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陰流の開祖であり、忍びの術の開祖でもある愛洲移香斎の物語です。
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11.三浦次郎左衛門尉






 駿府屋形内の長谷川法栄(ホウエイ)の屋敷に隠れている富嶽、多米権兵衛、荒木兵庫助の三人から、お屋形内の詳しい状況を聞くと早雲と小太郎の二人は、三浦屋敷の南隣にある木田伯耆守(ホウキノカミ)の屋敷に潜入し、待機していた。

 木田伯耆守は元、御番衆の一番組の頭だったが、小鹿新五郎がお屋形様になったために頭の地位を奪われ、家臣を引き連れて小河(コガワ)の長谷川屋敷に移っていた。四番組の頭だった入野兵庫頭(ヒョウゴノカミ)も木田と一緒に駿府屋形から去っていた。二人共、今川一族であるため、二の曲輪(クルワ)ではなく、本曲輪内に屋敷を持っていた。今は二人共、竜王丸の御番衆となって、入野は竜王丸のいる小河の長谷川屋敷を守り、木田は摂津守の青木城を守っていた。

 早雲と小太郎は誰もいない木田屋敷の台所で夜が更けるのを待っていた。二人は武士の格好をしている。お屋形内をうろつくのに一番目立たない格好だった。

 二人は下帯一つで北川に入り、水の中を潜って道賀亭の濠に出た。濠から上がると、すぐ側にある北川衆の屋敷に入った。北川衆の屋敷は四軒並んでいて、今は全部、空き家となっている。小太郎はいつも、その家に着替えを置いていた。そこで武士になった二人は堂々と本曲輪内を歩いて長谷川屋敷に入って行った。勿論、長谷川屋敷への出入りは誰にも見られないように注意を払った。そして、暗くなってから木田屋敷に忍び込んだのだった。

「さすがに、御番衆がウロウロしておるのう」と早雲は言った。

「まあな‥‥‥ここから抜け出すのは難しいわ」

「もし、三浦殿が本拠地に戻ると言っても出られないんじゃろうか」

「さあ、どうかのう。三浦は出られるかもしれんが、残った者は人質となろうのう。三浦が裏切ったら人質は殺される」

「うむ、じゃろうの」

「とにかく、三浦に会ってからじゃ」と小太郎は板の間に横になった。「本人が寝返る気もないのに、あれこれ考えてみてもしょうがない」

「それもそうじゃな」と早雲は板の間に上がった。

 台所は綺麗に片付けられてあった。余裕を持って引き上げたようだ。木田伯耆守が引き上げる頃は去る者は追わずだったので、きちんと掃除をしてから引き上げたのだろう。

「小太郎、今、小鹿派の軍勢はどれ位なんじゃ」と早雲が振り返って聞いた。

「今、駿府におる軍勢か」と小太郎は天井を見上げたまま言った。

「ああ」

「ここ、本曲輪に三番組と五番組がおるじゃろう。三百人余りおるのう。それと、小鹿新五郎の屋敷を守る宿直(トノイ)衆が二百位おるかのう。二の曲輪には二番組が百五十人。詰(ツメ)の城に、庵原安房守(イハラアワノカミ)と矢部将監(ショウゲン)の兵が二百。お屋形の回りに興津、蒲原、矢部美濃守の兵が三百といった所かのう」

 早雲は小太郎の側に腰を下ろすと懐から紙と筆を出して、小太郎の言う事を書きとめた。

「しめて、一千百五十か‥‥‥おい、福島越前守の兵は帰ったのか」

「おっ、忘れておった。越前守と葛山播磨守の兵、五百が阿部川におったわ」

「ほう。葛山の兵も来ておったのか」

「ああ。いくら遠いといっても兵を連れて来ないんじゃ越前守に主導権を握られるからのう」

「三浦の兵はおらんのか」

「五番組だけじゃな。阿部川を封鎖されて来られんのじゃろう」

「そうじゃのう‥‥‥しめて、一千六百五十人余りという事じゃな」

「一千六百五十か‥‥‥竜王丸殿の兵力はどんなもんじゃ」

「阿部川に六百、青木城に三百という所かのう」

「九百か」

「今、この辺りにおるのはのう。あと四百余りが三浦殿の大津城を包囲しておるじゃろう。それと、遠江勢によって天野兵部少輔の犬居城も包囲するつもりじゃが、これは、すぐにというわけにもいかんじゃろう」

「うむ‥‥‥三浦次郎左衛門を寝返らせたとして、その後はどうするんじゃ」

「後は葛山播磨と福島越前を仲間割れさせる」

「それで? どっちを味方に付けるんじゃ」

「ふむ。どっちがいいかのう」

「どっちも一筋縄で行く相手じゃない事は確かじゃ。下手をすれば関東の軍勢を呼び込む事も考えられるわ」

「関東か‥‥‥扇谷(オオギガヤツ)上杉か‥‥‥まずいのう。それだけはやめさせなくてはならんな」

 二人は一時程待つと行動を開始した。
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12.二つの今川家



 梅雨が始まった。

 今川家は二つに分かれたまま膠着(コウチャク)状態に入っていた。

 三浦次郎左衛門尉が寝返った後、岡部美濃守の義弟の由比出羽守が孤立して、小鹿派に寝返った。美濃守としても寝返らせたくはなかったが、どうする事もできなかった。今川家は阿部川を境にして、二つに分かれてしまっていた。

