24.別所加賀守2
3
昨日の大雨が嘘のように、空は晴れ渡っていた。
もう、すっかり秋空だった。
約束の時間に、夢庵は太郎を連れて別所屋敷に現れた。太郎はいつもの職人姿のままだったが、洗い立てのようにさっぱりとしていた。
玄関に入ると、正面に立派な屏風(ビョウブ)が飾ってあった。水墨画で春夏秋冬の山水を描いた物だった。
太郎が水墨画を眺めていると、「狩野越前守(正信)じゃよ」と夢庵が言った。
「はあ?」と太郎が夢庵を見ると、夢庵も絵を見ていた。
「将軍様、お気に入りの絵師じゃ」
「へえ‥‥‥」
太郎には絵の事はよくわからないが、うまいものだと感心していた。
やがて、執事の織部祐が出て来た。
「ようこそ、いらっしゃいませ。殿がお待ちしております」と言って、太郎の姿をじろじろと見た。
夢庵と太郎は織部祐の後に付いて行った。
大広間の横を通って行くと中庭に出た。
中庭には、この間の舞台が、まだ、そのままあった。舞台の横で侍が二人、弓術の稽古をしている。中庭に沿って、くの字に曲がった広い廊下を行き、一番奥にある部屋に案内された。
畳の敷き詰められた広い部屋の中で、別所加賀守と楓が座って待っていた。
楓と会うのは、この屋敷で金勝座が上演して以来、十一日振りだった。
楓は太郎の顔を見ると、一瞬、顔をほころばせたが、また、すぐに済まし顔に戻って目を伏せた。少し太ったかな、と太郎は思った。
別所加賀守とは初めてだったが、どこかで会ったような気がした。見るからに、頭の回転の早そうな知恵者という感じだった。歳は三十の半ば位か、思っていたよりも若かった。浦上美作守と比べれば、別所加賀守の方が、いくらかは信じられそうな気がした。
夢庵によって、太郎は別所加賀守に紹介された。
「愛洲太郎左衛門久忠です」と太郎は頭を下げた。
「愛洲殿、色々と大変な目に会われたようですな」と加賀守は笑いながら言った。
「はい」
「昨日から、もう、楓殿がそなたに会いたくて、そわそわ浮き浮きしていましたよ」
「いえ、そんな‥‥‥」楓は少し顔を赤らめ、ちらっと加賀守を見た。
「もう、隠れている必要はありません。まあ、とりあえずは、わたしのお客として、ここに滞在して下さい。そして、改めて、この城下に入って来て貰う事になるでしょう」
「わかりました」と太郎は言った。
「昨日、夢庵殿より、そなたの事を聞いた後、京より使いの者が帰って来ました。城下の噂の真相を確かめるために、浦上美作守のもとへ送ったんじゃが、その使いが戻って来ました。美作守は何と言って来たと思いますか」と加賀守は皆の顔を見比べた。
「楓殿の御亭主が生きていた、と言って来ましたか」と夢庵が言った。
「その通りじゃ。そなたを殺そうとしていた美作守が、実は、そなたは生きていて、今は怪我をして療養しておるが、怪我が直り次第、国元に送ると言ってよこしたわ」
「どうするつもりなんでしょう」と楓が言った。
「これは見物じゃわ。本人が、すでに、ここにおるというのに、一体、誰を送って来るつもりなのかのう」と加賀守は声を出して笑った。「昨日、評定所で、そなたを楓殿の御亭主として、正式に迎える事に決まった。まだ、日取りまでは決まっておらんが、大将として迎えるため、騎馬武者五十騎、徒歩侍(カチザムライ)二百人を引き連れ、堂々と城下に入って来て貰うという事になった」
「騎馬武者五十騎に徒歩侍二百人‥‥‥」その数に太郎は驚いたが、顔には出さず、「随分と大袈裟ですね」と言った。
「それ位の事をして乗り込んで貰わんと、国人たちが納得せんのでな。ところで、愛洲殿、まず、そなたの事を詳しく知りたいのだが‥‥‥お屋形様の兄上様として迎えるには、色々と面倒な事があるんでな。うるさい年寄衆を納得させなければならんのじゃよ」
「わかります」と言って、太郎は自分の身の上を話した。
加賀守は太郎の話を時々、頷きながら聞いていた。夢庵は興味なさそうに庭の方を見ている。楓はじっと太郎を見つめていた。
「まだ若いのに色々な経験をしておるようじゃのう。船も乗れるし、山も知っておる。おまけに、剣術の名人で、『志能便の術』とかを若い者たちに教えておるとはのう。大したもんじゃのう。ところで、志能便の術とはどんな術なんじゃ?」
「簡単に言えば、情報を集めるための術です」
「情報集め?」
「はい。戦に勝つためには、敵を充分に知る事です。敵の情勢を逸速く知れば、敵の虚を突く事ができます」
「敵の近くまで行って、色々と探る術なのか」
「必要とあれば、敵の城や屋敷にも忍び込みます」
「敵の城にか、そんな事ができるのか」
「実際に、太郎殿は京の浦上屋敷に忍び込んでおります」と夢庵が言った。
「なに、あそこに忍び込んだ? かなり、厳重に固めておるはずじゃが‥‥‥」
「ええ、厳重でした。厳重でしたが、入ってしまえば、中には見張りもいませんし、何とかなりました」
「どうして、また、そんな所に忍び込んだのじゃ」
「わたしの命を狙っているという阿修羅坊と美作守の顔を見たかったからです」
「顔を見る、それだけのために、そんな危険な事をしたのか」
「はい。危険でも、この先、自分を狙っている男がどんな奴だかわからない方が、もっと危険ですから」
「そりゃそうじゃがのう」
「主人はここへも忍び込みました」と楓が言った。
「なに、ここにも?」加賀守は、まさか、という顔をして楓を見てから太郎を見た。
「楓に会うために忍び込みました」
「一体、それはいつの事じゃ」
「先月の二十三日、わたしがこの城下に入った日です」
「先月の二十三日‥‥‥そんな早くから、この城下におったのか‥‥‥まったく知らなかった。楓殿も楓殿じゃのう。そんな素振りなど少しも見せんかった」
「あの時は、別所殿も主人の命を狙っていると思っていたものですから」
「その頃のわしは御主人の存在すら知らなかったわ。しかし、そんな簡単に忍び込まれたら安心して眠る事もできんのう」加賀守は腕組みをしながら部屋の中を見回した。
太郎は思い出した。この前、助六と散歩して評定所まで行った時、偉そうな数人の侍に会った。その中に、目の前にいる別所加賀守の姿があったのだった。
「しかし、その『志能便の術』というのも、一歩間違えれば、ただの盗っ人に成りかねんのう」
「はい、それは言えます。しかし、それは剣術にも言える事ですが、すべて、術を使う者の心の持ちようです。剣術も一歩間違えれば、ただの殺し屋になります」
「うむ、そうじゃのう。心の持ちようか‥‥‥ところで、美作守は偽者をこの城下に送って来て、どうするつもりなんじゃろうのう。美作守は、そなたがこの城下におる事を知らんのか」
「今頃、わたしは阿修羅坊と共に京に向かっていると思っているでしょう」
「美作守が、そなたを京に呼んだのか」
「はい。美作守は、わたしを殺すために松阿弥という刺客を送って来ました。ところが急に、わたしを殺さないで、京に連れて来いと阿修羅坊に言って来たのです。わたしは今、京に行くわけには行かないと断りました。そこで、阿修羅坊は、わたしが刺客に殺されたという事にして京に帰ったのです」
「そんな事があったのか‥‥‥という事は、美作守は一旦、そなたを京に呼んで、改めて城下に送り込むつもりだったんじゃな」
「多分、そうだと思います」
