12.金比羅坊
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蝉が喧しく鳴いていた。
朝から、暑い一日だった。
百日間の長かったような、短かったような山歩きも終わり、今日からいよいよ、剣術の修行ができると太郎は楽しみにしていた。しかし、そう、うまくは行かなかった。朝食が済むと西光坊元内が待っていた。
いやな予感がした。
剣を握る前に、また何かをさせられるのか、また百日間も何かの行をさせられるんじゃないだろうな、と太郎は思った。
「ついて来い」と西光坊に言われ、ついて行った所は本堂から大分離れた、竹藪の中にひっそりと建つ智積院という僧坊だった。
「これも風眼坊殿のやり方だ。まあ、頑張れ」と西光坊は言った。
太郎は智積院で、天台宗の教理をみっちりとたたき込まれる事になった。
太郎は今まで、宗教などに興味を持った事はなかった。山を歩くのが好きだったし、剣の修行をするために、何の抵抗もなく山伏になる事はできた。でも、本格的な山伏になるつもりはない。あくまでも自分は武士で、山伏の姿は剣を習うための仮の姿にすぎないと思っている。
師匠は俺を本当の山伏にするつもりなのだろうか‥‥‥
近江の国では天台宗は盛んだった。比叡山延暦寺、長等山園城寺(三井寺)を初め、琵琶湖の東には湖東三山と呼ばれる、竜応山西明寺、松峰山金剛輪寺(松尾寺)、釈迦山百済寺があり、太郎が山歩きしていた阿星寺、金勝寺、太神不動寺なども皆、天台宗だった。
とにかく、この山にいる一年間は師匠の言われる通り何でもやろうと思い、太郎は偉そうな坊主のやる、やたら難しくて訳のわからない講義をおとなしく聴いていた。
共に講義を聴いているのは太郎以外、山伏は一人もいない。皆、頭を丸めた本物の僧侶たちだった。年は太郎と同じ位だが、青白い顔をしていて、なよなよしかった。
ここが武術修行の本場、飯道山の山の中か、と疑いたくなる程、別の世界のように感じられた。
講義は正午で終わった。講義を聴いていた連中は、ぞろぞろと帰って行った。
太郎は、これからどうしていいのかわからずに座ったままでいた。
「何をしいてる。もう終わりじゃぞ」と偉そうな坊主が声を掛けた。
「はあ」と太郎は回りを見回した。西光坊が迎えに来ていないか、と思ったが姿は見当たらなかった。
「太郎坊とか言ったな‥‥‥どうして、わしの講義を聴く」
「わかりません。師匠が決めた事です」
「師匠? 誰じゃ」
「風眼坊殿です」
「ほう、風眼坊か」
「御存じですか」
「知っておる‥‥‥まあ、しっかりやれ」と僧侶は出て行った。
しっかりやれか‥‥‥
坊主になるわけでもあるまいし、こんなもん、しっかりやったってしょうがない。それよりも剣術だ。俺は剣術をやりに来たのだ。
太郎は修徳坊に戻ると昼食を取り、木剣を持って剣術の道場に向かった。
すでに稽古は始まっていた。うっそうと生い茂る樹木に囲まれた平地で、五十人近くの山伏や近隣から修行に来ている郷士たちが稽古に励んでいた。
よし、久し振りにやるぞ、と太郎は道場の中に入って行った。
「こらっ!」と誰かが大声で怒鳴った。
太郎が声の方を振り向くと、赤ら顔の大男が太郎を睨んで立っていた。
「おい、お前は誰じゃ」
「太郎坊移香ですが‥‥‥」
「ほう、お前が太郎坊か‥‥‥」と大男は太郎をジロジロと眺めた。
「風眼坊殿の弟子らしいが、ここではそんなものは通用せん。容赦はせんぞ。木剣を振るなど、まだ早いわい。ちょっと来い」
太郎は大男の後をついて行った。大男は道場の隅に建っている小屋に入ると鉄の棒を持って出て来た。
「見てろ」と言うと、その棒を軽々と振り回した。
「まず、これが自由に使えるようになるまで、こいつの素振りじゃ」
大男は鉄の棒を太郎めがけて投げ付けた。太郎は飛び上がり、それを避けた。
「そいつを千回、振れ」
太郎は鉄の棒を手に取った。三貫(約十一キログラム)近くはありそうに思えた。
太郎はその鉄の棒を持って構えた。構えるだけでも辛かった。そして、振り上げると腰がふらついた。振り下ろせば重さと勢いで地面を強く打った。
「馬鹿もん! 刀の使い方も知らんのか。地面など斬ってどうする」
何だと! と太郎は大男を睨んだ。
「何だ、その面は。やりたくねえんなら、さっさと山を下りるんだな」
くそ! と太郎は鉄棒を振り上げた。
「よし、千回だぞ」
大男はそう言うと、立木を相手に稽古している者たちの方に行った。
太郎は鉄棒を振り続けた。手の皮は剥けて血だらけになっていった。
日は暮れ、稽古の時間は終わった。
皆が、ぞろぞろと帰って行った。
赤ら顔の大男が近づいて来て、「何回だ」と聞いた。
「六百三十四回」と太郎は息を切らせながら答えた。
「千回だぞ、千回終わるまで、やめてはいかん」そう言うと大男も帰って行った。
両手の感覚はすでになかった。気力で振り上げ、気力で振り下ろしていた。
