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陰流の開祖であり、忍びの術の開祖でもある愛洲移香斎の物語です。
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26.早雲



 糸のような細い雨が降っていた。

 霞がかかったように朝靄が立ち込めている。

 境内の片隅に咲いている色褪せた紫陽花の花が雨に打たれて濡れていた。

 一人の僧侶が僧坊の軒先から、どんよりとした空を見上げている。

「早雲殿、今日は一日、雨降りですぞ、ゆっくりして行きなされ」

 僧坊の中から声が聞こえた。

 僧侶は振り返って返事をすると、また、空を見上げた。

 別に急ぐ旅でもなかった。目的があって、旅に出たわけでもなかった。ただ、雲のように、自由にフラリと旅に出ただけだった。しかし、ここまで来て、僧侶の足の運びは鈍っていた。

 別に雨が降っているからではない。雨が降ろうと雪が降ろうと、そんな事を一々、気にするような柄ではなかった。

 僧侶は何事か悩んでいるようであった。

 長い旅をして来たとみえて、僧侶の墨衣は色も褪せ、あちこちが破れていた。ただ、不釣合いに、頭と髭は剃ったばかりかのように綺麗さっぱりとしていた。

 僧の名は自称、早雲と言った。

 以前、彼が京の大徳寺で参禅していた頃、一休禅師と出会い、語り明かした事があった。語り明かしたというより、飲み明かしたと言った方が正確だが一休の禅は本物だった。

 肩書ばかり立派で、内容の伴わない禅僧ばかりいる今の世で、一休は本物の禅僧だった。何物にも囚われず、本物の禅を自ら実行し、一休自身が禅そのものだった。

 一休禅師に会ったのは、その時のただ一度だけだが、その時の事は、今でもよく覚えている。

 あの時の彼はまだ若く、武士として、また、人間として、夢も欲も人一倍あった。自ら禅僧になる気など毛頭なかったが、彼は一休を尊敬した。そして、今、俗世間と縁を切り僧侶となって、改めて、一休禅師の偉大さが身に染みてわかるのだった。

 彼が一休と出会った時、一休は狂雲という別の号を使っていた。彼も真似をして、自分で早雲と名付けた。

「早雲殿、お茶でもいかがじゃ」と僧坊の中から声がした。

「はい、どうも」と早雲は僧坊の中に入って行った。

「ゆっくり、して行きなされ」と老僧は早雲に熱いお茶を差し出した。

「はい、どうも」早雲はまた礼を言って、お茶を受け取った。

「のんびり、いで湯にでも浸かって、旅の疲れを癒す事じゃ」

「はい」

「こんな山の中でも、だんだんと物騒な世の中になって来てのう。堀越に公方様が来られてからというもの、伊豆の国は戦に明け暮れておるわい。困ったもんじゃ」

 早雲はお茶をいただきながら、老僧の世間話を適当に相槌を打ちながら聞いていた。

 早雲と名乗る前の名前は伊勢新九郎盛時と言った。

 僧となり、旅に出てから、もう一年以上が経っている。一年余りの間、新九郎は北陸から越後に抜け、上野(群馬県)、下野(栃木県)、武蔵(埼玉県、東京都)、相模(神奈川県)と一回りして、今、伊豆の修禅寺に来ていた。

 どこに行っても戦をやっていた。

 人と人が殺し合い、民衆は逃げ惑っていた。

 孤児は泣き叫び、女たちは悲鳴を上げ、戦死した兵たちは身ぐるみ剥がされ、死臭を放ちながら放置されている。乞食や足軽と呼ばれる無頼の徒がどこの町にも溢れていた。

 新九郎は京にいて、応仁の乱をこの目で見て来た。将軍家、管領家が、そして、守護大名が同族同士で争い、血を流して来た。武士同士で争っているのならまだいい。しかし、実際は関係のない農民、町民も巻添えを食って殺され、また、農民も武器を手にして武士に対抗し、血を流して来た。京の都は荒れ果て、焼け野原となり、乞食が溢れ、強盗、放火、殺人、強姦、追いはぎが大っぴらに行なわれ、人の心も荒んで行った。

 もう、どうにでもなれ!

 この世は終わりだ!

 今が良ければそれでいい。自分さえ良ければそれでいい!

