16.百日行、再び
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太郎はまた、百日間の奥駈け行を始めた。
あの日、弘景老人の草庵を去ってから、太郎は道場に行き、剣を振ったが、やはり、うまく行かなかった。
根を張るとは、どういう事なのか‥‥‥
そういう時には、何もかも忘れてみるのもいいもんだと老人は言った。
このまま毎日、こうやって独りで稽古していても、高林坊の壁は乗り越えられないかもしれないと太郎は思った。老人の言ったように、しばらく、剣の事は忘れて、もう一度、山歩きに専念してみるかと思った。今から、百日といえば、山を下りるはずの三月を過ぎてしまう。しかし、このまま、山を下りるわけには行かなかった。
次の日から、太郎は錫杖を突き、できるだけ、剣術の事は考えないように、走るような速さで雪の山道を歩いた。
阿星山から金勝山に行く途中の岩に囲まれた道を通った時、ふと、この前の百日行の時に出会った老山伏の事を思い出した。あれから、毎日、剣の修行に明け暮れ、すっかり、忘れてしまっていた。あの老山伏は、もう、この山にはいないのだろうか‥‥‥
なぜか、もう一度、会いたいような気がした。あの老山伏が、今の太郎の問題を解決してくれるような気がした。
太郎は、いつも、老山伏が座り込んでいた岩に近づき、下から見上げた。あの時は、こんな岩に登れるわけないと思っていたが、よく見てみると、手や足をうまく岩に引っ掛ければ登れるかもしれなかった。
太郎は登ってみる事にした。
切り立った岩をよじ登り、そのてっぺんまで辿り着くと、老山伏を真似て座り込んでみた。思っていたよりも高く、眺めも良く、気持ち良かった。太郎はしばらくの間、岩の上に座り込んで雪をかぶった阿星山を眺めていた。阿星山から、こちらに向かう道が岩の間や木の間から見えた。その道を大勢の人が歩いて来るのが見えた。
何事だ、と太郎は一瞬、思ったが、そういえば、今、飯道山に修行にやって来た若者たちが、一ケ月の間、ここを歩いているという事を思い出した。彼らは先達に連れられて、ぞろぞろとやって来て、太郎の目の前の道を通って行った。
先頭を歩いているのは棒術師範代の西光坊元内だった。西光坊は岩の上でのんきそうに休んでいる太郎を見つけ、声を掛けて来た。
「太郎坊、そんな所で何してる」
「はい、皆さんが大勢、やって来たので踏み潰されないように、ちょっと避けたんです」
「おぬし、また、百日行を始めたらしいな」
「はい」
「まあ、頑張れよ」と言うと、西光坊は先に立って歩いて行った。
後にぞろぞろと付いて行く若い修行者たちは皆、太郎の方を見ながら歩き去って行った。
道は細く狭い。一人づつしか歩けない。二百人近くが通り過ぎるには、かなりの時間が掛かった。一番最後には剣術の師範代、中之坊円学が付き添っていた。
「太郎坊じゃないか」と中之坊は足を止めた。「何してるんじゃ」と西光坊と同じ事を聞いた。
「大蛇が通り過ぎるのを待っているんです」
「大蛇?‥‥‥おう、まさしく、大蛇じゃ。しかし、これでも、いくらか短くなったんだぞ。あと二十日あるんだが、終わる頃にはこの半分になるじゃろ」中之坊はそう言いながら、大蛇の尻尾の後を追って行った。
金勝山の方を見ると、ぞろぞろと黒い蛇が白い雪の中を進んで行くのが見えた。それを見ながら、太郎は大きく手を打つと笑い、岩を降りて行った。
太郎は、あの老山伏と同じ事をやって見ようと思い立った。彼らを途中で追い越し、竜王山と狛坂寺の間の岩の上に座って、皆が来るのを待っていてやろうと思った。
岩を降りると辺りを見回してみた。絶対、どこかに抜け道があるはずだと思ったが、雪に隠れてわからなかった。太郎は道に戻り、皆に気づかれないように後を追った。金勝寺に行く途中から道をはずれ、山の中に入って行った。金勝寺に寄らずに真っすぐ竜王山に向かえば、奴らを追い越せるだろう。雪をかぶった熊笹をかき分け、びっしょりになって山の中を抜けると、思った通り、金勝寺から竜王山へ向かう尾根道に出た。
竜王山の山頂に立つと、黒い大蛇が金勝寺から、こちらに向かって来るのが遠く見えた。太郎は山を下り、目的の岩に向かった。今度の岩は前より高かったが、登るのはそれ程、難しくはなかった。
太郎は岩の上に辿り着くと座り込んだ。
風が出て来た。太郎の着物はびっしょり濡れていた。その濡れている着物に風が当たり、凍るように冷たかった。
一体、俺は何をやってるんだろう、と太郎は思った。
皆を驚かそうと思って、山歩きの行を始めたのではないはずだった。こんな事では駄目だ。こんな事をやっていたのでは、高林坊に勝つ事などできるわけがない‥‥‥
皆が、ぞろぞろと近づいて来た。
太郎は道の方に背を向けて座り直し、目を閉じて、皆が通り過ぎて行くのを待った。
西光坊が声を掛けたが、太郎は答えなかった。
中之坊にも答えなかった。
皆が通り過ぎた後も、太郎は目を閉じたまま、じっと座っていた。
一体、俺は、どうしたらいいんだ。
太郎は岩から降りると、俯きながら山道を歩き出した。
狛坂寺の阿弥陀如来の前で座り込み、無心になって真言を唱えてみたが、答えは得られなかった。阿弥陀如来は、ただ、太郎を見下ろしているだけだった。
次の弥勒菩薩の前でも祈ったが、弥勒菩薩は太郎の事など完全に無視していた。
しょぼしょぼと太郎は山道を下りて行った。
観音の滝は凍っていなかった。白い水しぶきを上げて落ちていた。
太郎は十一面観音の前に座り込んだ。観音様は優しく微笑んでいた。
太郎は滝を見た。見るからに冷たそうだった。
太郎は錫杖と刀と法螺貝を祠の前に置くと、気合を入れて滝壷の中に入って行った。非常に冷たかった。体中を針で刺されたように痛かった。
太郎はもう一度、気合を入れると、滝の下に座り込んだ。氷の中に座り込んでいるようだった。滝の水は容赦なく、太郎の頭を刺すように落ちて来た。
太郎はもう一度、気合を入れ、両手を合わせ、滝の音に負けない程、大声で真言を唱え始めた。真言を唱えているうちに、体がカッカと燃えるように熱を持って来た。頭はボーッとしてきて、何も考えられなくなった。太郎は怒鳴るように、繰り返し、繰り返し、真言を唱えた。
太郎はまったく気づかなかったが、太郎が滝に打たれて無心になっている時、太神山から戻って来た西光坊率いる一行が太郎の姿を見ていた。
西光坊は滝に打たれている太郎を見て、声を掛けるのも忘れ、ポカンとしていた。そして、我に返ると西光坊は太郎に向かって合掌をし、真言を唱えた。西光坊に続く者たちも皆、太郎に合掌をして真言を唱えては去って行った。
太郎は我も忘れ、時も忘れ、滝に打たれ、真言を唱え続けていた。
モヤッとしていた頭の中が急に明るくなり、金色に輝く、観音様の姿が浮かび上がって来た。
「観音様、助けてくれ!」と太郎は心の中で叫んだ。
観音様が笑った。
やがて、それは、大笑いとなった。太郎を馬鹿にしたように観音様は大口を開けて笑っていた。
「やめてくれ!」と太郎は頭を横に振った。
大笑いの観音様は消え、牙を剥き出して怒っている観音様が現れた。
観音様は次々に顔を変え、だんだんと優しい顔になっていった。
そして、最後に、その顔は楓の顔になった。楓は優しく、太郎を見守りながら微笑んでいた。
「楓!」と太郎は心の中で叫んだ。
太郎は目を開けた。
いつの間にか雪が降っていた。
辺りはシーンと静まり返っている。
本当なら滝の音でうるさいはずなのに、不思議と静かに感じられた。
時が止まってしまったかのようだった。
「楓‥‥‥」と太郎は呟いた。
なぜ、急に、楓の姿が現れたのだろう‥‥‥
もしかしたら、楓の身に何か良くない事が‥‥‥
そう思うと、太郎はじっとしていられなかった。
滝から上がると、濡れた体のまま雪の降る中、沢に沿った道を楓のいる花養院へと走り向かった。
寒さや冷たさなど、一向に感じられなかった。
太郎は走り続けた。
途中で、刀や錫杖、法螺貝を滝に忘れてきた事に気づいたが、そんな事はどうでもよかった。とにかく、楓の事が心配で、雪の中、濡れた体で走り続けた。
花養院に着いた時には、すでに日は暮れ、門は閉ざされていた。
太郎は塀に飛び付き、乗り越えると、木陰に隠れながら本堂の裏の方にある楓のいる離れに向かった。窓から中を覗くと、楓は明かりの下で何かを書いていた。
太郎は小声で楓を呼んだ。
楓は顔を上げて窓を見た。
「俺だ」と太郎は言った。
「誰?」と楓は帯の所に手をやった。
「太郎坊だ。石つぶてはいらんよ」
「あなたなの、今頃、何してんのよ」
楓は窓に近づいて来た。
「ちょっと、入れてくれ」
「待ってて」と楓は入口の方に行った。
入口の戸を開けると太郎を素早く中に入れ、外を窺ってから戸を閉めた。