「ひでえ事しやがる」と誰かが言った。
三人の男が太郎の素振りを見ていた。
「おめえ、余程、金比羅坊(コンピラボウ)に憎まれているらしいな」と別の男が言った。
「あの大男、金比羅坊って言うのか」と太郎は聞いた。
「そうだ、一番、威張っていやがる。気に入らねえ奴さ」
「だが、強え。俺たちじゃ、とても歯が立たねえ」
「あんな奴の言う事なんか、一々聞く事ねえ。もう、やめたらどうだい」
「いや、あともう少しだ。俺はやる。今、やめたら、あの金比羅坊に負けた事になる」
「ふん、おめえも頑固だな。まあ、頑張れや」
三人は帰って行った。
太郎が千回、振り終わったのは、もう、夜もかなり更けた頃だった。
千回目を振り下ろすと太郎はそのまま倒れ、気を失った。
太郎の鉄棒振りは十日間続いた。
午前中の講義が済むと昼飯を流し込み、すぐに道場に来て、鉄棒を振り始め、皆が稽古をやめて帰った後も、一人で振り続けていた。
鉄棒振りが終わると、ようやく、皆の仲間に入れてもらえ、木剣を持ち、立木打ちを始めた。
太郎と一緒に立木を相手に稽古しているのは、どれも皆、剣の振り方をやっと覚えたばかりの初心者たちだった。上級者たちは二人づつ組んで木剣の打ち合いをしている。太郎は早く、そっちの方に入りたかった。
立木を打ちながら太郎は皆を観察していた。見た所、自分より強そうなのは、五人位しかいないようだった。
まず、剣術師範の勝泉坊善栄。勝泉坊の腕は、まだ見た事がないが、全身から漂う雰囲気は太郎の師匠、風眼坊に似た威厳があった。
師範の下に師範代が三人いる。中之坊円学、浄光坊智明、そして、金比羅坊勝盛だった。中之坊と浄光坊は確かに強そうだが、金比羅坊は馬鹿力はあるが、たいした事はないと太郎は見ていた。
あとは、太郎が山に入ったその日、師の風眼坊と試合をした望月彦四郎、同じく甲賀の郷士、鳥居兵内、この五人以外は皆、たいした事ないと太郎は思った。
今、望月彦四郎と鳥居兵内が打ち合いをしていた。太郎は立木を打ちながら、それを見ていた。
「おい、真面目にやれ!」と金比羅坊の声と共に、太郎の背中に激痛が走った。
金比羅坊の持っている竹の棒に打たれたのだった。
「お前、やる気があるのか」と金比羅坊はもう一度、太郎をたたこうとした。
太郎はそれを木剣で受け止めた。
「いい度胸だな」と金比羅坊はニヤニヤしながら太郎を見ていた。
太郎も負けずと金比羅坊を睨んでいる。
金比羅坊はニヤニヤしたまま、膝で太郎の腹を蹴り上げた。
太郎は起き上がると木剣を構えた。
「小僧、わしとやる気か‥‥‥ふん、見せしめに思い知らせてやる」
立木をたたいていた連中は皆、二人の成り行きを見守っていた。
太郎は金比羅坊に打ちかかった。
金比羅坊の頭めがけて思い切り木剣を打ち下ろした‥‥‥が、太郎の木剣は空を斬り、金比羅坊の竹の棒に腹をしたたかに打たれた。
今度こそはともう一度、打ち込んだが、木剣は跳ね飛ばされ、背中を思い切りたたかれた。
「わしに逆らった罰じゃ。お前の好きな鉄棒を千回、振れ」
くそ! 今に見ていろ、金比羅坊の奴め!
日の暮れた山の中で太郎は一人、鉄棒振りをやっていた。
「太郎坊、おめえも変わった奴だな」と芥川左京亮(サキョウノスケ)がニヤニヤしながら言った。
「金比羅坊とやり合って勝てると思ったのか」と服部藤十郎が汗を拭きながら聞いた。
「勝てるわけねえだろ」と三雲源太が言う。
「おめえも馬鹿だな」と芥川左京亮が笑った。
「うるさい、俺は奴をやっつける」と太郎は鉄棒を振りながら言った。
「一人じゃ、あの馬鹿力を相手にするのは無理だ」と服部藤十郎は言った。
「いや、俺は絶対、一人で奴をやっつける」
太郎は鉄棒を思い切り、地面にたたきつけた。
この三人とはなぜか、気があった。三雲、芥川は甲賀の郷士の伜で、服部は伊賀の郷士の伜、皆、太郎と同い年だった。彼ら三人は今年の一月に一年間の修行をするために、山に登って来た連中だった。
「あと何回だ」と三雲が聞いた。
「今、五百六十五だ」
「よくやるな。そんな物、千回も振ったら腕が動かなくなるぜ」
「お前らだって、やったんだろ」
「やるわけねえだろ。そんな馬鹿な事、やってるのはおめえだけだ」と服部が言った。
「何だと! お前ら、これを千回やらなかったのか」
「ああ、俺たちは皆、百回だった」と芥川は言う。
「百回‥‥‥たったの百回か」
「ああ‥‥‥千回もやってるのはおめえだけだよ」
「くそ! 金比羅坊の奴め!」
太郎は鉄の棒を放り投げた。
「やめるのか」と三雲が聞いた。
「馬鹿らしい、もう、やめた」
四人は月明かりの中、修行者たちの宿坊に向かっていた。
太郎は彼らとは違う宿坊だったが、夕食だけは太郎のいる修徳坊と時間がずれるため、修行者たちの宿坊で食べる事になっていた。
『コン』と、どこかで木を打つ音がした。
「ほう、おめえだけじゃなかったらしいな。こんな遅くまで稽古をしてるのは」と服部が薙刀の道場の方を見た。
