忍者ブログ
陰流の開祖であり、忍びの術の開祖でもある愛洲移香斎の物語です。
25.岩尾山






 太郎と楓はようやく、飯道山に戻って来た。

 やはり、懐かしかった。

 楓はもう二度と、ここには戻れないだろうと覚悟を決めて、五ケ所浦に向かった。それが今、こうして戻って来ている。

 楓にとって、ここは、やはり故郷だった。飯道山の大鳥居があり、北畠氏の多気とは比べものにならないが、小さな市が立ち、茶店や旅籠屋が並んでいる。子供の頃、よく遊んだ小川には、すみれやタンポポの花が咲いていた。

 二人はまず、花養院の松恵尼のもとに挨拶に行った。

 黄昏時で人影もない花養院の庭に、牡丹の花と芍薬の花が見事に咲いていた。

「あら、まあ、随分と、ごゆっくりだったわね」と松恵尼は二人を迎えると笑いながら言った。

 一年間、留守にしているうちに、花養院の雰囲気がどことなく変わっているのに楓は気づいていた。以前は松恵尼の他、尼僧は一人か二人しかいなかったのに、ちょっと見たところ四、五人はいるようだった。

「百地殿の所にいたんですって」と松恵尼は知っていた。

「えっ? どうして御存じなんですか」と楓は驚いた。

「わざわざ、百地殿が使いをよこして知らせてくれたのよ」

「そうだったんですか」

 楓は百地弥五郎の家で、お祐に会った事や栄意坊の事など松恵尼に話した。太郎が口を出す間はなかった。太郎は楓の横でただ相槌を打っているだけだった。

 一通り、お互いに話が済むと松恵尼は太郎に聞いた。

「ところで、これから、どうするの」

「はい、また、修行をします。今度は剣だけじゃなくて、槍、棒、薙刀、すべてを身に付けようと思っています」

「成程ね。まだまだ、修行をしますか。あなたはまだ若いし、素質も充分にあるし、身に付けられるものは何でも身に付けておいた方がいいわね。楓の事は心配しなくていいわ。また、ここで薙刀を教えてもらいます。あの娘たちはあなたが帰って来ると知って喜んでますよ。あなたがいなくなってから、また、私が教えていたけど、もう年ね、すぐに疲れて駄目だわ。また、あなたにお願いするわ」

「はい。喜んで」と楓は頷いた。

「ところで、あなたたちの家なんだけどね、まさか、帰って来るなんて思ってなかったので人に貸しちゃったのよ。色々と捜してはいるんだけど、なかなか、見つからなくてね。しばらくの間、悪いけど旅籠屋に泊まってほしいんだけど」

「旅籠屋なんて」と太郎は手を振った。「私はお山に戻ります。楓さえ、ここに置いてもらえれば有り難いのですが‥‥‥」

「それは勿論、大丈夫です。でも、今晩は旅籠屋でのんびりしなさい。色々とあって疲れたでしょう。今日はゆっくり休みなさい。お山は逃げはしないわ‥‥‥それに、あなたたちが戻って来たという事がわかれば大変よ。のんびりなんてしてられないわよ。今日は旅籠屋に隠れて、のんびりとしなさい」

 松恵尼に案内されて行った旅籠屋は『伊勢屋』という、この町で一番立派な旅籠屋だった。太郎は松恵尼に言われるまま、本名を名乗り、愛洲の殿、三河守の代理で飯道山にお参りに来たという事になってしまった。主人が直々に挨拶に現れ、立派すぎる部屋に案内された。松恵尼はここの旅籠屋の主人とも馴染みらしく、よく、お客を連れて来るらしかった。

 主人が挨拶をして帰ると、松恵尼は、「ここに隠れているのが、一番、安全よ」と言った。「あなたたちが考えている以上に、あなたたちはここでは有名なんだから、誰かに見つかったら、もう大変よ。気を付けなさい」

 明日の朝、また来ると言って松恵尼は帰って行った。

「いよいよ、帰って来たな。明日から、また、修行だ」と太郎は広すぎる部屋で体を伸ばすと言った。

「また、百日行をやるの」と楓は聞いた。

「百日行か‥‥‥うん、今の所はやる気はないけどわからないな。また、大きな壁にぶち当たったら、やるかもしれない」

「大変ね」

 その日は、うまい物を食べて、風呂に入って、のんびりと過ごし、次の日の朝、松恵尼が迎えに来ると二人は花養院に戻って、太郎は山伏の姿になって山に登り、楓は前に住んでいた離れの部屋に入る事になった。ただ、以前のように、一人ではなく、ここにいる尼僧たちと一緒だった。しかも、今度から、楓もここにいる間は尼僧の格好をするという事になった。

 今までは、普段着のままで寺務などやっていたが、戦が始まってから色々とうるさくなって、寺院内に僧侶以外の者を住ませる事ができなくなったと言う。形だけでも尼僧の格好をしてくれと松恵尼は言った。楓は面白がって尼僧に化けた。

 楓恵尼という若くて清楚な尼さんが誕生した。

 数時間後の事だが、飯道山から帰って来て、初めて楓の尼僧姿を見た時、太郎にはわからなかった。楓は知らばっくれて、太郎のもとへ尼僧の格好でお茶を持って出て行った。太郎は尼僧をちらっと見ただけで、礼を言い、楓が来るのを待っていた。

 飯道山での事を早く、楓に話したかった。

 何か用でもできたのだろうか、どうしたのだろうと思いながら、太郎は待っていた。

 お茶を持って来た尼僧はお茶を出しても帰ろうとしないで、部屋の隅に黙って坐わっていた。変な尼僧だ、まだ、何か用があるのだろうか、と太郎はその尼僧に声を掛けようと尼僧の方を向いた。

 尼僧は口を抑えて、声を殺して笑っていた。良く見ると、それは楓だった。

「ああ、おかしい」と楓は声を出して笑った。

「人が悪いぜ」と太郎も笑った。

 尼僧姿の楓をしみじみと見て、太郎はよく化けたものだと感心した。完全に尼僧姿が板に付いている。数時間前、普通の格好をしていたのが嘘のようだった。それにしても、不思議なくらい良く似合っていた。