 梅雨が始まってから五日後、備前守派だった天野兵部少輔が竜王丸派に寝返った。遠江にいる今川家の者たちが皆、竜王丸派となり、兵部少輔の犬居城を包囲されては寝返ざるを得なかった。兵部少輔は初めから本気で備前守を押していたわけではない。今川家を分裂させるために備前守派に付いただけだった。自分の本拠地が危なくなっている今、いつまでも備前守に付いて遊んでいる場合ではなかった。

 兵部少輔は簡単に備前守を捨てて竜王丸派の本拠地、青木城に移って来た。見捨てられた備前守は上杉治部少輔を頼らざるを得なくなったが、当の治部少輔は摂津守を説得に行くと出掛けたまま、青木城から戻っては来なかった。誰からも見放され、孤立した備前守は茶臼山城下の屋敷に閉じこもったまま毎日、やけ酒を浴びていた。

 竜王丸派からも、小鹿派からも、今川家の長老として迎えるから、との誘いが掛かったが、自分を見捨てた家臣たちのいる所に戻りたくはなかった。しかし、やがて気持ちが落ち着くとお屋形様の座を諦め、長老として今川家のために生きようと決心し、頭を丸めて棄山(キザン)と号し、小鹿派に迎えられた。棄山の山は富士山を現し、今川家の家督を富士山に例えて、自ら富士山を放棄して、禅境に入った事を意味していた。

 備前守は小鹿派となったが、茶臼山の裾野に陣を敷いている上杉治部少輔は相変わらず、中立のまま今川家をまとめようと張り切っていた。とは言っても、小鹿派の駿府屋形に行っては御馳走になり、竜王丸派の青木城に行っては御馳走になっているだけで、成果はまったく上がらなかった。

 早雲は早雲庵の縁側から降る雨を眺めていた。

 小太郎、富嶽、多米、荒木らも皆、戻って来ている。

 小太郎はお雪と一緒に浅間神社の門前町の家を引き払っていた。三浦一族の者たちがお屋形から消えて以来、葛山備後守は近くに敵の隠れ家があるに違いないと浅間神社の門前も捜し始めた。小太郎はお雪の身を案じて、しばらくの間、引き払う事にした。さらに、北川殿も長谷川屋敷に隠れている事が敵に知られて危険が迫り、朝比奈氏の本拠地の朝比奈城下に移っていた。お雪は北川殿を守るため、朝比奈城下の北川殿のもとに侍女として入っていた。

「備前守殿が小鹿派になったか‥‥‥」と早雲は縁側から雨を眺めながら言った。

「仕方あるまい」町医者姿の小太郎は縁側に寝そべっていた。「茶臼山は阿部川の東じゃからのう」

「これから、どうするんです」と久し振りに絵師に戻った富嶽が、早雲と小太郎の顔を交互に見た。

「遠江の者たちが戻って来れば、竜王丸派は圧倒的に有利な立場に立つ事となるのう」と小太郎は言った。

「しかし、戦を始めるわけには行かん。それこそ、葛山や天野の思う壷に嵌まる事となる」と早雲は言った。

「戦を起こさずに、今川家を一つにまとめるとなると難しい事じゃのう」と富嶽は言った。

「四つに分かれていたものが二つになった。後は二つを一つにまとめるだけじゃ」と早雲は気楽に言った。

「簡単に言うが難しい事じゃ」と小太郎は腕枕をしながら早雲を見た。「二つを一つにするという事は竜王丸殿をお屋形様にして、小鹿新五郎を後見にするという事になるが、そうなると、小鹿派は賛成するかもしれんが、摂津守派が黙ってはおるまい。竜王丸派がまた二つに分かれる事になるぞ」

「確かにのう。摂津守派ではなく、小鹿派と手を結べば良かった、と今になって思うが、あの時点の状況では竜王丸派と小鹿派が手を結ぶという事は難しかったからのう」

「そいつは無理じゃ。葛山の奴が絶対に反対するに決まっておる」

「ああ。手を結ぶのが難しいとなると、残るは葛山播磨と福島越前を仲間割れさせ、どちらかを寝返らす事じゃな」

「どちらを寝返らすのです」と荒木が富嶽の後ろから顔を出した。

 多米も一緒にやって来て話に加わった。

「さあのう」と早雲は首を振った。

「いよいよ、切札を使うか」と小太郎は早雲に聞いた。

「切札か‥‥‥」と早雲も頷いた。
13.太田備中守1



 梅雨が終わり、暑い日が続いていた。

 今川家は二つに分かれたまま、阿部川を挟んでの睨み合いが続いている。

 今年の梅雨は例年に比べて雨量が多く、阿部川は倍以上の幅になって勢いよく流れていた。そんな阿部川を初めて見る小太郎は勿論の事、四年目になる早雲でさえ驚いていた。何度も川止めがあり、浅間神社に参拝に来た旅人たちは阿部川を挟んで立ち往生している。藁科川と阿部川の間に陣を敷いている主戦派の福島土佐守や岡部五郎兵衛も今年の阿部川の水量には驚き、戦どころではなかった。両方の川の水嵩(カサ)が増して、前にも後にも動けず、孤立してしまう事もあった。

 梅雨も終わって、ようやく水嵩も減っては来たが、流れる位置が変わっていた。小鹿派が陣を敷いている二本の阿部川の間は広くなり、下流の方では二本の流れは近づいていた。藁科川も幾分、東の方に流れを変えていた。