「どうしたの、一体。川にでも落ちたの、びっしょりじゃない」
「そんな事より、お前、大丈夫か」
「何が」
太郎は楓を上から下まで眺めた。
「ねえ、一体、どうしたの」
「良かった。大丈夫だったんだな」と太郎は言うと、ほっとして腰を落とした。
滝に打たれていたら、急に楓が出て来たので、心配になって飛んで来た事を説明した。
「この寒いのに、滝に打たれていたですって」楓は呆れて、ポカンと口を開けていたが、「風邪ひいたら、どうすんのよ」と心配した。
「大丈夫だ。そんな、やわじゃない」と太郎は言ったものの、安心して気が緩んだせいか急に寒くなって来た。
「ほら、みなさい。震えてるじゃない。風邪ひくわ。早く、その濡れたの、脱いでよ」
太郎は楓に言われるまま、濡れた着物を脱いだ。楓は乾いた手拭いと着物を持って来て、太郎に渡した。
「あたしのしかないけど我慢してね」と楓は言いながら目を伏せた。
太郎は体を拭きながら、楓を見て、「どうしたんだ」と聞いた。
「だって‥‥‥急に、裸になるんだもの‥‥‥」
「裸になれって言ったのは、お前だろう」
「それは、濡れてる物、着てたら風邪ひくからよ」と楓は言うと隣の部屋に隠れた。
「今日の楓は、いつもと違うぞ」と太郎は楓の着物を着ながら言った。
「この濡れたの、どうしよう」と太郎は聞いた。
「そこに置いといて、あとで、洗っておくわ」
「うん」と言いながら太郎は楓のいる部屋に上がった。楓は元の所に座っていた。
「どうしよう」と楓は俯きながら言った。
「何を」
「だって、見つかったら大変じゃない」
「何で」
「ここは尼寺でしょう。夜、男の人なんか部屋に入れたりして‥‥‥」
「そうか、お前に迷惑かかるな‥‥‥やっぱり、帰るわ」
「帰るって、その格好で」
「いや、また、あれを着るさ」
「風邪ひくわ」
「大丈夫だよ」と言ったが、太郎は大きなくしゃみをした。
「大丈夫じゃないわ」
「平気さ」と太郎は言ったが、急に寒気がして来た。
「何やってたんだ」と太郎は聞いた。
「仕事よ」
「俺に構わず、続けていいよ」
楓は顔を上げ、太郎を見た。
太郎は震えていた。
「風邪ひいたんじゃないの」
楓は太郎に近づくと、太郎の額に手を当てた。「凄い熱だわ」
「大丈夫だよ、すぐ帰る」と太郎は言って、楓の目を見つめた。
「駄目よ」と楓は言ったが、太郎の目から視線をそらせた。
太郎は楓を抱き寄せた。
「俺は楓が好きだ」と太郎は楓の耳元で囁いた。
楓は顔を上げて、太郎を見つめた。
「あたしもよ‥‥‥でも、駄目。あなたは今、修行中よ‥‥‥あたしの事なんか忘れて、修行しなくちゃ駄目」
「修行は修行。お前はお前だ」
「違うわ‥‥‥それより、凄い熱よ。寝た方がいいわ」
「帰る」と太郎は言った。「俺が、ここで寝るわけにはいかないだろ」
「あなたは病人よ。病人を追い出すわけにはいかないわ。まして、今、外は雪よ。そんな中、帰って行ったら、途中で倒れちゃうわ」
楓は太郎から離れると、隣の部屋に布団を敷き、太郎を無理やり寝かせた。台所に行き、水桶を持って来て、その中で手拭いをしぼると太郎の額の上に載せた。
「ゆっくり、休んでね」
「うん‥‥‥」
太郎は眠った。
目を開けると、楓はまだ、座り込んで何かを書いていた。
「楓」と太郎は力なく声を掛けた。
「どう?」と楓は聞いた。
「まだ、寝ないのか」
「もう少し」
「いつも、こんな遅くまで起きてるのか」
「‥‥‥寝るわ」と楓は明かりを吹き消した。
楓は着物を脱ぐと、太郎の隣に入って来た。
「大丈夫?」と楓は太郎の額に手を当てた。
太郎は楓を抱きしめた。
太郎の熱は、なかなか下がらなかった。
朝になり、楓は目を覚ますと、隣に寝ている太郎を見つめた。そして、額に手をやった。太郎の熱が楓の手に伝わって来た。
太郎は目をあけた。
「もう、朝か‥‥‥」と力のない声で言って、楓を見ると笑った。
太郎は手を伸ばすと楓を抱きしめた。力一杯、抱きしめたが、体中がだるくて力がでなかった。
「迷惑かけて、すまん‥‥‥」声がかすれていて、口の中がやたらと乾いていた。
「迷惑なんかじゃないわ」と楓は太郎を見つめながら言った。
「誰にも見つからないうちに帰る‥‥‥」
「駄目、まだ、熱が下がらない」
「平気さ」と太郎は体を起こそうとしたが、頭は重く、体は言う事を聞かなかった。
「無理をしちゃ駄目‥‥‥ね、ちゃんと治るまで、ここにいて‥‥‥じゃないと、あたし、心配で、心配でしょうがない」
太郎は頷いた。
楓は布団から出ると着替え、水桶の水を替えて手拭いをゆすぐと、太郎の額に載せた。
「寝てなきゃ、駄目よ」
太郎は楓の手を取って、楓を見上げていた。
楓は太郎の手を優しく包んだ。
「行くわ」と楓は言うと、太郎の手を布団の中に入れ、優しく笑うと出て行った。
太郎は楓を見送ると目を閉じた。
何も考える事ができなかった。頭の中はボヤッとしていた。そのボヤッとした中に、楓の優しい顔だけが浮かんでいた。
太郎は眠った。
どの位、眠ったのかわからないが、気がつくと側に楓が座っていて、太郎を見守っていた。
「どう?」と楓は聞いた。
「うん‥‥‥大分、良くなったみたいだ」
「そう、よかった」と楓は笑った。
「今、何時(ナンドキ)?」
「お昼頃よ」
「そうか‥‥‥」
「ねえ、何か、食べる?」
「いい」と太郎は首を振った。「いいのか。ここにいて」
「大丈夫。松恵尼様にあなたの事、話したわ‥‥‥そしたら、今日は休んでいいから、あなたの看病をしっかりやれって‥‥‥」
「俺が、ここにいても大丈夫なのか」
楓は頷いた。
「あたしもその事を聞いたの。そしたら、仏様の世界には男も女もないし、困っている人を助けるのが仏様の教えですって‥‥‥それに、あなたの事は風眼坊様からも頼まれているし、ちゃんと治るまで絶対に閉じ込めて置けって言ったわ」
「閉じ込めて置けか‥‥‥」
「お薬もいただいたわ。あなたのお師匠様が作ったお薬ですって‥‥‥」
「師匠の薬‥‥‥」
「良く効くらしいわよ。それに、松恵尼様が熱を下げるのに、一番いい方法っていうのを教えてくれたわ‥‥‥」
「護摩(ゴマ)を焚いて、祈祷でもするのか」
「ううん」と楓は首を振って、顔を赤らめた。「‥‥‥しっかりと抱き合うんですって‥‥それも、お互いに、全部、着物を脱いで‥‥‥」
「えっ? 松恵尼様がそんな事を言ったのか」
楓は顔を真っ赤にして、頷いた。「それが一番、自然なんだって‥‥‥そうすれば、すぐ、熱は下がる‥‥‥でも、二人は若いから逆に熱が出るかもしれないわねって笑ったわ」
「楓‥‥‥」と太郎は楓の手を取った。
「太郎坊様‥‥‥」と楓も呟いた。
「太郎でいいよ‥‥‥俺の本名は愛洲太郎左衛門久忠って言うんだ」
「愛洲太郎左衛門久忠‥‥‥お侍さんみたいね」
「侍だよ。山伏は仮の姿さ。本当の事を知ってるのは師匠しかいない。それと、お前だ」
「そうだったの‥‥‥」
「山伏の方が良かったかい」
「ううん、どっちでも同じよ。あなたに変わりはないわ‥‥‥それに、あたしもお侍の娘らしいわ。よく、知らないけど‥‥‥」
楓は太郎の額の手拭いを替えた。
「汗が凄いわ。着替えた方がいいわ。それに、何か、食べた方がいいわ」
「うん‥‥‥」
「ちょっと待っててね。おかゆを持って来るわ」
楓は水桶を持って出て行った。
太郎は楓の後姿を見ながら、何となく、心が休まるような気がした。体の調子は良くないが、久し振りに、のんびりと休んでいるような気がした。
二年前、曇天と一緒に京へ旅をして以来、ずっと、剣に熱中してきた。剣の事しか考えていなかった。毎日、朝早くから夜遅くまで剣を振っていた。のんびりと休む事など一度もなかった。今は熱を出して寝てはいるが、楓が側にいてくれるという事で、心は休まっていた。
乾いた着物に着替え、楓が作ってくれたおかゆを少しだけ食べ、師匠が作ったという苦い薬を飲むと太郎は、また、眠りについた。
次に目が覚めた時、もう、部屋の中は暗くなっていた。そして、太郎の横には何も身に付けていない楓が寄り添って寝ていた。
太郎は楓の体を抱き寄せた。柔らかくて、滑らかで気持ち良かった。太郎自身も何も身に付けていなかった。
「恥ずかしいわ」と楓は目を閉じたまま囁いた。
「ずっと、側にいてくれたのか」
楓は頷いた。
「そうか‥‥‥ありがとう‥‥‥」
「寝た方がいいわ‥‥‥」
太郎は楓を強く抱きしめた。
太郎の百日行が再び、始まった。
五日の間、太郎は楓と二人きりで夢のような楽しい日々を過ごした。
三日目には太郎の熱もやっと下がり、食事も取れるようになっていた。
四日目には布団から出て、木剣の素振りを軽く始めた。
五日目になると体の調子は元に戻って来ていたが、楓と別れたくないので、まだ、調子が悪いと言って、楓の部屋でゴロゴロしていた。
六日目の朝、太郎は楓を抱きながら、「また、熱が出て来たみたいだ」と言った。