 花養院で山伏姿になった太郎は走るように参道の坂道を登って行った。

 何もかもが懐かしかった。

 この坂道を天狗の面を付けて、鐘撞き堂の大鐘を引っ張り上げたのが、つい、昨日の事のように思い出された。

 とりあえず、高林坊に会って、改めて、入門の手続きをしなければならない。まず、棒術から始めるつもりだった。前に棒術を習っていたが途中でやめてしまった。今回はどうしても、ものにしなくてはならなかった。

 太郎は高林坊に会って、わけを話した。

 高林坊としては、せっかく、戻って来たのだから、剣術の師範代をしてほしいようだったが、太郎がどうしてもと言うので、期限付という条件で了解してもらった。期限というのは十一月二十四日までだった。その日まで、棒、槍、薙刀の稽古をやり、十一月二十五日から、去年のように『陰の術』の師範として、皆に教えてほしいとの事だった。そして、来年は剣術の師範代をやってもらいたいと付け加えた。

 太郎は引き受けた。

「ところで、陰の術なんじゃが」と高林坊は言った。「わしにはよくわからんが、陰の術という名前が、どうもお偉方には気に入らんようじゃ。天台宗の道場である飯道山で、陰の術という不吉な名前の武術を教えるのはうまくないと言うんじゃ」

「それでは、やめろと?」と太郎は聞いた。

「いや、そうじゃない。お偉方も陰の術の人気は知っている。やめろとは言えんさ。ただ、名前を変えろと言うんだ。どうだ、太郎坊、名前を変えても構わんか」

「はい、構いませんけど、でも、どんな名前になるんです」

「シノビの術だそうだ」と高林坊は言うと、土間に棒で『志能便』と書いた。

「こう書いて、シノビと読むそうじゃ。何でも、昔、聖徳太子がその志能便というのを使って情報を集めていたそうじゃ。お偉方は何でも故事から引っ張り出して来る。やっている事は同じでも、陰の術では駄目で、志能便の術ならいいそうじゃ。そういうわけじゃ。悪いが、このお山では陰の術は『志能便の術』と言う事にしておいてくれ」

「志能便の術‥‥‥はい、わかりました」

「悪いのう。わし自身は『陰の術』の方がいいと思うんだが、仕方がないんじゃ」

「はい」

「それとじゃ、もう一つ、問題がある。おぬしの事じゃが、もう一度、修行をすると言うが、このお山で修行するのは難しいぞ。まず、太郎坊という名前では修行できん。太郎坊と言う名は有名になり過ぎた。今、このお山で修行している若い者は誰でも知っている。そこへ、おぬしが太郎坊として出て行ったらどうなる。修行どころではないぞ。わかるな」

 太郎もそこまで考えてもみなかった。確かに、高林坊の言う通りだった。伊賀の最南端の百地家の裏山でさえ、太郎坊と聞いた途端に、あの騒ぎだ。まして、ここは飯道山、陰の術の発祥の地だ。太郎坊と名乗って、修行などできるはずがなかった。

「どうする」と高林坊は笑った。「有名になるというのも考えもんじゃのう。幸いに、おぬしの顔まで知っているのは、そう幾人もいないがのう。まあ、名前を変えた位じゃ、いつか、ばれるじゃろうのう」

「‥‥‥」

「いっそ、顔まで変えるか」と高林坊は笑いながら言った。「ここでは無理じゃろう。いっその事、他の山で修行したら、どうじゃな」

「他の山? 他にも武術を教えている山があるのですか」

「ある。ここより南に二里程の所に岩尾山というのがあるが、そこでも教えている。ここより腕も下だし、道場も狭い。おぬしが、どうしても棒と槍と薙刀を修行したいというのなら、別に、そこでも構わんじゃろ。ある程度の基本さえ身に付けてしまえば、おぬしの事じゃ、後は自分で何とかなるじゃろう。どうじゃな。そこに行く気があるなら、わしが紹介してやる。わしの教え子があそこで師範をやってるんでな」

「お願いします。紹介して下さい」

「うむ。それがいいじゃろう。あの山なら、おぬしの顔を知っている者はおらんからな、ただ、名前は変えた方がいいな」

「はい」

「あの山に行けばわかる事だから教えておくが、あの山で修行してるのは、ほとんどがこのお山の落伍者なんじゃよ。このお山の修行に耐えられない者が、あの山に行って修行をしている。今は修行者が多すぎて、このお山の落伍者がみんな、あそこに行くという事はできなくなったがな。あの山の修行が始まるのが二月一日なんじゃ。このお山では丁度、山歩きをしている頃じゃ。このお山の修行に付いて行けそうもない奴は、さっさとお山を下りて、あちらに行くというわけじゃ。前は、いつでも誰でも受け入れていたが、今は、来る連中が多すぎて、二月一日以降は受け付けなくなった。それでも、人が集まり過ぎて、去年からは二月一日の日に修行者全員を朝から晩まで、外に坐らせているそうじゃ。去年の事は知らんが、今年の二月一日は一日中、雪が降っていてな、昼頃には、半分近くの者が山を下りてしまい、慌てて、やめさせたらしい。あの山はここと違って、一ケ月の山歩きなどできない。そうでもしないと修行者をふるい落とせないんじゃ」

「二月一日を過ぎていても入れるんですか」

「山伏は大丈夫じゃ。しかるべき人の紹介があれば入れる。現に、おぬしは風眼坊の紹介で、このお山に三月頃、来たんじゃろうが」

「はい。そうです」

「紹介状は用意するが、さて、名前を何としようのう」

「‥‥‥」

「風林坊はどうじゃ」と高林坊は言った。「風眼坊の風と高林坊の林で風林坊じゃ。どうじゃ、いいじゃろ。どうせ、仮の名じゃ。風林坊移香でいいじゃろ」

「はい。お願いします」

「いや‥‥‥どうせなら、孫子の風林火山から、火山坊の方がいい。よし、決まった。おぬしは火山坊移香じゃ。どうじゃ」

「火山坊移香‥‥‥」

「と言う事で、久し振りに今晩、飲もう。金比羅坊も連れて行く。そうじゃのう、暮れ六つでいいじゃろう。いつもの『とんぼ』で待っていてくれ。その時、紹介状も持って行く」

