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陰流の開祖であり、忍びの術の開祖でもある愛洲移香斎の物語です。
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33.再会2






 風眼坊が起きたのは、今日も昼過ぎだった。

 お雪はいなかった。

 寝過ぎたかな、と思って、早雲の部屋を覗いたら、早雲は鼾をかいて、まだ寝ていた。

「幸せな奴じゃ」と風眼坊は笑った。

 蓮崇の部屋も覗いたが、誰もいなかった。みんな、どこに行ったのだろうと思いながら厠(カワヤ)に向かった。

 井戸端で顔を洗いながら空を見上げると、いい天気だった。

「のどかじゃのう」と風眼坊は独り言を呟(ツブヤ)いた。

 台所にいた仲居に声を掛け、お雪や蓮崇の事を聞くと、お雪は花養院に行ったが、蓮崇の方は分からないと言った。

 仲居の一人が笑いながら風眼坊に声を掛けて来た。

「風眼坊様、女将さんが留守でよかったですね」

 風眼坊と松恵尼の仲を知っている女だった。

「まあ、それは言えるのう。もし、いたら、女将は何と言うかのう」

「さあ、分かりませんけど、女の嫉妬は恐ろしいですからね。風眼坊様が女将さんの見えない所で遊ぶ分には、女将さんも何も言わないでしょうけど、一緒に連れて来て、しかも、女房だなんて言ったら、女将さんだって怒るんじゃないですか」

「そうか、やはり、怒るか‥‥‥戻って来んうちに退散した方がよさそうじゃのう」

「そうですよ。お酒ばかり飲んでないで、そろそろ出掛けないと帰って来ますよ」

「うむ。女将には内緒じゃぞ」

「それは無理ですよ。あたしが内緒にしたって、町中、知ってますよ」

「まさか、大袈裟な事を言うな」

「風眼坊様は自分が誰だか忘れたんですか。この町では風眼坊様は有名人なんですよ。風眼坊様の事はすぐに噂になるのです」

「本当か」

「本当ですとも」

「それじゃあ、わしと女将との仲も町中、知っておると言うのか」

 女は頷いた。「知らないと思ってるのは御本人だけです。町中、そんな事、知ってますよ。そして、今、みんなの注目を集めているのが、女将さんが帰って来て、どういう反応を示すかです」

「何じゃと。それじゃあ、わしらはいい見世物になっておるんじゃないか」

「そういう事です。有名人というのは、そういうものなんです」

「まいったのう‥‥‥見世物なんかになっておられるか。早いうちに、ここから出るぞ」

「その方がいいですよ」

 風眼坊は花養院に向かった。

 自分が町の噂になっているなんて、ちっとも知らなかった。どうせ、松恵尼も知らないに違いない。もしかしたら、松恵尼が伊勢屋の女将という事も町の連中は知っているのだろうか。わしらの仲を知っている位だから、どうせ、何もかも知っているのだろう。まったく、気が置けなかった。あの仲居の言う通り、松恵尼が留守で本当に助かったと風眼坊は思った。

 お雪は子供と遊んでいた。

 お雪に蓮崇の事を聞くと、弥兵を連れてお山に登った、と言った。

「お山へ?」と風眼坊は首を傾げた。

「蓮崇様、全然、寝てないみたい。今朝、あたしが起きた時、ずっと坐り込んでいたわ。昨日の朝もそうよ。何かをずっと悩んでいるみたい」

「そうか‥‥‥」

「相談に乗ってあげたら?」

 風眼坊は首を振った。「自分で答えを見つけるしかないんじゃ。蓮崇殿は今まで、ずっと本願寺のために生きて来た。その本願寺が蓮崇殿の前から消えた。これからどう生きたらいいのか、自分で答えを見つけなければならん」

