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陰流の開祖であり、忍びの術の開祖でもある愛洲移香斎の物語です。
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21.孫次郎1






 雪が散らついていた。

 太郎坊がやって来たとの噂が、飯道山の山中に広まっていた。

 十一月の二十一日、志能便(シノビ)の術の稽古の始まる四日前の事だった。しかし、太郎坊を見たという者は一人もいなかった。

 観智坊は高林坊のお陰で、午前中の作業が免除されたので、その間、もっぱら座禅に熱中していた。成就院(ジョウジュイン)に禅に詳しい僧侶がいる事を高林坊から聞いて、その僧侶のもとで本格的に座禅の修行をしていた。

 師の風眼坊が天台宗の山伏であるため、観智坊も天台宗に属していた。天台宗の事など全然、知らない観智坊だったが、本願寺も元々は天台宗に属していたという事を、かつて、蓮如から聞いた事があった。高林坊の話によると、天台宗からは念仏門の浄土宗、天台密教(ミッキョウ)、禅宗、法華宗(ホッケシュウ)とあらゆる宗派を出したので、この飯道山にも、それらの専門家が数多く修行しているとの事だった。高林坊の話は難しかったが、浄土真宗の開祖である親鸞聖人(シンランショウニン)も、若い頃、天台宗の本山、比叡山で修行を積んだという事を聞いて、観智坊は驚いた。何となく、親鸞聖人が以前より身近に感じられて嬉しく思った。高林坊から、若い頃の親鸞聖人も比叡山で座禅修行をしただろうと言われ、観智坊もさっそく座禅を始めたのだった。

 初めのうちは雑念に悩まされて苦しかったが、慣れるにしたがって心が落ち着き、何とも言えない安らぎを覚えるようになって行った。また、禅の指導をしてくれる和尚が面白い人で、昔、明の国にいたという偉い禅僧の話を分かり易く色々と聞かせてくれた。観智坊は座禅というものが、武術の修行に大いに役立つという事を身を以て感じていた。

 噂通り、太郎坊は確かに来ていた。二十一日の午前、修行者たちが作業に励んでいる時、不動院にて高林坊と会っていた。宮田八郎と内藤孫次郎を連れていた。孫次郎の百日行の許可を得るためと、播磨に来ている十八人と五郎の代わりに新たに加える一人を飯道山に所属する山伏にするためだった。孫次郎の件はすぐに許可が下りたが、十九人の件は難しかった。

「一人や二人なら何とかなるが、十九人ともなると難しいのう」と高林坊は渋い顔をして言った。

「無理ですか‥‥‥高林坊殿にこんな事は頼みたくはないのですが‥‥‥あの、失礼ですが、銭の力で何とかなりませんか」

「銭か‥‥‥うむ。最近は何でも銭が物を言う御時世じゃからのう。しかし、十九人もいるとなると、かなりの銭が必要となろうのう」

「これだけ、ありますが」と太郎は持って来た革の袋を高林坊に渡した。

「ほう」と言いながら、高林坊は革袋を開けて驚いた。中には幾つもの銀の粒が入っていた。「凄いのう。これだけあれば何とかなろう。お偉方もこれだけの銀を見れば文句は言うまい。しかし、赤松家の武将ともなると景気いいもんじゃのう」

「いえ」と太郎は笑いながら首を振った。「お屋形様の所はそうかもしれませんが、わたしの所は借銭の山で、返済して行くのが、なかなか大変です」

「そうか。新しい城下を作ったそうじゃのう。大したものじゃ」

「十九人の件、お願いします」と太郎は頭を下げた。

「うむ。分かった。皆、おぬしの弟子という事でいいんじゃな」

「いえ。わたしの弟子でなくても構いません。その辺の所は高林坊殿にお任せします」

「そうか‥‥‥分かった。それで、百日行の方は、いつから始めるんじゃ」

「今日、修徳坊に入れて、明日からでも」

「うむ。修徳坊の方へはわしの方から言っておく。その間に行場(ギョウバ)巡りでもやっておってくれ」

「はい、お願いします」

「観智坊の事じゃがのう」と高林坊はニヤニヤしながら言った。「また、新しい伝説を作りおったぞ」

「えっ、あの観智坊殿が?」と太郎は驚いて、高林坊の顔を見つめた。

「おう。詳しい事は後で教える。今晩、例の所で飲もう。栄意坊の奴も連れて行くわ」

「はい。楽しみです」

 太郎は孫次郎を連れて行場を巡り、孫次郎を修徳坊に入れると修行者たちに気づかれないうちに山を下りた。八郎を連れて花養院に行き、松恵尼に挨拶をした後、智羅天(チラテン)の岩屋に向かった。
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22.孫次郎2






 観智坊が飯道山で武術の修行に励んでいた頃、かつて、観智坊の下男だった弥兵は松恵尼の別宅である農家を義助(ヨシスケ)と一緒に守っていた。留守を守ると共に、松恵尼の持っている田畑を義助と一緒に耕作していた。加賀の湯涌谷(ユワクダニ)という山の中で育った弥兵は、畑仕事は知っていても稲を育てる事は知らなかった。義助に教わりながら、毎日、観智坊が山を下りて来る一年後を楽しみに待っていた。

 義助の方も、いい連れができたと喜んでいた。義助はもう六十歳を過ぎていた。元気だけはいいが、体の方は昔のようには言う事を利かない。松恵尼に言えば、もう、田畑の仕事はしなくてもいいと言うのは分かっていたが、義助は死ぬまで、この農家を守り、松恵尼の土地で働き続けたかった。松恵尼に弥兵の事を頼まれた時、義助は、はっきり言って嫌々ながら引き受けた。義助にとって松恵尼から留守を任されている、この農家は彼の城と言えた。できれば、他の者を彼の城に入れたくはなかった。

 初めの頃、義助は弥兵に対して必要以外の事は話さなかった。弥兵もまた必要な事以外は話さない。二人は同じ部屋で寝起きしていても、一言も喋らずに一日を過ごす事が何度もあった。松恵尼の農家は広く、部屋も幾つもあったが、義助は掃除をする時以外、それらの部屋に入る事を許さなかった。二人は囲炉裏のある板の間の脇の狭い部屋で暮らしていた。

