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陰流の開祖であり、忍びの術の開祖でもある愛洲移香斎の物語です。
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11.松岡寺2






 山田光教寺より東へ一里程行くと、柴山潟(シバヤマガタ)と呼ばれる湖に出る。加賀三湖の一つで、柴山潟の北には今江潟があり、東には木場潟と呼ばれる湖があった。

 現在、柴山潟は半分以上埋め立てられ、今江潟はすべて埋め立てられ、木場潟も埋め立てられて小さくなっている。埋め立てられた所は水田となっているが、当時、この辺りは葦(アシ)の生い茂る湿地帯だった。

 湖には潟(カタ)の衆と呼ばれる漁師や湖上運送に携わる者たちが住み、小舟を自由に操って行き来していた。この者たちはほとんどの者が、かつては時宗の徒であったが、今は本願寺の門徒になっていた。

 木場潟の最南端、波倉の地に高田派門徒の最初の攻撃を受けた本蓮寺があり、木場潟に沿って、一里程、北東に富樫幸千代が本拠地とする蓮台寺城があった。そして、本蓮寺より東に一里程の所に松岡寺がある。また、松岡寺と蓮台寺城との距離も一里程だったが、その間にちょっとした山があって遮られていた。

 蓮如の供をした風眼坊の一行は柴山潟沿いの湿地帯を歩いていた。

「風眼坊様、この辺りには敵はいないでしょうね」とお雪が前を行く風眼坊に声を掛けた。

「分からんのう。しかし、気を付けた方がいいのう」

「富樫次郎は今、どこにいるのでしょう」

「それも分からんのう。しかし、次郎は大軍に囲まれておる。心配しなくても見つかる事はあるまい」

「そうですね‥‥‥」

 風眼坊は筒袖(ツツソデ)にたっつけ袴を着て、笠を被り、腰に小刀を差し、六尺棒を突いていた。

 お雪は吉崎に潜入して来た尼僧の持っていた吹矢と愛用の笛を帯に差し、笠を被って、杖を突いていた。

 蓮如は手拭いで頬被りをして、さらに笠を被り、使いなれた杖を突き、十郎は小刀を差し、背中に荷物を背負い、半弓を構えていた。

 この辺りは葦がそこら中に生えていて視界が効かなかった。こんな所に敵がいるとは思えないが、戦場からはぐれた敵と遭遇する可能性はあった。一行は周囲に気を配りながら進んで行った。

 先頭を行く風眼坊が急に足を止めた。

 水辺の側に一人の男が倒れていた。甲冑も着けず、武器も持っていなかったが、武士に違いなかった。

「死んでいるのでしょうか」とお雪が恐る恐る覗いた。

「南無阿弥陀仏」と蓮如が唱えた。

 風眼坊は近くまで行って調べた。

「傷はないようじゃのう」

「溺死ですか」と十郎が聞いた。

「いや、そうでもないようじゃ」

 風眼坊が倒れている武士に触れて調べていると、武士は急に動いた。

 お雪が悲鳴を上げた。

「どうやら、生きておるようじゃ。しかも、かなり酒臭い」

「何じゃ。ただの酔っ払いか」と蓮如は言った。

「らしいな」風眼坊が武士の頬をたたくと、武士は目を覚ました。

「ここはどこじゃ」と寝ぼけた声で言った。

 武士は起き上がると、「喉がカラカラじゃ」と言って、湖に顔を付け、水をたらふく飲み込んだ。
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12.本泉寺






 風眼坊は蓮如、お雪、十郎を連れて山の中を歩いていた。

 山のあちこちに萩の花が咲き、ツクツク法師が鳴いている。

 もう、秋になっていた。

 戦のけりは、まだ着いていなかった。

 この前、一行が松岡寺(ショウコウジ)に出掛けたのは一月程前の事だった。

 風眼坊たちは戦の負傷者たちの手当に忙しく働き、八月の初めに吉崎に戻って来た。およそ、一月の間、吉崎を留守にしていたわけだったが、慶聞坊が、上人様は今、松岡寺にいると連絡してくれたので、家族たちも吉崎を守っていた近江の坊主たちも、蓮如がいない事を知っていながら、蓮如がいるという風に装っていたため、何事も起こらなかった。

