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- 第二部 赤松政則の記事タイトル一覧
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21.松阿弥1
1
太郎たちが城山城で宝を捜している頃、右手を首から吊った阿修羅坊が、渋い顔をして播磨の国に向かっていた。
一人ではなかった。
痩せ細った僧侶が一緒だった。年期の入った杖を突き、時々、苦しそうに咳き込んでいる。ちょっと見ただけだと、どこにでもいるような時宗の遊行僧(ユギョウソウ)に見えるが、死神のような、近寄りがたい殺気が漂っていた。
僧の名を松阿弥(マツアミ)といい、浦上美作守が太郎を殺すために差し向けた刺客(シカク)だった。
阿修羅坊は京に帰ると、事実をすべて打ち明けた。美作守は阿修羅坊から話を聞いて、とても信じられないようだった。
山伏の小僧一人、消す事など何でもない事だと思っていた。すでに、太郎坊などこの世にいないものと思い込み、すっかり、太郎坊の事など忘れていたと言ってもよかった。久し振りに阿修羅坊が戻って来たと聞いて、さては例の宝を捜し当てたな、と機嫌よく阿修羅坊を迎えた美作守だった。
ところが、阿修羅坊の口からは思ってもいなかった事が飛び出して来た。阿修羅坊の手下が四十人もやられ、太郎坊は無事に生きていて置塩城下にいると言うのだ。阿修羅坊が、いつものように戯(ザ)れ事を言っているのかと思ったが、阿修羅坊の表情は真剣そのものだった。しかも、右手を怪我している。
詳しく聞いてみると、宝輪坊と永輪坊の二人も太郎坊にやられて、永輪坊は死に、宝輪坊は片腕を失ったとの事だった。美作守も宝輪坊と永輪坊の二人は知っている。彼らの実力も知っている。戦の先陣にたって、彼らが活躍している所を見た事もある。美作守が知っている限り、武士でさえ、あの二人にかなうものはいないだろうと思っていた。それが二人ともやられたとは、とても信じられなかった。さらに、この屋敷に忍び込んで、例の宝の話を天井裏から聞いていたというのだから驚くよりほかなかった。
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──何という奴じゃ‥‥‥
──まったく、信じられん‥‥‥
美作守は厳しい顔で、何度も首を振った後、阿修羅坊を見て苦笑した。
「楓殿も大した男と一緒になったものよのう。楓殿の方はどうなんじゃ」
「大丈夫じゃ。別所屋敷で、のんびりと暮らしておる」
「太郎坊に盗まれはせんじゃろうのう」
「奴もそれ程、馬鹿ではないじゃろう。赤松家を相手に戦っても勝てない事くらい知っておるわ」
「奴は、どうするつもりなんじゃ」
「とりあえずは、お屋形様の帰りを待っておるんじゃろう。一度、対面させて、それから、どうするかは、奴もまだ考えていないらしい」
「まあ、どっちにしろ、あの城下から生きては出られまい」
阿修羅坊は頷いた。「ただ、こっちも、かなりの被害は出るじゃろう。奴の事じゃ。お屋形様を道連れにするかもしれんのう」
「そんな事ができるものか」
「いや、奴ならやる。この屋敷に忍び込んだくらいじゃからな」阿修羅坊は天井を見てから、美作守を見て、渋い顔のまま笑った。「そして、もし、生きて城下から出る事ができたら、まず、おぬしの首はないというわけじゃ」
「脅かすな」
「脅しじゃない。ありうる事じゃ。奴はただ強いだけじゃない。兵法(ヒョウホウ)も心得ておる。人の虚を突いて来るのがうまい。もしかしたら、すでに、この屋敷に忍び込んでおるかもしれん」
「ふん」と言ってから、美作守は気味悪そうに天井を眺めた。「おぬしの考えはどうなんじゃ」
「わしか‥‥‥わしはいっその事、味方にしたら、どうかと思うんじゃ」
「なに、楓殿の婿として赤松家に迎えろというのか」
「そういう事になるかのう」
「どこの馬の骨ともわからん奴をか」
「馬の骨かも知れんが腕が立つ。敵に回すよりは適策じゃと思うがのう」
「しかしのう‥‥‥」
「今の赤松家は優秀な人材が欲しい時じゃろう。とにかく、利用するだけ利用してみたらどうじゃ。消すのは後でもできる」
「今、できんものが後になってできるか」
「一度、味方にしてしまえば、奴だって油断するじゃろう」
「うむ」と美作守は仕方なさそうに頷いた。「おぬしがそれ程言うからには、余程の男なんじゃろうのう」
「味方にして損はない」と阿修羅坊は断定した。「家格など、どうにでもなるじゃろう」
「まあな。とにかく、一度、会ってみん事にはのう」
「わしが話を付けて、連れて来てもいいが」
「うむ。いや、その前に、奴をもう一度、試そう」
「試す?」
「ああ、今、うちに変わった奴が居候(イソウロウ)しておるんじゃ」
「何者じゃ」
「坊主じゃ。だが、ただの坊主じゃない。念流(ネンリュウ)の達人じゃ」
「念流? 剣術使いか」
「ああ、お屋形様の剣術師範、上原弥五郎殿と兄弟弟子じゃそうじゃ」
「と言う事は、上原慈幻(ジゲン)殿の弟子と言う事か」
「そうじゃ」
「ほう、そんな奴が、いつからおるんじゃ」
「去年の秋頃じゃ。ひょっこり現れてのう。わしの命はあと僅かしかない。最期に、赤松家のために働かせてくれ、と言って来たんじゃ」
「命が、あと僅か?」
「労咳(ロウガイ、肺結核)病みじゃ。かなり、重いらしいのう。だが、剣術の腕は一流じゃ」
「そいつを使うつもりか」
「ああ。奴が、もし、そいつより強かったら、おぬしの言う事も考えてみよう」
こうして、阿修羅坊は松阿弥という念流の達人を連れて播磨に向かう事になった。
美作守の話だと、松阿弥は浦上屋敷に来るまで、どこで何をしていたのかは、まったく語りたがらないという。ただ、時宗の徒として、あちこち旅をしていた、とだけ言ったという。しかし、阿修羅坊の見た所では、ただ、旅をしていたというだけには見えなかった。何度も修羅場をくぐり抜けて来た男のように思えた。また、はっきりと見たわけではないが、松阿弥の持っている杖は刀身が仕込んであるに違いなかった。そして、その刀は何人もの血を吸って来たに違いなかった。
松阿弥は時々、咳き込む以外はまったく静かな男だった。一言も松阿弥から話しかける事はなかった。阿修羅坊が話しかけても、ああとか、いやとか返事をするだけで、何も話そうとはしなかった。かといって、ぶすっとしているわけではなく、ちょっとした事で笑ったりもするが、余計な事は何も喋らなかった。
山伏と遊行僧の奇妙な二人連れの旅は続いた。
松阿弥は歩きながら、過去を振り返っていた。
自分の命が、あと一年と持たないだろうと覚悟を決めていた松阿弥は、浦上美作守から与えられた仕事を見事にやり遂げ、山の中にでも入って静かに死のうと思っていた。
赤松一族の庶流(ショリュウ)の子として生まれ、最期に、赤松家のために仕事ができれば本望だった。
過去を振り返れば、運命のいたずらというか、数奇な生涯と言えた。
松阿弥は本名を中島松右衛門といい、赤松一族の上原民部大輔頼政(ミンブノタイフヨリマサ)の家老、中島兵庫助の三男として、播磨の国の北条郷に生まれた。上原民部大輔は赤松性具入道の弟、祐政(スケマサ)の嫡男だった。
松右衛門が九歳の時、嘉吉の変が起こり、父親は上原民部大輔と共に戦死し、赤松家は滅び去った。
松右衛門は民部大輔の四男、弥五郎と共に鎌倉に逃げた。当時、鎌倉の禅寺に民部大輔の弟が慈幻(ジゲン)と称して出家していた。松右衛門と弥五郎は共に出家して禅寺に隠れていた。
弥五郎の叔父、慈幻は禅僧であったが、念流という武術の達人でもあった。
念流と呼ばれる武術は、この頃より百年近く前、念阿弥慈恩(ネンアミジオン)という禅僧によって開かれた武術の流派の一つだった。
慈恩には十数人の高弟がいて、中でも、中条(チュウジョウ)兵庫助、堤宝山、二階堂出羽守、樋口太郎、赤松慈三(ジサン)の五人が秀でていた。
中条兵庫助は中条流平法(チュウジョウリュウヘイホウ)を開き、その流れは越前の国(福井県)に伝わり、やがて、名人越後と呼ばれる富田(トダ)越後守が現れて富田流となり、伊藤一刀斎によって一刀流となって現在まで伝わっている。
堤宝山の流れは下野(シモツケ)の国(栃木県)に伝わって宝山流となり、二階堂出羽守の流れは美濃の国(岐阜県中南部)に伝わり、後に、松山主水(モンド)が現れる。樋口太郎の流れは信濃の国(長野県)から上野(コウヅケ)の国(群馬県)へと伝わり、馬庭(マニワ)念流となって現在まで伝わっている。
そして、最後の赤松慈三というのは性具入道の弟だった。早くから出家し、鎌倉の寿福寺において慈恩と出会い、弟子となり、念流を極めたのだった。その慈三の弟子となったのが上原慈幻で、松右衛門と弥五郎の二人は、その慈幻の弟子となった。
弟子となった二人は慈幻のもとで修行に励み、腕を磨いて行った。二人とも素質があったのか、兄弟子たちを追い越し、慈幻門下の二天狗と呼ばれる程の腕になっていた。二人の腕はまったくの互角だった。いつの日か、赤松家が再興される事を夢見て、二人は修行に励んでいた。
松右衛門が十九歳の時、千阿弥という時宗の老僧と出会った。松右衛門は千阿弥に感化され、松阿弥という時宗の僧となって鎌倉を後にし、千阿弥と共に遊行の旅に出た。旅は二年間にも及んだ。旅の途中で千阿弥は亡くなり、松阿弥は一人、鎌倉に戻って来た。
二十三歳の時、赤松彦五郎が赤松家再興のため、山名氏相手に合戦するというので、師匠、慈幻と共に播磨の国に向かった。合戦は、初めのうちはうまく行っていたが、山名勢の大軍が攻めて来ると逃げてしまう味方が多く、必死の思いで戦ったが負け戦となってしまった。ついに、彦五郎は備前の国、鹿久居(カクイ)島にて自害して果てた。
上原慈幻も戦死し、松阿弥も弥五郎も重傷を負った。二人とも、そのまま放って置かれたら死んでしまっただろう。しかし、二人とも悪運が強いのか無事に助けられた。
その時、助けてくれた相手によって、二人の人生は、まったく別々の道をたどる事となった。
まず、弥五郎を助けてくれたのは、備中の国の守護、細川治部少輔氏久の家臣、田中玄審助(ゲンバノスケ)だった。細川氏は当時より山名氏と敵対していたので、赤松一族の弥五郎を匿った。
傷の治った弥五郎は田中家の家臣たちに剣術を教え、やがて、諸国に修行の旅に出た。そして、赤松家が再興されてからは京に戻り、幼かった政則に近侍した。応仁の乱の時も政則の側にいて主君を守り、また、活躍もした。今でも政則の剣術師範として、時には軍師として側近く仕えている。
さて、松阿弥を助けたのは妙泉尼(ミョウセンニ)という美しい尼僧だった。それが、ただの尼僧だったら、松阿弥も弥五郎と似たような生涯を送っていたに違いなかった。しかし、その尼僧というのは、何と、宿敵、山名宗全の娘だった。
妙泉尼は小さいが立派な僧院に、五人の尼僧と暮らしていた。
倒れていた松阿弥は隣の禅寺に運び込まれ、妙泉尼は熱心に看病した。看病の甲斐があって、虫の息だった松阿弥は助かった。すっかり、傷の癒えた松阿弥は身の危険も顧みず、その禅寺から出て行こうとはしなかった。
そこは播磨の国内だった。当時、山名氏の領国となっていた。毎日、赤松の残党狩りをしているとの噂は聞いていた。しかし、誰も、松阿弥を赤松方だと思っている者はいなかった。旅の遊行僧が戦に巻き込まれて怪我をしたと思っていた。
松阿弥がそこから離れなかったのは、妙泉尼の美しさのせいだった。松阿弥も出家しているとはいえ若い男だった。美しい女を目の前にして、何とかしたいと思うのは当然の事だった。しかし、相手は出家していた。何とかしたいと思いながらも、何ともならずに、ただ、月日だけが矢のように流れて行った。
妙泉尼は毎日、近所を散歩するのを日課としていた。松阿弥は時々、妙泉尼を待ち伏せして、一緒に散歩するのを唯一の楽しみとしていた。
妙泉尼はいつも供の尼僧を連れていたが、そのうちに、松阿弥の姿を見つけると供の尼僧を先に帰すようになって行った。ほんの短い時間だったが、松阿弥は妙泉尼と二人だけの散歩を楽しんだ。
松阿弥は妙泉尼に自分が赤松家の家臣だった事は隠していた。関東で生まれて、鎌倉で僧になったと説明していた。妙泉尼は知らない関東の地の事を色々と松阿弥に尋ねた。松阿弥は千阿弥に連れられて、二年間、各地を旅していたため、色々な土地を知っていた。妙泉尼は松阿弥から自分の知らない国の話を興味深そうに聞いていた。自分の話を真剣な顔をして聞いている妙泉尼の顔を見るのが、その頃の松阿弥の最高の喜びだった。
「この国は百年以上もずっと、赤松家が治めていました」と妙泉尼は小川のほとりにしゃがむと言った。「今は赤松家は滅んでしまいましたが、いつか、きっとまた、赤松家が攻めて来るに違いありません」
妙泉尼の回りを赤とんぼが飛び回っていた。
「赤松家はもう攻めて来ないと思います。もう、当主と仰ぐ一族の者もいないでしょう」と松阿弥は妙泉尼の細い背中を見ながら言った。
「いいえ。赤松家はきっと再興されて、ここに攻めて来ます。わたしは詳しい事は知りませんが、播磨、備前、美作と三国を治めていた程の赤松家がそう簡単に滅びたままでいるはずがありません‥‥‥わたしが五歳の時、赤松家は滅びました。でも、八歳の時、生き残っていた赤松家の一族のお方が播磨に攻めて来ました。十二歳の時も、赤松家のお屋形様の弟というお方が兵を挙げました。そして、今年もまた、お屋形様の甥といわれるお方が攻めて来ました。きっと、また、一族のお方が攻めて来るに違いありません」
妙泉尼は松阿弥を見上げた。その目は悲しそうだった。
「ええ。そうかもしれません‥‥‥」松阿弥も妙泉尼の言う通りだと思った。きっと、いつか、赤松家は再興されると思っていた。思っていたというより願っていた。しかし、赤松家が再興されるという事は、ここ、播磨の国が戦場となるという事だった。
「人の国を取れば、必ず、報いはやって来ます‥‥‥戦が始まれば、また、大勢の人たちが苦しみます。松阿弥様のように、戦に関係ないのに戦に巻き込まれて怪我をする人や死んでしまう人も大勢います。絶対に戦をしてはいけないのです」
妙泉尼はいつも戦に反対していた。争い事のない平和な世の中が来る事を願っていた。
そして、ある日、妙泉尼が山名宗全の娘だと知らされた。信じられなかったが、本当の事だった。宗全と言えば父の仇であり、師匠の仇であり、赤松家の仇であった。皮肉にも、その仇の娘に命を助けられたのだった。
妙泉尼が仇の娘だとわかっても、松阿弥の妙泉尼を思う気持ちは変わらなかった。妙泉尼は、いつも、太平の世が来る事を望んでいた。戦をする父親を憎んでいた。松阿弥が父親の事を言うと、耳をふさぐ程、嫌っていた。わたしは出家した身、すでに、父親はいないものと思っていますとも言った。
松阿弥は覚悟を決めた。
素性を隠し、時宗の一僧侶として、山名宗全に近づいて宗全を殺そうと決心した。宗全がいなくなれば、いくらかは妙泉尼の望む太平の世になるだろうと思った。
松阿弥はさっそく行動に移した。山名家の重臣である垣屋(カキヤ)越前守の家臣、藤田修理亮(シュリノスケ)の食客(ショッカク)となり、剣術の腕によって、だんだんと頭角を現して行った。
十年の月日が流れた。
松阿弥はとうとう宗全の目に止まり、山名家の武術指南役となった。指南役となっても、松阿弥は欠かさず妙泉尼のもとへは通っていた。
松阿弥と妙泉尼との仲は十年前と変わらなかった。相変わらず、時々、会って話をするだけだった。ただ、十年前のように待ち伏せをする必要はなくなった。堂々と妙泉尼の寺に訪ねて行き、妙泉尼に歓迎された。妙泉尼の側に仕える尼僧たちも、何かと松阿弥を頼るようになっていた。
その頃、赤松家が再興されたとの噂を聞いたが、松阿弥は戻らなかった。
自分が元赤松家の家臣であった事など、すでに忘れていた。すっかり、山名家の家臣になりきっていた。山名家の家臣になってはいても、それは山名宗全に近づく手段に過ぎなかった。宗全に近づき、宗全を殺す。その頃の松阿弥は宗全を殺す事だけが生きがいになっていた。
親の仇や赤松家の仇のために、宗全を討つのではなかった。妙泉尼の願う、戦のない太平の世を作るためには、どうしても宗全には死んでもらわなければならないのだった。
宗全という男は松阿弥にとって乱世の象徴となっていた。この男さえ消えれば、世の中はいくらかは平和になるに違いないと信じていた。
妙泉尼の寺の庭に梅の花が咲いていた。
松阿弥は縁側に座って妙泉尼と話をしていた。
「赤松家が再興されて、また、ここで戦が始まるのかしら」と妙泉尼は言った。
「かもしれません。赤松家の残党たちが動き始めているようです」と松阿弥は言った。
「いやですね」と妙泉尼は悲しそうな顔をして、遠くの山を見つめていた。
松阿弥が妙泉尼に助けられてから十年の歳月が流れているのに、不思議と妙泉尼の美しさは変わらなかった。そして、松阿弥が妙泉尼を思う気持ちは強くなるばかりだった。しかし、どうにもならなかった。
十年の月日の間、何度、妙泉尼を抱きしめたいと思った事だろう‥‥‥
自分の気持ちを打ち明けて、一緒に暮らしたいと何度、思った事だろう‥‥‥
それでも、口にする事はできなかった。
松阿弥は妙泉尼の横顔を見つめながら、この人だけは絶対に戦に巻き込んではいけないと思った。
やがて、応仁の乱が始まり、松阿弥は京に呼ばれた。剣術の腕を見込まれて、宗全の身辺警固を命ぜられたのだった。
いよいよ、機会がやって来た。宗全も馬鹿な奴だ。自分の命を狙っている者に身辺の警固をやらせるとは愚かな奴だと思いながら、妙泉尼にしばしの別れを告げて松阿弥は京に向かった。
京に行った松阿弥は宗全の側に仕えた。殺す機会は何度もあった。しかし、松阿弥にはできなかった。いくら、仇だと思ってもできなかった。今まで自分が思い描いていた宗全と、実際の宗全とはまったく違っていた。鬼のような憎らしい男だと思っていた宗全は、人のいい親爺に過ぎなかった。勿論、西軍の大将として厳しく非情な面も持ってはいたが、松阿弥の前では人間味のある、ただの親爺だった。
宗全は松阿弥の事を気に入ったとみえて、常に側に置き、色々な事を相談して来た。妙泉尼から松阿弥の事は色々と聞いているらしく、まるで、松阿弥が身内であるかのように、何でも相談しに来た。
いつの間にか、宗全が自分の父親のような気がする程だった。仇を討つどころではなかった。宗全の嫡男、伊予守教豊が戦死した時、人前で涙など絶対に見せなかった宗全が、松阿弥の前で大声を出して泣いたのには驚きだった。
そんな頃、松阿弥は初めて血を吐いた。
時々、咳き込み、息苦しくなる事はあったが、大した事はないだろうと思っていた松阿弥はひどい衝撃を受けた。まるで、胸が破れたかと思う程、大量の血が口から溢れ出たのだった。自分の命がそう長い事はないと悟った松阿弥は、生きているうちに妙泉尼の願う、戦のない太平の世にしなければならないと思った。
戦を止めさせるにはどうしたらいいのか‥‥‥
すでに、応仁の乱は一年以上続いていた。
この戦をやめさせるには、どうしたらいいんだ‥‥‥
松阿弥は考えた。考えたが、とても一人の力で、どうなるものではなかった。
今回の戦は大きすぎた。普通の戦だったら大将を倒せば戦は終わりになる。しかし、今回はそう簡単には行かなかった。将軍や天皇まで巻き込み、全国が二つに分かれてしまっている。お互いに、大将が倒れたからといって簡単に手を引くとは思えなかった。戦に参加している大名たちは、勝てば守護職(シュゴシキ)を手に入れて領土を拡大できるが、負ければ今まで持っていた領土をすべて失い、路頭に迷う事になる。東軍も西軍も絶対に負ける事はできない戦だった。
松阿弥は死ぬまでに、何かをしなければならないと焦りながらも、相変わらず、宗全の側近くに仕えていた。
文明四年(一四七二年)の一月、宗全は細川勝元に和平を申し入れたが失敗に終わった。その頃より、宗全の体の具合が悪くなっていた。
松阿弥はすでに四十歳になっていた。痩せ細り、目は落ち込み、頬はこけ、実際の歳よりはずっと老けて見えた。
その年の十一月、妙泉尼が病に倒れたとの知らせが、京の宗全のもとに届いた。
松阿弥は宗全からも頼まれ、妙泉尼のいる但馬の国(兵庫県)に馬にまたがり大急ぎで向かった。死なないでくれ、と祈りながら松阿弥は休まず馬を走らせた。
馬を乗り換えながら、一睡もせずに松阿弥は妙泉尼のいる尼寺に向かった。
妙泉尼の思っていた通り、応仁の乱が始まると赤松軍が播磨に攻めて来た。妙泉尼は播磨から避難し、但馬の国の山名氏の本拠地、出石(イズシ)の城下に戻っていた。
今にも雪の降りそうな空模様だった。
松阿弥は馬から飛び降りると、「妙泉尼様!」と叫びながら尼寺に入って行った。
薄暗い奥の間に妙泉尼は横になっていた。思っていたよりも元気そうだった。松阿弥は一安心して、妙泉尼の枕元に座った。
妙泉尼は松阿弥の顔を見て笑った。
「大丈夫よ。そんなに慌てて、来なくてもよかったのに」
「心配で、心配で‥‥‥」と松阿弥は息を切らせながら言った。
「ありがとう‥‥‥」
「今度はわたしの番です」と松阿弥は言った。
「えっ?」
「妙泉尼様は、昔、死にそうだったわたしの看病を寝ずにしてくれました。今度はわたしの番です」
「そうね‥‥‥お願いしようかしら」
「はい。早く、よくなって下さい」
妙泉尼は笑った。「わたしね、今まで、逃げ続けて来たような気がするの」
「逃げて来た?」
「ええ。あらゆるものから逃げて来たわ‥‥‥まず、お父上から逃げたわ‥‥‥わたしの姉上はお父上のために利用されて、細川勝元様のもとに嫁いで行ったの。今、お父上が戦っている敵の大将のもとに嫁いで行ったのよ。さいわい、今の状況を知らないで亡くなってしまったのでよかったけど、生きていたら辛い思いをしたと思うわ‥‥‥弟の七郎は細川勝元様の養子にさせられたわ‥‥‥でも、勝元様に男の子が産まれると出家させられて、お父上は怒って手元に引き取ったの。知らない遠い国に行った姉上もいるわ。妹も二人いるけど、幕府内の有力者のもとに嫁いで行った‥‥‥わたしは、お父上には絶対に利用されないと思って、お父上に無断で尼になったの‥‥‥お父上はわたしのした事を許してくれて、わたしのためにお寺を建ててくれたわ。あの播磨のお寺よ。わたしはそのお寺で何不自由なく暮らしていた‥‥‥いつも、平和な世の中になればいいと祈っていたけど、自分では何もしなかったの。回りの人たちが戦で家を焼かれて、食べる物もなくて、さまよっていても、わたしは何もしてあげなかった。ただ、平和の世の中になるようにと祈るだけだった‥‥‥わたしは食べ物に不自由した事なんてなかったわ。わたしの食べ物をみんなに分けてあげたなら助かった人がいたかもしれない‥‥‥でも、わたしは何もしなかった‥‥‥」
松阿弥は黙って妙泉尼の話を聞いていた。何となく、いつもの妙泉尼と違うような気がした。
「わたしね、病で倒れて、うなされていた時、自分は今まで何をして来たんだろうって思ったの‥‥‥何もしてない事に気づいたわ‥‥‥何もしないで、ただ、平和が来る事を祈っていたなんて‥‥‥今、この時にも苦しんでいる人が大勢いるというのに‥‥‥わたし、病が治ったら、生まれ変わったつもりで困っている人たちのために何かをやろうと思ったの‥‥‥松阿弥様、わたしに力を貸して下さいね」
「はい。それは、もう‥‥‥」
「よかった‥‥‥」と言って妙泉尼はまた、笑った。本当に嬉しそうな笑いだった。その笑いは、松阿弥が最後に見た妙泉尼の笑いだった。
妙泉尼は翌朝、二度と目を覚まさなかった。
太平の世を願いながら、妙泉尼は三十六歳の若さで静かに死んで行った。
外では静かに雪が降っていた。
松阿弥は涙を流しながら、何度も何度も念仏を唱えた。
妙泉尼の葬儀の終わった後、松阿弥は、妙泉尼と共に暮らしていた尼僧から、病に倒れた妙泉尼が熱にうなされていた時、何度も松阿弥の名を呼んでいたという事を知った。
松阿弥は妙泉尼が大切にしていた小さな観音像を形見に貰って、京に戻った。
京に戻った松阿弥は、まるで、抜け殻のようになってしまった。以前に増して口数は少なくなり、用がなければ部屋に籠もったきり、妙泉尼の観音像に向かって念仏を唱え続けていた。
誰もが、松阿弥を気味悪がって近づかなくなって行った。
妙泉尼のいない、この世に何の未練もなかった。
咳込み、血を吐きながら、ただ、死が訪れるのを待っていた。
妙泉尼の死から四ケ月後、今度は宗全が亡くなった。七十歳の大往生だった。
宗全は死の直前、松阿弥を枕元に呼び、「わしは、もうすぐ死ぬ‥‥‥後は、右京大夫(勝元)が死ねば、この長い戦も終わる事じゃろうのう‥‥‥妙泉尼が、いつも言ってたように、どうして、人間という者は争い事を好むんじゃろうのう‥‥‥早く、太平の世が来ればいいのう‥‥‥」と力のない声で言った。
妙泉尼が死んでからというもの、生きる気力も無くなり、ただ、死を待っているだけの松阿弥だったが、妙泉尼と世話になった宗全のためにも、細川勝元を道連れにして死のうと思った。
宗全が亡くなり、そして、勝元が亡くなったとしても、今の戦が終わるとは思えない。しかし、両方の大将がいなくなれば、今の状況よりは少しはよくなるだろう。どうせ、自分の命はそう長くはない。どうせ、死ぬなら勝元を道連れにしようと決心した。
宗全が亡くなってから四十九日目、近くの寺院で法要がおごそかに行なわれていた。
松阿弥は行動を開始した。
勝元の屋敷は厳重に警固されていた。しかし、戦が長引いているせいと、敵の総大将、宗全が亡くなったためか、それ程、警戒している様子はなかった。警固している兵たちも形式的に仕事をしているだけで、敵が、ここに攻めて来る事など絶対にあるはずはないと高をくくっているようだった。
松阿弥は細川屋敷に忍び込むと、皆が寝静まるのを待った。
勝元は若い側室を連れて、新築したばかりの離れで酒を飲んでいた。うまい具合に、近くには警固の兵の姿はなかった。
松阿弥は床下に潜って勝元が眠るのを待った。勝元は若い側室と戯れながら、いつまで経っても眠らなかった。松阿弥は辛抱強く待った。ただ、若い側室の嬌声には悩まされた。妙泉尼には失礼だとは思うが、どうしても、妙泉尼を抱いている自分を想像してしまった。
明け方近くになった頃、ようやく、静かになった。
松阿弥は部屋に忍び込むと、夜具をはねのけ、あられもない姿で眠りこけている若い女と初老の男を見下ろした。
「これが、細川勝元か‥‥‥」と松阿弥はつぶやいた。
目の前で眠っている男は、ただのすけべな親爺に過ぎなかった。
どう見ても東軍の総大将には見えない。一瞬、こんな男を殺してもしょうがないと思ったが、宗全の最後の言葉を思い出し、松阿弥は刀を抜いた。
一瞬のうちに、勝元と女の首を斬り落とした松阿弥は、静かに屋敷から抜け出した。
それは、あまりにもあっけなかった。自分も一緒に死ぬ覚悟でいたのに、無事に抜け出す事ができた。
次の日、細川屋敷は大騒ぎするはずだったが、普段とまったく変わらなかった。次の日も何事もなく、四日目になって、ようやく、細川勝元が流行り病に罹って急死したと発表があった。
勝元をやったのは自分だと言い触らす気持ちなど初めからなかった。それでも、勝元が病死と発表されるとは、ちょっと、気が抜けた感じだった。
松阿弥は京を後にし、妙泉尼の眠る但馬の国に向かった。
妙泉尼の一年忌を済ませた松阿弥は再び、京に戻った。山名屋敷には戻らずに、浦上美作守の屋敷を訪ねた。
死ぬ前に、最期の仕事として赤松家のために何かをしたかった。もう先がいくらもない事はわかっていた。長い事、山名宗全のもとにいたので、赤松家の実力者が浦上美作守だという事は知っていた。浦上美作守に頼めば、最期の一花を咲かす事ができるだろう。そして、妙泉尼の待つ死後の世界に行きたかった。
浦上美作守はなかなか仕事をくれなかった。
両軍の大将が亡くなってから一年が経ち、それぞれの息子たちによって和睦が成立していた。大将同士が和睦したからといって、完全に戦が終わったわけではないが、京の都に平和が戻りつつある気配はあった。
八月の初めの暑い日だった。とうとう、美作守より重要な仕事が与えられた。ひそかに、赤松家のお屋形様の命を狙っている太郎坊という強敵を倒してくれと言う。太郎坊という男に恨みはないが、赤松家の害となる男なら倒さなくてはならなかった。
これが最期の仕事だ。これが終わったら但馬に帰り、妙泉尼のもとで静かに死を待とうと思っていた。
置塩城下は、楓御料人様の旦那様の噂で持ち切りだった。
誰もが、楓御料人様の旦那様がこの城下に現れると信じていた。
赤松家の侍たちも、その噂を聞き、重臣たちは京から何の連絡もないのに、これはどうした事だとうろたえ、真相をつかむために使いの者を京に走らせたりしていた。
別所加賀守は楓から、今まで一言も触れようとしなかった旦那の事を遠慮しながらも聞き出していた。
楓は何と答えたらいいのかわからなかったが、ありのままに、本名は愛洲太郎左衛門久忠ですと告げ、愛洲の水軍の大将の伜ですと言った。加賀守はしつこく聞いてきた。あとの事は適当にごまかし、今は山伏をやっているという事は隠した。
当の旦那様の太郎の方は木賃宿『浦浪』でごろごろしていた。無事に宝は捜し出したし、後は、お屋形の赤松政則が帰って来るのを待つだけだった。
宝が見つかったら遊女屋に繰り出して大騒ぎしようと、みんなで楽しみにしていたのに、その宝物がお経ではどうしようもなかった。大騒ぎするにも元手がない。今までの色々な資金は小野屋喜兵衛が都合をつけてくれたが、遊ぶ銭まで出して貰うわけにはいかなかった。
みんな、溜息を付きながら、ごろごろしていた。ただ一人、夢庵だけはお経の中にあった赤松一族の百韻(ヒャクイン)連歌と、毎日、睨めっこしている。
そんな時、伊助が戻って来た。伊助は荷物を置くより早く、太郎を捜すと、「大変です。阿修羅坊が戻って来ました」と顔色を変えて告げた。
部屋にいたのは太郎と金比羅坊だけだった。風光坊と八郎、そして、傷の治った探真坊の三人はどこに行ったのか、いなかった。
伊助は、阿修羅坊が松阿弥という時宗の遊行僧を連れて戻り、二人は浦上屋敷に入ったと知らせた。
「その松阿弥というのは何者です」太郎は百太郎のために彫っていた馬の彫り物を傍らに置くと、厳しい顔付きで伊助を見た。
「詳しくはわかりませんが、何でも念流とかいう剣術の使い手だとか聞いています」
「念流?」太郎は念流という流派を知らなかった。
「念流といえば、昔、それを使う奴が飯道山に来た事がある」と金比羅坊が言った。「丁度、風眼坊殿が留守の時でな、師範代の何と言ったかのう、名前はちと忘れたが相手をしたんだが見事に敗れた。そいつは、風眼坊殿の帰るのをしばらく待っておったが待ち切れなくて、そのうち、どこかに旅立って行ったわ」
「そいつが、松阿弥とかいう奴ですか」
「いや、違うじゃろう。名前は忘れたが、れっきとした武士じゃった」
「一体、念流とはどんなものなんでしょう」
「何でも、鎌倉の禅僧が編み出したものらしい」
「禅僧?」
「ああ、鎌倉から出た中条流、二階堂流など、皆、同じ流れらしい」
「中条流に二階堂流‥‥‥」
中条流というのは飯道山にいた時、太郎も聞いた事があるが、一体、それが、どんなものなのか見当も付かなかった。禅僧が編み出したという所が少し気になった。武士が考え出したものなら、当然、鎧兜(ヨロイカブト)を身に付けての剣術だが、禅僧が考え出したとなると山伏流剣術のように身軽な剣術かもしれなかった。
「敵が何を使うにしろ、やらなければならないな」と太郎は言った。
「敵は、その松阿弥とかいう奴、一人だけか」と金比羅坊が聞いた。
「はい、そのようです。余程、腕が立つに違いありません」
「一人か‥‥‥」
「俺がやります。伊助殿、金比羅坊殿、この事は、みんなには伏せておいて下さい。敵も、俺以外の者には手を出さないでしょう」
「しかし‥‥‥」と伊助は言った。
「これ以上、犠牲者を出したくないし、念流という剣術をこの目で見てみたいのです。お願いします。みんなに知らせれば騒ぎが大きくなります」
伊助は太郎を見つめながら頷いた。
「伊助殿、すみませんけど、浦上屋敷を誰かに見張らせて下さい」
「ええ、わかってます。私がやります‥‥‥それでは、私はまだ帰って来ない事にしておいた方がいいですね。幸い、誰にも会ってませんから」
「すみません。お願いします」
「わかりました」伊助は頷くと出て行った。
「とうとう、戻って来たか」と金比羅坊は腕を組んで唸り、「一人で大丈夫か」と太郎に聞いた。
「今回は、念流と陰流の戦いです。もし、俺が負ければ俺の修行が足らなかったという事です」
「しかしのう、おぬしが負けるとは思わんが、敵がどんな手で来るのかわからんというのは不気味じゃのう」
「戦う前に、どんな奴か、見ておいた方がいいかもしれませんね」
「おい、まさか、浦上屋敷に忍び込むつもりじゃあるまいな」
「そんな事はしませんよ」と太郎は言って、馬の彫り物を手にした。
「本当だな」と金比羅坊は太郎の顔を覗いた。
「ええ、危険な事はしませんよ」と太郎が言っても、
「おぬしは何をするかわからんからのう」と金比羅坊は疑っていた。「今回の敵は大物だぞ。おぬしが忍び込んでいるのを気づくかもしれん」
「大丈夫です。そんな事はしません」
「きっとだぞ」と金比羅坊は念を押して、「ところで、あの三人はどこ行ったんじゃ」と聞いた。
「さあ、ニヤニヤして、どこかに行きましたけど」太郎は何事もなかったかのように、また馬を彫り始めた。
「昼間っから、女でも買いに行ったのか」
「まさか、そんな銭は持ってないでしょう。多分、金勝座の舞台にでも行ったんじゃないですか」
「舞台? 今日は休みじゃろ」
「休みでも稽古をしています」
「おお、そうか、助六殿たちに会いに行っとるのか。金勝座にはいい女子が揃っておるからの。しかし、あの三人の手に負えるような女子らじゃないわい」
夢庵がのっそりと入って来た。
「わかったぞ」と太郎と金比羅坊を見ながら言った。「えらい事が隠してあったわ」
夢庵は太郎と金比羅坊の側に座り込むと、巻物を広げた。太郎と金比羅坊は、連歌の書かれた巻物を眺めた。夢庵は、この中に謎が隠されていると言うが、二人にはまったく、わからなかった。
「連歌において一番重要なのは、この初めにある発句(ホック)と言う奴じゃ」と夢庵は言った。
「発句?」と太郎は聞いた。
「この最初の句じゃ」と夢庵は最初にある性具入道の句を指した。
「『山陰(ヤマカゲ)に、赤松の葉は枯れにける』ですか」と太郎は読んだ。
「そう、それと、次の脇句(ワキク)と第三句も重要じゃ」
「『三浦が庵(イオ)の十三月夜』と『虫の音に夜も更けゆく草枕』か」と金比羅坊が読んだ。
「まず、発句じゃが、『山陰』にというのは山名の事で、山名によって赤松家が滅ぼされたという意味じゃが、ただ、それだけではない」
太郎と金比羅坊は巻物を見ながら、黙って、夢庵の話を聞いていた。
「問題は脇句なんじゃ。『三浦が庵』というのが意味がわからん。この辺りに三浦などという地はないし、それに『十三月夜』というのもおかしい」
「どうして、おかしいのですか」太郎にはわからなかった。
「これを書いたのが九月五日だから、もうすぐ、十三夜になるから詠んだというのならわかるが、脇句というのは発句を受けて詠むものじゃ。発句は『枯れにける』というから季節は冬じゃ。ところが、脇句の季節は秋じゃ。基本としては、脇句は発句と同じ季節を詠む事になっておる。それなのに、わざわざ、『十三夜』と秋の語を入れておる。第三句は脇句を受けて、秋を詠んでおる。第三句としては、もう少し変化が欲しい所じゃが、まあ、問題はない」
夢庵は、太郎と金比羅坊の顔を見比べた。二人とも、何が出て来るのか期待しながら、夢庵の話を聞いていた。
「さて、問題の『三浦が庵』じゃが、三浦というのは場所じゃなくて、『三裏』の事だったんじゃ」
「は?」と金比羅坊も太郎も夢庵の言った意味がわからなかった。
「詠んだ連歌を書くのに四枚の懐紙(カイシ)を使うんじゃが、その懐紙を二つ折りにして、一枚目を初折(ショオリ)といい、表に連歌を催した月日や賦物(フシモノ)を書き、初めの八句を書く。そして、裏に十四句を書き、二枚目を二折(ニノオリ)といい、表と裏に十四句づつ書く。三枚目を三折(サンノオリ)といい、四枚目を名残折(ナゴリノオリ)というんじゃ。この三浦というのは、三折の裏の事だったんじゃ」
夢庵は巻物をさらに広げ、小さく、『三、裏』と書いてある所を指差した。
「ここが、三折の裏じゃ。三浦というのは、ここの事だったんじゃよ。何句あるか、数えてみろ」
太郎と金比羅坊は数えた。
「十三です」と太郎は言った。
「うむ、十三じゃ。普通、十四あるはずなのに、ここには十三句しかない」
「一句は、どこに行ったんですか」
「一句ずれて、名残折の裏に九句ある。脇句にあった『十三月夜』というのは、この事だったんじゃよ」
「成程、三裏の十三か」と金比羅坊は十三句を眺めながら言った。
「この十三句に、何かが隠されているのですか」と太郎は聞いた。
「ああ、凄い事が隠されておる。ちょっと見た所、おかしい事があるんじゃがわかるかな」
太郎と金比羅坊は十三の句を読んでみたが、どこがおかしいのか、まったくわからなかった。太郎にしても、金比羅坊にしても、今まで連歌など全然、縁がなかった。一応、読む事ができると言うだけで、その歌の意味するものまではわからなかった。
「松という字じゃ」と夢庵は言った。
そう言われても、二人には何だかわからない。
「この中に、松と言う字が三つも出て来る。まず、この『松原』、そして『松の下(モト)』、そして、最後の『松に夢おき』じゃ。連歌において『松』という字は、七句以上隔てなければ使えないという決まりがあるんじゃ」
「へえ」と金比羅坊は感心した。
「どうして、隔てなければならないのですか」と太郎は聞いた。
「連歌において、一番嫌うのが同じような事を繰り返し詠む事じゃ。前の句の連想から次の句を詠む。その次の句の連想から、また次の句を詠む。しかし、三番目の句が一番初めの句と似ていたのでは、同じ所をぐるぐる回っているようで、全然、変化も発展もないんじゃよ。それで、次々と発展させるために、この言葉は何回まで使っていいとか、この言葉は何句か隔てれば、また、使ってもいいというような決まりができたんじゃ」
「という事は、『松』という字が、こう何回も出て来るのは良くないという事ですか」
「そういう事になる。まさか、性具入道殿を初め、誰も気づかなかったというわけではあるまい。また、戦の最中で、一々直す暇がなかったのかもしれんが、わしは、そこの所がどうも臭いと思った。何か、『松』という字を並べなければならない理由があるに違いないと思ったんじゃ」
夢庵が筆と紙を貸してくれというので、太郎は用意した。
夢庵は巻物を見ながら、まず、最初に、性具の発句を写し、その後に、三折の裏の十三句を全部、ひらがなに書き直した。
太郎と金比羅坊は、夢庵のする事を黙って見ていた。
山陰に赤松の葉は枯れにける 性具
あだに散るらん 生きのびるより 則尚
かかる世を 待ちはびて今 雲かかる 性具
露の命を 後の世にかけ 義雅
あかつきに 西行く雁の 影消えて 則繁
白旗なびく 松原の磯 則康
釣舟の 哀おほかる 櫓のひびき 則尚
悲しかるらむ 風の寒さに 性具
願はくは また来る春の 月を待つ 義雅
野に散る花の 浅き命を 則繁
甲斐なくて 闇にぞ迷ふ 松の下 教康
尽きぬ命を 舞ふ風に乗せ 則尚
秋空に 重ねる色の 哀なり 性具
流水行雲 松に夢おき 義雅
山陰に赤松の葉は枯れにける
あだにちるらん いきのびるより
かかるよを まちはびていま くもかかる
つゆのいのちを のちのよにかけ
あかつきに にしゆくかりの かげきえて
しらはたなびく まつばらのいそ
つりふねの あはれおほかる ろのひびき
かなしかるらむ かぜのさむさに
ねがはくは またくるはるの つきをまつ
のにちるはなの あさきいのちを
かひなくて やみにぞまよふ まつのもと
つきぬいのちを まふかぜにのせ
あきぞらに かさねるいろの あはれなり
りゅうすいこううん まつにゆめおき
「成程のう。口惜しそうに死んで行ったのが、何となくわかるのう」と金比羅坊は言った。
「いつの日か、また、再興されるのを願っているようにも感じられる」と太郎は言った。
「わしは歌の事はよくわからんが、『甲斐なくて闇にぞ迷ふ松の下』なんていうのは、いい歌じゃのう。敵の軍勢が城の回りまで攻め寄せて来て、もう終わりじゃ、という事が、実によく伝わって来る。そして、その次の句がまたいい。『尽きぬ命を舞ふ風に乗せ、秋空に重ねる色の哀なり』もう、死ぬ覚悟を決めたんじゃのう。そして最後が『流水行雲、松に夢おき』‥‥‥いいのう」
金比羅坊は一人で歌の批判をして、一人で感心していた。
「金比羅坊殿、なかなか、歌がわかるじゃないですか」と夢庵が褒めた。
「なに、そんな事はないわ」と金比羅坊は照れていた。
「この歌のどこに、謎が隠されているのです」と太郎は聞いた。
「まずな、一番簡単なのは、それぞれの句の頭の文字を読んで行くと、何か、意味のある言葉になるという奴じゃ」
太郎と金比羅坊は、句の頭の文字をつなげて読んでみた。
「あかつあしつかねのかつあり‥‥‥」
文章になっていなかった。
「これは、そんな単純なものではない」と夢庵は言った。「和歌にしろ、連歌にしろ、五文字と七文字の組み合わせでできている。五、七、五、七、七という風にな」
夢庵は、その五七五七七の頭の文字をすべて、丸で囲んだ。
「何か、気づかんか」
「うむ‥‥‥『ま』と『か』がやけに多いのう」と金比羅坊は言った。
「『あ』も多いですよ」と太郎は言った。
「鍵は、発句の歌にあるんじゃ」と夢庵は発句を指さした。
「『山陰に赤松の葉は枯れにける』‥‥‥この歌が鍵? わからんのう」と金比羅坊は首を傾げた。
「『山陰に』は、どうでもいい。問題は、その次ぎの『赤松の葉は枯れにける』じゃ。赤松の葉というのは、赤松の言(コト)の葉じゃ」
「赤松の言の葉は枯れにける‥‥‥」
「そうじゃ」
「『あかまつ』という四文字を抜くという意味ですか」と太郎が言った。
「その通り」
夢庵は、先刻、丸印を付けた文字から、『あかまつ』という四文字を抜いてみた。『あかまつ』という文字が五つも隠されていた。そして、残された文字を読むと、『いくのにしろかねのやまあり』という文になった。
山陰に赤松の葉は枯れにける
あだにちるらん いきのびるより
かかるよを まちはびていま くもかかる
つゆのいのちを のちのよにかけ
あかつきに にしゆくかりの かげきえて
しらはたなびく まつばらのいそ
つりふねの あはれおほかる ろのひびき
かなしかるらむ かぜのさむさに
ねがはくは またくるはるの つきをまつ
のにちるはなの あさきいのちを
かひなくて やみにぞまよふ まつのもと
つきぬいのちを まふかぜにのせ
あきぞらに かさねるいろの あはれなり
りゅうすいこううん まつにゆめおき
「生野に白銀(シロガネ)の山あり‥‥‥」と金比羅坊が言った。
「白銀‥‥‥」と太郎も呟いた。
「というわけじゃ」と夢庵は笑った。
「生野とはどこじゃ」と金比羅坊が夢庵に聞いた。
「丁度、播磨と但馬の国境辺りじゃ」
「夢庵殿、行った事はあります?」と太郎は聞いた。
「ああ、行った事ある。市川をずっと遡(サカノボ)って行くと真弓峠に出る。そこを越えれば但馬の国じゃ。生野というのは峠を越えてすぐの所じゃ」
「ほう。という事は笠形山のもっと北の方というわけじゃな」
「但馬の国か‥‥‥山名氏の領土ですね」
「そうじゃな。山の中で何もない所じゃった。昔は山名宗全の親父殿の隠居所として、立派な屋敷があったらしいが、今は何も残っていない。山の上に小さな砦があって、播磨の方を睨んでいるくらいのものじゃ」
「夢庵殿は、どうして、そんな山の中まで行ったのですか」
「その生野より、もっと向こうの山奥に黒川谷というのがあってのう。そこに大明寺という禅寺があるんじゃが、そこの和尚が連歌に凝っていてのう。連歌会をやるから、是非、来てくれというんでな、牛に揺られて行ったわけじゃよ」
「成程のう。連歌師というのも、なかなかいいもんじゃのう。敵も味方もなく、付き合いができるんじゃのう。山名に行ったり、赤松に行ったり」
「何を言う。おぬしら山伏だって似たようなもんじゃろうが」
「そう言われてみればそうじゃ。わしらもどこに行こうと勝手だったわい」
「ところで、この白銀の事は赤松家は勿論の事、山名家も知らないのでしょうか」
「知らんじゃろう。あんな所で銀を掘っている様子など、まったくなかった。銀が出れば警戒が厳重になり、山名家でも有能の奴が出張って来るはずじゃ」
「という事は、性具入道が極秘で突き止めた事実という事ですね」
「多分、そうじゃろう。嘉吉の変が起こって銀を掘る事ができず、性具入道殿は連歌の中にその事を隠した。いつの日か、赤松家が再興されて、誰かがこの謎を解いて、生野の銀を赤松家のために使って欲しいと願いながら死んで行ったんじゃろうのう」
「しかし、凄いのう。この連歌の中に、そんな謎が隠されておったとはのう。もし、夢庵殿がいなかったら、わしらではとうてい、この謎は解けなかったわ」
「ええ、ほんとです。この歌の中にそんな事が隠してあったなんて‥‥‥赤松家では昔から連歌をやっていたんですね」
「赤松家は幕府の重臣じゃからな。幕府に出入りするには連歌くらいできなくてはならんのじゃよ。特に、性具入道殿は熱心じゃったようじゃのう。まあ、昔に限らん。今でも、そうじゃ。幕府の重臣たちは皆、連歌に熱中しておる。お陰で、わしも、その連歌で食って行けるというわけじゃ」と夢庵は笑った。
太郎は父親の事は良く知らないが、祖父が時折、連歌会をやっていたのは知っていた。太郎はただ大人の遊びだろうと思っていた。武士の嗜(タシナ)みの一つとして、連歌というものが、それ程、重要な位置をしめていたとは思ってもみなかった。
「これが本当だとすると、えらい事になるぞ」と金比羅坊が難しい顔をして太郎を見た。
「大した宝が出て来たのう。おぬし、どうするつもりじゃ」と夢庵も太郎を見た。
「どうしたら、いいでしょう」と太郎は二人の顔を見た。
「難しいな」と夢庵は首を振った。「お宝が大きすぎるからのう。こんな事を、やたら、人に喋ったら殺される羽目になりかねんぞ」
「殺される?」
「赤松にしろ、山名にしろ、銀山が本物かどうか確認した上で、口封じのために殺すじゃろう」
「成程のう。重要な軍事秘密となるわけじゃからのう」
「そうじゃ。どっちにしろ、銀を掘るとなると赤松か山名、どちらかの力を借りなければ無理じゃろうな」
「楓殿がいるんじゃから、当然、赤松じゃろうのう」と金比羅坊が言った。
太郎は頷いた。「楓を取り戻そうと乗り込んで来たけど、どうやって取り戻したらいいのか、わからなくなって来た」
「おいおい、どうした、急に弱気になって」
「初めのうちは、楓と宝を交換して帰ろうと思ったけど、そう簡単には行きそうもない」
「確かにな。今、楓殿を取り戻すというのは、はっきり言って不可能に近いのう」と夢庵も言った。
「おぬし、あんな噂を流したんじゃから、お屋形様が帰って来たら堂々と乗り込むつもりじゃろう。そして、宝の事を話して楓殿を取り戻すつもりだったんじゃろう」
「そのつもりでした」
「いっその事、おぬしも楓殿と一緒に、ここに残ったらどうじゃ」と夢庵は言った。
「えっ」と太郎は驚いて、夢庵を見た。
「あれだけ噂が流れてしまえば、赤松家でも楓殿の旦那を迎えるしかあるまい。とりあえずは迎えるじゃろう。そして、ほとぼりがさめた頃、病死してもらうという筋書じゃろうな」
「まさか、そんな汚い事をするのか」と金比羅坊が言った。
「楓殿を利用する気なら、その位の事はするじゃろう。あれだけの別嬪じゃ。嫁に出して、実力者と手を結ぶという事も考えられるしな」
「うむ、それは考えられるのう」
「おぬし、別所加賀守殿に会ってみんか」と夢庵は言った。「わしが思うに、腹を割って話せば加賀守殿ならわかってくれるかもしれんぞ。浦上美作守がおぬしの命を狙っているなら、余計、加賀守殿はおぬしを助けたがるかもしれん。手土産として一切経を持って行けばいい。ただ、銀山の事はまだ隠しておいた方がいいな。最後の切札として取っておいた方がいいじゃろう」
「わしも、そうした方がいいような気がするのう」と金比羅坊も言った。
太郎は二人の顔を見ながら考えていた。
急に騒がしい話声がして、風光坊、探真坊、八郎の三人と金勝座の連中が帰って来た。
「みんなが戻って来たようじゃの。まあ、考えてみてくれ。段取りはわしがする」
夢庵はそう言うと巻物を丸め、太郎に渡すと部屋から出て行った。
──まったく、信じられん‥‥‥
美作守は厳しい顔で、何度も首を振った後、阿修羅坊を見て苦笑した。
「楓殿も大した男と一緒になったものよのう。楓殿の方はどうなんじゃ」
「大丈夫じゃ。別所屋敷で、のんびりと暮らしておる」
「太郎坊に盗まれはせんじゃろうのう」
「奴もそれ程、馬鹿ではないじゃろう。赤松家を相手に戦っても勝てない事くらい知っておるわ」
「奴は、どうするつもりなんじゃ」
「とりあえずは、お屋形様の帰りを待っておるんじゃろう。一度、対面させて、それから、どうするかは、奴もまだ考えていないらしい」
「まあ、どっちにしろ、あの城下から生きては出られまい」
阿修羅坊は頷いた。「ただ、こっちも、かなりの被害は出るじゃろう。奴の事じゃ。お屋形様を道連れにするかもしれんのう」
「そんな事ができるものか」
「いや、奴ならやる。この屋敷に忍び込んだくらいじゃからな」阿修羅坊は天井を見てから、美作守を見て、渋い顔のまま笑った。「そして、もし、生きて城下から出る事ができたら、まず、おぬしの首はないというわけじゃ」
「脅かすな」
「脅しじゃない。ありうる事じゃ。奴はただ強いだけじゃない。兵法(ヒョウホウ)も心得ておる。人の虚を突いて来るのがうまい。もしかしたら、すでに、この屋敷に忍び込んでおるかもしれん」
「ふん」と言ってから、美作守は気味悪そうに天井を眺めた。「おぬしの考えはどうなんじゃ」
「わしか‥‥‥わしはいっその事、味方にしたら、どうかと思うんじゃ」
「なに、楓殿の婿として赤松家に迎えろというのか」
「そういう事になるかのう」
「どこの馬の骨ともわからん奴をか」
「馬の骨かも知れんが腕が立つ。敵に回すよりは適策じゃと思うがのう」
「しかしのう‥‥‥」
「今の赤松家は優秀な人材が欲しい時じゃろう。とにかく、利用するだけ利用してみたらどうじゃ。消すのは後でもできる」
「今、できんものが後になってできるか」
「一度、味方にしてしまえば、奴だって油断するじゃろう」
「うむ」と美作守は仕方なさそうに頷いた。「おぬしがそれ程言うからには、余程の男なんじゃろうのう」
「味方にして損はない」と阿修羅坊は断定した。「家格など、どうにでもなるじゃろう」
「まあな。とにかく、一度、会ってみん事にはのう」
「わしが話を付けて、連れて来てもいいが」
「うむ。いや、その前に、奴をもう一度、試そう」
「試す?」
「ああ、今、うちに変わった奴が居候(イソウロウ)しておるんじゃ」
「何者じゃ」
「坊主じゃ。だが、ただの坊主じゃない。念流(ネンリュウ)の達人じゃ」
「念流? 剣術使いか」
「ああ、お屋形様の剣術師範、上原弥五郎殿と兄弟弟子じゃそうじゃ」
「と言う事は、上原慈幻(ジゲン)殿の弟子と言う事か」
「そうじゃ」
「ほう、そんな奴が、いつからおるんじゃ」
「去年の秋頃じゃ。ひょっこり現れてのう。わしの命はあと僅かしかない。最期に、赤松家のために働かせてくれ、と言って来たんじゃ」
「命が、あと僅か?」
「労咳(ロウガイ、肺結核)病みじゃ。かなり、重いらしいのう。だが、剣術の腕は一流じゃ」
「そいつを使うつもりか」
「ああ。奴が、もし、そいつより強かったら、おぬしの言う事も考えてみよう」
こうして、阿修羅坊は松阿弥という念流の達人を連れて播磨に向かう事になった。
美作守の話だと、松阿弥は浦上屋敷に来るまで、どこで何をしていたのかは、まったく語りたがらないという。ただ、時宗の徒として、あちこち旅をしていた、とだけ言ったという。しかし、阿修羅坊の見た所では、ただ、旅をしていたというだけには見えなかった。何度も修羅場をくぐり抜けて来た男のように思えた。また、はっきりと見たわけではないが、松阿弥の持っている杖は刀身が仕込んであるに違いなかった。そして、その刀は何人もの血を吸って来たに違いなかった。
松阿弥は時々、咳き込む以外はまったく静かな男だった。一言も松阿弥から話しかける事はなかった。阿修羅坊が話しかけても、ああとか、いやとか返事をするだけで、何も話そうとはしなかった。かといって、ぶすっとしているわけではなく、ちょっとした事で笑ったりもするが、余計な事は何も喋らなかった。
山伏と遊行僧の奇妙な二人連れの旅は続いた。
2
松阿弥は歩きながら、過去を振り返っていた。
自分の命が、あと一年と持たないだろうと覚悟を決めていた松阿弥は、浦上美作守から与えられた仕事を見事にやり遂げ、山の中にでも入って静かに死のうと思っていた。
赤松一族の庶流(ショリュウ)の子として生まれ、最期に、赤松家のために仕事ができれば本望だった。
過去を振り返れば、運命のいたずらというか、数奇な生涯と言えた。
松阿弥は本名を中島松右衛門といい、赤松一族の上原民部大輔頼政(ミンブノタイフヨリマサ)の家老、中島兵庫助の三男として、播磨の国の北条郷に生まれた。上原民部大輔は赤松性具入道の弟、祐政(スケマサ)の嫡男だった。
松右衛門が九歳の時、嘉吉の変が起こり、父親は上原民部大輔と共に戦死し、赤松家は滅び去った。
松右衛門は民部大輔の四男、弥五郎と共に鎌倉に逃げた。当時、鎌倉の禅寺に民部大輔の弟が慈幻(ジゲン)と称して出家していた。松右衛門と弥五郎は共に出家して禅寺に隠れていた。
弥五郎の叔父、慈幻は禅僧であったが、念流という武術の達人でもあった。
念流と呼ばれる武術は、この頃より百年近く前、念阿弥慈恩(ネンアミジオン)という禅僧によって開かれた武術の流派の一つだった。
慈恩には十数人の高弟がいて、中でも、中条(チュウジョウ)兵庫助、堤宝山、二階堂出羽守、樋口太郎、赤松慈三(ジサン)の五人が秀でていた。
中条兵庫助は中条流平法(チュウジョウリュウヘイホウ)を開き、その流れは越前の国(福井県)に伝わり、やがて、名人越後と呼ばれる富田(トダ)越後守が現れて富田流となり、伊藤一刀斎によって一刀流となって現在まで伝わっている。
堤宝山の流れは下野(シモツケ)の国(栃木県)に伝わって宝山流となり、二階堂出羽守の流れは美濃の国(岐阜県中南部)に伝わり、後に、松山主水(モンド)が現れる。樋口太郎の流れは信濃の国(長野県)から上野(コウヅケ)の国(群馬県)へと伝わり、馬庭(マニワ)念流となって現在まで伝わっている。
そして、最後の赤松慈三というのは性具入道の弟だった。早くから出家し、鎌倉の寿福寺において慈恩と出会い、弟子となり、念流を極めたのだった。その慈三の弟子となったのが上原慈幻で、松右衛門と弥五郎の二人は、その慈幻の弟子となった。
弟子となった二人は慈幻のもとで修行に励み、腕を磨いて行った。二人とも素質があったのか、兄弟子たちを追い越し、慈幻門下の二天狗と呼ばれる程の腕になっていた。二人の腕はまったくの互角だった。いつの日か、赤松家が再興される事を夢見て、二人は修行に励んでいた。
松右衛門が十九歳の時、千阿弥という時宗の老僧と出会った。松右衛門は千阿弥に感化され、松阿弥という時宗の僧となって鎌倉を後にし、千阿弥と共に遊行の旅に出た。旅は二年間にも及んだ。旅の途中で千阿弥は亡くなり、松阿弥は一人、鎌倉に戻って来た。
二十三歳の時、赤松彦五郎が赤松家再興のため、山名氏相手に合戦するというので、師匠、慈幻と共に播磨の国に向かった。合戦は、初めのうちはうまく行っていたが、山名勢の大軍が攻めて来ると逃げてしまう味方が多く、必死の思いで戦ったが負け戦となってしまった。ついに、彦五郎は備前の国、鹿久居(カクイ)島にて自害して果てた。
上原慈幻も戦死し、松阿弥も弥五郎も重傷を負った。二人とも、そのまま放って置かれたら死んでしまっただろう。しかし、二人とも悪運が強いのか無事に助けられた。
その時、助けてくれた相手によって、二人の人生は、まったく別々の道をたどる事となった。
まず、弥五郎を助けてくれたのは、備中の国の守護、細川治部少輔氏久の家臣、田中玄審助(ゲンバノスケ)だった。細川氏は当時より山名氏と敵対していたので、赤松一族の弥五郎を匿った。
傷の治った弥五郎は田中家の家臣たちに剣術を教え、やがて、諸国に修行の旅に出た。そして、赤松家が再興されてからは京に戻り、幼かった政則に近侍した。応仁の乱の時も政則の側にいて主君を守り、また、活躍もした。今でも政則の剣術師範として、時には軍師として側近く仕えている。
さて、松阿弥を助けたのは妙泉尼(ミョウセンニ)という美しい尼僧だった。それが、ただの尼僧だったら、松阿弥も弥五郎と似たような生涯を送っていたに違いなかった。しかし、その尼僧というのは、何と、宿敵、山名宗全の娘だった。
妙泉尼は小さいが立派な僧院に、五人の尼僧と暮らしていた。
倒れていた松阿弥は隣の禅寺に運び込まれ、妙泉尼は熱心に看病した。看病の甲斐があって、虫の息だった松阿弥は助かった。すっかり、傷の癒えた松阿弥は身の危険も顧みず、その禅寺から出て行こうとはしなかった。
そこは播磨の国内だった。当時、山名氏の領国となっていた。毎日、赤松の残党狩りをしているとの噂は聞いていた。しかし、誰も、松阿弥を赤松方だと思っている者はいなかった。旅の遊行僧が戦に巻き込まれて怪我をしたと思っていた。
松阿弥がそこから離れなかったのは、妙泉尼の美しさのせいだった。松阿弥も出家しているとはいえ若い男だった。美しい女を目の前にして、何とかしたいと思うのは当然の事だった。しかし、相手は出家していた。何とかしたいと思いながらも、何ともならずに、ただ、月日だけが矢のように流れて行った。
妙泉尼は毎日、近所を散歩するのを日課としていた。松阿弥は時々、妙泉尼を待ち伏せして、一緒に散歩するのを唯一の楽しみとしていた。
妙泉尼はいつも供の尼僧を連れていたが、そのうちに、松阿弥の姿を見つけると供の尼僧を先に帰すようになって行った。ほんの短い時間だったが、松阿弥は妙泉尼と二人だけの散歩を楽しんだ。
松阿弥は妙泉尼に自分が赤松家の家臣だった事は隠していた。関東で生まれて、鎌倉で僧になったと説明していた。妙泉尼は知らない関東の地の事を色々と松阿弥に尋ねた。松阿弥は千阿弥に連れられて、二年間、各地を旅していたため、色々な土地を知っていた。妙泉尼は松阿弥から自分の知らない国の話を興味深そうに聞いていた。自分の話を真剣な顔をして聞いている妙泉尼の顔を見るのが、その頃の松阿弥の最高の喜びだった。
「この国は百年以上もずっと、赤松家が治めていました」と妙泉尼は小川のほとりにしゃがむと言った。「今は赤松家は滅んでしまいましたが、いつか、きっとまた、赤松家が攻めて来るに違いありません」
妙泉尼の回りを赤とんぼが飛び回っていた。
「赤松家はもう攻めて来ないと思います。もう、当主と仰ぐ一族の者もいないでしょう」と松阿弥は妙泉尼の細い背中を見ながら言った。
「いいえ。赤松家はきっと再興されて、ここに攻めて来ます。わたしは詳しい事は知りませんが、播磨、備前、美作と三国を治めていた程の赤松家がそう簡単に滅びたままでいるはずがありません‥‥‥わたしが五歳の時、赤松家は滅びました。でも、八歳の時、生き残っていた赤松家の一族のお方が播磨に攻めて来ました。十二歳の時も、赤松家のお屋形様の弟というお方が兵を挙げました。そして、今年もまた、お屋形様の甥といわれるお方が攻めて来ました。きっと、また、一族のお方が攻めて来るに違いありません」
妙泉尼は松阿弥を見上げた。その目は悲しそうだった。
「ええ。そうかもしれません‥‥‥」松阿弥も妙泉尼の言う通りだと思った。きっと、いつか、赤松家は再興されると思っていた。思っていたというより願っていた。しかし、赤松家が再興されるという事は、ここ、播磨の国が戦場となるという事だった。
「人の国を取れば、必ず、報いはやって来ます‥‥‥戦が始まれば、また、大勢の人たちが苦しみます。松阿弥様のように、戦に関係ないのに戦に巻き込まれて怪我をする人や死んでしまう人も大勢います。絶対に戦をしてはいけないのです」
妙泉尼はいつも戦に反対していた。争い事のない平和な世の中が来る事を願っていた。
そして、ある日、妙泉尼が山名宗全の娘だと知らされた。信じられなかったが、本当の事だった。宗全と言えば父の仇であり、師匠の仇であり、赤松家の仇であった。皮肉にも、その仇の娘に命を助けられたのだった。
妙泉尼が仇の娘だとわかっても、松阿弥の妙泉尼を思う気持ちは変わらなかった。妙泉尼は、いつも、太平の世が来る事を望んでいた。戦をする父親を憎んでいた。松阿弥が父親の事を言うと、耳をふさぐ程、嫌っていた。わたしは出家した身、すでに、父親はいないものと思っていますとも言った。
松阿弥は覚悟を決めた。
素性を隠し、時宗の一僧侶として、山名宗全に近づいて宗全を殺そうと決心した。宗全がいなくなれば、いくらかは妙泉尼の望む太平の世になるだろうと思った。
松阿弥はさっそく行動に移した。山名家の重臣である垣屋(カキヤ)越前守の家臣、藤田修理亮(シュリノスケ)の食客(ショッカク)となり、剣術の腕によって、だんだんと頭角を現して行った。
十年の月日が流れた。
松阿弥はとうとう宗全の目に止まり、山名家の武術指南役となった。指南役となっても、松阿弥は欠かさず妙泉尼のもとへは通っていた。
松阿弥と妙泉尼との仲は十年前と変わらなかった。相変わらず、時々、会って話をするだけだった。ただ、十年前のように待ち伏せをする必要はなくなった。堂々と妙泉尼の寺に訪ねて行き、妙泉尼に歓迎された。妙泉尼の側に仕える尼僧たちも、何かと松阿弥を頼るようになっていた。
その頃、赤松家が再興されたとの噂を聞いたが、松阿弥は戻らなかった。
自分が元赤松家の家臣であった事など、すでに忘れていた。すっかり、山名家の家臣になりきっていた。山名家の家臣になってはいても、それは山名宗全に近づく手段に過ぎなかった。宗全に近づき、宗全を殺す。その頃の松阿弥は宗全を殺す事だけが生きがいになっていた。
親の仇や赤松家の仇のために、宗全を討つのではなかった。妙泉尼の願う、戦のない太平の世を作るためには、どうしても宗全には死んでもらわなければならないのだった。
宗全という男は松阿弥にとって乱世の象徴となっていた。この男さえ消えれば、世の中はいくらかは平和になるに違いないと信じていた。
妙泉尼の寺の庭に梅の花が咲いていた。
松阿弥は縁側に座って妙泉尼と話をしていた。
「赤松家が再興されて、また、ここで戦が始まるのかしら」と妙泉尼は言った。
「かもしれません。赤松家の残党たちが動き始めているようです」と松阿弥は言った。
「いやですね」と妙泉尼は悲しそうな顔をして、遠くの山を見つめていた。
松阿弥が妙泉尼に助けられてから十年の歳月が流れているのに、不思議と妙泉尼の美しさは変わらなかった。そして、松阿弥が妙泉尼を思う気持ちは強くなるばかりだった。しかし、どうにもならなかった。
十年の月日の間、何度、妙泉尼を抱きしめたいと思った事だろう‥‥‥
自分の気持ちを打ち明けて、一緒に暮らしたいと何度、思った事だろう‥‥‥
それでも、口にする事はできなかった。
松阿弥は妙泉尼の横顔を見つめながら、この人だけは絶対に戦に巻き込んではいけないと思った。
やがて、応仁の乱が始まり、松阿弥は京に呼ばれた。剣術の腕を見込まれて、宗全の身辺警固を命ぜられたのだった。
いよいよ、機会がやって来た。宗全も馬鹿な奴だ。自分の命を狙っている者に身辺の警固をやらせるとは愚かな奴だと思いながら、妙泉尼にしばしの別れを告げて松阿弥は京に向かった。
京に行った松阿弥は宗全の側に仕えた。殺す機会は何度もあった。しかし、松阿弥にはできなかった。いくら、仇だと思ってもできなかった。今まで自分が思い描いていた宗全と、実際の宗全とはまったく違っていた。鬼のような憎らしい男だと思っていた宗全は、人のいい親爺に過ぎなかった。勿論、西軍の大将として厳しく非情な面も持ってはいたが、松阿弥の前では人間味のある、ただの親爺だった。
宗全は松阿弥の事を気に入ったとみえて、常に側に置き、色々な事を相談して来た。妙泉尼から松阿弥の事は色々と聞いているらしく、まるで、松阿弥が身内であるかのように、何でも相談しに来た。
いつの間にか、宗全が自分の父親のような気がする程だった。仇を討つどころではなかった。宗全の嫡男、伊予守教豊が戦死した時、人前で涙など絶対に見せなかった宗全が、松阿弥の前で大声を出して泣いたのには驚きだった。
そんな頃、松阿弥は初めて血を吐いた。
時々、咳き込み、息苦しくなる事はあったが、大した事はないだろうと思っていた松阿弥はひどい衝撃を受けた。まるで、胸が破れたかと思う程、大量の血が口から溢れ出たのだった。自分の命がそう長い事はないと悟った松阿弥は、生きているうちに妙泉尼の願う、戦のない太平の世にしなければならないと思った。
戦を止めさせるにはどうしたらいいのか‥‥‥
すでに、応仁の乱は一年以上続いていた。
この戦をやめさせるには、どうしたらいいんだ‥‥‥
松阿弥は考えた。考えたが、とても一人の力で、どうなるものではなかった。
今回の戦は大きすぎた。普通の戦だったら大将を倒せば戦は終わりになる。しかし、今回はそう簡単には行かなかった。将軍や天皇まで巻き込み、全国が二つに分かれてしまっている。お互いに、大将が倒れたからといって簡単に手を引くとは思えなかった。戦に参加している大名たちは、勝てば守護職(シュゴシキ)を手に入れて領土を拡大できるが、負ければ今まで持っていた領土をすべて失い、路頭に迷う事になる。東軍も西軍も絶対に負ける事はできない戦だった。
松阿弥は死ぬまでに、何かをしなければならないと焦りながらも、相変わらず、宗全の側近くに仕えていた。
文明四年(一四七二年)の一月、宗全は細川勝元に和平を申し入れたが失敗に終わった。その頃より、宗全の体の具合が悪くなっていた。
松阿弥はすでに四十歳になっていた。痩せ細り、目は落ち込み、頬はこけ、実際の歳よりはずっと老けて見えた。
その年の十一月、妙泉尼が病に倒れたとの知らせが、京の宗全のもとに届いた。
松阿弥は宗全からも頼まれ、妙泉尼のいる但馬の国(兵庫県)に馬にまたがり大急ぎで向かった。死なないでくれ、と祈りながら松阿弥は休まず馬を走らせた。
馬を乗り換えながら、一睡もせずに松阿弥は妙泉尼のいる尼寺に向かった。
妙泉尼の思っていた通り、応仁の乱が始まると赤松軍が播磨に攻めて来た。妙泉尼は播磨から避難し、但馬の国の山名氏の本拠地、出石(イズシ)の城下に戻っていた。
今にも雪の降りそうな空模様だった。
松阿弥は馬から飛び降りると、「妙泉尼様!」と叫びながら尼寺に入って行った。
薄暗い奥の間に妙泉尼は横になっていた。思っていたよりも元気そうだった。松阿弥は一安心して、妙泉尼の枕元に座った。
妙泉尼は松阿弥の顔を見て笑った。
「大丈夫よ。そんなに慌てて、来なくてもよかったのに」
「心配で、心配で‥‥‥」と松阿弥は息を切らせながら言った。
「ありがとう‥‥‥」
「今度はわたしの番です」と松阿弥は言った。
「えっ?」
「妙泉尼様は、昔、死にそうだったわたしの看病を寝ずにしてくれました。今度はわたしの番です」
「そうね‥‥‥お願いしようかしら」
「はい。早く、よくなって下さい」
妙泉尼は笑った。「わたしね、今まで、逃げ続けて来たような気がするの」
「逃げて来た?」
「ええ。あらゆるものから逃げて来たわ‥‥‥まず、お父上から逃げたわ‥‥‥わたしの姉上はお父上のために利用されて、細川勝元様のもとに嫁いで行ったの。今、お父上が戦っている敵の大将のもとに嫁いで行ったのよ。さいわい、今の状況を知らないで亡くなってしまったのでよかったけど、生きていたら辛い思いをしたと思うわ‥‥‥弟の七郎は細川勝元様の養子にさせられたわ‥‥‥でも、勝元様に男の子が産まれると出家させられて、お父上は怒って手元に引き取ったの。知らない遠い国に行った姉上もいるわ。妹も二人いるけど、幕府内の有力者のもとに嫁いで行った‥‥‥わたしは、お父上には絶対に利用されないと思って、お父上に無断で尼になったの‥‥‥お父上はわたしのした事を許してくれて、わたしのためにお寺を建ててくれたわ。あの播磨のお寺よ。わたしはそのお寺で何不自由なく暮らしていた‥‥‥いつも、平和な世の中になればいいと祈っていたけど、自分では何もしなかったの。回りの人たちが戦で家を焼かれて、食べる物もなくて、さまよっていても、わたしは何もしてあげなかった。ただ、平和の世の中になるようにと祈るだけだった‥‥‥わたしは食べ物に不自由した事なんてなかったわ。わたしの食べ物をみんなに分けてあげたなら助かった人がいたかもしれない‥‥‥でも、わたしは何もしなかった‥‥‥」
松阿弥は黙って妙泉尼の話を聞いていた。何となく、いつもの妙泉尼と違うような気がした。
「わたしね、病で倒れて、うなされていた時、自分は今まで何をして来たんだろうって思ったの‥‥‥何もしてない事に気づいたわ‥‥‥何もしないで、ただ、平和が来る事を祈っていたなんて‥‥‥今、この時にも苦しんでいる人が大勢いるというのに‥‥‥わたし、病が治ったら、生まれ変わったつもりで困っている人たちのために何かをやろうと思ったの‥‥‥松阿弥様、わたしに力を貸して下さいね」
「はい。それは、もう‥‥‥」
「よかった‥‥‥」と言って妙泉尼はまた、笑った。本当に嬉しそうな笑いだった。その笑いは、松阿弥が最後に見た妙泉尼の笑いだった。
妙泉尼は翌朝、二度と目を覚まさなかった。
太平の世を願いながら、妙泉尼は三十六歳の若さで静かに死んで行った。
外では静かに雪が降っていた。
松阿弥は涙を流しながら、何度も何度も念仏を唱えた。
妙泉尼の葬儀の終わった後、松阿弥は、妙泉尼と共に暮らしていた尼僧から、病に倒れた妙泉尼が熱にうなされていた時、何度も松阿弥の名を呼んでいたという事を知った。
松阿弥は妙泉尼が大切にしていた小さな観音像を形見に貰って、京に戻った。
京に戻った松阿弥は、まるで、抜け殻のようになってしまった。以前に増して口数は少なくなり、用がなければ部屋に籠もったきり、妙泉尼の観音像に向かって念仏を唱え続けていた。
誰もが、松阿弥を気味悪がって近づかなくなって行った。
妙泉尼のいない、この世に何の未練もなかった。
咳込み、血を吐きながら、ただ、死が訪れるのを待っていた。
妙泉尼の死から四ケ月後、今度は宗全が亡くなった。七十歳の大往生だった。
宗全は死の直前、松阿弥を枕元に呼び、「わしは、もうすぐ死ぬ‥‥‥後は、右京大夫(勝元)が死ねば、この長い戦も終わる事じゃろうのう‥‥‥妙泉尼が、いつも言ってたように、どうして、人間という者は争い事を好むんじゃろうのう‥‥‥早く、太平の世が来ればいいのう‥‥‥」と力のない声で言った。
妙泉尼が死んでからというもの、生きる気力も無くなり、ただ、死を待っているだけの松阿弥だったが、妙泉尼と世話になった宗全のためにも、細川勝元を道連れにして死のうと思った。
宗全が亡くなり、そして、勝元が亡くなったとしても、今の戦が終わるとは思えない。しかし、両方の大将がいなくなれば、今の状況よりは少しはよくなるだろう。どうせ、自分の命はそう長くはない。どうせ、死ぬなら勝元を道連れにしようと決心した。
宗全が亡くなってから四十九日目、近くの寺院で法要がおごそかに行なわれていた。
松阿弥は行動を開始した。
勝元の屋敷は厳重に警固されていた。しかし、戦が長引いているせいと、敵の総大将、宗全が亡くなったためか、それ程、警戒している様子はなかった。警固している兵たちも形式的に仕事をしているだけで、敵が、ここに攻めて来る事など絶対にあるはずはないと高をくくっているようだった。
松阿弥は細川屋敷に忍び込むと、皆が寝静まるのを待った。
勝元は若い側室を連れて、新築したばかりの離れで酒を飲んでいた。うまい具合に、近くには警固の兵の姿はなかった。
松阿弥は床下に潜って勝元が眠るのを待った。勝元は若い側室と戯れながら、いつまで経っても眠らなかった。松阿弥は辛抱強く待った。ただ、若い側室の嬌声には悩まされた。妙泉尼には失礼だとは思うが、どうしても、妙泉尼を抱いている自分を想像してしまった。
明け方近くになった頃、ようやく、静かになった。
松阿弥は部屋に忍び込むと、夜具をはねのけ、あられもない姿で眠りこけている若い女と初老の男を見下ろした。
「これが、細川勝元か‥‥‥」と松阿弥はつぶやいた。
目の前で眠っている男は、ただのすけべな親爺に過ぎなかった。
どう見ても東軍の総大将には見えない。一瞬、こんな男を殺してもしょうがないと思ったが、宗全の最後の言葉を思い出し、松阿弥は刀を抜いた。
一瞬のうちに、勝元と女の首を斬り落とした松阿弥は、静かに屋敷から抜け出した。
それは、あまりにもあっけなかった。自分も一緒に死ぬ覚悟でいたのに、無事に抜け出す事ができた。
次の日、細川屋敷は大騒ぎするはずだったが、普段とまったく変わらなかった。次の日も何事もなく、四日目になって、ようやく、細川勝元が流行り病に罹って急死したと発表があった。
勝元をやったのは自分だと言い触らす気持ちなど初めからなかった。それでも、勝元が病死と発表されるとは、ちょっと、気が抜けた感じだった。
松阿弥は京を後にし、妙泉尼の眠る但馬の国に向かった。
妙泉尼の一年忌を済ませた松阿弥は再び、京に戻った。山名屋敷には戻らずに、浦上美作守の屋敷を訪ねた。
死ぬ前に、最期の仕事として赤松家のために何かをしたかった。もう先がいくらもない事はわかっていた。長い事、山名宗全のもとにいたので、赤松家の実力者が浦上美作守だという事は知っていた。浦上美作守に頼めば、最期の一花を咲かす事ができるだろう。そして、妙泉尼の待つ死後の世界に行きたかった。
浦上美作守はなかなか仕事をくれなかった。
両軍の大将が亡くなってから一年が経ち、それぞれの息子たちによって和睦が成立していた。大将同士が和睦したからといって、完全に戦が終わったわけではないが、京の都に平和が戻りつつある気配はあった。
八月の初めの暑い日だった。とうとう、美作守より重要な仕事が与えられた。ひそかに、赤松家のお屋形様の命を狙っている太郎坊という強敵を倒してくれと言う。太郎坊という男に恨みはないが、赤松家の害となる男なら倒さなくてはならなかった。
これが最期の仕事だ。これが終わったら但馬に帰り、妙泉尼のもとで静かに死を待とうと思っていた。
3
置塩城下は、楓御料人様の旦那様の噂で持ち切りだった。
誰もが、楓御料人様の旦那様がこの城下に現れると信じていた。
赤松家の侍たちも、その噂を聞き、重臣たちは京から何の連絡もないのに、これはどうした事だとうろたえ、真相をつかむために使いの者を京に走らせたりしていた。
別所加賀守は楓から、今まで一言も触れようとしなかった旦那の事を遠慮しながらも聞き出していた。
楓は何と答えたらいいのかわからなかったが、ありのままに、本名は愛洲太郎左衛門久忠ですと告げ、愛洲の水軍の大将の伜ですと言った。加賀守はしつこく聞いてきた。あとの事は適当にごまかし、今は山伏をやっているという事は隠した。
当の旦那様の太郎の方は木賃宿『浦浪』でごろごろしていた。無事に宝は捜し出したし、後は、お屋形の赤松政則が帰って来るのを待つだけだった。
宝が見つかったら遊女屋に繰り出して大騒ぎしようと、みんなで楽しみにしていたのに、その宝物がお経ではどうしようもなかった。大騒ぎするにも元手がない。今までの色々な資金は小野屋喜兵衛が都合をつけてくれたが、遊ぶ銭まで出して貰うわけにはいかなかった。
みんな、溜息を付きながら、ごろごろしていた。ただ一人、夢庵だけはお経の中にあった赤松一族の百韻(ヒャクイン)連歌と、毎日、睨めっこしている。
そんな時、伊助が戻って来た。伊助は荷物を置くより早く、太郎を捜すと、「大変です。阿修羅坊が戻って来ました」と顔色を変えて告げた。
部屋にいたのは太郎と金比羅坊だけだった。風光坊と八郎、そして、傷の治った探真坊の三人はどこに行ったのか、いなかった。
伊助は、阿修羅坊が松阿弥という時宗の遊行僧を連れて戻り、二人は浦上屋敷に入ったと知らせた。
「その松阿弥というのは何者です」太郎は百太郎のために彫っていた馬の彫り物を傍らに置くと、厳しい顔付きで伊助を見た。
「詳しくはわかりませんが、何でも念流とかいう剣術の使い手だとか聞いています」
「念流?」太郎は念流という流派を知らなかった。
「念流といえば、昔、それを使う奴が飯道山に来た事がある」と金比羅坊が言った。「丁度、風眼坊殿が留守の時でな、師範代の何と言ったかのう、名前はちと忘れたが相手をしたんだが見事に敗れた。そいつは、風眼坊殿の帰るのをしばらく待っておったが待ち切れなくて、そのうち、どこかに旅立って行ったわ」
「そいつが、松阿弥とかいう奴ですか」
「いや、違うじゃろう。名前は忘れたが、れっきとした武士じゃった」
「一体、念流とはどんなものなんでしょう」
「何でも、鎌倉の禅僧が編み出したものらしい」
「禅僧?」
「ああ、鎌倉から出た中条流、二階堂流など、皆、同じ流れらしい」
「中条流に二階堂流‥‥‥」
中条流というのは飯道山にいた時、太郎も聞いた事があるが、一体、それが、どんなものなのか見当も付かなかった。禅僧が編み出したという所が少し気になった。武士が考え出したものなら、当然、鎧兜(ヨロイカブト)を身に付けての剣術だが、禅僧が考え出したとなると山伏流剣術のように身軽な剣術かもしれなかった。
「敵が何を使うにしろ、やらなければならないな」と太郎は言った。
「敵は、その松阿弥とかいう奴、一人だけか」と金比羅坊が聞いた。
「はい、そのようです。余程、腕が立つに違いありません」
「一人か‥‥‥」
「俺がやります。伊助殿、金比羅坊殿、この事は、みんなには伏せておいて下さい。敵も、俺以外の者には手を出さないでしょう」
「しかし‥‥‥」と伊助は言った。
「これ以上、犠牲者を出したくないし、念流という剣術をこの目で見てみたいのです。お願いします。みんなに知らせれば騒ぎが大きくなります」
伊助は太郎を見つめながら頷いた。
「伊助殿、すみませんけど、浦上屋敷を誰かに見張らせて下さい」
「ええ、わかってます。私がやります‥‥‥それでは、私はまだ帰って来ない事にしておいた方がいいですね。幸い、誰にも会ってませんから」
「すみません。お願いします」
「わかりました」伊助は頷くと出て行った。
「とうとう、戻って来たか」と金比羅坊は腕を組んで唸り、「一人で大丈夫か」と太郎に聞いた。
「今回は、念流と陰流の戦いです。もし、俺が負ければ俺の修行が足らなかったという事です」
「しかしのう、おぬしが負けるとは思わんが、敵がどんな手で来るのかわからんというのは不気味じゃのう」
「戦う前に、どんな奴か、見ておいた方がいいかもしれませんね」
「おい、まさか、浦上屋敷に忍び込むつもりじゃあるまいな」
「そんな事はしませんよ」と太郎は言って、馬の彫り物を手にした。
「本当だな」と金比羅坊は太郎の顔を覗いた。
「ええ、危険な事はしませんよ」と太郎が言っても、
「おぬしは何をするかわからんからのう」と金比羅坊は疑っていた。「今回の敵は大物だぞ。おぬしが忍び込んでいるのを気づくかもしれん」
「大丈夫です。そんな事はしません」
「きっとだぞ」と金比羅坊は念を押して、「ところで、あの三人はどこ行ったんじゃ」と聞いた。
「さあ、ニヤニヤして、どこかに行きましたけど」太郎は何事もなかったかのように、また馬を彫り始めた。
「昼間っから、女でも買いに行ったのか」
「まさか、そんな銭は持ってないでしょう。多分、金勝座の舞台にでも行ったんじゃないですか」
「舞台? 今日は休みじゃろ」
「休みでも稽古をしています」
「おお、そうか、助六殿たちに会いに行っとるのか。金勝座にはいい女子が揃っておるからの。しかし、あの三人の手に負えるような女子らじゃないわい」
夢庵がのっそりと入って来た。
「わかったぞ」と太郎と金比羅坊を見ながら言った。「えらい事が隠してあったわ」
夢庵は太郎と金比羅坊の側に座り込むと、巻物を広げた。太郎と金比羅坊は、連歌の書かれた巻物を眺めた。夢庵は、この中に謎が隠されていると言うが、二人にはまったく、わからなかった。
「連歌において一番重要なのは、この初めにある発句(ホック)と言う奴じゃ」と夢庵は言った。
「発句?」と太郎は聞いた。
「この最初の句じゃ」と夢庵は最初にある性具入道の句を指した。