 岩尾山に行っても十一月二十五日になったら、太郎坊に戻って帰って来るんだぞ、と念を押すと高林坊は仕事があるからと言って、出て行った。

 太郎は誰にも見つからないように山を下りた。





 岩尾山は飯道山の南、約二里、近江の国甲賀郡と伊賀の国の国境に盛り上がる山だった。

 山内には天台宗の息障寺があり、修験道の道場として栄え、また、武術道場としても栄えていた。山の中腹あたりに息障寺があり、僧坊が建ち並び、武術道場もそこにある。更に行くと山頂に奥の院があり、大きな岩肌に不動明王が見事に彫られてあった。

 この山で武術の修行している者は、ほとんどが里から修行に来る郷士たちで、山伏の数は少なかった。里から来る修行者の数は飯道山と同じく百人近くいた。

 太郎は火山坊移香となって、高林坊の紹介状を持って山に登って来た。

 四月の二十二日だった。期限の十一月二十四日まで約七ケ月あった。七ケ月のうちに、棒、槍、薙刀をすべて、自分のものにしなければならない。忙しいと言えた。しかし、太郎には自信があった。

 息障寺に着くと太郎は千勝院を捜した。千勝院に行って明楽坊(ミョウガクボウ)応見に紹介状を渡せ、と高林坊から言われていた。

 明楽坊応見は千勝院にいた。高林坊の弟子だと言うので、きっと、大男だろうと思っていたが、明楽坊は小柄で、少し太めな、おとなしそうな山伏だった。

 太郎の渡した紹介状に目を通すと太郎を眺め、「はい。わかりました。このお山で修行なさるがいい」と静かな声で言った。

「お願いします」と太郎は頭を下げた。

「しかし、また、どうして、飯道山で修行しないで、わざわざ、このお山に来られたのですかな。私が言うのも何ですが、ここと飯道山では比べものにならない位、飯道山の方が強い方々が揃っておりますのにな」

「はい。それには訳がありまして‥‥‥」

「訳とは?」

「‥‥‥」

 本当の事を言うわけにはいかなかった。太郎は何て答えようか考えていた。

「まあ、いい。高林坊殿が紹介状を書く位だから身元は大丈夫だろう。世の中が物騒になって来てるんでな。一応、身元とか調べるんじゃよ。やたらと色々な連中がお山に逃げ込んで来るんじゃ。お山としても、やたらな人間を匿って、つまらん問題を起こしたくないんでな。まあ、おぬしは大丈夫だろう。十一月までと書いてあったが、その後はまた、飯道山に戻るのかな」

「はい」

「まあ、しっかり修行して行ってくれ」

 太郎は簡単な手続きを済ますと明楽坊に連れられて、一乗坊に連れて行かれた。

 一乗坊が太郎の所属する僧坊だった。一乗坊には誰もいなかった。

 明楽坊は太郎をそこに待たせ、どこかに行き、やがて、一人の山伏と共に戻って来た。

 太郎は明楽坊から、一乗坊の浄泉坊(ジョウセンボウ)周伸に引き渡された。明楽坊は浄泉坊に二言三言、話をすると、「励みなされ」と太郎に言って帰って行った。

「飯道山から来たそうじゃの、火山坊とやら」と浄泉坊は横柄な口調で言った。

「はい」と太郎は答えた。

 浄泉坊は一癖ありそうな目付きの悪い男だった。

「そうか、どうして、飯道山を出て来た」と浄泉坊は太郎の姿をじろじろ見ながら聞いた。

「はい‥‥‥」

 さっきは、何とか答えずに済んで、ほっとしたが、また、ここでも聞かれるとは思わなかった。

「わしもな、昔、飯道山にいた」と浄泉坊は言った。「おぬしは知らんだろうがな、昔、あの山に風眼坊という奴がいた。わしも、そいつに剣を習ったんだが、気に入らん奴でのう。わしを山から追い出しやがった。今、どこにいるんだか知らねえが、今度、会った時には、たたっ斬るつもりだ」

「‥‥‥」

「どうした。おぬし、風眼坊を知っているのか」

「名前は聞いています。飯道山の四天王だったとか‥‥‥」

「ふん、何が四天王だ。笑わせやがる。あいつらより強い奴はいくらでもいる。たかが、飯道山で強いからって威張っていやがる。くだらんよ」

 えらい山伏と会ってしまったもんだ。もし、太郎の素性がばれたら、どうなるかわからない。ここでは問題を起こしたくなかった。ただ、自分の修行だけに専念したかった。太郎は火山坊移香に成りきり、風眼坊の事も飯道山の事も口に出さない事に決めた。

「おい、おぬし、飯道山で何をしたんじゃ」と浄泉坊は手に持った竹の棒で、自分の肩をたたきながら聞いた。

「はい。金比羅坊という師範代と喧嘩して、出て来ました」

 金比羅坊には悪いが、太郎は口からでまかせを言った。

「なに、金比羅坊‥‥‥ああ、あいつか」と浄泉坊は思い出したように頷いた。「ほう、あいつとやり合って出て来たのか‥‥‥成程な、まあ、ここで、しっかり修行すれば、あんな奴は屁でもない。この山だって飯道山より強い奴らはかなりいる。まあ、頑張れ」

 喧嘩して飯道山を出て来たと言ったとたんに浄泉坊の態度は変わった。警戒心が取れて、急に仲間に対するような態度になった。余程、飯道山を嫌っているらしい。

「今日から、おぬしはこの一乗坊に所属するんだが、困った事に寝る場所がないんじゃ」と浄泉坊は言った。「里から来る修行者が多すぎてな、どこの僧坊もぎゅうぎゅう詰めじゃ。それでも間に合わなくて仮の小屋を作って詰め込んでる有り様じゃ。悪いが、おぬし、通いで来てくれんかのう。どこか、里に知り合いでもおらんか」

