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陰流の開祖であり、忍びの術の開祖でもある愛洲移香斎の物語です。
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19.加賀の春






 雪は降っていたが、越前吉崎の新年は賑やかだった。

 各地から、雪の中を大坊主たちが蓮如に新年の挨拶をするために訪れていた。

 お雪は蓮如の妻、如勝と共に本坊の台所に入って忙しく働いていた。

 去年の十月十四日に富樫幸千代の蓮台寺城が落ち、戦は終わった。高田派の寺院はすべて消え、高田派の門徒も一掃された。戦の後、しばらくは混乱していた加賀の国も十一月に入って雪が積もり出し、厳しい冬がやって来ると自然と治まって行った。戦目当てに加賀に流れ込んで来た浪人や浮浪人たちも雪と寒さには勝てず、加賀の国から去って行った。

 まるで、何もなかったかのように、例年のように雪に覆われた北国の冬だった。

 戦が終わると、お雪は風眼坊と一緒に松岡寺に行き、負傷者の治療に当たった。毎日、朝から晩まで治療をしても負傷者の数は減らなかった。治療に当たったのは風眼坊たちだけでなく、時宗の僧侶たちも何人かいたが、とても間に合わなかった。

 お雪は多屋(タヤ)衆の娘たちを指図して負傷者の看護に当たっていた。精一杯の手当をしていても、毎日、何人かが亡くなって行った。彼らは皆、念仏を唱えながら極楽に行ける事を信じて死んで行ったが、それを見ているのは辛い事だった。

 お雪と風眼坊は松岡寺の後、本蓮寺でも負傷者の治療をして、十二月の末に、ようやく、吉崎に戻って来た。お雪は休む暇もなく、年末年始の用意に追われたが、疲れた様子など少しもなく、毎日、生き生きとしていた。風眼坊の方は蓮崇の多屋で、のんびりと年末年始を送っていた。

 正月の五日、慶覚坊が吉崎にやって来た。風眼坊は久し振りに慶覚坊に会った。戦が始まる去年の六月の講以来、半年も会っていなかった。

「医者になったそうじゃのう」と慶覚坊は風眼坊の顔を見るなり言った。

「戦に出て、暴れる事ができんかったからのう。戦の後始末をやっておったわ」

「おぬしのお陰で助かったわ。なかなかの名医じゃそうだのう。それに、例の娘が、よく、怪我人たちの面倒を見ておったそうじゃないか」

「ああ、よくやってくれたよ。わしも驚いておる位じゃ」

「観音様だそうじゃのう」と言いながら慶覚坊は雪を払い、笠と蓑(ミノ)をはずした。

「誰が言いだしたのか、本願寺の観音様だそうじゃ。本願寺の教えの中に観音様など、おらんのにのう」

「いや、観音様も阿弥陀如来様の化身として、ちゃんと本願寺にもおる」

「ほう、阿弥陀如来様の化身か」

「すべての仏様や神様は阿弥陀如来様の化身というわけじゃ」と言うと慶覚坊は部屋に上がって来た。

「蓮誓殿はお元気かな」と風眼坊は聞いた。

「ああ。相変わらずじゃ」

「高田派門徒も消え、富樫幸千代もどこかに逃げてしまい。ようやく、加賀の国も安泰じゃのう」

「だといいんじゃがな。そうも行かんらしい」

「何か、問題でもあるのか」

「ああ。風眼坊、酒はないのか」

「あるが、やるか」

「いや、ちょっと喉が渇いたのでな。一杯、くれんか」

 風眼坊は部屋にあった酒をお椀に注いで慶覚坊に渡した。

 慶覚坊は一息に飲み干した。

「うまいのう。よく冷えておって喉に染みわたるわ」

「確かにのう。ところで問題というのは何じゃ」

「ああ、戦に勝った門徒たちがのう、守護を侮っておるんじゃよ」

「富樫次郎をか」

「ああ。本願寺のお陰で守護になれたくせに威張るな、という風にな」

「まあ、確かにそうじゃのう。次郎は戦らしい戦はせんかったからのう。しかし、守護を敵に回しても勝ち目はないぞ。第一、この前のような大義名分がない。蓮如殿が絶対に許さんじゃろう」

「その通りじゃ。上人様は口が裂けても、守護を倒せとは言わん。上人様が命じなければ、この前のように門徒たちは一つにはまとまらん」

「次郎の方は本願寺とやる気なのか」

「分からん。次郎は戦の前に、加賀の本願寺門徒を保護すると約束した。しかし、幸千代が大勢の門徒らに攻め滅ぼされたのを目の当りに見ておる。このまま、門徒たちを放っておいては、今度は自分の身が危ないと思うのは当然の事じゃろう。今、蓮崇殿が湯涌谷の者を使って野々市に探りを入れておるが、多分、次郎は約束など破る事じゃろう」

「蓮崇殿はもう動き出しておるのか‥‥‥」

「ああ、本人は御山で客の接待をしておるが、裏では、ちゃんと敵の動きを探っておる」

「やるもんじゃのう。もし、次郎が本願寺を攻めて来たらどうするつもりなんじゃ」

 慶覚坊は首を振った。「どうしようもない。上人様が命じない限り、反撃する事はできん。しかし、門徒たちも、ただ、やられておるだけでは済むまい。特に、国人門徒たちは上人様が争い事を禁じても、やらないわけには行かんじゃろう。今度、また戦が始まってしまえば、もう、上人様の力でもどうする事もできなくなるじゃろう」

「そうなったら、どうなるんじゃ。蓮如殿は国人門徒たちを破門にするのか」

「それもできまい。この前の戦で活躍したのは奴らじゃ。奴らのお陰で戦に勝てたという事は誰もが知っておる。それなのに、上人様が奴らを破門にしてしまえば、他の門徒たちにも影響する。その事は上人様が一番よく知っておる。破門という事はありえんじゃろう」

「うーむ、難しいのう」

「野々市の側に善福寺があるんじゃが、そこの住職の順慶(ジュンキョウ)殿は、この間の戦で活躍した定善坊(ジョウゼンボウ)殿の兄上なんじゃよ。定善坊殿は蓮台寺城攻めの時に、少人数を率いて搦手(カラメテ)から攻めて討ち死にしたんじゃ。あの時の戦の功労者といえる男じゃ。すでに、門徒たちの間では英雄に祭り上げられておる。その兄上が野々市の一番近くにおるというのは危険じゃ。また、戦が始まるとすれば、多分、善福寺が中心になるに違いない」