 ただ、毎月恒例の二十五日の講の日は、戦に出ていない年寄りや女子供の門徒たちが吉崎に集まって来たため、今更、講を取りやめにする事もできず、上人様は戦が始まってから、ずっと、門徒たちの身を案じて、本堂に籠もり、念仏を上げておられる。上人様の邪魔をするわけにはいかんと言って、代わりに、近江から来ている赤野井の慶乗坊(キョウジョウボウ)が説教をした。

 その日、集まって来た門徒たちは皆、本堂から聞こえて来る念仏に耳を澄まし、合掌してから帰って行った。その時、本堂にいたのは勿論、蓮如ではない。吉崎を守っている門徒の中から、後ろ姿が蓮如に似ている者と声が蓮如に似ている者を選び、本堂を閉め切り、立ち入り禁止にして、後ろ姿の似ている者を坐らせ、声の似ている者を内陣の中に隠して、念仏を唱えさせたのだった。

 風眼坊たちは出て行く時と同じように、抜け穴から御坊へと戻って行った。そして、小屋の中で元の姿に着替えると、何事もなかったかのように、庭園から、それぞれがここを出て行く前にいた場所へと戻って行った。

 吉崎の地にも敵は攻めて来ていた。しかし、それ程の大軍ではなかった。慶覚坊によって寺院を破壊され、追い出された高田派の坊主や門徒たちと越前の高田派門徒とが、吉崎を睨みながら陣を敷いていたが、一千人にも充たず、ただ見張っているという感じで、強いて攻撃はして来なかった。高田派門徒としては本蓮寺や松岡寺などより、この吉崎御坊を落としたいと願っているのだが、今の状況では、蓮台寺城から、ここまで出陣して来るのは不可能だった。

 敵と対峙しているとはいえ、吉崎の地は、まだ平和といえた。

 風眼坊らにとって、その比較的平和な吉崎御坊での退屈な日々が一月近く続いた。

 その退屈な日々に最初に文句を言ったのは、お雪だった。

 お雪は本蓮寺での負傷者の治療以来、風眼坊の事を先生と呼んでいた。吉崎に戻って来て、まだ十日と経たないうちに、先生、また、前線に行きましょう、と言い出した。風眼坊が、もう少し待て、と言っても、お雪は風眼坊の顔を見るたびに、早く行こう、とせきたてた。風眼坊は、上人様に言え、と言った。お雪は蓮如には言えなかったようだった。

 その上人様も御文を書いたり、念仏を唱えたり、毎日、判で押したような暮らしをしていたが、とうとう九月になると我慢できなくなったのか、風眼坊を呼んでニャッと笑うと、「そろそろ、逃げるかのう」と小声で言った。

「今度は、どこに行きますか」と風眼坊もニヤニヤしながら聞いた。

「そうじゃのう。今度は蓮乗の所でも行くかのう」

「本泉寺ですか」

「うむ」と蓮如は嬉しそうに頷いた。

「ちょっと、遠いのう」と風眼坊は少し考えた。

 蓮如は風眼坊の顔色を窺いながら、「無理かのう」と聞いた。

「いえ、山の中を通って行けば、戦場を通らずに行けるでしょう」

「そうか‥‥‥お雪殿はどうかのう、付いて来るかのう」

「来るなと言っても来るでしょう。わしの顔を見るたびに、ここから出ようと言って、うるさい位じゃ」

「おお、そうじゃったのか。お雪殿も早く、ここから出たかったのか‥‥‥そうか、そうか。十郎はどうじゃ」

「十郎だって喜んで付いて来ますよ」

 話が決まると早かった。
13.小野屋1






 懐かしかった。

 飯道山の山頂を風眼坊は感慨深げに眺めていた。

 ここに来るのは、実に四年振りの事だった。

 あの時、弟子の太郎と花養院にいた楓の祝言を行なった。早いもので、あれから四年という歳月が流れていた。あの後、二人は故郷の五ケ所浦に帰ったが、また戻って来た、というのは風の便りで聞いていた。

