2.駿府2
5
一雨、来そうな空模様だった。
早雲と小太郎は、荒川坊、才雲、孫雲、寅之助の四人を引き連れて村々を回っていた。半年間、留守にしていたので、村々の様子を調べるためだった。早雲がこの地で暮らして行けるのは、村人たちのお陰であった。村人たちが困っていれば何でも相談に乗って、なるべく解決してやりたかった。
村人たちから早雲は偉い僧侶だと思われていた。自分で素性を言った事などないのに、駿府のお屋形に出入りし、この辺り一帯の領主でもある小河(コガワ)の長者、長谷川次郎左衛門尉の屋敷にも出入りしている。村人から見たら偉い人だと思うのは当然の事だった。その偉いお人が立派な寺院に入らないで、丘の上に庵を建てて住み、少しも偉ぶった所もなく、誰とでも気軽に話をしてくれる。そして、村人のために道や橋、潅漑用水を直したり、人手が足らない時は田畑の仕事まで手伝ってくれる。かといって、早雲の方から村人たちに何かを求めるという事はなく、難しい説教をする事もない。また、村と村が水争いをした時なども公平に裁いてくれるので、誰からも頼りにされ、慕われていた。
今回、村々を回ってみたが、これといって困っている様子はなかった。早雲たちは村々を巡った後、小河湊を見て回り、早雲庵に帰って来た。早雲たちが帰って来たのと同時位に雨がポツポツと降り出して来た。
三軒になった早雲庵は、一番最初の庵を早雲と小太郎が使い、春雨のために建てた春雨庵に春雨とお雪が寝泊りしていた。そして、新しく建てた庵は富嶽庵と名づけ、今は富嶽がいないが、多米と荒木、荒川坊と早雲の弟子二人が使用していた。寅之助はその日によって好きな所で寝ていた。
最初の早雲庵は、早雲一人が暮らせればいいと思って建てたので、半分が土間で台所があり、半分が板の間で板の間は二つに分かれ、一つに囲炉裏が付いていた。春雨庵は春雨一人が住むために建てたので、ちょっとした土間と板の間が一つあるだけの小さなものだった。早雲がいない留守に建てられた富嶽庵は、大きさは早雲庵と同じで、板の間が三つあり、その分、土間が狭かった。春雨庵には竃(カマド)は付いていないが、早雲庵と富嶽庵には竈が付いていた。早雲庵の北側に井戸があり、風呂と厠(カワヤ)があった。
早雲たちが早雲庵に帰って来た時、春雨とお雪が飯の支度をしていた。珍しく、客はいなかった。さっきまで近所の与次兵衛爺さんがいたが、雨が降りそうだと帰って行ったと言う。
囲炉裏の間に上がると早雲は春雨に声を掛けた。
「多米と荒木はいないようじゃが、とうとう関東に旅だったのか」
「口だけですよ」と春雨は言った。「旅になんか行くもんですか、また、博奕(バクチ)を打ちに行ったんですよ」
「湊にか」
「そうでしょう」
「銭もないのに、よく博奕なんかできるな」
「荒木さんが、うまいみたいですよ」
「へえ、奴がねえ。関東に行って一旗挙げるという話は取りやめか」
「知りませんけどね。ほんとに行く気があるんだか分かりはしませんよ」
「まあ、そのうち出て行くじゃろう」
「あの二人も変わった奴らじゃな」と小太郎は囲炉裏に薪をくべながら言った。
「荒木は伊勢の浪人で、多米は三河の浪人じゃ。あれで、なかなか腕は立つんじゃがのう」
「腕が立つのに浪人しておるのか」
「わしらと同じよ。奴らは奴らなりに何かをしようとしておるんじゃろ。しかし、その何かが分からない。自分を賭けられる程のものが見つからんのじゃろ」
「かもしれんのう」と小太郎は頷いた。「わしも最近になって、ようやく医者になろうと思い始めたが、まだ、他にやるべき事があるんじゃないのかと思う時があるわ」
「わしはもう、ここを死に場所と決めたわ。世を拗(ス)ねた一人の坊主として、この世から去ろうと思っておるんじゃ。もう、何も欲はない。ただのう、この間、一休殿と会って、あれ位の境地までたどり着きたいと思っておる。それだけが唯一の夢じゃ」
「融通無礙(ユウズウムゲ)の境地か」
「そうじゃ」
「おぬし、もう、死ぬ事まで考えておるのか」
早雲は笑った。「死を考えるという事は生を考えるという事さ。わしはまだ三十年は生きるつもりでおるわ」
「後三十年も生きるだと」小太郎は呆れた顔をして早雲を見た。「あと三十年も生きたら、わしら七十五じゃぞ。七十五になっても、ここにおるのか」
「ああ。ここにおって竜王丸(タツオウマル)殿の成長振りを楽しみながら見てるんじゃよ」
「そうか、竜王丸殿はおぬしの甥御(オイゴ)なんじゃのう。竜王丸殿が今川家を継ぐ事になるんじゃのう。そいつは楽しみじゃ」
「おぬしもここにおって、見守ってやってくれ」
「三十年後は竜王丸殿も立派な武将になっておる事じゃろうのう。そして、わしら、七十五歳の爺様二人が戦に出掛ける竜王丸殿を見送るというわけか」
「いや、七十五になっても、わしらは戦に出るんじゃよ」
「すると、わしらは竜王丸殿の家臣になるのか」
「いや、同朋衆(ドウボウシュウ)とやらになって戦について行くんじゃ」
「そいつは楽しそうじゃが、まあ、三十年、生きられたら考えてみよう」
その時、旅の僧が雨宿りさせてくれと飛び込んで来た。腰のまがった老僧だった。
早雲は、どうぞどうぞ、と老僧を囲炉裏の側に上げた。老僧は等阿弥(トウアミ)という時宗(ジシュウ)の僧だった。西の方から来たというので、早雲は遠江(トオトウミ)の戦(イクサ)の状況を聞いてみた。
「大井川の辺りに大勢の軍勢がおりましたが、戦はしておらんようでした」と等阿弥は答えた。
「昨日、出掛けたばかりじゃ。まだ、戦はしとらんじゃろう」と小太郎は言った。
「まあ、そうじゃな。見付の辺りはどうじゃ。軍勢がおったか」
「いえ、気がつきませんでしたが‥‥‥」
「敵はまだ、正月気分に浸っておるんじゃ」と小太郎は言った。