「誰だ」と太郎は興味深そうに聞いた。
「知らんよ‥‥‥天狗じゃねえのか」と三雲はさっさと行く。
「見に行こうぜ」と太郎が三人に言った。
「おめえも、物好きだな」と芥川は笑った。
四人は木の音のする方に近づいて行った。
木の陰に隠れて様子を窺うと、若い男が一人、立木を相手に剣の工夫をしていた。
「あいつは望月じゃねえのか」と三雲が小声で言った。
「望月って、あの望月彦四郎か」と太郎は聞いた。
「違う。俺たちと一緒に入った望月だ」と芥川が言った。
「あんな奴、いたのか」
「ちょっと生意気な奴だ。めったに口も聞かねえ。何を考えてるんだか、まったくわからねえ奴だ」
「ふうん、あんな奴がいたのか‥‥‥少しは、できるようだな」
太郎は望月の動きを見つめた。
「まあ、少しはな」と三雲は言って、立ち去った。
「腹減った。行こうぜ。あんな奴の棒振りなんか、見ててもしょうがねえ」と服部も去って行った。
芥川も帰って行ったが、太郎はその場を離れず望月の剣を見ていた。
「おい、太郎坊」と芥川が呼んだ。
「ああ」と太郎は答えると、ようやく、そこから立ち去った。
太郎はしばらくの間は、おとなしく金比羅坊の言う事を聞いていた。しかし、心の中では、いつか、金比羅坊をやっつけてやると燃えていた。どうしたら、奴に勝つ事ができるか、太郎はいつも考えながら立木を打っていた。
「やめい!」と金比羅坊が立木を打っている皆に言った。「毎日、同じ事ばかりしていたのでは面白くなかろう。今日はみんなに特別な稽古をさせてやる」
金比羅坊はそう言うと、手に持っていた丸太の切れ端を二本、放り投げた。側にいた者から木剣を借りると金比羅坊は丸太の上に乗り、「よく見ていろ」と木剣で立木を打ち始めた。
金比羅坊が打つたびに立木は揺れ、地面まで揺れているようだった。丸太から降りると、「やってみろ」と木剣を返した。
木剣を渡された者が丸太に乗った。腰がふらついていたが何とか立ち直ると木剣を構え、立木を打った。しかし、その反動に耐えられなくて、その男は丸太から落ちて転んでしまった。見ている者たちはどっと笑った。
「丸太はあそこに積んである。丸太の上で、まともに打てるようになるまで稽古しろ」
各自、丸太を取りに行き、立木のそばに置くと、それに乗り、立木を打ち始めた。バランスを崩し、転ぶ者が何人もいた。
太郎には丸太の上で剣を振る事など何でもない事だった。揺れる小舟の上で鍛えてある。いくら、丸太が回転するとはいえ、波で揺れる小舟の上よりは、ずっと簡単だった。
「ほう、うまいもんじゃのう」と金比羅坊が近づいて来て言った。「それじゃあ、面白くなかろう。丸太を縦にしてやれ」
「縦にする?」
「そうじゃ」と金比羅坊は太郎が乗っていた二本の丸太を立てた。直径四寸、高さは二尺近くあった。
「やってみろ」
太郎は二本の丸太の上に上がった。立木を打った。バランスを崩して転んだ。
「よし」と金比羅坊は笑いながら、去って行った。
太郎は金比羅坊の後ろ姿を睨みながら、思い切り立木を打った。
丸太を立て、その上で立木を打つのは思ったより難しかった。立木を軽く打てば、何とかなるが、力いっぱい打つとどうしても反動でバランスを崩した。
稽古の時間が終わった後も、太郎は一人残り、稽古を続けていた。何としても憎らしい金比羅坊を倒したかった。太郎はこの山にいる一年間を無駄にしたくはなかった。この山にいるうちに剣だけでなく、槍も薙刀も棒も、そして、手裏剣もすべて、自分のものにしたいと思っていた。それにはまず、金比羅坊を倒す事が第一の課題だった。少しの時間も無駄にはできなかった。
太郎が一人で剣を振っていると人影が近づいて来た。また、いつもの、あの三人だろうと思って無視していたが、例の三人ではなかった。いつかの夜、一人で稽古をしていた望月三郎だった。望月はしばらく、太郎の動きを見ていた。
「何か用か」と太郎は木剣を振るのをやめて聞いた。
望月は頷いた。「一人でやるより二人でやった方が、お互いにいいだろうと思ってな」
今度は太郎が頷いた。
二人は木剣を構えて、向き合った。太郎は今まで、望月三郎の事など問題にしていなかったが、以外にも三郎は強かった。二人の腕は互角と言えた。
二人は一時(二時間)余り、打ち合いをした。
望月三郎も太郎と同じように子供の頃から剣を習っていた。彼の父親も昔、この山で修行をし、かなりの腕を持っていた。三郎は幼い頃から父親に剣を教えられた。しかし、去年の夏、父親は何者かによって闇討ちに合い、殺された。三郎には誰の仕業によるものかわかっていた。わかっていたがどうする事もできなかった。
父親が死んで、まもなく、父親の弟、三郎にとっては叔父にあたる望月又五郎が攻めて来た。二人の兄は討ち死にし、三郎は母と妹を連れて、かろうじて逃げる事ができた。三郎は母と妹を母の実家に預け、一人、山に登って来た。望月又五郎を倒し、土地を取り戻すために、この山で修行している。
