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13.置塩城下
1
太郎と八郎、そして、夢庵(ムアン)と牛の一行は無事、赤松氏の本拠地、置塩(オキシオ)城下に入れた。
太郎と八郎が甲賀を出てから五日目だった。すでに、楓の一行、そして、阿修羅坊の一行は三日前に到着していた。
楓はまだ、弟、赤松兵部少輔(ヒョウブショウユウ)政則と対面していなかった。
政則は忙しかった。新しい城ができても、その城に落ち着く暇もなく、領国内を動き回っていた。
三十年もの間、敵の山名氏に支配されていたため、赤松氏の支配を徹底させるのが以外と大変だった。山名氏と赤松氏をはかりに掛けて身の保全と利害を考え、どっちつかずにいる国人たちがかなりいた。政則はそういう所に出掛けて行かなければならなかった。出掛けて行って、どうのこうのするわけではないが、赤松家のお屋形様がわざわざ来てくれたというだけでも、国人たちの心をいくらかでも、こちらに向ける事ができた。
政則は今、美作(ミマサカ)の国に行っていた。美作の国は北側が山名氏の領国、伯耆(ホウキ)の国(鳥取県西部)、因幡(イナバ)の国(鳥取県東部)と接しているため、山名贔屓(ビイキ)の国人たちが多かった。政則は美作の国を統一するために大勢の兵を引き連れて出掛けて行った。
阿修羅坊は太郎坊の人相書を作らせ、瑠璃寺から手下を十人程呼び寄せて城下に入る入り口を固めた。街道は勿論の事、相手が山伏なので、入れそうな山は道のない所まで見張った。また、太郎坊が変装して来る可能性が充分にある事も注意をし、怪しい奴はすべて捕えろと命じた。そして、阿修羅坊自身は楓が滞在している別所加賀守(カガノカミ)則治の屋敷の回りを見張っていた。
そんな中を、太郎は無事に通過して城下へと入って行った。何気なく道連れになった夢庵が一緒だったので大いに助かった。夢庵が一体、何者なのかは知らないが、彼と一緒にいる事で誰にも怪しまれる事もなく、播磨国内をすんなりと旅ができた。国境でもそうだったが、あちこちに設けられた関所を難無く通過する事ができた。太郎と八郎はただ、夢庵の後ろを付いて行けばいいだけだった。誰も何も聞きはしなかった。
城下の入り口の大門には阿修羅坊の手下で、鉄の棒を使う山伏が見張っていたが夢庵を一目見ただけで、その後ろにいた職人姿の太郎など見向きもしなかった。
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置塩城は城下町を見下ろす置塩山の頂上にあった。南、西、北と切り立った崖や急斜面に囲まれ、東は山に連なっているが深い空濠が掘ってある。山上の城からは備前の国へと抜ける山陽道と、姫路から分かれて市川に沿って但馬の国へと抜ける街道が一望のもとに見渡せた。東側の山頂に藤の丸と呼ばれる本丸があり、その南西にやや離れて鷹の丸と呼ばれる二の丸を置き、その北に通路を兼ねた濠割をはさんで亜喜殿丸と呼ばれる三の丸があった。
山の上の城を詰(ツメ)の城と言い、いざという時に使う実践用の城で、そこに住んでいるわけではなかった。山の裾野に立派な屋形(ヤカタ)が構えられ、普段はそこで生活していた。その屋形を中心に家臣たちの屋敷や寺院が並び、その回りに町民や職人、農民の家が並び、城下町を囲むように夢前(ユメサキ)川が流れていた。
さらに、その城下町を囲むように支城や砦が並んでいる。城下の東の入り口を見張る番城、南の入り口を見張る清水谷城、西の入り口を見張る小屋谷城などがあり、夢前川をはさんで西側の鞍掛山(クラカケヤマ)の山頂には西南の守りとして鞍掛城があった。
鞍掛城を守っているのは政則の叔父の中村弾正少弼(ダンジョウショウヒツ)正満であった。正満は吉野からの神璽(シンジ)奪回の時、鶏足寺に潜んで、政則の父、彦三郎を見守っていた新禅坊である。伊勢世義寺の山伏、東蓮坊と共に奥吉野に潜入して南朝と戦い、深手の傷を負ったが命だけは無事だった。赤松家が再興された後、応仁の乱でも活躍して赤松家の重臣の一人となっている。政則が置塩城を築城するのと同時に、この山に城を築いた。政則の母親、北の方様は正満の妹だった。
番城には性具入道の弟、左馬助則繁の孫にあたる間島左馬助則光がおり、清水谷城には、同じく一族の赤松備前守永政、小屋谷城には、これもまた一族の嵯峨山土佐守高之が守っている。さらに、それらの城の外側の見晴らしのいい山々の上には砦を設けて守備を固めていた。
太郎と八郎は松恵尼に言われていた通り、まだ新しい城下町の南、夢前川の側にある木賃宿(キチンヤド)『浦浪』という所に落ち着いた。
夢庵はずっと一緒にいたが、太郎たちが『浦浪』という木賃宿を捜している隙に、急に姿が見えなくなってしまった。いつも、のんびりしていた夢庵が突然、消えてしまったかのように、どこにも姿が見当たらなかった。太郎は色々と世話になったお礼を言う事もできなかった。八郎は、まるで狐にでも化かされていたようだ、もしかしたら、夢庵は飯道権現の化身ではないかと不思議がっていた。
『浦浪』には、旅の商人や芸人たちが、かなり滞在しているようだったが、今は皆、出掛けていていなかった。
太郎と八郎は中庭に面した日当たりのいい一室に案内された。中庭の中央に井戸があり、隅の方に廐(ウマヤ)と蔵があった。そして、蔵の前の草の上に、のんびりと昼寝している研師、次郎吉の姿があった。
次郎吉は昨日、ここに着いたと言う。すでに、薬売りの伊助、白粉(オシロイ)売りの藤吉も来ていると言った。白粉売りの藤吉というのは、太郎はまだ知らなかった。
次郎吉より、太郎は楓の居場所と阿修羅坊の事を知らされた。阿修羅坊の手下がうようよいるので城下をうろつかない方がいいだろうと次郎吉は言ったが、自分がすでに、城下に入っている事を阿修羅坊はまだ知らないから、返って、安全だろうと太郎は八郎を連れて城下に出てみた。
木賃宿『浦浪』は姫路から来た場合、城下の入り口に近かった。
新しくできた大通りが夢前川に沿って北へと続いている。大通りの両脇の家々も皆、新しく、『浦浪』のある辺りには、町人の長屋や旅籠屋などが両側に並んでいた。しばらく行くと橋があり、橋を渡ると、そこは商人たちの町になった。大きな構えの店や土倉が大通りの両側に並んでいる。荷物を積んだ荷車や人々が行き交い、賑やかだった。
町の中央辺りに、二本の大通りが交わる四つ辻があり、四つ辻の東側に大きな仁王門があった。その仁王門をくぐり、大通りを東に行くと天台宗の大寺院、置塩山大円寺へと通じる。西に行くと夢前川に出て、河原には船着き場と渡し舟があった。船着き場は瀬戸内海の飾磨津(シカマツ、姫路港)から、英賀(アガ)城、坂本城を経由して、この城下に物資を運び込む荷船の着く所で、渡し舟は川向こうの鞍掛城とをつないでいた。
この大通りと平行に東側に通りが二本あり、手前の通りには下級武士たちの長屋や中級武士たちの屋敷などか並び、さらに奥の通りには重臣たちの屋敷が並んでいる。その重臣たちの屋敷に囲まれるようにして、城主、赤松政則の屋形が置塩山の裾野、一段高くなっている所に建てられてあった。城主が留守でいなくても厳重に警固されていた。
太郎と八郎は大通りを端まで歩いてみた。
城下のはずれに市場があった。今日は市は開かれていない。大通りと河原に挟まれた閑散とした広場に建ち並んでいる掘立て小屋には、乞食たちが住んでいた。
市場の向こうに、城下の北側の出入り口になる大門が見えた。どうせ、そこにも太郎坊を見張っている阿修羅坊の手下がいる事だろう。
太郎と八郎は引き返し、今度は武家屋敷の並ぶ通りの方に行ってみた。武家屋敷はどれも塀で囲まれ、門から中を覗いて見ると中央の庭を挟んで、五軒の屋敷が建てられ、大きな廐もあった。どうやら、中級武士たちの屋敷のようだった。塀に囲まれた同じような作りの屋敷が道の両脇に並んでいた。左側に並ぶ屋敷の屋根越しに、城主の屋形らしい大きな建物が見えた。
こちらの通りは大通りと違い、人通りは少なかった。それも、歩いているのはほとんどが武士たちだった。時々、荷物を背負った商人が通る位で、用のない町人の姿はなかった。
二人がキョロキョロしながら通りを歩いていると、一人の武士に声を掛けられた。
「おい、そこの職人、何をしておる」
かなり年配の小柄の武士だった。
「はい。実は、別所加賀守殿のお屋敷を捜しております」と太郎は言った。
「なに、加賀守殿?」
「はい」
「加賀守殿に、一体、何の用じゃな」老武士はうさん臭そうに太郎と八郎を見た。
「はい、観音の像を彫ってくれと頼まれましたもので」
「観音の像? 加賀守殿が? 観音像なら大円寺じゃないかのう」
「良くはわかりませんが、とりあえず、屋敷の方に来てくれと言われましたが」
「加賀守殿が観音像をのう」と老武士は首を傾げた。
「おお、そうか‥‥‥もしかしたら、御料人様の用事かもしれんのう」と一人でぶつぶつ言うと、太郎に別所加賀守の屋敷の場所を教えてくれた。
太郎と八郎は老武士に礼を言って別所加賀守の屋敷の方に向かった。別所加賀守の屋敷はお屋形の屋敷のすぐ前だと言う。もう一本、奥にある通りのさらに奥だと言う。
別所加賀守が何者だか知らないが、赤松家の重臣である事は間違いなかった。そのまま別所加賀守の屋敷まで行きたかったが、阿修羅坊が出て来る恐れがあった。真っ昼間、こんな所で騒ぎを起こしたくはなかった。まずは楓に会い、楓の気持ちを確かめてからだ。楓に会うまでは、太郎がすでに、この城下に入っている事を阿修羅坊に気づかせたくなかった。阿修羅坊の手下どもを分散させたままにしておきたかった。
太郎は別所加賀守の屋敷に近づくのをやめ、また、元の通りに引き返すと、その通りを真っすぐに歩いた。先程の老武士はいなかった。
「お師匠、別所加賀守の屋敷には行かないんですか」と八郎が声を掛けた。
「ああ、阿修羅坊がいるんでな」
「でも、お師匠、次郎吉殿の話やと、今、阿修羅坊は一人で別所屋敷を見張ってるんやろ。相手は一人や。やっつけちゃいましょ。お師匠なら絶対、大丈夫ですよ」
「ああ。だが、場所が悪い」と太郎は言った。
「どうしてや」
「阿修羅坊だけなら何とかなるだろう。しかし、こんな所で騒ぎを起こしたら、もし、阿修羅坊を倒したとしても、無事に逃げられるかどうかわからん」
「あ、そうか、そうやな‥‥‥」と八郎は辺りを見回した。考えて見れば、ここは敵地だった。皆、阿修羅坊の味方と見てよかった。
「お師匠、それじゃあ、いつ、やるんです」
「そう、慌てるな。まず、敵の事をよく調べてからだ」
「調べる?」
「ああ、陰の術を使ってな」
「陰の術か‥‥‥もしかしたら、あの城に忍び込むんですか」と八郎は振り返って山の上を見上げた。
「必要があればな。まずは、この城下の地形を頭に入れる事だ。どこに何があるのか、よく覚えておけ」
中級武士の屋敷の次には下級武士の長屋が並んでいた。長屋の間を真っすぐ進んで行くと大通りにぶつかった。左側には、先程の老武士が言っていた大円寺らしい大きな寺院が見えた。右に行けば仁王門をくぐり、初めに歩いた大通りに出る。二人は大円寺の参道らしい大通りを横切って真っすぐ進んだ。
武士たちの屋敷がなくなると、今度は簡単な柵に囲まれた町人たちの長屋が右側に並んでいた。左側は高い塀がずっと続いている。塀の中に何があるのかわからなかった。長屋で洗濯物を取り込んでいたおかみさんに聞いてみると射場(イバ)だと教えてくれた。塀の中で、侍たちが弓矢や槍の稽古をしているとの事だった。
射場を過ぎると左側に賑やかな一画が現れた。派手な作りの遊女屋が道の両側に並んでいる。富田山性海寺(ショウカイジ)に通じる表参道だと言う。大円寺の表参道は武家屋敷の中にあり、何となく重々しい雰囲気だったが、こちらの参道は賑やかで、飯道山の門前町と似ていた。
二人は遊女屋を横に眺めながら、さらに真っすぐと進んで行った。橋を渡ると、今度は職人たちの町になった。鍛冶師、研師、檜物師(ヒモノシ)、木地師、鎧師、畳刺(タタミサシ)、鞍作(クラツクリ)、弓師などが並び、通りに面していたのは主に武器関係の職人たちが多かった。
さらに真っすぐ進むとたんぼが広がり、たんぼの中の一本道を進むと、先の方にこんもりとした森が見えて来た。その森は八幡神社だった。八幡神社の少し先に細い道があり、山の中へと続き、奥の方にも白旗神社という神社があるらしかった。
太郎と八郎は真っすぐ進んだ。やがて、大通りに出た。それは、街道へと続く最初の大通りだった。そして、そこは南側の入り口、大門の近くだった。木賃宿『浦浪』へも近い。二人は城下の中をほぼ一回りして戻って来たというわけだった。
まだ、日は高かった。宿に帰っても別にする事もない。
二人は大通りを横切って夢前川の方に向かった。大通りに面して大きな屋敷が一つあるだけで、この辺りには何もなかった。夏草の生い茂る荒れ地を抜けると広々とした河原に出た。
カラスが騒ぎながら飛んでいた。その上空では鳶(トビ)が優雅に飛んでいる。
夢前川には渡し舟があり、川向こうの道へとつながっていた。河原にはいくつかの筵(ムシロ)掛けの小屋が立っていた。川の側で、何人かの人たちが何やら作業をしていた。
「エタや」と八郎が言った。
よく見ると、彼らは牛の死体を解体している所だった。側には剥ぎ取った皮が並べて干してあり、三匹の犬が餌にありついていた。
彼らはエタ、皮屋、河原者などと呼ばれて賤民視されているが、彼らが作る皮革は、この時代、非常に需要の高いものだった。兵器の材料として、また、衣料として、皮革は武士にとって軍事的になくてはならない物だった。大名たちは必ず、彼らを城下のはずれに住まわせ、皮革の製造をさせていた。
当時、エタと呼ばれていたのは、彼ら、革を作る者たちだけではなく、河原に住んでいる者たちや町のはずれ、貴族や寺社の荘園の片隅、寺院や神社の片隅に住んでいる賤民たち、すべてがそう呼ばれていた。
元々、エタとはキヨメと呼ばれる人たちの事だった。昔、京の都の賀茂川の河原にキヨメと呼れる掃除人夫が住んでいた。彼らは京の都の掃除や井戸掘り、または、死人の片付け、死んだ牛馬の片付けなど穢(ケガ)れの多い仕事に携わっていた。それらの仕事は一般の人々にはする事ができず、キヨメと呼ばれる人々だけが、その穢れを清める事ができると考えられていた。都人にとって、彼らはなくてはならない存在だった。
彼らは寺院の掃除も行なっていた。僧侶たちによって、彼らは穢れを清める者、穢手と呼ばれ、やがて、穢多と呼ばれるようになった。その呼び方が貴族たちの間に広がり、庶民たちの間にも広まって行った。ただ、庶民たちはエタという意味もわからずに、侮蔑の気持ちを込めて、彼らをそう呼んでいた。
年が経つにしたがって、河原に住むエタたちも分業して行った。革を作る者たちはそれを専門にやるようになり、掃除人夫は掃除や土木建築の人足になり、その他、井戸掘り、染工、乞食、芸人などに分かれて行った。
後に江戸時代になって身分制度が確立されると、エタと言うのは革作りの者たちを指す言葉となり、他の者たちは非人と呼ばれて区別され、エタの下におかれるようになった。彼らは江戸時代の二百五十年間、その身分制度から抜け出す事ができなくなり、明治時代に一応は解放されるが、未だに差別は続いている。この当時は、人々から賤民視されてはいても、そこから抜け出そうと思えば抜け出す事はできた。