「遠江で戦が始まるのですか」と等阿弥は聞いた。
「ああ、始まる。もう、今頃、始まっておるかもしれんな」と早雲が答えた。
「そうですか‥‥‥」
「等阿弥殿はどちらからいらしたのですか」と小太郎は聞いた。
「どちらからと言われても‥‥‥わしは一年中、当てのない旅をしておりますので」
「当てのない旅か‥‥‥去年の秋から冬にかけては、どちらにいらっしゃいました」
「はあ、その頃は、多分、但馬(タジマ)の国辺りから伊勢の国辺りを旅していたと思いますが」
「但馬から伊勢か‥‥‥ちょっとお聞きしたいのじゃが、本願寺の上人様が今、どこにいらっしゃるか、噂などお聞きではないですか」
「本願寺の上人様でしたら、今、河内(カワチ)の国の出口という所に御坊をお建てになって、布教していらっしゃいます」
「そうか、河内にいらっしゃったのか‥‥‥それで、皆、御無事なのじゃな」
「はい。そのように伺っておりますが‥‥‥あなた様方は上人様のお知り合いなのでしょうか」
「なに、ちょっと世話になってのう。吉崎を出てからどこに行ったのか、ちょっと心配だったものじゃから‥‥‥そうですか、河内に行きましたか、これで一安心しました」
お雪も等阿弥の話を聞いていた。小太郎に笑いかけ、目で「よかったわね」と言っていた。
「加賀の状況はどんなだか、御存じありませんか」と小太郎は聞いた。
「はい。上人様が吉崎を出てからは、これといった騒ぎは起きてはおらんようです。ただ、北加賀では、守護に追い出された門徒たちが越中に避難したままです」
「ほう。等阿弥殿、結構、加賀の事に詳しいですな」
「はい。去年、北加賀で戦のあった時期、わしは丁度、河北潟(カホクガタ)の畔(ホトリ)の八田の道場におりました」
「そうか、河北潟の畔におったのか。それでは倉月庄の聖安寺(ショウアンジ)が焼かれた時、近くにおられたわけですな」
「はい。あの時、亡くなった人たちに引導(インドウ)を渡して回りました」
「そうじゃったのか。実はわしらもあの時、あそこにおったんじゃよ」
「門徒の方だったのですか」
「いや、わしはただの医者じゃ。あの時、怪我した者たちを治療して回っておったんじゃ」
「お医者様でしたか‥‥‥聖安寺もひどい有り様でしたが、専光寺はもっと悲惨でした」
「そうじゃのう‥‥‥あれはひどかった。しかし、蓮如殿が吉崎を出て一段落したらしいのう。戦が起きなくてよかったわ」
「はい。戦をしようとしておった張本人の下間蓮崇(シモツマレンソウ)という悪僧が破門になったお陰で、戦は静まりました」
「蓮崇か‥‥‥」
等阿弥は蓮崇が悪いと本気で信じているようだった。小太郎も早雲も、蓮崇がなぜ、本願寺を破門になったのか真相を知っていた。蓮崇が破門になった後、どれだけ苦しんでいたかを知っていた。しかし、世間では蓮崇は悪僧になってしまっていた。二人は等阿弥の話を聞いて、いたたまれない心境だった。
「蓮崇というのは、そんなに悪い坊主だったのか」と小太郎はあえて聞いてみた。
「はい。蓮崇は上人様を閉じ込めて、真実を語らず、門徒たちに勝手に戦の命令を出したそうです。しかし、松岡寺(ショウコウジ)殿(蓮綱)が近江から顕証寺(ケンショウジ)殿(順如)をお呼びになって、上人様に真実を告げて、蓮崇を破門にしたそうです。破門になった蓮崇は湯涌谷(ユワクダニ)に逃げましたが、追っ手に攻められて討ち死にしたとも、どこかに逃げたとも言われております」
「そうか‥‥‥」と小太郎は言うと立ち上がり、縁側に出て外の雨を眺めた。
雨はどしゃ振りになっていた。
馬鹿な奴じゃ、と小太郎は思った。何も悪い事をしてないのに、本願寺のために悪者になっている。今頃、そんな事も知らずに飯道山で修行に励んでいる事だろう。一年後、山を下りて加賀に行き、陰の組織を作って、門徒たちのために守護を倒してくれるよう願わずにはいられなかった。
等阿弥はその晩、早雲庵に泊まり、皆に旅の話をして、次の朝早く、遠江へと旅立って行った。東に向かう予定だったが、遠江で戦になれば、仏を供養(クヨウ)しなければならないと言って、腰を曲げながらも強い足取りで西に向かって行った。
「達者じゃのう」と後姿を見送りながら早雲は言った。
「ああ、七十は越えておるじゃろうのう。死ぬまで、ああして旅をするのかのう」
「死ぬまでするさ。たとえ、歩けなくなっても、やりそうじゃな」
「死ぬまで、旅か‥‥‥」
早雲は毎日、何やら忙しそうに、あっちに行ったり、こっちに行ったりしていた。
お雪は春雨を手伝いながら、訪ねて来る客たちの相手をしている。
寅之助はいつの間にか仲間ができたとみえて、毎日、近所の子供たちと遊び回っていた。
小太郎は特にする事がなく、時々、早雲の弟子たちを相手に剣術の稽古をする以外は毎日、ゴロゴロしていた。
多米と荒木の二人は小河湊に博奕に行ったまま、どこに行ったのか帰っては来なかった。
ここに来て七日目、ようやく、駿府に空き家が見つかったと、小河の次郎左衛門尉から知らせが届いた。その空き家は浅間(センゲン)神社の門前にあって、町医者を開業するには丁度いい所だと言う。前に住んでいたのは、小太郎と同じ医者だったが、いかさま祈祷師(キトウシ)で、浅間神社と何やら揉めて夜逃げをしたらしかった。さっそく、小太郎はお雪を連れて見に行く事にした。早雲と春雨も一緒に付いて来た。
浅間神社の門前町は相変わらず賑やかだった。
お目当ての家は浅間神社の表参道を西に入り、右側の七軒目の家だった。家の裏は土手になっていて北川が流れている。北川の向こうは今川屋形だった。丁度、ほぼ正面に北川殿がある。ただし、屋形は高い土塁で囲まれているので、土手に上がってみても北川殿の屋根しか見る事はできなかった。しかし、北川殿の近くには違いない。この先、何かと便利だろうと思った。