「でも‥‥‥」

「大丈夫じゃ。蓮崇殿はそんなやわな男じゃない。絶対に自分で答えを見つけるさ」

「そうだといいんだけど、このままで行ったら、蓮崇様、病気になっちゃうわ」

「病気になったら治療してやるさ。名医がここに二人もおるんじゃからな。それよりも、明日の朝、旅立つぞ。早雲も一緒に行く事になった」

「早雲様も‥‥‥早雲様って、あなたの幼馴染みだったのね」

「まあ、そういう事じゃな。播磨に一緒に行ってから、今度は駿河に行く」

「駿河?」

「ああ。しばらくは駿河に落ち着く事になるかもしれん」

「駿河って富士山があるのよね。見てみたいわ」

「綺麗な山じゃ」

「楽しみだわ」お雪は嬉しそうに笑った。

「うむ‥‥‥それにしても、蓮崇殿はどうしてお山に登ったんじゃろう」

「さあ、武術でも習いたくなったんじゃないの」

 風眼坊は飯道山を見ながら頷いた。「しかし、あの年から始めるのは、言っては悪いが、ちょっと無理じゃな」

「蓮崇様って幾つなの」

「四十一だと思ったがのう」

「四十一からじゃ武術を習うのは無理なの」

「若い頃、少しでもやった事があれば、見込みがない事もないが、蓮崇殿はその経験はない。やる気があっても、もう体の方が言う事を聞かんじゃろうのう。吉崎におった頃、少し教えたが、まあ、ものにはならんな」

「そう‥‥‥残念ね」

 夕方、風眼坊とお雪が帰ると、蓮崇と早雲が何やら話していた。

「よう。仲良くお出掛けか」と早雲は二人が入って来ると囃(ハヤ)し立てた。

「羨ましいじゃろう」と風眼坊は言って腰を下ろした。

「今、蓮崇殿から本願寺の事を聞いておったんじゃ。本願寺では坊主の妻帯を許しておるんだそうじゃのう」

「ああ、そうじゃ。蓮如殿には十人以上も子供がおるわ」

「十人以上もか、そいつは凄いのう」

「蓮崇殿、明日の朝、ここを発つ事にした」と風眼坊は言った。「今晩は、ゆっくり休んだ方がいいぞ。長旅になるからのう」

「風眼坊殿」と蓮崇は突然、大きな声を出した。

「何じゃ」

 蓮崇は風眼坊を見つめていた。その顔は何かを決心したかのように感じられた。

 風眼坊は改めて蓮崇の方を向いて、蓮崇の言葉を待った。

「わしを弟子にして下さい」と蓮崇は両手を付いて頭を下げた。

「弟子というのは、武術の弟子か」

「はい、そうです」

「弟子になってどうするつもりじゃ」

「わしは本願寺を破門になり、本願寺の事はすっかり忘れて、新しい人生を送ろうと思いました。しかし、加賀では門徒たちは苦しんでおります。破門になったからといって、もう関係ないと見て見ぬ振りは、わしにはできません。そんな事をする位なら、いっそ、死んだ方が増しだと思いました。どこか、遠くの山の中にでも行って死のうと決心しました。ところが、この前、風眼坊殿は破門されても本願寺のために生きる事はできると言いました。わしはそんな事ができるわけないと思いました。しかし、ようやく、風眼坊殿の言いたかった事が分かりました」

「分かったか」

「はい、わしは本願寺の裏の組織を完成させるつもりです」

「うむ。わしもその事を蓮崇殿にやってもらいたかったのじゃ。裏の組織というのは絶対に表には出ない。たとえ、破門の身であっても蓮崇殿ならできる。わしはそう思っておった」

「しかし、実際、破門された身で加賀に乗り込んでも組織作りなんてできません」

「いや、蓮崇殿ならできると思うがのう」

「いえ、まず、破門されたわしは門徒たちに相手にされません。生まれ変わらなければならないと気づいたのです」

「それで、山伏になるというのか」

「はい。山伏になって武術を身に付けます。まず、強くなければ誰にも相手にされません。裏の組織を作るにしても口だけでは誰も動きません」

「うむ、そうかもしれんのう。もう下間一族の蓮崇殿ではないからのう。口だけでは誰も動かんのう」

「風眼坊殿、お願いです。わしを弟子にして武術を教えて下さい」

「弟子にするのは簡単じゃ。しかしのう‥‥‥」

「わしも年の事は考えました。この年になって武術を始めても、ものになるかどうか分かりません。しかし、一度、死ぬ覚悟をしました。死ぬ気で頑張るつもりです。どうか、お願いします」

