13.天狗騒動
1
暑かった。
日が暮れたというのに少しも涼しくならない。じっとしていても汗が流れ出た。
稽古が終わった後、五人は木陰に隠れ、相談していた。太郎と望月三郎、そして、芥川左京亮、三雲源太、服部藤十郎の五人だった。
「本当にやるのか」と芥川が難しい顔をして言った。
「やる」と太郎は皆の顔を見回した。
「大丈夫か。本当に明日の朝までに戻れるのか」と服部は不安げだった。
「大丈夫だ。竜法師まで二里はない。半時(一時間)もあれば行ける。ちょっと偵察して、帰って来るだけだ」と望月は自信を持って言った。
「行きたくなければ行かなくてもいい」と太郎はもう一度、皆の顔を見回した。
「俺は行くぜ。面白そうじゃねえか」と三雲は言った。
「そうだな、もう山も飽きて来たしな。たまには里に下りるのもいいだろう」と芥川。
「じゃあ、抜け出すか」と服部も頷いた。
「よし、決まった」と太郎は低い声で言った。「それじゃあ、夜のお勤めが終わったら行者堂の裏の大杉の下に集合だ」
四人は頷くと修行者の宿坊に帰って行った。
満月が出ている。
昼間の騒がしさが嘘のように山の中は静まり返っていた。
五人は物陰に隠れながら寺の境内を抜けると山道を下りて行った。太郎が登って来た道とは反対側である。この道を下りて行くと杣川に出る。望月と三雲と芥川の三人はこちら側から山に登って来たのだった。
杣川を一里程、上れば望月家のある竜法師だった。
こちら側の山の下にも、いくつもの僧坊が建ち並んでいたが、やはり、太郎が登って来た方が賑やかに栄えていた。
五人の人影は僧坊の中を縫うように走り抜け、杣川の河原に出た。
「懐かしいのう」三雲が回りを眺めながら言った。「俺のうちは、この川沿いに行けばすぐなんだ」と川の流れて行く方をじっと見つめた。
「母ちゃんに会いたくなったのか」と服部がからかった。
「うるせえ」
五人は三雲の家とは逆の方に向かって河原を歩き出した。
辺りは静まり返り、川のせせらぎしか聞こえて来ない。深川の村まで来ると河原から上がった。竜法師はもう目の前だった。
「どこだ」と服部が聞いた。
「あの森の向こうだ」と望月が指さした。
しばらく歩くと神社があった。
「ここから先はちょっとあぶない」と望月は足を止めた。
五人は身を低くして、たんぼの中の畦道に入った。
望月家の屋敷は高い塀に囲まれ、濠まで巡らされてあった。表の門は固く閉ざされ、塀の中の四隅には見張り櫓が立っている。櫓の中に人影が見えるが動く様子はない。どうやら眠っているようだった。
五人は物陰に隠れ、望月屋敷を観察していた。
「あれが、おめえのうちだったのか」と三雲が言った。
望月は屋敷をじっと見つめながら頷いた。「しかし、あんな櫓は前にはなかった。後で作ったものだろう」
「あの濠には水が入っているのか」と太郎は望月に聞いた。
「いや、前は入っていなかった。しかし、鉄菱(テツビシ)が撒いてある」
「鉄菱?」
「菱の実を知ってるだろう。あれを鉄で作った物だ。知らずに、あの濠に降りれば足の裏に穴があくのさ」
「へえ、そんな武器があるのか」と太郎は感心した。
「それじゃあ、中に入るのはあの表門しかないのか」と芥川が聞いた。
「ない。裏にも入り口はあるが濠に橋が架かっていない。中から橋を架けるようになっているんだ」
「すると、やはり、あの塀を乗り越すしかないか‥‥‥」と太郎。
「乗り越すにしてもかなりあるぜ。一丈(約三メートル)はあるだろう」と服部。
「濠の深さはどれ位だ」と芥川。
「やはり、一丈位はある」
「すると、濠の下からだと二丈はあるな」
「無理だな」と三雲が首を振った。「二丈も登れるわけがねえ。しかも、下には鉄菱が撒いてあり、上には見張りがいる」
「それをこれから訓練するんだ」と太郎は塀を見つめながら言った。「山に行けば二丈以上もある木がいくらでもある」
「俺たちは猿になるわけか」と服部が太郎を見た。
「そう言う事だ。あの屋敷を攻めるには、まず、あの四隅にいる見張りを倒さなくてはならん。上から弓でも射られたら面倒だからな。俺たち四人であの四人の見張りをやっつけ、その後、望月が表門から攻めるんだ」
「成程」と三雲は手を打って感心した。「おめえ、山伏のくせに、よく、そんな事、知ってるな」
太郎は苦笑した。五ケ所浦にいる時、祖父から教わった水軍の兵法(ヒョウホウ)だった。まさか、こんな所で兵法が役に立つとは思ってもいなかった。
「一応、一回りしてみるか」と望月は皆の顔を見た。
五人は物陰に隠れながら望月家を一回りして、神社まで戻ると作戦を練った。
皆、あの望月屋敷を攻め落とす事に乗り気になっていた。
「まず、望月に家の見取り図を書いてもらうんだな」と芥川が言った。
「わかった」と望月は頷いた。
「あとは兵力だな。どれ位の兵がいるかだ」と太郎は言った。
「夜中じゃ、ちょっと調べられんな」と服部が首を振る。
「それは、杉谷に頼もう」と望月は言った。「ここから、すぐ側に住んでいる。ガキの頃からの仲間だ。奴ならやってくれる」
「うん、それがいいな」と芥川が太郎を見る。
「あとは、俺たちがもっと強くなる事だ」と太郎は四人の顔を見回した。
「これからは木登りの訓練だな」と三雲が近くの木を見上げた。
「それと、手裏剣も練習した方がいい」と太郎は言った。「敵の方が多いからな」
「飛び道具か‥‥‥」と望月は拳を握り締めて頷いた。
「これからは特訓だぜ」と服部は刀の柄をたたいた。
「それで、いつやるんだ」と三雲が望月の顔を見た。
「今のままじゃ、とても無理だ。又五郎の薙刀は手ごわい」
「薙刀を使うのか‥‥‥やりづらいな」と芥川は顔をしかめた。
「お山の中陽坊と、どっちが強い」と服部は聞いた。
「わからんが、中陽坊を倒す事ができなけりゃ、まず、無理だろう」