 きっと、もう子供もいるに違いない。どんな子供だろう、会うのが楽しみだった。

 中でも一番の楽しみは、何と言っても、息子、光一郎の成長振りを見る事だった。太郎のもとで、どれだけ腕を上げたのかを見るのが一番の楽しみだった。

 風眼坊がそんな事を思いながら飯道山を眺めている時、連れの疋田豊次郎は息を切らしながら、ようやく風眼坊に追い付き、景色を楽しむどころではなかった。

 五日前に二俣本泉寺を出て来た二人は、かなり、きつい旅をして来ていた。豊次郎は風眼坊に付いて行くのがやっとだった。それでも、風眼坊にしてみればのんびり歩いているつもりだった。

 昨日、琵琶湖を舟で渡り、目的地が目と鼻の先の距離になると、風眼坊は知らず知らずのうちに急ぎ足となって行った。

 風眼坊は琵琶湖側から阿星山(アボシサン)の山頂を目指した。かなり急な山道を風眼坊は走るような速さで登って行った。豊次郎にはとても付いて行けなかった。風眼坊は少し登っては豊次郎を待ち、また歩き始めた。飯道山へと向かう奥駈け道まで来て、飯道山を眺めていたのも豊次郎を待っていたのだった。豊次郎が来たので先に進もうとしたが、豊次郎が少し休ませてくれと頼んだので少し休む事にした。

 実に懐かしかった。

 何度、この道を行ったり来たりした事だろう。光一郎もこの道を一ケ月間、歩き通した事だろう。もしかしたら、太郎と一緒に百日間、歩いたかもしれなかった。ひょっとしたら、今、この道を歩いているかもしれない。どこかで、ばったり出会うかもしれない。何となく照れ臭いような気もするが、早く、光一郎に会いたかった。
14.小野屋2






 風眼坊は姿勢を改めて、奈美に武器の事を話した。

 奈美は風眼坊の話を黙って最後まで聞いていた。そして、しばらく黙ったまま考えていた。

「何とか、ならんかのう」と風眼坊は奈美の顔を覗き込むように聞いた。

「多分、何とかなるでしょう」と奈美は軽く言った。

「えっ! 何とかなるか」

「ええ」と奈美は笑った。「それで、いつまでに揃えればいいの」

「早ければ早い方がいいが」

「一月は掛かるわね」

「まあ、一月は掛かるじゃろうのう。しかし、奈美殿、本当に一月で揃えられるのか」

「何とかやってみましょう。相手が本願寺なら、やり甲斐があります」

「やはり、奈美殿は武器を扱っておったんじゃな」

「この御時勢ですからね。一応、始めましたが、なかなか大変です。見る目を持っていないと、とんでもない物をつかまされますからね」

「それは言えるのう」

「明日、うちの者がここに集まります。その時、改めて、その事は相談しましょう」

「奈美殿の店の者が、明日、ここに来るのか」

「ええ、信楽(シガラキ)の市を見に来ます」

「おお、そうか。ここの祭りと一緒に信楽で市があったのう。信楽焼きは結構、儲かるのか」

 奈美は頷いた。「茶の湯が流行っているお陰で、信楽焼きの人気はどんどん上がって来ています」

「茶の湯か‥‥‥流行っておるらしいのう。わしにはよく分からんが‥‥‥明日、来るというのは焼物を扱っておる者たちじゃろう。武器も扱っておるのか」

「今回の戦で、地方の武士たちが京に集まったお陰で、茶の湯が京や奈良だけでなく、地方の武士たちの間にまで広まりました。それに、京のお公家さんたちが戦乱を避けて、地方に行った事も茶の湯の流行を助けました。今、武士との取り引きに、茶の湯は欠かせない物となって来ています。武器の取り引きと茶の湯とは、つながりがあるという訳なんですよ」

「ほう、そういうものかのう‥‥‥」
15.蓮台寺城1






 いつの間にか、雁(カリ)の飛ぶ季節となっていた。

 山々の樹木は色づき始め、朝夕はめっきりと肌寒くなって来た。

 紅葉に映える山の中を、風眼坊は休む暇もなく、本泉寺に向かっていた。

 甲賀に行った風眼坊と豊次郎は、小野屋の手代、平蔵と新八の二人を連れて、吉崎に戻って来た。とりあえず、豊次郎と手代二人を蓮崇の多屋に預け、風眼坊は抜け穴を通って御坊に顔を出した。蓮如の妻、如勝に会うと、蓮如を二十五日の講までに戻してくれと頼まれた。今日は十八日だった。ゆっくりしている暇はなかった。風眼坊はすぐに、その足で本泉寺へと向かった。

