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陰流の開祖であり、忍びの術の開祖でもある愛洲移香斎の物語です。
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21.松阿弥1






 太郎たちが城山城で宝を捜している頃、右手を首から吊った阿修羅坊が、渋い顔をして播磨の国に向かっていた。

 一人ではなかった。

 痩せ細った僧侶が一緒だった。年期の入った杖を突き、時々、苦しそうに咳き込んでいる。ちょっと見ただけだと、どこにでもいるような時宗の遊行僧(ユギョウソウ)に見えるが、死神のような、近寄りがたい殺気が漂っていた。

 僧の名を松阿弥(マツアミ)といい、浦上美作守が太郎を殺すために差し向けた刺客(シカク)だった。

 阿修羅坊は京に帰ると、事実をすべて打ち明けた。美作守は阿修羅坊から話を聞いて、とても信じられないようだった。

 山伏の小僧一人、消す事など何でもない事だと思っていた。すでに、太郎坊などこの世にいないものと思い込み、すっかり、太郎坊の事など忘れていたと言ってもよかった。久し振りに阿修羅坊が戻って来たと聞いて、さては例の宝を捜し当てたな、と機嫌よく阿修羅坊を迎えた美作守だった。

 ところが、阿修羅坊の口からは思ってもいなかった事が飛び出して来た。阿修羅坊の手下が四十人もやられ、太郎坊は無事に生きていて置塩城下にいると言うのだ。阿修羅坊が、いつものように戯(ザ)れ事を言っているのかと思ったが、阿修羅坊の表情は真剣そのものだった。しかも、右手を怪我している。

 詳しく聞いてみると、宝輪坊と永輪坊の二人も太郎坊にやられて、永輪坊は死に、宝輪坊は片腕を失ったとの事だった。美作守も宝輪坊と永輪坊の二人は知っている。彼らの実力も知っている。戦の先陣にたって、彼らが活躍している所を見た事もある。美作守が知っている限り、武士でさえ、あの二人にかなうものはいないだろうと思っていた。それが二人ともやられたとは、とても信じられなかった。さらに、この屋敷に忍び込んで、例の宝の話を天井裏から聞いていたというのだから驚くよりほかなかった。
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22.松阿弥2






 みんなが帰って来て、急に賑やかになった。

 太郎は『浦浪』の一室から、外を眺めながら夢庵から言われた事を考えていた。

 いつまでも、こんな所に隠れていてもしょうがない事はわかっている。宝も捜し出した事だし、そろそろ、表に出る頃合だとも思っていた。夢庵が間に立ってくれれば、うまく行くような気もした。阿修羅坊が連れて来た松阿弥とやらを倒したら、思い切って別所加賀守に会ってみようと決心した。

 太郎がぼんやり外を眺めていると、見た事ないような職人が中庭に入って来た。どうも紺屋(コウヤ)の職人のようだった。その職人は太郎に軽く頭を下げると、「すんません。太郎坊様とかいうお方はおりますかいの」と言った。

「太郎坊というのは、わたしだが」

「はあ、そうですか。あの、行者さんが会いたいと言っておりますが‥‥‥」

「行者? どこにいるんだ」

「あの、あっちです」と職人は河原の方を指さした。

 一体、誰だろう、と河原まで出てみると、そこにいたのは阿修羅坊だった。

「やあ、元気か」と阿修羅坊は馴れ馴れしく、太郎に声をかけて来た。今まで、太郎の命を狙っていた事など、すっかり忘れてしまったような口振りだった。

「どうしたんです」と太郎は阿修羅坊の顔色を窺った。

「ちょっと、話があってのう」

「よく、ここがわかりましたね」

「ああ、偶然、おぬしの連れを河原で見つけてのう、後を付けて来た。あの金勝座とかいうのも、おぬしの仲間か」

「ええ」

「おぬしには色々な仲間がいるようじゃのう」

「話とは何です」

「まあ、立ち話も何じゃから座って話そう」

 阿修羅坊と太郎は川の側の石の上に腰を降ろした。
23.別所加賀守1






 松阿弥との決闘のあった雨降りの日、太郎は夢庵肖柏に、今までのいきさつをすべて話していた。そして、別所加賀守に会わせてくれるように頼んだ。

 夢庵は快く引き受け、さっそく、別所屋敷へと向かった。

 その頃、別所屋敷では楓の旦那である愛洲太郎左衛門久忠という男の正体をつかむため、御嶽山清水寺(ミタケサンキヨミズデラ)の山伏を愛洲氏の本拠地、五ケ所浦に送っていた。