「そりゃ難しいぞ。そいつはおめえに任せるよ」
「手ごわいのは、そいつだけじゃない。あと三人いる」
「お前ら、今年一杯で山を下りるんだろ」と太郎は聞いた。
「ああ、そうだ」と芥川が言うと、三雲と服部が頷いた。
「それまでに、やらなくちゃな」
「それじゃあ、年末にやるか」と芥川は言った。「奴らをやっつけて、めでたく正月を迎えるのさ」
「そいつはいい」と服部も賛成した。「そうすれば、望月も正月をあのうちで迎えられるわけだ」
「どうだ」と太郎は望月に聞いた。
望月は頷いた。「年末なら、かえって、奴らも油断してるかもしれん」
「決まりだな」と三雲が拳を上げた。「そうと決まれば忙しいぞ。あと四ケ月とちょっとしかねえ」
「四ケ月もありゃ充分さ」と服部が三雲の拳を握った。
「いい正月を迎えようぜ」太郎は皆の顔を見ながら言った。
「おう!」
夜が明ける前に五人は無事、山に戻って来た。
太郎は修徳坊に戻り、望月、芥川、服部、三雲の四人は修行者の宿坊に戻った。そして、皆と一緒に朝のお勤めを済ませ、朝飯に行く時だった。
四人は金比羅坊に呼ばれた。金比羅坊は太郎の腕を強くつかんでいた。
金比羅坊は五人を食堂(ジキドウ)の前に建つ蔵の前に並ばせると、ニヤニヤしながら五人の顔を見渡した。
「なぜ、呼ばれたかわかるな」
五人は答えなかった。
「夜中に、このお山を下りるのは構わん」と金比羅坊はやけに静かな声で言った。
「誰も止めはせん。お山の修行は辛いもんだ。お山がいやになり里が恋しくなる。帰りたくなれば、いつでも帰ればいい。だが、そいつは一生、落伍者という烙印(ラクイン)を押される事になる。お前らはお山を下りた。それだけなら誰も文句は言わん。ところが、また、とぼけて戻って来た。これは具合が悪い。非常に具合が悪い‥‥‥こういう事を放っておくと誰もが、夜、お山を抜け出し、また、知らん顔をして戻って来る事になる。それではお山の示しがつかん。芥川、三雲、服部、お前らは、あと四ケ月と少しだろう。どうして、我慢できなかったんじゃ‥‥‥まあ、やってしまった事はしょうがない。毎年、お前らみたいのが何人かいる。わしは、そういう奴らが好きじゃよ。お山で、おとなしく一年を過ごしている奴より、そういう奴の方が骨がある。よく、やってくれた。今年は皆、おとなし過ぎてつまらんと思っていたが、とうとう、お前ら五人が出た‥‥‥それでだ、今日は、お前ら骨のある五人に是非とも頼みがあるんじゃ。鐘撞き堂を直していたのを知っておるじゃろう。鐘撞き堂もようやく完成した。しかし、何かが足りない。何が足りない、おい、言ってみろ!」
「鐘です」と望月が答えた。
「そうじゃ、鐘じゃ、鐘撞き堂に鐘がないというのは、何とも様にならない。御本尊様のいない本堂のようなものじゃ。その鐘をお前らに運んでもらいたいのじゃ」
「どこにあるんです」と太郎は聞いた。
「里じゃよ。お前らの好きな里にある。それをただ、鐘撞き堂まで持って来ればいいだけじゃ。簡単じゃろ」
「重さはどの位です」と三雲が聞いた。
「たかが、五百貫(約二トン)じゃ。五人でやれば簡単じゃ。それじゃあ、すぐ、やってもらおうか」
「五百貫! そんなの無理だ」と三雲が情けない顔をした。
「無理じゃと‥‥‥無理でもやれ! やるまではお山に戻る事はならん」
「あの、朝飯は?」と服部が小声で聞いた。
「何だ、お前ら、まだだったのか、そいつは残念じゃのう‥‥‥今日は飯抜きじゃ。さっさと鐘を持って来い!」
鐘は信楽側の里にあった。こちら側の方が杣川側よりも距離は短いが、かなり急な坂である。五人は朝飯も食わず、一睡もせずに鐘と格闘しなければならなかった。
黒々とした鐘は大鳥居の側に置いてあった。見るからに重そうだった。五人で押した位では、びくともしなかった。
「これをどうやって、上まで持って行くんだよ」と三雲が鐘を押しながら言った。
「そんな事、知るか」と芥川は鐘を憎らしげに蹴飛ばした。足が痛いだけだった。
五人は鐘を睨んでは山の方を見ながら、どうしたらいいものか考えた。
ここから二の鳥居まで、なだらかな坂が九町(約一キロ)程続き、二の鳥居からは急な坂が六町(約六百五十メートル)程続いている。二の鳥居まで何とか運べたとしても、そこから先はどう考えても不可能な事だった。
「腹、減ったなあ」と服部が腹を押さえて座り込んだ。
「太い綱が必要だな」と望月が鐘をたたきながら言った。
「綱を付けて引っ張るのか」と太郎は鐘の回りを一回りしてみた。
「それしかないだろう」
「うん。とにかく、やってみるしかないな‥‥‥そこらの寺で綱を借りて来るわ」と太郎は出掛けた。
太郎は近くにあった寺の門をくぐった。境内には人影は見えなかった。太郎が本堂の方に歩いて行くと途中で声を掛けられた。
「何か、御用ですか」
女の声だった。
太郎が振り向くと、若い女が薙刀を持って立っていた。長い髪を後ろで束ね、白い鉢巻を巻き、白い袴をはいていた。
太郎は久し振りに女という物を見たような気がした。その娘は綺麗だった。眩しすぎるようだった。
「何か、御用でしょうか」と娘は太郎を眺めながら、また聞いた。
「は、はい」と太郎は、やっと答えた。
娘の大きく澄んだ目に見つめられると、なぜか、ボーッとしてしまった。
「あの、太い綱を借りたいのですが‥‥‥」
「太い綱?」と娘は怪訝な表情をした。
「はい。鐘を山に運ぶのです」
「ああ、あの鐘ですか。御苦労様です。聞いて来ますので、ちょっとお待ち下さい」
娘は去って行った。
太郎は、ボーッとしたまま娘の後姿を見送った。
しばらくすると、娘は尼僧を伴って戻って来た。
「私は松恵尼(ショウケイニ)と申します」と尼僧は軽く頭を下げた。