「そうなると、美作守は偽者を仕立ててでも、誰かを城下に送らなければならなくなるわけじゃのう」
「はい。しかし、偽者をこの城下に入れたら、偽者だとばれてしまいます。美作守はどうするつもりなのでしょう」
「うむ」と頷いた後、しばらくしてから、「考えられるのは二つじゃな」と加賀守は言った。
「二つ?」と太郎は聞いた。
「一つは偽者を強引に楓殿の御主人にする。もう一つは城下に入る前に偽者を殺す。そのどっちかじゃな」
「強引に楓の主人にする事なんてできますか」
「まあ、無理じゃろうな。そんな事を独断でしたら、返って、失脚する事になるじゃろう。国元の連中の中には、美作守をよく思っていない者も多いからな。そんな陰謀がばれたら、たちまち失脚じゃ。幕府内で、かなりの地位を得ているとは言え、赤松家あっての美作守じゃからの。美作守もそこの所は充分に心得ておる。そんな馬鹿な事はするまい。それにな、国元にいる浦上派の連中をそれとなく探ってみたが、特に、これと言って怪しい動きはないようじゃ。まず、それはあるまい」
「と言う事は、城下に入る前に偽者を殺すという事ですか」
「うむ、多分な‥‥‥とにかく、偽者でも何でもいいから、楓殿の御主人を京から国元に向かわせなくてはならん。そして、途中で事故にあって亡くなってしまったとしても、それは仕方のない事じゃという事になる」
「事故を装って殺すのですか」
「山の中で崖崩れに会うとか、突然の病死というのもありえるな」
その時、中庭に馬に引かれた荷車が入って来た。金比羅坊と八郎坊、風光坊の三人の山伏が一緒だった。
昨日の昼過ぎ、その三人と太郎は雨の降る中、城山城まで出掛けていた。宝の残りを取りに行ったのだった。昨日の夜は向こうで泊まり、今朝早く、こちらに向かったが、荷車が遅く、約束の時間までに戻れそうもなかったので、太郎だけ先に帰って来た。そして、今、ようやく荷車が到着したのだった。
荷車の荷物は一千巻余りの一切経(イッサイキョウ)だった。性具入道らの時世の連歌は勿論、入っていない。
「お宝が、ようやく到着いたしました」と太郎が加賀守に告げた。
「お宝? もしかしたら、一切経か?」
「そうです」
金比羅坊は荷物を覆っている筵(ムシロ)を剥がした。大きな長持が出て来た。
風光坊と八郎坊が長持の蓋を開けた。長持の中には巻物がぎっしりと詰まっていた。
加賀守は部屋から庭に下りると荷車の方に向かった。太郎も後を追った。
太郎が庭に出ようとした時、「お父さん!」という声がした。
太郎が振り向くと、百太郎が太郎の方に走って来た。
「百太郎‥‥‥」
百太郎はお父さんと叫びながら走って来て、太郎の足に抱き着いた。
太郎は百太郎を抱き上げた。
「お父さん、やっと、お山から帰って来たんだね」
「うん、帰って来たよ」
「もう、どこにも行かないね」と百太郎は涙ぐみながら言った。
「うん」
「ずっと、いてね‥‥‥ずっとだよ‥‥‥」
百太郎は太郎に抱かれたまま泣き出していた。
楓も廊下まで出て来て、目を潤ませて二人を見ていた。
夢庵も一人頷きながら二人を見ていた。
加賀守も突然の親子の再会を目の当りに見て、宝の事も忘れ、ただ呆然として二人を見ていた。
金比羅坊たち三人も、よかった、よかったと太郎と百太郎を見ていた。八郎坊は今にも泣き出しそうな顔をして親子の様子を見ていた。
「男の子だろ、いつまでも泣いていると、みんなに笑われるぞ」
百太郎は、うん、と頷いたが、涙は止まらなかった。
太郎は百太郎を楓に渡すと、荷車の方に行った。加賀守も我に返って宝の方に向かった。
加賀守は長持の中の巻物を一つ、手に取ると中を調べた。
「確かに、一千巻はありそうじゃな」
「どうします、これ」
「うむ。とりあえず、蔵の中にしまうしかないのう」
加賀守は執事の織部祐を呼ぶと、一切経を片付けさせた。
その後、全員、食事の招待を受けた。そして、加賀守は、しばらくの間、みんなして、今、楓のいる南の客殿に滞在してくれと言ってくれたが、太郎は遠慮した。ここは何となく堅苦しそうだし、それに、まだ、やらなければならない事があった。
加賀守も無理には薦めなかったが、金比羅坊たちが、百太郎のためにも、ここにいた方がいいと言い張るので、太郎だけはここにお世話になる事にした。
とりあえず、荷物を取って来ると言って、夢庵たちと一緒に帰った太郎は、日の暮れる頃、別所屋敷に戻って来た。そして、客殿の一室で、久し振りに家族水入らずでくつろいだ。実に二ケ月振りの事だった。
隣の部屋では、京から付いて来た楓の侍女たち五人と桃恵尼が、障子の隙間から三人の様子を覗いていた。
「あのお人が、楓様の旦那様なんやね」と侍女の春日が小声で言った。
「わりと若いのね」と侍女の賀茂が言った。
侍女たちは初めて見た太郎を、あれこれ言いながら眺めていた。
「何やら、隣が騒がしいな」と太郎が楓に言った。
「そうだわ。みんなに、あなたを紹介しなくちゃ」
楓が障子を開けると、侍女たちが崩れるように部屋の中に転がり込んで来た。
百太郎が転がっている侍女たちを見て大笑いした。
太郎は楓から、桃恵尼と、伊勢、賀茂、春日、日吉、住吉という五人の侍女を紹介された。
伊勢は落ち着いた感じの三十女。賀茂は年の頃は二十の半ば位か、何となく、おっとりとした感じだった。あとの三人は皆、二十歳前の若い娘だった。一番若い住吉という娘は頭のてっぺんから出るような高い声で喋り、ひょうきんで面白い娘だった。住吉が百太郎のいい遊び相手だという事は、太郎にもすぐに納得できた。
太郎はみんなから質問攻めにあい、一つづつ答えていった。
はしゃいでいた百太郎が寝ると、桃恵尼が酒を持って来た。随分、気が利くな、と思ったら、夢庵からの差し入れだと言った。夢庵には世話になりっぱなしだった。本当に夢庵と出会えてよかった、と太郎は心から思った。
夢庵の酒を飲みながらも、太郎への質問攻めは続いた。しかし、みんな、あまり酒が強くないとみえて、すぐに酔い潰れてしまった。
五人の侍女が次々に倒れ、桃恵尼までも倒れた。太郎はおかしいと思って楓を見たら、楓は少しも酔っていないようだった。
「お前、何かやったな」と太郎は楓の顔を覗き込んだ。
「ちょっとね」と楓は言って、ニコッと笑った。「だって、二人きりになりたかったんだもの」
「この間の、眠り薬か」
楓は頷いた。「まだ、少し、残ってたの」
「一体、いつ、そんな薬を入れたんだ」
「陰の術よ」と楓は笑った。
「まいったね。それにしても、よく効く薬だな」
太郎は侍女たちを隣の部屋に寝せると、楓と二人だけの静かな夜を過ごした。
空には丁度、満月が出ていた。
二人は縁側に出て、月見酒と洒落込んだ。
太郎が楓との二人だけの夜を過ごす数時間前、『浦浪』の一室で、重要な作戦会議が開かれていた。勿論、太郎もその場にいた。
ちょっと荷物を取りに行くと言って、別所加賀守の屋敷を出た太郎は、浦浪に帰ると、夢庵、金比羅坊、風光坊、八郎、探真坊、次郎吉、吉次、そして、金勝座の全員を集めた。
相談したのは、加賀守が言った騎馬武者五十騎と徒歩侍二百人の事だった。