戦国時代に河原者から成り上がった者たちに、猿楽の能役者や作庭家、立花師(タテバナシ、後の華道)、連歌師などがいた。彼らは身分が低いため出家して阿弥号を名乗り、将軍の側近衆にまでなって行った。出家してしまえば俗世間の身分制度から解放され、身分の高い者とでも同席が許されると考えられていた。また、足軽になって活躍し、武士になった者もいるし、土地を手に入れて農民になった者、商人や職人となった者もいた。
その中で、革作りの者たちは代々、その仕事に就く者が多かった。彼らは特殊技能者で革を作る事は彼らにしかできなかった。武士たちは必要な革を確保するため、死んだ馬や牛を処理する権利を彼らだけに与え、一般の者たちが革を作る事を禁じた。
戦国乱世となり革の需要は益々、高まって行った。彼らは自分たちを保護してくれる武士に年貢として、毎年、決まった枚数の革を納め、余った革を売りさばいて、かなりの収入を上げるようになって行った。生活も農民たちより安定しており、人々からは蔑(サゲス)みの目で見られても、今更、職を変える必要もなかった。
彼らの仕事は江戸時代の初期まで順調だった。しかし、やがて太平の世となり、革の需要は下がって行った。生活も苦しくなり職を変えようかと思ったが、その時はすでに遅く、徳川政権下の厳しい身分制度の中から抜け出す事はできなかった。
今、太郎たちの前で牛の皮を剥いでいる者たちは、自分たちのそんな運命など勿論、知らない。ただ、与えられた仕事をしているだけだった。
太郎はエタたちの方に近づいて行った。
「お師匠、奴らに近づかん方がええ」と八郎は注意した。
「なぜだ」と太郎は聞いた。
「奴らは、よそ者を近づけんのや」
「どうして」
「それは知りまへんけど、奴らは何をするかわからんのや」
八郎が育った多気の都にもエタはいた。百姓だった八郎は子供の頃から、エタには近づくなと言われて育てられて来た。子供の頃はどうしてなのかわからなかったが、物心付くようになると、回りの百姓たちと同じく、彼らを偏見の目で見るようになっていた。
太郎は八郎が止めるのも聞かず、牛を解体しているエタたちの方に向かった。近づくに連れて、牛の死体の臭いが鼻に付いてきた。うるさい程、ハエが飛び回っている。
太郎が近づいて行くと牛の解体をしていた者たちは手を止め、一斉に太郎の方を向いた。その目は睨んでいるわけではないが、ぞっとするような冷たい視線だった。八郎の言う通り、よそ者を拒絶している目だった。
「やあ」と太郎は努めて明るく挨拶をして、そのまま近づいて行った。
八郎は太郎の後を恐る恐る付いて来ていた。
突然、石つぶてが太郎めがけて飛んで来た。太郎は杖をほんの少し動かして、その石つぶてを杖で弾き返した。そして、何事もなかったかのように、そのまま進んだ。
また、石つぶてが飛んで来たが、前と同じく、何気なく杖で避けた。
次に飛んで来たのは小刀だった。これも、太郎は杖で簡単に弾き飛ばした。
太郎は、それらが飛んで来る方を見てはいない。ただ、解体されている牛の方を見ながら普通に歩いているだけだった。
弾き飛ばされた小刀が河原に落ちた。それは普通の小刀とは違い、獣の皮を切るのに使う、頑丈な包丁のような物だった。
「何者じゃ」としわがれた声がした。
太郎は立ち止まり、声の方を向いた。
革の袖無しを着た背は低いが、ごつい体つきの男がやはり、冷たい目付きをして太郎を見ていた。その男は片目だった。左目を革の眼帯で隠していた。
「われは何者じゃ」と片目の男は言った。
「仏師だ」と太郎は言った。
「仏師じゃと? 仏師が何の用じゃ」
「別に用はない。ただ、牛の腹の中がどんな風になっているのか見せてもらいたいだけだ」
「何じゃと? 牛の臓腑(ハラワタ)が見たいじゃと? そんな物を見てどうする」
「天神様の牛を彫ろうと思ってるんだが、どうも、うまくいかん。臓腑がどうなっているのかわかれば、うまく彫れるかもしれんのでな」
「変わった野郎だ。おい、見せてやれ」
片目にそう言われると、成り行きを見ていたエタたちは、また、作業を始めた。太郎は側まで行って牛が解体される様子を見ていた。鼻をつまみたくなる程、臭かったが、太郎は我慢して、ずっと見ていた。八郎はちらっと見ただけで、後ろに下がり、師匠は一体、何を考えているのだろうと鼻をつまみながら太郎の姿を見ていた。
エタたちは見事な手捌(サバ)きで牛を解体していった。臓腑を取り出し、皮と肉を切り放し、肉は細かく切り刻まれた。
切り刻まれた肉は鷹(タカ)の餌となった。領主の赤松政則が鷹狩りを好み、城内には何羽もの鷹が飼われていた。鷹を養うためには毎日、決まった量の肉が必要だった。うまい具合に、死んだ牛や馬があればいいが、なければ、犬を殺してでも鷹の餌を用意しなければならなかった。
鷹は好んで肉を食べたが、当時の人々は牛の肉は食べなかった。当時の人々が食べなかったのは牛の肉ばかりではない。仏教思想のお陰で、獣の肉はほとんど食べなかった。豚は元々、日本には少なかったが必要のない動物として、この頃、ほとんど姿を消してしまっていた。鶏は愛玩用、鑑賞用として飼われるだけで、肉は食べず、卵さえ食べなかった。ウサギだけは例外として、古くから、ずっと食用とされていた。
一通り、見終わると、太郎はその場を離れた。
太郎は前に、智羅天に見せてもらった人体の図を思い出していた。牛の体の中を見て、牛の体も人間の体も同じようなものだと思った。あんな物が自分の体の中にも詰まっているのか、と不思議な思いがした。
太郎がそのまま、帰ろうとすると、「おい、若いの」と例の片目が声を掛けて来た。
「どうじゃ、牛の臓腑を良く見たか」
「はい」と太郎は答えた。
「われも変わった奴よのう。あんな物を真剣に見ている奴など初めてだわい」
「人を解体する事はないのか」と太郎は片目に聞いた。
「何だと? ふざけるな、人など解体するか」
「そうか‥‥‥」
「今度は、人の体の中が見たくなったのか」
「ああ」と太郎は頷いた。
「時々、罪人の首は斬るがのう。解体などせんわ。もう少し下流に行ってみろ。この夢前川に流れ込む川にぶつかる。その川をさかのぼって行けばサンマイ(葬送地)がある。そこに行けば、いくらでも人の死体が転がっておる。好きなのを選んで解体して見るがいい」
「この下流だな」と太郎は下流の方を見た。
「われ、本当にやる気か」
「ああ、悪いか」
「わしは知らん。罰が当たっても知らんぞ」
「気にするな。地蔵さんを彫って成仏させてやる」
「われは一体、何者じゃ」
「仏師だ」
「ただの仏師ではあるまい」
「もと山伏だ」
「成程‥‥‥どこの山伏じゃ」
「大峯だ」
「ほう、大峯の山伏が何の用で、こんな所に来た」
「大峯の山伏が用があって来たのではない。仏師として用があって来たんだ」
「仏でも彫りに来たのか」
「そうだ。別所殿に観音像を頼まれての」
「なに、別所殿に頼まれた? うーむ、われは見た所、まだ若いが、余程、腕の立つ彫り師だとみえるのう」
「それ程でもない」
「われは名は何という」
「三好日向」
「わしはこの河原を仕切っている銀左衛門じゃ。人は片目の銀左と呼んでおる。何かあったら訪ねて来るがいい」
「片目の銀左殿か‥‥‥」
太郎は銀左と別れると、八郎を連れて、夢前川の上流の方に歩いて行った。
「サンマイは下流じゃぞ」と銀左が後ろから声を掛けた。
「今日は日が悪い」と太郎は答えた。
「フン」と銀左は鼻で笑うと、皮剥ぎの作業をしているエタたちの方に行った。
太郎と八郎は河原を一通り見てから木賃宿に戻った。
河原には革作りの他に、紺屋(コウヤ)と呼ばれる染め物屋、乞食や流民(ルミン)、聖や巫女(ミコ)、城下建設のための土木建築作業の人夫、辻君(ツジギミ)、立君(タチギミ)などと呼ばれる遊女などが粗末な小屋を掛けて住んでいた。また、高瀬舟の出入りする船着き場の回りには、芸人たちの見世物小屋が並び、猿楽の立派な舞台もあり、居酒屋、料亭、遊女屋などが並んで、賑やかに栄えていた。
芸人たちを眺めながら、明日あたり、金勝座の連中も到着するだろうと太郎は思った。
東の空に下弦(カゲン)の月が出ていた。
丁度、番城の本丸の上に月は浮かんでいた。
太郎は久し振りに武士の姿になって、大小二刀を腰に差し、城下の大通りを歩いていた。武士といっても浪人や下級侍ではなく、重臣たちの屋敷の辺りを歩いていてもおかしくないような、かなり身分の高そうな侍に化けていた。五ケ所浦にいた頃は水軍の大将の伜として、当然の事のようにこんな格好をしていたが、久し振りにこんな格好をしてみると、何となく照れ臭かった。
夕暮れ時で、まだ、暗くはないが、通りに人影は少なかった。太郎は真っすぐに別所加賀守の屋敷に向かっていた。
一時(二時間)程前、夢前川の河原から木賃宿に戻ると、伊助と次郎吉、そして、藤吉が太郎の帰りを待っていた。
初めて見る藤吉は三十前後の小柄な男だった。本人には悪いが、何となく鼠のような顔をしていた。彼は伊勢の白粉売りだという。今日、早速、別所屋敷に白粉を売りに行ったが、楓に会う事はできなかった。しかし、元気に遊んでいた百太郎の姿をちらっとだが見る事ができたと言った。楓も百太郎も無事な事は確かだった。
もう一人、太郎の知らない男がいた。松恵尼の手下の一人で、刀剣を扱う商人、小野屋喜兵衛という男だった。もう二年も前から、この城下にいて刀剣の取引きをしていると言う。馬のように長い顔をした四十前後の男だった。
太郎はその喜兵衛という男と伊助から、城下の事や楓の事など必要な事を聞き出した。別所屋敷の中の楓の居場所も大体わかった。阿修羅坊の手下の山伏たちがどこに隠れて、太郎が城下に入って来るのを見張っているのかも調べてあった。
「それにしても、よく、阿修羅坊の見張りの中をかいくぐって無事に城下に入れたものですな。例の陰の術を使ったわけですか」と伊助は不思議そうに聞いた。
「いえ。ただ、運が良かっただけですよ」と太郎は言って、どうやって入って来たかを伊助たちに説明した。
「その御仁は、確かに、夢庵殿と申すのですな」と喜兵衛が聞いた。
「ええ、金色の角をした牛に乗った変わった男です」
「間違いなく、それは夢庵肖柏(ショウハク)殿です」
「一体、何者です、その夢庵肖柏殿というのは」
「茶の湯のお師匠です。村田珠光(ジュコウ)殿、直々のお弟子さんです」
「村田珠光殿?」
「はい。村田珠光殿は将軍様の茶の湯のお師匠です。今は戦を避けて奈良におられます。わたしも伊賀にいた頃、お茶を扱っていたので何度かお会いした事がございますが、もう、引っ張り凧の有り様でした。奈良では武士から町人に至るまで皆、茶の湯に熱中しております。夢庵殿はその珠光殿の一番弟子と言われている程の茶の湯の名人です。しかも、出自はお公家様で、和歌や連歌にも詳しく、身分もかなり高いお人です。若い頃から宮廷や幕府に出入りして、管領の細川殿とも親しく、戦が始まってからは、京を出て摂津に隠棲なさいました。ここのお屋形様、兵部少輔殿も夢庵殿の飄々とした所がお気に入りになられて、城下に呼んではお茶会やら連歌会などを開いております。多分、今回、城下に来られたのは楓殿の披露の式典の事で色々と相談したい事があって呼ばれたのでしょう。夢庵殿は公家や幕府の式典の作法とか礼法などにも色々と詳しいですからな」
「ほう、そんなお人と道連れになるとは太郎坊殿も運がいい人じゃ」と伊助は笑った。
確かに、伊助の言う通りだった。もし、夢庵と一緒でなかったら、この城下の入り口まではもう少し早く着いたかもしれないが、城下に入るのに手間取った事だろう。まして、阿修羅坊の手下どもとやり合い、騒ぎを起こしてしまえば、この城下に滞在する事も難しくなって来る。牛の歩みに合わせて、のんびりと旅をして本当に良かったと思った。
太郎は今晩のうちに別所屋敷に忍び込み、楓と会う事に決めていた。それを助けるため、八郎と伊助、次郎吉の三人が太郎坊に扮して、夕暮れ時、一斉に城下に入るという手筈になっていた。どこかに太郎坊が現れたと聞けば、阿修羅坊は別所屋敷から姿を消すだろう。その隙に太郎が別所屋敷に忍び込むという作戦だった。
さっそく、八郎、伊助、次郎吉の三人は山伏の支度を荷物の中に隠して城下を出て行った。三人はただ、城下に入るだけではなく、この先、邪魔になる阿修羅坊の手下をできるだけ倒してしまおうとしていた。
武士の姿になった太郎は武家屋敷の建ち並ぶ中を歩いていた。道の両側に赤松家の重臣たちの立派な屋敷がずらりと並び、どこの門の前にも警固の兵士たちが見張りに立っている。城主、赤松政則の屋形は石垣を積んで少し高くした所に、白壁の塀に囲まれて建てられてあった。立派な門の前には槍を持って武装した大男が二人、通りの方を睨んでいた。
屋形の南隣に評定所(ヒョウジョウショ)があり、仕事帰りの侍たちが屋形の前の道を行き交っていた。
太郎はその人込みに紛れて、それとなく屋形を観察した。目指す別所加賀守の屋敷は、その屋形の斜め前辺りに位置していた。
屋形の西側に四軒の屋敷が並んでいる。北から浦上美作守、依藤(ヨリフジ)豊後守、小寺(コデラ)治部少輔、上原対馬守の屋敷と並び、上原対馬守の屋敷の裏側に別所加賀守の屋敷があった。
太郎は場所を確認すると別所屋敷の門の前を素通りして行った。数人の警固の兵士が門の前で無駄話をしていたが、阿修羅坊の姿は見当たらなかった。
太郎はそのまま真っすぐ進み、大円寺の参道に出ると大円寺に向かった。二天門をくぐり、広い境内に入ると木陰に身を隠し、合図の法螺(ホラ)貝が鳴るのを待った。
それ程、待たないうちに法螺貝は鳴った。まず、八郎がいるはずの北の方から聞こえて来た。太郎は、もうしばらく、その場で待った。やがて、今度は東の方から法螺貝の響きが聞こえて来た。東には次郎吉がいるはずだった。
太郎はゆっくりとした足取りで、別所屋敷に向かった。
通りには、それぞれの屋敷の警固の兵士たちが法螺貝の音を聞き、一体、何事だと北の置塩城を見上げたり、東の山の方に目をやっていた。
阿修羅坊の姿はなかった。
太郎は別所屋敷の裏通りを通り、南隣の喜多野飛騨守の屋敷との間の通りに入った。
人影はなかった。
表門と裏門のある通りには塀に沿って小川が流れていたが、この通りには何もなかった。塀の高さも一間(ケン)ちょっと(約二メートル)、塀の上に簡単な屋根が付いているが、その屋根の上に障害物は無さそうだった。
太郎は素早く、塀を乗り越えた。
塀の中の庭は暗かった。しばらく、木の陰に隠れて中の様子を窺った。
すぐ側に池があり、屋敷は北と東の塀に沿って、くの字に建てられ、南側から西側にかけて広い庭園になっていた。庭園といっても、まだ未完成のようで、山があり、池はあるが何となく殺風景な庭だった。塀に沿って木が植えられ、処々に変わった形の石が置いてある。その石はとりあえず、そこに置いた、というだけのもので、改めて、決まった位置に並べるつもりなのだろう。
閉じられた裏門の辺りに廐があり、その隣に家来たちの長屋らしき建物があった。その前に井戸があり、二人の人影が見えた。庭の中には見張りらしき者の姿はなかった。
楓たちのいるのは南の客殿だと聞いていた。楓と百太郎は、桃恵尼と京から連れて来た侍女五人と一緒に客殿にいると言う。多分、すぐそこに見える御殿のような建物がそうに違いない。明かりの中に人が動いている影が見えた。ちょうど夕餉の時なのだろう、何となく慌ただしい人の声や物音が聞こえて来た。
太郎は木に隠れながら右の方に移動した。客殿の向こうに表門が見えた。表門の側に槍を持った二人の侍の姿が見える。二人の侍は門の外に出て行き、代わりに別の侍が二人、入って来て、侍たちが待機している長屋のような建物がの中に入って行った。
