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陰流の開祖であり、忍びの術の開祖でもある愛洲移香斎の物語です。
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25.一休禅師






 裏山で、ウグイスが鳴いていた。

 一休(イッキュウ)和尚のいる酬恩庵(シュウオンアン)は薪(タキギ)村を見下ろす小高い丘の上に建っていた。

 五条安次郎は柴屋宗観(サイオクソウカン)という名の僧侶となって、一休和尚のもとで厳しい修行を積んでいた。

 夢庵(ムアン)と甲賀で別れてから四ケ月の月日が流れていた。その四ケ月は並々ならぬ四ケ月だった。まさしく、一休という名の化物との戦いと言ってもいい程だった。

 四ケ月前、安次郎は、いつまでも夢庵に付き合ってはいられないと夢庵のもとを逃げて来た。あのまま、夢庵と一緒にいたら疲れ切ってしまい、自分を見失ってしまいそうだった。しばらく智羅天(チラテン)の岩屋に籠もって書物に没頭しようと思っていたが、夢庵から一休の事を聞くと、一休という禅僧に会いたくなって来た。一休の事は早雲からも何度も聞いていた。会って損はないと思った。どうせ、甲賀にいても宗祇(ソウギ)の弟子にはなれそうもない。一年くらい、一休のもとで禅の修行をするのも悪くはないと思った。はっきり言って、この時、安次郎は禅というものを知らなかったと言ってもいい。

 安次郎は一休に歓迎された。一休は夢庵の事も早雲の事も懐かしそうに聞いていた。

 一休はまったく不思議な人物だった。一見しただけだと、ただの汚い田舎の爺さんにしか見えない。髪の毛は伸び放題、無精髭も剃らず、色あせた綿入れを着込んで、これが、あの有名な一休和尚かと、安次郎は初めて見た時、がっかりした。かなりの年だとは聞いていたが、実際に会って見ると、さすがに年を取っている。七十歳を過ぎているに違いないと思ったが、実際は八十歳を過ぎていると聞いて、信じられなかった。その八十歳を過ぎた老人のやる事や言う事が、一々機知に富んでいて面白いのだった。一休がそこにいるというだけで、その場が明るくなるような感じを受けていた。そして、ここの雰囲気が駿河の早雲庵に似ていた事も、安次郎には気に入っていた。早雲庵と同じように、ここにも頻繁(ヒンパン)に人々が出入りしていた。一休は、和尚さん、和尚さんと皆に慕われ、和尚の方も誰にでも差別無く付き合っていた。訪ねて来る者の中には、和尚の事を生神様のごとくに敬(ウヤマ)っている者たちもいる。安次郎には、なぜ、この和尚がそれ程までに慕われるのか、分からなかった。

 薪村は京都と奈良の中程にあり、近くに木津川が流れていた。この辺りは木津川が淀川と合流する辺りにある石清水(イワシミズ)八幡宮の領地で、薪村の背後にある山から八幡宮で使用する薪を切り出していた。切り出した薪は木津川の河原に集められ、船で八幡宮に運ばれた。薪村は薪の浜と呼ばれ、薪の切り出しの作業の間は杣人(ソマビト)や人足たちが大勢集まって賑わうが、後は静かな村だった。一休和尚がこの薪村に来たのは、もう二十年も前の事だった。

 一休は自ら虚堂(コドウ)七世と称していた。虚堂と言うのは宋(ソウ)の国(中国)の禅僧である。宋に渡って虚堂智愚(チグ)のもとで厳しい修行を積み、法を継いで帰国したのが大応国師(ダイオウコクシ)と呼ばれる南浦紹明(ナンボジョウミン)だった。余談になるが、茶の湯で使う台子(ダイス)を宋の国から日本に伝えたのは大応国師だといわれている。その台子は筑前の国(福岡県北西部)の崇福寺(ソウフクジ)から京都の大徳寺(ダイトクジ)に伝わり、天竜寺開山の夢窓(ムソウ)国師によって広められた。台子というのは仏様にお茶を捧げるための道具だったが、将軍義政の同朋(ドウボウ)衆の能阿弥(ノウアミ)によって、書院での茶の湯の席で使われ始めた。台子飾りは能阿弥から村田珠光(ジュコウ)に伝わり、数寄屋(スキヤ、茶室)での佗(ワ)び茶の中に取り入れられて行った。

 大応国師の一番弟子が、京都五条の橋の下で、乞食と共に二十年間、修行を積んだという大燈(ダイトウ)国師である。大燈国師は宗峯妙超(シュウホウミョウチョウ)といい、大徳寺の開山だった。大燈国師の弟子に徹翁義亨(テットウギコウ)、その弟子が言外宗忠(ゲンガイソウチュウ)、その弟子が華叟宗曇(ケソウソウドン)である。華叟の弟子が一休だった。それは、虚堂から一休へと続く、厳しく純粋なる禅の流れだった。彼らは皆、権力に背を向けて、大寺院には住まず、本物の禅を実践していった傑物(ケツブツ)たちだった。

 虚堂二世の大応国師が二百年程前に、この薪村に妙勝寺(ミョウショウジ)という寺院を建てたが、南北朝時代の争乱によって焼失し、そのまま放置されたままになっていた。一休は何度か、この地を訪れ、今まで誰も妙勝寺を再興しなかった事を嘆(ナゲ)き、是非とも自分の手で再建しなければならないと思った。純粋なる禅を守るためにも、大応国師の創建した妙勝寺は再興しなければならないと思った。そして、二十年前に京と堺の商人の喜捨(キシャ)によって、それが実現したのだった。ところが、その妙勝寺も応仁、文明の乱の兵火によって、また焼け落ちてしまった。戦で焼失してしまったのは妙勝寺だけでなく、京に於ける一休の拠点であった瞎驢庵(カツロアン)、売扇庵(バイセンアン)も焼け、大徳寺も焼けてしまった。戦の間、一休は堺の近くの住吉に乱を避けていた。戦もようやく治まりかけた文明四年(一四七二年)、一休は妙勝寺の地に酬恩庵という庵を建て、戻って来ていた。

 安次郎が来た時、酬恩庵の西側に整地された広い土地があり、そこは妙勝寺の再建予定地だと、一休の弟子の雲知(ウンチ)という僧が教えてくれた。雲知はもう五十歳を過ぎた老僧だったが、八十を過ぎた一休がいるここでは、まだまだ若く感じられた。酬恩庵の裏には修行僧たちの住む僧坊が建ち、浴室、東司(トウス、便所)、物置らが建って、その裏は山になっている。その時、酬恩庵で修行を積んでいた修行僧は雲知も含めて七人いた。その他に、客僧の一路庵禅海(イチロアンゼンカイ)という老僧と、一休の面倒を見ているお森(シン)という盲目の女がいた。

 そのお森という女の存在は安次郎には理解できなかった。一流の禅僧とも言える一休が身近に、たとえ盲目であっても女を置くという事があってもいいものか、分からなかった。その盲女は年の頃は三十前後か、目はいつもを正面をむいたままだったが、その美貌(ビボウ)は安次郎でさえもゾクッとするような美しさだった。その美しさは外見だけではなく、心の中から滲(ニジ)み出て来るような美しさだと感じられた。そんな美しい女を側近くに侍(ハベ)らせて、一休は一体、何をやっているのだろうと不思議だった。しかも、一休とお森は、まるで夫婦のように一室で寝起きを共にしていた。安次郎は不思議に思ったので雲知に聞いてみた。雲知は笑って、ずっとここにいれば、やがて分かるだろうと言った。