 両天野氏が竜王丸派に付かざる得ない状況となって、東遠江もようやく落ち着き、遠江勢の重臣たちも駿府に戻って来ていた。兵力から言えば竜王丸派が圧倒的に有利になっていても、戦を始めるわけにも行かず、かといって話し合いで解決する事もならず、膠着状態が続いたままだった。今の状況を変えるには何かが起こらなければ無理と言える。たとえば、外部の敵が駿河の国に攻めて来れば、今川家は一つにまとまる事も考えられるが、今川家を倒して駿河を乗っ取ろうとたくらむ程の有力な大名は回りにはいなかった。

 残るは、小鹿派が助っ人に頼んだ相模の国の守護、扇谷(オオギガヤツ)上杉氏が誰を駿河によこすかだった。そして、その人物がどう出るかによって、今後の展開は変わって行くだろう。

 六月二十七日、ついに、扇谷上杉氏の軍勢が駿府にやって来た。

 三百騎余りの軍勢を率いていたのは、扇谷上杉氏の家宰(執事)である太田備中守資長(ビッチュウノカミスケナガ)だった。扇谷上杉勢は駿府屋形には入らずに駿府屋形の南十五町(約一、六キロ)程の所にある八幡山の西山麓に陣を敷いた。駿府屋形と八幡山との間には鎌倉街道が東西に走り、阿部川の支流が三本流れていた。また、竜王丸派の本陣である青木城とは一里程の距離があり、間には二本の阿部川と藁科川が流れていた。

 太田備中守が八幡山に陣を敷くと、待っていたかのように小鹿派の福島越前守が挨拶にやって来た。越前守は備中守を駿府屋形に迎えようとしたが、備中守は疲れたからと言って断った。越前守は八幡山の山中にある八幡神社内の宿坊(シュクボウ)を本陣に使うように勧めた。備中守はその申し出は喜んで受け、本陣を八幡神社に移した。

 越前守は宿坊の客間にて備中守に今の状況を詳しく説明して、力になって欲しいと頼むと日暮れ前に帰って行った。越前守が帰った後には、越前守が差し入た数々の贈り物が山のように残った。その品々の中には関東ではなかなか見られない唐物(カラモノ)の陶器類もあった。さすが、今川家だと備中守は感心しながら青磁(セイジ)の湯飲みを手にしていた。

 備中守と越前守が話し合っている頃、石脇の早雲庵に、小太郎が備中守が来た事を伝えに来た。早雲はその事を小太郎から聞くと、「そうか‥‥‥太田備中守殿が来られたか」と大きく頷いた。
14.太田備中守2






 風のまったくない蒸し暑い日だった。

 早雲は四人の山伏を連れて朝比奈川をさかのぼっていた。一人は小太郎、もう一人は太田備中守、そして、備中守の側近の上原紀三郎と鈴木兵庫助だった。兵庫助は鈴木道胤(ドウイン)の長男で、紀三郎と共に備中守から兵法(ヒョウホウ)をみっちりとたたき込まれた若手の部将だった。

 備中守は清流亭に半月程、滞在して、また八幡神社に戻っていた。半月の滞在中、備中守は福島越前守、葛山播磨守と会って、それぞれの考えを聞いた。そして、備中守の考えとして、今川家をまとめるには竜王丸をお屋形様とし小鹿新五郎を後見人にする以外にないと提案した。越前守は備中守の意見に同意して、是非、竜王丸派を説得してくれるよう頼んで来たが、播磨守の方は一筋縄では行かなかった。関東の軍勢をもって阿部川以西の竜王丸派を遠江の国まで追いやってくれと言う。そうすれば、駿河の国は以前のように落ち着くと言い張った。備中守は、竜王丸派を遠江に追う事はできるだろう、しかし、竜王丸が生きている限り、遠江で勢力を強めた竜王丸はいつの日か、駿河に攻めて来るだろうと言った。

「なに、一度、追い出してしまえば、後は何とでもなる」と播磨守は強きだった。

 備中守は、播磨守という男は竜王丸の暗殺さえもやりかねない男だと悟った。備中守は播磨守を威(オド)してやろうと考えた。

「播磨守殿、もし、竜王丸殿を遠江に追い出す事に成功した場合、恩賞として、我らは何をいただけるのですかな」と備中守は聞いた。

「備中守程のお人が恩賞を当てに戦をすると申すのですか」と播磨守はふてぶてしい顔をして言った。

 備中守は笑った。「ここの所、関東は戦続きで兵たちは疲れておる。決着が着かないまま戦が長引いているため、兵たちが活躍しても恩賞もろくに与えられんのじゃ。そんな兵たちを引き連れて箱根を越えるんじゃ。確かな恩賞がなければ兵たちは動かんじゃろうのう」

「成程、恩賞ですか‥‥‥」

「富士川より東の土地を我らにくれますかな。そうすれば、兵たちも喜んで小鹿殿を応援する事でしょう」

「それは‥‥‥」と播磨守は口ごもった。

 富士川以東の土地とは葛山播磨守の領地だった。たとえ、駿河一国が小鹿派のものとなっても、本拠地である領地を失うわけにはいかなかった。

「阿部川以西の竜王丸派の土地でしたら差し上げる事もできるかと思いますが、富士川以東はちょっと‥‥‥」

「富士川以東は播磨守殿の領地でしたな。たとえ、今川家のためとはいえ、本拠地を失う事はできませんか」

「それは、ちょっと‥‥‥」播磨守は額の汗を拭いながら困った表情をしていた。

「播磨守殿、播磨守殿がわたしの立場になったとして考えてみて下さい。駿河の国が東西に二つに分かれています。どちらの味方をした方が得か考えてみて下さい。播磨守殿なら、どちらの味方をしますかな」