「そう」と楓は言うと太郎の目をじっと見つめた。「あたしもよ。体中、熱が出てるわ」
「もう少し、休んでいた方がいいかな」と太郎が聞くと、「もう駄目」と楓は強く言った。
「もう駄目よ。あたしだって、あなたとずっと一緒にいたいわ。でも、これ以上、松恵尼様に迷惑かけられない。それに、あなただってちゃんと修行しなくちゃ駄目」
太郎は楓にそう言われても、楓と別れがたく、グズグズしていた。
楓はとうとう薙刀を持ち出して、太郎を追い出した。
「わかったよ、出て行く。俺はまた、百日行をやる」
「えっ、百日行‥‥‥」
「うん、百日間、お前と会えない」
「百日間も‥‥‥」
「ああ。百日間なんて、すぐさ」と太郎は言うと、素早く楓に近づき、楓を抱きしめた。そして、楓の秘所をまさぐり、離れると、薙刀を持ったままポカンと立っている楓を残して去って行った。
太郎は何も考えずに、ただ、歩く事だけに専念した。
楓の事は頭から離れなかったが、錫杖を鳴らしながら山の中を歩き続けた。夜が明ける前から夜遅くまで、ただ、山の中を歩いていた。
距離も延ばした。
今までは太神山の不動寺で折り返していたのを、さらに、太神山から矢筈ケ岳を通り、笹間ケ岳まで足を延ばした。以前は往復十三里(五十二キロ)だったのが、今度は十六里(六十四キロ)となった。のんびり歩いていれば飯道山に戻るのが深夜になってしまう。太郎は飛ぶような速さで山の中を走り回っていた。
やがて、冬が去り、春になった。
山は少しづつ変化して行った。
雪が溶け、草や木が芽を出し、緑が少しづつ増えていった。道端のあちらこちらに小さな花が咲き、山桜が見事に咲き誇った。
やがて、桜の花も散り、山はすっかり緑でおおわれた。
太郎の頭の中から、ようやく、楓の事も高林坊の事も消えてなくなった。
太郎自身、自然と一体化したかのように心は澄み切っていた。
八十五日目の朝を迎え、太郎は朝日を背に受けながら歩いていた。
森の中では色々な鳥たちが飛び回り、鳴いていた。
太郎は口笛で鳥たちに挨拶をした。
毎日、同じ道を歩きながらも、自然は毎日、違う姿を見せてくれた。
自然は生きている。そして、自分も生きている。ただ、生きているという事に喜びを感じ、また、自然という大きな力によって、自分が生かせて貰っているという事に感謝するようになっていた。
今まではただの義務感で、あちこちにある阿弥陀様や地蔵様、観音様に手を合わせ、真言を唱えていたのだったが、最近は感謝の気持ちを込め、心から真言を唱える事ができるようになった。
阿星山のお釈迦様に感謝を込めて祈ると太郎は金勝山に向かった。
天狗が座っていた。
太郎がこの前、座った岩の上に赤い顔をした天狗が座り込み、太郎の方を見ながら笑っている。
太郎は初め、その天狗は一年前に見た老山伏かと思ったが違っていた。体格が全然違う。老山伏は痩せ細っていて小さかったが、今、岩の上に座り込んでいるのはガッシリとした体格の男だった。
「太郎坊」と天狗は低い、かすれた声で言った。
「誰です?」と太郎は聞きながら、考えていた。
俺がこの前、あの岩に登ったのを知っているのは西光坊と中之坊だ。あの二人のうち、どちらかが俺をからかっているのだろうと思った。
「見た通りの天狗じゃ」と天狗は笑いながら言った。「この山にも天狗がいると聞いて、大峯からはるばるやって来たんじゃ」
大峯と聞いて、太郎にはピンと来た。
「師匠ですか」と太郎は聞いた。
天狗は笑いながら面を取った。面の下には懐かしい風眼坊舜香の顔があった。
「久し振りじゃのう」と風眼坊は太郎を見下ろしながら言った。「一年、見んうちにお前も立派になったもんじゃ」
「師匠‥‥‥」
師匠、風眼坊に会ったら、言いたい事や聞きたい事が一杯あったはずなのに、師匠の顔を見たら、太郎は懐かしくて胸が一杯になって何も言う事ができなかった。
「お前の事は色々と聞いたぞ。派手にやってるらしいな」
「いえ、そんな‥‥‥」
「冬の寒い中、七日間も滝に打たれていたそうじゃのう」
「えっ?」と太郎は驚いた。
「みんなが、お前の事を大した奴だ。まさしく、あいつは天狗太郎じゃと言っておる。若い連中は、皆、お前のようになりたいと修行に励んでいるそうじゃ‥‥‥それから、『天狗太郎と陰の五人衆』というのも聞いたぞ。ハハハ」
「七日間の滝打ちの行っていうのは誰が言ったんです」
「誰が? お山中、みんなが知っとるわい」
「そうですか‥‥‥」
不思議だった。どうして、そんな風な事になってしまったのだろうか。
滝に打たれたのはたったの一日だけだった。後は熱にうなされて楓の所にいた。錫杖や刀や法螺貝をあの滝の所に置きっ放しだったので、皆が誤解して、ずっと、あそこで修行していると思ったのだろうか。しかし、不思議だった。最初の日は皆に見られたかもしれないが、後の六日間は見られるはずがない‥‥‥
一体、どうしたのだろう。
皆は俺の幻でも見ていたのだろうか。
「今日で何日目じゃ」と風眼坊が聞いた。
「八十五日目です」
「後、十五日か‥‥‥とにかく、今は、この行をやりとげる事だな。それからじゃ、後の事を考えるのは‥‥‥今日は久し振りにお前と歩くか」
風眼坊は岩の上から消え、太郎の前に現れた。
「楓との事も聞いたぞ」と風眼坊は太郎の肩をたたいて笑った。
「あれはいい女子じゃ、大事にしろよ」と言うと、風眼坊は先に立って歩き出した。
太郎は風眼坊の後を追った。風眼坊は相変わらず歩くのが速かったが、どうにか一緒に歩けるようになっていた。
風眼坊の後ろ姿を見ながら、太郎は一年前、風眼坊に連れられて、五ケ所浦から飯道山に向かう山歩きを思い出した。あの時は悲惨だった。足が棒のようになり、泣きながら風眼坊の後を追っていた。
あれから色々な事があった。五ケ所浦にいたら、一生、経験できないような事ばかりだった。
金勝山の千手観音の前で、風眼坊と太郎は並んで真言を唱えた。
「太郎坊」と風眼坊は金色に輝く千手観音を見上げながら言った。
「はい」と太郎は風眼坊を見た。
「おぬし、あのように手が千本あったとしたら、その手を自由に扱う事ができるか」
「えっ?」と太郎は千手観音を見上げた。
「よく見ろ。あの千本の手は皆、違う物を持っておる。宝剣とか羂索(ケンサク)とか宝珠、鉄斧、弓、槍、錫杖、五色雲とか、皆、役割が違う。必要な時に、必要な手を動かさなければならないわけじゃ。お前にはそれができるか。例えば、その蓮華の花を持っている手、その手を迷わず、前に差し出す事ができるかな」
太郎は千手観音の千本の手を見ながら考えていた。
「それがわかれば、お前の剣も本物になるじゃろう。あと十五日かけて、ゆっくりと考えてみろ」
「はい‥‥‥」
金勝寺を出ると風眼坊と太郎は竜王山、観音の滝と通り、太神山へと向かった。
太神山の不動明王の前で、太郎は風眼坊に聞いた。
「不動明王の持っている剣は一体、何を斬るんです」
風眼坊は太郎を見ながら、「さあな」と言った。「そんな事、わしも知らんのう。お不動さんに聞いてみろ」
風眼坊はとぼけていた。
二人は太神山からさらに進み、愛染(アイゼン)明王を祀る矢筈ケ岳を通り、摩利支天を祀る笹間ケ岳へと来た。
「ここで別れる」と風眼坊は言うと琵琶湖の方に下りて行った。
「今度は、いつ、来てくれますか」と太郎は聞いた。
「お前の行が終わった頃、また来る」
風眼坊は走るように山を下りて行った。
太郎は道を引き返した。
楓は薙刀を持ったまま、ぼうっとしていた。
今日で九十日目、後十日で太郎の百日行は終わりだった。
また、無茶をして熱を出したりしてないかしら。
無事に終わってくれるといいんだけど‥‥‥
楓は太郎の事で頭が一杯だった。
「お師匠様」とアカネという娘が声を掛けた。
アカネは楓の教え子の中で一番年長の十五歳だった。楓は今、十二歳から十五歳までの娘たち、十八人を教えている。皆、近所の郷士の娘たちである。
「お師匠様」とアカネがもう一度、声を掛けた。
楓はようやく、我に返って、アカネの方を向いた。
「終わりましたけど」とアカネは言った。
楓は皆に形の稽古をさせていた。それが終わったとアカネは言った。
「そう」と楓は答えた。
「お師匠様、最近、変ですよ。どうしたんですか」とアカネが心配そうに聞いた。
「何でもないわ」
「お師匠様、最近、太郎坊様、全然、見えませんね。どうしたんでしょう」と美代という女の子が言った。
「今、太郎坊様は忙しいのよ」
「いくら、忙しいったって変よ」とサヤという娘が言った。「もう、三ケ月以上、顔を見せないわ。前は、ちょくちょく来てたのに」
「きっと、お師匠様の石つぶてにやられたのよ。それに懲りて、もう、来ないのよ」とミツという娘は言う。
「それは違うわ。お師匠様は太郎坊様には石つぶては投げないわ。お師匠様だって太郎坊様の事、好きなのよ」と美代は言った。