北川殿が近くだという事で一番喜んだのは早雲だった。用があって駿府に来た時、ここに小太郎が住んでいれば、堅苦しい屋敷に泊まらなくても済むし、町人の噂から駿府の様子も詳しく分かるだろうと喜んでいた。
春雨も北川殿の娘に踊りを教えに来た時は、ここにお世話になろうと言っていた。
建物は古いが、小太郎たちが吉崎で借りていた家よりも少し広いようだった。かなり広い土間があり、南側の庭に面して縁側があって、部屋は五部屋もあった。一部屋は土間に面していて細長く、客を待たせて置くのに丁度よかった。多分、前に住んでいた祈祷師も、この部屋に客を待たせたに違いなかった。
「どうだ」と小太郎はお雪に聞いた。
「いいんじゃない」とお雪は笑った。
「銭はあるのか」と早雲は心配した。
「大丈夫。蓮崇からたっぷりと礼銭を貰った」
「蓮崇から?」
「ああ。蓮崇は本願寺で執事(シツジ)をやっておった位じゃからな、かなり溜め込んであったんじゃろ。吉崎を出る時、先の事を考えて、かなり持ち出したらしい。しかし、新しい生き方が見つかったんで、飯道山に収める銭以外はもう用がないって言うんじゃ。今まで世話になったからといって、わしらにくれると言った。わしは断ったが、蓮崇は、わしにやるんじゃない。病気や怪我で苦しんでおる人のために使ってくれ、と言ったんじゃ。そうまで言われたら、断れなくてな、貰う事にした。蓮崇のためにも、わしらは病人や怪我人の治療をせにゃならんのじゃ」
「そうか、蓮崇がのう‥‥‥今頃、どうしておるかのう」
「百日行をやり通したんじゃ。もう、怖いものなどないじゃろう」
「そうじゃな。今思うと、とても信じられん事じゃ」
「なに、蓮崇はもっと信じられん程、どでかい事をやるわ」
「本願寺か‥‥‥わしも一度、加賀に行って、実際にどんな状況か見て来たくなったのう」
「行って来いよ。火乱坊の奴が喜ぶぜ」
「火乱坊か、奴にも会いたいのう。加賀か‥‥‥」
「あたしも行く」と春雨が口を挟んだ。
「何じゃ」と早雲は春雨を見た。
「早雲様は一度、旅に出ると、いつ帰って来るのか分からないんだもの。ずっと待ってるなんて辛くて我慢できないわ」
「早雲よ」とニヤニヤしながら小太郎が言った。「おぬし、坊主なんかやめたらどうじゃ。人間、素直になるのが一番じゃぞ」
「分かっておる。分かっておるが、わしの立場も考えてくれ」
「立場か、そんなもの捨てちまえ。ここから離れれば立場も何もあるまい」
「そうよ。駿河から出ればいいんだわ」と春雨が言った。
「勝手な事を言うな。駿河から出て、どこに行くんじゃ」
「加賀に行けばいい」
「加賀に行ってどうする。わしはおぬしのように医術など知らん」
「それは大丈夫じゃ。わしは火乱坊の奴から、さんざ、本願寺の坊主になれと誘われた。おぬしだって本願寺の坊主になれば、火乱坊は大喜びじゃろう。おぬしなら本願寺の坊主になって戦の大将だって勤まるわ」
「おぬしは、どうして本願寺の坊主にならなかったんじゃ」
「わしは長年、山伏をやり過ぎた。いつも一人で生きて来た。今更、ああいう仲間意識のある連中の中に、すんなりと入って行く事ができなかったんじゃ。おぬしならできるじゃろう。わしは火乱坊や蓮崇たちが羨ましかった。いつも仲間に囲まれておって、一つの事に熱中しておる。同じ目的のために命を張って生きておる。蓮如殿の教えは立派じゃ。わしは今まで、本気で人を尊敬した事などなかった。いつも下らん連中ばかりじゃと思っておった。しかし、わしは蓮如殿を心の底から尊敬した。この世にあんな人がおったのかと思う程、凄いお人じゃった‥‥‥早雲、おぬしも一度、蓮如殿に会ってみれば分かる。蓮崇が百日行をやり通したのも、蓮如殿のお力じゃ。蓮崇の頭の中には蓮如殿の事しかない。蓮如殿のために門徒たちを守らなければならないと思い、死に物狂いで歩き通したんじゃ。蓮如殿に会って、そして、加賀の国をその目で実際に見て来るんじゃ。そうすれば答えは自然と出る」
「蓮如殿か‥‥‥珍しいな、おぬしがそれ程、力説するのは‥‥‥そうじゃな、わしは楽な道を選んでおったのかも知れんな。ここにおれば何不自由なく暮らせる。わしは今まで逃げ続けて来たのかもしれん‥‥‥」
「新九郎、酒でも飲みながら話さんか。おぬしとこうして真面目に話をするのも久し振りじゃ」
「そうじゃのう。若い頃はよく話し合ったものじゃったが、久し振りに会っても、どこで何しておったか、というような思い出話しかなかったからのう。久し振りに、とことん話してみるか」
「お雪、悪いが酒を買って来てくれんか」
お雪は頷くと春雨と一緒に出て行った。
小太郎と早雲は縁側に腰を下ろした。
「わしはのう」と早雲は言った。「はっきり言って、今まで、ずっと逃げて来たんじゃ。二人で京に出た時からじゃ。無一文になって、おぬしは旅に出た。しかし、わしは伊勢守殿のもとに居候(イソウロウ)した。一旗挙げるためのきっかけを作るために居候しておるんじゃ、と自分に言い聞かせて来たが、逃げた事には変わりがない。ようやく、機会が巡って来て、わしは今出川殿(足利義視)の申次衆(モウシツギシュウ)になった。わしは次の将軍になるべく今出川殿に期待した。色々と話し合った事もあった。わしは今出川殿と共に新しい世を作ろうと張り切っていた。しかし、応仁の乱が始まって、今出川殿は東軍の大将になったにも拘わらず、京から逃げ出して行った。言っている事とやる事は大違いじゃった。とても将軍になれる器ではなかったんじゃ。わしは今出川殿と別れた。その時も逃げたんじゃ‥‥‥将軍家の内輪揉めの中に入って行くのが恐ろしかったのかもしれん。そして、浪人となった。浪人しておる時、備中に帰った。幕府と縁を切ったにも拘わらず、わしの回りには常に幕府が付いておった。田舎では未だに幕府と言えば権威の象徴じゃ。わしは幕府に仕えておる偉い人じゃと言われた。人々にそう思わせておいた方が争い事を静めるのに都合がいいと思ったから、わしはあえて否定はしなかった。逆に、皆から偉いと思われる事に内心、喜んでおった事も確かじゃ‥‥‥争い事も治まって、わしは京に戻り、家族と別れ、頭を丸めて旅に出た。今度こそ幕府とは縁を切り、本気で武士をやめた。そして、駿河に腰を落ち着けたが、幕府の影は相変わらず、わしに付いて来ているんじゃ」