「はあ、いる事はいますが‥‥‥」

「すまんが、そいつに頼んで、そこから通うようにしてくれ。もう、しばらくしたら空きができると思うがの。今は、ほんとにどこも空いてないんじゃよ」

「はい、わかりました」

 その日は浄泉坊に連れられて行場を回り、山内を一通り見て、奥の院まで登ると終わりだった。

 山頂からの眺めは良かった。

 久し振りだった。こうやって、山頂から回りを見下ろすのは、やはり、気持ちが良かった。飯道山も良く見えた。飯道山から太神山への奥駈けの山々も良く見えた。

 懐かしかった。あの道を何と二百日も歩いたのだった。自分の事ながら、よくやったものだと思った。

 明日、辰の刻(午前八時)までに山に来てくれとの事だった。飯道山と同じように、ここでも午前中は作業があった。太郎は飯道山ではわけの解らない講義を聴いていて、作業をした事はなかったが、ここではやらなければならない。武術の稽古は昼過ぎから酉の刻(午後六時)までだと浄泉坊は言った。

 太郎は岩尾山を下りた。

 通いというのは以外だった。こんな山に七ケ月も閉じ込められるよりは増しだが、さて、どこから通ったらいいものだろうか。

 とりあえず、松恵尼には内緒で楓のいる花養院の離れから通うか。

 いや、あまり、飯道山の辺りをうろうろしない方がいいだろう。誰かに見つかったら、修行どころではなくなってくる。ちょっと遠いが智羅天の岩屋から通うか‥‥‥

 まだ、昼を少し過ぎた頃だし天気も良かった。太郎は久し振りに智羅天の岩屋に行ってみようと思った。岩尾山を駈け下りると真っすぐに智羅天の岩屋に向かって行った。





 再び、太郎の修行が始まった。

 太郎の所属する一乗坊には、山伏が八人と里からの修行者が十六人いた。

 八人の山伏の内、三人が武術の師範だった。剣術の浄泉坊、槍術の高倉坊(タカクラボウ)、薙刀の神尾坊(カミオボウ)の三人で、他の五人は太郎が山に着く頃にはすでにいなくて、太郎が帰る頃にも帰って来ないので、ほとんど顔を合わせないし何をしているのかもわからなかった。

 午前中の作業は浄泉坊が一乗坊の修行者たちを指図していた。高倉坊と神尾坊は他の僧坊へ出向いているらしかった。

 太郎は山伏でただ一人、里からの修行者と一緒に作業をやっていた。作業は飯道山と変わりなかった。魔よけ札や護摩にくべる札を作ったり、信者たちに配る金剛杖を作ったり、変わった所では戦で斬り取った首に付ける首札も作っていた。それに、ここでも岩尾丸という何にでも効くという怪しい薬を作っていた。そして、今、二ケ所で新しく武術道場を造る作業をやっていた。今の道場では狭すぎるので、新しく山を切り開いて道場を二つ造ろうとしている。

 これがまた、大変な作業だった。木はようやく切り終えたが、切った木はまだ、横になったままだった。この横になった丸木を細かく切らなければならない。あるものは薪にし、あるものは札や杖の材料になり、また、建物の修理用の材木にもなった。丸木が片付いたら、今度は根を全部、引き抜いて、斜面を平にならさなくてはならない。大きな岩もごろごろしていた。どかせる岩はどかし、砕ける岩は砕かなくてはならなかった。

 天気のいい日は外に出て、土にまみれて道場造りをやり、雨の日は僧坊で木屑にまみれて木工細工をやっていた。そして、昼になると皆、作業を止めて、昼飯を食べ、道場に集まって来た。

 今、道場は二つあった。

 寺の本堂より東にある道場は古くからのもので、以前はこれで充分に間に合った。それが、一昨年より修行者が急に増え、一昨年、新しく造ったのが西の道場だった。それでも、間に合わず、今、西の道場のさらに西と南に道場を造っている。

 今、東の道場では剣術と薙刀術を、西の道場では棒術と槍術を教えていた。やはり、ここでも剣術を習う者が一番多く、薙刀術を習う者が少なかった。

 太郎は西の道場で棒術を習っていた。棒術を習っているのは太郎も入れて山伏が七人、里からの修行者が二十一人いた。皆、太郎より若く、二十歳前だった。師範は明楽坊応見だったが、明楽坊はほとんど道場には出て来なかった。師範代の岩本坊三喜、大滝坊紹玄、東之坊安善の三人が皆の稽古をつけていた。

 高林坊を知っている太郎にとって、三人の師範代は何となく頼りなく思えた。三人共、ほとんど素人に近い連中を相手に教えているだけなので実力の程はわからないが、飯道山の高林坊は勿論、師範代より下なのは確実だった。

 太郎は毎日、おとなしく棒の素振りをやっていた。なるべく目立たないように皆と同じ事をしていた。決まった時間に来て、決まった事をやり、決まった時間に帰って行くという毎日が続いて行った。

 そのうちに、太郎にも何人かの仲間ができて来た。同じ一乗坊の連中で、伊賀の郷士、藤林十兵衛、楯岡五郎、石川小二郎と甲賀の郷士、高峰左馬介、上野弥太郎らであった。一緒に作業をしているうちに、自然と太郎は彼らの仲間の中に入って行った。

 五人とも今年の二月一日に雪の降る中、ずっと、坐り込んでいた連中だった。

 藤林と楯岡と高峰は剣術を習い、石川は槍、上野は薙刀を習っていた。五人共、飯道山の事は口に出さないが、この中の何人かは飯道山の山歩きから逃げて来たに違いなかった。そして、五人共、太郎坊と陰の術の事は知っていた。やはり、みんな、陰の術を習いたいらしかった。