門番の食事交替だろうか、長屋の入り口の戸は開いているが中までは見えなかった。少なくても十人位の侍がいそうだった。
太郎は物陰沿いに南の客殿に近づき、縁の下に忍び込んだ。
もう少し静かになるまで、このまま待とうと思った。太郎は横になって耳だけを澄ましていた。
やっと、楓と百太郎に会う事ができる‥‥‥二ケ月近くも会っていない。
楓御料人様か‥‥‥
楓がこの城下のお屋形の姉君だとはな‥‥‥まったく、驚きものだ。こんな御殿のような家に住んで、うまい物を食べて、綺麗な着物を着て、毎日、のんびりと歌でも歌っているのかな‥‥‥楓には似合わない。薙刀を振り回していた方が似合う。しかし、誰だって贅沢な暮らしに憧れる。働かないで生きて行けるのなら、その方がずっと楽だ。ここにいれば、今までのように朝から晩まで働かなくても済む。みんなからかしずかれ、ちやほやされて暮らしていればいい‥‥‥
楓は一体、どう思っているのだろう‥‥‥
太郎はうるさい蚊に悩まされながらも、半時程、待ち、五ツ(午後八時)の鐘の音を聞くと動き出した。辺りは静まり返っていた。
藤吉から、桃恵尼という楓の側に仕える尼僧を通して、太郎が今晩、ここに来るという事は伝えてあるはずだった。楓は待っている事だろう。
太郎は縁の下から出ると木陰に隠れ、客殿の方を見た。明かりは見えるが人影は見えなかった。客殿はかなり広そうだった。部屋がいくつもあるようだ。楓と百太郎がどこにいるのかはわからない。蒸し暑い夜なので板戸や障子は開けられてあっても、簾(スダレ)や屏風(ビョウブ)が邪魔していて部屋の中までは見えなかった。どこからでも入ろうと思えば入れるが、見つかる可能性も高かった。
さて、どこから忍び込んだらいいものかと考えていると、部屋の中で人影が動くのが見えた。人影は庭の方に近づいて来た。簾をくぐると廊下から庭の方を窺っていた。
楓であった。贅沢な着物を着てはいるが、楓に間違いはなかった。
太郎はかつて、花養院に忍び込んで楓に合図をした時のように、小石を楓に向かって投げた。楓は合図に答えて、太郎の方を向いた。
楓は廊下の端まで行くと庭に降りて来た。
太郎は木陰に隠れながら、楓が近づいて来るのを見ていた。
会いたかった‥‥‥
楓が自分の前から消えてからというもの、楓という女が自分にとって、どれ程、大事な存在なのか、痛い程、感じていた太郎だった。
楓は回りを警戒しながら太郎の側まで来ると立ち止まり、じっと太郎の顔を見つめた。
二人は何も言わず、ただ、見つめ合っていた。
やがて、楓の目から涙が溢れて流れ出した。
楓は太郎に抱きついて来た。太郎は楓を強く抱きしめた。
「会いたかったわ‥‥‥」楓は太郎の胸に顔をうづめたまま言った。
「俺もさ‥‥‥」
二人はしばらく無言のまま抱き合っていた。
ようやく落ち着くと、「百太郎は元気か」と太郎は聞いた。
楓は頷き、「元気よ。でも、あなたに会いたがってるわ」と言った。
「もう、寝たのか」
「ええ。別所様にも丁度、百太郎と同じ年頃の男の子がいてね、小三郎さんて言うんだけど、よく一緒に遊んでるわ。ここの奥方様も気さくで感じいい人よ」
「そうか、みんな、元気なんで安心したよ」
「あたし、あなたが死んだって聞いたわ。あなたに限って、そんな事はないと思っていたけど心配だった」
「俺も聞いたよ、俺はどこかの高貴なお方で、戦で戦死した事になっているんだろう」
「そうよ。あたし、そんな事、全然知らなかったわ。この間、無理やり、仲居さんの口から聞き出して、びっくりしてたのよ」
「しかし、俺の命が狙われているのは確かだ」
「えっ、どうして、あなたが狙われるの」
「邪魔だからさ。ここのお屋形様の姉君に亭主はいらないのさ。しかも、亭主が山伏だなんて、格好がつかないだろう」
「あなたが武士に戻ればいいんじゃないの」
「駄目さ。愛洲氏と赤松氏では格が違い過ぎる。どこかの高貴なお方で、すでに死んでいるという事にした方がうまく行くんだろう」
「それじゃあ、どうすればいいの」
「お前はどうする気なんだ」
「あたしは早く、花養院に帰りたいわ」
「弟に会わなくてもいいのか」
「それは、一度は会ってみたいけど、このまま、ここにいる気はないわ」
「わかった。とにかく、会うだけは会ってみろ。その後、ここから逃げ出そう」
「でも、会ってしまったら、ここから逃げ出すのは難しいんじゃないかしら」
「それは今でも同じさ。今、逃げ出したとしても、また、連れ戻されるだけだ」
「それじゃあ、どうすればいいの」
「大丈夫だ。考えがある。必ず、お前たちをここから助け出してみせる」
楓は太郎の顔を見つめて、頷いた。
「待っていてくれ」と太郎は言った。
「気を付けてね。絶対に死なないでよ」
「大丈夫だ」と太郎は力強く頷いた。
「百太郎に会って行く?」と楓が客殿の方を振り返りながら聞いた。
「大丈夫なのか、入っても」
「大丈夫よ。みんな、眠ってるわ」
「眠ってる?」
「白粉売りの人が持って来た、変わったお茶を飲ませたら、みんな、眠っちゃったわ。よく知らないけど、琉球のお茶だとか言ってたわ」
「お前は飲まなかったのか」
「ええ、眠ってしまうから絶対に飲むなって、書いてあったの」
「書いてあった?」
「ええ、あたしが、直接、その白粉売りの人に会ったわけじゃないの。桃恵尼さんが会って、そのお茶を持って来てくれたのよ。お茶の入れ物の中に紙が入ってたの」
「成程、お茶の中に眠り薬が入っていたんだな‥‥‥松恵尼殿の手下の人たちは、まったく、よくやってくれるよ。松恵尼殿こそ、本当の『陰の術』の師匠だな」と太郎は笑った。
「ほんとね」
太郎は楓の後に従って客殿に上がった。
楓の部屋は西南の角の庭に面した六畳間だった。
この客殿は大きく二つに仕切られ、それぞれが四部屋に分かれていた。楓たちがいるのは西側の方で、東側の方には今は誰もいない。
楓たちの東隣の八畳間に五人の侍女たちがいた。侍女たちは思い思いの所で倒れるように眠っていた。三人の侍女は若く、二人は年増だった。
桃恵尼の部屋は北隣にある四畳半らしいが、今は楓たちの部屋で、寝ている百太郎の布団の側で眠っていた。
見張りの者は特にいないと言う。別所加賀守は太郎の事を知らない。楓が逃げるはずはないと思っている。お屋形の姉上に迎えられて贅沢な暮らしをしているのに逃げるわけはないと思っていた。
楓たちは屋敷の中は自由に動き回れるが外には出られないと言う。外に出られたとしても、遠く、播磨の地まで来てしまえば逃げようとしても無理だった。ただ、太郎が来てくれるのを、ずっと待っていたと言う。
久し振りに百太郎の寝顔を見ながら、楓から別所加賀守の事や、その他の赤松氏の家臣の事などを聞いた。太郎は楓に、今、この城下に来ている味方の者たちの事を話した。
お互いに話したい事は一杯あった。別れがたかったが太郎は楓と別れた。
塀から外を覗くと通りに見張りがいた。阿修羅坊の手下の山伏が太郎坊が城下に入った事を知り、この別所屋敷に集まって来たのだろう。ちょっと長居し過ぎてしまったようだ。太郎坊がすでに屋敷の中にいるとは思っていないので屋敷の回りを見張っているが、出るのは難しかった。
太郎は月を見上げた。雲で隠れる気配はなかった。
塀で陰になる北側の路地の方に向かった。西側の塀に沿って木に隠れながら閉じられた裏門を過ぎ、廐と塀の間の細い路地を抜けて裏に出ると大きな蔵があった。蔵の裏に入って北西の角から塀の外を窺った。西の裏門の辺りに、見張りが一人いるが阿修羅坊ではないようだった。北側には誰もいなかった。
太郎は静かに塀を乗り越え、路地に下りると、塀の陰に隠れながら、そのまま表門の方に進んだ。塀の陰から表通りに出ると、別所屋敷の方は見ないで、別所屋敷とは反対の方に酔った振りをして、ふらふらした足取りで歩いて行った。
誰も跡をつけては来なかった。中級武士たちの屋敷が建ち並ぶ一角を通り抜け、大通りに出て、大通りを酔っ払った振りをしながら、無事に木賃宿『浦浪』までたどり着いた。
すでに、阿修羅坊は太郎が城下に入った事を知っている。今頃、血眼になって捜し回っているに違いない。これからは、いつ、狙われるかわからない。充分に注意しなければならなかった。
朝靄(モヤ)がゆっくりと川の上を流れている。
今、夜が明けようとしていた。
夢前川の河原に、二人の山伏の姿があった。二人の他に人影は見当たらない。
城下よりかなり下流の河原だった。側には市が開かれる場所があり、いくつかの掘立て小屋が立っているが乞食さえもいなかった。
この城下には市場が二ケ所あった。北と南のはずれにあり、北の市場が四の付く日に開かれる四日市、南の市場は九の付く日に開かれる九日市だった。今日は七月二十四日、北に市の立つ日だった。
すぐ側に城下の南側の入り口の大門が見える。ここも一応、城下の中だが、この辺りには人家はなく田や畑が広がっていた。ここからは死んだ者を葬るサンマイ(葬送地)も近い。城下の中心近くの河原には乞食や河原者たちが小屋掛けをして住んでいるが、この辺りに住んでいる者はいなかった。また、住んでいる乞食がいたとしても、今日は皆、北の市場の方に行っているに違いなかった。
一人の山伏は川辺に座り込んで、川の流れを見ていた。もう一人の山伏は川と反対の大通りの方をキョロキョロと落ち着きなく眺めている。
二人の山伏は太郎と八郎だった。
夕べ、楓と会った太郎は木賃宿に戻ると、待っていた仲間たちに楓の事を話し、太郎坊に化けた伊助、次郎吉、八郎の話を聞いた。
三人の話によると阿修羅坊の手下、八人は倒したと言う。阿修羅坊が最初から連れていた二人のうち、吹矢を使う男は次郎吉が倒した。太郎も一度、面識があるだけに、気の毒な事をしたと思った。気の毒だが仕方がなかった。放っておけば太郎自身の命が危ない。向かって来る者は倒さなくてはならなかった。
はっきりとはわからないが、残るは阿修羅坊と四、五人の手下どもだろうと伊助は言った。どうせ、やらなければならないのなら、いっその事、早いうちに片付けてしまおうと、朝早くから、太郎は八郎を連れて、こうして、阿修羅坊たちが出て来るのを待っていたのだった。
「阿修羅坊は来ますかね」と八郎は市場の方を見ながら太郎に聞いた。
「絶対に来るさ。俺がどこに消えちまったのか必死で捜しているはずだ。誰かが必ず、ここに来るはずだ」
「まさか、阿修羅坊は侍たちを連れては来ないやろうな」と八郎は心配した。
「多分、来ないだろう」と太郎は言った。「俺の考えだが、まだ、俺の存在というのは、こちらの連中には知らせてないと思う。多分、浦上は阿修羅坊に、俺がこの城下に入る前に殺せ、と命じたのだろう。阿修羅坊はこちらの連中が気づく前に俺を片付けなければならない。そうしないと、浦上の顔を潰す事になる。阿修羅坊は自分の手下だけを連れて、ここに来るはずだ」
「そうか‥‥‥という事はや、阿修羅坊さえ、いなくなれば、お師匠はこの城下では安全というわけやな」
「浦上が気づくまではな」と太郎は苦笑した。
「当分、気づかんて、浦上とやらは京にいるんやろ」
「だといいがな。浦上の下で動いているのは阿修羅坊だけじゃないかもしれんぞ」
「他にもいるんかいな」
「わからんさ。あの浦上という男はなかなかの曲者(クセモノ)だ」
「ふうん‥‥‥ところで、ここのお屋形様は、いつ、帰って来るんやろ」
「わからんな。伊助殿の話だと、半月位待っていれば戻って来るだろうとは言うが、今、美作の国にいるらしいからな。一月は覚悟しておいた方がいいだろうな」
「一月か‥‥‥一月もここにいるんですか」
「いや。その一月の間に例のお宝を捜し出さなくてはならん」
「そのお宝と、お師匠の奥さんとお子さんを交換して、甲賀に帰るんですね」
「うまく、行けばな」
「きっと、うまく行きますよ」と八郎は気楽に言って笑った。
靄が消え、東の山の上に朝日が顔を出して来た。
今日も一日、暑くなりそうだった。
その時、二人の乞食がのそのそと現れた。市場の掘立て小屋の陰に隠れ、太郎と八郎の方を窺っていた。ぼろ切れをまとい、見るからに臭そうな二人だったが、よく見ると伊助と次郎吉の二人だった。
太郎は二人に今朝の事を内緒にしていた。言えば、付いて来る事がわかっていたので喋らなかった。八郎と二人だけで阿修羅坊を片付けようと思っていた。伊助たちには世話になりっ放しだったので、阿修羅坊だけは自分の手で倒したかった。また、倒さなければならないと思っていた。しかし、伊助は夕べの太郎の表情から今朝の事を読み取り、太郎と八郎が朝早く出掛けて行くのを次郎吉と一緒にこっそりと後を付けて来たのだった。
「くせえなあ」と小屋の中に隠れると次郎吉が鼻をつまんだ。「何も、馬糞にまみれる事もなかろうが」とぶつぶつ言っている。
「似合っとるぞ」と伊助は笑った。
「アホぬかせ」
「わしらは太郎坊殿を守らなけりゃならねえんじゃ」
「そりゃ、わかるがの、何もこんなきったねえ格好までしなくもよかろうが」
「市のない日の市場には乞食しかいねえんじゃ。他の格好をしていたら怪しまれる」
「こんな朝っぱらから、こんな所に来る奴はいねえわ」
「阿修羅坊が来る。乞食の格好をしていれば怪しまれずに近づく事ができるんじゃ」
「まあ、そうだがな」と次郎吉は汚い筵(ムシロ)の中から刀を取り出した。「阿修羅坊はわしがやるぜ」
「どうかな、太郎坊殿がやるんじゃねえのか」
「強いとは聞いているがの、まだ、若え。阿修羅坊の相手はつとまらんじゃろうよ」
「そうかな、まあ、それは成り行きに任せるとして、あの二人とやり合う前に阿修羅坊の手下どもは、なるべく多く倒しておいた方がいいな」
「なに、あの二人には見物していてもらえばいいさ」
伊助はニヤニヤしながら次郎吉を見た。「次郎吉さんよ、随分と張り切ってるじゃねえか」
「俺は、この城下が気に入ったんだよ」
「この色男が、さっそく、いい女子(オナゴ)を見つけたな」
「まあな」と次郎吉はニヤリと笑う。「この城下には、なかなか、いい女子がおるわ」
「ほう、そうかね。まあ、新しい城下ってえのは、いい女子がおるというのは、よく聞くがのう。やはり、ここにもおるかね」
「伊助どんも好きじゃからのう。わしは、いっその事、ここに腰を落ち着けようかと思っとるんじゃ」
「着いたばかりで、なに寝ぼけた事を言っとるんじゃ。奈良の店はどうする」
「あんなもんはいいんじゃ。奈良は物騒だしのう。興福寺の坊主どもを相手にしてるより、こっちの方が儲かりそうじゃ」
「おぬしも、いい加減じゃのう」
「何とでも言え。それより、今晩、行ってみねえか」
「どこに」
「どこに、だと、決まってるわ、女子の所よ」
「そうだな、ご無沙汰してるからのう」
「わしは船着き場の辺りには行った事があるが、性海寺の参道の方はまだなんじゃ。噂では、大層、いい女子が揃っておるそうじゃ。どうじゃ、今晩、一緒に行ってみねえか」
「あそこか。わしも噂はよく聞くが、あそこは高そうだぞ」
「まあ、いい女子は高えさ。高えけど、一流の女子はいいものよ」
伊助と次郎吉がのんきに女の話に熱中している時、阿修羅坊の手下の一人が太郎坊と八郎を見つけていた。
「お師匠、山伏や」と八郎が気づいた。
市場の方から、こちらを見ている一人の山伏の姿が見えた。
「やっつけますか」と八郎は太郎の顔を窺った。
太郎は首を横に振った。
「奴が阿修羅坊を連れて来るだろう。それまで待つんだ」
山伏はしばらく二人を見ていたが、やがて、消えた。