「それは仕方ないんじゃないかのう。過去というものは消す事ができんもんじゃ」
「分かっておる。しかし、そのお陰で、わしは色々と邪魔な物を身に付けるはめになったんじゃ。わしはただ気楽に暮らしたいだけじゃったが、いつの間にか、偉い禅僧に仕立て上げられてしまった。わしはその事を迷惑に思いながらも、反面、満足もしておった。このまま偉い禅僧のまま、ずっと、ここにいようと思った‥‥‥この前、京に行った時、一休禅師と会い、そんな生ぬるい事を考えておったわしは、一休禅師に思い切り殴られたような衝撃を受けた‥‥‥本物の禅を実践しなければと決心した。百日行をして、さらに、その決心を固めた。しかし、駿河に帰って来ると、やはり、それを実行する事はできなかった。あれだけ決心したにも拘わらず、戻って来た途端、皆から偉いと思われておる、ただの坊主に戻ってしまった」
「おぬしが本物の禅を実行するために、何をしようとしておるのか知らんが、今の状況でも充分にできるんじゃないのか」
「いや、できんのじゃ。わしがおかしな事をすれば、北川殿に迷惑がかかって、北川殿が悲しむ事になる。北川殿も、わしの事を少し変わっておるが偉い僧侶だと思っておるんじゃ。少し位変わっておるのなら構わんが、変わり過ぎておったら困るんじゃ」
「一体、何をするつもりなんじゃ」
「女犯(ニョボン)を犯す」と早雲は真面目な顔で言った。
「なに、女犯を犯す? 早い話が春雨殿を抱きたいという事か」
「まあ、そういう事じゃ」
「惚れたのか」
「ああ、惚れた」
「向こうも惚れておるようじゃしな。なるようにしかならんじゃろ」
「ところが、なるようになったら、わしはここにおられなくなる。わしだけなら構わんが、北川殿に傷が付く事になるんじゃ」
「そりゃそうじゃのう。おぬしが春雨殿を抱けば、隠しておったとしても、必ず、噂になる。偉い坊主も地に落ちる事になるのう。村人たちからも相手にされなくなるかもしれん‥‥‥坊主になどならずに、ただの浪人で、ここに来ればよかったのにのう」
「いや、わしが坊主だったから、こうして、ここにおられるんじゃ。わしが武士のままだったら、北川殿の兄として今川家の派閥争いに巻き込まれて、幕府におった頃と同じ目に合わされたに違いないわ」
「今川家にも派閥争いがあるのか」
「そりゃあるさ。一族が多いからのう。この前会った逍遙(ショウヨウ)殿など、ずっと、わしが幕府から遣わされて、今川家の内情を調べに来たと疑っておったんじゃ。去年になって、ようやく、その疑いも晴れ、今では打ち解けておるがのう」
「ほう、今川家には幕府に隠しておくような事があるのか」
「駿河の国は幕府権力の及ぶ東の最先端にあるんじゃ。今川家は常に幕府方として、関東の見張り役を務めておったんじゃよ。先代の鎌倉公方(クボウ)の頃より幕府と鎌倉の対立が激しくなって、公方と管領(カンレイ)の上杉氏が争いを始めると幕府は上杉氏に味方して、公方を倒したんじゃ。一時、関東には公方がおらんかった。しかし、公方がおらんと関東をまとめる事ができんというので、元公方の遺児を呼んで公方とした。初めの頃はうまく行っておったが、また、争いが始まった。また、公方と管領が争いを始めたんじゃ。幕府は常に管領の味方をした。当然、今川家も管領を助けるために、幕府の命で何回か関東に出陣した。応仁の乱が始まると、幕府は関東の事どころではなくなった。今川家は東軍として幕府のために働いておったが、今は、はっきり言って幕府のために動いておるわけではない。自分の勢力を広げるために遠江に出陣しておる。一人歩きを始めている今川家は幕府にとって脅威なんじゃ。もし、関東の上杉氏、あるいは、鎌倉公方、今は鎌倉を追い出されて下総(シモウサ)の古河(コガ)におるので、古河公方と呼ばれておるが、その公方と手を結んで、さらに西へと手を伸ばして来たら、大変な事になると脅えておるんじゃよ」
「実際、関東と手を結ぼうとしておる者たちがおるのか」
「おるんじゃ。特に駿河の東の方にな」
「お屋形様はどうなんじゃ」
「お屋形様はそんな気はないじゃろう。それに幕府も今川家が裏切るとは思ってはおらん。ただ、今川家中の関東派の者たちが、わしが来たという事で、勝手にそのように勘ぐっただけの事じゃ」
「成程のう‥‥‥関東派というのは逍遙入道の事か」
「いや、逍遙入道は今はもう完全に隠居しておる。かえって、今川家が二つに分かれる事を心配しておる。わしがお屋形様のもとに出入りして、関東派の者たちを刺激しはしないかと心配しておったらしい」
「ふーん」
「今川家の事はどうでもいいんじゃ。今の所は安泰じゃ。それより、わしの事じゃ。わしははっきり言って今まで、自分で何かをやろうとした事がないんじゃ。何かをやろうとしたと言えば、ガキの頃、おぬしと一緒に備中を飛び出した事位かのう。あの時だって、おぬしに誘われて従っただけじゃった。京に来て伊勢守のもとにおった頃も、ただ、命ぜられるままに生きて来た。今出川殿の申次衆になったのもそうじゃし、嫁を貰ったのもそうじゃ。今出川殿と別れたのは自分の意志には違いないが、ただ逃げただけじゃった。そして、今も逃げておる。女子(オナゴ)が抱きたい癖に、回りを気にして、それすらできんのじゃ。情けないわ」