 浦上美作守が瑠璃寺の山伏を使っているのと同様に、別所加賀守は清水寺の山伏を使って情報集めをしていた。

 すでに、赤松家の重臣たちの間にも、楓御料人様の旦那様が生きていて、もうすぐ城下にやって来る、という噂は流れていた。

 新しく作る城下町の事と楓の披露式典の事で、毎日、開かれている評定(ヒョウジョウ)の場でも、その噂は問題となり、別所加賀守は真相を確かめるために、三日前に京の浦上美作守のもとに早馬を飛ばしていた。また、町奉行の後藤伊勢守も噂の出所の追及に乗り出していた。

 後藤伊勢守は金勝座の『楓御料人物語』も見ていた。金勝座の者たちは後藤伊勢守の姿を見つけ、一騒動、起こりそうだと心配したが、後藤伊勢守は座頭の助五郎から物語の内容に関する、ちょっとした話を聞くと帰って行った。捕まるかもしれないと覚悟していた金勝座の者たちは、ほっと胸を撫で下ろした反面、気抜けしたような感じだった。

 後藤伊勢守は、金勝座がこの前、別所屋敷で上演し、成功していたのを知っていた。現に後藤伊勢守の妻と娘も金勝座の舞台を見て、良かったと伊勢守に話していた。確かではないが、金勝座は楓御料人が京から呼んだ芸人たちだ、という噂も流れていた。簡単に捕まえて、取り調べをする訳にはいかなかった。

 後藤伊勢守は調べて行くうちに、この噂が城下だけに広まっているのではないという事を知った。すでに、播磨の国一円に流れていた。

 播磨国内の国人たちは、常に赤松家の情勢に耳をそば立てている。ちょっとした事でも、自分たちの運命を左右する場合があった。お屋形様である赤松政則が、今、どこで何をしているか、また、何をしようとしているかを素早く知り、それに対処して行かなければならなかった。

 国人たちは常に新しい情報を求めていた。後の時代のように間者(カンジャ)を放ってまで情報収集をしていたわけではないが、旅の商人や僧侶、山伏などから色々な情報を手に入れていた。

 国人たちはすでに、お屋形様の姉上様が置塩城下に来ているという事は知っていた。まだ日取りまでは決まっていないが、お屋形様が戻って来たら披露の式典をやるので、必ず、参加してほしいとの連絡を受けていた。その姉上様の旦那様が生きていて城下に来るという噂は、大問題として国人たちの間に広まって行った。
24.別所加賀守2






 昨日の大雨が嘘のように、空は晴れ渡っていた。

 もう、すっかり秋空だった。

 約束の時間に、夢庵は太郎を連れて別所屋敷に現れた。太郎はいつもの職人姿のままだったが、洗い立てのようにさっぱりとしていた。

 玄関に入ると、正面に立派な屏風(ビョウブ)が飾ってあった。水墨画で春夏秋冬の山水を描いた物だった。

 太郎が水墨画を眺めていると、「狩野越前守(正信)じゃよ」と夢庵が言った。

「はあ?」と太郎が夢庵を見ると、夢庵も絵を見ていた。

「将軍様、お気に入りの絵師じゃ」

「へえ‥‥‥」

 太郎には絵の事はよくわからないが、うまいものだと感心していた。

 やがて、執事の織部祐が出て来た。

「ようこそ、いらっしゃいませ。殿がお待ちしております」と言って、太郎の姿をじろじろと見た。

 夢庵と太郎は織部祐の後に付いて行った。

 大広間の横を通って行くと中庭に出た。

 中庭には、この間の舞台が、まだ、そのままあった。舞台の横で侍が二人、弓術の稽古をしている。中庭に沿って、くの字に曲がった広い廊下を行き、一番奥にある部屋に案内された。