「はい、私は太郎坊移香と言います」太郎は自己紹介して頭を下げた。
「太郎坊移香?」と松恵尼は改めて太郎を見た。そして、なぜか笑い、頷いた。
「お話は楓(カエデ)から聞きました。申し訳ありませんが、ここには太い綱はありません」
「そうですか、どうも‥‥‥ここは尼寺だったのですか」
「そうですよ、御存じなかったのですか」
「はい。山ばかりいて、里の事はあまり知りませんので‥‥‥」
「多分、お隣の般若院(ハンニャイン)にあると思います」
「そうですか‥‥‥」
楓という娘は太郎を見てクスクス笑っていた。
「それでは失礼します」と松恵尼は去って行った。
「お隣に行ってご覧なさい」と楓は言った。
「はい」と太郎は楓の姿に見とれていた。「あの、あなたも尼さんですか」
「いいえ、私は違います。これのお稽古をしています」と薙刀を振って見せた。
「女だてらに?」
「女でも身を守るために必要です。太郎坊様はお山で天狗様になる修行をなさってるんですか」そう言いながら楓は笑った。
「天狗様?」と太郎は聞いた。
「だって、太郎坊って天狗様の名前でしょ」
「知らんぞ、そんな事」
「八日市に太郎坊宮があります。そこに太郎坊っていう天狗様が住んでいるって聞いています。本当は京の愛宕山(アタゴヤマ)に住んでいるらしいけど、時々、そこにも来るらしいわ。そして、京の鞍馬山(クラマヤマ)には、次郎坊っていう天狗様がいるそうです」
「へえ、そうなのか、知らなかった」
「ねえ、太郎坊様はお山で何をなさってるんです」
「私は剣の修行をしている」
「強いの?」
「あなたよりは強いでしょう」
「私も以外に強いのよ。あなたの事は前から聞いていたわ」
「俺の事を?」
「ええ、三月にお山に入って来て百日行をなさいました。そして、今は剣の修行をなさっている」
「どうして、知ってるんだ」
「お山の事はすぐ、噂に流れます。私、太郎坊様は天狗様みたいに怖い感じの人だと思ってたけど、全然、違うのね」
「俺は天狗じゃない」
楓はフフフと笑った。
太郎も笑った。突然、太郎の腹がグゥ~と大きく鳴った。
「どうしたの」と楓は笑いながら聞いた。
「何でもない」と太郎は腹を押えた。
「おなかが減ってるんじゃないの。お山ではご飯も食べられないの」
「今朝は忙しかったから忘れたんだ」
「ふうん」
「楓殿、頼みがあるんですけど」
楓はまた、笑った。
「楓殿はおかしいわよ、楓でいいわ。頼みって?」
「何か、食べる物が欲しい」
「いいわよ」
「五人分です」
「え? 五人分ね、何とかしてみるわ、待ってて」と楓は去って行った。
太郎が太い綱を肩にかつぎ、楓が作ってくれた握り飯を持って帰ると、四人は皆、木陰でいい気持ちになって眠っていた。
「おい、飯だ!」と太郎はみんなを起こした。
五人は貪るように握り飯をたいらげた。
「さて、飯も食ったし、やるか」と望月は立ち上がった。
太郎はボーッとしていた。楓の事を思っていた。
「太郎坊、どうしたんだ」と服部が肩をたたいた。
「あ、いや、ちょっと飯を食ったら眠くなって来た。さて、やるか」
太い綱を鐘のてっぺんの輪に通して縛り付けた。
三人で綱を引っ張り、二人で鐘を倒した。鐘は地響きを立てて倒れた。三人で引っ張り、二人で押してみたが鐘はびくとも動かなかった。今度は五人で引っ張ってみた。鐘は少しも動かなかった。
「おい、とても、五人だけじゃ無理だぜ」と三雲は引っ張っていた綱を放り投げた。
「無理でも、やらなけりゃならんだろう」と望月は言った。
「よし、もう一度だ」と太郎はみんなを励ました。
掛声を出して思い切り引っ張ると、鐘はやっと、ほんのわずかばかり移動した。
「やっぱり、無理だぜ」と芥川が息を切らせながら言った。「平地でやっと、これだけだ。山道なんか全然、動かんだろ。逆に下に落ちて行くわ」
「畜生!」と服部が汗を拭った。「金比羅坊の奴め、くだらん事をやらせやがって」
「どうする」と望月が太郎に聞いた。
「どうするか‥‥‥」
いい考えも浮かばず、五人は鐘の回りに座り込んだ。
今日も暑くなり始めて来ていた。
「どうして、山を下りたのがばれたのかなあ」と三雲が愚痴った。
「そんな事、知るか」服部はかたわらの草をむしると投げつけた。
望月は腕組みをして考え込んでいる。
太郎はボーッとして、また、楓の事を思っていた。
「あれだけの人間がいれば、こんなのすぐに上げられるのになあ」と芥川がポツリと言った。
一つの寺の前に村人たちが何人も集まってガヤガヤやっていた。
「何だ、あれは」と望月は聞いた。
「雨乞いの祈祷でも、するんだろう」と芥川が言った。
今年は梅雨が短く、六月の初めに大雨が降ってから後、日照りが続き、三ケ月近くも雨が一滴も降らなかった。人々は、雨を待ち望み、あちこちで雨乞いの祈祷が行なわれた。
「雨乞いか‥‥‥ちょっと、見て来よう」と望月は太郎を誘って人込みの方に行った。
人込みを割って中を見ると、山伏が護摩壇(ゴマダン)の前で神懸かり的な祈祷をやっていた。村人たちも真剣な面持ちで祈っている。見渡す限り百人以上はいるようだ。確かに、これだけの人がいれば、あんな鐘を山に運ぶのはわけないだろう。
太郎はしばらく祈祷を見ていたが、「これだ!」と叫ぶと、望月を引っ張って人込みの外に出た。
鐘の所に戻ると太郎は皆を連れて般若院に向かった。般若院に着くと金比羅坊の名前を出し、皆に山伏の格好をさせ、ありったけの綱を持たせて鐘の所に行かせた。
太郎は花養院に行くと、楓から太郎坊という天狗の事を詳しく聞いた。
「何をするの」と楓は不思議そうに聞いた。
「雨乞いをする」と太郎は言って、ニヤッと笑った。
「雨乞い? そんな事できるの」
「わからん、でも、やらなきゃならん」
太郎は寺々を回って、天狗の面を見つけ出すと鐘の所に戻った。
