1416年、上杉禅秀の乱。
1438年10月、永享の乱。鎌倉公方持氏、幕府軍の殺される。
1440年、結城合戦。上野の岩松持国、舞木氏が持氏の遺児の擁立の中心となる。
1441年、将軍義教、赤松満祐に殺される。
1448年、成氏、鎌倉公方となる。
1454年12月、享徳の乱。鎌倉公方成氏、管領の上杉憲忠を鎌倉西御門第にて殺す。
1455年1月、上杉勢、分倍河原にて成氏勢に敗れる。
犬懸上杉憲顕、扇谷上杉顕房戦死(相模守護)。
1455年3月14日、上州一揆の多数は上杉方に寝返る。
1455年3月24日、岩松持国、茂呂に陣を敷き、小柴刑部左衛門を討ち取り、那波掃部助を追い払う。
1455年4月6日、成氏、那波富塚城を攻め、上州一揆の小柴刑部左衛門尉を討ち取る。
1455年閏4月、上杉勢、常陸小栗城の合戦にも敗れる。
1455年6月16日、幕府軍の今川範忠、鎌倉を攻略。鎌倉は灰燼と化す。世良田氏滅亡。
1455年12月3日、須賀合戦。横瀬良順(貞国)戦死。
1456年2月26日、深津(粕川村)の合戦で、赤堀時綱、孫三郎兄弟討ち死に。
成氏方の岩松持国、大胡、山上などで、上杉方と戦う。
1456年9月、岩松持国、武蔵岡部原で上杉憲信と戦う。
1457年4月8日、太田道灌、江戸城を築く。
1457年7月、将軍義政、弟を還俗させ、政知と名乗らせる。
1457年12月19日、政知、左馬頭に任じられ、24日、渋川義鏡と共に京都を出陣し、近江大津園城寺まで進み越年する。
1458年4月、政知、関東に下向。岩松家純も下向。
1458年9月、岩松家純の家臣横瀬国繁によって、岩松持国、幕府(上杉)方に寝返る。
1459年10月14日、武蔵太田庄にて、成氏軍と上杉軍合戦。上杉方の敗北。
この頃、五十子の陣構えられる。東西200m、南北150mの単郭。
1460年1月、今川範忠、鎌倉から退去する。
1461年、岩松持国父子、誅殺される。
1461年10月、政知の執事、犬懸上杉教朝の自害。
1462年12月、結城成朝(24)が家臣多賀谷氏に殺される。甥の氏広が継ぐ。
1463年8月26日、長尾景仲(76)死す。
1466年2月12日、上杉房顕(32)五十子陣中にて死す。越後の上杉房定の子顕定が継ぐ。
1466年11月、上杉方の上野守護代長尾但馬守景人、代官として足利庄の勧農城に入る。
この頃、渋川義鏡、堀越を去り、武蔵蕨に陣を敷く。
1467年9月7日、扇谷上杉朝持(57)、河越城にて死す。顕房の子政真が継ぐ。
1468年10月、上州茂呂嶋(伊勢崎市)合戦。上杉方の勝利。
1469年8月、岩松家純が五十子陣より、新築の金山城に迎えられる。
1469年9月、上野綱取原で、上杉方と成氏方合戦。
1470年1月10日、太田道真、川越にて連歌会。
1471年4月、上杉軍、足利庄に入り、樺崎城、八椚城(栃木県足利市)、赤見城(佐野市)などを攻め落とし佐野氏を降ろす。
1471年5月、上杉軍、佐貫庄に入り、立林要害中城(館林城)、立林舞木城を攻め落とす。
この頃、佐貫庄は舞木氏に代わって館林城の赤井氏が支配していた。
上杉方‥‥‥長尾左衛門尉景信、景春父子、長尾忠景、太田資長、
豊島一族、大石氏、横瀬氏、善氏ら。
成氏方‥‥‥赤井信濃入道(文三)、文六ら。
1471年6月24日、古河館を攻め落とす。成氏は千葉孝胤の元に逃げる。
1472年2月、成氏、那須氏、結城氏の助力により、古河に戻る。
1472年5月1日、上野守護代長尾景人死す。定景が継ぐ。
1473年1月21日、伊勢貞親(57)死す。
1473年6月23日、長尾景信(61)死す。弟の忠景、跡を継ぐ。
1473年11月24日、扇谷上杉政真(24)戦死。叔父の総社長尾定正が継ぐ。
1474年6月17日、太田道灌、『武州江戸歌合』を興行。
1475年2月6日、長尾定景死す。後を継いだ景人の子、景長が幼少のため、景人の弟、房清が後見となる。