 弥兵は朝晩、必ず、壁に貼り付けた『南無阿弥陀仏』と書かれた紙切れに向かって、熱心に念仏を唱えていた。義助はそんな弥兵を見て、馬鹿な事をしていると思っていた。義助も念仏くらいは知っている。しかし、義助の知っている念仏は、阿弥陀如来の仏像に対して唱えるものだった。飯道山の本尊である阿弥陀如来像の前で、義助も念仏を唱える事はあるが、こんな紙切れに向かって、同じ念仏を繰り返し繰り返し唱えている弥兵の行動は、義助には馬鹿らしい行為としか目に写らなかった。

 義助も当然の事ながら飯道山の信者の一人だった。念仏よりも真言(シンゴン)の方を信じていた。真言の意味は義助にも分からない。意味は分からないが、分からない事がかえって、ありがたさを増していた。真言は念仏のように朝晩決まって唱えたりはしない。唱えるべき場所に行って唱える。壁に貼り付けた、ただの紙切れに向かって、毎日、真剣に念仏を唱えている弥兵の心境が義助には理解できなかった。

 一月経ち、二月と経って行くうちに、無愛想な二人もやがて打ち解けて行った。義助は字が読めなかったが、弥兵は読む事ができた。できたと言っても漢字は駄目で、片仮名だけだったが、観智坊に教わって読めるようになっていた。

 弥兵は観智坊に書いて貰った片仮名で書かれた蓮如の御文(オフミ)を、宝物のように大切に持っていた。何度も読んだり写したりしているため、それらの御文はすでに暗記していた。

 義助は弥兵から字を教わる事となった。義助も字が読めるようになったら、どんなにか、いい事だろうと思っていた。しかし、今まで字を習う機会なんてなかった。この年になって字を習っても仕方がないとも思ったが、弥兵が教えてくれるというので義助は教わる事にした。手本は観智坊の書いた御文だった。初めの頃は義助も、ただの手本としていただけだったが、何度も何度も繰り返し写しているうちに、義助にも蓮如が言おうとしている事が自然と分かるようになって行った。やがて、義助も弥兵と一緒に念仏を唱えるようになって行った。初めは何となく照れ臭かった義助だったが、念仏に没頭する事によって、煩(ワズラ)わしい事など何もかも忘れて、心の中が綺麗に洗われるような、すがすがしい気持ちになる事ができた。弥兵から本願寺の事や蓮如上人の事も聞き、義助もだんだんと弥兵の気持ちが分かるようになり、念仏を唱える姿も様になって来た。やがて、念仏を唱える事が義助の日課となり、毎日の楽しみとなって行った。壁に貼ってある紙切れも蓮如上人が書いたものだと知り、その有り難さも分かって、黄金の仏様であるかの様に大切にした。

 弥兵は観智坊から飯道山に登る事を禁じられていた。観智坊にすれば、飯道山で若い者たちにしごかれている惨(ミジ)めな姿を下男であった弥兵に見られたくなかった。弥兵は観智坊が本願寺を破門になっても、観智坊の事を尊敬している。そんな弥兵に惨めな姿を見せたくはなかった。弥兵は観智坊の約束を守り、祭りの時でさえ飯道山には登らなかった。義助が誘っても、弥兵は山のふもとまでは行ったが、二の鳥居から先には決して登らなかった。しかし、朝晩の念仏の前には、必ず、山の方に向かって静かに合掌をして、観智坊の無事を祈っていた。

 観智坊の山での活躍はすぐに門前町に噂として広まった。井戸の事も、夜遅くまで稽古に励んでいる事も、噂となって弥兵の耳にも入って来た。弥兵は観智坊の事が町人たちの話題にのぼるのを我が事のように喜んでいた。
23.文明九年、春1






 播磨(ハリマ)の国、大河内(オオコウチ)城下に来た観智坊と弥兵は、太郎の客としての扱いを受けていた。城下の殿様である太郎の屋敷内の客間を与えられ、梅山という専属の侍女(ジジョ)まで付けられ、少し戸惑いながら新年を迎えていた。

 雪に埋もれている大河内城下の新年は、加賀で毎年、迎えていた新年と似ていたが、異国の地で、しかも、豪勢な武家屋敷で迎えた新年は、自分が下間蓮崇(シモツマレンソウ)から、新たに観智坊露香(カンチボウロコウ)に生まれ変わったという事を実感として感じていた。そして、去年、一年間で身に付けた様々な事を、今年は実践に移さなければならない。本願寺のために裏の組織を作り、門徒たちのために守護を倒さなければならないと決心を新たにしていた。

 観智坊は太郎から志能便(シノビ)の術を習うために、ここに来たわけだったが、太郎の弟子ではなかった。太郎の師、風眼坊舜香の弟子で、太郎とは兄弟弟子だった。同じ師を持った縁として、これから先、何かと協力する事もあるかもしれない。今、お互いをよく知っておくのはいい機会といえた。それと、太郎は自分ではどうしても理解できない本願寺の一揆とは一体、どんなものなのか、観智坊から聞いてみたかった。

 正月は太郎も何かと忙しく、観智坊の相手をしている暇はなかった。観智坊の事は五郎に任せていた。鳥居弥七郎が来た事によって、太郎は五郎を陰(カゲ)の衆からはずし、太郎の祐筆(ユウヒツ)として使う事とした。祐筆の最初の仕事として観智坊の接待を命じ、飯道山では教えない高度な志能便の術を教えるように命じていた。

 陰の衆二十一人は正月の半ばに各地に散って行った。行き先は前回と同じだったが、八郎たち三人だけは前回の摂津(セッツ)の国から、今回は加賀の国まで飛ばした。距離も遠いため、期間も一ケ月半に延ばし、非常時意外は途中連絡もしなくてもいいという事にした。観智坊のためにも加賀の情報は必要だった。八郎は芥川小三郎、上田彦三郎を連れて、張り切って北陸へと向かった。観智坊から、加賀では山伏は警戒されるので、商人とか農民に扮した方がいいと言われたので、三人は薬売りの商人に扮して出掛けて行った。