 畳の敷き詰められた広い部屋の中で、別所加賀守と楓が座って待っていた。

 楓と会うのは、この屋敷で金勝座が上演して以来、十一日振りだった。

 楓は太郎の顔を見ると、一瞬、顔をほころばせたが、また、すぐに済まし顔に戻って目を伏せた。少し太ったかな、と太郎は思った。

 別所加賀守とは初めてだったが、どこかで会ったような気がした。見るからに、頭の回転の早そうな知恵者という感じだった。歳は三十の半ば位か、思っていたよりも若かった。浦上美作守と比べれば、別所加賀守の方が、いくらかは信じられそうな気がした。
25.銀山1






 やけに風が強かった。

 雨雲が物凄い速さで東の方に流れて行く。

 昼頃まで、かなり強い雨が降っていたが、今はやんでいた。

 四人の山伏が急ぎ足で、播磨と但馬の国境を越えようとしていた。

 この辺りを真弓峠と言う。

 峠を越えれば、山名氏の領国、但馬だった。

 四人の山伏は太郎と三人の弟子たちだった。

 四人は峠の手前から街道をそれて山の中に入った。

 山伏は手形などなくても、どこの国へも行く事ができた。しかし、赤松氏の領国から敵の山名氏の領国に行くのだから、そう簡単に通してはくれないだろう。こんな所で、無駄な時間を食いたくはなかった。

 山の中から街道を見下ろすと、峠を少し下りた辺りに関所が二つあった。赤松氏の関所と山名氏の関所で、どちらも、それ程、警戒が厳重でもなさそうだった。しかし、山名氏の方は峠を見下ろす小高い山の上に、城だか砦だかわからないが何かがあり、国境を守っていた。赤松氏の方も同じように山の上から睨みを効かしているのだろうが、ここからは見えなかった。とりあえず、どれだけの兵がいるのか、一応、調べた方がいいだろうと、四人はその山に登った。

 山上には狼煙(ノロシ)台と小さな小屋が立っているだけだった。濠も掘ってないし、土塁も築いてない。戦闘の為の砦ではなく、ただの狼煙台のようだ。兵の数も五、六人という所だろう。この辺りは山が深いせいか、山名氏もあまり警戒していないようだった。

 四人は山を下りると、目的地の生野に向かった。
26.銀山2






 彼らは皆、働き者だった。

 朝早くから皆、働きに出て行った。男たちは武器を持って、見張りや、狩りや、炭焼きに出掛け、女たちは川に行って、水を汲んだり、洗濯をしたり、畑仕事に励んでいた。二十七人もいる孫たちは、年長の子供が小さい子供の面倒をよく見ていた。

 銀山の事を知っていながら、銀に手を付けない彼らは、炭焼きで生計を立てていた。田や畑はあっても、それだけでは、とても五十何人もを食わせて行く事はできない。銀を製錬するには炭も必要であり、彼らは上等な炭を作る技術を持っていた。彼らは炭を作り、岩屋谷の市場に持って行って売っていた。

 太郎たちは左京大夫と小五郎に連れられて、銀の鉱脈を見に行った。それは谷川をさかのぼり、少し山の中に入った所にあった。

 草木を掻き分け、急斜面をよじ登り、奥の方に入って行くと急に岩場にでた。目の前に大きな岩が迫り出ている。さらに、岩と岩の間をよじ登って、その大きな岩の裏側辺りに出た。