「『山陰(ヤマカゲ)に、赤松の葉は枯れにける』ですか」と太郎は読んだ。
「そう、それと、次の脇句(ワキク)と第三句も重要じゃ」
「『三浦が庵(イオ)の十三月夜』と『虫の音に夜も更けゆく草枕』か」と金比羅坊が読んだ。
「まず、発句じゃが、『山陰』にというのは山名の事で、山名によって赤松家が滅ぼされたという意味じゃが、ただ、それだけではない」
太郎と金比羅坊は巻物を見ながら、黙って、夢庵の話を聞いていた。
「問題は脇句なんじゃ。『三浦が庵』というのが意味がわからん。この辺りに三浦などという地はないし、それに『十三月夜』というのもおかしい」
「どうして、おかしいのですか」太郎にはわからなかった。
「これを書いたのが九月五日だから、もうすぐ、十三夜になるから詠んだというのならわかるが、脇句というのは発句を受けて詠むものじゃ。発句は『枯れにける』というから季節は冬じゃ。ところが、脇句の季節は秋じゃ。基本としては、脇句は発句と同じ季節を詠む事になっておる。それなのに、わざわざ、『十三夜』と秋の語を入れておる。第三句は脇句を受けて、秋を詠んでおる。第三句としては、もう少し変化が欲しい所じゃが、まあ、問題はない」
夢庵は、太郎と金比羅坊の顔を見比べた。二人とも、何が出て来るのか期待しながら、夢庵の話を聞いていた。
「さて、問題の『三浦が庵』じゃが、三浦というのは場所じゃなくて、『三裏』の事だったんじゃ」
「は?」と金比羅坊も太郎も夢庵の言った意味がわからなかった。
「詠んだ連歌を書くのに四枚の懐紙(カイシ)を使うんじゃが、その懐紙を二つ折りにして、一枚目を初折(ショオリ)といい、表に連歌を催した月日や賦物(フシモノ)を書き、初めの八句を書く。そして、裏に十四句を書き、二枚目を二折(ニノオリ)といい、表と裏に十四句づつ書く。三枚目を三折(サンノオリ)といい、四枚目を名残折(ナゴリノオリ)というんじゃ。この三浦というのは、三折の裏の事だったんじゃ」
夢庵は巻物をさらに広げ、小さく、『三、裏』と書いてある所を指差した。
「ここが、三折の裏じゃ。三浦というのは、ここの事だったんじゃよ。何句あるか、数えてみろ」
太郎と金比羅坊は数えた。
「十三です」と太郎は言った。
「うむ、十三じゃ。普通、十四あるはずなのに、ここには十三句しかない」
「一句は、どこに行ったんですか」
「一句ずれて、名残折の裏に九句ある。脇句にあった『十三月夜』というのは、この事だったんじゃよ」
「成程、三裏の十三か」と金比羅坊は十三句を眺めながら言った。
「この十三句に、何かが隠されているのですか」と太郎は聞いた。
「ああ、凄い事が隠されておる。ちょっと見た所、おかしい事があるんじゃがわかるかな」
太郎と金比羅坊は十三の句を読んでみたが、どこがおかしいのか、まったくわからなかった。太郎にしても、金比羅坊にしても、今まで連歌など全然、縁がなかった。一応、読む事ができると言うだけで、その歌の意味するものまではわからなかった。
「松という字じゃ」と夢庵は言った。
そう言われても、二人には何だかわからない。
「この中に、松と言う字が三つも出て来る。まず、この『松原』、そして『松の下(モト)』、そして、最後の『松に夢おき』じゃ。連歌において『松』という字は、七句以上隔てなければ使えないという決まりがあるんじゃ」
「へえ」と金比羅坊は感心した。
「どうして、隔てなければならないのですか」と太郎は聞いた。
「連歌において、一番嫌うのが同じような事を繰り返し詠む事じゃ。前の句の連想から次の句を詠む。その次の句の連想から、また次の句を詠む。しかし、三番目の句が一番初めの句と似ていたのでは、同じ所をぐるぐる回っているようで、全然、変化も発展もないんじゃよ。それで、次々と発展させるために、この言葉は何回まで使っていいとか、この言葉は何句か隔てれば、また、使ってもいいというような決まりができたんじゃ」
「という事は、『松』という字が、こう何回も出て来るのは良くないという事ですか」
「そういう事になる。まさか、性具入道殿を初め、誰も気づかなかったというわけではあるまい。また、戦の最中で、一々直す暇がなかったのかもしれんが、わしは、そこの所がどうも臭いと思った。何か、『松』という字を並べなければならない理由があるに違いないと思ったんじゃ」
夢庵が筆と紙を貸してくれというので、太郎は用意した。
夢庵は巻物を見ながら、まず、最初に、性具の発句を写し、その後に、三折の裏の十三句を全部、ひらがなに書き直した。
太郎と金比羅坊は、夢庵のする事を黙って見ていた。
山陰に赤松の葉は枯れにける 性具
あだに散るらん 生きのびるより 則尚
かかる世を 待ちはびて今 雲かかる 性具
露の命を 後の世にかけ 義雅
あかつきに 西行く雁の 影消えて 則繁
白旗なびく 松原の磯 則康
釣舟の 哀おほかる 櫓のひびき 則尚
悲しかるらむ 風の寒さに 性具
願はくは また来る春の 月を待つ 義雅
野に散る花の 浅き命を 則繁
甲斐なくて 闇にぞ迷ふ 松の下 教康
尽きぬ命を 舞ふ風に乗せ 則尚
秋空に 重ねる色の 哀なり 性具
流水行雲 松に夢おき 義雅
山陰に赤松の葉は枯れにける
あだにちるらん いきのびるより
かかるよを まちはびていま くもかかる
つゆのいのちを のちのよにかけ
あかつきに にしゆくかりの かげきえて
しらはたなびく まつばらのいそ
つりふねの あはれおほかる ろのひびき
かなしかるらむ かぜのさむさに
ねがはくは またくるはるの つきをまつ
のにちるはなの あさきいのちを
かひなくて やみにぞまよふ まつのもと
つきぬいのちを まふかぜにのせ
あきぞらに かさねるいろの あはれなり
りゅうすいこううん まつにゆめおき
「成程のう。口惜しそうに死んで行ったのが、何となくわかるのう」と金比羅坊は言った。
「いつの日か、また、再興されるのを願っているようにも感じられる」と太郎は言った。
「わしは歌の事はよくわからんが、『甲斐なくて闇にぞ迷ふ松の下』なんていうのは、いい歌じゃのう。敵の軍勢が城の回りまで攻め寄せて来て、もう終わりじゃ、という事が、実によく伝わって来る。そして、その次の句がまたいい。『尽きぬ命を舞ふ風に乗せ、秋空に重ねる色の哀なり』もう、死ぬ覚悟を決めたんじゃのう。そして最後が『流水行雲、松に夢おき』‥‥‥いいのう」
金比羅坊は一人で歌の批判をして、一人で感心していた。
「金比羅坊殿、なかなか、歌がわかるじゃないですか」と夢庵が褒めた。
「なに、そんな事はないわ」と金比羅坊は照れていた。
「この歌のどこに、謎が隠されているのです」と太郎は聞いた。
「まずな、一番簡単なのは、それぞれの句の頭の文字を読んで行くと、何か、意味のある言葉になるという奴じゃ」
太郎と金比羅坊は、句の頭の文字をつなげて読んでみた。
「あかつあしつかねのかつあり‥‥‥」
文章になっていなかった。
「これは、そんな単純なものではない」と夢庵は言った。「和歌にしろ、連歌にしろ、五文字と七文字の組み合わせでできている。五、七、五、七、七という風にな」
夢庵は、その五七五七七の頭の文字をすべて、丸で囲んだ。
「何か、気づかんか」
「うむ‥‥‥『ま』と『か』がやけに多いのう」と金比羅坊は言った。
「『あ』も多いですよ」と太郎は言った。
「鍵は、発句の歌にあるんじゃ」と夢庵は発句を指さした。
「『山陰に赤松の葉は枯れにける』‥‥‥この歌が鍵? わからんのう」と金比羅坊は首を傾げた。
「『山陰に』は、どうでもいい。問題は、その次ぎの『赤松の葉は枯れにける』じゃ。赤松の葉というのは、赤松の言(コト)の葉じゃ」
「赤松の言の葉は枯れにける‥‥‥」
「そうじゃ」
「『あかまつ』という四文字を抜くという意味ですか」と太郎が言った。
「その通り」
夢庵は、先刻、丸印を付けた文字から、『あかまつ』という四文字を抜いてみた。『あかまつ』という文字が五つも隠されていた。そして、残された文字を読むと、『いくのにしろかねのやまあり』という文になった。
山陰に赤松の葉は枯れにける
あだにちるらん いきのびるより
かかるよを まちはびていま くもかかる
つゆのいのちを のちのよにかけ
あかつきに にしゆくかりの かげきえて
しらはたなびく まつばらのいそ
つりふねの あはれおほかる ろのひびき
かなしかるらむ かぜのさむさに
ねがはくは またくるはるの つきをまつ
のにちるはなの あさきいのちを
かひなくて やみにぞまよふ まつのもと
つきぬいのちを まふかぜにのせ
あきぞらに かさねるいろの あはれなり
りゅうすいこううん まつにゆめおき
「生野に白銀(シロガネ)の山あり‥‥‥」と金比羅坊が言った。
「白銀‥‥‥」と太郎も呟いた。
「というわけじゃ」と夢庵は笑った。
「生野とはどこじゃ」と金比羅坊が夢庵に聞いた。
「丁度、播磨と但馬の国境辺りじゃ」
「夢庵殿、行った事はあります?」と太郎は聞いた。
「ああ、行った事ある。市川をずっと遡(サカノボ)って行くと真弓峠に出る。そこを越えれば但馬の国じゃ。生野というのは峠を越えてすぐの所じゃ」
「ほう。という事は笠形山のもっと北の方というわけじゃな」
「但馬の国か‥‥‥山名氏の領土ですね」
「そうじゃな。山の中で何もない所じゃった。昔は山名宗全の親父殿の隠居所として、立派な屋敷があったらしいが、今は何も残っていない。山の上に小さな砦があって、播磨の方を睨んでいるくらいのものじゃ」
「夢庵殿は、どうして、そんな山の中まで行ったのですか」
「その生野より、もっと向こうの山奥に黒川谷というのがあってのう。そこに大明寺という禅寺があるんじゃが、そこの和尚が連歌に凝っていてのう。連歌会をやるから、是非、来てくれというんでな、牛に揺られて行ったわけじゃよ」
「成程のう。連歌師というのも、なかなかいいもんじゃのう。敵も味方もなく、付き合いができるんじゃのう。山名に行ったり、赤松に行ったり」
「何を言う。おぬしら山伏だって似たようなもんじゃろうが」
「そう言われてみればそうじゃ。わしらもどこに行こうと勝手だったわい」
「ところで、この白銀の事は赤松家は勿論の事、山名家も知らないのでしょうか」
「知らんじゃろう。あんな所で銀を掘っている様子など、まったくなかった。銀が出れば警戒が厳重になり、山名家でも有能の奴が出張って来るはずじゃ」
「という事は、性具入道が極秘で突き止めた事実という事ですね」
「多分、そうじゃろう。嘉吉の変が起こって銀を掘る事ができず、性具入道殿は連歌の中にその事を隠した。いつの日か、赤松家が再興されて、誰かがこの謎を解いて、生野の銀を赤松家のために使って欲しいと願いながら死んで行ったんじゃろうのう」
「しかし、凄いのう。この連歌の中に、そんな謎が隠されておったとはのう。もし、夢庵殿がいなかったら、わしらではとうてい、この謎は解けなかったわ」
「ええ、ほんとです。この歌の中にそんな事が隠してあったなんて‥‥‥赤松家では昔から連歌をやっていたんですね」
「赤松家は幕府の重臣じゃからな。幕府に出入りするには連歌くらいできなくてはならんのじゃよ。特に、性具入道殿は熱心じゃったようじゃのう。まあ、昔に限らん。今でも、そうじゃ。幕府の重臣たちは皆、連歌に熱中しておる。お陰で、わしも、その連歌で食って行けるというわけじゃ」と夢庵は笑った。
太郎は父親の事は良く知らないが、祖父が時折、連歌会をやっていたのは知っていた。太郎はただ大人の遊びだろうと思っていた。武士の嗜(タシナ)みの一つとして、連歌というものが、それ程、重要な位置をしめていたとは思ってもみなかった。
「これが本当だとすると、えらい事になるぞ」と金比羅坊が難しい顔をして太郎を見た。
「大した宝が出て来たのう。おぬし、どうするつもりじゃ」と夢庵も太郎を見た。
「どうしたら、いいでしょう」と太郎は二人の顔を見た。
「難しいな」と夢庵は首を振った。「お宝が大きすぎるからのう。こんな事を、やたら、人に喋ったら殺される羽目になりかねんぞ」
「殺される?」
「赤松にしろ、山名にしろ、銀山が本物かどうか確認した上で、口封じのために殺すじゃろう」
「成程のう。重要な軍事秘密となるわけじゃからのう」
「そうじゃ。どっちにしろ、銀を掘るとなると赤松か山名、どちらかの力を借りなければ無理じゃろうな」
「楓殿がいるんじゃから、当然、赤松じゃろうのう」と金比羅坊が言った。
太郎は頷いた。「楓を取り戻そうと乗り込んで来たけど、どうやって取り戻したらいいのか、わからなくなって来た」
「おいおい、どうした、急に弱気になって」
「初めのうちは、楓と宝を交換して帰ろうと思ったけど、そう簡単には行きそうもない」
「確かにな。今、楓殿を取り戻すというのは、はっきり言って不可能に近いのう」と夢庵も言った。
「おぬし、あんな噂を流したんじゃから、お屋形様が帰って来たら堂々と乗り込むつもりじゃろう。そして、宝の事を話して楓殿を取り戻すつもりだったんじゃろう」
「そのつもりでした」
「いっその事、おぬしも楓殿と一緒に、ここに残ったらどうじゃ」と夢庵は言った。
「えっ」と太郎は驚いて、夢庵を見た。
「あれだけ噂が流れてしまえば、赤松家でも楓殿の旦那を迎えるしかあるまい。とりあえずは迎えるじゃろう。そして、ほとぼりがさめた頃、病死してもらうという筋書じゃろうな」
「まさか、そんな汚い事をするのか」と金比羅坊が言った。
「楓殿を利用する気なら、その位の事はするじゃろう。あれだけの別嬪じゃ。嫁に出して、実力者と手を結ぶという事も考えられるしな」
「うむ、それは考えられるのう」
「おぬし、別所加賀守殿に会ってみんか」と夢庵は言った。「わしが思うに、腹を割って話せば加賀守殿ならわかってくれるかもしれんぞ。浦上美作守がおぬしの命を狙っているなら、余計、加賀守殿はおぬしを助けたがるかもしれん。手土産として一切経を持って行けばいい。ただ、銀山の事はまだ隠しておいた方がいいな。最後の切札として取っておいた方がいいじゃろう」
「わしも、そうした方がいいような気がするのう」と金比羅坊も言った。
太郎は二人の顔を見ながら考えていた。
急に騒がしい話声がして、風光坊、探真坊、八郎の三人と金勝座の連中が帰って来た。
「みんなが戻って来たようじゃの。まあ、考えてみてくれ。段取りはわしがする」
夢庵はそう言うと巻物を丸め、太郎に渡すと部屋から出て行った。
22.松阿弥2
4
みんなが帰って来て、急に賑やかになった。
太郎は『浦浪』の一室から、外を眺めながら夢庵から言われた事を考えていた。
いつまでも、こんな所に隠れていてもしょうがない事はわかっている。宝も捜し出した事だし、そろそろ、表に出る頃合だとも思っていた。夢庵が間に立ってくれれば、うまく行くような気もした。阿修羅坊が連れて来た松阿弥とやらを倒したら、思い切って別所加賀守に会ってみようと決心した。
太郎がぼんやり外を眺めていると、見た事ないような職人が中庭に入って来た。どうも紺屋(コウヤ)の職人のようだった。その職人は太郎に軽く頭を下げると、「すんません。太郎坊様とかいうお方はおりますかいの」と言った。
「太郎坊というのは、わたしだが」
「はあ、そうですか。あの、行者さんが会いたいと言っておりますが‥‥‥」
「行者? どこにいるんだ」
「あの、あっちです」と職人は河原の方を指さした。
一体、誰だろう、と河原まで出てみると、そこにいたのは阿修羅坊だった。
「やあ、元気か」と阿修羅坊は馴れ馴れしく、太郎に声をかけて来た。今まで、太郎の命を狙っていた事など、すっかり忘れてしまったような口振りだった。
「どうしたんです」と太郎は阿修羅坊の顔色を窺った。
「ちょっと、話があってのう」
「よく、ここがわかりましたね」
「ああ、偶然、おぬしの連れを河原で見つけてのう、後を付けて来た。あの金勝座とかいうのも、おぬしの仲間か」
「ええ」
「おぬしには色々な仲間がいるようじゃのう」
「話とは何です」
「まあ、立ち話も何じゃから座って話そう」
阿修羅坊と太郎は川の側の石の上に腰を降ろした。
「浦上殿に、おぬしの事を話した」と阿修羅坊は言って太郎の反応を見た。
太郎はただ川の流れを見ていた。
「考えておく、と言った。ところで、おぬし、念流というのを知っておるか」
「聞いた事はあります」
「そうか、その念流の使い手を連れて来た。おぬしがそいつを倒せば、おぬしを赤松家に迎えるそうじゃ」
「えっ、ほんとですか」太郎は探るように阿修羅坊を見た。
阿修羅坊は任せておけと言うように頷いた。「おぬしの事をよく言っておいた。浦上殿も、敵に回すより味方にした方がいいと気づいたんじゃろ。おぬしを楓殿の亭主として迎えるそうじゃ」
「そうですか‥‥‥ところで、その念流の使い手というのは何者です」
「松阿弥という時宗の僧じゃ。浦上殿の所に食客(ショッカク)としていたらしい。ちょっと気味の悪い男じゃ。手ごわい相手かも知れん」
「その松阿弥という男は何を使います」
「得物(エモノ、武器)か」
太郎は頷いた。
「わからんのう。わからんが、多分、仕込み杖じゃないかの」
「仕込み杖?」
「ああ、奴の持っている杖がな、どうも、仕込み杖のような気がする」
「刀が仕込んであるという事ですか」
「多分な。わしも念流とかいう剣術の事はよく知らんが、昔、山名宗全のもとに念流を使う奴がいてのう。首を斬るのが得意だとか聞いた事がある」
「首を?」
「あっという間だそうじゃ。あっという間に、敵の首が飛んでいるそうじゃ」
「そんな奴がいたのですか」
「噂じゃ。本当かどうかはわからん」
「念流か‥‥‥」
「いつやる」と阿修羅坊が聞いた。
「明日の早朝」と太郎は迷わず答えた。
「場所は?」
「この前の荒れ寺」
「よし、わかった。敵は一人じゃ。おぬしも一人で来い。わしが検分役を務める」
太郎は頷いた。
「ところで、宝捜しの方はどうじゃ」
「まだです」
「そうじゃろう。そう、簡単には見つかるまい。瑠璃寺には行ってみたか」
「行きましたけど、何もつかめませんでした」
「やはり、駄目か。これから、どこを捜すつもりじゃ」
「赤松村と城山城の城下を当たってみるつもりです」
「うむ、わしも赤松村が臭いと睨んでおったんじゃ。見つかるといいがのう。まあ、それより明日は勝てよ。楓殿を悲しませたくないからのう」
太郎は頷いた。
「おぬし、愛洲水軍の伜だそうじゃのう。愛洲氏といえば、昔、南北朝の頃、赤松氏と共に南朝方で活躍したそうじゃ。しかし、建武の新政で、赤松氏と同じく、大した恩賞も貰えなかった。赤松氏は反発して播磨に戻り、やがて、足利尊氏と組んで南朝を倒し、足利幕府に協力して三国の守護職を手に入れた。愛洲氏の場合は場所が悪かった。伊勢に南朝の大物、北畠氏が入って来たからのう。結局、北畠氏に食われた形になって、伊勢の隅に追いやられてしまった。もし、立場が逆だったら愛洲氏が三国の守護職になっていたかもしれんのう」
太郎も、祖父、白峰から南北朝の頃の愛洲氏の活躍は何度か聞いた事があった。しかし、阿修羅坊がどうして急に、そんな事を言い出したのかわからなかった。
「愛洲氏も源氏だそうじゃな」
「ええ」
「由緒ある家柄というわけじゃ。しかし、赤松家に迎えるには釣り合いが取れんそうじゃ。何せ、楓殿はお屋形様の姉上じゃからな。おぬしはお屋形様の兄上という事になるわけじゃ。わかるか。赤松家と釣り合いのとれる家柄の名前に変えてもらうかもしれん」
「そうですか‥‥‥」
太郎にとって名前など、どうでも良かった。現に今、太郎は四つの名前を持っている。本名の愛洲太郎左衛門久忠、山伏名の太郎坊移香と火山坊移香、そして、職人名の三好日向。今更、もう一つ名前が増えようと、どうって事はなかった。
「まあ、明日は頑張ってくれ」と言うと阿修羅坊は立ち上がった。
「右手は大丈夫ですか」と太郎は聞いた。
「ああ、骨はくっついたらしい。心配するな。もうすぐ元に戻る」
「そうですか」
「おぬし、また、棒を使うのか」
「いえ、刀を使います」
「うむ、その方がいい。ところで、ここに戻って来る途中、面白い噂を聞いた。信じられなかったが、この城下に来てみたら、その噂で持ち切りじゃ。その噂を流したのはおぬしか」
太郎は頷いた。
「やはりのう‥‥‥楓殿の亭主として、堂々と城下に入場するつもりか」
「ええ」
「まだ、時期が早いぞ。もう少し待ってくれ。今、入場したとしても、おぬしが楓殿の亭主だとは信じてもらえまい。楓殿にも会わせて貰えんじゃろう。城下を騒がす、ふとどき者として捕まり、殺されるのが落ちじゃ。もう少し待てば、美作守が後押ししてくれるじゃろう。それには、明日、松阿弥を倒し、わしがもう一度、京に帰り、戻って来るのを待っていてくれ。悪いようにはしない。わしに任せてくれ」
そう言うと阿修羅坊は河原を北の方に歩いて行った。
太郎は阿修羅坊の後姿を見ながら、楓の言ったように、本当はいい奴なのかも知れないと思った。
雨が降っていた。
太郎は昨夜のうちから、この荒れ寺に来ていた。金比羅坊も一緒にいた。
一人でいいと言ったのに聞かなかった。向こうも阿修羅坊と松阿弥の二人なのだから、こっちも二人でもおかしくない。わしはただ、阿修羅坊を見張っているだけじゃと言った。無理に断っても、隠れて付いて来るのはわかっていたので、一緒に行く事にした。
あの後、伊助から一度、連絡があった。阿修羅坊は城下に出て行ったが、松阿弥の方は浦上屋敷から一歩も外に出ないと言う。浦上屋敷に忍び込もうと思っていた太郎も、松阿弥の事は、阿修羅坊から大体、聞いたのでやめる事にした。
太郎は荒れ寺の縁側に座って河原の方を見ていた。
草が長く伸びていて、川の流れは見えなかった。
「よく、寝たわい」と金比羅坊が近づいて来た。「よく、降るのう」
「もう、秋ですね」と太郎は言った。
「おう、すっかり涼しくなったのう」
「甲賀を出てから、もうすぐ、一月になりますねえ」
「もう、そんなになるか」と金比羅坊は言って、縁側に腰を下ろすと河原の方を見た。
「飯道山は相変わらず、忙しいでしょうね」
「ああ。もうすぐ秋祭りじゃのう」
「秋祭りか‥‥‥そう言えば、金勝座も秋祭りには出るんでしょう」
「そうじゃのう。出るじゃろうのう」
「そろそろ、帰らなけりゃなりませんね」
「まだ、大丈夫じゃろ。おぬしが無事に城下に迎えられるのを見届けてから帰るじゃろう」
「金勝座のみんなが、いなくなると淋しくなりますね‥‥‥金比羅坊殿も一緒に帰るんですか」
「わしか‥‥‥わからんのう。もう少し様子を見ん事にはのう」
「話は変わりますけど、金比羅坊殿に娘さんがいたなんて、初めて知りましたよ」
「別に隠していたわけじゃないがのう」
伊助が花養院の様子を話してくれた時、今、金比羅坊の娘が孤児院を手伝っていると言ったのだった。金比羅坊の娘は、ちいと言う名の十四歳で、よく子供たちの面倒を見ているとの事だった。金比羅坊殿には悪いが、とても、金比羅坊殿の娘とは思えない程、綺麗な娘さんだと伊助は言った。
「他にも、お子さんはいるんですか」と太郎は聞いた。
「五郎というガキがおる」と金比羅坊は照れ臭そうに言った。
「何歳です」
「八つじゃ」
「へえ、驚きですよ。女がいるっていうのは知ってましたけど、まさか、子供が二人もいたなんて、とても信じられませんよ」
「そりゃ、お互い様じゃ。おぬしの弟子たちも、おぬしに女房と子供がいたなんて信じられんと言っておったぞ」
太郎は笑った。「そう言えば、師匠にあんな大きな子供がいたなんて、びっくりしましたよ」
「おう。わしも全然、知らんかったわい。あれには、わしもびっくりしたわ」
「みんな、独り者のように見えて、家族がいるんですね」
「ああ、あの阿修羅坊にもおるらしいしな」
「伊助殿や次郎吉殿にもいるんでしょうね」
「おるじゃろうのう」
「松阿弥にもいるんでしょうか」
「さあな、時宗の坊主だというから、いないかもしれんのう。しかし、坊主も裏で何をやってるかわからんから、子供がおるかもしれん」
「金比羅坊殿、探真坊の父親が山崎新十郎だったって知っていました?」
「山崎新十郎?」と言ったが、金比羅坊は思い出せないようだった。
「昔、望月屋敷を襲撃した時、望月又五郎の手下だった男です」
「何じゃと。本当か、そいつは」金比羅坊は驚いて、目を丸くして太郎を見つめた。
太郎は頷いた。「探真坊は俺を仇と狙っていたんです。いや、今でも狙っているかもしれません」
「仇と狙っている奴を、おぬしは弟子にしたと言うのか」
「成り行きで、そうなりました」
「大した奴じゃのう、おぬしは‥‥‥そうじゃったのか、探真坊がのう」
「まだ、いるかも知れません。俺を仇と狙っている奴は‥‥‥」
「しかし、それは仕方のない事じゃろう。おぬしも、むやみに人を殺しているわけではあるまい。剣術で生きて行く限り、それは宿命というものじゃないかのう」
「金比羅坊殿はどうです」
「わしか‥‥‥わしも何人もの人を殺して来た。わしを仇と思っている奴もおるじゃろうが、今の所、まだ、会ってはいない」
「そうですか‥‥‥」
「どうしたんじゃ。急にそんな話をしたりして」
「わかりません。ただ、これから決闘をするわけですけど、俺は松阿弥という奴を知りません。向こうも俺を知らないでしょう。お互い、知らない同士がどうして殺し合いをしなければならないのだろうって思ったんです」
「まあ、それはそうじゃが、そんな事を言ってしまえば、きりがないぞ。戦にしたって、知らない者同士が、何の恨みもないのに殺し合いをしておるんじゃ」
「どうして、そんな事をしているんでしょう」
「そんな事はわからん。ただ、戦に勝つためにやってるんじゃろう」
「勝つためにか‥‥‥」
「そうじゃ、勝つためにじゃ」
雨はやむ気配はなく、返って強くなって来たようだった。
「遅いのう。奴ら、本当に来るんかい」
「雨がやむのを待ってるんですかね」
「そんな事もあるまいが‥‥‥腕貫(ウデヌキ)を付けた方がいいぞ。雨で刀がすべるかもしれん」
「ええ、もう付けました」と太郎は刀の柄(ツカ)を見せた。
「うむ」と金比羅坊は満足そうに頷いた。
「‥‥‥おっ、来たらしいぞ」と金比羅坊は立ち上がった。「いや、伊助殿じゃ」
びっしょりになった伊助が寺の中に駈けて来た。
「もうすぐ、来ます。ひどい雨になりましたね」
金比羅坊は伊助に乾いた手拭いを渡した。
「この雨の中、やるんですか」と伊助が顔を拭きながら聞いた。
「敵は二人だけですか」と太郎は伊助に聞いた。
「ええ、二人だけです。良くはわかりませんが、松阿弥という奴、どうも体の具合が悪いみたいですよ。途中で何度も咳き込んでいました」
「ふん、風邪でもひいたか」と金比羅坊が笑った。
「いや、どうも労咳(肺結核)のような気がします。顔色も良くないし、体も痩せ細って、まるで骨と皮のようです」
「労咳病みか‥‥‥」と太郎は呟いた。
「気を抜くなよ」と金比羅坊が言った。「たとえ、相手が病人だろうと決闘は決闘じゃ。気を緩めたら負けるぞ」
「ええ、わかっています」
赤い傘が二つ見え、やがて、阿修羅坊と松阿弥の姿が草の中に見えて来た。阿修羅坊に赤い傘は似合わなかった。
太郎は松阿弥の姿をじっと見つめた。確かに伊助のいう通り、病人のようだった。顔まではよく見えないが、痩せているのはわかった。頭を丸め、色あせた墨衣を着て、どこにでもいる時宗の僧と変わりなかった。二人は真っすぐ荒れ寺の方に来た。
「生憎の天気じゃな」と阿修羅坊は太郎と金比羅坊と伊助を見ながら言った。
松阿弥は三人をちらっと見ただけで、草原の方を見ていた。
「やりますか」と太郎は言った。
「どうする。雨のやむのを待つか」
「わたしはどっちでも構いません」
阿修羅坊は頷くと、「松阿弥殿、こちらが、そなたの相手じゃ」と松阿弥に太郎を紹介した。
松阿弥は太郎を見た。一瞬だったが、太郎は松阿弥の目を見た。その目は修羅場を何度も経験して来た男の目だった。
「阿修羅坊殿、ちょっと話がある」と松阿弥はかすれた声で言った。
「何じゃ」
松阿弥と阿修羅坊は三人から離れて行った。
「わしは赤松家のために、この仕事を引き受けた」と松阿弥は言った。
「そんな事は知っておる」
「奴を殺す事は、確かに、赤松家のためになるんじゃな」
「なる。奴を殺すために、わしは手下を四十人も失った。このまま生かしておくわけにはいかん」
「わかった‥‥‥始めよう」
雨の中、決闘は始まった。
山伏姿の太郎は刀を中段に構えて松阿弥を見ていた。
松阿弥は杖に仕込んであった細く真っすぐな剣を胸の前に、刀身の先を左上に向け、斜めに構えていた。
お互いに、少しづつ間合いを狭めて行った。
二人の間合いが二間(ケン)になった時、二人は同時に止まった。
太郎は中段の構えから左足を一歩踏み出し、刀を顔の右横まで上げ、切っ先を天に向けて八相の構えを取った。
松阿弥は剣を下げ、下段に構えた。
太郎は八相の構えから刀を静かに後ろに倒し、無防備に左肩を松阿弥の方に突き出し、刀は左肩と反対方向の後ろの下段に下げた。
松阿弥は右足を一歩引くと下段の剣を後ろに引き、驚いた事に、太郎とまったく同じ構えをした。
二人とも左肩越しに、敵を見つめたまま動かなかった。
じっとしている二人に雨は容赦なく降りそそいだ。
阿修羅坊も金比羅坊も伊助も雨に濡れながら二人を見守っていた。
太郎は革の鉢巻をしていたが、雨は目の中にも入って来た。顔を拭いたかったが、それはできなかった。
松阿弥の方は鉢巻もしていない。坊主頭から雨が顔の上を流れていた。松阿弥は目を閉じているようだった。
松阿弥が動いた。素早かった。
太郎も動いた。
それは、ほんの一瞬の出来事だった。
松阿弥が太郎に斬り掛かって行き、太郎がそれに合わせるように松阿弥に斬り掛かった。しかし、剣と剣がぶつかる音もなく、剣が空を斬る音が続けて二回しただけだった。
そして、何事もなかったかのように、二人は場所をほんの少し変えて、また、同じ構えをしながら相手を見つめた。
見ていた三人にも、一体、今、何が起こったのか、はっきりわからない程の速さだった。
松阿弥は素早く駈け寄ると、太郎の首を横にはねた。太郎の首は間違いなく胴と離れ、雨の中、飛んで行くはずだった。しかし、太郎は松阿弥の剣をぎりぎりの所で避け、逆に、松阿弥の伸びきっていた両手を狙って刀を振り下ろした。
松阿弥は危うい所だったが、見事に太郎の刀を避け、飛び下がった。
それらの動きが、ほんの一瞬の内に行なわれ、二人はまた同じ構えをしたまま動かなかった。
松阿弥にとって、すでに体力の限界に来ていた。今の一撃で終わるはずだった。今まで、あの技を破った者はいなかった。いくら、病に蝕まれているとはいえ、腕が落ちたとは思えない。それを奴は避けた。避けただけでなく、反撃までして来た。
何という奴じゃ‥‥‥
誰にも負けないという自信を持っていた。それが、あんな若造に破られるとは‥‥‥
松阿弥は笑った。それは皮肉の笑いではなかった。心から自然に出て来た笑いだった。
今まで死に場所を捜して来た松阿弥にとって、自分よりも強い相手に掛かって死ねるというのは本望と言ってよかった。剣一筋に生きて来た自分にとって、それは最高の死に方だった。血を吐いたまま、どこかで野垂れ死にだけはしたくはなかった。
瞼の裏に、妙泉尼の顔が浮かんで来た。
妙泉尼が望んでいた太平の世にする事はできなかった。しかし、自分なりに一生懸命、生きて来たつもりだった。もう、思い残す事は何もなかった。
松阿弥は死ぬ覚悟をして、太郎に掛かって行った。
運命は、松阿弥の思うようにはならなかった。
剣が太郎に届く前に、松阿弥は発作に襲われて血を吐いた。地面が真っ赤に染まった。そして、血を吐きながら松阿弥は倒れた。
見ていた者たちは、太郎が目にも留まらない素早さで、松阿弥を斬ったものと思い込んだ。
太郎は刀を捨てると、倒れている松阿弥を助け起こした。
松阿弥は目を開けて太郎の方を見ながら笑った。そして、そのまま気を失った。
松阿弥は生き返った。
決闘の後、太郎たちは倒れた松阿弥を戸板に乗せて、『浦浪』まで運んで来た。
すでに皆、起きていて、どうしたんだ、と大騒ぎになった。金勝座のお文さんが、手際よく、みんなを指図して、すぐに松阿弥の手当を行なった。
濡れた着物を脱がして体を拭くと、乾いた着物を着せ、布団の中に寝かせ、冷えきった体を暖めた。熱も出ていたので、伊助の持っている解熱の薬と滋養強壮の薬を飲ませて安静にした。
伊助にも太郎にも、労咳に効く薬というのはわからなかった。
阿修羅坊は、みんなに迷惑がかかるので、ここに置いておくわけにはいかない。わたしの知っているうちがあるから、そこに連れて行くと言ったが、お文さんは許さなかった。
「あんた、この人の連れかい。よくまあ、こんなになるまで放っておいたもんだね。殺す気かい。駄目だよ。今、動かしたら、一番、危ないんだからね。どこに連れて行くんだか知らないけど、どうせ、ろくに世話なんか、できやしないんだろ。歩けるようになるまで動かしちゃ駄目だよ」とびしっと言われた。
さすがの阿修羅坊も一言も返せず、お文の言うがままだった。
阿修羅坊は松阿弥の事を皆に頼み、浦上屋敷に帰って行った。
松阿弥は五日間、横になったままだった。
みんなの介抱のお陰で、松阿弥の具合も少しづつ回復に向かって行った。今まで無理をしていて、ろくに休みもしなかったのだろう。顔色もよくなり、目付きも穏やかになって行った。
金勝座の女たちは、お文さんを初めとして、みんながよく面倒をみてくれていた。
松阿弥は、すでに自分が死んでいるものと思っていた。
最初に目が覚めた時、丁度、笛吹きのおすみが看病していたが、松阿弥は妙泉尼だと思い込み、ようやく、死ぬ事ができたと安心して、また眠りに落ちて行った。
次に目を覚ました時にはお文さんがいた。最初、妙泉尼だと思ったが、何となく違うような気がして、よく見たら知らない女だった。そして、自分がまったく知らない場所に寝かされている事に気づいた。
わしは、まだ生きていたのか‥‥‥と思いながら、また眠りに落ちて行った。
三度目に目を覚ました時には太一と太郎がいた。女は知らないが、男の顔は見覚えがあった‥‥‥
松阿弥は思い出した。
情けない、敵に助けられたのか、と思った。体を動かそうと思ったが、体中が重く、動かす事はできなかった。
また、眠った。
次には夜中に目を覚ました。体が大分、楽になったように感じられたが、まだ動かす事はできなかった。力が全然、入らなかった。夜中だから誰もいないだろうと思っていたのに枕元に誰かがいた。決闘の時、太郎坊と一緒にいた山伏だった。
わしが逃げると思って見張っているのか、と思った。しかし、その山伏は頭に乗せてある手拭いを取り換えてくれた。
どうして、敵にこんな事をするのかわからなかった。松阿弥には理解できなかった。
松阿弥は朝までずっと、寝た振りをしながら起きていた。枕元にいる山伏は小まめに手拭いを換えてくれた。そして、夜が明ける頃、今度は太郎坊が来て山伏と交替した。しばらくすると、今度は娘が来て、太郎坊と交替して行った。みんなが自分の事を心配して、看病してくれているという事がわかった。
どうして、わしのような者をこんなに看病してくれるのだろう、松阿弥にはわからなかった。今まで、自分の事をこれ程、心配してくれたのは妙泉尼、ただ一人だけだった。
どうして、わしなんかに、これ程、親身になって世話をしてくれるのか、わからなかったが、松阿弥は好意に甘える事にした。
五日目に、ようやく起きる事のできた松阿弥は、お文の作ったお粥(カユ)を食べた。そのお粥は涙が出る程、うまかった。妙泉尼の死以来、涙なんか流した事もなかったのに、その時は、なぜか、涙があふれて来て止まらなかった。松阿弥の意志に逆らって、涙の流れは止まらなかった。
七日目に布団から出て、少し歩けるようになった。歩けるようになっても、松阿弥はほとんど喋らなかった。喋らなかったが、松阿弥がみんなに感謝しているという事は、みんなにも充分に伝わっていた。
十一日目に、松阿弥は、色々とお世話になりました、とみんなにお礼を言って、みんなに見送られて但馬に帰って行った。例の仕込み杖は持っていなかった。
松阿弥は但馬の国に帰り、妙泉尼の墓の側に小さな草庵を建て、剣の事はすっかり忘れて、ひっそりと暮らしていた。
乞食坊主と呼ばれながらも、そんな事は少しも気にせず、人の為になる事なら何でも、ためらわず行なっていた。人に誉められたいとか、人に良く見てもらおうとか、そんな事は少しも思わず、些細な事ながら人の為になると思った事は何でもやった。
剣を捨てて初めて、妙泉尼が死ぬ前に言っていた、人の為に何かをしたいという意味が、ようやく松阿弥にもわかるようになっていた。
松阿弥は心の中に生きている妙泉尼と一緒に、人の為になる事なら何でも実行に移していた。
いつでも死ねる覚悟はできていたが、死はなかなか、やって来なかった。
いつの間にか、松阿弥の回りに子供たちが集まって来るようになっていた。子供たちに何かをしてやるわけではなかった。時々、一緒になって遊んでやるくらいだったが、子供たちは、松阿弥の事を、和尚、和尚と言って集まって来た。
そのうちに、集まって来た子供たちに読み書きを教えるようになった。ただで読み書きを教えてくれるというので、子供たちがどんどん集まって来た。松阿弥は集まって来た子供たち一人一人に丁寧に教えた。
そして、太郎と決闘した日より三年目の秋、松阿弥は子供たちに囲まれながら、静かに息を引き取った。
その死に顔は穏やかだった。
太郎はただ川の流れを見ていた。
「考えておく、と言った。ところで、おぬし、念流というのを知っておるか」
「聞いた事はあります」
「そうか、その念流の使い手を連れて来た。おぬしがそいつを倒せば、おぬしを赤松家に迎えるそうじゃ」
「えっ、ほんとですか」太郎は探るように阿修羅坊を見た。
阿修羅坊は任せておけと言うように頷いた。「おぬしの事をよく言っておいた。浦上殿も、敵に回すより味方にした方がいいと気づいたんじゃろ。おぬしを楓殿の亭主として迎えるそうじゃ」
「そうですか‥‥‥ところで、その念流の使い手というのは何者です」
「松阿弥という時宗の僧じゃ。浦上殿の所に食客(ショッカク)としていたらしい。ちょっと気味の悪い男じゃ。手ごわい相手かも知れん」
「その松阿弥という男は何を使います」
「得物(エモノ、武器)か」
太郎は頷いた。
「わからんのう。わからんが、多分、仕込み杖じゃないかの」
「仕込み杖?」
「ああ、奴の持っている杖がな、どうも、仕込み杖のような気がする」
「刀が仕込んであるという事ですか」
「多分な。わしも念流とかいう剣術の事はよく知らんが、昔、山名宗全のもとに念流を使う奴がいてのう。首を斬るのが得意だとか聞いた事がある」
「首を?」
「あっという間だそうじゃ。あっという間に、敵の首が飛んでいるそうじゃ」
「そんな奴がいたのですか」
「噂じゃ。本当かどうかはわからん」
「念流か‥‥‥」
「いつやる」と阿修羅坊が聞いた。
「明日の早朝」と太郎は迷わず答えた。
「場所は?」
「この前の荒れ寺」
「よし、わかった。敵は一人じゃ。おぬしも一人で来い。わしが検分役を務める」
太郎は頷いた。
「ところで、宝捜しの方はどうじゃ」
「まだです」
「そうじゃろう。そう、簡単には見つかるまい。瑠璃寺には行ってみたか」
「行きましたけど、何もつかめませんでした」
「やはり、駄目か。これから、どこを捜すつもりじゃ」
「赤松村と城山城の城下を当たってみるつもりです」
「うむ、わしも赤松村が臭いと睨んでおったんじゃ。見つかるといいがのう。まあ、それより明日は勝てよ。楓殿を悲しませたくないからのう」
太郎は頷いた。
「おぬし、愛洲水軍の伜だそうじゃのう。愛洲氏といえば、昔、南北朝の頃、赤松氏と共に南朝方で活躍したそうじゃ。しかし、建武の新政で、赤松氏と同じく、大した恩賞も貰えなかった。赤松氏は反発して播磨に戻り、やがて、足利尊氏と組んで南朝を倒し、足利幕府に協力して三国の守護職を手に入れた。愛洲氏の場合は場所が悪かった。伊勢に南朝の大物、北畠氏が入って来たからのう。結局、北畠氏に食われた形になって、伊勢の隅に追いやられてしまった。もし、立場が逆だったら愛洲氏が三国の守護職になっていたかもしれんのう」
太郎も、祖父、白峰から南北朝の頃の愛洲氏の活躍は何度か聞いた事があった。しかし、阿修羅坊がどうして急に、そんな事を言い出したのかわからなかった。
「愛洲氏も源氏だそうじゃな」
「ええ」
「由緒ある家柄というわけじゃ。しかし、赤松家に迎えるには釣り合いが取れんそうじゃ。何せ、楓殿はお屋形様の姉上じゃからな。おぬしはお屋形様の兄上という事になるわけじゃ。わかるか。赤松家と釣り合いのとれる家柄の名前に変えてもらうかもしれん」
「そうですか‥‥‥」
太郎にとって名前など、どうでも良かった。現に今、太郎は四つの名前を持っている。本名の愛洲太郎左衛門久忠、山伏名の太郎坊移香と火山坊移香、そして、職人名の三好日向。今更、もう一つ名前が増えようと、どうって事はなかった。
「まあ、明日は頑張ってくれ」と言うと阿修羅坊は立ち上がった。
「右手は大丈夫ですか」と太郎は聞いた。
「ああ、骨はくっついたらしい。心配するな。もうすぐ元に戻る」
「そうですか」
「おぬし、また、棒を使うのか」
「いえ、刀を使います」
「うむ、その方がいい。ところで、ここに戻って来る途中、面白い噂を聞いた。信じられなかったが、この城下に来てみたら、その噂で持ち切りじゃ。その噂を流したのはおぬしか」
太郎は頷いた。
「やはりのう‥‥‥楓殿の亭主として、堂々と城下に入場するつもりか」
「ええ」
「まだ、時期が早いぞ。もう少し待ってくれ。今、入場したとしても、おぬしが楓殿の亭主だとは信じてもらえまい。楓殿にも会わせて貰えんじゃろう。城下を騒がす、ふとどき者として捕まり、殺されるのが落ちじゃ。もう少し待てば、美作守が後押ししてくれるじゃろう。それには、明日、松阿弥を倒し、わしがもう一度、京に帰り、戻って来るのを待っていてくれ。悪いようにはしない。わしに任せてくれ」
そう言うと阿修羅坊は河原を北の方に歩いて行った。
太郎は阿修羅坊の後姿を見ながら、楓の言ったように、本当はいい奴なのかも知れないと思った。
5
雨が降っていた。
太郎は昨夜のうちから、この荒れ寺に来ていた。金比羅坊も一緒にいた。
一人でいいと言ったのに聞かなかった。向こうも阿修羅坊と松阿弥の二人なのだから、こっちも二人でもおかしくない。わしはただ、阿修羅坊を見張っているだけじゃと言った。無理に断っても、隠れて付いて来るのはわかっていたので、一緒に行く事にした。
あの後、伊助から一度、連絡があった。阿修羅坊は城下に出て行ったが、松阿弥の方は浦上屋敷から一歩も外に出ないと言う。浦上屋敷に忍び込もうと思っていた太郎も、松阿弥の事は、阿修羅坊から大体、聞いたのでやめる事にした。
太郎は荒れ寺の縁側に座って河原の方を見ていた。
草が長く伸びていて、川の流れは見えなかった。
「よく、寝たわい」と金比羅坊が近づいて来た。「よく、降るのう」
「もう、秋ですね」と太郎は言った。
「おう、すっかり涼しくなったのう」
「甲賀を出てから、もうすぐ、一月になりますねえ」
「もう、そんなになるか」と金比羅坊は言って、縁側に腰を下ろすと河原の方を見た。
「飯道山は相変わらず、忙しいでしょうね」
「ああ。もうすぐ秋祭りじゃのう」
「秋祭りか‥‥‥そう言えば、金勝座も秋祭りには出るんでしょう」
「そうじゃのう。出るじゃろうのう」
「そろそろ、帰らなけりゃなりませんね」
「まだ、大丈夫じゃろ。おぬしが無事に城下に迎えられるのを見届けてから帰るじゃろう」
「金勝座のみんなが、いなくなると淋しくなりますね‥‥‥金比羅坊殿も一緒に帰るんですか」
「わしか‥‥‥わからんのう。もう少し様子を見ん事にはのう」
「話は変わりますけど、金比羅坊殿に娘さんがいたなんて、初めて知りましたよ」
「別に隠していたわけじゃないがのう」
伊助が花養院の様子を話してくれた時、今、金比羅坊の娘が孤児院を手伝っていると言ったのだった。金比羅坊の娘は、ちいと言う名の十四歳で、よく子供たちの面倒を見ているとの事だった。金比羅坊殿には悪いが、とても、金比羅坊殿の娘とは思えない程、綺麗な娘さんだと伊助は言った。
「他にも、お子さんはいるんですか」と太郎は聞いた。
「五郎というガキがおる」と金比羅坊は照れ臭そうに言った。
「何歳です」
「八つじゃ」
「へえ、驚きですよ。女がいるっていうのは知ってましたけど、まさか、子供が二人もいたなんて、とても信じられませんよ」
「そりゃ、お互い様じゃ。おぬしの弟子たちも、おぬしに女房と子供がいたなんて信じられんと言っておったぞ」
太郎は笑った。「そう言えば、師匠にあんな大きな子供がいたなんて、びっくりしましたよ」
「おう。わしも全然、知らんかったわい。あれには、わしもびっくりしたわ」
「みんな、独り者のように見えて、家族がいるんですね」
「ああ、あの阿修羅坊にもおるらしいしな」
「伊助殿や次郎吉殿にもいるんでしょうね」
「おるじゃろうのう」
「松阿弥にもいるんでしょうか」
「さあな、時宗の坊主だというから、いないかもしれんのう。しかし、坊主も裏で何をやってるかわからんから、子供がおるかもしれん」
「金比羅坊殿、探真坊の父親が山崎新十郎だったって知っていました?」
「山崎新十郎?」と言ったが、金比羅坊は思い出せないようだった。
「昔、望月屋敷を襲撃した時、望月又五郎の手下だった男です」
「何じゃと。本当か、そいつは」金比羅坊は驚いて、目を丸くして太郎を見つめた。
太郎は頷いた。「探真坊は俺を仇と狙っていたんです。いや、今でも狙っているかもしれません」
「仇と狙っている奴を、おぬしは弟子にしたと言うのか」
「成り行きで、そうなりました」
「大した奴じゃのう、おぬしは‥‥‥そうじゃったのか、探真坊がのう」
「まだ、いるかも知れません。俺を仇と狙っている奴は‥‥‥」
「しかし、それは仕方のない事じゃろう。おぬしも、むやみに人を殺しているわけではあるまい。剣術で生きて行く限り、それは宿命というものじゃないかのう」
「金比羅坊殿はどうです」
「わしか‥‥‥わしも何人もの人を殺して来た。わしを仇と思っている奴もおるじゃろうが、今の所、まだ、会ってはいない」
「そうですか‥‥‥」
「どうしたんじゃ。急にそんな話をしたりして」
「わかりません。ただ、これから決闘をするわけですけど、俺は松阿弥という奴を知りません。向こうも俺を知らないでしょう。お互い、知らない同士がどうして殺し合いをしなければならないのだろうって思ったんです」
「まあ、それはそうじゃが、そんな事を言ってしまえば、きりがないぞ。戦にしたって、知らない者同士が、何の恨みもないのに殺し合いをしておるんじゃ」
「どうして、そんな事をしているんでしょう」
「そんな事はわからん。ただ、戦に勝つためにやってるんじゃろう」
「勝つためにか‥‥‥」
「そうじゃ、勝つためにじゃ」
雨はやむ気配はなく、返って強くなって来たようだった。
「遅いのう。奴ら、本当に来るんかい」
「雨がやむのを待ってるんですかね」
「そんな事もあるまいが‥‥‥腕貫(ウデヌキ)を付けた方がいいぞ。雨で刀がすべるかもしれん」
「ええ、もう付けました」と太郎は刀の柄(ツカ)を見せた。
「うむ」と金比羅坊は満足そうに頷いた。
「‥‥‥おっ、来たらしいぞ」と金比羅坊は立ち上がった。「いや、伊助殿じゃ」
びっしょりになった伊助が寺の中に駈けて来た。
「もうすぐ、来ます。ひどい雨になりましたね」
金比羅坊は伊助に乾いた手拭いを渡した。
「この雨の中、やるんですか」と伊助が顔を拭きながら聞いた。
「敵は二人だけですか」と太郎は伊助に聞いた。
「ええ、二人だけです。良くはわかりませんが、松阿弥という奴、どうも体の具合が悪いみたいですよ。途中で何度も咳き込んでいました」
「ふん、風邪でもひいたか」と金比羅坊が笑った。
「いや、どうも労咳(肺結核)のような気がします。顔色も良くないし、体も痩せ細って、まるで骨と皮のようです」
「労咳病みか‥‥‥」と太郎は呟いた。
「気を抜くなよ」と金比羅坊が言った。「たとえ、相手が病人だろうと決闘は決闘じゃ。気を緩めたら負けるぞ」
「ええ、わかっています」
赤い傘が二つ見え、やがて、阿修羅坊と松阿弥の姿が草の中に見えて来た。阿修羅坊に赤い傘は似合わなかった。
太郎は松阿弥の姿をじっと見つめた。確かに伊助のいう通り、病人のようだった。顔まではよく見えないが、痩せているのはわかった。頭を丸め、色あせた墨衣を着て、どこにでもいる時宗の僧と変わりなかった。二人は真っすぐ荒れ寺の方に来た。
「生憎の天気じゃな」と阿修羅坊は太郎と金比羅坊と伊助を見ながら言った。
松阿弥は三人をちらっと見ただけで、草原の方を見ていた。
「やりますか」と太郎は言った。
「どうする。雨のやむのを待つか」
「わたしはどっちでも構いません」
阿修羅坊は頷くと、「松阿弥殿、こちらが、そなたの相手じゃ」と松阿弥に太郎を紹介した。
松阿弥は太郎を見た。一瞬だったが、太郎は松阿弥の目を見た。その目は修羅場を何度も経験して来た男の目だった。
「阿修羅坊殿、ちょっと話がある」と松阿弥はかすれた声で言った。
「何じゃ」
松阿弥と阿修羅坊は三人から離れて行った。
「わしは赤松家のために、この仕事を引き受けた」と松阿弥は言った。
「そんな事は知っておる」
「奴を殺す事は、確かに、赤松家のためになるんじゃな」
「なる。奴を殺すために、わしは手下を四十人も失った。このまま生かしておくわけにはいかん」
「わかった‥‥‥始めよう」
雨の中、決闘は始まった。
山伏姿の太郎は刀を中段に構えて松阿弥を見ていた。
松阿弥は杖に仕込んであった細く真っすぐな剣を胸の前に、刀身の先を左上に向け、斜めに構えていた。
お互いに、少しづつ間合いを狭めて行った。
二人の間合いが二間(ケン)になった時、二人は同時に止まった。
太郎は中段の構えから左足を一歩踏み出し、刀を顔の右横まで上げ、切っ先を天に向けて八相の構えを取った。
松阿弥は剣を下げ、下段に構えた。
太郎は八相の構えから刀を静かに後ろに倒し、無防備に左肩を松阿弥の方に突き出し、刀は左肩と反対方向の後ろの下段に下げた。
松阿弥は右足を一歩引くと下段の剣を後ろに引き、驚いた事に、太郎とまったく同じ構えをした。
二人とも左肩越しに、敵を見つめたまま動かなかった。
じっとしている二人に雨は容赦なく降りそそいだ。
阿修羅坊も金比羅坊も伊助も雨に濡れながら二人を見守っていた。
太郎は革の鉢巻をしていたが、雨は目の中にも入って来た。顔を拭いたかったが、それはできなかった。
松阿弥の方は鉢巻もしていない。坊主頭から雨が顔の上を流れていた。松阿弥は目を閉じているようだった。
松阿弥が動いた。素早かった。
太郎も動いた。
それは、ほんの一瞬の出来事だった。
松阿弥が太郎に斬り掛かって行き、太郎がそれに合わせるように松阿弥に斬り掛かった。しかし、剣と剣がぶつかる音もなく、剣が空を斬る音が続けて二回しただけだった。
そして、何事もなかったかのように、二人は場所をほんの少し変えて、また、同じ構えをしながら相手を見つめた。
見ていた三人にも、一体、今、何が起こったのか、はっきりわからない程の速さだった。
松阿弥は素早く駈け寄ると、太郎の首を横にはねた。太郎の首は間違いなく胴と離れ、雨の中、飛んで行くはずだった。しかし、太郎は松阿弥の剣をぎりぎりの所で避け、逆に、松阿弥の伸びきっていた両手を狙って刀を振り下ろした。
松阿弥は危うい所だったが、見事に太郎の刀を避け、飛び下がった。
それらの動きが、ほんの一瞬の内に行なわれ、二人はまた同じ構えをしたまま動かなかった。
松阿弥にとって、すでに体力の限界に来ていた。今の一撃で終わるはずだった。今まで、あの技を破った者はいなかった。いくら、病に蝕まれているとはいえ、腕が落ちたとは思えない。それを奴は避けた。避けただけでなく、反撃までして来た。
何という奴じゃ‥‥‥
誰にも負けないという自信を持っていた。それが、あんな若造に破られるとは‥‥‥
松阿弥は笑った。それは皮肉の笑いではなかった。心から自然に出て来た笑いだった。
今まで死に場所を捜して来た松阿弥にとって、自分よりも強い相手に掛かって死ねるというのは本望と言ってよかった。剣一筋に生きて来た自分にとって、それは最高の死に方だった。血を吐いたまま、どこかで野垂れ死にだけはしたくはなかった。
瞼の裏に、妙泉尼の顔が浮かんで来た。
妙泉尼が望んでいた太平の世にする事はできなかった。しかし、自分なりに一生懸命、生きて来たつもりだった。もう、思い残す事は何もなかった。
松阿弥は死ぬ覚悟をして、太郎に掛かって行った。
運命は、松阿弥の思うようにはならなかった。
剣が太郎に届く前に、松阿弥は発作に襲われて血を吐いた。地面が真っ赤に染まった。そして、血を吐きながら松阿弥は倒れた。
見ていた者たちは、太郎が目にも留まらない素早さで、松阿弥を斬ったものと思い込んだ。
太郎は刀を捨てると、倒れている松阿弥を助け起こした。
松阿弥は目を開けて太郎の方を見ながら笑った。そして、そのまま気を失った。
6
松阿弥は生き返った。
決闘の後、太郎たちは倒れた松阿弥を戸板に乗せて、『浦浪』まで運んで来た。
すでに皆、起きていて、どうしたんだ、と大騒ぎになった。金勝座のお文さんが、手際よく、みんなを指図して、すぐに松阿弥の手当を行なった。
濡れた着物を脱がして体を拭くと、乾いた着物を着せ、布団の中に寝かせ、冷えきった体を暖めた。熱も出ていたので、伊助の持っている解熱の薬と滋養強壮の薬を飲ませて安静にした。
伊助にも太郎にも、労咳に効く薬というのはわからなかった。
阿修羅坊は、みんなに迷惑がかかるので、ここに置いておくわけにはいかない。わたしの知っているうちがあるから、そこに連れて行くと言ったが、お文さんは許さなかった。
「あんた、この人の連れかい。よくまあ、こんなになるまで放っておいたもんだね。殺す気かい。駄目だよ。今、動かしたら、一番、危ないんだからね。どこに連れて行くんだか知らないけど、どうせ、ろくに世話なんか、できやしないんだろ。歩けるようになるまで動かしちゃ駄目だよ」とびしっと言われた。
さすがの阿修羅坊も一言も返せず、お文の言うがままだった。
阿修羅坊は松阿弥の事を皆に頼み、浦上屋敷に帰って行った。
松阿弥は五日間、横になったままだった。
みんなの介抱のお陰で、松阿弥の具合も少しづつ回復に向かって行った。今まで無理をしていて、ろくに休みもしなかったのだろう。顔色もよくなり、目付きも穏やかになって行った。
金勝座の女たちは、お文さんを初めとして、みんながよく面倒をみてくれていた。
松阿弥は、すでに自分が死んでいるものと思っていた。
最初に目が覚めた時、丁度、笛吹きのおすみが看病していたが、松阿弥は妙泉尼だと思い込み、ようやく、死ぬ事ができたと安心して、また眠りに落ちて行った。
次に目を覚ました時にはお文さんがいた。最初、妙泉尼だと思ったが、何となく違うような気がして、よく見たら知らない女だった。そして、自分がまったく知らない場所に寝かされている事に気づいた。
わしは、まだ生きていたのか‥‥‥と思いながら、また眠りに落ちて行った。
三度目に目を覚ました時には太一と太郎がいた。女は知らないが、男の顔は見覚えがあった‥‥‥
松阿弥は思い出した。
情けない、敵に助けられたのか、と思った。体を動かそうと思ったが、体中が重く、動かす事はできなかった。
また、眠った。
次には夜中に目を覚ました。体が大分、楽になったように感じられたが、まだ動かす事はできなかった。力が全然、入らなかった。夜中だから誰もいないだろうと思っていたのに枕元に誰かがいた。決闘の時、太郎坊と一緒にいた山伏だった。
わしが逃げると思って見張っているのか、と思った。しかし、その山伏は頭に乗せてある手拭いを取り換えてくれた。
どうして、敵にこんな事をするのかわからなかった。松阿弥には理解できなかった。
松阿弥は朝までずっと、寝た振りをしながら起きていた。枕元にいる山伏は小まめに手拭いを換えてくれた。そして、夜が明ける頃、今度は太郎坊が来て山伏と交替した。しばらくすると、今度は娘が来て、太郎坊と交替して行った。みんなが自分の事を心配して、看病してくれているという事がわかった。
どうして、わしのような者をこんなに看病してくれるのだろう、松阿弥にはわからなかった。今まで、自分の事をこれ程、心配してくれたのは妙泉尼、ただ一人だけだった。
どうして、わしなんかに、これ程、親身になって世話をしてくれるのか、わからなかったが、松阿弥は好意に甘える事にした。
五日目に、ようやく起きる事のできた松阿弥は、お文の作ったお粥(カユ)を食べた。そのお粥は涙が出る程、うまかった。妙泉尼の死以来、涙なんか流した事もなかったのに、その時は、なぜか、涙があふれて来て止まらなかった。松阿弥の意志に逆らって、涙の流れは止まらなかった。
七日目に布団から出て、少し歩けるようになった。歩けるようになっても、松阿弥はほとんど喋らなかった。喋らなかったが、松阿弥がみんなに感謝しているという事は、みんなにも充分に伝わっていた。
十一日目に、松阿弥は、色々とお世話になりました、とみんなにお礼を言って、みんなに見送られて但馬に帰って行った。例の仕込み杖は持っていなかった。
松阿弥は但馬の国に帰り、妙泉尼の墓の側に小さな草庵を建て、剣の事はすっかり忘れて、ひっそりと暮らしていた。
乞食坊主と呼ばれながらも、そんな事は少しも気にせず、人の為になる事なら何でも、ためらわず行なっていた。人に誉められたいとか、人に良く見てもらおうとか、そんな事は少しも思わず、些細な事ながら人の為になると思った事は何でもやった。
剣を捨てて初めて、妙泉尼が死ぬ前に言っていた、人の為に何かをしたいという意味が、ようやく松阿弥にもわかるようになっていた。
松阿弥は心の中に生きている妙泉尼と一緒に、人の為になる事なら何でも実行に移していた。
いつでも死ねる覚悟はできていたが、死はなかなか、やって来なかった。
いつの間にか、松阿弥の回りに子供たちが集まって来るようになっていた。子供たちに何かをしてやるわけではなかった。時々、一緒になって遊んでやるくらいだったが、子供たちは、松阿弥の事を、和尚、和尚と言って集まって来た。
そのうちに、集まって来た子供たちに読み書きを教えるようになった。ただで読み書きを教えてくれるというので、子供たちがどんどん集まって来た。松阿弥は集まって来た子供たち一人一人に丁寧に教えた。
そして、太郎と決闘した日より三年目の秋、松阿弥は子供たちに囲まれながら、静かに息を引き取った。
その死に顔は穏やかだった。
23.別所加賀守1
1
松阿弥との決闘のあった雨降りの日、太郎は夢庵肖柏に、今までのいきさつをすべて話していた。そして、別所加賀守に会わせてくれるように頼んだ。
夢庵は快く引き受け、さっそく、別所屋敷へと向かった。
その頃、別所屋敷では楓の旦那である愛洲太郎左衛門久忠という男の正体をつかむため、御嶽山清水寺(ミタケサンキヨミズデラ)の山伏を愛洲氏の本拠地、五ケ所浦に送っていた。
浦上美作守が瑠璃寺の山伏を使っているのと同様に、別所加賀守は清水寺の山伏を使って情報集めをしていた。
すでに、赤松家の重臣たちの間にも、楓御料人様の旦那様が生きていて、もうすぐ城下にやって来る、という噂は流れていた。
新しく作る城下町の事と楓の披露式典の事で、毎日、開かれている評定(ヒョウジョウ)の場でも、その噂は問題となり、別所加賀守は真相を確かめるために、三日前に京の浦上美作守のもとに早馬を飛ばしていた。また、町奉行の後藤伊勢守も噂の出所の追及に乗り出していた。
後藤伊勢守は金勝座の『楓御料人物語』も見ていた。金勝座の者たちは後藤伊勢守の姿を見つけ、一騒動、起こりそうだと心配したが、後藤伊勢守は座頭の助五郎から物語の内容に関する、ちょっとした話を聞くと帰って行った。捕まるかもしれないと覚悟していた金勝座の者たちは、ほっと胸を撫で下ろした反面、気抜けしたような感じだった。
後藤伊勢守は、金勝座がこの前、別所屋敷で上演し、成功していたのを知っていた。現に後藤伊勢守の妻と娘も金勝座の舞台を見て、良かったと伊勢守に話していた。確かではないが、金勝座は楓御料人が京から呼んだ芸人たちだ、という噂も流れていた。簡単に捕まえて、取り調べをする訳にはいかなかった。
後藤伊勢守は調べて行くうちに、この噂が城下だけに広まっているのではないという事を知った。すでに、播磨の国一円に流れていた。
播磨国内の国人たちは、常に赤松家の情勢に耳をそば立てている。ちょっとした事でも、自分たちの運命を左右する場合があった。お屋形様である赤松政則が、今、どこで何をしているか、また、何をしようとしているかを素早く知り、それに対処して行かなければならなかった。
国人たちは常に新しい情報を求めていた。後の時代のように間者(カンジャ)を放ってまで情報収集をしていたわけではないが、旅の商人や僧侶、山伏などから色々な情報を手に入れていた。
国人たちはすでに、お屋形様の姉上様が置塩城下に来ているという事は知っていた。まだ日取りまでは決まっていないが、お屋形様が戻って来たら披露の式典をやるので、必ず、参加してほしいとの連絡を受けていた。その姉上様の旦那様が生きていて城下に来るという噂は、大問題として国人たちの間に広まって行った。
何が、大問題なのかというと土地であった。
国人たちは今、自分が手にしている土地を守らなければならなかった。嘉吉の変で赤松家は滅び、播磨の国は山名家の支配下となった。国人たちのある者は赤松家と共に滅び、土地も失った。また、ある者は土地と家臣たちを守るため、山名家の被官となった。そして、応仁の乱となり、また、赤松家が播磨に入って来た。早々と赤松家の味方となった者は無事だったが、最後まで山名家にくっついていた者たちは土地を奪われ滅ぼされた。権力者が変わるたびに、うまく立ち回らないと、土地は奪われ、家臣たちと共に路頭に迷う事となった。
今回、お屋形様の姉上様の旦那様が播磨に入って来ると言う。姉上様だけだったら、化粧料として僅かな土地を与えれば済むが、その旦那様となれば、お屋形様の義理の兄上として、かなり広い土地を手に入れるに違いなかった。かつて、山名家の被官となっていた国人たちは、もしや、自分の土地が奪われやしないかと冷や冷やしながら置塩城下の動向を探っていた。
国中に広まってしまったからには、今更、噂の出所など調べるのは難しい事だった。それよりも、もし噂が真実だとしたら、生きているという楓殿の旦那様が、今、どこにいるのか捜し出さなくてはならない。また、出まかせだとしたら、誰が、一体、何の為に、そんな噂を流したのか確かめなくてはならなかった。しかし、そんな噂を流して、得する者がいるとは思えなかった。もし、いるとすれば、それは浦上美作守に違いない、と別所加賀守は思った。
浦上美作守は赤松家が再興された当初より、幼かった政則の側にいて、よく尽くして来た。幼い主君を立てて、数ある戦で活躍して来た。政則も美作守を父親のように慕って、言う事を聞いて来た。細川勝元の後ろ盾はあったにしろ、今のように赤松家を立て直したのは自分の力だと美作守は自負していた。ところが、政則もすでに二十歳となり、赤松家のお屋形としての自覚を持ち、何だかんだと、うるさい美作守を疎ましく思うようになって行った。政則は幕府の侍所の頭人の身でありながら京を去り、領国経営に乗り出した。すでに、政則は美作守の思うようには行かなくなっていた。
浦上美作守が、自分の言いなりにならなくなった政則をお屋形の座から降ろして、義理の兄にあたる、その男をお屋形にすげ替えようとたくらんでいるのかもしれないと加賀守は思った。
楓殿を京にいる重臣たちに紹介してから国元に送り込み、旦那は戦死したと言って安心させ、そして、今度は生きていたという噂を流し、噂が国中に広まった頃を見計らって登場させる。そして、浦上美作守がその兄上の後ろ盾となり、政則の手落ちに付け込み、お屋形の交替に持ち込もうとたくらんでいるのかもしれなかった。
もし、美作守が、そんな大それた事をたくらんでいるとすると、こちらも慎重に対処して行かなければならない。それだけの事をするには事前工作が必要だった。国元にいる浦上派の重臣たちの動きも調べなければならなかった。そう、美作守の思い通りにさせるわけにはいかない。絶対に食い止めなければならなかった。
まず、楓が本当に政則の姉かどうか確認しなければならない。加賀守は楓を捜し出したという山伏、阿修羅坊を捜し、楓を捜し出した一件に付いて詳しく聞こうと思った。
阿修羅坊も美作守の一味だから、本当の事は言うまいとは思うが、何らかの手掛かりはつかめるかもしれない。しかし、阿修羅坊は城下にはいなかった。すでに、京に帰ったのか、城下には見当たらなかった。ところが、昨日、城下の入り口を守る門番から、阿修羅坊が戻って来たとの連絡が入り、さっそく、加賀守は阿修羅坊を呼んで話を聞いた。
楓殿が会いたがっていると言ったら、阿修羅坊はすぐに別所屋敷にやって来た。
加賀守は楓のいる前で、阿修羅坊から、どうやって楓を捜し出したのかを聞いた。そして、今、流れている噂についても聞いてみた。
楓を捜し出した一件については、どうも、嘘を言っているようには思えなかった。加賀守も、美作守が偽の姉上まで仕立てはしないだろうと思った。
そして、噂については阿修羅坊もまったく知らないようだった。阿修羅坊がこの間、城下を出て行く時には、そんな噂は聞かなかった。ところが、今回、戻ってみると城下は勿論の事、国中、その噂で持ち切りなので驚いていると言う。
美作守はその事について何か言わなかったか、と聞いてみたが、何も言わなかったと言う。
美作守が何も知らないというのは信じられなかった。阿修羅坊が隠しているに違いない。もしかしたら、阿修羅坊が噂を流した張本人かも知れないと思った。
楓の方は、その噂を信じて、本当に喜んでいるようだった。
ただ、楓の旦那の正体がつかめなかった。楓もはっきりとした事を言わないし、阿修羅坊も詳しくは知らないようだった。
阿修羅坊が加賀守に呼ばれたのは、丁度、太郎と河原で会った後だった。太郎に、名前を変えた方がいいと言ったばかりだった。加賀守は楓から聞いて、名前と素性を知っていた。しかし、山伏だという事は知らないようだった。楓もそこまでは喋っていないようだ。阿修羅坊も言いたくはなかったが、楓を甲賀で見つけたと言った手前、どうして、甲賀にいるのか説明しなければならなかった。阿修羅坊は、太郎が愛洲家で何らかの問題を起こして国元を出て、甲賀飯道山に身を隠して剣術の修行をしていたが、国元で戦が始まったので、太郎は楓を甲賀に残して帰り、戦に出たが行方不明になったと説明した。楓も、阿修羅坊の話が本当だと認めた。
話の筋は通っているが、加賀守は納得しなかった。楓にしろ、阿修羅坊にしろ、何かを隠しているような気がしたが、その時は、それ位でやめた。
そして、今朝になって、清水寺の山伏を大円寺から呼び、五ケ所浦に送った。
そんな時、夢庵がひょっこり現れ、楓の旦那について話があると言ったのだった。夢庵が、どうして、そんな事に首を突っ込んでいるのかわからなかったが、とりあえず、聞いてみる事にした。
加賀守は夢庵を書斎に連れて行き、執事の織部祐(オリベノスケ)に、誰も近づけるなと命じた。
夢庵が語った事は、まったく、驚くべき事だった。
夢庵は楓の旦那を知っており、今、会って来たばかりだと言った。
加賀守が、どこにいる、と聞いても、夢庵は教えてくれなかった。それより、話を全部、聞いてくれと、太郎から聞いた話を話し始めた。
阿修羅坊が楓を捜し出し、京に連れて来た所から、その後を追って、太郎がこの城下に来て、阿修羅坊たちを倒し、そして、今朝、松阿弥と戦って倒した、という所まで順を追って話した。
加賀守は黙って夢庵の話を聞いていた。
阿修羅坊が、この城下において何かをやっていたらしいというのは加賀守も知っていた。瑠璃寺から続々、山伏が集まって来ていたし、何かをやっているという事は知っていたが、別に気にも止めなかった。そのうち、その山伏たちはどこに行ったのか城下から消えた。どうせ、阿修羅坊が京にでも連れて行ったのだろうと思っていた。ところが、その山伏たちが、楓の旦那を殺すために城下に呼ばれ、そして、城下のはずれの河原において、全員が楓の旦那に殺されたとは、まったく驚くべき事だった。
夢庵が話し終わると、加賀守は外を眺めながら、しばらく黙っていた。
雨は音を立てて降っていた。
やがて、加賀守は夢庵の方を見ると口を開いた。「という事は、楓殿の御亭主は山伏という事か」
「本当は武士のようですが、山伏でもあり、仏師でもあるらしい」
「仏師?」
「ええ、わたしが初めて会った時、彼は仏師でした。職人のなりをして播磨に向かっておりました」
「仏師に、山伏に、愛洲水軍の大将か、一体、どれが本物じゃろうかのう」
「わかりませんね。わかりませんけど楓殿の御亭主という事は確かのようです」
「どうして、確かだとわかる」
「この間、金勝座と一緒に御亭主がここに来ました。子供にわからないように面を付けていましたけど、わたしはぴんと来て、舞台が終わった後、楓殿を連れて金勝座に会いに行きました。そして、二人の様子を見ました。二人共、一言も喋らなかったが、すぐにわかりましたよ。二人が夫婦だってね」
「そうか‥‥‥金勝座も仲間だったのか‥‥‥ところで、美作守は初めから楓殿の御亭主が生きているという事を知っていて、殺してしまう気だったのじゃな」
「多分、そうでしょう。ところが、御亭主を簡単に殺す事はできなかった。浦上殿の考えでは、御亭主はこの城下に入る前に消えているはずでした」
「うむ‥‥‥楓殿の御亭主というのは、そんなにも強いのか」
「らしいですね。身のこなしからして、かなり、できる事は確かです」
「できるか‥‥‥」
「今朝、倒した松阿弥とかいう男は念流の達人とか聞いてます」
「念流の達人?」
「ええ、その男を倒したのだから腕は確かでしょう」
「念流といえば、お屋形様の剣術師範の上原弥五郎と同じじゃな」
「そうですか。そんな人がおるんですか」
「ああ、かなり、強い」
「それと、もう一つ、話があります」と夢庵は言って、腰に差して来た脇差を加賀守に渡した。
「何じゃ、これは」
「赤松彦次郎殿の刀です」
「なに、彦次郎殿の刀‥‥‥」と加賀守は刀を抜いて調べた。「ほんとに、この刀が彦次郎殿の刀なのか」
「ええ、確かです。その刀の茎(ナカゴ)を見て下さい」
「茎?」
加賀守は笄(コウガイ)を使って目貫(メヌキ)を抜いて柄(ツカ)をはずした。茎に紙が巻いてあり、その紙には、『瑠璃』そして、赤松性具入道の花押(カオウ)が書いてあった。
「一体、どうして、こんな物が今頃になって‥‥‥」
「浦上殿が集めております」
「美作守が?」
「ええ、性具入道殿の書いた紙切れの入った刀が四振りあります」
「一体、この紙は何じゃ」
「楓殿が持っていた刀にも、そんな紙切れが入っておりました」
「楓殿も、こんな刀を持っておったのか」
「ええ、父上の形見として伊予守殿の刀を持っておりました」
「そいつは、本当か」
「本当です。その事が決め手となって、浦上殿は楓殿をお屋形様の姉上と確信したのでしょう」
「そうだったのか‥‥‥楓殿が伊予守殿の刀をのう‥‥‥ところで、この紙切れは一体、何を意味するんじゃ」
夢庵は、その紙切れの事から、太郎たちが捜し出した宝について順を追って話した。ただ、時世の連歌の事と、そこに書いてあった銀山の事は隠しておいた。
「一切経か‥‥‥赤松村の宝林寺の和尚から性具入道殿が一切経を朝鮮から買ったはずじゃが、惜しい事に嘉吉の変の時、入道殿と一緒に燃えてしまったという話を聞いた事はあったが、まさか、城の下に隠してあったとはのう‥‥‥」
「わたしが、見た所、一千巻以上はあったと思います」
夢庵はその中の一巻だといって、懐から巻物を出して加賀守に見せた。
加賀守は巻物の紐を解くと静かに広げてみた。それは豪華な物だった。黒地に金箔を使って、お経が書かれてあった。その一巻は妙法蓮華経(ミョウホウレンゲキョウ)の五巻目だった。
「これが、一千巻以上もあるのか」
「はい」
「そいつは凄い。将軍家でさえも、これ程の物は持ってはいまい。よく、捜し出してくれた。それで、今、その一千巻はどこにあるんじゃ」
「太郎殿が隠しました」
「どこだかわかるか」
「わたしは知りません」
「そうか‥‥‥」
「太郎殿は一体、それをどうするつもりなんじゃ」
「赤松家に戻すつもりです。ただし、赤松家が太郎殿を楓殿の御亭主として迎えるならばです」
「成程」
「どうします」と夢庵は聞いた。
加賀守は丁寧にお経を巻き戻してから夢庵を見て、「もし、迎えなかったら、どうするつもりなんじゃ」と逆に聞いて来た。
「別所殿が断れば、太郎殿は浦上殿を頼るでしょう」
「美作守を? 美作守は太郎殿の命を狙っていたのではないのか」
「敵にするより、味方にして利用した方が得だと気づいたのでしょう。今回の松阿弥で太郎殿の実力を試し、勝ったら赤松家の武将に取り立てる気でいるようです。それを取り持っているのが阿修羅坊というわけです」
「本当か、それは」
「確かです。太郎殿も迷っています。浦上殿に任せた方がいいか、それとも、別所殿に任せた方がいいか。そこで、わたしが別所殿の方がいいと薦め、こうやって、やって来たわけです」
「うーむ‥‥‥そなたはどうして、こんな事を引き受けたんじゃ」と加賀守は聞いた。
「まあ、気まぐれですかな」と夢庵は笑った。「百太郎殿が可哀想じゃからな。母親が赤松家の者だったというだけで、父親と切り離されておる。子供にとっては母親が赤松家の者であろうが、ただの孤児であろうと関係ありません。親子で一緒にいられるのが一番の幸せだと思ったんですよ」
「親子か‥‥‥」と加賀守は呟いた。
加賀守自身、二歳の時、嘉吉の変で父親を亡くしていた。父親の記憶はほとんど無かった。ただ、人から父親の話を聞いて、自分の中で父親像を作り、それを大切にして生きて来たのだった。自分の子供には、そんな思いはさせたくなかった。加賀守にも百太郎と同じ年の小三郎という息子がいた。
「どうします」と夢庵は聞いた。
「こう、噂が広まっては迎えるしかあるまい」と加賀守は言った。「もしかしたら、この噂を流したのは楓殿の御亭主か」
「ええ、そうです。そして、金勝座の『楓御料人物語』を考えたのも御亭主です」
「ほう、やるのう‥‥‥」
「楓殿の御亭主殿は、なかなか、兵法を心得ておりますよ。味方にして損はないと思いますがね」
加賀守は頷いた。外の雨を眺めてから夢庵に視線を戻し、「とにかく、一度、会ってみん事にはのう」と言った。
夢庵も頷き、「会った方がいいですね」と言った。
「場所と日時は、おぬしに任せる」
「早い方がいいですね。明日の今頃、ここではどうです」
「ここでも構わんのか」
「ええ、ただ、楓殿と百太郎殿も呼んでおいて下さい」
「わかった」
「その刀とお経一巻はお預けしておきます。それでは、わたしは失礼します」
「夢庵殿、今、どこにおられるんじゃ」
「大円寺に居候(イソウロウ)していますよ」
「勝岳(ショウガク)殿の所か」
「ええ」
「明日の事、頼む。ただ、まだ、他の者には知らせたくないので内密にな」
「わかっております」
夢庵が帰っても、加賀守は一人、書斎に籠もったまま考え事をしていた。
どれ位、経ったろう。執事の織部祐が、使いの者が京から戻って来たと知らせに来た。
加賀守は、通せ、と言い、使いの者と会った。使いの者は浦上美作守の書状を差し出した。
書状を開いて見ると、見慣れた美作守の書体が並んでいた。
文の内容は、戦死したと思っていた楓殿の御主人は、喜ぶべき事に生きていた。つい先程、京に戻って来たが、かなりの怪我を負っている。怪我が治り次第、国元に送る。盛大に出迎えるよう、準備をして待っていて欲しい、という事が、美辞麗句を並べて書いてあった。
書状を読み終わると、加賀守は使いの者に、「どうじゃ、美作守は、ここで広まっている噂の事を知っておったか」と聞いた。
「いえ、知らないようでした。返って、驚いていたようです」
「そうか。それで、美作守は楓殿の御亭主について、何か言わなかったか」
「生きている事は確かじゃ、と仰せになりました。でも、それ以上は何も‥‥‥」
「わかった。御苦労、下がっていいぞ」
使いの者は下がって行った。
「美作め、おぬしの思うようにはさせん」と加賀守は呟くと、書斎から出て楓のいる南の客殿に向かった。
雨は勢いよく降っていた。
風も強くなり、樹木を揺らしている。
金勝座の甚助が左近と新八を連れて、河原の舞台が大丈夫かどうかを確かめるため、雨の中を飛び出して行った。このまま降り続いたら、今日の舞台は中止するしかなかった。
夢庵が別所加賀守と会っている頃、太郎は浦浪の一室で、阿修羅坊と会っていた。
阿修羅坊は、血を吐いて倒れた松阿弥を金勝座のお文さんに託すと、一旦は浦上屋敷に帰った。さて、これからどうしたものか、と屋敷の中の客間で休んでいると、京から使いの者が来たと言われた。一体、何だろうと会ってみると、浦上美作守からの使いの者で、書状を開いてみると、松阿弥との決闘は中止して、太郎を至急、京に連れて来いと書いてあった。なぜ、急に気が変わったのかわからなかった。
使いの者に聞いてみると、詳しくはわからないが、別所加賀守の使いの者が京に来て、すぐ、戻って行った。その使いの者が帰ったら、すぐに、この書状を渡され、国元に行けと言われたと言う。
別所加賀守が京に使いの者を‥‥‥
一体、何だったのだろう、と思ったが、謎はすぐに解けた。今、この城下で話題になっている噂の真相を確かめるために、加賀守が京に使いを送ったに違いなかった。思ってもいなかった事に慌てた美作守は、噂通り、楓の亭主は生きていると言ったのだろう。そこで、太郎をすぐに京に連れて来いと言い出したのに違いなかった。
太郎を連れて来いと言われても、そう簡単に太郎が京に行くとは思えなかった。とにかく、太郎と相談してみようと、阿修羅坊は雨の中、浦浪に戻って来たのだった。
太郎の部屋に行くと、太郎と金比羅坊、そして、助六とおすみが松阿弥の事を話していた。阿修羅坊が顔を出すと、話をしていた四人の声が急に止まり、四人の顔が阿修羅坊を見た。
「どうしました。松阿弥なら大丈夫、眠っています」と太郎は言った。
「いや、その事じゃない。ちょっと話があるんじゃ」
助六とおすみが部屋から出て行こうとしたが、別に隠す程の事でもないから、いても構わん、と阿修羅坊は止めた。
阿修羅坊は部屋に上がると、浦上美作守からの使いの事を太郎たちに話した。自分の憶測も含め、話し終わると、「どうしたものかのう」と太郎に聞いた。
「勝手な事を言うな。今更、京なんかに戻れるか」と金比羅坊が阿修羅坊を睨んだ。
「そうよ。京なんか行っちゃ駄目よ」と助六も強い口調で言った。
「わしが思うには、美作守はおぬしを京に呼んで、体裁を整えてから、ここに送り込もうと考えているらしい」
「いや、それはわからんぞ。京に呼んでおいて殺すかもしれん」と金比羅坊は言った。
「いや、それはないと思う。噂がこれだけ広まってしまったら、おぬしを登場させなくてはならなくなっておる。今更、殺すまい」
「わかるものか、殺しておいて、身代わりを送るかも知れん」
「身代わりなんか送っても、楓殿と会ったら、すぐにばれてしまうじゃろう。それに、浦上美作守という男は利用できる者は何でも利用する男じゃ。おぬしを殺すより利用した方がいいと思っているに違いない。おぬしに恩を売って、この後、利用するつもりじゃ」
「利用なんかされるか、のう」と金比羅坊は太郎を見た。
太郎は黙って考え込んでいた。
「まあ、おぬしの事じゃ。そう簡単に利用されるとは思わんが、今は、おぬしが美作守を利用するかどうかじゃ」
「太郎坊、どうする」と金比羅坊は聞いた。
「太郎様」と助六が太郎を見つめた。
「俺が京に行くわけにはいきません」と太郎はきっぱりと言った。
「じゃろうのう。わしもそう言うと思っておった」と阿修羅坊は言った。「そこで、どうしたらいいものかのう。まさか、手ぶらで戻るわけにもいかんしの」
「もし、俺が松阿弥にやられたとしたら、どうします」
「そうなったら、証人として、松阿弥と一緒に戻るしかあるまい」
「松阿弥さんを動かすわけにはいかないわ」とおすみが首を振った。
「そうよ、無理よ」と助六も言った。
「松阿弥の事はおいておくとして、俺がやられたとしたら浦上美作守はどう出ますかね」
「うむ。それこそ、身代わりを立てて、ここに送るじゃろうのう」
「身代わりを立てても、楓と会えば、ばれてしまいますよ」
「ああ、しかし、とりあえずは替玉を仕立てて国元に送るじゃろう」
「そして、途中で殺すか‥‥‥」と金比羅坊が首を斬る真似をした。
「多分な。楓殿に会わせるわけにはいかんからの。途中で、何者かに襲わせて殺すじゃろうのう」