「だったら、おかしいわ。どうして、来なくなったの」とマキが聞く。
「もしかしたら、もう、お山にいないんじゃない。用があって、どこかに行ってるのよ」とサヤは言った。
「そうね、そうよ、きっと」
「お師匠様が可哀想、太郎坊様、早く帰って来ればいいのに‥‥‥」
娘たちは、みんなして勝手な事ばかり話していた。
「黙りなさい」と楓は言った。
「だって‥‥‥」と美代は悲しそうな顔をして、楓を見上げた。「お師匠様が、あまり、元気ないから、みんなで心配してるのに‥‥‥」
「ありがとう。でも、あたしは大丈夫よ」
「本当に、太郎坊様はどうしたのかしら」
「みんなの言う通り、ちょっと出掛けてるの。でも、あと十日位したら帰って来るわ」
「ほんと?」
「ほんとよ」
「良かった」と娘たちは、また、キャーキャー騒ぎ出した。
「静かにしなさい‥‥‥それでは、今度は二人づつ組になってお稽古しましょう」
娘たちは、また稽古を始めた。
楓は皆の稽古を見て回った。
今日は松恵尼は留守だった。
最近、松恵尼はやたらと、どこかに出掛けていた。どこに行くのかわからない。一日で帰って来る時もあれば、二、三日、留守にする事もある。楓が聞いてもはっきりと教えてくれない。今、京で戦が続いているから、やたらと忙しいと言う。何がどう忙しいのか、楓にはわからないが、確かに松恵尼は忙しそうだった。寝る暇もない位、動き回っていた。
この花養院には松恵尼の他にもう一人、尼さんがいた。春恵尼という三十歳前後の物静かな婦人だった。彼女がここに来て、もう二年位経つ。彼女はほとんど出掛けない。暇さえあれば写経をしていた。戦で家族を亡くし、たった一人になり、出家したのだと言う。
今、春恵尼は客の接待をしていた。最近になって、この寺に訪れる客の数も増えて来た。それも、遠くの方から来る旅の客が多い。僧侶や尼僧もいるが、商人の数も多い。時には、偉そうな侍が来る事もあった。
先程、来たのも侍だった。供を二人連れて、馬に乗って訪ねて来た。急いで来たとみえて、三頭の馬は汗びっしょりだった。
「松恵尼様は留守です」と楓は言ったが、侍は、「構わん、春恵尼殿はいるか」と言った。
初めて見る侍だったが、春恵尼の事を知っていた。楓は春恵尼に会わせた。もう、半時(一時間)以上経つのに、まだ、侍たちは帰らなかった。何やら話し込んでいるらしい。もしかしたら、春恵尼が出家する前の知り合いなのかもしれない、と楓は思った。
稽古を終え、娘たちを帰すと、楓は夕食の支度を始めた。
三人の侍が帰ると入れ違いに松恵尼は帰って来た。
夕食を終え、雑用を済ますと楓は離れの自分の部屋に戻った。
一人になると、また、太郎の事が頭に浮かんで来た。
太郎がこの部屋を去って百日行を始めたその日から、楓は太郎の無事を祈って、毎朝、水垢離(ミズゴリ)を始めた。今は、もう、それ程でもないが、冬の寒い中、水を浴びるのは辛かった。それでも、太郎の事を思いながら毎朝、休まず続けた。
あと十日、あと十日で、二度目の百日行が終わる‥‥‥
どうか、無事でいて下さい。
楓は机の前に座り込んだまま、ぼうっとしていた。
山の緑を糸のような細い雨が濡らしていた。
いよいよ、太郎の百日行は、今日で最後となった。
太郎は、この山歩きの百日行を高林坊の高く厚い壁を打ち破るために始めた。しかし、焦り過ぎた。答えを早く得ようとして、冬の寒い中、凍るような滝に打たれた。
十一面観音に縋り、一心に答えを求めた。身も心も冷えきり、答えが得られないと、観音様よりも生身の人間、それも、暖かく自分を迎え入れてくれる楓を求めた。
太郎は楓に縋った。
楓は優しかった。
太郎は高林坊の事も剣の事もすっかり忘れ、楓と二人だけの平和で楽しい世界に遊んだ。高林坊の事は確かに忘れる事はできたが、それは、ただ、忘れただけで、何の解決にもならなかった。
太郎は再び、百日行を始めた。
初めの一ケ月、太郎は楓に悩まされた。
山歩きをしながら、楓の事が頭から離れなかった。
楓の優しい笑顔、太郎を見つめる素直な目。
「太郎様」と呼びかける楓の声。
そして、柔らかく、滑らかで、温かい楓の身体‥‥‥
「これじゃ、いかん。女の事は忘れろ!」と思っても、いつの間にか、楓の事を思いながら歩いていた。
山歩きなんかやめて、楓の所に行こう、と何度、山を下りかけたかわからない。太郎がその都度、山を下りなかったのは、やはり、楓のお陰だった。楓の所に行こうと山を下りかけると、いつも、優しく微笑みかけている楓の顔が急に冷たくなった。太郎に背を向け、遠くに去って行こうとする。すると、太郎は我に返り、山道に戻った。
二ケ月目に入り、楓の幻が消えると、再び、高林坊が現れた。
仁王立ちした高林坊が太郎を見下ろして笑っている。その笑い声までが太郎を悩ませた。
太郎は高林坊の幻から逃げるように山の中を走り回っていた。寝ても覚めても、高林坊は付いて回った。寝ていれば高林坊の幻に押し潰されそうになり、山を歩けば追いかけて来た。
三ケ月目になると、高林坊と楓が代わる代わるに出て来た。
高林坊は棒を振り上げ、追いかけて来る。楓は山の下の方から手招きをした。太郎はまた、山を下りようとした。すると、今度は、師匠、風眼坊の姿が現れた。風眼坊は太郎を見ながら笑っていた。
「師匠、俺は、どうしたらいいんです」と太郎は叫んだ。
風眼坊はただ、笑っているだけだった。
次に、父、愛洲隼人正宗忠が出て来た。父は槍を持ち、軍船の船首に立ち、太郎の方を見ていた。
「父上!」と太郎は叫ぶと山道に戻った。
中途半端な修行で、父の前に帰る事はできなかった。
太郎はまた、高林坊の幻に追われながら山道を走るように歩いた。
八十日目だった。その日は霧が深かった。
太郎は逃げるように山を歩き、いつものように真言を唱えるべき所に座って真言を唱えていた。
急に、辺りが明るくなり、静かになった。
不思議と太郎を悩ましていた幻も消えた。
太郎は顔を上げた。
そこには不動明王が立っていた。太神山の不動明王だな、と太郎は改めて思った。
太郎は不動明王を見上げた。
不動明王は右手に剣を持ち、左手に羂索を持ち、火焔(カエン)を背負っている。
太郎の脳裏に、突然、閃くものがあった。
不動明王の剣‥‥‥それは、心の迷いを断ち斬る剣である‥‥‥
心の迷い‥‥‥心というのは不思議なものだった。高林坊の幻も、楓の幻も、皆、心の迷いから生じるものだった。
太郎は不動明王に合掌をした。
太郎は新しく生まれ変わったような気がした。今まで身にまとっていた不要な物が、すっかり取れ、身も心も自由になったような気がした。
太郎は本堂の外に出た。
霧がゆっくりと引いて行くのが見えた。そして、毎日、見慣れていた風景が目に映った。しかし、それは、まったく違う風景のように目に入った。
急に、視野が広くなったように感じられた。
太郎は山道を歩いた。
幻は付いて来なかった。
八十五日目に師匠と会い、千手観音の手の事を聞かされた。聞かれた時は、すぐに答える事はできなかったが、やがて、答えは出た。やはり、心に関するものだった。
それは、一つの事に心を囚われてはならないという教えだった。一本の手に心を囚われると、残りの九百九十九本の手がおろそかになって使えなくなる。常に、千本の手に心を止めていなければならない。また、千本の手だけに心を止めてもいけない。心を止めれば、足や顔がおろそかになる。全身、すべてに心を置かなければならない‥‥‥
そう、師匠は俺に教えたかったのだろうと思った。
いよいよ、最後の日、雨は降っているが、太郎は楽しみながら山を歩いていた。しかし、三日前から変なものを感じていた。誰かがどこかから、自分の事をじっと見ているような気がしてならなかった。そう感じると、太郎はすぐに立ち止まり、辺りを見回すが、どこにも誰も見当たらなかった。
修行を積んで幻は退治したはずなのに、また新しい幻が出て来たのか、と太郎は思った。それとも、師匠が俺をからかっているのか、とも思った。師匠なら見つけ出してやろうと思うのだが、捜しても、どこにも誰もいなかった。
今日も金勝山から竜王山に行く途中で、それを感じたが誰もいなかった。そして、帰り道、雨も上がり、すでに日が暮れかかっていた頃、金勝山から阿星山に行く途中で、また感じた。太郎は辺りを見回した。やはり、誰もいなかった。
一体、何なのだろうと太郎は思った。今日で百日行が終わるというのに、これでは、また、やり直さなくてはならない。
太郎は目を閉じ、その場に立ち尽くした。
「ここじゃよ」と声がした。
太郎は目をあけて、声のする方を見た。
老山伏が岩の上に座って笑っていた。
「大分、上達したようじゃのう」と老山伏は言った。
「あなたは、一体、何者です」と太郎は聞いた。