 安次郎は一休に歓迎され、地元の商人、山崎屋六右衛門と共に遅くまで酒を飲んで語りあった。六右衛門は石清水八幡宮の薪山の管理をしている神官だったが、それだけではなく、材木と油を扱っている商人でもあった。新たに酬恩庵を建てて、一休をここに呼んだのも六右衛門の力によるものと言ってよかった。六右衛門に言わせると、二十年前、一休と出会ってから自分の生き方は変わったと言う。もし、一休に出会わなかったら、今の自分はいないだろう。銭儲けの事ばかりに気を取られて、人の気持ちなど、まったく分からない業(ゴウ)突く張りになっていた事だろうと言った。安次郎は六右衛門から一休の事を色々と聞き、一休からも昔話などを聞いた。その晩、飲んだ酒は実にうまい酒だった。

 次の日、安次郎は一休のもとで参禅をしたいと申し出た。一休は喜んで、丁寧(テイネイ)に座禅の仕方を教えてくれた。安次郎は、これが本物の禅かと、一時(トキ)余り座禅に熱中した。座禅が終わると安次郎は雲知から、「また、お越し下さい」と言われ、玄関の方に案内された。

 安次郎は驚いた。安次郎としては一年間はここにいるつもりだった。しかし、一休は自分を客としか扱ってくれなかった。今、ここを追い出されても行くべき所はない。

 安次郎は雲知に、一休の弟子になりたいと告げた。

 雲知は首を振った。

「おやめなさい。和尚様はもう、お弟子は取りません」

「お願いします。和尚様にお伝え下さい」

 安次郎は雲知に土下座して頼んだ。

「どうせ、無駄だとは思うが、一応、取り次いでみよう」

 やがて、安次郎は一休の居間に通された。

「五条殿、わしはこの通り、もう年じゃ。弟子を取っても何も教える事はできんのじゃよ」と一休は静かな声で言った。

「お側に置いて貰えるだけで結構です。お願い致します。お弟子の一人をお加え下さい」

「どうして、わしの弟子になりたいんじゃな」

「はい、それは是非、禅というものを見極めたいのです」

「ほう、禅を見極めるとな」

「はい」

「見極めてどうする」

「それは‥‥‥この乱れた世を救うためです」

「どうやって?」

「分かりません‥‥‥しかし、禅の修行を積めば分かるような気がします」

「そなたの言う事は立派じゃ。しかし、禅僧が政治に首を突っ込んだ所で、ろくな事にはならん。それにのう。わしは師から印可を貰ってはおらん、わしの弟子になっても印可をやる事はできんぞ。世直しがしたかったら立派な寺院に行く事じゃな」

「和尚様、実は‥‥‥実は、わたしは連歌師になりたくて今川家をやめて参りました。夢庵殿より連歌作りには禅の修行が必要だと聞いて、こうして、やって参りました」

「ほう、肖柏(ショウハク)の奴が、そんな事を言ったか」

「はい」

「確かに、連歌に限らず、芸能には禅は役に立つ。しかしのう、わしの弟子に連歌師などいらんのじゃ。わしの弟子は禅だけをやっておればよろしい。わしは、すでに八十年近くも禅をやっておるが、本物の禅とは何か、未だに分からんのじゃよ。連歌の片手間にやる程、禅の世界は生易しいものではない。そんな禅を習いたいのなら、わしの所になど来るな。そなたの望む禅を教えてくれる者は、京の伽藍(ガラン)の中にいくらでもおる。奴らに当たってみるんじゃな、喜んで教えてくれるじゃろう」

 取り付く島もなかった。安次郎は酬恩庵からたたき出された。

 安次郎は腹を立てながら木津川の方に向かった。

 河原では、大勢の人足たちが大声を上げながら材木を船に積んで運んでいた。安次郎は河原まで来ると石の上に腰を降ろし、さて、これからどうするかと考えた。

 一休のもとで修行すると言って出て来た手前、夢庵の所には帰れなかった。しばらく、旅を続けようかとも思ったが、一休のもとで修行をしなければ、二度と夢庵の前に出られないだろうと気づいた。夢庵の前に出られないという事は宗祇の前にも出られない。という事は宗祇の弟子になれないという事だった。宗祇の弟子になるために、こうして出て来たのに、たかが、老いぼれ禅師のために夢を諦めるわけには行かない。安次郎は、どうしても弟子になってやると決心すると、もう一度、酬恩庵に戻って行った。





 酬恩庵に戻った安次郎は再び、弟子にしてくれと土下座して頼んだ。

 雲知が出て来て、今は僧坊が空いていないから駄目だと断られた。どこでも構わないから置いてくれというと、うちは貧乏寺だから、食わせて行く事ができないと断って来た。銭なら少し持っていると言うと、その銭で故郷に帰れと言う。何を言っても無駄だった。一休に会わせてもらう事さえできなかった。

 その日、安次郎は日が暮れるまで玄関の前に座っていた。一休の弟子たちが時折、安次郎の姿を覗きに来たが、声を掛けて来る者はいなかった。やがて日も暮れ、庫裏から夕食の匂いがして来た頃、一休が姿を見せた。ようやく、弟子にしてもらえると喜んだが、一休は不思議そうに安次郎を見ながら、「何者じゃ」と聞いた。

 安次郎は知っているくせに何をとぼけているんだと思ったが、「五条安次郎忠長です。以前は駿河の国、今川家の家臣でした」と言った。

「そんな者には用はない。さっさと帰れ」

 そう言うと、一休は玄関の戸を閉めてしまった。

 安次郎はくやしかった。今まで、こんな侮辱(ブジョク)を受けた事はなかった。どんなに偉い和尚か知らないが、こんな事は人間のする事じゃないと思った。こんな和尚の弟子になってもしょうがない。世の中には一休程の禅僧なら、いくらもいるに違いない。そういう禅僧を見つけて、改めて弟子にして貰おうと思い、安次郎は酬恩庵を後にした。

 夜道をしょんぼりと歩いていると、安次郎は山崎屋に出会った。山崎屋は、こんな暗くなってからの一人歩きは危険だからと、うちに連れて行ってくれた。

 さすがに山崎屋の屋敷は立派だった。安次郎は一休に対する不満を山崎屋にぶちまけ、一休以上の禅僧を知らないかと尋ねた。

「それはおるかもしれませんが、捜すのは難しい事です」と山崎屋は言った。

「聞いて回れば、分かるでしょう」と安次郎が気楽に言うと、

「さあ、それはどうでしょうか」と山崎屋は首を振った。「禅というのはまだ、一般の者たちの間にまで広まってはおりません。はっきり言って、武士や貴族たちの宗教と言ってもいいでしょう。一休和尚様はそれを民衆のもとに根付かせようとしておられます。和尚様のお陰で、町人たちの間にも禅は広まりました。しかし、まだ、限度があります。禅は難しい教えです。言葉であれこれと言う事ができません。自分の力で分からなければならないのです。禅とは何かを知る一番の近道は座禅をする事です。しかし、毎日が忙しい民衆たちには、何時もの間、座り続けるという座禅をする暇はありません。一休和尚が禅の教えを民衆のもとに広めたと言っても、時間に余裕のある裕福な商人たちの間に広まったに過ぎないのです。まあ、ここは例外で、百姓たちの間にも座禅をする者たちも何人かおりますが‥‥‥ですから、立派な禅僧を捜すと言っても、そこらにいる者たちに聞いて回っても捜し出す事はできないと思います」