「‥‥‥西です」と播磨守は仕方なく答えた。

「そうじゃろう。西と手を組んで、東を挟討ちにするというのが常套(ジョウトウ)手段と言えよう。勝てば東を山分けにする。たとえ負けたとしても、本国に引き上げるのに、それ程の距離もない。しかし、東と手を組んで阿部川辺りまで出張って来て、勝ったとしても近くの土地は貰えず、負戦(マケイクサ)になれば、全滅という事にもなりかねんからのう」

「備中守殿は竜王丸派と手を結ぶという事ですか」

「今川家がいつまでも二つに分かれたままだったら、そういう事になる可能性は充分にあるのう。我らの殿も富士川以東が手に入るとなれば、喜んで攻めて来る事じゃろう。そうならないように、わしは今川家を元に戻そうとやって来たわけじゃ。どうじゃろう、ここの所は身を引いて、竜王丸殿をお屋形様にし、小鹿新五郎殿を後見という事で妥協してもらえんものかのう」

「はい‥‥‥しかし、小鹿新五郎殿は扇谷上杉氏の一族ですが、その新五郎殿を見捨てるという事ですか」

「今の御時世は、関東では一族同士でも敵味方になって争っておるんじゃよ。同じ一族だからというだけで味方とは言い切れんのじゃ」

 播磨守は黙っていたが、ようやく、「少し、考えさせて下さい」と小声で言った。
15.岡部美濃守

 藁科(ワラシナ)川の河原に赤とんぼが飛び回り、夜になれば秋の虫が鳴く季節となっていた。
  北川殿と竜王丸に会った数日後、太田備中守は中原摂津守の青木城下の客殿に入っていた。
  手引きをしたのは伏見屋銭泡だった。早雲庵にいた頃、銭泡は摂津守にも岡部美濃守にも茶の湯の指導をした事があった。銭泡は青木城下に行って摂津守と美濃守に会い、備中守が今川家を一つにするために、竜王丸派の重臣方と会う事を望んでいると告げた。
  摂津守も美濃守も備中守が駿府屋形に入ったと聞いて、やはり、小鹿派の味方をするつもりかと思っていたが、備中守が中立の立場として竜王丸派の意見も聞きたいと分かると、喜んで備中守を迎える事にした。備中守を味方にする事ができれば、小鹿派を倒す事もわけない。備中守に葛山播磨守(カヅラヤマハリマノカミ)の本拠地を攻撃して貰えば、播磨守は本拠地に帰らなくてはならなくなる。そうすれば、残るは福島越前守(クシマエチゼンノカミ)を何とかすれば、今川家は一つになる事も可能だった。美濃守はさっそく、備中守を迎える準備を始めた。
  備中守が青木城下の客殿に入ったのは七月二十四日だった。その日は清流亭の時と同じく歓迎の宴があり、重臣たちは顔を出さなかった。
  次の日、備中守は摂津守の屋敷内にて摂津守と対面し、同屋敷内の広間において竜王丸派の重臣たちと語り合った。
  岡部美濃守、朝比奈和泉守、斎藤加賀守、堀越陸奥守、三浦次郎左衛門尉、福島土佐守、長谷川法栄、天野兵部少輔、天野民部少輔、福島左衛門尉、朝比奈備中守、伊勢早雲らの、それぞれの意見を聞いた後、太田備中守は、これからどうするつもりか、と聞いた。
  美濃守は、備中守に是非とも味方になって小鹿派を倒す事を主張した。福島土佐守も美濃守の意見に賛成したが、他の者たちは同意しなかった。できれば、関東の軍勢の力は借りたくはないと誰もが思い、できれば話し合いによって事を解決したいと願っていた。
  早雲が、竜王丸をお屋形様とし、小鹿新五郎を後見という事にして、今川家を一つにしたらどうか、と提案した。美濃守は早雲を睨みながら顔を真っ赤にして怒った。摂津守派と竜王丸派を一つにまとめたのは早雲だった。その早雲が、今度は小鹿派と手を結ぼうと言う。摂津守派の美濃守が怒るのは当然だった。福島土佐守も早雲をなじった。天野兵部少輔も早雲のやり方は汚いと言い張った。しかし、元、竜王丸派の者たちは、それしか方法はあるまい、と早雲の意見に賛成した。
  ここに集まっている者たちは、まだ誰も早雲と備中守がつながっているという事を知らない。また、備中守が小鹿派の者たちに、竜王丸派と一つになるように画策(カクサク)している事も知らない。ただ、元、竜王丸派の者たちは前以て、早雲から相談を受け、小鹿派と手を結ぶ事に同意していた。
  備中守が駿府屋形に滞在していた頃、早雲は美濃守にそれとなく、小鹿派と手を結んだらどうかと聞いてみたが、そんな事、問題外じゃと相手にされなかった。摂津守派の岡部美濃守、岡部五郎兵衛、福島土佐守、この三人を落とせば、後はうまく行くのに、それは難しい事だった。早雲は自分の力でこの三人を落とす事ができないと悟り、備中守に頼んだのだった。備中守は青木城に入る以前から、この場に座る重臣たちの意見はすべて、早雲から聞き知っていたのだった。その日、備中守は皆の意見を聞くだけにとどまり、自らの意見は口に出さなかった。
  客殿に帰ると備中守はのんびりと湯を浴びた。湯から出ると、また御馳走攻めが待っていた。昨日に引き続き、広間には仲居たちが山のような料理をずらりと並べている。備中守はその様子を横目で眺めながら居間の方に向かった。
16.早雲登場