「見た通りの行者じゃ」
「あなただったんですね。三日前から、どこかで私を見ていたのは」
「ハハハ、そうじゃよ。しかし、三日前からではないぞ。お前が百日行を始めた時から、わしはどこかで見ておった。お前が気づかなかっただけじゃ」
「どうしてです。どうして、私を見ていたんです」
「どうしてかのう。おぬしのやる事を見てると面白いんじゃ。行をやめて、女に会いに行こうとしたり、化物に追いかけられているように逃げ回ったり、阿弥陀さんの前で居眠りしたり、わしの真似をして岩の上で座ってみたり、やる事が面白いんじゃよ、おぬしは」
「うるさい」と太郎は怒鳴った。
「そう、怒るな。わしの名は智羅天(チラテン)じゃ。わしは、いつでも、ここにおる。会いたくなったら、いつでも来い。わしのような年寄りでも、少しは、おぬしの役に立つかもしれんぞ」
そう言うと智羅天と名乗る老山伏は岩陰に消えた。
太郎はしばらく、その場に立ったまま、智羅天が座っていた岩をじっと見つめていた。
先頭を歩いているのは棒術師範代の西光坊元内だった。西光坊は岩の上でのんきそうに休んでいる太郎を見つけ、声を掛けて来た。
「太郎坊、そんな所で何してる」
「はい、皆さんが大勢、やって来たので踏み潰されないように、ちょっと避けたんです」
「おぬし、また、百日行を始めたらしいな」
「はい」
「まあ、頑張れよ」と言うと、西光坊は先に立って歩いて行った。
後にぞろぞろと付いて行く若い修行者たちは皆、太郎の方を見ながら歩き去って行った。
道は細く狭い。一人づつしか歩けない。二百人近くが通り過ぎるには、かなりの時間が掛かった。一番最後には剣術の師範代、中之坊円学が付き添っていた。
「太郎坊じゃないか」と中之坊は足を止めた。「何してるんじゃ」と西光坊と同じ事を聞いた。
「大蛇が通り過ぎるのを待っているんです」
「大蛇?‥‥‥おう、まさしく、大蛇じゃ。しかし、これでも、いくらか短くなったんだぞ。あと二十日あるんだが、終わる頃にはこの半分になるじゃろ」中之坊はそう言いながら、大蛇の尻尾の後を追って行った。
金勝山の方を見ると、ぞろぞろと黒い蛇が白い雪の中を進んで行くのが見えた。それを見ながら、太郎は大きく手を打つと笑い、岩を降りて行った。
太郎は、あの老山伏と同じ事をやって見ようと思い立った。彼らを途中で追い越し、竜王山と狛坂寺の間の岩の上に座って、皆が来るのを待っていてやろうと思った。
岩を降りると辺りを見回してみた。絶対、どこかに抜け道があるはずだと思ったが、雪に隠れてわからなかった。太郎は道に戻り、皆に気づかれないように後を追った。金勝寺に行く途中から道をはずれ、山の中に入って行った。金勝寺に寄らずに真っすぐ竜王山に向かえば、奴らを追い越せるだろう。雪をかぶった熊笹をかき分け、びっしょりになって山の中を抜けると、思った通り、金勝寺から竜王山へ向かう尾根道に出た。
竜王山の山頂に立つと、黒い大蛇が金勝寺から、こちらに向かって来るのが遠く見えた。太郎は山を下り、目的の岩に向かった。今度の岩は前より高かったが、登るのはそれ程、難しくはなかった。
太郎は岩の上に辿り着くと座り込んだ。
風が出て来た。太郎の着物はびっしょり濡れていた。その濡れている着物に風が当たり、凍るように冷たかった。
一体、俺は何をやってるんだろう、と太郎は思った。
皆を驚かそうと思って、山歩きの行を始めたのではないはずだった。こんな事では駄目だ。こんな事をやっていたのでは、高林坊に勝つ事などできるわけがない‥‥‥
皆が、ぞろぞろと近づいて来た。
太郎は道の方に背を向けて座り直し、目を閉じて、皆が通り過ぎて行くのを待った。
西光坊が声を掛けたが、太郎は答えなかった。
中之坊にも答えなかった。
皆が通り過ぎた後も、太郎は目を閉じたまま、じっと座っていた。
一体、俺は、どうしたらいいんだ。
太郎は岩から降りると、俯きながら山道を歩き出した。
狛坂寺の阿弥陀如来の前で座り込み、無心になって真言を唱えてみたが、答えは得られなかった。阿弥陀如来は、ただ、太郎を見下ろしているだけだった。
次の弥勒菩薩の前でも祈ったが、弥勒菩薩は太郎の事など完全に無視していた。
しょぼしょぼと太郎は山道を下りて行った。
観音の滝は凍っていなかった。白い水しぶきを上げて落ちていた。
太郎は十一面観音の前に座り込んだ。観音様は優しく微笑んでいた。
太郎は滝を見た。見るからに冷たそうだった。
太郎は錫杖と刀と法螺貝を祠の前に置くと、気合を入れて滝壷の中に入って行った。非常に冷たかった。体中を針で刺されたように痛かった。
太郎はもう一度、気合を入れると、滝の下に座り込んだ。氷の中に座り込んでいるようだった。滝の水は容赦なく、太郎の頭を刺すように落ちて来た。
太郎はもう一度、気合を入れ、両手を合わせ、滝の音に負けない程、大声で真言を唱え始めた。真言を唱えているうちに、体がカッカと燃えるように熱を持って来た。頭はボーッとしてきて、何も考えられなくなった。太郎は怒鳴るように、繰り返し、繰り返し、真言を唱えた。
太郎はまったく気づかなかったが、太郎が滝に打たれて無心になっている時、太神山から戻って来た西光坊率いる一行が太郎の姿を見ていた。
西光坊は滝に打たれている太郎を見て、声を掛けるのも忘れ、ポカンとしていた。そして、我に返ると西光坊は太郎に向かって合掌をし、真言を唱えた。西光坊に続く者たちも皆、太郎に合掌をして真言を唱えては去って行った。
太郎は我も忘れ、時も忘れ、滝に打たれ、真言を唱え続けていた。
モヤッとしていた頭の中が急に明るくなり、金色に輝く、観音様の姿が浮かび上がって来た。
「観音様、助けてくれ!」と太郎は心の中で叫んだ。
観音様が笑った。
やがて、それは、大笑いとなった。太郎を馬鹿にしたように観音様は大口を開けて笑っていた。
「やめてくれ!」と太郎は頭を横に振った。
大笑いの観音様は消え、牙を剥き出して怒っている観音様が現れた。
観音様は次々に顔を変え、だんだんと優しい顔になっていった。
そして、最後に、その顔は楓の顔になった。楓は優しく、太郎を見守りながら微笑んでいた。
「楓!」と太郎は心の中で叫んだ。
太郎は目を開けた。
いつの間にか雪が降っていた。
辺りはシーンと静まり返っている。
本当なら滝の音でうるさいはずなのに、不思議と静かに感じられた。
時が止まってしまったかのようだった。
「楓‥‥‥」と太郎は呟いた。
なぜ、急に、楓の姿が現れたのだろう‥‥‥
もしかしたら、楓の身に何か良くない事が‥‥‥
そう思うと、太郎はじっとしていられなかった。
滝から上がると、濡れた体のまま雪の降る中、沢に沿った道を楓のいる花養院へと走り向かった。
寒さや冷たさなど、一向に感じられなかった。
2
太郎は走り続けた。
途中で、刀や錫杖、法螺貝を滝に忘れてきた事に気づいたが、そんな事はどうでもよかった。とにかく、楓の事が心配で、雪の中、濡れた体で走り続けた。
花養院に着いた時には、すでに日は暮れ、門は閉ざされていた。
太郎は塀に飛び付き、乗り越えると、木陰に隠れながら本堂の裏の方にある楓のいる離れに向かった。窓から中を覗くと、楓は明かりの下で何かを書いていた。
太郎は小声で楓を呼んだ。
楓は顔を上げて窓を見た。
「俺だ」と太郎は言った。
「誰?」と楓は帯の所に手をやった。
「太郎坊だ。石つぶてはいらんよ」
「あなたなの、今頃、何してんのよ」
楓は窓に近づいて来た。
「ちょっと、入れてくれ」
「待ってて」と楓は入口の方に行った。
入口の戸を開けると太郎を素早く中に入れ、外を窺ってから戸を閉めた。
「どうしたの、一体。川にでも落ちたの、びっしょりじゃない」
「そんな事より、お前、大丈夫か」
「何が」
太郎は楓を上から下まで眺めた。
「ねえ、一体、どうしたの」
「良かった。大丈夫だったんだな」と太郎は言うと、ほっとして腰を落とした。
滝に打たれていたら、急に楓が出て来たので、心配になって飛んで来た事を説明した。
「この寒いのに、滝に打たれていたですって」楓は呆れて、ポカンと口を開けていたが、「風邪ひいたら、どうすんのよ」と心配した。
「大丈夫だ。そんな、やわじゃない」と太郎は言ったものの、安心して気が緩んだせいか急に寒くなって来た。
「ほら、みなさい。震えてるじゃない。風邪ひくわ。早く、その濡れたの、脱いでよ」
太郎は楓に言われるまま、濡れた着物を脱いだ。楓は乾いた手拭いと着物を持って来て、太郎に渡した。
「あたしのしかないけど我慢してね」と楓は言いながら目を伏せた。
太郎は体を拭きながら、楓を見て、「どうしたんだ」と聞いた。
「だって‥‥‥急に、裸になるんだもの‥‥‥」
「裸になれって言ったのは、お前だろう」
「それは、濡れてる物、着てたら風邪ひくからよ」と楓は言うと隣の部屋に隠れた。