「太郎坊、一体、何をやるつもりなんだ」と望月は聞いた。
「まあ、見てろ。まず、この綱を鐘に付ける」
五人は綱をつなぎ合わせて長くし、鐘のてっぺんに二本の綱を縛り付けた。
「誰か、法螺貝、吹ける奴はいないか」と太郎は皆の顔を見回した。
「吹けるぞ」と三雲と服部が答えた。
「よし、思い切り吹いてくれ。そして、望月と芥川はあそこに行って、これから天狗様が雨乞いの儀式をやると言って来てくれ」
「天狗様?」と望月が怪訝な顔をした。
「ああ、俺が太郎坊っていう天狗になる。奴らを集めて、奴らにこれを運ばせるんだ」
「雨が降らなかったら、どうするんだ」と服部が聞いた。
「その時はその時よ。とにかく、鐘を山に上げる事だ」
「やってみるか、一か八かだ」
三雲と服部が法螺貝を吹いた。
望月と芥川は村人たちの方に行った。
天狗の面をかぶった太郎は鐘の上に腰掛け、村人が集まって来るのを待った。
何だ、何だと村人たちはぞくぞくと集まって来た。かなりの人数が集まると太郎は鐘の上に立ち上がり、「わしは愛宕山の天狗、太郎坊じゃ」と迫力のある声で言った。
「このお山の飯道権現様に呼ばれて、やって来た。飯道権現様が言うには、雨が降らんのはお山に鐘がないからじゃ、ぜひとも、お山に鐘を上げ、鐘を鳴らして、お山に住む魑魅魍魎(チミモウリョウ)を退治してくれとの事じゃ。この鐘をお山に上げ、一撞きすれば雨は必ず降る」
太郎はそう言うと太刀を抜き、鐘の上で飛び上がりながら振り回し、太刀を納めると天を見上げ、印を結び、真言を唱えた。最後にヤァー!と気合を掛けると空中で回転しながら鐘から飛び降り、また、鐘の上に飛び乗った。
「皆の衆、天狗様のお告げじゃ。この鐘を運べば雨は必ず降るぞ」と望月が村人たちを見渡しながら大声で言った。
天狗様じゃ、天狗様じゃと村人たちは綱に飛び付いて行った。
「よーし、運べ!」と太郎が叫ぶと、鐘は嘘のように簡単に動き始めた。
太郎は鐘の上に乗ったまま、錫杖を振り回し、掛声を掛けた。望月と芥川も鐘の両脇で掛声を掛け、三雲と服部は法螺貝を吹き鳴らした。
参道を引きずられて行く鐘を見て、村人たちがぞくぞくと集まって来た。男たちは綱を引き、女たちは掛声を掛けた。
女たちの中に楓の姿もあった。楓も鐘の上で跳ねている太郎を見上げながら、掛声を掛けていた。
二の鳥居をくぐると、そこから先は女人禁制になっているので、女たちはそこから鐘が山に登って行くのを見送った。
急な登り坂になっても鐘は面白いように登って行った。鐘は右に揺れたり、左に揺れたり、飛び上がったりしていたが、太郎は落ちる事もなく、その鐘の上を跳びはねながら掛声を掛けていた。まさに、それは天狗の舞いだった。
村人たちの掛声は山の中に響き渡った。山の中からも一体、何の騒ぎだと山伏たちがぞくぞくと下りて来た。中には村人たちと一緒になって騒ぐ山伏もいた。
鐘は無事に、百人以上の村人たちの力で山の上まで運ばれ、できたばかりの鐘撞き堂に納まった。
鐘撞き堂の回りは人で埋まっていた。みんな、「やった、やった」と騒いでいる。
太郎は鐘撞き堂の上に立ち、空を見上げた。雨が降りそうな気配はまったくなかった。日がかんかんと照っていた。
太郎は鐘の真下に座り込んだ。両手に印を結ぶと祈り始めた。太郎は生まれて初めて本気で神に祈った。飯道権現、熊野権現、不動明王、天照大神(アマテラスオオミカミ)、八幡大明神など、太郎は知っている限りの神や仏に祈った。
辺りは急に静かになった。皆が太郎を見つめていた。太郎坊という天狗を見つめていた。
太郎は何も考えずに、ただ、ひたすら祈った。自分の回りに集まっている人々の事も忘れた。山奥にたった一人でいるような錯覚を覚えた。
太郎の脳裏に、いつか、阿星山の頂上で見た、釈迦如来の姿が浮かんだ。太郎はあの釈迦如来にひたすら祈った。どれ位、祈っていただろう。太郎は釈迦如来が微笑したように思えた。
太郎は静かに立ち上がると、空を見上げ、回りを見回した。村人たちは太郎にすがるような目をして見つめていた。
太郎はもう一度、祈ると、ゆっくりと撞木(シュモク)の綱を握り、軽く後ろに引き、勢いをつけ、もう一度、思い切り後ろに引き、鐘を撞いた。
鐘の音は山の中に響きわたった。
人々は一斉に天を見上げた。
雨は降らなかった。
村人たちがガヤガヤし始めた。
太郎は天を見上げたままだった。
望月が近づいて来て、「どうする」と囁いた。
太郎は答えなかった。
辺りが急に暗くなり始めた。雲が物凄い速さで動いていた。
ポタッと太郎の天狗の面に雨が一粒、当たった。
「雨じゃ!」と誰かが叫んだ。
「雨じゃ!」とまた、別の者が叫んだ。
ザーッと雨は急に降って来た。
乾いていた樹木に雨は勢いよく降り付けた。
天を仰いでいた人々の顔にも容赦なく降り付けた。
「やったぞ、雨じゃ、雨じゃ!」
村人たちは皆、小躍りして喜んでいた。
望月も芥川も三雲も服部も皆、飛び上がって喜んだ。
太郎は天狗の面をしたまま雨の中で喜ぶ村人たちを見下ろし、天に向かって釈迦如来に感謝した。
「大した奴だな」と誰かが言った。
見ると金比羅坊が側に立って太郎を見ていた。
「無事、鐘を上げる事ができました」と太郎は言った。
金比羅坊は大きく頷いた。
「最後の仕上げだ」と金比羅坊は言った。
「最後の仕上げ?」
「いつまでも、天狗様がここにいてもしょうがないだろう。用は済んだんだ。皆に気づかれないように消えろ」
太郎は頷くと、誰にも気付かれないように森の中に消えて行った。
騒ぎが治まると金比羅坊は、「天狗様は空に飛んで行かれた。愛宕山にお帰りになられたのじゃろう」と大声で言った。
雨に打たれながら、村人たちは天に向かってお礼を言った。