四半時(シハントキ、三十分)程して、阿修羅坊と四人の手下が市場に現れた。
太郎と八郎は河原に座り込んだまま川の方を見ていた。
「確かに、あの二人だな」と阿修羅坊は一人の山伏に聞いた。
「間違いない」
「よし、向こうは川だ。こっちから取り囲んで奴を消そう」
剣術の達人とは言え、やはり、まだ若い。戦を知らんな、と阿修羅坊は思った。しかし、太郎坊が少しも動かないのが変だった。もしかしたら罠かもしれん。
「気を付けろ!」と阿修羅坊が叫んだのと同時だった。
手裏剣が草むらの中から飛んで来て、二人の山伏が悲鳴を挙げて倒れた。一人は目をやられ、もう一人は胸をやられていた。手裏剣は深く刺さり、二人とも即死だった。
阿修羅坊が構える間もなかった。
草むらの中から二人の裸の男が飛び出し、掛かって来た。太郎と八郎の二人だった。
また一人、山伏が悲鳴をあげた。太郎の五尺棒に首の骨を折られていた。
残るは、阿修羅坊と鉄の棒を振り回す日輪坊の二人だけとなった。
日輪坊は八郎に任せ、太郎は阿修羅坊と対峙した。
「見事じゃな」と阿修羅坊は言った。
「大した事はない」と太郎は言って軽く笑った。
「殺すのは勿体ないが仕方がない。悪く思うな」
「まだ、死ぬわけにはいかない」
阿修羅坊は太刀を抜いた。三尺はありそうな長い太刀だった。
太郎は五尺の棒を構えた。
お互いに隙はなかった。
太郎は太陽を背にしていた。
阿修羅坊はじわじわと体を横に移動させて行った。
「成程、若いわりには大した腕だ」と阿修羅坊は唸った。
「楓はどこだ」と太郎は聞いた。
「山の上の城の中じゃ」と阿修羅坊は答えた。
二人は二間程(約四メートル)の間をおいたまま、睨み合っていた。
一方、八郎と日輪坊は激しい闘いをしていた。八郎は刀、日輪坊は鉄の棒で闘っている。
太郎と阿修羅坊の均衡を破ったのは、カラスの鳴き声だった。前もって、決めてあったかのように、二人は共に相手に掛かって行った。
一瞬のうちに勝負は決まった。
太郎の棒が阿修羅坊の右手首の骨を砕いていた。右手首を砕かれても、阿修羅坊は太刀を落とさなかった。左手で太刀を構えていた。
八郎の方は日輪坊の腹を見事に横に斬っていた。
太郎はとどめをさそうと、五尺棒で阿修羅坊の喉元を突いたが、阿修羅坊は後ろに飛びのいて避け、そのまま逃げ去って行った。
太郎は後を追わなかった。
昨夜、楓に会う前の太郎だったら、間違いなく阿修羅坊を生かしてはおかなかっただろう。しかし、楓から阿修羅坊の事を聞いてしまった今、楓のためにも阿修羅坊を殺す事ができなかった。楓は阿修羅坊を信頼していた。色々とお世話になったと言っていた。太郎は自分の命を狙っているのが、その阿修羅坊だとは楓には言えなかった。
息を切らせながら、八郎が太郎の方に近づいて来た。
「ああ、死ぬかと思ったわ‥‥‥手ごわい奴やったわ」
「よく、やった」と太郎は八郎をねぎらった。
「お師匠、阿修羅坊の奴、逃がしちゃっていいんですか」
「ああ、仕方がない。しかし、あの腕では当分は太刀を持てんだろう」
「しかし、お師匠はやっぱり凄えな。あっという間に三人もやっつけるなんて、本に神業や。おらは一人がやっとや」
「がっかりするな。阿修羅坊の次に強いのが、あいつだ。それをお前は見事に倒した。もっと自信を持っていいぞ」
「そうやったんか、手ごわいはずや」
「これから、もっと手ごわい相手が現れるぞ。油断するなよ」
「えっ、まだ、敵がいるんですか」八郎は血の付いた刀を構えて、辺りをキョロキョロ見回した。
「阿修羅坊が、新たな敵をこの城下に連れて来るだろう」
「そうやな」と八郎は顔を引き締めて頷き、近くに倒れている山伏の着物で刀の血を拭うと鞘に納めた。
二人の側に、乞食が二人、のそのそと近づいて来た。
八郎が追い払おうとしたら、二人の乞食は顔を上げて、笑った。伊助と次郎吉の二人だった。
「さすがですな」と伊助は太郎を見ながら首を振っていた。
「わしらの出番はなかったのう」と次郎吉は臭い着物を脱ぎ捨てた。
「ずっと、いたのですか」と太郎は二人に聞いた。
「ええ」と伊助は笑った。「太郎坊殿に、もしもの事があったら松恵尼殿にどやされますからね」
「しかし、強いもんじゃのう。呆れるわ」と次郎吉はただ感心していた。
太郎と八郎は、川の側で、二人に化けて座ったままでいる二人の所に行った。
「ありがとさん」と八郎は言って、二人の肩を叩いた。
二人は崩れるように倒れた。倒れる時、二人の顔から何匹もの蛆虫がこぼれ落ちた。太郎と八郎に化けていたのは死体だった。朝、まだ、暗いうちに葬送地から運んで来たものだった。
太郎たちは、その二つの腐った死体と、まだ、生暖かい四つの死体を葬送地まで運ぶと、川の水で体を清め、木賃宿へと帰って行った。
山の上の城を詰(ツメ)の城と言い、いざという時に使う実践用の城で、そこに住んでいるわけではなかった。山の裾野に立派な屋形(ヤカタ)が構えられ、普段はそこで生活していた。その屋形を中心に家臣たちの屋敷や寺院が並び、その回りに町民や職人、農民の家が並び、城下町を囲むように夢前(ユメサキ)川が流れていた。
さらに、その城下町を囲むように支城や砦が並んでいる。城下の東の入り口を見張る番城、南の入り口を見張る清水谷城、西の入り口を見張る小屋谷城などがあり、夢前川をはさんで西側の鞍掛山(クラカケヤマ)の山頂には西南の守りとして鞍掛城があった。
鞍掛城を守っているのは政則の叔父の中村弾正少弼(ダンジョウショウヒツ)正満であった。正満は吉野からの神璽(シンジ)奪回の時、鶏足寺に潜んで、政則の父、彦三郎を見守っていた新禅坊である。伊勢世義寺の山伏、東蓮坊と共に奥吉野に潜入して南朝と戦い、深手の傷を負ったが命だけは無事だった。赤松家が再興された後、応仁の乱でも活躍して赤松家の重臣の一人となっている。政則が置塩城を築城するのと同時に、この山に城を築いた。政則の母親、北の方様は正満の妹だった。
番城には性具入道の弟、左馬助則繁の孫にあたる間島左馬助則光がおり、清水谷城には、同じく一族の赤松備前守永政、小屋谷城には、これもまた一族の嵯峨山土佐守高之が守っている。さらに、それらの城の外側の見晴らしのいい山々の上には砦を設けて守備を固めていた。
太郎と八郎は松恵尼に言われていた通り、まだ新しい城下町の南、夢前川の側にある木賃宿(キチンヤド)『浦浪』という所に落ち着いた。
夢庵はずっと一緒にいたが、太郎たちが『浦浪』という木賃宿を捜している隙に、急に姿が見えなくなってしまった。いつも、のんびりしていた夢庵が突然、消えてしまったかのように、どこにも姿が見当たらなかった。太郎は色々と世話になったお礼を言う事もできなかった。八郎は、まるで狐にでも化かされていたようだ、もしかしたら、夢庵は飯道権現の化身ではないかと不思議がっていた。
『浦浪』には、旅の商人や芸人たちが、かなり滞在しているようだったが、今は皆、出掛けていていなかった。
太郎と八郎は中庭に面した日当たりのいい一室に案内された。中庭の中央に井戸があり、隅の方に廐(ウマヤ)と蔵があった。そして、蔵の前の草の上に、のんびりと昼寝している研師、次郎吉の姿があった。
次郎吉は昨日、ここに着いたと言う。すでに、薬売りの伊助、白粉(オシロイ)売りの藤吉も来ていると言った。白粉売りの藤吉というのは、太郎はまだ知らなかった。
次郎吉より、太郎は楓の居場所と阿修羅坊の事を知らされた。阿修羅坊の手下がうようよいるので城下をうろつかない方がいいだろうと次郎吉は言ったが、自分がすでに、城下に入っている事を阿修羅坊はまだ知らないから、返って、安全だろうと太郎は八郎を連れて城下に出てみた。
木賃宿『浦浪』は姫路から来た場合、城下の入り口に近かった。
新しくできた大通りが夢前川に沿って北へと続いている。大通りの両脇の家々も皆、新しく、『浦浪』のある辺りには、町人の長屋や旅籠屋などが両側に並んでいた。しばらく行くと橋があり、橋を渡ると、そこは商人たちの町になった。大きな構えの店や土倉が大通りの両側に並んでいる。荷物を積んだ荷車や人々が行き交い、賑やかだった。
町の中央辺りに、二本の大通りが交わる四つ辻があり、四つ辻の東側に大きな仁王門があった。その仁王門をくぐり、大通りを東に行くと天台宗の大寺院、置塩山大円寺へと通じる。西に行くと夢前川に出て、河原には船着き場と渡し舟があった。船着き場は瀬戸内海の飾磨津(シカマツ、姫路港)から、英賀(アガ)城、坂本城を経由して、この城下に物資を運び込む荷船の着く所で、渡し舟は川向こうの鞍掛城とをつないでいた。
この大通りと平行に東側に通りが二本あり、手前の通りには下級武士たちの長屋や中級武士たちの屋敷などか並び、さらに奥の通りには重臣たちの屋敷が並んでいる。その重臣たちの屋敷に囲まれるようにして、城主、赤松政則の屋形が置塩山の裾野、一段高くなっている所に建てられてあった。城主が留守でいなくても厳重に警固されていた。
太郎と八郎は大通りを端まで歩いてみた。
城下のはずれに市場があった。今日は市は開かれていない。大通りと河原に挟まれた閑散とした広場に建ち並んでいる掘立て小屋には、乞食たちが住んでいた。
市場の向こうに、城下の北側の出入り口になる大門が見えた。どうせ、そこにも太郎坊を見張っている阿修羅坊の手下がいる事だろう。
太郎と八郎は引き返し、今度は武家屋敷の並ぶ通りの方に行ってみた。武家屋敷はどれも塀で囲まれ、門から中を覗いて見ると中央の庭を挟んで、五軒の屋敷が建てられ、大きな廐もあった。どうやら、中級武士たちの屋敷のようだった。塀に囲まれた同じような作りの屋敷が道の両脇に並んでいた。左側に並ぶ屋敷の屋根越しに、城主の屋形らしい大きな建物が見えた。
こちらの通りは大通りと違い、人通りは少なかった。それも、歩いているのはほとんどが武士たちだった。時々、荷物を背負った商人が通る位で、用のない町人の姿はなかった。
二人がキョロキョロしながら通りを歩いていると、一人の武士に声を掛けられた。
「おい、そこの職人、何をしておる」
かなり年配の小柄の武士だった。
「はい。実は、別所加賀守殿のお屋敷を捜しております」と太郎は言った。
「なに、加賀守殿?」
「はい」
「加賀守殿に、一体、何の用じゃな」老武士はうさん臭そうに太郎と八郎を見た。
「はい、観音の像を彫ってくれと頼まれましたもので」
「観音の像? 加賀守殿が? 観音像なら大円寺じゃないかのう」
「良くはわかりませんが、とりあえず、屋敷の方に来てくれと言われましたが」
「加賀守殿が観音像をのう」と老武士は首を傾げた。
「おお、そうか‥‥‥もしかしたら、御料人様の用事かもしれんのう」と一人でぶつぶつ言うと、太郎に別所加賀守の屋敷の場所を教えてくれた。
太郎と八郎は老武士に礼を言って別所加賀守の屋敷の方に向かった。別所加賀守の屋敷はお屋形の屋敷のすぐ前だと言う。もう一本、奥にある通りのさらに奥だと言う。
別所加賀守が何者だか知らないが、赤松家の重臣である事は間違いなかった。そのまま別所加賀守の屋敷まで行きたかったが、阿修羅坊が出て来る恐れがあった。真っ昼間、こんな所で騒ぎを起こしたくはなかった。まずは楓に会い、楓の気持ちを確かめてからだ。楓に会うまでは、太郎がすでに、この城下に入っている事を阿修羅坊に気づかせたくなかった。阿修羅坊の手下どもを分散させたままにしておきたかった。
太郎は別所加賀守の屋敷に近づくのをやめ、また、元の通りに引き返すと、その通りを真っすぐに歩いた。先程の老武士はいなかった。
「お師匠、別所加賀守の屋敷には行かないんですか」と八郎が声を掛けた。
「ああ、阿修羅坊がいるんでな」
「でも、お師匠、次郎吉殿の話やと、今、阿修羅坊は一人で別所屋敷を見張ってるんやろ。相手は一人や。やっつけちゃいましょ。お師匠なら絶対、大丈夫ですよ」
「ああ。だが、場所が悪い」と太郎は言った。
「どうしてや」
「阿修羅坊だけなら何とかなるだろう。しかし、こんな所で騒ぎを起こしたら、もし、阿修羅坊を倒したとしても、無事に逃げられるかどうかわからん」
「あ、そうか、そうやな‥‥‥」と八郎は辺りを見回した。考えて見れば、ここは敵地だった。皆、阿修羅坊の味方と見てよかった。
「お師匠、それじゃあ、いつ、やるんです」
「そう、慌てるな。まず、敵の事をよく調べてからだ」
「調べる?」
「ああ、陰の術を使ってな」
「陰の術か‥‥‥もしかしたら、あの城に忍び込むんですか」と八郎は振り返って山の上を見上げた。
「必要があればな。まずは、この城下の地形を頭に入れる事だ。どこに何があるのか、よく覚えておけ」
中級武士の屋敷の次には下級武士の長屋が並んでいた。長屋の間を真っすぐ進んで行くと大通りにぶつかった。左側には、先程の老武士が言っていた大円寺らしい大きな寺院が見えた。右に行けば仁王門をくぐり、初めに歩いた大通りに出る。二人は大円寺の参道らしい大通りを横切って真っすぐ進んだ。
武士たちの屋敷がなくなると、今度は簡単な柵に囲まれた町人たちの長屋が右側に並んでいた。左側は高い塀がずっと続いている。塀の中に何があるのかわからなかった。長屋で洗濯物を取り込んでいたおかみさんに聞いてみると射場(イバ)だと教えてくれた。塀の中で、侍たちが弓矢や槍の稽古をしているとの事だった。
射場を過ぎると左側に賑やかな一画が現れた。派手な作りの遊女屋が道の両側に並んでいる。富田山性海寺(ショウカイジ)に通じる表参道だと言う。大円寺の表参道は武家屋敷の中にあり、何となく重々しい雰囲気だったが、こちらの参道は賑やかで、飯道山の門前町と似ていた。
二人は遊女屋を横に眺めながら、さらに真っすぐと進んで行った。橋を渡ると、今度は職人たちの町になった。鍛冶師、研師、檜物師(ヒモノシ)、木地師、鎧師、畳刺(タタミサシ)、鞍作(クラツクリ)、弓師などが並び、通りに面していたのは主に武器関係の職人たちが多かった。
さらに真っすぐ進むとたんぼが広がり、たんぼの中の一本道を進むと、先の方にこんもりとした森が見えて来た。その森は八幡神社だった。八幡神社の少し先に細い道があり、山の中へと続き、奥の方にも白旗神社という神社があるらしかった。
太郎と八郎は真っすぐ進んだ。やがて、大通りに出た。それは、街道へと続く最初の大通りだった。そして、そこは南側の入り口、大門の近くだった。木賃宿『浦浪』へも近い。二人は城下の中をほぼ一回りして戻って来たというわけだった。
まだ、日は高かった。宿に帰っても別にする事もない。
二人は大通りを横切って夢前川の方に向かった。大通りに面して大きな屋敷が一つあるだけで、この辺りには何もなかった。夏草の生い茂る荒れ地を抜けると広々とした河原に出た。
カラスが騒ぎながら飛んでいた。その上空では鳶(トビ)が優雅に飛んでいる。
夢前川には渡し舟があり、川向こうの道へとつながっていた。河原にはいくつかの筵(ムシロ)掛けの小屋が立っていた。川の側で、何人かの人たちが何やら作業をしていた。
「エタや」と八郎が言った。
よく見ると、彼らは牛の死体を解体している所だった。側には剥ぎ取った皮が並べて干してあり、三匹の犬が餌にありついていた。
彼らはエタ、皮屋、河原者などと呼ばれて賤民視されているが、彼らが作る皮革は、この時代、非常に需要の高いものだった。兵器の材料として、また、衣料として、皮革は武士にとって軍事的になくてはならない物だった。大名たちは必ず、彼らを城下のはずれに住まわせ、皮革の製造をさせていた。
当時、エタと呼ばれていたのは、彼ら、革を作る者たちだけではなく、河原に住んでいる者たちや町のはずれ、貴族や寺社の荘園の片隅、寺院や神社の片隅に住んでいる賤民たち、すべてがそう呼ばれていた。