「どうして、坊主になどなったんじゃ」
「一休殿の真似がしたかっただけじゃ。まさか、この年になって、女に惚れるなんて思ってもおらなかったしのう」
「ここを離れるしかないのう」
「ああ」
「わしものう。おぬしとそう変わりはせん。自分で何かをした事などなかった。いつも、成り行きまかせに生きて来た。お雪と出会ってからじゃ、わしが医術の道に生きようと決心したのはな。最初、ただ、口から出まかせに言った医者じゃったが、お雪と一緒に負傷者たちを治療して行くうちに、医者という仕事もなかなかのもんじゃ、と思うようになったんじゃ。おぬしも春雨殿と一緒になれば、何かが変わるかもしれん」
「そうじゃのう。本物の禅を実践するには、どうしても逃げておっては駄目なんじゃ」
「加賀に行けよ」
「ああ、そうするかのう」
お雪と春雨が酒と肴を抱えて戻って来た。
酒を飲みながら早雲と小太郎の話は続いていた。二人には構わず、お雪と春雨は家の掃除をしたり、町で買って来た日常用品を片付けていた。お雪は町で何を仕入れて来たのか、次々に、色々な物が運ばれて来た。
その晩、新居にて、四人でささやかな引っ越し祝いを行ない、夜遅くまで、真面目に人生について語り合っていた。そして、その夜、早雲はついに女犯を犯した。
「そうでしょう」
「銭もないのに、よく博奕なんかできるな」
「荒木さんが、うまいみたいですよ」
「へえ、奴がねえ。関東に行って一旗挙げるという話は取りやめか」
「知りませんけどね。ほんとに行く気があるんだか分かりはしませんよ」
「まあ、そのうち出て行くじゃろう」
「あの二人も変わった奴らじゃな」と小太郎は囲炉裏に薪をくべながら言った。
「荒木は伊勢の浪人で、多米は三河の浪人じゃ。あれで、なかなか腕は立つんじゃがのう」
「腕が立つのに浪人しておるのか」
「わしらと同じよ。奴らは奴らなりに何かをしようとしておるんじゃろ。しかし、その何かが分からない。自分を賭けられる程のものが見つからんのじゃろ」
「かもしれんのう」と小太郎は頷いた。「わしも最近になって、ようやく医者になろうと思い始めたが、まだ、他にやるべき事があるんじゃないのかと思う時があるわ」
「わしはもう、ここを死に場所と決めたわ。世を拗(ス)ねた一人の坊主として、この世から去ろうと思っておるんじゃ。もう、何も欲はない。ただのう、この間、一休殿と会って、あれ位の境地までたどり着きたいと思っておる。それだけが唯一の夢じゃ」
「融通無礙(ユウズウムゲ)の境地か」
「そうじゃ」
「おぬし、もう、死ぬ事まで考えておるのか」
早雲は笑った。「死を考えるという事は生を考えるという事さ。わしはまだ三十年は生きるつもりでおるわ」
「後三十年も生きるだと」小太郎は呆れた顔をして早雲を見た。「あと三十年も生きたら、わしら七十五じゃぞ。七十五になっても、ここにおるのか」
「ああ。ここにおって竜王丸(タツオウマル)殿の成長振りを楽しみながら見てるんじゃよ」
「そうか、竜王丸殿はおぬしの甥御(オイゴ)なんじゃのう。竜王丸殿が今川家を継ぐ事になるんじゃのう。そいつは楽しみじゃ」
「おぬしもここにおって、見守ってやってくれ」
「三十年後は竜王丸殿も立派な武将になっておる事じゃろうのう。そして、わしら、七十五歳の爺様二人が戦に出掛ける竜王丸殿を見送るというわけか」
「いや、七十五になっても、わしらは戦に出るんじゃよ」
「すると、わしらは竜王丸殿の家臣になるのか」
「いや、同朋衆(ドウボウシュウ)とやらになって戦について行くんじゃ」
「そいつは楽しそうじゃが、まあ、三十年、生きられたら考えてみよう」
その時、旅の僧が雨宿りさせてくれと飛び込んで来た。腰のまがった老僧だった。
早雲は、どうぞどうぞ、と老僧を囲炉裏の側に上げた。老僧は等阿弥(トウアミ)という時宗(ジシュウ)の僧だった。西の方から来たというので、早雲は遠江(トオトウミ)の戦(イクサ)の状況を聞いてみた。
「大井川の辺りに大勢の軍勢がおりましたが、戦はしておらんようでした」と等阿弥は答えた。
「昨日、出掛けたばかりじゃ。まだ、戦はしとらんじゃろう」と小太郎は言った。
「まあ、そうじゃな。見付の辺りはどうじゃ。軍勢がおったか」
「いえ、気がつきませんでしたが‥‥‥」
「敵はまだ、正月気分に浸っておるんじゃ」と小太郎は言った。
「遠江で戦が始まるのですか」と等阿弥は聞いた。
「ああ、始まる。もう、今頃、始まっておるかもしれんな」と早雲が答えた。
「そうですか‥‥‥」
「等阿弥殿はどちらからいらしたのですか」と小太郎は聞いた。
「どちらからと言われても‥‥‥わしは一年中、当てのない旅をしておりますので」
「当てのない旅か‥‥‥去年の秋から冬にかけては、どちらにいらっしゃいました」
「はあ、その頃は、多分、但馬(タジマ)の国辺りから伊勢の国辺りを旅していたと思いますが」
「但馬から伊勢か‥‥‥ちょっとお聞きしたいのじゃが、本願寺の上人様が今、どこにいらっしゃるか、噂などお聞きではないですか」
「本願寺の上人様でしたら、今、河内(カワチ)の国の出口という所に御坊をお建てになって、布教していらっしゃいます」
「そうか、河内にいらっしゃったのか‥‥‥それで、皆、御無事なのじゃな」
「はい。そのように伺っておりますが‥‥‥あなた様方は上人様のお知り合いなのでしょうか」
「なに、ちょっと世話になってのう。吉崎を出てからどこに行ったのか、ちょっと心配だったものじゃから‥‥‥そうですか、河内に行きましたか、これで一安心しました」
お雪も等阿弥の話を聞いていた。小太郎に笑いかけ、目で「よかったわね」と言っていた。
「加賀の状況はどんなだか、御存じありませんか」と小太郎は聞いた。