 途中、大勢の本願寺門徒が待機している野々市の守護所に寄って蓮崇と会い、蓮崇と共に馬に乗って本泉寺に向かった。本泉寺に着いたのは二十日の日暮れ時だった。

 西の空が今回の戦で流れた出た血のように真っ赤に染まっていた。

 蓮崇はあまりにも早い、風眼坊の帰りに驚き、また、武器が何とかなりそうだと聞くと、なお一層、驚いた。武器が手に入るのは早くても二ケ月は掛かるだろうと覚悟していた。

 籠城戦に入って、もうすぐ一月になり、蓮台寺城を囲んでいる門徒たちの間に厭戦(エンセン)気分が現れ出ていた。彼らは正式な武士ではないので、何もしないで、ただ敵を囲んでいるという事が、よく理解できず、辛抱できなかった。何もしないで、こんな所にいるのなら、さっさと帰って仕事をした方がずっとましだと思っている。せっかく実った稲は、すべて刈り取られ、兵糧米として取り上げられてしまい、戦が終わったとしても、この先、どうしたらいいのだ、という不安を誰もが感じていた。その不安は戦の士気にも影響して来た。

 蓮崇は武器の事は諦め、犠牲者がかなり出る事を覚悟して、早いうちに総攻撃を掛け、戦を終わらせなければならないと考えていた。しかし、風眼坊から、武器が十月の中頃までには着くだろうと言われ、それまで待ってみる事にした。

 風眼坊、蓮崇、蓮如、お雪、十郎の一行は舟で森下川を下って日本海に出ると、大型の船に乗り換え、海路、吉崎に向かった。

 二十四日の晩には無事に吉崎御坊に戻り、蓮如は書斎に籠もり、蓮崇は小野屋の手代と会っていた。お雪は如勝を手伝い、明日の講の準備に忙しく働き、十郎は長い船旅に疲れて気分が悪いと休んでいる。風眼坊は蓮如の書斎の隣の部屋に控えていたが、風眼坊もいささか船旅に疲れていた。やはり、海よりも山の方が風眼坊には合っていた。
16.蓮台寺城2






 文明六年十月十四日の未明、本願寺門徒による蓮台寺城の総攻撃が始まった。

 それより五日前に、武器を手に入れた蓮崇は武器を野々市の守護所に運び、そこに待機していた河北郡の門徒、一万人に武器を持たせて松岡寺に向かった。

 三日前には松岡寺に着き、次の日、蓮崇は各地にいる武将たちを集めた。

 蓮台寺城の正面、大手側に陣を敷き、敵と対峙している越前門徒の藤島定善坊(ジョウゼンボウ)と和田長光坊。

 木場潟の水路をふさいでいる柴山八郎左衛門。

 軽海(カルミ)への街道を押えている専光寺慶念(キョウネン)。

 蓮台寺城の北側を固めている浄徳寺慶恵(キョウエ)と蛭川(ヒルカワ)新七郎。

 搦手側を固めている山之内衆を率いる河合藤左衛門と大杉谷川流域の門徒を率いる宇津呂備前守。

 南側を固める熊坂願生坊(ガンショウボウ)と黒崎源五郎。

 松岡寺と本蓮寺の中程にある山の上に陣する慶覚坊と安吉(ヤスヨシ)源左衛門。

 本蓮寺で待機している庄四郎五郎。

 浄徳寺に待機している笠間兵衛(ヒョウエ)。

 倉月庄の郷士の代表として山本若狭守。

 そして、松岡寺に待機している慶聞坊の十六人が集まった。

 白山中宮八院の一つ昌隆寺に待機している白山衆徒にも、戦評定(イクサヒョウジョウ)に来るように呼びかけたが出て来なかった。

 越前門徒らと共に、大手正面に陣を敷く富樫次郎政親にも声を掛けたが、用があるなら、そっちから来い、というような高飛車な返事だった。それでも、本願寺の動きが気になるのか、少し遅れて、次郎の重臣の一人、山川三河守(ヤマゴウミカワノカミ)がやって来た。