 もう二年以上も前の望月家の襲撃の話が、すでに伝説となって語り継がれているという事を太郎は彼らの話から知った。

 天狗太郎と陰の五人衆の話を、甲賀出身の上野弥太郎がまるで見て来たように、太郎に聞かせてくれた。話はやたらと大きくなっていた。望月又五郎の下には十人もの使い手がいて、その他にも五十人近い兵がいて、それらを天狗太郎と陰の五人衆は陰の術を使って、あっという間に倒したと言う。

 太郎は上野の話を聞いて、驚くと同時に感心していた。人から人に伝わるうちに話というのは、まるで生き物みたいに大きくなって行くものだと思った。

「太郎坊は一体、今、どこにいるんだろう」と高峰が言った。

「それは誰にもわからないそうだ。十一月の二十五日になると、どこからともなく、飯道山に現れて、十二月の二十五日になると、また、どこかに消えて行くんだそうだ」と上野が得意そうに言った。

 太郎は聞いていて、おかしくなったが我慢した。

「火山坊殿、飯道山にいたのなら、太郎坊に会ったんじゃないんですか」と石川が太郎に聞いた。

「いや、俺は知らん。俺が飯道山に来たのは一月だ。太郎坊なんて会った事もないし見た事もない」

「そうですか、でも、飯道山には太郎坊の事を知っている山伏はいるでしょう」

「俺も話は聞いた事はあるが、何でも、身が軽くて天狗のようだと言っていた」

「それは俺も聞いた事がある」と上野が言った。

 上野はまた、見て来たように太郎坊の話を始めた。

 太郎坊はすでに伝説上の人物だった。

 ある時、どこからか突然、現れて、また、どこかに消えて行かなければならない人物だった。普段、人前に現れてはいけない人物だった。太郎が思っている以上に太郎坊の存在というのは大きかった。もし、自分が太郎坊だとばれてしまったら、この山にはいられなかった。ここだけではない。甲賀はもとより伊賀の国でも、自分の修行などしていられなくなる。百地砦の時のように陰の術を教えてくれと大勢の人が集まって来てしまう。

気をつけなくてはならなかった。





 太郎は岩尾山で目立つ事なく、毎日、修行に励んでいた。

 稽古が終わると真っすぐ、素早く、裏道を通って智羅天の岩屋に帰った。帰ると、自分で納得するまで稽古に励み、朝は早くから外に出て、坐り込んで心を落ち着けた。

 一ケ月間で太郎は棒術を自分のものにし、薙刀の組に移る事にした。師範には、どうも、自分には棒術は合わないからと言って、薙刀の組に移る許しを得られた。

 薙刀の組に入っても、太郎はなるべく目立たないように、師範に言われるままに稽古に励んで行った。

 太郎が薙刀の組に移ってから十日程経った頃、ちょっとした事件が起こった。

 梅雨に入り、毎日、じめじめと雨が降っていた。その日は珍しく晴れて暑い一日だった。稽古が終わり、太郎が帰ろうとした時、同じ、薙刀組の上野弥太郎が、何か喚きながら太郎の所まで駈けて来た。

「火山坊、大変だ!」と上野は言ったが、その後は息を切らしてハァハァ言うのみだった。

「何が、どうしたんだ」と太郎は興味なさそうに聞いた。上野が大袈裟に騒ぐのには慣れていた。また、どうせ、下らない事だろうと思った。

「大変なんだ‥‥‥てん、てん、天狗、天狗太郎が出た!」と上野は吠えた。

「何だと」

「天狗太郎が出たんだ。あの陰の術の天狗太郎が出たんだ」

 信じられなかった。俺の他にも天狗太郎がいたのか。

「一体、どこに出たんだ」

「屋根の上だ。さあ、早く行こうぜ。早く行かなけりゃ消えちまうぜ」

 太郎は上野に引っ張られるように本堂まで連れて行かれた。本堂の前は人で埋まり、皆、屋根の上を見上げて騒いでいた。

 屋根の上に確かに天狗の面をかぶった山伏が立っていた。

 太郎は一瞬、師匠の風眼坊がまた、いたずらをしているのかと思ったが、どうも違うようだった。一体、誰が何のためにあんな事をしているんだろう。

 屋根の上の天狗は下を見下ろしながら、錫杖を頭上高く上げると、ゆっくりとそれを振り回した。皆、天狗のやる事を見上げながら静かになった。

「皆の衆」と天狗はよく響く声で言った。「わしの名は太郎坊、皆の知ってる通り、天狗太郎じゃ。この山にも熱心な修行者が大勢いると聞いて、やって来た。皆の稽古も見せてもらった。さすがに、飯道山に勝るとも劣らない腕の者も何人かいた。その者たちにわしは『陰の術』を授けようと思う。しかし、わしの『陰の術』を身に付けるのは並大抵の修行では無理じゃ。余程の腕がなければ、わしの修行には付いて行けんじゃろう。『陰の術』を身に付けたいのなら修行に励む事じゃ。わしは十一月の末にもう一度、ここに来る。その時、わしの修行に付いて行けそうな者を何人かを選び、『陰の術』を授ける。それまで、皆の衆、修行に励んでくれ。さらばじゃ」

 そう言うと天狗は消えた。

 皆、ポカンとして、天狗太郎が消えた屋根を見上げたままだった。

 やっと、我に帰った上野が太郎に話しかけようとした時、太郎の姿はそこにはなかった。太郎は偽太郎坊の正体を確かめようと本堂の裏に回っていた。

 偽太郎坊は素早かった。山を下りて行く偽太郎坊の後を太郎は追いかけた。以外にも、偽太郎坊を追っていたのは太郎だけではなかった。太郎よりも先に、偽太郎坊を追っている者がいた。太郎の知らない奴だった。里から来ている十七、八の若い修行者だった。