 誰もがそう思い、好き勝手な事をしていた。

 もう、見たくはなかった‥‥‥

 新九郎は逃げて来た。

 正式に僧になったわけではなかったが、もう、俗世間とは縁を切りたかった。俗世間と縁を切り、のんびりと旅がしたかった。

 しかし、戦をしているのは京の近辺だけではなかった。どこに行っても争いは絶えなかった。いくら、自分が逃げても現実は付いて来た。また、現実から逃げるという事は、新九郎には性格的にできなかった。

 新九郎もすでに四十歳を過ぎていた。人生五十年と言われていたこの時期、すでに晩年に入っていた。

 若い頃は、新九郎にも野心があり、せっかく生まれて来たからには、一旗挙げようと思い、田舎から京の都に出て行った。しかし、出番はなかなか来なかった。待って待って、やっと三十歳を過ぎた頃、将軍の跡継ぎになるという足利義視の申次衆(モウシツギシュウ)という役が回って来た。

 とうとう、俺の出番が来た、と新九郎はやる気になって励んだ。

 足利義視に期待を懸け、次の将軍として、今の世をまとめてくれる事を願った。しかし、結局は、将軍義政に子供が生まれ、義視の存在は邪魔者となって行った。また、義視という人間は将軍としての器を持っていなかった。

 そして、応仁の乱‥‥‥東軍の総大将に任じられながら、義視は義政の妻、日野富子が恐ろしくて伊勢に逃げ出した。一年以上、伊勢の国で好き勝手な事をしていて、また、京に戻ったが、すぐに比叡山に逃げ出し、今度は西軍に迎えられ総大将となっている。

 新九郎は義視と一緒に京には戻らなかった。もう、義視に愛想が尽きていた。もう、どうでも良かった。もう、自分の人生を半ば諦めていた。

 雲のように自由に、何にも縛られないで残りの十年を生きたかった。そして、もう少し、遅く生まれて来れば、もっと、生きがいのある人生が送れたかも知れないと、早すぎた雲、早雲と自ら名付け、旅に出たのだった。

 早雲となった新九郎は伊豆の修禅寺まで来て悩んでいた。

 駿河には妹の美和がいた。

 妹と言っても、早雲とは年が二十歳も離れている。妹が生まれた時、早雲は京にいたので知らなかったが、その妹が三歳の時、京の伊勢家に養子となって来た。妹は将軍家の政所執事、伊勢家の娘として育てられ、早雲はただの居候に過ぎなかったので、めったに会う事もなかった。

 後に、足利義視の申次衆となった時、東軍の将として駿河から出て来た今川治部大輔義忠と何度も会い、妹との仲を取り持ったのが早雲だった。妹と今川義忠が一緒になり、駿河に帰って行く時、早雲は義視の供として伊勢の国にいたので見送る事はできなかった。遠い異国に行った妹は、心細いのか、早雲宛に何度か、手紙を送ってよこした。

 今川氏は足利一門の名門であった。源氏の大将、八幡太郎義家の孫、義康が下野の国、足利庄に住んで足利氏を称した。その足利義康の孫、義氏の子、長氏が三河の国(愛知県東部)吉良庄に住んで吉良氏を称し、長氏の次男、国氏が今川という地に移って、今川氏を称したのが始まりだった。今川国氏の孫、範国は足利尊氏を助けて活躍し、駿河と遠江(静岡県)の守護となって駿河の府中である駿府(スンプ)に移り、代々、室町幕府の重要な地位に就いていた。

 早雲の妹の主人となった今川義忠は、範国から数えて六代目の駿河の守護だった。今は遠江の守護職を斯波氏に取られてしまっていたが、応仁の乱となり、西軍となった斯波氏に対抗して、東軍となった今川氏は遠江を取り戻そうと遠江に兵を進めていた。

 京を出る時は、必ず、妹に会いに行こうと思っていたのに、いざ、行くとなると、何となく心が重かった。

 主人の今川義忠はなかなかいい男だった。早雲が行けば、喜んで迎えてくれるだろう。しかし、今の早雲こと新九郎には引け目があった。京で今川義忠に会った時には足利義視の申次衆という肩書きがあった。今は薄汚れた、ただの偽坊主だった。かと言って、ここまで来て、会わずに素通りするのも変だった。

 さりげなく、早雲は老僧に今川氏の事を聞いてみた。

「駿河の今川殿は名門じゃ。実力もある。駿河の国は今川殿のお陰で、伊豆の国のように乱れておらんじゃろう。駿府のお屋形様は京のお公方衆にも覚えがいいと聞く。奥方様も京からお連れになったらしい。いっその事、伊豆の国も今川殿がまとめてくれればいいのにのう。そう言えば、お屋形様の跡継ぎ様が去年、お生まれになったそうじゃ。今川殿は益々、大きくなって行くじゃろう」

 跡継ぎが生まれた‥‥‥それは知らなかった。妹に今川家の跡継ぎが生まれた‥‥‥

 とにかく、会うだけは会ってみよう、と早雲は思った。

 その後はどうにでもなれだ。どうせ、世を捨てた身だ、どうなっても構わない。妹の幸せな姿を一目見るだけでもいいじゃないか、それに、妹の子供にも会ってみたい。

 早雲はそう決めると、老僧に礼を言い、雨の降る中、妹のいる駿府へと目指した。




陰の流れ《愛洲移香斎》第一部 陰流天狗勝 終
 
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