「その、又五郎というのは強いのか」と太郎は聞いた。
「強い。奴も親父と一緒にこの山で修行した。奴は薙刀が得意だ」
「薙刀か‥‥‥剣で相手するのは難しいな」
「ああ」と三郎は厳しい顔で頷いた。「そのうち薙刀も習うつもりだ」
「父親を殺ったのは又五郎か」
「違う。奴の手下だ。凄腕が三人いる」
「そいつらを、お前一人で倒す気なのか」
「ああ、一人でやる。仇討ちだ」
「お前も大変だな‥‥‥」
三郎は苦笑してから、「太郎坊、お前はどうして、剣の修行をしている」と聞いた。
「俺か‥‥‥俺はただ、強くなりたいからだ」
「なぜ」
「わからん‥‥‥わからんが、強くならなければならないんだ」
「強くならなければならない‥‥‥か」
「ああ‥‥‥」
太郎は講義を聞きながら気持ち良く居眠りをしていた。夜遅くまで剣の稽古をしていて、朝が早い。この講義の時間はゆっくり休むのに丁度、良かった。
化法の四教とは何ん。一つには三蔵教、二つには通教、三つには別教、四つには円教である‥‥‥などと言われても、太郎には何が何だか、さっぱりわからない。回りの坊主たちはわかっているのか、わかっていないのか知らないが、真面目な面をして何やら書きながら聴いている。
何で、こんな所に俺を入れたのだろうか、師匠の考えが太郎にはわからなかった。
太郎が気持ち良く寝ていると隣の僧が肘で突いて起こした。
太郎が顔を上げると、その僧は、「寝ててもいいが鼾はかくな」と小声で言った。
その僧の名は応如といい、太郎より年は一つ下だが頭はもの凄く良かった。伊賀の生まれで、今までずっと里の寺にいたが、太郎より少し前にこの山に登って来た。この山で修行するといっても、応如は武術をやりに来たのではなかった。書を習いに来たのだった。この山の中に弘景という書の大家が草庵を結んで住んでいた。応如は山に登ると、すぐに弘景を訪ねて行って書の教えを請うたが断られた。
「書は心じゃ。まず、学問を身に付けろ」と言われ、ここで講義を聴いている。山に登って、もう半年にもなるが、一向に弘景は応如に書を教えようとはしなかった。
「面白いか」と太郎は応如に聞いた。
「面白いわけ、ねえだろ」と応如は正面を向いたまま答えた。
「五停心とは、第一に不浄観、第二に慈悲観、第三に因縁観、第四に界分別観、第五に数息観、第一の不浄観とは‥‥‥」と講師は、訳のわからない事を言っていた。
「おい、応如、この天台宗っていう難しいものは、一体、誰が作ったんだ」
「この間の講義でやったろ、聞いてなかったのか」
「全然、知らん」
「天台智顗(チギ)という僧だ」
「ふうん、それで天台宗っていうのか」
「まあ、そうだが、天台っていうのは山の名前だ。智顗という僧がその天台山で修行して開いたから天台宗っていうんだ」
「それで、その天台山っていうは、どこにあるんだ」
「日本じゃない。明(ミン)の国だ。明のどこかの山奥にあるんだ」
「明の国か‥‥‥遠いのか」
「そこの二人、外に出ろ!」と講師が怒鳴った。
二人は外に出た。
外は天気が良くて、風が涼しくて気持ち良かった。
二人は体を伸ばすと草の上に座り込んだ。
「さっきの話だが、明の国というのはどんな国だ」と太郎は応如に聞いた。
「とにかく広い国らしい。都も京なんか問題にならない位、大きいらしい」
「へえ‥‥‥明の国か‥‥‥やっぱり、船で行くのか」
「まあ、そうだろうな。海の向こうだからな。だけど、行くのは難しいらしい。伝教大師(最澄)の頃も、何艘も船を連ねて行ったらしいけど、途中で難破して、無事に向こうに着いたのは一艘か二艘だったらしい」
「ふうん‥‥‥その伝教大師っていうのは何者だ」
「お前、何も知らんのか。伝教大師っていうのは日本における天台宗の祖だよ。伝教大師が明の国(当時は唐の国)の天台山に行って修行して天台宗を日本に持って来たんだ」
「へえ、伝教大師っていうのは天台山に行ったのか‥‥‥偉い坊さんだったんだな」
「当たり前だろ」と言うと応如は草の上に横になった。
「その天台山ってどんな山かな」と太郎は聞いた。
「さあな。どうせ、凄い山なんだろう。岩だらけで登るのも難しい山なんだろう」
「うん、そうだろうな。大峯山みたいな山かな」
「大峯山? あの山伏の山か」
「ああ」
「大峯山の事はよく知らんけど、凄い山だと思うよ」
「うん‥‥‥伝教大師っていう人は山伏だったのか」
「いや、正式な僧侶だよ。だけど、若い頃は山伏のように山に籠もって修行をしていたらしい。だから、天台宗の本山は比叡山の山の中にあるんだよ」
「そうか‥‥‥それで、ここもこんな山の中に寺があるんだな」
「いや、この山はもっと古いよ。伝教大師が生まれる前からある。昔、聖武天皇が都を、そこの信楽に移そうとした事があるんだ。その時、都の鬼門を守るために、この山に寺を建てたのが始まりなんだ。でも、天台宗が広まって、山伏たちがこの山に入って来るようになってから、この山が栄えたのは確かだよ」