「待て! 太郎坊!」と怒鳴りながら、そいつは追いかけていた。

 太郎は二人に気づかれないように、隠れながら後を追った。

 とうとう、偽太郎坊は捕まった。

「わしに何か用か」と偽太郎坊は振り返った。

 まだ、天狗の面をしたままだった。

「父上の仇だ、覚悟しろ!」と若者は刀を抜いた。

「何だと」

「とぼけるな、俺はお前に殺された山崎新十郎が一子、山崎五郎だ。忘れたとは言わせんぞ!」言い終わるや否や、山崎五郎と名乗る若者は偽太郎坊に斬り掛かって行った。

「待て、待て」と偽太郎坊は五郎の剣を避けた。「わしはそんなものは知らん。何かの間違いじゃ」

「うるさい! 死ね!」五郎は真剣だった。死に物狂いで、偽太郎坊に掛かって行った。

 五郎はこの男が偽物だとは知らない。本物の太郎坊だと思っている。そして、本物の太郎坊に勝てるはずがないとも知っている。五郎は死ぬ気だった。死ぬ覚悟で太郎坊を倒そうとしていた。

 太郎はとうとう、出て来たかと思った。今まで、何人もの人を斬って来た。いつか、自分を仇と狙う者が現れるだろうとは思っていたが、こんなにも早く現れるとは思ってもいなかった。山崎五郎は一昨年の暮れ、望月又五郎を襲撃した時、三雲源太によって殺された山崎新十郎の息子だった。きっと、仇討ちをするために、この山で修行をしていたのに違いない。

 五郎は死に物狂いで戦っていた。

 とうとう、偽太郎坊は刀を抜いた。偽太郎坊は落ち着いていた。

 二人の腕の差があり過ぎた。このまま放っておけば、確実に五郎は殺されるだろう。一瞬、太郎は五郎が死んでくれれば自分が仇と狙われなくなる、と思ったが、黙って見過ごす事はできなかった。

「やめろ!」と太郎は二つの刀の間に立った。

「止めるな!」と五郎が言った。

「止めなければ、お前は死ぬぞ」と太郎は五郎に言った。

「うるさい! お前には関係ない!」

「おぬしは、どうする」と太郎は偽太郎坊に聞いた。

「わしは、無益な争いはしたくない」

「うるさい。お前は父上の仇だ」

「覚えがあるのか」と太郎は偽太郎坊に聞いた。

「わしは知らん」

「嘘をつけ。誰に聞いても知っている。天狗太郎と陰の五人衆によって望月屋敷が襲撃された。その時、俺の父上はお前に殺されたんだ」

「どうだ」と太郎は偽太郎坊に聞いた。「その話は俺も聞いている。それが確かなら、俺はこいつの仇討ちを助けるがどうだ」

「違う。わしはお前の親父など知らん」

「嘘だ!」

「どうやら、おぬしの方が分が悪いみたいだな。見事に、こいつに斬られるがいい」と太郎は偽太郎坊に言うと身を引いた。「思う存分、やるがいい。おれが見届けてやる」

「死ね!」と五郎は刀を振りかぶり掛かって行った。

 偽太郎坊の刀が閃いた。

 五郎は斬られるはずだった。ところが、偽太郎坊の刀は五郎を斬る前に地に落ちていた。偽太郎坊の左腕に太郎の投げた手裏剣が刺さり、偽太郎坊は尻餅を突き、呻いていた。

「さあ、今だ。仇を討て」と太郎は五郎に言った。

「待ってくれ、わしは天狗太郎ではない!」と偽太郎坊は叫んだ。

「待て」と太郎は五郎を止めた。

「どういう事だ」と太郎は偽太郎坊に聞いた。

「わしは天狗太郎ではない。頼まれたんじゃ」

「どういう事だ」と太郎は、もう一度、聞いた。

「言う。全部言う。頼むから、こいつを抜いてくれ」

 太郎は手裏剣を抜いてやった。

 偽太郎坊は天狗の面をはずすと、血の噴き出る傷口に汚れた手拭いを巻き付けた。

「おぬしは一体、何者じゃ」と偽太郎坊が太郎に聞いた。

「俺は火山坊。まだ、この山に来たばかりの修行者だ」

「知らんな」

「俺の事などどうでもいい。おぬしの事だ。なぜ、天狗太郎に化けた」

「ああ。こうなったら全部、話す。わしの本当の名は南光坊じゃ。わしは明楽坊殿に頼まれたんじゃ」

「明楽坊殿に?」

「ああ、明楽坊殿に頼まれて天狗太郎に化けたんじゃ。明楽坊殿はこのお山を飯道山に負けない程の山にしたいと思っている。世間では、このお山の事を飯道山の落ちこぼれたちの集まりだと言っている。まあ、実際、事実なんだが、明楽坊殿にはそれが我慢できんのじゃ。そこで明楽坊殿は天狗太郎の人気を利用して、このお山の実力を上げようと考えた。天狗太郎にああ言われれば、みんな、張り切って修行に励むだろうと考えたんじゃ。そこで、わしが天狗太郎に化けて、ああいう芝居をしたわけじゃ。まさか、こんな事になるとは思ってもみなかったわ。まさか、天狗太郎に仇がいたとはなあ。しかも、そいつがこのお山で修行していたとは‥‥‥」

「成程な。天狗太郎を利用したわけか‥‥‥で、山崎とやら、どうする」

「はい‥‥‥」五郎は肩をおとし、ガクッとしていた。「偽物じゃ、しょうがない‥‥‥」

「南光坊殿、天狗太郎に化けて、あんな事を言って、みんなを煽るのはいいが、十一月になって、もし、天狗太郎が来なかったら偉い事になるぞ」

「わしも、そう明楽坊殿に言ったんだが、大丈夫だ、天狗太郎は絶対に来ると自信を持って言うんじゃよ」

「なぜだ」

「わしにはわからんが、明楽坊殿は絶対に来ると言っていた」

「それは本当か」と五郎が言った。

「多分な。十一月になれば本物の天狗太郎に会えるさ。それまで、腕を磨いておくんだな。本物はわしなんかよりずっと強いぞ」

 辺りは、すでに暗くなって来ていた。

 南光坊は左腕を押えながら山を下りて行った。

 太郎も帰る事にした。

 山崎五郎は太郎に助けてもらった礼を言った。そして、太郎に手裏剣を教えてくれと頼んだ。太郎は、そのうち、教えてやると言って山に帰した。

 不思議な気持ちだった。自分を狙う仇を助けて、手裏剣を教える約束までしてしまった。この先、どうなるのか自分でもわからなかった。勿論、太郎にはこの五郎という若者を倒す気など毛頭ない。もし、正体がばれて、太郎に掛かって来たらどうすればいいのだろうか‥‥‥