太郎は、浦上美作守が送り込んで来る太郎の偽者と途中で入れ代わって、この城下に入るつもりでいた。その時は、勿論、武士に扮して入場して来るわけだが、まさか、そんな大人数で入って来るとは思ってもいなかった。せいぜい二十人位で充分だろう、今いる仲間たちで何とかなるだろうと簡単に思っていた。しかし、加賀守は、太郎は二百五十人を引き連れて、堂々と城下に入場して来ると言う。浦上美作守は、加賀守の言う通り、二百五十人を城下に送り込む事だろう。そして、途中のどこかで偽者の太郎を殺すに違いない。二百五十人の武士たちも雇われた偽者だったら、偽者の太郎が殺された途端に皆、逃げ出してしまうという事も考えられた。そうなると、太郎は別の二百五十人を引き連れて城下に入らなければならない。二百五十人も集めるとなると周到な準備が必要だった。
「まず、浦上美作守は、いつ、俺の偽者をこっちに送ると思います」と太郎はみんなに聞いた。
「阿修羅坊が帰ったのが昨日の昼頃じゃろう。阿修羅坊の足なら三日もあれば京に着くじゃろうな」と金比羅坊は言った。
「三日だとすると、十六日の昼頃には着くな」と次郎吉が言った。
「十六日に着いたとして、浦上が偽者を仕立て、二百五十人集めるのに、丸一日はかかるじゃろうのう」と夢庵が言った。
「という事は十七日ですか、こっちに向かうのは」と風光坊が言った。
「いや、十七日は無理じゃろう」と夢庵が首を振った。「二百五十人の兵も集めなくちゃならんからな」
「兵を集める? 浦上の兵を使うんやないんですか」と八郎が夢庵に聞いた。
「城下まで、ちゃんと送るなら、自分の兵を使うじゃろうがな、途中で偽者を殺すとなれば、どうせ、足軽を集めて、格好だけは立派にさせるに違いないわ」と金比羅坊が言った。
「多分な。早くても、丸一日は掛かりそうじゃな」と次郎吉も言う。
「そうすると、早くて、十八日という事になりますね」と太郎は言った。
「うむ」と夢庵は頷いた。「十八日に出たとして、ここに着くまで、二百五十人を引き連れた偽者は五日は掛かるじゃろう」
「となると城下に入るのは、二十二日か」と探真坊が指で数えながら言った。
「もし、十八日に京を出たとしたら、途中で、偽者と入れ代わり、二十二日に、ここに入って来なければならないと言うわけですね」と太郎は言った。
「あと八日か」と次郎吉が言った。
「ところで、浦上は偽者をどこで殺すと思います」と太郎は聞いた。「すみません、助六殿。その辺に、地図があると思います。取って貰えますか」
助六がくれた地図を、太郎は皆の前に広げた。
「まず、山城(京都府南東部)じゃないのう」と夢庵は地図を見ながら言った。「こんな所で偽者が殺されれば、すぐに京の都に知られる。二百五十人に警固された赤松家の武将が何者かに殺されたなどと噂が立ったら、それこそ恥じゃしな」
「すると、摂津(大阪府西部と兵庫県南東部)か」と金比羅坊が言った。
「いや、摂津も丹波(京都府中部と兵庫県中東部)も細川氏の領土じゃ。そこで、そんな騒ぎを起こしたら細川氏に知られる。それに、もし、刺客(シカク)が細川の武士に捕まったりしたら、それこそ大変じゃ。浦上のたくらみが、すべて、ばれてしまう」
「という事は、やはり、播磨に入ってからか‥‥‥」と次郎吉。
「ところで、敵はどの道を通りますかね」と太郎は聞いた。
京の都から播磨の国に行くには三通りの道があった。まず、京から淀川に沿って下り、西宮、兵庫を通って明石に抜ける山陽道。二つ目は高槻から池田を通り、六甲山の北の有馬温泉を抜けて播磨に入る有馬街道。三つ目は京から西に丹波の国に入り、亀岡、篠山(ササヤマ)を抜けて播磨に入る道であった。
「うーむ、難しいのう」と金比羅坊が腕組みをして唸った。
「まあ、山陽道はないじゃろう」と夢庵が言った。
「どうしてです」と探真坊が聞いた。
「兵庫、それと、淀川の辺りは西軍の大内氏の水軍が押えているはずじゃ。当然、細川氏と睨み合ってる事じゃろう。そんな中を通っては来るまい」
「と言うと、残るは、有馬街道か、丹波を通るかですね」
「普通なら有馬街道を通るじゃろうが、途中で偽者を殺すとなると、丹波も考えられるのう」
「すると、ここか、ここのどっちかですね」と探真坊は有馬街道が通る摂津と播磨の国境辺りと、丹波道が通る丹波と播磨の国境辺りを指さした。
「うむ、どっちも山の中じゃ。どっちも考えられるのう」と金比羅坊が言った。
「こっちは、丁度、大谿寺(タイケスジ)の辺りですね」と太郎は有馬街道の方を示した。
「そうじゃのう。いい所にあるわ」と金比羅坊はニヤッと笑った。「こっちに来るとすれば、ここで待機していて、偽者が殺されたら交替すればいいわけじゃ」
「丹波から来た場合だと、国境のすぐ側に清水寺というのがありますよ」と探真坊が言った。
「清水寺か、確か、そこにも飯道山の宿坊があるはずじゃ」と金比羅坊は言った。
「行った事、ありますか」と太郎は金比羅坊に聞いた。
「いや、ない」
「とにかく、このどちらかで待機していればいわけですね」
「伊助の奴が、そのうち、敵の動きを知らせて来るじゃろう」と次郎吉が言った。
「そうですね、敵の動きがわかってから、待機する場所は決めましょう」
「どっちで待機しておるにしろ、偽者が殺されてから、二百五十人を引き連れて城下に入ればいいわけじゃ」と夢庵が言った。
「どっちから来るにしろ、偽者が国境辺りを通るのは、いつ頃ですかね」と太郎は聞いた。「そうじゃのう、早くて三日目の夕方、遅くても四日目の昼までには着くじゃろう」と夢庵は言った。
「という事は、早くて、二十日の夕方というわけですね」
「二十日と言えば、あと六日しかないぞ」と次郎吉は言った。「六日間で、二百五十人の侍を揃えなくてはならん」
「馬五十頭と、武器や鎧もじゃ」と金比羅坊が言った。
「二百五十人か‥‥‥」と夢庵は唸った。
「武器や鎧は小野屋の喜兵衛が何とかしてくれるじゃろう」と次郎吉が言った。
「馬はどうじゃ」と金比羅坊が次郎吉に聞いた。
「馬はわからんのう、だが、商人同士のつながりがあるんじゃないのか。それにしても、それらを揃えるとなると莫大な銭が掛かるぞ」
「銭も掛かるが、二百五十人分の鎧兜を揃えるとなると、こりゃ大変な事じゃぞ。短期間で集める事ができるか」
「それは、小野屋さんに聞いてみないと、どうにもなりませんね。あとで小野屋に行くとして、肝心の二百五十人はどうしたらいいと思います」と太郎は聞いた。
「難しいのう。これも銭で集めるしかないじゃろうな」と夢庵は言った。
「集まりますかね、二百五十人も‥‥‥」
「別所加賀守に借りるという手もあるぞ」
「できれば、借りたくはありません」
「そうじゃのう。先の事を考えると、なるたけ借りは作らん方がいいかもしれんのう」
「どんなのでもよければ集められますよ」と助五郎が言った。
「ほんとですか」
「どんなのでもよければですよ」
「どんなのでもいいとは」と次郎吉が聞いた。
「乞食や皮屋や人足たちです」
「そうか、河原者のお頭に頼めば、何とかなるかもしれない」
「乞食やエタが役に立つのか」と金比羅坊は首をひねった。
「役に立ちそうなのを選んで貰うのです」
「そうじゃな。河原者を集めるのが一番早いかもしれん」と次郎吉が言った。「そして、少しづつ、大谿寺か、清水寺の辺りに集まって貰うんじゃ。怪しまれんようにのう」
話が決まると、太郎は金比羅坊と次郎吉、そして夢庵の四人で小野屋に向かった。