「善福寺の順慶殿か‥‥‥」

「まあ、正月そうそう戦の話はやめておこう。ところで、おぬし、これからどうするつもりなんじゃ」

「そうじゃのう、どうするかのう。実は播磨に行こうと思っておったんじゃがのう」

「播磨? 播磨に何かあるのか」

「ああ、わしの伜が今、播磨におるんじゃ」

「おぬし、播磨にも女を作ったのか」

「違う、播磨におるのは伜だけじゃ」

「ほう、伜だけか。おぬしに、そんな大きな伜がおったのか」

「おお、今年、二十歳になったはずじゃ」

「なに、二十歳か。わしの伜より大きいのう。おぬし、いつの間に、そんな伜を仕込んでおったんじゃ。わしの知っておる女子(オナゴ)か」

「いや、おぬしの知らん女じゃ。熊野の山の中の女でな。わしが飯道山に行く前から、知っておった女子じゃ」

「ほう、そんな女子がおったとはのう。全然、気が付かなかったわ。しかし、熊野で生まれた伜が、どうして播磨なんぞにおる」

「わしが知らんうちに伜にも色々あったらしくてな。二年前、わしは伜を飯道山に送ったんじゃ。この間、甲賀に行った時、久し振りに伜の顔でも見るかと思って飯道山に登ったら、すでにおらんかったというわけじゃ」

「ほう。飯道山に入れたのか。どうじゃ、今の飯道山は相変わらず盛んなのか」

「盛んなんてもんじゃない。毎年、溢れる程の修行者が山に登って来る。わしらがいた頃は来る者は誰でも教えておったが、今では多すぎて、正月の十四日の受付に間に合わなければ入る事はできんのじゃ」

「受付なんてあるのか」

「ああ、それも毎年、五百人近くも集まってのう」

「なに、五百人!」慶覚坊は目を丸くして驚いた。

「ああ、その五百人を一ケ月間の山歩きによって百人位に振り落として、一年間、教えておるんじゃ」

「そうか、そんなにも集まるのか‥‥‥受付は正月の十四日と言ったか」

「ああ、そうじゃ。最近は甲賀や伊賀だけでなく、遠くからも修行者が集まるらしい」

「そうか‥‥‥今、誰か、わしらの知っておる奴がおるのか、あの山に」

「高林坊が総師範をやっておるわ」

「高林坊が? 奴はまだおったのか」

「いや、一度は山を下りて葛城山に帰っておったらしいが、親爺に呼ばれて戻ったらしい」

「親爺か‥‥‥懐かしいのう。親爺はまだ達者か」

「ああ、相変わらず口だけは達者じゃ。年じゃからのう、体の方は昔のようには動かんらしいがの」

「そうか、懐かしいのう‥‥‥わしも伜を飯道山に送るかのう」

「十郎か、うむ、奴はなかなか素質があるから、飯道山で一年、修行すれば見違えるように強くなるかもしれんのう。修行に出せ。まだ、間に合うぞ」

「そうじゃのう。一年間、修行させてみるか」

「そうせい。どうやら、加賀はまだまだ荒れそうだしの。強いに越した事はないわ」

「ところで、おぬしの伜の方は播磨で何をしておるんじゃ」

「それが、よく分からんのじゃ。赤松家を知っておるか」

「ああ、赤松家といえば、応仁の戦が始まる前は北加賀の守護じゃ」

「おお、そうじゃったの。その赤松家の武将になったというんじゃ」

「おぬしの伜がか」

「ああ。話せば長くなるんじゃがの、武士になった事は確からしい。それで、伜の武者振りを見に行こうと思っておったんじゃがのう。もう少しここにいて、様子を見る事にしようかのう。また、戦でも始まれば蓮如殿を守らなけりゃならんからのう」

「そうか。播磨に行くのもいいが、いっその事、医者として、ここに落ち着いたらどうじゃ。この地も住んでしまえば都じゃぞ」

「ああ、分かっておる。話は変わるが、おぬし、伊勢新九郎を覚えておるか」

「ああ、おぬしと同郷の奴じゃろう。覚えておるわ。わしは奴と弓矢の賭けをして、好きな女子を諦めたんじゃ」

「おお、そんな事もあったのう。そう言えば、おぬしと新九郎は、なぜか、女子の好みが似ておったのう。年中、女子の事で喧嘩しておったのう」

「そうじゃ。憎らしい事に弓術と馬術だけは、どうしても奴には勝てなかったわ」

「ああ。奴の弓術と馬術は天下一品じゃ。ガキの頃からうまかったからの」

「奴は今、何をやっておるんじゃ」

 風眼坊は慶覚坊の頭を見て、急に笑いだした。

「どうしたんじゃ」

「いや、なに、新九郎の奴もおぬしのように頭を丸めた事を思い出してな。女子だけじゃなく、やる事も似ておると思ってのう」

「ほう、奴も坊主になったのか」

「坊主といっても、奴は本願寺とは関係ないがの。武士が嫌になったらしい。奴の妹というのが駿河の今川に嫁に行ってな、奴も駿河に下向したらしい。駿河の地で何をやっておるのか知らんが気楽に暮らしておるらしい。わしは一度、行こうと思っておる」

「駿河か‥‥‥新九郎は駿河におるのか」

「ああ」

「そうか、懐かしいのう。飯道山か‥‥‥あの頃は、みんな、若かったのう。わしは伜を飯道山に送る事に決めたわ‥‥‥それじゃあ、わしは帰るわ」

「もう帰るのか」

「ああ。今回はただ、上人様に新年の挨拶をしに来ただけじゃ。山田の方も何かと忙しいのでな。おぬしも、また遊びに来いよ。おぬしの荷物、まだ、あそこにあるがどうする」

「荷物か‥‥‥当分、山伏に戻れそうもないからのう。もう少し預かっておいてくれ」

「ああ。分かった」

 慶覚坊は帰って行った。





 加賀の守護職、富樫次郎政親の本拠地、野々市(ノノイチ)の守護所にも雪は降っていた。

 正月そうそう広間の一室では、次郎の重臣たちが顔を突き合わせて評定(ヒョウジョウ)を重ねていた。去年の十月、宿敵、幸千代を蓮台寺城に倒し、正式に加賀の国の守護職(シュゴシキ)に就いた次郎だったが、守護として、この国をまとめて行くのは難しい事だった。

 加賀の国には幕府の直轄地である御領所や、幕府奉公衆の領地、京や奈良の大寺院の荘園、公家の荘園などがあちこちに散らばっていた。応仁の乱が始まって以来、西軍の幸千代に占領されていたため、それらの荘園の年貢は本所(ホンジョ、領主)のもとには、ほとんど届かなかった。次郎が幸千代を追い出して守護職に就いた途端、野々市の守護所には本所からの使いの者が年貢を送らせるようにしてくれ、と殺到して来た。次郎としては彼らの願いをかなえてやりたいのは山々だったが、実行する事は不可能に近かった。