「はい。上人様が吉崎を出てからは、これといった騒ぎは起きてはおらんようです。ただ、北加賀では、守護に追い出された門徒たちが越中に避難したままです」
「ほう。等阿弥殿、結構、加賀の事に詳しいですな」
「はい。去年、北加賀で戦のあった時期、わしは丁度、河北潟(カホクガタ)の畔(ホトリ)の八田の道場におりました」
「そうか、河北潟の畔におったのか。それでは倉月庄の聖安寺(ショウアンジ)が焼かれた時、近くにおられたわけですな」
「はい。あの時、亡くなった人たちに引導(インドウ)を渡して回りました」
「そうじゃったのか。実はわしらもあの時、あそこにおったんじゃよ」
「門徒の方だったのですか」
「いや、わしはただの医者じゃ。あの時、怪我した者たちを治療して回っておったんじゃ」
「お医者様でしたか‥‥‥聖安寺もひどい有り様でしたが、専光寺はもっと悲惨でした」
「そうじゃのう‥‥‥あれはひどかった。しかし、蓮如殿が吉崎を出て一段落したらしいのう。戦が起きなくてよかったわ」
「はい。戦をしようとしておった張本人の下間蓮崇(シモツマレンソウ)という悪僧が破門になったお陰で、戦は静まりました」
「蓮崇か‥‥‥」
等阿弥は蓮崇が悪いと本気で信じているようだった。小太郎も早雲も、蓮崇がなぜ、本願寺を破門になったのか真相を知っていた。蓮崇が破門になった後、どれだけ苦しんでいたかを知っていた。しかし、世間では蓮崇は悪僧になってしまっていた。二人は等阿弥の話を聞いて、いたたまれない心境だった。
「蓮崇というのは、そんなに悪い坊主だったのか」と小太郎はあえて聞いてみた。
「はい。蓮崇は上人様を閉じ込めて、真実を語らず、門徒たちに勝手に戦の命令を出したそうです。しかし、松岡寺(ショウコウジ)殿(蓮綱)が近江から顕証寺(ケンショウジ)殿(順如)をお呼びになって、上人様に真実を告げて、蓮崇を破門にしたそうです。破門になった蓮崇は湯涌谷(ユワクダニ)に逃げましたが、追っ手に攻められて討ち死にしたとも、どこかに逃げたとも言われております」
「そうか‥‥‥」と小太郎は言うと立ち上がり、縁側に出て外の雨を眺めた。
雨はどしゃ振りになっていた。
馬鹿な奴じゃ、と小太郎は思った。何も悪い事をしてないのに、本願寺のために悪者になっている。今頃、そんな事も知らずに飯道山で修行に励んでいる事だろう。一年後、山を下りて加賀に行き、陰の組織を作って、門徒たちのために守護を倒してくれるよう願わずにはいられなかった。
等阿弥はその晩、早雲庵に泊まり、皆に旅の話をして、次の朝早く、遠江へと旅立って行った。東に向かう予定だったが、遠江で戦になれば、仏を供養(クヨウ)しなければならないと言って、腰を曲げながらも強い足取りで西に向かって行った。
「達者じゃのう」と後姿を見送りながら早雲は言った。
「ああ、七十は越えておるじゃろうのう。死ぬまで、ああして旅をするのかのう」
「死ぬまでするさ。たとえ、歩けなくなっても、やりそうじゃな」
「死ぬまで、旅か‥‥‥」
早雲は毎日、何やら忙しそうに、あっちに行ったり、こっちに行ったりしていた。
お雪は春雨を手伝いながら、訪ねて来る客たちの相手をしている。
寅之助はいつの間にか仲間ができたとみえて、毎日、近所の子供たちと遊び回っていた。
小太郎は特にする事がなく、時々、早雲の弟子たちを相手に剣術の稽古をする以外は毎日、ゴロゴロしていた。
多米と荒木の二人は小河湊に博奕に行ったまま、どこに行ったのか帰っては来なかった。
ここに来て七日目、ようやく、駿府に空き家が見つかったと、小河の次郎左衛門尉から知らせが届いた。その空き家は浅間(センゲン)神社の門前にあって、町医者を開業するには丁度いい所だと言う。前に住んでいたのは、小太郎と同じ医者だったが、いかさま祈祷師(キトウシ)で、浅間神社と何やら揉めて夜逃げをしたらしかった。さっそく、小太郎はお雪を連れて見に行く事にした。早雲と春雨も一緒に付いて来た。
6
浅間神社の門前町は相変わらず賑やかだった。
お目当ての家は浅間神社の表参道を西に入り、右側の七軒目の家だった。家の裏は土手になっていて北川が流れている。北川の向こうは今川屋形だった。丁度、ほぼ正面に北川殿がある。ただし、屋形は高い土塁で囲まれているので、土手に上がってみても北川殿の屋根しか見る事はできなかった。しかし、北川殿の近くには違いない。この先、何かと便利だろうと思った。
北川殿が近くだという事で一番喜んだのは早雲だった。用があって駿府に来た時、ここに小太郎が住んでいれば、堅苦しい屋敷に泊まらなくても済むし、町人の噂から駿府の様子も詳しく分かるだろうと喜んでいた。
春雨も北川殿の娘に踊りを教えに来た時は、ここにお世話になろうと言っていた。
建物は古いが、小太郎たちが吉崎で借りていた家よりも少し広いようだった。かなり広い土間があり、南側の庭に面して縁側があって、部屋は五部屋もあった。一部屋は土間に面していて細長く、客を待たせて置くのに丁度よかった。多分、前に住んでいた祈祷師も、この部屋に客を待たせたに違いなかった。
「どうだ」と小太郎はお雪に聞いた。
「いいんじゃない」とお雪は笑った。
「銭はあるのか」と早雲は心配した。
「大丈夫。蓮崇からたっぷりと礼銭を貰った」
「蓮崇から?」
「ああ。蓮崇は本願寺で執事(シツジ)をやっておった位じゃからな、かなり溜め込んであったんじゃろ。吉崎を出る時、先の事を考えて、かなり持ち出したらしい。しかし、新しい生き方が見つかったんで、飯道山に収める銭以外はもう用がないって言うんじゃ。今まで世話になったからといって、わしらにくれると言った。わしは断ったが、蓮崇は、わしにやるんじゃない。病気や怪我で苦しんでおる人のために使ってくれ、と言ったんじゃ。そうまで言われたら、断れなくてな、貰う事にした。蓮崇のためにも、わしらは病人や怪我人の治療をせにゃならんのじゃ」