「うーむ‥‥‥」風眼坊は腕を組んで考えた。

「お願いします」と蓮崇は頭を畳(タタミ)にこすり付けて頼んでいた。

「蓮崇殿、こうしよう。蓮崇殿が死ぬ気で武術を習いたいのなら、まず、基本である体を作らなければならん。飯道山には奥駈けといって、山の中を修行する道がある。その道を百日間休まずに歩き通す百日行というのがある。雨が降っても、風が吹いても、体の具合が悪くても、一日も休む事はならん。今から始めれば、冬になり、雪が降る事もあろう。しかし、一日でも休めば、その行は初めからやり直さなくてはならん。蓮崇殿、まず、その行から始める。その行に耐える事ができれば、武術を身に付ける事もできるじゃろう。その行に耐えられたら、わしの弟子として、この山で一年間、修行を積むがいい。どうじゃな」

「百日行‥‥‥道のりはどれ位なんですか」

「一日、およそ十三里(約五十キロ)じゃ」

「山の中を十三里ですか‥‥‥」

「きついぞ。しかし、わしの弟子になるには、それが第一関門じゃ。わしのたった一人の弟子である太郎坊は、百日行を二回しておる。早雲も一回やっておるのう」

「ああ、あれには参ったわ。しかし、あれを経験しておくと大低の事には耐えられるのう」

「やります。やらせて下さい」と蓮崇は迷わずに言った。

「よし、分かった‥‥‥今日はゆっくり休んだ方がいい。そうじゃのう、明日、準備をして、あさってから始めるか。それまで体調を整えておけ、始めたら百日間は休めんからのう」

「はい。分かりました。お願いします」

「予定変更じゃ。どうするかのう、おぬし、先に播磨に行くか」と風眼坊は早雲に聞いた。

「いや、わしも付き合うよ」と早雲は言った。

「なに、おぬしも百日行をやると言うのか」

「ああ。どうせ、おぬしは最後まで付き合うつもりじゃろ。わしも負けられんわ」

「また、張り合うのか」

「そうじゃ。おぬしがやると言うのに、わしが見ているわけにはいかん」

「相変わらずじゃのう。そうなると問題は、お雪じゃのう」

「あたしは花養院で待っています。仲恵尼様が、あたしが子供の病気の治療をした事を聞いて、しばらく、いてくれたら助かると言っておりましたから、あそこで子供たちの面倒を見ています」

「そうか、あそこで待っていてくれるか」

「はい‥‥‥蓮崇様、頑張って下さいね」

 お雪が百日間、いる所となると花養院より他にはなかったが、花養院にいれば、当然、松恵尼と顔を合わす事となる。まずい、と思ったが仕方なかった。成るように成れ、と開き直るより他になかった。

 その日は皆、早く寝た。

 次の日、風眼坊はわけを話して、お雪の事を仲恵尼に頼んだ。仲恵尼は喜んで、お雪の事を引き受けてくれた。何となく、仲恵尼が自分を見る目が変わったような気がした。以前のように、皮肉を込めた目付きではなかった。どうしたんだろうと思いながらも、たまたま機嫌がいいだけなんだろうと思って山に登った。

 高林坊と会い、蓮崇の事を話し、百日行の許可を取った。

 高林坊も話を聞いて驚いていた。あの年で、初めて百日行をやるとは信じられないようだったが、風眼坊と早雲が最後まで付き合うというので、高林坊も安心して許可をした。

 高林坊から三人分の山伏の支度を借りると風眼坊は山を下りた。

 明日から始めて、百日行が無事に終わるのは十二月の半ばだった。丁度、太郎が志能便の術を教えている頃だった。行が無事に終わったら蓮崇をお山に預け、太郎と一緒に播磨に向かおうと風眼坊は思った。





 百日行が始まった。

 初日から雨降りだった。

 雨の降る中、山伏姿の三人は太神山(タナガミサン)へと向かった。初日から四日目までは足慣らしのため、半分の片道だけなので、別に問題はなかった。

 風眼坊も早雲も、蓮崇に合わせて、のんびりと歩いていた。

 蓮崇は真剣だった。しかし、体が気持ちに付いて行くかが問題だった。はっきり言って、蓮崇の体は武術をする体付きではなかった。今まで、体の事に気を配った事もないのだろう。体全体に余計な肉が付き過ぎていた。百日間、歩き通す事ができれば、見違える程の体になるだろうが、果たして、やり通す事ができるかどうか不安だった。