「こっちから身代わりを送ったら、どうでしょう」と太郎は言った。
「身代わり?」
「ええ、浦上美作守は俺の顔を知らないはずです。誰かを俺に仕立てて京に送る。そしたら、どうでしょう」
「うまく行くかも知れんが、おぬしの身代わりなど、できる奴がいるか。美作守だって馬鹿じゃない。一応、人を見る目は持っている。美作守がおぬしと会って、おぬしを味方にした方が得だと考えるのはわかるが、身代わりを送って、その身代わりと会ってみて、使えそうもないと見たら、やはり、殺される可能性はあるぞ」
「殺したら、うまくないじゃろう」と金比羅坊は言った。
「いや、だから、途中で何者かに襲わせるというわけじゃよ」
「成程‥‥‥ありえるな」
「一体、誰を身代わりにするんじゃ」と阿修羅坊が聞いた。
身代わりになれるのは太郎の弟子の三人しかいなかった。しかし、残念ながら、その三人の内で、無事に勤められそうな者はいなかった。また、太郎の身代わりとして殺させたくはなかった。
「いませんね」と太郎は言った。
「まいったのう。どうしたらいいものかのう」
阿修羅坊は濡れている髪をかき上げると、眉間にしわを寄せて、四人の顔を見回した。
「いっその事、松阿弥さんと相打ちになって二人とも死んだ事にすれば」と助六が太郎から阿修羅坊に視線を移した。
「うむ。それしかないかもしれんのう」と阿修羅坊は頷いた。
「それにしても、浦上は身代わりを出す事になるじゃろうのう」と金比羅坊は言った。
「仕方あるまい。身代わりには悪いが死んでもらうしかないのう‥‥‥身代わりが死んだら、おぬしが交替して、この城下に入るという筋書きじゃな」
「ええ、そうなるでしょう。でも、阿修羅坊殿、もし、そうなったら、あなたは嘘を付いた事になってしまいますが、大丈夫ですか」
「なに、そんな事は何とかなるじゃろう。おぬしが、ずっと偽物を仕立てていて、わしもすっかり騙されておったという事にでもするさ」
「おぬしが太郎坊だと信じていたのが別人で、本物の太郎坊は別にいた、と言うわけか、そいつは有り得るな」そう言って金比羅坊は笑った。
「まさか、本当に、別に本物の太郎坊がいるんじゃないじゃろな」と阿修羅坊は一瞬、本気にした。
「いや、まさしく、ここにいるのが本物じゃ。しかし、こいつは化けるのがうまいからのう。『志能便の術』を使って、何をやるかわかったもんではないわ」
「志能便の術か‥‥‥」と阿修羅坊は呟いた。「わしは、おぬしの『志能便の術』の事は松恵尼殿から聞いた。しかし、大した事ないと侮っておったが、それが、そもそもの間違いじゃったのう。おぬしが、これ程の男だとは思ってもおらなかったわ。はっきり言って、おぬしは一軍の大将でも立派に務める事のできる男じゃよ」
「それはそうよ」と助六が、当然じゃないという顔付きで阿修羅坊を見た。「この前の時なんて、ほんと凄かったわ」
「あたしも凄いと思ったわ」とおすみも言った。「あたしは、あの時、参加しなかったけど、後で話を聞いたら、ほんとに凄いと思ったわ」
「ああ、確かに凄いよ」と阿修羅坊は怪我をした右手首をさすった。
阿修羅坊は松阿弥の仕込み杖と太郎の刀を持って帰る事にして、それだけでは怪しまれるかもしれないと葬送地まで行って、太郎と似ている髪の毛を切り、仕込み杖と刀を使って死体を斬り、刀に脂を残した。
仕込み杖と太郎の刀と死体の髪の毛を持って、阿修羅坊は京に帰って行った。
何かあった時、すぐに知らせられるように伊助と藤吉が阿修羅坊の後を追って行った。
国人たちは今、自分が手にしている土地を守らなければならなかった。嘉吉の変で赤松家は滅び、播磨の国は山名家の支配下となった。国人たちのある者は赤松家と共に滅び、土地も失った。また、ある者は土地と家臣たちを守るため、山名家の被官となった。そして、応仁の乱となり、また、赤松家が播磨に入って来た。早々と赤松家の味方となった者は無事だったが、最後まで山名家にくっついていた者たちは土地を奪われ滅ぼされた。権力者が変わるたびに、うまく立ち回らないと、土地は奪われ、家臣たちと共に路頭に迷う事となった。
今回、お屋形様の姉上様の旦那様が播磨に入って来ると言う。姉上様だけだったら、化粧料として僅かな土地を与えれば済むが、その旦那様となれば、お屋形様の義理の兄上として、かなり広い土地を手に入れるに違いなかった。かつて、山名家の被官となっていた国人たちは、もしや、自分の土地が奪われやしないかと冷や冷やしながら置塩城下の動向を探っていた。
国中に広まってしまったからには、今更、噂の出所など調べるのは難しい事だった。それよりも、もし噂が真実だとしたら、生きているという楓殿の旦那様が、今、どこにいるのか捜し出さなくてはならない。また、出まかせだとしたら、誰が、一体、何の為に、そんな噂を流したのか確かめなくてはならなかった。しかし、そんな噂を流して、得する者がいるとは思えなかった。もし、いるとすれば、それは浦上美作守に違いない、と別所加賀守は思った。
浦上美作守は赤松家が再興された当初より、幼かった政則の側にいて、よく尽くして来た。幼い主君を立てて、数ある戦で活躍して来た。政則も美作守を父親のように慕って、言う事を聞いて来た。細川勝元の後ろ盾はあったにしろ、今のように赤松家を立て直したのは自分の力だと美作守は自負していた。ところが、政則もすでに二十歳となり、赤松家のお屋形としての自覚を持ち、何だかんだと、うるさい美作守を疎ましく思うようになって行った。政則は幕府の侍所の頭人の身でありながら京を去り、領国経営に乗り出した。すでに、政則は美作守の思うようには行かなくなっていた。
浦上美作守が、自分の言いなりにならなくなった政則をお屋形の座から降ろして、義理の兄にあたる、その男をお屋形にすげ替えようとたくらんでいるのかもしれないと加賀守は思った。
楓殿を京にいる重臣たちに紹介してから国元に送り込み、旦那は戦死したと言って安心させ、そして、今度は生きていたという噂を流し、噂が国中に広まった頃を見計らって登場させる。そして、浦上美作守がその兄上の後ろ盾となり、政則の手落ちに付け込み、お屋形の交替に持ち込もうとたくらんでいるのかもしれなかった。
もし、美作守が、そんな大それた事をたくらんでいるとすると、こちらも慎重に対処して行かなければならない。それだけの事をするには事前工作が必要だった。国元にいる浦上派の重臣たちの動きも調べなければならなかった。そう、美作守の思い通りにさせるわけにはいかない。絶対に食い止めなければならなかった。
まず、楓が本当に政則の姉かどうか確認しなければならない。加賀守は楓を捜し出したという山伏、阿修羅坊を捜し、楓を捜し出した一件に付いて詳しく聞こうと思った。
阿修羅坊も美作守の一味だから、本当の事は言うまいとは思うが、何らかの手掛かりはつかめるかもしれない。しかし、阿修羅坊は城下にはいなかった。すでに、京に帰ったのか、城下には見当たらなかった。ところが、昨日、城下の入り口を守る門番から、阿修羅坊が戻って来たとの連絡が入り、さっそく、加賀守は阿修羅坊を呼んで話を聞いた。
楓殿が会いたがっていると言ったら、阿修羅坊はすぐに別所屋敷にやって来た。
加賀守は楓のいる前で、阿修羅坊から、どうやって楓を捜し出したのかを聞いた。そして、今、流れている噂についても聞いてみた。
楓を捜し出した一件については、どうも、嘘を言っているようには思えなかった。加賀守も、美作守が偽の姉上まで仕立てはしないだろうと思った。
そして、噂については阿修羅坊もまったく知らないようだった。阿修羅坊がこの間、城下を出て行く時には、そんな噂は聞かなかった。ところが、今回、戻ってみると城下は勿論の事、国中、その噂で持ち切りなので驚いていると言う。
美作守はその事について何か言わなかったか、と聞いてみたが、何も言わなかったと言う。
美作守が何も知らないというのは信じられなかった。阿修羅坊が隠しているに違いない。もしかしたら、阿修羅坊が噂を流した張本人かも知れないと思った。
楓の方は、その噂を信じて、本当に喜んでいるようだった。
ただ、楓の旦那の正体がつかめなかった。楓もはっきりとした事を言わないし、阿修羅坊も詳しくは知らないようだった。
阿修羅坊が加賀守に呼ばれたのは、丁度、太郎と河原で会った後だった。太郎に、名前を変えた方がいいと言ったばかりだった。加賀守は楓から聞いて、名前と素性を知っていた。しかし、山伏だという事は知らないようだった。楓もそこまでは喋っていないようだ。阿修羅坊も言いたくはなかったが、楓を甲賀で見つけたと言った手前、どうして、甲賀にいるのか説明しなければならなかった。阿修羅坊は、太郎が愛洲家で何らかの問題を起こして国元を出て、甲賀飯道山に身を隠して剣術の修行をしていたが、国元で戦が始まったので、太郎は楓を甲賀に残して帰り、戦に出たが行方不明になったと説明した。楓も、阿修羅坊の話が本当だと認めた。
話の筋は通っているが、加賀守は納得しなかった。楓にしろ、阿修羅坊にしろ、何かを隠しているような気がしたが、その時は、それ位でやめた。
そして、今朝になって、清水寺の山伏を大円寺から呼び、五ケ所浦に送った。
そんな時、夢庵がひょっこり現れ、楓の旦那について話があると言ったのだった。夢庵が、どうして、そんな事に首を突っ込んでいるのかわからなかったが、とりあえず、聞いてみる事にした。
加賀守は夢庵を書斎に連れて行き、執事の織部祐(オリベノスケ)に、誰も近づけるなと命じた。
夢庵が語った事は、まったく、驚くべき事だった。
夢庵は楓の旦那を知っており、今、会って来たばかりだと言った。
加賀守が、どこにいる、と聞いても、夢庵は教えてくれなかった。それより、話を全部、聞いてくれと、太郎から聞いた話を話し始めた。
阿修羅坊が楓を捜し出し、京に連れて来た所から、その後を追って、太郎がこの城下に来て、阿修羅坊たちを倒し、そして、今朝、松阿弥と戦って倒した、という所まで順を追って話した。
加賀守は黙って夢庵の話を聞いていた。
阿修羅坊が、この城下において何かをやっていたらしいというのは加賀守も知っていた。瑠璃寺から続々、山伏が集まって来ていたし、何かをやっているという事は知っていたが、別に気にも止めなかった。そのうち、その山伏たちはどこに行ったのか城下から消えた。どうせ、阿修羅坊が京にでも連れて行ったのだろうと思っていた。ところが、その山伏たちが、楓の旦那を殺すために城下に呼ばれ、そして、城下のはずれの河原において、全員が楓の旦那に殺されたとは、まったく驚くべき事だった。
夢庵が話し終わると、加賀守は外を眺めながら、しばらく黙っていた。
雨は音を立てて降っていた。
やがて、加賀守は夢庵の方を見ると口を開いた。「という事は、楓殿の御亭主は山伏という事か」
「本当は武士のようですが、山伏でもあり、仏師でもあるらしい」
「仏師?」
「ええ、わたしが初めて会った時、彼は仏師でした。職人のなりをして播磨に向かっておりました」
「仏師に、山伏に、愛洲水軍の大将か、一体、どれが本物じゃろうかのう」
「わかりませんね。わかりませんけど楓殿の御亭主という事は確かのようです」
「どうして、確かだとわかる」
「この間、金勝座と一緒に御亭主がここに来ました。子供にわからないように面を付けていましたけど、わたしはぴんと来て、舞台が終わった後、楓殿を連れて金勝座に会いに行きました。そして、二人の様子を見ました。二人共、一言も喋らなかったが、すぐにわかりましたよ。二人が夫婦だってね」
「そうか‥‥‥金勝座も仲間だったのか‥‥‥ところで、美作守は初めから楓殿の御亭主が生きているという事を知っていて、殺してしまう気だったのじゃな」
「多分、そうでしょう。ところが、御亭主を簡単に殺す事はできなかった。浦上殿の考えでは、御亭主はこの城下に入る前に消えているはずでした」
「うむ‥‥‥楓殿の御亭主というのは、そんなにも強いのか」
「らしいですね。身のこなしからして、かなり、できる事は確かです」
「できるか‥‥‥」
「今朝、倒した松阿弥とかいう男は念流の達人とか聞いてます」
「念流の達人?」
「ええ、その男を倒したのだから腕は確かでしょう」
「念流といえば、お屋形様の剣術師範の上原弥五郎と同じじゃな」
「そうですか。そんな人がおるんですか」
「ああ、かなり、強い」
「それと、もう一つ、話があります」と夢庵は言って、腰に差して来た脇差を加賀守に渡した。
「何じゃ、これは」
「赤松彦次郎殿の刀です」
「なに、彦次郎殿の刀‥‥‥」と加賀守は刀を抜いて調べた。「ほんとに、この刀が彦次郎殿の刀なのか」
「ええ、確かです。その刀の茎(ナカゴ)を見て下さい」
「茎?」
加賀守は笄(コウガイ)を使って目貫(メヌキ)を抜いて柄(ツカ)をはずした。茎に紙が巻いてあり、その紙には、『瑠璃』そして、赤松性具入道の花押(カオウ)が書いてあった。
「一体、どうして、こんな物が今頃になって‥‥‥」
「浦上殿が集めております」
「美作守が?」
「ええ、性具入道殿の書いた紙切れの入った刀が四振りあります」
「一体、この紙は何じゃ」
「楓殿が持っていた刀にも、そんな紙切れが入っておりました」
「楓殿も、こんな刀を持っておったのか」
「ええ、父上の形見として伊予守殿の刀を持っておりました」
「そいつは、本当か」
「本当です。その事が決め手となって、浦上殿は楓殿をお屋形様の姉上と確信したのでしょう」
「そうだったのか‥‥‥楓殿が伊予守殿の刀をのう‥‥‥ところで、この紙切れは一体、何を意味するんじゃ」
夢庵は、その紙切れの事から、太郎たちが捜し出した宝について順を追って話した。ただ、時世の連歌の事と、そこに書いてあった銀山の事は隠しておいた。
「一切経か‥‥‥赤松村の宝林寺の和尚から性具入道殿が一切経を朝鮮から買ったはずじゃが、惜しい事に嘉吉の変の時、入道殿と一緒に燃えてしまったという話を聞いた事はあったが、まさか、城の下に隠してあったとはのう‥‥‥」
「わたしが、見た所、一千巻以上はあったと思います」
夢庵はその中の一巻だといって、懐から巻物を出して加賀守に見せた。
加賀守は巻物の紐を解くと静かに広げてみた。それは豪華な物だった。黒地に金箔を使って、お経が書かれてあった。その一巻は妙法蓮華経(ミョウホウレンゲキョウ)の五巻目だった。
「これが、一千巻以上もあるのか」
「はい」
「そいつは凄い。将軍家でさえも、これ程の物は持ってはいまい。よく、捜し出してくれた。それで、今、その一千巻はどこにあるんじゃ」
「太郎殿が隠しました」
「どこだかわかるか」
「わたしは知りません」
「そうか‥‥‥」
「太郎殿は一体、それをどうするつもりなんじゃ」
「赤松家に戻すつもりです。ただし、赤松家が太郎殿を楓殿の御亭主として迎えるならばです」
「成程」
「どうします」と夢庵は聞いた。
加賀守は丁寧にお経を巻き戻してから夢庵を見て、「もし、迎えなかったら、どうするつもりなんじゃ」と逆に聞いて来た。
「別所殿が断れば、太郎殿は浦上殿を頼るでしょう」
「美作守を? 美作守は太郎殿の命を狙っていたのではないのか」
「敵にするより、味方にして利用した方が得だと気づいたのでしょう。今回の松阿弥で太郎殿の実力を試し、勝ったら赤松家の武将に取り立てる気でいるようです。それを取り持っているのが阿修羅坊というわけです」
「本当か、それは」
「確かです。太郎殿も迷っています。浦上殿に任せた方がいいか、それとも、別所殿に任せた方がいいか。そこで、わたしが別所殿の方がいいと薦め、こうやって、やって来たわけです」
「うーむ‥‥‥そなたはどうして、こんな事を引き受けたんじゃ」と加賀守は聞いた。
「まあ、気まぐれですかな」と夢庵は笑った。「百太郎殿が可哀想じゃからな。母親が赤松家の者だったというだけで、父親と切り離されておる。子供にとっては母親が赤松家の者であろうが、ただの孤児であろうと関係ありません。親子で一緒にいられるのが一番の幸せだと思ったんですよ」
「親子か‥‥‥」と加賀守は呟いた。
加賀守自身、二歳の時、嘉吉の変で父親を亡くしていた。父親の記憶はほとんど無かった。ただ、人から父親の話を聞いて、自分の中で父親像を作り、それを大切にして生きて来たのだった。自分の子供には、そんな思いはさせたくなかった。加賀守にも百太郎と同じ年の小三郎という息子がいた。
「どうします」と夢庵は聞いた。
「こう、噂が広まっては迎えるしかあるまい」と加賀守は言った。「もしかしたら、この噂を流したのは楓殿の御亭主か」
「ええ、そうです。そして、金勝座の『楓御料人物語』を考えたのも御亭主です」
「ほう、やるのう‥‥‥」
「楓殿の御亭主殿は、なかなか、兵法を心得ておりますよ。味方にして損はないと思いますがね」
加賀守は頷いた。外の雨を眺めてから夢庵に視線を戻し、「とにかく、一度、会ってみん事にはのう」と言った。
夢庵も頷き、「会った方がいいですね」と言った。
「場所と日時は、おぬしに任せる」
「早い方がいいですね。明日の今頃、ここではどうです」
「ここでも構わんのか」
「ええ、ただ、楓殿と百太郎殿も呼んでおいて下さい」
「わかった」
「その刀とお経一巻はお預けしておきます。それでは、わたしは失礼します」
「夢庵殿、今、どこにおられるんじゃ」
「大円寺に居候(イソウロウ)していますよ」
「勝岳(ショウガク)殿の所か」
「ええ」
「明日の事、頼む。ただ、まだ、他の者には知らせたくないので内密にな」
「わかっております」
夢庵が帰っても、加賀守は一人、書斎に籠もったまま考え事をしていた。
どれ位、経ったろう。執事の織部祐が、使いの者が京から戻って来たと知らせに来た。
加賀守は、通せ、と言い、使いの者と会った。使いの者は浦上美作守の書状を差し出した。
書状を開いて見ると、見慣れた美作守の書体が並んでいた。
文の内容は、戦死したと思っていた楓殿の御主人は、喜ぶべき事に生きていた。つい先程、京に戻って来たが、かなりの怪我を負っている。怪我が治り次第、国元に送る。盛大に出迎えるよう、準備をして待っていて欲しい、という事が、美辞麗句を並べて書いてあった。
書状を読み終わると、加賀守は使いの者に、「どうじゃ、美作守は、ここで広まっている噂の事を知っておったか」と聞いた。
「いえ、知らないようでした。返って、驚いていたようです」
「そうか。それで、美作守は楓殿の御亭主について、何か言わなかったか」
「生きている事は確かじゃ、と仰せになりました。でも、それ以上は何も‥‥‥」
「わかった。御苦労、下がっていいぞ」
使いの者は下がって行った。
「美作め、おぬしの思うようにはさせん」と加賀守は呟くと、書斎から出て楓のいる南の客殿に向かった。
2
雨は勢いよく降っていた。
風も強くなり、樹木を揺らしている。
金勝座の甚助が左近と新八を連れて、河原の舞台が大丈夫かどうかを確かめるため、雨の中を飛び出して行った。このまま降り続いたら、今日の舞台は中止するしかなかった。
夢庵が別所加賀守と会っている頃、太郎は浦浪の一室で、阿修羅坊と会っていた。
阿修羅坊は、血を吐いて倒れた松阿弥を金勝座のお文さんに託すと、一旦は浦上屋敷に帰った。さて、これからどうしたものか、と屋敷の中の客間で休んでいると、京から使いの者が来たと言われた。一体、何だろうと会ってみると、浦上美作守からの使いの者で、書状を開いてみると、松阿弥との決闘は中止して、太郎を至急、京に連れて来いと書いてあった。なぜ、急に気が変わったのかわからなかった。
使いの者に聞いてみると、詳しくはわからないが、別所加賀守の使いの者が京に来て、すぐ、戻って行った。その使いの者が帰ったら、すぐに、この書状を渡され、国元に行けと言われたと言う。
別所加賀守が京に使いの者を‥‥‥
一体、何だったのだろう、と思ったが、謎はすぐに解けた。今、この城下で話題になっている噂の真相を確かめるために、加賀守が京に使いを送ったに違いなかった。思ってもいなかった事に慌てた美作守は、噂通り、楓の亭主は生きていると言ったのだろう。そこで、太郎をすぐに京に連れて来いと言い出したのに違いなかった。
太郎を連れて来いと言われても、そう簡単に太郎が京に行くとは思えなかった。とにかく、太郎と相談してみようと、阿修羅坊は雨の中、浦浪に戻って来たのだった。
太郎の部屋に行くと、太郎と金比羅坊、そして、助六とおすみが松阿弥の事を話していた。阿修羅坊が顔を出すと、話をしていた四人の声が急に止まり、四人の顔が阿修羅坊を見た。
「どうしました。松阿弥なら大丈夫、眠っています」と太郎は言った。
「いや、その事じゃない。ちょっと話があるんじゃ」
助六とおすみが部屋から出て行こうとしたが、別に隠す程の事でもないから、いても構わん、と阿修羅坊は止めた。
阿修羅坊は部屋に上がると、浦上美作守からの使いの事を太郎たちに話した。自分の憶測も含め、話し終わると、「どうしたものかのう」と太郎に聞いた。
「勝手な事を言うな。今更、京なんかに戻れるか」と金比羅坊が阿修羅坊を睨んだ。
「そうよ。京なんか行っちゃ駄目よ」と助六も強い口調で言った。
「わしが思うには、美作守はおぬしを京に呼んで、体裁を整えてから、ここに送り込もうと考えているらしい」
「いや、それはわからんぞ。京に呼んでおいて殺すかもしれん」と金比羅坊は言った。
「いや、それはないと思う。噂がこれだけ広まってしまったら、おぬしを登場させなくてはならなくなっておる。今更、殺すまい」
「わかるものか、殺しておいて、身代わりを送るかも知れん」
「身代わりなんか送っても、楓殿と会ったら、すぐにばれてしまうじゃろう。それに、浦上美作守という男は利用できる者は何でも利用する男じゃ。おぬしを殺すより利用した方がいいと思っているに違いない。おぬしに恩を売って、この後、利用するつもりじゃ」
「利用なんかされるか、のう」と金比羅坊は太郎を見た。
太郎は黙って考え込んでいた。
「まあ、おぬしの事じゃ。そう簡単に利用されるとは思わんが、今は、おぬしが美作守を利用するかどうかじゃ」
「太郎坊、どうする」と金比羅坊は聞いた。
「太郎様」と助六が太郎を見つめた。
「俺が京に行くわけにはいきません」と太郎はきっぱりと言った。
「じゃろうのう。わしもそう言うと思っておった」と阿修羅坊は言った。「そこで、どうしたらいいものかのう。まさか、手ぶらで戻るわけにもいかんしの」
「もし、俺が松阿弥にやられたとしたら、どうします」
「そうなったら、証人として、松阿弥と一緒に戻るしかあるまい」
「松阿弥さんを動かすわけにはいかないわ」とおすみが首を振った。
「そうよ、無理よ」と助六も言った。
「松阿弥の事はおいておくとして、俺がやられたとしたら浦上美作守はどう出ますかね」
「うむ。それこそ、身代わりを立てて、ここに送るじゃろうのう」
「身代わりを立てても、楓と会えば、ばれてしまいますよ」
「ああ、しかし、とりあえずは替玉を仕立てて国元に送るじゃろう」
「そして、途中で殺すか‥‥‥」と金比羅坊が首を斬る真似をした。
「多分な。楓殿に会わせるわけにはいかんからの。途中で、何者かに襲わせて殺すじゃろうのう」
「こっちから身代わりを送ったら、どうでしょう」と太郎は言った。
「身代わり?」
「ええ、浦上美作守は俺の顔を知らないはずです。誰かを俺に仕立てて京に送る。そしたら、どうでしょう」
「うまく行くかも知れんが、おぬしの身代わりなど、できる奴がいるか。美作守だって馬鹿じゃない。一応、人を見る目は持っている。美作守がおぬしと会って、おぬしを味方にした方が得だと考えるのはわかるが、身代わりを送って、その身代わりと会ってみて、使えそうもないと見たら、やはり、殺される可能性はあるぞ」
「殺したら、うまくないじゃろう」と金比羅坊は言った。
「いや、だから、途中で何者かに襲わせるというわけじゃよ」
「成程‥‥‥ありえるな」
「一体、誰を身代わりにするんじゃ」と阿修羅坊が聞いた。
身代わりになれるのは太郎の弟子の三人しかいなかった。しかし、残念ながら、その三人の内で、無事に勤められそうな者はいなかった。また、太郎の身代わりとして殺させたくはなかった。
「いませんね」と太郎は言った。
「まいったのう。どうしたらいいものかのう」
阿修羅坊は濡れている髪をかき上げると、眉間にしわを寄せて、四人の顔を見回した。
「いっその事、松阿弥さんと相打ちになって二人とも死んだ事にすれば」と助六が太郎から阿修羅坊に視線を移した。
「うむ。それしかないかもしれんのう」と阿修羅坊は頷いた。
「それにしても、浦上は身代わりを出す事になるじゃろうのう」と金比羅坊は言った。
「仕方あるまい。身代わりには悪いが死んでもらうしかないのう‥‥‥身代わりが死んだら、おぬしが交替して、この城下に入るという筋書きじゃな」
「ええ、そうなるでしょう。でも、阿修羅坊殿、もし、そうなったら、あなたは嘘を付いた事になってしまいますが、大丈夫ですか」
「なに、そんな事は何とかなるじゃろう。おぬしが、ずっと偽物を仕立てていて、わしもすっかり騙されておったという事にでもするさ」
「おぬしが太郎坊だと信じていたのが別人で、本物の太郎坊は別にいた、と言うわけか、そいつは有り得るな」そう言って金比羅坊は笑った。
「まさか、本当に、別に本物の太郎坊がいるんじゃないじゃろな」と阿修羅坊は一瞬、本気にした。
「いや、まさしく、ここにいるのが本物じゃ。しかし、こいつは化けるのがうまいからのう。『志能便の術』を使って、何をやるかわかったもんではないわ」
「志能便の術か‥‥‥」と阿修羅坊は呟いた。「わしは、おぬしの『志能便の術』の事は松恵尼殿から聞いた。しかし、大した事ないと侮っておったが、それが、そもそもの間違いじゃったのう。おぬしが、これ程の男だとは思ってもおらなかったわ。はっきり言って、おぬしは一軍の大将でも立派に務める事のできる男じゃよ」
「それはそうよ」と助六が、当然じゃないという顔付きで阿修羅坊を見た。「この前の時なんて、ほんと凄かったわ」
「あたしも凄いと思ったわ」とおすみも言った。「あたしは、あの時、参加しなかったけど、後で話を聞いたら、ほんとに凄いと思ったわ」
「ああ、確かに凄いよ」と阿修羅坊は怪我をした右手首をさすった。
阿修羅坊は松阿弥の仕込み杖と太郎の刀を持って帰る事にして、それだけでは怪しまれるかもしれないと葬送地まで行って、太郎と似ている髪の毛を切り、仕込み杖と刀を使って死体を斬り、刀に脂を残した。
仕込み杖と太郎の刀と死体の髪の毛を持って、阿修羅坊は京に帰って行った。
何かあった時、すぐに知らせられるように伊助と藤吉が阿修羅坊の後を追って行った。
24.別所加賀守2
3
昨日の大雨が嘘のように、空は晴れ渡っていた。
もう、すっかり秋空だった。
約束の時間に、夢庵は太郎を連れて別所屋敷に現れた。太郎はいつもの職人姿のままだったが、洗い立てのようにさっぱりとしていた。
玄関に入ると、正面に立派な屏風(ビョウブ)が飾ってあった。水墨画で春夏秋冬の山水を描いた物だった。
太郎が水墨画を眺めていると、「狩野越前守(正信)じゃよ」と夢庵が言った。
「はあ?」と太郎が夢庵を見ると、夢庵も絵を見ていた。
「将軍様、お気に入りの絵師じゃ」
「へえ‥‥‥」
太郎には絵の事はよくわからないが、うまいものだと感心していた。
やがて、執事の織部祐が出て来た。
「ようこそ、いらっしゃいませ。殿がお待ちしております」と言って、太郎の姿をじろじろと見た。
夢庵と太郎は織部祐の後に付いて行った。
大広間の横を通って行くと中庭に出た。
中庭には、この間の舞台が、まだ、そのままあった。舞台の横で侍が二人、弓術の稽古をしている。中庭に沿って、くの字に曲がった広い廊下を行き、一番奥にある部屋に案内された。
畳の敷き詰められた広い部屋の中で、別所加賀守と楓が座って待っていた。
楓と会うのは、この屋敷で金勝座が上演して以来、十一日振りだった。
楓は太郎の顔を見ると、一瞬、顔をほころばせたが、また、すぐに済まし顔に戻って目を伏せた。少し太ったかな、と太郎は思った。
別所加賀守とは初めてだったが、どこかで会ったような気がした。見るからに、頭の回転の早そうな知恵者という感じだった。歳は三十の半ば位か、思っていたよりも若かった。浦上美作守と比べれば、別所加賀守の方が、いくらかは信じられそうな気がした。
夢庵によって、太郎は別所加賀守に紹介された。
「愛洲太郎左衛門久忠です」と太郎は頭を下げた。
「愛洲殿、色々と大変な目に会われたようですな」と加賀守は笑いながら言った。
「はい」
「昨日から、もう、楓殿がそなたに会いたくて、そわそわ浮き浮きしていましたよ」
「いえ、そんな‥‥‥」楓は少し顔を赤らめ、ちらっと加賀守を見た。
「もう、隠れている必要はありません。まあ、とりあえずは、わたしのお客として、ここに滞在して下さい。そして、改めて、この城下に入って来て貰う事になるでしょう」
「わかりました」と太郎は言った。
「昨日、夢庵殿より、そなたの事を聞いた後、京より使いの者が帰って来ました。城下の噂の真相を確かめるために、浦上美作守のもとへ送ったんじゃが、その使いが戻って来ました。美作守は何と言って来たと思いますか」と加賀守は皆の顔を見比べた。
「楓殿の御亭主が生きていた、と言って来ましたか」と夢庵が言った。
「その通りじゃ。そなたを殺そうとしていた美作守が、実は、そなたは生きていて、今は怪我をして療養しておるが、怪我が直り次第、国元に送ると言ってよこしたわ」
「どうするつもりなんでしょう」と楓が言った。
「これは見物じゃわ。本人が、すでに、ここにおるというのに、一体、誰を送って来るつもりなのかのう」と加賀守は声を出して笑った。「昨日、評定所で、そなたを楓殿の御亭主として、正式に迎える事に決まった。まだ、日取りまでは決まっておらんが、大将として迎えるため、騎馬武者五十騎、徒歩侍(カチザムライ)二百人を引き連れ、堂々と城下に入って来て貰うという事になった」
「騎馬武者五十騎に徒歩侍二百人‥‥‥」その数に太郎は驚いたが、顔には出さず、「随分と大袈裟ですね」と言った。
「それ位の事をして乗り込んで貰わんと、国人たちが納得せんのでな。ところで、愛洲殿、まず、そなたの事を詳しく知りたいのだが‥‥‥お屋形様の兄上様として迎えるには、色々と面倒な事があるんでな。うるさい年寄衆を納得させなければならんのじゃよ」
「わかります」と言って、太郎は自分の身の上を話した。
加賀守は太郎の話を時々、頷きながら聞いていた。夢庵は興味なさそうに庭の方を見ている。楓はじっと太郎を見つめていた。
「まだ若いのに色々な経験をしておるようじゃのう。船も乗れるし、山も知っておる。おまけに、剣術の名人で、『志能便の術』とかを若い者たちに教えておるとはのう。大したもんじゃのう。ところで、志能便の術とはどんな術なんじゃ?」
「簡単に言えば、情報を集めるための術です」
「情報集め?」
「はい。戦に勝つためには、敵を充分に知る事です。敵の情勢を逸速く知れば、敵の虚を突く事ができます」
「敵の近くまで行って、色々と探る術なのか」
「必要とあれば、敵の城や屋敷にも忍び込みます」
「敵の城にか、そんな事ができるのか」
「実際に、太郎殿は京の浦上屋敷に忍び込んでおります」と夢庵が言った。
「なに、あそこに忍び込んだ? かなり、厳重に固めておるはずじゃが‥‥‥」
「ええ、厳重でした。厳重でしたが、入ってしまえば、中には見張りもいませんし、何とかなりました」
「どうして、また、そんな所に忍び込んだのじゃ」
「わたしの命を狙っているという阿修羅坊と美作守の顔を見たかったからです」
「顔を見る、それだけのために、そんな危険な事をしたのか」
「はい。危険でも、この先、自分を狙っている男がどんな奴だかわからない方が、もっと危険ですから」
「そりゃそうじゃがのう」
「主人はここへも忍び込みました」と楓が言った。
「なに、ここにも?」加賀守は、まさか、という顔をして楓を見てから太郎を見た。
「楓に会うために忍び込みました」
「一体、それはいつの事じゃ」
「先月の二十三日、わたしがこの城下に入った日です」
「先月の二十三日‥‥‥そんな早くから、この城下におったのか‥‥‥まったく知らなかった。楓殿も楓殿じゃのう。そんな素振りなど少しも見せんかった」
「あの時は、別所殿も主人の命を狙っていると思っていたものですから」
「その頃のわしは御主人の存在すら知らなかったわ。しかし、そんな簡単に忍び込まれたら安心して眠る事もできんのう」加賀守は腕組みをしながら部屋の中を見回した。
太郎は思い出した。この前、助六と散歩して評定所まで行った時、偉そうな数人の侍に会った。その中に、目の前にいる別所加賀守の姿があったのだった。
「しかし、その『志能便の術』というのも、一歩間違えれば、ただの盗っ人に成りかねんのう」
「はい、それは言えます。しかし、それは剣術にも言える事ですが、すべて、術を使う者の心の持ちようです。剣術も一歩間違えれば、ただの殺し屋になります」
「うむ、そうじゃのう。心の持ちようか‥‥‥ところで、美作守は偽者をこの城下に送って来て、どうするつもりなんじゃろうのう。美作守は、そなたがこの城下におる事を知らんのか」
「今頃、わたしは阿修羅坊と共に京に向かっていると思っているでしょう」
「美作守が、そなたを京に呼んだのか」
「はい。美作守は、わたしを殺すために松阿弥という刺客を送って来ました。ところが急に、わたしを殺さないで、京に連れて来いと阿修羅坊に言って来たのです。わたしは今、京に行くわけには行かないと断りました。そこで、阿修羅坊は、わたしが刺客に殺されたという事にして京に帰ったのです」
「そんな事があったのか‥‥‥という事は、美作守は一旦、そなたを京に呼んで、改めて城下に送り込むつもりだったんじゃな」
「多分、そうだと思います」
「そうなると、美作守は偽者を仕立ててでも、誰かを城下に送らなければならなくなるわけじゃのう」
「はい。しかし、偽者をこの城下に入れたら、偽者だとばれてしまいます。美作守はどうするつもりなのでしょう」
「うむ」と頷いた後、しばらくしてから、「考えられるのは二つじゃな」と加賀守は言った。
「二つ?」と太郎は聞いた。
「一つは偽者を強引に楓殿の御主人にする。もう一つは城下に入る前に偽者を殺す。そのどっちかじゃな」
「強引に楓の主人にする事なんてできますか」
「まあ、無理じゃろうな。そんな事を独断でしたら、返って、失脚する事になるじゃろう。国元の連中の中には、美作守をよく思っていない者も多いからな。そんな陰謀がばれたら、たちまち失脚じゃ。幕府内で、かなりの地位を得ているとは言え、赤松家あっての美作守じゃからの。美作守もそこの所は充分に心得ておる。そんな馬鹿な事はするまい。それにな、国元にいる浦上派の連中をそれとなく探ってみたが、特に、これと言って怪しい動きはないようじゃ。まず、それはあるまい」
「と言う事は、城下に入る前に偽者を殺すという事ですか」
「うむ、多分な‥‥‥とにかく、偽者でも何でもいいから、楓殿の御主人を京から国元に向かわせなくてはならん。そして、途中で事故にあって亡くなってしまったとしても、それは仕方のない事じゃという事になる」
「事故を装って殺すのですか」
「山の中で崖崩れに会うとか、突然の病死というのもありえるな」
その時、中庭に馬に引かれた荷車が入って来た。金比羅坊と八郎坊、風光坊の三人の山伏が一緒だった。
昨日の昼過ぎ、その三人と太郎は雨の降る中、城山城まで出掛けていた。宝の残りを取りに行ったのだった。昨日の夜は向こうで泊まり、今朝早く、こちらに向かったが、荷車が遅く、約束の時間までに戻れそうもなかったので、太郎だけ先に帰って来た。そして、今、ようやく荷車が到着したのだった。
荷車の荷物は一千巻余りの一切経(イッサイキョウ)だった。性具入道らの時世の連歌は勿論、入っていない。
「お宝が、ようやく到着いたしました」と太郎が加賀守に告げた。
「お宝? もしかしたら、一切経か?」
「そうです」
金比羅坊は荷物を覆っている筵(ムシロ)を剥がした。大きな長持が出て来た。
風光坊と八郎坊が長持の蓋を開けた。長持の中には巻物がぎっしりと詰まっていた。
加賀守は部屋から庭に下りると荷車の方に向かった。太郎も後を追った。
太郎が庭に出ようとした時、「お父さん!」という声がした。
太郎が振り向くと、百太郎が太郎の方に走って来た。
「百太郎‥‥‥」
百太郎はお父さんと叫びながら走って来て、太郎の足に抱き着いた。
太郎は百太郎を抱き上げた。
「お父さん、やっと、お山から帰って来たんだね」
「うん、帰って来たよ」
「もう、どこにも行かないね」と百太郎は涙ぐみながら言った。
「うん」
「ずっと、いてね‥‥‥ずっとだよ‥‥‥」
百太郎は太郎に抱かれたまま泣き出していた。
楓も廊下まで出て来て、目を潤ませて二人を見ていた。
夢庵も一人頷きながら二人を見ていた。
加賀守も突然の親子の再会を目の当りに見て、宝の事も忘れ、ただ呆然として二人を見ていた。
金比羅坊たち三人も、よかった、よかったと太郎と百太郎を見ていた。八郎坊は今にも泣き出しそうな顔をして親子の様子を見ていた。
「男の子だろ、いつまでも泣いていると、みんなに笑われるぞ」
百太郎は、うん、と頷いたが、涙は止まらなかった。
太郎は百太郎を楓に渡すと、荷車の方に行った。加賀守も我に返って宝の方に向かった。
加賀守は長持の中の巻物を一つ、手に取ると中を調べた。
「確かに、一千巻はありそうじゃな」
「どうします、これ」
「うむ。とりあえず、蔵の中にしまうしかないのう」
加賀守は執事の織部祐を呼ぶと、一切経を片付けさせた。
その後、全員、食事の招待を受けた。そして、加賀守は、しばらくの間、みんなして、今、楓のいる南の客殿に滞在してくれと言ってくれたが、太郎は遠慮した。ここは何となく堅苦しそうだし、それに、まだ、やらなければならない事があった。
加賀守も無理には薦めなかったが、金比羅坊たちが、百太郎のためにも、ここにいた方がいいと言い張るので、太郎だけはここにお世話になる事にした。
とりあえず、荷物を取って来ると言って、夢庵たちと一緒に帰った太郎は、日の暮れる頃、別所屋敷に戻って来た。そして、客殿の一室で、久し振りに家族水入らずでくつろいだ。実に二ケ月振りの事だった。
隣の部屋では、京から付いて来た楓の侍女たち五人と桃恵尼が、障子の隙間から三人の様子を覗いていた。
「あのお人が、楓様の旦那様なんやね」と侍女の春日が小声で言った。
「わりと若いのね」と侍女の賀茂が言った。
侍女たちは初めて見た太郎を、あれこれ言いながら眺めていた。
「何やら、隣が騒がしいな」と太郎が楓に言った。
「そうだわ。みんなに、あなたを紹介しなくちゃ」
楓が障子を開けると、侍女たちが崩れるように部屋の中に転がり込んで来た。
百太郎が転がっている侍女たちを見て大笑いした。
太郎は楓から、桃恵尼と、伊勢、賀茂、春日、日吉、住吉という五人の侍女を紹介された。
伊勢は落ち着いた感じの三十女。賀茂は年の頃は二十の半ば位か、何となく、おっとりとした感じだった。あとの三人は皆、二十歳前の若い娘だった。一番若い住吉という娘は頭のてっぺんから出るような高い声で喋り、ひょうきんで面白い娘だった。住吉が百太郎のいい遊び相手だという事は、太郎にもすぐに納得できた。
太郎はみんなから質問攻めにあい、一つづつ答えていった。
はしゃいでいた百太郎が寝ると、桃恵尼が酒を持って来た。随分、気が利くな、と思ったら、夢庵からの差し入れだと言った。夢庵には世話になりっぱなしだった。本当に夢庵と出会えてよかった、と太郎は心から思った。
夢庵の酒を飲みながらも、太郎への質問攻めは続いた。しかし、みんな、あまり酒が強くないとみえて、すぐに酔い潰れてしまった。
五人の侍女が次々に倒れ、桃恵尼までも倒れた。太郎はおかしいと思って楓を見たら、楓は少しも酔っていないようだった。
「お前、何かやったな」と太郎は楓の顔を覗き込んだ。
「ちょっとね」と楓は言って、ニコッと笑った。「だって、二人きりになりたかったんだもの」
「この間の、眠り薬か」
楓は頷いた。「まだ、少し、残ってたの」
「一体、いつ、そんな薬を入れたんだ」
「陰の術よ」と楓は笑った。
「まいったね。それにしても、よく効く薬だな」
太郎は侍女たちを隣の部屋に寝せると、楓と二人だけの静かな夜を過ごした。
空には丁度、満月が出ていた。
二人は縁側に出て、月見酒と洒落込んだ。
太郎が楓との二人だけの夜を過ごす数時間前、『浦浪』の一室で、重要な作戦会議が開かれていた。勿論、太郎もその場にいた。
ちょっと荷物を取りに行くと言って、別所加賀守の屋敷を出た太郎は、浦浪に帰ると、夢庵、金比羅坊、風光坊、八郎、探真坊、次郎吉、吉次、そして、金勝座の全員を集めた。
相談したのは、加賀守が言った騎馬武者五十騎と徒歩侍二百人の事だった。
太郎は、浦上美作守が送り込んで来る太郎の偽者と途中で入れ代わって、この城下に入るつもりでいた。その時は、勿論、武士に扮して入場して来るわけだが、まさか、そんな大人数で入って来るとは思ってもいなかった。せいぜい二十人位で充分だろう、今いる仲間たちで何とかなるだろうと簡単に思っていた。しかし、加賀守は、太郎は二百五十人を引き連れて、堂々と城下に入場して来ると言う。浦上美作守は、加賀守の言う通り、二百五十人を城下に送り込む事だろう。そして、途中のどこかで偽者の太郎を殺すに違いない。二百五十人の武士たちも雇われた偽者だったら、偽者の太郎が殺された途端に皆、逃げ出してしまうという事も考えられた。そうなると、太郎は別の二百五十人を引き連れて城下に入らなければならない。二百五十人も集めるとなると周到な準備が必要だった。
「まず、浦上美作守は、いつ、俺の偽者をこっちに送ると思います」と太郎はみんなに聞いた。
「阿修羅坊が帰ったのが昨日の昼頃じゃろう。阿修羅坊の足なら三日もあれば京に着くじゃろうな」と金比羅坊は言った。
「三日だとすると、十六日の昼頃には着くな」と次郎吉が言った。
「十六日に着いたとして、浦上が偽者を仕立て、二百五十人集めるのに、丸一日はかかるじゃろうのう」と夢庵が言った。
「という事は十七日ですか、こっちに向かうのは」と風光坊が言った。
「いや、十七日は無理じゃろう」と夢庵が首を振った。「二百五十人の兵も集めなくちゃならんからな」
「兵を集める? 浦上の兵を使うんやないんですか」と八郎が夢庵に聞いた。
「城下まで、ちゃんと送るなら、自分の兵を使うじゃろうがな、途中で偽者を殺すとなれば、どうせ、足軽を集めて、格好だけは立派にさせるに違いないわ」と金比羅坊が言った。
「多分な。早くても、丸一日は掛かりそうじゃな」と次郎吉も言う。
「そうすると、早くて、十八日という事になりますね」と太郎は言った。
「うむ」と夢庵は頷いた。「十八日に出たとして、ここに着くまで、二百五十人を引き連れた偽者は五日は掛かるじゃろう」
「となると城下に入るのは、二十二日か」と探真坊が指で数えながら言った。
「もし、十八日に京を出たとしたら、途中で、偽者と入れ代わり、二十二日に、ここに入って来なければならないと言うわけですね」と太郎は言った。
「あと八日か」と次郎吉が言った。
「ところで、浦上は偽者をどこで殺すと思います」と太郎は聞いた。「すみません、助六殿。その辺に、地図があると思います。取って貰えますか」
助六がくれた地図を、太郎は皆の前に広げた。
「まず、山城(京都府南東部)じゃないのう」と夢庵は地図を見ながら言った。「こんな所で偽者が殺されれば、すぐに京の都に知られる。二百五十人に警固された赤松家の武将が何者かに殺されたなどと噂が立ったら、それこそ恥じゃしな」
「すると、摂津(大阪府西部と兵庫県南東部)か」と金比羅坊が言った。
「いや、摂津も丹波(京都府中部と兵庫県中東部)も細川氏の領土じゃ。そこで、そんな騒ぎを起こしたら細川氏に知られる。それに、もし、刺客(シカク)が細川の武士に捕まったりしたら、それこそ大変じゃ。浦上のたくらみが、すべて、ばれてしまう」
「という事は、やはり、播磨に入ってからか‥‥‥」と次郎吉。
「ところで、敵はどの道を通りますかね」と太郎は聞いた。
京の都から播磨の国に行くには三通りの道があった。まず、京から淀川に沿って下り、西宮、兵庫を通って明石に抜ける山陽道。二つ目は高槻から池田を通り、六甲山の北の有馬温泉を抜けて播磨に入る有馬街道。三つ目は京から西に丹波の国に入り、亀岡、篠山(ササヤマ)を抜けて播磨に入る道であった。
「うーむ、難しいのう」と金比羅坊が腕組みをして唸った。
「まあ、山陽道はないじゃろう」と夢庵が言った。
「どうしてです」と探真坊が聞いた。
「兵庫、それと、淀川の辺りは西軍の大内氏の水軍が押えているはずじゃ。当然、細川氏と睨み合ってる事じゃろう。そんな中を通っては来るまい」
「と言うと、残るは、有馬街道か、丹波を通るかですね」
「普通なら有馬街道を通るじゃろうが、途中で偽者を殺すとなると、丹波も考えられるのう」
「すると、ここか、ここのどっちかですね」と探真坊は有馬街道が通る摂津と播磨の国境辺りと、丹波道が通る丹波と播磨の国境辺りを指さした。
「うむ、どっちも山の中じゃ。どっちも考えられるのう」と金比羅坊が言った。
「こっちは、丁度、大谿寺(タイケスジ)の辺りですね」と太郎は有馬街道の方を示した。
「そうじゃのう。いい所にあるわ」と金比羅坊はニヤッと笑った。「こっちに来るとすれば、ここで待機していて、偽者が殺されたら交替すればいいわけじゃ」
「丹波から来た場合だと、国境のすぐ側に清水寺というのがありますよ」と探真坊が言った。
「清水寺か、確か、そこにも飯道山の宿坊があるはずじゃ」と金比羅坊は言った。
「行った事、ありますか」と太郎は金比羅坊に聞いた。
「いや、ない」
「とにかく、このどちらかで待機していればいわけですね」
「伊助の奴が、そのうち、敵の動きを知らせて来るじゃろう」と次郎吉が言った。
「そうですね、敵の動きがわかってから、待機する場所は決めましょう」
「どっちで待機しておるにしろ、偽者が殺されてから、二百五十人を引き連れて城下に入ればいいわけじゃ」と夢庵が言った。
「どっちから来るにしろ、偽者が国境辺りを通るのは、いつ頃ですかね」と太郎は聞いた。「そうじゃのう、早くて三日目の夕方、遅くても四日目の昼までには着くじゃろう」と夢庵は言った。
「という事は、早くて、二十日の夕方というわけですね」
「二十日と言えば、あと六日しかないぞ」と次郎吉は言った。「六日間で、二百五十人の侍を揃えなくてはならん」
「馬五十頭と、武器や鎧もじゃ」と金比羅坊が言った。
「二百五十人か‥‥‥」と夢庵は唸った。
「武器や鎧は小野屋の喜兵衛が何とかしてくれるじゃろう」と次郎吉が言った。
「馬はどうじゃ」と金比羅坊が次郎吉に聞いた。
「馬はわからんのう、だが、商人同士のつながりがあるんじゃないのか。それにしても、それらを揃えるとなると莫大な銭が掛かるぞ」
「銭も掛かるが、二百五十人分の鎧兜を揃えるとなると、こりゃ大変な事じゃぞ。短期間で集める事ができるか」
「それは、小野屋さんに聞いてみないと、どうにもなりませんね。あとで小野屋に行くとして、肝心の二百五十人はどうしたらいいと思います」と太郎は聞いた。
「難しいのう。これも銭で集めるしかないじゃろうな」と夢庵は言った。
「集まりますかね、二百五十人も‥‥‥」
「別所加賀守に借りるという手もあるぞ」
「できれば、借りたくはありません」
「そうじゃのう。先の事を考えると、なるたけ借りは作らん方がいいかもしれんのう」
「どんなのでもよければ集められますよ」と助五郎が言った。
「ほんとですか」
「どんなのでもよければですよ」
「どんなのでもいいとは」と次郎吉が聞いた。
「乞食や皮屋や人足たちです」
「そうか、河原者のお頭に頼めば、何とかなるかもしれない」
「乞食やエタが役に立つのか」と金比羅坊は首をひねった。
「役に立ちそうなのを選んで貰うのです」
「そうじゃな。河原者を集めるのが一番早いかもしれん」と次郎吉が言った。「そして、少しづつ、大谿寺か、清水寺の辺りに集まって貰うんじゃ。怪しまれんようにのう」
話が決まると、太郎は金比羅坊と次郎吉、そして夢庵の四人で小野屋に向かった。
小野屋喜兵衛は二つ返事で引き受けてくれた。人集めの銭も全部、小野屋に任せてくれと言う。あまりにも話がうまく行きすぎるので、どうして、そんな大金を簡単に出してくれるのか、太郎は聞いてみた。
「あなた様が楓殿の御亭主だからですよ」と喜兵衛は笑いながら言った。「実は、松恵尼様より、あなた様に使ってもらうようにと、充分すぎる程のお代物(ダイモツ、銭)が、すでに届いております」
「えっ、松恵尼様から‥‥‥」
「はい、松恵尼様は、すでにお見通しだったようですね。あなた様が赤松家に迎えられるという事を。そして、それには充分な軍資金が必要だという事も御存じだったのです。最初が肝心だと言っておりましたよ。赤松家に迎えられる時、立派な武将として、堂々としていなければならない。誰もが、お屋形様の兄上にふさわしいと思えるようでなくてはならないとおっしゃておりました」
「そうだったのですか‥‥‥」
「遠慮はいりませんよ。わたしたち商人は損になる取引きはいたしません。あなた様に、それだけ投資する価値があると認めておるから投資するのです。松恵尼様もそうです。確かに、娘可愛いさはあるでしょう。しかし、松恵尼様は立派な商人です。あなた様の価値をちゃんと見極めていますよ。武器、武具、馬、すべて、上等な物を御用意いたしましょう」と小野屋喜兵衛はきっぱりと言い切った。
帰り道、夢庵が太郎を見て、「おぬし、大した男よのう」と感心して言った。
「いえ、俺も実際、驚いています。こんなにうまく事が運ぶとは思ってもいませんでした」
「松恵尼様はやる時はやるからのう」と次郎吉は言った。
「松恵尼様というのは、そんなに凄い商人だったのか‥‥‥」と金比羅坊は信じられないという顔をして首を傾げた。
「あの小野屋は、伊勢の多気にある松恵尼様の店、小野屋の出店なんじゃよ。その他、奈良と伊勢の安濃津、伊賀上野にも出店があるし、旅籠屋も幾つも持っておるんじゃ」と次郎吉は説明した。
「そんなにも店を持っていたんですか。知らなかった」
太郎は奈良の小野屋には世話になった事があった。楓を連れて故郷に帰る時だった。あの店が松恵尼とつながりのある事はわかったが、あそこの主人が松恵尼の手下だったとは驚きだった。さらに、多気の都でも、大きな店構えの小野屋を見ていた。奈良の店と同じ名前だったので、楓に、この店も松恵尼様と関係あるのかな、と聞いたら、楓は、まさか、と首を振った。太郎もたまたま名前が同じだけなんだろうと思っていた。しかし、あの店も松恵尼の手下がやっている店だったのだ。凄い人だと思わずにはいられなかった。そして、その凄い人が楓の母親代わりだった事に太郎は天に感謝をした。
「凄いもんじゃのう、あの松恵尼様がのう‥‥‥」と金比羅坊もしきりに感心していた。
その足で、河原に行き、片目の銀左衛門を捜した。
多分、新しく作っている北の城下の方だろうと思って、芸人たちのいる一画を北に向かった。丁度、うまい具合に銀左の手下の佐介と会った。佐介に聞くと、今日は多分、うちにいるだろうとの事だった。うちはどこだと聞くと、わしも今、行くところだから、一緒に行こうと言った。
銀左のうちは、ずっと南の方だった。木賃宿、浦浪を過ぎ、紺屋、皮屋の一画も過ぎ、清水谷の渡しの側に、銀左のうちはあった。どうせ、掘立て小屋に毛が生えた位のうちだろうと思っていたら、とんでもない事だった。
銀左のうちは立派な屋敷だった。別所加賀守の屋敷に大して引けを取らない程、大きな屋敷だった。大通りに面し、東に真っすぐ進めば白旗神社へと続く道との四つ角の西南側に位置していた。
屋敷の中には庭園あり、廐あり、大きな蔵あり、武家屋敷と変わらなかった。ただ、屋敷の中で働いている連中の人相と格好が違うだけだった。
太郎たちは庭の一画に建てられた豪華な御殿の一室に案内された。
「河原者でも、お頭ともなると凄いもんじゃのう」と金比羅坊が庭園を眺めながら小声で言った。
「おう、まったくじゃ」と夢庵も感心しながら部屋の中を眺めていた。
壁に立派な掛軸が掛けられ、その横の唐物(カラモノ)の壷(ツボ)に綺麗な花が生けてある。そして、隣の部屋との境に置いてある屏風がまた凄かった。金や銀を多量に使って龍と虎が描いてあった。
やがて、綺麗な着物を着た娘がお茶を持って入って来た。その娘の美しさときたら、この世の者とは思えない程の美しさだった。透けるように白い肌をしていて、柳のようにしなやかで、着ている着物は美しいだけでなく、薄い絹でできていて、体が半ば透けて見えていた。
四人の男は生唾を飲み込むように、その娘に釘付けだった。
娘は四人の前に、それぞれお茶を置くと、「どうぞ、ごゆっくりしてらっしゃいませ」と鈴の音のような声で言って、しとやかに頭を下げると去って行った。
「たまらんのう」と次郎吉は娘の後ろ姿を見送りながら震えた。
「あんな女子が、この世におるのかい」金比羅坊も鼻の下を伸ばして娘を見送っていた。
「うらやましいのう」次郎吉は娘の後ろ姿を見つめたまま、お茶を口にして、「あっち!」と叫んだ。
「うむ、この茶碗もお茶も最上級の物じゃ」夢庵は別の事に感心していた。
しばらくして、この屋敷の主(アルジ)がいつもの革の袖なしを来て現れた。何となく、場違いな感じがしたが、紛れもなく、この屋敷の主人に違いなかった。
「どうした、改まって」と銀左は太郎に聞いた。
「銀左殿、今回は頼みがあって参りました」
「成程、この顔触れからして、余程の事らしいの」
太郎が三人を紹介しようとすると銀左は止めた。
「研師の次郎吉殿、茶の湯の名人、夢庵殿、そして、おぬしと同じ山伏の金比羅坊殿じゃな」と銀左は笑いながら言った。
「どうして、知っているのです」と太郎は聞いた。
太郎だけではなく、夢庵も次郎吉も金比羅坊もキツネにでも化かされているのかと不思議に思っていた。
「わしら、河原者も情報網を持っていてな。必要な情報はすぐに手に入るんじゃよ」
「そうなのですか‥‥‥ところで、楓御料人様の旦那が、この城下に来るという噂は御存じですね」
「ああ、初めうちは信じられなかったが、どうも本当らしい」
「その事で頼みがあるのです」
「何じゃと? それと、おぬしらと、どう関係がある」銀左は鋭い目付きで四人を見回した。
「実は、楓御料人の旦那というのは、わたしの事なのです」
「何じゃ? おぬしが楓御料人様の旦那‥‥‥」
「はい」と太郎は頷いた。
「一体、これは、どういう事じゃ」銀左は改めて、四人の顔を見渡した。
太郎は今までのいきさつを簡単に話した。
「成程、そんな事があったのか‥‥‥おぬしが、ただ者ではないという事はわかっておったが、たまげたわ。おぬしが御料人様の旦那様だとはのう‥‥‥そこで、わしに頼みとは何じゃ?」
「実は、改めて城下に乗り込むために兵がいるのです」
「兵?」
「ええ、形だけでも揃えて城下に入らなければなりません」
「そりゃ、そうじゃのう。お屋形様の兄上になるわけじゃからのう」
「そこで、銀左殿に、二百五十人の兵を集めて欲しいのです。河原者で侍になりたい者、そして、見込みのありそうな者を二百五十人、集めて欲しいのです」
「二百五十人か‥‥‥いつまでにじゃ」
「十八日まで」
「明日から四日じゃな。ちょっと難しいのお。元手はあるのか」
「大丈夫です。銀左殿は人だけ集めてくれれば結構です。武器や鎧などは、すべて、こちらで用意します」
「わかった。とりあえず一人百文として、二十五貫文、用意してくれ」と銀左は言った。
「わかりました、三十貫文用意します。お願いします」
太郎は、金比羅坊と相談してやってくれ、と金比羅坊を銀左の屋敷に置いて来た。
そして、武器関係は、すべて、次郎吉に任せる事にして、次郎吉を小野屋に送った。
「それじゃあ、わしは馬を五十頭、集めるか」と夢庵は言って、次郎吉の後を追って小野屋に向かった。
太郎にはもうひとつ、やる事があった。それは、生野に行って銀山が本物かどうか確かめなくてはならなかった。明日、三人の弟子を連れて生野に向かい、十八日までに戻って来なければならなかった。
太郎は浦浪に帰って、うまく行った、と皆に報告し、三人の弟子たちには、明日、朝早く旅に出る事を伝え、別所屋敷に戻った。
「愛洲太郎左衛門久忠です」と太郎は頭を下げた。
「愛洲殿、色々と大変な目に会われたようですな」と加賀守は笑いながら言った。
「はい」
「昨日から、もう、楓殿がそなたに会いたくて、そわそわ浮き浮きしていましたよ」
「いえ、そんな‥‥‥」楓は少し顔を赤らめ、ちらっと加賀守を見た。
「もう、隠れている必要はありません。まあ、とりあえずは、わたしのお客として、ここに滞在して下さい。そして、改めて、この城下に入って来て貰う事になるでしょう」
「わかりました」と太郎は言った。
「昨日、夢庵殿より、そなたの事を聞いた後、京より使いの者が帰って来ました。城下の噂の真相を確かめるために、浦上美作守のもとへ送ったんじゃが、その使いが戻って来ました。美作守は何と言って来たと思いますか」と加賀守は皆の顔を見比べた。
「楓殿の御亭主が生きていた、と言って来ましたか」と夢庵が言った。
「その通りじゃ。そなたを殺そうとしていた美作守が、実は、そなたは生きていて、今は怪我をして療養しておるが、怪我が直り次第、国元に送ると言ってよこしたわ」
「どうするつもりなんでしょう」と楓が言った。
「これは見物じゃわ。本人が、すでに、ここにおるというのに、一体、誰を送って来るつもりなのかのう」と加賀守は声を出して笑った。「昨日、評定所で、そなたを楓殿の御亭主として、正式に迎える事に決まった。まだ、日取りまでは決まっておらんが、大将として迎えるため、騎馬武者五十騎、徒歩侍(カチザムライ)二百人を引き連れ、堂々と城下に入って来て貰うという事になった」
「騎馬武者五十騎に徒歩侍二百人‥‥‥」その数に太郎は驚いたが、顔には出さず、「随分と大袈裟ですね」と言った。
「それ位の事をして乗り込んで貰わんと、国人たちが納得せんのでな。ところで、愛洲殿、まず、そなたの事を詳しく知りたいのだが‥‥‥お屋形様の兄上様として迎えるには、色々と面倒な事があるんでな。うるさい年寄衆を納得させなければならんのじゃよ」
「わかります」と言って、太郎は自分の身の上を話した。
加賀守は太郎の話を時々、頷きながら聞いていた。夢庵は興味なさそうに庭の方を見ている。楓はじっと太郎を見つめていた。
「まだ若いのに色々な経験をしておるようじゃのう。船も乗れるし、山も知っておる。おまけに、剣術の名人で、『志能便の術』とかを若い者たちに教えておるとはのう。大したもんじゃのう。ところで、志能便の術とはどんな術なんじゃ?」
「簡単に言えば、情報を集めるための術です」
「情報集め?」
「はい。戦に勝つためには、敵を充分に知る事です。敵の情勢を逸速く知れば、敵の虚を突く事ができます」
「敵の近くまで行って、色々と探る術なのか」
「必要とあれば、敵の城や屋敷にも忍び込みます」
「敵の城にか、そんな事ができるのか」
「実際に、太郎殿は京の浦上屋敷に忍び込んでおります」と夢庵が言った。
「なに、あそこに忍び込んだ? かなり、厳重に固めておるはずじゃが‥‥‥」
「ええ、厳重でした。厳重でしたが、入ってしまえば、中には見張りもいませんし、何とかなりました」
「どうして、また、そんな所に忍び込んだのじゃ」
「わたしの命を狙っているという阿修羅坊と美作守の顔を見たかったからです」
「顔を見る、それだけのために、そんな危険な事をしたのか」
「はい。危険でも、この先、自分を狙っている男がどんな奴だかわからない方が、もっと危険ですから」
「そりゃそうじゃがのう」
「主人はここへも忍び込みました」と楓が言った。
「なに、ここにも?」加賀守は、まさか、という顔をして楓を見てから太郎を見た。
「楓に会うために忍び込みました」
「一体、それはいつの事じゃ」
「先月の二十三日、わたしがこの城下に入った日です」
「先月の二十三日‥‥‥そんな早くから、この城下におったのか‥‥‥まったく知らなかった。楓殿も楓殿じゃのう。そんな素振りなど少しも見せんかった」
「あの時は、別所殿も主人の命を狙っていると思っていたものですから」
「その頃のわしは御主人の存在すら知らなかったわ。しかし、そんな簡単に忍び込まれたら安心して眠る事もできんのう」加賀守は腕組みをしながら部屋の中を見回した。
太郎は思い出した。この前、助六と散歩して評定所まで行った時、偉そうな数人の侍に会った。その中に、目の前にいる別所加賀守の姿があったのだった。
「しかし、その『志能便の術』というのも、一歩間違えれば、ただの盗っ人に成りかねんのう」
「はい、それは言えます。しかし、それは剣術にも言える事ですが、すべて、術を使う者の心の持ちようです。剣術も一歩間違えれば、ただの殺し屋になります」
「うむ、そうじゃのう。心の持ちようか‥‥‥ところで、美作守は偽者をこの城下に送って来て、どうするつもりなんじゃろうのう。美作守は、そなたがこの城下におる事を知らんのか」
「今頃、わたしは阿修羅坊と共に京に向かっていると思っているでしょう」
「美作守が、そなたを京に呼んだのか」
「はい。美作守は、わたしを殺すために松阿弥という刺客を送って来ました。ところが急に、わたしを殺さないで、京に連れて来いと阿修羅坊に言って来たのです。わたしは今、京に行くわけには行かないと断りました。そこで、阿修羅坊は、わたしが刺客に殺されたという事にして京に帰ったのです」
「そんな事があったのか‥‥‥という事は、美作守は一旦、そなたを京に呼んで、改めて城下に送り込むつもりだったんじゃな」
「多分、そうだと思います」
「そうなると、美作守は偽者を仕立ててでも、誰かを城下に送らなければならなくなるわけじゃのう」
「はい。しかし、偽者をこの城下に入れたら、偽者だとばれてしまいます。美作守はどうするつもりなのでしょう」
「うむ」と頷いた後、しばらくしてから、「考えられるのは二つじゃな」と加賀守は言った。
「二つ?」と太郎は聞いた。
「一つは偽者を強引に楓殿の御主人にする。もう一つは城下に入る前に偽者を殺す。そのどっちかじゃな」
「強引に楓の主人にする事なんてできますか」
「まあ、無理じゃろうな。そんな事を独断でしたら、返って、失脚する事になるじゃろう。国元の連中の中には、美作守をよく思っていない者も多いからな。そんな陰謀がばれたら、たちまち失脚じゃ。幕府内で、かなりの地位を得ているとは言え、赤松家あっての美作守じゃからの。美作守もそこの所は充分に心得ておる。そんな馬鹿な事はするまい。それにな、国元にいる浦上派の連中をそれとなく探ってみたが、特に、これと言って怪しい動きはないようじゃ。まず、それはあるまい」
「と言う事は、城下に入る前に偽者を殺すという事ですか」
「うむ、多分な‥‥‥とにかく、偽者でも何でもいいから、楓殿の御主人を京から国元に向かわせなくてはならん。そして、途中で事故にあって亡くなってしまったとしても、それは仕方のない事じゃという事になる」
「事故を装って殺すのですか」
「山の中で崖崩れに会うとか、突然の病死というのもありえるな」
その時、中庭に馬に引かれた荷車が入って来た。金比羅坊と八郎坊、風光坊の三人の山伏が一緒だった。
昨日の昼過ぎ、その三人と太郎は雨の降る中、城山城まで出掛けていた。宝の残りを取りに行ったのだった。昨日の夜は向こうで泊まり、今朝早く、こちらに向かったが、荷車が遅く、約束の時間までに戻れそうもなかったので、太郎だけ先に帰って来た。そして、今、ようやく荷車が到着したのだった。
荷車の荷物は一千巻余りの一切経(イッサイキョウ)だった。性具入道らの時世の連歌は勿論、入っていない。
「お宝が、ようやく到着いたしました」と太郎が加賀守に告げた。
「お宝? もしかしたら、一切経か?」
「そうです」
金比羅坊は荷物を覆っている筵(ムシロ)を剥がした。大きな長持が出て来た。
風光坊と八郎坊が長持の蓋を開けた。長持の中には巻物がぎっしりと詰まっていた。
加賀守は部屋から庭に下りると荷車の方に向かった。太郎も後を追った。
太郎が庭に出ようとした時、「お父さん!」という声がした。
太郎が振り向くと、百太郎が太郎の方に走って来た。
「百太郎‥‥‥」
百太郎はお父さんと叫びながら走って来て、太郎の足に抱き着いた。
太郎は百太郎を抱き上げた。
「お父さん、やっと、お山から帰って来たんだね」
「うん、帰って来たよ」
「もう、どこにも行かないね」と百太郎は涙ぐみながら言った。
「うん」
「ずっと、いてね‥‥‥ずっとだよ‥‥‥」
百太郎は太郎に抱かれたまま泣き出していた。
楓も廊下まで出て来て、目を潤ませて二人を見ていた。
夢庵も一人頷きながら二人を見ていた。
加賀守も突然の親子の再会を目の当りに見て、宝の事も忘れ、ただ呆然として二人を見ていた。
金比羅坊たち三人も、よかった、よかったと太郎と百太郎を見ていた。八郎坊は今にも泣き出しそうな顔をして親子の様子を見ていた。
「男の子だろ、いつまでも泣いていると、みんなに笑われるぞ」
百太郎は、うん、と頷いたが、涙は止まらなかった。
太郎は百太郎を楓に渡すと、荷車の方に行った。加賀守も我に返って宝の方に向かった。
加賀守は長持の中の巻物を一つ、手に取ると中を調べた。
「確かに、一千巻はありそうじゃな」
「どうします、これ」
「うむ。とりあえず、蔵の中にしまうしかないのう」
加賀守は執事の織部祐を呼ぶと、一切経を片付けさせた。
その後、全員、食事の招待を受けた。そして、加賀守は、しばらくの間、みんなして、今、楓のいる南の客殿に滞在してくれと言ってくれたが、太郎は遠慮した。ここは何となく堅苦しそうだし、それに、まだ、やらなければならない事があった。
加賀守も無理には薦めなかったが、金比羅坊たちが、百太郎のためにも、ここにいた方がいいと言い張るので、太郎だけはここにお世話になる事にした。
とりあえず、荷物を取って来ると言って、夢庵たちと一緒に帰った太郎は、日の暮れる頃、別所屋敷に戻って来た。そして、客殿の一室で、久し振りに家族水入らずでくつろいだ。実に二ケ月振りの事だった。
隣の部屋では、京から付いて来た楓の侍女たち五人と桃恵尼が、障子の隙間から三人の様子を覗いていた。
「あのお人が、楓様の旦那様なんやね」と侍女の春日が小声で言った。
「わりと若いのね」と侍女の賀茂が言った。
侍女たちは初めて見た太郎を、あれこれ言いながら眺めていた。
「何やら、隣が騒がしいな」と太郎が楓に言った。
「そうだわ。みんなに、あなたを紹介しなくちゃ」
楓が障子を開けると、侍女たちが崩れるように部屋の中に転がり込んで来た。
百太郎が転がっている侍女たちを見て大笑いした。
太郎は楓から、桃恵尼と、伊勢、賀茂、春日、日吉、住吉という五人の侍女を紹介された。
伊勢は落ち着いた感じの三十女。賀茂は年の頃は二十の半ば位か、何となく、おっとりとした感じだった。あとの三人は皆、二十歳前の若い娘だった。一番若い住吉という娘は頭のてっぺんから出るような高い声で喋り、ひょうきんで面白い娘だった。住吉が百太郎のいい遊び相手だという事は、太郎にもすぐに納得できた。
太郎はみんなから質問攻めにあい、一つづつ答えていった。
はしゃいでいた百太郎が寝ると、桃恵尼が酒を持って来た。随分、気が利くな、と思ったら、夢庵からの差し入れだと言った。夢庵には世話になりっぱなしだった。本当に夢庵と出会えてよかった、と太郎は心から思った。
夢庵の酒を飲みながらも、太郎への質問攻めは続いた。しかし、みんな、あまり酒が強くないとみえて、すぐに酔い潰れてしまった。
五人の侍女が次々に倒れ、桃恵尼までも倒れた。太郎はおかしいと思って楓を見たら、楓は少しも酔っていないようだった。
「お前、何かやったな」と太郎は楓の顔を覗き込んだ。
「ちょっとね」と楓は言って、ニコッと笑った。「だって、二人きりになりたかったんだもの」
「この間の、眠り薬か」
楓は頷いた。「まだ、少し、残ってたの」
「一体、いつ、そんな薬を入れたんだ」
「陰の術よ」と楓は笑った。
「まいったね。それにしても、よく効く薬だな」
太郎は侍女たちを隣の部屋に寝せると、楓と二人だけの静かな夜を過ごした。
空には丁度、満月が出ていた。
二人は縁側に出て、月見酒と洒落込んだ。
4
太郎が楓との二人だけの夜を過ごす数時間前、『浦浪』の一室で、重要な作戦会議が開かれていた。勿論、太郎もその場にいた。
ちょっと荷物を取りに行くと言って、別所加賀守の屋敷を出た太郎は、浦浪に帰ると、夢庵、金比羅坊、風光坊、八郎、探真坊、次郎吉、吉次、そして、金勝座の全員を集めた。
相談したのは、加賀守が言った騎馬武者五十騎と徒歩侍二百人の事だった。
太郎は、浦上美作守が送り込んで来る太郎の偽者と途中で入れ代わって、この城下に入るつもりでいた。その時は、勿論、武士に扮して入場して来るわけだが、まさか、そんな大人数で入って来るとは思ってもいなかった。せいぜい二十人位で充分だろう、今いる仲間たちで何とかなるだろうと簡単に思っていた。しかし、加賀守は、太郎は二百五十人を引き連れて、堂々と城下に入場して来ると言う。浦上美作守は、加賀守の言う通り、二百五十人を城下に送り込む事だろう。そして、途中のどこかで偽者の太郎を殺すに違いない。二百五十人の武士たちも雇われた偽者だったら、偽者の太郎が殺された途端に皆、逃げ出してしまうという事も考えられた。そうなると、太郎は別の二百五十人を引き連れて城下に入らなければならない。二百五十人も集めるとなると周到な準備が必要だった。
「まず、浦上美作守は、いつ、俺の偽者をこっちに送ると思います」と太郎はみんなに聞いた。
「阿修羅坊が帰ったのが昨日の昼頃じゃろう。阿修羅坊の足なら三日もあれば京に着くじゃろうな」と金比羅坊は言った。
「三日だとすると、十六日の昼頃には着くな」と次郎吉が言った。
「十六日に着いたとして、浦上が偽者を仕立て、二百五十人集めるのに、丸一日はかかるじゃろうのう」と夢庵が言った。
「という事は十七日ですか、こっちに向かうのは」と風光坊が言った。
「いや、十七日は無理じゃろう」と夢庵が首を振った。「二百五十人の兵も集めなくちゃならんからな」
「兵を集める? 浦上の兵を使うんやないんですか」と八郎が夢庵に聞いた。
「城下まで、ちゃんと送るなら、自分の兵を使うじゃろうがな、途中で偽者を殺すとなれば、どうせ、足軽を集めて、格好だけは立派にさせるに違いないわ」と金比羅坊が言った。
「多分な。早くても、丸一日は掛かりそうじゃな」と次郎吉も言う。
「そうすると、早くて、十八日という事になりますね」と太郎は言った。
「うむ」と夢庵は頷いた。「十八日に出たとして、ここに着くまで、二百五十人を引き連れた偽者は五日は掛かるじゃろう」
「となると城下に入るのは、二十二日か」と探真坊が指で数えながら言った。
「もし、十八日に京を出たとしたら、途中で、偽者と入れ代わり、二十二日に、ここに入って来なければならないと言うわけですね」と太郎は言った。
「あと八日か」と次郎吉が言った。
「ところで、浦上は偽者をどこで殺すと思います」と太郎は聞いた。「すみません、助六殿。その辺に、地図があると思います。取って貰えますか」
助六がくれた地図を、太郎は皆の前に広げた。
「まず、山城(京都府南東部)じゃないのう」と夢庵は地図を見ながら言った。「こんな所で偽者が殺されれば、すぐに京の都に知られる。二百五十人に警固された赤松家の武将が何者かに殺されたなどと噂が立ったら、それこそ恥じゃしな」
「すると、摂津(大阪府西部と兵庫県南東部)か」と金比羅坊が言った。
「いや、摂津も丹波(京都府中部と兵庫県中東部)も細川氏の領土じゃ。そこで、そんな騒ぎを起こしたら細川氏に知られる。それに、もし、刺客(シカク)が細川の武士に捕まったりしたら、それこそ大変じゃ。浦上のたくらみが、すべて、ばれてしまう」
「という事は、やはり、播磨に入ってからか‥‥‥」と次郎吉。
「ところで、敵はどの道を通りますかね」と太郎は聞いた。
京の都から播磨の国に行くには三通りの道があった。まず、京から淀川に沿って下り、西宮、兵庫を通って明石に抜ける山陽道。二つ目は高槻から池田を通り、六甲山の北の有馬温泉を抜けて播磨に入る有馬街道。三つ目は京から西に丹波の国に入り、亀岡、篠山(ササヤマ)を抜けて播磨に入る道であった。
「うーむ、難しいのう」と金比羅坊が腕組みをして唸った。
「まあ、山陽道はないじゃろう」と夢庵が言った。
「どうしてです」と探真坊が聞いた。
「兵庫、それと、淀川の辺りは西軍の大内氏の水軍が押えているはずじゃ。当然、細川氏と睨み合ってる事じゃろう。そんな中を通っては来るまい」
「と言うと、残るは、有馬街道か、丹波を通るかですね」
「普通なら有馬街道を通るじゃろうが、途中で偽者を殺すとなると、丹波も考えられるのう」
「すると、ここか、ここのどっちかですね」と探真坊は有馬街道が通る摂津と播磨の国境辺りと、丹波道が通る丹波と播磨の国境辺りを指さした。
「うむ、どっちも山の中じゃ。どっちも考えられるのう」と金比羅坊が言った。
「こっちは、丁度、大谿寺(タイケスジ)の辺りですね」と太郎は有馬街道の方を示した。
「そうじゃのう。いい所にあるわ」と金比羅坊はニヤッと笑った。「こっちに来るとすれば、ここで待機していて、偽者が殺されたら交替すればいいわけじゃ」
「丹波から来た場合だと、国境のすぐ側に清水寺というのがありますよ」と探真坊が言った。
「清水寺か、確か、そこにも飯道山の宿坊があるはずじゃ」と金比羅坊は言った。
「行った事、ありますか」と太郎は金比羅坊に聞いた。
「いや、ない」
「とにかく、このどちらかで待機していればいわけですね」
「伊助の奴が、そのうち、敵の動きを知らせて来るじゃろう」と次郎吉が言った。
「そうですね、敵の動きがわかってから、待機する場所は決めましょう」
「どっちで待機しておるにしろ、偽者が殺されてから、二百五十人を引き連れて城下に入ればいいわけじゃ」と夢庵が言った。
「どっちから来るにしろ、偽者が国境辺りを通るのは、いつ頃ですかね」と太郎は聞いた。「そうじゃのう、早くて三日目の夕方、遅くても四日目の昼までには着くじゃろう」と夢庵は言った。
「という事は、早くて、二十日の夕方というわけですね」
「二十日と言えば、あと六日しかないぞ」と次郎吉は言った。「六日間で、二百五十人の侍を揃えなくてはならん」
「馬五十頭と、武器や鎧もじゃ」と金比羅坊が言った。
「二百五十人か‥‥‥」と夢庵は唸った。
「武器や鎧は小野屋の喜兵衛が何とかしてくれるじゃろう」と次郎吉が言った。
「馬はどうじゃ」と金比羅坊が次郎吉に聞いた。
「馬はわからんのう、だが、商人同士のつながりがあるんじゃないのか。それにしても、それらを揃えるとなると莫大な銭が掛かるぞ」
「銭も掛かるが、二百五十人分の鎧兜を揃えるとなると、こりゃ大変な事じゃぞ。短期間で集める事ができるか」
「それは、小野屋さんに聞いてみないと、どうにもなりませんね。あとで小野屋に行くとして、肝心の二百五十人はどうしたらいいと思います」と太郎は聞いた。
「難しいのう。これも銭で集めるしかないじゃろうな」と夢庵は言った。
「集まりますかね、二百五十人も‥‥‥」
「別所加賀守に借りるという手もあるぞ」
「できれば、借りたくはありません」
「そうじゃのう。先の事を考えると、なるたけ借りは作らん方がいいかもしれんのう」
「どんなのでもよければ集められますよ」と助五郎が言った。
「ほんとですか」
「どんなのでもよければですよ」
「どんなのでもいいとは」と次郎吉が聞いた。
「乞食や皮屋や人足たちです」
「そうか、河原者のお頭に頼めば、何とかなるかもしれない」
「乞食やエタが役に立つのか」と金比羅坊は首をひねった。
「役に立ちそうなのを選んで貰うのです」
「そうじゃな。河原者を集めるのが一番早いかもしれん」と次郎吉が言った。「そして、少しづつ、大谿寺か、清水寺の辺りに集まって貰うんじゃ。怪しまれんようにのう」
話が決まると、太郎は金比羅坊と次郎吉、そして夢庵の四人で小野屋に向かった。
小野屋喜兵衛は二つ返事で引き受けてくれた。人集めの銭も全部、小野屋に任せてくれと言う。あまりにも話がうまく行きすぎるので、どうして、そんな大金を簡単に出してくれるのか、太郎は聞いてみた。
「あなた様が楓殿の御亭主だからですよ」と喜兵衛は笑いながら言った。「実は、松恵尼様より、あなた様に使ってもらうようにと、充分すぎる程のお代物(ダイモツ、銭)が、すでに届いております」
「えっ、松恵尼様から‥‥‥」
「はい、松恵尼様は、すでにお見通しだったようですね。あなた様が赤松家に迎えられるという事を。そして、それには充分な軍資金が必要だという事も御存じだったのです。最初が肝心だと言っておりましたよ。赤松家に迎えられる時、立派な武将として、堂々としていなければならない。誰もが、お屋形様の兄上にふさわしいと思えるようでなくてはならないとおっしゃておりました」
「そうだったのですか‥‥‥」
「遠慮はいりませんよ。わたしたち商人は損になる取引きはいたしません。あなた様に、それだけ投資する価値があると認めておるから投資するのです。松恵尼様もそうです。確かに、娘可愛いさはあるでしょう。しかし、松恵尼様は立派な商人です。あなた様の価値をちゃんと見極めていますよ。武器、武具、馬、すべて、上等な物を御用意いたしましょう」と小野屋喜兵衛はきっぱりと言い切った。
帰り道、夢庵が太郎を見て、「おぬし、大した男よのう」と感心して言った。
「いえ、俺も実際、驚いています。こんなにうまく事が運ぶとは思ってもいませんでした」
「松恵尼様はやる時はやるからのう」と次郎吉は言った。
「松恵尼様というのは、そんなに凄い商人だったのか‥‥‥」と金比羅坊は信じられないという顔をして首を傾げた。
「あの小野屋は、伊勢の多気にある松恵尼様の店、小野屋の出店なんじゃよ。その他、奈良と伊勢の安濃津、伊賀上野にも出店があるし、旅籠屋も幾つも持っておるんじゃ」と次郎吉は説明した。
「そんなにも店を持っていたんですか。知らなかった」
太郎は奈良の小野屋には世話になった事があった。楓を連れて故郷に帰る時だった。あの店が松恵尼とつながりのある事はわかったが、あそこの主人が松恵尼の手下だったとは驚きだった。さらに、多気の都でも、大きな店構えの小野屋を見ていた。奈良の店と同じ名前だったので、楓に、この店も松恵尼様と関係あるのかな、と聞いたら、楓は、まさか、と首を振った。太郎もたまたま名前が同じだけなんだろうと思っていた。しかし、あの店も松恵尼の手下がやっている店だったのだ。凄い人だと思わずにはいられなかった。そして、その凄い人が楓の母親代わりだった事に太郎は天に感謝をした。
「凄いもんじゃのう、あの松恵尼様がのう‥‥‥」と金比羅坊もしきりに感心していた。
その足で、河原に行き、片目の銀左衛門を捜した。
多分、新しく作っている北の城下の方だろうと思って、芸人たちのいる一画を北に向かった。丁度、うまい具合に銀左の手下の佐介と会った。佐介に聞くと、今日は多分、うちにいるだろうとの事だった。うちはどこだと聞くと、わしも今、行くところだから、一緒に行こうと言った。
銀左のうちは、ずっと南の方だった。木賃宿、浦浪を過ぎ、紺屋、皮屋の一画も過ぎ、清水谷の渡しの側に、銀左のうちはあった。どうせ、掘立て小屋に毛が生えた位のうちだろうと思っていたら、とんでもない事だった。
銀左のうちは立派な屋敷だった。別所加賀守の屋敷に大して引けを取らない程、大きな屋敷だった。大通りに面し、東に真っすぐ進めば白旗神社へと続く道との四つ角の西南側に位置していた。
屋敷の中には庭園あり、廐あり、大きな蔵あり、武家屋敷と変わらなかった。ただ、屋敷の中で働いている連中の人相と格好が違うだけだった。
太郎たちは庭の一画に建てられた豪華な御殿の一室に案内された。
「河原者でも、お頭ともなると凄いもんじゃのう」と金比羅坊が庭園を眺めながら小声で言った。
「おう、まったくじゃ」と夢庵も感心しながら部屋の中を眺めていた。
壁に立派な掛軸が掛けられ、その横の唐物(カラモノ)の壷(ツボ)に綺麗な花が生けてある。そして、隣の部屋との境に置いてある屏風がまた凄かった。金や銀を多量に使って龍と虎が描いてあった。
やがて、綺麗な着物を着た娘がお茶を持って入って来た。その娘の美しさときたら、この世の者とは思えない程の美しさだった。透けるように白い肌をしていて、柳のようにしなやかで、着ている着物は美しいだけでなく、薄い絹でできていて、体が半ば透けて見えていた。
四人の男は生唾を飲み込むように、その娘に釘付けだった。
娘は四人の前に、それぞれお茶を置くと、「どうぞ、ごゆっくりしてらっしゃいませ」と鈴の音のような声で言って、しとやかに頭を下げると去って行った。