「へえ、お前、物知りなんだな」と太郎は改めて、応如を見直した。
「その位の事は知っていろよ、この山にいるのなら」
「そうか‥‥‥成程。なあ、明の国に行ってみないか」
「お前、馬鹿じゃないのか。行けるわけないだろ」
「行けるかもしれんさ。俺はその天台山っていうのに登ってみたくなった」
「俺だって行ってみたいさ。向こうは書の本場だからな。しかし、行けるわけない」
「偉くなりゃいいのさ。お前は書で偉くなれ。俺は剣で偉くなる」
「明か‥‥‥」
「そうさ」と太郎も草の上に寝転がった。
とにかく、この山にいる一年間は師匠の言われる通り何でもやろうと思い、太郎は偉そうな坊主のやる、やたら難しくて訳のわからない講義をおとなしく聴いていた。
共に講義を聴いているのは太郎以外、山伏は一人もいない。皆、頭を丸めた本物の僧侶たちだった。年は太郎と同じ位だが、青白い顔をしていて、なよなよしかった。
ここが武術修行の本場、飯道山の山の中か、と疑いたくなる程、別の世界のように感じられた。
講義は正午で終わった。講義を聴いていた連中は、ぞろぞろと帰って行った。
太郎は、これからどうしていいのかわからずに座ったままでいた。
「何をしいてる。もう終わりじゃぞ」と偉そうな坊主が声を掛けた。
「はあ」と太郎は回りを見回した。西光坊が迎えに来ていないか、と思ったが姿は見当たらなかった。
「太郎坊とか言ったな‥‥‥どうして、わしの講義を聴く」
「わかりません。師匠が決めた事です」
「師匠? 誰じゃ」
「風眼坊殿です」
「ほう、風眼坊か」
「御存じですか」
「知っておる‥‥‥まあ、しっかりやれ」と僧侶は出て行った。
しっかりやれか‥‥‥
坊主になるわけでもあるまいし、こんなもん、しっかりやったってしょうがない。それよりも剣術だ。俺は剣術をやりに来たのだ。
太郎は修徳坊に戻ると昼食を取り、木剣を持って剣術の道場に向かった。
すでに稽古は始まっていた。うっそうと生い茂る樹木に囲まれた平地で、五十人近くの山伏や近隣から修行に来ている郷士たちが稽古に励んでいた。
よし、久し振りにやるぞ、と太郎は道場の中に入って行った。
「こらっ!」と誰かが大声で怒鳴った。
太郎が声の方を振り向くと、赤ら顔の大男が太郎を睨んで立っていた。
「おい、お前は誰じゃ」
「太郎坊移香ですが‥‥‥」
「ほう、お前が太郎坊か‥‥‥」と大男は太郎をジロジロと眺めた。
「風眼坊殿の弟子らしいが、ここではそんなものは通用せん。容赦はせんぞ。木剣を振るなど、まだ早いわい。ちょっと来い」
太郎は大男の後をついて行った。大男は道場の隅に建っている小屋に入ると鉄の棒を持って出て来た。
「見てろ」と言うと、その棒を軽々と振り回した。
「まず、これが自由に使えるようになるまで、こいつの素振りじゃ」
大男は鉄の棒を太郎めがけて投げ付けた。太郎は飛び上がり、それを避けた。
「そいつを千回、振れ」
太郎は鉄の棒を手に取った。三貫(約十一キログラム)近くはありそうに思えた。
太郎はその鉄の棒を持って構えた。構えるだけでも辛かった。そして、振り上げると腰がふらついた。振り下ろせば重さと勢いで地面を強く打った。
「馬鹿もん! 刀の使い方も知らんのか。地面など斬ってどうする」
何だと! と太郎は大男を睨んだ。
「何だ、その面は。やりたくねえんなら、さっさと山を下りるんだな」
くそ! と太郎は鉄棒を振り上げた。
「よし、千回だぞ」
大男はそう言うと、立木を相手に稽古している者たちの方に行った。
太郎は鉄棒を振り続けた。手の皮は剥けて血だらけになっていった。
日は暮れ、稽古の時間は終わった。
皆が、ぞろぞろと帰って行った。
赤ら顔の大男が近づいて来て、「何回だ」と聞いた。
「六百三十四回」と太郎は息を切らせながら答えた。
「千回だぞ、千回終わるまで、やめてはいかん」そう言うと大男も帰って行った。
両手の感覚はすでになかった。気力で振り上げ、気力で振り下ろしていた。
「ひでえ事しやがる」と誰かが言った。
三人の男が太郎の素振りを見ていた。
「おめえ、余程、金比羅坊(コンピラボウ)に憎まれているらしいな」と別の男が言った。
「あの大男、金比羅坊って言うのか」と太郎は聞いた。
「そうだ、一番、威張っていやがる。気に入らねえ奴さ」
「だが、強え。俺たちじゃ、とても歯が立たねえ」
「あんな奴の言う事なんか、一々聞く事ねえ。もう、やめたらどうだい」
「いや、あともう少しだ。俺はやる。今、やめたら、あの金比羅坊に負けた事になる」
「ふん、おめえも頑固だな。まあ、頑張れや」
三人は帰って行った。
太郎が千回、振り終わったのは、もう、夜もかなり更けた頃だった。
千回目を振り下ろすと太郎はそのまま倒れ、気を失った。
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太郎の鉄棒振りは十日間続いた。