「あれじゃ」と左京大夫は山肌に飛び出している岩を指さした。

「あれが、銀ですか」と探真坊が聞いた。

「光ってないやんか」と八郎坊は言った。

「ほれ、あそこに筋が見えるじゃろ。あれが銀の鉱脈じゃ」と小五郎が言った。

 よく見ると、その岩には斜めに帯のような縞模様が入っていた。あれが銀だと言われれば、そのような気もするが、言われなければ、ただの岩にしか見えない。とても、素人(シロウト)に捜せるような代物(シロモノ)ではなかった。

「あれで、どの位の銀が取れるのですか」と太郎は鉱脈を眺めながら聞いた。

「そうさのう。この鉱脈はかなりの銀を含んでおるからのう。鉱脈の深さにもよるが、露頭(ロトウ、地表に現れている部分)だけでも、二貫(七、五キロ)余りの銀は取れるじゃろう」と小五郎は言った。

「二貫(カン)‥‥‥銀二貫と言えば、銭にしたら、ええと‥‥‥」探真坊が計算しようとした。

「大体、二百五十貫文(カンモン)位かのう」と左京大夫が言った。

「二百五十貫文か‥‥‥」と八郎坊は唸った。二百五十貫文と言われても、八郎坊には想像すらできなかった。
27.正明坊






 太郎たちが生野の山中で、鬼山(キノヤマ)一族の長老、左京大夫に連れられて銀の鉱脈を見ていた八月の十七日、京の浦上屋敷では美作守が、太郎の偽者を仕立てて国元に送ろうと準備に忙しかった。

 国元の『噂』は、すでに、在京している赤松家の重臣たちの耳にも入っていた。

 重臣たちは美作守に真相を聞きに来た。美作守は楓御料人の御主人は生きてはいるが、今、大怪我をしていて療養中だ。もう少し良くなったら、改めて紹介すると言ってごまかしてきた。阿修羅坊が太郎坊を連れて来るまで、何とか、ごまかすつもりでいた。

 身分や名前も聞かれたが、本名を言うのはまずいと思い、その時、たまたま、ひらめいた名前を告げた。その名は京極次郎右衛門高秀といい、今は亡き、大膳大夫(ダイゼンノタイフ)持清の四男だった。高秀は西軍に寝返った甥の京極高清と戦って負傷し、今、美作守の手の内にあった。京極氏なら重臣たちも文句を言うまいと、その場を治めるために言った出まかせだった。また、太郎坊を京極氏として国元に送るのも悪くないなと思った。太郎坊を形だけでも、京極氏の養子として送ればいい。今の赤松家の力を持ってすれば、その位の細工は簡単にできた。

 京極氏とは近江源氏の佐々木一族だった。

 鎌倉時代の初期、佐々木左衛門尉(サエモンノジョウ)信綱が所領を四人の息子に分け、それぞれが大原氏、高島氏、六角氏、京極氏を名乗って独立した。やがて、大原氏と高島氏は廃れて行くが、京極氏と六角氏は残って行った。

 京極氏からは南北朝時代に佐々木道誉(ドウヨ)が出て、足利尊氏の室町幕府に協力して勢力を広げた。その後も、幕府の重職に付き、赤松家と同じく四職家(シシキケ)の一つとなっている。また、道誉の娘は赤松性具(満祐)の祖父、律師則祐(リッシソクユウ)の妻となっている。

 応仁の乱の時には京極氏は東軍に付き、近江の守護職を巡って、西軍に付いた同族の六角氏と争っていた。

 そして、今はと言えば、京極氏も内部分裂して二つに分かれ、家督争いをしている。京極持清は東軍の将として活躍し、幕府の重要な地位にいたが、四年前に亡くなっていた。家督を継ぐはずの嫡男、中務大輔(ナカツカサノタイフ)勝秀は、それより以前、応仁二年(一四六八年)に戦の陣中に於いて病没していた。

 持清が死ぬと、まだ幼い勝秀の子、孫童子丸(ソンドウシマル)に家督が認められたが、持清の次男、治部少輔政経と三男、民部少輔政光が家督を巡って争い、政経が孫童子丸の後ろ盾となると、政光は孫童子丸の弟、乙童子丸を立てて対立し、有力家臣たちも二つに分かれて争いを始めた。やがて、政光は西軍に寝返り、南近江を支配している同族の六角氏と手を結び、政経らを北近江から追い出し、近江の国は西軍の支配する国となっていた。