「すると、やはり、有名な寺院に行って捜すしかないのですか」

「有名な寺院に立派な禅僧がいるとは限りません。特に、幕府に保護されている五山の禅僧たちは、禅の修行よりも漢詩作りに熱中している模様です。彼らは確かに様々の書物を読んで、色々な事を知ってはいるでしょうが、禅というものは書物を読んでも分かるものではないのです。わたしにはその辺の事は詳しく分かりませんが、本物の禅僧なら、そんな連中の中にいる事を嫌って、外に出て、破れ寺の中でひっそりと修行を積んでいる事だろうと和尚様は言っておられます」

「禅というのは書物を読んでも分からないのですか」

「はい。分かりません」

「禅とは一体、どんなものなのです」

「どんなものと言われましても‥‥‥自分で見付けるより他はありません。例えばですね、海というものを知らない山奥に住んでいる者に海とは何かを教えるようなものです」

「海を知らない者に海を教える」

「はい。人間というものは、今までに自分で見たり経験した事の範囲内でしか物を考える事ができません。海を見た事のない者に海を教えようとしても、本当に教える事はできないのです。沼や湖のずっと大きなものだと教えたとしても、教えられる者が、今までに山の中の小さな沼しか知らなかったら、海というのは、せいぜい琵琶湖位の大きさなんだなと思うでしょう。琵琶湖を知っている者でも、せいぜい、琵琶湖の十倍位かと思うだけで、実際の海を想像する事はできないでしょう。また、海辺に住んで、毎日、海を見ながら暮らしている者でさえ、海の向こう側の事は分かりません。実際に船に乗って、沖の方まで出て行った事のある者たちは、また違った海を知っているという事になります」

「その海と禅がどう結び付くのです」

「わたしの経験から、禅と海が似ていると感じたのです。わたしが一休和尚様に初めて会った時、勿論、わたしは禅の事など何も知りませんでした。ただ、有名な和尚様が丘の上にお寺を建てるというので、この村の代表として挨拶に行ったのです。はっきり言って、わたしは和尚様を見て、がっかりしました。有名な和尚様だと聞いていたので、きらびやかな袈裟(ケサ)を着た和尚様を想像していたら、まるで、乞食坊主のようでした。しかし、その乞食坊主が、ただ者ではないという事はすぐに分かりました。言葉ではどう説明していいのか分かりませんが、とにかく、偉いお人に出会ってしまったものだと思いました。この村は和尚様が来たお陰で、すっかり変わりました。わたしも和尚様に教わって座禅を始めました。初めの頃は、わたしもただ、禅の真似事をしていたに過ぎません。内心、座っていたからといって、何が分かるものかと疑っていました。しかし、実際に座禅をしていると色々な事が分かって来るのです。そして、改めて、和尚様の凄さも分かって参ります。禅というものが分かれば分かる程、禅の深さが分かり、また、和尚様の大きさも分かって参ります。先程、海の話をしましたが、海という言葉を禅あるいは一休和尚様と置き換えてもいいでしょう。和尚様は海のように大きなお方です。わたしが思うに今、この世に、和尚様以上の禅僧がおられるとは思えません」

「海のようなお方ですか‥‥‥残念ながら、わたしにはそうは見えません」

「五条殿は連歌をなさるとか」

「はい」と安次郎は頷いた。

「禅を連歌に置き換えて見れば分かりやすいと思いますが」

「禅を連歌に?」

「はい。わたしも連歌は少しやりますが、あれもなかなか、奥の深いものだと思います。まず、古典を学ばなければなりません。同じ歌を目にしても、古典を知らない者と知っている者とでは、歌から受ける印象は全然違います。また、それ以前に、まず、字が読めなければ話になりません。字が読めなければ、歌を理解する以前に、何が書いてあるかさえ分かりません。それと同じです。禅を理解するには、基本である座禅をしなければ話にはならんのです」

「座禅ですか‥‥‥しかし、一休殿は弟子にはしてくれません」

「お弟子になるのは難しい事です。覚悟の程を見せなければなりません」

「覚悟の程?」

「はい。一休殿の禅は一番厳しい禅だと言われております。何者にも媚(コ)びる事がございません。そのような厳しい禅を身に付けるためには、それ相当な覚悟が必要です。そして、その覚悟を態度で示さなければなりません」

「どうしたらいいのですか」

「弟子にしてもらえるまで、門の前で座り込んでいるのです」

「どの位です」

「それは分かりません。泥牛(デイギュウ)というお弟子さんがおりますが、梅雨時の雨の中を十日間、座り通して、お弟子さんになったと聞いております」

「雨の中を十日間も?」

「はい。泥だらけになって座っていたそうです。それで、和尚様より泥の牛、泥牛という名前を貰ったそうです」

「泥の牛ですか‥‥‥」

「それだけの覚悟がなければ、和尚様のお弟子にはなれないでしょう。しかし、また、どうして、お弟子になりたいなどと言ったのです。お弟子にならなくても、和尚様は禅の指導をしてくれるものを」

「知らなかったのです。禅というものが、それ程までに厳しいものだったとは‥‥‥しかし、言ってしまった以上は、必ず、和尚様の弟子になります。ならなければならないのです」

「連歌の事は諦めますか」

「いえ、諦めません」

「それは難しい事ですな。和尚様は禅と芸事の二股をかける者を一番嫌っておられます。和尚様のお弟子になるのなら、連歌さえも捨てる覚悟が必要でしょう。五条殿が言葉には出さずに、心の奥底に連歌に対する執着(シュウチャク)をしまっておかれても、和尚様には気づかれてしまいます。連歌の事をすっかり忘れてしまわないうちは、お弟子にはしてもらえないと思いますが」

「一休殿は人の心の中まで見る事ができるのですか」

「できます。恐ろしいお人です。連歌を取るか、禅を取るか、二つに一つです。迷いがあるうちは、お弟子にはして貰えないでしょう」

「‥‥‥」

「連歌を捨てる事はできますか」

 安次郎には答えられなかった。

「よく考えてみる事です。わたしの所でしたら、いくらいても構いません。答えが出るまで、ここで、のんびりしていって下さい。五条殿は今、重要な所に立っておられます。右に行くか、左に行くかによって、五条殿の一生はまったく違ったものとなる事でしょう。自分で納得するまで、よく考える事です」