小野屋喜兵衛は二つ返事で引き受けてくれた。人集めの銭も全部、小野屋に任せてくれと言う。あまりにも話がうまく行きすぎるので、どうして、そんな大金を簡単に出してくれるのか、太郎は聞いてみた。
「あなた様が楓殿の御亭主だからですよ」と喜兵衛は笑いながら言った。「実は、松恵尼様より、あなた様に使ってもらうようにと、充分すぎる程のお代物(ダイモツ、銭)が、すでに届いております」
「えっ、松恵尼様から‥‥‥」
「はい、松恵尼様は、すでにお見通しだったようですね。あなた様が赤松家に迎えられるという事を。そして、それには充分な軍資金が必要だという事も御存じだったのです。最初が肝心だと言っておりましたよ。赤松家に迎えられる時、立派な武将として、堂々としていなければならない。誰もが、お屋形様の兄上にふさわしいと思えるようでなくてはならないとおっしゃておりました」
「そうだったのですか‥‥‥」
「遠慮はいりませんよ。わたしたち商人は損になる取引きはいたしません。あなた様に、それだけ投資する価値があると認めておるから投資するのです。松恵尼様もそうです。確かに、娘可愛いさはあるでしょう。しかし、松恵尼様は立派な商人です。あなた様の価値をちゃんと見極めていますよ。武器、武具、馬、すべて、上等な物を御用意いたしましょう」と小野屋喜兵衛はきっぱりと言い切った。
帰り道、夢庵が太郎を見て、「おぬし、大した男よのう」と感心して言った。
「いえ、俺も実際、驚いています。こんなにうまく事が運ぶとは思ってもいませんでした」
「松恵尼様はやる時はやるからのう」と次郎吉は言った。
「松恵尼様というのは、そんなに凄い商人だったのか‥‥‥」と金比羅坊は信じられないという顔をして首を傾げた。
「あの小野屋は、伊勢の多気にある松恵尼様の店、小野屋の出店なんじゃよ。その他、奈良と伊勢の安濃津、伊賀上野にも出店があるし、旅籠屋も幾つも持っておるんじゃ」と次郎吉は説明した。
「そんなにも店を持っていたんですか。知らなかった」
太郎は奈良の小野屋には世話になった事があった。楓を連れて故郷に帰る時だった。あの店が松恵尼とつながりのある事はわかったが、あそこの主人が松恵尼の手下だったとは驚きだった。さらに、多気の都でも、大きな店構えの小野屋を見ていた。奈良の店と同じ名前だったので、楓に、この店も松恵尼様と関係あるのかな、と聞いたら、楓は、まさか、と首を振った。太郎もたまたま名前が同じだけなんだろうと思っていた。しかし、あの店も松恵尼の手下がやっている店だったのだ。凄い人だと思わずにはいられなかった。そして、その凄い人が楓の母親代わりだった事に太郎は天に感謝をした。
「凄いもんじゃのう、あの松恵尼様がのう‥‥‥」と金比羅坊もしきりに感心していた。
その足で、河原に行き、片目の銀左衛門を捜した。
多分、新しく作っている北の城下の方だろうと思って、芸人たちのいる一画を北に向かった。丁度、うまい具合に銀左の手下の佐介と会った。佐介に聞くと、今日は多分、うちにいるだろうとの事だった。うちはどこだと聞くと、わしも今、行くところだから、一緒に行こうと言った。
銀左のうちは、ずっと南の方だった。木賃宿、浦浪を過ぎ、紺屋、皮屋の一画も過ぎ、清水谷の渡しの側に、銀左のうちはあった。どうせ、掘立て小屋に毛が生えた位のうちだろうと思っていたら、とんでもない事だった。
銀左のうちは立派な屋敷だった。別所加賀守の屋敷に大して引けを取らない程、大きな屋敷だった。大通りに面し、東に真っすぐ進めば白旗神社へと続く道との四つ角の西南側に位置していた。
屋敷の中には庭園あり、廐あり、大きな蔵あり、武家屋敷と変わらなかった。ただ、屋敷の中で働いている連中の人相と格好が違うだけだった。
太郎たちは庭の一画に建てられた豪華な御殿の一室に案内された。
「河原者でも、お頭ともなると凄いもんじゃのう」と金比羅坊が庭園を眺めながら小声で言った。
「おう、まったくじゃ」と夢庵も感心しながら部屋の中を眺めていた。
壁に立派な掛軸が掛けられ、その横の唐物(カラモノ)の壷(ツボ)に綺麗な花が生けてある。そして、隣の部屋との境に置いてある屏風がまた凄かった。金や銀を多量に使って龍と虎が描いてあった。
やがて、綺麗な着物を着た娘がお茶を持って入って来た。その娘の美しさときたら、この世の者とは思えない程の美しさだった。透けるように白い肌をしていて、柳のようにしなやかで、着ている着物は美しいだけでなく、薄い絹でできていて、体が半ば透けて見えていた。
四人の男は生唾を飲み込むように、その娘に釘付けだった。
娘は四人の前に、それぞれお茶を置くと、「どうぞ、ごゆっくりしてらっしゃいませ」と鈴の音のような声で言って、しとやかに頭を下げると去って行った。
「たまらんのう」と次郎吉は娘の後ろ姿を見送りながら震えた。
「あんな女子が、この世におるのかい」金比羅坊も鼻の下を伸ばして娘を見送っていた。
「うらやましいのう」次郎吉は娘の後ろ姿を見つめたまま、お茶を口にして、「あっち!」と叫んだ。
「うむ、この茶碗もお茶も最上級の物じゃ」夢庵は別の事に感心していた。
しばらくして、この屋敷の主(アルジ)がいつもの革の袖なしを来て現れた。何となく、場違いな感じがしたが、紛れもなく、この屋敷の主人に違いなかった。
「どうした、改まって」と銀左は太郎に聞いた。
「銀左殿、今回は頼みがあって参りました」
「成程、この顔触れからして、余程の事らしいの」
太郎が三人を紹介しようとすると銀左は止めた。
「研師の次郎吉殿、茶の湯の名人、夢庵殿、そして、おぬしと同じ山伏の金比羅坊殿じゃな」と銀左は笑いながら言った。
「どうして、知っているのです」と太郎は聞いた。
太郎だけではなく、夢庵も次郎吉も金比羅坊もキツネにでも化かされているのかと不思議に思っていた。
「わしら、河原者も情報網を持っていてな。必要な情報はすぐに手に入るんじゃよ」
「そうなのですか‥‥‥ところで、楓御料人様の旦那が、この城下に来るという噂は御存じですね」
「ああ、初めうちは信じられなかったが、どうも本当らしい」
「その事で頼みがあるのです」
「何じゃと? それと、おぬしらと、どう関係がある」銀左は鋭い目付きで四人を見回した。
「実は、楓御料人の旦那というのは、わたしの事なのです」
「何じゃ? おぬしが楓御料人様の旦那‥‥‥」
「はい」と太郎は頷いた。
「一体、これは、どういう事じゃ」銀左は改めて、四人の顔を見渡した。
太郎は今までのいきさつを簡単に話した。
「成程、そんな事があったのか‥‥‥おぬしが、ただ者ではないという事はわかっておったが、たまげたわ。おぬしが御料人様の旦那様だとはのう‥‥‥そこで、わしに頼みとは何じゃ?」
「実は、改めて城下に乗り込むために兵がいるのです」
「兵?」
「ええ、形だけでも揃えて城下に入らなければなりません」
「そりゃ、そうじゃのう。お屋形様の兄上になるわけじゃからのう」
「そこで、銀左殿に、二百五十人の兵を集めて欲しいのです。河原者で侍になりたい者、そして、見込みのありそうな者を二百五十人、集めて欲しいのです」
「二百五十人か‥‥‥いつまでにじゃ」
「十八日まで」
「明日から四日じゃな。ちょっと難しいのお。元手はあるのか」
「大丈夫です。銀左殿は人だけ集めてくれれば結構です。武器や鎧などは、すべて、こちらで用意します」