 岡部美濃守が早雲庵に来た日の午後、早雲は小太郎と一緒に八幡山内の太田備中守の本陣、八幡神社に向かった。

 雨は上がり、日が出て来て、また蒸し暑くなっていた。

 神社の境内には桔梗紋の描かれた旗が並び、厳重に警戒されていた。早雲は備中守から貰っていた備中守直筆の書状を警固の武士に見せ、備中守のいる宿坊に案内して貰った。

 宿坊には備中守はいなかった。宿坊にいた上原紀三郎の案内で、二人は備中守がいるという河原に向かった。河原なんかで何をしているのだろうと二人は首を傾げながら紀三郎の後に従った。

 阿部川の支流の広い河原では、備中守の指揮のもと、戦の稽古が始まっていた。騎馬武者は一人もおらず、皆、徒歩(カチ)武者だった。弓と長槍を持った徒歩武者が二手に分かれ、備中守の掛声に合わせて一斉に動いていた。

「ほう。見事なもんじゃのう」と小太郎が言った。

「うむ。一糸乱れぬ動きじゃな」と早雲も言った。

 紀三郎が備中守に声を掛けると、備中守は隣の武将に軍配団扇(グンバイウチワ)を渡して、二人の方に近づいて来た。

「こんな所まで、わざわざどうも」と備中守は笑いながら言った。

「見事ですね」と早雲は兵の動きを見ながら言った。

「いや。早いもので、駿河に来て、もうすぐ二ケ月になりますからな。皆、だらけて来ておるんじゃ。ちょっと気合を入れていた所じゃよ」

「騎馬武者がおらんようじゃが」と小太郎は不思議に思って聞いた。

「ああ。奴らは正規の武士ですからな。怠けておったら首が飛びます」

「というと、あの連中は?」

「あれは、今回のために集めて連れて来た百姓の伜たちじゃ。これからの戦は奴らが主役となろう」

「奴らが主役?」

「うむ」と頷いて備中守は兵たちを眺めながら、「早雲殿は応仁の乱の時、京で活躍した足軽というものを御存じでしょう」と聞いた。

「はい、知っております」と早雲は言った。「しかし、活躍したというよりは都の荒廃をさらに大きくしたと言った方が正しいでしょう」

「うむ、それも聞いた。わしはその噂を聞いて、こいつは使えると思ったんじゃ。今までも百姓たちは戦に参加しておった。しかし、騎馬武者にくっついて戦場を走り回っていただけじゃ。騎馬武者を助けて戦をしていても、騎馬武者がやられてしまえば四散してしまう。戦力とは言えんかった。今までの戦の中心は騎馬武者たちの一騎討ちじゃ。しかし、こう戦が大きくなって、決着も着かないまま長引いて来ると、戦のやり方も変わって来る。のんびりと一騎討ちなどやってる場合ではなくなって来ているんじゃ。これからは個人個人の戦から集団の戦に変わって行くじゃろう。そうなると、奴らが戦の主役となるわけじゃ。奴らの進退一つによって戦の勝ち負けが決まってしまう事になる。奴らを命令一つで自由自在に操る事が重要となるんじゃ。そこで、こうして訓練をしているというわけじゃ」

「確かに、戦の仕方は変わって来ている」と小太郎は言った。「本願寺一揆の戦のやり方は、まさしく、備中守殿の申される通りです」

「本願寺一揆というと加賀の?」と備中守は小太郎を見ると聞いた。

 小太郎は頷いた。「一揆の連中はほとんどが徒歩武者で、一団となって行動し、一々、兜首(カブトクビ)など取りません」

「そうか、兜首も取らんのか‥‥‥うーむ。確かに、兜首など一々気にしなければ、戦もうまく行くかもしれんが、兜首を取る事を禁じれば士気が落ちる事も考えられるのう」

「武士から兜首を取る事を禁じる事はできないでしょう」と早雲は言った。

「うむ。難しい‥‥‥いや、失礼した。こんな所で立ち話もなんじゃ、とにかく、宿坊の方に参ろう」

「こっちの方はよろしいのですか」

 備中守は笑いながら頷いた。
17.五条安次郎






 山々が色付き始め、あちこちで、冬の準備が始まっていた。

 十月になって、太田備中守(ビッチュウノカミ)と上杉治部少輔(ジブショウユウ)が関東に帰って行くと、駿府屋形もひっそりと静まり、急に薄ら寒くなったようだった。

 重臣たちも一人、二人と国元に帰って行った。遠江から来ていた者たちは、天野氏も含め、皆、帰って行った。蒲原越後守、由比出羽守、矢部将監(ショウゲン)、興津美作守、庵原安房守(イハラアワノカミ)らも帰って行った。そして、葛山播磨守(カヅラヤマハリマノカミ)も帰って行った。

 葛山播磨守は備中守と会ってから、まるで、人が変わったようだった。もしかしたら、早雲を暗殺するかもしれないと思われる程、早雲と敵対していたくせに、清流亭で会ってからは手の平を返すように、親しみを持って、やたらと早雲に近づいて来た。