 安次郎はその晩、寝られなかった。

 連歌師になる事は昔からの夢だった。連歌師になるために今川家をやめた。連歌師にならずには故郷に帰る事はできない。どうしても、宗祇の弟子にならなければならなかった。しかし、宗祇の弟子になるのも大変な事だった。夢庵は弟子になるために一年以上も頑張っている。その夢庵に、一休のもとで修行をして来ると言って出て来た手前、一休に門前払いを食らったと言って戻るわけには行かなかった。宗祇も夢庵から聞いて、自分が一休のもとに行った事は知っているだろう。無事に修行を積んで、宗祇のもとに行けば、弟子にしてくれる事も考えられるが、一休に弟子にしてもらえずに逃げて来たのでは、弟子にしては貰えない。かといって、連歌を諦めて禅僧になる気にはなれなかった。

 一体、どうしたらいいのか、分からなかった。

 山崎屋は禅を分かるには、まず、座禅だと言った。

 安次郎はまだ、暗い夜中、布団から出ると、さっそく座禅を始めた。答えが出るかもしれないと座り込んでみたが、答えは得られなかった。しかし、不思議と心は落ち着き、今の自分が何をすべきなのかが分かったような気がした。先の事はともかく、今、自分がしなければならない事は、一体の弟子になる事だった。その事から逃げてはいけない。今、その事から逃げてしまえば、一生、後悔するような気がした。連歌の事は諦め切れなかったが、今は、一体の弟子になる事だけ考えようと夜が明けると共に、安次郎は酬恩庵に向かった。





 安次郎はまた、雲知に弟子をしてくれと言って断られ、玄関の前に座り込んでいた。

 夕方になって、一休が現れ、また『何者じゃ』と聞いた。安次郎は前回と同じように、元駿河今川家家臣、五条安次郎忠長と答えた。一休の答えは前回と同じだった。それだけでなく、玄関の前に座られては邪魔だと水を浴びせられ、それでも動かずにいると、力づくで追い出された。

 安次郎は泥だらけになり、仕方なく、その夜は丘の下で夜を明かした。十月の末で寒かったが、安次郎は死に物狂いになって、震えながら一晩中、座り通していた。この夜程、夜明けが待ち遠しく、夜が長いと感じた事はなかった。次の日、安次郎は山に入って柴(シバ)を集め、酬恩庵への階段の下に小さな小屋を立てた。それは本当に小さな小屋だった。人一人が座る事のできる程の小さな小屋で、安次郎はその中で、毎日、座っていた。

 夜が明けると酬恩庵に行って、弟子にしてくれと頼み、断られ、また、柴小屋に戻って座るという毎日が続いた。安次郎の事はすぐに村中の噂となり、珍しそうな顔して、毎日、見物人がやって来た。中には食べ物を施してくれる者もいて飢え死にだけはしなかった。

 三日目に、一休がお森と一緒にやって来て、柴小屋の中を覗き込み、「何者じゃ」と聞いた。

「五条安次郎忠長です」と答えて、安次郎はハッと気づいた。

 一休は、そんな事を聞いているのではないという事がようやく分かった。一休が聞いたのは名前や肩書などではなく、もっと本質的なものであるという事を安次郎は気づいた。

 一休は、そんな者に用はないと言うと酬恩庵に戻って行った。

 安次郎は自分は一体、何者なのかを真剣に考え始めた。自分から名前も肩書も取ってしまったら、自分には一体、何が残るのだろうと考えた。もし、名前や肩書がなくなったとしても、自分というものが消える事はない。この消える事のない自分というものは、一体、何なのだろう。

 この村にいる者たちは自分の事を知らない。ある日、この村にやって来て、こんな所に小屋を立てて、毎日、座り込んでいる変わった男だと見ている事だろう。一体、今、ここに座っている自分とは何なのだろうか。

 禅僧ではない。勿論、連歌師でもない。今川家の武将でもない。

 今の俺は、人から飯を施してもらう、ただの乞食か。

 しかし、その乞食をしている自分というのは一体、何なのだ。

 安次郎は過去の事を色々と思い出して見た。安次郎は刀鍛冶(カタナカジ)の頭領である五条家に生まれた。父親は今川家のお屋形様を初めとして重臣たちの刀を鍛えていた。次男として生まれた安次郎は家を継ぐ事もなく、幼い頃より禅寺に通って読み書きを仕込まれ、十二歳の時、お屋形様の側に仕えた。それから、ついこの間まで武士として生きて来た。それが、今、こうして、乞食のような格好で、こんな所に座っている。武士として生きていた自分も本当なら、今、こうしている自分も本当の自分だった。自分とは一体、何なのだろうか。

 山崎屋六右衛門も心配して、時々、訪ねて来てくれた。そして、もう一人、毎日のように飯を運んでくれる老婆がいた。老婆はただ一言、頑張りなされ、と言って、握り飯を置いて行った。安次郎は今まで握り飯という物をこんなにも感激して食べた事はなかった。飯を食う事など、以前は当然の事だと思っていた。飯を食うという当たり前の事が、こんなにも嬉しい事だったとは考えた事もなかった。毎日、ただ座っているだけだったが、何となく、心が洗われるような新鮮な気持ちだった。禅というものが、何となく分かりかけて来たような気がした。

 また、三日後に、一休はやって来て、『何者じゃ』と聞いた。

「分かりません」と安次郎は正直に言った。

「自分が何者か分からんような奴に用はない」と言うと一休は去って行った。

 安次郎にも、ようやく、一休という禅師の大きさが分かりかけて来た。山崎屋が言っていたように、一休は海のように大きいという事を感じられるようになっていた。その事に気づいた安次郎は、本気で一休の弟子になろうと決めた。連歌の事は諦めてもいい、一休から本物の禅を教わろうと決心した。

 安次郎は山崎屋に頼んで、頭を剃って貰い、決心を固めると、改めて一休の『何者じゃ』という問いに取り組んだ。

 十一月になると夜の冷え込みは益々、増して行った。安次郎は、毎日、自分が何者なのかを座り込んで考えていた。

 夢庵だったら何と答えるだろうか。

 寝そべったまま、ニヤッと笑って、わしは夢庵じゃ、と言うのだろうか。そうすると、一休は何と言うのだろう。

 やはり、夢庵などには用はない、と言うのだろうか。

 すると夢庵はまたニヤッと笑って、わしも用はない、と言うのか‥‥‥

 早雲だったら何と答えるだろうか。

 頭を撫でながら、早雲じゃ、と言うのか。 

 一休は早雲などには用がないと言い、早雲はどう答えるのか。

 安次郎には分からなかった。

 安次郎は夜空の星に聞いてみた。星はただ輝いているだけだった。

 目の前に生えている草に聞いてみた。草はただ、そこにいるだけだった。

 また、三日後に、一休は来て『何者じゃ』と聞いた。

 安次郎は、「分かりません」と答えた。用はないと言って、一休は去って行った。

 安次郎には何と答えたらいいのか分からなかった。何と答えたら、一休は弟子にしてくれるのだろうか。名前ではない事は確かだ。「分かりません」でない事も確かだ。そうなると、ただの人とか、名もない男とか答えればいいのだろうか。

 安次郎は自分は何者か、を考えるよりも、何と答えたらいいのかを考え始めた。それは主客転倒だったが、安次郎は気づかなかった。あれこれと考えた末の答えは、『自然の一部である人間の一人』というものだった。安次郎はこの答えなら大丈夫だろうと、三日後、一休に自信を持って答えた。一休の返事は安次郎の思い通りにはならなかった。