「わかった。とりあえず一人百文として、二十五貫文、用意してくれ」と銀左は言った。
「わかりました、三十貫文用意します。お願いします」
太郎は、金比羅坊と相談してやってくれ、と金比羅坊を銀左の屋敷に置いて来た。
そして、武器関係は、すべて、次郎吉に任せる事にして、次郎吉を小野屋に送った。
「それじゃあ、わしは馬を五十頭、集めるか」と夢庵は言って、次郎吉の後を追って小野屋に向かった。
太郎にはもうひとつ、やる事があった。それは、生野に行って銀山が本物かどうか確かめなくてはならなかった。明日、三人の弟子を連れて生野に向かい、十八日までに戻って来なければならなかった。
太郎は浦浪に帰って、うまく行った、と皆に報告し、三人の弟子たちには、明日、朝早く旅に出る事を伝え、別所屋敷に戻った。
「愛洲太郎左衛門久忠です」と太郎は頭を下げた。
「愛洲殿、色々と大変な目に会われたようですな」と加賀守は笑いながら言った。
「はい」
「昨日から、もう、楓殿がそなたに会いたくて、そわそわ浮き浮きしていましたよ」
「いえ、そんな‥‥‥」楓は少し顔を赤らめ、ちらっと加賀守を見た。
「もう、隠れている必要はありません。まあ、とりあえずは、わたしのお客として、ここに滞在して下さい。そして、改めて、この城下に入って来て貰う事になるでしょう」
「わかりました」と太郎は言った。
「昨日、夢庵殿より、そなたの事を聞いた後、京より使いの者が帰って来ました。城下の噂の真相を確かめるために、浦上美作守のもとへ送ったんじゃが、その使いが戻って来ました。美作守は何と言って来たと思いますか」と加賀守は皆の顔を見比べた。
「楓殿の御亭主が生きていた、と言って来ましたか」と夢庵が言った。
「その通りじゃ。そなたを殺そうとしていた美作守が、実は、そなたは生きていて、今は怪我をして療養しておるが、怪我が直り次第、国元に送ると言ってよこしたわ」
「どうするつもりなんでしょう」と楓が言った。
「これは見物じゃわ。本人が、すでに、ここにおるというのに、一体、誰を送って来るつもりなのかのう」と加賀守は声を出して笑った。「昨日、評定所で、そなたを楓殿の御亭主として、正式に迎える事に決まった。まだ、日取りまでは決まっておらんが、大将として迎えるため、騎馬武者五十騎、徒歩侍(カチザムライ)二百人を引き連れ、堂々と城下に入って来て貰うという事になった」
「騎馬武者五十騎に徒歩侍二百人‥‥‥」その数に太郎は驚いたが、顔には出さず、「随分と大袈裟ですね」と言った。
「それ位の事をして乗り込んで貰わんと、国人たちが納得せんのでな。ところで、愛洲殿、まず、そなたの事を詳しく知りたいのだが‥‥‥お屋形様の兄上様として迎えるには、色々と面倒な事があるんでな。うるさい年寄衆を納得させなければならんのじゃよ」
「わかります」と言って、太郎は自分の身の上を話した。
加賀守は太郎の話を時々、頷きながら聞いていた。夢庵は興味なさそうに庭の方を見ている。楓はじっと太郎を見つめていた。
「まだ若いのに色々な経験をしておるようじゃのう。船も乗れるし、山も知っておる。おまけに、剣術の名人で、『志能便の術』とかを若い者たちに教えておるとはのう。大したもんじゃのう。ところで、志能便の術とはどんな術なんじゃ?」
「簡単に言えば、情報を集めるための術です」
「情報集め?」
「はい。戦に勝つためには、敵を充分に知る事です。敵の情勢を逸速く知れば、敵の虚を突く事ができます」
「敵の近くまで行って、色々と探る術なのか」
「必要とあれば、敵の城や屋敷にも忍び込みます」
「敵の城にか、そんな事ができるのか」
「実際に、太郎殿は京の浦上屋敷に忍び込んでおります」と夢庵が言った。
「なに、あそこに忍び込んだ? かなり、厳重に固めておるはずじゃが‥‥‥」
「ええ、厳重でした。厳重でしたが、入ってしまえば、中には見張りもいませんし、何とかなりました」
「どうして、また、そんな所に忍び込んだのじゃ」
「わたしの命を狙っているという阿修羅坊と美作守の顔を見たかったからです」
「顔を見る、それだけのために、そんな危険な事をしたのか」
「はい。危険でも、この先、自分を狙っている男がどんな奴だかわからない方が、もっと危険ですから」
「そりゃそうじゃがのう」
「主人はここへも忍び込みました」と楓が言った。
「なに、ここにも?」加賀守は、まさか、という顔をして楓を見てから太郎を見た。
「楓に会うために忍び込みました」
「一体、それはいつの事じゃ」
「先月の二十三日、わたしがこの城下に入った日です」
「先月の二十三日‥‥‥そんな早くから、この城下におったのか‥‥‥まったく知らなかった。楓殿も楓殿じゃのう。そんな素振りなど少しも見せんかった」
「あの時は、別所殿も主人の命を狙っていると思っていたものですから」
「その頃のわしは御主人の存在すら知らなかったわ。しかし、そんな簡単に忍び込まれたら安心して眠る事もできんのう」加賀守は腕組みをしながら部屋の中を見回した。
太郎は思い出した。この前、助六と散歩して評定所まで行った時、偉そうな数人の侍に会った。その中に、目の前にいる別所加賀守の姿があったのだった。
「しかし、その『志能便の術』というのも、一歩間違えれば、ただの盗っ人に成りかねんのう」
「はい、それは言えます。しかし、それは剣術にも言える事ですが、すべて、術を使う者の心の持ちようです。剣術も一歩間違えれば、ただの殺し屋になります」
「うむ、そうじゃのう。心の持ちようか‥‥‥ところで、美作守は偽者をこの城下に送って来て、どうするつもりなんじゃろうのう。美作守は、そなたがこの城下におる事を知らんのか」
「今頃、わたしは阿修羅坊と共に京に向かっていると思っているでしょう」
「美作守が、そなたを京に呼んだのか」
「はい。美作守は、わたしを殺すために松阿弥という刺客を送って来ました。ところが急に、わたしを殺さないで、京に連れて来いと阿修羅坊に言って来たのです。わたしは今、京に行くわけには行かないと断りました。そこで、阿修羅坊は、わたしが刺客に殺されたという事にして京に帰ったのです」
「そんな事があったのか‥‥‥という事は、美作守は一旦、そなたを京に呼んで、改めて城下に送り込むつもりだったんじゃな」
「多分、そうだと思います」
「そうなると、美作守は偽者を仕立ててでも、誰かを城下に送らなければならなくなるわけじゃのう」
「はい。しかし、偽者をこの城下に入れたら、偽者だとばれてしまいます。美作守はどうするつもりなのでしょう」
「うむ」と頷いた後、しばらくしてから、「考えられるのは二つじゃな」と加賀守は言った。
「二つ?」と太郎は聞いた。
「一つは偽者を強引に楓殿の御主人にする。もう一つは城下に入る前に偽者を殺す。そのどっちかじゃな」
「強引に楓の主人にする事なんてできますか」
「まあ、無理じゃろうな。そんな事を独断でしたら、返って、失脚する事になるじゃろう。国元の連中の中には、美作守をよく思っていない者も多いからな。そんな陰謀がばれたら、たちまち失脚じゃ。幕府内で、かなりの地位を得ているとは言え、赤松家あっての美作守じゃからの。美作守もそこの所は充分に心得ておる。そんな馬鹿な事はするまい。それにな、国元にいる浦上派の連中をそれとなく探ってみたが、特に、これと言って怪しい動きはないようじゃ。まず、それはあるまい」