元々、エタとはキヨメと呼ばれる人たちの事だった。昔、京の都の賀茂川の河原にキヨメと呼れる掃除人夫が住んでいた。彼らは京の都の掃除や井戸掘り、または、死人の片付け、死んだ牛馬の片付けなど穢(ケガ)れの多い仕事に携わっていた。それらの仕事は一般の人々にはする事ができず、キヨメと呼ばれる人々だけが、その穢れを清める事ができると考えられていた。都人にとって、彼らはなくてはならない存在だった。
彼らは寺院の掃除も行なっていた。僧侶たちによって、彼らは穢れを清める者、穢手と呼ばれ、やがて、穢多と呼ばれるようになった。その呼び方が貴族たちの間に広がり、庶民たちの間にも広まって行った。ただ、庶民たちはエタという意味もわからずに、侮蔑の気持ちを込めて、彼らをそう呼んでいた。
年が経つにしたがって、河原に住むエタたちも分業して行った。革を作る者たちはそれを専門にやるようになり、掃除人夫は掃除や土木建築の人足になり、その他、井戸掘り、染工、乞食、芸人などに分かれて行った。
後に江戸時代になって身分制度が確立されると、エタと言うのは革作りの者たちを指す言葉となり、他の者たちは非人と呼ばれて区別され、エタの下におかれるようになった。彼らは江戸時代の二百五十年間、その身分制度から抜け出す事ができなくなり、明治時代に一応は解放されるが、未だに差別は続いている。この当時は、人々から賤民視されてはいても、そこから抜け出そうと思えば抜け出す事はできた。
戦国時代に河原者から成り上がった者たちに、猿楽の能役者や作庭家、立花師(タテバナシ、後の華道)、連歌師などがいた。彼らは身分が低いため出家して阿弥号を名乗り、将軍の側近衆にまでなって行った。出家してしまえば俗世間の身分制度から解放され、身分の高い者とでも同席が許されると考えられていた。また、足軽になって活躍し、武士になった者もいるし、土地を手に入れて農民になった者、商人や職人となった者もいた。
その中で、革作りの者たちは代々、その仕事に就く者が多かった。彼らは特殊技能者で革を作る事は彼らにしかできなかった。武士たちは必要な革を確保するため、死んだ馬や牛を処理する権利を彼らだけに与え、一般の者たちが革を作る事を禁じた。
戦国乱世となり革の需要は益々、高まって行った。彼らは自分たちを保護してくれる武士に年貢として、毎年、決まった枚数の革を納め、余った革を売りさばいて、かなりの収入を上げるようになって行った。生活も農民たちより安定しており、人々からは蔑(サゲス)みの目で見られても、今更、職を変える必要もなかった。
彼らの仕事は江戸時代の初期まで順調だった。しかし、やがて太平の世となり、革の需要は下がって行った。生活も苦しくなり職を変えようかと思ったが、その時はすでに遅く、徳川政権下の厳しい身分制度の中から抜け出す事はできなかった。
今、太郎たちの前で牛の皮を剥いでいる者たちは、自分たちのそんな運命など勿論、知らない。ただ、与えられた仕事をしているだけだった。
太郎はエタたちの方に近づいて行った。
「お師匠、奴らに近づかん方がええ」と八郎は注意した。
「なぜだ」と太郎は聞いた。
「奴らは、よそ者を近づけんのや」
「どうして」
「それは知りまへんけど、奴らは何をするかわからんのや」
八郎が育った多気の都にもエタはいた。百姓だった八郎は子供の頃から、エタには近づくなと言われて育てられて来た。子供の頃はどうしてなのかわからなかったが、物心付くようになると、回りの百姓たちと同じく、彼らを偏見の目で見るようになっていた。
太郎は八郎が止めるのも聞かず、牛を解体しているエタたちの方に向かった。近づくに連れて、牛の死体の臭いが鼻に付いてきた。うるさい程、ハエが飛び回っている。
太郎が近づいて行くと牛の解体をしていた者たちは手を止め、一斉に太郎の方を向いた。その目は睨んでいるわけではないが、ぞっとするような冷たい視線だった。八郎の言う通り、よそ者を拒絶している目だった。
「やあ」と太郎は努めて明るく挨拶をして、そのまま近づいて行った。
八郎は太郎の後を恐る恐る付いて来ていた。
突然、石つぶてが太郎めがけて飛んで来た。太郎は杖をほんの少し動かして、その石つぶてを杖で弾き返した。そして、何事もなかったかのように、そのまま進んだ。
また、石つぶてが飛んで来たが、前と同じく、何気なく杖で避けた。
次に飛んで来たのは小刀だった。これも、太郎は杖で簡単に弾き飛ばした。
太郎は、それらが飛んで来る方を見てはいない。ただ、解体されている牛の方を見ながら普通に歩いているだけだった。
弾き飛ばされた小刀が河原に落ちた。それは普通の小刀とは違い、獣の皮を切るのに使う、頑丈な包丁のような物だった。
「何者じゃ」としわがれた声がした。
太郎は立ち止まり、声の方を向いた。
革の袖無しを着た背は低いが、ごつい体つきの男がやはり、冷たい目付きをして太郎を見ていた。その男は片目だった。左目を革の眼帯で隠していた。
「われは何者じゃ」と片目の男は言った。
「仏師だ」と太郎は言った。
「仏師じゃと? 仏師が何の用じゃ」
「別に用はない。ただ、牛の腹の中がどんな風になっているのか見せてもらいたいだけだ」
「何じゃと? 牛の臓腑(ハラワタ)が見たいじゃと? そんな物を見てどうする」
「天神様の牛を彫ろうと思ってるんだが、どうも、うまくいかん。臓腑がどうなっているのかわかれば、うまく彫れるかもしれんのでな」
「変わった野郎だ。おい、見せてやれ」
片目にそう言われると、成り行きを見ていたエタたちは、また、作業を始めた。太郎は側まで行って牛が解体される様子を見ていた。鼻をつまみたくなる程、臭かったが、太郎は我慢して、ずっと見ていた。八郎はちらっと見ただけで、後ろに下がり、師匠は一体、何を考えているのだろうと鼻をつまみながら太郎の姿を見ていた。
エタたちは見事な手捌(サバ)きで牛を解体していった。臓腑を取り出し、皮と肉を切り放し、肉は細かく切り刻まれた。
切り刻まれた肉は鷹(タカ)の餌となった。領主の赤松政則が鷹狩りを好み、城内には何羽もの鷹が飼われていた。鷹を養うためには毎日、決まった量の肉が必要だった。うまい具合に、死んだ牛や馬があればいいが、なければ、犬を殺してでも鷹の餌を用意しなければならなかった。
鷹は好んで肉を食べたが、当時の人々は牛の肉は食べなかった。当時の人々が食べなかったのは牛の肉ばかりではない。仏教思想のお陰で、獣の肉はほとんど食べなかった。豚は元々、日本には少なかったが必要のない動物として、この頃、ほとんど姿を消してしまっていた。鶏は愛玩用、鑑賞用として飼われるだけで、肉は食べず、卵さえ食べなかった。ウサギだけは例外として、古くから、ずっと食用とされていた。
一通り、見終わると、太郎はその場を離れた。
太郎は前に、智羅天に見せてもらった人体の図を思い出していた。牛の体の中を見て、牛の体も人間の体も同じようなものだと思った。あんな物が自分の体の中にも詰まっているのか、と不思議な思いがした。
太郎がそのまま、帰ろうとすると、「おい、若いの」と例の片目が声を掛けて来た。
「どうじゃ、牛の臓腑を良く見たか」
「はい」と太郎は答えた。
「われも変わった奴よのう。あんな物を真剣に見ている奴など初めてだわい」
「人を解体する事はないのか」と太郎は片目に聞いた。
「何だと? ふざけるな、人など解体するか」
「そうか‥‥‥」
「今度は、人の体の中が見たくなったのか」
「ああ」と太郎は頷いた。
「時々、罪人の首は斬るがのう。解体などせんわ。もう少し下流に行ってみろ。この夢前川に流れ込む川にぶつかる。その川をさかのぼって行けばサンマイ(葬送地)がある。そこに行けば、いくらでも人の死体が転がっておる。好きなのを選んで解体して見るがいい」
「この下流だな」と太郎は下流の方を見た。
「われ、本当にやる気か」
「ああ、悪いか」
「わしは知らん。罰が当たっても知らんぞ」
「気にするな。地蔵さんを彫って成仏させてやる」
「われは一体、何者じゃ」
「仏師だ」
「ただの仏師ではあるまい」
「もと山伏だ」
「成程‥‥‥どこの山伏じゃ」
「大峯だ」
「ほう、大峯の山伏が何の用で、こんな所に来た」
「大峯の山伏が用があって来たのではない。仏師として用があって来たんだ」
「仏でも彫りに来たのか」
「そうだ。別所殿に観音像を頼まれての」
「なに、別所殿に頼まれた? うーむ、われは見た所、まだ若いが、余程、腕の立つ彫り師だとみえるのう」
「それ程でもない」
「われは名は何という」
「三好日向」
「わしはこの河原を仕切っている銀左衛門じゃ。人は片目の銀左と呼んでおる。何かあったら訪ねて来るがいい」
「片目の銀左殿か‥‥‥」
太郎は銀左と別れると、八郎を連れて、夢前川の上流の方に歩いて行った。
「サンマイは下流じゃぞ」と銀左が後ろから声を掛けた。
「今日は日が悪い」と太郎は答えた。
「フン」と銀左は鼻で笑うと、皮剥ぎの作業をしているエタたちの方に行った。
太郎と八郎は河原を一通り見てから木賃宿に戻った。
河原には革作りの他に、紺屋(コウヤ)と呼ばれる染め物屋、乞食や流民(ルミン)、聖や巫女(ミコ)、城下建設のための土木建築作業の人夫、辻君(ツジギミ)、立君(タチギミ)などと呼ばれる遊女などが粗末な小屋を掛けて住んでいた。また、高瀬舟の出入りする船着き場の回りには、芸人たちの見世物小屋が並び、猿楽の立派な舞台もあり、居酒屋、料亭、遊女屋などが並んで、賑やかに栄えていた。
芸人たちを眺めながら、明日あたり、金勝座の連中も到着するだろうと太郎は思った。
2
東の空に下弦(カゲン)の月が出ていた。
丁度、番城の本丸の上に月は浮かんでいた。
太郎は久し振りに武士の姿になって、大小二刀を腰に差し、城下の大通りを歩いていた。武士といっても浪人や下級侍ではなく、重臣たちの屋敷の辺りを歩いていてもおかしくないような、かなり身分の高そうな侍に化けていた。五ケ所浦にいた頃は水軍の大将の伜として、当然の事のようにこんな格好をしていたが、久し振りにこんな格好をしてみると、何となく照れ臭かった。
夕暮れ時で、まだ、暗くはないが、通りに人影は少なかった。太郎は真っすぐに別所加賀守の屋敷に向かっていた。
一時(二時間)程前、夢前川の河原から木賃宿に戻ると、伊助と次郎吉、そして、藤吉が太郎の帰りを待っていた。
初めて見る藤吉は三十前後の小柄な男だった。本人には悪いが、何となく鼠のような顔をしていた。彼は伊勢の白粉売りだという。今日、早速、別所屋敷に白粉を売りに行ったが、楓に会う事はできなかった。しかし、元気に遊んでいた百太郎の姿をちらっとだが見る事ができたと言った。楓も百太郎も無事な事は確かだった。
もう一人、太郎の知らない男がいた。松恵尼の手下の一人で、刀剣を扱う商人、小野屋喜兵衛という男だった。もう二年も前から、この城下にいて刀剣の取引きをしていると言う。馬のように長い顔をした四十前後の男だった。
太郎はその喜兵衛という男と伊助から、城下の事や楓の事など必要な事を聞き出した。別所屋敷の中の楓の居場所も大体わかった。阿修羅坊の手下の山伏たちがどこに隠れて、太郎が城下に入って来るのを見張っているのかも調べてあった。
「それにしても、よく、阿修羅坊の見張りの中をかいくぐって無事に城下に入れたものですな。例の陰の術を使ったわけですか」と伊助は不思議そうに聞いた。
「いえ。ただ、運が良かっただけですよ」と太郎は言って、どうやって入って来たかを伊助たちに説明した。
「その御仁は、確かに、夢庵殿と申すのですな」と喜兵衛が聞いた。
「ええ、金色の角をした牛に乗った変わった男です」
「間違いなく、それは夢庵肖柏(ショウハク)殿です」
「一体、何者です、その夢庵肖柏殿というのは」
「茶の湯のお師匠です。村田珠光(ジュコウ)殿、直々のお弟子さんです」
「村田珠光殿?」
「はい。村田珠光殿は将軍様の茶の湯のお師匠です。今は戦を避けて奈良におられます。わたしも伊賀にいた頃、お茶を扱っていたので何度かお会いした事がございますが、もう、引っ張り凧の有り様でした。奈良では武士から町人に至るまで皆、茶の湯に熱中しております。夢庵殿はその珠光殿の一番弟子と言われている程の茶の湯の名人です。しかも、出自はお公家様で、和歌や連歌にも詳しく、身分もかなり高いお人です。若い頃から宮廷や幕府に出入りして、管領の細川殿とも親しく、戦が始まってからは、京を出て摂津に隠棲なさいました。ここのお屋形様、兵部少輔殿も夢庵殿の飄々とした所がお気に入りになられて、城下に呼んではお茶会やら連歌会などを開いております。多分、今回、城下に来られたのは楓殿の披露の式典の事で色々と相談したい事があって呼ばれたのでしょう。夢庵殿は公家や幕府の式典の作法とか礼法などにも色々と詳しいですからな」
「ほう、そんなお人と道連れになるとは太郎坊殿も運がいい人じゃ」と伊助は笑った。
確かに、伊助の言う通りだった。もし、夢庵と一緒でなかったら、この城下の入り口まではもう少し早く着いたかもしれないが、城下に入るのに手間取った事だろう。まして、阿修羅坊の手下どもとやり合い、騒ぎを起こしてしまえば、この城下に滞在する事も難しくなって来る。牛の歩みに合わせて、のんびりと旅をして本当に良かったと思った。
太郎は今晩のうちに別所屋敷に忍び込み、楓と会う事に決めていた。それを助けるため、八郎と伊助、次郎吉の三人が太郎坊に扮して、夕暮れ時、一斉に城下に入るという手筈になっていた。どこかに太郎坊が現れたと聞けば、阿修羅坊は別所屋敷から姿を消すだろう。その隙に太郎が別所屋敷に忍び込むという作戦だった。
さっそく、八郎、伊助、次郎吉の三人は山伏の支度を荷物の中に隠して城下を出て行った。三人はただ、城下に入るだけではなく、この先、邪魔になる阿修羅坊の手下をできるだけ倒してしまおうとしていた。
武士の姿になった太郎は武家屋敷の建ち並ぶ中を歩いていた。道の両側に赤松家の重臣たちの立派な屋敷がずらりと並び、どこの門の前にも警固の兵士たちが見張りに立っている。城主、赤松政則の屋形は石垣を積んで少し高くした所に、白壁の塀に囲まれて建てられてあった。立派な門の前には槍を持って武装した大男が二人、通りの方を睨んでいた。
屋形の南隣に評定所(ヒョウジョウショ)があり、仕事帰りの侍たちが屋形の前の道を行き交っていた。
太郎はその人込みに紛れて、それとなく屋形を観察した。目指す別所加賀守の屋敷は、その屋形の斜め前辺りに位置していた。
屋形の西側に四軒の屋敷が並んでいる。北から浦上美作守、依藤(ヨリフジ)豊後守、小寺(コデラ)治部少輔、上原対馬守の屋敷と並び、上原対馬守の屋敷の裏側に別所加賀守の屋敷があった。
太郎は場所を確認すると別所屋敷の門の前を素通りして行った。数人の警固の兵士が門の前で無駄話をしていたが、阿修羅坊の姿は見当たらなかった。
太郎はそのまま真っすぐ進み、大円寺の参道に出ると大円寺に向かった。二天門をくぐり、広い境内に入ると木陰に身を隠し、合図の法螺(ホラ)貝が鳴るのを待った。
それ程、待たないうちに法螺貝は鳴った。まず、八郎がいるはずの北の方から聞こえて来た。太郎は、もうしばらく、その場で待った。やがて、今度は東の方から法螺貝の響きが聞こえて来た。東には次郎吉がいるはずだった。
太郎はゆっくりとした足取りで、別所屋敷に向かった。
通りには、それぞれの屋敷の警固の兵士たちが法螺貝の音を聞き、一体、何事だと北の置塩城を見上げたり、東の山の方に目をやっていた。