「ほう、自然の一部か、それなら、そのまま、そこにずっといろ。いつの日か、望み通りに土になれるだろう」

 考えて、考えたあげくの返事がそれだった。安次郎は、もう、どうにでもなれと、考える事をやめた。自分は自分でしかない。他の何者でもなく、自分なんだ。あれこれ、考える必要はない。今、座っている、この姿以外に自分というものはない。

 一休の問いに囚(トラ)われ過ぎていた事に気づいた安次郎は、もう、自分が何者かを考える事をやめてしまった。もう、ずっとこのまま乞食のままでも構わないと開き直った。開き直ってみると、何だか、急に楽になった。自分が本当に自由の身になったように感じられた。何にも縛(シバ)られない、本当の自由の身になれたような気がした。

 今川家をやめて旅に出て以来、自由の身になったつもりでいたが、それは本当の自由ではなかった。連歌師にならなければならないという思いが一杯で、せっかく旅に出たのに何も見てはいなかった。上(ウワ)の空で、ただ歩いていただけだった。様々な景色を見ていたはずなのに何も思い出す事ができなかった。

 安次郎は初めて、目というものの不思議さに気づいた。見えるという事と見るという事は違うという事に気づいた。誰でも目を開ければ何かが見える。見えるからといっても、必ずしも見ているわけではなかった。やはり、見ようとしなければ何も見る事はできないのだった。安次郎は変な事に気づいたものだと、小屋から出ると、改めて回りの景色を眺めて見た。今まで、自分がどんな所に座っていたのか知っているつもりでいたが、改めて、回りを見回してみて気づかない事が色々と見つかった。

 不思議な気持ちだった。今まで、自分は何を見ていたのだろうと思った。駿河にいた頃も、こんな風に漠然と物を見ていたに違いなかった。三十年も生きて来て、ろくに物を見ていなかったとは自分が情けなく思えた。もしかしたら、目だけではないのかもしれない。耳も鼻も口も五感といわれている物を、今まで充分に使っていなかったような気がして来た。せっかく持って生まれた物を充分に使わないのは、勿体ない事をして来たものだと思った。反面、その事に気づいた事の喜びもあった。安次郎は景色を楽しみ、心に焼き付けると、また、小屋の中に戻って座り続けた。

 目を閉じると、安次郎はじっと耳に澄ましてみた。色々な音が耳に入って来た。風の音、鳥の鳴き声、虫の鳴き声らが快い音として耳に入って来た。そして、柴の匂い、草の香りも新鮮に感じられた。ただ、自分の着ている着物の臭さが気になって来た。一度、気になると、もう溜まらなかった。今まで、全然、気にならなかったのに臭くて溜まらなかった。安次郎は木津川の河原に飛んで行くと、そのまま川の中に飛び込んだ。水は冷たかったが気持ちよかった。

 なぜか、嬉しかった。理由は分からないが自然と笑いが込み上げて来て、安次郎は一人、水浴びをしながら笑っていた。まるで、子供の頃に戻ったかのように、水の中で遊んでいる事、それだけで楽しかった。こんな気分になるのは本当に久し振りのような気がした。

 今までずっと、武士という枠の中で生きて来た。常に、人の目を気にして生きて来た。やりたい事があっても回りの目を気にして、できなかった。自分でありながら、それは自分ではなかった。五条安次郎というのは、こういう男だと、いつの間にかできてしまった枠の中で生きていた。武士である限り、その枠の中からはみ出す事は許されない事だった。ところが、今の安次郎にはその枠がなくなり、まったくの自由の身になっていた。何をしようと構わない。誰が見ていようと構わない。何をしても、俺は俺だった。

 安次郎は水の中で遊びながら、ふと、夢庵の事を思い浮かべた。夢庵は、今の安次郎と同じ境地で生きているに違いないと思った。いつも飄々としている夢庵は、まさしく、自由人だった。安次郎は夢庵を見直し、改めて、会いたいと思った。

 着物を洗って草の上に干すと、安次郎はずっと水の中で遊んでいた。そのうち、子供たちがやって来た。子供たちは初めのうちは、寒いのに川の中に入っている安次郎を馬鹿にしていたが、やがて、皆、川の中に入って来て、みんなで日が暮れるまで遊んでいた。

 三日後にまた、一休がやって来たが、安次郎は一休の事も忘れて、座ったまま眠っていた。

「何者じゃ!」と一休は怒鳴った。

「はい」と安次郎は跳び起きた。

「何者じゃ」と一休はもう一度聞いた。

「ただの土くれです」と安次郎は答えた。

 考えた答えではなかった。その時、とっさに出て来た答えだった。

「とうとう、土くれになったか」

「はい」

「ただの土くれになるまで何日掛かった」

「三十年」

「三十年か、うむ、いいじゃろう。第一関門通過じゃ」

 安次郎は酬恩庵に迎えられた。





 安次郎が酬恩庵の丘の下の柴小屋で座っていた頃、酬恩庵の一休の弟子たちの間では、安次郎の事が毎日の話題になっていた。

 一休の弟子は雲知を筆頭に没輪(ボツリン)、鉄梅(テツバイ)、風外(フウガイ)、祖心(ソシン)、泥牛(デイギュウ)、霜柱(ソウチュウ)の七人いた。その他、弟子ではないが、一路庵禅海(イチロアンゼンカイ)という老僧が僧坊で寝起きしていた。その八人は毎日、安次郎の噂をしていた。大方の意見が、安次郎は弟子になれないだろうという事だった。諦めて帰るだろうと皆、思っていたが、安次郎は以外にもしぶとかった。諦めたかと思うとまた戻って来て、玄関の前に座り込む。一日中、座っていて、夜になっていなくなり、ようやく、諦めたかと思うと、また次の日、現れて、懲りもせずに弟子にしてくれと言う。とうとう水を掛けられ、追い出され、もう諦めるだろうと思ったら、丘の下に小屋を立て、しかも、頭まで丸めて腰を落着けてしまった。なかなか、やるじゃないかと弟子たちも、ようやく、安次郎を見直していた。ここまで来れば、後は時間の問題だろうと皆、思った。一休がいつ、安次郎を許すかが弟子たちの話題に上っていた。七日目という者や十日目と言う者が多かった。

 安次郎が一休に許されたのは、十五日目の事だった。

 許されたが、そのまま、僧坊に入ったわけではなかった。東司(トウス、便所)の裏にある旦過寮(タンカリョウ)と呼ばれる狭い小屋の中に入れられた。以前の柴小屋と同じく、横になる事もできない狭い小屋だった。ただ、柴小屋と違うのは、冷たい風が入って来ない事と、戸を閉められると真っ暗になる事だった。しかも、ここでは自分の意志では外に出られなかった。東司に用がある時と食事の時以外は、真っ暗な小屋の中で座り続けなければならなかった。

 真っ暗なため、時の流れがまったく分からず、一日がやけに長く感じられた。ようやく、食事の時間となって、外に出る事はできても、飯を食べる事さえ自分の自由にはできなかった。食事を取る事も禅の修行の一つだと言われ、色々と取り決めがあって面倒臭かった。