午前中の講義が済むと昼飯を流し込み、すぐに道場に来て、鉄棒を振り始め、皆が稽古をやめて帰った後も、一人で振り続けていた。
鉄棒振りが終わると、ようやく、皆の仲間に入れてもらえ、木剣を持ち、立木打ちを始めた。
太郎と一緒に立木を相手に稽古しているのは、どれも皆、剣の振り方をやっと覚えたばかりの初心者たちだった。上級者たちは二人づつ組んで木剣の打ち合いをしている。太郎は早く、そっちの方に入りたかった。
立木を打ちながら太郎は皆を観察していた。見た所、自分より強そうなのは、五人位しかいないようだった。
まず、剣術師範の勝泉坊善栄。勝泉坊の腕は、まだ見た事がないが、全身から漂う雰囲気は太郎の師匠、風眼坊に似た威厳があった。
師範の下に師範代が三人いる。中之坊円学、浄光坊智明、そして、金比羅坊勝盛だった。中之坊と浄光坊は確かに強そうだが、金比羅坊は馬鹿力はあるが、たいした事はないと太郎は見ていた。
あとは、太郎が山に入ったその日、師の風眼坊と試合をした望月彦四郎、同じく甲賀の郷士、鳥居兵内、この五人以外は皆、たいした事ないと太郎は思った。
今、望月彦四郎と鳥居兵内が打ち合いをしていた。太郎は立木を打ちながら、それを見ていた。
「おい、真面目にやれ!」と金比羅坊の声と共に、太郎の背中に激痛が走った。
金比羅坊の持っている竹の棒に打たれたのだった。
「お前、やる気があるのか」と金比羅坊はもう一度、太郎をたたこうとした。
太郎はそれを木剣で受け止めた。
「いい度胸だな」と金比羅坊はニヤニヤしながら太郎を見ていた。
太郎も負けずと金比羅坊を睨んでいる。
金比羅坊はニヤニヤしたまま、膝で太郎の腹を蹴り上げた。
太郎は起き上がると木剣を構えた。
「小僧、わしとやる気か‥‥‥ふん、見せしめに思い知らせてやる」
立木をたたいていた連中は皆、二人の成り行きを見守っていた。
太郎は金比羅坊に打ちかかった。
金比羅坊の頭めがけて思い切り木剣を打ち下ろした‥‥‥が、太郎の木剣は空を斬り、金比羅坊の竹の棒に腹をしたたかに打たれた。
今度こそはともう一度、打ち込んだが、木剣は跳ね飛ばされ、背中を思い切りたたかれた。
「わしに逆らった罰じゃ。お前の好きな鉄棒を千回、振れ」
くそ! 今に見ていろ、金比羅坊の奴め!
日の暮れた山の中で太郎は一人、鉄棒振りをやっていた。
「太郎坊、おめえも変わった奴だな」と芥川左京亮(サキョウノスケ)がニヤニヤしながら言った。
「金比羅坊とやり合って勝てると思ったのか」と服部藤十郎が汗を拭きながら聞いた。
「勝てるわけねえだろ」と三雲源太が言う。
「おめえも馬鹿だな」と芥川左京亮が笑った。
「うるさい、俺は奴をやっつける」と太郎は鉄棒を振りながら言った。
「一人じゃ、あの馬鹿力を相手にするのは無理だ」と服部藤十郎は言った。
「いや、俺は絶対、一人で奴をやっつける」
太郎は鉄棒を思い切り、地面にたたきつけた。
この三人とはなぜか、気があった。三雲、芥川は甲賀の郷士の伜で、服部は伊賀の郷士の伜、皆、太郎と同い年だった。彼ら三人は今年の一月に一年間の修行をするために、山に登って来た連中だった。
「あと何回だ」と三雲が聞いた。
「今、五百六十五だ」
「よくやるな。そんな物、千回も振ったら腕が動かなくなるぜ」
「お前らだって、やったんだろ」
「やるわけねえだろ。そんな馬鹿な事、やってるのはおめえだけだ」と服部が言った。
「何だと! お前ら、これを千回やらなかったのか」
「ああ、俺たちは皆、百回だった」と芥川は言う。
「百回‥‥‥たったの百回か」
「ああ‥‥‥千回もやってるのはおめえだけだよ」
「くそ! 金比羅坊の奴め!」
太郎は鉄の棒を放り投げた。
「やめるのか」と三雲が聞いた。
「馬鹿らしい、もう、やめた」
四人は月明かりの中、修行者たちの宿坊に向かっていた。
太郎は彼らとは違う宿坊だったが、夕食だけは太郎のいる修徳坊と時間がずれるため、修行者たちの宿坊で食べる事になっていた。
『コン』と、どこかで木を打つ音がした。
「ほう、おめえだけじゃなかったらしいな。こんな遅くまで稽古をしてるのは」と服部が薙刀の道場の方を見た。
「誰だ」と太郎は興味深そうに聞いた。
「知らんよ‥‥‥天狗じゃねえのか」と三雲はさっさと行く。
「見に行こうぜ」と太郎が三人に言った。
「おめえも、物好きだな」と芥川は笑った。
四人は木の音のする方に近づいて行った。
木の陰に隠れて様子を窺うと、若い男が一人、立木を相手に剣の工夫をしていた。
「あいつは望月じゃねえのか」と三雲が小声で言った。
「望月って、あの望月彦四郎か」と太郎は聞いた。
「違う。俺たちと一緒に入った望月だ」と芥川が言った。
「あんな奴、いたのか」
「ちょっと生意気な奴だ。めったに口も聞かねえ。何を考えてるんだか、まったくわからねえ奴だ」
「ふうん、あんな奴がいたのか‥‥‥少しは、できるようだな」