 戦評定は、富樫次郎の家臣や門徒ではない山之内衆が加わっているため、上座なし、席次なしで行なわれた。本願寺方では蓮綱を総大将としていたが、この評定に蓮綱は出なかった。蓮綱が出ると当然、序列が決まってしまう。そうなると、次郎の名代として来ている山川三河守を蓮綱よりも上にするか下にするかで、つまらない争いになってしまう。そんな事をしている暇はなかった。
17.大河内庄






 空は晴れ渡っているが、風が冷たかった。

 すでに、山の頂き辺りはうっすらと雪化粧している。紅葉の季節も終わり、樹木は冬支度に入っていた。

 播磨の国と但馬の国の国境辺りの山の中を黙々と歩く山伏の一行があった。山伏は全部で五人。一人の山伏は四十年配だったが、他の四人は皆、若かった。道のない山の中を何のためらいもなく、先頭を歩いているのは太郎坊だった。その後ろに四十年配の男が息を切らせながら続き、その後ろを太郎坊の三人の弟子たちが続いていた。

 この道は播磨の国から鬼山一族の住む村への一番の近道だった。

 太郎が鬼山一族の村に行くのは今回が三度目で、初めて行ったのは銀山を捜しに行った八月の半ば、二度目は一月後の九月の半ば、そして、今回は、もう十一月の三日となっていた。

 二度目に行った時、太郎は自分の身分を明かした。お屋形様の義理の兄で、赤松日向守と名乗り、銀山奉行として播磨の国、大河内庄(オオコウチショウ)を本拠にして銀山の開発を行なうと告げ、これからも赤松家のために力を貸して欲しいと頼んだ。そして、鬼山一族のこれからの事をどうするか決めてほしいと言った。

 銀山開発が始まれば、この村には大勢の人足(ニンソク)が入って来る事となり、今までのようには住めなくなる。新しくできる大河内庄の城下に移りたい者は移っても構わない。長老の左京大夫は太郎の家臣として銀山奉行に任命する。他の者たちは左京大夫のもとで山師として働いてくれるなら、それに越した事はないが、武士になりたい者は家来に取り立てる。ただ、銀を作る技術だけは一族の者の力を借りなければならない。その技術を日本人に教えたくなければ教えなくてもいい。その場合は、ある程度、一族の者はこの山に残ってほしい。それに、できれば以前のように女のもとに男が通うという習慣を改め、夫婦になれるのなら、これからは夫婦として暮らしてほしい。以上のような事を考えておいてくれと言って、二度目の時は彼らと別れた。

 今回は、その返事を聞くためと、銀山を開発する事に正式に決まった大河内庄の『小野屋』の主人、藤兵衛も一緒だった。

 藤兵衛は伊勢の国、安濃津(アノウツ、津市)の『小野屋』の番頭だったが、今回の銀山開発の責任者に抜擢され、松恵尼と共に播磨の国にやって来たのだった。元々は武士だったそうで、物腰が何となく商人という感じがしなかった。武士を捨て、好きでこの道に入ったのに、未だに、客の接待は苦手だと言う。安濃津にいた時も、表に出て客の応対をするよりも、ほとんどが船に乗って関東の方と取り引きをしていた。商人同士の駆け引きは得意でも、どうも、お得意さんたちに頭を下げるのは苦手だと言った。今回、この仕事に抜擢されて、山が相手なら、わしに丁度いいと喜んでいた。
18.早雲庵






 真っ白に雪化粧した富士山が神々しく聳(ソビ)えている。

 駿府の町も、村々にも、華やかな雰囲気が漂っている。

 文明七年の新年が明けていた。

 東や西では戦の最中だったが、ここ駿河の国は今川氏のお陰で戦場になる事もなく、平和な毎日が続いていた。

 駿府のお屋形では琴の調べの流れる中、着飾った女房たちが晴れ晴れとした顔をして、新年の挨拶を交わしていた。北川殿の屋敷では、お屋形の今川治部大輔(ジブノタイフ)義忠が家族と一緒に楽しい一時を過ごしていた。長女の美鈴は七歳になり、長男の竜王丸(タツオウマル)は五歳となっていた。