「たまらんのう」と次郎吉は娘の後ろ姿を見送りながら震えた。
「あんな女子が、この世におるのかい」金比羅坊も鼻の下を伸ばして娘を見送っていた。
「うらやましいのう」次郎吉は娘の後ろ姿を見つめたまま、お茶を口にして、「あっち!」と叫んだ。
「うむ、この茶碗もお茶も最上級の物じゃ」夢庵は別の事に感心していた。
しばらくして、この屋敷の主(アルジ)がいつもの革の袖なしを来て現れた。何となく、場違いな感じがしたが、紛れもなく、この屋敷の主人に違いなかった。
「どうした、改まって」と銀左は太郎に聞いた。
「銀左殿、今回は頼みがあって参りました」
「成程、この顔触れからして、余程の事らしいの」
太郎が三人を紹介しようとすると銀左は止めた。
「研師の次郎吉殿、茶の湯の名人、夢庵殿、そして、おぬしと同じ山伏の金比羅坊殿じゃな」と銀左は笑いながら言った。
「どうして、知っているのです」と太郎は聞いた。
太郎だけではなく、夢庵も次郎吉も金比羅坊もキツネにでも化かされているのかと不思議に思っていた。
「わしら、河原者も情報網を持っていてな。必要な情報はすぐに手に入るんじゃよ」
「そうなのですか‥‥‥ところで、楓御料人様の旦那が、この城下に来るという噂は御存じですね」
「ああ、初めうちは信じられなかったが、どうも本当らしい」
「その事で頼みがあるのです」
「何じゃと? それと、おぬしらと、どう関係がある」銀左は鋭い目付きで四人を見回した。
「実は、楓御料人の旦那というのは、わたしの事なのです」
「何じゃ? おぬしが楓御料人様の旦那‥‥‥」
「はい」と太郎は頷いた。
「一体、これは、どういう事じゃ」銀左は改めて、四人の顔を見渡した。
太郎は今までのいきさつを簡単に話した。
「成程、そんな事があったのか‥‥‥おぬしが、ただ者ではないという事はわかっておったが、たまげたわ。おぬしが御料人様の旦那様だとはのう‥‥‥そこで、わしに頼みとは何じゃ?」
「実は、改めて城下に乗り込むために兵がいるのです」
「兵?」
「ええ、形だけでも揃えて城下に入らなければなりません」
「そりゃ、そうじゃのう。お屋形様の兄上になるわけじゃからのう」
「そこで、銀左殿に、二百五十人の兵を集めて欲しいのです。河原者で侍になりたい者、そして、見込みのありそうな者を二百五十人、集めて欲しいのです」
「二百五十人か‥‥‥いつまでにじゃ」
「十八日まで」
「明日から四日じゃな。ちょっと難しいのお。元手はあるのか」
「大丈夫です。銀左殿は人だけ集めてくれれば結構です。武器や鎧などは、すべて、こちらで用意します」
「わかった。とりあえず一人百文として、二十五貫文、用意してくれ」と銀左は言った。
「わかりました、三十貫文用意します。お願いします」
太郎は、金比羅坊と相談してやってくれ、と金比羅坊を銀左の屋敷に置いて来た。
そして、武器関係は、すべて、次郎吉に任せる事にして、次郎吉を小野屋に送った。
「それじゃあ、わしは馬を五十頭、集めるか」と夢庵は言って、次郎吉の後を追って小野屋に向かった。
太郎にはもうひとつ、やる事があった。それは、生野に行って銀山が本物かどうか確かめなくてはならなかった。明日、三人の弟子を連れて生野に向かい、十八日までに戻って来なければならなかった。
太郎は浦浪に帰って、うまく行った、と皆に報告し、三人の弟子たちには、明日、朝早く旅に出る事を伝え、別所屋敷に戻った。
25.銀山1
1
やけに風が強かった。
雨雲が物凄い速さで東の方に流れて行く。
昼頃まで、かなり強い雨が降っていたが、今はやんでいた。
四人の山伏が急ぎ足で、播磨と但馬の国境を越えようとしていた。
この辺りを真弓峠と言う。
峠を越えれば、山名氏の領国、但馬だった。
四人の山伏は太郎と三人の弟子たちだった。
四人は峠の手前から街道をそれて山の中に入った。
山伏は手形などなくても、どこの国へも行く事ができた。しかし、赤松氏の領国から敵の山名氏の領国に行くのだから、そう簡単に通してはくれないだろう。こんな所で、無駄な時間を食いたくはなかった。
山の中から街道を見下ろすと、峠を少し下りた辺りに関所が二つあった。赤松氏の関所と山名氏の関所で、どちらも、それ程、警戒が厳重でもなさそうだった。しかし、山名氏の方は峠を見下ろす小高い山の上に、城だか砦だかわからないが何かがあり、国境を守っていた。赤松氏の方も同じように山の上から睨みを効かしているのだろうが、ここからは見えなかった。とりあえず、どれだけの兵がいるのか、一応、調べた方がいいだろうと、四人はその山に登った。
山上には狼煙(ノロシ)台と小さな小屋が立っているだけだった。濠も掘ってないし、土塁も築いてない。戦闘の為の砦ではなく、ただの狼煙台のようだ。兵の数も五、六人という所だろう。この辺りは山が深いせいか、山名氏もあまり警戒していないようだった。
四人は山を下りると、目的地の生野に向かった。
生野は小さな村だった。山に囲まれた、ちょっとした平地にたんぼが広がり、粗末な家が処々にあるだけだった。その村を見下ろす北側の山の裾野にちょっとした屋敷があった。この辺りを領する地侍の屋敷らしいが、百姓に毛が生えた程度の小さな豪族のようだ。そして、山の上に、やはり、城だか砦だかが建っていた。
「一体、どこに銀の山があるんや」と八郎坊が回りの山を見回しながら言った。
「こいつは、捜すのに骨が折れそうだな」風光坊は杖を肩に担いで山を眺めていた。
「生野だけじゃなあ、どこの山だかわからんな」と探真坊も言った。
探真坊の足もようやく良くなっていた。しかし、長旅はまだ無理だったとみえて、足を少し引きずっていた。勿論、痛いとは一言も言わなかった。
「まず、あそこに登ってみるか」と太郎が砦のある山を指した。
「あそこに銀があるんですか」と八郎坊は山を見上げた。
「いや、銀はないな。ただ、この先、邪魔になる奴らがいる」
「やるんですか」と風光坊は言った。
「いや、ただ、どんな具合か見るだけだ」
四人は山に登った。山の上には濠もあり、土塁もあり、簡単な塀もあった。ここなら敵が攻めて来ても、何日かは持ちこたえる事はできるだろう。ただし、充分な兵力があればの話だが、見た所、十人もいないようだった。
この辺りは山名氏にとって、あまり重要視されていないようだ。ただ、敵国、播磨への入り口というだけで、こんな山の中はどうでもいいのだろう。太郎にとっては都合のいい事だった。
山から下りると太郎たちは河原に出て作戦を練った。
「さて、どこから捜すか」と太郎は弟子たちの顔を見回した。
「銀山ていうのは、やっぱり、光ってるんか」と八郎坊が真面目な顔をして聞いた。
「アホか。そんな山があったら、すぐに見つかっちまうだろ」と風光坊が八郎坊の肩を小突いた。
「そうだよな。今頃、来たって銀なんかあるわけないわな」
「という事は、一体、どんな山なんだろ」と探真坊は首を傾げた。
「誰か、銀がどういう風に山にあるのか知ってるか」と太郎は聞いた。
みんな首を振るだけで、知らないようだった。
「石の中に入ってるんじゃないのか」と探真坊が言った。
「石の中にあるのか」八郎坊が石ころを拾って眺めた。
「石というか、岩というか、その中にほんの少しづつ入っているんだ」
「ほんの少しか‥‥‥」と八郎坊はまだ石を眺めていた。
「少ししか取れないから高いんだろ」と風光坊も手近の石を手に取った。
「そうなると捜すのは大変な事だな」と探真坊は言った。
太郎は回りの山を見回していた。
「銀の事はわからんけど、金なら昔、取りに行った事がありますよ」と風光坊が手の中の石を眺めながら言った。
「なに、金を取りに行った」太郎は風光坊に聞いた。
「ええ、熊野にいた頃、金が出たって言うんで行ってみたんです」
「取れたんか」と八郎坊が聞いた。
「いや、取れん」
「その金が出たっていうのは、どんな所だった」と太郎は聞いた。
「それが、山の中の谷をずっと登って行った所でした」
「谷か‥‥‥」
「ええ、谷川をずっと、さかのぼって行って、岩に囲まれたような所でした」
「金も石の中にあるのか」と八郎坊は聞いた。
「いや、川の中にあるんだ。川の中の砂をすくうと、その中に砂金があるんだ」
「砂金も元は石の中にあるんだろう」と探真坊が言った。「石の中の金が長い間かかって崩れて砂になり、それが川の底に沈むんじゃないのか」
「多分、そうだろう」と太郎は頷いた。「金と銀は違うかも知れんが、とにかく、谷川に沿って登って行ってみるか」
四人は河原を上流の方に向かって歩いた。
しばらく行くと川が二つに分かれていた。もう、この辺りは山の中だった。途中までは川に沿って道があったが、ここまで来ると道もなく、人家もなかった。
「どっちだろう」と太郎が二つに分かれた川を見ながら言った。
左側が主流らしく川幅があった。
「こっちの方が、山の中に入って行くような気がするな」と風光坊が右側の支流を指しながら言った。
「おらも、こっちだと思うわ」と八郎坊も支流の方を見た。
「よし、まず、こっちを調べてから、この先に行こう」と太郎が言って四人は支流の方に入って行った。
支流はかなり深かった。
途中、岩に囲まれたような所に出たが、銀らしい物は見つからなかった。
さらに進むと、また、川が二つに分かれた。二つとも同じくらいの谷川で、どっちが本流なのかわからない。どっちに進むか迷ったが、そろそろ暗くなりそうだし、今日はここまでという事にして休む事にした。川の側に丁度いい平地もあった。
いつの間にか風も止み、青空が顔を出していた。
みんなで薪(タキギ)を拾って飯の支度をした。
火を囲み、風光坊が捕った鮎を食べながら四人は作戦を練った。
作戦を練ると言っても、今、どの辺りにいるのかもわからず、どの山を捜していいのかもわからず、ただ、運を天に任せるしかなかった。
「今日が十五日だ。十八日には、どうしても帰らなければならない。明日とあさっての二日間しかない。できれば、その二日間のうちに捜し出したい」と太郎は三人に言った。
「見つからなかったら、どうします」と風光坊は聞いた。
「また、出直しだ」
「たった二日じゃ難しいわ」と八郎坊は言った。
「足は大丈夫か」と太郎は探真坊に声をかけた。
「ええ、大丈夫です」と言いながらも探真坊は足をさすっていた。
「もう、痛くはないんか」八郎坊が心配そうに聞いた。
「ああ、特に痛みはないが、ちょっと、だるいんだ。それに、左足を庇っているせいか、右足がやけに凝っている」
「ゆっくり、休め」
「金比羅坊殿はうまく、やってるかな」と風光坊が言った。
「大丈夫だろ。あのお頭なら二百五十人位、すぐに集められる。そうだ、お前らに聞いておきたかったんだが、みんな、馬に乗れるか」
「俺は乗れる。がきの頃から馬と泳ぎだけはやらされた」と風光坊は言った。
「親父にか」
「ええ」
「成程な。探真坊と八郎坊はどうだ」
「子供の頃、乗った事はありますけど」と探真坊は頼りない声で答えた。
「じゃあ、大丈夫だな。八郎坊は?」
「牛なら乗った事あるけど、馬はないです。でも、同じようなもんやろ」
「どうしたんです、急に」と探真坊は聞いた。
「城下に乗り込む時に、お前たちに騎馬武者になって貰わなけりゃならんのでな」
「騎馬武者? ちゃんと鎧や兜をかぶってですか」
「勿論、そうだ」
「そいつは凄え。おらたちが騎馬武者か‥‥‥ええなあ」
「アホ、ただ、騎馬武者の格好をするだけだ」と風光坊は浮かれている八郎坊の肩をたたいた。
「格好だけでもええわ。みんなが、おらたちを見てるんやろ。気分ええわ」
「いや。多分、そのまま騎馬武者になってもらう事になるだろう」と太郎は言った。
「えっ、そのまま騎馬武者に?」
「ああ、俺が赤松家の武将になれば、お前たちは重要な家臣という事になる」
「おらたちが侍になるんですか」
「そうだ」
「山伏はやめるんですか」と探真坊が聞いた。
「やめるわけじゃないが、しばらくは武士になる。しばらくの間は成り行きに任せてみようと思っている。武士の世界は堅苦しくて、あまり好きではないがな、しょうがない」
「おらたちが武士だってよ」と八郎坊が風光坊の肩をつついた。
「それも、ただの侍じゃないぜ。騎馬武者だぜ」
「騎馬武者っていうのは家来がいるんやろ」
「そうだ、少なくても四、五人はいるだろ」
「家来か、おらに家来ができるのか‥‥‥まるで、夢みてえや」
「夢みるのはいいが、お前、みんなが見ている前で馬から落ちるなよ」
「落ちるか」と八郎坊は言ったが、あまり自信はなかった。
太郎の三人の弟子たちは、それぞれ、武士になる夢を見ながら眠りに入った。
太郎は銀山が見つかる事を祈りながら横になった。
朝、まだ日が昇る前だった。
早起きの鳥たちは、すでに鳴きながら飛び回っていたが、辺りは薄暗く、川のせせらぎが子守歌のように心地よく流れていた。
太郎は目を覚まし、側にある杖をつかんだ。何かが近づいて来るのを感じていた。
──こんな朝早くから、一体、何者か。
いや、人間ではないかもしれない。
──熊か‥‥‥鹿か‥‥‥猪か‥‥‥
太郎はじっとしたまま耳をこらした。かなり側まで近づいて来るのがわかった。
やがて、その近づいて来た物が何かを小声で話すのが聞こえた。
人間だった。しかし、その話している言葉は聞いた事もない言葉で、まったく何を話しているのかわからなかった。
太郎は声のする方に向くと素早く立ち上がり、杖を構えた。
太郎が立ち上がるのと同時に、風光坊、探真坊、八郎坊が一斉に立ち上がった。なかなか頼もしい弟子たちだった。みんな、異常に気づいていたらしい。
敵は八人いた。
八人は太郎たちを囲んで短い槍を構えていた。見るからに山の連中だった。毛皮や革を身に付け、弓を背に負い、腰には刀の他に斧(オノ)や鉈(ナタ)を差している。
「何者じゃ」と頭らしい背の高い男が言った。
「山伏だ」と太郎は言った。
「見ればわかるわ。どこの山伏じゃと聞いておるんじゃ」と頭らしい男の隣にいる、ずんぐりむっくりとした目付きの悪い男が言った。
「笠形山だ」と太郎は答えた。
「笠形山? 播磨じゃないか。播磨の山伏が何の用でここにいるんだい」と、また別の者が言った。
それは女の声だった。男の格好をしているので、てっきり男だと思っていたが、よく見れば、やはり女だった。
「宝を捜している」と太郎はその女に言った。
「宝? ふざけるな!」と、ずんぐりむっくりが怒鳴った。
「ふざけてはいない。赤松性具入道が隠した宝を捜している」
「赤松性具入道だと。寝ぼけた事を言うな。性具入道など、すでに、この世におらんわ」
「ああ、この世にはおらん。だが、死ぬ前に、この辺りに宝を隠したはずなんだ。おぬしら、知らんか」
「そんな物は知らん。知らんが、ここから先に行かせるわけにはいかん」と頭は言った。
「なぜだ」
「わしらの山だからじゃ」
「おぬしらの山?」
「そうじゃ。ここから先は誰も入れるわけにはいかんのじゃ。さっさと引き上げてもらおうか」と、ずんぐりむっくりが睨んだ。
「おぬしら、いつからこの山にいるんだ」と太郎は聞いた。
「生まれた時からじゃ」
「ほう、この山で何をしておる」
「狩りをしたり、炭を焼いたり、米を作ったり、色んな事をしておるわ」
「そうか‥‥‥俺たちも簡単に引き返すわけにもいかんのだよ。どうしても、ここから先へは行けんのか」
「行けないよ。帰んな」と女が手を振った。
「そいつは弱ったな、争い事は避けたいのだがな」
「わしらもじゃ‥‥‥やれ」と頭は命じた。
頭と、その隣にいる女以外の者、六人が槍を構えたまま、太郎たちを囲むように近づいて来た。
「殺すなよ」と太郎は言った。
「はいな」と八郎坊が、ひょうきんな声を出した。
普通、山伏は錫杖を持っているが、師匠の太郎が錫杖の代わりに五尺の棒を杖にして持ち歩いているため、皆、師匠に倣えと五尺の棒を持っていた。四人は五尺の棒で槍を相手にした。
勝負は簡単についた。
太郎が二人を倒し、それぞれが一人づつ倒すと、残った一人はためらったまま、かかっては来なかった。
「どうする。まだ、やるか」と太郎は頭に言った。
「わしが相手じゃ」と頭は槍を捨てて刀を抜いた。
「待って!」と女が止めた。
女は頭に何かを話した。そして、頭も女に何かを話しているが、何を言っているのか、まったくわからなかった。聞いた事のない言葉だった。前に師匠の風眼坊から、猟師たちは山に入ると普通の者にはわからない山言葉を使うと聞いた事があったが、これが山言葉なのか、と太郎は思った。
話がついたのか、頭は刀を鞘に納めると、「ついて来い」と言った。
「どこに行く」と太郎は聞いた。
「長老様の所じゃ」
どこに連れて行くのかわからなかったが、この山に長く住んでいる奴らなら銀の事もわかるかもしれない、と太郎は黙ってついて行く事にした。
女と、もう一人の男は倒れている仲間たちを起こした。
太郎たちは八人を先に行かせ、その後をついて行った。彼らは二股に分かれている谷川の左側をどんどん登って行った。
狭くて暗い谷川を小さな滝をいくつも乗り越えて登って行くと、やがて視界が開け、広い河原へと出た。河原の両側には、たんぼもあり稲の穂が稔っていた。たんぼの奥の方には小屋がいくつも並び、畑もできている。
すでに日は昇り、稲穂が朝日を浴びて輝いていた。
河原では子供たちが遊び、川で洗濯している女や畑で働いている女たちがいた。こんな山の奥に、こんな村があるとは想像もしていない事だった。
太郎たちは村の中程にある、ちょっと大きめな作りの小屋に案内された。
子供や女たちが珍しがって近寄って来た。子供たちや女たちの言葉は普通の言葉だった。
小屋の中は半分が土間のままで、半分に筵が敷いてあった。隅の方に祭壇のような物があり、その祭壇の前に一人の老人が座り込んで何かをしていた。
お香を焚いているようだった。甘い香りが小屋の中に漂っていた。そして、反対側の竃(カマド)の所に若い娘が朝飯の支度をしていた。
「長老様、お客様ですよ」と男の格好をした女が言った。
「なに、客じゃと」と長老と呼ばれる老人はゆっくりと振り向いた。
白髪に白髭を伸ばした痩せた老人だった。毛皮の袖なしを着て、鋭い目付きで太郎たち四人を眺め、「どうして、連れて来た」と頭に聞いた。
「それが‥‥‥」と頭は口ごもった。
「みんな、やられたのよ」と男の格好をした女が言った。
「ふん、情けない奴らじゃ」
「でも、強い事は確かだわ」
「まあ、いい」と長老は男の格好をした女に言ってから、太郎たちに目を移し、「何の用で、この山に来たのかは知らんが、この山には何もない」と言って首を振った。「まあ、飯でも食って帰ってくれ」
長老は太郎たちに背を向けて祭壇に向かった。
「おちい、この人たちに飯の用意をしてやれ」長老は背を向けたまま言った。
竃の所にいた娘が返事をした。
「長老様、この人たち、赤松性具入道のお宝を捜しているとか言ってたわ」と男の格好をした女が言うと長老の肩が揺れた。
長老は振り返って、太郎を見つめたが、その顔色が変わっていた。
「赤松性具入道の宝?」長老は驚きを隠そうとでもするかのように、努めて落ち着いた声で言った。
「ええ、確か、そう言ってたわ。長老様、前に赤松性具入道の事、何か言ってたでしょ。それで、一応、連れて来たのよ」
「赤松性具入道の宝‥‥‥それは本当か」と長老は太郎に聞いた。
「本当です。それを捜しに来ました」
「誰の差し金じゃ」
「今のお屋形様です」
「赤松のお屋形じゃな」
「そうです」
「お屋形から、どういう風に聞かされた」
「ただ、生野の山のどこかに宝が埋まっているから見つけて来いと」
「その宝とは何じゃ」
「わかりません」と太郎は答えた。今の時点で本当の事を言う訳にはいかなかった。「ところで、あなたは赤松性具入道を御存じなのですか」
「いや、知らん。知るわけないじゃろう」
「そうですか‥‥‥その宝の事ですが、聞いた事はありますか」
「知らん。第一、赤松がどうして敵国に宝を隠すんじゃ」
「さあ、わかりません」
「おぬしら、騙されておるんじゃろう。宝捜しなんかやめて、さっさと播磨に帰った方がいい」
「そうかもしれませんが、もしかしたら、その宝というのは性具入道が隠したのではなくて、初めから、ここにあるのではないですか。それをたまたま、性具入道が見つけ出した。しかし、性具入道にはそれを持ち出す時間がなかった」
「ふん。まあ、いい。せっかく、ここまで来たんじゃ。ゆっくりして行くがいい。この地に客が来るなんて何年振りの事かのう。まあ、下界の話でも聞かせてくれ」
長老は頭と男の格好をした女を下がらせると、太郎たちを筵の上に上げた。
「おぬしら、どこの行者じゃ」
「笠形山です」
「ほう、笠形山のう。見たところ若いようじゃが、京で戦の始まった応仁元年には、どこにおった」
「近江です。近江の飯道山に隠れていました」
「近江か‥‥‥」と長老は少し考えた後に、「戦が始まって赤松勢と一緒に播磨に攻めて来たわけじゃな」と言った。
「はい」と太郎は頷いた。
「今、若いお屋形は置塩城下におるのか」
「いえ、いません。美作に行っています」
「まだ、帰って来んのか」
「実は、お屋形様に頼まれたのではなくて、別所加賀守に頼まれて、宝を捜しに来ました」
「別所加賀守?」
「御存じないですか」
「別所肥前守(ヒゼンノカミ)の伜かのう」
「多分、そうでしょう。赤松家の事に詳しいようですが、あなたは一体、何者ですか」
太郎が長老に質問をした時、おちい、という娘が雑炊(ゾウスイ)を持って来た。
「どうぞ、召し上がれ」と長老は勧めた。
太郎たちが、ためらっていると、「心配せんでもいい。毒など入っておらん」と長老は自ら毒味をした。
長老に勧められるまま、太郎たちは雑炊を食べた。結局、太郎の質問は、はぐらかされてしまった。
食事が済むと急に気が変わったのか、「おぬしたちも、このままでは帰れんじゃろう。今日、一日、この山の中を捜してみるがいい。何も出て来んとは思うがの、うちの若い者に案内させる」と長老は言った。
案内役を命じられたのは、太郎たちにやられた四人の若者で、小太郎、小三郎、助五郎、助六郎という名前だった。小太郎は三十前後の男で、今朝の戦いの時、仲間がやられて戦うのをためらっていた男だった。後の三人は太郎の弟子たちと同じ位の年だった。
彼らの話によると、長老と呼ばれる老人は鬼山左京大夫祐康(キノヤマサキョウダユウスケヤス)という大袈裟な名前を持ち、ここでは一番偉く、長老の命令には絶対、服従しなければならないと言う。
この河原には大きく分けて三つの家族が住んでいた。
三十数年前、初めて、この山に入って来たのが、長老、鬼山左京大夫と鬼山内蔵助(クラノスケ)と長老の息子、小五郎の三人だった。その三人が子孫を増やして、今のような村になったと言う。
内蔵助は長老と同じ名字を名乗っているが、親戚でも何でもなく、すでに十年前に亡くなっていた。
彼ら三人の子供たちは二十一人もいて、孫たちは二十七人もいた。他にもいたが、小さいうちに亡くなったり、二人の子供は応仁元年、戦が始まった時、出て行ったまま行方がわからないと言う。長老たちはもう死んだと思っているが、子供たちはきっと、そのうちに帰って来ると信じていた。
字は違うが、城山城のある亀山と同じ名字を持っているというのが、何となく気に掛かった。四人にそれとなく、播磨に亀山というのがあるが、何か関係あるのか、と聞いてみたが知らないようだった。
太郎たちは四人の案内で、一日中、山の中を歩き回った。
あの河原に住み着いている者たちの正体がわからないため、宝というのが銀だとは言えなかった。もしかしたら、山名氏に関係している者たちかもしれない。そうだとすると、銀の事を喋るのはまずかった。眠っている銀を山名氏に取られてしまう事になる。そんな事になったら、今までの苦労が水の泡となってしまう。
どうして彼らがあそこに住み着いたのか、理由が知りたかったが、あの長老が素直に話してくれるとは思えなかった。
夕方、何の成果も得られず、河原に戻って来た太郎たちは、長老に、今晩、ちょっとした宴を開くから、もう少し、のんびりしていてくれ、と言われた。おかしな事だった。今朝は早く出て行けと言ったくせに、今度は宴を開くから、それに出てくれと言う。長老が何をたくらんでいるのかわからなかったが、太郎はもう少し、長老に付き合ってみようと思った。どうせ、今から山を下りても途中で日が暮れてしまう。今晩はここに世話になり、何とか長老たちの正体をつかもうと思った。
太郎は河原に出て、遊んでいる子供たちを見ていた。弟子の三人は娘や子供たちと一緒になって遊んでいた。
あの長老、何かを隠しているな、と太郎は思っていた。性具入道を知っている事は確かだが、味方なのか敵なのか、わからなかった。
「おぬし、赤松家の山伏だそうじゃのう」と誰かが後ろから声を掛けた。
振り向くと、斧をかついだ男が立っていた。五十年配の男で、長老の息子、小五郎に違いないと思った。
「赤松家の者だという証(アカシ)はあるか」と小五郎は聞いた。
「そんな物は別にないが‥‥‥」
「それはうまくないのう」
「どうしてです。どうしてうまくないのです」
「どうしてでもじゃ」
「あなたたちは赤松家と関係あるのですか」
「わしたちか。わしたちは別に関係ないのう」
「それじゃあ、山名家と関係あるんですか」
「山名家? 山名家とも関係ないのう。わしらは、ただ、この山の中で、ひっそり暮らしておるだけじゃ。赤松だろうと山名だろうと関係のない事じゃわ」
「そうですか‥‥‥」
「それより、おぬしらこそ、山名の山伏じゃないのか」
「山名の山伏なら、但馬にいて、赤松を名乗りはしないでしょう」
「それもそうじゃのう」
「ところで、どうして、今頃になって赤松性具入道の宝なんぞ捜しておるんじゃ。性具入道が死んでから、もう三十年も経っておる。おぬしはまだ生まれてもおらんじゃろう」
「ええ、生まれていません」
「なぜじゃ」
「今頃になって、宝の事がわかったのです」
「なぜ」
「それは、その秘密というのが刀の中に隠してあったのです。性具入道は城山城落城の時、宝の秘密を四振りの刀に託しました。その四振りの刀を持っていたのは、入道の長男、彦次郎と弟の伊予守、そして、同じく弟の左馬助と甥の彦五郎の四人でした。その四振りの刀が偶然にも今年になって、赤松家に戻って来ました。その刀の柄の中に謎の言葉が隠してあって、その言葉の謎を解いたら、ここ、生野の山と答えが出たわけです」
「成程のう」と言ったのは小五郎ではなかった。
いつの間にか、小五郎の後ろに長老の左京大夫が立っていた。
「今の話は本当じゃな」と長老は聞いた。
「ええ、本当の事です」
太郎は長老と小五郎の反応を見た。よくわからなかった。敵なのか味方なのか、しっぽを出さなかった。
「用意ができた。さあ、中に入って下され」と長老は言うと、小五郎を連れて長老の小屋の隣にある小屋の方に入って行った。
太郎は弟子たちを呼ぶと、長老の小屋に入った。
筵の上に綺麗な蓙(ゴザ)を敷き、料理が山のように並べてあった。酒の入った瓶子(ヘイジ)も並んでいる。
「これは、一体、どういうわけです」と太郎は側にいた女に聞いた。
「わかりません、長老様の命令です」
「客が来ると、いつも、こんな風に歓迎するのですか」と太郎は聞いた。
「いいえ、わたしが知っている限りでは、こんな事をするのは初めてです。もっとも、お客がここに来た事も初めてだけど」
「ここにはお客が来ないという事ですか」
「来ないのではなくて、来られないのです」
「どうしてです」
「わたしたちの山だからです」
太郎は、どうして、と聞こうとしたがやめた。どうせ、まともな答えは返って来そうもなかった。
やがて、長老と小五郎が息子たちを引き連れて入って来た。
太郎たちは息子たちと一緒に座らせられた。
長老はゆっくりと皆の顔を見回した。
皆、長老の方を向いて、長老が話し出すのを黙って待っていた。
正面の上座に長老と小五郎の二人が座り、左側に太郎、八郎坊、探真坊、風光坊、そして、小三郎、助七郎が座り、右側には銀太、助太郎、小太郎、小次郎、助四郎、助五郎、助六郎が座った。
太郎の正面に座った銀太というのは、初めて会った時、頭だと思った男だった。子供たちの中では最年長らしい。そして、長老の後ろに、おせんとおさえという老婆が二人と、おちいとおまるとおすぎという若い娘が三人控えていた。この村の男衆は全員集まっているようだった。女衆は子供たちの世話で忙しいのだろう、この場にはいなかった。
「今朝、お山の神様のお告げがあった」と長老は半ば目を閉じてまま言った。「お山の神様は、今日、待ち人来たりとお告げになられた。わしは嘘じゃろうと思った。ここに客など来るはずがなかった。もし、来たとしても、銀太たちに追い払われてしまうじゃろうと思った。しかし、お山の神様のお告げ通り、客人は来た。わしはすぐに帰すつもりじゃった。しかし、お山の神様のお告げが気になって、客人を引き留めた。そして、また、お山の神様にお伺いを立てた。そしたら、望み叶うと出た。わしはお山の神様のお告げを信じる事にした」
長老は静かに目を開けると皆を見回した。
皆は黙って、長老の話を聞いていた。
長老は一通り皆を見回し、視線は太郎の所で止まった。
「お客人、さっき、ちらっと聞いたんじゃが、謎の言葉を解いたら、赤松性具入道殿の宝が、この山にあると出た、と言っておったが、その謎の言葉というのは、一体、どんな物じゃな」
長老は赤松性具入道殿と言った。今朝、会った時は呼び捨てだったが、今は、殿を付けている。ちょっとした事だったが、太郎には気になった。
「百韻の連歌です」と太郎は答えた。
「誰のじゃ」
「性具入道殿と彦次郎殿と彦五郎殿と伊予守殿と左馬助殿の五人です」
長老は頷くと、しばらく目を閉じていた。
回りの者たちは黙って、長老を見つめている。
やがて、長老は目を開けると、「山陰に赤松の葉は枯れにける‥‥‥じゃな」と言った。
それには太郎の方が驚いた。この長老の口から、あの連歌の発句(ホック)が出て来るとは、まったく、夢にも思わなかった。
「三浦が庵の十三月夜‥‥‥ですね」太郎は発句に続く脇句を言った。
「虫の音に夜も更け行く草枕」長老は第三句を続けて言うと、笑った。
その後を続けたかったが、太郎は覚えていなかった。
「そして、その連歌には、どんな言葉が隠してあったのじゃ」と長老は太郎を見つめた。
長老が、どうして、あの連歌を知っているのかわからなかったが、あの歌を知っている限り、ただ者ではない事は確かだった。偉そうな名前の通り、かつては、性具入道の側近くに仕えていた者かも知れない。太郎は長老を信じる事にした。
「生野に白銀(シロガネ)の山あり‥‥‥」と太郎は言った。
「確かに、その通りじゃ」と長老は嬉しそうに言った。
「長老殿、その連歌を見た事あるのですか」
長老は頷いた。
「嘉吉元年の七月、坂本城において、お屋形殿とお会いした時、見させて頂いた‥‥‥」
長老は、そこで言葉を止めると皆を見回した。
「皆の者、間違いないぞ。喜んでくれ。今までずっと待ちに待っていたお人が、ようやく現れたんじゃ」と長老は皆に言った。
皆は一斉に歓声を挙げた。
太郎たちには何がなんだかわからなかった。わからなかったが、この人たちが敵ではないと言う事はわかった。
「今日は祝いの日じゃ。みんな、大いに飲んでくれ」
皆、大喜びしていた。
後ろに控えていた、おせんとおさえの二人の老婆は涙を流しながら喜んでいた。
ようやく、場の雰囲気が落ち着いた頃、太郎は長老に聞いた。
「長老殿、あなたは一体、何者なのですか」
「わしか、わしは山師じゃ。性具入道殿に雇われて、金山や銀山を捜していた山師じゃ。ようやく、ここの銀山を捜し当てたが、お屋形殿は亡くなってしまわれた。お屋形殿は最後に言った。わしは今回の戦で死ぬじゃろう。赤松家も滅びるじゃろう。しかし、いつの日か、絶対に赤松家は再興されるはずじゃ。赤松家が再興されてから、どの位の月日が経つかわからんが、いつの日か、きっと、赤松家の者がおぬしを訪ねて行くじゃろう。その日まで銀山を守り抜いてくれ‥‥‥そう、お屋形殿は言ったんじゃ‥‥‥」
「そして、守り通したわけですね」
「そうじゃ」
長老の左京大夫は酒を飲みながら身の上話を語り始めた。
左京大夫は日本人ではなかった。明(ミン)の国(中国)の人だった。山師として、二十二歳の時、日本に来て、赤松性具入道に仕えた。左京大夫の他、九人の明人が一緒だった。
当時、赤松家は朝鮮と貿易していた。朝鮮に渡った性具入道の家臣が、最新の技術を持った山師を見つけ、彼らと会って話をまとめて日本に連れて来たのだった。
彼ら十人は性具入道の命令によって播磨、備前、美作の山々を巡り、金や銀を捜し回った。城山城の抜け穴を掘ったのも彼らであった。
当時、彼らは日本の山師たちより、かなり進んだ技術を持っていた。性具入道は、その技術が他国に漏れる事を恐れて、彼らの存在を内密にしていた。また、彼らも自分たちの技術を日本人に教えたがらなかった。技術を盗まれてしまえば、自分たちの価値がなくなってしまう。価値がなくなれば、お払い箱にされてしまう。遠い異国の地で、お払い箱にされたらかなわなかった。
山を掘り、鉱石を砕き、炭を燃やし、たたらを使って製錬し、金や銀を作るのは、かなりの重労働だった。山を掘ったり、鉱石を運んだり、樹を切って炭を作るのは日本人の人足を使ったが、製錬する所は彼らの他は立ち入り禁止だった。
日本に来て二年目に左京大夫の親方が亡くなった。三年目にも二人亡くなり、四年、五年と経つうちに、仲間の者が次々に死んで行った。日本に来て二十年が経ち、とうとう二人だけとなっていた。鬼山左京大夫と鬼山内蔵助の二人だった。
鬼山とは、太郎の睨んだ通り、城山城のある亀山の事だった。それと、山の中で、たたらを使って鉄を作っていた者たちを、古くから鬼と呼んでいたため、亀を鬼に置き換えて、性具入道が彼らに付けた名字だった。左京大夫と言うのは、性具が入道になる前の官位名で、性具が入道になる時、長老に与えたものだった。
左京大夫と内蔵助は、性具入道の命令で新しい山を捜しに出掛けた。幸い、左京大夫の息子、小五郎が十八歳になっていたので一緒に連れて行った。
三年の間、播磨、備前、美作の山々を歩き回り、やっとの事で見つけたのが、播磨と但馬の国境近くの生野の山だった。生野の山の中で、かなり大きな銀の鉱脈を見つける事ができた。
左京大夫は二人を山に残したまま、入道に知らせるために京に向かった。ところが、その途中、京で起きた将軍暗殺事件の事を知った。そして、入道が今、坂本城で戦の準備をしていると聞き、真っすぐに坂本城に向かった。
性具入道は左京大夫の報告を聞いて喜んでくれた。よくやってくれた。わしはもうすぐ死ぬが、いつの日か、赤松家の者が、その山に左京大夫を訪ねて行くだろう。その日まで山を守ってくれと砂金を一袋渡した。左京大夫は砂金を抱え、入道の顔と言葉を脳裏に焼き付けながら山に帰った。
やがて、坂本城は落ち、城山城も落ち、性具入道は切腹、赤松氏は滅びた。赤松氏の領国は山名氏のものとなって行った。
三人はずっと山奥に隠れていた。ようやく、赤松の残党狩りも下火となった頃、三人は山を下りて山名氏の本拠地、出石の城下に行き、若い娘を三人買って来た。その娘が三人の妻となり、子供を何人も生み、今のように発展して行ったのだった。
いつの日かはわからないが、赤松家の者が来るまで、この山を守らなければならない。それには子供を作らなければならなかった。嘉吉の変のあった年、左京大夫は四十五歳になっていた。先がそう長いわけではなかった。それに、赤松家が再興されるのも時がかかりそうだった。二十歳の息子はいても、女っ気なしで長い間、山にいられるわけはない。
買って来た三人の娘たちはよく働き、丈夫な子を何人も産んでくれた。
そして、三十三年間、守り通した甲斐があって、ようやく、待ちに待っていた赤松家の者が、今朝、やって来たのだった。
子供たちはこの山に銀が眠っているという事は聞いて知っていたが、まだ、製錬の技術は知らなかった。今、その技術を知っているのは、左京大夫と小五郎の二人だけだった。この時点で、その最新の技術『灰吹き法』を知っていたのは、日本国内で、この二人だけと言ってよかった。
左京大夫は語り終わると、「待っていた甲斐があった」と目に涙を溜めながら何度も頷いていた。左京大夫は七十八歳になっていた。二十二歳の若さで異郷の地に来て、五十六年の歳月が流れていた。
「一体、どこに銀の山があるんや」と八郎坊が回りの山を見回しながら言った。
「こいつは、捜すのに骨が折れそうだな」風光坊は杖を肩に担いで山を眺めていた。
「生野だけじゃなあ、どこの山だかわからんな」と探真坊も言った。
探真坊の足もようやく良くなっていた。しかし、長旅はまだ無理だったとみえて、足を少し引きずっていた。勿論、痛いとは一言も言わなかった。
「まず、あそこに登ってみるか」と太郎が砦のある山を指した。
「あそこに銀があるんですか」と八郎坊は山を見上げた。
「いや、銀はないな。ただ、この先、邪魔になる奴らがいる」
「やるんですか」と風光坊は言った。
「いや、ただ、どんな具合か見るだけだ」
四人は山に登った。山の上には濠もあり、土塁もあり、簡単な塀もあった。ここなら敵が攻めて来ても、何日かは持ちこたえる事はできるだろう。ただし、充分な兵力があればの話だが、見た所、十人もいないようだった。
この辺りは山名氏にとって、あまり重要視されていないようだ。ただ、敵国、播磨への入り口というだけで、こんな山の中はどうでもいいのだろう。太郎にとっては都合のいい事だった。
山から下りると太郎たちは河原に出て作戦を練った。
「さて、どこから捜すか」と太郎は弟子たちの顔を見回した。
「銀山ていうのは、やっぱり、光ってるんか」と八郎坊が真面目な顔をして聞いた。
「アホか。そんな山があったら、すぐに見つかっちまうだろ」と風光坊が八郎坊の肩を小突いた。
「そうだよな。今頃、来たって銀なんかあるわけないわな」
「という事は、一体、どんな山なんだろ」と探真坊は首を傾げた。
「誰か、銀がどういう風に山にあるのか知ってるか」と太郎は聞いた。
みんな首を振るだけで、知らないようだった。
「石の中に入ってるんじゃないのか」と探真坊が言った。
「石の中にあるのか」八郎坊が石ころを拾って眺めた。
「石というか、岩というか、その中にほんの少しづつ入っているんだ」
「ほんの少しか‥‥‥」と八郎坊はまだ石を眺めていた。
「少ししか取れないから高いんだろ」と風光坊も手近の石を手に取った。
「そうなると捜すのは大変な事だな」と探真坊は言った。
太郎は回りの山を見回していた。
「銀の事はわからんけど、金なら昔、取りに行った事がありますよ」と風光坊が手の中の石を眺めながら言った。
「なに、金を取りに行った」太郎は風光坊に聞いた。
「ええ、熊野にいた頃、金が出たって言うんで行ってみたんです」
「取れたんか」と八郎坊が聞いた。
「いや、取れん」
「その金が出たっていうのは、どんな所だった」と太郎は聞いた。
「それが、山の中の谷をずっと登って行った所でした」
「谷か‥‥‥」
「ええ、谷川をずっと、さかのぼって行って、岩に囲まれたような所でした」
「金も石の中にあるのか」と八郎坊は聞いた。
「いや、川の中にあるんだ。川の中の砂をすくうと、その中に砂金があるんだ」
「砂金も元は石の中にあるんだろう」と探真坊が言った。「石の中の金が長い間かかって崩れて砂になり、それが川の底に沈むんじゃないのか」
「多分、そうだろう」と太郎は頷いた。「金と銀は違うかも知れんが、とにかく、谷川に沿って登って行ってみるか」
四人は河原を上流の方に向かって歩いた。
しばらく行くと川が二つに分かれていた。もう、この辺りは山の中だった。途中までは川に沿って道があったが、ここまで来ると道もなく、人家もなかった。
「どっちだろう」と太郎が二つに分かれた川を見ながら言った。
左側が主流らしく川幅があった。
「こっちの方が、山の中に入って行くような気がするな」と風光坊が右側の支流を指しながら言った。
「おらも、こっちだと思うわ」と八郎坊も支流の方を見た。
「よし、まず、こっちを調べてから、この先に行こう」と太郎が言って四人は支流の方に入って行った。
支流はかなり深かった。
途中、岩に囲まれたような所に出たが、銀らしい物は見つからなかった。
さらに進むと、また、川が二つに分かれた。二つとも同じくらいの谷川で、どっちが本流なのかわからない。どっちに進むか迷ったが、そろそろ暗くなりそうだし、今日はここまでという事にして休む事にした。川の側に丁度いい平地もあった。
いつの間にか風も止み、青空が顔を出していた。
みんなで薪(タキギ)を拾って飯の支度をした。
火を囲み、風光坊が捕った鮎を食べながら四人は作戦を練った。
作戦を練ると言っても、今、どの辺りにいるのかもわからず、どの山を捜していいのかもわからず、ただ、運を天に任せるしかなかった。
「今日が十五日だ。十八日には、どうしても帰らなければならない。明日とあさっての二日間しかない。できれば、その二日間のうちに捜し出したい」と太郎は三人に言った。
「見つからなかったら、どうします」と風光坊は聞いた。
「また、出直しだ」
「たった二日じゃ難しいわ」と八郎坊は言った。
「足は大丈夫か」と太郎は探真坊に声をかけた。
「ええ、大丈夫です」と言いながらも探真坊は足をさすっていた。
「もう、痛くはないんか」八郎坊が心配そうに聞いた。
「ああ、特に痛みはないが、ちょっと、だるいんだ。それに、左足を庇っているせいか、右足がやけに凝っている」
「ゆっくり、休め」
「金比羅坊殿はうまく、やってるかな」と風光坊が言った。
「大丈夫だろ。あのお頭なら二百五十人位、すぐに集められる。そうだ、お前らに聞いておきたかったんだが、みんな、馬に乗れるか」
「俺は乗れる。がきの頃から馬と泳ぎだけはやらされた」と風光坊は言った。
「親父にか」
「ええ」
「成程な。探真坊と八郎坊はどうだ」
「子供の頃、乗った事はありますけど」と探真坊は頼りない声で答えた。
「じゃあ、大丈夫だな。八郎坊は?」
「牛なら乗った事あるけど、馬はないです。でも、同じようなもんやろ」
「どうしたんです、急に」と探真坊は聞いた。
「城下に乗り込む時に、お前たちに騎馬武者になって貰わなけりゃならんのでな」
「騎馬武者? ちゃんと鎧や兜をかぶってですか」
「勿論、そうだ」
「そいつは凄え。おらたちが騎馬武者か‥‥‥ええなあ」
「アホ、ただ、騎馬武者の格好をするだけだ」と風光坊は浮かれている八郎坊の肩をたたいた。
「格好だけでもええわ。みんなが、おらたちを見てるんやろ。気分ええわ」
「いや。多分、そのまま騎馬武者になってもらう事になるだろう」と太郎は言った。
「えっ、そのまま騎馬武者に?」
「ああ、俺が赤松家の武将になれば、お前たちは重要な家臣という事になる」
「おらたちが侍になるんですか」
「そうだ」
「山伏はやめるんですか」と探真坊が聞いた。
「やめるわけじゃないが、しばらくは武士になる。しばらくの間は成り行きに任せてみようと思っている。武士の世界は堅苦しくて、あまり好きではないがな、しょうがない」
「おらたちが武士だってよ」と八郎坊が風光坊の肩をつついた。
「それも、ただの侍じゃないぜ。騎馬武者だぜ」
「騎馬武者っていうのは家来がいるんやろ」
「そうだ、少なくても四、五人はいるだろ」
「家来か、おらに家来ができるのか‥‥‥まるで、夢みてえや」
「夢みるのはいいが、お前、みんなが見ている前で馬から落ちるなよ」
「落ちるか」と八郎坊は言ったが、あまり自信はなかった。
太郎の三人の弟子たちは、それぞれ、武士になる夢を見ながら眠りに入った。
太郎は銀山が見つかる事を祈りながら横になった。
2
朝、まだ日が昇る前だった。
早起きの鳥たちは、すでに鳴きながら飛び回っていたが、辺りは薄暗く、川のせせらぎが子守歌のように心地よく流れていた。
太郎は目を覚まし、側にある杖をつかんだ。何かが近づいて来るのを感じていた。
──こんな朝早くから、一体、何者か。
いや、人間ではないかもしれない。
──熊か‥‥‥鹿か‥‥‥猪か‥‥‥
太郎はじっとしたまま耳をこらした。かなり側まで近づいて来るのがわかった。
やがて、その近づいて来た物が何かを小声で話すのが聞こえた。
人間だった。しかし、その話している言葉は聞いた事もない言葉で、まったく何を話しているのかわからなかった。
太郎は声のする方に向くと素早く立ち上がり、杖を構えた。
太郎が立ち上がるのと同時に、風光坊、探真坊、八郎坊が一斉に立ち上がった。なかなか頼もしい弟子たちだった。みんな、異常に気づいていたらしい。
敵は八人いた。
八人は太郎たちを囲んで短い槍を構えていた。見るからに山の連中だった。毛皮や革を身に付け、弓を背に負い、腰には刀の他に斧(オノ)や鉈(ナタ)を差している。
「何者じゃ」と頭らしい背の高い男が言った。
「山伏だ」と太郎は言った。
「見ればわかるわ。どこの山伏じゃと聞いておるんじゃ」と頭らしい男の隣にいる、ずんぐりむっくりとした目付きの悪い男が言った。
「笠形山だ」と太郎は答えた。
「笠形山? 播磨じゃないか。播磨の山伏が何の用でここにいるんだい」と、また別の者が言った。
それは女の声だった。男の格好をしているので、てっきり男だと思っていたが、よく見れば、やはり女だった。
「宝を捜している」と太郎はその女に言った。
「宝? ふざけるな!」と、ずんぐりむっくりが怒鳴った。
「ふざけてはいない。赤松性具入道が隠した宝を捜している」
「赤松性具入道だと。寝ぼけた事を言うな。性具入道など、すでに、この世におらんわ」
「ああ、この世にはおらん。だが、死ぬ前に、この辺りに宝を隠したはずなんだ。おぬしら、知らんか」
「そんな物は知らん。知らんが、ここから先に行かせるわけにはいかん」と頭は言った。
「なぜだ」
「わしらの山だからじゃ」
「おぬしらの山?」
「そうじゃ。ここから先は誰も入れるわけにはいかんのじゃ。さっさと引き上げてもらおうか」と、ずんぐりむっくりが睨んだ。
「おぬしら、いつからこの山にいるんだ」と太郎は聞いた。
「生まれた時からじゃ」
「ほう、この山で何をしておる」
「狩りをしたり、炭を焼いたり、米を作ったり、色んな事をしておるわ」
「そうか‥‥‥俺たちも簡単に引き返すわけにもいかんのだよ。どうしても、ここから先へは行けんのか」
「行けないよ。帰んな」と女が手を振った。
「そいつは弱ったな、争い事は避けたいのだがな」
「わしらもじゃ‥‥‥やれ」と頭は命じた。
頭と、その隣にいる女以外の者、六人が槍を構えたまま、太郎たちを囲むように近づいて来た。
「殺すなよ」と太郎は言った。
「はいな」と八郎坊が、ひょうきんな声を出した。
普通、山伏は錫杖を持っているが、師匠の太郎が錫杖の代わりに五尺の棒を杖にして持ち歩いているため、皆、師匠に倣えと五尺の棒を持っていた。四人は五尺の棒で槍を相手にした。
勝負は簡単についた。
太郎が二人を倒し、それぞれが一人づつ倒すと、残った一人はためらったまま、かかっては来なかった。
「どうする。まだ、やるか」と太郎は頭に言った。
「わしが相手じゃ」と頭は槍を捨てて刀を抜いた。
「待って!」と女が止めた。
女は頭に何かを話した。そして、頭も女に何かを話しているが、何を言っているのか、まったくわからなかった。聞いた事のない言葉だった。前に師匠の風眼坊から、猟師たちは山に入ると普通の者にはわからない山言葉を使うと聞いた事があったが、これが山言葉なのか、と太郎は思った。
話がついたのか、頭は刀を鞘に納めると、「ついて来い」と言った。
「どこに行く」と太郎は聞いた。
「長老様の所じゃ」
どこに連れて行くのかわからなかったが、この山に長く住んでいる奴らなら銀の事もわかるかもしれない、と太郎は黙ってついて行く事にした。
女と、もう一人の男は倒れている仲間たちを起こした。
太郎たちは八人を先に行かせ、その後をついて行った。彼らは二股に分かれている谷川の左側をどんどん登って行った。
狭くて暗い谷川を小さな滝をいくつも乗り越えて登って行くと、やがて視界が開け、広い河原へと出た。河原の両側には、たんぼもあり稲の穂が稔っていた。たんぼの奥の方には小屋がいくつも並び、畑もできている。
すでに日は昇り、稲穂が朝日を浴びて輝いていた。
河原では子供たちが遊び、川で洗濯している女や畑で働いている女たちがいた。こんな山の奥に、こんな村があるとは想像もしていない事だった。
太郎たちは村の中程にある、ちょっと大きめな作りの小屋に案内された。
子供や女たちが珍しがって近寄って来た。子供たちや女たちの言葉は普通の言葉だった。
小屋の中は半分が土間のままで、半分に筵が敷いてあった。隅の方に祭壇のような物があり、その祭壇の前に一人の老人が座り込んで何かをしていた。
お香を焚いているようだった。甘い香りが小屋の中に漂っていた。そして、反対側の竃(カマド)の所に若い娘が朝飯の支度をしていた。
「長老様、お客様ですよ」と男の格好をした女が言った。
「なに、客じゃと」と長老と呼ばれる老人はゆっくりと振り向いた。
白髪に白髭を伸ばした痩せた老人だった。毛皮の袖なしを着て、鋭い目付きで太郎たち四人を眺め、「どうして、連れて来た」と頭に聞いた。
「それが‥‥‥」と頭は口ごもった。
「みんな、やられたのよ」と男の格好をした女が言った。
「ふん、情けない奴らじゃ」
「でも、強い事は確かだわ」
「まあ、いい」と長老は男の格好をした女に言ってから、太郎たちに目を移し、「何の用で、この山に来たのかは知らんが、この山には何もない」と言って首を振った。「まあ、飯でも食って帰ってくれ」
長老は太郎たちに背を向けて祭壇に向かった。
「おちい、この人たちに飯の用意をしてやれ」長老は背を向けたまま言った。
竃の所にいた娘が返事をした。
「長老様、この人たち、赤松性具入道のお宝を捜しているとか言ってたわ」と男の格好をした女が言うと長老の肩が揺れた。
長老は振り返って、太郎を見つめたが、その顔色が変わっていた。
「赤松性具入道の宝?」長老は驚きを隠そうとでもするかのように、努めて落ち着いた声で言った。
「ええ、確か、そう言ってたわ。長老様、前に赤松性具入道の事、何か言ってたでしょ。それで、一応、連れて来たのよ」
「赤松性具入道の宝‥‥‥それは本当か」と長老は太郎に聞いた。
「本当です。それを捜しに来ました」
「誰の差し金じゃ」
「今のお屋形様です」
「赤松のお屋形じゃな」
「そうです」
「お屋形から、どういう風に聞かされた」
「ただ、生野の山のどこかに宝が埋まっているから見つけて来いと」
「その宝とは何じゃ」
「わかりません」と太郎は答えた。今の時点で本当の事を言う訳にはいかなかった。「ところで、あなたは赤松性具入道を御存じなのですか」
「いや、知らん。知るわけないじゃろう」
「そうですか‥‥‥その宝の事ですが、聞いた事はありますか」
「知らん。第一、赤松がどうして敵国に宝を隠すんじゃ」
「さあ、わかりません」
「おぬしら、騙されておるんじゃろう。宝捜しなんかやめて、さっさと播磨に帰った方がいい」
「そうかもしれませんが、もしかしたら、その宝というのは性具入道が隠したのではなくて、初めから、ここにあるのではないですか。それをたまたま、性具入道が見つけ出した。しかし、性具入道にはそれを持ち出す時間がなかった」
「ふん。まあ、いい。せっかく、ここまで来たんじゃ。ゆっくりして行くがいい。この地に客が来るなんて何年振りの事かのう。まあ、下界の話でも聞かせてくれ」
長老は頭と男の格好をした女を下がらせると、太郎たちを筵の上に上げた。
「おぬしら、どこの行者じゃ」
「笠形山です」
「ほう、笠形山のう。見たところ若いようじゃが、京で戦の始まった応仁元年には、どこにおった」
「近江です。近江の飯道山に隠れていました」
「近江か‥‥‥」と長老は少し考えた後に、「戦が始まって赤松勢と一緒に播磨に攻めて来たわけじゃな」と言った。
「はい」と太郎は頷いた。
「今、若いお屋形は置塩城下におるのか」
「いえ、いません。美作に行っています」
「まだ、帰って来んのか」
「実は、お屋形様に頼まれたのではなくて、別所加賀守に頼まれて、宝を捜しに来ました」
「別所加賀守?」
「御存じないですか」
「別所肥前守(ヒゼンノカミ)の伜かのう」
「多分、そうでしょう。赤松家の事に詳しいようですが、あなたは一体、何者ですか」
太郎が長老に質問をした時、おちい、という娘が雑炊(ゾウスイ)を持って来た。
「どうぞ、召し上がれ」と長老は勧めた。
太郎たちが、ためらっていると、「心配せんでもいい。毒など入っておらん」と長老は自ら毒味をした。
長老に勧められるまま、太郎たちは雑炊を食べた。結局、太郎の質問は、はぐらかされてしまった。
食事が済むと急に気が変わったのか、「おぬしたちも、このままでは帰れんじゃろう。今日、一日、この山の中を捜してみるがいい。何も出て来んとは思うがの、うちの若い者に案内させる」と長老は言った。
案内役を命じられたのは、太郎たちにやられた四人の若者で、小太郎、小三郎、助五郎、助六郎という名前だった。小太郎は三十前後の男で、今朝の戦いの時、仲間がやられて戦うのをためらっていた男だった。後の三人は太郎の弟子たちと同じ位の年だった。
彼らの話によると、長老と呼ばれる老人は鬼山左京大夫祐康(キノヤマサキョウダユウスケヤス)という大袈裟な名前を持ち、ここでは一番偉く、長老の命令には絶対、服従しなければならないと言う。
この河原には大きく分けて三つの家族が住んでいた。
三十数年前、初めて、この山に入って来たのが、長老、鬼山左京大夫と鬼山内蔵助(クラノスケ)と長老の息子、小五郎の三人だった。その三人が子孫を増やして、今のような村になったと言う。
内蔵助は長老と同じ名字を名乗っているが、親戚でも何でもなく、すでに十年前に亡くなっていた。
彼ら三人の子供たちは二十一人もいて、孫たちは二十七人もいた。他にもいたが、小さいうちに亡くなったり、二人の子供は応仁元年、戦が始まった時、出て行ったまま行方がわからないと言う。長老たちはもう死んだと思っているが、子供たちはきっと、そのうちに帰って来ると信じていた。
字は違うが、城山城のある亀山と同じ名字を持っているというのが、何となく気に掛かった。四人にそれとなく、播磨に亀山というのがあるが、何か関係あるのか、と聞いてみたが知らないようだった。
太郎たちは四人の案内で、一日中、山の中を歩き回った。
あの河原に住み着いている者たちの正体がわからないため、宝というのが銀だとは言えなかった。もしかしたら、山名氏に関係している者たちかもしれない。そうだとすると、銀の事を喋るのはまずかった。眠っている銀を山名氏に取られてしまう事になる。そんな事になったら、今までの苦労が水の泡となってしまう。
どうして彼らがあそこに住み着いたのか、理由が知りたかったが、あの長老が素直に話してくれるとは思えなかった。
夕方、何の成果も得られず、河原に戻って来た太郎たちは、長老に、今晩、ちょっとした宴を開くから、もう少し、のんびりしていてくれ、と言われた。おかしな事だった。今朝は早く出て行けと言ったくせに、今度は宴を開くから、それに出てくれと言う。長老が何をたくらんでいるのかわからなかったが、太郎はもう少し、長老に付き合ってみようと思った。どうせ、今から山を下りても途中で日が暮れてしまう。今晩はここに世話になり、何とか長老たちの正体をつかもうと思った。
太郎は河原に出て、遊んでいる子供たちを見ていた。弟子の三人は娘や子供たちと一緒になって遊んでいた。
あの長老、何かを隠しているな、と太郎は思っていた。性具入道を知っている事は確かだが、味方なのか敵なのか、わからなかった。
「おぬし、赤松家の山伏だそうじゃのう」と誰かが後ろから声を掛けた。
振り向くと、斧をかついだ男が立っていた。五十年配の男で、長老の息子、小五郎に違いないと思った。
「赤松家の者だという証(アカシ)はあるか」と小五郎は聞いた。
「そんな物は別にないが‥‥‥」
「それはうまくないのう」
「どうしてです。どうしてうまくないのです」
「どうしてでもじゃ」
「あなたたちは赤松家と関係あるのですか」
「わしたちか。わしたちは別に関係ないのう」
「それじゃあ、山名家と関係あるんですか」
「山名家? 山名家とも関係ないのう。わしらは、ただ、この山の中で、ひっそり暮らしておるだけじゃ。赤松だろうと山名だろうと関係のない事じゃわ」
「そうですか‥‥‥」
「それより、おぬしらこそ、山名の山伏じゃないのか」
「山名の山伏なら、但馬にいて、赤松を名乗りはしないでしょう」
「それもそうじゃのう」
「ところで、どうして、今頃になって赤松性具入道の宝なんぞ捜しておるんじゃ。性具入道が死んでから、もう三十年も経っておる。おぬしはまだ生まれてもおらんじゃろう」
「ええ、生まれていません」
「なぜじゃ」
「今頃になって、宝の事がわかったのです」
「なぜ」
「それは、その秘密というのが刀の中に隠してあったのです。性具入道は城山城落城の時、宝の秘密を四振りの刀に託しました。その四振りの刀を持っていたのは、入道の長男、彦次郎と弟の伊予守、そして、同じく弟の左馬助と甥の彦五郎の四人でした。その四振りの刀が偶然にも今年になって、赤松家に戻って来ました。その刀の柄の中に謎の言葉が隠してあって、その言葉の謎を解いたら、ここ、生野の山と答えが出たわけです」
「成程のう」と言ったのは小五郎ではなかった。
いつの間にか、小五郎の後ろに長老の左京大夫が立っていた。
「今の話は本当じゃな」と長老は聞いた。
「ええ、本当の事です」
太郎は長老と小五郎の反応を見た。よくわからなかった。敵なのか味方なのか、しっぽを出さなかった。
「用意ができた。さあ、中に入って下され」と長老は言うと、小五郎を連れて長老の小屋の隣にある小屋の方に入って行った。
太郎は弟子たちを呼ぶと、長老の小屋に入った。
筵の上に綺麗な蓙(ゴザ)を敷き、料理が山のように並べてあった。酒の入った瓶子(ヘイジ)も並んでいる。
「これは、一体、どういうわけです」と太郎は側にいた女に聞いた。
「わかりません、長老様の命令です」
「客が来ると、いつも、こんな風に歓迎するのですか」と太郎は聞いた。
「いいえ、わたしが知っている限りでは、こんな事をするのは初めてです。もっとも、お客がここに来た事も初めてだけど」
「ここにはお客が来ないという事ですか」
「来ないのではなくて、来られないのです」
「どうしてです」
「わたしたちの山だからです」
太郎は、どうして、と聞こうとしたがやめた。どうせ、まともな答えは返って来そうもなかった。
やがて、長老と小五郎が息子たちを引き連れて入って来た。
太郎たちは息子たちと一緒に座らせられた。
3
長老はゆっくりと皆の顔を見回した。
皆、長老の方を向いて、長老が話し出すのを黙って待っていた。
正面の上座に長老と小五郎の二人が座り、左側に太郎、八郎坊、探真坊、風光坊、そして、小三郎、助七郎が座り、右側には銀太、助太郎、小太郎、小次郎、助四郎、助五郎、助六郎が座った。
太郎の正面に座った銀太というのは、初めて会った時、頭だと思った男だった。子供たちの中では最年長らしい。そして、長老の後ろに、おせんとおさえという老婆が二人と、おちいとおまるとおすぎという若い娘が三人控えていた。この村の男衆は全員集まっているようだった。女衆は子供たちの世話で忙しいのだろう、この場にはいなかった。
「今朝、お山の神様のお告げがあった」と長老は半ば目を閉じてまま言った。「お山の神様は、今日、待ち人来たりとお告げになられた。わしは嘘じゃろうと思った。ここに客など来るはずがなかった。もし、来たとしても、銀太たちに追い払われてしまうじゃろうと思った。しかし、お山の神様のお告げ通り、客人は来た。わしはすぐに帰すつもりじゃった。しかし、お山の神様のお告げが気になって、客人を引き留めた。そして、また、お山の神様にお伺いを立てた。そしたら、望み叶うと出た。わしはお山の神様のお告げを信じる事にした」
長老は静かに目を開けると皆を見回した。
皆は黙って、長老の話を聞いていた。
長老は一通り皆を見回し、視線は太郎の所で止まった。
「お客人、さっき、ちらっと聞いたんじゃが、謎の言葉を解いたら、赤松性具入道殿の宝が、この山にあると出た、と言っておったが、その謎の言葉というのは、一体、どんな物じゃな」
長老は赤松性具入道殿と言った。今朝、会った時は呼び捨てだったが、今は、殿を付けている。ちょっとした事だったが、太郎には気になった。
「百韻の連歌です」と太郎は答えた。
「誰のじゃ」
「性具入道殿と彦次郎殿と彦五郎殿と伊予守殿と左馬助殿の五人です」
長老は頷くと、しばらく目を閉じていた。
回りの者たちは黙って、長老を見つめている。
やがて、長老は目を開けると、「山陰に赤松の葉は枯れにける‥‥‥じゃな」と言った。
それには太郎の方が驚いた。この長老の口から、あの連歌の発句(ホック)が出て来るとは、まったく、夢にも思わなかった。
「三浦が庵の十三月夜‥‥‥ですね」太郎は発句に続く脇句を言った。
「虫の音に夜も更け行く草枕」長老は第三句を続けて言うと、笑った。
その後を続けたかったが、太郎は覚えていなかった。
「そして、その連歌には、どんな言葉が隠してあったのじゃ」と長老は太郎を見つめた。
長老が、どうして、あの連歌を知っているのかわからなかったが、あの歌を知っている限り、ただ者ではない事は確かだった。偉そうな名前の通り、かつては、性具入道の側近くに仕えていた者かも知れない。太郎は長老を信じる事にした。
「生野に白銀(シロガネ)の山あり‥‥‥」と太郎は言った。
「確かに、その通りじゃ」と長老は嬉しそうに言った。
「長老殿、その連歌を見た事あるのですか」
長老は頷いた。
「嘉吉元年の七月、坂本城において、お屋形殿とお会いした時、見させて頂いた‥‥‥」
長老は、そこで言葉を止めると皆を見回した。
「皆の者、間違いないぞ。喜んでくれ。今までずっと待ちに待っていたお人が、ようやく現れたんじゃ」と長老は皆に言った。
皆は一斉に歓声を挙げた。
太郎たちには何がなんだかわからなかった。わからなかったが、この人たちが敵ではないと言う事はわかった。
「今日は祝いの日じゃ。みんな、大いに飲んでくれ」
皆、大喜びしていた。
後ろに控えていた、おせんとおさえの二人の老婆は涙を流しながら喜んでいた。
ようやく、場の雰囲気が落ち着いた頃、太郎は長老に聞いた。
「長老殿、あなたは一体、何者なのですか」
「わしか、わしは山師じゃ。性具入道殿に雇われて、金山や銀山を捜していた山師じゃ。ようやく、ここの銀山を捜し当てたが、お屋形殿は亡くなってしまわれた。お屋形殿は最後に言った。わしは今回の戦で死ぬじゃろう。赤松家も滅びるじゃろう。しかし、いつの日か、絶対に赤松家は再興されるはずじゃ。赤松家が再興されてから、どの位の月日が経つかわからんが、いつの日か、きっと、赤松家の者がおぬしを訪ねて行くじゃろう。その日まで銀山を守り抜いてくれ‥‥‥そう、お屋形殿は言ったんじゃ‥‥‥」
「そして、守り通したわけですね」
「そうじゃ」
長老の左京大夫は酒を飲みながら身の上話を語り始めた。
左京大夫は日本人ではなかった。明(ミン)の国(中国)の人だった。山師として、二十二歳の時、日本に来て、赤松性具入道に仕えた。左京大夫の他、九人の明人が一緒だった。
当時、赤松家は朝鮮と貿易していた。朝鮮に渡った性具入道の家臣が、最新の技術を持った山師を見つけ、彼らと会って話をまとめて日本に連れて来たのだった。
彼ら十人は性具入道の命令によって播磨、備前、美作の山々を巡り、金や銀を捜し回った。城山城の抜け穴を掘ったのも彼らであった。
当時、彼らは日本の山師たちより、かなり進んだ技術を持っていた。性具入道は、その技術が他国に漏れる事を恐れて、彼らの存在を内密にしていた。また、彼らも自分たちの技術を日本人に教えたがらなかった。技術を盗まれてしまえば、自分たちの価値がなくなってしまう。価値がなくなれば、お払い箱にされてしまう。遠い異国の地で、お払い箱にされたらかなわなかった。
山を掘り、鉱石を砕き、炭を燃やし、たたらを使って製錬し、金や銀を作るのは、かなりの重労働だった。山を掘ったり、鉱石を運んだり、樹を切って炭を作るのは日本人の人足を使ったが、製錬する所は彼らの他は立ち入り禁止だった。
日本に来て二年目に左京大夫の親方が亡くなった。三年目にも二人亡くなり、四年、五年と経つうちに、仲間の者が次々に死んで行った。日本に来て二十年が経ち、とうとう二人だけとなっていた。鬼山左京大夫と鬼山内蔵助の二人だった。
鬼山とは、太郎の睨んだ通り、城山城のある亀山の事だった。それと、山の中で、たたらを使って鉄を作っていた者たちを、古くから鬼と呼んでいたため、亀を鬼に置き換えて、性具入道が彼らに付けた名字だった。左京大夫と言うのは、性具が入道になる前の官位名で、性具が入道になる時、長老に与えたものだった。
左京大夫と内蔵助は、性具入道の命令で新しい山を捜しに出掛けた。幸い、左京大夫の息子、小五郎が十八歳になっていたので一緒に連れて行った。
三年の間、播磨、備前、美作の山々を歩き回り、やっとの事で見つけたのが、播磨と但馬の国境近くの生野の山だった。生野の山の中で、かなり大きな銀の鉱脈を見つける事ができた。
左京大夫は二人を山に残したまま、入道に知らせるために京に向かった。ところが、その途中、京で起きた将軍暗殺事件の事を知った。そして、入道が今、坂本城で戦の準備をしていると聞き、真っすぐに坂本城に向かった。
性具入道は左京大夫の報告を聞いて喜んでくれた。よくやってくれた。わしはもうすぐ死ぬが、いつの日か、赤松家の者が、その山に左京大夫を訪ねて行くだろう。その日まで山を守ってくれと砂金を一袋渡した。左京大夫は砂金を抱え、入道の顔と言葉を脳裏に焼き付けながら山に帰った。
やがて、坂本城は落ち、城山城も落ち、性具入道は切腹、赤松氏は滅びた。赤松氏の領国は山名氏のものとなって行った。
三人はずっと山奥に隠れていた。ようやく、赤松の残党狩りも下火となった頃、三人は山を下りて山名氏の本拠地、出石の城下に行き、若い娘を三人買って来た。その娘が三人の妻となり、子供を何人も生み、今のように発展して行ったのだった。
いつの日かはわからないが、赤松家の者が来るまで、この山を守らなければならない。それには子供を作らなければならなかった。嘉吉の変のあった年、左京大夫は四十五歳になっていた。先がそう長いわけではなかった。それに、赤松家が再興されるのも時がかかりそうだった。二十歳の息子はいても、女っ気なしで長い間、山にいられるわけはない。
買って来た三人の娘たちはよく働き、丈夫な子を何人も産んでくれた。
そして、三十三年間、守り通した甲斐があって、ようやく、待ちに待っていた赤松家の者が、今朝、やって来たのだった。
子供たちはこの山に銀が眠っているという事は聞いて知っていたが、まだ、製錬の技術は知らなかった。今、その技術を知っているのは、左京大夫と小五郎の二人だけだった。この時点で、その最新の技術『灰吹き法』を知っていたのは、日本国内で、この二人だけと言ってよかった。
左京大夫は語り終わると、「待っていた甲斐があった」と目に涙を溜めながら何度も頷いていた。左京大夫は七十八歳になっていた。二十二歳の若さで異郷の地に来て、五十六年の歳月が流れていた。
26.銀山2
4
彼らは皆、働き者だった。
朝早くから皆、働きに出て行った。男たちは武器を持って、見張りや、狩りや、炭焼きに出掛け、女たちは川に行って、水を汲んだり、洗濯をしたり、畑仕事に励んでいた。二十七人もいる孫たちは、年長の子供が小さい子供の面倒をよく見ていた。
銀山の事を知っていながら、銀に手を付けない彼らは、炭焼きで生計を立てていた。田や畑はあっても、それだけでは、とても五十何人もを食わせて行く事はできない。銀を製錬するには炭も必要であり、彼らは上等な炭を作る技術を持っていた。彼らは炭を作り、岩屋谷の市場に持って行って売っていた。
太郎たちは左京大夫と小五郎に連れられて、銀の鉱脈を見に行った。それは谷川をさかのぼり、少し山の中に入った所にあった。
草木を掻き分け、急斜面をよじ登り、奥の方に入って行くと急に岩場にでた。目の前に大きな岩が迫り出ている。さらに、岩と岩の間をよじ登って、その大きな岩の裏側辺りに出た。
「あれじゃ」と左京大夫は山肌に飛び出している岩を指さした。
「あれが、銀ですか」と探真坊が聞いた。
「光ってないやんか」と八郎坊は言った。
「ほれ、あそこに筋が見えるじゃろ。あれが銀の鉱脈じゃ」と小五郎が言った。
よく見ると、その岩には斜めに帯のような縞模様が入っていた。あれが銀だと言われれば、そのような気もするが、言われなければ、ただの岩にしか見えない。とても、素人(シロウト)に捜せるような代物(シロモノ)ではなかった。
「あれで、どの位の銀が取れるのですか」と太郎は鉱脈を眺めながら聞いた。
「そうさのう。この鉱脈はかなりの銀を含んでおるからのう。鉱脈の深さにもよるが、露頭(ロトウ、地表に現れている部分)だけでも、二貫(七、五キロ)余りの銀は取れるじゃろう」と小五郎は言った。
「二貫(カン)‥‥‥銀二貫と言えば、銭にしたら、ええと‥‥‥」探真坊が計算しようとした。
「大体、二百五十貫文(カンモン)位かのう」と左京大夫が言った。
「二百五十貫文か‥‥‥」と八郎坊は唸った。二百五十貫文と言われても、八郎坊には想像すらできなかった。
当時、米一石(コク)当たりの値段は変動がかなりあったが、大体、七百文前後だった。二百五十貫文と言えば、米にして、およそ三百六十石という計算になった。米を一日一升食べたとして、百年間は食べて行けるだけの米を買う事ができた。
「露頭だけで、そんなもんじゃ」と小五郎は言った。「この鉱脈が、ずっと深くまで続いていれば、その何十倍、何百倍にもなる」
「ここの他にも、まだ、銀の鉱脈はあるのですか」と風光坊が聞いた。
「ああ、まだ、ある」と左京大夫は言った。「じゃが、ここ程、いい鉱脈はない。ここ程ではないと言ってもの、よその銀山の鉱脈と比べれば、はるかに、いい鉱脈じゃがのう」
山を下りて河原に戻ると、小五郎は小次郎を連れて来た。
小次郎は生れつき目が見えないと言う。小次郎は手に杖と尺八を持っていた。
左京大夫は小屋の裏の方にある小さな祠(ホコラ)の前で、神妙に何事か唱えると、祠の後ろにある細い山道へと入って行った。
太郎たちも小五郎、小次郎と一緒に裏山の、その細い山道に入った。
山道を登って行くと山の頂上近くに、また、小さな祠が建っていた。
その祠は変わった作りの祠だった。どうも、明の国の祠を真似て作った物らしかった。
左京大夫と小五郎は祠の前に立つと、持って来た酒を祠に置いてある器に入れ、熱心に何かを唱え始めた。明の言葉のようだった。太郎たちには何を言っているのか、さっぱりわからなかった。小次郎は左京大夫の隣に立って尺八を吹いていた。その尺八の調べも、聞いた事もないような綺麗な調べで、明の曲のようだった。
太郎たちは三人の後ろに立ち、静かに三人のする事を見守っていた。
やがて、儀式が終わると、左京大夫は祠の扉を開けた。中にもう一つ扉があり、頑丈そうな錠前が付いていた。左京大夫は鍵を懐から出すと錠前を開けた。
中には漆(ウルシ)塗りの小箱が入っていた。左京大夫はその小箱を取り出すと、太郎たちに見せて、静かに蓋を開けた。箱の中には絹にくるまった長さ二寸、幅一寸程の楕円の形をした銀の塊が三つ入っていた。
「あそこの鉱脈で作った物じゃ」と左京大夫は言った。
「すげえなあ」と太郎たちは銀を眺めた。
「これで、いくら位ですか」と探真坊が聞いた。
「そうさのう、二十五匁(約百グラム)はあるかのう」
「二十五匁(モンメ)‥‥‥」
「ああ、銭にしたら三貫文位じゃ」
「これで、三貫文もあるんですか‥‥‥」と八郎坊はじっと銀を見つめた。
三貫文と言うのは銭三千枚の事だった。これ位なら八郎坊にも理解できた。
左京大夫は銀を一つ手に取ると太郎に渡した。「それをお屋形様に見せて下され」
太郎は左京大夫の顔を見ながら頷いた。
「長老殿、ちょっと聞いていいですか」と探真坊が言った。
「何じゃ」と左京大夫は探真坊を見た。
「どうして、自分たちで銀を作ったのに、それを使わないのですか」
「わしらは所詮、職人なんじゃよ。商人にはなれんのじゃ。わしらが、そんな銀を持ち歩いていたら、怪しまれて、どんな目に会うかわからん。今の世の中は物騒じゃからのう。自分で作った銀で、殺されでもしたら、かなわんからのう」
確かに、銀や金など一般の者たちには縁のない物だった。やたらに、そんな物を見せびらかしたら、返って自分の身の方が危なくなってしまう。左京大夫の言う事はもっともな事だった。
裏山から下りると太郎たちは、「また、改めて出直して来ます」と言って、そのまま帰ろうとした。しかし、左京大夫は引き留めた。
「わしらのしきたりでな、お祝い事は二晩続けてやる事になっておるんじゃよ」と小五郎が笑った。「すまんがのう、もう一晩付き合ってくれんか。今晩はみんなを紹介する」
太郎は断る事ができなかった。目的は達したし、どうせ明日のうちに帰ればいい事だし、今日はのんびりして明日の朝早く帰る事にした。
太郎たちは昨日の晩、泊めてもらった小屋に案内された。昨日は暗くてわからなかったが、まだ、建てたばかりの新しい小屋だった。
「これはお客さん用のうちですか」と太郎は案内してくれた左京大夫の家にいる、おちいという名の娘に聞いた。
「いえ、違います。お客さんなんて誰も来ません。このうちは、もう少ししたら、あたしのうちになるんです」
彼女の話によると、この村では、女の子が十八になると一人前として認められ、小屋を一つ貰って独立するという珍しいしきたりがあると言う。
「おちいちゃん、一人でこのうちに住むのかい」と聞くと、「やだあ」と言って顔を赤らめた。赤くなるところをみると、どうやら、亭主となる人が決まっているのだろう。ぽっちゃりとしていて、なかなか可愛いい娘だった。
「ゆっくりしていて下さい」とおちいちゃんは戻って行った。
「可愛いいな」と八郎坊が後ろ姿を見送りながら言った。
「お師匠、いいんですか、こんな、のんびりしていて」と探真坊が言った。
「仕方ないだろ。あれだけ勧められたら断れん。それに、ここの人達とは、この先ずっと付き合う事になるかもしれんからな」
「どうしてです」
「赤松家が本格的に、ここの銀山の開発に乗り出したら、俺がここの担当になるような気がするんだ」
「本当ですか」と八郎坊が聞いた。
「そんな事はわからん」と太郎は言うと、部屋の中のまだ新しい筵の上に寝そべった。「わからんが、そんな気がするんだ。俺がこの銀山の事を別所加賀守に言うだろう。加賀守はお屋形様に言うだろう。多分、そこで止まるような気がする。ここの事は他の重臣たちには内緒にするような気がするんだ。勿論、浦上美作守には絶対に言わないだろう。そうなると、ここの事をすでに知っている、この俺がここの担当になるような気がするんだよ」
「そうなるかもしれませんねえ」と探真坊は言って頷いた。
「そうなると、ここの連中たちと仲良くしておいた方がいいな」と風光坊がニヤッと笑って八郎坊に言った。
「そうやな」と八郎坊もニヤッとして頷いた。
知らない間に、何人もの子供達が窓から中を覗いていた。
八郎坊は風光坊を誘って外に出て行った。子供達がわあっと八郎坊の後に付いて行った。
「あいつら、子供が好きだな」と太郎は探真坊に言った。
「目当ては子供じゃないんですよ」と探真坊は笑った。
「あの、おちいちゃんか」
「さあ」と探真坊は笑いながら首を振った。
「おちいちゃんは、どうやら決まった男がいるようだぞ」
「そうですかね‥‥‥お師匠、八郎坊から聞いた話ですけどね、この村は誰と誰が夫婦って決まってないみたいですよ」と探真坊は太郎の隣に座った。
「何だって? どういう事だ」
「昨日、一緒に山に登った四人がいるでしょ。小太郎と小三郎は兄弟です。助五郎と助六郎も兄弟です。しかし、四人とも自分の母親は知ってますけど、父親は誰だか知らないんですよ」
「何だと」と太郎は驚いて上体を起こした。
「つまり、三人の女の所に三人の男が替わりばんこだか、どうだか知りませんけど通っていたというわけです」
「という事は、子供たちは、みんな、父親が誰だかわからんのか」
「ええ、知りません。あそこで遊んでいる子供たちもです」
「あの子たちも?」
「そうです。ここの女たちは十八になると小屋を貰います。さっき、おちいちゃんが言ってたでしょう。そして、その女の小屋に男が通うわけです」
「好きな女の所にか」
「ええ。ただし、同じ兄弟同士は禁止されてるみたいですけど」
「そりゃ、そうだろう‥‥‥と言う事は、男たちはどこに住んでいるんだ」
「女がいていいと言えば、女の所にいますし、行く場所のない男は小五郎さんのうちか、若者小屋です」
「若者小屋、そんな小屋があるのか」
「ええ、村の入り口の所にある見張り小屋です。若者たちが交替で見張りをしてるんですけど、行く当てのない奴はそこにいるみたいですよ」
「へえ、それじゃあ、男で自分の小屋を持っているのは長老と小五郎さんだけか」
「そうみたいです」
「ふうん、変わった村だな」
「だから、あの二人、張り切ってるんですよ」
「成程‥‥‥女が小屋に入れてくれれば、後は、いい思いができるというわけだな」
「そうです。より取り見取りというわけです。ちょっと年増が多いけど」
「よくまあ、そんなに詳しく調べたもんだな」
「のんきそうに見えて、八郎坊の奴、女子(オナゴ)の事となると割りと小まめに動くんですよ」
「ほう、あいつがね」
「俺も行って来ます」
「おい、問題を起こすような事をするなよ」
「わかってます」と探真坊も子供達の遊んでいる方に向かって行った。
より取り見取りか‥‥‥まさに、男にとって極楽のような所だな‥‥‥
あのおちいちゃんも、もう少ししたら、この小屋に男を誘うのか‥‥‥
誘うと言っても、この村にいる男は決まっている。毎日、顔を合わせている男が代わる代わる来るというわけか‥‥‥
おちいちゃんにとって、それが幸せなのかどうかわからないが、どうせ、そういう風に育てられたのだろうし、この山以外の世界は知らないのだろう。しかし、今の世の中は返って戦の事も知らずに、この山にいて、子供を産んで平和に暮らした方が幸せなのかもしれない‥‥‥
俺がおちいちゃんの事を心配してもしょうがないか、と太郎はまた寝そべった。
太郎は横になったまま長老の事を考えた。
三十三年間、この銀山を守り通せたのは、やはり、長老が赤松性具入道という男を死んでからも信じ通したからなのだろうか‥‥‥
生きている時は信じる事はできるだろう。しかし、死んでしまっても信じ通す事など、できるのだろうか。
これだけの銀山を捜し出し、自分の手で銀を作り出す技術を持っていながら、自分で使おうとはしない。長老の言う通り、下手をすれば殺されるかもしれない。しかし、うまくすれば長者になって贅沢な暮らしができたのではないだろうか。
性具入道が、いつの日か、赤松家の者が来ると言ったって、そんなのいつの事か、まったくわからない。もし、太郎たちがあの時世の連歌の謎を解かなかったら、何年先の事になったのかわからない。それなのに、長老はずっと待っていた。
太郎には長老の気持ちがわからなかった。三十三年間、たった一つの言葉だけをずっと信じて、この場所を守っていたとは、とても信じられない事だった。長老のお屋形様だった性具入道という男は、それ程、立派な男だったのだろうか。
そうに違いなかった。長老にとっては性具入道だけが、この異郷の地において、ただ一人、頼れる人だったに違いなかった。そして、性具入道も異国の人、長老たちを大事にしていたのだろう。自分の名前を長老に与える位だから、彼らの技術を高く買っていたに違いない。その人から、待っていてくれ、と言われたた長老は何も考える事なく、ずっと三十三年の長い間、待ち続けていたのだろう。
長老は昨日の晩、涙を溜ていた。余程、嬉しかったに違いなかった。もしかしたら、生きているうちに赤松家の者は現れないだろうと諦めていたのかもしれない。
銀山を見つける事ができただけではなく、長老たちと出会えてよかったと太郎は思った。
屋根裏を眺めながら考え事をしていると、誰かが小屋に入って来た。
見ると女だった。さっき、畑にいた女だった。
「あら、お休みのところ、すみません」と女は謝った。
「いえ」と太郎は上体を起こした。
女は頭にかぶった手拭いをはずすと、太郎を見て笑った。なかなかの美人だった。
「ねえ、太郎坊様、京に行った事はあります」と女は聞きながら太郎の横に腰を下ろした。
「ええ、ありますけど」と太郎は言った。
「そう、どんな所です」
「今の京は焼け野原です。そして、東軍と西軍の侍たちがうようよいます」