 正月も末になると、太郎にも暇ができて、観智坊とゆっくりと会う事ができた。太郎は観智坊を月影楼(ツキカゲロウ)の三階に誘って、お茶を点(タ)てて持て成した。太郎もようやく、人前でお茶を点てられるようになっていた。観智坊は茶の湯の事に詳しくはなかった。一応、飲み方を知っている程度で、点て方までは分からなかった。

 観智坊は太郎がお茶を点てる点前(テマエ)を見ながら、さすがに一流の武芸者だけあって、その動きには隙(スキ)がないと思っていた。

 不思議な事だった。一年余りの修行によって、物の見方まで変わっていた。以前の観智坊だったら、太郎の動きに隙のない事は分からない。ただ、ぼうっと太郎の動きを見ていたに過ぎなかった。また、他人の強さというものも分かるようになっていた。以前は、相手を見て、自分より強いという事は分かっても、どれ位強いかなど分からなかった。今では、相手の目付きや肩や腰の動きから、どれ程の腕を持っているか分かるようになっている。不思議な事だったが、以前、自分より絶対に強いと思っていた武士たちでさえも、実際に強いと思われる者は、ほんの僅かしかいないという事が分かった。観智坊は改めて、飯道山の武術の質の高さというものを感じていた。そんな観智坊でも、今、目の前でお茶を点てている太郎の強さが、どれ程のものなのか分からなかった。

 観智坊は五郎から志能便の術、ここでは『陰(カゲ)の術』と呼んでいるが、その術を習っていた。太郎からではなく、弟子の五郎から習うと聞いて、観智坊は少々がっかりしていたが、五郎の陰の術は見事なものだった。飯道山で教えていたのとは、まるで違い、かなり高度な技術を必要とするものばかりだった。五郎の陰の術に比べたら、飯道山で教えている志能便の術は子供騙(ダマ)しのようだった。弟子の五郎がこれ程の技を身に付けているとすれば、師匠の太郎はそれ以上に違いない。上には上がいるものだと、観智坊は修行に終わりのない事を感じていた。
24.文明九年、春2






 出口御坊は正面に本堂、左側に御影堂(ゴエイドウ)があった。右側は簡単な塀に仕切られ、塀の向こうに廐(ウマヤ)と僧坊があり、その奥の方に書院、そして、蓮如の家族たちの住まいである庫裏(クリ)があった。

 観智坊は書院の一室に案内されて、しばらく待たされた。書院の入り口の近くの部屋に蓮如の執事、下間頼善がいたが、観智坊が誰だか気づかなかった。

 やがて、蓮如が慶覚坊と一緒に現れた。

 懐かしかった。

 蓮如は別れた時と変わってはいなかった。相変わらず日に焼けた顔で、きびきびとした身ごなしで質素ななりをしていた。

 観智坊は頭を深く下げて蓮如を迎えた。

「風眼坊殿のお知り合いだとか」と蓮如は聞いた。

「はい。風眼坊殿の弟子の観智坊と申します」と観智坊は頭を下げたまま答えた。

「なに、風眼坊殿のお弟子さんか」

「はい」と観智坊は顔を上げた。

 不思議な事に蓮如は目をつむっていた。

「風眼坊殿は達者かな」

「はい。今、駿河の方で、何やら騒ぎが起こって、その騒ぎを治めたそうです」

「そうか。駿河の方で活躍しておるか‥‥‥そいつは良かった」

「はい。風眼坊殿より上人様のお噂は伺っております」

「そうか‥‥‥風眼坊殿には色々と世話になったからのう。お雪殿はどうしておるじゃろう」

「それはもう、風眼坊殿とは仲睦(ナカムツ)まじくやっておられます」

「そうじゃろうのう」と蓮如は嬉しそうに頷いてから、「もしや、そなた、蓮崇ではないのか」と聞いた。

「えっ?」と観智坊は驚いた。

 蓮如は目を開けて、改めて観智坊を見た。

「慶覚坊が、しばらくでいいから目をつむって声だけを聞いてくれ、と言いおった。何の真似だか知らんが、どうしても、そうしてくれと言うのでやってみたんじゃ。目をつむって、そなたの声を聞いておると自然と蓮崇の顔が浮かんで来たんじゃ」

「上人様‥‥‥」

「本当に蓮崇なのか」蓮如は観智坊の顔をじっと見つめた。

「はい。蓮崇です。しかし、生まれ変わりました」

「生まれ変わったか‥‥‥確かに、生まれ変わったのう。見事に生まれ変わったもんじゃ」

「はい。蓮崇は吉崎で死にました。そして、今、観智坊として生まれ変わりました」

「観智坊か‥‥‥」と蓮如は頷いた。「それでは観智坊に聞くが、これから、どうするつもりじゃ」

「加賀に行きます。加賀の門徒たちを放っては置けません」

「加賀に行って、戦をするつもりなのか」

「いえ。今の状況から、しないとは言い切れませんが、出来るだけ回避するつもりでおります。ただ、一方的に攻められている門徒たちを見捨てられません。わたしは、この先、表には出ません。本願寺の裏の組織を作るつもりでおります」

「裏の組織?」

「はい。今の組織は縦の関係は、はっきりとできております。しかし、横のつながりがありません。わたしは各道場をすべて、つなげようと思っております。離れている河北郡の道場と江沼郡の道場がお互いに情報の交換ができるようにしたいのです。今、門徒たちは、バラバラです。このままでは、せっかく、門徒となって生きがいを感じていた者たちまで、本願寺から離れて行ってしまいます。守護が何をしようとしているかを探り、その情報をすぐに門徒たちに知らせる事ができれば、門徒たちもひどい目に会わなくても済みます」