 浅間(センゲン)神社は初詣での人々で埋まり、誰の顔もほころび、口々におめでとうと言い合っていた。

 駿府から一山越えた石脇の早雲庵にも正月はやって来ていた。早雲庵の正月は、これといって普段と余り変わりないが、それでも何となく、みんな浮き浮きしていた。早い話が、正月だというのに行く所もない連中がゴロゴロしているのだった。

 早雲は狭い庵(イオリ)の中に誰がゴロゴロしていても何も言わなかった。一応、早雲庵と呼ばれていても、早雲自身、この庵が自分のものだとは思っていない。小河(コガワ)の長谷川次郎左衛門尉が早雲のために建ててくれたものだったが、早雲は来る者は拒まなかった。別に歓迎するわけでもないが追い出す事もしない。来たい者は来たい時に来て、出て行きたい時に出て行った。

 今年の新年をここで迎えたのは七人だった。主の早雲、富嶽(フガク)という名の絵師、三河浪人の多米(タメ)権兵衛、銭泡(ゼンポウ)と名乗る乞食坊主、円福坊という越後の八海山の老山伏、大和から来た鋳物師(イモジ)の万吉、そして、春雨という女芸人が狭い早雲庵で新年を迎えていた。

 富嶽、多米、円福坊、万吉の四人は早雲庵の常連だった。富嶽と多米の二人は、すでに、ここの住人と言えるし、円福坊と万吉の二人は年中、旅をしていて、この地に来ると必ず早雲庵に顔を出し、しばらく滞在しては、また旅に出て行った。二人共、早雲がこの地に庵を建てるまでは、小河の長谷川次郎左衛門尉の所に世話になっていたが、次郎左衛門尉の屋敷よりも、こっちの方が気楽なので、いつの間にか早雲庵の常連となっていた。今回、たまたま年の暮れに早雲庵に来た二人は、そのまま、ここで新年を迎えた。

 早雲がこの地に来て、すでに三度目の正月だった。去年の正月も一昨年の正月も、今年のように七、八人の者が早雲庵にいたが、女が居座っているのは初めての事だった。
19.加賀の春






 雪は降っていたが、越前吉崎の新年は賑やかだった。

 各地から、雪の中を大坊主たちが蓮如に新年の挨拶をするために訪れていた。

 お雪は蓮如の妻、如勝と共に本坊の台所に入って忙しく働いていた。

 去年の十月十四日に富樫幸千代の蓮台寺城が落ち、戦は終わった。高田派の寺院はすべて消え、高田派の門徒も一掃された。戦の後、しばらくは混乱していた加賀の国も十一月に入って雪が積もり出し、厳しい冬がやって来ると自然と治まって行った。戦目当てに加賀に流れ込んで来た浪人や浮浪人たちも雪と寒さには勝てず、加賀の国から去って行った。

 まるで、何もなかったかのように、例年のように雪に覆われた北国の冬だった。

 戦が終わると、お雪は風眼坊と一緒に松岡寺に行き、負傷者の治療に当たった。毎日、朝から晩まで治療をしても負傷者の数は減らなかった。治療に当たったのは風眼坊たちだけでなく、時宗の僧侶たちも何人かいたが、とても間に合わなかった。

 お雪は多屋(タヤ)衆の娘たちを指図して負傷者の看護に当たっていた。精一杯の手当をしていても、毎日、何人かが亡くなって行った。彼らは皆、念仏を唱えながら極楽に行ける事を信じて死んで行ったが、それを見ているのは辛い事だった。

 お雪と風眼坊は松岡寺の後、本蓮寺でも負傷者の治療をして、十二月の末に、ようやく、吉崎に戻って来た。お雪は休む暇もなく、年末年始の用意に追われたが、疲れた様子など少しもなく、毎日、生き生きとしていた。風眼坊の方は蓮崇の多屋で、のんびりと年末年始を送っていた。