 安次郎は旦過寮の中で、一休から出された新しい公案(コウアン)と戦っていた。

『土くれは川に流された。さて、その土くれはどこに行く』という公案だった。

 その答えを出さない限り、ここから出して貰えないだろうという事は分かっていた。そして、その答えが当たり前の事でない事も分かっていた。流されて砂になると言おうが、海まで流れると言おうが、ここから出してはくれないだろう。一体、一休はどんな答えを望んでいるのだろうか。

 それよりも、前回、『何者じゃ』という問いに『土くれ』と答えて、どうして許されたのかさえ分からなかった。自分の口から、どうして『土くれ』という言葉が出て来たのかさえ分からない。あの時、眠りこけていて、一休の声で起こされ、考える暇もなく、無意識に口から出て来た言葉だった。その前、考えて、考えた末に『自然の一部であるただの人』と答えて、認められず、もう、考える事はやめてしまった。自分ではやめたつもりでいたが、どこかで、心の奥底の方で考え続けていたのだろうか。

 自分でも無意識のうちに出た『土くれ』だったが、『安次郎』と答えていた時の自分と『土くれ』と答えた時の自分は、まったく別の自分のように感じられるのは事実だった。安次郎と答えた時の自分は、今川家をやめたにしろ、まだ、武士という身分の中で生きていた。何事を見るにも武士の目で物を見ていた。それが、自分が何者なのか考えているうちに、自分は武士でも何でもない、たたの人間だと気づいた。初めて、何事にも束縛されない自由な自分を感じる事ができた。安次郎は、これが禅でいう無の境地なのだなと思った。この境地まで行く事ができれば、もう、一休の弟子にして貰えると思ったが、そうは行かなかった。真っ暗闇の小屋の中に閉じ込められ、また、座らされた。これ以上、一体、どんな境地になれというのだ。

 安次郎には分からなかった。

『土くれは川に流された。その土くれはどこに行く』

 土くれが自分だとしたら、川というのは世の中の流れの事か。

 世の中に流された自分が、どこに行くか、という意味か。

 今の世の中に流されてしまえば、争いに明け暮れ、無間(ムゲン)地獄に落ちるという事か。

 いや、そんな答えではないはずだ。そんな答えを出すために、わざわざ、こんな所に閉じ込められたのではないはずだ。

 安次郎は自分が川に流されている土くれになったつもりになって、色々と想像を巡らしてみた。山奥の岩々の間を勢いよく流され、滝から落とされ、痛い目に会いながら、やがて、平野に出ると、流れは緩やかになり、村々のたんぼの中を流され、川舟と共に海へと流された。

 安次郎の頭に浮かんだのは故郷の阿部川だった。阿部川は駿府屋形(スンプヤカタ)の西を流れ、いくつもの支流を生みながら海へと流れていた。土くれだったはずの安次郎はどこかに消え、武士だった頃の安次郎が現れ、早雲、小太郎、北川殿、竜王丸の顔が浮かんで来た。死んだはずのお屋形様、今川義忠の姿も浮かんで来た。安次郎は馬に乗り、海岸沿いを義忠の後を追っていた。富士山が見えた。安次郎は気持ち良く馬の背に揺られて、のどかな浜辺を走っていた。

 ようやく我に帰ると、安次郎はまた土くれになった。今度は馬鹿に大きな土くれだった。大き過ぎて川の中に入れなかった。仕方なく、土くれは川の隣に立ったまま川を眺めていた。すると雨が振り出した。土くれの上にも雨が降り、土くれの上に溜まった雨は川となって、土くれの上を流れ始めた。土くれの上を流れた川は、足元の川と合流して流れて行った。雨がやむと土くれに草が生え、花が咲き、やがて、土くれは山になってしまった。

 馬鹿な事を‥‥‥と安次郎は思った。どうして、土くれが山になるんだ。

 答えは、なかなか分からなかった。

 一休は前回と同じく、三日に一度、質問をしにやって来た。一度目は駄目な事を承知で『海』と答えた。一休は、『明(ミン)の国でも行ってしまえ』と言った。二度目は『河口』と答えた。一休は、『そんな中途半端な所にいるな』と言った。三度目は『川底』と答えた。一休は、『いつまで、そんな所におるんじゃ』と言った。

 どうやら、答えは場所ではないという事は分かったが、場所ではないのなら、何と答えたらいいのか見当もつかなかった。答えなければ、一生、ここから出して貰えないかもしれない。本当に土くれになってしまう。冗談ではなかった。土くれになるために、わざわざ、こんな所に来たわけではない。

 待てよ、土くれ‥‥‥死ねば人間は皆、土くれに戻る。誰でもだ‥‥‥将軍様だろうと、お屋形様だろうと、偉い僧侶だろうと、雑兵(ゾウヒョウ)だろうと、乞食だろうと、男だろうと、女だろうと、誰でも死ねば土くれとなる。人間ばかりではない。馬や牛も鳥も虫も、花や木でさえ、死ねば土くれに戻る。当たり前の事だったが、不思議な事だった。生きている物すべてが、何の差別もなく、皆、土に戻る。生きているうちに贅沢の限りを尽くした生活をしていても、虫けらのような惨めな生活をしていても、死ね時は皆、平等だった。将軍様だろうとお屋形様だろうと、死を免(マヌガ)れる事はできない。生前、どんなに贅沢な暮らしをしても、死ぬ時は何も持っては行けない。

 誰もが、いつかは死ぬ。死んで土くれとなる。それは絶対に避けられない事だった。安次郎は武士として戦に何度も出ていた。死に直面する場面にも何度も出会っている。しかし、今まで自分の死を真剣に考えた事はなかった。戦に出る前、いつも、死の覚悟はしていたが、自分だけは大丈夫だろうと思い、死ぬ時は死ぬんだと別に思い詰めて考える事もなかった。しかし、今、死というものが、もっと身近な物として感じる事ができた。自分だけではなく、この地上に生きる物、すべてに平等に死は必ず訪れる。

 と言う事は、皆、死に向かって生きているという事か。

 今、この時も、少しづつ死に向かっているという事か。

 少しづつ寿命は縮まっているのか。

 五十年の寿命があったとして、後二十年だ。知らない間に、半分以上を生きてしまったのか。後、二十年を無駄にしないように生きなければならないと思った。しかし、無駄にしないように生きるとはどういう事なのか、分からなかった。どうせ、死ぬのなら、何をやっても同じではないのか。

 いや、どうせ、死ぬのなら、思いっきり、やりたい事をやって死んだ方がいい。

 やりたい事って何だ。

 本当にやりたい事って何なのだ。

 連歌か。

 安次郎は連歌師になりたくて、今川家をやめて宗祇を訪ねて行った。しかし、本当に連歌師になりたかったのだろうか。

 初め、西行法師(サイギョウホウシ)に憧(アコガ)れた。西行のように何物にも縛られず、旅をしてみたかった。そして、宗祇と出会った。今の時代は西行のように和歌を作っても生きてはいけない。今の時代は連歌だと思った。有名な連歌師になれば、各地の武将たちに歓迎されて、食う事の心配はいらないだろうと思った。結局、食うための手段として連歌を選んでいたのだった。今まで、連歌が好きだから連歌師になろうと決めたと思っていたが、実は、食うための手段として選んでいたのだった。連歌が好きな事は確かだが、本当にやりたい事は連歌なのか、と聞かれても、今の安次郎は素直に頷けなかった。他にも、何かやらなければならない事があるような気がした。その事が分かるまで、安次郎は一休のもとにいようと決めた。