阿修羅坊の姿はなかった。
太郎は別所屋敷の裏通りを通り、南隣の喜多野飛騨守の屋敷との間の通りに入った。
人影はなかった。
表門と裏門のある通りには塀に沿って小川が流れていたが、この通りには何もなかった。塀の高さも一間(ケン)ちょっと(約二メートル)、塀の上に簡単な屋根が付いているが、その屋根の上に障害物は無さそうだった。
太郎は素早く、塀を乗り越えた。
塀の中の庭は暗かった。しばらく、木の陰に隠れて中の様子を窺った。
すぐ側に池があり、屋敷は北と東の塀に沿って、くの字に建てられ、南側から西側にかけて広い庭園になっていた。庭園といっても、まだ未完成のようで、山があり、池はあるが何となく殺風景な庭だった。塀に沿って木が植えられ、処々に変わった形の石が置いてある。その石はとりあえず、そこに置いた、というだけのもので、改めて、決まった位置に並べるつもりなのだろう。
閉じられた裏門の辺りに廐があり、その隣に家来たちの長屋らしき建物があった。その前に井戸があり、二人の人影が見えた。庭の中には見張りらしき者の姿はなかった。
楓たちのいるのは南の客殿だと聞いていた。楓と百太郎は、桃恵尼と京から連れて来た侍女五人と一緒に客殿にいると言う。多分、すぐそこに見える御殿のような建物がそうに違いない。明かりの中に人が動いている影が見えた。ちょうど夕餉の時なのだろう、何となく慌ただしい人の声や物音が聞こえて来た。
太郎は木に隠れながら右の方に移動した。客殿の向こうに表門が見えた。表門の側に槍を持った二人の侍の姿が見える。二人の侍は門の外に出て行き、代わりに別の侍が二人、入って来て、侍たちが待機している長屋のような建物がの中に入って行った。
門番の食事交替だろうか、長屋の入り口の戸は開いているが中までは見えなかった。少なくても十人位の侍がいそうだった。
太郎は物陰沿いに南の客殿に近づき、縁の下に忍び込んだ。
もう少し静かになるまで、このまま待とうと思った。太郎は横になって耳だけを澄ましていた。
やっと、楓と百太郎に会う事ができる‥‥‥二ケ月近くも会っていない。
楓御料人様か‥‥‥
楓がこの城下のお屋形の姉君だとはな‥‥‥まったく、驚きものだ。こんな御殿のような家に住んで、うまい物を食べて、綺麗な着物を着て、毎日、のんびりと歌でも歌っているのかな‥‥‥楓には似合わない。薙刀を振り回していた方が似合う。しかし、誰だって贅沢な暮らしに憧れる。働かないで生きて行けるのなら、その方がずっと楽だ。ここにいれば、今までのように朝から晩まで働かなくても済む。みんなからかしずかれ、ちやほやされて暮らしていればいい‥‥‥
楓は一体、どう思っているのだろう‥‥‥
太郎はうるさい蚊に悩まされながらも、半時程、待ち、五ツ(午後八時)の鐘の音を聞くと動き出した。辺りは静まり返っていた。
藤吉から、桃恵尼という楓の側に仕える尼僧を通して、太郎が今晩、ここに来るという事は伝えてあるはずだった。楓は待っている事だろう。
太郎は縁の下から出ると木陰に隠れ、客殿の方を見た。明かりは見えるが人影は見えなかった。客殿はかなり広そうだった。部屋がいくつもあるようだ。楓と百太郎がどこにいるのかはわからない。蒸し暑い夜なので板戸や障子は開けられてあっても、簾(スダレ)や屏風(ビョウブ)が邪魔していて部屋の中までは見えなかった。どこからでも入ろうと思えば入れるが、見つかる可能性も高かった。
さて、どこから忍び込んだらいいものかと考えていると、部屋の中で人影が動くのが見えた。人影は庭の方に近づいて来た。簾をくぐると廊下から庭の方を窺っていた。
楓であった。贅沢な着物を着てはいるが、楓に間違いはなかった。
太郎はかつて、花養院に忍び込んで楓に合図をした時のように、小石を楓に向かって投げた。楓は合図に答えて、太郎の方を向いた。
楓は廊下の端まで行くと庭に降りて来た。
太郎は木陰に隠れながら、楓が近づいて来るのを見ていた。
会いたかった‥‥‥
楓が自分の前から消えてからというもの、楓という女が自分にとって、どれ程、大事な存在なのか、痛い程、感じていた太郎だった。
楓は回りを警戒しながら太郎の側まで来ると立ち止まり、じっと太郎の顔を見つめた。
二人は何も言わず、ただ、見つめ合っていた。
やがて、楓の目から涙が溢れて流れ出した。
楓は太郎に抱きついて来た。太郎は楓を強く抱きしめた。
「会いたかったわ‥‥‥」楓は太郎の胸に顔をうづめたまま言った。
「俺もさ‥‥‥」
二人はしばらく無言のまま抱き合っていた。
ようやく落ち着くと、「百太郎は元気か」と太郎は聞いた。
楓は頷き、「元気よ。でも、あなたに会いたがってるわ」と言った。
「もう、寝たのか」
「ええ。別所様にも丁度、百太郎と同じ年頃の男の子がいてね、小三郎さんて言うんだけど、よく一緒に遊んでるわ。ここの奥方様も気さくで感じいい人よ」
「そうか、みんな、元気なんで安心したよ」
「あたし、あなたが死んだって聞いたわ。あなたに限って、そんな事はないと思っていたけど心配だった」
「俺も聞いたよ、俺はどこかの高貴なお方で、戦で戦死した事になっているんだろう」
「そうよ。あたし、そんな事、全然知らなかったわ。この間、無理やり、仲居さんの口から聞き出して、びっくりしてたのよ」
「しかし、俺の命が狙われているのは確かだ」
「えっ、どうして、あなたが狙われるの」
「邪魔だからさ。ここのお屋形様の姉君に亭主はいらないのさ。しかも、亭主が山伏だなんて、格好がつかないだろう」
「あなたが武士に戻ればいいんじゃないの」
「駄目さ。愛洲氏と赤松氏では格が違い過ぎる。どこかの高貴なお方で、すでに死んでいるという事にした方がうまく行くんだろう」
「それじゃあ、どうすればいいの」
「お前はどうする気なんだ」
「あたしは早く、花養院に帰りたいわ」
「弟に会わなくてもいいのか」
「それは、一度は会ってみたいけど、このまま、ここにいる気はないわ」
「わかった。とにかく、会うだけは会ってみろ。その後、ここから逃げ出そう」
「でも、会ってしまったら、ここから逃げ出すのは難しいんじゃないかしら」
「それは今でも同じさ。今、逃げ出したとしても、また、連れ戻されるだけだ」
「それじゃあ、どうすればいいの」
「大丈夫だ。考えがある。必ず、お前たちをここから助け出してみせる」
楓は太郎の顔を見つめて、頷いた。
「待っていてくれ」と太郎は言った。
「気を付けてね。絶対に死なないでよ」
「大丈夫だ」と太郎は力強く頷いた。
「百太郎に会って行く?」と楓が客殿の方を振り返りながら聞いた。
「大丈夫なのか、入っても」
「大丈夫よ。みんな、眠ってるわ」
「眠ってる?」
「白粉売りの人が持って来た、変わったお茶を飲ませたら、みんな、眠っちゃったわ。よく知らないけど、琉球のお茶だとか言ってたわ」
「お前は飲まなかったのか」
「ええ、眠ってしまうから絶対に飲むなって、書いてあったの」
「書いてあった?」
「ええ、あたしが、直接、その白粉売りの人に会ったわけじゃないの。桃恵尼さんが会って、そのお茶を持って来てくれたのよ。お茶の入れ物の中に紙が入ってたの」
「成程、お茶の中に眠り薬が入っていたんだな‥‥‥松恵尼殿の手下の人たちは、まったく、よくやってくれるよ。松恵尼殿こそ、本当の『陰の術』の師匠だな」と太郎は笑った。
「ほんとね」
太郎は楓の後に従って客殿に上がった。
楓の部屋は西南の角の庭に面した六畳間だった。
この客殿は大きく二つに仕切られ、それぞれが四部屋に分かれていた。楓たちがいるのは西側の方で、東側の方には今は誰もいない。
楓たちの東隣の八畳間に五人の侍女たちがいた。侍女たちは思い思いの所で倒れるように眠っていた。三人の侍女は若く、二人は年増だった。
桃恵尼の部屋は北隣にある四畳半らしいが、今は楓たちの部屋で、寝ている百太郎の布団の側で眠っていた。
見張りの者は特にいないと言う。別所加賀守は太郎の事を知らない。楓が逃げるはずはないと思っている。お屋形の姉上に迎えられて贅沢な暮らしをしているのに逃げるわけはないと思っていた。
楓たちは屋敷の中は自由に動き回れるが外には出られないと言う。外に出られたとしても、遠く、播磨の地まで来てしまえば逃げようとしても無理だった。ただ、太郎が来てくれるのを、ずっと待っていたと言う。
久し振りに百太郎の寝顔を見ながら、楓から別所加賀守の事や、その他の赤松氏の家臣の事などを聞いた。太郎は楓に、今、この城下に来ている味方の者たちの事を話した。
お互いに話したい事は一杯あった。別れがたかったが太郎は楓と別れた。
塀から外を覗くと通りに見張りがいた。阿修羅坊の手下の山伏が太郎坊が城下に入った事を知り、この別所屋敷に集まって来たのだろう。ちょっと長居し過ぎてしまったようだ。太郎坊がすでに屋敷の中にいるとは思っていないので屋敷の回りを見張っているが、出るのは難しかった。
太郎は月を見上げた。雲で隠れる気配はなかった。
塀で陰になる北側の路地の方に向かった。西側の塀に沿って木に隠れながら閉じられた裏門を過ぎ、廐と塀の間の細い路地を抜けて裏に出ると大きな蔵があった。蔵の裏に入って北西の角から塀の外を窺った。西の裏門の辺りに、見張りが一人いるが阿修羅坊ではないようだった。北側には誰もいなかった。
太郎は静かに塀を乗り越え、路地に下りると、塀の陰に隠れながら、そのまま表門の方に進んだ。塀の陰から表通りに出ると、別所屋敷の方は見ないで、別所屋敷とは反対の方に酔った振りをして、ふらふらした足取りで歩いて行った。
誰も跡をつけては来なかった。中級武士たちの屋敷が建ち並ぶ一角を通り抜け、大通りに出て、大通りを酔っ払った振りをしながら、無事に木賃宿『浦浪』までたどり着いた。
すでに、阿修羅坊は太郎が城下に入った事を知っている。今頃、血眼になって捜し回っているに違いない。これからは、いつ、狙われるかわからない。充分に注意しなければならなかった。
3
朝靄(モヤ)がゆっくりと川の上を流れている。
今、夜が明けようとしていた。
夢前川の河原に、二人の山伏の姿があった。二人の他に人影は見当たらない。
城下よりかなり下流の河原だった。側には市が開かれる場所があり、いくつかの掘立て小屋が立っているが乞食さえもいなかった。
この城下には市場が二ケ所あった。北と南のはずれにあり、北の市場が四の付く日に開かれる四日市、南の市場は九の付く日に開かれる九日市だった。今日は七月二十四日、北に市の立つ日だった。
すぐ側に城下の南側の入り口の大門が見える。ここも一応、城下の中だが、この辺りには人家はなく田や畑が広がっていた。ここからは死んだ者を葬るサンマイ(葬送地)も近い。城下の中心近くの河原には乞食や河原者たちが小屋掛けをして住んでいるが、この辺りに住んでいる者はいなかった。また、住んでいる乞食がいたとしても、今日は皆、北の市場の方に行っているに違いなかった。
一人の山伏は川辺に座り込んで、川の流れを見ていた。もう一人の山伏は川と反対の大通りの方をキョロキョロと落ち着きなく眺めている。
二人の山伏は太郎と八郎だった。
夕べ、楓と会った太郎は木賃宿に戻ると、待っていた仲間たちに楓の事を話し、太郎坊に化けた伊助、次郎吉、八郎の話を聞いた。
三人の話によると阿修羅坊の手下、八人は倒したと言う。阿修羅坊が最初から連れていた二人のうち、吹矢を使う男は次郎吉が倒した。太郎も一度、面識があるだけに、気の毒な事をしたと思った。気の毒だが仕方がなかった。放っておけば太郎自身の命が危ない。向かって来る者は倒さなくてはならなかった。
はっきりとはわからないが、残るは阿修羅坊と四、五人の手下どもだろうと伊助は言った。どうせ、やらなければならないのなら、いっその事、早いうちに片付けてしまおうと、朝早くから、太郎は八郎を連れて、こうして、阿修羅坊たちが出て来るのを待っていたのだった。
「阿修羅坊は来ますかね」と八郎は市場の方を見ながら太郎に聞いた。
「絶対に来るさ。俺がどこに消えちまったのか必死で捜しているはずだ。誰かが必ず、ここに来るはずだ」
「まさか、阿修羅坊は侍たちを連れては来ないやろうな」と八郎は心配した。
「多分、来ないだろう」と太郎は言った。「俺の考えだが、まだ、俺の存在というのは、こちらの連中には知らせてないと思う。多分、浦上は阿修羅坊に、俺がこの城下に入る前に殺せ、と命じたのだろう。阿修羅坊はこちらの連中が気づく前に俺を片付けなければならない。そうしないと、浦上の顔を潰す事になる。阿修羅坊は自分の手下だけを連れて、ここに来るはずだ」
「そうか‥‥‥という事はや、阿修羅坊さえ、いなくなれば、お師匠はこの城下では安全というわけやな」
「浦上が気づくまではな」と太郎は苦笑した。
「当分、気づかんて、浦上とやらは京にいるんやろ」
「だといいがな。浦上の下で動いているのは阿修羅坊だけじゃないかもしれんぞ」
「他にもいるんかいな」
「わからんさ。あの浦上という男はなかなかの曲者(クセモノ)だ」
「ふうん‥‥‥ところで、ここのお屋形様は、いつ、帰って来るんやろ」
「わからんな。伊助殿の話だと、半月位待っていれば戻って来るだろうとは言うが、今、美作の国にいるらしいからな。一月は覚悟しておいた方がいいだろうな」
「一月か‥‥‥一月もここにいるんですか」
「いや。その一月の間に例のお宝を捜し出さなくてはならん」
「そのお宝と、お師匠の奥さんとお子さんを交換して、甲賀に帰るんですね」
「うまく、行けばな」
「きっと、うまく行きますよ」と八郎は気楽に言って笑った。
靄が消え、東の山の上に朝日が顔を出して来た。
今日も一日、暑くなりそうだった。
その時、二人の乞食がのそのそと現れた。市場の掘立て小屋の陰に隠れ、太郎と八郎の方を窺っていた。ぼろ切れをまとい、見るからに臭そうな二人だったが、よく見ると伊助と次郎吉の二人だった。
太郎は二人に今朝の事を内緒にしていた。言えば、付いて来る事がわかっていたので喋らなかった。八郎と二人だけで阿修羅坊を片付けようと思っていた。伊助たちには世話になりっ放しだったので、阿修羅坊だけは自分の手で倒したかった。また、倒さなければならないと思っていた。しかし、伊助は夕べの太郎の表情から今朝の事を読み取り、太郎と八郎が朝早く出掛けて行くのを次郎吉と一緒にこっそりと後を付けて来たのだった。
「くせえなあ」と小屋の中に隠れると次郎吉が鼻をつまんだ。「何も、馬糞にまみれる事もなかろうが」とぶつぶつ言っている。
「似合っとるぞ」と伊助は笑った。
「アホぬかせ」
「わしらは太郎坊殿を守らなけりゃならねえんじゃ」
「そりゃ、わかるがの、何もこんなきったねえ格好までしなくもよかろうが」
「市のない日の市場には乞食しかいねえんじゃ。他の格好をしていたら怪しまれる」
「こんな朝っぱらから、こんな所に来る奴はいねえわ」
「阿修羅坊が来る。乞食の格好をしていれば怪しまれずに近づく事ができるんじゃ」
「まあ、そうだがな」と次郎吉は汚い筵(ムシロ)の中から刀を取り出した。「阿修羅坊はわしがやるぜ」
「どうかな、太郎坊殿がやるんじゃねえのか」
「強いとは聞いているがの、まだ、若え。阿修羅坊の相手はつとまらんじゃろうよ」
「そうかな、まあ、それは成り行きに任せるとして、あの二人とやり合う前に阿修羅坊の手下どもは、なるべく多く倒しておいた方がいいな」
「なに、あの二人には見物していてもらえばいいさ」
伊助はニヤニヤしながら次郎吉を見た。「次郎吉さんよ、随分と張り切ってるじゃねえか」
「俺は、この城下が気に入ったんだよ」