 荘園の代官となっている国人たちの多くは本願寺の門徒となっていた。門徒たちは守護の言う事など聴く耳を持たなかった。去年の一揆に見事な勝利を納めたため、門徒たちは力を合わせればどんな事でもできる、という事を身を持って知った。門徒たちから見れば、次郎など門徒たちのお陰で守護になったに過ぎない。守護にしてやったのだから、おとなしくしていろ、さもないと、幸千代のようにこの国から追い出してやるぞ、と言葉に出してまでは言わないが、守護の命に従うような事はなかった。

 せっかく加賀一国の守護となった次郎だったが、守護としての使命は果せず、面目は丸潰れだった。いくら、次郎が戦の前に、蓮如と本願寺の事を保護すると約束したとしても、このまま、本願寺の門徒を放っておくわけには行かなかった。このまま好き勝手な事をさせておいたら、まさに、幸千代の二の舞いに成りかねない。本願寺門徒の組織が、今以上に強化されないうちに潰しておかなければならなかった。

「吉崎に攻め込むか」と槻橋(ツキハシ)近江守が言った。

「いや、それはまずい」と山川(ヤマゴウ)三河守が反対した。「吉崎を襲えば、門徒たちは一丸となって、ここに攻め込んで来るじゃろう。今、あれだけの大軍を相手にする程の力は、わしらにはない」

「しかし、一気に吉崎を攻めて、蓮如を殺してしまえばいい。そうすれば、門徒たちも一つにまとまる事はあるまい」

「いや、それは違う。本願寺は武士と違って、お屋形を倒せば勝てるというものではない。門徒たちの中でも国人たちは本気で門徒となっているわけではない。本願寺の組織を利用して、己の領土を拡大しようとたくらんでおるんじゃ。もし、わしらが吉崎を襲撃して、蓮如を殺せば、国人門徒たちは蓮如の弔い合戦と称して、堂々と、ここに攻め寄せて来るじゃろう。敵に大義名分を与えるようなものじゃ」

「しかし‥‥‥」

「三河守殿の言う事は最もな事じゃ」と槻橋豊前守(ブゼンノカミ)が言った。「確かに、あれだけの大軍に囲まれたら幸千代殿の二の舞いじゃ」

 槻橋豊前守は近江守の父親であった。幼少の次郎を助け、応仁の乱の時は守護代として国元を守っていた。今は守護代の地位を息子の近江守に譲り、一応は隠居の形を取ってはいるが、のんびり隠居などしている時勢ではないので、次郎の側に仕えていた。

 山川三河守は槻橋近江守の北加賀守護代に対して、南加賀の守護代だった。元々は、次郎の大叔父の富樫五郎泰高の守護代だったが、五郎が富樫家を一つにまとめるために次郎に家督を譲ったので、次郎に仕え、幸千代を追い出した後、改めて南加賀の守護代となっていた。

「三河守殿、そなたの考えはいかがじゃ」と槻橋豊前守が聞いた。

「はい。わしが思うには門徒たちを一つにまとめてはいかんと思っております。ばらばらにしておいたまま、一つづつ倒して行くのです」

「うむ、一つづつか‥‥‥」

「蓮如は幕府には逆らいません。その証拠に、前回の戦の時、松岡寺が高田派門徒に襲われ、自分の息子が危ないというのに動きませんでした。門徒たちが高田派と戦う事を許しませんでした。お屋形様(次郎)が頼みに行っても無駄でした。ところが、幕府の奉書が届いた途端に、手の平を返すように門徒たちに戦を命じました。蓮如は幕府の言う事には、絶対に逆らわないでしょう」

「うむ。それで」

「幕府を利用して、本願寺の門徒たちを倒して行くのです。まず、幕府の命において、年貢を無事に本所に送らなければ、実力行使に出るという触れを出し、従わない者たちを片っ端から倒して行くのです。蓮如は幕府の命とあれば逆らう事はないでしょう。わしらが国人門徒たちを攻めたとしても、門徒たちに年貢を払えとは言うでしょうが、わしらと戦えとは絶対に言わんでしょう」

「成程、三河守の言うのは最もな事じゃ。確かに、蓮如は幕府には逆らうまい」

「その手で、有力な門徒たちを倒して行くのです。国人門徒たちがいなくなれば、後は人数が多かろうと烏合(ウゴウ)の衆に違いありません。力で押える事もできるでしょう。ただ、本願寺の軍師とも言える下間蓮崇(シモツマレンソウ)は何とかしなければなりません」

「蓮崇か‥‥‥奴は曲者じゃ」と本折越前守が言った。

「蓮崇というのは越前の一乗谷にいた頃、よく来ていたあの坊主か」と豊前守が聞いた。

「そうです」と三河守は頷いた。

「あの坊主が曲者のようには見えんがのう」

「なかなかの男です。蓮崇は今、吉崎において一番の力を持っております。蓮如にも信頼され、なかなか羽振りもいいようです。それに、この前の蓮台寺城総攻撃の作戦を練ったのが、あの蓮崇です」

「なに、あの奇抜な松明(タイマツ)作戦をか」

「はい」

「うーむ。あれを奴がのう」

「あの戦の最中、大量な武器の調達もしております。敵にしておくのは勿体ない程の男です」

「生かしておくわけには行かんのう」と本折越前守は言った。

「できれば、寝返らせたい男じゃがのう」と三河守は言う。

「甘いわ。奴は根っからの本願寺門徒じゃ。寝返る事などあるまい」

「いや、ところが、以外にも、奴は武士というものに憧れているところがあるらしい」

「なに?」

「奴が朝倉殿の猶子(ユウシ)となっておるのは皆、存じておろうが、それだけではない。奴の本拠地は湯涌谷にあるんじゃが、湯涌谷にある奴の屋敷は、本願寺の道場というより武家屋敷そのものじゃ。本願寺には、蓮如が坊主も門徒も皆、同朋(ドウボウ)じゃと教えているため、他の宗派のように坊主たちに位はない。蓮崇は蓮如の執事という立場にあるが、他の坊主たちよりも偉いというわけではない。当然、本願寺の寺にしろ、道場にしろ、上段の間というものはない。たとえ、蓮如上人であろうとも門徒たちと同じ高さの床に坐り説教をする。ところが、湯涌谷の蓮崇の屋敷には上段の間があるんじゃ。奴はきっと、湯涌谷では蓮如の教えに背き、上段の間から門徒たちを説教しているに違いない。蓮崇は蓮如に忠実でいながら、心の中では自分が偉いというところを人に見せたいに違いない。うまくやれば、奴は寝返るかもしれん、とわしは思う」