 早雲は、まあ持って一ケ月じゃろうな、半分の五十日歩き通せば、大したもんだと風眼坊に言った。

 風眼坊も五十日持てば、いい方だろうと思った。やるだけやって駄目だったら、本人も諦めるだろう。それでも諦めなかったら、来年の一月に、若い修行者たちと一緒に、一年間の修行をやらせようと思っていた。

 五日目から本格的な抖擻行(トソウギョウ)が始まった。

 蓮崇はその日から、もう危なそうだった。帰り道の途中から腹を押えながら、足を引きずり歩いていた。宿坊にたどり着いた頃には、もう真っ暗になっていた。

 次の朝には、もう起きられないかもしれない、と風眼坊も早雲も思った。

 次の日、蓮崇は気力を振り絞って起き、歩き出した。

 風眼坊も早雲も何も言わず、蓮崇の後ろを歩いた。

 それぞれの山の山頂には、その山の本尊が祀(マツ)ってあった。

 飯道山頂には飯道権現と役小角(エンノオヅヌ)、地蔵山には地蔵菩薩、大納言山には虚空蔵菩薩(コクウゾウボサツ)、阿星(アボシ)山には釈迦如来(シャカニョライ)、金勝(コンゼ)山には千手観音、竜王山には八大竜王、弥勒(ミロク)山には弥勒菩薩、薬師山には薬師如来、最後の太神山には不動明王と役小角、そして、金勝寺の奥の院の狛坂寺(コマサカジ)には阿弥陀如来、弥勒山と薬師山の途中にある観音の滝には十一面観音が祀ってあった。

 それらの所では決められた印(イン)を結び、決められた真言(シンゴン)を唱えなければならなかった。

 蓮崇は風眼坊の言う通りに真似をした。本願寺の門徒であった蓮崇にとって、念仏以外の真言を唱えるのに抵抗を感じていたようだったが、「生まれ変わるのじゃ」と風眼坊に言われ、仕方なく風眼坊の真似をした。

 七日目に蓮崇は歩きながら血を吐いた。

 毎日、疲れ切っているので、食欲もわかず、ほとんど何も食べないで歩き通していた。目はくぼみ、頬はげっそりとして、すっかり顔付きが変わっていた。足の裏は血だらけになっていた。

 早雲は、もうやめさせた方がいいと言ったが、風眼坊は、まだ死にはせんと言って、やめさせなかった。

「このまま続けたら、一ケ月で死ぬぞ」と早雲は言った。

「生まれ変わるには、一度、死ななくてはならん」と風眼坊は言った。

「きつい事を言うのう」

「わしの弟子になるには、それだけの事をしてもらわんとな」

「おぬしの名が落ちると言うわけか」

「いや、わしの事など、どうでもいいが、わしには太郎という弟子がおる。蓮崇殿がわしの弟子になれば、太郎とは兄弟弟子という事になる。蓮崇殿はどうしても、太郎と比べられる事になるんじゃ。このお山で修行する事になれば、常に太郎と比べられておるという事を意識しなければならん。それに耐える事ができるかが問題じゃ」

「成程な。できのいい兄貴を持った弟が肩身の狭い思いをするのと同じというわけか」

「そうじゃ。蓮崇殿が、そんな事を一々気にしなければ何も問題はないが、わりと繊細な所があるからのう。それに耐えるには、自分に自信を持たなければならんのじゃ。百日行をやり通す事によって、その自信は付くはずじゃ」

「百日間、歩かせるつもりか」

「あの姿を見ておったら、何としても歩かせたいと思うじゃろう」

「それはそうじゃがのう、後九十三日、先はまだまだ長いぞ」

「まあ、やってみるしかない」

 蓮崇は荒い息をしながら、足元の道だけを見て、杖を突き、一歩一歩進んでいた。頭は重く、石ころが一杯詰まっているようだった。何も考える事ができなかった。ただ、やらなければならないという気持ちだけで動いていた。なぜ、こんな事をやらなければならないのか分からなかったが、この修行の後には必ず、浄土があると信じていた。しかし、浄土にたどり着くまでの道のりは辛く長いものだった。蓮崇は心の中で、「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えながら歩いていた。