「この色男が、さっそく、いい女子(オナゴ)を見つけたな」
「まあな」と次郎吉はニヤリと笑う。「この城下には、なかなか、いい女子がおるわ」
「ほう、そうかね。まあ、新しい城下ってえのは、いい女子がおるというのは、よく聞くがのう。やはり、ここにもおるかね」
「伊助どんも好きじゃからのう。わしは、いっその事、ここに腰を落ち着けようかと思っとるんじゃ」
「着いたばかりで、なに寝ぼけた事を言っとるんじゃ。奈良の店はどうする」
「あんなもんはいいんじゃ。奈良は物騒だしのう。興福寺の坊主どもを相手にしてるより、こっちの方が儲かりそうじゃ」
「おぬしも、いい加減じゃのう」
「何とでも言え。それより、今晩、行ってみねえか」
「どこに」
「どこに、だと、決まってるわ、女子の所よ」
「そうだな、ご無沙汰してるからのう」
「わしは船着き場の辺りには行った事があるが、性海寺の参道の方はまだなんじゃ。噂では、大層、いい女子が揃っておるそうじゃ。どうじゃ、今晩、一緒に行ってみねえか」
「あそこか。わしも噂はよく聞くが、あそこは高そうだぞ」
「まあ、いい女子は高えさ。高えけど、一流の女子はいいものよ」
伊助と次郎吉がのんきに女の話に熱中している時、阿修羅坊の手下の一人が太郎坊と八郎を見つけていた。
「お師匠、山伏や」と八郎が気づいた。
市場の方から、こちらを見ている一人の山伏の姿が見えた。
「やっつけますか」と八郎は太郎の顔を窺った。
太郎は首を横に振った。
「奴が阿修羅坊を連れて来るだろう。それまで待つんだ」
山伏はしばらく二人を見ていたが、やがて、消えた。
四半時(シハントキ、三十分)程して、阿修羅坊と四人の手下が市場に現れた。
太郎と八郎は河原に座り込んだまま川の方を見ていた。
「確かに、あの二人だな」と阿修羅坊は一人の山伏に聞いた。
「間違いない」
「よし、向こうは川だ。こっちから取り囲んで奴を消そう」
剣術の達人とは言え、やはり、まだ若い。戦を知らんな、と阿修羅坊は思った。しかし、太郎坊が少しも動かないのが変だった。もしかしたら罠かもしれん。
「気を付けろ!」と阿修羅坊が叫んだのと同時だった。
手裏剣が草むらの中から飛んで来て、二人の山伏が悲鳴を挙げて倒れた。一人は目をやられ、もう一人は胸をやられていた。手裏剣は深く刺さり、二人とも即死だった。
阿修羅坊が構える間もなかった。
草むらの中から二人の裸の男が飛び出し、掛かって来た。太郎と八郎の二人だった。
また一人、山伏が悲鳴をあげた。太郎の五尺棒に首の骨を折られていた。
残るは、阿修羅坊と鉄の棒を振り回す日輪坊の二人だけとなった。
日輪坊は八郎に任せ、太郎は阿修羅坊と対峙した。
「見事じゃな」と阿修羅坊は言った。
「大した事はない」と太郎は言って軽く笑った。
「殺すのは勿体ないが仕方がない。悪く思うな」
「まだ、死ぬわけにはいかない」
阿修羅坊は太刀を抜いた。三尺はありそうな長い太刀だった。
太郎は五尺の棒を構えた。
お互いに隙はなかった。
太郎は太陽を背にしていた。
阿修羅坊はじわじわと体を横に移動させて行った。
「成程、若いわりには大した腕だ」と阿修羅坊は唸った。
「楓はどこだ」と太郎は聞いた。
「山の上の城の中じゃ」と阿修羅坊は答えた。
二人は二間程(約四メートル)の間をおいたまま、睨み合っていた。
一方、八郎と日輪坊は激しい闘いをしていた。八郎は刀、日輪坊は鉄の棒で闘っている。
太郎と阿修羅坊の均衡を破ったのは、カラスの鳴き声だった。前もって、決めてあったかのように、二人は共に相手に掛かって行った。
一瞬のうちに勝負は決まった。
太郎の棒が阿修羅坊の右手首の骨を砕いていた。右手首を砕かれても、阿修羅坊は太刀を落とさなかった。左手で太刀を構えていた。
八郎の方は日輪坊の腹を見事に横に斬っていた。
太郎はとどめをさそうと、五尺棒で阿修羅坊の喉元を突いたが、阿修羅坊は後ろに飛びのいて避け、そのまま逃げ去って行った。
太郎は後を追わなかった。
昨夜、楓に会う前の太郎だったら、間違いなく阿修羅坊を生かしてはおかなかっただろう。しかし、楓から阿修羅坊の事を聞いてしまった今、楓のためにも阿修羅坊を殺す事ができなかった。楓は阿修羅坊を信頼していた。色々とお世話になったと言っていた。太郎は自分の命を狙っているのが、その阿修羅坊だとは楓には言えなかった。
息を切らせながら、八郎が太郎の方に近づいて来た。
「ああ、死ぬかと思ったわ‥‥‥手ごわい奴やったわ」
「よく、やった」と太郎は八郎をねぎらった。
「お師匠、阿修羅坊の奴、逃がしちゃっていいんですか」
「ああ、仕方がない。しかし、あの腕では当分は太刀を持てんだろう」
「しかし、お師匠はやっぱり凄えな。あっという間に三人もやっつけるなんて、本に神業や。おらは一人がやっとや」
「がっかりするな。阿修羅坊の次に強いのが、あいつだ。それをお前は見事に倒した。もっと自信を持っていいぞ」
「そうやったんか、手ごわいはずや」
「これから、もっと手ごわい相手が現れるぞ。油断するなよ」
「えっ、まだ、敵がいるんですか」八郎は血の付いた刀を構えて、辺りをキョロキョロ見回した。
「阿修羅坊が、新たな敵をこの城下に連れて来るだろう」
「そうやな」と八郎は顔を引き締めて頷き、近くに倒れている山伏の着物で刀の血を拭うと鞘に納めた。
二人の側に、乞食が二人、のそのそと近づいて来た。
八郎が追い払おうとしたら、二人の乞食は顔を上げて、笑った。伊助と次郎吉の二人だった。
「さすがですな」と伊助は太郎を見ながら首を振っていた。
「わしらの出番はなかったのう」と次郎吉は臭い着物を脱ぎ捨てた。
「ずっと、いたのですか」と太郎は二人に聞いた。
「ええ」と伊助は笑った。「太郎坊殿に、もしもの事があったら松恵尼殿にどやされますからね」
「しかし、強いもんじゃのう。呆れるわ」と次郎吉はただ感心していた。
太郎と八郎は、川の側で、二人に化けて座ったままでいる二人の所に行った。
「ありがとさん」と八郎は言って、二人の肩を叩いた。
二人は崩れるように倒れた。倒れる時、二人の顔から何匹もの蛆虫がこぼれ落ちた。太郎と八郎に化けていたのは死体だった。朝、まだ、暗いうちに葬送地から運んで来たものだった。
太郎たちは、その二つの腐った死体と、まだ、生暖かい四つの死体を葬送地まで運ぶと、川の水で体を清め、木賃宿へと帰って行った。
14.笠形山
1
姫路から市川の流れをさかのぼって行くと、左手に置塩城の本丸が置塩山頂に見えて来る。さらに、さかのぼって行くと、左手に七種山(ナグサヤマ)、その後ろに隠れるように雪彦山(セッピコサン)があり、右手には播磨富士と呼ばれる笠形山(カサガタヤマ)が見えて来る。どれも皆、修験の山だった。
市川から別れて岡部川をさかのぼって行くと、岩戸という小さな村に出る。ここに一の鳥居があり、ここから笠形山山頂にある笠形寺(リュウケイジ)への参道が始まった。
岩戸村から岡部川に沿って、参道を一里程登って行くと大きな鳥居があり、鳥居をくぐると賑やかな門前町があった。薬師堂を中心に、僧院、僧坊が建ち並び、茶屋や土産物屋、遊女屋なども並んでいる。先達山伏に連れられた参詣者たちは皆、白い浄衣(ジョウエ)を着て、金剛杖を突き、薬師堂を拝んでから笠形寺への山道へと向かって行った。
笠形寺は天竺(テンジク、インド)から来たという法道仙人の開基と伝えられ、喜見山(キケンザン)と号し、薬師如来を本尊とする天台宗の山岳霊場だった。近江の飯道山ともつながりがあり、飯道山の先達山伏たちも、ここを中心に但馬の国や丹波の国まで活動していた。
その門前町に、金比羅坊、風光坊、探真坊の三人が着いたのは、太郎たちと大谿寺で別れた次の日の昼過ぎだった。太郎たちが牛の歩みに合わせて、のんびりと姫路に向かっている頃だった。
金比羅坊たち一行は大谿寺の大先達、遍照坊から聞いた嘉吉の変の当時の状況を頭に入れ、赤松性具入道(満祐)が隠したと思われる軍資金を捜しに、播磨富士、笠形山に向かったのだった。
『富士』『岩戸』そして『合掌』、この三つの言葉の意味する物を探り出し、阿修羅坊より先に軍資金を手に入れなければならなかった。
三人は門前町に入る前、岩戸村で『合掌』に関する手掛かりはないかと捜してみた。岩戸村の奥の方には岩戸神社という古い神社があり、その回りには岩戸神社の神宮寺や笠形寺の末院などが並び、参道はちょっとした門前町として栄えていた。
ここに何か、『合掌』に関する物はないかと捜したり、聞いてもみたが、これという決め手になるような物は見つからなかった。合掌というからには仏様に関係するのだろうと、すべての寺を巡り、石仏なども訪ねてみたが、これだ、という物は何もなかった。とりあえず、山頂の笠形寺に行ってから、改めて、この辺りの事を詳しく調べようと、三人は山に登った。
参道は山の中に入るにつれて急な登りになって行った。勿論、三人にとっては何でもない山道だったが、三人は一団の参詣者たちの後をのんびりと歩いていた。ここまで来れば急ぐ必要もなかった。今日は笠形寺の中を捜し、明日、山の中を捜せば、何か見つかるだろうと、三人共、軽い気持ちでいた。
「夕立でも来そうな空模様じゃのう」と金比羅坊が空を見上げながら言った。
「お師匠はもう、置塩城下に着いたかなあ」と風光坊は遠くの山を眺めながら歩いていた。
「まだ、着かないだろう。あのとぼけた牛と一緒じゃな」と探真坊は錫杖の代わりに、太郎と同じ五尺の棒を突いていた。
「そうだな。しかし、あの牛に乗った男、変わった男だったな」
「一体、何者かな」
「わからんな。お師匠も変わっていると言えば変わっているからな。変わり者同士で気が合うんじゃないのか」
「そうだな。そう言う、お前も変わっているしな」と探真坊は風光坊に言った。
「何を言うか、一番、変わっているのはお前だ」と風光坊も探真坊に言う。
「何を言っとるんじゃ、二人して」と金比羅坊が笑った。「わしからみれば、お前ら、みんな、変わっとるわい。まあ、変わってるから面白いんじゃがな」
「金比羅坊殿、お師匠とはもう長い付き合いなんですか」と風光坊が聞いた。
「そうさのう、わしが太郎坊と初めて会ったのは、もう、五年も前になるかのう」
「その時のお師匠はどうでした」
「まあ、一言で言えば、生意気な奴じゃったのう。ただ、しぶとい奴じゃった。今も、剣術の稽古の時、例の鉄の棒を振らせるが、あの鉄棒を千回も振ったのは、未だに太郎坊だけじゃ」
「えっ、あの鉄棒を千回も‥‥‥」と風光坊は唸った。
「ああ、わしはおぬしの親父殿に頼まれたんじゃ。どんな事をしてもいいから太郎坊を鍛えてくれとな。途中で弱音を吐くようだったら、わしの見る目がなかったと諦めるが、一年間、最後まで残っていたら、おぬしもかなわん位、強くなるじゃろう、と風眼坊殿は言っていた。実際、太郎坊はわしのしごきに耐えて、わしなんかよりずっと強くなって行ったんじゃ」
「お師匠は金比羅坊殿より強いんですか」
「強いぞ。一年間で、奴はわしを追い越して行った。そう言えば、お前らはまだ、太郎坊の本当の強さってものを知らんのじゃないのか」
「ええ」と風光坊は探真坊と顔を見合わせた。
「まあ、そのうち、見る機会もあるじゃろう」
「お師匠のお子さんは今、幾つなんですか」と探真坊が聞いた。
「三歳だったと思うがのう」
「そんな子供がいたなんて。全然、知らなかったな」と風光坊は言った。
「子供どころか、奥さんがいた事さえ知らなかったよ」と探真坊は言った。
「まあ、それはしょうがない。太郎坊は有名になり過ぎたんじゃよ。あのお山で、太郎坊を名乗れるのは年末だけじゃ。しかも、顔は隠さなけりゃならん」
「驚きましたよ。火山坊殿が実は太郎坊殿だったなんて‥‥‥」
「わしは、あいつには驚かされ通しじゃわい」
かなり、きつい坂を登ると、ようやく、笠形寺に着いた。
山の中の広い境内には、僧坊がずらりと建ち並んでいた。金比羅坊は真っすぐに飯道山の拠点になっている自在院に向かった。まだ、建てたばかりのような新しい本堂の前を通り抜け、蔵王堂の裏の方に自在院はあった。自在院は新しい本堂と比べたら、今にも倒れそうな掘立て小屋のような建物だった。
その自在院にいたのは乗南坊という、いかにも、くたびれたという感じの先達だった。
金比羅坊は乗南坊を知っていた。しかし、乗南坊の方はわからないようだった。
「親爺、まだ、ここにいたんか」と金比羅坊は自在院の中にいた乗南坊を見つけると、懐かしそうに声を掛けた。乗南坊の方はきょとんとして金比羅坊を見ていた。
「金比羅坊じゃが覚えとらんかのう。まあ、無理もないのう。もう、十年近くも前じゃからのう」
「十年前?」
「まあ、いい。わしらは飯道山から来たんじゃ」
「なに、飯道山‥‥‥」
飯道山から来たと聞くと乗南坊の顔は急に気が抜けたようになった。そして、しばらくしてから、飯道山から来た、飯道山から来た、と繰り返しながら、だんだんと喜びの表情に変わって行った。
「飯道山から来なすったか、よく来てくれたのう、よく来てくれたのう、ずっと、待っておったんじゃ、ずっと」と金比羅坊の手を取りながら乗南坊は喜んでいた。目からは涙さえ溢れていた。
「三人も来たのか‥‥‥うむ、昔は三人おったからのう‥‥‥そうか、やっと、来てくれたんか‥‥‥まあ、疲れたじゃろう。今、お茶でも入れるからのう‥‥‥」
三人には乗南坊が何でこんなにも喜んでいるのかわからなかったが、乗南坊がやたら一人で喋っているので、ただ、黙って聞いていた。
乗南坊の話によると、彼がこの山に来て、もう十年にもなると言う。寛正五年(一四六四年)に、三年間の約束で、飯道山からこの山に来た。ところが、三年めの応仁元年に戦が始まり、代わりの者が来られなくなり、もう少しここに居てくれと言われるまま、十年が過ぎてしまった。やっと、今年になって、代わりの者をやるから、それまで、もう少し我慢してくれとの連絡が入り、代わりの者が来るのを、毎日、楽しみに待っていたと言う。
十年は長かった‥‥‥と乗南坊はしみじみと語った。
乗南坊がこの地に来た時、播磨の国は山名氏が支配していた。当然、この山も山名氏の支配下に入っていた。
寛正五年、乗南坊はこの山に二人の山伏を連れてやって来た。三人で、この自在院を管理していた。その頃は、飯道山から、よく、山伏たちがこの山に来ていた。この山を拠点にして、播磨は勿論の事、摂津や但馬まで信者たちを集めに回っていた。また、彼らが信者たちを連れて来ていたので、この自在院も賑やかだった。
それが、三年後、応仁の乱が始まり、約束の三年が過ぎても交替の者はやって来なかった。三人のうちの一人が頭に来て、飯道山に行って話を付けて来ると出て行ったが、そのまま戻っては来なかった。もう一人も話を付けて来ると出て行ったまま戻らず、結局、乗南坊、独りだけが残ってしまった。それから七年もの間、飯道山の山伏は一人も来ない。他の僧坊でも、他国から来ていた山伏たちは、ほとんど自国に帰ってしまったが、乗南坊だけは、たった独りで自在院を守っていた。
そのうちに、この山にも戦の波が押し寄せて来た。赤松氏が播磨に進攻して来て、あっと言う間に山名氏を追い出し、播磨は再び、赤松氏の支配下となった。この山にも赤松方の僧兵や山伏たちが攻めて来て、山名氏と通じていた者たちを武力で追い払った。
彼らは元々、この寺の僧や山伏たちだった。嘉吉の変の時、赤松氏の味方をしたため、この山に戻れなくなり、赤松一族と同じく、どこかに潜んで、赤松家の再興される日を待ち望んでいた者たちだった。その時、本堂を初め、多くの僧坊は焼け落ちた。