 太郎は五郎の事を考えながら、暗い山道を下りて行った。





 太郎がここ岩尾山に通い始めてから、もう、三ケ月が過ぎて行った。

 太郎はこの山に十一月までいるのは時間が勿体ないと思うようになり、方針を変えた。棒術、薙刀術、槍術をそれぞれ一ケ月間やり、今日で山を下りようと思っていた。

 高林坊が言っていた通り、ここと飯道山では腕の差があり過ぎた。ここで師範をやっている位の腕を持っている者は飯道山に何人もいた。太郎が学ぶべき物は何もなかった。基本を身に付けるだけなら一ケ月もあれば充分だった。基本さえ身に付ければ、あとは自分で工夫していけばいい。それは、何もこの山でなくても智羅天の岩屋で独りでもできる事だった。

 それに、楓のお腹の中に太郎の子供ができていた。ここに戻って来た当時は全然、目立たなかったが、太郎が岩尾山で修行しているうちに、楓のお腹はみるみる大きくなって行った。もうすぐ、太郎も父親になる。のんびり、修行などしていられなかった。生まれて来る子供のためにも働かなければならない。

 太郎は岩尾山で学んだ棒、薙刀、槍を自分なりにまとめて『陰流』の一部にしようと思っていた。剣術の『天狗勝』のように、いくつかの技を選んで覚え易いように名前を付けようと思っていた。しばらくの間、智羅天の岩屋に籠もって、それに取り組むつもりだった。そして、なるべく早いうちにそれを片付け、飯道山に戻り、また、剣術の師範代をやるつもりでいた。

 太郎は稽古が終わると、一応、明楽坊には急用ができて吉野に帰らなければならないと、いい加減な話をして山を下りる許しを得、そして、三ケ月間、仲の良かった藤林たちに別れを告げて山を下りて行った。

 山の中腹あたりまで下りると浄泉坊が道をふさぐように立っていた。

 こんな所で何をしているのだろうと思ったが、太郎は一応、浄泉坊にも山を去る事を言った方がいいと思い、立ち止まって合掌をした。

 太郎が言おうとすると浄泉坊は太刀を抜いて、太郎の前に立ちはだかった。浄泉坊だけではなかった。いつの間にか、太郎の後ろに高倉坊と神尾坊が立っていた。

「火山坊、お前はやはり、飯道山の回し者だったんじゃな」と浄泉坊は言った。

「飯道山の回し者?」

「とぼけるな。たったの三ケ月だけで、棒、槍、薙刀と回り、ろくに修行もせんで、お山を下りるのが何よりの証拠じゃ。このお山でどんな修行をしているのかを調べに来たんじゃろう。次には、わしの所に来ると思って楽しみにしてたんじゃが、わしの所には来ないで、のこのことお山を下りやがった‥‥‥そう、うまく行くと思ったら大間違いじゃ。今、ここで、本当の岩尾山の実力を見せてやる。そして、その実力を飯道山に伝えるんじゃな。もし、生きていたらの話じゃがな」

 浄泉坊は太刀を振り回した。

「違います。飯道山は関係ありません」

「黙れ。さっさと刀を抜け、そいつは飾りではあるまい」

 太郎は刀を抜きたくなかった。ここで騒ぎを起こして、飯道山に迷惑を掛けたくなかった。どうしたらいいんだ‥‥‥

 ふと、太郎は多気の町道場の川島先生を思い出した。神道流は、喧嘩など、つまらん争いに使うものではないと言って、武士たちから何を言われても、相手にしないで逃げていた。果たして、俺にそんな事ができるだろうか。

 試しにやってみるか、と太郎は思った。

「どうした、刀は抜けんのか。そんなに死にたいなら望み通り殺してやる」

 浄泉坊は斬り付けて来た。太郎は避けた。

 浄泉坊が何度、斬り付けても、太郎には当たらなかった。浄泉坊は、こんなはずはないと斬り付けるが当たらない。ついに、太郎は浄泉坊の頭を飛び越え、そのまま、山を駈け下りて行った。

 太郎は逃げた。逃げるというのも、わりと気持ちのいいものだった。

 あっけにとられたのか、誰も後を追って来なかった。

 太郎は楓の待つ、新しい家に向かった。

 一月程前、松恵尼が見つけてくれて、二人は、やっと落ち着く事ができた。前の家より、ちょっと町から離れているが、前の家よりは少し広かった。楓も気に入ったようで、小まめに家の中を片付けて行った。この辺りには、太郎たちの家と同じような作りの家が幾つも並び、門前町で働いている町人たちが住んでいた。

 帰ると、いつものように楓が食事の支度をして待っていてくれた。楓のお腹は一日ごとに大きくなって行くようだった。

 不思議な気持ちだった。

 もうすぐ、自分の子供が生まれるなんて、何となく、変な気持ちがした。まさか、こんなにも早く、自分が父親になるとは思ってもいなかった。しかし、楓の大きなお腹を見ると、何となく、嬉しくもなる太郎だった。

 食事をしながら、太郎は今、岩尾山から逃げて来た事を楓に話した。

「それでよかったのよ」と楓は言った。「また暴れたら、すぐに太郎坊だってばれちゃうわ」

「俺もそう思ったからな、逃げて来た」

「でも、もし、ばれたら、ここにはいられなくなるのかしら」

「だろうな。ばれたら、色んな奴らが訪ねて来るだろう」

「有名になるっていうのも大変ね」

「ここにいる時は、また、別人になればいいんだ。岩尾山に行っている時は火山坊だったし、飯道山で陰の術を教えている時だけ太郎坊に戻って、又、普段は違う名前を持てばいい。色々な人間に化けるのも陰の術の一つだ」