1476年、長尾景春の乱。上州一揆旗本の長野為兼は景春方に付く。一揆は解体し、上杉氏、長尾氏の手兵と化す。
1476年6月、太田道灌、今川家の内紛を治めるため駿河に進攻。
1476年6月、景春は鉢形に城を築き、五十子陣を攻める。
1476年9月末、今川家の内紛治まる。
1477年1月18日、景春、五十子を襲撃する。上杉方は敗れ五十子の陣を払い退去する。
上杉顕定は阿内(前橋市)、定正は細井口(前橋市)、定昌と越後勢は白井城に移って陣を構える。
長尾景春に与同して蜂起した者は、武蔵石神井、練馬城に拠る豊島氏、相模小沢城による金子掃部助、景春被官の溝呂木氏(厚木市)、越後五郎四郎(大磯町)
1477年3月~4月に、太田資長に鎮圧される。
1477年5月、資長は、顕定らを再び、五十子に迎える。
1477年5月14日、上杉軍と成氏軍、武蔵国用土原(寄居町)で合戦。上杉方勝利。
景春方の長野左衛門尉為兼戦死。上杉方の大石源左衛門尉戦死。
景春は鉢形城に退く。
1477年7月、成氏、景春救援のため、結城、宇都宮、那須、佐々木などの兵を率いて、古河を発して上野に入り、瀧、島名(高崎市)に布陣する。この時、横瀬国繁の五百余騎の軍勢も加わる。岩松家純は、五十子退陣を契機に上杉方から離脱し、成氏方となっていた。これに対し、上杉方は再び、白井城まで退去防備を固めた。半年間、睨み合いが続く。
1477年9月27日、上杉軍、片貝に出陣するが戦にはならず。
1477年10月2日、成氏方の長尾景春らが、資長の荒巻(前橋市)、引田(富士見村)などの陣所に押し寄せて来たが小競り合いで終わる。
1477年12月23日、成氏は和田(高崎市)に進み、翌日、観音寺原(群馬町)に陣を取り、白井城に迫る。上杉勢も27日に白井を出て漆原(吉岡村)から広馬場(榛東村)へ向かい、両軍はここで対峙する。その日、大雪が降り、決戦は中止され、事態は急速に和睦の方向に向かう。
1438年10月、永享の乱。鎌倉公方持氏、幕府軍の殺される。
1440年、結城合戦。上野の岩松持国、舞木氏が持氏の遺児の擁立の中心となる。
1441年、将軍義教、赤松満祐に殺される。
1448年、成氏、鎌倉公方となる。
1454年12月、享徳の乱。鎌倉公方成氏、管領の上杉憲忠を鎌倉西御門第にて殺す。
1455年1月、上杉勢、分倍河原にて成氏勢に敗れる。
犬懸上杉憲顕、扇谷上杉顕房戦死(相模守護)。
1455年3月14日、上州一揆の多数は上杉方に寝返る。
1455年3月24日、岩松持国、茂呂に陣を敷き、小柴刑部左衛門を討ち取り、那波掃部助を追い払う。
1455年4月6日、成氏、那波富塚城を攻め、上州一揆の小柴刑部左衛門尉を討ち取る。
1455年閏4月、上杉勢、常陸小栗城の合戦にも敗れる。
1455年6月16日、幕府軍の今川範忠、鎌倉を攻略。鎌倉は灰燼と化す。世良田氏滅亡。
1455年12月3日、須賀合戦。横瀬良順(貞国)戦死。
1456年2月26日、深津(粕川村)の合戦で、赤堀時綱、孫三郎兄弟討ち死に。
成氏方の岩松持国、大胡、山上などで、上杉方と戦う。
1456年9月、岩松持国、武蔵岡部原で上杉憲信と戦う。
1457年4月8日、太田道灌、江戸城を築く。
1457年7月、将軍義政、弟を還俗させ、政知と名乗らせる。
1457年12月19日、政知、左馬頭に任じられ、24日、渋川義鏡と共に京都を出陣し、近江大津園城寺まで進み越年する。
1458年4月、政知、関東に下向。岩松家純も下向。
1458年9月、岩松家純の家臣横瀬国繁によって、岩松持国、幕府(上杉)方に寝返る。
1459年10月14日、武蔵太田庄にて、成氏軍と上杉軍合戦。上杉方の敗北。
この頃、五十子の陣構えられる。東西200m、南北150mの単郭。
1460年1月、今川範忠、鎌倉から退去する。
1461年、岩松持国父子、誅殺される。
1461年10月、政知の執事、犬懸上杉教朝の自害。
1462年12月、結城成朝(24)が家臣多賀谷氏に殺される。甥の氏広が継ぐ。