 去年の十一月、政光が亡くなり、政経は、今が敵を倒す絶好の機会だと、北近江に進撃した。しかし、敵はしぶとく、結局、負け戦となり、大勢の犠牲者を出してしまった。

 その戦に、次郎右衛門高秀も東軍の政経方として出陣して負傷し、山中に隠れていたところを美作守配下の山伏、正明坊(ショウミョウボウ)に助けられた。

 美作守は正明坊からその事を聞き、京極氏の伜なら、後で何か使い道があるだろうと正明坊に助けてやれと命じた。今、次郎右衛門はどこかに匿われて療養しているはずだった。

 美作守はその男、次郎右衛門を楓の亭主に仕立て、うまい具合に話をこじつけた。

 楓御料人様は応仁の乱が始まってから、ずっと甲賀の尼寺に隠れていて、御主人の無事を祈っていた。今回の戦で、御主人が行方不明になり、死んだものと諦めていた。しかし、無事に生きていて、これで、御料人様も御主人共々、赤松家に迎えられ、めでたし、めでたしじゃと美作守は重臣たちの前で笑った。

 美作守の話を聞いていた重臣たちも、すっかり美作守の話を信じてしまった。

 御料人様の御主人というのが京極氏だったという事が、重臣たちにとって何よりも嬉しい事だった。どこの馬の骨ともわからない者が、お屋形様の兄上として赤松家に入って来ては困るが、源氏の名族の佐々木氏、しかも、赤松家と同じ四職家の京極氏なら、文句などあるはずはなかった。重臣たちも、めでたしめでたしと言いながら、以後の事を美作守に頼むと満足して帰って行った。
28.婆裟羅党






 太郎坊、風光坊、探真坊、八郎坊の四人が、見事に銀山を見つけ出し、置塩城下に戻って来たのは、十八日の昼過ぎの未(ヒツジ)の刻(午後二時)頃だった。

 木賃宿『浦浪』に戻ると、京から戻った藤吉が待っていた。今日は舞台がないので、金勝座の者たちもごろごろしていた。

 太郎は待っていた金勝座の者たちに旅の成果を知らせた。皆、大喜びだった。そして、こちらの方の準備の具合を聞くと、順調に行っていると言う。武器、武具、馬も、みんな揃い、人数も二百五十人集まっている。夢庵はすでに、武器や武具を積んだ荷車を五台率いて、紺屋(コウヤ)二十三人と共に、先に大谿寺(タイケイジ)に向かったと言う。

 馬に乗れる者も馬借(バシャク)が三十三人と浪人者が十二人集まった。荷車はあと十五台あり、いつでも出発できるようになっていると言う。

 太郎は左近からの話を聞き終わると皆にお礼を言って、今度は、藤吉から京の浦上美作守の様子を聞いた。

「美作守は思った通り、太郎坊殿の偽者を仕立てました。その偽者というのは京極氏の伜です」

「京極氏?」と探真坊が聞いた。

「近江の佐々木氏の一族です。六角氏と同族で、赤松氏と同じく四職家の一つです」

「家格が合うと言うわけですね」と太郎は言った。

「はい、そうです。ただ、どうも、そいつも臭い。わたしが思うには、そいつも偽者のような気がします」

「どういう事です」

「詳しくはわかりませんが、どうも話がうま過ぎます。伊助殿が、その辺のところは調べるとは思いますけど。それと、美作守が夜、こっそりと阿修羅坊以外の山伏と会っていました。誰だかはわかりませんが、何かをたくらんでいるようです」