太郎は望月の動きを見つめた。
「まあ、少しはな」と三雲は言って、立ち去った。
「腹減った。行こうぜ。あんな奴の棒振りなんか、見ててもしょうがねえ」と服部も去って行った。
芥川も帰って行ったが、太郎はその場を離れず望月の剣を見ていた。
「おい、太郎坊」と芥川が呼んだ。
「ああ」と太郎は答えると、ようやく、そこから立ち去った。
3
太郎はしばらくの間は、おとなしく金比羅坊の言う事を聞いていた。しかし、心の中では、いつか、金比羅坊をやっつけてやると燃えていた。どうしたら、奴に勝つ事ができるか、太郎はいつも考えながら立木を打っていた。
「やめい!」と金比羅坊が立木を打っている皆に言った。「毎日、同じ事ばかりしていたのでは面白くなかろう。今日はみんなに特別な稽古をさせてやる」
金比羅坊はそう言うと、手に持っていた丸太の切れ端を二本、放り投げた。側にいた者から木剣を借りると金比羅坊は丸太の上に乗り、「よく見ていろ」と木剣で立木を打ち始めた。
金比羅坊が打つたびに立木は揺れ、地面まで揺れているようだった。丸太から降りると、「やってみろ」と木剣を返した。
木剣を渡された者が丸太に乗った。腰がふらついていたが何とか立ち直ると木剣を構え、立木を打った。しかし、その反動に耐えられなくて、その男は丸太から落ちて転んでしまった。見ている者たちはどっと笑った。
「丸太はあそこに積んである。丸太の上で、まともに打てるようになるまで稽古しろ」
各自、丸太を取りに行き、立木のそばに置くと、それに乗り、立木を打ち始めた。バランスを崩し、転ぶ者が何人もいた。
太郎には丸太の上で剣を振る事など何でもない事だった。揺れる小舟の上で鍛えてある。いくら、丸太が回転するとはいえ、波で揺れる小舟の上よりは、ずっと簡単だった。
「ほう、うまいもんじゃのう」と金比羅坊が近づいて来て言った。「それじゃあ、面白くなかろう。丸太を縦にしてやれ」
「縦にする?」
「そうじゃ」と金比羅坊は太郎が乗っていた二本の丸太を立てた。直径四寸、高さは二尺近くあった。
「やってみろ」
太郎は二本の丸太の上に上がった。立木を打った。バランスを崩して転んだ。
「よし」と金比羅坊は笑いながら、去って行った。
太郎は金比羅坊の後ろ姿を睨みながら、思い切り立木を打った。
丸太を立て、その上で立木を打つのは思ったより難しかった。立木を軽く打てば、何とかなるが、力いっぱい打つとどうしても反動でバランスを崩した。
稽古の時間が終わった後も、太郎は一人残り、稽古を続けていた。何としても憎らしい金比羅坊を倒したかった。太郎はこの山にいる一年間を無駄にしたくはなかった。この山にいるうちに剣だけでなく、槍も薙刀も棒も、そして、手裏剣もすべて、自分のものにしたいと思っていた。それにはまず、金比羅坊を倒す事が第一の課題だった。少しの時間も無駄にはできなかった。
太郎が一人で剣を振っていると人影が近づいて来た。また、いつもの、あの三人だろうと思って無視していたが、例の三人ではなかった。いつかの夜、一人で稽古をしていた望月三郎だった。望月はしばらく、太郎の動きを見ていた。
「何か用か」と太郎は木剣を振るのをやめて聞いた。
望月は頷いた。「一人でやるより二人でやった方が、お互いにいいだろうと思ってな」
今度は太郎が頷いた。
二人は木剣を構えて、向き合った。太郎は今まで、望月三郎の事など問題にしていなかったが、以外にも三郎は強かった。二人の腕は互角と言えた。
二人は一時(二時間)余り、打ち合いをした。
望月三郎も太郎と同じように子供の頃から剣を習っていた。彼の父親も昔、この山で修行をし、かなりの腕を持っていた。三郎は幼い頃から父親に剣を教えられた。しかし、去年の夏、父親は何者かによって闇討ちに合い、殺された。三郎には誰の仕業によるものかわかっていた。わかっていたがどうする事もできなかった。
父親が死んで、まもなく、父親の弟、三郎にとっては叔父にあたる望月又五郎が攻めて来た。二人の兄は討ち死にし、三郎は母と妹を連れて、かろうじて逃げる事ができた。三郎は母と妹を母の実家に預け、一人、山に登って来た。望月又五郎を倒し、土地を取り戻すために、この山で修行している。
「その、又五郎というのは強いのか」と太郎は聞いた。
「強い。奴も親父と一緒にこの山で修行した。奴は薙刀が得意だ」
「薙刀か‥‥‥剣で相手するのは難しいな」
「ああ」と三郎は厳しい顔で頷いた。「そのうち薙刀も習うつもりだ」
「父親を殺ったのは又五郎か」
「違う。奴の手下だ。凄腕が三人いる」
「そいつらを、お前一人で倒す気なのか」
「ああ、一人でやる。仇討ちだ」
「お前も大変だな‥‥‥」
三郎は苦笑してから、「太郎坊、お前はどうして、剣の修行をしている」と聞いた。
「俺か‥‥‥俺はただ、強くなりたいからだ」
「なぜ」
「わからん‥‥‥わからんが、強くならなければならないんだ」
「強くならなければならない‥‥‥か」