1463年8月26日、長尾景仲(76)死す。
1466年2月12日、上杉房顕(32)五十子陣中にて死す。越後の上杉房定の子顕定が継ぐ。
1466年11月、上杉方の上野守護代長尾但馬守景人、代官として足利庄の勧農城に入る。
この頃、渋川義鏡、堀越を去り、武蔵蕨に陣を敷く。
1467年9月7日、扇谷上杉朝持(57)、河越城にて死す。顕房の子政真が継ぐ。
1468年10月、上州茂呂嶋(伊勢崎市)合戦。上杉方の勝利。
1469年8月、岩松家純が五十子陣より、新築の金山城に迎えられる。
1469年9月、上野綱取原で、上杉方と成氏方合戦。
1470年1月10日、太田道真、川越にて連歌会。
1471年4月、上杉軍、足利庄に入り、樺崎城、八椚城(栃木県足利市)、赤見城(佐野市)などを攻め落とし佐野氏を降ろす。
1471年5月、上杉軍、佐貫庄に入り、立林要害中城(館林城)、立林舞木城を攻め落とす。
この頃、佐貫庄は舞木氏に代わって館林城の赤井氏が支配していた。
上杉方‥‥‥長尾左衛門尉景信、景春父子、長尾忠景、太田資長、
豊島一族、大石氏、横瀬氏、善氏ら。
成氏方‥‥‥赤井信濃入道(文三)、文六ら。
1471年6月24日、古河館を攻め落とす。成氏は千葉孝胤の元に逃げる。
1472年2月、成氏、那須氏、結城氏の助力により、古河に戻る。
1472年5月1日、上野守護代長尾景人死す。定景が継ぐ。
1473年1月21日、伊勢貞親(57)死す。
1473年6月23日、長尾景信(61)死す。弟の忠景、跡を継ぐ。
1473年11月24日、扇谷上杉政真(24)戦死。叔父の総社長尾定正が継ぐ。
1474年6月17日、太田道灌、『武州江戸歌合』を興行。
1475年2月6日、長尾定景死す。後を継いだ景人の子、景長が幼少のため、景人の弟、房清が後見となる。
1476年、長尾景春の乱。上州一揆旗本の長野為兼は景春方に付く。一揆は解体し、上杉氏、長尾氏の手兵と化す。
1476年6月、太田道灌、今川家の内紛を治めるため駿河に進攻。
1476年6月、景春は鉢形に城を築き、五十子陣を攻める。
1476年9月末、今川家の内紛治まる。
1477年1月18日、景春、五十子を襲撃する。上杉方は敗れ五十子の陣を払い退去する。
上杉顕定は阿内(前橋市)、定正は細井口(前橋市)、定昌と越後勢は白井城に移って陣を構える。
長尾景春に与同して蜂起した者は、武蔵石神井、練馬城に拠る豊島氏、相模小沢城による金子掃部助、景春被官の溝呂木氏(厚木市)、越後五郎四郎(大磯町)
1477年3月~4月に、太田資長に鎮圧される。
1477年5月、資長は、顕定らを再び、五十子に迎える。
1477年5月14日、上杉軍と成氏軍、武蔵国用土原(寄居町)で合戦。上杉方勝利。
景春方の長野左衛門尉為兼戦死。上杉方の大石源左衛門尉戦死。
景春は鉢形城に退く。
1477年7月、成氏、景春救援のため、結城、宇都宮、那須、佐々木などの兵を率いて、古河を発して上野に入り、瀧、島名(高崎市)に布陣する。この時、横瀬国繁の五百余騎の軍勢も加わる。岩松家純は、五十子退陣を契機に上杉方から離脱し、成氏方となっていた。これに対し、上杉方は再び、白井城まで退去防備を固めた。半年間、睨み合いが続く。
1477年9月27日、上杉軍、片貝に出陣するが戦にはならず。
1477年10月2日、成氏方の長尾景春らが、資長の荒巻(前橋市)、引田(富士見村)などの陣所に押し寄せて来たが小競り合いで終わる。
1477年12月23日、成氏は和田(高崎市)に進み、翌日、観音寺原(群馬町)に陣を取り、白井城に迫る。上杉勢も27日に白井を出て漆原(吉岡村)から広馬場(榛東村)へ向かい、両軍はここで対峙する。その日、大雪が降り、決戦は中止され、事態は急速に和睦の方向に向かう。
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