「阿修羅坊以外の山伏か‥‥‥」やはり、新しい敵が現れたかと太郎は思った。

「その偽者ですけど、今日、京を立ったはずです。こっちに着くのは二十二日の予定です」

「二十二日か‥‥‥となると、播磨の国境を通るのは早くて、二十日の午後、遅くても二十一日の昼までには通るな。偽者はどこを通って来ますか」

「有馬街道です」

「やはり、そうですか。夢庵殿の勘が当たったわけですね」

「はい。ところで、もし、太郎坊殿に化けているのが本物の京極氏だとしたら、美作守は殺すでしょうか」

「わかりません。殺さなかった場合は、また、後で考えましょう。とりあえずは、大谿寺で待機して相手の出方を見ましょう」

「そうですね」
29.赤松政則






 すがすがしい、いい天気だった。

 太郎は別所屋敷の庭の片隅に座り込んで、木彫りの馬を彫っていた。

 側では百太郎と加賀守の子供、小笹と小三郎が見ていた。小笹は十歳の女の子で、小三郎は百太郎と同い年の三歳だった。三人は仲がよく、小笹は姉さんらしく、よく二人の面倒を見ていた。

 太郎は昨日の昼過ぎ、楓御料人様の御主人として威風堂々と城下に入って来た。城下の町人たちの歓迎は物凄いものだった。大通りの両脇は太郎を一目見ようと人々で埋まっていた。

 太郎たち一行は大谿寺を出て西に進み、加古川を渡った。その晩は、そこで夜を明かすつもりでいた。ところが、加古川を渡った所で、天神山城主の櫛橋豊後守(クシハシブンゴノカミ)の使いの者が待っていた。

 櫛橋豊後守は赤松家の年寄衆の一人だった。櫛橋氏は代々、赤松家のために働いて来た重臣だった。豊後守の父親、左京亮貞伊(サキョウノスケサダタダ)は嘉吉の変の時、性具入道の嫡男、彦次郎教康と共に伊勢に逃げ、その地で自害して果てていた。

 当時、九歳だった豊後守は身を守るために出家させられたが、応仁の乱になり、赤松家が播磨の国を取り戻すと召し出され、還俗して政則の家臣となった。その後、活躍して、以前のごとく年寄衆の一人となり、天神山城の城主となっていた。

 豊後守はその頃、別所加賀守と一緒に置塩城下にいたが、加賀守に頼まれ、天神山城に戻って太郎が来るのを待っていたのだった。

 太郎は河原者たちを引き連れて、堂々と城下に入って来ると言ったが加賀守は心配だった。お屋形様の兄上として恥ずかしくない立派な姿で入場してもらわなければならない。加賀守は櫛橋豊後守に、もし、太郎がみっともない姿だったら直し、また、兵の方も豊後守の兵を使ってでも、立派な姿にして城下に入れてくれ、と頼んだのだった。

 太郎は豊後守の天神山城下の屋敷で、丁寧な持て成しを受けた。豊後守は、太郎の連れて来た兵たちが河原者だと知ってはいても、一応、武士として、太郎の家来として扱ってくれた。河原者たちもすっかり武士になりきり、豊後守の家臣たちとうまくやっていたようだった。

 豊後守は自ら騎馬武者二十騎と太鼓や法螺貝を持った兵二十人を率いて、太郎たちの先頭に立ってくれた。豊後守が先頭にいるため、置塩城下に入る前に、小寺藤次郎の庄山(ショウヤマ)城下、小寺藤兵衛の姫路城下、守護所の坂本城下などでも太郎は歓迎を受けた。

 豊後守の隊の後には、申之助と源次郎の率いる三十九人の散所者が槍を担いで続き、その後ろに、八兵衛率いる三十六人の川の民が弓を担ぎ、その後ろに、京介率いる皮屋二十五人が槍を担いで続いた。彼らは皆、真っ黒な甲冑を身に着け、堂々と行進していた。

 その徒歩武者の後ろに、別所造酒祐率いる正規の騎馬武者五十騎と堀次郎が京から連れて来た十二騎が続いた。造酒祐率いる騎馬隊は浅葱(アサギ)色(緑色がかった薄い青)の甲冑に統一していた。堀次郎の隊は様々な色の甲冑だった。真っ黒の中に彼らの甲冑は目立っていた。