 早雲殿、早雲殿と言って、毎日のように用もないのに、北川殿に訪ねて来ては世間話をしていた。今川家の重臣たちも、その変わりように呆れていた。

 初めのうちは早雲たちも、また、何かをたくらんでいるに違いないと警戒していたが、播磨守の態度は、見ていておかしくなる程、素直だった。まず、初めに気を許したのは北川殿だった。北川殿は、播磨守が小鹿(オジカ)派の中心になって竜王丸をお屋形様の座から引き落とそうとしていた事を知らない。播磨守が毎日のように訪ねて来るので、竜王丸を押してくれた重臣の一人だと思い込んでいた。また、播磨守は自分の本拠地、富士山の裾野での事を面白可笑しく、北川殿に話して聞かせるので、北川殿も播磨守を歓迎した。そればかりでなく、播磨守は竜王丸や美鈴ともよく遊んでくれた。早雲たちもやがて気を許して、気楽に話をするようになって行った。播磨守は早雲や小太郎よりも十歳も年下だった。憎らしい所もあるが、可愛い弟ができたような感じで播磨守と付き合っていた。

 最後の日、播磨守は北川殿に別れの挨拶をしに来た。早雲たちに是非、葛山に来てくれと勧め、正月にまた来ると言って、八ケ月も滞在していた駿府を後にした。

 早雲と小太郎は播磨守を城下のはずれまで見送った。

「おかしな奴じゃったのう」と小太郎は馬上の播磨守を見送りながら言った。

「まったくじゃ」と早雲は苦笑しながら頷いた。「あんな奴は初めてじゃ」

「策士には違いないが正直者じゃ。自分が正しいと思えば、とことんやり通すが、間違ったと気づけば、すぐに間違いを改めるという奴じゃな」

「らしいのう。人の上に立つ者は正直でないと家来たちが付いては来んからのう。ああいう大将の家来になった者は働きがいもあるじゃろうのう」

「ぼやぼやしておると、小鹿新五郎の奴は、あいつに駿河の半国、取られる事に成りかねんぞ」

「新五郎だけじゅない。竜王丸殿も立派な大将に成らなかったら、奴に駿河を取られるかもしれん」

「立派な大将に成らんと思うか」と小太郎は早雲を見た。

「いや。なる」と早雲は力強く頷いた。

「わしもそう思うわ。なかなか利発な子じゃ。ただ、これからは並の大将では生きては行けんじゃろう。備中守殿も言っておられたが、名門というだけでは駄目じゃ。名門である事を忘れ、民衆たちの心をとらえ、国人たちを含めて、民衆たちを一つにまとめなければならん」

「本願寺の蓮如殿のようにか」

「まあ、そうじゃが。直接に民衆たちの中に入って行くお屋形様でなくてはならんのじゃ。お屋形様が百姓たちと直接、話をしたからと言って、お屋形様の価値が下がるわけではない。お屋形様は何をやってもお屋形様なんじゃ。身分など関係なく、すべての者たちの事を親身に思えるようなお屋形様になって欲しいんじゃ」

「小太郎、おぬし、竜王丸殿が成人するまで、ここにおってくれんか」と早雲は言った。

「なに?」と小太郎は早雲を見た。本気で言っているようだった。

「後十年もここにおるのか」と小太郎は少し戸惑ったような顔をして、早雲に聞いた。

「ここにおって竜王丸殿を導いてやって欲しいんじゃ。勿論、わしもやる。しかし、世の中は色々な見方があるという事を教えるには、色々な人が回りにおった方がいいと思うんじゃ。なに、改まって何かを教えなくてもいい。時々、側に行って、それとなく教えてやればいい。どうじゃ、やってくれんか」

「先の事までは分からんのう。十年と言えば長いからのう。後、十年、生きられるかも分からん。まあ、当分はここにおるとは思うがのう」

「うむ。頼むぞ」

 二人が北川殿に帰ると五条安次郎が待っていた。
18.陰の二十一人衆






 ここで、しはらく、場面を播磨に移して、時をさかのぼると、雪に覆われた大河内城下の山の中で、ひそかに陰(カゲ)の術の修行が行なわれていた。

 早雲と小太郎夫婦を正月に迎えた太郎は、二月になると、楓との約束を守って、楓と助六の二人に陰の術を教えていた。太郎は他所(ヨソ)の女(きさ)に子供を作った罰として、二人に陰の術を教えなければならなかった。

 太郎は城下の西のはずれの夢庵の屋敷を建てる予定地にて、二人に陰の術を教えた。稽古の時間は昼過ぎの一時(イットキ、二時間)だけだったが、二人は熱心で、太郎が帰った後も、毎日、日暮れまで稽古に励んでいた。二人共、子供の頃から武術を習っていて、特に、助六は踊りを得意としているので、身が軽く、覚えは早かった。手裏剣術も教えたが、石つぶてを得意とする楓はすぐに身に付けてしまった。楓も助六もお互いに負けるものかと稽古に励むので、二人は見る見る上達して行った。

 稽古を始めた頃、太郎は、どうせ、女なんかに陰の術なんて無理だろうと思っていたが、考えを改めなくてはならなかった。女の方が小柄で身が軽いので、かえって、向いているかもしれないとも思うようになっていった。二人は白づくめの装束(ショウゾク)を着て、雪山の中で稽古に励んでいた。