「横のつながりか‥‥‥」

「はい」

「わしも加賀の事は気になっておる。しかし、わしにはどうする事もできんのじゃ。加賀に行く事すらできん。わしは加賀の国中を歩いた。一人でも多くの人に教えを広め、落ち着いた静かな心で念仏を唱えて欲しかった。勿論、わしの力だけではないが門徒たちは増えた。加賀の門徒たちは、わしから見たら皆、子供のようなものじゃ。しかし、子供たちは、だんだんと、わしから離れて行った。わしは子供たちを見捨ててしまったんじゃ。確かに、あの時、吉崎は危険な状態にあった。あの時、そなたを破門にしても、わしが残っておったら戦になってしまうかもしれなかった。わしは、そなたの破門を無駄にしたくはなかった。わしは吉崎を離れた。しかし、他に方法はなかったのか、と時々、思う事があるんじゃ。何と言おうとも、加賀の門徒たちを見捨ててしまった事は事実じゃ‥‥‥わしは時々、苦しんでおる門徒たちの夢を見る事があるんじゃよ。何とかせにゃならん、しかし、わしにはどうする事もできん‥‥‥情けないんじゃよ。本願寺の法主(ホッス)でありながら、門徒たちを助ける事もできんのじゃ」

「上人様‥‥‥」

「観智坊とやら、わしの代わりに加賀の事を頼める者は、そなたしかおらん。加賀の門徒たちの事を頼むぞ」

「ははっ」観智坊は頭を深く下げた。
25.一休禅師






 裏山で、ウグイスが鳴いていた。

 一休(イッキュウ)和尚のいる酬恩庵(シュウオンアン)は薪(タキギ)村を見下ろす小高い丘の上に建っていた。

 五条安次郎は柴屋宗観(サイオクソウカン)という名の僧侶となって、一休和尚のもとで厳しい修行を積んでいた。

 夢庵(ムアン)と甲賀で別れてから四ケ月の月日が流れていた。その四ケ月は並々ならぬ四ケ月だった。まさしく、一休という名の化物との戦いと言ってもいい程だった。

 四ケ月前、安次郎は、いつまでも夢庵に付き合ってはいられないと夢庵のもとを逃げて来た。あのまま、夢庵と一緒にいたら疲れ切ってしまい、自分を見失ってしまいそうだった。しばらく智羅天(チラテン)の岩屋に籠もって書物に没頭しようと思っていたが、夢庵から一休の事を聞くと、一休という禅僧に会いたくなって来た。一休の事は早雲からも何度も聞いていた。会って損はないと思った。どうせ、甲賀にいても宗祇(ソウギ)の弟子にはなれそうもない。一年くらい、一休のもとで禅の修行をするのも悪くはないと思った。はっきり言って、この時、安次郎は禅というものを知らなかったと言ってもいい。

 安次郎は一休に歓迎された。一休は夢庵の事も早雲の事も懐かしそうに聞いていた。

 一休はまったく不思議な人物だった。一見しただけだと、ただの汚い田舎の爺さんにしか見えない。髪の毛は伸び放題、無精髭も剃らず、色あせた綿入れを着込んで、これが、あの有名な一休和尚かと、安次郎は初めて見た時、がっかりした。かなりの年だとは聞いていたが、実際に会って見ると、さすがに年を取っている。七十歳を過ぎているに違いないと思ったが、実際は八十歳を過ぎていると聞いて、信じられなかった。その八十歳を過ぎた老人のやる事や言う事が、一々機知に富んでいて面白いのだった。一休がそこにいるというだけで、その場が明るくなるような感じを受けていた。そして、ここの雰囲気が駿河の早雲庵に似ていた事も、安次郎には気に入っていた。早雲庵と同じように、ここにも頻繁(ヒンパン)に人々が出入りしていた。一休は、和尚さん、和尚さんと皆に慕われ、和尚の方も誰にでも差別無く付き合っていた。訪ねて来る者の中には、和尚の事を生神様のごとくに敬(ウヤマ)っている者たちもいる。安次郎には、なぜ、この和尚がそれ程までに慕われるのか、分からなかった。

 薪村は京都と奈良の中程にあり、近くに木津川が流れていた。この辺りは木津川が淀川と合流する辺りにある石清水(イワシミズ)八幡宮の領地で、薪村の背後にある山から八幡宮で使用する薪を切り出していた。切り出した薪は木津川の河原に集められ、船で八幡宮に運ばれた。薪村は薪の浜と呼ばれ、薪の切り出しの作業の間は杣人(ソマビト)や人足たちが大勢集まって賑わうが、後は静かな村だった。一休和尚がこの薪村に来たのは、もう二十年も前の事だった。

 一休は自ら虚堂(コドウ)七世と称していた。虚堂と言うのは宋(ソウ)の国(中国)の禅僧である。宋に渡って虚堂智愚(チグ)のもとで厳しい修行を積み、法を継いで帰国したのが大応国師(ダイオウコクシ)と呼ばれる南浦紹明(ナンボジョウミン)だった。余談になるが、茶の湯で使う台子(ダイス)を宋の国から日本に伝えたのは大応国師だといわれている。その台子は筑前の国(福岡県北西部)の崇福寺(ソウフクジ)から京都の大徳寺(ダイトクジ)に伝わり、天竜寺開山の夢窓(ムソウ)国師によって広められた。台子というのは仏様にお茶を捧げるための道具だったが、将軍義政の同朋(ドウボウ)衆の能阿弥(ノウアミ)によって、書院での茶の湯の席で使われ始めた。台子飾りは能阿弥から村田珠光(ジュコウ)に伝わり、数寄屋(スキヤ、茶室)での佗(ワ)び茶の中に取り入れられて行った。

 大応国師の一番弟子が、京都五条の橋の下で、乞食と共に二十年間、修行を積んだという大燈(ダイトウ)国師である。大燈国師は宗峯妙超(シュウホウミョウチョウ)といい、大徳寺の開山だった。大燈国師の弟子に徹翁義亨(テットウギコウ)、その弟子が言外宗忠(ゲンガイソウチュウ)、その弟子が華叟宗曇(ケソウソウドン)である。華叟の弟子が一休だった。それは、虚堂から一休へと続く、厳しく純粋なる禅の流れだった。彼らは皆、権力に背を向けて、大寺院には住まず、本物の禅を実践していった傑物(ケツブツ)たちだった。