「何か、策はあるのか」と豊前守は聞いた。

「奴を罠(ワナ)にかけて、本願寺から破門させようと思っております」

「破門か‥‥‥そう、うまく行くかのう」

「うまく行かなければ消すまでです。蓮崇一人位消す事など、いつでもできます」

「そうじゃのう。まあ、蓮崇の事はそなたに任せるとして、本願寺の有力門徒というのは、調べがついたのか」

「はい」と近江守が返事をして、河北(カホク)郡と石川郡の本願寺有力門徒の名前を挙げた。その後、三河守が、能美(ノミ)郡と江沼郡の有力門徒を挙げた。

 河北郡の有力門徒は、二俣本泉寺、鳥越弘願寺(グガンジ)、英田(アガタ)広済寺、木越(キゴシ)光徳寺、磯部聖安寺の五ケ寺。河北郡の門徒のほとんどをこの五ケ寺が押さえ、河北郡には、これといって目立つ国人門徒はいなかった。その中の木越光徳寺乗誓(ジョウセイ)の妻は槻橋近江守の姉だった。近江守の父、豊前守は当時から、一勢力を持っていた光徳寺を味方に付けようと娘を嫁に出したわけだったが、まさか、こんな形で敵対する事になろうとは思ってもいなかった。

 石川郡の有力門徒は、宮腰迎西寺(ミヤノコシギョウサイジ)、吉藤(ヨシフジ)専光寺、大桑善福寺、松任(マットウ)本誓寺の四ケ寺と、国人門徒として手取川流域の安吉(ヤスヨシ)源左衛門、湯涌谷(ユワクダニ)の石黒孫左衛門、木目谷(キメダニ)の高橋新左衛門の三人が力を持っていた。

 特に、安吉源左衛門は手取川流域に広い土地を持ち、また、手取川で運送業を営む河原者たちまで支配下に置き、かなりの勢力を持っていた。そして、その源左衛門は山川三河守の妹の婿でもあった。元々、源左衛門は北加賀の守護となった富樫次郎成春(シゲハル)の被官だった。ところが、成春は長禄二年(一四五八年)に守護職を解任された。源左衛門は成春と行動を共にしなかった。源左衛門はたちまち南加賀の守護、富樫五郎泰高に鞍替えし、成春に代わって守護となった赤松氏に協力した。

 源左衛門の支配する土地が手取川を挟んで両側にあるため、北加賀でも南加賀でも、自分の都合のいい方を選んだのだった。その頃、源左衛門は五郎泰高の守護代だった山川近江守の妹を嫁に貰った。近江守としては、手取川を押える源左衛門をしっかりと味方につなぎ止めて置きたかったのだった。その後、次郎政親と幸千代が争い始めた時には、また寝返って幸千代方となった。幸千代方にいたといっても自分が不利になる戦はしなかった。加賀の国の混乱をいい事に、着実に自分の勢力を広げて行った。そして、蓮如が吉崎に来て本願寺が栄えると、迷う事なく門徒となって、益々、勢力を広げたのであった。

 次に能美郡の有力門徒は、波佐谷(ハサダニ)松岡寺、波倉(ナミクラ)本蓮寺、鵜川(ウカワ)浄徳寺、大杉円光寺の四ケ寺と、国人門徒として、板津(小松市)の蛭川(ヒルカワ)新七郎、山上(辰口町)の中川三郎左衛門、大杉谷川の宇津呂備前守。

 江沼郡では、山田光教寺門徒の洲崎(スノザキ)藤右衛門(慶覚坊)、弓波(イナミ)勝光寺門徒の庄(ショウ)四郎五郎、河崎専称寺門徒の黒瀬藤兵衛、黒崎称名寺門徒の黒崎源五郎、荻生(オギウ)願成寺(ガンショウジ)門徒の熊坂願生坊、柴山潟の舟乗りたちを率いる柴山八郎左衛門。

 それに、越前の藤島超勝寺と和田本覚寺が加わり、以上が本願寺の有力門徒といえた。

「とりあえず、雪が溶けるまではどうにもならん。今の内に本願寺方の出方をよく調べる事じゃな。本願寺の門徒すべてが、わしらに敵対しているわけではあるまい。どうしても倒さなければならん奴だけ倒せばいい。無益な争いは避けるべきじゃ」

 槻橋豊前守がそう言うと、評定はお開きとなった。それぞれ、自分の守る城へと帰って行った。





 守護所の隣に建つ屋敷の奥の間では、富樫家の当主、次郎政親が女を抱きながら、つまらなそうに酒を飲んでいた。

 ここ、野々市の守護所は代々、富樫家の本拠地だった。しかし、当主が常にここにいたわけではない。当主は京の将軍の側にいる事が多く、この守護所には守護代が入って国元の事を取り仕切っていた。

 次郎は京の屋敷で生まれた。父、成春は北加賀の守護職に就いていた。しかし、次郎が四歳になった時、父親は荘園を横領した罪によって守護職を解任された。翌年、弟の幸千代が生まれた。次郎は幸千代と共に京の富樫屋敷において成長した。

 父親、成春は守護職を解任されたが、細川勝元と対抗していた山名宗全と手を結んで加賀の国に赴き、新たに北加賀の守護職に就いた赤松氏が北加賀に入部するのを妨害していた。成春は北加賀の国人衆を率いて抵抗を重ねたが、結局は越中の国に追いやられ、亡命中に亡くなってしまった。まだ、三十歳の若さで、当時、次郎は八歳だった。

 成春が亡くなった事により、宗全は成春の嫡男、次郎を担ぎあげて赤松氏に対抗した。ところが、二年後、勝元は南加賀の守護、五郎泰高を隠居させ、次郎をその跡継ぎにしてしまった。勝元としては、分裂したままの富樫家を一つにまとめ、加賀の国を南北共に自らの勢力範囲としたかったのだった。富樫家も一本にまとまり、加賀の国も安定したかのように見えたが、宗全は簡単に引き下がらず、次郎の弟、幸千代を北加賀に送り込み、また富樫家を分裂させてしまった。そして、応仁の乱となり、赤松氏が播磨に戻って北加賀から消えると、幸千代は北加賀を占領し、勢いに乗って南加賀までも侵入して来た。

 当時、次郎は東軍の将として京にいて西軍と戦っていた。国元の危機を知っても、近江の六角氏、越前の斯波氏が西軍に就いているため、加賀に入るのは難しかった。

 文明三年(一四七一年)になって越前の朝倉氏が東軍に寝返ったため、次郎はようやく、加賀に入部した。次郎、十七歳の夏、生まれて初めて領国の加賀に入ったのだった。しかし、すんなりと入れたわけではなかった。すでに、南加賀の中心地、軽海(カルミ)の守護所は幸千代軍に占領され、次郎の守護代、槻橋豊前守は白山山麓の山之内庄に立て籠もっていた。次郎は守護代の豊前守と共に軽海を攻めて幸千代を追い出し、何とか、守護所に入る事はできた。

 京の屋敷は戦によって焼け落ち、ようやく、守護所内の屋敷に落ち着く事ができた次郎だったが、僅か、一年余りの滞在で、幸千代に攻められ、その屋敷から追い出されて、山之内庄の別宮(ベツグウ)城に立て籠もる事となった。そして、山の中の暮らしにも何とか慣れて来たと思ったら、また、幸千代に攻められて、今度は朝倉の本拠地である越前一乗谷に落ち着いた。