「ああ‥‥‥」
4
太郎は講義を聞きながら気持ち良く居眠りをしていた。夜遅くまで剣の稽古をしていて、朝が早い。この講義の時間はゆっくり休むのに丁度、良かった。
化法の四教とは何ん。一つには三蔵教、二つには通教、三つには別教、四つには円教である‥‥‥などと言われても、太郎には何が何だか、さっぱりわからない。回りの坊主たちはわかっているのか、わかっていないのか知らないが、真面目な面をして何やら書きながら聴いている。
何で、こんな所に俺を入れたのだろうか、師匠の考えが太郎にはわからなかった。
太郎が気持ち良く寝ていると隣の僧が肘で突いて起こした。
太郎が顔を上げると、その僧は、「寝ててもいいが鼾はかくな」と小声で言った。
その僧の名は応如といい、太郎より年は一つ下だが頭はもの凄く良かった。伊賀の生まれで、今までずっと里の寺にいたが、太郎より少し前にこの山に登って来た。この山で修行するといっても、応如は武術をやりに来たのではなかった。書を習いに来たのだった。この山の中に弘景という書の大家が草庵を結んで住んでいた。応如は山に登ると、すぐに弘景を訪ねて行って書の教えを請うたが断られた。
「書は心じゃ。まず、学問を身に付けろ」と言われ、ここで講義を聴いている。山に登って、もう半年にもなるが、一向に弘景は応如に書を教えようとはしなかった。
「面白いか」と太郎は応如に聞いた。
「面白いわけ、ねえだろ」と応如は正面を向いたまま答えた。
「五停心とは、第一に不浄観、第二に慈悲観、第三に因縁観、第四に界分別観、第五に数息観、第一の不浄観とは‥‥‥」と講師は、訳のわからない事を言っていた。
「おい、応如、この天台宗っていう難しいものは、一体、誰が作ったんだ」
「この間の講義でやったろ、聞いてなかったのか」
「全然、知らん」
「天台智顗(チギ)という僧だ」
「ふうん、それで天台宗っていうのか」
「まあ、そうだが、天台っていうのは山の名前だ。智顗という僧がその天台山で修行して開いたから天台宗っていうんだ」
「それで、その天台山っていうは、どこにあるんだ」
「日本じゃない。明(ミン)の国だ。明のどこかの山奥にあるんだ」
「明の国か‥‥‥遠いのか」
「そこの二人、外に出ろ!」と講師が怒鳴った。
二人は外に出た。
外は天気が良くて、風が涼しくて気持ち良かった。
二人は体を伸ばすと草の上に座り込んだ。
「さっきの話だが、明の国というのはどんな国だ」と太郎は応如に聞いた。
「とにかく広い国らしい。都も京なんか問題にならない位、大きいらしい」
「へえ‥‥‥明の国か‥‥‥やっぱり、船で行くのか」
「まあ、そうだろうな。海の向こうだからな。だけど、行くのは難しいらしい。伝教大師(最澄)の頃も、何艘も船を連ねて行ったらしいけど、途中で難破して、無事に向こうに着いたのは一艘か二艘だったらしい」
「ふうん‥‥‥その伝教大師っていうのは何者だ」
「お前、何も知らんのか。伝教大師っていうのは日本における天台宗の祖だよ。伝教大師が明の国(当時は唐の国)の天台山に行って修行して天台宗を日本に持って来たんだ」
「へえ、伝教大師っていうのは天台山に行ったのか‥‥‥偉い坊さんだったんだな」
「当たり前だろ」と言うと応如は草の上に横になった。
「その天台山ってどんな山かな」と太郎は聞いた。
「さあな。どうせ、凄い山なんだろう。岩だらけで登るのも難しい山なんだろう」
「うん、そうだろうな。大峯山みたいな山かな」
「大峯山? あの山伏の山か」
「ああ」
「大峯山の事はよく知らんけど、凄い山だと思うよ」
「うん‥‥‥伝教大師っていう人は山伏だったのか」
「いや、正式な僧侶だよ。だけど、若い頃は山伏のように山に籠もって修行をしていたらしい。だから、天台宗の本山は比叡山の山の中にあるんだよ」
「そうか‥‥‥それで、ここもこんな山の中に寺があるんだな」
「いや、この山はもっと古いよ。伝教大師が生まれる前からある。昔、聖武天皇が都を、そこの信楽に移そうとした事があるんだ。その時、都の鬼門を守るために、この山に寺を建てたのが始まりなんだ。でも、天台宗が広まって、山伏たちがこの山に入って来るようになってから、この山が栄えたのは確かだよ」
「へえ、お前、物知りなんだな」と太郎は改めて、応如を見直した。
「その位の事は知っていろよ、この山にいるのなら」
「そうか‥‥‥成程。なあ、明の国に行ってみないか」
「お前、馬鹿じゃないのか。行けるわけないだろ」
「行けるかもしれんさ。俺はその天台山っていうのに登ってみたくなった」
「俺だって行ってみたいさ。向こうは書の本場だからな。しかし、行けるわけない」
「偉くなりゃいいのさ。お前は書で偉くなれ。俺は剣で偉くなる」
「明か‥‥‥」
「そうさ」と太郎も草の上に寝転がった。
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