「そう、戦をやってるのね」
「はい。ひどいものです。あそこはもう、都なんかじゃないですよ」
「そう」と頷いて、女はぼんやりと外を眺めた。
太郎は女の横顔を見つめながら、「京にでも行くのですか」と聞いた。
「いいえ」と女は太郎を見て首を振った。「あたしは行きません。でも、あたしの兄は京に行くと言って出て行ったまま戻ってきません」
「戦に行ったのですか」
「ええ、二人して。あたしの兄は銀次って言うんですけど、助次郎さんと一緒に出て行ったまま、もう七年近くが経ちます」
「そうだったのですか」
「太郎坊様は戦に出た事あります?」
「ええ、ありますけど」
「戦って、どんな感じ。怖いの」
「怖い事は怖いですよ。命懸けですからね」
「そうよね、怖いわよね。でも、太郎坊様はお強いんでしょ」
「まあ、それ程でもないですけど」
「嘘!」と女は大きな目をして太郎を睨んだ。すぐに笑って、「あたし、おとくさんから聞いたわ」と言った。「助太郎さんを簡単に倒しちゃったんでしょ。あの人、この村で一番強いのよ。今まで、誰とやっても負けた事ないの。それを簡単にやっつけちゃうなんて相当なものよ。あたし、強い人、大好きなの。ねえ、あたしのうちに来て。見せたい物があるの」
女は素早く太郎の手を握った。
「何です、見せたい物って」太郎は笑って、女の手を握り返した。
「来れば見せてあげる。あら、まだ、名前を言ってなかったわね。あたし、きさって言うの」
「おきささんですか」
「そう、おきさよ、変な名前でしょ」
「いや。おきささんは銀太さんの妹さんですか」
「そう。銀太の下に銀次がいて、その下に、りん、そして、あたし、あたしの下に、くりがいるわ。あたしたちのお母さん、早く死んじゃったから、あたしたち、兄弟が少ないの。助太郎さんなんか九人いるし、おろくさんとこだって九人も兄弟がいるわ」
「おろくさんていうのは?」
「一番上の姉御よ」
「あの男みたいな格好してる人?」
「いえ、あれは、おとくさんよ。男嫌いなんて言って男の格好しているくせに、子供だけは三人も作っているのよ。変態よ」
「失礼ですけど、おきささんは子供はいるんですか」
「ええ、あたしも三人いるわ」
「三人ですか‥‥‥」
見たところ年は二十五位か、年からすれば子供が三人いてもおかしくないが、何となく、気が若いというか、おおらかに育ったせいか、子持ちの女には見えなかった。
「なぜか、みんな、男の子なのよ」とおきさは笑った。
「三人とも男の子ですか。女の子だったら、お母さんに似て美人だったのに残念ですね」
「やだ! 美人だなんて」とおきさは照れながら、太郎の肩をたたいた。
「あたしもね、女の子が欲しかったのよ。でも、駄目だったわ」
「男の子でも、お母さんに似れば、いい男ですよ」
「まあね。三人ともいい男よ。ね、行きましょ」とおきさは太郎の手を引っ張った。
「どこへです」
「あたしんち、すぐ、そこなのよ」
おきさは強引だった。
太郎には断るだけの度胸はなかった。また、太郎の男の部分が、おきさという女の魅力に引かれていた。
おきさの小屋は、太郎のいた小屋の隣の隣だった。
小屋の前に洗濯物が干してあった。畑仕事をしている女が、おきさの小屋に入って行く太郎をじろじろと見ていた。おきさに聞くと、おすなという女で、隣の小屋に住んでいて、男の格好をしている、おとくという女の妹だと言う。そう説明されても、太郎にはよくわからなかった。
小屋の中には誰もいなかった。
小屋の作りは皆、同じようで、半分が土間で半分に筵が敷かれてあった。竃(カマド)の上には大きな鍋が乗せてあり、何かを煮ているようだった。
おきさの子供は八歳と六歳と三歳の男の子で、ようやく手が掛からなくなって、一安心だと言う。当分の間は、もう子供はいらないと言った。
「でも、あなたの子供なら産んでもいいわ」と鍋の中を覗きながら言って、太郎を見ると笑った。
太郎は何と答えていいのかわからず、話題をそらした。
「ところで、俺に見せたい物って何です」
「ああ、そうそう。見て貰いたいのはねえ、刀なのよ」
「刀?」
「ええ、お母さんの形見なの」
おきさは行李(コウリ)の中に首を突っ込んで、何やら捜していた。裾の短い着物から出ている白い足がやけに色っぽかった。
「あったわ!」とおきさは漆塗りの匕首(アイクチ、鍔のない短刀)を太郎に渡した。「ねえ、その刀、名刀? お母さんがとても大事にしてたの」
太郎は匕首を抜いてみた。
刀の事はあまり詳しくはないが、名刀か、そうでないかはわかるつもりでいた。おきさの持っていた匕首は名刀に違いなかった。刀に品があり、魂がこもっているというか、見る者を吸い寄せるような感じがした。
太郎はじっと匕首を見つめていた。
「ねえ、どうなの。それ、名刀なの」
「ああ、名刀だよ」と太郎は匕首を鞘に納めて、おきさに頷いた。
「やっぱりね、あたしもそんなような気がしてたのよ」おきさは嬉しそうに笑った。
「これ、お母さんの形見だって?」
「そうよ」と、おきさは太郎の隣に腰を下ろした。
「お母さんは武士の出だったのかい」
「そう、お母さんは言ってた。でも、お母さんは、さらわれたのよ」
「さらわれた?」
「ええ。お母さん、播磨のお侍の娘だったの。山名の大軍に攻められて、家族と離れ離れになって、焼け跡をうろうろしてたら人買いに捕まったの。そして、但馬の国に連れて来られて、長老様に会って、ここに来たのよ」
「人買いに捕まったのか‥‥‥ひどい目に会ったんだろうな」
「でも、お母さん、ここに来て良かったって言ってたわ‥‥‥お母さんが死んだ時、あたしはまだ五歳だったけど、お母さんの口から、ここはいい所だって何回も聞いたわ」
「そのお母さんが、この匕首を肌身離さず持っていたんだな。しかし、よく人買いの連中に取り上げられなかったな」
「お母さん、それで首を突こうとしたんですって。そしたら、人買いも諦めて取り上げなかったそうよ」
「そうか、大事な商品に死なれたら元も子もなくなるからな」
「お母さん、ここに連れて来られた時も、何かあったら死ぬつもりだったみたい。でも、結局、使わなかった」
「幸せだったんだ」
「うん。長老様たち、お母さんたちを大事にしたみたい。お母さんと一緒に来た、おせんさんと、おさえさんから、よく、昔の思い出話を聞くけど、毎日が忙しくて、きつかったけど、毎日毎日がとても楽しかったって懐かしそうに話すわ」
「みんなで、この村を作って来たんだな」
「そう。たった六人でね」
「今、この村にはどの位いるんだ」
「今、五十二人と半分」
「半分?」
「そう、今、おりん姉さんのお腹の中に子供がいるの」
「へえ、五十二人と半分か‥‥‥凄いもんだな」
太郎は匕首をおきさに返した。
おきさは匕首を元通りに行李にしまうと、竃の鍋を見に行った。
「ねえ、あたし、これから今晩の準備に行かなくちゃならないのよ。あなた、準備ができるまで、ここで休んでいて」
「いいんですか」
「いいのよ。そして、宴が終わったら、また、ここに来てね。絶対よ。見せたい物があるのよ」
「今度は、何ですか」
「後でね」と、おきさは鍋の中の料理を器にあけると、それを抱えて出て行った。
どうする、太郎坊‥‥‥美女からお誘いが掛かったぞ。
断るか‥‥‥できそうもないな。
成り行きに任せるしかないか、と太郎はおきさの小屋から出た。
畑には誰もいなかった。みんな、今晩の準備に狩り出されているのだろう。
太郎は村を一回りしてみようとぶらぶらと歩いた。村の中に小屋は全部で十八棟あった。そのうちの二つが物置になっていて、長老と小五郎の小屋の裏にあった。
太郎が一列に並んでいる小屋の前を散歩してると、ちらっと風光坊の姿が目に入った。ちゃっかり小屋の中に入っていた。小屋の中を覗くと、風光坊しかいないようなので太郎は声を掛けた。
「おい、何してるんだ」
「あっ、お師匠、いえ、別に‥‥‥」
「可愛いい娘(コ)か」と太郎は聞いた。
風光坊は照れながら、「可愛いいというより、綺麗な女(ヒト)です」と言った。
「そうか」と太郎は頷くと、その場を離れた。
何と、隣の小屋では、赤ん坊と一緒に探真坊が鼾をかいて寝ていた。何も言わないが、太郎は探真坊が昨夜、寝ずの番をしていたのを知っていた。疲れが出たのだろう、女の所で安心して眠っていた。
八郎坊もこの辺りの小屋にいるかな、と思ったがいなかった。
太郎たちが案内された新しい小屋と、丁度、反対側のはずれにも新しい小屋ができていた。まだ、誰も入っていなかった。昨夜、おちいちゃんの隣に、おちいちゃんと同じ位の年の娘がいたが、あの娘がその小屋に入るのだろう。
隅の方に厠があったので用を済ませて河原に向かった。
たんぼには稲の穂が重そうに垂れていた。そろそろ稲刈りだなと思った。
河原の方から子供たちの声が聞こえて来た。八郎坊がいるかなと太郎は声の方に向かった。
子供が裸で水浴びをしていた。子供だけなら別に構わないが、子供たちの中に女がいた。勿論、女も裸だった。小さい子供を洗っていた。女は太郎に気づいたが、別に恥ずかしがるでもなく、笑って太郎に頭を下げた。太郎の方が恥ずかしくなり、頭を下げると慌ててその場から離れた。
ああ、びっくりした。あんな所で、女が行水しているなんて思ってもいなかった。他の女たちも平気で河原で行水するのだろうか‥‥‥
まさに、ここは男にとっては極楽だった。まだ、全員を見たわけではないが、ここの女たちはみんな綺麗だった。明の国の血が混ざっているからだろうか‥‥‥
さっきの裸の女も確かに綺麗だった。一体、誰だろうと思ったが、太郎にはわからなかった。まごまごしていたら、ここの女たちに骨抜きにされて、ここから出る事ができなくなりそうだった。
そんな事を考えながら河原を歩いていると、子供たちと遊んでいる八郎坊がいた。
「お前は、やっぱり子守りか」と太郎は八郎坊に声を掛けた。
「あっ、お師匠、代わって下さいよ」と八郎坊は子供たちの中から抜け出して来た。
「いや、お前には似合っている。それに、お目当ての娘さんに頼まれたんだろう」
「へへへ」と八郎坊は笑った。「何だ、お師匠、知ってたんすか。おとみさんて言うんですけどね。おらより年上なんですけど可愛いいんすよ」
「ふうん。みんな、うまくやってるようだな」
「風光坊の奴なんか、あんな綺麗な人とうまく、やってるんですよ」と八郎坊は悔しそうに言った。
「誰だ、その綺麗な人って」と太郎は聞いた。
「おこんさんですよ。お師匠、知ってます?」
「いや、知らん」
「ほんに、天女のように綺麗なんやから」
「天女か、見てみたいものだな。探真坊の相手は誰なんだ」
「さあ、知りませんけど。あいつも、うまく、やってるんですか」
「ああ、誰の小屋か知らんが、赤ん坊と一緒に昼寝しておったぞ」
「あいつが赤ん坊と昼寝? こいつはおかしいや」八郎坊は声を出して笑った。「赤ん坊がいる小屋と言えば、おろくさんか、おきくさんの二人のうち、どっちかやな。おろくさんじゃないやろうから、探真坊の相手はおきくさんやな」
「お前、詳しいな。どうして、おろくさんじゃないんだ」
「おろくさんは一番上の姉御ですよ。まあ、綺麗な人やけど、年が離れすぎてますわ」
「そうか‥‥‥探真坊がおきくさんで、風光坊がおこんさんで、お前がおとみさんか」
八郎坊は頷き、ニヤニヤしながら、「お師匠は誰です」と太郎に聞いた。
「俺は、誰もおらんよ」太郎は笑いながら首を振った。
「ほんとですか」と八郎坊は疑うように太郎を見て、「お師匠、気を付けた方がいいです。みんな、お師匠の事を狙ってますよ」と言った。
「狙ってる?」
「ええ、何だかんだ言っても、お師匠が一番もてますわ。羨ましいわ」
「何を言ってるんだ」
「お師匠、知ってます? ここの娘たちはみんな、決まった亭主がいないんですよ」
「探真坊から聞いたよ」
「ああ、そうですか。それでね、噂なんですけど、今晩、ここの男たちは女の所に行くのを禁止されるみたいなんですよ」
「何だと」
「小三郎から聞いたんですけどね。あいつ、ぼやいてましたよ。長老様の命令は絶対だから、今晩は、たっぷり酒を飲んで寝るしかねえなってね。と言う事はですよ、お師匠、おらたちは好きな女の所に行ってもいいと言う事ですよ」
「ほんとか、信じられんな」
「それに、今晩の宴会は娘たちも全員、出るんですよ。長老はおらたちに娘たちを紹介するんですよ」
「どうして、そんな事をするんだ」
「おらにはわからんけど、助四郎さんが言うには明の国の習慣なんやないかって。明の国ではお客さんを持て成すのに、酒や料理だけやなくて女も提供するんやないかって。それと、新しい血が欲しいんやないかって。早い話が身内ばかりで子供を作っているから、新しい血の子供が欲しいんやないかって言ってたわ」
「ふうん」
「理由はどうでも、おらは今晩が楽しみや。師匠もいい女子を見つけてや」
八郎坊はまた、子供たちの所に戻って行った。
太郎は河原を端まで歩くと、この村の入り口辺りに建っている若者小屋と呼ばれる見張り小屋の前を通って、最初の小屋に戻って来た。小屋に入って一休みするかと思ったが、自然と足は二つ隣のおきさの小屋に向かっていた。小屋の中には誰もいなかった。
太郎は小屋の中に入ると、筵の上に寝転がった。
目を閉じたら、何故か、助六の顔が浮かんだ。太郎は打ち消して、楓と百太郎の事を思った。そして、うとうとと気持ち良く眠りの中に落ちて行った。
満月が出ていた。
太郎坊、風光坊、探真坊、八郎坊の四人は、まだ、夜の明ける前に山を下りていた。
皆、寝不足の顔をしているが、まだ、夢の中にいるようにニヤニヤしている。
昨夜は極楽だった。
長老の小屋での宴会は、一昨日とは打って変わって華やかだった。
長老の他、男は誰も出なかった。娘たちだけだった。しかも、皆、自分の小屋を持っている娘たちで、まだ、小屋のない、おちい、おまる、おすぎの三人はいなかった。八郎坊が言っていた通り、長老の目的ははっきりしていた。
太郎たちは長老に九人の娘たちを紹介された。娘たちは皆、着飾るという程ではないが、こざっぱりとした身なりに薄化粧をしていた。
まず、一番上の姉御のおろく。小太郎、小次郎、小三郎たちの姉だった。落ち着いていて、まさしく姉御という感じだった。太郎が河原で見た、子供たちと一緒に行水していた美人だった。
次に、おとく。ずんぐりむっくりの助太郎の妹で、助五郎、助六郎の姉だった。最初に会った時、男の格好をしていた女だった。今は長い髪を垂らして女の格好をしている。女の格好をしていると、男の格好していたのが嘘のように女らしく、しかも、美しかった。
次が、おりん。お腹の中に子供がいた。おきさの姉で、どことなく、おきさに似ていた。
次は、おすな。細面で目が潤んでいた。おとくの妹だと言うが、全然、似ていない。柳腰の美人という感じで、今日は出ていないが、末娘のおまるが、おすなに似ていた。
次に、おこん。おろくの妹で、色が白く、目が大きく、鼻筋が通っていて、非の打ち所のない美女だった。まさしく、八郎坊が言っていたように、天女のようだった。風光坊がこんな美女とうまくやるなんて信じられないし、羨ましくもあった。
次に、おきさ。おこんのような完璧な美女ではないが、すっきりとした感じの美人だった。おきさは長老から紹介されると太郎を見て、ニコッと笑った。美女が九人も並んでいると目移りするが、太郎の好みは、おきさかもしれなかった。
次は、おきさの妹のおくり。何となく控えめで、優しそうな娘だった。皆、乗り出すように自己主張しているが、この娘だけは一歩下がっているような気がした。
次は、おこんの妹のおきく。色が白く、まるで京人形のような顔をした娘だった。探真坊が安心して昼寝していた小屋の主だった。確かに、男に安らぎを与えてくれるような感じがした。
最後が、おきくの妹のおとみ。九人の中では一番若く、美人というより、ぽっちゃりとした可愛いい娘だった。八郎坊が好きになるのもわかる気がした。
年の頃は、おろく、おとく、おりん、おすなまでが三十前後、おこん、おきさ、おくり、おきくが二十の半ば、そして、おとみが二十歳位に見えた。
長老の紹介が終わると宴は始まった。
娘たちが代わる代わる酒を注ぎに来た。娘たちは皆、酒が強かった。酔うに連れて、娘たちは踊りや歌を披露してくれた。
長老はいつの間にか、いなくなっていた。お腹の大きなおりんも消えていた。
太郎の横には、おとくとおきさ、風光坊の横には、おろくとおこん、探真坊の横には、おすなとおきく、八郎坊の横には、おくりとおとみが座っていた。
おすなは余程、酒好きと見えて、探真坊に酌をさせながら、一人でぐいぐい飲んでいた。
風光坊の奴がまた飲み過ぎて、つぶれてしまわないかと心配したが、今日は計算して飲んでいるようだった。
太郎は途中で座を立って厠(カワヤ)に行った。
月が出ていて、外は明るかった。
厠まで行くと若者小屋から、男たちの声が聞こえて来た。男たちが女たちのお預けを食らって酒を飲んでいるらしかった。何となく言い争いをしているようだったので、太郎はそっと若者小屋に近づいて中の声を聞いてみた。
若者たちは太郎たちをやっつける相談をしていた。銀太が止めようとしているようだったが、若い連中は聞かなかった。それでも、長老の言った事には逆らえないから、夜が明けるのを待って、夜が明けたら小屋に踏み込んで、一人づつ片付けようと言っていた。
やめろ、この村の中で騒ぎを起こすのはまずい。どうせ、やるなら、この村を出てからにしろ、と銀太は言うが、そんなのは無理だ、かなうわけない。一人づつ、しかも、女と一緒なら敵も安心している。その時を狙うしかない。そうだ、そうだと若い連中たちは言っていた。女子供が怪我をする、と言って止めるが、大丈夫だ、うまくやる、と若い連中はいきり立っていた。
太郎はその場を離れた。
まずい事になった。騒ぎは起こしたくなかった。夜が明ける前に逃げるしかないな、と太郎は思った。
宴会に戻ろうとしたら、太郎たちが昨日、泊まった新しい小屋の前に、おきさが立っていた。おきさは太郎を見つけると駈け寄って来た。
「どこ行ってたの」
「厠」
「随分、長いのね」
「ちょっと、河原で月を見ていたんだ」
「あたし、心配しちゃったわよ」
「何を」
「他の娘の所に行ったのかと思って」
「まさか。戻ろう」
「もう、みんな、いないわよ」
「えっ」
「もう、お開き。みんな、帰ったわ」
「俺の連れもか」
「ええ、みんな」
「あいつら、どこに行ったんだ」
「風光坊様はおこんさんち、探真坊様はおきくちゃん、八郎坊様はおとみちゃんちよ。そして、太郎坊様はあたしんち」
おきさは太郎を自分の小屋に引っ張って行った。
三人の男の子は気持ちよさそうに眠っていた。
太郎はおきさから、三人がどこの小屋にいるのか聞いた。風光坊と探真坊はわかっているが、八郎坊の小屋がわからなかった。八郎坊がいるおとみちゃんちは探真坊のいるおきくちゃんちの隣だと言う。うまい具合に三人のいる小屋は並んでいた。
おきさが昼間、見せたい物があると言ったのは、三人の息子の事だった。
この三人を侍にしたいのだと言う。太郎に、赤松家の侍にしてくれ、とおきさは頼んだ。母親が侍の娘だったので、どうしても子供たちを侍にしたいのだと言う。太郎が無事に赤松家の武将になれば、できない事はないが、一応、長老に断らなければならないだろう。太郎ははっきりと約束はせず、考えておくと答えた。
「もう一つ、見せたい物があるのよ」と言って、おきさは笑った。
「今度は何です」と太郎が聞くと、「このあたしよ」と言って、帯をほどいて着物を脱ぎ捨てた。
見事な裸身が現れた。とても、三人も子供を産んだとは思えない綺麗な体だった。
裸のおきさは太郎に抱き着いて来た。太郎にはとても抵抗できなかった。
激しく、おきさと抱き合った太郎は、おきさが眠るのを待って起き上がった。支度をすると静かに小屋から出た。
名残惜しかったが仕方なかった。いつまでも、のんびりしていられなかった。置塩城下に、まだ大事な用が残っていた。
外は静まり返っていた。川の流れだけが聞こえた。
太郎は、あられもない格好で寝ていた風光坊、探真坊、八郎坊を起こすと、素早く支度をさせた。
おこんが目を覚ました。太郎は、おこんに帰る事を告げ、長老に改めて出直して来る、と伝えてくれと頼んだ。おこんは何も言わず、ただ頷いた。
四人は河原に出ると、この村に別れを告げて山を下りた。
若者小屋も、みんな眠っているらしく、シーンとしていた。
月明かりの中、谷川を下り、夜が明ける頃には国境を越えて播磨の国に入っていた。
「露頭だけで、そんなもんじゃ」と小五郎は言った。「この鉱脈が、ずっと深くまで続いていれば、その何十倍、何百倍にもなる」
「ここの他にも、まだ、銀の鉱脈はあるのですか」と風光坊が聞いた。
「ああ、まだ、ある」と左京大夫は言った。「じゃが、ここ程、いい鉱脈はない。ここ程ではないと言ってもの、よその銀山の鉱脈と比べれば、はるかに、いい鉱脈じゃがのう」
山を下りて河原に戻ると、小五郎は小次郎を連れて来た。
小次郎は生れつき目が見えないと言う。小次郎は手に杖と尺八を持っていた。
左京大夫は小屋の裏の方にある小さな祠(ホコラ)の前で、神妙に何事か唱えると、祠の後ろにある細い山道へと入って行った。
太郎たちも小五郎、小次郎と一緒に裏山の、その細い山道に入った。
山道を登って行くと山の頂上近くに、また、小さな祠が建っていた。
その祠は変わった作りの祠だった。どうも、明の国の祠を真似て作った物らしかった。
左京大夫と小五郎は祠の前に立つと、持って来た酒を祠に置いてある器に入れ、熱心に何かを唱え始めた。明の言葉のようだった。太郎たちには何を言っているのか、さっぱりわからなかった。小次郎は左京大夫の隣に立って尺八を吹いていた。その尺八の調べも、聞いた事もないような綺麗な調べで、明の曲のようだった。
太郎たちは三人の後ろに立ち、静かに三人のする事を見守っていた。
やがて、儀式が終わると、左京大夫は祠の扉を開けた。中にもう一つ扉があり、頑丈そうな錠前が付いていた。左京大夫は鍵を懐から出すと錠前を開けた。
中には漆(ウルシ)塗りの小箱が入っていた。左京大夫はその小箱を取り出すと、太郎たちに見せて、静かに蓋を開けた。箱の中には絹にくるまった長さ二寸、幅一寸程の楕円の形をした銀の塊が三つ入っていた。
「あそこの鉱脈で作った物じゃ」と左京大夫は言った。
「すげえなあ」と太郎たちは銀を眺めた。
「これで、いくら位ですか」と探真坊が聞いた。
「そうさのう、二十五匁(約百グラム)はあるかのう」
「二十五匁(モンメ)‥‥‥」
「ああ、銭にしたら三貫文位じゃ」
「これで、三貫文もあるんですか‥‥‥」と八郎坊はじっと銀を見つめた。
三貫文と言うのは銭三千枚の事だった。これ位なら八郎坊にも理解できた。
左京大夫は銀を一つ手に取ると太郎に渡した。「それをお屋形様に見せて下され」
太郎は左京大夫の顔を見ながら頷いた。
「長老殿、ちょっと聞いていいですか」と探真坊が言った。
「何じゃ」と左京大夫は探真坊を見た。
「どうして、自分たちで銀を作ったのに、それを使わないのですか」
「わしらは所詮、職人なんじゃよ。商人にはなれんのじゃ。わしらが、そんな銀を持ち歩いていたら、怪しまれて、どんな目に会うかわからん。今の世の中は物騒じゃからのう。自分で作った銀で、殺されでもしたら、かなわんからのう」
確かに、銀や金など一般の者たちには縁のない物だった。やたらに、そんな物を見せびらかしたら、返って自分の身の方が危なくなってしまう。左京大夫の言う事はもっともな事だった。
裏山から下りると太郎たちは、「また、改めて出直して来ます」と言って、そのまま帰ろうとした。しかし、左京大夫は引き留めた。
「わしらのしきたりでな、お祝い事は二晩続けてやる事になっておるんじゃよ」と小五郎が笑った。「すまんがのう、もう一晩付き合ってくれんか。今晩はみんなを紹介する」
太郎は断る事ができなかった。目的は達したし、どうせ明日のうちに帰ればいい事だし、今日はのんびりして明日の朝早く帰る事にした。
太郎たちは昨日の晩、泊めてもらった小屋に案内された。昨日は暗くてわからなかったが、まだ、建てたばかりの新しい小屋だった。
「これはお客さん用のうちですか」と太郎は案内してくれた左京大夫の家にいる、おちいという名の娘に聞いた。
「いえ、違います。お客さんなんて誰も来ません。このうちは、もう少ししたら、あたしのうちになるんです」
彼女の話によると、この村では、女の子が十八になると一人前として認められ、小屋を一つ貰って独立するという珍しいしきたりがあると言う。
「おちいちゃん、一人でこのうちに住むのかい」と聞くと、「やだあ」と言って顔を赤らめた。赤くなるところをみると、どうやら、亭主となる人が決まっているのだろう。ぽっちゃりとしていて、なかなか可愛いい娘だった。
「ゆっくりしていて下さい」とおちいちゃんは戻って行った。
「可愛いいな」と八郎坊が後ろ姿を見送りながら言った。
「お師匠、いいんですか、こんな、のんびりしていて」と探真坊が言った。
「仕方ないだろ。あれだけ勧められたら断れん。それに、ここの人達とは、この先ずっと付き合う事になるかもしれんからな」
「どうしてです」
「赤松家が本格的に、ここの銀山の開発に乗り出したら、俺がここの担当になるような気がするんだ」
「本当ですか」と八郎坊が聞いた。
「そんな事はわからん」と太郎は言うと、部屋の中のまだ新しい筵の上に寝そべった。「わからんが、そんな気がするんだ。俺がこの銀山の事を別所加賀守に言うだろう。加賀守はお屋形様に言うだろう。多分、そこで止まるような気がする。ここの事は他の重臣たちには内緒にするような気がするんだ。勿論、浦上美作守には絶対に言わないだろう。そうなると、ここの事をすでに知っている、この俺がここの担当になるような気がするんだよ」
「そうなるかもしれませんねえ」と探真坊は言って頷いた。
「そうなると、ここの連中たちと仲良くしておいた方がいいな」と風光坊がニヤッと笑って八郎坊に言った。
「そうやな」と八郎坊もニヤッとして頷いた。
知らない間に、何人もの子供達が窓から中を覗いていた。
八郎坊は風光坊を誘って外に出て行った。子供達がわあっと八郎坊の後に付いて行った。
「あいつら、子供が好きだな」と太郎は探真坊に言った。
「目当ては子供じゃないんですよ」と探真坊は笑った。
「あの、おちいちゃんか」
「さあ」と探真坊は笑いながら首を振った。
「おちいちゃんは、どうやら決まった男がいるようだぞ」
「そうですかね‥‥‥お師匠、八郎坊から聞いた話ですけどね、この村は誰と誰が夫婦って決まってないみたいですよ」と探真坊は太郎の隣に座った。
「何だって? どういう事だ」
「昨日、一緒に山に登った四人がいるでしょ。小太郎と小三郎は兄弟です。助五郎と助六郎も兄弟です。しかし、四人とも自分の母親は知ってますけど、父親は誰だか知らないんですよ」
「何だと」と太郎は驚いて上体を起こした。
「つまり、三人の女の所に三人の男が替わりばんこだか、どうだか知りませんけど通っていたというわけです」
「という事は、子供たちは、みんな、父親が誰だかわからんのか」
「ええ、知りません。あそこで遊んでいる子供たちもです」
「あの子たちも?」
「そうです。ここの女たちは十八になると小屋を貰います。さっき、おちいちゃんが言ってたでしょう。そして、その女の小屋に男が通うわけです」
「好きな女の所にか」
「ええ。ただし、同じ兄弟同士は禁止されてるみたいですけど」
「そりゃ、そうだろう‥‥‥と言う事は、男たちはどこに住んでいるんだ」
「女がいていいと言えば、女の所にいますし、行く場所のない男は小五郎さんのうちか、若者小屋です」
「若者小屋、そんな小屋があるのか」
「ええ、村の入り口の所にある見張り小屋です。若者たちが交替で見張りをしてるんですけど、行く当てのない奴はそこにいるみたいですよ」
「へえ、それじゃあ、男で自分の小屋を持っているのは長老と小五郎さんだけか」
「そうみたいです」
「ふうん、変わった村だな」
「だから、あの二人、張り切ってるんですよ」
「成程‥‥‥女が小屋に入れてくれれば、後は、いい思いができるというわけだな」
「そうです。より取り見取りというわけです。ちょっと年増が多いけど」
「よくまあ、そんなに詳しく調べたもんだな」
「のんきそうに見えて、八郎坊の奴、女子(オナゴ)の事となると割りと小まめに動くんですよ」
「ほう、あいつがね」
「俺も行って来ます」
「おい、問題を起こすような事をするなよ」
「わかってます」と探真坊も子供達の遊んでいる方に向かって行った。
より取り見取りか‥‥‥まさに、男にとって極楽のような所だな‥‥‥
あのおちいちゃんも、もう少ししたら、この小屋に男を誘うのか‥‥‥
誘うと言っても、この村にいる男は決まっている。毎日、顔を合わせている男が代わる代わる来るというわけか‥‥‥
おちいちゃんにとって、それが幸せなのかどうかわからないが、どうせ、そういう風に育てられたのだろうし、この山以外の世界は知らないのだろう。しかし、今の世の中は返って戦の事も知らずに、この山にいて、子供を産んで平和に暮らした方が幸せなのかもしれない‥‥‥
俺がおちいちゃんの事を心配してもしょうがないか、と太郎はまた寝そべった。
太郎は横になったまま長老の事を考えた。
三十三年間、この銀山を守り通せたのは、やはり、長老が赤松性具入道という男を死んでからも信じ通したからなのだろうか‥‥‥
生きている時は信じる事はできるだろう。しかし、死んでしまっても信じ通す事など、できるのだろうか。
これだけの銀山を捜し出し、自分の手で銀を作り出す技術を持っていながら、自分で使おうとはしない。長老の言う通り、下手をすれば殺されるかもしれない。しかし、うまくすれば長者になって贅沢な暮らしができたのではないだろうか。
性具入道が、いつの日か、赤松家の者が来ると言ったって、そんなのいつの事か、まったくわからない。もし、太郎たちがあの時世の連歌の謎を解かなかったら、何年先の事になったのかわからない。それなのに、長老はずっと待っていた。
太郎には長老の気持ちがわからなかった。三十三年間、たった一つの言葉だけをずっと信じて、この場所を守っていたとは、とても信じられない事だった。長老のお屋形様だった性具入道という男は、それ程、立派な男だったのだろうか。
そうに違いなかった。長老にとっては性具入道だけが、この異郷の地において、ただ一人、頼れる人だったに違いなかった。そして、性具入道も異国の人、長老たちを大事にしていたのだろう。自分の名前を長老に与える位だから、彼らの技術を高く買っていたに違いない。その人から、待っていてくれ、と言われたた長老は何も考える事なく、ずっと三十三年の長い間、待ち続けていたのだろう。
長老は昨日の晩、涙を溜ていた。余程、嬉しかったに違いなかった。もしかしたら、生きているうちに赤松家の者は現れないだろうと諦めていたのかもしれない。
銀山を見つける事ができただけではなく、長老たちと出会えてよかったと太郎は思った。
屋根裏を眺めながら考え事をしていると、誰かが小屋に入って来た。
見ると女だった。さっき、畑にいた女だった。
「あら、お休みのところ、すみません」と女は謝った。
「いえ」と太郎は上体を起こした。
女は頭にかぶった手拭いをはずすと、太郎を見て笑った。なかなかの美人だった。
「ねえ、太郎坊様、京に行った事はあります」と女は聞きながら太郎の横に腰を下ろした。
「ええ、ありますけど」と太郎は言った。
「そう、どんな所です」
「今の京は焼け野原です。そして、東軍と西軍の侍たちがうようよいます」
「そう、戦をやってるのね」
「はい。ひどいものです。あそこはもう、都なんかじゃないですよ」
「そう」と頷いて、女はぼんやりと外を眺めた。
太郎は女の横顔を見つめながら、「京にでも行くのですか」と聞いた。
「いいえ」と女は太郎を見て首を振った。「あたしは行きません。でも、あたしの兄は京に行くと言って出て行ったまま戻ってきません」
「戦に行ったのですか」
「ええ、二人して。あたしの兄は銀次って言うんですけど、助次郎さんと一緒に出て行ったまま、もう七年近くが経ちます」
「そうだったのですか」
「太郎坊様は戦に出た事あります?」
「ええ、ありますけど」
「戦って、どんな感じ。怖いの」
「怖い事は怖いですよ。命懸けですからね」
「そうよね、怖いわよね。でも、太郎坊様はお強いんでしょ」
「まあ、それ程でもないですけど」
「嘘!」と女は大きな目をして太郎を睨んだ。すぐに笑って、「あたし、おとくさんから聞いたわ」と言った。「助太郎さんを簡単に倒しちゃったんでしょ。あの人、この村で一番強いのよ。今まで、誰とやっても負けた事ないの。それを簡単にやっつけちゃうなんて相当なものよ。あたし、強い人、大好きなの。ねえ、あたしのうちに来て。見せたい物があるの」
女は素早く太郎の手を握った。
「何です、見せたい物って」太郎は笑って、女の手を握り返した。
「来れば見せてあげる。あら、まだ、名前を言ってなかったわね。あたし、きさって言うの」
「おきささんですか」
「そう、おきさよ、変な名前でしょ」
「いや。おきささんは銀太さんの妹さんですか」
「そう。銀太の下に銀次がいて、その下に、りん、そして、あたし、あたしの下に、くりがいるわ。あたしたちのお母さん、早く死んじゃったから、あたしたち、兄弟が少ないの。助太郎さんなんか九人いるし、おろくさんとこだって九人も兄弟がいるわ」
「おろくさんていうのは?」
「一番上の姉御よ」
「あの男みたいな格好してる人?」
「いえ、あれは、おとくさんよ。男嫌いなんて言って男の格好しているくせに、子供だけは三人も作っているのよ。変態よ」
「失礼ですけど、おきささんは子供はいるんですか」
「ええ、あたしも三人いるわ」
「三人ですか‥‥‥」
見たところ年は二十五位か、年からすれば子供が三人いてもおかしくないが、何となく、気が若いというか、おおらかに育ったせいか、子持ちの女には見えなかった。
「なぜか、みんな、男の子なのよ」とおきさは笑った。
「三人とも男の子ですか。女の子だったら、お母さんに似て美人だったのに残念ですね」
「やだ! 美人だなんて」とおきさは照れながら、太郎の肩をたたいた。
「あたしもね、女の子が欲しかったのよ。でも、駄目だったわ」
「男の子でも、お母さんに似れば、いい男ですよ」
「まあね。三人ともいい男よ。ね、行きましょ」とおきさは太郎の手を引っ張った。
「どこへです」
「あたしんち、すぐ、そこなのよ」
おきさは強引だった。
太郎には断るだけの度胸はなかった。また、太郎の男の部分が、おきさという女の魅力に引かれていた。
5
おきさの小屋は、太郎のいた小屋の隣の隣だった。
小屋の前に洗濯物が干してあった。畑仕事をしている女が、おきさの小屋に入って行く太郎をじろじろと見ていた。おきさに聞くと、おすなという女で、隣の小屋に住んでいて、男の格好をしている、おとくという女の妹だと言う。そう説明されても、太郎にはよくわからなかった。
小屋の中には誰もいなかった。
小屋の作りは皆、同じようで、半分が土間で半分に筵が敷かれてあった。竃(カマド)の上には大きな鍋が乗せてあり、何かを煮ているようだった。
おきさの子供は八歳と六歳と三歳の男の子で、ようやく手が掛からなくなって、一安心だと言う。当分の間は、もう子供はいらないと言った。
「でも、あなたの子供なら産んでもいいわ」と鍋の中を覗きながら言って、太郎を見ると笑った。
太郎は何と答えていいのかわからず、話題をそらした。
「ところで、俺に見せたい物って何です」
「ああ、そうそう。見て貰いたいのはねえ、刀なのよ」
「刀?」
「ええ、お母さんの形見なの」
おきさは行李(コウリ)の中に首を突っ込んで、何やら捜していた。裾の短い着物から出ている白い足がやけに色っぽかった。
「あったわ!」とおきさは漆塗りの匕首(アイクチ、鍔のない短刀)を太郎に渡した。「ねえ、その刀、名刀? お母さんがとても大事にしてたの」
太郎は匕首を抜いてみた。
刀の事はあまり詳しくはないが、名刀か、そうでないかはわかるつもりでいた。おきさの持っていた匕首は名刀に違いなかった。刀に品があり、魂がこもっているというか、見る者を吸い寄せるような感じがした。
太郎はじっと匕首を見つめていた。
「ねえ、どうなの。それ、名刀なの」
「ああ、名刀だよ」と太郎は匕首を鞘に納めて、おきさに頷いた。
「やっぱりね、あたしもそんなような気がしてたのよ」おきさは嬉しそうに笑った。
「これ、お母さんの形見だって?」
「そうよ」と、おきさは太郎の隣に腰を下ろした。
「お母さんは武士の出だったのかい」
「そう、お母さんは言ってた。でも、お母さんは、さらわれたのよ」
「さらわれた?」
「ええ。お母さん、播磨のお侍の娘だったの。山名の大軍に攻められて、家族と離れ離れになって、焼け跡をうろうろしてたら人買いに捕まったの。そして、但馬の国に連れて来られて、長老様に会って、ここに来たのよ」
「人買いに捕まったのか‥‥‥ひどい目に会ったんだろうな」
「でも、お母さん、ここに来て良かったって言ってたわ‥‥‥お母さんが死んだ時、あたしはまだ五歳だったけど、お母さんの口から、ここはいい所だって何回も聞いたわ」
「そのお母さんが、この匕首を肌身離さず持っていたんだな。しかし、よく人買いの連中に取り上げられなかったな」
「お母さん、それで首を突こうとしたんですって。そしたら、人買いも諦めて取り上げなかったそうよ」
「そうか、大事な商品に死なれたら元も子もなくなるからな」
「お母さん、ここに連れて来られた時も、何かあったら死ぬつもりだったみたい。でも、結局、使わなかった」
「幸せだったんだ」
「うん。長老様たち、お母さんたちを大事にしたみたい。お母さんと一緒に来た、おせんさんと、おさえさんから、よく、昔の思い出話を聞くけど、毎日が忙しくて、きつかったけど、毎日毎日がとても楽しかったって懐かしそうに話すわ」
「みんなで、この村を作って来たんだな」
「そう。たった六人でね」
「今、この村にはどの位いるんだ」
「今、五十二人と半分」
「半分?」
「そう、今、おりん姉さんのお腹の中に子供がいるの」
「へえ、五十二人と半分か‥‥‥凄いもんだな」
太郎は匕首をおきさに返した。
おきさは匕首を元通りに行李にしまうと、竃の鍋を見に行った。
「ねえ、あたし、これから今晩の準備に行かなくちゃならないのよ。あなた、準備ができるまで、ここで休んでいて」
「いいんですか」
「いいのよ。そして、宴が終わったら、また、ここに来てね。絶対よ。見せたい物があるのよ」
「今度は、何ですか」
「後でね」と、おきさは鍋の中の料理を器にあけると、それを抱えて出て行った。
どうする、太郎坊‥‥‥美女からお誘いが掛かったぞ。
断るか‥‥‥できそうもないな。
成り行きに任せるしかないか、と太郎はおきさの小屋から出た。
畑には誰もいなかった。みんな、今晩の準備に狩り出されているのだろう。
太郎は村を一回りしてみようとぶらぶらと歩いた。村の中に小屋は全部で十八棟あった。そのうちの二つが物置になっていて、長老と小五郎の小屋の裏にあった。
太郎が一列に並んでいる小屋の前を散歩してると、ちらっと風光坊の姿が目に入った。ちゃっかり小屋の中に入っていた。小屋の中を覗くと、風光坊しかいないようなので太郎は声を掛けた。
「おい、何してるんだ」
「あっ、お師匠、いえ、別に‥‥‥」
「可愛いい娘(コ)か」と太郎は聞いた。
風光坊は照れながら、「可愛いいというより、綺麗な女(ヒト)です」と言った。
「そうか」と太郎は頷くと、その場を離れた。
何と、隣の小屋では、赤ん坊と一緒に探真坊が鼾をかいて寝ていた。何も言わないが、太郎は探真坊が昨夜、寝ずの番をしていたのを知っていた。疲れが出たのだろう、女の所で安心して眠っていた。
八郎坊もこの辺りの小屋にいるかな、と思ったがいなかった。
太郎たちが案内された新しい小屋と、丁度、反対側のはずれにも新しい小屋ができていた。まだ、誰も入っていなかった。昨夜、おちいちゃんの隣に、おちいちゃんと同じ位の年の娘がいたが、あの娘がその小屋に入るのだろう。
隅の方に厠があったので用を済ませて河原に向かった。
たんぼには稲の穂が重そうに垂れていた。そろそろ稲刈りだなと思った。
河原の方から子供たちの声が聞こえて来た。八郎坊がいるかなと太郎は声の方に向かった。
子供が裸で水浴びをしていた。子供だけなら別に構わないが、子供たちの中に女がいた。勿論、女も裸だった。小さい子供を洗っていた。女は太郎に気づいたが、別に恥ずかしがるでもなく、笑って太郎に頭を下げた。太郎の方が恥ずかしくなり、頭を下げると慌ててその場から離れた。
ああ、びっくりした。あんな所で、女が行水しているなんて思ってもいなかった。他の女たちも平気で河原で行水するのだろうか‥‥‥
まさに、ここは男にとっては極楽だった。まだ、全員を見たわけではないが、ここの女たちはみんな綺麗だった。明の国の血が混ざっているからだろうか‥‥‥
さっきの裸の女も確かに綺麗だった。一体、誰だろうと思ったが、太郎にはわからなかった。まごまごしていたら、ここの女たちに骨抜きにされて、ここから出る事ができなくなりそうだった。
そんな事を考えながら河原を歩いていると、子供たちと遊んでいる八郎坊がいた。
「お前は、やっぱり子守りか」と太郎は八郎坊に声を掛けた。
「あっ、お師匠、代わって下さいよ」と八郎坊は子供たちの中から抜け出して来た。
「いや、お前には似合っている。それに、お目当ての娘さんに頼まれたんだろう」
「へへへ」と八郎坊は笑った。「何だ、お師匠、知ってたんすか。おとみさんて言うんですけどね。おらより年上なんですけど可愛いいんすよ」
「ふうん。みんな、うまくやってるようだな」
「風光坊の奴なんか、あんな綺麗な人とうまく、やってるんですよ」と八郎坊は悔しそうに言った。
「誰だ、その綺麗な人って」と太郎は聞いた。
「おこんさんですよ。お師匠、知ってます?」
「いや、知らん」
「ほんに、天女のように綺麗なんやから」
「天女か、見てみたいものだな。探真坊の相手は誰なんだ」
「さあ、知りませんけど。あいつも、うまく、やってるんですか」
「ああ、誰の小屋か知らんが、赤ん坊と一緒に昼寝しておったぞ」
「あいつが赤ん坊と昼寝? こいつはおかしいや」八郎坊は声を出して笑った。「赤ん坊がいる小屋と言えば、おろくさんか、おきくさんの二人のうち、どっちかやな。おろくさんじゃないやろうから、探真坊の相手はおきくさんやな」
「お前、詳しいな。どうして、おろくさんじゃないんだ」
「おろくさんは一番上の姉御ですよ。まあ、綺麗な人やけど、年が離れすぎてますわ」
「そうか‥‥‥探真坊がおきくさんで、風光坊がおこんさんで、お前がおとみさんか」
八郎坊は頷き、ニヤニヤしながら、「お師匠は誰です」と太郎に聞いた。
「俺は、誰もおらんよ」太郎は笑いながら首を振った。
「ほんとですか」と八郎坊は疑うように太郎を見て、「お師匠、気を付けた方がいいです。みんな、お師匠の事を狙ってますよ」と言った。
「狙ってる?」
「ええ、何だかんだ言っても、お師匠が一番もてますわ。羨ましいわ」
「何を言ってるんだ」
「お師匠、知ってます? ここの娘たちはみんな、決まった亭主がいないんですよ」
「探真坊から聞いたよ」
「ああ、そうですか。それでね、噂なんですけど、今晩、ここの男たちは女の所に行くのを禁止されるみたいなんですよ」
「何だと」
「小三郎から聞いたんですけどね。あいつ、ぼやいてましたよ。長老様の命令は絶対だから、今晩は、たっぷり酒を飲んで寝るしかねえなってね。と言う事はですよ、お師匠、おらたちは好きな女の所に行ってもいいと言う事ですよ」
「ほんとか、信じられんな」
「それに、今晩の宴会は娘たちも全員、出るんですよ。長老はおらたちに娘たちを紹介するんですよ」
「どうして、そんな事をするんだ」
「おらにはわからんけど、助四郎さんが言うには明の国の習慣なんやないかって。明の国ではお客さんを持て成すのに、酒や料理だけやなくて女も提供するんやないかって。それと、新しい血が欲しいんやないかって。早い話が身内ばかりで子供を作っているから、新しい血の子供が欲しいんやないかって言ってたわ」
「ふうん」
「理由はどうでも、おらは今晩が楽しみや。師匠もいい女子を見つけてや」
八郎坊はまた、子供たちの所に戻って行った。
太郎は河原を端まで歩くと、この村の入り口辺りに建っている若者小屋と呼ばれる見張り小屋の前を通って、最初の小屋に戻って来た。小屋に入って一休みするかと思ったが、自然と足は二つ隣のおきさの小屋に向かっていた。小屋の中には誰もいなかった。
太郎は小屋の中に入ると、筵の上に寝転がった。
目を閉じたら、何故か、助六の顔が浮かんだ。太郎は打ち消して、楓と百太郎の事を思った。そして、うとうとと気持ち良く眠りの中に落ちて行った。
6
満月が出ていた。
太郎坊、風光坊、探真坊、八郎坊の四人は、まだ、夜の明ける前に山を下りていた。
皆、寝不足の顔をしているが、まだ、夢の中にいるようにニヤニヤしている。
昨夜は極楽だった。
長老の小屋での宴会は、一昨日とは打って変わって華やかだった。
長老の他、男は誰も出なかった。娘たちだけだった。しかも、皆、自分の小屋を持っている娘たちで、まだ、小屋のない、おちい、おまる、おすぎの三人はいなかった。八郎坊が言っていた通り、長老の目的ははっきりしていた。
太郎たちは長老に九人の娘たちを紹介された。娘たちは皆、着飾るという程ではないが、こざっぱりとした身なりに薄化粧をしていた。
まず、一番上の姉御のおろく。小太郎、小次郎、小三郎たちの姉だった。落ち着いていて、まさしく姉御という感じだった。太郎が河原で見た、子供たちと一緒に行水していた美人だった。
次に、おとく。ずんぐりむっくりの助太郎の妹で、助五郎、助六郎の姉だった。最初に会った時、男の格好をしていた女だった。今は長い髪を垂らして女の格好をしている。女の格好をしていると、男の格好していたのが嘘のように女らしく、しかも、美しかった。
次が、おりん。お腹の中に子供がいた。おきさの姉で、どことなく、おきさに似ていた。
次は、おすな。細面で目が潤んでいた。おとくの妹だと言うが、全然、似ていない。柳腰の美人という感じで、今日は出ていないが、末娘のおまるが、おすなに似ていた。
次に、おこん。おろくの妹で、色が白く、目が大きく、鼻筋が通っていて、非の打ち所のない美女だった。まさしく、八郎坊が言っていたように、天女のようだった。風光坊がこんな美女とうまくやるなんて信じられないし、羨ましくもあった。
次に、おきさ。おこんのような完璧な美女ではないが、すっきりとした感じの美人だった。おきさは長老から紹介されると太郎を見て、ニコッと笑った。美女が九人も並んでいると目移りするが、太郎の好みは、おきさかもしれなかった。
次は、おきさの妹のおくり。何となく控えめで、優しそうな娘だった。皆、乗り出すように自己主張しているが、この娘だけは一歩下がっているような気がした。
次は、おこんの妹のおきく。色が白く、まるで京人形のような顔をした娘だった。探真坊が安心して昼寝していた小屋の主だった。確かに、男に安らぎを与えてくれるような感じがした。
最後が、おきくの妹のおとみ。九人の中では一番若く、美人というより、ぽっちゃりとした可愛いい娘だった。八郎坊が好きになるのもわかる気がした。
年の頃は、おろく、おとく、おりん、おすなまでが三十前後、おこん、おきさ、おくり、おきくが二十の半ば、そして、おとみが二十歳位に見えた。
長老の紹介が終わると宴は始まった。
娘たちが代わる代わる酒を注ぎに来た。娘たちは皆、酒が強かった。酔うに連れて、娘たちは踊りや歌を披露してくれた。
長老はいつの間にか、いなくなっていた。お腹の大きなおりんも消えていた。
太郎の横には、おとくとおきさ、風光坊の横には、おろくとおこん、探真坊の横には、おすなとおきく、八郎坊の横には、おくりとおとみが座っていた。
おすなは余程、酒好きと見えて、探真坊に酌をさせながら、一人でぐいぐい飲んでいた。
風光坊の奴がまた飲み過ぎて、つぶれてしまわないかと心配したが、今日は計算して飲んでいるようだった。
太郎は途中で座を立って厠(カワヤ)に行った。
月が出ていて、外は明るかった。
厠まで行くと若者小屋から、男たちの声が聞こえて来た。男たちが女たちのお預けを食らって酒を飲んでいるらしかった。何となく言い争いをしているようだったので、太郎はそっと若者小屋に近づいて中の声を聞いてみた。
若者たちは太郎たちをやっつける相談をしていた。銀太が止めようとしているようだったが、若い連中は聞かなかった。それでも、長老の言った事には逆らえないから、夜が明けるのを待って、夜が明けたら小屋に踏み込んで、一人づつ片付けようと言っていた。
やめろ、この村の中で騒ぎを起こすのはまずい。どうせ、やるなら、この村を出てからにしろ、と銀太は言うが、そんなのは無理だ、かなうわけない。一人づつ、しかも、女と一緒なら敵も安心している。その時を狙うしかない。そうだ、そうだと若い連中たちは言っていた。女子供が怪我をする、と言って止めるが、大丈夫だ、うまくやる、と若い連中はいきり立っていた。
太郎はその場を離れた。
まずい事になった。騒ぎは起こしたくなかった。夜が明ける前に逃げるしかないな、と太郎は思った。
宴会に戻ろうとしたら、太郎たちが昨日、泊まった新しい小屋の前に、おきさが立っていた。おきさは太郎を見つけると駈け寄って来た。
「どこ行ってたの」
「厠」
「随分、長いのね」
「ちょっと、河原で月を見ていたんだ」
「あたし、心配しちゃったわよ」
「何を」
「他の娘の所に行ったのかと思って」
「まさか。戻ろう」
「もう、みんな、いないわよ」
「えっ」
「もう、お開き。みんな、帰ったわ」
「俺の連れもか」
「ええ、みんな」
「あいつら、どこに行ったんだ」
「風光坊様はおこんさんち、探真坊様はおきくちゃん、八郎坊様はおとみちゃんちよ。そして、太郎坊様はあたしんち」
おきさは太郎を自分の小屋に引っ張って行った。
三人の男の子は気持ちよさそうに眠っていた。
太郎はおきさから、三人がどこの小屋にいるのか聞いた。風光坊と探真坊はわかっているが、八郎坊の小屋がわからなかった。八郎坊がいるおとみちゃんちは探真坊のいるおきくちゃんちの隣だと言う。うまい具合に三人のいる小屋は並んでいた。
おきさが昼間、見せたい物があると言ったのは、三人の息子の事だった。
この三人を侍にしたいのだと言う。太郎に、赤松家の侍にしてくれ、とおきさは頼んだ。母親が侍の娘だったので、どうしても子供たちを侍にしたいのだと言う。太郎が無事に赤松家の武将になれば、できない事はないが、一応、長老に断らなければならないだろう。太郎ははっきりと約束はせず、考えておくと答えた。
「もう一つ、見せたい物があるのよ」と言って、おきさは笑った。
「今度は何です」と太郎が聞くと、「このあたしよ」と言って、帯をほどいて着物を脱ぎ捨てた。
見事な裸身が現れた。とても、三人も子供を産んだとは思えない綺麗な体だった。
裸のおきさは太郎に抱き着いて来た。太郎にはとても抵抗できなかった。
激しく、おきさと抱き合った太郎は、おきさが眠るのを待って起き上がった。支度をすると静かに小屋から出た。
名残惜しかったが仕方なかった。いつまでも、のんびりしていられなかった。置塩城下に、まだ大事な用が残っていた。
外は静まり返っていた。川の流れだけが聞こえた。
太郎は、あられもない格好で寝ていた風光坊、探真坊、八郎坊を起こすと、素早く支度をさせた。
おこんが目を覚ました。太郎は、おこんに帰る事を告げ、長老に改めて出直して来る、と伝えてくれと頼んだ。おこんは何も言わず、ただ頷いた。
四人は河原に出ると、この村に別れを告げて山を下りた。
若者小屋も、みんな眠っているらしく、シーンとしていた。
月明かりの中、谷川を下り、夜が明ける頃には国境を越えて播磨の国に入っていた。
27.正明坊
1
太郎たちが生野の山中で、鬼山(キノヤマ)一族の長老、左京大夫に連れられて銀の鉱脈を見ていた八月の十七日、京の浦上屋敷では美作守が、太郎の偽者を仕立てて国元に送ろうと準備に忙しかった。
国元の『噂』は、すでに、在京している赤松家の重臣たちの耳にも入っていた。
重臣たちは美作守に真相を聞きに来た。美作守は楓御料人の御主人は生きてはいるが、今、大怪我をしていて療養中だ。もう少し良くなったら、改めて紹介すると言ってごまかしてきた。阿修羅坊が太郎坊を連れて来るまで、何とか、ごまかすつもりでいた。
身分や名前も聞かれたが、本名を言うのはまずいと思い、その時、たまたま、ひらめいた名前を告げた。その名は京極次郎右衛門高秀といい、今は亡き、大膳大夫(ダイゼンノタイフ)持清の四男だった。高秀は西軍に寝返った甥の京極高清と戦って負傷し、今、美作守の手の内にあった。京極氏なら重臣たちも文句を言うまいと、その場を治めるために言った出まかせだった。また、太郎坊を京極氏として国元に送るのも悪くないなと思った。太郎坊を形だけでも、京極氏の養子として送ればいい。今の赤松家の力を持ってすれば、その位の細工は簡単にできた。
京極氏とは近江源氏の佐々木一族だった。
鎌倉時代の初期、佐々木左衛門尉(サエモンノジョウ)信綱が所領を四人の息子に分け、それぞれが大原氏、高島氏、六角氏、京極氏を名乗って独立した。やがて、大原氏と高島氏は廃れて行くが、京極氏と六角氏は残って行った。
京極氏からは南北朝時代に佐々木道誉(ドウヨ)が出て、足利尊氏の室町幕府に協力して勢力を広げた。その後も、幕府の重職に付き、赤松家と同じく四職家(シシキケ)の一つとなっている。また、道誉の娘は赤松性具(満祐)の祖父、律師則祐(リッシソクユウ)の妻となっている。
応仁の乱の時には京極氏は東軍に付き、近江の守護職を巡って、西軍に付いた同族の六角氏と争っていた。
そして、今はと言えば、京極氏も内部分裂して二つに分かれ、家督争いをしている。京極持清は東軍の将として活躍し、幕府の重要な地位にいたが、四年前に亡くなっていた。家督を継ぐはずの嫡男、中務大輔(ナカツカサノタイフ)勝秀は、それより以前、応仁二年(一四六八年)に戦の陣中に於いて病没していた。
持清が死ぬと、まだ幼い勝秀の子、孫童子丸(ソンドウシマル)に家督が認められたが、持清の次男、治部少輔政経と三男、民部少輔政光が家督を巡って争い、政経が孫童子丸の後ろ盾となると、政光は孫童子丸の弟、乙童子丸を立てて対立し、有力家臣たちも二つに分かれて争いを始めた。やがて、政光は西軍に寝返り、南近江を支配している同族の六角氏と手を結び、政経らを北近江から追い出し、近江の国は西軍の支配する国となっていた。
去年の十一月、政光が亡くなり、政経は、今が敵を倒す絶好の機会だと、北近江に進撃した。しかし、敵はしぶとく、結局、負け戦となり、大勢の犠牲者を出してしまった。
その戦に、次郎右衛門高秀も東軍の政経方として出陣して負傷し、山中に隠れていたところを美作守配下の山伏、正明坊(ショウミョウボウ)に助けられた。
美作守は正明坊からその事を聞き、京極氏の伜なら、後で何か使い道があるだろうと正明坊に助けてやれと命じた。今、次郎右衛門はどこかに匿われて療養しているはずだった。
美作守はその男、次郎右衛門を楓の亭主に仕立て、うまい具合に話をこじつけた。
楓御料人様は応仁の乱が始まってから、ずっと甲賀の尼寺に隠れていて、御主人の無事を祈っていた。今回の戦で、御主人が行方不明になり、死んだものと諦めていた。しかし、無事に生きていて、これで、御料人様も御主人共々、赤松家に迎えられ、めでたし、めでたしじゃと美作守は重臣たちの前で笑った。
美作守の話を聞いていた重臣たちも、すっかり美作守の話を信じてしまった。
御料人様の御主人というのが京極氏だったという事が、重臣たちにとって何よりも嬉しい事だった。どこの馬の骨ともわからない者が、お屋形様の兄上として赤松家に入って来ては困るが、源氏の名族の佐々木氏、しかも、赤松家と同じ四職家の京極氏なら、文句などあるはずはなかった。重臣たちも、めでたしめでたしと言いながら、以後の事を美作守に頼むと満足して帰って行った。
阿修羅坊が京に戻って来たのは十六日の昼前だった。美作守は幕府に出仕していて留守だった。阿修羅坊は急用だと使いの者を送った。一時程経って、美作守は屋敷に戻って来た。
「まったく、足軽や浪人どもが徒党を組んで暴れ回りおって、今、京の都は大騒ぎじゃ。足軽や浪人だけならまだいいが、後ろに糸を引いてる大物が隠れておる。まったく始末におえんわい」美作守はそう言いながら、阿修羅坊の待つ部屋に入って来ると部屋の中を見回した。
阿修羅坊以外は誰もいなかった。
「どうしたんじゃ、奴は」
「遅すぎたんじゃ」と阿修羅坊は首を振った。「おぬしからの使いが来た時には、すでに、決闘が終わった後だったんじゃよ」
「それで?」
「二人とも死んだ」
「二人とも?」
「ああ、二人ともじゃ」
「相打ちか」
「いや、正確に言えば、松阿弥が勝った。しかし、松阿弥も太郎坊を斬った瞬間、血を吐いて倒れ、そのまま死んでしまったんじゃ」
「そうか、死んだのか‥‥‥」
阿修羅坊は美作守に二人の遺品を見せた。
松阿弥の仕込み杖、太郎坊が使った刀、そして、太郎坊の髪の毛を見せたが、美作守はろくに見ていないようだった。さっそく、次の対策を練っているようだった。
美作守は一応、太郎坊の髪を手に取って眺め、次に、松阿弥の仕込み杖を手に取り、抜いてみようとしていたが抜けなかった。
「手入れをしなかったから、くっついちまったんじゃのう」
阿修羅坊は太郎坊の刀を取って、抜こうとした。こっちの刀もくっついていた。
「そっちもか」と美作守は言った。「太郎坊も松阿弥を斬ったのか」
「ああ、肩先をちょっとな。しかし、致命傷という程じゃない」
「そうか‥‥‥死んだか」と言いながら美作守は仕込み杖を置いた。「ところで、国元の『噂』はどんなもんじゃ」
「みんな、楓殿の御亭主が生きていたと信じ込んでおる」
「そうか‥‥‥」
「みんな、楓殿の御亭主が城下に来るのを楽しみに待っておる」
「うむ。一体、その『噂』の出所はどこなのかのう」
「太郎坊じゃよ。太郎坊が自分で『噂』を広めたんじゃ」
「やはりのう。なかなか、やるもんじゃのう。おぬしの言った通り、味方にしておけば、役に立つ奴じゃったのう‥‥‥」
「国元には何と言ったんじゃ」と阿修羅坊は聞いた。
「噂通り、楓殿の御主人は生きておるとな‥‥‥太郎坊を送り込むつもりでおったんじゃが、死んでしまったのなら仕方ないのう」
「どうするんじゃ」
「今更、死んだとも言えまい。こっちの重臣たちには、今、怪我の療養中だと言ってある」
「こっちの重臣たちも楓殿の御主人が生きているという噂を知っておるのか」
「ああ、それぞれ、国元から連絡があったらしいのう」
「太郎坊の噂も大したものよのう。京にいる重臣たちも動かしたか」
「一つの噂に国元も京も振り回されておる」
「これも、志能便の術とかいうもんかのう」
「まったく、甘く見過ぎたわ」
「これから、どうするんじゃ」と阿修羅坊は聞いた。
「どうするかのう」と美作守はニヤニヤした。
「どうやら、決まったとみえるのう」と阿修羅坊は美作守の顔色を窺いながら言った。
「ほう、どうして、わかる」
「長年、付き合っておれば、その位の事、わかるわい。どうするつもりじゃ」
「まあ、ここではなんじゃから離れに行こう」
二人は太郎坊と松阿弥の遺品を持って、離れの書院へと向かった。
書院に入ると阿修羅坊は天井を見上げた。
「この上に太郎坊が隠れておったんじゃのう」
「まったくのう。この屋敷に忍び込むとは大胆不敵な奴じゃ」
美作守は遺品を文机(フヅクエ)の上に置くと、障子を閉めて腰を降ろした。
「さっきの話じゃがのう。こっちの重臣たちには楓殿の御主人は京極大膳大夫の伜、次郎右衛門高秀で、今、怪我をしていて療養中じゃ、と言ってあるんじゃ」
「京極次郎右衛門高秀? 聞いた事もないのう。そんな奴がおるのか」と阿修羅坊も腰を降ろした。
「それがおるんじゃ。正明坊の奴がな、叡山(エイザン)の山の中で、その次郎右衛門を拾ったんじゃよ。奴は本当に怪我をしておってな、今、ある所で療養しておる。もう、かなり良くなってるはずじゃ。重臣たちに楓殿の御主人の身元を聞かれてのう。まさか、本名を言うわけにもいかんしのう。そいつの事を思い出して、そう言ってしまったんじゃ。とにかく、その時は、何とか、その場を乗り切れば後は何とかなるじゃろうと思ったんじゃ。太郎坊を、そいつの弟という事にしてもいいと思ってたんじゃよ」
「ところが、太郎坊は死んだ」と阿修羅坊は言って美作守の顔を見つめた。「その男を使うつもりなのか」
「それしか、あるまい」美作守は、もう決めたという顔で頷いた。
阿修羅坊は天井を見上げ、しばらくしてから、「いくつなんじゃ、その京極の伜は」と聞いた。
「わしも、まだ会っとらんので詳しくは知らんが、二十四、五とか言っておったかのう。太郎坊とそう大して違うまい」
「二十四、五か‥‥‥二十四、五にもなっておれば妻も子もおるじゃろう」
「まあな。とにかく、重臣どもを納得させるには奴を送り込むしかあるまい。京極氏は出雲の国(島根県東部)を持っておるしのう。山名氏を挟み打ちにするのには持って来いじゃ」
「しかし、出雲の国は今、守護代の尼子刑部少輔(アマゴギョウブショウユウ)が握っておると聞いておるぞ」
「尼子か‥‥‥力はあるらしいが、まだ、京極氏に刃向かう程の力はないじゃろう」
「まあいい。その京極の伜を国元に送るとしてじゃ。楓殿と会えば、すぐに偽者とばれてしまうぞ」
「ああ、そこなんじゃ」と美作守は厳しい顔をして阿修羅を見た。「そこの所をおぬしに頼みたいんじゃ。何とか、楓殿を説得させて欲しいんじゃよ」
「どう説得させるんじゃ」
「仮にでもいい。京極の伜と一緒になって貰いたいとな」
「何じゃと! そんな事、無理に決まっておるわ」
「楓殿は御主人が死んだ事を御存じないのか」
「知らん。楓殿も御主人が城下に入って来るのを楽しみに待っておる」
「そうか‥‥‥赤松家のために、一緒になってくれと言っても無理かのう」
「無理じゃろうのう。死んだ事もわしが知らせるのか」
「頼む」
「しかしのう。楓殿に、御主人が死んだとは、とても言えんのう」
「じゃが、他にいい方法があるか」
「しかしのう‥‥‥」阿修羅坊は腕を組んで、首を振った。
「仮にでいいんじゃ。今は国元の『噂』を静めなくてはならん。播磨の国中が『噂』の結末を見守っているんじゃ。この結末を付けなければならん。とにかく、偽者でも何でも楓殿の御主人を国元に送らなければならんのじゃ。そして、その後の披露式典まで何とか夫婦でいてくれればいい。その後は離縁しても構わん。理由は何とでも付くじゃろう」
「京極氏を離縁するのか。敵を作る事になるぞ」
「今、京極氏は二つに分裂しておる。叔父と甥で争っておる。赤松家を敵に回す暇などあまい」
「そうだといいんじゃがのう」
「どうじゃ。おぬしがうまく楓殿を説得してくれんかのう。こんな事、頼めるのはおぬししかおらんのじゃ」
「国元にはどう説明するんじゃ」
「できれば、偽者という事は隠しておきたいが無理じゃろうのう。加賀守には本当の事を言った方がいいかもしれん。その辺のところは、おぬしに任せる。ただ、城下の者たちや播磨の国人たちには絶対にばれる事があってはならん」
「わかっとる」
「これが、今回の仕事の総仕上げだと思って、すまんが頼むぞ」
阿修羅坊は美作守を見ながら、仕方がないというように頷いた。「乗り掛かった舟じゃしな、やるしかないのう」
「おお、やってくれるか。すまんのう」美作守は満足そうに笑って、ふと思い出したかのように、「ところで、例の宝の方はどうした」と聞いた。
「わからん」と阿修羅坊は首を振った。
「太郎坊にも見つけられなかったのか」
「ああ、松阿弥に殺されなかったら、今頃、見つけておったかもしれんがのう」
「そうか、じゃあ、その件も引き続き頼むぞ」
「ああ、わかった」
「とにかく、明日のうちに準備をして、あさってには国元に向かうようにしよう。まあ、おぬしは、その間、のんびりしていてくれ」
そう言うと美作守は阿修羅坊を客間に案内して、また、出掛けて行った。
阿修羅坊は客間に寝そべると美作守が言った事を考えていた。
美女たちが黄色い声を上げて騒いでいる。
鼻の下を伸ばした阿修羅坊が美女たちに囲まれて酒を飲んでいた。
浦上美作守は阿修羅坊の今までの苦労をねぎらうため、豪華な料理と上等な酒と一流の遊女を用意して、ささやかな宴を開いてくれた。美作守自身は都の治安取り締まりに行かなきゃならんと、忙しそうに出掛けて行ったが、阿修羅坊は御機嫌だった。
振り返ると色々な事があった‥‥‥
それも、もうすぐ終わる。明後日、太郎坊の偽者を置塩城下まで連れて行き、偽者と本物をすり替えればいい事だった。ただ、偽者をどうするかが問題だった。京極氏の伜が偽者になるというのは、ちょっと始末に悪い。何とか説得して戻ってもらうか、最悪の場合は、殺して山の中に埋めてしまうしかないか、と思った。
そして、太郎坊がまだ生きていた事など、まったく知らなかったと、とぼけていればいい。松阿弥に殺されたのが替玉だったとは全然知らなかった。奴が使う『志能便の術』というのは大したもんだ、このわしまで騙しおった、と言えば、何とかなるだろうと思っていた。
美作守と打ち合わせが済んだ後、阿修羅坊は後を追って来た伊助と藤吉に会って、美作守の作戦をすべて話した。藤吉は明日の朝早く播磨に帰ると言う。太郎坊に美作守の出方を報告してくれるだろう。太郎坊はただ、偽者が城下に入って来るのを待っていればいいだけだった。
太郎坊の考えでは、美作守は身代わりを城下に送るが、楓と会うと偽者だとばれてしまうので、途中で殺させるだろうと言っていた。しかし、美作守はそんな事は一言も言わなかった。偽者を城下に入れ、楓殿と会わせ、たとえ、形だけでもいいから夫婦にして披露式典に出せと言う。よく考えて見れば、お屋形様の姉君の御亭主が何者かに殺されたとあっては体裁が悪い。体裁を重んじる美作守が、そんな事をするわけがなかった。
阿修羅坊は美女たちに囲まれて、すっかり、いい気持ちになっていた。
三人の美女はどれも阿修羅坊好みの女だった。美作守が阿修羅坊の好みを心得ていて、わざわざ揃えてくれたに違いなかった。憎い事をするわ、と阿修羅坊は美作守に感謝していた。
その頃、美作守は崩れたまま放置してある相国寺の僧院の中で、瑠璃寺の山伏、正明坊と会っていた。
「どうじゃ、この間の京極の伜、次郎右衛門高秀とやらの具合は良くなったか」と美作守は正明坊に聞いた。
「はあ? どうしたんです、そんな事、急に聞いたりして」と正明坊は怪訝(ケゲン)な顔をした。
「急に、そいつを使う事に決まった」
「使う?」
「ああ、どうしても、そいつが必要なんじゃ。どうじゃ、もう傷は治ったか」
「死にましたよ」と正明坊は言った。
「なに、死んだ?」
「ええ、五日前です」
「死んだのか」と美作守はつぶやき、舌を打ってから、「傷はそんなに深かったのか」と聞いた。
「いえ、大した事ありません。治ると思っていたんですけどね、傷口から入った毒が回ったんでしょう。朝、気が付いたら冷たくなってましたよ」
「死んじまったのか」と言いながら美作守はすぐに次の対策を練っていた。
「一体、奴をどう使うつもりだったんですか」
「いや、死んじまったんなら、しょうがない。それで、死んだ事を京極氏に伝えたのか」
「それが、治部少輔殿がどこにいるのかわからんのですよ。次郎右衛門からも渡してくれと頼まれた書状もあるんですけどね」
「という事は、次郎右衛門が死んだ事は、まだ誰も知らんのじゃな」
「そういう事になりますね」
「まあいい。さて、本題に入るか」と言って美作守は正明坊に内密の仕事を頼んだ。
その仕事とは、正明坊に野武士に化けて、ある連中を襲って欲しいというものだった。ある連中とは勿論、偽太郎坊の一行だった。
阿修羅坊には、ああは言ったものの、偽者を国元に送って、うまく行くとは美作守も思ってはいなかった。『噂』の手前、太郎坊を国元に送らなければならない。しかし、送ったら偽者だとばれてしまう。事をうまく運ぶには、途中で偽者を消さなくてはならない。誰にも怪しまれずに偽者を消すには、今、京の都で暴れ回っている野武士集団に襲わせるのが最上の策だった。赤松家にとっては、やはり、楓に亭主などいない方が良かった。これで、すべてがうまく行くと美作守は思った。
それと、阿修羅坊の問題もあった。今回の仕事で、阿修羅坊は瑠璃寺の山伏を使い、犠牲者を多く出し過ぎた。その中には瑠璃寺においても重要な山伏が何人もいた。美作守の所に、瑠璃寺から責任を取ってくれと、うるさく言って来ていた。本人はまだ知らないが、阿修羅坊は瑠璃寺から破門されていた。瑠璃寺と縁の切れた阿修羅坊は美作守にとって、この先、用のない者だった。美作守は阿修羅坊も一緒に消してしまうつもりでいた。
あまり、乗り気でなかった正明坊も、阿修羅坊を消せと言った途端に態度が変わった。阿修羅坊がいなくなれば、瑠璃寺においても格が上がるし、美作守が抱えている山伏の中でも一番という事になる。今までは阿修羅坊がいたお陰で、うまい汁をみんな、阿修羅坊に吸われてしまっていた。これからは自分がうまい汁を思う存分に吸う事ができる。張り切らずにはいられなかった。
美作守は正明坊に作戦を詳しく説明した。
明後日、阿修羅坊と楓殿の御主人に扮した偽者の一行が国元に向かって旅立つ。人数は騎馬武者二十騎に徒歩(カチ)武者百人。人数は多いが烏合(ウゴウ)の衆だ。戦闘能力はまったくと言っていい程ない。
その一行は明後日の朝、京を出て、一日目は芥川(高槻)に泊まる。二日目は武庫川の辺り、三日目は有馬を過ぎた山の中となる。四日目は播磨の国に入って加古川に泊まり、五日目に置塩城下に到着する予定だ。
一行を襲うのは山城の国や摂津の国ではまずい。赤松家の武士が野武士にやられて全滅した事が噂になったらまずい。やるのは播磨の国に入って国境近くの山の中だ。
しかし、播磨の国に入ったとしても、国人たちの間にそんな噂が広まってはまずい。噂になっても、国人たちを納得させるようでなくてはならん。そこで、おぬしは騎馬隊五十騎を率いて襲い掛かれ。人の噂というのは大袈裟になるものだ。五十騎が百騎となる。百騎もの野武士集団に襲われたらしょうがないと思わせなくてはならん。
おぬしも知っている通り、今、京では髑髏(ドクロ)党とか卍(マンジ)党とか名乗る盗賊が出没しておる。おぬしらも何とか党と名付け、阿修羅坊一行をやっつけたら、そのまま、山名の領国に入って暴れ回ってもらいたい。やがて、その噂が広まれば、楓殿の御亭主殿も、あの連中にやられたのなら仕方がないと言う事になるだろう。
美作守が話し終わると正明坊はニヤニヤした。
「なかなか、面白そうですな。わしらは野武士集団になって暴れ回ればいいんですね」
「ああ、そうじゃ。しかし、山名の領国でじゃぞ」
「わかっております。その手初めに阿修羅坊を血祭りに上げるというわけですね」
「そうじゃ。気をつけて貰いたいのは、一行の中に、堀次郎がいるんじゃが、奴だけは逃がしてくれ。城下にやられた事を知らせてもらわなけりゃならんからのう」
「堀次郎だな」
「知ってるな」
「ええ、知ってます」
「どうだ、五十騎、集められるか」
「元手は出るんでしょう」
「勿論、出す。暴れ回るのはいいが絶対に捕まるなよ」
「捕まった奴は殺しますよ」
「おお、頼むぞ」
美作守は正明坊に軍資金を渡すと外に出た。
外には満月が出ていた。
誰か、偽者を見つけなけりゃならんな、と思った。どうせ、死んで貰う奴だ、誰でもいいだろう。それと、明日、国元に早馬を飛ばそうと思った。
楓殿の御亭主、京極次郎右衛門高秀殿、十八日、騎馬武者五十騎と徒歩武者二百人に守られ出立(シュッタツ)、国元に着到予定は二十二日、との書状を持たせて。
しかし、実際に送るのは、騎馬武者二十騎に徒歩武者百人だった。
この隊を率いて行くのは赤松家年寄衆の一人、堀兵庫助秀世の嫡男、堀次郎則秀と決めていた。騎馬武者二十騎は堀次郎とその家臣、徒歩武者百人は足軽を使うつもりでいた。
あとは、立派な格好をさせた偽の太郎坊と阿修羅坊で準備完了だった。
その百二十人と二人は何も知らずに、明後日、死に向かって旅立つ事になるのだった。
出立の準備は完了した。
偽太郎坊、と言うより、偽の京極次郎右衛門高秀は立派な侍大将の格好をして、立派な葦毛(アシゲ)の馬に乗っていた。見るからに、気品のある貴公子然とした若者だった。
成程、これが京極の伜か、と阿修羅坊は若者を見ていた。
美作守は、阿修羅坊には京極次郎右衛門高秀、本人だと言った。怪我もようやく治って、赤松家のお屋形の兄になれるのなら申し分はないと乗り気だったと言う。このまま、京極治部少輔のもとにいても芽が出そうもない。いっその事、赤松家の養子になった方が活躍する場があるかもしれないと、喜んで話に乗って来たと言う。
この男なら満更、悪くないかもしれないな、と阿修羅坊は思った。しかし、本物のように強そうには見えないし、武将になるよりは芸人にでもなった方がいいのではないか、とも思った。
阿修羅坊は京極の伜に声を掛けてみた。
「京極殿」と呼ぶと、伜は馬上から阿修羅坊の方をちらっと見ただけで、また視線を前に戻し、「何じゃ」と言った。
「傷の具合は、もうよろしいのでしょうか」と阿修羅坊は聞いた。
「心配いらん。もう大丈夫じゃ」と伜は正面を向いたまま答えた。
「そうですか。長旅になりますが、充分、お気を付け下さい」
「うむ」
名門を鼻にかけて気位が高いと見える。好かん野郎だ、と思った。
阿修羅坊は、この若者が本物の京極次郎右衛門と信じていたが、実際、次郎右衛門はすでに、この世にいない。この若者は太郎坊の偽者の次郎右衛門の、また偽者だった。
正体は阿修羅坊が思った通り、芸人だった。北野神社の辺りで男色を売っている野郎とか陰間(カゲマ)とか呼ばれている男娼だった。
美作守は昨日一日、取り締まりと称して盛り場を歩き回り、偽者を捜していた。とにかく、年の頃が二十二、三で、見目形のいい若者を捜していた。芸人の中に丁度いいのが見つかるだろう、と簡単に思っていたが、なかなか見つからなかった。夕方近くになり半ば諦め、仕方がないから、今、うちに居候している浪人者を使うかと思っていた。少々年を食っているし、品などないが仕方ないと諦めていた。そんな時、北野神社の参道に立っている若者を見つけた。野郎だという事はわかったが、こいつに鎧を着せれば立派な若武者になると、ぴんと来た。美作守は若者に声を掛け、屋敷に連れて来た。
話はすぐに決まった。美作守は若者に必要な知識を覚え込ませ、太郎坊に化けた京極次郎右衛門という役に仕立てた。京極次郎右衛門の正体が、北野神社の野郎だと知っているのは美作守と正明坊だけだった。
この隊を率いて行く堀次郎則秀などは、この若者、京極次郎右衛門というのがお屋形様の姉君、楓御料人様の御主人様だと信じ込み、この重要な任務の責任者に自分が選ばれた事に非常な名誉を感じて、一人で張り切っていた。編隊の指揮を執ったり、次郎右衛門にやたらと気を使ったり、出立前に忙しそうに走り回っていた。
阿修羅坊は出立前に伊助と会った。
「おぬしも先に帰って、国元の城下で待っていた方がいいんじゃないのか」と阿修羅坊は晴れ晴れとした顔をして言った。
「ええ。でも、もう少し、後について行きます」と伊助は答えた。
伊助は一昨日の夜、美作守が相国寺において、強そうな山伏と会ったのを見ていた。何を話していたのかはわからなかったが、美作守が何かたくらんでいる事は確かだった。その事を昨日、阿修羅坊に話すと、その山伏は正明坊に違いないと言った。そして、太郎坊に仕立てる京極の伜の事で会っているのだろうと言うだけで、別に気にもしていないようだった。しかし、伊助は気になっていた。
あの晩、伊助は、その山伏の後を付けようと思ったが見失ってしまった。まず先に、美作守が僧院から出て来た。そして、山伏が出て来るだろうと待っていたが、いつまで経っても出て来ない。おかしいと思って、僧院の中に入ってみたが誰もいなかった。山伏は別の所から出て行ったらしかった。考えて見れば、あんな破れ寺、出る所も入る所もいくらでもあった。
「何も起こらんと思うがの」と阿修羅坊は言って、心配ないと言うように笑った。美作守をすっかり信じきっているようだった。
「そうだといいんですけど‥‥‥」伊助は浮かない顔で阿修羅坊を見ながら、「その京極次郎右衛門とやらは、どんな男なんですか」と聞いた。
「どんな男と言われてものう。見た目は立派な若武者じゃのう。品があって、身分の高そうな若様という感じかのう」
「その若様は、いつ、浦上屋敷に入ったのです」
「さあなあ、昨日は見なかったのう。今朝は早くから支度をしていたようじゃから、昨日の夜にでも来たのかのう」
「わたしは昨日、夜中まで、ずっと、屋敷を見張らせていましたけど、そんな若様が入ったのを見ていないそうです」
「なに? 見ておらん」
「ええ。どこから来るにしろ、その若様は一人では来ないでしょう。何人か供を連れているはずです。そんな連中が屋敷に入って行くのは見ていないと言います」
「おかしいのう。もしかしたら、正明坊の奴が山伏にでも変装させて、ここに連れて来たのかもしれんぞ」
「ええ。山伏が三人、入って行くのは見たそうです」
「多分、それが、そうじゃ」
「しかし、その山伏は、しばらくして、三人で帰って行ったそうですよ」
「入れ代わったんじゃよ」
「それは考えられますけど、そんな風に隠す必要があるんですか」
「京極次郎右衛門を知ってる奴がおらんとも限らんじゃろう。見つかれば、楓殿の主人でない事がばれてしまう」
「成程‥‥‥しかし、今日は見られるでしょう。ばれるかも知れませんよ」
「なに、兜をかぶってしまえばわかりはせん。しかも、赤松家の兵に囲まれておれば、誰もが赤松家の若武者だと思う」
「そうですか‥‥‥」
「それよりもじゃ、偽者が城下に入ってから、どうしたらいいものかのう。偽者は楓殿のいる別所屋敷ではなく浦上屋敷に入る。そして、次の日、楓殿と対面するという事になっておる。偽者が対面のため、別所屋敷に来た時、本物と入れ代わればいいわけじゃが、果たして、偽者の方は一体、どうしたらいいものかのう」
「からくりを知ってますからね、生かしておくわけにはいかないでしょう」
「そうじゃのう。生かしておいて、京から来たのは太郎坊じゃなくて俺だなどと言い触らされたら、赤松家の信用にかかわるからのう。殺(ヤ)るしかないか‥‥‥」
「まあ、それは向こうに着いてから、太郎坊殿と相談すればいいんじゃないですか」
「そうじゃのう‥‥‥それじゃあ、わしは若様とのんびり国元に向かうわ」と言って阿修羅坊は戻って行った。
伊助は阿修羅坊のように美作守が信じられなかった。阿修羅坊の言う通り、何事もなく国元に帰れればいいが、美作守が何か、たくらんでいるような気がしてならなかった。
堀次郎の率いる騎馬武者二十騎と徒歩武者百人に守られて、偽者の京極次郎右衛門はどんよりと曇った空の下、京の都を後にした。
阿修羅坊は馬に乗り、堀次郎と並んで騎馬武者の後方にいた。
堀次郎は落ち着きのない男だった。こんな大任を任されたのは初めてなのか、ちょろちょろしていた。年の頃は太郎坊と同じ位だろうが、まったく頼りない男だった。
「頭数はいるが徒歩武者は足軽連中だし、もし、敵に襲われたら一巻の終わりじゃな」と阿修羅坊は脅かしてやった。
「大丈夫ですよ。敵なんかいませんよ。摂津の国は細川殿の領国だし、摂津の国を越えたら、もう国元です。敵なんかいませんよ」と堀次郎は言ったが、回りを見たり、後ろを見たり、おどおどしているようだった。
美作守も、何で、こんな奴に、この任務を任せたのだろう、まあ、安全な旅だから、こんな奴でも間に合うが、戦だったら使いものにならん。そうか、戦で使いものにならんから、この任務を与えたというわけか、成程、と阿修羅坊は一人で納得していた。
阿修羅坊たちの後ろには、槍をかついだ徒歩武者が列を組んで従っていた。そして、そのずっと後方に、商人姿の伊助の姿があった。
「まったく、足軽や浪人どもが徒党を組んで暴れ回りおって、今、京の都は大騒ぎじゃ。足軽や浪人だけならまだいいが、後ろに糸を引いてる大物が隠れておる。まったく始末におえんわい」美作守はそう言いながら、阿修羅坊の待つ部屋に入って来ると部屋の中を見回した。
阿修羅坊以外は誰もいなかった。
「どうしたんじゃ、奴は」
「遅すぎたんじゃ」と阿修羅坊は首を振った。「おぬしからの使いが来た時には、すでに、決闘が終わった後だったんじゃよ」
「それで?」
「二人とも死んだ」
「二人とも?」
「ああ、二人ともじゃ」
「相打ちか」
「いや、正確に言えば、松阿弥が勝った。しかし、松阿弥も太郎坊を斬った瞬間、血を吐いて倒れ、そのまま死んでしまったんじゃ」