 楓と助六は、太郎が一ケ月間教えようとしていた事を半月で身に付けてしまったので、残りの半月で実地訓練を行なった。まず、月影楼(ツキカゲロウ)を稽古場にして、太郎に見つからないように、太郎が隠したある物を捜させた。太郎に見つかったら、また、外に出てやり直すというようにして稽古させた。初めの頃はお互いに対抗意識を燃やして、別々に行動していたが、どうしても太郎に見つかってしまうので、やがて、二人は手を組んで行動を共にするようになった。捜す物は大きな物からだんだんと小さくして行き、最後には、ただの紙切れを捜させた。二人はあらゆる手段を使って太郎を翻弄(ホンロウ)して、ついには、その紙切れも見つけ出した。その頃になると、二人の腕はかなり高度になっていた。もし、誰かが知らずに月影楼に入って来たとしても、月影楼の中にいる三人の存在に気づく事はないと言えた。月影楼での実地訓練は十日間で終わった。

 最後の五日間は、太郎と一緒に城下のあらゆる所に忍び込んだ。評定所(ヒョウジョウショ)、重臣たちの屋敷、商人たちの屋敷、町人たちの長屋、旅籠屋、遊女屋などに忍び込み、住んでいる者たちの人数を数えさせ、屋敷の間取り図を書かせた。

 最後の仕上げとして、太郎の弟子、風間光一郎、宮田八郎、山崎五郎の三人のうちの誰でもいいから、姿を見られずに、首に墨で線を書いて来いと命じた。二人は力を合わせて、光一郎と八郎の二人の首に見事、線を書いて来た。

 一ケ月の稽古の後、太郎は月影楼の三階に楓と助六を呼んで、ねぎらいのため、ささやかな宴を開いた。

「二人共、御苦労だった。事故も起こらずに無事に終わった。二人共、思っていたより、よく陰の術を身に付けてくれた。はっきり言って以外だった」と太郎は二人に言った。

「以外?」と楓は笑いながら太郎を睨んだ。

「ああ」と太郎は頷いた。「初め、女なんかに陰の術を教えてもしょうがないと思っていた。仕方なく、教えていたんだが教えているうちに、陰の術に男も女もないという事に気づいた」

「そうよ。女だって立派にできるのよ」と助六が胸をたたいた。

「うむ。その事が分かっただけでも、今回、二人に教えてよかったと思っている。しかし、今回、二人に教えたのは陰の術の基本だ。これで、すっかり陰の術を身に付けたと思ってはいかん」

 楓が太郎を見ながら笑っていた。
19.観智坊露香1






 場面は変わって、近江の国、甲賀の飯道山。

 百日行を無事に終えた下間蓮崇(シモツマレンソウ)は観智坊露香(カンチボウロコウ)という山伏に生まれ変わって、武術の修行を始めた。観智坊の百日行が終わったのは去年の十二月の十九日だった。観智坊は昔の太郎と同じように吉祥院(キッショウイン)の修徳坊(シュウトクボウ)に入って、一年間の修行を積むように師の風眼坊から命じられた。午前中は作業として弓矢の矢を作り、午後は棒術の稽古だった。

 丁度、その頃、太郎が光一郎を連れて『志能便(シノビ)の術』を教えるために播磨から来ていた。そして、志能便の術の修行者の中には、本願寺の坊主、慶覚坊(キョウガクボウ)の息子、洲崎(スノザキ)十郎左衛門がいた。十郎左衛門は変身した蓮崇から、蓮如(レンニョ)が加賀を去った事や、守護の富樫(トガシ)次郎と本願寺門徒の争いなど、国元の事情を聴き、急いで加賀へと帰って行った。

 その年の棒術の稽古は六日間だけで終わった。二十六日から翌年の正月の十四日までは稽古(ケイコ)も休み、作業も休みだった。新米山伏の観智坊は年末年始の忙しい中、怒鳴られながら山の中を走り回っていた。

 正月の十四日、飯道山に大勢の若者たちが各地から、ぞくぞくと集まって来た。その日は一日中、雪が強く降っていたが、そんな事にはお構いなしに、次から次へと若者たちは期待に胸を膨らませて山に登って来た。その数には観智坊も驚いた。先輩の山伏から話には聞いていたが、まさか、これ程多くの若者が集まって来るとは驚くべき事だった。今年、集まって来たのは六百人を越えていたと言う。山内の宿坊はすべて若者たちで埋まり、山下の宿坊や旅籠屋も若者たちで埋まっていた。

 次の日、若者たちは行場(ギョウバ)を巡り、山内を案内され、後は最後の自由時間だった。観智坊は山から下りられないので実際に見てはいないが、昼間っから遊女屋には若者たちが並んで順番を待っていたと言う。また、この日、若者たちが集まって来る事は有名になっていて、各地から遊女たちが門前町に集まり、不動町の横を流れる小川のほとりに粗末な小屋を掛けて、若者たちを引き入れていたと言う。先輩の山伏たちが言うには、この日、人気の遊女は一日に何十人もの若者をくわえ込むので、しばらくの間は、遊女屋には行かん方がいいと笑っていた。