「ここにいる時は、また、お侍に戻れば?」

「いや、侍はやめた。しばらくは、侍をやめようと思っている」

「どうして」

「世の中、侍だけじゃないからな。世の中をはっきり見るには、色々な角度から物を見なけりゃならないんだ。俺は小さい頃から侍として育って来た。自分では意識していなくても、どうしても、侍の目で物を見てしまう。それじゃあ駄目なんだ。世の中はどんどん変わって来ている。これからの世の中を生きて行くには、はっきりと物事を見極める目を持たなくちゃならない。だから、これからは色々な人間になって、色々な世界を知ろうと思うんだ」

「へえ‥‥‥」と楓は感心しながら、太郎の顔を見ていた。

「今、言った事は、ほとんど、師匠が前に言った事だよ」と太郎は笑いながら言った。

「なんだ、そうだったの。あたし、あなたが急に立派な事を言うもんだから、びっくりしちゃった」

「でも、色々な人間になって、色々な世界を知るっていうのは本当だぜ。師匠から、その話を聞いたのは、俺がここに連れて来られる前だった。その頃は意味が良くわからなかったけど、最近、わかりかけて来たんだ」

「ふうん‥‥‥それで、まず、何になるの」

「何がいいかな」

「侍と山伏はやってるから、今度はお坊さんは?」

「坊さんは駄目だよ。頭を剃らなくちゃならない。頭を剃ったら他の者になれない」

「それじゃあ、職人は?」

「職人たって、何の職人だ」

「そうね、木彫りの職人はどう。あなた、木を彫るのうまいじゃない。あの智羅天様の像なんて、まるで、生きてるみたいだったじゃない」

「あれは俺にも信じられないよ。きっと、智羅天殿が乗り移ったとしか考えられない。今の俺にあれだけの物が彫れるとは思えない」

「そうか、それじゃあ、商人は?」

「何を売るんだい」

「そうね、松恵尼様に使ってもらったら?」

「松恵尼様か‥‥‥松恵尼様はまだ、何もしてないのかい」

「また、何か始めたようよ」

 松恵尼は北畠教具が死んで以来、北畠氏のためには動いてはいないようだった。今まで、情報集めに出ていたらしい尼僧たちも皆、戻って来ていた。しかし、この二、三ケ月のうちに、また、皆、どこかに出掛けて行って、今は松恵尼と楓しか花養院にはいない。そして、遠くの方から旅して来た商人たちが、よく、花養院に訪ねて来ると言う。楓はまた、色々と寺務をまかされているらしかった。

「今度は、誰のために動いてるんだろう」と太郎は聞いた。

「わからないわ。又、北畠の殿様のためじゃないの」

「そうかな、もう、北畠殿とは縁を切ったんじゃないのか」

「うん‥‥‥よくわからないわ。でも、最近、訪ねて来る人たちが播磨(兵庫県南西部)だとか、備前(岡山県南東部)だとか、言ってるのをよく耳にするわ」

「播磨に備前?」

「ええ」

「今度、ちゃんと聞いてみなよ」

「あたしも何回か聞いたのよ。でも、とぼけてばっかりいて何も教えてくれないのよ。あたしの事、いつまでも子供だと思ってるみたい」

「そうか、母親から見れば、娘を危ない事に巻き込みたくないだろうからな」

「あたしだって少しくらい手伝いたいのに‥‥‥ねえ、あたしにも陰の術、教えてよ」

「何だって!」と太郎は驚いて楓の顔を見た。「そんなの教わってどうするんだよ」

「こう戦ばかり続いて世の中が乱れて来ると、一番の犠牲者は弱い者たちよ。まず、女に子供、そして、お年寄りたちね。彼女たちの身を守るために、あなたの陰の術が役に立たないかしらと思って‥‥‥」

「成程‥‥‥弱い者たちのためにか‥‥‥」

「薙刀もいいけど、やっぱり、男の人の力には敵わないわ。大勢に囲まれたりした時、うまく、逃げる術とかないの」

「うまく、逃げる術か‥‥‥」

 逃げるための術なんて考えてもみなかった。忍び込む術ばかり教えても、もし、失敗して敵に見つかったら、それで終わりだ。その窮地から脱出できなければ何にもならない。敵を欺いて逃げる術を考えなければ、陰の術は完成とは言えなかった。

「ねえ、そんなような術を教えてよ」

「うん。わかった。女向けの陰の術を考えてみる」

「ねえ、それで、いつまで岩屋に籠もっているの」

「そんなに掛からないだろう。今回は棒術、槍術、薙刀術をまとめるだけだ。陰の術を完成させるのには、まだまだ、時間が掛かるだろう。飯道山に戻ってから少しづつ、やるつもりだよ。だけど、お前が今、言った、弱い者たちのための陰の術は考えてみようと思う。まあ、十日位あれば充分じゃないのか」

「十日か‥‥‥なるたけ早く帰って来てね」

「わかってるよ」
PR
この記事へのコメント
name
title
color
mail
URL
comment
pass   Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字

secret(※チェックを入れると管理者へのみの表示となります。)
この記事へのトラックバック
TrackbackURL:
カウンター
ランキング
ブログ内検索
プロフィール
HN:
酔雲
HP:
性別:
男性
自己紹介:
歴史小説を書いています。
酔雲の著書












最新コメント
[11/16 tomo]
[11/05 上田義久]
[06/07 アメリカ留学]
[06/05 アメリカ留学]
[09/05 magazinn55]
[09/01 松戸悪人退治連盟]
[08/22 信楽人]
[08/22 酔雲]
[08/22 信楽人]
[08/22 信楽人]
最新トラックバック
バーコード
楽天市場
陰の流れのショッピング


アクセス解析
Copyright © 長編歴史小説 陰の流れ~愛洲移香斎 All Rights Reserved.
Powered by NinjaBlog  Material by ラッチェ Template by Kaie
忍者ブログ [PR]