「そうか、死んだのか‥‥‥」
阿修羅坊は美作守に二人の遺品を見せた。
松阿弥の仕込み杖、太郎坊が使った刀、そして、太郎坊の髪の毛を見せたが、美作守はろくに見ていないようだった。さっそく、次の対策を練っているようだった。
美作守は一応、太郎坊の髪を手に取って眺め、次に、松阿弥の仕込み杖を手に取り、抜いてみようとしていたが抜けなかった。
「手入れをしなかったから、くっついちまったんじゃのう」
阿修羅坊は太郎坊の刀を取って、抜こうとした。こっちの刀もくっついていた。
「そっちもか」と美作守は言った。「太郎坊も松阿弥を斬ったのか」
「ああ、肩先をちょっとな。しかし、致命傷という程じゃない」
「そうか‥‥‥死んだか」と言いながら美作守は仕込み杖を置いた。「ところで、国元の『噂』はどんなもんじゃ」
「みんな、楓殿の御亭主が生きていたと信じ込んでおる」
「そうか‥‥‥」
「みんな、楓殿の御亭主が城下に来るのを楽しみに待っておる」
「うむ。一体、その『噂』の出所はどこなのかのう」
「太郎坊じゃよ。太郎坊が自分で『噂』を広めたんじゃ」
「やはりのう。なかなか、やるもんじゃのう。おぬしの言った通り、味方にしておけば、役に立つ奴じゃったのう‥‥‥」
「国元には何と言ったんじゃ」と阿修羅坊は聞いた。
「噂通り、楓殿の御主人は生きておるとな‥‥‥太郎坊を送り込むつもりでおったんじゃが、死んでしまったのなら仕方ないのう」
「どうするんじゃ」
「今更、死んだとも言えまい。こっちの重臣たちには、今、怪我の療養中だと言ってある」
「こっちの重臣たちも楓殿の御主人が生きているという噂を知っておるのか」
「ああ、それぞれ、国元から連絡があったらしいのう」
「太郎坊の噂も大したものよのう。京にいる重臣たちも動かしたか」
「一つの噂に国元も京も振り回されておる」
「これも、志能便の術とかいうもんかのう」
「まったく、甘く見過ぎたわ」
「これから、どうするんじゃ」と阿修羅坊は聞いた。
「どうするかのう」と美作守はニヤニヤした。
「どうやら、決まったとみえるのう」と阿修羅坊は美作守の顔色を窺いながら言った。
「ほう、どうして、わかる」
「長年、付き合っておれば、その位の事、わかるわい。どうするつもりじゃ」
「まあ、ここではなんじゃから離れに行こう」
二人は太郎坊と松阿弥の遺品を持って、離れの書院へと向かった。
書院に入ると阿修羅坊は天井を見上げた。
「この上に太郎坊が隠れておったんじゃのう」
「まったくのう。この屋敷に忍び込むとは大胆不敵な奴じゃ」
美作守は遺品を文机(フヅクエ)の上に置くと、障子を閉めて腰を降ろした。
「さっきの話じゃがのう。こっちの重臣たちには楓殿の御主人は京極大膳大夫の伜、次郎右衛門高秀で、今、怪我をしていて療養中じゃ、と言ってあるんじゃ」
「京極次郎右衛門高秀? 聞いた事もないのう。そんな奴がおるのか」と阿修羅坊も腰を降ろした。
「それがおるんじゃ。正明坊の奴がな、叡山(エイザン)の山の中で、その次郎右衛門を拾ったんじゃよ。奴は本当に怪我をしておってな、今、ある所で療養しておる。もう、かなり良くなってるはずじゃ。重臣たちに楓殿の御主人の身元を聞かれてのう。まさか、本名を言うわけにもいかんしのう。そいつの事を思い出して、そう言ってしまったんじゃ。とにかく、その時は、何とか、その場を乗り切れば後は何とかなるじゃろうと思ったんじゃ。太郎坊を、そいつの弟という事にしてもいいと思ってたんじゃよ」
「ところが、太郎坊は死んだ」と阿修羅坊は言って美作守の顔を見つめた。「その男を使うつもりなのか」
「それしか、あるまい」美作守は、もう決めたという顔で頷いた。
阿修羅坊は天井を見上げ、しばらくしてから、「いくつなんじゃ、その京極の伜は」と聞いた。
「わしも、まだ会っとらんので詳しくは知らんが、二十四、五とか言っておったかのう。太郎坊とそう大して違うまい」
「二十四、五か‥‥‥二十四、五にもなっておれば妻も子もおるじゃろう」
「まあな。とにかく、重臣どもを納得させるには奴を送り込むしかあるまい。京極氏は出雲の国(島根県東部)を持っておるしのう。山名氏を挟み打ちにするのには持って来いじゃ」
「しかし、出雲の国は今、守護代の尼子刑部少輔(アマゴギョウブショウユウ)が握っておると聞いておるぞ」
「尼子か‥‥‥力はあるらしいが、まだ、京極氏に刃向かう程の力はないじゃろう」
「まあいい。その京極の伜を国元に送るとしてじゃ。楓殿と会えば、すぐに偽者とばれてしまうぞ」
「ああ、そこなんじゃ」と美作守は厳しい顔をして阿修羅を見た。「そこの所をおぬしに頼みたいんじゃ。何とか、楓殿を説得させて欲しいんじゃよ」
「どう説得させるんじゃ」
「仮にでもいい。京極の伜と一緒になって貰いたいとな」
「何じゃと! そんな事、無理に決まっておるわ」
「楓殿は御主人が死んだ事を御存じないのか」
「知らん。楓殿も御主人が城下に入って来るのを楽しみに待っておる」
「そうか‥‥‥赤松家のために、一緒になってくれと言っても無理かのう」
「無理じゃろうのう。死んだ事もわしが知らせるのか」
「頼む」
「しかしのう。楓殿に、御主人が死んだとは、とても言えんのう」
「じゃが、他にいい方法があるか」
「しかしのう‥‥‥」阿修羅坊は腕を組んで、首を振った。
「仮にでいいんじゃ。今は国元の『噂』を静めなくてはならん。播磨の国中が『噂』の結末を見守っているんじゃ。この結末を付けなければならん。とにかく、偽者でも何でも楓殿の御主人を国元に送らなければならんのじゃ。そして、その後の披露式典まで何とか夫婦でいてくれればいい。その後は離縁しても構わん。理由は何とでも付くじゃろう」
「京極氏を離縁するのか。敵を作る事になるぞ」
「今、京極氏は二つに分裂しておる。叔父と甥で争っておる。赤松家を敵に回す暇などあまい」
「そうだといいんじゃがのう」
「どうじゃ。おぬしがうまく楓殿を説得してくれんかのう。こんな事、頼めるのはおぬししかおらんのじゃ」
「国元にはどう説明するんじゃ」
「できれば、偽者という事は隠しておきたいが無理じゃろうのう。加賀守には本当の事を言った方がいいかもしれん。その辺のところは、おぬしに任せる。ただ、城下の者たちや播磨の国人たちには絶対にばれる事があってはならん」
「わかっとる」
「これが、今回の仕事の総仕上げだと思って、すまんが頼むぞ」
阿修羅坊は美作守を見ながら、仕方がないというように頷いた。「乗り掛かった舟じゃしな、やるしかないのう」
「おお、やってくれるか。すまんのう」美作守は満足そうに笑って、ふと思い出したかのように、「ところで、例の宝の方はどうした」と聞いた。
「わからん」と阿修羅坊は首を振った。
「太郎坊にも見つけられなかったのか」
「ああ、松阿弥に殺されなかったら、今頃、見つけておったかもしれんがのう」
「そうか、じゃあ、その件も引き続き頼むぞ」
「ああ、わかった」
「とにかく、明日のうちに準備をして、あさってには国元に向かうようにしよう。まあ、おぬしは、その間、のんびりしていてくれ」
そう言うと美作守は阿修羅坊を客間に案内して、また、出掛けて行った。
阿修羅坊は客間に寝そべると美作守が言った事を考えていた。
2
美女たちが黄色い声を上げて騒いでいる。
鼻の下を伸ばした阿修羅坊が美女たちに囲まれて酒を飲んでいた。
浦上美作守は阿修羅坊の今までの苦労をねぎらうため、豪華な料理と上等な酒と一流の遊女を用意して、ささやかな宴を開いてくれた。美作守自身は都の治安取り締まりに行かなきゃならんと、忙しそうに出掛けて行ったが、阿修羅坊は御機嫌だった。
振り返ると色々な事があった‥‥‥
それも、もうすぐ終わる。明後日、太郎坊の偽者を置塩城下まで連れて行き、偽者と本物をすり替えればいい事だった。ただ、偽者をどうするかが問題だった。京極氏の伜が偽者になるというのは、ちょっと始末に悪い。何とか説得して戻ってもらうか、最悪の場合は、殺して山の中に埋めてしまうしかないか、と思った。
そして、太郎坊がまだ生きていた事など、まったく知らなかったと、とぼけていればいい。松阿弥に殺されたのが替玉だったとは全然知らなかった。奴が使う『志能便の術』というのは大したもんだ、このわしまで騙しおった、と言えば、何とかなるだろうと思っていた。
美作守と打ち合わせが済んだ後、阿修羅坊は後を追って来た伊助と藤吉に会って、美作守の作戦をすべて話した。藤吉は明日の朝早く播磨に帰ると言う。太郎坊に美作守の出方を報告してくれるだろう。太郎坊はただ、偽者が城下に入って来るのを待っていればいいだけだった。
太郎坊の考えでは、美作守は身代わりを城下に送るが、楓と会うと偽者だとばれてしまうので、途中で殺させるだろうと言っていた。しかし、美作守はそんな事は一言も言わなかった。偽者を城下に入れ、楓殿と会わせ、たとえ、形だけでもいいから夫婦にして披露式典に出せと言う。よく考えて見れば、お屋形様の姉君の御亭主が何者かに殺されたとあっては体裁が悪い。体裁を重んじる美作守が、そんな事をするわけがなかった。
阿修羅坊は美女たちに囲まれて、すっかり、いい気持ちになっていた。
三人の美女はどれも阿修羅坊好みの女だった。美作守が阿修羅坊の好みを心得ていて、わざわざ揃えてくれたに違いなかった。憎い事をするわ、と阿修羅坊は美作守に感謝していた。
その頃、美作守は崩れたまま放置してある相国寺の僧院の中で、瑠璃寺の山伏、正明坊と会っていた。
「どうじゃ、この間の京極の伜、次郎右衛門高秀とやらの具合は良くなったか」と美作守は正明坊に聞いた。
「はあ? どうしたんです、そんな事、急に聞いたりして」と正明坊は怪訝(ケゲン)な顔をした。
「急に、そいつを使う事に決まった」
「使う?」
「ああ、どうしても、そいつが必要なんじゃ。どうじゃ、もう傷は治ったか」
「死にましたよ」と正明坊は言った。
「なに、死んだ?」
「ええ、五日前です」
「死んだのか」と美作守はつぶやき、舌を打ってから、「傷はそんなに深かったのか」と聞いた。
「いえ、大した事ありません。治ると思っていたんですけどね、傷口から入った毒が回ったんでしょう。朝、気が付いたら冷たくなってましたよ」
「死んじまったのか」と言いながら美作守はすぐに次の対策を練っていた。
「一体、奴をどう使うつもりだったんですか」
「いや、死んじまったんなら、しょうがない。それで、死んだ事を京極氏に伝えたのか」
「それが、治部少輔殿がどこにいるのかわからんのですよ。次郎右衛門からも渡してくれと頼まれた書状もあるんですけどね」
「という事は、次郎右衛門が死んだ事は、まだ誰も知らんのじゃな」
「そういう事になりますね」
「まあいい。さて、本題に入るか」と言って美作守は正明坊に内密の仕事を頼んだ。
その仕事とは、正明坊に野武士に化けて、ある連中を襲って欲しいというものだった。ある連中とは勿論、偽太郎坊の一行だった。
阿修羅坊には、ああは言ったものの、偽者を国元に送って、うまく行くとは美作守も思ってはいなかった。『噂』の手前、太郎坊を国元に送らなければならない。しかし、送ったら偽者だとばれてしまう。事をうまく運ぶには、途中で偽者を消さなくてはならない。誰にも怪しまれずに偽者を消すには、今、京の都で暴れ回っている野武士集団に襲わせるのが最上の策だった。赤松家にとっては、やはり、楓に亭主などいない方が良かった。これで、すべてがうまく行くと美作守は思った。
それと、阿修羅坊の問題もあった。今回の仕事で、阿修羅坊は瑠璃寺の山伏を使い、犠牲者を多く出し過ぎた。その中には瑠璃寺においても重要な山伏が何人もいた。美作守の所に、瑠璃寺から責任を取ってくれと、うるさく言って来ていた。本人はまだ知らないが、阿修羅坊は瑠璃寺から破門されていた。瑠璃寺と縁の切れた阿修羅坊は美作守にとって、この先、用のない者だった。美作守は阿修羅坊も一緒に消してしまうつもりでいた。
あまり、乗り気でなかった正明坊も、阿修羅坊を消せと言った途端に態度が変わった。阿修羅坊がいなくなれば、瑠璃寺においても格が上がるし、美作守が抱えている山伏の中でも一番という事になる。今までは阿修羅坊がいたお陰で、うまい汁をみんな、阿修羅坊に吸われてしまっていた。これからは自分がうまい汁を思う存分に吸う事ができる。張り切らずにはいられなかった。
美作守は正明坊に作戦を詳しく説明した。
明後日、阿修羅坊と楓殿の御主人に扮した偽者の一行が国元に向かって旅立つ。人数は騎馬武者二十騎に徒歩(カチ)武者百人。人数は多いが烏合(ウゴウ)の衆だ。戦闘能力はまったくと言っていい程ない。
その一行は明後日の朝、京を出て、一日目は芥川(高槻)に泊まる。二日目は武庫川の辺り、三日目は有馬を過ぎた山の中となる。四日目は播磨の国に入って加古川に泊まり、五日目に置塩城下に到着する予定だ。
一行を襲うのは山城の国や摂津の国ではまずい。赤松家の武士が野武士にやられて全滅した事が噂になったらまずい。やるのは播磨の国に入って国境近くの山の中だ。
しかし、播磨の国に入ったとしても、国人たちの間にそんな噂が広まってはまずい。噂になっても、国人たちを納得させるようでなくてはならん。そこで、おぬしは騎馬隊五十騎を率いて襲い掛かれ。人の噂というのは大袈裟になるものだ。五十騎が百騎となる。百騎もの野武士集団に襲われたらしょうがないと思わせなくてはならん。
おぬしも知っている通り、今、京では髑髏(ドクロ)党とか卍(マンジ)党とか名乗る盗賊が出没しておる。おぬしらも何とか党と名付け、阿修羅坊一行をやっつけたら、そのまま、山名の領国に入って暴れ回ってもらいたい。やがて、その噂が広まれば、楓殿の御亭主殿も、あの連中にやられたのなら仕方がないと言う事になるだろう。
美作守が話し終わると正明坊はニヤニヤした。
「なかなか、面白そうですな。わしらは野武士集団になって暴れ回ればいいんですね」
「ああ、そうじゃ。しかし、山名の領国でじゃぞ」
「わかっております。その手初めに阿修羅坊を血祭りに上げるというわけですね」
「そうじゃ。気をつけて貰いたいのは、一行の中に、堀次郎がいるんじゃが、奴だけは逃がしてくれ。城下にやられた事を知らせてもらわなけりゃならんからのう」
「堀次郎だな」
「知ってるな」
「ええ、知ってます」
「どうだ、五十騎、集められるか」
「元手は出るんでしょう」
「勿論、出す。暴れ回るのはいいが絶対に捕まるなよ」
「捕まった奴は殺しますよ」
「おお、頼むぞ」
美作守は正明坊に軍資金を渡すと外に出た。
外には満月が出ていた。
誰か、偽者を見つけなけりゃならんな、と思った。どうせ、死んで貰う奴だ、誰でもいいだろう。それと、明日、国元に早馬を飛ばそうと思った。
楓殿の御亭主、京極次郎右衛門高秀殿、十八日、騎馬武者五十騎と徒歩武者二百人に守られ出立(シュッタツ)、国元に着到予定は二十二日、との書状を持たせて。
しかし、実際に送るのは、騎馬武者二十騎に徒歩武者百人だった。
この隊を率いて行くのは赤松家年寄衆の一人、堀兵庫助秀世の嫡男、堀次郎則秀と決めていた。騎馬武者二十騎は堀次郎とその家臣、徒歩武者百人は足軽を使うつもりでいた。
あとは、立派な格好をさせた偽の太郎坊と阿修羅坊で準備完了だった。
その百二十人と二人は何も知らずに、明後日、死に向かって旅立つ事になるのだった。
3
出立の準備は完了した。
偽太郎坊、と言うより、偽の京極次郎右衛門高秀は立派な侍大将の格好をして、立派な葦毛(アシゲ)の馬に乗っていた。見るからに、気品のある貴公子然とした若者だった。
成程、これが京極の伜か、と阿修羅坊は若者を見ていた。
美作守は、阿修羅坊には京極次郎右衛門高秀、本人だと言った。怪我もようやく治って、赤松家のお屋形の兄になれるのなら申し分はないと乗り気だったと言う。このまま、京極治部少輔のもとにいても芽が出そうもない。いっその事、赤松家の養子になった方が活躍する場があるかもしれないと、喜んで話に乗って来たと言う。
この男なら満更、悪くないかもしれないな、と阿修羅坊は思った。しかし、本物のように強そうには見えないし、武将になるよりは芸人にでもなった方がいいのではないか、とも思った。
阿修羅坊は京極の伜に声を掛けてみた。
「京極殿」と呼ぶと、伜は馬上から阿修羅坊の方をちらっと見ただけで、また視線を前に戻し、「何じゃ」と言った。
「傷の具合は、もうよろしいのでしょうか」と阿修羅坊は聞いた。
「心配いらん。もう大丈夫じゃ」と伜は正面を向いたまま答えた。
「そうですか。長旅になりますが、充分、お気を付け下さい」
「うむ」
名門を鼻にかけて気位が高いと見える。好かん野郎だ、と思った。
阿修羅坊は、この若者が本物の京極次郎右衛門と信じていたが、実際、次郎右衛門はすでに、この世にいない。この若者は太郎坊の偽者の次郎右衛門の、また偽者だった。
正体は阿修羅坊が思った通り、芸人だった。北野神社の辺りで男色を売っている野郎とか陰間(カゲマ)とか呼ばれている男娼だった。
美作守は昨日一日、取り締まりと称して盛り場を歩き回り、偽者を捜していた。とにかく、年の頃が二十二、三で、見目形のいい若者を捜していた。芸人の中に丁度いいのが見つかるだろう、と簡単に思っていたが、なかなか見つからなかった。夕方近くになり半ば諦め、仕方がないから、今、うちに居候している浪人者を使うかと思っていた。少々年を食っているし、品などないが仕方ないと諦めていた。そんな時、北野神社の参道に立っている若者を見つけた。野郎だという事はわかったが、こいつに鎧を着せれば立派な若武者になると、ぴんと来た。美作守は若者に声を掛け、屋敷に連れて来た。
話はすぐに決まった。美作守は若者に必要な知識を覚え込ませ、太郎坊に化けた京極次郎右衛門という役に仕立てた。京極次郎右衛門の正体が、北野神社の野郎だと知っているのは美作守と正明坊だけだった。
この隊を率いて行く堀次郎則秀などは、この若者、京極次郎右衛門というのがお屋形様の姉君、楓御料人様の御主人様だと信じ込み、この重要な任務の責任者に自分が選ばれた事に非常な名誉を感じて、一人で張り切っていた。編隊の指揮を執ったり、次郎右衛門にやたらと気を使ったり、出立前に忙しそうに走り回っていた。
阿修羅坊は出立前に伊助と会った。
「おぬしも先に帰って、国元の城下で待っていた方がいいんじゃないのか」と阿修羅坊は晴れ晴れとした顔をして言った。
「ええ。でも、もう少し、後について行きます」と伊助は答えた。
伊助は一昨日の夜、美作守が相国寺において、強そうな山伏と会ったのを見ていた。何を話していたのかはわからなかったが、美作守が何かたくらんでいる事は確かだった。その事を昨日、阿修羅坊に話すと、その山伏は正明坊に違いないと言った。そして、太郎坊に仕立てる京極の伜の事で会っているのだろうと言うだけで、別に気にもしていないようだった。しかし、伊助は気になっていた。
あの晩、伊助は、その山伏の後を付けようと思ったが見失ってしまった。まず先に、美作守が僧院から出て来た。そして、山伏が出て来るだろうと待っていたが、いつまで経っても出て来ない。おかしいと思って、僧院の中に入ってみたが誰もいなかった。山伏は別の所から出て行ったらしかった。考えて見れば、あんな破れ寺、出る所も入る所もいくらでもあった。
「何も起こらんと思うがの」と阿修羅坊は言って、心配ないと言うように笑った。美作守をすっかり信じきっているようだった。
「そうだといいんですけど‥‥‥」伊助は浮かない顔で阿修羅坊を見ながら、「その京極次郎右衛門とやらは、どんな男なんですか」と聞いた。
「どんな男と言われてものう。見た目は立派な若武者じゃのう。品があって、身分の高そうな若様という感じかのう」
「その若様は、いつ、浦上屋敷に入ったのです」
「さあなあ、昨日は見なかったのう。今朝は早くから支度をしていたようじゃから、昨日の夜にでも来たのかのう」
「わたしは昨日、夜中まで、ずっと、屋敷を見張らせていましたけど、そんな若様が入ったのを見ていないそうです」
「なに? 見ておらん」
「ええ。どこから来るにしろ、その若様は一人では来ないでしょう。何人か供を連れているはずです。そんな連中が屋敷に入って行くのは見ていないと言います」
「おかしいのう。もしかしたら、正明坊の奴が山伏にでも変装させて、ここに連れて来たのかもしれんぞ」
「ええ。山伏が三人、入って行くのは見たそうです」
「多分、それが、そうじゃ」
「しかし、その山伏は、しばらくして、三人で帰って行ったそうですよ」
「入れ代わったんじゃよ」
「それは考えられますけど、そんな風に隠す必要があるんですか」
「京極次郎右衛門を知ってる奴がおらんとも限らんじゃろう。見つかれば、楓殿の主人でない事がばれてしまう」
「成程‥‥‥しかし、今日は見られるでしょう。ばれるかも知れませんよ」
「なに、兜をかぶってしまえばわかりはせん。しかも、赤松家の兵に囲まれておれば、誰もが赤松家の若武者だと思う」
「そうですか‥‥‥」
「それよりもじゃ、偽者が城下に入ってから、どうしたらいいものかのう。偽者は楓殿のいる別所屋敷ではなく浦上屋敷に入る。そして、次の日、楓殿と対面するという事になっておる。偽者が対面のため、別所屋敷に来た時、本物と入れ代わればいいわけじゃが、果たして、偽者の方は一体、どうしたらいいものかのう」
「からくりを知ってますからね、生かしておくわけにはいかないでしょう」
「そうじゃのう。生かしておいて、京から来たのは太郎坊じゃなくて俺だなどと言い触らされたら、赤松家の信用にかかわるからのう。殺(ヤ)るしかないか‥‥‥」
「まあ、それは向こうに着いてから、太郎坊殿と相談すればいいんじゃないですか」
「そうじゃのう‥‥‥それじゃあ、わしは若様とのんびり国元に向かうわ」と言って阿修羅坊は戻って行った。
伊助は阿修羅坊のように美作守が信じられなかった。阿修羅坊の言う通り、何事もなく国元に帰れればいいが、美作守が何か、たくらんでいるような気がしてならなかった。
堀次郎の率いる騎馬武者二十騎と徒歩武者百人に守られて、偽者の京極次郎右衛門はどんよりと曇った空の下、京の都を後にした。
阿修羅坊は馬に乗り、堀次郎と並んで騎馬武者の後方にいた。
堀次郎は落ち着きのない男だった。こんな大任を任されたのは初めてなのか、ちょろちょろしていた。年の頃は太郎坊と同じ位だろうが、まったく頼りない男だった。
「頭数はいるが徒歩武者は足軽連中だし、もし、敵に襲われたら一巻の終わりじゃな」と阿修羅坊は脅かしてやった。
「大丈夫ですよ。敵なんかいませんよ。摂津の国は細川殿の領国だし、摂津の国を越えたら、もう国元です。敵なんかいませんよ」と堀次郎は言ったが、回りを見たり、後ろを見たり、おどおどしているようだった。
美作守も、何で、こんな奴に、この任務を任せたのだろう、まあ、安全な旅だから、こんな奴でも間に合うが、戦だったら使いものにならん。そうか、戦で使いものにならんから、この任務を与えたというわけか、成程、と阿修羅坊は一人で納得していた。
阿修羅坊たちの後ろには、槍をかついだ徒歩武者が列を組んで従っていた。そして、そのずっと後方に、商人姿の伊助の姿があった。
28.婆裟羅党
1
太郎坊、風光坊、探真坊、八郎坊の四人が、見事に銀山を見つけ出し、置塩城下に戻って来たのは、十八日の昼過ぎの未(ヒツジ)の刻(午後二時)頃だった。
木賃宿『浦浪』に戻ると、京から戻った藤吉が待っていた。今日は舞台がないので、金勝座の者たちもごろごろしていた。
太郎は待っていた金勝座の者たちに旅の成果を知らせた。皆、大喜びだった。そして、こちらの方の準備の具合を聞くと、順調に行っていると言う。武器、武具、馬も、みんな揃い、人数も二百五十人集まっている。夢庵はすでに、武器や武具を積んだ荷車を五台率いて、紺屋(コウヤ)二十三人と共に、先に大谿寺(タイケイジ)に向かったと言う。
馬に乗れる者も馬借(バシャク)が三十三人と浪人者が十二人集まった。荷車はあと十五台あり、いつでも出発できるようになっていると言う。
太郎は左近からの話を聞き終わると皆にお礼を言って、今度は、藤吉から京の浦上美作守の様子を聞いた。
「美作守は思った通り、太郎坊殿の偽者を仕立てました。その偽者というのは京極氏の伜です」
「京極氏?」と探真坊が聞いた。
「近江の佐々木氏の一族です。六角氏と同族で、赤松氏と同じく四職家の一つです」
「家格が合うと言うわけですね」と太郎は言った。
「はい、そうです。ただ、どうも、そいつも臭い。わたしが思うには、そいつも偽者のような気がします」
「どういう事です」
「詳しくはわかりませんが、どうも話がうま過ぎます。伊助殿が、その辺のところは調べるとは思いますけど。それと、美作守が夜、こっそりと阿修羅坊以外の山伏と会っていました。誰だかはわかりませんが、何かをたくらんでいるようです」
「阿修羅坊以外の山伏か‥‥‥」やはり、新しい敵が現れたかと太郎は思った。
「その偽者ですけど、今日、京を立ったはずです。こっちに着くのは二十二日の予定です」
「二十二日か‥‥‥となると、播磨の国境を通るのは早くて、二十日の午後、遅くても二十一日の昼までには通るな。偽者はどこを通って来ますか」
「有馬街道です」
「やはり、そうですか。夢庵殿の勘が当たったわけですね」
「はい。ところで、もし、太郎坊殿に化けているのが本物の京極氏だとしたら、美作守は殺すでしょうか」
「わかりません。殺さなかった場合は、また、後で考えましょう。とりあえずは、大谿寺で待機して相手の出方を見ましょう」
「そうですね」
太郎は三人の弟子を連れて小野屋に向かった。裏口から入ると、庭に荷車が十五台も並んでいた。そして、次郎吉が荷車に積んだ荷物を直していた。
「おお、やっと、戻ったか」と太郎の顔を見ると次郎吉は笑った。「どうじゃ、宝は見つかったか」
「はい。運よく見つかりました」
「なに、見つかったのか。そいつは良かった。やはり、生野に銀山はあったか」
「ええ、ありました。しかし、とても、素人にわかるような物ではありませんでした」
「そうじゃろうのう。しかし、よく見つけられたな」
「運が良かったとしか言えません」
「そうか。まあ、とにかく良かった」
「こっちの方はどうです」
「おう。こっちも準備完了じゃ」
次郎吉はニヤッと笑うと、見せたい物があると言って、太郎たちを小野屋の一室に連れて行った。
部屋の中に見事な鎧兜(ヨロイカブト)が飾ってあった。
「どうじゃ」と次郎吉は鎧兜を見ながら言った。
「凄え!」と八郎坊が声を上げた。「こんなん着けるのは、よっぽど偉えお侍さんやな」
「まあな」と次郎吉は頷いた。「国持ち大名位じゃないと、こんなのは着けられん」
確かに、豪華で渋くて、凄い物だった。五ケ所浦にいた頃、愛洲の殿様の甲冑(カッチュウ)姿を見た事があるが、こんな立派な物ではなかった。見た事はないが、まるで、将軍様が身に着ける鎧のようだった。
「おぬしのじゃよ」と次郎吉は太郎に言った。
「はあ?」
「はあ? じゃない。おぬしが、これを着けるんじゃ」
「この俺が?」
「そうじゃ。おぬしは、ここのお屋形様の兄上になるんじゃぞ。この位、立派なのを着けんと国人たちに笑われる」
太郎は赤松家の武将になる事に決めてはいたが、お屋形様の兄上になるという自覚はまだなかった。確かに、次郎吉の言う通り、赤松家の武将になるという事は、ここのお屋形様の義理の兄になるという事だった。改めて、大変な事になったもんだ、と実感した。
「おぬしらのも立派な奴が用意してあるぞ」と次郎吉は三人に言った。
「おらのもか」と八郎坊は聞いた。
「ああ、これ程じゃないが、かなり立派じゃ。鎧に負けるなよ」
「おらも侍か‥‥‥」八郎坊はうっとりとしながら太郎の鎧を見ていた。
「お前、馬に乗る訓練をした方がいいんじゃないか」と探真坊が笑いながら言うと、「大丈夫や」と八郎坊は憮然として言った。
「そうそう、馬は今、馬場に預けてある」と次郎吉は言った。「鞍もみんな揃っておる。馬も立派なのを五十頭、揃えた。馬場にいる連中が皆、馬を見ながら羨ましそうな顔をしておったわ。一応、別所殿の名前で、京に送る馬という事で預かってもらっておる」
「えっ、馬も揃ったのですか」と太郎は驚いた。太郎たちが銀を捜している間、ここに残った人たちも必死にやるべき事をやってくれた。立派すぎる鎧を眺めながら、皆に感謝しなければならないと太郎は思った。
「ところで、小野屋さんは」と太郎は聞いた。
「あの人も、やり手で、なかなか忙しい人じゃよ」と次郎吉は笑った。「武具集めに奔走しておるかと思ったら、今度は釘(クギ)集めに奔走しておる。朝から出掛けたまま、どこに行ったのか戻って来ん」
「釘集めですか」と太郎は首を傾げた。
「何でも、新しい城下を作るそうで、大量の釘がいるんだそうじゃ」
「釘は鍛冶屋じゃないんですか」
「城下の鍛冶屋じゃ間に合わんのじゃと」
「へえ、小野屋さんは釘も扱ってるんですか」
「銭になれば、何でもやるんじゃろう」
次に、次郎吉は旗差物を見せてくれた。真っ黒な旗だった。
「上の方に、紋でも入れたかったんじゃかな。おぬしの紋もわからんし、そんな事をしてたら間に合わなくなるんで、真っ黒にしたんじゃよ。甲冑の方も黒だし、みんな、黒に統一したわけじゃが、どうじゃろう」
「いいんじゃないですか。黒備えなんて、凄みがあって、いいと思いますよ」
「うむ。ただのう、問題はそれを着る人間じゃ。いくら、甲冑が立派でも、着ている者がだらし無かったらどしようもないからのう。返って、みっともなくなるわ。びしっとしてもらわにゃあな」
「できれば訓練したいけど、そんな時間もないみたいですね」
「大谿寺に着いたら、やれるだけ訓練した方がいいな」
「そうですね」と太郎は頷いた。
次郎吉にお礼を言って別れると、太郎たちは銀左の屋敷に向かった。
屋敷に行くと、金比羅坊が待っていた。
「おお、帰って来たか。丁度いいところじゃ。今、主だった者を集めて、これからの事を相談しておったところじゃ。おぬしも来てくれ」
金比羅坊の後について行くと、玄関を上がった正面にある広間に、男が十人集まって絵地図を見ていた。
銀左以外は見た事もない男たちだった。太郎は金比羅坊によって、それらの癖のありそうな男たちを紹介された。
まず、馬借の頭の桜之介。馬借というのは、馬を使って物資を運ぶ運送業者の事であり、彼は城下にいる馬借たちの頭だった。名前は桜だが、睨まれたら、桜の花も一遍に散ってしまいそうな怖い顔をした男だった。右目の下に引きつったような目立つ傷があり、さらに凄みを増している。甲冑を身に着けたら貫禄のある武将になりそうだ。桜之介は三十二人の男どもを引き連れて来てくれた。勿論、全員、馬に乗れる。
次に、五十一人もの乞食を引き連れて来たという辻堂(ツジドウ)という名の乞食の頭。どう見ても乞食には見えない体格のいい赤ら顔の男だった。体も大きいが顔がやけに大きく、その顔に付いている目や鼻や口もすべて人並み以上に大きかった。その大きな部分品が髭の中に埋まっていた。
次に、金(カネ)掘り人足の頭、勘三郎。一見したところ、どこにでもいるような百姓の親爺だった。勘三郎は金掘り人足を二十三人連れて来ていた。砂金を探して山々を歩いているが、最近は砂金もなかなか見つからない。食うのにも困る有り様で、銀左が銭になる仕事があると言うので、二つ返事でやって来たと言う。
太郎は、もしかしたら知っているかもしれないと、鬼山(キノヤマ)左京大夫という名の山師を知っているかと聞いてみた。勘三郎は名前だけは知っていた。昔、鬼山一族という山師集団がいて、高度な技術を持っていたと言う。しかし、嘉吉の変の時、赤松家と共に滅んでしまい、今は、もう、その技術を知っている者は一人もいないとの事だった。
太郎は、その高度な技術というのは一体、どんなものだ、と聞いてみた。詳しくは知らないが、鬼山一族の者たちは岩の中から金や銀を取り出す事ができると言う。勘三郎たちには、それができない。金を取るには砂金を採集するしかなく、銀の場合は露頭に出ている鉱脈を掘って製錬するが、不純物のかなり混ざった銀しか作る事ができない。鬼山一族の作る銀とは比べものにならない程、お粗末な代物(シロモノ)しか作る事ができないと言う。
この仕事が終わったら、そのまま勘三郎たちを雇って、生野の銀山に連れて行こうと太郎は思った。
次は、浪人十一人を連れて来たという朝田新右衛門。新右衛門を含め、十二人は全員、馬に乗れるし、腕の方も立った。彼らは京から流れて来たと言う。それぞれが戦で主家を失い、浪人の身となり、一度は京に出たものの、足軽なら雇ってくれるが、武士として雇う者はなく、仕方なく、当てもないまま京を出た。しばらく、摂津の国をうろろしていたが、ここの城下がまだ新しく、景気もいいと聞いて、やって来たと言う。やっては来たが、なかなか機会がつかめず、懐の方が淋しくなって来たので、この仕事を引き受けたと言う。
新右衛門は見るからに腹を減らした浪人という感じだった。こんな浪人を雇う所などあるまいと思ったが、腕の方はかなり強そうだった。それだけの腕を持ちながら腹を減らしているという事は、武士としての誇りはまだ、持っているようだった。
次は、金剛寺の散所者(サンジョモノ)十七人を連れて来た申之助(サルノスケ)、猿というよりは狸親爺という言葉が、ぴったり当て嵌まるような男だった。
散所者というのは、貴族や寺社の荘園の片隅に住み、雑役などをしている者たちだった。荘園制度が崩壊するにしたがって彼らは解放され、百姓や商人、職人、芸人、運送業者などになって行った。申之助は雪彦山(セッピコサン)の山中にある金剛寺の荘園に属していた。この頃になると寺社や貴族の荘園の散所には、浪人者や浮浪者たちが入り込んで来ては寄生し、浮浪者の溜まり場と化していた。
次の源次郎も散所者だった。源次郎は大猿というか、猿顔の大男だった。口がやけに大きく、唇もまた分厚かった。源次郎は雪彦山の手前にある七種山(ナグサヤマ)の金剛城寺に属する散所者で、二十人を連れて来ていた。
次は八兵衛、川の民の頭で、三十五人を連れて行くと言う。蓬髪(ホウハツ)で顎の尖った目の細い男だった。八兵衛たちは、この城下に住んでいるわけではなく、夢前川の上流の方に住んでいた。城下にいる川の民は川による運送に携わっているが、八兵衛が率いて来た者たちは川漁をしたり、竹細工をしたりして生計を立てていた。
次にいる京介は、この城下にいる皮屋だった。京介も他の皮屋と同様に目付きの悪い男だった。人を見る時、顔を上げて正面から見ないで、下から覗くようにして見る変な癖を持っていた。長い間、人々から蔑視されていたので、自然に身に付いてしまった他人を警戒する態度なのだろうか。
太郎は海辺で育ったせいか、皮屋とか紺屋とか蔑視されている人たちを知らなかった。五ケ所浦に彼らがいなかったわけではないが、別に気にも止めなかった。太郎から見れば、彼らも職人の一人だと思うが、城下の者たちは、彼らを穢れた者たちとして軽蔑の眼差しで見ていた。太郎は昔、師匠から言われた『身分などはない。人間は皆同じだ』という言葉を信じていた。
京介は二十四人、連れて行けると言った。
最後に磨羅宗湛(マラソウタン)という、ふざけた名前の坊主がいた。医者だと言うが、ただの乞食坊主にしか見えなかった。源次郎の所に居候していて、この話を聞くと、怪我人が出そうじゃの、わしが行くしかあるまい、と言って、のこのこ一緒に付いて来たと言う。
もう一人、この城下の紺屋二十二人率いている弥次郎というのがいるが、すでに、夢庵と一緒に、大谿寺に向かって先に行ったと言う。
全部で二百四十五人。うち、馬に乗れる者が四十五人。あと、太郎と風光坊、探真坊、八郎坊、次郎吉、藤吉、弥平次、吉次、そして、夢庵と金比羅坊が加わると二百五十五人が集まった事になった。
太郎は、藤吉の言った事を皆に知らせ、明日からの打ち合わせをした。
大体の打ち合わせが済むと、三人の弟子たちを明日の準備のため、金比羅坊のもとに残し、太郎は一人で別所屋敷に向かった。
夕焼けが綺麗だった。
あちこち行っているうちに、とうとう日暮れ時になってしまった。
太郎は一旦、浦浪に戻り、職人の姿になると別所屋敷に向かった。
別所屋敷の裏門の辺りで執事の織部祐がうろうろしていた。織部祐は太郎を見つけると、太郎の方に駈け寄って来た。
「太郎殿、一体、どこに行ってらしたのです。殿がお待ちです」
裏門から入ると、太郎は織部祐に書斎に案内された。庭で、百太郎と加賀守の息子、小三郎が桃恵尼と遊んでいたが、太郎には気づかなかった。太郎はそのまま縁側から書斎へと上がって行った。
書斎では加賀守ともう一人の侍が話をしていた。太郎の顔を見ると織部祐と同じように、どこに行っていた、と聞いてきた。
「人集めです」と太郎は答えた。
「うむ、それは夢庵殿から聞いている。美作守が送り込む、そなたの偽者が途中で殺された場合、偽者が引き連れて来た兵たちも四散してしまう可能性がある。そこで、そなたは二百五十人の兵も集めているそうじゃのう。どうじゃ、集まったのか」
「はい、何とか二百五十人、集める事ができました」
「なに、二百五十人も集めたのか。そいつは大したもんじゃのう。まあ、座ってくれ」
太郎が座ると、「これは、わしのいとこの別所造酒祐(ミキノスケ)じゃ」と加賀守は侍を紹介した。
そして、加賀守は造酒祐に太郎の事を、楓殿の御主人、愛洲太郎左衛門殿と紹介した。
造酒祐は三十前後の体格のいい侍だった。
「造酒祐がそなたの供として騎馬武者五十騎を引き連れて行く事となった」と加賀守は言った。「わしとしても何もせんではおられんのでな、騎馬武者五十騎は引き受ける事にした」
「ありがとうございます」と太郎は二人に頭を下げた。「そうしていただければ、本当に助かります」
「それとな、つい、今しがた、京から使いの者が来おったわ」と加賀守は言った。
「美作守からですか」と太郎は聞いた。
「おお、そうじゃ。おぬしの偽者は京極次郎右衛門高秀と言うそうじゃ。そして、その偽者は十八日、今日じゃな、京を出て、二十二日に、この城下に入るそうじゃ」
藤吉の持って来た情報と同じだった。
「京極次郎右衛門? 聞いた事ないですね」と造酒祐が言った。
「わしも知らん」と加賀守も首を振った。「何でも、大膳大夫殿の四男だそうじゃ」
「四男なんていたのですか」
「さあな。長男は応仁の戦で死んでおる。そして、次男と三男は東西に別れて、家督争いをしておったが、三男の方は去年だったか、亡くなったのう。四男の次郎右衛門は次男と共に東軍だったそうじゃが、近江の国は今、西軍が押えておるからのう。美作守を頼って、京に逃げて来たのか、よくわからんが‥‥‥」
「その京極氏が赤松家に乗り込んで来るわけですか」と太郎は聞いた。
「そこが、よく、わからん。美作守が何を考えて、京極氏を送って来るのか‥‥‥」
「京極氏も偽者という事も考えられますね」と造酒祐が言った。
「ああ、もし、偽者だとすれば、ここに入る前に消す事は確実じゃ」
「本物だとすれば?」
「まさか、殺しはすまい。美作守はそなたが死んだものと思っているからの、そいつを楓殿の御主人にするつもりかのう。しかし、そうまでするには事前に工作をする必要があるが、どうも、そんな事をしている気配はない。浦上派の重臣たちも動いている気配はないようじゃ。もっとも、そなたが死んだと聞いて、慌てて、偽者を仕立てた位じゃから、そんな事をする暇などなかったろうがのう」
「という事は、やはり、偽者ですかね」と太郎は聞いた。
「多分な‥‥‥途中で、そなたが入れ代わって、城下に入って来る事になるじゃろう」
太郎は浦浪で相談した計画を二人に話した。
二人とも、それでいいだろう、と言い、大谿寺には、すでに、夢庵が加賀守の書いた書状を持って、先に行ったと言う。
大谿寺に泊まるのは、造酒祐率いる騎馬五十騎と太郎たちの騎馬五十騎、それと、荷車二十台を運ぶ者、数十人で、残りの者たちは近くの河原に泊まる。大谿寺に泊まる武士たちは、武器を運んで京に向かうという事になっていた。
出発は明日の朝、太郎たちの騎馬隊も武士の姿になり、造酒祐の五十騎と共に隊列を組んで行き、その日は加古川の河原に一泊して、次の日の昼頃に大谿寺に到着する。
荷車十五台は一台を四人で運び、騎馬隊の後に付いて行く。残りの者たちは、ばらばらに城下を出て、次の日の昼までには大谿寺に到着する、という具合だった。
「馬も五十頭、集めたのか、大したものよのう。一体、そなたの後ろにいる商人というのは誰なんじゃ」と加賀守は聞いた。
「小野屋さんです」
「なに、小野屋か」
「御存じですか」
「ああ、知っておる。あの馬面の男じゃろう。あの男が、そなたの仲間じゃったのか」
「はい」
「あの男、なかなかのやり手じゃ。そうか、あの男か‥‥‥うむ、今度、城下を広げる事に決まったんじゃが、小野屋に稼がせてやるかのう」
「お願いします」と太郎は言った。
「その小野屋というのが、楓殿の育ての親と関係あるのか」
「はい。楓殿の育ての親、松恵尼殿が小野屋を作ったそうです。本店は伊勢の多気にあり、今では、出店が、ここと奈良と伊賀と伊勢の安濃津(津市)にあるそうです」
「ほう、そいつは凄いのう。女手一つで大したもんじゃ」
「しかし、わたしがその事を知ったのは、つい最近です。楓はまだ、その事を知らないでしょう」
「楓殿が御存じない?」
「はい。松恵尼殿は、わたしたちに商人としての姿を隠して来ました。わたしたちも、うっすらと松恵尼殿が尼僧以外に何かをやっているという事は気づいていましたが、まさか、そんなに出店を持った商人だったとは、全然、知りませんでした。楓は今でも知らないはずです」
「そうじゃったのか‥‥‥どうして、また、松恵尼殿は隠しておったのかのう」
「わかりません。しかし、あれだけの商人になるには、かなり、あくどい事もやったのかもしれません。その事を楓に知られたくはなかったのではないでしょうか」
「うむ、そうかもしれんのう」
「小野屋の本店は、伊勢の多気にあると言いましたね」と造酒祐が聞いた。
「はい」と太郎は頷いた。
「多気と言えば北畠氏の本拠地ですが、松恵尼殿は北畠氏とも取引きをしておるのですか」
「さあ、わかりません。よくは知りませんが、先代の殿様がいた頃は、よく、多気の方に行っていたようです。けど、最近はあまり行ってないようです」
「先代というと教具卿じゃな」と加賀守が言った。「嘉吉の変の後、教具卿を頼って行った彦次郎殿を殺したという‥‥‥まあ、昔の事じゃ。ところで、松恵尼殿は今、どこにおるんじゃ」
「甲賀にいると思いますけど」
「そうか。お屋形様が戻って来たら、楓殿とそなたの披露式典を大々的にやる。その時には、ぜひ、松恵尼殿も招待したいと思っておる。そなたから松恵尼殿に連絡して欲しいんじゃ。はっきり日取りが決まってからでいいがな」
「はい。松恵尼殿も喜んで来てくれるでしょう」
「さっきの話じゃがのう。もしもじゃ、京極次郎右衛門というのが本物で、美作守が途中で殺さなかった場合じゃが、そうしたらどうする」
「その時は、城下からの迎えとして、その京極氏とやらの後ろに付いて来るつもりです」
「うむ、それがいいじゃろう。なるべく、騒ぎは起こさないでくれ」
「はい。わかりました」
「頼むぞ。こっちでも、そなたを盛大に迎えるよう、準備をしておく」
太郎は書斎から出ると、楓のいる客間に向かった。
昨夜のおきさとの事が思い出され、楓に対して後ろめたさを感じていた。女の感は鋭い。見つめられたら、ばれてしまうかもしれない、と太郎は平静を装いながら恐る恐る楓の待つ客間へ向かった。
楓は侍女たちを相手に薙刀の稽古をしていた。
長い髪を後ろでしばり、白い袴をはいて薙刀を振っていた。昔の楓を見ているようだった。楓は春日を相手に稽古をしていた。日吉と住吉の二人は息をハァハァさせながら地面に座り込んでいる。伊勢と賀茂の二人は縁側に座って、笑いながら三人が楓にやられるのを見守っていた。
「やってるな」と太郎は笑った。
「あなた!」
楓が太郎の方を向いた隙に、春日が打って来たが、楓はうまく避けた。
「お帰りなさいませ」と侍女たちは立ち上がり、太郎に挨拶をした。
太郎は住吉の持っていた稽古用の薙刀を手に取ると、「今度は、俺が相手だ」と楓に向かって薙刀を構えた。薙刀を構えた途端に、おきさの事は頭の中から消えていた。
太郎は久し振りに薙刀を振った。楓は、以前に太郎が教えた『陰流、天狗勝』の技は、すべて身に付けていた。
二人の稽古を侍女たちは目を丸くして見守っていた。太郎が目にも止まらない速さで薙刀を打つと、楓がそれをうまく避けて、太郎に打ち込む。太郎がそれを避け、楓を打つ。楓がまた避ける。それは、まるで、華麗な舞を見ているようだった。侍女たちはうっとりしながら、ふたりの稽古を見つめていた。
「やるじゃないか」と、一通り稽古が終わると太郎は楓に言った。
「まあね」と楓は笑った。
「こんな御殿で、のんびりやってるから、いくらか腕も落ちたと思ったけど、そんな事はなかったな」
「そうよ。ちゃんと、お稽古してたのよ」楓は自慢気に言って汗を拭いた。
「凄いわ」と賀茂が言った。
「ほんと、凄いわね」と伊勢も言った。
「あたしも習おうかしら」と賀茂が言った。
「あなたには無理よ」と伊勢が言った。
「そうよ、賀茂様には無理ですよ」と春日と日吉も言った。
「そんな事ないわ。あたしだって、ねえ、楓様、あたしにもできますよね」
「ええ、賀茂さんにもできます」
賀茂はさっそく着替えて来ると楓に薙刀を教わった。
ほっと一安心して、太郎は別所屋敷の豪華な風呂に入って、旅の疲れを癒した。
二十日の昼前に予定通り、全員が大谿寺、あるいは、その近くの広場に到着した。
途中、河原者たちの間で喧嘩騒ぎが何度かあったらしいが、銀左、弥平次、甚助らが中に入って、うまくやってくれた。
金勝座からは甚助だけが一緒に来ていた。みんな来たがったが、舞台があるので来られない。甚助だけは手が空いていると言って付いて来てくれた。太郎としても、何かあった時、甚助の弓があれば心強かった。それに、河原者の頭、銀左衛門も来てくれた。これだけ、荒くれ者どもが揃ったら、わしが行かなきゃ始末に終えんじゃろうと言って、一緒に来てくれた。確かに、銀左が睨みを利かしていれば連中をまとめるのもやり易かった。
さて、武士になって城下に乗り込むに当たって、騎馬隊は問題なかった。別所造酒祐の率いる五十騎は勿論の事、朝田新右衛門の率いる浪人組も、桜之介の率いる馬借の連中も甲冑姿が様になり、武士らしく整然としていた。問題は徒歩(カチ)武者だった。重い甲冑など身に着けた事のない河原者たちが、武士らしく行軍してくれるかが問題だった。しかも、秋とはいえ、まだ暑い。普段、胸をはだけて足丸出しの連中が、きちんと甲冑を身に着け、槍を担いで、一日中、歩いてくれるだろうか心配だった。
太郎は三人の弟子を連れて、馬に乗り、皆より先に大谿寺に来て、近くに行軍の訓練をやる適当な広場はないかと捜した。うまい具合に、大谿寺の裏山を越えた所に広い草地が見つかった。
太郎は荷車と河原者たちを、その草地に連れて行き、武装させて行軍訓練を始めた。それぞれの頭を中心にして、次郎吉、弥平次、吉次、甚助、朝田たち浪人組、そして、夢庵と銀左が指導に当たった。
太郎自身は三人の弟子と金比羅坊を連れて敵の偵察に出掛けた。もし、敵が摂津と播磨の国境辺りで偽者を殺すとすれば、太郎たちと同じように、今頃、この近くまで来ている可能性があった。
足の速い藤吉は、すでに摂津の国に入っていた。太郎の偽者、京極次郎右衛門と阿修羅坊たちは早ければ国境の近く、遅くても有馬の湯の辺りに来ているはずだった。偽者がどこまで来ているか調べるためと、偽者の後を付けているはずの伊助と連絡を取るために、藤吉は街道を走っていた。
太郎たち五人は国境まで行き、刺客(シカク)が出そうな所を確認して、それぞれ、分かれて山の中に入って行った。
太郎は摂津の国の山の中まで入り、敵を捜し回ったが見つからなかった。
やはり、美作守は偽者を殺すつもりはないのだろうか。殺さないなら、それでもいい。その時は偽者の後に付いて、堂々と城下に入ればいい。もしかしたら、毒殺するという事も考えられたが、毒殺の場合は防ぎようがない。その時に応じて対処するしかなかった。
日の暮れる頃、太郎が大谿寺に帰ると、僧坊の一室に頭たちが集まって、太郎の帰りを待っていた。皆、甲冑を身に着け、何やら楽しそうに話している。馬子(マゴ)にも衣装と言うか、皆、良く似合っていて一角(ヒトカド)の武将に見えた。知らない者がこの光景を見たら、幹部連中が戦評定(イクサヒョウジョウ)をしていると思うだろう。
武将たちは行軍の方は何とかなりそうだと口々に言った。
金比羅坊も探真坊も風光坊も帰って来ていて、やはり、甲冑を身に着けていた。皆、山の中を捜し回ったが、怪しい連中には会わなかったと言う。八郎坊はまだ、戻っていなかった。
「誰か見なかったか」と太郎が聞いたが、誰も知らなかった。
「敵にやられたかな」と銀左が言った。
「いや、迷子になってるんだろう」と探真坊が言った。
「いや、どこかで眠りこけてるんだろう」と風光坊は言った。
「あいつの事じゃ、やられる事はあるまい。風光坊が言うように、朝早くから乗馬の稽古をしておったから、疲れて、どこかで寝てるのかもしれんのう」と金比羅坊は笑った。
「相変わらず、のんきな奴じゃ」と夢庵も笑った。
そのうち、戻るだろう、と話を先に進めた。
敵が偽者を殺すにしろ、殺さないにしろ、明日は行軍して城下に戻る事になるだろうと話している時、藤吉が情報を持って戻って来た。
偽者は今、国境から二里程離れた小さな村の寺に泊まっていると言う。明日の朝には国境を通るだろう。人数の方は加賀守が言った人数より少なく、騎馬武者が二十騎と徒歩武者百人だと言う。
伊助とも会い、その後の京の様子を聞くと、美作守が会っていたという山伏は正明坊という瑠璃寺の山伏で、美作守と会って以来、京から姿を消している。京極次郎右衛門と名乗る男は本当に京極氏なのか、偽者なのか、はっきりとわからない、と言う事だった。それと、摂津の国側の国境あたりで、村人たちが五十人近くの山賊が山の中に入って行ったと噂しているのを聞いたと言う。
「それは、いつの事じゃ」と金比羅坊が聞いた。
「日が暮れる頃です」
「藤吉殿はその山賊というのを見ましたか」と太郎が聞いた。
「いえ、見てません」
「さては、山賊に襲わせるつもりのようじゃな」と金比羅坊が太郎を見た。
「ええ、半分の人数しか送らないというのも、おかしいですね」と太郎は言った。
「二百五十人もの赤松家の武士が山賊にやられたなどと噂になったら、まずいからのう。半分に減らしたんじゃろう」と夢庵が言った。
「明日の朝、国境を越えて播磨に入り、人気のない山の中で襲うつもりですね」
「多分な」と金比羅坊が言った。
「こっちで、その山賊とやらを逆に襲ったらどうじゃ」と銀左が言った。
「それは、まずいじゃろう」と金比羅坊が言った。「偽者には死んでもらわなけりゃならんからな」
「それに、浦上美作守にはうまく行ったと思わせておいた方がいいじゃろう」と夢庵が言った。「おぬしが無事に城下に入るまではな」
「そうですね。偽者には悪いが死んでもらうしかないな。偽者が死んで山賊たちが引き上げたら、死体を片付け、入れ代わって城下に向かおう」
「死体を片付ける?」と銀左が聞いた。
「はい。俺の偽者が山賊に襲われたという事実を消さなくてはなりません」
「成程のう。何事もなく、無事に城下に入ったという事にするんじゃな」
「そうです。ところで、阿修羅坊はどうしてます」と太郎は藤吉に聞いた。
「阿修羅坊は偽者と一緒にいますよ」
「襲われる事を知っているのですか」
「いえ、知らないようです」
「知らない? 浦上から聞いていないのですか」
「浦上は阿修羅坊には、そんな事、一言も言ってないようです」
「という事は、浦上の奴、阿修羅坊も一緒に消すつもりかのう」と金比羅坊が言った。
「可能性はあるぞ」と夢庵が言った。「阿修羅坊はおぬしを殺るために、かなりの山伏を死なせている。あれだけの事をやれば、いくら、瑠璃寺でも黙ってはいまい」
「破門ですか」
「多分な。破門になった阿修羅坊など浦上にとっては用がない。用がないと言って、生かしておくわけにもいくまい。色々な事を知り過ぎておるじゃろうからな」
「それで、殺すのか‥‥‥」と探真坊が言った。
阿修羅坊がそう簡単に死ぬとは思えないが、見殺しにはしたくなかった。
「阿修羅坊か‥‥‥」と金比羅坊が呟いた。
その時、八郎坊が、「大変だ!」と叫びながら飛び込んで来た。
「山賊がいた。山賊がいた」と八郎坊は太郎の側に駈け寄って来た。
八郎坊は目を丸くして甲冑姿の皆を見回した。「凄えなあ。おらも早く着てえ」
「心配するな、お前のもある。それより、山賊がどこにおったんじゃ」と金比羅坊が聞いた。
「はい、山の中です」
「成程のう。そりゃあ、山ん中じゃろうのう」と金比羅坊が八郎坊をなだめるように言うと、みんなが笑った。
「おらはこの目で見たんや、その山賊どもを」と八郎坊は言って詳しく話し始めた。
八郎坊は国境を越えて摂津の山の中を歩いていた。敵らしいのはどこにも見当たらないし、高い所に登れば何か見えるかもしれないと木の上に登った。眺めは良かったが敵は見つからなかった。丁度、いい枝振りだったので、八郎坊はしばらく、この上にいて、敵が現れるのを待とうと思った。そう思っているうちに、いつの間にか木の上で眠ってしまった。ここの所、あまり寝ていなかったので、木の上で気持ち良くなって眠ってしまったらしい。目が覚めたら、もう、辺りは暗くなっていて、木から降りようと思ったら、人の話し声がした。すぐ近くに人がいた。よく見ると二人の山伏と三人の野武士のようだった。八郎坊は木の上から五人の話を聞いた。
話の内容は、まさしく、明日の襲撃の事だった。
明日の朝、辰(タツ)の刻(八時)頃、目当ての者たちが、この下の街道を通る。奴らに気づかれん程の距離を取って後をつけろ。奴らが国境の関所を越えたら、『婆裟羅(バサラ)党のお通りじゃ!』と叫びながら関所を破り、奴らに襲い掛かれ。真ん中にいる偉そうな格好をしている奴と、その側にいる山伏は絶対に殺せ。逃げる者は一々追うな。片づけたら金目の物を奪い、速やかに散って例の場所に集まれ。うまく成功したら残りの金は渡す。山伏がそう言うと野武士たちは頷き、やがて、五人はどこかに消えた。
八郎坊は静かに木から降りて五人の後を追った。すぐ近くに山賊どもがいた。山賊どもが火を囲みながら酒を飲んでいた。五十人近くはいそうだった。さっき、山伏と話をしていた山賊の頭らしい男が、山賊たちに明日の事を話していた。山賊たちは景気よく返事を返した。その時、すでに、二人の山伏の姿はなかった。
八郎坊はその場を離れ、大谿寺に戻って来た。
「どこでも寝る奴じゃのう、おぬしは」と夢庵が言った。
「どうします」と八郎坊が太郎に聞いた。
「やはり、敵は阿修羅坊も殺す気じゃったのう」と金比羅坊が言った。
「今、奴らを襲えば、うまく行きますよ。どうせ、酔っ払って寝ています」と八郎坊は言った。
「しかしのう。奴らをやっつけてしまったら、偽者を片付けてくれる者がいなくなるからのう」と金比羅坊は言った。
「どうする」と今まで、黙っていた次郎吉が太郎に聞いた。
太郎は皆の顔を見回してから、「やりますか」と言った。
「そう来なくっちゃな」と次郎吉はニヤリと笑った。
「山賊どもをやるのは簡単じゃが、この先の予定が狂っちまうぞ」と金比羅坊が言った。
「成り行きに任せましょう。とりあえず、見て見ぬ振りはできません。俺の偽者が誰だか知りませんけど、どうせ、浦上に銭で頼まれたのでしょう。銭で頼まれた奴なら、後で何とでもなります。それに、阿修羅坊が殺されるのを知っていながら、放っておくわけにも行きませんし」
「そうじゃのう」と金比羅坊は頷いた。「阿修羅坊の奴は敵ながら大した奴だしのう。おぬしに負けた事を認めて、おぬしの事を色々と考えていたようじゃ。殺すには惜しい男じゃな」
山賊退治に、今すぐに出掛けようという声もあったが、暗い中、戦って、同士討ちにでもなったら、まずいというので、決行は明日の夜明けという事に決まった。
夜明け前のまだ暗いうち、八郎坊と金比羅坊と銀左を先頭に、太郎たち三十四人は山の中に入って行った。
金比羅坊と銀左の後ろには、朝田新右衛門率いる浪人組十二人が意気揚々と続いている。彼らは今後の活躍によっては、赤松家に仕官できるかもしれないと皆、張り切っていた。浪人組の後ろには、桜之介率いる馬借が十一人従っていた。皆、喧嘩っ早く、腕っ節に自信のある、ごつい連中だった。その後ろに、次郎吉と弥平次、藤吉と吉次、風光坊と探真坊、そして、一番後ろに、太郎と甚助がいた。
皆、念のために甲冑の腹巻きだけを身に着け、それぞれが使い慣れた武器を持っていた。
太郎も黒光りする立派な胴丸(ドウマル)を着け、いつもの杖をついていた。こんな物を着けるなんて何年振りの事だろう。もう二度と、甲冑など着ける事はないだろうと思っていたのに、まったく、以外の事になってしまったものだ、と動き辛くて邪魔な胴丸を着け、山の中を歩いていた。
山賊の溜まり場に着いた時には、すでに明るくなっていた。山賊どもはまだ、気持ち良く眠りこけていた。
皆殺しにするのは簡単だったが、囲まれているのも知らず、いい気になって眠っている姿を見ると殺すのも可哀想だった。全員、縛ってしまえという案も出たが、こいつらを縛ってもしょうがなかった。結局、奴らを取り囲み、一旦、起こしてから追い払おうという事になった。
三人の山賊が弥平次の石つぶてによって、快い眠りから起こされた。起こされた連中は、顔から血を流しながら悲鳴を上げて跳び起きた。
悲鳴を聞いて、「何事だ!」と他の者も皆、起きた。慌てて武器を構えるが、すでに取り囲まれている事に気づき、掛かって来る者はいなかった。
「何者じゃ」と山賊の一人が喚いた。
「婆裟羅党じゃ」と金比羅坊が言った。
「なに、婆裟羅党?」
「ここはわしらの縄張りじゃ。速やかに出て行け」
「いやじゃ、と言ったら」と山賊の親玉らしい男がふてぶてしく言った。ようやく目が覚めたらしい。
親玉がそう言い終わるのと同時だった。矢羽根の音がヒューと鳴ったかと思うと、親玉の右腕に矢が深々と刺さった。その矢は腕を突き抜け、後ろの木に刺さった。親玉は後ろの木に縫い付けられた格好となった。
矢を射たのは甚助だった。
「いやならいやでも構わん。血が多く流れるだけじゃ」と金比羅坊が言った。
「わかった、わかった」と親玉は腕の痛みをこらえながら言った。
「情けねえ」と親玉の隣にいた男が唾を吐きながら言った。
その男は太刀を抜くと構えた。
「血を流して貰おうじゃねえか」と、その男は低い声で言った。どうやら、こっちの男が本物の親玉らしい。
「おい、野郎ども怖じけづいてるんじゃねえ。頭数はこっちの方が多いんじゃ。いい加減に目を覚ましやがれ!」
「おう!」と山賊たちは親玉に威勢を付けられると、空(カラ)元気を出して一斉に武器を構えた。
その機先を制するかのように、茂みの中から悲鳴が聞こえた。そして、茂みの中から、弓と矢を構えた山賊が体を反らすようにして倒れた。その山賊の右肩に手裏剣が刺さっていた。
手裏剣を投げたのは太郎だった。太郎は山賊たちを見下ろす木の上にいた。太郎だけでなく、三人の弟子たちは皆、木の上から山賊どもの動きを見張っていた。
気を取り直して武器を構えた山賊どもは、また、仲間が一人、飛び道具にやられたのを見て怖じけづいた。
親玉はまた唾を吐くと、「情けねえ!」と言った。「恐れるんじゃねえ、てめえら、掛かれ!」
親玉に言われて、長巻(ナガマキ、刀の柄を長くした武器)を構えた三人が覚悟を決めて掛かって行った。掛かって行った場所が悪かった。さっきから暴れたくて、うずうずしていた馬借たちの所だった。敵が掛かって来るのを見ると馬借たちも一斉に掛かって行った。それから乱闘が始まった。もう、止める事はできなかった。しかし、浪人の一人が苦戦の末に親玉を倒すと、山賊どもは皆、逃げて行った。木に縫い付けられた男もいつの間にか消えていた。
「おい、みんな、大丈夫か」と金比羅坊が言った。
浪人組の若い者が一人と馬借が一人、傷を負ったが、それ程、深い傷ではなかった。
敵の方は親玉が横腹を刺されて死んでいただけで、あとは皆、逃げていた。
死んでいる親玉を見ながら、「こいつも元は武士だったんじゃろうな」と浪人の一人が呟いた。
浪人たちは死体を草むらの中に運んだ。
「これで、おぬしの偽者も阿修羅坊も殺されなくて済んだな」と金比羅坊は太郎に言った。「ええ。しかし、正明坊とかいう山伏はいませんでしたね」
「山賊を雇っただけで、京で結果を待ってるんじゃないのか」
「かもしれませんね。そんなに難しい仕事じゃないですからね」
山賊どもを追って行った次郎吉たちが戻って来た。
「みんな、行っちまったわ」と吉次が言った。
「奴ら、慌てて、馬を忘れて行きおった」と次郎吉が言った。
「馬?」と金比羅坊が聞いた。
「ああ、山の下におる」
「何頭位じゃ」
「かなり、おるぞ。奴らの頭数はおるんじゃねえか」
「すると、五十頭近くもおるのか」
「ああ。大した馬じゃねえがな」
「何でもいい。貰って行くか。夢庵殿が馬が何頭か足りんと言っておったからのう」
来る時は山の中を歩いて来たが、帰りは全員、馬に乗って街道を帰って行った。国境の関所を通らなくてはならなかったが、別所加賀守がくれた書き付けを見せたら、無事に通る事ができた。見るからに山賊のような一団でも、書き付けは確かに加賀守の字だったので、関所の責任者は見て見ぬ振りをして通した。また、通さないわけにはいかなかった。いくら、不審な点があっても相手が多すぎた。太郎たちを止めるだけの兵力をこの関所は備えていなかった。
この関所は、播磨の国に入る通行人を調べるというだけのもので戦力は持っていない。もし、敵が責めて来た場合は速やかに関所を捨てて、近くの城に知らせるというだけの機能しか持っていなかった。また、敵が責めて来るという事も考えられなかった。隣は摂津の国だと言っても、赤松氏の一族の有馬氏の領土だった。有馬氏だけは嘉吉の変の時も生き残り、ずっと、この地を守り通して来たのだった。
太郎たちは大谿寺に戻ると、さっそく行軍の支度を始めた。そろそろ偽者が来る頃だった。
騎馬武者は大谿寺で、徒歩武者は大谿寺の裏山の広場で、それぞれ支度をして待機していた。偽者が大谿寺の前の街道を通ったら合流し、偽者を率いている堀次郎に別所造酒祐が、そちらのは偽者で、こちらが本者だと告げ、楓殿の御主人の命を狙っている者がいるとの情報が入ったので、二手に分けて京を出たと言う。そして、そのまま偽者の後を付いて行くつもりでいた。
準備が完了すると、金比羅坊は風光坊、探真坊、八郎坊の三人を偵察に送った。三人は甲冑を身に着けたまま、馬に乗って出掛けて行った。
「なかなか、あの三人も様になっておるのう」と金比羅坊は三人の後姿を見送りながら言った。
「わしも出迎えに行ってくるか」と次郎吉も馬に乗って後を追った。
「わしは銀左殿の方を見てくるわ」と金比羅坊は銀左たちのいる広場の方に馬に乗って出掛けた。
「みんな、一角の武将に見えますね」と太郎は隣にいる夢庵に言った。夢庵も勿論、甲冑を着ていた。
「そうじゃな。皆、今から、おぬしの部下になるわけじゃのう」
「えっ」と太郎は夢庵を見た。
「このまま城下に入ったら、おぬしは赤松家の武将じゃ。そうなれば、みんな、おぬしの家来という事になる」
「そんな‥‥‥そんな事まで、まだ考えてませんよ」
「大丈夫じゃよ。おぬしが大将になれば、みんな、喜んで付いて行くわ。おぬしには生まれながらにして人徳というものがある。おぬしが何もしなくても人が集まって来るんじゃ」
家来か‥‥‥確かに、彼らが自分の家来になってくれれば心強い連中ばかりだった。しかし、金比羅坊は飯道山の山伏で、太郎の先輩だった。次郎吉や伊助たちは松恵尼の下で働く者たちで、太郎の家来になるはずはなかった。今、本当に太郎の家来と言えるのは三人の弟子しかいなかった。武将になるのはいいが、これから、また、家来を集めなくてはならなかった。
「どの位の家来が必要なんでしょうか」と太郎は夢庵に聞いた。
「そうじゃのう。おぬしはお屋形様の義理の兄になるわけじゃからのう。かなりの家来を持つ事になるじゃろうのう。まず、城と領土を与えられるじゃろう。どれ位与えられるかわからんが、少なくとも二千貫の土地は貰えるじゃろうな」
「二千貫?」
「ああ。二千貫文分の年貢が取れる土地じゃ。広さにして四百町位かのう」
「四百町?」
四百町の広さの土地と言われても、太郎には、どの位の広さなのか見当も付かなかった。一町というのは約百メートル四方である。四百町と言えば、約二キロメートル四方の土地だった。ただし、それは質のいい水田の場合である。質の悪い水田や畑だったら、二千貫文の年貢を得るためには、もっと広い土地が必要となった。
「その位の土地はくれるだろうという事じゃ。まあ、二千貫だとして、大体、騎馬武者五十騎に徒歩武者二百人という所かのう」
「五十騎に二百人‥‥‥加賀守殿が言った数と同じじゃないですか」
「そういう事じゃ」と夢庵は笑った。「だから、少なくとも二千貫はくれるじゃろうと思ったんじゃよ」
「この兵力というのは、二千貫文の領土を持った武将の兵力だったのですか‥‥‥」
「そういう事じゃ。だから、このまま、みんながおぬしの家来になれば、丁度、勘定が合うんじゃよ」
「そう、うまい具合には行きませんよ」
「まあな、みんな、職を持っておるからのう。しかし、少なくとも、あの浪人十二人はおぬしの家来となるじゃろうな」
「なってくれれば、ありがたいですけど‥‥‥」
「何を言っておるんじゃ。おぬしは赤松家のお屋形様の兄上だぞ。奴ら、浪人者から見たら雲の上にいるようなお人なんじゃ。そのお人の家来になれるなんて夢のような話じゃ。飛び付いて来るに決まっておる」
「それにしても、改めて、家来を集めなければならないんですね」
「心配するな。どうせ、お屋形様が土地だけじゃなく、兵もくれるじゃろう」
城と土地を貰うのはいいが、家来までも貰いたくはなかった。お屋形様の家来に囲まれていたのでは監視されているようなものだった。家来だけは自分で集めようと思った。
金比羅坊や伊助、次郎吉のような者が見つかればいいが、ああいう人たちが、そう簡単に見つかりそうもなかった。これから、また、人捜しが大変だ、と太郎は思った。
「お屋形様は、おぬしにどこの城をくれるかのう」と夢庵は言った。「楓殿はただ一人の姉じゃからのう。置塩城からそう遠くない所じゃろう。おぬしが水軍の出じゃから飾磨津(シカマツ、姫路港)辺りに置いて、赤松の水軍でも作るかもしれんのう」
その時、馬の蹄(ヒヅメ)の音が近づいて来た。
「とうとう、偽者が現れたと見えるのう」と夢庵が言った。
知らせに来たのは八郎坊だったが、八郎坊の様子は普通ではなかった。
慌てて馬から降りると、八郎坊は、「やられました」と言った。
「誰が」と太郎は聞いた。
「偽者です」
「何だと、誰にやられたんだ」
「山伏と山賊です」
「詳しく話してみろ」と夢庵が言った。
八郎坊が慌てて戻って来るのを見て、朝田ら浪人たちと桜之介ら馬借の連中が集まって来た。他の連中は皆、広場の方に行っていて、この場にはいなかった。
八郎坊の話によると、八郎坊たち四人は国境の関所まで行き、偽者の来るのを待っていた。ようやく偽者が来たので、堀次郎に、別所加賀守殿の命により楓殿の御主人の迎えに来た、本隊はもう少し先で待っていると告げて合流した。
探真坊と風光坊は、その隊の後ろに付いて行き、次郎吉と八郎坊は後ろに伊助がいるはずだと、そのまま、伊助が来るのを待っていた。
しばらくすると薬売り姿の伊助が来た。関所で、伊助から話を聞いていると、先に行った偽者の隊から騒ぎが起こった。
偽者に従っていた徒歩武者たちが、慌てて、こちらの方に逃げて来た。
次郎吉、伊助、八郎坊が急いで行ってみると、堀次郎が、「曲者(クセモノ)じゃ!」とわめきながら山賊たちと戦っていた。
偽者は足を弓矢に刺され、落馬した所を首を掻き斬られて死んでいた。他にも何人かが弓矢にやられ、落馬した所を殺されている。阿修羅坊は正明坊と思われる山伏と戦っていた。まだ、右手が思うように使えないので苦戦しているようだった。
次郎吉たちが向かって来るのを見ると、正明坊は、「引け!」と怒鳴り、皆、山の中に逃げて行った。
風光坊と探真坊は山賊らを追って山の中に入った。八郎坊も追って行こうとしたが、次郎吉に言われて、真っすぐ、ここに飛んで来たのだと言う。
八郎坊の話が終わらないうちに、朝田と桜之介は仲間を連れて現場に向かった。
太郎は別所造酒祐に訳を話し、もう少し、ここで待っていてくれと言うと、夢庵と八郎坊を連れて現場に向かった。
太郎たちが着いた頃には騒ぎは治まっていた。敵は二十人位だったと言うが、二人を捕まえただけで、あとは逃がしてしまった。その中に山伏が五人いて、中の一人は正明坊だったと阿修羅坊は言った。
奴らにやられたのは十人、そのうち、死んだのが太郎の偽者も入れて七人だった。堀次郎の率いていた武士のうち六人が死に、二人が怪我をしていた。阿修羅坊も正明坊に左足を、それ程、深くはないが斬られていた。
足軽の寄せ集めだった徒歩武者は全員、どこかに逃げてしまっていなかった。
捕まえた二人は例の山賊だった。話を聞くと、思っていた通り、奴らはただ雇われただけだった。山伏に雇われたと言ったが、その山伏の名前までは知らなかった。勿論、狙った相手の事も何も知らない。ただ、いつ頃、こういう連中が通るから襲い掛かれと言われただけだと言う。今朝、太郎たちに襲われて山を下りた山賊たちは、頭を殺され、仕事の事は諦めて、また京に戻ろうとしていた。しかし、途中で正明坊とばったり会ってしまい、銭に釣られて、また戻って来たのだと言う。
捕まえた二人は、このまま連れて行ってもしょうがないので、死体を埋めるのを手伝わせて逃がしてやった。
街道を片付けると、関所の者たちに、今起きた事を口止めし、とりあえず、全員、大谿寺に戻った。
堀次郎は楓御料人様の御主人を見殺しにしてしまった責任を感じ、真っ青な顔をしていた。大谿寺において別所造酒祐と会い、死んだのは実は偽者だったと聞き、ようやく、生気を取り戻したが、気持ちは複雑だった。
改めて、大谿寺で隊列を整えると、総勢三百二十人に守られ、楓御料人様の御主人、愛洲太郎左衛門は置塩城下を目指して出発した。
「おお、やっと、戻ったか」と太郎の顔を見ると次郎吉は笑った。「どうじゃ、宝は見つかったか」
「はい。運よく見つかりました」
「なに、見つかったのか。そいつは良かった。やはり、生野に銀山はあったか」
「ええ、ありました。しかし、とても、素人にわかるような物ではありませんでした」
「そうじゃろうのう。しかし、よく見つけられたな」
「運が良かったとしか言えません」
「そうか。まあ、とにかく良かった」
「こっちの方はどうです」
「おう。こっちも準備完了じゃ」
次郎吉はニヤッと笑うと、見せたい物があると言って、太郎たちを小野屋の一室に連れて行った。
部屋の中に見事な鎧兜(ヨロイカブト)が飾ってあった。
「どうじゃ」と次郎吉は鎧兜を見ながら言った。
「凄え!」と八郎坊が声を上げた。「こんなん着けるのは、よっぽど偉えお侍さんやな」
「まあな」と次郎吉は頷いた。「国持ち大名位じゃないと、こんなのは着けられん」
確かに、豪華で渋くて、凄い物だった。五ケ所浦にいた頃、愛洲の殿様の甲冑(カッチュウ)姿を見た事があるが、こんな立派な物ではなかった。見た事はないが、まるで、将軍様が身に着ける鎧のようだった。
「おぬしのじゃよ」と次郎吉は太郎に言った。
「はあ?」
「はあ? じゃない。おぬしが、これを着けるんじゃ」
「この俺が?」
「そうじゃ。おぬしは、ここのお屋形様の兄上になるんじゃぞ。この位、立派なのを着けんと国人たちに笑われる」
太郎は赤松家の武将になる事に決めてはいたが、お屋形様の兄上になるという自覚はまだなかった。確かに、次郎吉の言う通り、赤松家の武将になるという事は、ここのお屋形様の義理の兄になるという事だった。改めて、大変な事になったもんだ、と実感した。
「おぬしらのも立派な奴が用意してあるぞ」と次郎吉は三人に言った。
「おらのもか」と八郎坊は聞いた。
「ああ、これ程じゃないが、かなり立派じゃ。鎧に負けるなよ」
「おらも侍か‥‥‥」八郎坊はうっとりとしながら太郎の鎧を見ていた。
「お前、馬に乗る訓練をした方がいいんじゃないか」と探真坊が笑いながら言うと、「大丈夫や」と八郎坊は憮然として言った。
「そうそう、馬は今、馬場に預けてある」と次郎吉は言った。「鞍もみんな揃っておる。馬も立派なのを五十頭、揃えた。馬場にいる連中が皆、馬を見ながら羨ましそうな顔をしておったわ。一応、別所殿の名前で、京に送る馬という事で預かってもらっておる」
「えっ、馬も揃ったのですか」と太郎は驚いた。太郎たちが銀を捜している間、ここに残った人たちも必死にやるべき事をやってくれた。立派すぎる鎧を眺めながら、皆に感謝しなければならないと太郎は思った。
「ところで、小野屋さんは」と太郎は聞いた。
「あの人も、やり手で、なかなか忙しい人じゃよ」と次郎吉は笑った。「武具集めに奔走しておるかと思ったら、今度は釘(クギ)集めに奔走しておる。朝から出掛けたまま、どこに行ったのか戻って来ん」
「釘集めですか」と太郎は首を傾げた。
「何でも、新しい城下を作るそうで、大量の釘がいるんだそうじゃ」
「釘は鍛冶屋じゃないんですか」
「城下の鍛冶屋じゃ間に合わんのじゃと」
「へえ、小野屋さんは釘も扱ってるんですか」
「銭になれば、何でもやるんじゃろう」
次に、次郎吉は旗差物を見せてくれた。真っ黒な旗だった。
「上の方に、紋でも入れたかったんじゃかな。おぬしの紋もわからんし、そんな事をしてたら間に合わなくなるんで、真っ黒にしたんじゃよ。甲冑の方も黒だし、みんな、黒に統一したわけじゃが、どうじゃろう」
「いいんじゃないですか。黒備えなんて、凄みがあって、いいと思いますよ」
「うむ。ただのう、問題はそれを着る人間じゃ。いくら、甲冑が立派でも、着ている者がだらし無かったらどしようもないからのう。返って、みっともなくなるわ。びしっとしてもらわにゃあな」
「できれば訓練したいけど、そんな時間もないみたいですね」
「大谿寺に着いたら、やれるだけ訓練した方がいいな」
「そうですね」と太郎は頷いた。
次郎吉にお礼を言って別れると、太郎たちは銀左の屋敷に向かった。
屋敷に行くと、金比羅坊が待っていた。
「おお、帰って来たか。丁度いいところじゃ。今、主だった者を集めて、これからの事を相談しておったところじゃ。おぬしも来てくれ」
金比羅坊の後について行くと、玄関を上がった正面にある広間に、男が十人集まって絵地図を見ていた。
銀左以外は見た事もない男たちだった。太郎は金比羅坊によって、それらの癖のありそうな男たちを紹介された。
まず、馬借の頭の桜之介。馬借というのは、馬を使って物資を運ぶ運送業者の事であり、彼は城下にいる馬借たちの頭だった。名前は桜だが、睨まれたら、桜の花も一遍に散ってしまいそうな怖い顔をした男だった。右目の下に引きつったような目立つ傷があり、さらに凄みを増している。甲冑を身に着けたら貫禄のある武将になりそうだ。桜之介は三十二人の男どもを引き連れて来てくれた。勿論、全員、馬に乗れる。
次に、五十一人もの乞食を引き連れて来たという辻堂(ツジドウ)という名の乞食の頭。どう見ても乞食には見えない体格のいい赤ら顔の男だった。体も大きいが顔がやけに大きく、その顔に付いている目や鼻や口もすべて人並み以上に大きかった。その大きな部分品が髭の中に埋まっていた。
次に、金(カネ)掘り人足の頭、勘三郎。一見したところ、どこにでもいるような百姓の親爺だった。勘三郎は金掘り人足を二十三人連れて来ていた。砂金を探して山々を歩いているが、最近は砂金もなかなか見つからない。食うのにも困る有り様で、銀左が銭になる仕事があると言うので、二つ返事でやって来たと言う。
太郎は、もしかしたら知っているかもしれないと、鬼山(キノヤマ)左京大夫という名の山師を知っているかと聞いてみた。勘三郎は名前だけは知っていた。昔、鬼山一族という山師集団がいて、高度な技術を持っていたと言う。しかし、嘉吉の変の時、赤松家と共に滅んでしまい、今は、もう、その技術を知っている者は一人もいないとの事だった。
太郎は、その高度な技術というのは一体、どんなものだ、と聞いてみた。詳しくは知らないが、鬼山一族の者たちは岩の中から金や銀を取り出す事ができると言う。勘三郎たちには、それができない。金を取るには砂金を採集するしかなく、銀の場合は露頭に出ている鉱脈を掘って製錬するが、不純物のかなり混ざった銀しか作る事ができない。鬼山一族の作る銀とは比べものにならない程、お粗末な代物(シロモノ)しか作る事ができないと言う。
この仕事が終わったら、そのまま勘三郎たちを雇って、生野の銀山に連れて行こうと太郎は思った。
次は、浪人十一人を連れて来たという朝田新右衛門。新右衛門を含め、十二人は全員、馬に乗れるし、腕の方も立った。彼らは京から流れて来たと言う。それぞれが戦で主家を失い、浪人の身となり、一度は京に出たものの、足軽なら雇ってくれるが、武士として雇う者はなく、仕方なく、当てもないまま京を出た。しばらく、摂津の国をうろろしていたが、ここの城下がまだ新しく、景気もいいと聞いて、やって来たと言う。やっては来たが、なかなか機会がつかめず、懐の方が淋しくなって来たので、この仕事を引き受けたと言う。
新右衛門は見るからに腹を減らした浪人という感じだった。こんな浪人を雇う所などあるまいと思ったが、腕の方はかなり強そうだった。それだけの腕を持ちながら腹を減らしているという事は、武士としての誇りはまだ、持っているようだった。
次は、金剛寺の散所者(サンジョモノ)十七人を連れて来た申之助(サルノスケ)、猿というよりは狸親爺という言葉が、ぴったり当て嵌まるような男だった。
散所者というのは、貴族や寺社の荘園の片隅に住み、雑役などをしている者たちだった。荘園制度が崩壊するにしたがって彼らは解放され、百姓や商人、職人、芸人、運送業者などになって行った。申之助は雪彦山(セッピコサン)の山中にある金剛寺の荘園に属していた。この頃になると寺社や貴族の荘園の散所には、浪人者や浮浪者たちが入り込んで来ては寄生し、浮浪者の溜まり場と化していた。
次の源次郎も散所者だった。源次郎は大猿というか、猿顔の大男だった。口がやけに大きく、唇もまた分厚かった。源次郎は雪彦山の手前にある七種山(ナグサヤマ)の金剛城寺に属する散所者で、二十人を連れて来ていた。
次は八兵衛、川の民の頭で、三十五人を連れて行くと言う。蓬髪(ホウハツ)で顎の尖った目の細い男だった。八兵衛たちは、この城下に住んでいるわけではなく、夢前川の上流の方に住んでいた。城下にいる川の民は川による運送に携わっているが、八兵衛が率いて来た者たちは川漁をしたり、竹細工をしたりして生計を立てていた。
次にいる京介は、この城下にいる皮屋だった。京介も他の皮屋と同様に目付きの悪い男だった。人を見る時、顔を上げて正面から見ないで、下から覗くようにして見る変な癖を持っていた。長い間、人々から蔑視されていたので、自然に身に付いてしまった他人を警戒する態度なのだろうか。
太郎は海辺で育ったせいか、皮屋とか紺屋とか蔑視されている人たちを知らなかった。五ケ所浦に彼らがいなかったわけではないが、別に気にも止めなかった。太郎から見れば、彼らも職人の一人だと思うが、城下の者たちは、彼らを穢れた者たちとして軽蔑の眼差しで見ていた。太郎は昔、師匠から言われた『身分などはない。人間は皆同じだ』という言葉を信じていた。
京介は二十四人、連れて行けると言った。
最後に磨羅宗湛(マラソウタン)という、ふざけた名前の坊主がいた。医者だと言うが、ただの乞食坊主にしか見えなかった。源次郎の所に居候していて、この話を聞くと、怪我人が出そうじゃの、わしが行くしかあるまい、と言って、のこのこ一緒に付いて来たと言う。
もう一人、この城下の紺屋二十二人率いている弥次郎というのがいるが、すでに、夢庵と一緒に、大谿寺に向かって先に行ったと言う。
全部で二百四十五人。うち、馬に乗れる者が四十五人。あと、太郎と風光坊、探真坊、八郎坊、次郎吉、藤吉、弥平次、吉次、そして、夢庵と金比羅坊が加わると二百五十五人が集まった事になった。
太郎は、藤吉の言った事を皆に知らせ、明日からの打ち合わせをした。
大体の打ち合わせが済むと、三人の弟子たちを明日の準備のため、金比羅坊のもとに残し、太郎は一人で別所屋敷に向かった。
2
夕焼けが綺麗だった。
あちこち行っているうちに、とうとう日暮れ時になってしまった。