「今日の楓は、いつもと違うぞ」と太郎は楓の着物を着ながら言った。
「この濡れたの、どうしよう」と太郎は聞いた。
「そこに置いといて、あとで、洗っておくわ」
「うん」と言いながら太郎は楓のいる部屋に上がった。楓は元の所に座っていた。
「どうしよう」と楓は俯きながら言った。
「何を」
「だって、見つかったら大変じゃない」
「何で」
「ここは尼寺でしょう。夜、男の人なんか部屋に入れたりして‥‥‥」
「そうか、お前に迷惑かかるな‥‥‥やっぱり、帰るわ」
「帰るって、その格好で」
「いや、また、あれを着るさ」
「風邪ひくわ」
「大丈夫だよ」と言ったが、太郎は大きなくしゃみをした。
「大丈夫じゃないわ」
「平気さ」と太郎は言ったが、急に寒気がして来た。
「何やってたんだ」と太郎は聞いた。
「仕事よ」
「俺に構わず、続けていいよ」
楓は顔を上げ、太郎を見た。
太郎は震えていた。
「風邪ひいたんじゃないの」
楓は太郎に近づくと、太郎の額に手を当てた。「凄い熱だわ」
「大丈夫だよ、すぐ帰る」と太郎は言って、楓の目を見つめた。
「駄目よ」と楓は言ったが、太郎の目から視線をそらせた。
太郎は楓を抱き寄せた。
「俺は楓が好きだ」と太郎は楓の耳元で囁いた。
楓は顔を上げて、太郎を見つめた。
「あたしもよ‥‥‥でも、駄目。あなたは今、修行中よ‥‥‥あたしの事なんか忘れて、修行しなくちゃ駄目」
「修行は修行。お前はお前だ」
「違うわ‥‥‥それより、凄い熱よ。寝た方がいいわ」
「帰る」と太郎は言った。「俺が、ここで寝るわけにはいかないだろ」
「あなたは病人よ。病人を追い出すわけにはいかないわ。まして、今、外は雪よ。そんな中、帰って行ったら、途中で倒れちゃうわ」
楓は太郎から離れると、隣の部屋に布団を敷き、太郎を無理やり寝かせた。台所に行き、水桶を持って来て、その中で手拭いをしぼると太郎の額の上に載せた。
「ゆっくり、休んでね」
「うん‥‥‥」
太郎は眠った。
目を開けると、楓はまだ、座り込んで何かを書いていた。
「楓」と太郎は力なく声を掛けた。
「どう?」と楓は聞いた。
「まだ、寝ないのか」
「もう少し」
「いつも、こんな遅くまで起きてるのか」
「‥‥‥寝るわ」と楓は明かりを吹き消した。
楓は着物を脱ぐと、太郎の隣に入って来た。
「大丈夫?」と楓は太郎の額に手を当てた。
太郎は楓を抱きしめた。
3
太郎の熱は、なかなか下がらなかった。
朝になり、楓は目を覚ますと、隣に寝ている太郎を見つめた。そして、額に手をやった。太郎の熱が楓の手に伝わって来た。
太郎は目をあけた。
「もう、朝か‥‥‥」と力のない声で言って、楓を見ると笑った。
太郎は手を伸ばすと楓を抱きしめた。力一杯、抱きしめたが、体中がだるくて力がでなかった。
「迷惑かけて、すまん‥‥‥」声がかすれていて、口の中がやたらと乾いていた。
「迷惑なんかじゃないわ」と楓は太郎を見つめながら言った。
「誰にも見つからないうちに帰る‥‥‥」
「駄目、まだ、熱が下がらない」
「平気さ」と太郎は体を起こそうとしたが、頭は重く、体は言う事を聞かなかった。
「無理をしちゃ駄目‥‥‥ね、ちゃんと治るまで、ここにいて‥‥‥じゃないと、あたし、心配で、心配でしょうがない」
太郎は頷いた。
楓は布団から出ると着替え、水桶の水を替えて手拭いをゆすぐと、太郎の額に載せた。
「寝てなきゃ、駄目よ」
太郎は楓の手を取って、楓を見上げていた。
楓は太郎の手を優しく包んだ。
「行くわ」と楓は言うと、太郎の手を布団の中に入れ、優しく笑うと出て行った。
太郎は楓を見送ると目を閉じた。
何も考える事ができなかった。頭の中はボヤッとしていた。そのボヤッとした中に、楓の優しい顔だけが浮かんでいた。
太郎は眠った。
どの位、眠ったのかわからないが、気がつくと側に楓が座っていて、太郎を見守っていた。
「どう?」と楓は聞いた。
「うん‥‥‥大分、良くなったみたいだ」
「そう、よかった」と楓は笑った。
「今、何時(ナンドキ)?」
「お昼頃よ」
「そうか‥‥‥」
「ねえ、何か、食べる?」
「いい」と太郎は首を振った。「いいのか。ここにいて」
「大丈夫。松恵尼様にあなたの事、話したわ‥‥‥そしたら、今日は休んでいいから、あなたの看病をしっかりやれって‥‥‥」
「俺が、ここにいても大丈夫なのか」
楓は頷いた。
「あたしもその事を聞いたの。そしたら、仏様の世界には男も女もないし、困っている人を助けるのが仏様の教えですって‥‥‥それに、あなたの事は風眼坊様からも頼まれているし、ちゃんと治るまで絶対に閉じ込めて置けって言ったわ」
「閉じ込めて置けか‥‥‥」
「お薬もいただいたわ。あなたのお師匠様が作ったお薬ですって‥‥‥」
「師匠の薬‥‥‥」
「良く効くらしいわよ。それに、松恵尼様が熱を下げるのに、一番いい方法っていうのを教えてくれたわ‥‥‥」
「護摩(ゴマ)を焚いて、祈祷でもするのか」
「ううん」と楓は首を振って、顔を赤らめた。「‥‥‥しっかりと抱き合うんですって‥‥それも、お互いに、全部、着物を脱いで‥‥‥」
「えっ? 松恵尼様がそんな事を言ったのか」
楓は顔を真っ赤にして、頷いた。「それが一番、自然なんだって‥‥‥そうすれば、すぐ、熱は下がる‥‥‥でも、二人は若いから逆に熱が出るかもしれないわねって笑ったわ」
「楓‥‥‥」と太郎は楓の手を取った。
「太郎坊様‥‥‥」と楓も呟いた。
「太郎でいいよ‥‥‥俺の本名は愛洲太郎左衛門久忠って言うんだ」
「愛洲太郎左衛門久忠‥‥‥お侍さんみたいね」
「侍だよ。山伏は仮の姿さ。本当の事を知ってるのは師匠しかいない。それと、お前だ」
「そうだったの‥‥‥」
「山伏の方が良かったかい」
「ううん、どっちでも同じよ。あなたに変わりはないわ‥‥‥それに、あたしもお侍の娘らしいわ。よく、知らないけど‥‥‥」
楓は太郎の額の手拭いを替えた。
「汗が凄いわ。着替えた方がいいわ。それに、何か、食べた方がいいわ」
「うん‥‥‥」
「ちょっと待っててね。おかゆを持って来るわ」
楓は水桶を持って出て行った。
太郎は楓の後姿を見ながら、何となく、心が休まるような気がした。体の調子は良くないが、久し振りに、のんびりと休んでいるような気がした。
二年前、曇天と一緒に京へ旅をして以来、ずっと、剣に熱中してきた。剣の事しか考えていなかった。毎日、朝早くから夜遅くまで剣を振っていた。のんびりと休む事など一度もなかった。今は熱を出して寝てはいるが、楓が側にいてくれるという事で、心は休まっていた。
乾いた着物に着替え、楓が作ってくれたおかゆを少しだけ食べ、師匠が作ったという苦い薬を飲むと太郎は、また、眠りについた。
次に目が覚めた時、もう、部屋の中は暗くなっていた。そして、太郎の横には何も身に付けていない楓が寄り添って寝ていた。
太郎は楓の体を抱き寄せた。柔らかくて、滑らかで気持ち良かった。太郎自身も何も身に付けていなかった。
「恥ずかしいわ」と楓は目を閉じたまま囁いた。
「ずっと、側にいてくれたのか」
楓は頷いた。
「そうか‥‥‥ありがとう‥‥‥」
「寝た方がいいわ‥‥‥」
太郎は楓を強く抱きしめた。
4
太郎の百日行が再び、始まった。
五日の間、太郎は楓と二人きりで夢のような楽しい日々を過ごした。
三日目には太郎の熱もやっと下がり、食事も取れるようになっていた。
四日目には布団から出て、木剣の素振りを軽く始めた。
五日目になると体の調子は元に戻って来ていたが、楓と別れたくないので、まだ、調子が悪いと言って、楓の部屋でゴロゴロしていた。
六日目の朝、太郎は楓を抱きながら、「また、熱が出て来たみたいだ」と言った。
「そう」と楓は言うと太郎の目をじっと見つめた。「あたしもよ。体中、熱が出てるわ」
「もう少し、休んでいた方がいいかな」と太郎が聞くと、「もう駄目」と楓は強く言った。
「もう駄目よ。あたしだって、あなたとずっと一緒にいたいわ。でも、これ以上、松恵尼様に迷惑かけられない。それに、あなただってちゃんと修行しなくちゃ駄目」
太郎は楓にそう言われても、楓と別れがたく、グズグズしていた。
楓はとうとう薙刀を持ち出して、太郎を追い出した。
「わかったよ、出て行く。俺はまた、百日行をやる」
「えっ、百日行‥‥‥」
「うん、百日間、お前と会えない」
「百日間も‥‥‥」
「ああ。百日間なんて、すぐさ」と太郎は言うと、素早く楓に近づき、楓を抱きしめた。そして、楓の秘所をまさぐり、離れると、薙刀を持ったままポカンと立っている楓を残して去って行った。
太郎は何も考えずに、ただ、歩く事だけに専念した。
楓の事は頭から離れなかったが、錫杖を鳴らしながら山の中を歩き続けた。夜が明ける前から夜遅くまで、ただ、山の中を歩いていた。
距離も延ばした。