「そうか、蓮崇がのう‥‥‥今頃、どうしておるかのう」
「百日行をやり通したんじゃ。もう、怖いものなどないじゃろう」
「そうじゃな。今思うと、とても信じられん事じゃ」
「なに、蓮崇はもっと信じられん程、どでかい事をやるわ」
「本願寺か‥‥‥わしも一度、加賀に行って、実際にどんな状況か見て来たくなったのう」
「行って来いよ。火乱坊の奴が喜ぶぜ」
「火乱坊か、奴にも会いたいのう。加賀か‥‥‥」
「あたしも行く」と春雨が口を挟んだ。
「何じゃ」と早雲は春雨を見た。
「早雲様は一度、旅に出ると、いつ帰って来るのか分からないんだもの。ずっと待ってるなんて辛くて我慢できないわ」
「早雲よ」とニヤニヤしながら小太郎が言った。「おぬし、坊主なんかやめたらどうじゃ。人間、素直になるのが一番じゃぞ」
「分かっておる。分かっておるが、わしの立場も考えてくれ」
「立場か、そんなもの捨てちまえ。ここから離れれば立場も何もあるまい」
「そうよ。駿河から出ればいいんだわ」と春雨が言った。
「勝手な事を言うな。駿河から出て、どこに行くんじゃ」
「加賀に行けばいい」
「加賀に行ってどうする。わしはおぬしのように医術など知らん」
「それは大丈夫じゃ。わしは火乱坊の奴から、さんざ、本願寺の坊主になれと誘われた。おぬしだって本願寺の坊主になれば、火乱坊は大喜びじゃろう。おぬしなら本願寺の坊主になって戦の大将だって勤まるわ」
「おぬしは、どうして本願寺の坊主にならなかったんじゃ」
「わしは長年、山伏をやり過ぎた。いつも一人で生きて来た。今更、ああいう仲間意識のある連中の中に、すんなりと入って行く事ができなかったんじゃ。おぬしならできるじゃろう。わしは火乱坊や蓮崇たちが羨ましかった。いつも仲間に囲まれておって、一つの事に熱中しておる。同じ目的のために命を張って生きておる。蓮如殿の教えは立派じゃ。わしは今まで、本気で人を尊敬した事などなかった。いつも下らん連中ばかりじゃと思っておった。しかし、わしは蓮如殿を心の底から尊敬した。この世にあんな人がおったのかと思う程、凄いお人じゃった‥‥‥早雲、おぬしも一度、蓮如殿に会ってみれば分かる。蓮崇が百日行をやり通したのも、蓮如殿のお力じゃ。蓮崇の頭の中には蓮如殿の事しかない。蓮如殿のために門徒たちを守らなければならないと思い、死に物狂いで歩き通したんじゃ。蓮如殿に会って、そして、加賀の国をその目で実際に見て来るんじゃ。そうすれば答えは自然と出る」
「蓮如殿か‥‥‥珍しいな、おぬしがそれ程、力説するのは‥‥‥そうじゃな、わしは楽な道を選んでおったのかも知れんな。ここにおれば何不自由なく暮らせる。わしは今まで逃げ続けて来たのかもしれん‥‥‥」
「新九郎、酒でも飲みながら話さんか。おぬしとこうして真面目に話をするのも久し振りじゃ」
「そうじゃのう。若い頃はよく話し合ったものじゃったが、久し振りに会っても、どこで何しておったか、というような思い出話しかなかったからのう。久し振りに、とことん話してみるか」
「お雪、悪いが酒を買って来てくれんか」
お雪は頷くと春雨と一緒に出て行った。
小太郎と早雲は縁側に腰を下ろした。
「わしはのう」と早雲は言った。「はっきり言って、今まで、ずっと逃げて来たんじゃ。二人で京に出た時からじゃ。無一文になって、おぬしは旅に出た。しかし、わしは伊勢守殿のもとに居候(イソウロウ)した。一旗挙げるためのきっかけを作るために居候しておるんじゃ、と自分に言い聞かせて来たが、逃げた事には変わりがない。ようやく、機会が巡って来て、わしは今出川殿(足利義視)の申次衆(モウシツギシュウ)になった。わしは次の将軍になるべく今出川殿に期待した。色々と話し合った事もあった。わしは今出川殿と共に新しい世を作ろうと張り切っていた。しかし、応仁の乱が始まって、今出川殿は東軍の大将になったにも拘わらず、京から逃げ出して行った。言っている事とやる事は大違いじゃった。とても将軍になれる器ではなかったんじゃ。わしは今出川殿と別れた。その時も逃げたんじゃ‥‥‥将軍家の内輪揉めの中に入って行くのが恐ろしかったのかもしれん。そして、浪人となった。浪人しておる時、備中に帰った。幕府と縁を切ったにも拘わらず、わしの回りには常に幕府が付いておった。田舎では未だに幕府と言えば権威の象徴じゃ。わしは幕府に仕えておる偉い人じゃと言われた。人々にそう思わせておいた方が争い事を静めるのに都合がいいと思ったから、わしはあえて否定はしなかった。逆に、皆から偉いと思われる事に内心、喜んでおった事も確かじゃ‥‥‥争い事も治まって、わしは京に戻り、家族と別れ、頭を丸めて旅に出た。今度こそ幕府とは縁を切り、本気で武士をやめた。そして、駿河に腰を落ち着けたが、幕府の影は相変わらず、わしに付いて来ているんじゃ」
「それは仕方ないんじゃないかのう。過去というものは消す事ができんもんじゃ」
「分かっておる。しかし、そのお陰で、わしは色々と邪魔な物を身に付けるはめになったんじゃ。わしはただ気楽に暮らしたいだけじゃったが、いつの間にか、偉い禅僧に仕立て上げられてしまった。わしはその事を迷惑に思いながらも、反面、満足もしておった。このまま偉い禅僧のまま、ずっと、ここにいようと思った‥‥‥この前、京に行った時、一休禅師と会い、そんな生ぬるい事を考えておったわしは、一休禅師に思い切り殴られたような衝撃を受けた‥‥‥本物の禅を実践しなければと決心した。百日行をして、さらに、その決心を固めた。しかし、駿河に帰って来ると、やはり、それを実行する事はできなかった。あれだけ決心したにも拘わらず、戻って来た途端、皆から偉いと思われておる、ただの坊主に戻ってしまった」