 十日間が過ぎた。

 相変わらず、蓮崇は苦しそうだった。

 血を吐く事はなくなったが、金剛杖を頼りに足を引きずりながら歩いていた。それでも、歩く速さは少し速くなったようだった。蓮崇の速さに合わせて歩いているため、風眼坊と早雲の方が返って疲れが溜まって来ていた。

「おい、小太郎、わしらは何も奴に付き合う事はないんじゃないのか」と早雲は言い出した。

「ああ、無理に付き合う事はないさ」

「おぬしもそろそろ、お雪殿に会いたくなったんじゃないのか」

「そりゃ、会いたいさ」

「蓮崇なんか放っておいて、山を下りようぜ。わしも女子が恋しくなった」

「何を言っておる。おぬしは坊主になったんじゃろうが」

「正式になったわけではない。わしは本願寺の坊主になる事にするわ」

「いい加減な奴じゃのう」

「二人も女房を持っておる、おぬし程じゃないわ」

「それを言うな。成り行きで、そうなっただけじゃ」

「わしも成り行きで坊主になったが、これからは本物の禅をするんじゃ」

「ほう。おぬしの話じゃと、歩く事も立派な禅じゃろ」

「そりゃそうじゃが‥‥‥」

「百日禅じゃと思って続けるんじゃな」

「百日禅か‥‥‥そいつは面白い、百日禅か‥‥‥よし、わしは百日禅をするぞ。いいか、小太郎、これからは話し掛けるな。わしは先に行くぞ」

「何を言ってやがる。話し掛けたのはそっちじゃろ」

 早雲は何を思ったのか、一人で先に行った。蓮崇も追い越し、一人でさっさと歩いて行った。

 蓮崇は念仏を唱えながら、ただ、ひたすら歩いていた。

 苦しかった。しかし、やめようとは思わなかった。やめたら、この先、生きて行く望みはなかった。たとえ、途中で死ぬ事になろうとも、その方がましだった。

 蓮崇は死ぬか、やり遂げるか、自分に賭けていた。まだ九十日もあった。

 早雲は蓮崇に付き合うつもりで百日行を始めたが、せっかくやるなら、人に付き合うより、自分のためにやった方がいいと気づき、百日間の歩く禅をやる事に決めた。歩きながら無の心境になろうと考えた。

 その日から早雲は二人に付き合わないで、一人で歩き、二人よりも一時(イットキ、二時間)近く早く宿坊に帰り、座禅をしながら待っていた。

 一休と出会い、本物の禅は分かったが、それをどうやって実行に移したらいいのか分からなかった。駿河において早雲は立派な禅僧という事になっている。今川のお屋形様(義忠)の義兄として、一休のような真似はできなかった。どうしたら、本物と言える禅を実行できるかを考えていた。

 早雲の側にも女がいた。春雨という芸人だった。半年近く一緒に暮らして、お互いに惹かれている事に気づいていた。春雨はしきりに早雲に誘いを掛けるが、早雲はそれをかわして来た。自分が僧侶だからという理由で避けて来たが、それは本心ではなかった。

 早雲も春雨が好きだった。抱きたいと思う気持ちをしきりに抑えていた。なぜ、そんな事をして来たかというと、外聞(ガイブン)をはばかっていたからに他ならなかった。皆から偉い禅僧だと思われている早雲が、女犯を犯したら、誰にも相手にされなくなるという事を恐れていたからだった。それは本物の禅ではなかった。ただの逃げでしかない。逃げている以上、本物の禅の境地に達する事はできなかった。かと言って、一休のように堂々と春雨を抱く事ができるか、と問われれば、今の早雲にはできなかった。

 何もかも捨て、無一物の境地になって駿河に行ったはずが、いつの間にか、回りから偉い和尚だと思われる事によって、捨てる事のできない地位というものを身に付けてしまっていた。今、早雲が春雨を抱けば、その地位を失い、ただの生臭(ナマグサ)坊主になってしまう。この先、本物の禅に生きるつもりなら、それを覚悟しなければならなかった。偽坊主のままでいれば、今まで通り、人々から敬(ウヤマ)われる和尚でいられる。早雲はどっちを選んだらいいか迷っていた。