「と言う事は、城下に入る前に偽者を殺すという事ですか」
「うむ、多分な‥‥‥とにかく、偽者でも何でもいいから、楓殿の御主人を京から国元に向かわせなくてはならん。そして、途中で事故にあって亡くなってしまったとしても、それは仕方のない事じゃという事になる」
「事故を装って殺すのですか」
「山の中で崖崩れに会うとか、突然の病死というのもありえるな」
その時、中庭に馬に引かれた荷車が入って来た。金比羅坊と八郎坊、風光坊の三人の山伏が一緒だった。
昨日の昼過ぎ、その三人と太郎は雨の降る中、城山城まで出掛けていた。宝の残りを取りに行ったのだった。昨日の夜は向こうで泊まり、今朝早く、こちらに向かったが、荷車が遅く、約束の時間までに戻れそうもなかったので、太郎だけ先に帰って来た。そして、今、ようやく荷車が到着したのだった。
荷車の荷物は一千巻余りの一切経(イッサイキョウ)だった。性具入道らの時世の連歌は勿論、入っていない。
「お宝が、ようやく到着いたしました」と太郎が加賀守に告げた。
「お宝? もしかしたら、一切経か?」
「そうです」
金比羅坊は荷物を覆っている筵(ムシロ)を剥がした。大きな長持が出て来た。
風光坊と八郎坊が長持の蓋を開けた。長持の中には巻物がぎっしりと詰まっていた。
加賀守は部屋から庭に下りると荷車の方に向かった。太郎も後を追った。
太郎が庭に出ようとした時、「お父さん!」という声がした。
太郎が振り向くと、百太郎が太郎の方に走って来た。
「百太郎‥‥‥」
百太郎はお父さんと叫びながら走って来て、太郎の足に抱き着いた。
太郎は百太郎を抱き上げた。
「お父さん、やっと、お山から帰って来たんだね」
「うん、帰って来たよ」
「もう、どこにも行かないね」と百太郎は涙ぐみながら言った。
「うん」
「ずっと、いてね‥‥‥ずっとだよ‥‥‥」
百太郎は太郎に抱かれたまま泣き出していた。
楓も廊下まで出て来て、目を潤ませて二人を見ていた。
夢庵も一人頷きながら二人を見ていた。
加賀守も突然の親子の再会を目の当りに見て、宝の事も忘れ、ただ呆然として二人を見ていた。
金比羅坊たち三人も、よかった、よかったと太郎と百太郎を見ていた。八郎坊は今にも泣き出しそうな顔をして親子の様子を見ていた。
「男の子だろ、いつまでも泣いていると、みんなに笑われるぞ」
百太郎は、うん、と頷いたが、涙は止まらなかった。
太郎は百太郎を楓に渡すと、荷車の方に行った。加賀守も我に返って宝の方に向かった。
加賀守は長持の中の巻物を一つ、手に取ると中を調べた。
「確かに、一千巻はありそうじゃな」
「どうします、これ」
「うむ。とりあえず、蔵の中にしまうしかないのう」
加賀守は執事の織部祐を呼ぶと、一切経を片付けさせた。
その後、全員、食事の招待を受けた。そして、加賀守は、しばらくの間、みんなして、今、楓のいる南の客殿に滞在してくれと言ってくれたが、太郎は遠慮した。ここは何となく堅苦しそうだし、それに、まだ、やらなければならない事があった。
加賀守も無理には薦めなかったが、金比羅坊たちが、百太郎のためにも、ここにいた方がいいと言い張るので、太郎だけはここにお世話になる事にした。
とりあえず、荷物を取って来ると言って、夢庵たちと一緒に帰った太郎は、日の暮れる頃、別所屋敷に戻って来た。そして、客殿の一室で、久し振りに家族水入らずでくつろいだ。実に二ケ月振りの事だった。
隣の部屋では、京から付いて来た楓の侍女たち五人と桃恵尼が、障子の隙間から三人の様子を覗いていた。
「あのお人が、楓様の旦那様なんやね」と侍女の春日が小声で言った。
「わりと若いのね」と侍女の賀茂が言った。
侍女たちは初めて見た太郎を、あれこれ言いながら眺めていた。
「何やら、隣が騒がしいな」と太郎が楓に言った。
「そうだわ。みんなに、あなたを紹介しなくちゃ」
楓が障子を開けると、侍女たちが崩れるように部屋の中に転がり込んで来た。
百太郎が転がっている侍女たちを見て大笑いした。
太郎は楓から、桃恵尼と、伊勢、賀茂、春日、日吉、住吉という五人の侍女を紹介された。
伊勢は落ち着いた感じの三十女。賀茂は年の頃は二十の半ば位か、何となく、おっとりとした感じだった。あとの三人は皆、二十歳前の若い娘だった。一番若い住吉という娘は頭のてっぺんから出るような高い声で喋り、ひょうきんで面白い娘だった。住吉が百太郎のいい遊び相手だという事は、太郎にもすぐに納得できた。
太郎はみんなから質問攻めにあい、一つづつ答えていった。
はしゃいでいた百太郎が寝ると、桃恵尼が酒を持って来た。随分、気が利くな、と思ったら、夢庵からの差し入れだと言った。夢庵には世話になりっぱなしだった。本当に夢庵と出会えてよかった、と太郎は心から思った。
夢庵の酒を飲みながらも、太郎への質問攻めは続いた。しかし、みんな、あまり酒が強くないとみえて、すぐに酔い潰れてしまった。
五人の侍女が次々に倒れ、桃恵尼までも倒れた。太郎はおかしいと思って楓を見たら、楓は少しも酔っていないようだった。
「お前、何かやったな」と太郎は楓の顔を覗き込んだ。
「ちょっとね」と楓は言って、ニコッと笑った。「だって、二人きりになりたかったんだもの」
「この間の、眠り薬か」
楓は頷いた。「まだ、少し、残ってたの」
「一体、いつ、そんな薬を入れたんだ」
「陰の術よ」と楓は笑った。
「まいったね。それにしても、よく効く薬だな」
太郎は侍女たちを隣の部屋に寝せると、楓と二人だけの静かな夜を過ごした。
空には丁度、満月が出ていた。
二人は縁側に出て、月見酒と洒落込んだ。
4
太郎が楓との二人だけの夜を過ごす数時間前、『浦浪』の一室で、重要な作戦会議が開かれていた。勿論、太郎もその場にいた。
ちょっと荷物を取りに行くと言って、別所加賀守の屋敷を出た太郎は、浦浪に帰ると、夢庵、金比羅坊、風光坊、八郎、探真坊、次郎吉、吉次、そして、金勝座の全員を集めた。
相談したのは、加賀守が言った騎馬武者五十騎と徒歩侍二百人の事だった。
太郎は、浦上美作守が送り込んで来る太郎の偽者と途中で入れ代わって、この城下に入るつもりでいた。その時は、勿論、武士に扮して入場して来るわけだが、まさか、そんな大人数で入って来るとは思ってもいなかった。せいぜい二十人位で充分だろう、今いる仲間たちで何とかなるだろうと簡単に思っていた。しかし、加賀守は、太郎は二百五十人を引き連れて、堂々と城下に入場して来ると言う。浦上美作守は、加賀守の言う通り、二百五十人を城下に送り込む事だろう。そして、途中のどこかで偽者の太郎を殺すに違いない。二百五十人の武士たちも雇われた偽者だったら、偽者の太郎が殺された途端に皆、逃げ出してしまうという事も考えられた。そうなると、太郎は別の二百五十人を引き連れて城下に入らなければならない。二百五十人も集めるとなると周到な準備が必要だった。
「まず、浦上美作守は、いつ、俺の偽者をこっちに送ると思います」と太郎はみんなに聞いた。
「阿修羅坊が帰ったのが昨日の昼頃じゃろう。阿修羅坊の足なら三日もあれば京に着くじゃろうな」と金比羅坊は言った。
「三日だとすると、十六日の昼頃には着くな」と次郎吉が言った。