太郎は一旦、浦浪に戻り、職人の姿になると別所屋敷に向かった。
別所屋敷の裏門の辺りで執事の織部祐がうろうろしていた。織部祐は太郎を見つけると、太郎の方に駈け寄って来た。
「太郎殿、一体、どこに行ってらしたのです。殿がお待ちです」
裏門から入ると、太郎は織部祐に書斎に案内された。庭で、百太郎と加賀守の息子、小三郎が桃恵尼と遊んでいたが、太郎には気づかなかった。太郎はそのまま縁側から書斎へと上がって行った。
書斎では加賀守ともう一人の侍が話をしていた。太郎の顔を見ると織部祐と同じように、どこに行っていた、と聞いてきた。
「人集めです」と太郎は答えた。
「うむ、それは夢庵殿から聞いている。美作守が送り込む、そなたの偽者が途中で殺された場合、偽者が引き連れて来た兵たちも四散してしまう可能性がある。そこで、そなたは二百五十人の兵も集めているそうじゃのう。どうじゃ、集まったのか」
「はい、何とか二百五十人、集める事ができました」
「なに、二百五十人も集めたのか。そいつは大したもんじゃのう。まあ、座ってくれ」
太郎が座ると、「これは、わしのいとこの別所造酒祐(ミキノスケ)じゃ」と加賀守は侍を紹介した。
そして、加賀守は造酒祐に太郎の事を、楓殿の御主人、愛洲太郎左衛門殿と紹介した。
造酒祐は三十前後の体格のいい侍だった。
「造酒祐がそなたの供として騎馬武者五十騎を引き連れて行く事となった」と加賀守は言った。「わしとしても何もせんではおられんのでな、騎馬武者五十騎は引き受ける事にした」
「ありがとうございます」と太郎は二人に頭を下げた。「そうしていただければ、本当に助かります」
「それとな、つい、今しがた、京から使いの者が来おったわ」と加賀守は言った。
「美作守からですか」と太郎は聞いた。
「おお、そうじゃ。おぬしの偽者は京極次郎右衛門高秀と言うそうじゃ。そして、その偽者は十八日、今日じゃな、京を出て、二十二日に、この城下に入るそうじゃ」
藤吉の持って来た情報と同じだった。
「京極次郎右衛門? 聞いた事ないですね」と造酒祐が言った。
「わしも知らん」と加賀守も首を振った。「何でも、大膳大夫殿の四男だそうじゃ」
「四男なんていたのですか」
「さあな。長男は応仁の戦で死んでおる。そして、次男と三男は東西に別れて、家督争いをしておったが、三男の方は去年だったか、亡くなったのう。四男の次郎右衛門は次男と共に東軍だったそうじゃが、近江の国は今、西軍が押えておるからのう。美作守を頼って、京に逃げて来たのか、よくわからんが‥‥‥」
「その京極氏が赤松家に乗り込んで来るわけですか」と太郎は聞いた。
「そこが、よく、わからん。美作守が何を考えて、京極氏を送って来るのか‥‥‥」
「京極氏も偽者という事も考えられますね」と造酒祐が言った。
「ああ、もし、偽者だとすれば、ここに入る前に消す事は確実じゃ」
「本物だとすれば?」
「まさか、殺しはすまい。美作守はそなたが死んだものと思っているからの、そいつを楓殿の御主人にするつもりかのう。しかし、そうまでするには事前に工作をする必要があるが、どうも、そんな事をしている気配はない。浦上派の重臣たちも動いている気配はないようじゃ。もっとも、そなたが死んだと聞いて、慌てて、偽者を仕立てた位じゃから、そんな事をする暇などなかったろうがのう」
「という事は、やはり、偽者ですかね」と太郎は聞いた。
「多分な‥‥‥途中で、そなたが入れ代わって、城下に入って来る事になるじゃろう」
太郎は浦浪で相談した計画を二人に話した。
二人とも、それでいいだろう、と言い、大谿寺には、すでに、夢庵が加賀守の書いた書状を持って、先に行ったと言う。
大谿寺に泊まるのは、造酒祐率いる騎馬五十騎と太郎たちの騎馬五十騎、それと、荷車二十台を運ぶ者、数十人で、残りの者たちは近くの河原に泊まる。大谿寺に泊まる武士たちは、武器を運んで京に向かうという事になっていた。
出発は明日の朝、太郎たちの騎馬隊も武士の姿になり、造酒祐の五十騎と共に隊列を組んで行き、その日は加古川の河原に一泊して、次の日の昼頃に大谿寺に到着する。
荷車十五台は一台を四人で運び、騎馬隊の後に付いて行く。残りの者たちは、ばらばらに城下を出て、次の日の昼までには大谿寺に到着する、という具合だった。
「馬も五十頭、集めたのか、大したものよのう。一体、そなたの後ろにいる商人というのは誰なんじゃ」と加賀守は聞いた。
「小野屋さんです」
「なに、小野屋か」
「御存じですか」
「ああ、知っておる。あの馬面の男じゃろう。あの男が、そなたの仲間じゃったのか」
「はい」
「あの男、なかなかのやり手じゃ。そうか、あの男か‥‥‥うむ、今度、城下を広げる事に決まったんじゃが、小野屋に稼がせてやるかのう」
「お願いします」と太郎は言った。
「その小野屋というのが、楓殿の育ての親と関係あるのか」
「はい。楓殿の育ての親、松恵尼殿が小野屋を作ったそうです。本店は伊勢の多気にあり、今では、出店が、ここと奈良と伊賀と伊勢の安濃津(津市)にあるそうです」
「ほう、そいつは凄いのう。女手一つで大したもんじゃ」
「しかし、わたしがその事を知ったのは、つい最近です。楓はまだ、その事を知らないでしょう」
「楓殿が御存じない?」
「はい。松恵尼殿は、わたしたちに商人としての姿を隠して来ました。わたしたちも、うっすらと松恵尼殿が尼僧以外に何かをやっているという事は気づいていましたが、まさか、そんなに出店を持った商人だったとは、全然、知りませんでした。楓は今でも知らないはずです」
「そうじゃったのか‥‥‥どうして、また、松恵尼殿は隠しておったのかのう」
「わかりません。しかし、あれだけの商人になるには、かなり、あくどい事もやったのかもしれません。その事を楓に知られたくはなかったのではないでしょうか」
「うむ、そうかもしれんのう」
「小野屋の本店は、伊勢の多気にあると言いましたね」と造酒祐が聞いた。
「はい」と太郎は頷いた。
「多気と言えば北畠氏の本拠地ですが、松恵尼殿は北畠氏とも取引きをしておるのですか」
「さあ、わかりません。よくは知りませんが、先代の殿様がいた頃は、よく、多気の方に行っていたようです。けど、最近はあまり行ってないようです」
「先代というと教具卿じゃな」と加賀守が言った。「嘉吉の変の後、教具卿を頼って行った彦次郎殿を殺したという‥‥‥まあ、昔の事じゃ。ところで、松恵尼殿は今、どこにおるんじゃ」
「甲賀にいると思いますけど」
「そうか。お屋形様が戻って来たら、楓殿とそなたの披露式典を大々的にやる。その時には、ぜひ、松恵尼殿も招待したいと思っておる。そなたから松恵尼殿に連絡して欲しいんじゃ。はっきり日取りが決まってからでいいがな」
「はい。松恵尼殿も喜んで来てくれるでしょう」
「さっきの話じゃがのう。もしもじゃ、京極次郎右衛門というのが本物で、美作守が途中で殺さなかった場合じゃが、そうしたらどうする」
「その時は、城下からの迎えとして、その京極氏とやらの後ろに付いて来るつもりです」
「うむ、それがいいじゃろう。なるべく、騒ぎは起こさないでくれ」
「はい。わかりました」
「頼むぞ。こっちでも、そなたを盛大に迎えるよう、準備をしておく」
太郎は書斎から出ると、楓のいる客間に向かった。
昨夜のおきさとの事が思い出され、楓に対して後ろめたさを感じていた。女の感は鋭い。見つめられたら、ばれてしまうかもしれない、と太郎は平静を装いながら恐る恐る楓の待つ客間へ向かった。
楓は侍女たちを相手に薙刀の稽古をしていた。
長い髪を後ろでしばり、白い袴をはいて薙刀を振っていた。昔の楓を見ているようだった。楓は春日を相手に稽古をしていた。日吉と住吉の二人は息をハァハァさせながら地面に座り込んでいる。伊勢と賀茂の二人は縁側に座って、笑いながら三人が楓にやられるのを見守っていた。
「やってるな」と太郎は笑った。
「あなた!」
楓が太郎の方を向いた隙に、春日が打って来たが、楓はうまく避けた。
「お帰りなさいませ」と侍女たちは立ち上がり、太郎に挨拶をした。
太郎は住吉の持っていた稽古用の薙刀を手に取ると、「今度は、俺が相手だ」と楓に向かって薙刀を構えた。薙刀を構えた途端に、おきさの事は頭の中から消えていた。
太郎は久し振りに薙刀を振った。楓は、以前に太郎が教えた『陰流、天狗勝』の技は、すべて身に付けていた。
二人の稽古を侍女たちは目を丸くして見守っていた。太郎が目にも止まらない速さで薙刀を打つと、楓がそれをうまく避けて、太郎に打ち込む。太郎がそれを避け、楓を打つ。楓がまた避ける。それは、まるで、華麗な舞を見ているようだった。侍女たちはうっとりしながら、ふたりの稽古を見つめていた。
「やるじゃないか」と、一通り稽古が終わると太郎は楓に言った。
「まあね」と楓は笑った。
「こんな御殿で、のんびりやってるから、いくらか腕も落ちたと思ったけど、そんな事はなかったな」
「そうよ。ちゃんと、お稽古してたのよ」楓は自慢気に言って汗を拭いた。
「凄いわ」と賀茂が言った。
「ほんと、凄いわね」と伊勢も言った。
「あたしも習おうかしら」と賀茂が言った。
「あなたには無理よ」と伊勢が言った。
「そうよ、賀茂様には無理ですよ」と春日と日吉も言った。
「そんな事ないわ。あたしだって、ねえ、楓様、あたしにもできますよね」
「ええ、賀茂さんにもできます」
賀茂はさっそく着替えて来ると楓に薙刀を教わった。
ほっと一安心して、太郎は別所屋敷の豪華な風呂に入って、旅の疲れを癒した。
3
二十日の昼前に予定通り、全員が大谿寺、あるいは、その近くの広場に到着した。
途中、河原者たちの間で喧嘩騒ぎが何度かあったらしいが、銀左、弥平次、甚助らが中に入って、うまくやってくれた。
金勝座からは甚助だけが一緒に来ていた。みんな来たがったが、舞台があるので来られない。甚助だけは手が空いていると言って付いて来てくれた。太郎としても、何かあった時、甚助の弓があれば心強かった。それに、河原者の頭、銀左衛門も来てくれた。これだけ、荒くれ者どもが揃ったら、わしが行かなきゃ始末に終えんじゃろうと言って、一緒に来てくれた。確かに、銀左が睨みを利かしていれば連中をまとめるのもやり易かった。
さて、武士になって城下に乗り込むに当たって、騎馬隊は問題なかった。別所造酒祐の率いる五十騎は勿論の事、朝田新右衛門の率いる浪人組も、桜之介の率いる馬借の連中も甲冑姿が様になり、武士らしく整然としていた。問題は徒歩(カチ)武者だった。重い甲冑など身に着けた事のない河原者たちが、武士らしく行軍してくれるかが問題だった。しかも、秋とはいえ、まだ暑い。普段、胸をはだけて足丸出しの連中が、きちんと甲冑を身に着け、槍を担いで、一日中、歩いてくれるだろうか心配だった。
太郎は三人の弟子を連れて、馬に乗り、皆より先に大谿寺に来て、近くに行軍の訓練をやる適当な広場はないかと捜した。うまい具合に、大谿寺の裏山を越えた所に広い草地が見つかった。
太郎は荷車と河原者たちを、その草地に連れて行き、武装させて行軍訓練を始めた。それぞれの頭を中心にして、次郎吉、弥平次、吉次、甚助、朝田たち浪人組、そして、夢庵と銀左が指導に当たった。
太郎自身は三人の弟子と金比羅坊を連れて敵の偵察に出掛けた。もし、敵が摂津と播磨の国境辺りで偽者を殺すとすれば、太郎たちと同じように、今頃、この近くまで来ている可能性があった。
足の速い藤吉は、すでに摂津の国に入っていた。太郎の偽者、京極次郎右衛門と阿修羅坊たちは早ければ国境の近く、遅くても有馬の湯の辺りに来ているはずだった。偽者がどこまで来ているか調べるためと、偽者の後を付けているはずの伊助と連絡を取るために、藤吉は街道を走っていた。
太郎たち五人は国境まで行き、刺客(シカク)が出そうな所を確認して、それぞれ、分かれて山の中に入って行った。
太郎は摂津の国の山の中まで入り、敵を捜し回ったが見つからなかった。
やはり、美作守は偽者を殺すつもりはないのだろうか。殺さないなら、それでもいい。その時は偽者の後に付いて、堂々と城下に入ればいい。もしかしたら、毒殺するという事も考えられたが、毒殺の場合は防ぎようがない。その時に応じて対処するしかなかった。
日の暮れる頃、太郎が大谿寺に帰ると、僧坊の一室に頭たちが集まって、太郎の帰りを待っていた。皆、甲冑を身に着け、何やら楽しそうに話している。馬子(マゴ)にも衣装と言うか、皆、良く似合っていて一角(ヒトカド)の武将に見えた。知らない者がこの光景を見たら、幹部連中が戦評定(イクサヒョウジョウ)をしていると思うだろう。
武将たちは行軍の方は何とかなりそうだと口々に言った。
金比羅坊も探真坊も風光坊も帰って来ていて、やはり、甲冑を身に着けていた。皆、山の中を捜し回ったが、怪しい連中には会わなかったと言う。八郎坊はまだ、戻っていなかった。
「誰か見なかったか」と太郎が聞いたが、誰も知らなかった。
「敵にやられたかな」と銀左が言った。
「いや、迷子になってるんだろう」と探真坊が言った。
「いや、どこかで眠りこけてるんだろう」と風光坊は言った。
「あいつの事じゃ、やられる事はあるまい。風光坊が言うように、朝早くから乗馬の稽古をしておったから、疲れて、どこかで寝てるのかもしれんのう」と金比羅坊は笑った。
「相変わらず、のんきな奴じゃ」と夢庵も笑った。
そのうち、戻るだろう、と話を先に進めた。
敵が偽者を殺すにしろ、殺さないにしろ、明日は行軍して城下に戻る事になるだろうと話している時、藤吉が情報を持って戻って来た。
偽者は今、国境から二里程離れた小さな村の寺に泊まっていると言う。明日の朝には国境を通るだろう。人数の方は加賀守が言った人数より少なく、騎馬武者が二十騎と徒歩武者百人だと言う。
伊助とも会い、その後の京の様子を聞くと、美作守が会っていたという山伏は正明坊という瑠璃寺の山伏で、美作守と会って以来、京から姿を消している。京極次郎右衛門と名乗る男は本当に京極氏なのか、偽者なのか、はっきりとわからない、と言う事だった。それと、摂津の国側の国境あたりで、村人たちが五十人近くの山賊が山の中に入って行ったと噂しているのを聞いたと言う。
「それは、いつの事じゃ」と金比羅坊が聞いた。
「日が暮れる頃です」
「藤吉殿はその山賊というのを見ましたか」と太郎が聞いた。
「いえ、見てません」
「さては、山賊に襲わせるつもりのようじゃな」と金比羅坊が太郎を見た。
「ええ、半分の人数しか送らないというのも、おかしいですね」と太郎は言った。
「二百五十人もの赤松家の武士が山賊にやられたなどと噂になったら、まずいからのう。半分に減らしたんじゃろう」と夢庵が言った。
「明日の朝、国境を越えて播磨に入り、人気のない山の中で襲うつもりですね」
「多分な」と金比羅坊が言った。
「こっちで、その山賊とやらを逆に襲ったらどうじゃ」と銀左が言った。
「それは、まずいじゃろう」と金比羅坊が言った。「偽者には死んでもらわなけりゃならんからな」
「それに、浦上美作守にはうまく行ったと思わせておいた方がいいじゃろう」と夢庵が言った。「おぬしが無事に城下に入るまではな」
「そうですね。偽者には悪いが死んでもらうしかないな。偽者が死んで山賊たちが引き上げたら、死体を片付け、入れ代わって城下に向かおう」
「死体を片付ける?」と銀左が聞いた。
「はい。俺の偽者が山賊に襲われたという事実を消さなくてはなりません」
「成程のう。何事もなく、無事に城下に入ったという事にするんじゃな」
「そうです。ところで、阿修羅坊はどうしてます」と太郎は藤吉に聞いた。
「阿修羅坊は偽者と一緒にいますよ」
「襲われる事を知っているのですか」
「いえ、知らないようです」
「知らない? 浦上から聞いていないのですか」
「浦上は阿修羅坊には、そんな事、一言も言ってないようです」
「という事は、浦上の奴、阿修羅坊も一緒に消すつもりかのう」と金比羅坊が言った。
「可能性はあるぞ」と夢庵が言った。「阿修羅坊はおぬしを殺るために、かなりの山伏を死なせている。あれだけの事をやれば、いくら、瑠璃寺でも黙ってはいまい」
「破門ですか」
「多分な。破門になった阿修羅坊など浦上にとっては用がない。用がないと言って、生かしておくわけにもいくまい。色々な事を知り過ぎておるじゃろうからな」
「それで、殺すのか‥‥‥」と探真坊が言った。
阿修羅坊がそう簡単に死ぬとは思えないが、見殺しにはしたくなかった。
「阿修羅坊か‥‥‥」と金比羅坊が呟いた。
その時、八郎坊が、「大変だ!」と叫びながら飛び込んで来た。
「山賊がいた。山賊がいた」と八郎坊は太郎の側に駈け寄って来た。
八郎坊は目を丸くして甲冑姿の皆を見回した。「凄えなあ。おらも早く着てえ」
「心配するな、お前のもある。それより、山賊がどこにおったんじゃ」と金比羅坊が聞いた。
「はい、山の中です」
「成程のう。そりゃあ、山ん中じゃろうのう」と金比羅坊が八郎坊をなだめるように言うと、みんなが笑った。
「おらはこの目で見たんや、その山賊どもを」と八郎坊は言って詳しく話し始めた。
八郎坊は国境を越えて摂津の山の中を歩いていた。敵らしいのはどこにも見当たらないし、高い所に登れば何か見えるかもしれないと木の上に登った。眺めは良かったが敵は見つからなかった。丁度、いい枝振りだったので、八郎坊はしばらく、この上にいて、敵が現れるのを待とうと思った。そう思っているうちに、いつの間にか木の上で眠ってしまった。ここの所、あまり寝ていなかったので、木の上で気持ち良くなって眠ってしまったらしい。目が覚めたら、もう、辺りは暗くなっていて、木から降りようと思ったら、人の話し声がした。すぐ近くに人がいた。よく見ると二人の山伏と三人の野武士のようだった。八郎坊は木の上から五人の話を聞いた。
話の内容は、まさしく、明日の襲撃の事だった。
明日の朝、辰(タツ)の刻(八時)頃、目当ての者たちが、この下の街道を通る。奴らに気づかれん程の距離を取って後をつけろ。奴らが国境の関所を越えたら、『婆裟羅(バサラ)党のお通りじゃ!』と叫びながら関所を破り、奴らに襲い掛かれ。真ん中にいる偉そうな格好をしている奴と、その側にいる山伏は絶対に殺せ。逃げる者は一々追うな。片づけたら金目の物を奪い、速やかに散って例の場所に集まれ。うまく成功したら残りの金は渡す。山伏がそう言うと野武士たちは頷き、やがて、五人はどこかに消えた。
八郎坊は静かに木から降りて五人の後を追った。すぐ近くに山賊どもがいた。山賊どもが火を囲みながら酒を飲んでいた。五十人近くはいそうだった。さっき、山伏と話をしていた山賊の頭らしい男が、山賊たちに明日の事を話していた。山賊たちは景気よく返事を返した。その時、すでに、二人の山伏の姿はなかった。
八郎坊はその場を離れ、大谿寺に戻って来た。
「どこでも寝る奴じゃのう、おぬしは」と夢庵が言った。
「どうします」と八郎坊が太郎に聞いた。
「やはり、敵は阿修羅坊も殺す気じゃったのう」と金比羅坊が言った。
「今、奴らを襲えば、うまく行きますよ。どうせ、酔っ払って寝ています」と八郎坊は言った。
「しかしのう。奴らをやっつけてしまったら、偽者を片付けてくれる者がいなくなるからのう」と金比羅坊は言った。
「どうする」と今まで、黙っていた次郎吉が太郎に聞いた。
太郎は皆の顔を見回してから、「やりますか」と言った。
「そう来なくっちゃな」と次郎吉はニヤリと笑った。
「山賊どもをやるのは簡単じゃが、この先の予定が狂っちまうぞ」と金比羅坊が言った。
「成り行きに任せましょう。とりあえず、見て見ぬ振りはできません。俺の偽者が誰だか知りませんけど、どうせ、浦上に銭で頼まれたのでしょう。銭で頼まれた奴なら、後で何とでもなります。それに、阿修羅坊が殺されるのを知っていながら、放っておくわけにも行きませんし」
「そうじゃのう」と金比羅坊は頷いた。「阿修羅坊の奴は敵ながら大した奴だしのう。おぬしに負けた事を認めて、おぬしの事を色々と考えていたようじゃ。殺すには惜しい男じゃな」
山賊退治に、今すぐに出掛けようという声もあったが、暗い中、戦って、同士討ちにでもなったら、まずいというので、決行は明日の夜明けという事に決まった。
4
夜明け前のまだ暗いうち、八郎坊と金比羅坊と銀左を先頭に、太郎たち三十四人は山の中に入って行った。
金比羅坊と銀左の後ろには、朝田新右衛門率いる浪人組十二人が意気揚々と続いている。彼らは今後の活躍によっては、赤松家に仕官できるかもしれないと皆、張り切っていた。浪人組の後ろには、桜之介率いる馬借が十一人従っていた。皆、喧嘩っ早く、腕っ節に自信のある、ごつい連中だった。その後ろに、次郎吉と弥平次、藤吉と吉次、風光坊と探真坊、そして、一番後ろに、太郎と甚助がいた。
皆、念のために甲冑の腹巻きだけを身に着け、それぞれが使い慣れた武器を持っていた。
太郎も黒光りする立派な胴丸(ドウマル)を着け、いつもの杖をついていた。こんな物を着けるなんて何年振りの事だろう。もう二度と、甲冑など着ける事はないだろうと思っていたのに、まったく、以外の事になってしまったものだ、と動き辛くて邪魔な胴丸を着け、山の中を歩いていた。
山賊の溜まり場に着いた時には、すでに明るくなっていた。山賊どもはまだ、気持ち良く眠りこけていた。
皆殺しにするのは簡単だったが、囲まれているのも知らず、いい気になって眠っている姿を見ると殺すのも可哀想だった。全員、縛ってしまえという案も出たが、こいつらを縛ってもしょうがなかった。結局、奴らを取り囲み、一旦、起こしてから追い払おうという事になった。
三人の山賊が弥平次の石つぶてによって、快い眠りから起こされた。起こされた連中は、顔から血を流しながら悲鳴を上げて跳び起きた。
悲鳴を聞いて、「何事だ!」と他の者も皆、起きた。慌てて武器を構えるが、すでに取り囲まれている事に気づき、掛かって来る者はいなかった。
「何者じゃ」と山賊の一人が喚いた。
「婆裟羅党じゃ」と金比羅坊が言った。
「なに、婆裟羅党?」
「ここはわしらの縄張りじゃ。速やかに出て行け」
「いやじゃ、と言ったら」と山賊の親玉らしい男がふてぶてしく言った。ようやく目が覚めたらしい。
親玉がそう言い終わるのと同時だった。矢羽根の音がヒューと鳴ったかと思うと、親玉の右腕に矢が深々と刺さった。その矢は腕を突き抜け、後ろの木に刺さった。親玉は後ろの木に縫い付けられた格好となった。
矢を射たのは甚助だった。
「いやならいやでも構わん。血が多く流れるだけじゃ」と金比羅坊が言った。
「わかった、わかった」と親玉は腕の痛みをこらえながら言った。
「情けねえ」と親玉の隣にいた男が唾を吐きながら言った。
その男は太刀を抜くと構えた。
「血を流して貰おうじゃねえか」と、その男は低い声で言った。どうやら、こっちの男が本物の親玉らしい。
「おい、野郎ども怖じけづいてるんじゃねえ。頭数はこっちの方が多いんじゃ。いい加減に目を覚ましやがれ!」
「おう!」と山賊たちは親玉に威勢を付けられると、空(カラ)元気を出して一斉に武器を構えた。
その機先を制するかのように、茂みの中から悲鳴が聞こえた。そして、茂みの中から、弓と矢を構えた山賊が体を反らすようにして倒れた。その山賊の右肩に手裏剣が刺さっていた。
手裏剣を投げたのは太郎だった。太郎は山賊たちを見下ろす木の上にいた。太郎だけでなく、三人の弟子たちは皆、木の上から山賊どもの動きを見張っていた。
気を取り直して武器を構えた山賊どもは、また、仲間が一人、飛び道具にやられたのを見て怖じけづいた。
親玉はまた唾を吐くと、「情けねえ!」と言った。「恐れるんじゃねえ、てめえら、掛かれ!」
親玉に言われて、長巻(ナガマキ、刀の柄を長くした武器)を構えた三人が覚悟を決めて掛かって行った。掛かって行った場所が悪かった。さっきから暴れたくて、うずうずしていた馬借たちの所だった。敵が掛かって来るのを見ると馬借たちも一斉に掛かって行った。それから乱闘が始まった。もう、止める事はできなかった。しかし、浪人の一人が苦戦の末に親玉を倒すと、山賊どもは皆、逃げて行った。木に縫い付けられた男もいつの間にか消えていた。
「おい、みんな、大丈夫か」と金比羅坊が言った。
浪人組の若い者が一人と馬借が一人、傷を負ったが、それ程、深い傷ではなかった。
敵の方は親玉が横腹を刺されて死んでいただけで、あとは皆、逃げていた。
死んでいる親玉を見ながら、「こいつも元は武士だったんじゃろうな」と浪人の一人が呟いた。
浪人たちは死体を草むらの中に運んだ。
「これで、おぬしの偽者も阿修羅坊も殺されなくて済んだな」と金比羅坊は太郎に言った。「ええ。しかし、正明坊とかいう山伏はいませんでしたね」
「山賊を雇っただけで、京で結果を待ってるんじゃないのか」
「かもしれませんね。そんなに難しい仕事じゃないですからね」
山賊どもを追って行った次郎吉たちが戻って来た。
「みんな、行っちまったわ」と吉次が言った。
「奴ら、慌てて、馬を忘れて行きおった」と次郎吉が言った。
「馬?」と金比羅坊が聞いた。
「ああ、山の下におる」
「何頭位じゃ」
「かなり、おるぞ。奴らの頭数はおるんじゃねえか」
「すると、五十頭近くもおるのか」
「ああ。大した馬じゃねえがな」
「何でもいい。貰って行くか。夢庵殿が馬が何頭か足りんと言っておったからのう」
来る時は山の中を歩いて来たが、帰りは全員、馬に乗って街道を帰って行った。国境の関所を通らなくてはならなかったが、別所加賀守がくれた書き付けを見せたら、無事に通る事ができた。見るからに山賊のような一団でも、書き付けは確かに加賀守の字だったので、関所の責任者は見て見ぬ振りをして通した。また、通さないわけにはいかなかった。いくら、不審な点があっても相手が多すぎた。太郎たちを止めるだけの兵力をこの関所は備えていなかった。
この関所は、播磨の国に入る通行人を調べるというだけのもので戦力は持っていない。もし、敵が責めて来た場合は速やかに関所を捨てて、近くの城に知らせるというだけの機能しか持っていなかった。また、敵が責めて来るという事も考えられなかった。隣は摂津の国だと言っても、赤松氏の一族の有馬氏の領土だった。有馬氏だけは嘉吉の変の時も生き残り、ずっと、この地を守り通して来たのだった。
太郎たちは大谿寺に戻ると、さっそく行軍の支度を始めた。そろそろ偽者が来る頃だった。
5
騎馬武者は大谿寺で、徒歩武者は大谿寺の裏山の広場で、それぞれ支度をして待機していた。偽者が大谿寺の前の街道を通ったら合流し、偽者を率いている堀次郎に別所造酒祐が、そちらのは偽者で、こちらが本者だと告げ、楓殿の御主人の命を狙っている者がいるとの情報が入ったので、二手に分けて京を出たと言う。そして、そのまま偽者の後を付いて行くつもりでいた。
準備が完了すると、金比羅坊は風光坊、探真坊、八郎坊の三人を偵察に送った。三人は甲冑を身に着けたまま、馬に乗って出掛けて行った。
「なかなか、あの三人も様になっておるのう」と金比羅坊は三人の後姿を見送りながら言った。
「わしも出迎えに行ってくるか」と次郎吉も馬に乗って後を追った。
「わしは銀左殿の方を見てくるわ」と金比羅坊は銀左たちのいる広場の方に馬に乗って出掛けた。
「みんな、一角の武将に見えますね」と太郎は隣にいる夢庵に言った。夢庵も勿論、甲冑を着ていた。
「そうじゃな。皆、今から、おぬしの部下になるわけじゃのう」
「えっ」と太郎は夢庵を見た。
「このまま城下に入ったら、おぬしは赤松家の武将じゃ。そうなれば、みんな、おぬしの家来という事になる」
「そんな‥‥‥そんな事まで、まだ考えてませんよ」
「大丈夫じゃよ。おぬしが大将になれば、みんな、喜んで付いて行くわ。おぬしには生まれながらにして人徳というものがある。おぬしが何もしなくても人が集まって来るんじゃ」
家来か‥‥‥確かに、彼らが自分の家来になってくれれば心強い連中ばかりだった。しかし、金比羅坊は飯道山の山伏で、太郎の先輩だった。次郎吉や伊助たちは松恵尼の下で働く者たちで、太郎の家来になるはずはなかった。今、本当に太郎の家来と言えるのは三人の弟子しかいなかった。武将になるのはいいが、これから、また、家来を集めなくてはならなかった。
「どの位の家来が必要なんでしょうか」と太郎は夢庵に聞いた。
「そうじゃのう。おぬしはお屋形様の義理の兄になるわけじゃからのう。かなりの家来を持つ事になるじゃろうのう。まず、城と領土を与えられるじゃろう。どれ位与えられるかわからんが、少なくとも二千貫の土地は貰えるじゃろうな」
「二千貫?」
「ああ。二千貫文分の年貢が取れる土地じゃ。広さにして四百町位かのう」
「四百町?」
四百町の広さの土地と言われても、太郎には、どの位の広さなのか見当も付かなかった。一町というのは約百メートル四方である。四百町と言えば、約二キロメートル四方の土地だった。ただし、それは質のいい水田の場合である。質の悪い水田や畑だったら、二千貫文の年貢を得るためには、もっと広い土地が必要となった。
「その位の土地はくれるだろうという事じゃ。まあ、二千貫だとして、大体、騎馬武者五十騎に徒歩武者二百人という所かのう」
「五十騎に二百人‥‥‥加賀守殿が言った数と同じじゃないですか」
「そういう事じゃ」と夢庵は笑った。「だから、少なくとも二千貫はくれるじゃろうと思ったんじゃよ」
「この兵力というのは、二千貫文の領土を持った武将の兵力だったのですか‥‥‥」
「そういう事じゃ。だから、このまま、みんながおぬしの家来になれば、丁度、勘定が合うんじゃよ」
「そう、うまい具合には行きませんよ」
「まあな、みんな、職を持っておるからのう。しかし、少なくとも、あの浪人十二人はおぬしの家来となるじゃろうな」
「なってくれれば、ありがたいですけど‥‥‥」
「何を言っておるんじゃ。おぬしは赤松家のお屋形様の兄上だぞ。奴ら、浪人者から見たら雲の上にいるようなお人なんじゃ。そのお人の家来になれるなんて夢のような話じゃ。飛び付いて来るに決まっておる」
「それにしても、改めて、家来を集めなければならないんですね」
「心配するな。どうせ、お屋形様が土地だけじゃなく、兵もくれるじゃろう」
城と土地を貰うのはいいが、家来までも貰いたくはなかった。お屋形様の家来に囲まれていたのでは監視されているようなものだった。家来だけは自分で集めようと思った。
金比羅坊や伊助、次郎吉のような者が見つかればいいが、ああいう人たちが、そう簡単に見つかりそうもなかった。これから、また、人捜しが大変だ、と太郎は思った。
「お屋形様は、おぬしにどこの城をくれるかのう」と夢庵は言った。「楓殿はただ一人の姉じゃからのう。置塩城からそう遠くない所じゃろう。おぬしが水軍の出じゃから飾磨津(シカマツ、姫路港)辺りに置いて、赤松の水軍でも作るかもしれんのう」
その時、馬の蹄(ヒヅメ)の音が近づいて来た。
「とうとう、偽者が現れたと見えるのう」と夢庵が言った。
知らせに来たのは八郎坊だったが、八郎坊の様子は普通ではなかった。
慌てて馬から降りると、八郎坊は、「やられました」と言った。
「誰が」と太郎は聞いた。
「偽者です」
「何だと、誰にやられたんだ」
「山伏と山賊です」
「詳しく話してみろ」と夢庵が言った。
八郎坊が慌てて戻って来るのを見て、朝田ら浪人たちと桜之介ら馬借の連中が集まって来た。他の連中は皆、広場の方に行っていて、この場にはいなかった。
八郎坊の話によると、八郎坊たち四人は国境の関所まで行き、偽者の来るのを待っていた。ようやく偽者が来たので、堀次郎に、別所加賀守殿の命により楓殿の御主人の迎えに来た、本隊はもう少し先で待っていると告げて合流した。
探真坊と風光坊は、その隊の後ろに付いて行き、次郎吉と八郎坊は後ろに伊助がいるはずだと、そのまま、伊助が来るのを待っていた。
しばらくすると薬売り姿の伊助が来た。関所で、伊助から話を聞いていると、先に行った偽者の隊から騒ぎが起こった。
偽者に従っていた徒歩武者たちが、慌てて、こちらの方に逃げて来た。
次郎吉、伊助、八郎坊が急いで行ってみると、堀次郎が、「曲者(クセモノ)じゃ!」とわめきながら山賊たちと戦っていた。
偽者は足を弓矢に刺され、落馬した所を首を掻き斬られて死んでいた。他にも何人かが弓矢にやられ、落馬した所を殺されている。阿修羅坊は正明坊と思われる山伏と戦っていた。まだ、右手が思うように使えないので苦戦しているようだった。
次郎吉たちが向かって来るのを見ると、正明坊は、「引け!」と怒鳴り、皆、山の中に逃げて行った。
風光坊と探真坊は山賊らを追って山の中に入った。八郎坊も追って行こうとしたが、次郎吉に言われて、真っすぐ、ここに飛んで来たのだと言う。
八郎坊の話が終わらないうちに、朝田と桜之介は仲間を連れて現場に向かった。
太郎は別所造酒祐に訳を話し、もう少し、ここで待っていてくれと言うと、夢庵と八郎坊を連れて現場に向かった。
太郎たちが着いた頃には騒ぎは治まっていた。敵は二十人位だったと言うが、二人を捕まえただけで、あとは逃がしてしまった。その中に山伏が五人いて、中の一人は正明坊だったと阿修羅坊は言った。
奴らにやられたのは十人、そのうち、死んだのが太郎の偽者も入れて七人だった。堀次郎の率いていた武士のうち六人が死に、二人が怪我をしていた。阿修羅坊も正明坊に左足を、それ程、深くはないが斬られていた。
足軽の寄せ集めだった徒歩武者は全員、どこかに逃げてしまっていなかった。
捕まえた二人は例の山賊だった。話を聞くと、思っていた通り、奴らはただ雇われただけだった。山伏に雇われたと言ったが、その山伏の名前までは知らなかった。勿論、狙った相手の事も何も知らない。ただ、いつ頃、こういう連中が通るから襲い掛かれと言われただけだと言う。今朝、太郎たちに襲われて山を下りた山賊たちは、頭を殺され、仕事の事は諦めて、また京に戻ろうとしていた。しかし、途中で正明坊とばったり会ってしまい、銭に釣られて、また戻って来たのだと言う。
捕まえた二人は、このまま連れて行ってもしょうがないので、死体を埋めるのを手伝わせて逃がしてやった。
街道を片付けると、関所の者たちに、今起きた事を口止めし、とりあえず、全員、大谿寺に戻った。
堀次郎は楓御料人様の御主人を見殺しにしてしまった責任を感じ、真っ青な顔をしていた。大谿寺において別所造酒祐と会い、死んだのは実は偽者だったと聞き、ようやく、生気を取り戻したが、気持ちは複雑だった。
改めて、大谿寺で隊列を整えると、総勢三百二十人に守られ、楓御料人様の御主人、愛洲太郎左衛門は置塩城下を目指して出発した。
29.赤松政則
1
すがすがしい、いい天気だった。
太郎は別所屋敷の庭の片隅に座り込んで、木彫りの馬を彫っていた。
側では百太郎と加賀守の子供、小笹と小三郎が見ていた。小笹は十歳の女の子で、小三郎は百太郎と同い年の三歳だった。三人は仲がよく、小笹は姉さんらしく、よく二人の面倒を見ていた。
太郎は昨日の昼過ぎ、楓御料人様の御主人として威風堂々と城下に入って来た。城下の町人たちの歓迎は物凄いものだった。大通りの両脇は太郎を一目見ようと人々で埋まっていた。
太郎たち一行は大谿寺を出て西に進み、加古川を渡った。その晩は、そこで夜を明かすつもりでいた。ところが、加古川を渡った所で、天神山城主の櫛橋豊後守(クシハシブンゴノカミ)の使いの者が待っていた。
櫛橋豊後守は赤松家の年寄衆の一人だった。櫛橋氏は代々、赤松家のために働いて来た重臣だった。豊後守の父親、左京亮貞伊(サキョウノスケサダタダ)は嘉吉の変の時、性具入道の嫡男、彦次郎教康と共に伊勢に逃げ、その地で自害して果てていた。
当時、九歳だった豊後守は身を守るために出家させられたが、応仁の乱になり、赤松家が播磨の国を取り戻すと召し出され、還俗して政則の家臣となった。その後、活躍して、以前のごとく年寄衆の一人となり、天神山城の城主となっていた。
豊後守はその頃、別所加賀守と一緒に置塩城下にいたが、加賀守に頼まれ、天神山城に戻って太郎が来るのを待っていたのだった。
太郎は河原者たちを引き連れて、堂々と城下に入って来ると言ったが加賀守は心配だった。お屋形様の兄上として恥ずかしくない立派な姿で入場してもらわなければならない。加賀守は櫛橋豊後守に、もし、太郎がみっともない姿だったら直し、また、兵の方も豊後守の兵を使ってでも、立派な姿にして城下に入れてくれ、と頼んだのだった。
太郎は豊後守の天神山城下の屋敷で、丁寧な持て成しを受けた。豊後守は、太郎の連れて来た兵たちが河原者だと知ってはいても、一応、武士として、太郎の家来として扱ってくれた。河原者たちもすっかり武士になりきり、豊後守の家臣たちとうまくやっていたようだった。
豊後守は自ら騎馬武者二十騎と太鼓や法螺貝を持った兵二十人を率いて、太郎たちの先頭に立ってくれた。豊後守が先頭にいるため、置塩城下に入る前に、小寺藤次郎の庄山(ショウヤマ)城下、小寺藤兵衛の姫路城下、守護所の坂本城下などでも太郎は歓迎を受けた。
豊後守の隊の後には、申之助と源次郎の率いる三十九人の散所者が槍を担いで続き、その後ろに、八兵衛率いる三十六人の川の民が弓を担ぎ、その後ろに、京介率いる皮屋二十五人が槍を担いで続いた。彼らは皆、真っ黒な甲冑を身に着け、堂々と行進していた。
その徒歩武者の後ろに、別所造酒祐率いる正規の騎馬武者五十騎と堀次郎が京から連れて来た十二騎が続いた。造酒祐率いる騎馬隊は浅葱(アサギ)色(緑色がかった薄い青)の甲冑に統一していた。堀次郎の隊は様々な色の甲冑だった。真っ黒の中に彼らの甲冑は目立っていた。
正規の武士たちの後ろに、八郎坊、風光坊、探真坊の三人が黒の甲冑に身を固め、馬に乗っていた。三人とも真剣な顔をして、すっかり武将気取りだった。そして、藤吉、医者の磨羅宗湛、吉次が続き、伊助と次郎吉が大将である太郎の両脇を固め、その後ろに阿修羅坊、甚助、弥平次と続いた。それなりに皆、大将である太郎を守っている武将たちに見えた。
その後ろには、朝田新右衛門率いる浪人十二人と桜之介率いる三十三人の馬借が馬に乗って従い、その後ろには徒歩武者、勘三郎率いる金掘りが二十四人、辻堂率いる乞食五十二人、弥次郎率いる紺屋二十三人が続いていた。そして、最後尾に、夢庵と銀左、金比羅坊の三人が馬に乗って付いて来ていた。総勢三百六十一人、寄せ集めの軍勢だが戦に行くわけではなく、ただ、太郎を京から置塩城下に送るだけの軍勢なら、これ位の人数で充分だった。知らない者が見たら、充分に立派な軍隊に見えた。
太郎は、その立派な軍隊を率いて、置塩城下に堂々と乗り込んで行った。
太郎たちが城下に入る前に、櫛橋豊後守が先触れを送っていたので、城下の入り口の大門には、太郎を見るために集まった人々で埋まっていた。
その人々の中を、太郎たちの一隊は、法螺貝と太鼓を賑やかに吹き鳴らす豊後守の楽隊を先頭に、堂々と行進して行った。大通りには、ずっと人が出ていた。
小野屋の辺りに金勝座のみんなの顔もあった。みんな、手を振りながら喜んでいた。
太郎たちは大通りを真っすぐ進み、お屋形様の屋敷につながる通りへと右に曲がった。正面にお屋形様の屋敷の門が見え、両側に並ぶ武家屋敷からも、太郎を一目見ようと武士や使用人たちが大勢出ていた。
太郎たちはそのまま真っすぐ、お屋形様の屋敷へと入って行った。全員が中に入ると門は閉められた。
そこは屋敷の中といっても、細長い広場のようになっていて塀で囲まれていた。お屋形様の屋敷は、その塀の向こうにあった。広場の両側に大きな蔵があり、門の両脇に門番の小屋が建っていた。
町が、ようやく落ち着いた頃、堀次郎が十二騎を連れて、父親の屋敷に帰り、櫛橋豊後守も家臣を連れて、自分の屋敷に戻った。別所造酒祐が率いていた武士たちも、それぞれ帰って行き、そして、太郎たちは別所屋敷へと移った。
別所屋敷に入ると、皆、元の姿に着替え、暗くなってから解散となった。
みんな、よくやってくれた。大成功だった。
太郎は一人一人、御苦労様と言って見送った。
たった四日だけの付き合いだったが、何となく別れがたかった。彼らが本当に自分の家来だったら、どんなにいいだろう、と太郎は思っていた。
河原者たちが去り、浪人たちも去り、最後に、『浦浪』に泊まっている仲間たちが帰って行った。
「疲れたのう」と金比羅坊が首を回した。
「ようやく、終わりましたね」と伊助が言った。
「うまく、行ったな」と夢庵が笑った。
「良かったのう」と阿修羅坊が言った。
太郎はみんなに礼を言って別れた。
これで、ようやく、太郎は晴れて、楓の主人と認められたのだった。
太郎が、この播磨の国に来てから丁度、一月目だった。
色々な事があって、長かった一月だったが、この一月で、随分と色々な事を知る事ができたと思った。
太郎が子供たちと遊んでいると、楓が太郎を呼びに来た。
加賀守が、太郎と楓の二人を呼んでいると言う。
何だろう、と執事の織部祐の後に付いて加賀守の書斎に行くと、見知らぬ山伏が加賀守と一緒にいた。
山伏の名は空厳坊(クウゲンボウ)といい、御嶽山清水寺の山伏だと言う。
加賀守が太郎と会う前、太郎の素性を調べるため、太郎の故郷、五ケ所浦に送り、今、戻って来た所だった。
「そなたは故郷でも、なかなか有名だそうじゃのう」と加賀守は笑いながら言った。
「そなたの始めた剣術が大層、流行っているそうじゃ。わしも一度、その陰流とか言う剣術を見てみたいものじゃ」
「はい、そのうちに‥‥‥」と太郎は答えた。
「五ケ所浦という所は風光明媚な所でございました」と空巌坊は言った。
空巌坊は五ケ所浦に着くと、まず、港にある熊野の山伏の宿坊に入った。そして、そこにいた山伏に、それとなく、愛洲の一族で、何か問題を起こして、ここから出て行った者はいないか、と聞いてみた。
答えはすぐに返って来た。二年半程前、水軍の大将、隼人正殿の伜殿が急に城下から消えたと言う。その伜殿は近江の国の甲賀に二年間、修行に行って『陰流』という剣術を編み出して帰って来た。その時、綺麗な嫁を連れて来たと言う。その伜殿は水軍の者たちに剣術を教え、戦に出ても活躍した。その噂が殿様の耳にも入り、御前試合を行なう事となり、相手は百戦錬磨の騎馬武者だったが見事に勝った。その御前試合の後、すぐに城下からいなくなったと言う。不思議な事に、その御前試合の時の相手も同時に城下から消えていなくなった。詳しい事情はわからんが、どうも、普段から仲の悪かった水軍と陸軍の争い事が絡んでいたようだ、と熊野の山伏は言った。
その伜というのは、今、どこにいる、と聞いたが、熊野の山伏は知らなかった。そして、剣術の道場の場所を教えてくれ、そこに、その伜殿の爺さんがいるから聞いてみろ、と言われた。
さっそく、空巌坊は剣術道場に向かった。
道場の入り口には『陰流武術指南所』と大きく書いてあり、広い敷地の中で、若い者たちが武術の修行に励んでいた。その道場の片隅に建てられた小屋の中で、空巌坊は太郎の祖父、白峰と会った。
空巌坊が孫の事を聞くと、逆に白峰の方が、太郎は今、どこにいるのか聞いて来た。
空巌坊は、それを捜しに来たのだと答えた。自分は播磨の別所殿に仕えている者だが、甲賀に行った時、太郎の剣術の噂を聞き、その噂を殿に話したら、是非、捜して連れて来いと頼まれた。うちの殿は剣術好きで、是非、陰流を習いたいと言う。そこで、太郎を捜しに、ここまで来たのだと適当な事を言った。
そうだったのか、と白峰は空巌坊をうちに連れて行き、その晩は御馳走になったと言う。「祖父は元気でしたか」と太郎は聞いた。
「はい、それはもう、若い者相手に剣術を教えているくらいですから‥‥‥なかなか、できたお人です」
「他に、家族の事は何か聞きましたか」
「はい、妹殿がお嫁に行ったとか」
「お澪さんがお嫁に?」と楓が言って、太郎の顔を見た。
「はい、同じ水軍の家だそうです」
「そうですか、澪が嫁に行きましたか‥‥‥」太郎は懐かしそうに妹を思い出していた。
最後に会った時、澪は十六歳だった。知らないうちに綺麗な娘になっていた。今年はもう十八、嫁に行くのが当たり前の年齢になっていた。相手が誰だかわからないが、幸せになってほしいと願うしかなかった。
「それと、弟殿がお爺様の所にいらっしゃいました」と空厳坊は言った。
「弟というのは、三郎丸の事ですか」
「はい、そうです。三郎丸殿も剣術の修行に励んでおりまして、なかなか、お強いようです。来年、元服するそうです」
「三郎丸も、もう元服ですか。早いものですね。家族の者たちは皆、元気でしたか」
「はい。皆、お元気の様子でした」
太郎は満足そうに頷くと、「戦の方は、どんな具合でしたか」と聞いた。
「膠着状態のようでした。愛洲氏としては志摩の国に攻めて行きたいようですが、志摩の国の豪族たちが皆、北畠氏と同盟を結んでしまったので、攻めて行けないようです。それに、長引いている戦のお陰で、お伊勢参りや熊野詣での旅のお客が減り、財政の方も苦しくなっておる様でした」
「そうですか‥‥‥」
「しかし、剣術道場の方は流行っておりましたよ。そうですね、百人はいましたかね」
「百人も」と太郎は驚いた後、「みんな、子供ばかりですか」と聞いた。
「いえ、皆、立派な若者たちですよ」
「そうですか。わたしが五ケ所浦を出た頃は子供たちばかりでした。もっとも、あの頃、若者たちは皆、戦に行っていましたけど」
「今は、もう、ほんとに若者たちばかりでした」
よかったわね、と言うように楓が太郎を見て笑った。太郎も笑って楓に頷いた。
「そなたは、どうして故郷を出て来たのじゃ」と加賀守が聞いた。「聞けば、愛洲水軍の大将の伜殿だと言うではないか。故郷にそのままいれば、そなたの事じゃ、立派な大将になったものを」
「はい。空巌坊殿の言った通り、水軍と陸軍の争い事のためです。普段から仲の良くなかった水軍と陸軍が、御前試合において、二つに分かれてしまったのです。わたしが殿の御前で、陸軍の者を倒してしまったため、水軍の者たちは思い上がり、陸軍の者たちも黙ってはいません。あちこちで戦が始まっている時期に、愛洲家が二つに分かれてしまったら、愛洲家自体が危なくなります。わたしがいなくなれば、争いも治まるかもしれないと思いまして、五ケ所浦を出ました」
「身を引いたというわけか」
「それだけではありません。自分もまだ修行が足りなかったのです。あの頃のわたしは自惚れていました。回りの状況も調べずに、自分勝手な事をしたために、あんな結果になってしまったのです。もう一度、修行をやり直そうと思っておりました」
「成程のう。それで山伏になったのか」
「はい」
「夢庵殿から聞いたが、そなたは仏師でもあると言っておったが」
「はい。わたしが甲賀にいた時、不思議な老山伏に出会いました。その人は百歳を越えていましたが、とても、そんな年には見えない程、元気でした。わたしはその人から、武術を始め、色々な事を教わりました。わたしが会った時は、その人は智羅天という名の山伏でした。しかし、その人には、もう一つの名前がありました。それが三好日向という名の仏師てした。その人が亡くなってから、わたしはその事を知りました。わたしは、その人から彫り物も教わりました。わたしは勝手ながら三好日向の二代目を名乗ったのです」
「三好日向‥‥‥もしかしたら、その人というのは元は武士だったのではないのですか」と空巌坊が聞いた。
「はい。武士です。戦にも何回か出た事があると言っておりました」
「やはり、そうですか」
「三好日向というのを知っておるのか」と加賀守が空巌坊に聞いた。
空巌坊は頷いた。「阿波の細川讃岐守(サヌキノカミ)殿の家臣に三好日向守殿という方がおられます。もしかしたら、その方とつながりがあるのかと‥‥‥」
「三好日向に三好日向守か‥‥‥確かに似ておるのう。その御仁は阿波の国の出身なのか」
「さあ、わかりません。昔の事はあまり喋りませんでした」
「その御仁、百歳も生きておったとすると、その日向守の爺様かも知れんのう」
「そうかもしれません」
「御苦労だった。もう、下がってもいいぞ」と加賀守が空巌坊に言うと、空巌坊は頭を下げて去って行った。
「実は、そなたの名前の事なんじゃが」と加賀守は太郎と楓を見ながら言った。「美作守が、そなたの名を京極次郎右衛門高秀と言ってしまったため、重臣たちは皆、そう信じ込んでしまっておるんじゃよ。今更、違うとも言えんしな。かと言って、京極氏に断りもなしに、京極を名乗るわけにもいかん」
「愛洲を名乗るわけにはいかないのですか」と太郎は聞いた。
「そうすると、美作守が嘘をついた事になる。事実、嘘をついておるんじゃが、それを表沙汰にしてしまうと、それこそ、赤松家が二つに分裂してしまう。今、そんな派閥争いなどしておったら、それこそ、赤松家は潰れてしまうんじゃよ」
執事の織部祐が加賀守を呼びに来た。
「ちょっと、失礼する」と言って加賀守は出て行った。
「ねえ、どうするの」と楓が小声で聞いた。「このまま、ここに残るの」
「いやなのか」
「いやじゃないけど‥‥‥」
「とにかく、今は弟と会う事だけを考えよう。その後の事は、それからだ」
「でも、会ってしまったら、もう、ここから出られないような気がするわ」
「何とかなるさ。現に、俺は殺されずに済んだ。どうしても、ここから出たくなったら、その時、考えればいい」
「そうね‥‥‥話は変わるんだけど、あたしね、ここから出たいのよ」
「えっ、弟に会う前に、ここから出るのか」
「違うわよ。ただ、外に出たいのよ。あたし、この国に来てから、ここから一歩も出てないのよ。御城下が見てみたいわ」
「そうか。お前たちは、まだ、ここから一歩も出ていなかったんだな。そいつは可哀想だ。加賀守殿に頼んでみよう」
「うん、そうして」
加賀守は重大な知らせを持って戻って来た。
お屋形様の赤松政則が、明日、城下に帰って来ると言う。
二人にそう知らせると、忙しくなるわ、と言って、また出掛けようとした。
太郎は楓の外出の事を加賀守に頼むと、少し考えていたが、目立たないようにすればいいだろうと許可をくれた。そして、織部祐と一緒に行ってくれと付け加えた。
太郎は楓と百太郎、そして、加賀守の子供、小笹と小次郎を連れて城下見物に出た。
付き添いとして、執事の織部祐と別所屋敷の侍女、小松、楓の侍女、春日と日吉が付いて来た。楓としては親子三人だけで、のんびりと気楽に城下を歩きたかったのだが、こんなに大人数付いて来ては、のんびりどころではなかった。
生憎、今日は市の日ではなかったので、太郎たちはぞろぞろと賑やかな性海寺の参道を一通り見てから、河原に出て芸人たちを見て、屋敷に戻った。
河原では丁度、金勝座の舞台が上演中だった。凄い人気だった。竹矢来の中は人で埋まっていた。太郎たちは金勝座の舞台は見ないで、他の芸人たちを見て歩いた。
一旦、別所屋敷に戻った太郎は、改めて、みんなにお礼を言って来ると言って、木賃宿『浦浪』に向かった。
浦浪には誰もいなかった。
金勝座の連中がいないのは、まだ、舞台が終わっていないからだろうが、他の連中が誰もいないのはおかしな事だった。金比羅坊も三人の弟子もいない。伊助や次郎吉たちも、夢庵もいない。阿修羅坊もいないし、松阿弥までもがいなかった。部屋には荷物があるので、城下にいるに違いないが一体、みんな、どこに行ったのだろう。
もしかしたら、昨日の後片付けに、小野屋か銀左の屋敷に行っているのかもしれなかった。小野屋にもお礼を言わなければならないので、太郎は小野屋に向かった。
小野屋の裏門から入って行くと、庭に、太郎たちが使った甲冑が干してあった。蔵の所で仕事をしていた手代に、主人はいるか、と聞くと、主人は楓御料人様の披露式典の会場の方に行っていると言う。お屋形様が明日、帰って来るので、披露式典の会場作りが忙しいのだろう。次郎吉は来ていないか、と聞くと、午前中に来て、そこにある甲冑を片付けていたが、もう帰ったと言った。
太郎は改めて出直すと言って、小野屋を後にした。
河原に出ると、すぐ側にある金勝座の舞台は終わっていた。竹矢来の筵が跳ね上げられ、座員たちが後片付けをしていた。太郎は助六に声を掛けた。
助六は驚いたような顔をして太郎を見て、急に嬉しそうに笑うと、「おめでとうございます」と言った。
太郎も助六の顔を見たら自然と笑みがこぼれた。「ありがとう。これも、みんなのお陰です」
「もう、浦浪には戻って来ないのですか」と助六は太郎を見つめながら聞いた。
「いえ。今さっき、行った所です、そしたら、誰もいませんでした。みんな、どこに行ったのか知りませんか」
「誰もいません?」と助六は首を傾げた。
「ええ、松阿弥殿もいませんでした」
「ああ、松阿弥さんは今朝、但馬の国に帰りました」
「但馬へ?」
「ええ。知り合いがいるんだそうです」
「そうですか。帰りましたか‥‥‥」
「太郎様に、お世話になりました、と伝えてくれと言っていました。剣を捨てて、もう一度、やり直すと言っていました」
「剣を捨てて、もう一度やり直す? 一体、何をやり直すんです」
「わかりません。でも、新しく生まれ変わったつもりで、やり直すと言っていました」
「そうですか‥‥‥剣を捨てましたか‥‥‥」
「はい。顔付きも、初めて浦浪に来た時と、全然、変わっていました。きっと、松阿弥さんの心の中で、何かが変わったんでしょうね」
「そうですか‥‥‥」
「もしかしたら、みんな、お頭の銀左さんの所に行ったんじゃないでしょうか」
「ええ、俺もそう思います。色々と片付ける事があるでしょうからね」
太郎は金勝座の頭、助五郎を初め、みんなにお世話になった事のお礼を言うと、銀左の屋敷へと向かった。助六が一緒に付いて来た。
「抜け出して来て、大丈夫なんですか」と太郎は聞いた。
「だって、太郎様がお屋敷に入ってしまったら、もう、なかなか会えなくなるでしょ。今のうちに会っておきたいのよ」
「そんな事はないさ。俺は堅苦しい所は好きじゃないから、ちょくちょく抜け出すさ。山伏や仏師に化けてね。そういえば、助六さん、いや、奈々さんの方は、そろそろ甲賀に帰るんだろ。飯道山の秋祭りに出なけりゃならないんだろ」
助六は頷いた。「来月の初めには帰るらしいわ」
「そうか、金勝座のみんなが、いなくなると淋しくなるな」
助六は太郎を見て笑った。「でも、また、ここに戻って来ると思うわ。旅をしているよりも、ここの方が稼ぎになるもの」
「是非、戻って来て下さい。帰る前に、また、みんなで飲みたいですね」
「そうね。みんなで大騒ぎしたいわね」
銀左の屋敷に向かう途中で、二人は走って来る藤吉と出会った。
藤吉は丁度、別所屋敷に、太郎を迎えに行く所だったと言う。
「何かあったのですか」と太郎が聞くと、「太郎坊殿に頼みがあるのです」と藤吉は言った。
「頼み? 藤吉殿がですか」
「いえ、我々、みんなです。とにかく、銀左殿の屋敷まで来て下さい」
藤吉に付いて銀左の屋敷の広間に行くと、みんな、揃っていた。
金比羅坊、風光坊、八郎坊、探真坊、そして、阿修羅坊、伊助、次郎吉、吉次、それに、別所屋敷の侍部屋にいるはずの弥平次までもいた。そして、夢庵、銀左、医者であり禅僧の磨羅宗湛。それと、朝田新右衛門を初めとした浪人十二人、馬借が友造、茂次(シゲジ)、墨之介(スミノスケ)の三人、金掘り人足の頭の勘三郎、乞食の蛾次郎(ガジロウ)、散所者の頭の源次郎が、広間に顔を揃えていた。
「一体、何事です」と太郎は藤吉に聞いた。
「まあ、どうぞ」
「あたし、何か、場違いみたいね」と助六が広間の中を覗いて言った。
確かに、助六の言う通り、いつもと違う厳粛な雰囲気だった。
「そうですね。助六殿は少し、別の部屋で待っていて下さい」と藤吉は言って、助六をどこかに連れて行った。
太郎は金比羅坊に呼ばれて、広間の上座に座らせられた。
「一体、何事です」と太郎は隣の金比羅坊に聞いた。
「実は、おぬしに頼みがあるんじゃ」
「さっきも藤吉殿から聞きましたけど、一体、みんな、どうしたんです」
「実はのう、これじゃ」と金比羅坊は太郎に一枚の紙を渡した。
その紙は、熊野の牛王宝印(ゴオウホウイン)の押された起請文(キショウモン)だった。ここにいる者たちの名前が、ずらりと並び、血判が押してあった。そして、最後に、右の者、愛洲太郎左衛門尉久忠殿の臣として忠誠を誓うものなり、文明六年甲午(キノエウマ)八月吉日、と書いてあった。
「それを受け取ってくれ」と金比羅坊は言った。
「みんな、俺の家来になるという事ですか」
「そうじゃ。銀左殿と夢庵殿と宗湛殿は見届け人じゃ」
太郎は全員の顔を見回した。皆、真剣な顔をして、太郎を見つめていた。
「わかりました。一応、みんなの気持ちだけは預かっておきます。しかし、答えを出すのはもう少し待って下さい」
「なぜじゃ。お屋形様の兄上として、この城下に迎えられたからには、おぬしはれっきとした武将じゃ。家来が必要じゃろう」
「はい。わかっています。みんなが、わたしの家来になってくれるなんて、ほんとに嬉しい事です。しかし、もう少し待って下さい。明日、お屋形様が帰って来るそうです。一目、お屋形様と会ってから、これからの事を決めたいのです」
「お屋形様次第では、ここから出て行くという意味か」
太郎は頷いた。
「しかし、楓殿にとっては実の弟じゃぞ」
「勝手な事を言ってすみませんが、もう少し待って下さい。お屋形様と会ってから、その後の事を決めたいのです。決まりましたら、改めて、わたしの方から皆さんに頼みに参ります」
「そうか‥‥‥」金比羅坊は太郎を見つめてから皆の顔を見回した。「みんな、そういうわけじゃ、もう少し待ってやってくれ」
「なに、わしらは、おぬしの今までのやり方を充分に見て来た。わしらは、おぬしという男になら付いて行けると思って起請文を書いた。わしらの命はおぬしに預けたんじゃ。何事もおぬしに任せる」と阿修羅坊が言った。
「そうじゃ、そうじゃ」という声が、あちこちから聞こえた。
太郎はみんなに頭を下げた。
「大将がそう軽々しく頭を下げるものではないぞ」と金比羅坊が言った。
「はい、わかっています。でも、みんなにお礼を言いたいのです」
太郎は立ち上がって、皆の顔を一人一人見回した。誰もが真剣な顔付きで太郎を見ていた。
「皆さん、今回は色々とありがとうございました。うまい具合に事は運びました。これも、みんな、皆さんのお陰です。そして、また、これからも皆さんのお世話になるかもしれません。その時はまた、よろしくお願い致します。この起請文ですが、もう少し待って下さい。はっきりと決心が着きましたら、改めて、受け取りに参ります。その時は、太郎坊としてではなく、赤松家の一武将として正式に受け取りに参ります。その時まで、見届け人の銀左殿に預かっておいて貰います。皆さん、本当にお世話になりました」
太郎は皆に頭を下げると腰を降ろした。
銀左が金比羅坊に、「どうする」と聞いた。
「前祝いという事にするか」と金比羅坊は言った。
「もう、用意しちまったしのう」
「どうしたんです」と太郎は二人に聞いた。
「この日を祝おうと思っての、酒の用意がしてあるんじゃ」
「それなら、今回の行軍がうまくいった事を祝ったらどうです」
「そうじゃのう。そうするか」
「金勝座のみんなも呼んだらどうです」
「そうじゃの」
「皮屋と紺屋も呼ぶか」と銀左は言った。
「城下にいる関係者はみんな呼びましょう」と太郎は言った。
「そうじゃの、パーッとやろう、パーッと」
そして、太郎の仲間たちは全員が集まり、夜更けまで飲んで騒いだ。
今にも雨の降りそうな曇り空の下、赤松兵部少輔(ヒョウブショウユウ)政則は凱旋(ガイセン)して来た。
空はどんより曇っていても、城下は朝から、お祭り騒ぎだった。
太郎は銀左の屋敷で目を覚ますと、早朝の河原に出た。
まだ、朝早いというのに、河原には河原者たちが集まって賑やかだった。銀左もすでに起きていて、河原者たちを指図していた。太郎は銀左の側まで行った。
「早いですね」と太郎は銀左に声を掛けた。
「おう、起きたか。昨夜はよく飲んだのう」
「ええ、御馳走様でした。朝から何か、始まるのですか」
「おお、今日、お屋形様が帰って来るじゃろう。城下の大掃除じゃ」
「大掃除?」と太郎は怪訝(ケゲン)な顔をして銀左を見た。
「ああ。道を清めなければならんのじゃ。わしら、河原者の一番重要な仕事なんじゃよ」
「そうだったのですか。それは大変ですね」
「まあな。ここだけじゃない。お屋形様が移動するとなると、お屋形様の通る道はすべて、わしらが清めなければならんのじゃ」
「えっ」と太郎は思わず声を挙げた。「という事は、美作の国から、ここまでの道が全部、河原者たちによって清められるのですか」
「ああ。河原者だけじゃないがな。散所者や巷所者(ゴウショモノ、道の者)もおる。それぞれ、縄張りが決まっておってな。その範囲内の清めを担当しておるんじゃよ」
「へえ、凄いですね。と言う事は、河原者たちや散所者たちは、みんな、つながりがあるのですか」
「つながりとは?」
「つまり、常に、連絡を取り合っているというわけですか」
「まあ、そういう事じゃのう」
「この播磨の国中?」
「播磨だけじゃない。全国的に連絡網があるんじゃよ」
「全国的に?」
太郎にはとても信じられなかった。この世の中には武士や百姓、漁師、商人、職人などの他に、まだまだ、太郎の知らない世界があった。
「わしらの先祖は武士よりもずっと古いんじゃよ。もっとも、武士たちのように、一々、先祖など調べる奴はおらんがのう。おぬしも早く帰った方がいいんじゃないのか。武士は武士なりにお屋形様を迎える準備があると思うがな」
「ええ、そうですね」
「それじゃあな」と銀左は手を振ると河原を北の方に向かった。
太郎は別所屋敷に向かった。
帰る道々、太郎は町の人たちの声を色々と聞いた。誰もが、お屋形様、政則の凱旋を喜んでいた。お屋形様の悪口や陰口など一言も聞かなかった。城下の者たちに慕われ、人気のあるお屋形様のようだった。
別所屋敷に帰ったが、加賀守はいなかった。
執事の織部祐に、お屋形様を迎えるに当たって、何か、する事がありませんか、と聞いたが、今日は別にないと言った。多分、明日あたり、お屋形様との対面があるかもしれないが、今日は別に何にもないから屋敷でのんびりしていてくれとの事だった。
昨日の夕方、黙って出て行ったまま帰らなかったので、楓が怒っているだろうと思ったが、楓は笑顔で、お帰りなさいと迎えた。
「昨日、急に飲み会が始まっちゃってね。みんなには色々と世話になったし、断るわけにはいかなかったんだ」と太郎は言い訳をした。
「知ってるわよ。藤吉さんが知らせに来てくれました」
「えっ、藤吉殿が‥‥‥いつの間に抜け出したんだろ」
「ねえ、頼みがあるんだけど」と楓は太郎に甘えるように言った。
「何だい」
「あたしからもお礼を言いたいの。あたしをみんなのいる木賃宿に連れて行って」
「また、みんなをぞろぞろ引き連れてか」
「違うわよ。二人だけで」
「抜け出すのか」
楓は笑いながら頷いた。
「百太郎は大丈夫か」
「遊んでいるから大丈夫よ。それに、多分、加賀守様は今日は遅くならないと帰って来ないと思うわ。織部祐様も用がなければ、ここには来ないし、桃恵尼さんに頼んでおけば、少し位、いなくなっても平気よ」
「そうだな。抜け出すか」
楓は嬉しそうに笑った。
桃恵尼から着物を借りて、楓は尼僧に化けて別所屋敷から抜け出した。
前にも楓の尼僧姿は見た事あるが、これがまたよく似合っていて、誰が見ても尼僧だった。前は気づかなかったが、尼僧姿になると、育ての親、松恵尼によく似ていた。
太郎の方は相変わらず、いつも通りの職人姿だった。職人と尼僧が一緒に歩いていても、別に怪しむ者はいなかった。
大通りに出ると、大勢の河原者たちがゴミ拾いをし、奉行所の侍がうろうろしていた。
木賃宿『浦浪』には、ほとんどの者がいた。昨日、飲み過ぎたのか、みんな、部屋でごろごろしている。
太郎はみんなの部屋を回って楓を紹介した。
金勝座の者たちも今日は舞台がないので、のんびりしていた。楓は、この間の舞台のお礼を言ったが、尼僧姿だったので、初めの内は誰だかわからず、太郎が紹介しても、あの時の御料人様と、目の前の尼僧が同じ人だとは、なかなか納得できないようだった。
金比羅坊でさえ、どこの尼僧を連れて来たんだ、というような顔をして楓を見ていた。すぐに、楓だとわかったのは阿修羅坊だけだった。
助六が楓に対して、どんな態度を取るだろうと心配だったが、楓は助六たちの部屋に上がり込み、仲良くやっているようだった。
太郎は金比羅坊と夢庵の部屋に上がり込んだ。阿修羅坊も入って来た。
「太郎坊、いや、太郎坊殿」と阿修羅坊は言った。
「太郎坊でいいですよ」
「いや、太郎坊殿じゃ。おぬしにはまだ話してなかったんじゃが、情けない事に、わしは瑠璃寺から破門を食らったらしい。まあ、考えてみれば当然の事と言えるがのう。瑠璃寺から破門になった、わしなど美作守も用がないと言うわけじゃ。正明坊の奴を使って、わしを殺しに掛かって来た‥‥‥わしはのう、この年になって初めて、今まで、わしは何をして来たんじゃろうと思うようになったわ。いつも、わしは自分で正しいと思った事をやって来た。しかしのう、今、振り返ってみると、それは、わしの自惚れに過ぎなかった。わしは、おぬしを殺せと頼まれた時、やりたくはなかった。しかし、誰かがやらなければならないし、それをやる事は正しい事だと判断し、わしは決行した。しかし、その事が正しいと思ったのは美作守とわしだけじゃろう。おぬしの方から見たら正しいどころではない‥‥‥振り返ってみれば、すべての事がそうだと言える。わしから見れば正しい事だが、相手から見れば、まったく、その逆じゃ。この世の中には本当に正しいという事はないのかもしれんのう。わしにはよう、わからなくなって来たわい」
「正明坊とかいう山伏は、阿修羅坊殿の命をまだ、狙っているのでしょうか」と太郎は聞いた。
「わからんのう。美作守は、わりと、しつこい所があるからのう」
「武士になりきってしまえばわからんじゃろう」と金比羅坊が言った。
「それに、阿修羅坊殿が太郎殿の家臣になってしまえば、浦上美作守も手が出せないでしょう」と夢庵は言った。
「だといいんじゃがな」と阿修羅坊は力なく笑った。「正明坊の奴は何をするかわからん奴じゃからのう」
太郎たちは昼頃まで浦浪で過ごしていた。楓は久し振りに自由の身になったせいか、浮き浮きしていた。何を話しているのか知らないが助六たちと話が弾んでいた。
昼頃、藤吉が、お屋形様がもうすぐ帰って来ると知らせに来た。
藤吉はずっと北の大門の側の市場にいて、お屋形様が来るのを待っていたと言う。つい先程、先触れの騎馬武者がやって来た。もうすぐ、お屋形様の軍勢が入って来るから見に行こうと、みんなを誘った。
お屋形様は北の大門から入場すると、大通りを南下し、仁王門をくぐって東に曲がり、真っすぐ大円寺に入る。大円寺において戦勝報告をして、そこで解散となる。城下に住む者は各屋敷へ、他の者たちはそれぞれ自分の城へと帰って行く事になっていた。
政則が美作平定のために引き連れて行った兵の数は約一万人だった。しかし、置塩城下に入るまでに、それぞれの城に帰って行った者も多く、お屋形様と共に城下に帰って来るのは約三千五百人だった。三分の一に減ってはいるが、かなりの軍勢だった。先頭から最後尾まで、十五町(約一、六キロ)近くも続いていた。
太郎と楓は浦浪のみんなと一緒に、仁王門の方に向かった。大通りは、すでに人が一杯で、仁王門の側にも行けない有り様だった。正装した警備の者たちが綱を張って、通りの中央に入れないようにしている。
藤吉が、大門の方が空いていると言うので、河原を通って大門の方に行ってみたが、すでに、市場から大門まで見物人で埋まっていた。
これじゃあ、しょうがない。城下から出て、大門の向こうに行けば、いくらか空いているだろうと行ってみたが、やはり、そこも人で一杯だった。もっと先まで行きたかったが、それより先へは行けなかった。
そこから大通りは夢前川にかかる橋を渡って、向こう側に続いている。橋向こうには人があまりいなかったが、その橋は通行止めされ、先に行く事はできなかった。川を渡るには渡し舟の所まで戻るしかない。そんな所まで戻っていたら、そのうちに、お屋形様の軍勢は来てしまうだろう。仕方がない、ここからでも馬に乗っているお屋形様の顔はわかるだろうと諦めた。
その時、風光坊が橋の上で警備している男を見ながら、「あれは、銀左殿ではありませんか」と言った。
「どれ」と金比羅坊が言って、その男を見た。
太郎も見た。正装をしているので気がつかなかったが、確かに銀左だった。
「確かに、銀左殿じゃ」
「銀左殿たちが警備してたんですね」
「そうじゃのう。武士にしては変じゃとは思っていたが、河原者たちだったとはのう。なかなか、銀左殿も大変な事じゃのう」
太郎たちは銀左に頼んで、特別に橋を渡らせてもらい、川向こうの空いている所に行く事ができた。
しばらくして、法螺貝や太鼓の音が聞こえて来て、凱旋の軍勢が近づいて来た。
「先頭は番城(バンジョウ)の間島左馬助殿じゃ」という声がした。
軍勢は長旅に疲れた様子もなく、整然と隊列を組んで進んで来た。
城下の者たちは物凄い歓声と拍手で、凱旋軍を迎え入れた。
太郎たちが城下に入って来た時も賑やかに迎えてくれたが、今回はそれ以上だった。
みんなが拍手をしながら、何かを叫んでいた。何を言っているのかわからなかったが、みんながお屋形様の帰りを心から喜んでいる事は太郎にも良くわかった。それだけ、城下の者に慕われているお屋形様というのを、早く見てみたかった。
間島左馬助を先頭に、赤松備前守、嵯峨山(サガヤマ)土佐守、鯰尾玄審助(ネンオゲンバノスケ)、妻鹿(メガ)伊豆守、中村弾正少弼、赤松下野守、富田備後守、馬場因幡守と続き、千人位過ぎてから、ようやく、お屋形、赤松兵部少輔政則の軍勢の登場だった。
政則の軍勢は、皆、真っ赤な甲冑を身に着け、目立っていた。その真っ赤な甲冑の中で、お屋形様の政則だけは真っ黒だった。真っ黒な甲冑に身を固め、真っ黒な馬に乗り、悠然としていた。兜をかぶっているので顔は良く見えなかったが、何となく、面影が楓に似ているようだった。そのお屋形様がちらっとだが、こちらを見たような気がした。
千人近くの政則の軍勢が過ぎると、次に、喜多野飛騨守、上原対馬守、小寺藤兵衛、神吉(カンキ)摂津守、依藤(ヨリフジ)豊後守と続き、最後に小荷駄隊がずらりと続いていた。
その人々の中を、太郎たちの一隊は、法螺貝と太鼓を賑やかに吹き鳴らす豊後守の楽隊を先頭に、堂々と行進して行った。大通りには、ずっと人が出ていた。
小野屋の辺りに金勝座のみんなの顔もあった。みんな、手を振りながら喜んでいた。
太郎たちは大通りを真っすぐ進み、お屋形様の屋敷につながる通りへと右に曲がった。正面にお屋形様の屋敷の門が見え、両側に並ぶ武家屋敷からも、太郎を一目見ようと武士や使用人たちが大勢出ていた。
太郎たちはそのまま真っすぐ、お屋形様の屋敷へと入って行った。全員が中に入ると門は閉められた。
そこは屋敷の中といっても、細長い広場のようになっていて塀で囲まれていた。お屋形様の屋敷は、その塀の向こうにあった。広場の両側に大きな蔵があり、門の両脇に門番の小屋が建っていた。
町が、ようやく落ち着いた頃、堀次郎が十二騎を連れて、父親の屋敷に帰り、櫛橋豊後守も家臣を連れて、自分の屋敷に戻った。別所造酒祐が率いていた武士たちも、それぞれ帰って行き、そして、太郎たちは別所屋敷へと移った。
別所屋敷に入ると、皆、元の姿に着替え、暗くなってから解散となった。
みんな、よくやってくれた。大成功だった。
太郎は一人一人、御苦労様と言って見送った。
たった四日だけの付き合いだったが、何となく別れがたかった。彼らが本当に自分の家来だったら、どんなにいいだろう、と太郎は思っていた。
河原者たちが去り、浪人たちも去り、最後に、『浦浪』に泊まっている仲間たちが帰って行った。
「疲れたのう」と金比羅坊が首を回した。
「ようやく、終わりましたね」と伊助が言った。
「うまく、行ったな」と夢庵が笑った。
「良かったのう」と阿修羅坊が言った。
太郎はみんなに礼を言って別れた。
これで、ようやく、太郎は晴れて、楓の主人と認められたのだった。
太郎が、この播磨の国に来てから丁度、一月目だった。
色々な事があって、長かった一月だったが、この一月で、随分と色々な事を知る事ができたと思った。
2
太郎が子供たちと遊んでいると、楓が太郎を呼びに来た。
加賀守が、太郎と楓の二人を呼んでいると言う。
何だろう、と執事の織部祐の後に付いて加賀守の書斎に行くと、見知らぬ山伏が加賀守と一緒にいた。
山伏の名は空厳坊(クウゲンボウ)といい、御嶽山清水寺の山伏だと言う。
加賀守が太郎と会う前、太郎の素性を調べるため、太郎の故郷、五ケ所浦に送り、今、戻って来た所だった。
「そなたは故郷でも、なかなか有名だそうじゃのう」と加賀守は笑いながら言った。
「そなたの始めた剣術が大層、流行っているそうじゃ。わしも一度、その陰流とか言う剣術を見てみたいものじゃ」
「はい、そのうちに‥‥‥」と太郎は答えた。
「五ケ所浦という所は風光明媚な所でございました」と空巌坊は言った。
空巌坊は五ケ所浦に着くと、まず、港にある熊野の山伏の宿坊に入った。そして、そこにいた山伏に、それとなく、愛洲の一族で、何か問題を起こして、ここから出て行った者はいないか、と聞いてみた。
答えはすぐに返って来た。二年半程前、水軍の大将、隼人正殿の伜殿が急に城下から消えたと言う。その伜殿は近江の国の甲賀に二年間、修行に行って『陰流』という剣術を編み出して帰って来た。その時、綺麗な嫁を連れて来たと言う。その伜殿は水軍の者たちに剣術を教え、戦に出ても活躍した。その噂が殿様の耳にも入り、御前試合を行なう事となり、相手は百戦錬磨の騎馬武者だったが見事に勝った。その御前試合の後、すぐに城下からいなくなったと言う。不思議な事に、その御前試合の時の相手も同時に城下から消えていなくなった。詳しい事情はわからんが、どうも、普段から仲の悪かった水軍と陸軍の争い事が絡んでいたようだ、と熊野の山伏は言った。
その伜というのは、今、どこにいる、と聞いたが、熊野の山伏は知らなかった。そして、剣術の道場の場所を教えてくれ、そこに、その伜殿の爺さんがいるから聞いてみろ、と言われた。
さっそく、空巌坊は剣術道場に向かった。
道場の入り口には『陰流武術指南所』と大きく書いてあり、広い敷地の中で、若い者たちが武術の修行に励んでいた。その道場の片隅に建てられた小屋の中で、空巌坊は太郎の祖父、白峰と会った。
空巌坊が孫の事を聞くと、逆に白峰の方が、太郎は今、どこにいるのか聞いて来た。
空巌坊は、それを捜しに来たのだと答えた。自分は播磨の別所殿に仕えている者だが、甲賀に行った時、太郎の剣術の噂を聞き、その噂を殿に話したら、是非、捜して連れて来いと頼まれた。うちの殿は剣術好きで、是非、陰流を習いたいと言う。そこで、太郎を捜しに、ここまで来たのだと適当な事を言った。
そうだったのか、と白峰は空巌坊をうちに連れて行き、その晩は御馳走になったと言う。「祖父は元気でしたか」と太郎は聞いた。
「はい、それはもう、若い者相手に剣術を教えているくらいですから‥‥‥なかなか、できたお人です」
「他に、家族の事は何か聞きましたか」
「はい、妹殿がお嫁に行ったとか」
「お澪さんがお嫁に?」と楓が言って、太郎の顔を見た。
「はい、同じ水軍の家だそうです」
「そうですか、澪が嫁に行きましたか‥‥‥」太郎は懐かしそうに妹を思い出していた。
最後に会った時、澪は十六歳だった。知らないうちに綺麗な娘になっていた。今年はもう十八、嫁に行くのが当たり前の年齢になっていた。相手が誰だかわからないが、幸せになってほしいと願うしかなかった。
「それと、弟殿がお爺様の所にいらっしゃいました」と空厳坊は言った。
「弟というのは、三郎丸の事ですか」
「はい、そうです。三郎丸殿も剣術の修行に励んでおりまして、なかなか、お強いようです。来年、元服するそうです」
「三郎丸も、もう元服ですか。早いものですね。家族の者たちは皆、元気でしたか」
「はい。皆、お元気の様子でした」
太郎は満足そうに頷くと、「戦の方は、どんな具合でしたか」と聞いた。
「膠着状態のようでした。愛洲氏としては志摩の国に攻めて行きたいようですが、志摩の国の豪族たちが皆、北畠氏と同盟を結んでしまったので、攻めて行けないようです。それに、長引いている戦のお陰で、お伊勢参りや熊野詣での旅のお客が減り、財政の方も苦しくなっておる様でした」
「そうですか‥‥‥」
「しかし、剣術道場の方は流行っておりましたよ。そうですね、百人はいましたかね」
「百人も」と太郎は驚いた後、「みんな、子供ばかりですか」と聞いた。
「いえ、皆、立派な若者たちですよ」
「そうですか。わたしが五ケ所浦を出た頃は子供たちばかりでした。もっとも、あの頃、若者たちは皆、戦に行っていましたけど」
「今は、もう、ほんとに若者たちばかりでした」
よかったわね、と言うように楓が太郎を見て笑った。太郎も笑って楓に頷いた。
「そなたは、どうして故郷を出て来たのじゃ」と加賀守が聞いた。「聞けば、愛洲水軍の大将の伜殿だと言うではないか。故郷にそのままいれば、そなたの事じゃ、立派な大将になったものを」
「はい。空巌坊殿の言った通り、水軍と陸軍の争い事のためです。普段から仲の良くなかった水軍と陸軍が、御前試合において、二つに分かれてしまったのです。わたしが殿の御前で、陸軍の者を倒してしまったため、水軍の者たちは思い上がり、陸軍の者たちも黙ってはいません。あちこちで戦が始まっている時期に、愛洲家が二つに分かれてしまったら、愛洲家自体が危なくなります。わたしがいなくなれば、争いも治まるかもしれないと思いまして、五ケ所浦を出ました」
「身を引いたというわけか」
「それだけではありません。自分もまだ修行が足りなかったのです。あの頃のわたしは自惚れていました。回りの状況も調べずに、自分勝手な事をしたために、あんな結果になってしまったのです。もう一度、修行をやり直そうと思っておりました」
「成程のう。それで山伏になったのか」
「はい」
「夢庵殿から聞いたが、そなたは仏師でもあると言っておったが」
「はい。わたしが甲賀にいた時、不思議な老山伏に出会いました。その人は百歳を越えていましたが、とても、そんな年には見えない程、元気でした。わたしはその人から、武術を始め、色々な事を教わりました。わたしが会った時は、その人は智羅天という名の山伏でした。しかし、その人には、もう一つの名前がありました。それが三好日向という名の仏師てした。その人が亡くなってから、わたしはその事を知りました。わたしは、その人から彫り物も教わりました。わたしは勝手ながら三好日向の二代目を名乗ったのです」
「三好日向‥‥‥もしかしたら、その人というのは元は武士だったのではないのですか」と空巌坊が聞いた。
「はい。武士です。戦にも何回か出た事があると言っておりました」
「やはり、そうですか」
「三好日向というのを知っておるのか」と加賀守が空巌坊に聞いた。
空巌坊は頷いた。「阿波の細川讃岐守(サヌキノカミ)殿の家臣に三好日向守殿という方がおられます。もしかしたら、その方とつながりがあるのかと‥‥‥」
「三好日向に三好日向守か‥‥‥確かに似ておるのう。その御仁は阿波の国の出身なのか」
「さあ、わかりません。昔の事はあまり喋りませんでした」
「その御仁、百歳も生きておったとすると、その日向守の爺様かも知れんのう」
「そうかもしれません」
「御苦労だった。もう、下がってもいいぞ」と加賀守が空巌坊に言うと、空巌坊は頭を下げて去って行った。
「実は、そなたの名前の事なんじゃが」と加賀守は太郎と楓を見ながら言った。「美作守が、そなたの名を京極次郎右衛門高秀と言ってしまったため、重臣たちは皆、そう信じ込んでしまっておるんじゃよ。今更、違うとも言えんしな。かと言って、京極氏に断りもなしに、京極を名乗るわけにもいかん」
「愛洲を名乗るわけにはいかないのですか」と太郎は聞いた。
「そうすると、美作守が嘘をついた事になる。事実、嘘をついておるんじゃが、それを表沙汰にしてしまうと、それこそ、赤松家が二つに分裂してしまう。今、そんな派閥争いなどしておったら、それこそ、赤松家は潰れてしまうんじゃよ」
執事の織部祐が加賀守を呼びに来た。
「ちょっと、失礼する」と言って加賀守は出て行った。
「ねえ、どうするの」と楓が小声で聞いた。「このまま、ここに残るの」
「いやなのか」
「いやじゃないけど‥‥‥」
「とにかく、今は弟と会う事だけを考えよう。その後の事は、それからだ」
「でも、会ってしまったら、もう、ここから出られないような気がするわ」
「何とかなるさ。現に、俺は殺されずに済んだ。どうしても、ここから出たくなったら、その時、考えればいい」
「そうね‥‥‥話は変わるんだけど、あたしね、ここから出たいのよ」
「えっ、弟に会う前に、ここから出るのか」
「違うわよ。ただ、外に出たいのよ。あたし、この国に来てから、ここから一歩も出てないのよ。御城下が見てみたいわ」