 一ケ月が過ぎた。

 山々が色づき始めた。

 蓮崇は歩き通していた。

 体付きや顔付きはすっかり変わって来ていた。髭や髪が伸びて来たせいもあるが、目がギラギラと輝き、一種の気魄(キハク)というものが感じられた。

 風眼坊は、もしかしたら、蓮崇は百日間、歩き通すかも知れないと思った。なぜか、早雲の方がおかしくなって来ていた。ほとんど口も利かなくなり、苦しそうに歩いていた。

 早雲も風眼坊も蓮崇よりも年上だった。風眼坊の方は一年半前までは大峯にいたので、まだ体はできているが、早雲の方は山歩きに慣れているとはいえない。蓮崇程ではないにしろ、かなり、きついはずだった。

 早雲が一番先を歩き、蓮崇が歩き、風眼坊は一番最後を散歩している気分で歩いていた。

 今が一番、きつい時だろう。今を乗り越え、半分の五十日を乗り越えれば、何とか歩き通す事ができるだろうと風眼坊は思った。

 三十三日目だった。

 怪石奇岩の並ぶ、竜王山へと続く道を歩いている時、突然、前を歩く蓮崇が崩れるようにして倒れ込んだ。

 風眼坊は駈け寄った。

 蓮崇は苦しい息をしながら目を剥き、風眼坊の方を見ながら手を高く差し延べ、何かをつかもうとしていた。やがて、その手は力なく落ちると蓮崇は目をつむり、『南無阿弥陀仏』と呟くと、ガクッとなった。

 風眼坊は慌てて、前を行く早雲を呼んだ。

 蓮崇は意識を失い、夢を見ていた。

 蓮崇はお花畑の中に立っていた。

 遠くの方から何とも言えない妙な調べが流れていた。

 空には紫色した雲がたなびいている。

 浄土だな、と思った。

 やっと、浄土に来られた。辛い山歩きも、もう終わったんだな、と思った。

 お花畑の向こうから女の子が蓮崇の方に走って来た。

 誰だろう。

 何となく、見た事あるような気がした。近づいて来るにしたがって、その女の子が蓮崇の娘だと分かった。流行り病に罹って七歳で亡くなった、あや、という娘だった。

 あやは蓮崇に飛び付いて来た。そして、淋しかったと言いながら泣き出した。

 蓮崇は娘と手をつないで、お花畑を歩いていた。

 急に娘が蓮崇の手を引っ張った。蓮崇は引っ張られるままに娘に付いて行った。

 娘に引かれて行った所には綺麗な大きな湖があった。湖の中央に円錐形の形のいい山が聳(ソビ)えていた。

 娘は蓮崇を水際まで連れて行った。

 水際に女がしゃがみ込んで何かを拾っていた。

 女は蓮崇に気づいて振り向き、ゆっくりと立ち上がった。

 その女は蓮崇の母親だった。しかし、蓮崇がまだ子供だった頃のままで、蓮崇よりも年がずっと若かった。

 女は蓮崇を見て笑った。

 蓮崇も笑ったが、変な気分だった。自分の母親が自分よりも若いという事がおかしかった。

 母親は蓮崇の名を呼んだ。懐かしい声だった。蓮崇は子供に戻ったかのように母親に抱き着いて行った。不思議な事に蓮崇は母親に抱かれた瞬間、子供に変わった。

 蓮崇は母親に聞きたい事が一杯あったが、母親に会った瞬間、そのすべての事が分かったような気がした。

 子供に返った蓮崇は母親に舟に乗せられ、湖に漕ぎ出した。

 蓮崇は、母親が湖の中央に聳える山に連れて行ってくれるものと思っていた。あの山にはきっと阿弥陀如来様がいらっしゃるんだと信じていた。きっと親鸞聖人(シンランショウニン)様も本泉寺の如乗(ニョジョウ)様もいらっしゃると思った。