「おぬしが本物の禅を実行するために、何をしようとしておるのか知らんが、今の状況でも充分にできるんじゃないのか」
「いや、できんのじゃ。わしがおかしな事をすれば、北川殿に迷惑がかかって、北川殿が悲しむ事になる。北川殿も、わしの事を少し変わっておるが偉い僧侶だと思っておるんじゃ。少し位変わっておるのなら構わんが、変わり過ぎておったら困るんじゃ」
「一体、何をするつもりなんじゃ」
「女犯(ニョボン)を犯す」と早雲は真面目な顔で言った。
「なに、女犯を犯す? 早い話が春雨殿を抱きたいという事か」
「まあ、そういう事じゃ」
「惚れたのか」
「ああ、惚れた」
「向こうも惚れておるようじゃしな。なるようにしかならんじゃろ」
「ところが、なるようになったら、わしはここにおられなくなる。わしだけなら構わんが、北川殿に傷が付く事になるんじゃ」
「そりゃそうじゃのう。おぬしが春雨殿を抱けば、隠しておったとしても、必ず、噂になる。偉い坊主も地に落ちる事になるのう。村人たちからも相手にされなくなるかもしれん‥‥‥坊主になどならずに、ただの浪人で、ここに来ればよかったのにのう」
「いや、わしが坊主だったから、こうして、ここにおられるんじゃ。わしが武士のままだったら、北川殿の兄として今川家の派閥争いに巻き込まれて、幕府におった頃と同じ目に合わされたに違いないわ」
「今川家にも派閥争いがあるのか」
「そりゃあるさ。一族が多いからのう。この前会った逍遙(ショウヨウ)殿など、ずっと、わしが幕府から遣わされて、今川家の内情を調べに来たと疑っておったんじゃ。去年になって、ようやく、その疑いも晴れ、今では打ち解けておるがのう」
「ほう、今川家には幕府に隠しておくような事があるのか」
「駿河の国は幕府権力の及ぶ東の最先端にあるんじゃ。今川家は常に幕府方として、関東の見張り役を務めておったんじゃよ。先代の鎌倉公方(クボウ)の頃より幕府と鎌倉の対立が激しくなって、公方と管領(カンレイ)の上杉氏が争いを始めると幕府は上杉氏に味方して、公方を倒したんじゃ。一時、関東には公方がおらんかった。しかし、公方がおらんと関東をまとめる事ができんというので、元公方の遺児を呼んで公方とした。初めの頃はうまく行っておったが、また、争いが始まった。また、公方と管領が争いを始めたんじゃ。幕府は常に管領の味方をした。当然、今川家も管領を助けるために、幕府の命で何回か関東に出陣した。応仁の乱が始まると、幕府は関東の事どころではなくなった。今川家は東軍として幕府のために働いておったが、今は、はっきり言って幕府のために動いておるわけではない。自分の勢力を広げるために遠江に出陣しておる。一人歩きを始めている今川家は幕府にとって脅威なんじゃ。もし、関東の上杉氏、あるいは、鎌倉公方、今は鎌倉を追い出されて下総(シモウサ)の古河(コガ)におるので、古河公方と呼ばれておるが、その公方と手を結んで、さらに西へと手を伸ばして来たら、大変な事になると脅えておるんじゃよ」
「実際、関東と手を結ぼうとしておる者たちがおるのか」
「おるんじゃ。特に駿河の東の方にな」
「お屋形様はどうなんじゃ」
「お屋形様はそんな気はないじゃろう。それに幕府も今川家が裏切るとは思ってはおらん。ただ、今川家中の関東派の者たちが、わしが来たという事で、勝手にそのように勘ぐっただけの事じゃ」
「成程のう‥‥‥関東派というのは逍遙入道の事か」
「いや、逍遙入道は今はもう完全に隠居しておる。かえって、今川家が二つに分かれる事を心配しておる。わしがお屋形様のもとに出入りして、関東派の者たちを刺激しはしないかと心配しておったらしい」
「ふーん」
「今川家の事はどうでもいいんじゃ。今の所は安泰じゃ。それより、わしの事じゃ。わしははっきり言って今まで、自分で何かをやろうとした事がないんじゃ。何かをやろうとしたと言えば、ガキの頃、おぬしと一緒に備中を飛び出した事位かのう。あの時だって、おぬしに誘われて従っただけじゃった。京に来て伊勢守のもとにおった頃も、ただ、命ぜられるままに生きて来た。今出川殿の申次衆になったのもそうじゃし、嫁を貰ったのもそうじゃ。今出川殿と別れたのは自分の意志には違いないが、ただ逃げただけじゃった。そして、今も逃げておる。女子(オナゴ)が抱きたい癖に、回りを気にして、それすらできんのじゃ。情けないわ」
「どうして、坊主になどなったんじゃ」
「一休殿の真似がしたかっただけじゃ。まさか、この年になって、女に惚れるなんて思ってもおらなかったしのう」
「ここを離れるしかないのう」
「ああ」
「わしものう。おぬしとそう変わりはせん。自分で何かをした事などなかった。いつも、成り行きまかせに生きて来た。お雪と出会ってからじゃ、わしが医術の道に生きようと決心したのはな。最初、ただ、口から出まかせに言った医者じゃったが、お雪と一緒に負傷者たちを治療して行くうちに、医者という仕事もなかなかのもんじゃ、と思うようになったんじゃ。おぬしも春雨殿と一緒になれば、何かが変わるかもしれん」
「そうじゃのう。本物の禅を実践するには、どうしても逃げておっては駄目なんじゃ」
「加賀に行けよ」
「ああ、そうするかのう」
お雪と春雨が酒と肴を抱えて戻って来た。
酒を飲みながら早雲と小太郎の話は続いていた。二人には構わず、お雪と春雨は家の掃除をしたり、町で買って来た日常用品を片付けていた。お雪は町で何を仕入れて来たのか、次々に、色々な物が運ばれて来た。
その晩、新居にて、四人でささやかな引っ越し祝いを行ない、夜遅くまで、真面目に人生について語り合っていた。そして、その夜、早雲はついに女犯を犯した。
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