 一乗谷では新しい屋敷まで作ってもらい、戦の事も忘れ、毎日、楽しく暮らしていた。次郎としては、もう加賀なんかに戻らずに、ずっと、ここで暮らしたいと思っていたのに、やはり、ここも一年程、滞在しただけで、今度は北加賀の野々市の守護所へと移動して来た。野々市は富樫氏の本拠地には違いなかったが、次郎には馴染めなかった。どうせ、この地にも一年程いたら、また、どこかに行く事になるのだろうと次郎は思っていた。

 次郎は薄暗い奥の間で、火鉢(ヒバチ)を抱くようにして、左右に美女二人をはべらして酒を飲んでいた。二人の美女はつまらなそうにしている次郎の機嫌を取ろうとニコニコしながら、次郎の巨体にもたれていた。

 守護所内に建てられた、この屋敷はやたらと広いが造りは古く、住み心地はよくなかった。まして、冬になって雪が降り始めると寒くて溜まらなかった。朝倉弾正左衛門尉が造ってくれた一乗谷の屋敷とは比べ物にならない程、お粗末な建物だった。せっかく、加賀の国の守護職に就いたのに、こんな屋敷に住んでいるのは情けなかった。国を一つにまとめるには、まず、国内の国人たちを『あっ!』と言わせる程、贅沢な屋敷を造らなければならないと思った。次郎は守護代の槻橋近江守に新屋敷を造るように命じたが、雪が溶けるまではどうにもならなかった。

 この屋敷は、次郎が入るまでは幸千代の守護代、小杉但馬守が住んでいた。但馬守は本願寺門徒に攻められると、ろくに戦もしないで、兵をまとめて南加賀の蓮台寺城へと引き上げて行った。但馬守としては、この守護所において、せめて一月でも戦い続け、河北郡の門徒たちをこの場に引き付けておきたかった。しかし、肝心の兵糧米が底をついていた。

 一昨年の状況では、ここが戦場になる可能性は極めて薄かった。次郎は越前にいるし、戦場となるのは南加賀だった。そこで、余分な兵糧米はすべて蓮台寺城に送ってあった。ところが、本願寺が戦に参加すると北加賀も戦場と化し、本願寺門徒たちに攻められ、寺院を焼かれた高田派門徒や幸千代方の郷士たちが皆、この守護所に逃げ込んで来た。蔵にあった兵糧米は、あっという間に減って行き、本願寺門徒がここを攻めて来た時には、ほとんど空になっていた。但馬守は仕方なく、守護所を捨てて蓮台寺城へと向かった。

 逃げるに当たって守護所に火を掛けなかったのは、蓮台寺城において戦に勝利し、また戻って来る事を確信していたからだった。ところが、但馬守は蓮台寺城から逃げ出す事はできたが発見されて切腹、二度とこの地の土は踏めなかった。但馬守が無傷のまま守護所を残してくれたお陰で、次郎はかつて、父親の成春も来た事のある、ここに入る事ができた。それでも、次郎は不満だった。

 不満は屋敷の事だけではなかった。京の都のように賑やかな一乗谷に一年近くもいたので、ここ、野々市での暮らしはまったく面白くなかった。一応、野々市も加賀の中心といえる都だったが、何もかもが一乗谷より遅れていた。まず、娯楽というものが少なかった。一乗谷のように公家もいないし、一流の芸人もいない。絵を描きたくても絵師はいないし、剣術を習いたくても兵法者(ヒョウホウモノ)はいない。曲舞(クセマイ)を見たくても芸能一座はいないし、鷹狩りをしたくても鷹はいない。お茶会をしたくてもお茶はないし、連歌会をしたくても連歌師もいない。ない物だらけだった。

 そのない物だらけの中、お雪がいないのが一番辛い事だった。お雪さえいれば他の物などなくても我慢する事はできた。現に山之内庄のような山の中で一年間もやって行けたのは側にお雪がいたからだった。そのお雪はどこに行ったのか、急に消えてしまった。

 次郎がお雪と初めて会ったのは軽海の守護所にいた時だった。

 桜が満開に咲き誇る頃、笛の音に誘われて、次郎は八幡神社の境内に入った。お雪は桜の花の下で笛を吹いていた。一目見た途端、次郎はお雪の虜になった。しかし、その日は声を掛ける事もなく、ただ、お雪が笛を吹いているのを遠くから眺めているだけだった。次の日、次郎はまた、お雪が八幡神社に来て笛を吹く事を期待して行ってみたが、お雪は現れなかった。次の日も、次の日も、お雪は現れない。次郎は初めて、お雪を見た時、一緒にいた供の者にお雪を捜させた。町中を捜させたがお雪の姿は見つからなかった。

 もしかしたら、あれは幻だったのかと諦めかけていた頃、再び、あの時の笛の音を耳にした。笛の音はまた、八幡神社の方から聞こえて来た。次郎は飛ぶような速さで神社に駈けつけた。側まで行き、お雪の笛を聞き、そして、声を掛けた。

 それから、一月後、お雪は次郎の屋敷に入って側室となった。

 次郎は、お雪のために新しい屋敷を建てようとしたが、その屋敷が完成しないうちに幸千代に攻められ、山之内庄へと逃げた。山之内庄で一年近く、お雪と共に過ごし、一乗谷でも一年近く、共に過ごした。

 次郎の回りには正妻を初め、常に何人もの女がいたが、お雪は他の女とはまったく違っていた。口数が少なく、滅多に笑う事もない。自分に媚びる女たちの中で、決して媚びる事のないお雪の存在は異彩だった。

 次郎は何に関しても飽きっぽく、女にしてもそうだった。新しい女にはすぐ夢中になって飛び付き、最初のうちは常に側に置くが、一月もしない内に、必ず、違う女に目が移る。お雪の場合も初めはそうだった。普通の女は大低、飽きた後は捨てられるだけだったが、お雪の場合は違った。笛が吹けるという事もあったが、ただの肉体としてだけの女ではなく、お雪は次郎のいい話相手としての存在が大きかった。

 幼い頃より殿様として育てられているため、回りにいる連中は皆、自分に媚びる奴ばかりだった。そんな中で、お雪は絶対に次郎に媚びる事なく、思った事を率直に口に出した。初めの頃は生意気な女だと何度も腹を立てた次郎だったが、だんだんとお雪の存在はなくてはならないものとなって行った。

 お雪は自分でも笛を吹いているため、芸事もよく理解し、次郎が舞いの稽古をしたり、絵を描いたりしても、ちゃんとした意見を言ってくれた。他の女たちは、ただ誉めるだけだったが、お雪は色々と批判してくれた。時にはきつい事を言って次郎を怒らせる事もあるが、後になって考えてみるとお雪の言う事は大低、正しかった。あんな女は滅多にいない。それなのに、突然、姿を隠してしまった。