「十六日に着いたとして、浦上が偽者を仕立て、二百五十人集めるのに、丸一日はかかるじゃろうのう」と夢庵が言った。
「という事は十七日ですか、こっちに向かうのは」と風光坊が言った。
「いや、十七日は無理じゃろう」と夢庵が首を振った。「二百五十人の兵も集めなくちゃならんからな」
「兵を集める? 浦上の兵を使うんやないんですか」と八郎が夢庵に聞いた。
「城下まで、ちゃんと送るなら、自分の兵を使うじゃろうがな、途中で偽者を殺すとなれば、どうせ、足軽を集めて、格好だけは立派にさせるに違いないわ」と金比羅坊が言った。
「多分な。早くても、丸一日は掛かりそうじゃな」と次郎吉も言う。
「そうすると、早くて、十八日という事になりますね」と太郎は言った。
「うむ」と夢庵は頷いた。「十八日に出たとして、ここに着くまで、二百五十人を引き連れた偽者は五日は掛かるじゃろう」
「となると城下に入るのは、二十二日か」と探真坊が指で数えながら言った。
「もし、十八日に京を出たとしたら、途中で、偽者と入れ代わり、二十二日に、ここに入って来なければならないと言うわけですね」と太郎は言った。
「あと八日か」と次郎吉が言った。
「ところで、浦上は偽者をどこで殺すと思います」と太郎は聞いた。「すみません、助六殿。その辺に、地図があると思います。取って貰えますか」
助六がくれた地図を、太郎は皆の前に広げた。
「まず、山城(京都府南東部)じゃないのう」と夢庵は地図を見ながら言った。「こんな所で偽者が殺されれば、すぐに京の都に知られる。二百五十人に警固された赤松家の武将が何者かに殺されたなどと噂が立ったら、それこそ恥じゃしな」
「すると、摂津(大阪府西部と兵庫県南東部)か」と金比羅坊が言った。
「いや、摂津も丹波(京都府中部と兵庫県中東部)も細川氏の領土じゃ。そこで、そんな騒ぎを起こしたら細川氏に知られる。それに、もし、刺客(シカク)が細川の武士に捕まったりしたら、それこそ大変じゃ。浦上のたくらみが、すべて、ばれてしまう」
「という事は、やはり、播磨に入ってからか‥‥‥」と次郎吉。
「ところで、敵はどの道を通りますかね」と太郎は聞いた。
京の都から播磨の国に行くには三通りの道があった。まず、京から淀川に沿って下り、西宮、兵庫を通って明石に抜ける山陽道。二つ目は高槻から池田を通り、六甲山の北の有馬温泉を抜けて播磨に入る有馬街道。三つ目は京から西に丹波の国に入り、亀岡、篠山(ササヤマ)を抜けて播磨に入る道であった。
「うーむ、難しいのう」と金比羅坊が腕組みをして唸った。
「まあ、山陽道はないじゃろう」と夢庵が言った。
「どうしてです」と探真坊が聞いた。
「兵庫、それと、淀川の辺りは西軍の大内氏の水軍が押えているはずじゃ。当然、細川氏と睨み合ってる事じゃろう。そんな中を通っては来るまい」
「と言うと、残るは、有馬街道か、丹波を通るかですね」
「普通なら有馬街道を通るじゃろうが、途中で偽者を殺すとなると、丹波も考えられるのう」
「すると、ここか、ここのどっちかですね」と探真坊は有馬街道が通る摂津と播磨の国境辺りと、丹波道が通る丹波と播磨の国境辺りを指さした。
「うむ、どっちも山の中じゃ。どっちも考えられるのう」と金比羅坊が言った。
「こっちは、丁度、大谿寺(タイケスジ)の辺りですね」と太郎は有馬街道の方を示した。
「そうじゃのう。いい所にあるわ」と金比羅坊はニヤッと笑った。「こっちに来るとすれば、ここで待機していて、偽者が殺されたら交替すればいいわけじゃ」
「丹波から来た場合だと、国境のすぐ側に清水寺というのがありますよ」と探真坊が言った。
「清水寺か、確か、そこにも飯道山の宿坊があるはずじゃ」と金比羅坊は言った。
「行った事、ありますか」と太郎は金比羅坊に聞いた。
「いや、ない」
「とにかく、このどちらかで待機していればいわけですね」
「伊助の奴が、そのうち、敵の動きを知らせて来るじゃろう」と次郎吉が言った。
「そうですね、敵の動きがわかってから、待機する場所は決めましょう」
「どっちで待機しておるにしろ、偽者が殺されてから、二百五十人を引き連れて城下に入ればいいわけじゃ」と夢庵が言った。
「どっちから来るにしろ、偽者が国境辺りを通るのは、いつ頃ですかね」と太郎は聞いた。「そうじゃのう、早くて三日目の夕方、遅くても四日目の昼までには着くじゃろう」と夢庵は言った。
「という事は、早くて、二十日の夕方というわけですね」
「二十日と言えば、あと六日しかないぞ」と次郎吉は言った。「六日間で、二百五十人の侍を揃えなくてはならん」
「馬五十頭と、武器や鎧もじゃ」と金比羅坊が言った。
「二百五十人か‥‥‥」と夢庵は唸った。
「武器や鎧は小野屋の喜兵衛が何とかしてくれるじゃろう」と次郎吉が言った。
「馬はどうじゃ」と金比羅坊が次郎吉に聞いた。
「馬はわからんのう、だが、商人同士のつながりがあるんじゃないのか。それにしても、それらを揃えるとなると莫大な銭が掛かるぞ」
「銭も掛かるが、二百五十人分の鎧兜を揃えるとなると、こりゃ大変な事じゃぞ。短期間で集める事ができるか」
「それは、小野屋さんに聞いてみないと、どうにもなりませんね。あとで小野屋に行くとして、肝心の二百五十人はどうしたらいいと思います」と太郎は聞いた。
「難しいのう。これも銭で集めるしかないじゃろうな」と夢庵は言った。
「集まりますかね、二百五十人も‥‥‥」
「別所加賀守に借りるという手もあるぞ」
「できれば、借りたくはありません」
「そうじゃのう。先の事を考えると、なるたけ借りは作らん方がいいかもしれんのう」
「どんなのでもよければ集められますよ」と助五郎が言った。
「ほんとですか」
「どんなのでもよければですよ」
「どんなのでもいいとは」と次郎吉が聞いた。
「乞食や皮屋や人足たちです」
「そうか、河原者のお頭に頼めば、何とかなるかもしれない」
「乞食やエタが役に立つのか」と金比羅坊は首をひねった。
「役に立ちそうなのを選んで貰うのです」
「そうじゃな。河原者を集めるのが一番早いかもしれん」と次郎吉が言った。「そして、少しづつ、大谿寺か、清水寺の辺りに集まって貰うんじゃ。怪しまれんようにのう」
話が決まると、太郎は金比羅坊と次郎吉、そして夢庵の四人で小野屋に向かった。
小野屋喜兵衛は二つ返事で引き受けてくれた。人集めの銭も全部、小野屋に任せてくれと言う。あまりにも話がうまく行きすぎるので、どうして、そんな大金を簡単に出してくれるのか、太郎は聞いてみた。
「あなた様が楓殿の御亭主だからですよ」と喜兵衛は笑いながら言った。「実は、松恵尼様より、あなた様に使ってもらうようにと、充分すぎる程のお代物(ダイモツ、銭)が、すでに届いております」
「えっ、松恵尼様から‥‥‥」
「はい、松恵尼様は、すでにお見通しだったようですね。あなた様が赤松家に迎えられるという事を。そして、それには充分な軍資金が必要だという事も御存じだったのです。最初が肝心だと言っておりましたよ。赤松家に迎えられる時、立派な武将として、堂々としていなければならない。誰もが、お屋形様の兄上にふさわしいと思えるようでなくてはならないとおっしゃておりました」
「そうだったのですか‥‥‥」