昼間の騒がしさが嘘のように山の中は静まり返っていた。
五人は物陰に隠れながら寺の境内を抜けると山道を下りて行った。太郎が登って来た道とは反対側である。この道を下りて行くと杣川に出る。望月と三雲と芥川の三人はこちら側から山に登って来たのだった。
杣川を一里程、上れば望月家のある竜法師だった。
こちら側の山の下にも、いくつもの僧坊が建ち並んでいたが、やはり、太郎が登って来た方が賑やかに栄えていた。
五人の人影は僧坊の中を縫うように走り抜け、杣川の河原に出た。
「懐かしいのう」三雲が回りを眺めながら言った。「俺のうちは、この川沿いに行けばすぐなんだ」と川の流れて行く方をじっと見つめた。
「母ちゃんに会いたくなったのか」と服部がからかった。
「うるせえ」
五人は三雲の家とは逆の方に向かって河原を歩き出した。
辺りは静まり返り、川のせせらぎしか聞こえて来ない。深川の村まで来ると河原から上がった。竜法師はもう目の前だった。
「どこだ」と服部が聞いた。
「あの森の向こうだ」と望月が指さした。
しばらく歩くと神社があった。
「ここから先はちょっとあぶない」と望月は足を止めた。
五人は身を低くして、たんぼの中の畦道に入った。
望月家の屋敷は高い塀に囲まれ、濠まで巡らされてあった。表の門は固く閉ざされ、塀の中の四隅には見張り櫓が立っている。櫓の中に人影が見えるが動く様子はない。どうやら眠っているようだった。
五人は物陰に隠れ、望月屋敷を観察していた。
「あれが、おめえのうちだったのか」と三雲が言った。
望月は屋敷をじっと見つめながら頷いた。「しかし、あんな櫓は前にはなかった。後で作ったものだろう」
「あの濠には水が入っているのか」と太郎は望月に聞いた。
「いや、前は入っていなかった。しかし、鉄菱(テツビシ)が撒いてある」
「鉄菱?」
「菱の実を知ってるだろう。あれを鉄で作った物だ。知らずに、あの濠に降りれば足の裏に穴があくのさ」
「へえ、そんな武器があるのか」と太郎は感心した。
「それじゃあ、中に入るのはあの表門しかないのか」と芥川が聞いた。
「ない。裏にも入り口はあるが濠に橋が架かっていない。中から橋を架けるようになっているんだ」
「すると、やはり、あの塀を乗り越すしかないか‥‥‥」と太郎。
「乗り越すにしてもかなりあるぜ。一丈(約三メートル)はあるだろう」と服部。
「濠の深さはどれ位だ」と芥川。
「やはり、一丈位はある」
「すると、濠の下からだと二丈はあるな」
「無理だな」と三雲が首を振った。「二丈も登れるわけがねえ。しかも、下には鉄菱が撒いてあり、上には見張りがいる」
「それをこれから訓練するんだ」と太郎は塀を見つめながら言った。「山に行けば二丈以上もある木がいくらでもある」
「俺たちは猿になるわけか」と服部が太郎を見た。
「そう言う事だ。あの屋敷を攻めるには、まず、あの四隅にいる見張りを倒さなくてはならん。上から弓でも射られたら面倒だからな。俺たち四人であの四人の見張りをやっつけ、その後、望月が表門から攻めるんだ」
「成程」と三雲は手を打って感心した。「おめえ、山伏のくせに、よく、そんな事、知ってるな」
太郎は苦笑した。五ケ所浦にいる時、祖父から教わった水軍の兵法(ヒョウホウ)だった。まさか、こんな所で兵法が役に立つとは思ってもいなかった。
「一応、一回りしてみるか」と望月は皆の顔を見た。
五人は物陰に隠れながら望月家を一回りして、神社まで戻ると作戦を練った。
皆、あの望月屋敷を攻め落とす事に乗り気になっていた。
「まず、望月に家の見取り図を書いてもらうんだな」と芥川が言った。
「わかった」と望月は頷いた。
「あとは兵力だな。どれ位の兵がいるかだ」と太郎は言った。
「夜中じゃ、ちょっと調べられんな」と服部が首を振る。
「それは、杉谷に頼もう」と望月は言った。「ここから、すぐ側に住んでいる。ガキの頃からの仲間だ。奴ならやってくれる」
「うん、それがいいな」と芥川が太郎を見る。
「あとは、俺たちがもっと強くなる事だ」と太郎は四人の顔を見回した。
「これからは木登りの訓練だな」と三雲が近くの木を見上げた。
「それと、手裏剣も練習した方がいい」と太郎は言った。「敵の方が多いからな」
「飛び道具か‥‥‥」と望月は拳を握り締めて頷いた。
「これからは特訓だぜ」と服部は刀の柄をたたいた。
「それで、いつやるんだ」と三雲が望月の顔を見た。
「今のままじゃ、とても無理だ。又五郎の薙刀は手ごわい」
「薙刀を使うのか‥‥‥やりづらいな」と芥川は顔をしかめた。
「お山の中陽坊と、どっちが強い」と服部は聞いた。
「わからんが、中陽坊を倒す事ができなけりゃ、まず、無理だろう」
「そりゃ難しいぞ。そいつはおめえに任せるよ」
「手ごわいのは、そいつだけじゃない。あと三人いる」
「お前ら、今年一杯で山を下りるんだろ」と太郎は聞いた。
「ああ、そうだ」と芥川が言うと、三雲と服部が頷いた。
「それまでに、やらなくちゃな」
「それじゃあ、年末にやるか」と芥川は言った。「奴らをやっつけて、めでたく正月を迎えるのさ」
「そいつはいい」と服部も賛成した。「そうすれば、望月も正月をあのうちで迎えられるわけだ」
「どうだ」と太郎は望月に聞いた。
望月は頷いた。「年末なら、かえって、奴らも油断してるかもしれん」
「決まりだな」と三雲が拳を上げた。「そうと決まれば忙しいぞ。あと四ケ月とちょっとしかねえ」
「四ケ月もありゃ充分さ」と服部が三雲の拳を握った。
「いい正月を迎えようぜ」太郎は皆の顔を見ながら言った。
「おう!」
2
夜が明ける前に五人は無事、山に戻って来た。
太郎は修徳坊に戻り、望月、芥川、服部、三雲の四人は修行者の宿坊に戻った。そして、皆と一緒に朝のお勤めを済ませ、朝飯に行く時だった。