 次郎は平泉寺の山伏を使って捜させたが、どこに行ったのか、まったく分からなかった。お雪がいてくれれば、こんな所にいても楽しいのだが、他の女が何人いても面白くも何ともなかった。

 次郎は酒盃(サカヅキ)の酒を飲み干すと右隣にいる女の前に差し出した。女は色っぽい仕草で酒を注いだ。

「つまらんのう」と次郎はこぼした。「何ぞ、面白い事はないのか」

「お殿様、双六(スゴロク)でもなさりますか」と左側の女が次郎の膝を撫でながら言った。

「つまらん」

「それでは‥‥‥」

「もう、いい。それより、お前らも飲め。飲んで酔え」

「ささ(酒)など、そんな、飲めません」

「いいから、飲め」

 次郎は酒の入った酒盃を左側の女の口元に運んで、無理やり飲ませた。

「お殿様、そんな、ご無理な‥‥‥」と言いながらも女は酒を一息に飲み干した。

 次郎は右側の女にも飲ませ、「そうじゃ、飲み比べじゃ。どっちが強いか、やってみろ」と言った。

「そんな事、お殿様、とても‥‥‥」

「嫌じゃと申すか」と次郎は二人の女を見比べた。

「いえ、決して、そのような‥‥‥」

「はい、お殿様の申すように‥‥‥」

 お雪だったら絶対に断っただろうに、と思いながら次郎は二人を見ていた。

 二人は交互に酒を飲み始めた。

「ただ、飲むだけじゃつまらん」と次郎はお膳の上に置いてある箸を一本取ると、それを立てて、「いいか、この箸が倒れた方の者が酒を飲め」と言った。

「そんな‥‥‥」

「嫌か」

 二人の女は黙って、次郎の言うがままだった。

「酒を飲まん方もただ見ておるだけではつまらん。酒を飲まん方は一枚づつ、着物を脱いでいけ」

 二人の女はまた、「そんな‥‥‥」と言ったが嫌とは言わなかった。

 二人の女は寒い中、着物を一枚づつ脱ぎながら酒を飲んで行った。

 次郎がわざと箸を傾けたりして、いかさまをしても、女たちは文句も言わず、次郎の思うままだった。次郎の思惑通りに二人の女は酔っ払い、着物をすべて剥がされた。酔わされ、素っ裸にされても、二人の女はなお、次郎に媚びていた。

「つまらん」と次郎は言うと二人の女に見向きもせずに部屋から出て行った。

 外は静かに雪が降っていた。





 雪の散らつく中、五騎の武士が野々市の城下から鶴来(ツルギ)街道を南に向かっていた。

 山川(ヤマゴウ)三河守と供の者たちであった。軽海の守護所に帰るところだったが、途中、義弟の安吉源左衛門の屋敷に寄るつもりでいた。

 三河守の山川家は代々、富樫家の守護代を勤める重臣だった。祖父の代より富樫次郎の大叔父である富樫五郎泰高の守護代だった。祖父の山川筑後守(チクゴノカミ)は泰高のために、泰高に敵対する兄の刑部大輔(ギョウブノタイフ)教家を支援していた時の管領(カンレイ)、畠山左衛門督(サエモンノカミ)持国を襲撃しようとして失敗し、切腹して果てた。その後、父の近江守が守護代を継ぎ、父が隠居した後、三河守が跡を継いで、泰高を助けて教家と戦って来た。ところが、泰高が隠居して教家の孫の次郎政親がその跡を継ぐと、三河守は守護代の地位を槻橋(ツキハシ)豊前守に奪われてしまった。三河守は次郎に仕える事となり、ついこの間、幸千代を追い出し、次郎がようやく加賀一国の守護職に就くと、再び、南加賀の守護代に復帰する事ができた。

 富樫家が兄弟で家督を争うのは今に始まったわけではなかった。

 加賀国内に幕府の御領所や、幕府に関係のある大寺院の荘園が数多くあるため、加賀の守護職の富樫家は常に幕府内の勢力争いに関係せざるを得ない立場にあった。初めて冨樫氏が加賀守護職に就いたのは、次郎政親より六代前の富樫介(トガシノスケ)高家だった。高家は足利尊氏のもとで活躍して、加賀の守護職を手に入れた。その後、三代続くが、三代目の富樫介昌家が亡くなると、守護職は富樫氏に継承されず、時の管領、斯波(シバ)治部大輔義将の弟、伊予守義種に与えられた。幕府内の細川氏と斯波氏の勢力争いの結果、細川右馬頭(ウマノカミ)頼之が敗れたため、富樫氏も失脚する事となった。斯波義将は越前、越中、能登、若狭の守護を兼ね、北陸の地をすべて自分の勢力範囲にするため、弟を加賀の守護に任命したのだった。

 富樫氏が再び加賀の守護職を手に入れたのは、それから二十七年後の応永二十一年(一四一四年)だった。斯波伊予守義種が将軍義持の怒りに触れ失脚し、南半国の守護に富樫昌家の甥、富樫介満春が任命され、北半国の守護には富樫家の庶流の兵部大輔満成が任命された。

 満成は将軍義持に近侍し、幕府内に勢力を広げて行ったが、四年後、調子に乗り過ぎて失脚し、北加賀の守護職も富樫介満春に与えられ、ようやく、加賀一国の守護となる事ができた。この時より、満春の北加賀の守護代として領国を支配していたのが三河守の祖父、山川筑後守であった。

 満春亡き後は、嫡子の持春が十五歳で家督を継ぐが、持春は二十一歳の若さで亡くなってしまった。持春には嫡子がなかったため、当時、奉公衆として将軍義教に近侍していた一歳年下の弟、刑部大輔教家が跡を継ぐ事となった。それから、八年間は富樫家も無事に領国を治めていたが、嘉吉元年(一四四一年)、突然、教家は恐怖の将軍と恐れられていた義教の怒りに触れて、守護の座も剥奪され、蓄電してしまった。

 富樫家の重臣たちは慌てて、時の管領、細川右京大夫持之と相談し、当時、出家していた教家の弟を還俗(ゲンゾク)させ、五郎泰高と名乗らせて跡を継がせた。ところが、六日後、将軍義教は赤松性具(ショウグ)入道(満祐)によって暗殺されてしまった。

 管領細川持之は混乱した状況を静めるために、今まで、義教によって追放された数多くの者たちの復帰を許した。さっそく、蓄電していた教家は戻って来て、守護職返還を求めた。しかし、持之としても、教家の弟、泰高をわさわざ還俗させてまで守護に任命した手前、教家の願いをすぐに聞き入れるわけには行かなかった。そんな教家に力を貸したのが細川持之と対立する畠山持国だった。