 虚堂二世の大応国師が二百年程前に、この薪村に妙勝寺(ミョウショウジ)という寺院を建てたが、南北朝時代の争乱によって焼失し、そのまま放置されたままになっていた。一休は何度か、この地を訪れ、今まで誰も妙勝寺を再興しなかった事を嘆(ナゲ)き、是非とも自分の手で再建しなければならないと思った。純粋なる禅を守るためにも、大応国師の創建した妙勝寺は再興しなければならないと思った。そして、二十年前に京と堺の商人の喜捨(キシャ)によって、それが実現したのだった。ところが、その妙勝寺も応仁、文明の乱の兵火によって、また焼け落ちてしまった。戦で焼失してしまったのは妙勝寺だけでなく、京に於ける一休の拠点であった瞎驢庵(カツロアン)、売扇庵(バイセンアン)も焼け、大徳寺も焼けてしまった。戦の間、一休は堺の近くの住吉に乱を避けていた。戦もようやく治まりかけた文明四年(一四七二年)、一休は妙勝寺の地に酬恩庵という庵を建て、戻って来ていた。
26.鞠子屋形1






 青空にポッカリと駿馬(シュンメ)のような形をした雲が浮かんでいる。

 春の日差しを浴びて、小太郎は縁側で薬作りに励んでいた。

 お雪は庭で洗濯物を干している。

 北川の方から時折、ウグイスの鳴き声が聞こえて来た。

 のどかな一日だった。

 今川家の内訌(ナイコウ)騒ぎから半年近くが過ぎ、駿府(スンプ)もようやく落ち着いて来ていた。小太郎の町医者も忙し過ぎる事もなく、暇という事もなく、適度な忙しさを保っている。小太郎とお雪も夫婦らしい、のんびりとした幸せな日々を送っていた。 北川殿母子は先月の半ば、ようやく鞠子(マリコ)の新屋敷に移った。正月は向こうで迎える予定だったが、去年の冬、雨の日が多くて仕事が思うようにはかどらず、完成したのは閏(ウルウ)正月になってからだった。完成するまでの間、北川殿は何度もお忍びで鞠子まで通って、早雲を困らせていた。

 鞠子の新屋敷は鞠子屋形と呼ばれた。鞠子屋形は駿府のお屋形様の屋敷と比べたら半分程の広さだったが、北川殿よりはずっと広く、濠(ホリ)と土塁(ドルイ)に囲まれて、四方には櫓(ヤグラ)も立ち、完璧な防御機能を備えていた。屋形の裏側には北川殿の望み通りの射場(イバ)も付いているし、竜王丸が武術の稽古に励む広い庭もあった。大きな廐(ウマヤ)もあり、侍女や仲居たちの離れもあり、庭の隅の方に北川殿が早雲庵と名づけた二間続きの茶屋もあった。屋形の前には、北川衆たちの屋敷が並ぶ予定だが、まだ完成していない。北川衆たちは家族を駿府に残したまま、北川殿母子を警固するため鞠子に移っていた。

 早雲は竜王丸の執事(シツジ)となり、頭は丸めたままだったが還俗(ゲンゾク)していた。元々、偽坊主だったため、正式に今川家の重臣となるのに偽坊主のままでいるわけには行かなかった。色々と調べられれば嘘を付いてもばれてしまう。後になってばれれば信頼を無くしてしまう。早雲は還俗して伊勢早雲と名乗り、鞠子屋形に詰めていた。

 富嶽もまた早雲の家来となって還俗し、大道寺(ダイドウジ)太郎という昔の名前に戻っていた。早雲の弟子となっていた才雲、孫雲の二人も山中才四郎、富沢孫三郎に戻り、秋葉山の山伏、荒川坊は荒川又四郎と名乗って早雲の家来になっていた。多米権兵衛、荒木兵庫助、在竹兵衛(アリタケヒョウエ)率いる山賊衆十三人も皆、早雲の家来となり、早雲は今、二十人の家来持ちとなっていた。家来はいるが、正式な屋敷はまだなかった。山賊衆は相変わらず早雲庵で暮らし、村人たちのために働いている。富嶽、多米、荒木の三人は普請奉行(フシンブギョウ)となって、鞠子屋形の門前の早雲の屋敷作りに励んでいる。富沢、山中、荒川の三人は早雲の命で、鞠子、駿府、早雲庵を行ったり来たりしていた。

 早雲が還俗したため、北川殿は何としてでも、春雨と早雲を一緒にさせようと張り切っていたが、俗人に戻って、すぐに嫁を貰うのは体裁が悪いから、一年間、待ってくれと断っていた。春雨にすれば、今まで諦めていたのに、早雲と一緒になれるのなら一年位待つのは何でもなかった。一年後を楽しみに春雨は北川殿の侍女を勤めていた。

「ねえ、陽気が良くなって来たわね」と洗濯を済ませたお雪が、縁側の小太郎に声を掛けて来た。

「そうじゃのう」と小太郎も手を止めて空を見上げた。

「こんないい天気に、うちにいる手はないわね」

「そうじゃのう。今日は仕事を休みにして、どこかに行くか」

「そう来なくっちゃ」とお雪は嬉しそうに笑った。

「どこに行くかねえ」

「静かな所で、のんびりしたいわ」

「随分と年寄り臭い事を言うのう」

「だって、ここは朝から晩までうるさいんだもの」

「そう言えばそうじゃのう‥‥‥静かな所か」

「ねえ、お母さんに会いに行かない」

「お母さん?」と小太郎は不思議そうにお雪を見た。

「松恵尼様よ」とお雪は言った。

「そうか」と納得してから、「飯道山まで行くのか」と小太郎は聞いた。

「蓮崇(レンソウ)様はどうしたかしら」

「一年間、武術の修行に励んで、加賀に帰ったじゃろうな」

「強くなったかしら」

「さあ、分からんのう。まあ、自分の身位は守れる腕になったじゃろう」

「そんな腕で、裏の組織なんて作れるのかしら」

「蓮崇殿には頭があるからのう。何とかやるじゃろう」

「そうね。ねえ、今日、雨なんか降らないわよね」

「降らんじゃろ」

「じゃあ、洗濯物はこのままでいいわね。さあ、行きましょ」
27.鞠子屋形2






 花見は大盛況だった。

 浅間(センゲン)神社の門前町は二日の間、静まる事なく騒ぎが続いていた。

 小太郎の家にも、石脇の早雲庵にいる早雲の家来や村人たちが大勢押しかけて騒ぎ続けていた。小太郎もお雪もいる場所がなくなり、二日目には、とうとう、お屋形内の北川衆の屋敷に避難する有り様だった。