 そんな事を考えている時、一休が声を掛けて来た。

『土くれはどこに行った』

『ここにいます』と安次郎は答えた。

『こことはどこじゃ』と一休は聞いた。

 安次郎は立ち上がって、足を踏み鳴らした。

「ようやく、足が地に着いたようじゃのう」と言って、一休は安次郎の鼻をつまんだ。

 安次郎は思わず、「痛い!」と悲鳴を上げた。

 安次郎は旦過寮を出された。

 安次郎は思いきり、息を吸い込むと体を伸ばした。

「どんな気分じゃ」と一休は聞いた。

「土くれが山になったような気分です」

「山になるのはまだ早いわ」と一休は笑った。

 安次郎は改めて一休のもとで得度(トクド)して、柴屋宗観(サイオクソウカン)と名付けられた。柴屋とは安次郎が酬恩庵の丘下に立てた小屋の事だった。安次郎は知らなかったが、一休は安次郎の事を柴屋(シバヤ)の小僧と呼んでいた。その呼び方がそのまま、安次郎の僧侶名になったのだった。





 宗観となった安次郎は僧坊に入り、一休の弟子たちと共に、毎日、厳しい修行に明け暮れた。

 朝はまだ夜明け前に起こされ、僅かな水だけで洗面を済ますと、早速、暁(アカツキ)の座禅が始まる。一時(トキ)程(二時間)、座禅をした後、大応国師像の前でお経を読み、お経の後は、みんなで飯の支度をする。朝飯の後は作務(サム)と呼ばれる作業に入る。

 禅宗では作業も立派な修行だと言う。庫裏、僧坊、東司、浴室の掃除や、庭の落ち葉掃き、薪(マキ)割り、山に入っての薪拾い、雪の降った時の屋根の雪降ろしなど、様々な作業があった。それらの作業は目的があってするのではなく、作業そのものに意味があるのだという。目的のある作業は、その目的を達成した時点で作業は終わるが、作務に終わりはなかった。決められた時間一杯、続けなければならなかった。

 作務の後は、毎日、村に出て托鉢(タクハツ)をする。托鉢の後は座禅を組み、晩の読経をした後、夕飯の支度を始める。食事を済ませ、後片付けが終わると、また座禅を組み、横になって眠る。毎日、同じ事の繰り返しだった。それだけではなく、宗観の場合、一番の新参者のため、雑用のすべてを任されていた。禅の世界では修行の長さがものを言った。宗観は三十歳だったが、年下の風外、祖心、泥牛、霜柱らの命令に従わなければならなかった。宗観は若い先輩たちにこき使われて、忙しく走り回っていた。

 宗観は旦過寮を出てからも、一休から公案を出され、ひたすら、それを考えていた。新たな公案は今まで以上に難しかった。それは『星の数を数えろ』というものだった。まともに答えられる公案ではなかった。

 宗観は知らなかったが、禅宗には曹洞(ソウトウ)宗と臨済(リンザイ)宗の二種類があり、一休の禅は臨済宗だった。臨済宗では、座禅と共に公案を重視していた。師から出される公案を次々に乗り越えて行く事によって、境地を高めて行く事ができるというものだった。公案の答えというものは決まってはいない。師とのやり取りによって、可か不可かが決まる。同じ公案を与えられても、人によって答えは違う。答えは違っても、その者が、師の願う境地まで行けたと師が認めれば合格となる。ただ、頭で考えて出した答えというものは合格にはならなかった。師が質問したら、間髪を入れずに答えなければならない。その一瞬の間に少しでも迷いがあれば合格にはならなかった。弟子が師に会う事を相見(ショウケン)と言うが、その相見の場は師と弟子との決闘の場だった。師の迫力に負けて、飲まれてしまったら、もう、その時点で不合格だった。

 宗観は毎日の忙しい日課の中で、『星の数を数えろ』という公案と闘っていた。答えはなかなか得られなかった。やがて、その年は暮れて、正月となった。

 新年の挨拶に訪れる者たちで酬恩庵は賑わった。京都から、一休の弟子たちも大勢、集まって来た。一流の能役者から無名の旅芸人まで、有名無名を問わず、数多くの芸人たちもやって来た。着飾った遊女たちまでが大勢で挨拶に来たのには、さすがに、宗観も驚いた。その他、宮大工、鍛冶師(カジシ)、鋳物師(イモジ)、仏師(ブッシ)などの職人たちもやって来た。やって来たのは人だけではなかった。京、堺、奈良の商人たちから、続々と驚く程の年賀の贈り物が届けられた。宗観らは、その贈り物の処分に追われた。贈り物のほとんどは、いつも世話になっている村人たちに配られて行った。

 奈良から村田珠光(ジュコウ)という茶人もやって来た。珠光も一休の弟子の一人で、京にいた頃の一休のもとで修行に励んでいたと言う。酬恩庵に居候(イソウロウ)している一路庵禅海は、一休の弟子ではなかったが、珠光の茶の湯の弟子だと言う。珠光は今、奈良に住んでいる。元将軍の足利義政が京に戻って来てくれと再三、言ってよこすので、今年は京都に戻らなければならなくなるだろうと世間話のように言っていた。珠光の名は宗観も知っていた。早雲の所にいた伏見屋銭泡(ゼンポウ)は珠光の弟子だったし、夢庵も珠光の弟子だと言う。亡くなったお屋形様も珠光から茶の湯を習っていた。早雲も小太郎も珠光に会った事があると言っていた。この人が、あの有名な村田珠光なのかと宗観は感激しながら見ていた。

 珠光は二人の弟子を連れ、頭は丸めていたが武士の格好をしていた。一見しただけだと、武将のように見える貫禄のある人だった。禅の修行もかなり積んでいるらしい。でんとしていて、大きな岩山のような存在感があった。珠光と一休が二人並んで座っている姿は、宗観には山と山が向かい合っているように見えた。一路庵禅海は酬恩庵を後にして、珠光と一緒に奈良へと向かった。

 宗観にとって一番嬉しかったのは、正月の半ば、宗祇と夢庵が訪ねて来た事だった。夢庵は去年、書いていた『弄花抄(ロウカショウ)』が認められて、正式に宗祇の弟子となっていた。修行中の身であるため、宗観は二人と長い時間、話をする事はできなかったが、会えて嬉しかった。特に夢庵を見る目は変わっていた。以前、甲賀で会った時は何となく苦手な相手だったが、今回、夢庵の顔を見ると懐かしく、やけに親しみが感じられた。夢庵は前回とまったく同じでも、宗観の方が、ここに来てから物の見方が変わったのだった。

 宗祇と夢庵は一晩、酬恩庵に泊まると京に向かって行った。西国の大名、大内周防介(スオウノスケ)政弘の連歌会に招待されているので出なければならないと言って出掛けて行った。