 畠山持国も義教に家督を奪われて追放されていた身だったが、上洛するとすぐに畠山家の家督を取り戻した。畠山家の支援を得た教家は実力を持って守護職を取り戻そうと、家臣の本折(モトオリ)但馬守を加賀に討ち入らせた。教家が畠山持国と結んだ事により、細川持之は泰高を応援し、加賀国内で家督相続の争いが始まった。

 決着が着かないまま一年が過ぎ、細川持之が亡くなり、畠山持国が管領になると改めて、加賀守護職に教家の嫡男、次郎成春がわずか十歳で任命された。後ろ盾を失った泰高は敗れ、泰高の守護代だった山川筑後守は京に逃げ帰ると管領、畠山持国を襲撃する事を計画した。しかし、事は露見し、京の都で戦にまで発展するところだったが、山川筑後守他四名が切腹する事によって、ようやく騒ぎも治まった。

 畠山持国に対抗するため、持之の嫡男、細川勝元は山名持豊(宗全)と手を結んで勢力を強め、文安二年(一四四五年)、管領となった。勝元は泰高を支持し、教家父子の追討を命じた。この時、泰高の守護代として活躍したのが三河守の父親、山川近江守であった。越前守護の斯波氏の力も借り、泰高は教家父子を越中に追い払った。しかし、教家も完敗したわけではなく、畠山持国の支援のもと、たびたび加賀入国を企てていた。

 そして、文安四年(一四四七年)の和解案によって、北加賀の守護として富樫次郎成春、南加賀の守護として富樫五郎泰高というふうに決定した。成春の守護代として本折但馬守、泰高の守護代として山川近江守が国内をまとめるために、それぞれの守護所に入った。

 当時、三河守は十八歳で、父と共に軽海の守護所に入り、父の補佐をしていた。

 やがて、成春の後ろ盾となっていた畠山持国が亡くなり、畠山家が分裂し、幕府内での勢力が弱まると成春は守護職を剥奪され、代わりに細川勝元派の赤松政則に与えられた。

 そして、勝元は富樫家を一本にまとめるため、泰高を隠居させ、成春の嫡男、当時、十歳だった次郎政親を家督とした。次郎が家督を継ぐ事によって、父親の跡を継いで守護代となっていた三河守は守護代の地位を奪われ、次郎に近侍していた槻橋豊前守が守護代となった。

 三河守は家族を連れて京に赴き、次郎政親及び五郎泰高の近辺に仕える事となった。代々、守護代の地位を継いでいた山川家は、三河守の代で守護代の地位を奪われる事となってしまった。

 ようやく、加賀の国は細川勝元の勢力範囲になったかに見えたが、赤松氏の入国を拒む北加賀の国人たちは勝元と敵対している山名宗全と結び、次郎の弟、幸千代を立てて反抗して行った。以前、手を組んでいた勝元と宗全は幕府内の一大勢力だった畠山氏の勢力が弱まった事により、互いに敵対して行くようになって行った。勝元は宗全の勢力を弱めるため、赤松家を再興させ、やがては、赤松氏を宗全の領地となっている播磨の国に潜入させようとたくらんでいる。

 幕府内の細川氏と畠山氏の争いが、教家と泰高の兄弟による争いとなり、今度は、細川氏と山名氏の争いが、次郎と幸千代の兄弟の争いとなって行った。常に、幕府内の勢力争いが加賀の国を巡って行なわれていたのであった。

 父親も亡くなり、守護代の地位を奪われてから十年が経ち、ようやく、三河守は南加賀の守護代に返り咲く事ができ、本願寺を相手に戦う事となった。本願寺の内部事情を探るためと義弟をもう一度、富樫家の被官にするため、今、久し振りに源左衛門を訪ねているのだった。

 山川三河守は安吉源左衛門の屋敷に着くと、広間の奥にある書院の一室に案内された。ここに来たのは二年半振りだった。屋敷は変わっていなかったが、庭の片隅に新しい建物が建ち、そこから念仏が聞こえ、百姓や河原者たちの往来が激しかった。そして、遠侍(トオザムライ)には人相の悪い浪人風の男たちがゴロゴロしていた。

 二年半前、三河守は軽海の守護所にいた。源左衛門が本願寺の門徒になったと聞き、信じられず、慌ててやって来たのだった。源左衛門から理由を聞くと、「わしは、もう、武士がつくづく嫌になった。これからは本願寺の坊主となって、下々の者たちと共に念仏を唱えて生きて行く事にする」と言った。

 坊主になったといっても髪を剃って出家したわけではなかった。いつもと同じ格好をしている。源左衛門は本願寺の事を詳しく説明して三河守に聞かせたが、三河守には信じられなかった。

「武士という者が信じられん」と源左衛門は言った。「わしら国人は生きて行くために、常に強い者に付いて行かなければならん。誰に何と言われようとも、生きて行くためには強い者に付かなければならんのじゃ。もし、負ければ先祖代々、守って来た、この土地を手放さなくてはならん。わしだけなら構わんが、わしには代々、仕えている家来が大勢おる。奴らを路頭に迷わすわけにはいかんのじゃ。どうして、この国は一つにまとまらんのじゃ。一つの国を北と南に分けて争いを続けるんじゃ。わしは一体、どっちに付いたらいいんじゃ」

 当時、手取川の主流は現在よりも北を流れ、丁度、源左衛門の領地である安吉の地を南北に二つに分け、小川町の辺りから日本海に流れ出ていた。さらに、手取川の支流が何本も分かれて流れ、広い石ころだらけの河原が一面に続いている。石川郡の地名は、この手取川の河原から付けられたものだった。そして、この手取川の流れによって加賀の国は北と南の二つに分けられていた。源左衛門の領地は北加賀と南加賀にまたがっていたのだった。

「わしは初め、北加賀の刑部大輔殿(教家)の被官となった。しかし、おぬしと会い、寝返って富樫介殿(泰高)の被官となった。応仁の戦が始まると、また寝返って、幸千代殿の被官となった」

「どうして、寝返ったんじゃ」と、その時、三河守は聞いた。

「おぬしや親父殿が守護代だった頃はよかった。しかし、富樫介殿が隠居して、次郎殿が守護になってから守護代になった槻橋豊前守は、わしは好かん。奴は長坂九郎右衛門を突然、襲撃して殺しやがった。九郎右衛門は殺される前の日、わしに相談しに来たんじゃ。幸千代殿から以前の領地をそのまま与えるから寝返らないかと誘いが来たが、どうしたらいいだろうってな‥‥‥奴の領地は北加賀にある。たまたま、富樫介殿に付いていたため幕府の勝手な命によって北加賀には帰れなくなってしまった。幸千代殿から、そんな誘いを受ければ誰でも迷う。まして、次郎殿は京にいて加賀の国では圧倒的に幸千代殿の方が有利じゃ。迷うなと言う方が無理と言うものじゃ。しかし、九郎右衛門は富樫介殿に恩があると言って寝返りはせんとはっきり言ったのじゃ。ところが、豊前守の奴は九郎右衛門を殺しやがった‥‥‥はっきり言って、わしは軽海の守護所を攻め、豊前守を殺してやろうと思った。しかし、そんな事をしたら家来たちを見捨てる事となってしまうので、わしは諦めて、幸千代殿方に寝返ったんじゃ」