 終わってみれば、小鹿(オジカ)新五郎の評判が上がり、竜王丸(タツオウマル)の影はまったく薄くなっていた。新五郎自らは、自分が新しいお屋形様だとは口にしなかったが、国人たちに対して、常にお屋形様らしく振る舞っていた。竜王丸は初日の花見が始まる前に国人たちの前に現れて、お屋形様として紹介されたが、ただ、それだけで、後はまったく出番はなかった。

 国人たちは昼間、浅間神社に行き、満開の桜を見ると共に様々な芸能を見物して、夜には豪勢な宴会に招待された。その宴会は、お屋形様の屋敷ではなく、客殿である望嶽亭(ボウガクテイ)や清流亭で行なわれた。奉行となったのは福島越前守(クシマエチゼンノカミ)と三浦次郎左衛門尉(ジロウザエモンノジョウ)の二人で、新五郎の人気集めのための宴会と言ってもよかった。三浦次郎左衛門尉は一時、竜王丸派となってはいたが、それは本拠地が危険にさらされたためで、元々、新五郎がお屋形様になる事には賛成だった。越前守にうまく丸め込まれて、今では、完全に小鹿派に戻っていた。

 今川家の六人の重臣、朝比奈氏、岡部氏、福島(クシマ)氏、三浦氏、葛山(カヅラヤマ)氏、天野氏のうちで、竜王丸派と言えるのは、今、岡部美濃守(ミノノカミ)、ただ一人だった。

 美濃守は中原摂津守(セッツノカミ)をお屋形様にしようと竜王丸派と争っていたが、早雲を知る事によって、今では完全に竜王丸派になっていた。元々、真面目で冷静な男だったが、あの時は欲に目が眩(クラ)んで、魔が差したかのように判断を誤ったと後悔していた。その事に気づいた今では、今川家のためには、絶対に竜王丸がお屋形様にならなければならないと主張していた。

 以前、竜王丸派の中心だった朝比奈天遊斎は隠居して長老の座からおり、代わりに弟の朝比奈和泉守(イズミノカミ)が朝比奈氏の中心となったが、この和泉守は、はっきり言って何を考えているのか分からなかった。天遊斎が隠居する前は確かに竜王丸派だったのに、今、やたらと小鹿新五郎に近づいている節があった。

 和泉守は今まで、いつも兄の天遊斎に頭を押えられて、何事も兄に従っていた。しかし、兄が隠居して政治の舞台から消えると、子供のためには小鹿派になった方がいいかもしれないと考えるようになっていた。天遊斎の跡継ぎは先代のお屋形様と共に戦死した。天遊斎の孫が跡を継ぐ事になったが、孫はまだ十一歳、その孫を後見する天遊斎の三男、左京亮(サキョウノスケ)は二十一歳だった。次男の備中守(ビッチュウノカミ)は遠江(トオトウミ)にいる。天遊斎もすでに五十歳を過ぎている。先はそう長くはないだろう。そうなると、朝比奈家を背負って立つのは、自分の息子である新太郎の他にはいないと考えた。新太郎は二十九歳になっている。新太郎のためにも、朝比奈家のためにも、小鹿派になって、新五郎を応援した方がいいかもしれないと和泉守は思うようになっていた。

 葛山播磨守は早雲と出会ってから竜王丸派となったが、これも本心の程は分からなかった。やたら、早雲殿、早雲殿と言って近づいて来るが、実際、播磨守にとって、今川家のお屋形様が誰であろうと関係ないという感じだった。領地が駿府から離れているため、そう、ちょくちょく駿府には来られない。本人は竜王丸派だと主張してはいるが、当てにはできなかった。もう一人、当てにできないのが天野氏だった。まったく、何を考えているのか分からなかった。今川家が阿部川を境に二つに分かれた時、天野氏は竜王丸派となった。遠江の者たちが皆、竜王丸派となり、天野氏の本拠地を襲うと言ったら簡単に寝返った。ところが今、何かをたくらんで、越前守とつながっているような感があった。越前守とつながり、何をしようとしているのか分からないが、竜王丸派ではない事は確かだった。

 福島越前守と三浦次郎左衛門尉は完全に小鹿派だった。彼らは本拠地にはほとんど帰らず、駿府にいて、小鹿新五郎の機嫌を取りながら好き勝手な事をやっていた。
28.関東






 太田備中守が今川家の内訌を治めて、江戸城に戻って来たのは去年の十月の事だった。

 江戸城に戻ると備中守は休む間もなく、五十子(イカッコ)の陣(本庄市)に向かった。

 五十子の陣は古河公方(コガクボウ)、足利成氏(シゲウジ)に対する関東管領(カンレイ)、上杉民部大輔顕定(ミンブノタイフアキサダ)の本陣だった。

 五十子は古河の西およそ十一里(約四十四キロ)程の所にあり、利根川と鎌倉街道に挟まれ、鎌倉と上野(コウヅケ)の国(群馬県)を結ぶ重要な位置にあった。関東は今、利根川を境に東と西に二分され、西側が上杉氏、東側が古河公方の勢力範囲となっていた。

 当時の利根川は現在とは異なり、千葉県の霞ケ浦に流れてはいなかった。関東平野に流れ出た利根川は、前橋市の東側を通り、駒形の北、伊勢崎市の南、世良田の南を通り、群馬県と埼玉県の県境を流れて、北河原町辺りから南下し、行田(ギョウダ)市を経て岩槻(イワツキ)市へと向かい、岩槻市の北辺りで荒川と合流して東京湾へと流れていた。利根川も荒川も度々の洪水で流れを変え、二つの川に挟まれた行田市から岩槻市の一帯は水郷地帯となっていた。

 古河公方に対するため、利根川を挟んだ五十子に上杉方が陣を敷いたのは、もう十七年も前の事だった。初めの頃はただの砦に過ぎなかったが、戦が長引くにつれて規模も大きくなって、屋敷も数多く建ち、広野の中に出現した城下町のようになっていた。