四人は金比羅坊に呼ばれた。金比羅坊は太郎の腕を強くつかんでいた。
金比羅坊は五人を食堂(ジキドウ)の前に建つ蔵の前に並ばせると、ニヤニヤしながら五人の顔を見渡した。
「なぜ、呼ばれたかわかるな」
五人は答えなかった。
「夜中に、このお山を下りるのは構わん」と金比羅坊はやけに静かな声で言った。
「誰も止めはせん。お山の修行は辛いもんだ。お山がいやになり里が恋しくなる。帰りたくなれば、いつでも帰ればいい。だが、そいつは一生、落伍者という烙印(ラクイン)を押される事になる。お前らはお山を下りた。それだけなら誰も文句は言わん。ところが、また、とぼけて戻って来た。これは具合が悪い。非常に具合が悪い‥‥‥こういう事を放っておくと誰もが、夜、お山を抜け出し、また、知らん顔をして戻って来る事になる。それではお山の示しがつかん。芥川、三雲、服部、お前らは、あと四ケ月と少しだろう。どうして、我慢できなかったんじゃ‥‥‥まあ、やってしまった事はしょうがない。毎年、お前らみたいのが何人かいる。わしは、そういう奴らが好きじゃよ。お山で、おとなしく一年を過ごしている奴より、そういう奴の方が骨がある。よく、やってくれた。今年は皆、おとなし過ぎてつまらんと思っていたが、とうとう、お前ら五人が出た‥‥‥それでだ、今日は、お前ら骨のある五人に是非とも頼みがあるんじゃ。鐘撞き堂を直していたのを知っておるじゃろう。鐘撞き堂もようやく完成した。しかし、何かが足りない。何が足りない、おい、言ってみろ!」
「鐘です」と望月が答えた。
「そうじゃ、鐘じゃ、鐘撞き堂に鐘がないというのは、何とも様にならない。御本尊様のいない本堂のようなものじゃ。その鐘をお前らに運んでもらいたいのじゃ」
「どこにあるんです」と太郎は聞いた。
「里じゃよ。お前らの好きな里にある。それをただ、鐘撞き堂まで持って来ればいいだけじゃ。簡単じゃろ」
「重さはどの位です」と三雲が聞いた。
「たかが、五百貫(約二トン)じゃ。五人でやれば簡単じゃ。それじゃあ、すぐ、やってもらおうか」
「五百貫! そんなの無理だ」と三雲が情けない顔をした。
「無理じゃと‥‥‥無理でもやれ! やるまではお山に戻る事はならん」
「あの、朝飯は?」と服部が小声で聞いた。
「何だ、お前ら、まだだったのか、そいつは残念じゃのう‥‥‥今日は飯抜きじゃ。さっさと鐘を持って来い!」
鐘は信楽側の里にあった。こちら側の方が杣川側よりも距離は短いが、かなり急な坂である。五人は朝飯も食わず、一睡もせずに鐘と格闘しなければならなかった。
黒々とした鐘は大鳥居の側に置いてあった。見るからに重そうだった。五人で押した位では、びくともしなかった。
「これをどうやって、上まで持って行くんだよ」と三雲が鐘を押しながら言った。
「そんな事、知るか」と芥川は鐘を憎らしげに蹴飛ばした。足が痛いだけだった。
五人は鐘を睨んでは山の方を見ながら、どうしたらいいものか考えた。
ここから二の鳥居まで、なだらかな坂が九町(約一キロ)程続き、二の鳥居からは急な坂が六町(約六百五十メートル)程続いている。二の鳥居まで何とか運べたとしても、そこから先はどう考えても不可能な事だった。
「腹、減ったなあ」と服部が腹を押さえて座り込んだ。
「太い綱が必要だな」と望月が鐘をたたきながら言った。
「綱を付けて引っ張るのか」と太郎は鐘の回りを一回りしてみた。
「それしかないだろう」
「うん。とにかく、やってみるしかないな‥‥‥そこらの寺で綱を借りて来るわ」と太郎は出掛けた。
太郎は近くにあった寺の門をくぐった。境内には人影は見えなかった。太郎が本堂の方に歩いて行くと途中で声を掛けられた。
「何か、御用ですか」
女の声だった。
太郎が振り向くと、若い女が薙刀を持って立っていた。長い髪を後ろで束ね、白い鉢巻を巻き、白い袴をはいていた。
太郎は久し振りに女という物を見たような気がした。その娘は綺麗だった。眩しすぎるようだった。
「何か、御用でしょうか」と娘は太郎を眺めながら、また聞いた。
「は、はい」と太郎は、やっと答えた。
娘の大きく澄んだ目に見つめられると、なぜか、ボーッとしてしまった。
「あの、太い綱を借りたいのですが‥‥‥」
「太い綱?」と娘は怪訝な表情をした。
「はい。鐘を山に運ぶのです」
「ああ、あの鐘ですか。御苦労様です。聞いて来ますので、ちょっとお待ち下さい」
娘は去って行った。
太郎は、ボーッとしたまま娘の後姿を見送った。
しばらくすると、娘は尼僧を伴って戻って来た。
「私は松恵尼(ショウケイニ)と申します」と尼僧は軽く頭を下げた。
「はい、私は太郎坊移香と言います」太郎は自己紹介して頭を下げた。
「太郎坊移香?」と松恵尼は改めて太郎を見た。そして、なぜか笑い、頷いた。
「お話は楓(カエデ)から聞きました。申し訳ありませんが、ここには太い綱はありません」
「そうですか、どうも‥‥‥ここは尼寺だったのですか」
「そうですよ、御存じなかったのですか」
「はい。山ばかりいて、里の事はあまり知りませんので‥‥‥」
「多分、お隣の般若院(ハンニャイン)にあると思います」
「そうですか‥‥‥」
楓という娘は太郎を見てクスクス笑っていた。
「それでは失礼します」と松恵尼は去って行った。
「お隣に行ってご覧なさい」と楓は言った。
「はい」と太郎は楓の姿に見とれていた。「あの、あなたも尼さんですか」
「いいえ、私は違います。これのお稽古をしています」と薙刀を振って見せた。
「女だてらに?」
「女でも身を守るために必要です。太郎坊様はお山で天狗様になる修行をなさってるんですか」そう言いながら楓は笑った。
「天狗様?」と太郎は聞いた。
「だって、太郎坊って天狗様の名前でしょ」
「知らんぞ、そんな事」