今までは太神山の不動寺で折り返していたのを、さらに、太神山から矢筈ケ岳を通り、笹間ケ岳まで足を延ばした。以前は往復十三里(五十二キロ)だったのが、今度は十六里(六十四キロ)となった。のんびり歩いていれば飯道山に戻るのが深夜になってしまう。太郎は飛ぶような速さで山の中を走り回っていた。
やがて、冬が去り、春になった。
山は少しづつ変化して行った。
雪が溶け、草や木が芽を出し、緑が少しづつ増えていった。道端のあちらこちらに小さな花が咲き、山桜が見事に咲き誇った。
やがて、桜の花も散り、山はすっかり緑でおおわれた。
太郎の頭の中から、ようやく、楓の事も高林坊の事も消えてなくなった。
太郎自身、自然と一体化したかのように心は澄み切っていた。
八十五日目の朝を迎え、太郎は朝日を背に受けながら歩いていた。
森の中では色々な鳥たちが飛び回り、鳴いていた。
太郎は口笛で鳥たちに挨拶をした。
毎日、同じ道を歩きながらも、自然は毎日、違う姿を見せてくれた。
自然は生きている。そして、自分も生きている。ただ、生きているという事に喜びを感じ、また、自然という大きな力によって、自分が生かせて貰っているという事に感謝するようになっていた。
今まではただの義務感で、あちこちにある阿弥陀様や地蔵様、観音様に手を合わせ、真言を唱えていたのだったが、最近は感謝の気持ちを込め、心から真言を唱える事ができるようになった。
阿星山のお釈迦様に感謝を込めて祈ると太郎は金勝山に向かった。
天狗が座っていた。
太郎がこの前、座った岩の上に赤い顔をした天狗が座り込み、太郎の方を見ながら笑っている。
太郎は初め、その天狗は一年前に見た老山伏かと思ったが違っていた。体格が全然違う。老山伏は痩せ細っていて小さかったが、今、岩の上に座り込んでいるのはガッシリとした体格の男だった。
「太郎坊」と天狗は低い、かすれた声で言った。
「誰です?」と太郎は聞きながら、考えていた。
俺がこの前、あの岩に登ったのを知っているのは西光坊と中之坊だ。あの二人のうち、どちらかが俺をからかっているのだろうと思った。
「見た通りの天狗じゃ」と天狗は笑いながら言った。「この山にも天狗がいると聞いて、大峯からはるばるやって来たんじゃ」
大峯と聞いて、太郎にはピンと来た。
「師匠ですか」と太郎は聞いた。
天狗は笑いながら面を取った。面の下には懐かしい風眼坊舜香の顔があった。
「久し振りじゃのう」と風眼坊は太郎を見下ろしながら言った。「一年、見んうちにお前も立派になったもんじゃ」
「師匠‥‥‥」
師匠、風眼坊に会ったら、言いたい事や聞きたい事が一杯あったはずなのに、師匠の顔を見たら、太郎は懐かしくて胸が一杯になって何も言う事ができなかった。
「お前の事は色々と聞いたぞ。派手にやってるらしいな」
「いえ、そんな‥‥‥」
「冬の寒い中、七日間も滝に打たれていたそうじゃのう」
「えっ?」と太郎は驚いた。
「みんなが、お前の事を大した奴だ。まさしく、あいつは天狗太郎じゃと言っておる。若い連中は、皆、お前のようになりたいと修行に励んでいるそうじゃ‥‥‥それから、『天狗太郎と陰の五人衆』というのも聞いたぞ。ハハハ」
「七日間の滝打ちの行っていうのは誰が言ったんです」
「誰が? お山中、みんなが知っとるわい」
「そうですか‥‥‥」
不思議だった。どうして、そんな風な事になってしまったのだろうか。
滝に打たれたのはたったの一日だけだった。後は熱にうなされて楓の所にいた。錫杖や刀や法螺貝をあの滝の所に置きっ放しだったので、皆が誤解して、ずっと、あそこで修行していると思ったのだろうか。しかし、不思議だった。最初の日は皆に見られたかもしれないが、後の六日間は見られるはずがない‥‥‥
一体、どうしたのだろう。
皆は俺の幻でも見ていたのだろうか。
「今日で何日目じゃ」と風眼坊が聞いた。
「八十五日目です」
「後、十五日か‥‥‥とにかく、今は、この行をやりとげる事だな。それからじゃ、後の事を考えるのは‥‥‥今日は久し振りにお前と歩くか」
風眼坊は岩の上から消え、太郎の前に現れた。
「楓との事も聞いたぞ」と風眼坊は太郎の肩をたたいて笑った。
「あれはいい女子じゃ、大事にしろよ」と言うと、風眼坊は先に立って歩き出した。
太郎は風眼坊の後を追った。風眼坊は相変わらず歩くのが速かったが、どうにか一緒に歩けるようになっていた。
風眼坊の後ろ姿を見ながら、太郎は一年前、風眼坊に連れられて、五ケ所浦から飯道山に向かう山歩きを思い出した。あの時は悲惨だった。足が棒のようになり、泣きながら風眼坊の後を追っていた。
あれから色々な事があった。五ケ所浦にいたら、一生、経験できないような事ばかりだった。
金勝山の千手観音の前で、風眼坊と太郎は並んで真言を唱えた。
「太郎坊」と風眼坊は金色に輝く千手観音を見上げながら言った。
「はい」と太郎は風眼坊を見た。
「おぬし、あのように手が千本あったとしたら、その手を自由に扱う事ができるか」
「えっ?」と太郎は千手観音を見上げた。
「よく見ろ。あの千本の手は皆、違う物を持っておる。宝剣とか羂索(ケンサク)とか宝珠、鉄斧、弓、槍、錫杖、五色雲とか、皆、役割が違う。必要な時に、必要な手を動かさなければならないわけじゃ。お前にはそれができるか。例えば、その蓮華の花を持っている手、その手を迷わず、前に差し出す事ができるかな」
太郎は千手観音の千本の手を見ながら考えていた。
「それがわかれば、お前の剣も本物になるじゃろう。あと十五日かけて、ゆっくりと考えてみろ」
「はい‥‥‥」
金勝寺を出ると風眼坊と太郎は竜王山、観音の滝と通り、太神山へと向かった。
太神山の不動明王の前で、太郎は風眼坊に聞いた。
「不動明王の持っている剣は一体、何を斬るんです」
風眼坊は太郎を見ながら、「さあな」と言った。「そんな事、わしも知らんのう。お不動さんに聞いてみろ」
風眼坊はとぼけていた。
二人は太神山からさらに進み、愛染(アイゼン)明王を祀る矢筈ケ岳を通り、摩利支天を祀る笹間ケ岳へと来た。
「ここで別れる」と風眼坊は言うと琵琶湖の方に下りて行った。
「今度は、いつ、来てくれますか」と太郎は聞いた。
「お前の行が終わった頃、また来る」
風眼坊は走るように山を下りて行った。
太郎は道を引き返した。
5
楓は薙刀を持ったまま、ぼうっとしていた。
今日で九十日目、後十日で太郎の百日行は終わりだった。
また、無茶をして熱を出したりしてないかしら。
無事に終わってくれるといいんだけど‥‥‥
楓は太郎の事で頭が一杯だった。
「お師匠様」とアカネという娘が声を掛けた。
アカネは楓の教え子の中で一番年長の十五歳だった。楓は今、十二歳から十五歳までの娘たち、十八人を教えている。皆、近所の郷士の娘たちである。
「お師匠様」とアカネがもう一度、声を掛けた。
楓はようやく、我に返って、アカネの方を向いた。
「終わりましたけど」とアカネは言った。
楓は皆に形の稽古をさせていた。それが終わったとアカネは言った。
「そう」と楓は答えた。
「お師匠様、最近、変ですよ。どうしたんですか」とアカネが心配そうに聞いた。
「何でもないわ」
「お師匠様、最近、太郎坊様、全然、見えませんね。どうしたんでしょう」と美代という女の子が言った。
「今、太郎坊様は忙しいのよ」
「いくら、忙しいったって変よ」とサヤという娘が言った。「もう、三ケ月以上、顔を見せないわ。前は、ちょくちょく来てたのに」
「きっと、お師匠様の石つぶてにやられたのよ。それに懲りて、もう、来ないのよ」とミツという娘は言う。
「それは違うわ。お師匠様は太郎坊様には石つぶては投げないわ。お師匠様だって太郎坊様の事、好きなのよ」と美代は言った。
「だったら、おかしいわ。どうして、来なくなったの」とマキが聞く。
「もしかしたら、もう、お山にいないんじゃない。用があって、どこかに行ってるのよ」とサヤは言った。
「そうね、そうよ、きっと」
「お師匠様が可哀想、太郎坊様、早く帰って来ればいいのに‥‥‥」
娘たちは、みんなして勝手な事ばかり話していた。
「黙りなさい」と楓は言った。
「だって‥‥‥」と美代は悲しそうな顔をして、楓を見上げた。「お師匠様が、あまり、元気ないから、みんなで心配してるのに‥‥‥」
「ありがとう。でも、あたしは大丈夫よ」
「本当に、太郎坊様はどうしたのかしら」
「みんなの言う通り、ちょっと出掛けてるの。でも、あと十日位したら帰って来るわ」
「ほんと?」
「ほんとよ」
「良かった」と娘たちは、また、キャーキャー騒ぎ出した。
「静かにしなさい‥‥‥それでは、今度は二人づつ組になってお稽古しましょう」
娘たちは、また稽古を始めた。
楓は皆の稽古を見て回った。
今日は松恵尼は留守だった。