 五十子の陣は濠と土塁に囲まれ、天皇と将軍から下賜(カシ)された旗が翻(ヒルガエ)り、関東管領の山内(ヤマノウチ)上杉民部大輔顕定、相模守護の扇谷(オオギガヤツ)上杉修理大夫定正(シュリノダイブサダマサ)、越後守護の上杉兵庫頭房定(ヒョウゴノカミフササダ)の嫡男、上杉左馬助(サマノスケ)定昌(顕定の兄)、山内上杉家の家宰(カサイ、執事)の長尾尾張守忠景(オワリノカミタダカゲ)、備中守の父親、太田道真(ドウシン)らを中心に、武蔵、上野、相模の兵、七千人余りが駐屯していた。

 備中守は五十子の本陣に着くと、直ちに、長尾四郎右衛門尉景春(シロウウエモンノジョウカゲハル)の立て籠もる鉢形(ハチガタ)城を攻撃するように勧めたが、備中守の意見は入れられなかった。四郎右衛門尉などに何ができる。放って置けば、そのうちに降参して戻って来るに違いないと誰もが思っていた。備中守が、四郎右衛門尉の後ろには、長年の戦続きで力を付け始めている国人(コクジン)たちがいると説得しても無駄だった。皆、自分たちの権力の座にどっかりと座り、国人たちが自分たちに反抗するわけはないと高をくくっていた。

 備中守はがっくりと気落ちしながら、江戸城へと帰って行った。
30.ほととぎす2






 梅雨も上がった暑い夏、河内の国、淀川のほとりに建つ出口御坊(デグチゴボウ)では、一人の坊主が誕生していた。

 曇天であった。

 曇天は一年間、みっちりと本願寺の教えをたたき込まれて、一人前の坊主になっていた。

 蓮如より『六字名号(ミョウゴウ)』と『親鸞影像(シンランエイゾウ)』を戴き、乗信坊(ジョウシンボウ)という名を貰って堺へと帰って行った。

 堺には樫木屋(サカキヤ)道場と紺屋(コウヤ)道場の二つの道場があった。

 樫木屋道場は北の庄にあり、明(ミン)の国から来た人たちのための宿屋を経営する道顕坊(ドウケンボウ)の建てた道場だった。貿易業にも手を広げ、漢方薬を中心とした商売もしていて、かなりの財産を蓄えていた。

 道顕坊の父親は賢一官(ケンイッカン)という明国の貿易商で、母親は堺でも古くから有名な万代屋(モズヤ)の娘だった。道顕坊は当然、明国の言葉も分かり、父親の跡を継いで、明人相手の宿屋を経営していた。道顕坊は三年前に稼業を息子に託して隠居し、今は本願寺の坊主として布教活動に専念している。蓮如が出口に来てからは度々、門徒たちを引き連れては出口に行き、蓮如の説教を聞いていた。去年には、とうとう蓮如を堺に引っ張り出す事に成功して、道場の隣に、蓮如のために信証院(シンショウイン)という別院を建てた。信証院ができてから蓮如も度々、堺に来るようになり、堺の門徒たちも喜んでいた。

 もう一つの紺屋道場は南の庄にあり、染め物屋を営む円浄坊(エンジョウボウ)の建てた道場だった。

 円浄坊は染め物を扱う商人であるが、名前の通り染め物業に従事する紺屋(コウヤ)と呼ばれる河原者たちの頭でもあった。樫木屋道場が商人や町人たちの門徒が多いのに比べ、紺屋道場の門徒たちは当然、河原者や湊(ミナト)で働く人足たちが多かった。

 蓮如は身分による差別を認めてはいなかったが、根強い差別を無くす事は難しい事だった。蓮如の前では道顕坊も円浄坊も対等でも、実際は同じ門徒でありながら樫木屋道場の門徒たちは、紺屋道場の門徒たちを軽蔑の目で見ていた。曇天のいた河原に時々、顔を見せて説教をしていたのは紺屋道場の坊主だった。

 この頃、堺の町はまだ濠と土塁に囲まれてはいなかった。

 堺は町の中央を東西に走る大通り、大小路(オオショウジ)を境にして、北が摂津(セッツ)の国、堺北の庄、南が和泉(イズミ)の国、堺南の庄に分かれていた。すでに南の庄は隙間もない程、ぎっしりと家屋が建ち並んでいたが、北の庄はあちこちに田畑が散在していた。どうして南の庄ばかりに家屋が集中したのかというと、北の庄が住吉神社の荘園として荘官が管理していたのに対して、南の庄は早くから地下請(ヂゲウ)けといって、住民たちによる自治が行なわれていたため、商人たちが集まって来たからだった。

 南の庄の自治を担当していたのは会合衆(エゴウシュウ)と呼ばれる十人の商人たちだった。遣明船(ケンミンセン)を堺から出航させるのに貢献した備中屋の湯川宣阿(センア)を筆頭に、漁師の網元である和泉屋道栄(ドウエイ)、材木屋で一休禅師の弟子である尾和宗臨(オワソウリン)、塩を扱う万代屋仁左衛門(モズヤニザエモン)、高利貸業を営む我孫子屋(アビコヤ)助次郎、塩を扱う住吉屋の小島林太郎左衛門、材木屋の三宅主計(カズエ)、絹屋の池永兵庫助、鉄と炭を扱う野遠屋(ノトヤ)彦三郎、村田珠光(ジュコウ)の弟子でもある天王寺屋の津田源次郎の十人だった。彼らは皆、貿易業や納屋(ナヤ)業(貸し倉庫)を営む豪商たちだった。豪商たちは中央の大小路に面した一画に広い敷地を持ち、豪勢な屋敷を建てて暮らしていた。

 南の庄の中心となっていたのは開口(アグチ)神社だった。開口神社は三村(ミムラ)大明神と呼ばれ、住吉神社の奥の院であり、堺の住民たちにとっては氏神(ウジガミ)として親しまれていた。広い境内には社殿や堂塔が建ち並び、神宮寺(ジングウジ)として真言宗の大念仏寺があり、中でも三重の塔は堺の象徴だった。

 開口神社の南には住吉神社の御旅所(オタビショ)があり、毎年六月の晦日(ミソカ)に、住吉神社から神輿(ミコシ)の渡る盛大な祭りが行なわれた。町は綺麗に区画されていて、それぞれに町の名前が付いていた。