「八日市に太郎坊宮があります。そこに太郎坊っていう天狗様が住んでいるって聞いています。本当は京の愛宕山(アタゴヤマ)に住んでいるらしいけど、時々、そこにも来るらしいわ。そして、京の鞍馬山(クラマヤマ)には、次郎坊っていう天狗様がいるそうです」
「へえ、そうなのか、知らなかった」
「ねえ、太郎坊様はお山で何をなさってるんです」
「私は剣の修行をしている」
「強いの?」
「あなたよりは強いでしょう」
「私も以外に強いのよ。あなたの事は前から聞いていたわ」
「俺の事を?」
「ええ、三月にお山に入って来て百日行をなさいました。そして、今は剣の修行をなさっている」
「どうして、知ってるんだ」
「お山の事はすぐ、噂に流れます。私、太郎坊様は天狗様みたいに怖い感じの人だと思ってたけど、全然、違うのね」
「俺は天狗じゃない」
楓はフフフと笑った。
太郎も笑った。突然、太郎の腹がグゥ~と大きく鳴った。
「どうしたの」と楓は笑いながら聞いた。
「何でもない」と太郎は腹を押えた。
「おなかが減ってるんじゃないの。お山ではご飯も食べられないの」
「今朝は忙しかったから忘れたんだ」
「ふうん」
「楓殿、頼みがあるんですけど」
楓はまた、笑った。
「楓殿はおかしいわよ、楓でいいわ。頼みって?」
「何か、食べる物が欲しい」
「いいわよ」
「五人分です」
「え? 五人分ね、何とかしてみるわ、待ってて」と楓は去って行った。
太郎が太い綱を肩にかつぎ、楓が作ってくれた握り飯を持って帰ると、四人は皆、木陰でいい気持ちになって眠っていた。
「おい、飯だ!」と太郎はみんなを起こした。
五人は貪るように握り飯をたいらげた。
「さて、飯も食ったし、やるか」と望月は立ち上がった。
太郎はボーッとしていた。楓の事を思っていた。
「太郎坊、どうしたんだ」と服部が肩をたたいた。
「あ、いや、ちょっと飯を食ったら眠くなって来た。さて、やるか」
太い綱を鐘のてっぺんの輪に通して縛り付けた。
三人で綱を引っ張り、二人で鐘を倒した。鐘は地響きを立てて倒れた。三人で引っ張り、二人で押してみたが鐘はびくとも動かなかった。今度は五人で引っ張ってみた。鐘は少しも動かなかった。
「おい、とても、五人だけじゃ無理だぜ」と三雲は引っ張っていた綱を放り投げた。
「無理でも、やらなけりゃならんだろう」と望月は言った。
「よし、もう一度だ」と太郎はみんなを励ました。
掛声を出して思い切り引っ張ると、鐘はやっと、ほんのわずかばかり移動した。
「やっぱり、無理だぜ」と芥川が息を切らせながら言った。「平地でやっと、これだけだ。山道なんか全然、動かんだろ。逆に下に落ちて行くわ」
「畜生!」と服部が汗を拭った。「金比羅坊の奴め、くだらん事をやらせやがって」
「どうする」と望月が太郎に聞いた。
「どうするか‥‥‥」
いい考えも浮かばず、五人は鐘の回りに座り込んだ。
今日も暑くなり始めて来ていた。
「どうして、山を下りたのがばれたのかなあ」と三雲が愚痴った。
「そんな事、知るか」服部はかたわらの草をむしると投げつけた。
望月は腕組みをして考え込んでいる。
太郎はボーッとして、また、楓の事を思っていた。
「あれだけの人間がいれば、こんなのすぐに上げられるのになあ」と芥川がポツリと言った。
一つの寺の前に村人たちが何人も集まってガヤガヤやっていた。
「何だ、あれは」と望月は聞いた。
「雨乞いの祈祷でも、するんだろう」と芥川が言った。
今年は梅雨が短く、六月の初めに大雨が降ってから後、日照りが続き、三ケ月近くも雨が一滴も降らなかった。人々は、雨を待ち望み、あちこちで雨乞いの祈祷が行なわれた。
「雨乞いか‥‥‥ちょっと、見て来よう」と望月は太郎を誘って人込みの方に行った。
人込みを割って中を見ると、山伏が護摩壇(ゴマダン)の前で神懸かり的な祈祷をやっていた。村人たちも真剣な面持ちで祈っている。見渡す限り百人以上はいるようだ。確かに、これだけの人がいれば、あんな鐘を山に運ぶのはわけないだろう。
太郎はしばらく祈祷を見ていたが、「これだ!」と叫ぶと、望月を引っ張って人込みの外に出た。
鐘の所に戻ると太郎は皆を連れて般若院に向かった。般若院に着くと金比羅坊の名前を出し、皆に山伏の格好をさせ、ありったけの綱を持たせて鐘の所に行かせた。
太郎は花養院に行くと、楓から太郎坊という天狗の事を詳しく聞いた。
「何をするの」と楓は不思議そうに聞いた。
「雨乞いをする」と太郎は言って、ニヤッと笑った。
「雨乞い? そんな事できるの」
「わからん、でも、やらなきゃならん」
太郎は寺々を回って、天狗の面を見つけ出すと鐘の所に戻った。
「太郎坊、一体、何をやるつもりなんだ」と望月は聞いた。
「まあ、見てろ。まず、この綱を鐘に付ける」
五人は綱をつなぎ合わせて長くし、鐘のてっぺんに二本の綱を縛り付けた。
「誰か、法螺貝、吹ける奴はいないか」と太郎は皆の顔を見回した。
「吹けるぞ」と三雲と服部が答えた。
「よし、思い切り吹いてくれ。そして、望月と芥川はあそこに行って、これから天狗様が雨乞いの儀式をやると言って来てくれ」
「天狗様?」と望月が怪訝な顔をした。
「ああ、俺が太郎坊っていう天狗になる。奴らを集めて、奴らにこれを運ばせるんだ」
「雨が降らなかったら、どうするんだ」と服部が聞いた。
「その時はその時よ。とにかく、鐘を山に上げる事だ」
「やってみるか、一か八かだ」
三雲と服部が法螺貝を吹いた。
望月と芥川は村人たちの方に行った。
天狗の面をかぶった太郎は鐘の上に腰掛け、村人が集まって来るのを待った。
何だ、何だと村人たちはぞくぞくと集まって来た。かなりの人数が集まると太郎は鐘の上に立ち上がり、「わしは愛宕山の天狗、太郎坊じゃ」と迫力のある声で言った。