「遠慮はいりませんよ。わたしたち商人は損になる取引きはいたしません。あなた様に、それだけ投資する価値があると認めておるから投資するのです。松恵尼様もそうです。確かに、娘可愛いさはあるでしょう。しかし、松恵尼様は立派な商人です。あなた様の価値をちゃんと見極めていますよ。武器、武具、馬、すべて、上等な物を御用意いたしましょう」と小野屋喜兵衛はきっぱりと言い切った。
帰り道、夢庵が太郎を見て、「おぬし、大した男よのう」と感心して言った。
「いえ、俺も実際、驚いています。こんなにうまく事が運ぶとは思ってもいませんでした」
「松恵尼様はやる時はやるからのう」と次郎吉は言った。
「松恵尼様というのは、そんなに凄い商人だったのか‥‥‥」と金比羅坊は信じられないという顔をして首を傾げた。
「あの小野屋は、伊勢の多気にある松恵尼様の店、小野屋の出店なんじゃよ。その他、奈良と伊勢の安濃津、伊賀上野にも出店があるし、旅籠屋も幾つも持っておるんじゃ」と次郎吉は説明した。
「そんなにも店を持っていたんですか。知らなかった」
太郎は奈良の小野屋には世話になった事があった。楓を連れて故郷に帰る時だった。あの店が松恵尼とつながりのある事はわかったが、あそこの主人が松恵尼の手下だったとは驚きだった。さらに、多気の都でも、大きな店構えの小野屋を見ていた。奈良の店と同じ名前だったので、楓に、この店も松恵尼様と関係あるのかな、と聞いたら、楓は、まさか、と首を振った。太郎もたまたま名前が同じだけなんだろうと思っていた。しかし、あの店も松恵尼の手下がやっている店だったのだ。凄い人だと思わずにはいられなかった。そして、その凄い人が楓の母親代わりだった事に太郎は天に感謝をした。
「凄いもんじゃのう、あの松恵尼様がのう‥‥‥」と金比羅坊もしきりに感心していた。
その足で、河原に行き、片目の銀左衛門を捜した。
多分、新しく作っている北の城下の方だろうと思って、芸人たちのいる一画を北に向かった。丁度、うまい具合に銀左の手下の佐介と会った。佐介に聞くと、今日は多分、うちにいるだろうとの事だった。うちはどこだと聞くと、わしも今、行くところだから、一緒に行こうと言った。
銀左のうちは、ずっと南の方だった。木賃宿、浦浪を過ぎ、紺屋、皮屋の一画も過ぎ、清水谷の渡しの側に、銀左のうちはあった。どうせ、掘立て小屋に毛が生えた位のうちだろうと思っていたら、とんでもない事だった。
銀左のうちは立派な屋敷だった。別所加賀守の屋敷に大して引けを取らない程、大きな屋敷だった。大通りに面し、東に真っすぐ進めば白旗神社へと続く道との四つ角の西南側に位置していた。
屋敷の中には庭園あり、廐あり、大きな蔵あり、武家屋敷と変わらなかった。ただ、屋敷の中で働いている連中の人相と格好が違うだけだった。
太郎たちは庭の一画に建てられた豪華な御殿の一室に案内された。
「河原者でも、お頭ともなると凄いもんじゃのう」と金比羅坊が庭園を眺めながら小声で言った。
「おう、まったくじゃ」と夢庵も感心しながら部屋の中を眺めていた。
壁に立派な掛軸が掛けられ、その横の唐物(カラモノ)の壷(ツボ)に綺麗な花が生けてある。そして、隣の部屋との境に置いてある屏風がまた凄かった。金や銀を多量に使って龍と虎が描いてあった。
やがて、綺麗な着物を着た娘がお茶を持って入って来た。その娘の美しさときたら、この世の者とは思えない程の美しさだった。透けるように白い肌をしていて、柳のようにしなやかで、着ている着物は美しいだけでなく、薄い絹でできていて、体が半ば透けて見えていた。
四人の男は生唾を飲み込むように、その娘に釘付けだった。
娘は四人の前に、それぞれお茶を置くと、「どうぞ、ごゆっくりしてらっしゃいませ」と鈴の音のような声で言って、しとやかに頭を下げると去って行った。
「たまらんのう」と次郎吉は娘の後ろ姿を見送りながら震えた。
「あんな女子が、この世におるのかい」金比羅坊も鼻の下を伸ばして娘を見送っていた。
「うらやましいのう」次郎吉は娘の後ろ姿を見つめたまま、お茶を口にして、「あっち!」と叫んだ。
「うむ、この茶碗もお茶も最上級の物じゃ」夢庵は別の事に感心していた。
しばらくして、この屋敷の主(アルジ)がいつもの革の袖なしを来て現れた。何となく、場違いな感じがしたが、紛れもなく、この屋敷の主人に違いなかった。
「どうした、改まって」と銀左は太郎に聞いた。
「銀左殿、今回は頼みがあって参りました」
「成程、この顔触れからして、余程の事らしいの」
太郎が三人を紹介しようとすると銀左は止めた。
「研師の次郎吉殿、茶の湯の名人、夢庵殿、そして、おぬしと同じ山伏の金比羅坊殿じゃな」と銀左は笑いながら言った。
「どうして、知っているのです」と太郎は聞いた。
太郎だけではなく、夢庵も次郎吉も金比羅坊もキツネにでも化かされているのかと不思議に思っていた。
「わしら、河原者も情報網を持っていてな。必要な情報はすぐに手に入るんじゃよ」
「そうなのですか‥‥‥ところで、楓御料人様の旦那が、この城下に来るという噂は御存じですね」
「ああ、初めうちは信じられなかったが、どうも本当らしい」
「その事で頼みがあるのです」
「何じゃと? それと、おぬしらと、どう関係がある」銀左は鋭い目付きで四人を見回した。
「実は、楓御料人の旦那というのは、わたしの事なのです」
「何じゃ? おぬしが楓御料人様の旦那‥‥‥」
「はい」と太郎は頷いた。
「一体、これは、どういう事じゃ」銀左は改めて、四人の顔を見渡した。
太郎は今までのいきさつを簡単に話した。
「成程、そんな事があったのか‥‥‥おぬしが、ただ者ではないという事はわかっておったが、たまげたわ。おぬしが御料人様の旦那様だとはのう‥‥‥そこで、わしに頼みとは何じゃ?」
「実は、改めて城下に乗り込むために兵がいるのです」
「兵?」
「ええ、形だけでも揃えて城下に入らなければなりません」
「そりゃ、そうじゃのう。お屋形様の兄上になるわけじゃからのう」
「そこで、銀左殿に、二百五十人の兵を集めて欲しいのです。河原者で侍になりたい者、そして、見込みのありそうな者を二百五十人、集めて欲しいのです」
「二百五十人か‥‥‥いつまでにじゃ」
「十八日まで」
「明日から四日じゃな。ちょっと難しいのお。元手はあるのか」
「大丈夫です。銀左殿は人だけ集めてくれれば結構です。武器や鎧などは、すべて、こちらで用意します」
「わかった。とりあえず一人百文として、二十五貫文、用意してくれ」と銀左は言った。
「わかりました、三十貫文用意します。お願いします」
太郎は、金比羅坊と相談してやってくれ、と金比羅坊を銀左の屋敷に置いて来た。
そして、武器関係は、すべて、次郎吉に任せる事にして、次郎吉を小野屋に送った。
「それじゃあ、わしは馬を五十頭、集めるか」と夢庵は言って、次郎吉の後を追って小野屋に向かった。
太郎にはもうひとつ、やる事があった。それは、生野に行って銀山が本物かどうか確かめなくてはならなかった。明日、三人の弟子を連れて生野に向かい、十八日までに戻って来なければならなかった。
太郎は浦浪に帰って、うまく行った、と皆に報告し、三人の弟子たちには、明日、朝早く旅に出る事を伝え、別所屋敷に戻った。
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