最近、松恵尼はやたらと、どこかに出掛けていた。どこに行くのかわからない。一日で帰って来る時もあれば、二、三日、留守にする事もある。楓が聞いてもはっきりと教えてくれない。今、京で戦が続いているから、やたらと忙しいと言う。何がどう忙しいのか、楓にはわからないが、確かに松恵尼は忙しそうだった。寝る暇もない位、動き回っていた。
この花養院には松恵尼の他にもう一人、尼さんがいた。春恵尼という三十歳前後の物静かな婦人だった。彼女がここに来て、もう二年位経つ。彼女はほとんど出掛けない。暇さえあれば写経をしていた。戦で家族を亡くし、たった一人になり、出家したのだと言う。
今、春恵尼は客の接待をしていた。最近になって、この寺に訪れる客の数も増えて来た。それも、遠くの方から来る旅の客が多い。僧侶や尼僧もいるが、商人の数も多い。時には、偉そうな侍が来る事もあった。
先程、来たのも侍だった。供を二人連れて、馬に乗って訪ねて来た。急いで来たとみえて、三頭の馬は汗びっしょりだった。
「松恵尼様は留守です」と楓は言ったが、侍は、「構わん、春恵尼殿はいるか」と言った。
初めて見る侍だったが、春恵尼の事を知っていた。楓は春恵尼に会わせた。もう、半時(一時間)以上経つのに、まだ、侍たちは帰らなかった。何やら話し込んでいるらしい。もしかしたら、春恵尼が出家する前の知り合いなのかもしれない、と楓は思った。
稽古を終え、娘たちを帰すと、楓は夕食の支度を始めた。
三人の侍が帰ると入れ違いに松恵尼は帰って来た。
夕食を終え、雑用を済ますと楓は離れの自分の部屋に戻った。
一人になると、また、太郎の事が頭に浮かんで来た。
太郎がこの部屋を去って百日行を始めたその日から、楓は太郎の無事を祈って、毎朝、水垢離(ミズゴリ)を始めた。今は、もう、それ程でもないが、冬の寒い中、水を浴びるのは辛かった。それでも、太郎の事を思いながら毎朝、休まず続けた。
あと十日、あと十日で、二度目の百日行が終わる‥‥‥
どうか、無事でいて下さい。
楓は机の前に座り込んだまま、ぼうっとしていた。
6
山の緑を糸のような細い雨が濡らしていた。
いよいよ、太郎の百日行は、今日で最後となった。
太郎は、この山歩きの百日行を高林坊の高く厚い壁を打ち破るために始めた。しかし、焦り過ぎた。答えを早く得ようとして、冬の寒い中、凍るような滝に打たれた。
十一面観音に縋り、一心に答えを求めた。身も心も冷えきり、答えが得られないと、観音様よりも生身の人間、それも、暖かく自分を迎え入れてくれる楓を求めた。
太郎は楓に縋った。
楓は優しかった。
太郎は高林坊の事も剣の事もすっかり忘れ、楓と二人だけの平和で楽しい世界に遊んだ。高林坊の事は確かに忘れる事はできたが、それは、ただ、忘れただけで、何の解決にもならなかった。
太郎は再び、百日行を始めた。
初めの一ケ月、太郎は楓に悩まされた。
山歩きをしながら、楓の事が頭から離れなかった。
楓の優しい笑顔、太郎を見つめる素直な目。
「太郎様」と呼びかける楓の声。
そして、柔らかく、滑らかで、温かい楓の身体‥‥‥
「これじゃ、いかん。女の事は忘れろ!」と思っても、いつの間にか、楓の事を思いながら歩いていた。
山歩きなんかやめて、楓の所に行こう、と何度、山を下りかけたかわからない。太郎がその都度、山を下りなかったのは、やはり、楓のお陰だった。楓の所に行こうと山を下りかけると、いつも、優しく微笑みかけている楓の顔が急に冷たくなった。太郎に背を向け、遠くに去って行こうとする。すると、太郎は我に返り、山道に戻った。
二ケ月目に入り、楓の幻が消えると、再び、高林坊が現れた。
仁王立ちした高林坊が太郎を見下ろして笑っている。その笑い声までが太郎を悩ませた。
太郎は高林坊の幻から逃げるように山の中を走り回っていた。寝ても覚めても、高林坊は付いて回った。寝ていれば高林坊の幻に押し潰されそうになり、山を歩けば追いかけて来た。
三ケ月目になると、高林坊と楓が代わる代わるに出て来た。
高林坊は棒を振り上げ、追いかけて来る。楓は山の下の方から手招きをした。太郎はまた、山を下りようとした。すると、今度は、師匠、風眼坊の姿が現れた。風眼坊は太郎を見ながら笑っていた。
「師匠、俺は、どうしたらいいんです」と太郎は叫んだ。
風眼坊はただ、笑っているだけだった。
次に、父、愛洲隼人正宗忠が出て来た。父は槍を持ち、軍船の船首に立ち、太郎の方を見ていた。
「父上!」と太郎は叫ぶと山道に戻った。
中途半端な修行で、父の前に帰る事はできなかった。
太郎はまた、高林坊の幻に追われながら山道を走るように歩いた。
八十日目だった。その日は霧が深かった。
太郎は逃げるように山を歩き、いつものように真言を唱えるべき所に座って真言を唱えていた。
急に、辺りが明るくなり、静かになった。
不思議と太郎を悩ましていた幻も消えた。
太郎は顔を上げた。
そこには不動明王が立っていた。太神山の不動明王だな、と太郎は改めて思った。
太郎は不動明王を見上げた。
不動明王は右手に剣を持ち、左手に羂索を持ち、火焔(カエン)を背負っている。
太郎の脳裏に、突然、閃くものがあった。
不動明王の剣‥‥‥それは、心の迷いを断ち斬る剣である‥‥‥
心の迷い‥‥‥心というのは不思議なものだった。高林坊の幻も、楓の幻も、皆、心の迷いから生じるものだった。
太郎は不動明王に合掌をした。
太郎は新しく生まれ変わったような気がした。今まで身にまとっていた不要な物が、すっかり取れ、身も心も自由になったような気がした。
太郎は本堂の外に出た。
霧がゆっくりと引いて行くのが見えた。そして、毎日、見慣れていた風景が目に映った。しかし、それは、まったく違う風景のように目に入った。
急に、視野が広くなったように感じられた。
太郎は山道を歩いた。
幻は付いて来なかった。
八十五日目に師匠と会い、千手観音の手の事を聞かされた。聞かれた時は、すぐに答える事はできなかったが、やがて、答えは出た。やはり、心に関するものだった。
それは、一つの事に心を囚われてはならないという教えだった。一本の手に心を囚われると、残りの九百九十九本の手がおろそかになって使えなくなる。常に、千本の手に心を止めていなければならない。また、千本の手だけに心を止めてもいけない。心を止めれば、足や顔がおろそかになる。全身、すべてに心を置かなければならない‥‥‥
そう、師匠は俺に教えたかったのだろうと思った。
いよいよ、最後の日、雨は降っているが、太郎は楽しみながら山を歩いていた。しかし、三日前から変なものを感じていた。誰かがどこかから、自分の事をじっと見ているような気がしてならなかった。そう感じると、太郎はすぐに立ち止まり、辺りを見回すが、どこにも誰も見当たらなかった。
修行を積んで幻は退治したはずなのに、また新しい幻が出て来たのか、と太郎は思った。それとも、師匠が俺をからかっているのか、とも思った。師匠なら見つけ出してやろうと思うのだが、捜しても、どこにも誰もいなかった。
今日も金勝山から竜王山に行く途中で、それを感じたが誰もいなかった。そして、帰り道、雨も上がり、すでに日が暮れかかっていた頃、金勝山から阿星山に行く途中で、また感じた。太郎は辺りを見回した。やはり、誰もいなかった。
一体、何なのだろうと太郎は思った。今日で百日行が終わるというのに、これでは、また、やり直さなくてはならない。
太郎は目を閉じ、その場に立ち尽くした。
「ここじゃよ」と声がした。
太郎は目をあけて、声のする方を見た。
老山伏が岩の上に座って笑っていた。
「大分、上達したようじゃのう」と老山伏は言った。
「あなたは、一体、何者です」と太郎は聞いた。
「見た通りの行者じゃ」
「あなただったんですね。三日前から、どこかで私を見ていたのは」
「ハハハ、そうじゃよ。しかし、三日前からではないぞ。お前が百日行を始めた時から、わしはどこかで見ておった。お前が気づかなかっただけじゃ」
「どうしてです。どうして、私を見ていたんです」
「どうしてかのう。おぬしのやる事を見てると面白いんじゃ。行をやめて、女に会いに行こうとしたり、化物に追いかけられているように逃げ回ったり、阿弥陀さんの前で居眠りしたり、わしの真似をして岩の上で座ってみたり、やる事が面白いんじゃよ、おぬしは」
「うるさい」と太郎は怒鳴った。
「そう、怒るな。わしの名は智羅天(チラテン)じゃ。わしは、いつでも、ここにおる。会いたくなったら、いつでも来い。わしのような年寄りでも、少しは、おぬしの役に立つかもしれんぞ」
そう言うと智羅天と名乗る老山伏は岩陰に消えた。
太郎はしばらく、その場に立ったまま、智羅天が座っていた岩をじっと見つめていた。
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