 慌(アワ)ただしかった正月も過ぎ、閏(ウルウ)正月も過ぎ、二月になった。旦過寮から出て三ケ月が過ぎていたが、『星の数を数えろ』という公案は解けなかった。その公案以上に分からなかったのは、お森(シン)という侍者(ジシャ)の存在だった。目は見えないとはいえ、女には違いなかった。その女が堂々と酬恩庵内で寝起きしている事が不思議で溜まらなかった。

 宗観は弟子の中で一番若い霜柱に聞いてみた。

「和尚様は、わしらのためにお森殿をここに置いておるんです。本物の禅は、日常生活の中で生きていなければならない。日常生活では女子(オナゴ)は必ずおります。女気のない山奥で悟りを開いても、町に出て行って女子たちに囲まれれば、そんな悟りは役に立たなくなります。そこで和尚様は、わしらの修行のために身近に美しい女子を置かれたのです」と、まだ二十歳の霜柱は生意気な事を言った。

 成程と納得する面もあるが、全面的には肯定できかねた。

 次に、二十四歳の泥牛に聞いた。

「和尚様のする事はわしには分かりません。和尚様が決めて、お森様をお側に置いておくのだから、わしらが口を出すべき事ではありません。それに、お森様はただの女子ではありません。わしらよりずっと優れた禅者です」

 まさしく、牛のように動きの鈍い男だったが、見るべき所は見ていると思った。

 宗観も禅者としてのお森は認めていた。お森は目は見えないが、普通の奥方のように掃除、洗濯、食事の用意などをきちんとこなしていた。特に洗濯は弟子たちの物まで、お森が洗っている。当然、下っ端の宗観がお森の手伝いをする事となり、お森と会話を交わす機会も多かった。

 お森は宗観よりも年上だったが、時々、抱き着きたくなる程の色気を感じる事もあった。そんな時、決まってお森は、「宗観様、いけませんよ」とニコッとして言う。

 宗観はお森の言葉で我に帰る。まったく不思議な事だったが、お森は宗観の心の中を見通していた。

 詳しくは知らないが、一休と出会う前のお森は旅芸人だったという。鼓(ツヅミ)を持って歌いながら旅を続けていたという。いつから旅をしていたのかは知らないが、自分の身を売って生きていた事もあるに違いない。世の中の地獄を身を以て経験して来たに違いない。自分では分からないだろうが、あれだけの美貌を持っていれば、目が見えなくても男に言い寄られる事は度々あった事だろう。それらの経験から、近づいて来る男たちの気持ちを察する事ができるようになったのだろうか。それだけではなく、お森の口から出る言葉はドキッとする程、一休の言葉に似ていた。宗観にはまだ分からないが、もしかしたら、お森は一休と同じ位の境地に達しているのかもしれないと思った。

 次に、祖心に聞いてみた。祖心は二十二歳で泥牛よりも年下だったが、幼い頃から一休のもとで修行していたため、泥牛の先輩だった。越前の守護、朝倉弾正左衛門尉(ダンジョウザエモンノジョウ)の甥で、朝倉家の絵師、蛇足(ジャソク)の紹介で一休の弟子となっていた。

「お森様は観音様です。観音様の化身です。わたしは和尚様に育てられたようなものです。わたしは和尚様を心から尊敬しております。その和尚様がお森様をお選びなさいました。それでいいと思います。和尚様がお森様と一緒に暮らしていようと和尚様の価値が下がるわけではありません。わたしも仏教の戒律(カイリツ)の事は勿論、知っております。和尚様より教わりました。しかし、戒律というのは修行者のための戒律です。和尚様程の境地に達したお方は戒律さえも乗り越えていらっしゃいます。禅というのは何事にも囚われず、あるがまま、自然のままに生きて行く事を最高の境地と致します。お二人共、すでにその境地に達しております。凡人である我々がとやかく言うべき事ではありません」

 若いとは言え、さすがに祖心の言う事は納得するべきものだった。確かに、自然のままに生きるという事は、男と女が一緒に暮らす事と言える。男と女が一緒にならなかったら子供はできない。仏教の祖の釈迦(シャカ)でさえ母親の腹から生まれているのだ。宗観は出家した者が、どうして女を避けなければならないのか、疑問に思えて来た。修行の妨げになるから女を避けるというのなら、祖心の言う通り、一休程の境地に達すれば女を置いても構わないという事になる。分からなかった。

 次に二十八歳の風外に聞いてみた。

 風外は、「婆子焼庵(バスショウアン)」と答えたきり、どういう意味だと聞いても説明してくれなかった。

 次に、三十七歳の鉄梅に聞いてみたが、やはり『婆子焼庵』と答えた。意味は教えてくれなかった。

 次に、四十二歳の没輪に『婆子焼庵』とは何かと聞いてみた。没輪は、「お森殿の事か」と笑うと、その意味を教えてくれた。

 没輪は墨斎(ボクサイ)とも号し、蛇足の弟子でもあった。

 『婆子焼庵』というのは公案の一つだった。

 昔、明の国に禅宗に帰依(キエ)した一人の老婆がいたという。老婆は有名な僧を我家に呼び、庵を建てて、二十年間、供養した。僧は二十年間、ただ、ひたすら修行に専念した。

 老婆は二十年経った後、僧の修行の成果を試そうと若く綺麗な娘を僧のもとに送った。娘は老婆に言われた通り、着物を脱ぎ捨てて僧に抱き着くと、「今、どんな気分でございます」と聞いた。

 すると、僧は涼しい顔をして、「老木が冷たい岩に寄り添って立っているようなものだ。たとえ、魅力ある若い女子だろうと、今のわしの澄み切った心境を変える事はできん」と言い切った。

 娘は僧の言った事をそのまま老婆に報告した。老婆は娘の話を聞くと腹を立て、「わしは二十年もの間、こんな、くだらん俗物(ゾクブツ)を供養して来たのか」と言って、その僧を追い出し、それでも、くやしさは治まらず、僧のいた庵も焼いてしまったというのである。老婆は僧の答えに満足せずに追い払ってしまった。それなら、何と答えたら老婆は気に入ってくれたのだろうか、というのが、この公案だった。

 この公案の答えが分かれば、一休とお森の関係も分かると言うのだった。宗観には勿論、分からなかった。没輪に答えを聞くと、わしには、まだ、その公案を解く力はないと言った。

 若い娘にも動じない程、悟り澄ました僧を、老婆はどうして追い出してしまったのだろうか。

 どうしたら、追い出されなかったのか。

 宗観には分からなかった。

 宗観は五十六歳の雲知に聞いてみた。

「婆子焼庵? まだ、二十年早いぞ。物には順序という物がある。その公案にぶつかるには二十年以上、座り込まなければならん。禅をかじったばかりの者が、あれこれ言う資格はない。まず、与えられた公案に死物狂いで取り組め」

 そう怒鳴られたが、『婆子焼庵』という公案は宗観の頭から離れなかった。『婆子焼庵』が気になって、『星の数を数えろ』という公案に集中する事はできなかった。

 時だけが宗観一人を置きざりにして、早い速さで流れて行った。
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