 源左衛門の言った長坂九郎右衛門というのは、お雪の父親の事だった。

 源左衛門が幸千代方に寝返った後、富樫次郎は加賀に入部して来て、幸千代方を南加賀から追い出した。その時、三河守も加賀に入国して来て、久し振りに源左衛門を訪ねて来た。三年半前の事だった。その時、源左衛門は幸千代に寝返った事は口に出さなかった。ただ、懐かしく昔話をしただけだった。

「どうして、本願寺の門徒になったんじゃ」と三河守は聞いた。

「武士が嫌になったからじゃ」と源左衛門は言った。

「もう、わしは北に機嫌を取ったり、南に機嫌を取ったりするのが嫌になったのじゃ。わしは、この手取川の流域に北加賀でも南加賀でもない、浄土を築く事に決めたんじゃ」

 二年半前、三河守は源左衛門から本願寺の教えを色々と聞かされて、その日は別れた。日を改めて源左衛門を説得しに来ようと思ったが、また、幸千代に攻撃され、山之内庄に逃げ込み、さらに、越前の一乗谷まで逃げる事となり、今日まで訪ねて来る事ができなかったのだった。

 庭に面した書院の一室で待っていた三河守のもとに、まず、現れたのは妹のお駒だった。一見したところ、どうやら幸せそうにやっているようなので三河守は安心した。

「兄上様、お久しゅうございます」とお駒は頭を下げた。

「やあ、久しいのう。達者なようじゃの」

「新年、おめでとうございます」とお駒はもう一度、頭を下げた。

「おお、そうじゃ。おめでとう。御亭主殿は相変わらずか」

「はい、お陰様で‥‥‥今、主人は門徒さんたちと念仏を上げておりますので、もう少し、お待ち下さい」

「念仏か‥‥‥」

「はい。主人は本願寺の門徒になってからというもの、何となく、人が変わったような気がします」

「人が変わった?」

「はい。なぜか、以前のように怒りっぽくなくなりました」

「ほう、穏やかになったと申すか」

「はい。武士だった頃は色々と気を使っていたようですが、武士をやめてからは、小さな事に一々、こだわらなくなりました」

「武士をやめた?」

「はい」

「武士をやめて、今は何なんじゃ」

「今は、本願寺の道場のお坊様です」

「お坊様か‥‥‥わしには今でも信じられんわ」

 三河守は妹としばらく、妹の子供の事などを話していた。

 源左衛門が現れたのは、四半時(シハントキ、三十分)程、経ってからだった。

 源左衛門の格好は妹の言う通り、武士の格好ではなかった。かといって坊主でもない。それは河原者の格好だった。毛皮の袖無しを着て革袴(カワバカマ)をはいていた。無精髭も伸ばしっ放しで、見るからに河原者の親玉という感じだった。

 お駒は源左衛門が来ると下がって行った。

 三河守と源左衛門はお互いに挨拶を済ますと、ただ向かいあって坐ったまま、お互いを見ていた。

 しばらく、沈黙が続いた。

 三河守と源左衛門は同い年だった。二人共、すでに四十六歳になっていた。人から、とやかく言われたからといって、生き方を変えられるような年ではなかった。初めて会った二十代の時とは二人とも考えが変わっていた。三河守は目の前の源左衛門を見て、富樫次郎の被官になってもらう事は諦めていた。

「今回、ここに来たのは本願寺の門徒としてのおぬしに会いに来たのじゃ」と三河守は言った。

「さようでござるか」と源左衛門は伸びた髭を撫でながら言った。

「今回、わしは南加賀の守護代となり、軽海に入る事となった」

「なに、おぬしが守護代に」

「そうじゃ。ようやく、復帰できたというわけじゃ」

「槻橋豊前守はどうした」

「隠居した。隠居して、伜の近江守が北加賀の守護代となった」

「伜か‥‥‥伜が北加賀の守護代か‥‥‥」

「ああ、そうじゃ‥‥‥わしはのう、何とか本願寺とうまくやって行きたいと思っておるんじゃ」

「槻橋近江守は、そうは思っておらんじゃろう」

「ああ。確かに奴は主戦派じゃ。しかし、今は争い事をしておる時ではない。加賀の国は何年もの間、戦いに明け暮れ、皆、疲れ切っておる。今は争う時期ではなく、守護と本願寺が協力して、この国を建て直さなければならん時期じゃ、とわしは思う。この国は幕府との結び付きが強すぎる。いつも、幕府内での勢力争いが、この地で行なわれておる。それは、いつも、この国に隙があるからじゃ。この先、守護と本願寺が争いを始めたら、また幕府は介入して来るじゃろう。幕府が介入して来れば、いくら、わしらが戦をやめようと思ってもやめる事はできん。言ってみれば、次郎殿も幸千代殿も右京大夫殿(細川勝元)と宗全入道殿(山名)の勢力争いに利用されただけじゃと言える。二人共、戦の原因を作っておきながら、すでに、この世におらん。未だに東軍だの西軍だのと言っておるが、二人の亡霊に踊らされておるようなものじゃ」

「おぬしが軽海に入ったのなら、うまく行くかも知れんのう」と源左衛門は言った。

「蓮如殿のお考えは、どうなんじゃ」と三河守は聞いた。

「上人様は、守護の命には服せ、とおっしゃる」

「やはり、そうか」

「ただ、百姓たちは以前とは違う。頭ごなしに命じれば、多分、反抗して来るじゃろう。この間の戦で門徒たちは力を合わせれば何でもできるという事を自覚しておる。そんな事は二度とないとは思うが、もし、上人様が守護を倒せと命じれば、幸千代殿のように次郎殿も門徒たちに敗れる事となろう」

「分かっておる。その事を皆、恐れておるんじゃ」

「武力を持って百姓たちを押えようとするな。必ず、仕返しを食う事となるぞ」

「おぬし、威しておるのか」

「いや。まあ、おぬしの守護代振りを拝見させてもらうわ」

「協力はしてくれんのか」

「まず、おぬしのやり方を見てからじゃ」

「ふん。相変わらずじゃのう」

「まあ、堅い事はこれ位にして、久し振りじゃ。今日はゆっくりして行ってくれ。今日は、守護代としてではなく兄上として歓迎する。お駒の奴も積もる話がある事じゃろうからのう」

 源左衛門はそう言うと、三河守を居間の方に案内した。
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