「そうか。お前たちは、まだ、ここから一歩も出ていなかったんだな。そいつは可哀想だ。加賀守殿に頼んでみよう」
「うん、そうして」
加賀守は重大な知らせを持って戻って来た。
お屋形様の赤松政則が、明日、城下に帰って来ると言う。
二人にそう知らせると、忙しくなるわ、と言って、また出掛けようとした。
太郎は楓の外出の事を加賀守に頼むと、少し考えていたが、目立たないようにすればいいだろうと許可をくれた。そして、織部祐と一緒に行ってくれと付け加えた。
3
太郎は楓と百太郎、そして、加賀守の子供、小笹と小次郎を連れて城下見物に出た。
付き添いとして、執事の織部祐と別所屋敷の侍女、小松、楓の侍女、春日と日吉が付いて来た。楓としては親子三人だけで、のんびりと気楽に城下を歩きたかったのだが、こんなに大人数付いて来ては、のんびりどころではなかった。
生憎、今日は市の日ではなかったので、太郎たちはぞろぞろと賑やかな性海寺の参道を一通り見てから、河原に出て芸人たちを見て、屋敷に戻った。
河原では丁度、金勝座の舞台が上演中だった。凄い人気だった。竹矢来の中は人で埋まっていた。太郎たちは金勝座の舞台は見ないで、他の芸人たちを見て歩いた。
一旦、別所屋敷に戻った太郎は、改めて、みんなにお礼を言って来ると言って、木賃宿『浦浪』に向かった。
浦浪には誰もいなかった。
金勝座の連中がいないのは、まだ、舞台が終わっていないからだろうが、他の連中が誰もいないのはおかしな事だった。金比羅坊も三人の弟子もいない。伊助や次郎吉たちも、夢庵もいない。阿修羅坊もいないし、松阿弥までもがいなかった。部屋には荷物があるので、城下にいるに違いないが一体、みんな、どこに行ったのだろう。
もしかしたら、昨日の後片付けに、小野屋か銀左の屋敷に行っているのかもしれなかった。小野屋にもお礼を言わなければならないので、太郎は小野屋に向かった。
小野屋の裏門から入って行くと、庭に、太郎たちが使った甲冑が干してあった。蔵の所で仕事をしていた手代に、主人はいるか、と聞くと、主人は楓御料人様の披露式典の会場の方に行っていると言う。お屋形様が明日、帰って来るので、披露式典の会場作りが忙しいのだろう。次郎吉は来ていないか、と聞くと、午前中に来て、そこにある甲冑を片付けていたが、もう帰ったと言った。
太郎は改めて出直すと言って、小野屋を後にした。
河原に出ると、すぐ側にある金勝座の舞台は終わっていた。竹矢来の筵が跳ね上げられ、座員たちが後片付けをしていた。太郎は助六に声を掛けた。
助六は驚いたような顔をして太郎を見て、急に嬉しそうに笑うと、「おめでとうございます」と言った。
太郎も助六の顔を見たら自然と笑みがこぼれた。「ありがとう。これも、みんなのお陰です」
「もう、浦浪には戻って来ないのですか」と助六は太郎を見つめながら聞いた。
「いえ。今さっき、行った所です、そしたら、誰もいませんでした。みんな、どこに行ったのか知りませんか」
「誰もいません?」と助六は首を傾げた。
「ええ、松阿弥殿もいませんでした」
「ああ、松阿弥さんは今朝、但馬の国に帰りました」
「但馬へ?」
「ええ。知り合いがいるんだそうです」
「そうですか。帰りましたか‥‥‥」
「太郎様に、お世話になりました、と伝えてくれと言っていました。剣を捨てて、もう一度、やり直すと言っていました」
「剣を捨てて、もう一度やり直す? 一体、何をやり直すんです」
「わかりません。でも、新しく生まれ変わったつもりで、やり直すと言っていました」
「そうですか‥‥‥剣を捨てましたか‥‥‥」
「はい。顔付きも、初めて浦浪に来た時と、全然、変わっていました。きっと、松阿弥さんの心の中で、何かが変わったんでしょうね」
「そうですか‥‥‥」
「もしかしたら、みんな、お頭の銀左さんの所に行ったんじゃないでしょうか」
「ええ、俺もそう思います。色々と片付ける事があるでしょうからね」
太郎は金勝座の頭、助五郎を初め、みんなにお世話になった事のお礼を言うと、銀左の屋敷へと向かった。助六が一緒に付いて来た。
「抜け出して来て、大丈夫なんですか」と太郎は聞いた。
「だって、太郎様がお屋敷に入ってしまったら、もう、なかなか会えなくなるでしょ。今のうちに会っておきたいのよ」
「そんな事はないさ。俺は堅苦しい所は好きじゃないから、ちょくちょく抜け出すさ。山伏や仏師に化けてね。そういえば、助六さん、いや、奈々さんの方は、そろそろ甲賀に帰るんだろ。飯道山の秋祭りに出なけりゃならないんだろ」
助六は頷いた。「来月の初めには帰るらしいわ」
「そうか、金勝座のみんなが、いなくなると淋しくなるな」
助六は太郎を見て笑った。「でも、また、ここに戻って来ると思うわ。旅をしているよりも、ここの方が稼ぎになるもの」
「是非、戻って来て下さい。帰る前に、また、みんなで飲みたいですね」
「そうね。みんなで大騒ぎしたいわね」
銀左の屋敷に向かう途中で、二人は走って来る藤吉と出会った。
藤吉は丁度、別所屋敷に、太郎を迎えに行く所だったと言う。
「何かあったのですか」と太郎が聞くと、「太郎坊殿に頼みがあるのです」と藤吉は言った。
「頼み? 藤吉殿がですか」
「いえ、我々、みんなです。とにかく、銀左殿の屋敷まで来て下さい」
藤吉に付いて銀左の屋敷の広間に行くと、みんな、揃っていた。
金比羅坊、風光坊、八郎坊、探真坊、そして、阿修羅坊、伊助、次郎吉、吉次、それに、別所屋敷の侍部屋にいるはずの弥平次までもいた。そして、夢庵、銀左、医者であり禅僧の磨羅宗湛。それと、朝田新右衛門を初めとした浪人十二人、馬借が友造、茂次(シゲジ)、墨之介(スミノスケ)の三人、金掘り人足の頭の勘三郎、乞食の蛾次郎(ガジロウ)、散所者の頭の源次郎が、広間に顔を揃えていた。
「一体、何事です」と太郎は藤吉に聞いた。
「まあ、どうぞ」
「あたし、何か、場違いみたいね」と助六が広間の中を覗いて言った。
確かに、助六の言う通り、いつもと違う厳粛な雰囲気だった。
「そうですね。助六殿は少し、別の部屋で待っていて下さい」と藤吉は言って、助六をどこかに連れて行った。
太郎は金比羅坊に呼ばれて、広間の上座に座らせられた。
「一体、何事です」と太郎は隣の金比羅坊に聞いた。
「実は、おぬしに頼みがあるんじゃ」
「さっきも藤吉殿から聞きましたけど、一体、みんな、どうしたんです」
「実はのう、これじゃ」と金比羅坊は太郎に一枚の紙を渡した。
その紙は、熊野の牛王宝印(ゴオウホウイン)の押された起請文(キショウモン)だった。ここにいる者たちの名前が、ずらりと並び、血判が押してあった。そして、最後に、右の者、愛洲太郎左衛門尉久忠殿の臣として忠誠を誓うものなり、文明六年甲午(キノエウマ)八月吉日、と書いてあった。
「それを受け取ってくれ」と金比羅坊は言った。
「みんな、俺の家来になるという事ですか」
「そうじゃ。銀左殿と夢庵殿と宗湛殿は見届け人じゃ」
太郎は全員の顔を見回した。皆、真剣な顔をして、太郎を見つめていた。
「わかりました。一応、みんなの気持ちだけは預かっておきます。しかし、答えを出すのはもう少し待って下さい」
「なぜじゃ。お屋形様の兄上として、この城下に迎えられたからには、おぬしはれっきとした武将じゃ。家来が必要じゃろう」
「はい。わかっています。みんなが、わたしの家来になってくれるなんて、ほんとに嬉しい事です。しかし、もう少し待って下さい。明日、お屋形様が帰って来るそうです。一目、お屋形様と会ってから、これからの事を決めたいのです」
「お屋形様次第では、ここから出て行くという意味か」
太郎は頷いた。
「しかし、楓殿にとっては実の弟じゃぞ」
「勝手な事を言ってすみませんが、もう少し待って下さい。お屋形様と会ってから、その後の事を決めたいのです。決まりましたら、改めて、わたしの方から皆さんに頼みに参ります」
「そうか‥‥‥」金比羅坊は太郎を見つめてから皆の顔を見回した。「みんな、そういうわけじゃ、もう少し待ってやってくれ」
「なに、わしらは、おぬしの今までのやり方を充分に見て来た。わしらは、おぬしという男になら付いて行けると思って起請文を書いた。わしらの命はおぬしに預けたんじゃ。何事もおぬしに任せる」と阿修羅坊が言った。
「そうじゃ、そうじゃ」という声が、あちこちから聞こえた。
太郎はみんなに頭を下げた。
「大将がそう軽々しく頭を下げるものではないぞ」と金比羅坊が言った。
「はい、わかっています。でも、みんなにお礼を言いたいのです」
太郎は立ち上がって、皆の顔を一人一人見回した。誰もが真剣な顔付きで太郎を見ていた。
「皆さん、今回は色々とありがとうございました。うまい具合に事は運びました。これも、みんな、皆さんのお陰です。そして、また、これからも皆さんのお世話になるかもしれません。その時はまた、よろしくお願い致します。この起請文ですが、もう少し待って下さい。はっきりと決心が着きましたら、改めて、受け取りに参ります。その時は、太郎坊としてではなく、赤松家の一武将として正式に受け取りに参ります。その時まで、見届け人の銀左殿に預かっておいて貰います。皆さん、本当にお世話になりました」
太郎は皆に頭を下げると腰を降ろした。
銀左が金比羅坊に、「どうする」と聞いた。
「前祝いという事にするか」と金比羅坊は言った。
「もう、用意しちまったしのう」
「どうしたんです」と太郎は二人に聞いた。
「この日を祝おうと思っての、酒の用意がしてあるんじゃ」
「それなら、今回の行軍がうまくいった事を祝ったらどうです」
「そうじゃのう。そうするか」
「金勝座のみんなも呼んだらどうです」
「そうじゃの」
「皮屋と紺屋も呼ぶか」と銀左は言った。
「城下にいる関係者はみんな呼びましょう」と太郎は言った。
「そうじゃの、パーッとやろう、パーッと」
そして、太郎の仲間たちは全員が集まり、夜更けまで飲んで騒いだ。
4
今にも雨の降りそうな曇り空の下、赤松兵部少輔(ヒョウブショウユウ)政則は凱旋(ガイセン)して来た。
空はどんより曇っていても、城下は朝から、お祭り騒ぎだった。
太郎は銀左の屋敷で目を覚ますと、早朝の河原に出た。
まだ、朝早いというのに、河原には河原者たちが集まって賑やかだった。銀左もすでに起きていて、河原者たちを指図していた。太郎は銀左の側まで行った。
「早いですね」と太郎は銀左に声を掛けた。
「おう、起きたか。昨夜はよく飲んだのう」
「ええ、御馳走様でした。朝から何か、始まるのですか」
「おお、今日、お屋形様が帰って来るじゃろう。城下の大掃除じゃ」
「大掃除?」と太郎は怪訝(ケゲン)な顔をして銀左を見た。
「ああ。道を清めなければならんのじゃ。わしら、河原者の一番重要な仕事なんじゃよ」
「そうだったのですか。それは大変ですね」
「まあな。ここだけじゃない。お屋形様が移動するとなると、お屋形様の通る道はすべて、わしらが清めなければならんのじゃ」
「えっ」と太郎は思わず声を挙げた。「という事は、美作の国から、ここまでの道が全部、河原者たちによって清められるのですか」
「ああ。河原者だけじゃないがな。散所者や巷所者(ゴウショモノ、道の者)もおる。それぞれ、縄張りが決まっておってな。その範囲内の清めを担当しておるんじゃよ」
「へえ、凄いですね。と言う事は、河原者たちや散所者たちは、みんな、つながりがあるのですか」
「つながりとは?」
「つまり、常に、連絡を取り合っているというわけですか」
「まあ、そういう事じゃのう」
「この播磨の国中?」
「播磨だけじゃない。全国的に連絡網があるんじゃよ」
「全国的に?」
太郎にはとても信じられなかった。この世の中には武士や百姓、漁師、商人、職人などの他に、まだまだ、太郎の知らない世界があった。
「わしらの先祖は武士よりもずっと古いんじゃよ。もっとも、武士たちのように、一々、先祖など調べる奴はおらんがのう。おぬしも早く帰った方がいいんじゃないのか。武士は武士なりにお屋形様を迎える準備があると思うがな」
「ええ、そうですね」
「それじゃあな」と銀左は手を振ると河原を北の方に向かった。
太郎は別所屋敷に向かった。
帰る道々、太郎は町の人たちの声を色々と聞いた。誰もが、お屋形様、政則の凱旋を喜んでいた。お屋形様の悪口や陰口など一言も聞かなかった。城下の者たちに慕われ、人気のあるお屋形様のようだった。
別所屋敷に帰ったが、加賀守はいなかった。
執事の織部祐に、お屋形様を迎えるに当たって、何か、する事がありませんか、と聞いたが、今日は別にないと言った。多分、明日あたり、お屋形様との対面があるかもしれないが、今日は別に何にもないから屋敷でのんびりしていてくれとの事だった。
昨日の夕方、黙って出て行ったまま帰らなかったので、楓が怒っているだろうと思ったが、楓は笑顔で、お帰りなさいと迎えた。
「昨日、急に飲み会が始まっちゃってね。みんなには色々と世話になったし、断るわけにはいかなかったんだ」と太郎は言い訳をした。
「知ってるわよ。藤吉さんが知らせに来てくれました」
「えっ、藤吉殿が‥‥‥いつの間に抜け出したんだろ」
「ねえ、頼みがあるんだけど」と楓は太郎に甘えるように言った。
「何だい」
「あたしからもお礼を言いたいの。あたしをみんなのいる木賃宿に連れて行って」
「また、みんなをぞろぞろ引き連れてか」
「違うわよ。二人だけで」
「抜け出すのか」
楓は笑いながら頷いた。
「百太郎は大丈夫か」
「遊んでいるから大丈夫よ。それに、多分、加賀守様は今日は遅くならないと帰って来ないと思うわ。織部祐様も用がなければ、ここには来ないし、桃恵尼さんに頼んでおけば、少し位、いなくなっても平気よ」
「そうだな。抜け出すか」
楓は嬉しそうに笑った。
桃恵尼から着物を借りて、楓は尼僧に化けて別所屋敷から抜け出した。
前にも楓の尼僧姿は見た事あるが、これがまたよく似合っていて、誰が見ても尼僧だった。前は気づかなかったが、尼僧姿になると、育ての親、松恵尼によく似ていた。
太郎の方は相変わらず、いつも通りの職人姿だった。職人と尼僧が一緒に歩いていても、別に怪しむ者はいなかった。
大通りに出ると、大勢の河原者たちがゴミ拾いをし、奉行所の侍がうろうろしていた。
木賃宿『浦浪』には、ほとんどの者がいた。昨日、飲み過ぎたのか、みんな、部屋でごろごろしている。
太郎はみんなの部屋を回って楓を紹介した。
金勝座の者たちも今日は舞台がないので、のんびりしていた。楓は、この間の舞台のお礼を言ったが、尼僧姿だったので、初めの内は誰だかわからず、太郎が紹介しても、あの時の御料人様と、目の前の尼僧が同じ人だとは、なかなか納得できないようだった。
金比羅坊でさえ、どこの尼僧を連れて来たんだ、というような顔をして楓を見ていた。すぐに、楓だとわかったのは阿修羅坊だけだった。
助六が楓に対して、どんな態度を取るだろうと心配だったが、楓は助六たちの部屋に上がり込み、仲良くやっているようだった。
太郎は金比羅坊と夢庵の部屋に上がり込んだ。阿修羅坊も入って来た。
「太郎坊、いや、太郎坊殿」と阿修羅坊は言った。
「太郎坊でいいですよ」
「いや、太郎坊殿じゃ。おぬしにはまだ話してなかったんじゃが、情けない事に、わしは瑠璃寺から破門を食らったらしい。まあ、考えてみれば当然の事と言えるがのう。瑠璃寺から破門になった、わしなど美作守も用がないと言うわけじゃ。正明坊の奴を使って、わしを殺しに掛かって来た‥‥‥わしはのう、この年になって初めて、今まで、わしは何をして来たんじゃろうと思うようになったわ。いつも、わしは自分で正しいと思った事をやって来た。しかしのう、今、振り返ってみると、それは、わしの自惚れに過ぎなかった。わしは、おぬしを殺せと頼まれた時、やりたくはなかった。しかし、誰かがやらなければならないし、それをやる事は正しい事だと判断し、わしは決行した。しかし、その事が正しいと思ったのは美作守とわしだけじゃろう。おぬしの方から見たら正しいどころではない‥‥‥振り返ってみれば、すべての事がそうだと言える。わしから見れば正しい事だが、相手から見れば、まったく、その逆じゃ。この世の中には本当に正しいという事はないのかもしれんのう。わしにはよう、わからなくなって来たわい」
「正明坊とかいう山伏は、阿修羅坊殿の命をまだ、狙っているのでしょうか」と太郎は聞いた。
「わからんのう。美作守は、わりと、しつこい所があるからのう」
「武士になりきってしまえばわからんじゃろう」と金比羅坊が言った。
「それに、阿修羅坊殿が太郎殿の家臣になってしまえば、浦上美作守も手が出せないでしょう」と夢庵は言った。
「だといいんじゃがな」と阿修羅坊は力なく笑った。「正明坊の奴は何をするかわからん奴じゃからのう」
太郎たちは昼頃まで浦浪で過ごしていた。楓は久し振りに自由の身になったせいか、浮き浮きしていた。何を話しているのか知らないが助六たちと話が弾んでいた。
昼頃、藤吉が、お屋形様がもうすぐ帰って来ると知らせに来た。
藤吉はずっと北の大門の側の市場にいて、お屋形様が来るのを待っていたと言う。つい先程、先触れの騎馬武者がやって来た。もうすぐ、お屋形様の軍勢が入って来るから見に行こうと、みんなを誘った。
お屋形様は北の大門から入場すると、大通りを南下し、仁王門をくぐって東に曲がり、真っすぐ大円寺に入る。大円寺において戦勝報告をして、そこで解散となる。城下に住む者は各屋敷へ、他の者たちはそれぞれ自分の城へと帰って行く事になっていた。
政則が美作平定のために引き連れて行った兵の数は約一万人だった。しかし、置塩城下に入るまでに、それぞれの城に帰って行った者も多く、お屋形様と共に城下に帰って来るのは約三千五百人だった。三分の一に減ってはいるが、かなりの軍勢だった。先頭から最後尾まで、十五町(約一、六キロ)近くも続いていた。
太郎と楓は浦浪のみんなと一緒に、仁王門の方に向かった。大通りは、すでに人が一杯で、仁王門の側にも行けない有り様だった。正装した警備の者たちが綱を張って、通りの中央に入れないようにしている。
藤吉が、大門の方が空いていると言うので、河原を通って大門の方に行ってみたが、すでに、市場から大門まで見物人で埋まっていた。
これじゃあ、しょうがない。城下から出て、大門の向こうに行けば、いくらか空いているだろうと行ってみたが、やはり、そこも人で一杯だった。もっと先まで行きたかったが、それより先へは行けなかった。
そこから大通りは夢前川にかかる橋を渡って、向こう側に続いている。橋向こうには人があまりいなかったが、その橋は通行止めされ、先に行く事はできなかった。川を渡るには渡し舟の所まで戻るしかない。そんな所まで戻っていたら、そのうちに、お屋形様の軍勢は来てしまうだろう。仕方がない、ここからでも馬に乗っているお屋形様の顔はわかるだろうと諦めた。
その時、風光坊が橋の上で警備している男を見ながら、「あれは、銀左殿ではありませんか」と言った。
「どれ」と金比羅坊が言って、その男を見た。
太郎も見た。正装をしているので気がつかなかったが、確かに銀左だった。
「確かに、銀左殿じゃ」
「銀左殿たちが警備してたんですね」
「そうじゃのう。武士にしては変じゃとは思っていたが、河原者たちだったとはのう。なかなか、銀左殿も大変な事じゃのう」
太郎たちは銀左に頼んで、特別に橋を渡らせてもらい、川向こうの空いている所に行く事ができた。
しばらくして、法螺貝や太鼓の音が聞こえて来て、凱旋の軍勢が近づいて来た。
「先頭は番城(バンジョウ)の間島左馬助殿じゃ」という声がした。
軍勢は長旅に疲れた様子もなく、整然と隊列を組んで進んで来た。
城下の者たちは物凄い歓声と拍手で、凱旋軍を迎え入れた。
太郎たちが城下に入って来た時も賑やかに迎えてくれたが、今回はそれ以上だった。
みんなが拍手をしながら、何かを叫んでいた。何を言っているのかわからなかったが、みんながお屋形様の帰りを心から喜んでいる事は太郎にも良くわかった。それだけ、城下の者に慕われているお屋形様というのを、早く見てみたかった。
間島左馬助を先頭に、赤松備前守、嵯峨山(サガヤマ)土佐守、鯰尾玄審助(ネンオゲンバノスケ)、妻鹿(メガ)伊豆守、中村弾正少弼、赤松下野守、富田備後守、馬場因幡守と続き、千人位過ぎてから、ようやく、お屋形、赤松兵部少輔政則の軍勢の登場だった。
政則の軍勢は、皆、真っ赤な甲冑を身に着け、目立っていた。その真っ赤な甲冑の中で、お屋形様の政則だけは真っ黒だった。真っ黒な甲冑に身を固め、真っ黒な馬に乗り、悠然としていた。兜をかぶっているので顔は良く見えなかったが、何となく、面影が楓に似ているようだった。そのお屋形様がちらっとだが、こちらを見たような気がした。
千人近くの政則の軍勢が過ぎると、次に、喜多野飛騨守、上原対馬守、小寺藤兵衛、神吉(カンキ)摂津守、依藤(ヨリフジ)豊後守と続き、最後に小荷駄隊がずらりと続いていた。
30.赤松日向守1
1
赤松政則が帰って来た次の日、太郎と楓は別所屋敷で、堅苦しい正装を着せられ、加賀守が迎えに来るのを朝からずっと待っていた。迎えはなかなか来なかった。
昼過ぎになって、やっと迎えが来て、別所屋敷から目と鼻の先にあるお屋形様の屋敷まで、わざわざ太郎は馬に乗り、楓は豪華な牛車(ギッシャ)に乗って向かった。
太郎の名前は色々と検討した結果、赤松姓を名乗る事となり、赤松日向守久忠という名に決まっていた。
赤松日向守久忠となった太郎は別所加賀守の後に従い、楓と共に豪華で立派なお屋形様の屋敷へと入って行った。南側にある正門をくぐると両脇に警固の侍が並び、正面に大きな屋敷が見えた。広い庭は塀によって幾つかに区切られていた。
後でわかった事だが、右側の塀の向こうには弓矢の稽古をする広い射場があり、侍たちの長屋があった。左側の塀の向こうには槍の稽古をする所と大きな廐があり、鷹(タカ)を飼っている小屋もあった。小屋といっても、鷹がいる、その小屋は一般庶民が住む家よりも広くて立派な造りだった。そして、さらに向こうに、太郎が兵を引き連れて城下に入った時、見物人たちが引き上げるまで、しばらくの間、待機していた細長い馬場があった。
太郎と楓は加賀守の後に従って屋敷の中に入ると、政則の執事、櫛田内蔵助(クシダクラノスケ)の案内で書院に連れて行かれた。
玄関を上がると広い廊下が真っすぐ続いていた。左側には大広間があるらしく、水墨で描かれた山水画の襖(フスマ)がずらりと並んでいる。その山水画が切れると、小さな橋を渡って奥へと進んだ。橋の下には細い川が流れていて、川の両側には花を咲かせた草木が植えてあった。
小さな部屋が幾つも並んでいる所を通り抜けると、右側に池や山のある見事な庭園が見えた。萩の花が咲き乱れ、池の中には金色に塗られたお堂のような建物まで建っている。まさに、極楽浄土といえるような庭だった。
その庭園を右に見ながら進み、太郎と楓は左側にある一室に通された。
そこは畳十八畳が敷き詰められた書院だった。極楽浄土の庭園とは反対側にある庭に面していて、その庭の中央には猿楽の舞台が建てられてあった。こちらも広い庭だったが池や山などは無く、舞台の他には隅の方に休憩用の小屋が一つあるだけだった。
太郎と楓は加賀守と共に、その書院で待った。
しばらくして、二人の侍が現れ、「お屋形様のお越しでございます」と言った。
太郎と楓は加賀守に言われるまま、姿勢を正して頭を下げた。
二人の侍は正面の襖を静かに左右に開いた。
「面(オモテ)を上げられよ」と正面より声がかかり、太郎と楓は頭を上げた。
襖の向こうは、こちらよりも一段高くなっている八畳の間だった。大きな山水画を背にして座っていたのが、お屋形、赤松兵部少輔政則だった。側に太刀を持った若い侍が控えていた。
加賀守がお屋形様に楓と太郎を紹介した。
お屋形様は頷き、しばらく、二人を見比べていたが何も喋らなかった。そして、また、襖は閉められ、対面は終わった。
太郎はお屋形様の顔を見て、まず、思った事は楓にそっくりだという事だった。評判通りのいい男だった。そして、態度や顔付きからして、播磨、備前、美作三国を治める大名のお屋形として、ふさわしい男だと思った。人を引き付ける何かを持っている男だった。
人の上に立つには実力は勿論の事、この、人を引き付ける何かを持っていなければならなかった。その何かというのは言葉では説明できないが、その何かがあるからこそ、人々は信頼して付いて行く。その人が持っている、運という物かもしれなかった。
太郎はこの時、赤松家の家臣となる事を決心した。赤松家の家臣となり、楓の弟であるお屋形様を助け、赤松家のために生きていこうと決心した。
お屋形様との対面が終わると、太郎たちは隣の部屋へと連れて行かれた。隣は四十畳敷きの書院だった。
その書院に、赤松家の重臣たちが並んで座っていた。
太郎と楓は上座に座らせられ、重臣たちを紹介された。
年寄衆の喜多野飛騨守則綱、上原対馬守頼祐、櫛橋豊後守則伊、富田備後守宗真、阿閇(アエ)豊前守重能、馬場因幡守則家、志水孫左衛門尉清実、衣笠左京亮朝親、赤松下野守政秀の九人と、西播磨国守護代の宇野越前守則秀、町奉行の後藤伊勢守則季、鞍掛城主の中村弾正少弼正満、番城主の間島左馬助則光、清水谷城の赤松備前守永政、そして、大円寺の住職、勝岳性尊和尚が紹介された。
喜多野飛騨守と上原対馬守と櫛橋豊後守の三人は、すでに、太郎は会っていた。
櫛橋豊後守は城下に入る時、先導してくれたし、喜多野飛騨守と上原対馬守は、お屋形様と一緒に美作の国まで行っていたが、昨日、帰って来ると早速、別所屋敷にやって来て、太郎と楓に会っていた。内密にという事で、喜多野飛騨守も上原対馬守も気軽な気持ちで、太郎たちの客間にやって来て、世間話をして帰って行った。昨日は二人共、五十年配の真っ黒に日に焼けた気さくな親爺さんだったが、さすがに、今日の二人は赤松家の重臣として堂々たるもので、居並ぶ重臣たちの中でも最も貫禄があった。
お屋形様の叔父という大円寺の住職、勝岳性尊はきらびやかな法衣を身に纏い、怒った様な顔をして座っていた。太郎たちを、あまり歓迎していないようだった。
そこでも、ただ、紹介するだけで終わった。
一通り紹介が終わると、加賀守と共に太郎と楓はその書院から出て、来た時と同じ廊下を通って屋敷を出ると別所屋敷へと戻った。
加賀守は、近いうちにお屋形様の屋敷の方に移る事になるだろうが、もう少し、ここで我慢してくれと言った。
太郎にしてみれば、あんな大きな屋敷に入るよりは、ここの方がずっと気楽なので、ここにいたかったが、楓にしてみれば弟と対面したとは言え、一言も話をしていないので、早く向こうに移って弟と話がしたいのだろうと思った。
太郎と楓が部屋に戻ると、桃恵尼と侍女たちが二人の帰りを待っていた。
太郎はみんなに対面の様子を話した。
楓はお屋形様を一目見た途端、自分の弟だとわかったと言った。会うまでは半信半疑でいたけど、今日、会ってみて、自分に弟がいたという事が初めて、実感として伝わって来たと言う。
太郎は楓に、このまま播磨の国にいる事に決めたと告げた。
楓は驚いた様な顔をして、太郎を見つめた。
太郎は桃恵尼と侍女たちを部屋から出して、二人っきりになると、もう一度、ここにいようと思うと言った。
「いやか」と太郎は楓を見つめながら聞いた。
「また、武士に戻るの」と楓は聞いた。
「うん。しばらくはな」
「それで、いいの」
「俺は今日、お屋形様と会ってみて、赤松家の武将になる事に決めた」
「でも、武士になったら、また、色々と忙しくなって、剣術の修行なんてできなくなるかもしれないわよ」
「それは心がけ次第でどうにでもなるような気がする。飯道山にいた時も、何かと忙しくて自分の修行なんてできなかった。どこにいても、何をしていても、やる気があればできるんじゃないかと思う」
楓は太郎を見つめながら頷いた。「あなたがそう決めたのなら、あたしの方は構わないけど。でも、このまま松恵尼様とお別れだなんて、ちょっと淋しいわ」
「松恵尼様か‥‥‥色々と世話になったからな‥‥‥そうだ、披露式典に松恵尼様も呼んでくれと加賀守殿から言われていたんだ。さっそく、藤吉殿に甲賀に帰ってもらおう。松恵尼様もきっと喜んでくれるさ」
「加賀守様が、呼んでもいいって?」
「ああ。お前の親同然だもんな、呼ぶのは当然だろう」
「松恵尼様に会えるのね。良かった」楓は嬉しそうに笑った後、「ねえ、あなたの御両親は呼ばないの」と聞いた。
太郎は首を振った。
「赤松家の武将になる事を知らせなくていいの」
「今は、まだいい。もう少し落ち着いたら知らせる」
「落ち着いたら?」
「ああ。立派な屋敷を建てたら、そこに招待するんだ」
「お屋敷を建てるの」
「そりゃそうだよ。お前はお屋形様の姉さんなんだぜ。お屋形様の屋敷に負けない位な豪華な御殿を建てなくちゃな」
「いいわよ。そんな大きな御殿なんて‥‥‥」
「そうもいかないのさ。俺も、そんな御殿なんかいらないが、お前はもう、すでに、この国のみんなから注目されているんだよ。お屋形様の姉上として、それなりに、ふさわしい屋敷に住み、ふさわしい格好をし、ふさわしい態度を取らなければならないんだ。俺も二百人位の家来を持たなければならないし、それにふさわしいお屋形にならなけりゃならないんだ」
「えっ、二百人も家来を持つの?」楓は目を丸くして太郎を見た。
「多分、その位の家来はいるだろうって夢庵殿が言っていた」
「二百人も‥‥‥大変ね‥‥‥」
「そうさ。その二百人の命を俺が預かる事になるんだ。この先、戦にも行く事になるだろう。家来たちを生かすも殺すも俺のやり方次第で決まってしまう。大変な事だよ」
「そうね‥‥‥あの三人は勿論、家来になるんでしょう」
「あの三人だけじゃない。金比羅坊殿も阿修羅坊殿も俺の家来になってくれるらしい」
「えっ、金比羅坊様に阿修羅坊様も?」
「伊助殿や次郎吉殿、藤吉殿もみんな、俺の家来になるって言うんだ」
「えっ、だって、あの人たちは松恵尼様の下で働いている人たちでしょ。大丈夫なの」
「わからない。一応、松恵尼様と相談しなけりゃならないだろうな」
「でも、みんなが、あなたの家来になってくれたら最高だわね」
「ああ。まったく最高さ。ありがたい事だよ」
「みんなが家来になってくれるなんて‥‥‥ほんと、頼もしいわね」
「うん。俺はちょっと出掛けて来る。正式に家来になってくれるように頼んで来るよ」
太郎は堅苦しい狩衣(カリギヌ)を脱ぎ、いつもの単衣(ヒトエ)に立っつけ袴の職人姿になった。
「今晩は帰って来るんでしょうね」楓は太郎の着替えを手伝いながら睨んだ。
「帰って来るよ。大丈夫だ」
楓は頷き、「行ってらっしゃい」と言って、「助六さんによろしくね」と付け加えた。
「は?」と太郎は楓を見た。
「何でもないわ」と楓は笑った。
「行って来る」と太郎は浦浪に出掛けた。
職人姿で別所屋敷を出た太郎だったが、正式に家臣になってもらうのに、この格好ではまずいと気づき、まず、小野屋に向かった。あそこに、いつか借りた武士の着物があったはずだった。
小野屋に行くと、珍しく、主人の喜兵衛はいた。主人に、正式に赤松家の武将になった事を告げ、これからもよろしくお願いしますと頼んだら、逆に、こちらこそお願いしますよと頼まれた。
太郎は武士の姿に着替え、刀も二本、腰に差すと、改めて浦浪に向かった。
金勝座の者たちはまだ帰って来ていなかった。三人の弟子もいなかった。
次郎吉は赤松家の重臣に腕が認められ、仕事がどんどん入って来るので、てんてこ舞いしているらしい。吉次の方も美作の国から帰って来た武士たちの鎧の修繕が忙しくてしょうがないと言う。お屋形様が帰って来てから、藤吉の白粉の売れ行きも上がっていると言う。男たちが帰って来たので、女たちが化粧に精を出したのかどうかは知らないが、飛ぶようによく売れると言う。伊助の薬も同様だった。
お屋形様が帰って来てから、この城下は益々、景気が良くなって行った。
する事もなく、浦浪で、ごろごろしていたのは阿修羅坊と金比羅坊の二人だけだった。
夢庵も今朝、侍が呼びに来て、どこかに出て行ったまま戻って来ないと言う。きっと、披露式典の事で呼ばれたのだろうと、太郎は思った。
金比羅坊は太郎の侍姿を見ると、「いよいよ、ここに残る決心をしたとみえるのう」と言った。
「どうじゃ、お屋形様はなかなかの男じゃろう」と阿修羅坊は言った。
太郎は頷いた。
「まあ、上がれ」
太郎は部屋に上がると、二人の前に座って深く頭を下げた。
「金比羅坊殿、阿修羅坊殿、これからも、よろしくお願い致します」
「太郎坊殿、それは逆じゃ。頭を下げるのはわしらの方じゃ」と阿修羅坊は言った。
「そうじゃ。おぬしはすでに、ここのお屋形様の兄上に当たるお人じゃ。庶民から見れば、おぬしは天上人のようなものじゃ。軽々しく頭など下げるものではないぞ」
「ありがとうございます」
金比羅坊は座り直して姿勢を改めると、この間の起請文を太郎に渡した。
「八十九人いる」と金比羅坊は言った。
「八十九人も?」
「今の所はそれだけじゃ。まだまだ、集めなけりゃならんじゃろうな」
「それでも、八十九人も良く集まりましたね」
「この間、手伝ってくれた連中にも声を掛けたら、そのまま、おぬしの家来になりたいと言う者がおったんでな、そいつらにも名を書いて貰った」
「そうですか。できれば、みんな連れて行きたいが、そうも行きませんね」
太郎は改めて起請文を見た。
まず、太郎の弟子、三人の名前が山伏になる前の名前で並んでいた。そして、その次に見慣れない名前があった。
「あの、岩瀬七郎勝盛っていうのは誰です」と太郎は聞いた。
「わしじゃよ」と金比羅坊が照れ臭そうに笑いながら言った。「わしが昔、侍だった時の名じゃ。もう十年も前の事じゃ。何となく照れ臭いのう」
「金比羅坊殿が岩瀬殿ですか‥‥‥」
その後、次郎吉たちの名前が並んでいたが皆、聞いた事のなかった名字が付いていた。伊藤次郎吉、青木伊助、小川弥平次、川上藤吉、松井吉次と並んでいた。
「次郎吉殿や伊助殿は松恵尼殿に断らなくても大丈夫なのでしょうか」
「一応は断るつもりだが、多分、大丈夫だろうと言っておった」
その後に、朝田新右衛門たち浪人十二人の名前が並んでいた。そして、馬借が三人、金掘り人足が二十四人、乞食が十八人、散所者が十人。川の民が六人、皮屋が三人、紺屋が三人いた。そして、最後に、大沢平太郎康健(ヤスタケ)という名前があった。聞いた事ない名前だったが、阿修羅坊に違いないと思い、聞いてみたら、やはり、そうだった。
「大沢なんていう名字、使った事はないがのう、わしの爺様は大沢某という武士だったそうじゃ」と阿修羅坊も照れ臭そうに笑った。
「さっそく、みんなに知らせてやらん事にはのう」と金比羅坊は言った。
「あっ、忘れていましたが、俺の名前は今日から赤松日向守久忠です」
「なに、赤松姓を名乗るのか」と阿修羅坊が驚いて聞いた。
「はい。浦上美作守が俺の事を京極次郎右衛門だと言い触らしてしまったお陰で、今更、本名の愛洲氏を名乗るわけにもいかないし、かと言って、京極も名乗れないので赤松を名乗る事になったらしいです」
「そうか、赤松日向守殿か‥‥‥」と阿修羅坊はゆっくりと頷いた。
「わしらのお屋形様は赤松日向守殿か‥‥‥」と金比羅坊も頷いた。
「ところで、その赤松日向守として、二人にお願いしたいのですが、日向守の年寄衆として家臣団の編成を頼みたいのです」
「わしらが年寄衆か」と阿修羅坊が聞いた。
「はい。お願いします」
「お願いしますと言われてものう。わしにはそんな事、わからんぞ」と金比羅坊が嬉しいような困ったような顔をして言った。
「わしも、そこまではのう」と阿修羅坊も頭をかいた。
「夢庵殿ならわかると思いますが‥‥‥」
「おお、そうじゃ、夢庵殿がおったわい。夢庵殿なら何でも知っておる。夢庵殿に聞けば何とかなるじゃろう」
「お願いします」
「よし、引き受けた」
「ところで、太郎坊、いや、日向守殿」と金比羅坊は言った。「家来になった者たちの宿はないかのう。いつまでも、銀左殿の所に世話になっているわけにもいくまい」
「そうですね、何とか捜してみます」
「そうしてくれ。河原にいる奴らもおるからのう。奴らに、武士になったという自覚をさせなけりゃならん」
「そうじゃのう。おぬしの家来が河原にいるというのも、体裁の悪い事じゃ。ところで、披露式典の日取りは決まったのか」
「まだ、決まってないようです。初めの予定では、来月の初め頃やるはずだったらしいんですけど、会場の方がなかなか、はかどらないようで、どうも、一月位遅れて十月になるようです」
「十月か、まだ、一月もあるのう。それまで、わしらは何をしてるんじゃ」
「明日、銀山の事を加賀守殿に話そうと思っています。そうすれば、多分、その一ケ月間は生野の方に行くようになるかもしれません」
「おう。そうしてくれ。いつまでも、こんな所でごろごろしてるのも飽きて来たわ」
太郎は金比羅坊、阿修羅坊と共に銀左の屋敷に行き、みんなを正式に家来にするという事を告げた。みんなは喜んでくれた。
銀左はやはり、新しい城下の方に行っていて、いなかった。
阿修羅坊と金比羅坊は早速、家臣団の編成のため、それぞれ、個人個人に面接をして、特技やらを聞くと言うので、二人に任せて太郎は浦浪に戻った。
浦浪には金勝座を初め、ほとんどの者が帰って来ていた。
太郎は伊助たちの部屋に行き、これからの事を話し、藤吉に一度、甲賀に帰るように頼んだ。楓が松恵尼に会いたがっているので、松恵尼に披露式典に出てくれるように伝えてくれと頼んだ。
藤吉は喜んで引き受けてくれた。どうせ、結果報告と太郎の家臣になる事を許してもらう為に、一度、帰らなければならなかった。早速、明日にでも帰りましょうと言った。
みんなが太郎の家来になると聞いて、金勝座の者たちの中にも家来になりたいと言う者が現れて来た。しかし、それはできなかった。一人でも抜けたら金勝座は潰れてしまう。あれだけの芸を持った金勝座を潰す事はできなかった。
太郎は座頭の助五郎と相談した。
助五郎としては一人もやめて貰いたくはなかったが、本人がどうしても武士になりたいと言うのを無理に引き留める事はできなかった。そこで、太郎は金勝座そっくりを家臣という事にして、新しい人材を求め、補充出来次第、一人づつ武士にして行くという事にした。みんなも、それで納得してくれた。
太郎は三人の弟子たちにも武士になる事を告げ、金比羅坊たちを手伝うために、夢庵と一緒に銀左の屋敷に向かわせた。
一通り用が済んだので帰ろうとしたら、助六が追って来て、「冷たいのね」と言った。「あたしには家来になれって言ってくれないの」
「奈々さんが金勝座から抜けたら金勝座はやって行けないだろう」
「あたしの代わりになる人が入ったら家来にしてくれる?」
「家来になるって、女の侍にでもなるのですか」
「それもいいわね」と助六は笑った。「女だてらに鎧を着て戦に出るのもいいわ」
「それは楓がやりそうだ」と太郎は苦笑した。
「えっ、楓様も何かやってるの」
「ここに来る前は娘たちに薙刀を教えていたんです」
「あ、そうだったわね。松恵尼様が薙刀の名人だものね。その松恵尼様に育てられたのなら楓様も薙刀の名人よね。そうか、楓様は薙刀か‥‥‥そうだ、あたし、楓様の侍女でもいいわ」
「楓の侍女か‥‥‥考えとくよ」
「ほんとはね、あなたのお妾(メカケ)さんがいいんだけどね」と助六は思い切った事を言った。
「えっ、そんなの無理だよ」と太郎は慌てて手を振った。
「だって、お殿様になったんでしょ。お妾さんの一人や二人、いたっておかしくないじゃない」
「まだ、なったばかりで、そんなの無理だ」
「もし、お妾さんを持つようになったら、あたしをお願いね」
「うん‥‥‥考えておく」
「良かった。あたし、あなたの子が産みたいのよ」
「何を言うんだよ」
「だって、本当だもの」と助六はニコッと笑った。
太郎は助六と別れ、別所屋敷に向かった。
妾か‥‥‥助六が妾になってくれれば最高な事だが、楓が許すわけないなと思った。
楓の怒っている顔が浮かんだ。太郎は助六の事は夢と諦めた。
久し振りに、太郎が楓を相手に剣術の稽古をしていると、執事の織部祐が太郎を呼びに来た。
書斎に行くと加賀守が待っていた。あまり寝ていないとみえて、真っ赤な目をしていて、顔色もあまり良くなかった。
「久し振りに、今日はいい天気じゃのう。こんな日はのんびりと昼寝でもしていたいんじゃが、そうもいかんわ」と加賀守は言って笑った。
「何か手伝う事でもあれば、どうぞ、おっしゃって下さい」と太郎は言った。
「なに、そなたは今の所は、ゆっくりしておればいい。そのうち、そなたも忙しくなるじゃろうからな。今のうちに充分、休んでおく事じゃ。ところで、そなたの事じゃが、行く行くは赤松家の水軍として働いてもらう事になると思うが、とりあえず、前之庄の天神山城に入って貰う事になるじゃろう」
前之庄の天神山城と聞いて、太郎は播磨の地図を思い描いたが、どこだかわからなかった。笠形山から瑠璃寺に向かう時、通ったような気もするが、はっきりと覚えていない。
「ここより二里程、北に行った所じゃよ」と加賀守は説明した。「天神山城は今は城というより砦に過ぎないが、以前はちゃんとした城じゃった。その地に新たに城を構え、そなたに守って貰うつもりじゃ。楓殿にしても、ここからすぐ近くだし、お屋形様に会おうと思えばすぐに来られる。とりあえずは、そこに落ち着いて欲しいのじゃが」
「はい」と太郎は頷いたが、意を決して、「実は、その事に付きまして、加賀守殿に相談したい事があるのですけど」と言った。
「何じゃ」と加賀守は少し厳しい顔付きになって太郎を見た。
「お城をいただけるのはありがたいのですが、できれば、但馬への入り口、大河内庄辺りを守りたいのです」
「なに、大河内庄?」
太郎の言った事があまりに以外だったので、加賀守は一瞬、戸惑ったようだった。しばらく、太郎を見つめていたが、やがて納得したように頷くと、「あそこは山名氏の侵入を防ぐ重要な地点には違いないが、かなり山の中じゃぞ。冬は雪が多いしのう。あまり、勧められんのう」と言った。
「今は、どなたが守っておられるのですか」と太郎は聞いた。
「大河内庄はお屋形様の御領所で代官がおるだけじゃ。あとは真弓峠を初めとして要所要所に砦がある位じゃな」
「もし、山名勢が攻めて来たらどうするのですか」
「大河内庄は捨て、永良庄で迎え討つんじゃよ。そなたの気持ちはわかるが、あんな山の中に行く事もあるまい」
「加賀守殿、お見せしたい物があります。少々お待ち下さい」
太郎は客殿に行き、赤松性具入道の時世の連歌の巻物と銀の塊(カタマリ)を持って戻った。
巻物を加賀守に見せ、その巻物が一切経の中に入っていた事、夢庵がその巻物の謎を解き、太郎たちが生野に行って、謎の言葉が事実であるのを確かめた事を順を追って説明した。そして、最後に、鬼山一族から預かった銀の塊を加賀守に見せた。
「こいつは凄い‥‥‥」と加賀守は銀塊を眺めながら唸った。「生野に銀山か‥‥‥しかし、よく、こんな宝を捜し出したものよのう」加賀守はもう一度、唸り、太郎を見ると、「この事はまだ、誰も知らんのじゃな」と聞いた。
「はい。わたしの仲間以外は誰も知りません」
「うむ‥‥‥こういう事は内密にしておかなければならん。しかし、生野とはのう、敵国じゃのう」
「敵国だと言っても、山名の方でも、あそこは余り重要視していないようです。見張りという程の砦があるだけです」
「うむ。しかし、銀山を掘るとなると、生野の地を山名から取らなければならんのう。かつて、あの辺り朝来(アサゴ)郡は赤松家の領土だった事もあったがのう」
「できれば、わたしに銀山の事を任せて貰えれば、ありがたいのですが」
「そうじゃのう。わしの一存では決められんが、そなたが見つけ出したものじゃしのう。その鬼山(キノヤマ)一族とやらも、そなたを信用しておるようじゃ。内密に事を運ぶとなると、そなたしかいないとは思うが、まあ、とにかく、お屋形様と相談してみる。そなたの方も、この事は内密に頼むぞ」
「はい。お願いいたします」
「うむ、銀か‥‥‥」と加賀守は銀の塊を見つめていた。
「その銀はどうぞ、お屋形様にお渡し下さい」
「わかった。戦続きで、やたらと出費の多い、この時勢に、銀山を見つけたとなると大助かりじゃ。しかし、そなたもやるのう。楓殿もいい男を見つけたものじゃ。赤松家の将来が益々、明るくなったというものじゃ」
「ただ、今のところは運がいいだけです」
「いや、それだけではあるまい‥‥‥うむ、生野に銀山があったとはのう‥‥‥話は変わるが、そなた、今日からお屋形様の屋敷に移ってくれとの事じゃ。楓殿と百太郎殿を連れてな。それと、京から連れて来た五人の侍女と、そなたの家来も五人位なら連れて行っていいそうじゃ」
「わかりました。実は、わたしの家来の事なんですが、今、八十九人、集まりました。しかし、彼らの宿がないのです。何とかなりませんか」
「この間の奴らか」
「はい」
「河原者たちもおるのか」
「はい。何人かは」
「河原者を家臣にするというのも、あまり関心せん事じゃが、この間はみんな、よくやってくれたようだしのう。その辺の所は目をつぶるか。わかった。何とかしよう。そなたの家臣を河原辺りに放って置くわけにはいかんからのう」
「お願いします」
「それじゃあ、わしはお屋形様の所に行って、こいつの事を相談して来る」
加賀守は手の中の銀を弄(モテアソ)びながら立ち上がった。
「そなたは荷物をまとめておいてくれ。そのうち、迎えの者が来るじゃろう」
太郎は客殿に戻ると、みんなに荷物をまとめさせた。
昼頃、迎えの者が来て、太郎たちはお屋形様の客人となった。
太郎たち三人が案内された部屋は、この前、お屋形様と対面した書院のすぐ近くで、極楽浄土の庭園の中に突き出た豪華な部屋だった。
『六花寄(ロッカキ)』という洒落た名前の付いた八畳と六畳の二間からなり、部屋からの眺めは最高だった。この屋敷の中でも最高の部屋に違いなかった。『六花寄』というのは、六花というのが雪の異名で、雪見をするための部屋だと言う。お屋形様が夢庵らを呼んで、雪を見ながら、お茶会をしたり、連歌会をしたりするための部屋なのだろう。
今はまだ、雪などないが、雪がなくても素晴らしい眺めだった。こんな所で、毎日、寝起きしていたら、世の中の煩わしい事など、すべてを忘れて、何もしたくなくなってしまうのではないかと思った。
楓の五人の侍女と桃恵尼は側にある藤の間と松の間という客間に入れられた。両方とも八畳間で、池のある中庭に面していて綺麗な部屋だった。
太郎と楓と百太郎が部屋の回廊から庭を眺めていると、美しい女が現れた。太郎たちの世話を命ぜられた松島という名の仲居だと言う。
何か用があったら隣の部屋にいるから、何なりと申し付けてくれとの事だった。
太郎がボーッとして、その仲居に見とれていると、「わかりました、今の所は何もございません」と楓が言って、仲居を下がらせた。
「まさしく極楽だな、ここは」と太郎は言った。
「そうね」と楓はぶすっとしていた。
「今の人、綺麗な人だね」と百太郎が言った。
「ああ、綺麗だな」
「でも、お母さんの方が綺麗だよ」
「そうだよな」と太郎も言った。
「調子のいい事、言ったって駄目よ」
「ねえ、あのお池の所に行きたい」と百太郎が言った。
「駄目よ。ちゃんと綺麗にお掃除してあるんだから」
「どうぞ、構いませんよ」と後ろで声がした。
お屋形の政則だった。
太郎と楓は慌てて座り直して頭を下げた。
「面(オモテ)をお上げ下さい。そなたたちは、わしの姉上に兄上ですから」
「お世話になります」と太郎は言った。
「いえ、ここにいるうちは、どうぞ、ご遠慮なさらずに、何でも松島に申し付けて下さい」と言うと政則は三人の側に座り込んだ。
「はい、ありがとうございます」
「わしは実に喜んでおります。わしに姉上がいたなんて、ほんとに夢のようじゃ。赤松家の当主となって、色々な物を手に入れる事はできても、身内だけはそうはいかん。その身内が一遍に三人も増えたのだから喜ばしい事じゃ。わしも初めのうちは疑っていた。誰かが何かをたくらんでいるに違いないと思った。しかし、昨日、初めて会ってみて、その疑いは晴れた。一目見て、血のつながった実の姉だと確信した。大方の事は加賀守より聞いておるが、姉上の事をもっと詳しく教えて下さい」
「はい」と楓は頭を下げた。
政則は女中の松島を呼ぶと、百太郎を池の所に連れて行ってやれと命じた。百太郎は松島に連れられて、庭に降りて行った。
楓は赤ん坊の頃、ある山伏に助けられて、甲賀の尼寺に預けられたという事から、ここに来るまでの事を簡単に話し始めた。
政則は静かに聞いていた。
楓が話し終わると、今度は、政則が自分の過去を話した。
政則も楓と同じく、近江の国、浅井(アザイ)郷で生まれていた。
四歳の時、赤松家が再興され、当主となって京に移った。
翌年の初夏、吉野において重傷を負い、ずっと、寝たきりだった父親が亡くなった。
応仁の乱の時、政則はまだ十三歳だったが、浦上美作守を初め、重臣たちの活躍によって、播磨、備前、美作と三ケ国の旧領を取り戻す事ができた。かつて、領国の中心地だった越部(コシベ)庄の城山城は捨て、新たに書写山の北に置塩城を建設した。
文明五年(一四七三年)、山名宗全、細川勝元が相次いで死ぬと、政則は京の事は浦上美作守に任せ、自ら領国に赴(オモム)き、経営に乗り出した。播磨と備前は何とかまとまり、残るは美作だけとなり、自ら兵を引き連れて出掛けて行ったのが今年の五月の末で、ようやく、一昨日、帰って来たのだった。
太郎も楓も黙って聞いていた。
政則は話し終わると、太郎の方を向き、「そなたの剣術の事も聞いておる。明日にでも是非、見せて下さい」と言った。
「はい。喜んで」
「銀の事、加賀守より聞きました。そなたに任せる事になるじゃろう」
「はっ、かしこまりました」
「また、来ます」と言うと政則は帰って行った。
庭の方を見ると、百太郎はまだ遊んでいた。いつの間にか、松島の代わりに桃恵尼と楓の侍女、住吉が一緒にいた。
「ねえ、銀の事って何?」と楓が太郎に聞いた。
「銀山だよ」
「銀山?」
「披露式典が終わったら、俺たちは銀山を掘りに行かなければならないんだ」
「へえ。赤松家のお侍になったばかりなのに、もう、そんな重要なお仕事が貰えたの」
「うん、後で、ゆっくりと説明するよ」
「何だかよくわからないけど、あなたが一回りも二回りも大きくなったように感じるわ」
「大峯山に旅立ってからというもの、色々な事があったからな。たった三ケ月で、三年以上の経験をしたみたいだ」
「そうよね。色々な事があり過ぎたわ」
「今、思うと奇跡のようだよ。みんなの協力がなければ、とてもじゃないが俺は殺されていたな」
「みんなには、ほんとにお世話になりっぱなしね」
「これからもお世話になるだろうな」
「そうね。ところで、大峯山でお師匠さんには会えたの」
太郎は首を振った。「でも、縁があれば、きっと、いつか会えるよ。その時までに、もっと強くなっておかなけりゃな」
「陰流を完成させなくちゃね」
「そう。陰の術もな」
「そう言えば、今年も十一月になったら、陰の術を教えに飯道山に戻らなけりゃならないんでしょ。どうするの」
「俺が行ければ行くけど、駄目だったら、三人のうち、誰かを送らなけりゃならないだろうな」
「あなたが、一ケ月も抜け出すのは難しいんじゃないの」
「うん。多分な」
「あの三人で大丈夫かしら」
「大丈夫だろう。あいつらも今回、結構、活躍したよ。奴らの甲冑姿というのも、なかなか様になってるぜ」
「そうよね。あなたが初めて、みんなに陰の術を教えたのが、丁度、あの人たちと同じ位の年だったものね」
「そうだったっけ」
「そうよ。あたしとあなたが一緒になったのは、あなたが十九で、あたしが十七の時だったのよ。その年の暮れに初めて、陰の術をみんなに教えたのよ」
「そうだっけ。俺があいつらの年の時はもう、お前と一緒だったのか‥‥‥」
「そうよ。あなたったら祝言を挙げた途端に半年もお山に籠もっちゃうんだもの。あたし、淋しかったんだから」
「そうだったな。そんな事もあったな‥‥‥」
「お母さん、お父さん、ちょっと来て」と百太郎が呼んだ。
二人は目を細めながら極楽浄土の庭に降りて行った。
「面(オモテ)を上げられよ」と正面より声がかかり、太郎と楓は頭を上げた。
襖の向こうは、こちらよりも一段高くなっている八畳の間だった。大きな山水画を背にして座っていたのが、お屋形、赤松兵部少輔政則だった。側に太刀を持った若い侍が控えていた。
加賀守がお屋形様に楓と太郎を紹介した。
お屋形様は頷き、しばらく、二人を見比べていたが何も喋らなかった。そして、また、襖は閉められ、対面は終わった。
太郎はお屋形様の顔を見て、まず、思った事は楓にそっくりだという事だった。評判通りのいい男だった。そして、態度や顔付きからして、播磨、備前、美作三国を治める大名のお屋形として、ふさわしい男だと思った。人を引き付ける何かを持っている男だった。
人の上に立つには実力は勿論の事、この、人を引き付ける何かを持っていなければならなかった。その何かというのは言葉では説明できないが、その何かがあるからこそ、人々は信頼して付いて行く。その人が持っている、運という物かもしれなかった。
太郎はこの時、赤松家の家臣となる事を決心した。赤松家の家臣となり、楓の弟であるお屋形様を助け、赤松家のために生きていこうと決心した。
お屋形様との対面が終わると、太郎たちは隣の部屋へと連れて行かれた。隣は四十畳敷きの書院だった。
その書院に、赤松家の重臣たちが並んで座っていた。
太郎と楓は上座に座らせられ、重臣たちを紹介された。
年寄衆の喜多野飛騨守則綱、上原対馬守頼祐、櫛橋豊後守則伊、富田備後守宗真、阿閇(アエ)豊前守重能、馬場因幡守則家、志水孫左衛門尉清実、衣笠左京亮朝親、赤松下野守政秀の九人と、西播磨国守護代の宇野越前守則秀、町奉行の後藤伊勢守則季、鞍掛城主の中村弾正少弼正満、番城主の間島左馬助則光、清水谷城の赤松備前守永政、そして、大円寺の住職、勝岳性尊和尚が紹介された。
喜多野飛騨守と上原対馬守と櫛橋豊後守の三人は、すでに、太郎は会っていた。
櫛橋豊後守は城下に入る時、先導してくれたし、喜多野飛騨守と上原対馬守は、お屋形様と一緒に美作の国まで行っていたが、昨日、帰って来ると早速、別所屋敷にやって来て、太郎と楓に会っていた。内密にという事で、喜多野飛騨守も上原対馬守も気軽な気持ちで、太郎たちの客間にやって来て、世間話をして帰って行った。昨日は二人共、五十年配の真っ黒に日に焼けた気さくな親爺さんだったが、さすがに、今日の二人は赤松家の重臣として堂々たるもので、居並ぶ重臣たちの中でも最も貫禄があった。
お屋形様の叔父という大円寺の住職、勝岳性尊はきらびやかな法衣を身に纏い、怒った様な顔をして座っていた。太郎たちを、あまり歓迎していないようだった。
そこでも、ただ、紹介するだけで終わった。
一通り紹介が終わると、加賀守と共に太郎と楓はその書院から出て、来た時と同じ廊下を通って屋敷を出ると別所屋敷へと戻った。
加賀守は、近いうちにお屋形様の屋敷の方に移る事になるだろうが、もう少し、ここで我慢してくれと言った。
太郎にしてみれば、あんな大きな屋敷に入るよりは、ここの方がずっと気楽なので、ここにいたかったが、楓にしてみれば弟と対面したとは言え、一言も話をしていないので、早く向こうに移って弟と話がしたいのだろうと思った。
太郎と楓が部屋に戻ると、桃恵尼と侍女たちが二人の帰りを待っていた。
太郎はみんなに対面の様子を話した。
楓はお屋形様を一目見た途端、自分の弟だとわかったと言った。会うまでは半信半疑でいたけど、今日、会ってみて、自分に弟がいたという事が初めて、実感として伝わって来たと言う。
太郎は楓に、このまま播磨の国にいる事に決めたと告げた。
楓は驚いた様な顔をして、太郎を見つめた。
太郎は桃恵尼と侍女たちを部屋から出して、二人っきりになると、もう一度、ここにいようと思うと言った。
「いやか」と太郎は楓を見つめながら聞いた。
「また、武士に戻るの」と楓は聞いた。
「うん。しばらくはな」
「それで、いいの」
「俺は今日、お屋形様と会ってみて、赤松家の武将になる事に決めた」
「でも、武士になったら、また、色々と忙しくなって、剣術の修行なんてできなくなるかもしれないわよ」
「それは心がけ次第でどうにでもなるような気がする。飯道山にいた時も、何かと忙しくて自分の修行なんてできなかった。どこにいても、何をしていても、やる気があればできるんじゃないかと思う」
楓は太郎を見つめながら頷いた。「あなたがそう決めたのなら、あたしの方は構わないけど。でも、このまま松恵尼様とお別れだなんて、ちょっと淋しいわ」
「松恵尼様か‥‥‥色々と世話になったからな‥‥‥そうだ、披露式典に松恵尼様も呼んでくれと加賀守殿から言われていたんだ。さっそく、藤吉殿に甲賀に帰ってもらおう。松恵尼様もきっと喜んでくれるさ」
「加賀守様が、呼んでもいいって?」
「ああ。お前の親同然だもんな、呼ぶのは当然だろう」
「松恵尼様に会えるのね。良かった」楓は嬉しそうに笑った後、「ねえ、あなたの御両親は呼ばないの」と聞いた。
太郎は首を振った。
「赤松家の武将になる事を知らせなくていいの」
「今は、まだいい。もう少し落ち着いたら知らせる」
「落ち着いたら?」
「ああ。立派な屋敷を建てたら、そこに招待するんだ」
「お屋敷を建てるの」
「そりゃそうだよ。お前はお屋形様の姉さんなんだぜ。お屋形様の屋敷に負けない位な豪華な御殿を建てなくちゃな」
「いいわよ。そんな大きな御殿なんて‥‥‥」
「そうもいかないのさ。俺も、そんな御殿なんかいらないが、お前はもう、すでに、この国のみんなから注目されているんだよ。お屋形様の姉上として、それなりに、ふさわしい屋敷に住み、ふさわしい格好をし、ふさわしい態度を取らなければならないんだ。俺も二百人位の家来を持たなければならないし、それにふさわしいお屋形にならなけりゃならないんだ」
「えっ、二百人も家来を持つの?」楓は目を丸くして太郎を見た。
「多分、その位の家来はいるだろうって夢庵殿が言っていた」
「二百人も‥‥‥大変ね‥‥‥」
「そうさ。その二百人の命を俺が預かる事になるんだ。この先、戦にも行く事になるだろう。家来たちを生かすも殺すも俺のやり方次第で決まってしまう。大変な事だよ」
「そうね‥‥‥あの三人は勿論、家来になるんでしょう」
「あの三人だけじゃない。金比羅坊殿も阿修羅坊殿も俺の家来になってくれるらしい」
「えっ、金比羅坊様に阿修羅坊様も?」
「伊助殿や次郎吉殿、藤吉殿もみんな、俺の家来になるって言うんだ」
「えっ、だって、あの人たちは松恵尼様の下で働いている人たちでしょ。大丈夫なの」
「わからない。一応、松恵尼様と相談しなけりゃならないだろうな」
「でも、みんなが、あなたの家来になってくれたら最高だわね」
「ああ。まったく最高さ。ありがたい事だよ」
「みんなが家来になってくれるなんて‥‥‥ほんと、頼もしいわね」
「うん。俺はちょっと出掛けて来る。正式に家来になってくれるように頼んで来るよ」
太郎は堅苦しい狩衣(カリギヌ)を脱ぎ、いつもの単衣(ヒトエ)に立っつけ袴の職人姿になった。
「今晩は帰って来るんでしょうね」楓は太郎の着替えを手伝いながら睨んだ。
「帰って来るよ。大丈夫だ」
楓は頷き、「行ってらっしゃい」と言って、「助六さんによろしくね」と付け加えた。
「は?」と太郎は楓を見た。
「何でもないわ」と楓は笑った。
「行って来る」と太郎は浦浪に出掛けた。
2
職人姿で別所屋敷を出た太郎だったが、正式に家臣になってもらうのに、この格好ではまずいと気づき、まず、小野屋に向かった。あそこに、いつか借りた武士の着物があったはずだった。
小野屋に行くと、珍しく、主人の喜兵衛はいた。主人に、正式に赤松家の武将になった事を告げ、これからもよろしくお願いしますと頼んだら、逆に、こちらこそお願いしますよと頼まれた。
太郎は武士の姿に着替え、刀も二本、腰に差すと、改めて浦浪に向かった。
金勝座の者たちはまだ帰って来ていなかった。三人の弟子もいなかった。
次郎吉は赤松家の重臣に腕が認められ、仕事がどんどん入って来るので、てんてこ舞いしているらしい。吉次の方も美作の国から帰って来た武士たちの鎧の修繕が忙しくてしょうがないと言う。お屋形様が帰って来てから、藤吉の白粉の売れ行きも上がっていると言う。男たちが帰って来たので、女たちが化粧に精を出したのかどうかは知らないが、飛ぶようによく売れると言う。伊助の薬も同様だった。
お屋形様が帰って来てから、この城下は益々、景気が良くなって行った。
する事もなく、浦浪で、ごろごろしていたのは阿修羅坊と金比羅坊の二人だけだった。
夢庵も今朝、侍が呼びに来て、どこかに出て行ったまま戻って来ないと言う。きっと、披露式典の事で呼ばれたのだろうと、太郎は思った。
金比羅坊は太郎の侍姿を見ると、「いよいよ、ここに残る決心をしたとみえるのう」と言った。
「どうじゃ、お屋形様はなかなかの男じゃろう」と阿修羅坊は言った。
太郎は頷いた。
「まあ、上がれ」
太郎は部屋に上がると、二人の前に座って深く頭を下げた。
「金比羅坊殿、阿修羅坊殿、これからも、よろしくお願い致します」
「太郎坊殿、それは逆じゃ。頭を下げるのはわしらの方じゃ」と阿修羅坊は言った。
「そうじゃ。おぬしはすでに、ここのお屋形様の兄上に当たるお人じゃ。庶民から見れば、おぬしは天上人のようなものじゃ。軽々しく頭など下げるものではないぞ」
「ありがとうございます」
金比羅坊は座り直して姿勢を改めると、この間の起請文を太郎に渡した。
「八十九人いる」と金比羅坊は言った。
「八十九人も?」
「今の所はそれだけじゃ。まだまだ、集めなけりゃならんじゃろうな」
「それでも、八十九人も良く集まりましたね」
「この間、手伝ってくれた連中にも声を掛けたら、そのまま、おぬしの家来になりたいと言う者がおったんでな、そいつらにも名を書いて貰った」
「そうですか。できれば、みんな連れて行きたいが、そうも行きませんね」
太郎は改めて起請文を見た。
まず、太郎の弟子、三人の名前が山伏になる前の名前で並んでいた。そして、その次に見慣れない名前があった。
「あの、岩瀬七郎勝盛っていうのは誰です」と太郎は聞いた。
「わしじゃよ」と金比羅坊が照れ臭そうに笑いながら言った。「わしが昔、侍だった時の名じゃ。もう十年も前の事じゃ。何となく照れ臭いのう」
「金比羅坊殿が岩瀬殿ですか‥‥‥」
その後、次郎吉たちの名前が並んでいたが皆、聞いた事のなかった名字が付いていた。伊藤次郎吉、青木伊助、小川弥平次、川上藤吉、松井吉次と並んでいた。
「次郎吉殿や伊助殿は松恵尼殿に断らなくても大丈夫なのでしょうか」
「一応は断るつもりだが、多分、大丈夫だろうと言っておった」
その後に、朝田新右衛門たち浪人十二人の名前が並んでいた。そして、馬借が三人、金掘り人足が二十四人、乞食が十八人、散所者が十人。川の民が六人、皮屋が三人、紺屋が三人いた。そして、最後に、大沢平太郎康健(ヤスタケ)という名前があった。聞いた事ない名前だったが、阿修羅坊に違いないと思い、聞いてみたら、やはり、そうだった。
「大沢なんていう名字、使った事はないがのう、わしの爺様は大沢某という武士だったそうじゃ」と阿修羅坊も照れ臭そうに笑った。
「さっそく、みんなに知らせてやらん事にはのう」と金比羅坊は言った。
「あっ、忘れていましたが、俺の名前は今日から赤松日向守久忠です」
「なに、赤松姓を名乗るのか」と阿修羅坊が驚いて聞いた。
「はい。浦上美作守が俺の事を京極次郎右衛門だと言い触らしてしまったお陰で、今更、本名の愛洲氏を名乗るわけにもいかないし、かと言って、京極も名乗れないので赤松を名乗る事になったらしいです」
「そうか、赤松日向守殿か‥‥‥」と阿修羅坊はゆっくりと頷いた。
「わしらのお屋形様は赤松日向守殿か‥‥‥」と金比羅坊も頷いた。
「ところで、その赤松日向守として、二人にお願いしたいのですが、日向守の年寄衆として家臣団の編成を頼みたいのです」
「わしらが年寄衆か」と阿修羅坊が聞いた。
「はい。お願いします」
「お願いしますと言われてものう。わしにはそんな事、わからんぞ」と金比羅坊が嬉しいような困ったような顔をして言った。
「わしも、そこまではのう」と阿修羅坊も頭をかいた。
「夢庵殿ならわかると思いますが‥‥‥」
「おお、そうじゃ、夢庵殿がおったわい。夢庵殿なら何でも知っておる。夢庵殿に聞けば何とかなるじゃろう」
「お願いします」
「よし、引き受けた」
「ところで、太郎坊、いや、日向守殿」と金比羅坊は言った。「家来になった者たちの宿はないかのう。いつまでも、銀左殿の所に世話になっているわけにもいくまい」
「そうですね、何とか捜してみます」
「そうしてくれ。河原にいる奴らもおるからのう。奴らに、武士になったという自覚をさせなけりゃならん」
「そうじゃのう。おぬしの家来が河原にいるというのも、体裁の悪い事じゃ。ところで、披露式典の日取りは決まったのか」
「まだ、決まってないようです。初めの予定では、来月の初め頃やるはずだったらしいんですけど、会場の方がなかなか、はかどらないようで、どうも、一月位遅れて十月になるようです」
「十月か、まだ、一月もあるのう。それまで、わしらは何をしてるんじゃ」
「明日、銀山の事を加賀守殿に話そうと思っています。そうすれば、多分、その一ケ月間は生野の方に行くようになるかもしれません」
「おう。そうしてくれ。いつまでも、こんな所でごろごろしてるのも飽きて来たわ」
太郎は金比羅坊、阿修羅坊と共に銀左の屋敷に行き、みんなを正式に家来にするという事を告げた。みんなは喜んでくれた。
銀左はやはり、新しい城下の方に行っていて、いなかった。
阿修羅坊と金比羅坊は早速、家臣団の編成のため、それぞれ、個人個人に面接をして、特技やらを聞くと言うので、二人に任せて太郎は浦浪に戻った。
浦浪には金勝座を初め、ほとんどの者が帰って来ていた。
太郎は伊助たちの部屋に行き、これからの事を話し、藤吉に一度、甲賀に帰るように頼んだ。楓が松恵尼に会いたがっているので、松恵尼に披露式典に出てくれるように伝えてくれと頼んだ。
藤吉は喜んで引き受けてくれた。どうせ、結果報告と太郎の家臣になる事を許してもらう為に、一度、帰らなければならなかった。早速、明日にでも帰りましょうと言った。
みんなが太郎の家来になると聞いて、金勝座の者たちの中にも家来になりたいと言う者が現れて来た。しかし、それはできなかった。一人でも抜けたら金勝座は潰れてしまう。あれだけの芸を持った金勝座を潰す事はできなかった。
太郎は座頭の助五郎と相談した。
助五郎としては一人もやめて貰いたくはなかったが、本人がどうしても武士になりたいと言うのを無理に引き留める事はできなかった。そこで、太郎は金勝座そっくりを家臣という事にして、新しい人材を求め、補充出来次第、一人づつ武士にして行くという事にした。みんなも、それで納得してくれた。
太郎は三人の弟子たちにも武士になる事を告げ、金比羅坊たちを手伝うために、夢庵と一緒に銀左の屋敷に向かわせた。
一通り用が済んだので帰ろうとしたら、助六が追って来て、「冷たいのね」と言った。「あたしには家来になれって言ってくれないの」
「奈々さんが金勝座から抜けたら金勝座はやって行けないだろう」
「あたしの代わりになる人が入ったら家来にしてくれる?」
「家来になるって、女の侍にでもなるのですか」
「それもいいわね」と助六は笑った。「女だてらに鎧を着て戦に出るのもいいわ」
「それは楓がやりそうだ」と太郎は苦笑した。
「えっ、楓様も何かやってるの」
「ここに来る前は娘たちに薙刀を教えていたんです」
「あ、そうだったわね。松恵尼様が薙刀の名人だものね。その松恵尼様に育てられたのなら楓様も薙刀の名人よね。そうか、楓様は薙刀か‥‥‥そうだ、あたし、楓様の侍女でもいいわ」
「楓の侍女か‥‥‥考えとくよ」
「ほんとはね、あなたのお妾(メカケ)さんがいいんだけどね」と助六は思い切った事を言った。
「えっ、そんなの無理だよ」と太郎は慌てて手を振った。
「だって、お殿様になったんでしょ。お妾さんの一人や二人、いたっておかしくないじゃない」
「まだ、なったばかりで、そんなの無理だ」
「もし、お妾さんを持つようになったら、あたしをお願いね」
「うん‥‥‥考えておく」
「良かった。あたし、あなたの子が産みたいのよ」
「何を言うんだよ」
「だって、本当だもの」と助六はニコッと笑った。
太郎は助六と別れ、別所屋敷に向かった。
妾か‥‥‥助六が妾になってくれれば最高な事だが、楓が許すわけないなと思った。
楓の怒っている顔が浮かんだ。太郎は助六の事は夢と諦めた。
3
久し振りに、太郎が楓を相手に剣術の稽古をしていると、執事の織部祐が太郎を呼びに来た。
書斎に行くと加賀守が待っていた。あまり寝ていないとみえて、真っ赤な目をしていて、顔色もあまり良くなかった。
「久し振りに、今日はいい天気じゃのう。こんな日はのんびりと昼寝でもしていたいんじゃが、そうもいかんわ」と加賀守は言って笑った。
「何か手伝う事でもあれば、どうぞ、おっしゃって下さい」と太郎は言った。
「なに、そなたは今の所は、ゆっくりしておればいい。そのうち、そなたも忙しくなるじゃろうからな。今のうちに充分、休んでおく事じゃ。ところで、そなたの事じゃが、行く行くは赤松家の水軍として働いてもらう事になると思うが、とりあえず、前之庄の天神山城に入って貰う事になるじゃろう」
前之庄の天神山城と聞いて、太郎は播磨の地図を思い描いたが、どこだかわからなかった。笠形山から瑠璃寺に向かう時、通ったような気もするが、はっきりと覚えていない。
「ここより二里程、北に行った所じゃよ」と加賀守は説明した。「天神山城は今は城というより砦に過ぎないが、以前はちゃんとした城じゃった。その地に新たに城を構え、そなたに守って貰うつもりじゃ。楓殿にしても、ここからすぐ近くだし、お屋形様に会おうと思えばすぐに来られる。とりあえずは、そこに落ち着いて欲しいのじゃが」
「はい」と太郎は頷いたが、意を決して、「実は、その事に付きまして、加賀守殿に相談したい事があるのですけど」と言った。
「何じゃ」と加賀守は少し厳しい顔付きになって太郎を見た。
「お城をいただけるのはありがたいのですが、できれば、但馬への入り口、大河内庄辺りを守りたいのです」
「なに、大河内庄?」
太郎の言った事があまりに以外だったので、加賀守は一瞬、戸惑ったようだった。しばらく、太郎を見つめていたが、やがて納得したように頷くと、「あそこは山名氏の侵入を防ぐ重要な地点には違いないが、かなり山の中じゃぞ。冬は雪が多いしのう。あまり、勧められんのう」と言った。
「今は、どなたが守っておられるのですか」と太郎は聞いた。
「大河内庄はお屋形様の御領所で代官がおるだけじゃ。あとは真弓峠を初めとして要所要所に砦がある位じゃな」
「もし、山名勢が攻めて来たらどうするのですか」
「大河内庄は捨て、永良庄で迎え討つんじゃよ。そなたの気持ちはわかるが、あんな山の中に行く事もあるまい」
「加賀守殿、お見せしたい物があります。少々お待ち下さい」
太郎は客殿に行き、赤松性具入道の時世の連歌の巻物と銀の塊(カタマリ)を持って戻った。
巻物を加賀守に見せ、その巻物が一切経の中に入っていた事、夢庵がその巻物の謎を解き、太郎たちが生野に行って、謎の言葉が事実であるのを確かめた事を順を追って説明した。そして、最後に、鬼山一族から預かった銀の塊を加賀守に見せた。
「こいつは凄い‥‥‥」と加賀守は銀塊を眺めながら唸った。「生野に銀山か‥‥‥しかし、よく、こんな宝を捜し出したものよのう」加賀守はもう一度、唸り、太郎を見ると、「この事はまだ、誰も知らんのじゃな」と聞いた。
「はい。わたしの仲間以外は誰も知りません」
「うむ‥‥‥こういう事は内密にしておかなければならん。しかし、生野とはのう、敵国じゃのう」
「敵国だと言っても、山名の方でも、あそこは余り重要視していないようです。見張りという程の砦があるだけです」
「うむ。しかし、銀山を掘るとなると、生野の地を山名から取らなければならんのう。かつて、あの辺り朝来(アサゴ)郡は赤松家の領土だった事もあったがのう」
「できれば、わたしに銀山の事を任せて貰えれば、ありがたいのですが」
「そうじゃのう。わしの一存では決められんが、そなたが見つけ出したものじゃしのう。その鬼山(キノヤマ)一族とやらも、そなたを信用しておるようじゃ。内密に事を運ぶとなると、そなたしかいないとは思うが、まあ、とにかく、お屋形様と相談してみる。そなたの方も、この事は内密に頼むぞ」
「はい。お願いいたします」
「うむ、銀か‥‥‥」と加賀守は銀の塊を見つめていた。
「その銀はどうぞ、お屋形様にお渡し下さい」
「わかった。戦続きで、やたらと出費の多い、この時勢に、銀山を見つけたとなると大助かりじゃ。しかし、そなたもやるのう。楓殿もいい男を見つけたものじゃ。赤松家の将来が益々、明るくなったというものじゃ」
「ただ、今のところは運がいいだけです」
「いや、それだけではあるまい‥‥‥うむ、生野に銀山があったとはのう‥‥‥話は変わるが、そなた、今日からお屋形様の屋敷に移ってくれとの事じゃ。楓殿と百太郎殿を連れてな。それと、京から連れて来た五人の侍女と、そなたの家来も五人位なら連れて行っていいそうじゃ」
「わかりました。実は、わたしの家来の事なんですが、今、八十九人、集まりました。しかし、彼らの宿がないのです。何とかなりませんか」
「この間の奴らか」
「はい」
「河原者たちもおるのか」
「はい。何人かは」
「河原者を家臣にするというのも、あまり関心せん事じゃが、この間はみんな、よくやってくれたようだしのう。その辺の所は目をつぶるか。わかった。何とかしよう。そなたの家臣を河原辺りに放って置くわけにはいかんからのう」
「お願いします」
「それじゃあ、わしはお屋形様の所に行って、こいつの事を相談して来る」
加賀守は手の中の銀を弄(モテアソ)びながら立ち上がった。
「そなたは荷物をまとめておいてくれ。そのうち、迎えの者が来るじゃろう」
太郎は客殿に戻ると、みんなに荷物をまとめさせた。
昼頃、迎えの者が来て、太郎たちはお屋形様の客人となった。
太郎たち三人が案内された部屋は、この前、お屋形様と対面した書院のすぐ近くで、極楽浄土の庭園の中に突き出た豪華な部屋だった。
『六花寄(ロッカキ)』という洒落た名前の付いた八畳と六畳の二間からなり、部屋からの眺めは最高だった。この屋敷の中でも最高の部屋に違いなかった。『六花寄』というのは、六花というのが雪の異名で、雪見をするための部屋だと言う。お屋形様が夢庵らを呼んで、雪を見ながら、お茶会をしたり、連歌会をしたりするための部屋なのだろう。
今はまだ、雪などないが、雪がなくても素晴らしい眺めだった。こんな所で、毎日、寝起きしていたら、世の中の煩わしい事など、すべてを忘れて、何もしたくなくなってしまうのではないかと思った。
楓の五人の侍女と桃恵尼は側にある藤の間と松の間という客間に入れられた。両方とも八畳間で、池のある中庭に面していて綺麗な部屋だった。
太郎と楓と百太郎が部屋の回廊から庭を眺めていると、美しい女が現れた。太郎たちの世話を命ぜられた松島という名の仲居だと言う。
何か用があったら隣の部屋にいるから、何なりと申し付けてくれとの事だった。
太郎がボーッとして、その仲居に見とれていると、「わかりました、今の所は何もございません」と楓が言って、仲居を下がらせた。
「まさしく極楽だな、ここは」と太郎は言った。
「そうね」と楓はぶすっとしていた。
「今の人、綺麗な人だね」と百太郎が言った。
「ああ、綺麗だな」
「でも、お母さんの方が綺麗だよ」
「そうだよな」と太郎も言った。
「調子のいい事、言ったって駄目よ」
「ねえ、あのお池の所に行きたい」と百太郎が言った。
「駄目よ。ちゃんと綺麗にお掃除してあるんだから」
「どうぞ、構いませんよ」と後ろで声がした。
お屋形の政則だった。
太郎と楓は慌てて座り直して頭を下げた。
「面(オモテ)をお上げ下さい。そなたたちは、わしの姉上に兄上ですから」
「お世話になります」と太郎は言った。
「いえ、ここにいるうちは、どうぞ、ご遠慮なさらずに、何でも松島に申し付けて下さい」と言うと政則は三人の側に座り込んだ。
「はい、ありがとうございます」
「わしは実に喜んでおります。わしに姉上がいたなんて、ほんとに夢のようじゃ。赤松家の当主となって、色々な物を手に入れる事はできても、身内だけはそうはいかん。その身内が一遍に三人も増えたのだから喜ばしい事じゃ。わしも初めのうちは疑っていた。誰かが何かをたくらんでいるに違いないと思った。しかし、昨日、初めて会ってみて、その疑いは晴れた。一目見て、血のつながった実の姉だと確信した。大方の事は加賀守より聞いておるが、姉上の事をもっと詳しく教えて下さい」
「はい」と楓は頭を下げた。
政則は女中の松島を呼ぶと、百太郎を池の所に連れて行ってやれと命じた。百太郎は松島に連れられて、庭に降りて行った。
楓は赤ん坊の頃、ある山伏に助けられて、甲賀の尼寺に預けられたという事から、ここに来るまでの事を簡単に話し始めた。
政則は静かに聞いていた。
楓が話し終わると、今度は、政則が自分の過去を話した。
政則も楓と同じく、近江の国、浅井(アザイ)郷で生まれていた。
四歳の時、赤松家が再興され、当主となって京に移った。
翌年の初夏、吉野において重傷を負い、ずっと、寝たきりだった父親が亡くなった。
応仁の乱の時、政則はまだ十三歳だったが、浦上美作守を初め、重臣たちの活躍によって、播磨、備前、美作と三ケ国の旧領を取り戻す事ができた。かつて、領国の中心地だった越部(コシベ)庄の城山城は捨て、新たに書写山の北に置塩城を建設した。
文明五年(一四七三年)、山名宗全、細川勝元が相次いで死ぬと、政則は京の事は浦上美作守に任せ、自ら領国に赴(オモム)き、経営に乗り出した。播磨と備前は何とかまとまり、残るは美作だけとなり、自ら兵を引き連れて出掛けて行ったのが今年の五月の末で、ようやく、一昨日、帰って来たのだった。
太郎も楓も黙って聞いていた。
政則は話し終わると、太郎の方を向き、「そなたの剣術の事も聞いておる。明日にでも是非、見せて下さい」と言った。
「はい。喜んで」
「銀の事、加賀守より聞きました。そなたに任せる事になるじゃろう」
「はっ、かしこまりました」
「また、来ます」と言うと政則は帰って行った。
庭の方を見ると、百太郎はまだ遊んでいた。いつの間にか、松島の代わりに桃恵尼と楓の侍女、住吉が一緒にいた。
「ねえ、銀の事って何?」と楓が太郎に聞いた。
「銀山だよ」
「銀山?」
「披露式典が終わったら、俺たちは銀山を掘りに行かなければならないんだ」
「へえ。赤松家のお侍になったばかりなのに、もう、そんな重要なお仕事が貰えたの」
「うん、後で、ゆっくりと説明するよ」
「何だかよくわからないけど、あなたが一回りも二回りも大きくなったように感じるわ」
「大峯山に旅立ってからというもの、色々な事があったからな。たった三ケ月で、三年以上の経験をしたみたいだ」
「そうよね。色々な事があり過ぎたわ」
「今、思うと奇跡のようだよ。みんなの協力がなければ、とてもじゃないが俺は殺されていたな」
「みんなには、ほんとにお世話になりっぱなしね」
「これからもお世話になるだろうな」
「そうね。ところで、大峯山でお師匠さんには会えたの」
太郎は首を振った。「でも、縁があれば、きっと、いつか会えるよ。その時までに、もっと強くなっておかなけりゃな」
「陰流を完成させなくちゃね」
「そう。陰の術もな」
「そう言えば、今年も十一月になったら、陰の術を教えに飯道山に戻らなけりゃならないんでしょ。どうするの」
「俺が行ければ行くけど、駄目だったら、三人のうち、誰かを送らなけりゃならないだろうな」
「あなたが、一ケ月も抜け出すのは難しいんじゃないの」
「うん。多分な」
「あの三人で大丈夫かしら」
「大丈夫だろう。あいつらも今回、結構、活躍したよ。奴らの甲冑姿というのも、なかなか様になってるぜ」
「そうよね。あなたが初めて、みんなに陰の術を教えたのが、丁度、あの人たちと同じ位の年だったものね」
「そうだったっけ」
「そうよ。あたしとあなたが一緒になったのは、あなたが十九で、あたしが十七の時だったのよ。その年の暮れに初めて、陰の術をみんなに教えたのよ」
「そうだっけ。俺があいつらの年の時はもう、お前と一緒だったのか‥‥‥」
「そうよ。あなたったら祝言を挙げた途端に半年もお山に籠もっちゃうんだもの。あたし、淋しかったんだから」
「そうだったな。そんな事もあったな‥‥‥」
「お母さん、お父さん、ちょっと来て」と百太郎が呼んだ。
二人は目を細めながら極楽浄土の庭に降りて行った。
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