 正規の武士たちの後ろに、八郎坊、風光坊、探真坊の三人が黒の甲冑に身を固め、馬に乗っていた。三人とも真剣な顔をして、すっかり武将気取りだった。そして、藤吉、医者の磨羅宗湛、吉次が続き、伊助と次郎吉が大将である太郎の両脇を固め、その後ろに阿修羅坊、甚助、弥平次と続いた。それなりに皆、大将である太郎を守っている武将たちに見えた。

 その後ろには、朝田新右衛門率いる浪人十二人と桜之介率いる三十三人の馬借が馬に乗って従い、その後ろには徒歩武者、勘三郎率いる金掘りが二十四人、辻堂率いる乞食五十二人、弥次郎率いる紺屋二十三人が続いていた。そして、最後尾に、夢庵と銀左、金比羅坊の三人が馬に乗って付いて来ていた。総勢三百六十一人、寄せ集めの軍勢だが戦に行くわけではなく、ただ、太郎を京から置塩城下に送るだけの軍勢なら、これ位の人数で充分だった。知らない者が見たら、充分に立派な軍隊に見えた。

 太郎は、その立派な軍隊を率いて、置塩城下に堂々と乗り込んで行った。
30.赤松日向守1






 赤松政則が帰って来た次の日、太郎と楓は別所屋敷で、堅苦しい正装を着せられ、加賀守が迎えに来るのを朝からずっと待っていた。迎えはなかなか来なかった。

 昼過ぎになって、やっと迎えが来て、別所屋敷から目と鼻の先にあるお屋形様の屋敷まで、わざわざ太郎は馬に乗り、楓は豪華な牛車(ギッシャ)に乗って向かった。

 太郎の名前は色々と検討した結果、赤松姓を名乗る事となり、赤松日向守久忠という名に決まっていた。

 赤松日向守久忠となった太郎は別所加賀守の後に従い、楓と共に豪華で立派なお屋形様の屋敷へと入って行った。南側にある正門をくぐると両脇に警固の侍が並び、正面に大きな屋敷が見えた。広い庭は塀によって幾つかに区切られていた。

 後でわかった事だが、右側の塀の向こうには弓矢の稽古をする広い射場があり、侍たちの長屋があった。左側の塀の向こうには槍の稽古をする所と大きな廐があり、鷹(タカ)を飼っている小屋もあった。小屋といっても、鷹がいる、その小屋は一般庶民が住む家よりも広くて立派な造りだった。そして、さらに向こうに、太郎が兵を引き連れて城下に入った時、見物人たちが引き上げるまで、しばらくの間、待機していた細長い馬場があった。

 太郎と楓は加賀守の後に従って屋敷の中に入ると、政則の執事、櫛田内蔵助(クシダクラノスケ)の案内で書院に連れて行かれた。

 玄関を上がると広い廊下が真っすぐ続いていた。左側には大広間があるらしく、水墨で描かれた山水画の襖(フスマ)がずらりと並んでいる。その山水画が切れると、小さな橋を渡って奥へと進んだ。橋の下には細い川が流れていて、川の両側には花を咲かせた草木が植えてあった。

 小さな部屋が幾つも並んでいる所を通り抜けると、右側に池や山のある見事な庭園が見えた。萩の花が咲き乱れ、池の中には金色に塗られたお堂のような建物まで建っている。まさに、極楽浄土といえるような庭だった。

 その庭園を右に見ながら進み、太郎と楓は左側にある一室に通された。

 そこは畳十八畳が敷き詰められた書院だった。極楽浄土の庭園とは反対側にある庭に面していて、その庭の中央には猿楽の舞台が建てられてあった。こちらも広い庭だったが池や山などは無く、舞台の他には隅の方に休憩用の小屋が一つあるだけだった。

 太郎と楓は加賀守と共に、その書院で待った。

 しばらくして、二人の侍が現れ、「お屋形様のお越しでございます」と言った。

 太郎と楓は加賀守に言われるまま、姿勢を正して頭を下げた。
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