 正月の五日、慶覚坊が吉崎にやって来た。風眼坊は久し振りに慶覚坊に会った。戦が始まる去年の六月の講以来、半年も会っていなかった。

「医者になったそうじゃのう」と慶覚坊は風眼坊の顔を見るなり言った。

「戦に出て、暴れる事ができんかったからのう。戦の後始末をやっておったわ」

「おぬしのお陰で助かったわ。なかなかの名医じゃそうだのう。それに、例の娘が、よく、怪我人たちの面倒を見ておったそうじゃないか」

「ああ、よくやってくれたよ。わしも驚いておる位じゃ」

「観音様だそうじゃのう」と言いながら慶覚坊は雪を払い、笠と蓑(ミノ)をはずした。

「誰が言いだしたのか、本願寺の観音様だそうじゃ。本願寺の教えの中に観音様など、おらんのにのう」

「いや、観音様も阿弥陀如来様の化身として、ちゃんと本願寺にもおる」

「ほう、阿弥陀如来様の化身か」

「すべての仏様や神様は阿弥陀如来様の化身というわけじゃ」と言うと慶覚坊は部屋に上がって来た。
20.雪溶け1






 梅の花が咲いていた。

 数人の門徒たちが梅の花を眺めながら世間話をしている。門徒たちの顔も自然とほころんでいた。

 ようやく長い冬も終わりを告げ、雪溶けの季節が近づいて来た。

 冬の間、二十五日の講と二十八日の報恩講の日以外は比較的、静かだった吉崎御坊も、雪溶けと共に参詣者の数も徐々に増えて行き、賑やかになって行った。

 長い冬の間、蓮如はどこにも出掛けず、ほとんど書斎に籠もったままだった。

 講の時には新しく書いた御文を発表したが、それ以外は御文も書かず、ほとんど毎日、親鸞聖人(シンランショウニン)の著した『教行信証(キョウギョウシンショウ)』を書写していた。

 蓮如は親鸞聖人の教えを改めて読む事によって、今更になって、去年、門徒たちを戦に追いやった事を後悔していた。後悔はしていたが、あの時、どんな態度を取ったらよかったのか、答えは出なかった。もし、親鸞聖人だったら、あの時、どんな態度を取ったのだろうか。 

 本願寺の法主(ホッス)になって以来、ただ、ひたすら、親鸞聖人の教えを広めるために生きて来た。異端(イタン)を退け、正しい教えを広める事が自分の役目だと信じて疑わなかった。

 考え方が少し狭かったのかもしれん、と蓮如は思った。

 正しい教えを広めるため、高田派の教えは悪いと言ったために、高田派と対立するようになって行った。確かに高田派の教えは悪いに違いないが、悪いと言われた高田派門徒の気持ちなど少しも考えなかった。もう少し、相手の立場になって考えて行動していたら、こんな結果にはならなかったかもしれない。高田派の坊主たちをどうにもならない所まで追い込んでしまったのは、自分の考えが狭すぎたからに違いない。すべての者たちを救うという阿弥陀如来様のように、もっと大きな心を持たなくてはいかんと反省した。

 風眼坊舜香は吉崎の門前町に家を借りて、町医者を開業していた。

 蓮崇(レンソウ)の多屋を出て、ここに移って来たのは正月の十日の事だった。風眼坊は、もうしばらく様子を見るため、この地にいる事に決め、いつまでも蓮崇の多屋の世話になっているわけにもいかないので、蓮崇に空家はないかと相談した。

 一応、捜してみるが、多分、空家などないだろう。雪が溶けたら新しい家を建ててやると蓮崇は言ったが、次の日、幸運にも丁度いい空家が見つかった。太物屋(フトモノヤ、絹以外の織物を扱う店)の番頭が家族と共に住んでいて、戦の後、野々市(ノノイチ)に新しく店を出すために引っ越して行ったという。持主はその太物屋で、風眼坊が医者だと聞くと、喜んでお貸ししましょうと言ってくれた。

 蓮如がこの地に来て、この地が栄えてから建てた物なので当然、まだ新しく、部屋も四つあり、台所の土間も広く、広い縁側もあって、ちょっとした庭まで付いていた。風眼坊が一人で暮らすには広すぎると感じる程の家だった。
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酔雲
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