 いよいよ、次の日から一ケ月の山歩きが始まった。今年も雪が多かった。

 観智坊は若者たちが山歩きをしている間、道場で棒術の基本を習っていた。

 棒術の師範は高林坊だったが、高林坊は毎日、稽古には出られなかった。師範代の西光坊(サイコウボウ)が中心になって教えていた。西光坊は以前、太郎がこの山に来た時、太郎を奥駈道(オクガケミチ)に案内した山伏だった。あの当時、西光坊は棒術師範代でも下の方だったが、今では高林坊の代わりを務める程に出世していた。西光坊の下に東海坊、一泉坊、明遊坊(ミョウユウボウ)の三人の師範代がいた。

 棒術の修行者は一年間の若者たちの他に、各地の山から修行に来ている山伏も多かった。山伏たちはしかるべき先達(センダツ)の紹介があれば、いつでも飯道山に来て修行する事ができたが、最近は修行者の数が多くなっているので、山伏たちもなるべく、正月から修行を始めるようにしていた。今年は棒術の組には十八人の山伏がいた。そして、去年一年間、修行して、さらに、もう一年修行をしようと残っている若者が六人いた。観智坊は彼らと共に棒術の修行に励んだ。

 観智坊が風眼坊の弟子だと知っているのは師範と師範代だけだった。誰もが、四十歳を過ぎている観智坊が、今頃、棒術の修行をするのを不思議がった。観智坊は、その事を聞かれるたびに笑って、若い頃、ろくな事をしなかったので、今になって修行をするのだと言った。師範の高林坊を除き、師範代たちも含め、観智坊は一番の年長だった。知らず知らずのうちに、誰もが観智坊の事を名前では呼ばずに『親爺』と呼ぶようになって行った。

 棒の持ち方すら知らない観智坊だったが、一ケ月のうちで基本はしっかりと身に付けて行った。何も知らなかった事がかえって良かったのかもしれない。自分は年は取っていても、武術に関してはまったくの素人だと年下の者たちから素直に教わっていた。また、人一倍、努力もした。稽古が終わってからも、毎日、その日に習った事を体で覚えようと何回も何回も稽古に励んだ。百日間の山歩きのお陰で足腰は強くなっていたが、腕の力は人と比べると、まったく弱かった。観智坊は毎日、鉄の棒を振り回して上半身も鍛えた。
20.観智坊露香2






 賑やかな飯道山の祭りも終わり、秋も深まって行った。

 観智坊がこの山に来て、すでに一年が過ぎていた。長かったようで、短かった一年だった。この山に来て観智坊は色々な事を学んだ。今まで考えてもみなかった様々な事を知った。体付きや顔付きまでも、すっかりと変わり、もう、どこから見ても立派な山伏だった。

 観智坊はすっかり生まれ変わっていた。

 若い者たちから『親爺、親爺』と慕われ、今の生活に充分に満足していた。棒術の腕も自分でも信じられない程に上達して行った。若い者たちの面倒味がいいので、先輩の山伏たちからも、このまま、この山に残らないかと誘われる事もあった。今のまま修行を積んで行けば、ここの師範代になる事も夢ではないとも言われた。

 観智坊もすでに四十歳を過ぎていた。先もそう長いわけではない。加賀の事は気になるが、果たして、自分が加賀に戻ったとして、一体、何ができるのだろうか、裏の組織を作るといっても、そう簡単にはできないだろう。自分がしなくても、誰かがやるに違いない。加賀の事は門徒たちに任せて、自分はここで新しい人生を送ろうと考えるようになって行った。やがて、師範代になる事ができれば、家族を呼んで、この地で暮らそう。そして、息子をこの山に入れて鍛え、加賀に送ってもいい。自分がこれから何かをやるより、若い息子に託した方がいいかもしれないと思うようになって行った。

 若い者たちに囲まれて、観智坊は毎日、楽しかった。若者たちは観智坊を頼って色々な相談を持ちかけて来た。観智坊は親身になって相談に乗り、解決してやった。観智坊は若者たちから、一年間の修行が終わったら、是非、うちに来てくれと誘われたり、一緒に酒を飲もうと誘われたり、女遊びをしようと誘われたり、引っ張り凧だった。観智坊も皆のために、どうしても師範代にならなければならないと稽古に励んでいた。

 観智坊の一日は夜明け前の修徳坊の掃除で始まり、本尊の阿弥陀如来の前での法華経(ホケキョウ)の読経をし、朝飯を食べると矢作りの作業場へと行き、午後は棒術の稽古だった。

 十月の初めの事だった。観智坊がいつものように読経を済ませ、自分の部屋に戻ろうとした時、仏壇の片隅に見慣れた字の書かれた紙切れが目に付いた。一瞬、誰の字だったか分からなかったが、その字に懐かしいものを感じた。観智坊は仏壇に近づいて、その紙切れを手に取って調べた。それは蓮如の書いた『御文(オフミ)』だった。勿論、蓮如の自筆ではない。誰かによって写されたものだった。よく見れば、全然、蓮如の筆跡とは違った。しかし、観智坊には一瞬、それが蓮如の自筆のように見えた。目の錯覚だったかと観智坊は思い、その御文を読んでみた。

 御文は今年の七月に書かれたものだった。どこの誰が写したのかは分からない。内容は、いつもの御文と同じような事が繰り返し書かれてあった。観智坊はその御文を読みながら、胸の奥に熱い物を感じていた。自然と涙が溢れ出て来て止める事はできなかった。涙で目が曇り、最後まで読めなかった。観智坊はその御文を読みながら、蓮如と初めて会った時から、別れた時までの事を一瞬の内に思い出していた。

 観智坊はその御文を握ったまま、棒術の道場へと走って行った。
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