「このお山の飯道権現様に呼ばれて、やって来た。飯道権現様が言うには、雨が降らんのはお山に鐘がないからじゃ、ぜひとも、お山に鐘を上げ、鐘を鳴らして、お山に住む魑魅魍魎(チミモウリョウ)を退治してくれとの事じゃ。この鐘をお山に上げ、一撞きすれば雨は必ず降る」
太郎はそう言うと太刀を抜き、鐘の上で飛び上がりながら振り回し、太刀を納めると天を見上げ、印を結び、真言を唱えた。最後にヤァー!と気合を掛けると空中で回転しながら鐘から飛び降り、また、鐘の上に飛び乗った。
「皆の衆、天狗様のお告げじゃ。この鐘を運べば雨は必ず降るぞ」と望月が村人たちを見渡しながら大声で言った。
天狗様じゃ、天狗様じゃと村人たちは綱に飛び付いて行った。
「よーし、運べ!」と太郎が叫ぶと、鐘は嘘のように簡単に動き始めた。
太郎は鐘の上に乗ったまま、錫杖を振り回し、掛声を掛けた。望月と芥川も鐘の両脇で掛声を掛け、三雲と服部は法螺貝を吹き鳴らした。
参道を引きずられて行く鐘を見て、村人たちがぞくぞくと集まって来た。男たちは綱を引き、女たちは掛声を掛けた。
女たちの中に楓の姿もあった。楓も鐘の上で跳ねている太郎を見上げながら、掛声を掛けていた。
二の鳥居をくぐると、そこから先は女人禁制になっているので、女たちはそこから鐘が山に登って行くのを見送った。
急な登り坂になっても鐘は面白いように登って行った。鐘は右に揺れたり、左に揺れたり、飛び上がったりしていたが、太郎は落ちる事もなく、その鐘の上を跳びはねながら掛声を掛けていた。まさに、それは天狗の舞いだった。
村人たちの掛声は山の中に響き渡った。山の中からも一体、何の騒ぎだと山伏たちがぞくぞくと下りて来た。中には村人たちと一緒になって騒ぐ山伏もいた。
鐘は無事に、百人以上の村人たちの力で山の上まで運ばれ、できたばかりの鐘撞き堂に納まった。
鐘撞き堂の回りは人で埋まっていた。みんな、「やった、やった」と騒いでいる。
太郎は鐘撞き堂の上に立ち、空を見上げた。雨が降りそうな気配はまったくなかった。日がかんかんと照っていた。
太郎は鐘の真下に座り込んだ。両手に印を結ぶと祈り始めた。太郎は生まれて初めて本気で神に祈った。飯道権現、熊野権現、不動明王、天照大神(アマテラスオオミカミ)、八幡大明神など、太郎は知っている限りの神や仏に祈った。
辺りは急に静かになった。皆が太郎を見つめていた。太郎坊という天狗を見つめていた。
太郎は何も考えずに、ただ、ひたすら祈った。自分の回りに集まっている人々の事も忘れた。山奥にたった一人でいるような錯覚を覚えた。
太郎の脳裏に、いつか、阿星山の頂上で見た、釈迦如来の姿が浮かんだ。太郎はあの釈迦如来にひたすら祈った。どれ位、祈っていただろう。太郎は釈迦如来が微笑したように思えた。
太郎は静かに立ち上がると、空を見上げ、回りを見回した。村人たちは太郎にすがるような目をして見つめていた。
太郎はもう一度、祈ると、ゆっくりと撞木(シュモク)の綱を握り、軽く後ろに引き、勢いをつけ、もう一度、思い切り後ろに引き、鐘を撞いた。
鐘の音は山の中に響きわたった。
人々は一斉に天を見上げた。
雨は降らなかった。
村人たちがガヤガヤし始めた。
太郎は天を見上げたままだった。
望月が近づいて来て、「どうする」と囁いた。
太郎は答えなかった。
辺りが急に暗くなり始めた。雲が物凄い速さで動いていた。
ポタッと太郎の天狗の面に雨が一粒、当たった。
「雨じゃ!」と誰かが叫んだ。
「雨じゃ!」とまた、別の者が叫んだ。
ザーッと雨は急に降って来た。
乾いていた樹木に雨は勢いよく降り付けた。
天を仰いでいた人々の顔にも容赦なく降り付けた。
「やったぞ、雨じゃ、雨じゃ!」
村人たちは皆、小躍りして喜んでいた。
望月も芥川も三雲も服部も皆、飛び上がって喜んだ。
太郎は天狗の面をしたまま雨の中で喜ぶ村人たちを見下ろし、天に向かって釈迦如来に感謝した。
「大した奴だな」と誰かが言った。
見ると金比羅坊が側に立って太郎を見ていた。
「無事、鐘を上げる事ができました」と太郎は言った。
金比羅坊は大きく頷いた。
「最後の仕上げだ」と金比羅坊は言った。
「最後の仕上げ?」
「いつまでも、天狗様がここにいてもしょうがないだろう。用は済んだんだ。皆に気づかれないように消えろ」
太郎は頷くと、誰にも気付かれないように森の中に消えて行った。
騒ぎが治まると金比羅坊は、「天狗様は空に飛んで行かれた。愛宕山にお帰りになられたのじゃろう」と大声で言った。
雨に打たれながら、村人たちは天に向かってお礼を言った。
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第一部 13.天狗騒動
仕事の合間をぬって、読ませていただいてます。
13.天狗騒動での太郎、かっこええですね。
太郎坊。八日市(東近江市)『克己』と彫られた
石碑があり、ここへは、毎年誕生月にあの石階段をせっせと上がり、参拝ご祈祷に行ってます。
甲南の深川、竜法師、杣川といい地元地域がでてくるってうれしいですね。
地元の方々にも読んでもらいたいんで、ボクのブログにご紹介させていただきたいんですが・・・よろしいですか?
いや、みなさんに知って読んでもらいたいんで~どうか、よろしくお願いします。
13.天狗騒動での太郎、かっこええですね。
太郎坊。八日市(東近江市)『克己』と彫られた
石碑があり、ここへは、毎年誕生月にあの石階段をせっせと上がり、参拝ご祈祷に行ってます。
甲南の深川、竜法師、杣川といい地元地域がでてくるってうれしいですね。
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