 赤松家の鉄を中心に武器を扱う松恵尼の『小野屋』も南庄の中ノ町のはずれにあった。
31.応仁の乱、終わる



 畠山右衛門佐義就(ウエモンノスケヨシナリ)という男がいた。

 応仁、文明の乱の西軍の武将だった。

 長期間に渡る応仁、文明の乱には、これといった山場もなく、華々しい英雄も現れなかったが、もし、一人を挙げるとすれば、畠山義就という事になるかもしれない。二十四歳の時から五十四歳で亡くなるまでの間、幕府に逆らい続け、実力を以て河内の国と大和の国を支配し、有力大名を相手に戦に明け暮れていた。

 文明九年(一四七七年)九月二十二日、畠山義就は京都の陣を引き払って、河内の国へと帰って行った。総勢二千人にも及ぶ義就軍は隊列を整え、悠々と引き上げて行った。幕府は東軍に寝返って山城守護となっていた山名弾正少弼政豊(ダンジョウショウヒツマサトヨ)の兵に追撃を命じたが、反撃を恐れて戦う事ができず、退去した後の陣地を占拠するのが精一杯だった。

 飽くまでも戦い続けると主張した畠山義就が京から引き上げると、残っていた西軍の大将、大内周防介(スオウノスケ)政弘、土岐左京大夫成頼(トキサキョウノダイブシゲヨリ)らは幕府に和睦を申し入れて旧領を安堵され、以前の守護職を取り戻して、十一月になると皆、領国へと引き上げて行った。

 十一年間にも及んだ応仁の大乱は終わりを告げた。しかし、義就ただ一人だけは幕府と和睦する事なく、反乱軍と見なされた。孤立した反乱軍となっても義就は戦い続け、河内の国と大和の国を実力を持って支配して行く事となる。

 義就は河内(大阪府南東部)、紀伊(和歌山県と三重県南部)、越中(富山県)、三国の守護であり、管領職(カンレイシキ)も勤めた幕府の有力者、左衛門督持国(サエモンノカミモチクニ)の息子として生まれた。母親が卑賎(ヒセン)の出だったため、石清水(イワシミズ)八幡宮に稚児(チゴ)として預けられる事となっていた。

 持国の跡継ぎとして異母弟である尾張守持富(オワリノカミモチトミ)が決まってはいたが、たとえ、卑賎の出であっても実子がいるのに、家督を異母弟に譲る事はないという家臣たちの動きがあり、義就は十二歳の時、正式に持国の跡継ぎに決定した。すでに、この頃、畠山家の被官たちは分裂し、二派に分かれて争っていた。持国の勢力のあるうちは、それらの争いは表面には現れなかった。ところが、持国が病に倒れ、幕府内でも細川勝元の方が勢力を持つようになると、被官たちの争いは表面化して来た。被官たちの争いは畠山家の家督争いという形になって現れた。

 享徳(キョウトク)三年(一四五四年)の四月、義就、十八歳の時、越中系の国人たちが義就を廃して、以前、後継者に決まっていた持富の子、弥三郎を擁立(ヨウリツ)しようとした。しかし、この事件は未然に発覚し、弥三郎は管領の細川右京大夫勝元を頼って逃亡し、国人たちは切腹、あるいは殺された。これで一段落したと思われたが、八月に勝元の支援のもと、弥三郎は畠山邸を襲撃した。持国は無理やり隠居させられ、義就は伊賀の国まで逃げて行った。

 畠山家の家督は弥三郎に決定した。ところが、その頃、将軍義政と細川勝元も対立しており、義就は義政の応援を得て十二月には上洛し、弥三郎は京都から越中に逃亡した。その後、河内、和泉(大阪府南部)辺りで、義就方と弥三郎方の小競り合いはあったが、弥三郎は二度と京都に帰る事はできなかった。

 康正(コウショウ)元年(一四五五年)三月、持国が亡くなると義就は正式に家督を継いだ。その後、四年間、義就は将軍義政の信頼を得て、うまくやり、弥三郎を陰ながら応援していた勝元の入り込む隙はなかった。ところが、長禄(チョウロク)三年(一四五九年)、義就が大和に進撃した事によって事態は一変した。勝元の中傷もあって将軍義政と義就との間にひびが入った。その隙を見逃す勝元ではなかった。勝元は弥三郎の恩赦(オンシャ)を願い出て、許可を得る事に成功した。

 翌年、紀伊の国で根来寺(ネゴロジ)が騒ぎを起こし、それを治めるために義就は軍勢を送った。しかし、逆に根来寺の僧兵に敗れてしまった。多数の有力家臣を失った義就は根来寺に報復するため大軍を紀伊に向けた。義就の軍勢のほとんどが紀伊に向かった隙に、勝元は義就を追い落とすために動きだした。昨年の秋、弥三郎が急死したため、弥三郎の弟、次郎政長に畠山家の家督を継がせようとたくらんだのだった。

 勝元の作戦はうまく行った。その年の九月、突然、義就の守護職は取り上げられ、政長が正式に畠山家を継いだ。政長が軍勢を率いて上洛すると義就は河内へと逃げて行った。

 管領の勝元は義就を京都から追い払うだけでなく、すぐさま、山名、一色、京極らの武将に追撃を命じた。義就は追い詰められ、南河内の岳山(タケヤマ)城に立て籠もった。岳山城は幕府軍の大軍に囲まれ、すぐに落城するかに見えたが、義就は寛正(カンショウ)四年(一四六三年)四月まで三年近くも持ちこたえた。義就の籠城中には全国規模の大飢饉もあり、数万人もの飢え死に者が出たが、その間も幕府は戦を続けていたのだった。岳山城が落城すると、義就は紀伊の高野山(コウヤサン)へと落ち伸びて行った。

 その後も、勝元は義就の討伐(トウバツ)を諦めなかった。しかし、高野山から吉野の山奥に入って行った義就の消息はつかめなかった。吉野の山奥には、未だに南朝方の豪族が大勢おり、幕府に刃向かう義就は南朝方に匿われて、捜し出す事はできなかった。
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