 湖の中程まで来た時、母親は舟を止めた。

「母ちゃん、どうしたの」と蓮崇は聞いた。

「左衛門太郎や、下をごらん」と母親は言った。

 蓮崇は湖の中を覗き込んだ。

 綺麗な水の下に何かが見えた。大勢の人々が苦しんでいた。

「地獄なんだね」と蓮崇は母親に言った。

「よく見るのよ」

 地獄なんか見たくはない、と思ったが、蓮崇は母親に言われた通り、もう一度、湖の中を見た。

 人々は血を流しなから苦しんでいた。地獄の鬼どもはひどい事をするな、と思ったが、鬼の姿はなかった。人々を苦しめていたのは同じ人間だった。何という悪い事をしてるんだと蓮崇は思いながら目をそむけた。

「駄目よ。よく見なさい」と母親は厳しい口調で言った。

 蓮崇には母親がどうして怒るのか、分からなかった。

 蓮崇はもう一度、湖の中を見た。

 『南無阿弥陀仏』と書かれた旗が見えた。やられているのは本願寺の門徒たちだった。女や子供も逃げ惑っていた。門徒たちを苦しめていたのは守護の兵だった。兵たちは面白がって無抵抗の門徒たちを攻めていた。

「やめろ!」と蓮崇は湖に向かって叫んだ。

「左衛門太郎や、お前は、あの人たちを見捨てるつもりなの」と母親は言った。

「だって、俺にはどうする事もできないよ」

「左衛門太郎や、あのお山には親鸞聖人様や如乗様もいらっしゃるのよ。今のお前が、その方たちの前に行けるの。もう少しすれば蓮如上人様もいらっしゃるでしょう。お前は蓮如上人様と会って何というつもりだい」

「母ちゃん‥‥‥俺、まだ、やらなきゃならない事があるんだ。まだ、あのお山には行けないよ」

「分かってくれたんだね」

「母ちゃん、どうすればいいの」

「飛び込むのよ」

「この中に?」

「そう」

 蓮崇はじっと母親の顔を見つめた。

 母親は頷いた。

 蓮崇は思い切って湖の中に飛び込んだ。

 大きな渦に巻き込まれて、どんどん下に落ちて行くようだった。

 蓮崇は目を明けた。

 風眼坊と早雲の顔があった。

「おい、大丈夫か」と風眼坊の声が聞こえて来た。

「蓮崇!」と早雲は怒鳴っていた。

「大丈夫です」と蓮崇は言って体を起こした。

「よかった‥‥‥死んじまったんかと思ったわ。脅かすな」

「死んだ‥‥‥死んだのかもしれない」

「何を言っておるんじゃ。脅かすなよ」と早雲は言った。

「浄土を見たんじゃ‥‥‥」と蓮崇は言った。

「浄土を見た?」と風眼坊は聞いた。

「はい‥‥‥わしは生き返ったのかもしれん‥‥‥」

「蓮崇、大丈夫か‥‥‥もう、やめた方がいいぞ。もう、充分やったろう、もう、気が済んだはずじゃ」と早雲は言った。

「いえ、大丈夫です。わしは本当に生き返ったんです。生まれ変わったんです」

 蓮崇は立ち上がった。

 体が軽くなったような気がした。

 蓮崇は杖を取り直すと歩き始めた。

「あいつ、大丈夫か」と早雲は風眼坊に聞いた。

「あれを見て見ろ」と風眼坊は蓮崇の歩く後ろ姿を見ながら言った。

「空元気というやつじゃないのか」

「いや。奴の言う通り、本当に一度死んで、生き返ったのかもしれん」

「そんな事があるのか」

「ある。奇跡と言われるもんじゃ。厳しい行を積んでおると信じられないような奇跡が起こるもんじゃ。三途の川を渡る所まで行ったが、戻って来て、生き返る事ができた、という話をよく聞く」

「奴もその経験をしたと言うのか」

「多分‥‥‥」

「ほう、三途の川から戻って来たか‥‥‥」

 その時を区切りにして蓮崇は変わって行った。

 急に身が軽くなったかのように歩くのが速くなった。

 先頭を歩く早雲と同じ早さで歩く事ができるようになって行った。

 紅葉(モミジ)の映える山の中を三人の山伏の行は続いていた。
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