では門徒たちを止める事ができない、とおっしゃって吉崎を出て行かれました。上人様は門徒たちが戦をしない事を願いながら、吉崎を去って行ったのです」

「蓮崇殿が破門になったというのは事実なのですか」と願生坊が聞いた。

「蓮崇は上人様に事実を伝えず、門徒たちを扇動し、戦をさせようとたくらみました。今日のこの日に、重大発表を行なうという偽の書状を書いて、門徒たちに武装させたのも、蓮崇がたくらんだ事です」

「偽の書状? あれは蓮崇が書いたと言うのか」と定地坊が聞いた。

 玄永は頷いた。「しかし、松岡寺の蓮綱殿と光教寺の蓮誓殿がおかしいとお気づきになり、大津の順如殿をお呼びになって、蓮崇のたくらみはすべてばれ、破門となったのです」

 玄永はそう説明しながら蓮崇に詫びていた。

 玄永は蓮崇が本願寺のために身を引いて、破門になった事を知っていた。しかし、事実を言うわけには行かなかった。事実を言えば、蓮崇を破門に追いやった例の噂を誰が流したのかが問題となってくる。蓮崇派だった者たちは必ず、その犯人を見つける事になるだろう。はっきりとした証拠は上がっていないが、蓮如を初め、事実を知っている者たちは、超勝寺の者たちの仕業ではないかと疑っていた。もし、それが事実だった場合、本願寺は内部分裂を起こしてしまう事になる。今は事実を究明する事よりも、門徒たちに戦をやめさせる事がなによりも先決だった。蓮崇には悪いが、門徒たちへの見せしめとなってもらうより他はなかった。掟を破った事により、蓮如に一番信頼されていた蓮崇が破門になったと聞けば、門徒たちは戦をやめるに違いないと玄永は思っていた。

 皆、俯いていた。

「三つ目は」と蓮光が言った。「吉崎御坊の留守職として、上人様より、このわたしが任命を受けました」

 誰も何も言わなかった。

 確かに、重大発表だった。誰もが予想もしていない程の重大発表だった。

 蓮崇の破門‥‥‥

 そして、上人様の吉崎退去‥‥‥

 明日から戦だ、と誰もが張り切って吉崎にやって来た。ところが、戦どころではなかった。大将と仰ぐべき蓮崇は破門になり、上人様はすでにいない。蓮崇程の者が破門になるという事は、自分たちも破門になりかねなかった。

 破門を言い渡されたら、すべてを失う事となった。寺の坊主は寺を追い出され、国人門徒は家臣を失い、土地も失う事になった。国人門徒たちにとって、破門という言葉は、門徒たちを威して兵に狩り出すための決まり文句だった。門徒たちは破門になる事を恐れて武器を手にして集まって来た。その決まり文句が、自分の身に懸かるなんて考えてもみなかった。ところが、蓮崇が破門になったという事で、そんな事は絶対にあり得ないとは言い切れなかった。皆、破門が自分の身に降り懸かる事を恐れながら御山を後にした。そして、皆、不機嫌な顔をしながら、引き連れて来た兵をまとめると吉崎から去って行った。

 昼頃には、有力門徒たちは皆、吉崎を去り、今日の日が、講のある二十五日だとは思えない程、吉崎はひっそりとしてしまった。

 御山では留守職の蓮光によって講が続けられていた。

 昼頃には、吉崎中に蓮如の吉崎退去と蓮崇の破門は知れ渡っていた。誰もが信じられず、二人の指導者を失った門徒たちは、これから、どうしたらいいのか、まったく分からない状況だった。

 本願寺が戦をしない、という事だけは門徒たちにも分かったが、吉崎を警固している門徒たちは、上人様のいなくなった御山をこのまま守り続けたらいいのか、警固をやめて家に帰った方がいいのか、誰も命じてくれなかった。もっとも、警固に加わっていた門徒たちは、自分の意志で上人様を守るために吉崎に来た者が多かったが、自分の意志で来たのだからといっても、警固兵の一員になったからには自分勝手に帰るわけには行かなかった。しかし、隊長といえる者たちはどこかに消えてしまい、警固兵たちは、これからどうしたらいいのかまったく分からず、混乱していた。この混乱を静めるべき立場にいた蓮光も弟の長光坊も、御山に登って来る門徒たちを静めるのに必死で、警固兵の事まで考える余裕はなかった。慶覚坊や慶聞坊がいたら警固兵の事も考えただろうが、二人とも蓮如たちの供をして吉崎にはいなかった。

 次の日になって、ようやく、警固兵たちに撤退命令が下された。自主的に参加していた門徒たちはすべて帰され、初めから吉崎を守っていた警固隊だけが残った。そして、新たに本覚寺から来た門徒たちが蓮光を守るために配置された。

 軽海の守護所の山川三河守は蓮崇と会った後、吉崎に探りを入れた。勿論、それ以前にも探りを入れていたが、武装した門徒たちがうようよいる事と、昼夜、厳重に警固されているという事しか分からなかった。山門は堅く閉ざされたままで侵入する事は不可能だったし、誰も、蓮如がいなくなったなどと疑いを持つ者もいなかった。

 新しく吉崎に入った間者(カンジャ)は、まず、蓮崇がいない事を確認した。そして、何とかして御坊の中に侵入し、蓮如がいるかどうか確認しようとした。何人もの連中が挑戦し、忍び込もうとしたが皆、途中で捕まって首をはねられた。

 しかし、一人だけ成功した者があった。その間者は大聖寺川の対岸から鹿島の森に渡り、夜を待って御山の下まで泳いで渡った。そして、切り立った絶壁をよじ登って御坊に潜入した。一旦、中に入ってしまえば後は楽だった。その間者は本堂、御影堂、書院、庫裏とすべてを見て回った。

 蓮如の姿はなかった。蓮如の妻も子供もいなかった。庫裏にいたのは老人が一人と、坊主が二人、後は、下人たちの小屋に数人の下人や下女がいただけだった。間者は持って来た縄を使って絶壁を滑り下りると対岸まで泳ぎ、急いで軽海に知らせた。

 その知らせを聞いた三河守は、二十四日の吉崎への出撃命令を中止し、軽海を守るために待機させた。

 講の当日になり、次々に入って来る吉崎の状況を聞きながら、三河守は満足気に頷き、さっそく、野々市の富樫次郎宛に、自分の作戦が成功して蓮崇が破門となり、蓮如が吉崎を退去して行った事を告げた。そして、軽海の女のもとに帰って来ている定地坊を呼ぶと、祝い酒じゃと言って、定地坊を鄭重に持て成した。すでに、三河守は定地坊を初めとした超勝寺の者たちを手なづけて、本願寺を思いのままに操ろうという次の作戦を開始していた。
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