乗南坊はその戦の時も逃げずに、この自在院を守り通した。よそ者だという事で追い出されずに済んだが、その後、乗南坊もこの寺の山伏たちと共に戦に出て、赤松家のために戦うはめになった。戦をしに、はるばると美作や備前までも出掛けて行った。
最近になって、ようやく、戦も落ち着いて来て、前線まで行く事はなくなったが、それでも、情報を集めるために敵国の但馬には、よく行かされると言う。今回も但馬に行かされ、つい先程、帰って来たばかりだと言う。
「わしは、もうすぐ五十じゃ。もう、疲れたわ。早く、国に帰りたい」
乗南坊は本当に疲れ切ってしまっているようだった。
「飯道山の方はどうじゃ」と乗南坊はほんの少し目の色を変えて聞いた。
「向こうも戦はやっておるが飯道山はまだ大丈夫じゃ、安心せい」と金比羅坊は答えた。
「そうか、大丈夫か。わしのうちは土山の近くなんじゃが、あの辺りも大丈夫かのう」
「土山? あの辺りはちょっとわからんのう。あの辺りで戦があった事はある」
「なに、戦があった?」
「ああ、京極勢と六角勢の戦があった」
「わしの女房と子供がおるんじゃよ。大丈夫じゃろうな、もう十年も会っとらんからのう‥‥‥伜は、もう二十三にもなっとるのう。娘も、もう十九じゃ。もう嫁に行っとるじゃろうか‥‥‥伜の奴、まさか、戦に出て戦死などしてはおらんじゃろうな‥‥‥わしは帰る‥‥‥今すぐ、帰る。急に心配になって来たわ」
乗南坊はそう言うと、早速、荷物をまとめ始めた。
「乗南坊殿、帰るのはいいが、わしたちに、この山の事を詳しく教えてからにしてくれんかのう。わしら、来たばかりで何もわからんのじゃ」
「おう、そうじゃったの。一応、引き継ぎとやらをせにゃならんのう」
乗南坊は一通り、笠形寺の事や笠形山の説明をしてくれた。
笠形山の山頂は、ここより十四町(約一、五キロ)登った所にあり、薬師如来が祀ってあると言う。山中には天狗岩、天邪鬼(アマノジャク)の引き岩、鎮護岩(チンゴイワ)などがあり、滝の行場もいくつかある。金比羅坊が、合掌岩か合掌滝はないかと聞くと、そんなのは聞いた事もないと言った。
乗南坊は話し終わると、後の事はよろしくお頼み申すと言って、さっさと山を下りてしまった。
「どうするんです」と探真坊が金比羅坊に聞いた。
「まあ、そのうちに本物が来るじゃろう。それまで、ここに腰を落着けて、じっくりと宝を捜そうや」
「来なかったら、どうするんです」
「その時はその時だ。何とかなるさ」と風光坊は気楽に言った。「どうせ、しばらくは、この国にいなけりゃならんだろう。ここを拠点にすればいいさ。ここからなら置塩の城下も近いしな」
「それにしても、ひでえ所だな」と探真坊が部屋の中を見回しながら言った。「宿坊というより、ただの掘立て小屋だな」
「贅沢、言うな」と金比羅坊が言った。「雨露がしのげるだけでもいいと思え。乗南坊殿が必死に守ってくれたんじゃ。焼けてしまった僧院もかなりあったと言ってたじゃろう」
「乗南坊という親爺、くそ真面目な奴じゃな」と風光坊も部屋の中を眺めながら言った。
「ああ、まったくじゃ。代わりが来るまで、こんな所にいる事もないのにのう」
「こんな所に、よく十年もいたもんだ」
「戦にも行ったと言ってたのう。ああ見えて、結構、強いのかも知れんぞ」
「まさか」と探真坊は笑った。「戦場で逃げ回っていたんだろう。どう見ても、まともに刀が使えるようには見えん」
「人を見かけだけで判断すると、後で、大怪我するぞ」と金比羅坊が言うと、「それは言える」と風光坊は神妙な顔をして頷いた。
風光坊にしてみれば、八郎を見かけだけで判断して間違い、おまけに、師匠、太郎坊が化けていた火山坊までも、見かけで判断して間違っていた。確かに、見かけだけで判断するのはまずいと実感していた。
空が急に暗くなり、雨がポツポツ落ちて来た。遠くで雷も鳴っていた。やがて、大粒の雨が滝のように勢いよく降って来た。
「乗南坊殿も運の悪い男じゃのう」と金比羅坊が雨を見ながら言った。
「山を下りられた事が嬉しくて、雨なんか、気にならないでしょう」と探真坊は言った。
「そうかもしれんのう」
掘立て小屋のように、みすぼらしい自在院だったが、乗南坊が小まめに手入れしていたとみえて、雨漏りなど全然しなかった。
三人は夕立を眺めながら、それぞれが、それぞれの思いの中に浸っていた。
二日間、手分けして、笠形山の山中をくまなく捜してみたが、『合掌』に関する物は見つからなかった。
『岩戸』と言えるかもしれない洞窟もいくつかあり、中に石の仏像が安置してある所もあったが、決め手となるような物は何もなかった。一体くらい合掌している石仏がありそうなものだが、合掌している仏像はありそうで、なかなか、なかった。
笠形山の山頂から回りを見下ろせば、何かわかるかと思ったが何もわからなかった。
山頂には薬師堂と狼煙(ノロシ)台があり、山頂から少し下がった所に小屋が建っていた。小屋の中には誰もいなかった。山頂からの眺めは良く、遠くの方の海まで見渡せたが、『合掌』や『岩戸』らしき物は見つからなかった。
金比羅坊と風光坊、探真坊の三人は自在院の中で、笠形山の絵地図を前にして考え込んでいた。
外は、もう暗くなっている。
昨日までは、絶対に捜し出してやると張り切っていた三人だったが、二日間、山の中を隅から隅まで歩き回ってみても何も得る物はなかった。
阿修羅坊の名前を出し、浦上美作守の名前も出し、赤松氏のために働いている事にして、この山の長老や先達から色々と話を聞いてもみたが、『合掌』の意味する物はわからなかった。観音堂の中に合掌している千手観音が一体あったが、その仏像の中に宝を隠したとは思えなかった。また、千手観音が合掌しているのは何本もある手のうちの二手だけである。これを『合掌』と呼ぶのは、ちょっと無理があるように思えた。
三人は、どっと疲れが出て来たかのように、ぐったりとしていた。絵地図を眺めていても、これからどうしたらいいのか、いい考えもなかなか浮かんで来ない。
「不二と岩戸は良かったとしても、合掌がこの山の中にあるというのが間違ってたんじゃないのか」と探真坊が腕組みをしながら言った。「もし、この山に合掌に関する物があったとする。そうすると、合掌と不二は結び付くが、岩戸が一つ、はずれてしまう」
「それじゃあ、どこにあるんだよ」と風光坊は寝そべって屋根裏を眺めていた。
「わからん。わからんが、謎の言葉は四つあるんだろう。四つあるという事は、その四つの言葉が、ある一つの物を意味するか、それとも別々の物を意味して、その四つの物をどうにかすると宝のある場所がわかるとか‥‥‥」
「うむ、成程のう」と金比羅坊は唸った。「わしらは場所にこだわりすぎたのかも知れんのう。まず、宝を隠した性具入道になったとして、考えてみた方がいいかもしれんのう」
「ええ」と探真坊は頷いて話を続けた。「まず、宝を隠したとします。それを誰かに知らせるために四つの言葉に表すとしたら、普通、どうするでしょう。たとえば、この自在院に宝を隠したとします。金比羅坊殿なら、どんな四つの言葉を残します」
「ここに隠したとするわけか、そうじゃのう」と金比羅坊は考えた。「まず、不二。そして、薬師‥‥‥権現‥‥‥自在っていう所かのう」
「不二、薬師、権現、自在ですか。不二が笠形山、薬師が笠形寺、権現が、すぐそこの権現堂、自在は、ここですよね。金比羅坊殿の場合、四つの言葉は、すべて、場所を意味していて、その場所はだんだんと狭められていって、ここがわかるというものですよね」
「まあ、そうじゃな」と金比羅坊は頷いた。
「菩薩、天、鉤、牛、っていうのはどうだ」と風光坊が言った。
「なに、菩薩に天に鉤に牛‥‥‥何だそりゃ‥‥‥」
「わかったぞ」と金比羅坊が言った。「菩薩とは自在の事じゃ。天は自在天、鉤は自在鉤、牛は自在天の乗物じゃろう」
「その通り」と風光坊は頷いた。
「風光坊のは四つの言葉が、全部、自在を表す言葉ですよね」
「今度は、お前の番だ」と風光坊は腕枕をしながら探真坊を見た。
「ああ。それじゃあ、薬師、権現、稲荷、安住、この四つだ」
「何じゃと、薬師に権現に稲荷に安住‥‥‥」
「薬師はあの本堂だろ。権現は、そこの権現堂。稲荷もそこにあるし、安住坊も、すぐ裏にある。それが、どう、この自在院とつながるんだ」と風光坊が起き上がって聞いた。
「こういうわけだ」と探真坊は言うと、石ころを四つ拾い、絵地図の上に並べた。
「この石が本堂、これが権現堂、これが稲荷、そして、これが安住坊、この四つの石を結んで、交わった所に自在院がある」
「成程、そういう事か‥‥‥」
「しかし、俺の場合は、余り広い場所では使えない。たとえば、この石が笠形山で、この石が岩戸村、そして、たとえば、この石が雪彦山、この石が七種山だとしたら」
「そんなもん、わかるわけねえだろ」と風光坊は石ころを弾いた。
「そうだ、とてもじゃないが、その四つの場所を結ぶ事は不可能だ。俺の場合は、ある場所があらかじめわかっていた場合、その場所の中のどこにあるのかを知らせる時にしか使えない。風光坊のもそうだ。風光坊の場合も、ある限られた場所がわからなければ使えない」
「という事は、やはり、金比羅坊殿のやり方かな」と風光坊は言った。
「いや、それはわからんよ。赤松一族だけにわかる、どこか、特別の場所があったのかもしれん。その場所に、四つの言葉に関する物があるのかもしれん」
「そうなると、ますます、難しくなるのう」
「金比羅坊殿のやり方で行くと、まず、不二で、笠形山だとわかる。そして、岩戸で、その裾野の岩戸だとわかる。ここまではいいと思います。その後が続かない」
「あと一つがわかればなあ」と風光坊は、また寝そべった。
「明日、もう一度、岩戸村に行ってみるか」と金比羅坊が言った。
「それしか、ないみたいですね」
「金比羅坊殿、ついでに、明日、下の町に行って酒でも飲みませんか」と風光坊は期待を込めて金比羅坊を見た。
「おう、そうじゃのう。こう働き詰めじゃ、いい考えも浮かばんしな。ここらで、気分転換もいいかも知れんのう」
「そう、来なくっちゃな。そうと決まれば今日は疲れた、寝るとするか」
「疲れたのう」
三人が横になって、寝ようとした時だった。外で誰かが騒いでいた。
「うるせえなあ、なに騒いでるんだ」と風光坊が舌を鳴らした。
「どこにも、馬鹿はいるもんじゃな」と金比羅坊が笑った。
「そういや、八郎の馬鹿は今頃、何をしてるかな」と探真坊は言った。
「お師匠と一緒に城下で、いい思いをしてるんじゃないのか」
「まさか」
「おい、あの声、八郎じゃないのか」と金比羅坊が言った。
「まさか。暗くなってから、こんな所に来ないだろう」と探真坊は言った。
「いや、あの声は八郎の馬鹿だ」と風光坊は起き上がり、外に飛び出して行った。
耳を澄ましてよく聞くと、金比羅坊殿、風光坊、探真坊と大きな声で叫んでいた。金比羅坊も探真坊も外に出てみた。
外は月も星もなく、真っ暗と言っていい程だった。風光坊は八郎を見つけたらしく、二人の話し声が聞こえて来た。太郎も一緒にいるようだった。
太郎と八郎を加えた五人は播磨の国の絵地図を囲み、また、考え込んでいた。
太郎と八郎が、こんな夜になって、わざわざ、この山の上まで来たのは、それなりの重要な収穫があったからだった。
今朝早く、阿修羅坊を倒した二人は、しばらくの間は安全だろうと、今日一日はのんびりしようと思っていた。船着き場の近くにある湯屋(ユヤ)に行って垢をこすり、頭も洗い、さっぱりとして、賑やかな旅芸人たちの集まる河原の一画を見て回っていた。
そこへ到着したのが金勝座の一行だった。太郎は助五郎を河原者の頭、片目の銀左衛門の所に連れて行き、話をまとめると、みんなと一緒になって舞台作りの甚助を手伝い、金勝座の舞台を作ったりしていた。八郎も一座の女たちと一緒に浮き浮きしながら手伝っていた。
やがて、舞台もできあがり、一息ついている時、助五郎が袋に入った二振りの刀を持って来た。松恵尼から楓に渡してくれと頼まれた物だと言う。何だろうと思って、太郎は袋から刀を出してみた。
立派な太刀とそれと不釣合いな脇差が入っていた。それを見た途端、ぴんと来た。太刀の方は赤松家の跡継ぎが持つのにふさわしい、かなりの名刀のようだった。しかし、この際、どうでもよかった。問題は太刀と不釣合いな、どこにでもありそうな脇差の方だった。それは京の浦上屋敷で見た、あの三振りの脇差と同じ物だった。
「北畠殿が持っていた赤松彦次郎の物ですね」と太郎は助五郎に聞いてみた。
「御存じでしたか。何でも、嘉吉の変の時、伊勢の地で自害なされたお人だそうです。楓殿のお父上の従兄弟にあたるお人だとか‥‥‥」
「そう言われればそうですね」
太郎はさっそく、脇差の目貫(メヌキ)を抜いて柄(ツカ)をはずしてみた。思った通り、茎(ナカゴ)には紙が巻いてあった。太郎はゆっくりと、その紙を広げてみた。
『瑠璃』、そして、性具入道の花押が書いてあった。
『瑠璃』、その言葉はまったく意外な言葉だった。瑠璃と言えば、まず、浮かぶのは阿修羅坊の本拠地、瑠璃寺だった。瑠璃寺と言えば播磨の国の西部に位置している。笠形山とは、まるで正反対にあった。
これで『不二』『岩戸』『合掌』そして、『瑠璃』と四つの謎の言葉は揃ったわけだが、この四つの言葉の意味する物は、益々、わからなくなって行った。
太郎は性具入道の書いた紙切れを懐にしまい、刀を元に戻すと、太刀と共に、しばらく預かって下さいと助五郎に渡した。助五郎がその紙は何かと聞くのに対し、後で詳しく教えるとだけ言い、八郎を連れて真っすぐに笠形山に向かったのだった。
門前町に入った辺りから、すっかり暗くなってしまったが、太郎は構わず、山へと入って行った。かつて、智羅天のもとで修行していた頃、智羅天のように真っ暗闇でも目が見えるようになりたいと訓練したため、暗闇でも、ある程度、見えるようになっていた。
太郎はさっさと歩いて行くが、付いて行く八郎はたまったものではなかった。真っ暗で何も見えない。太郎の杖につかまりながらも、石につまづいたり、転んだりしながら、やっとの思いで付いて行った。どう、目をこらして見ても八郎には何も見えなかった。自分の前を平気で歩いている師匠が化物のように感じられた。どう考えても、人間とは思えなかった。
八郎は、ようやく笠形寺までたどり着くと、暗闇の中を叫び回っていた。そして、さも自分が自力で暗闇の中をここまで来たかのように風光坊に自慢していた。この時は興奮していて何も感じなかったが、次の日の朝になって、傷だらけ、血だらけになっている自分の足を見て、唖然とする八郎だった。
薄暗い自在院の中で、『瑠璃』と書いてある紙切れと播磨の国の絵地図を見つめながら、五人は考え込んでいた。
「瑠璃が、出て来るとはのう」と金比羅坊が伸びてきた顎髭をこすりながら唸った。
「金比羅坊殿、瑠璃寺に行った事はありますか」と探真坊が聞いた。
「いや、ない」
「これで、また、初めから、やり直しだな」と風光坊は言った。
「この山には瑠璃に関する物はなかったのですか」と太郎は金比羅坊に聞いた。
「ないのう。やはり、瑠璃と言えば瑠璃寺じゃろうのう」
「もしかしたら、瑠璃寺の方にも、不二や岩戸、そして、合掌に関する物があるのかもしれませんねえ」と探真坊は言った。
「きっと、そうだわ」と八郎も言った。
「だといいがな」と風光坊は言った。
「この地図で見ると、どうやら、瑠璃寺の方が笠形山より、性具入道が自害したという城山城(キノヤマジョウ)に近いような気がするのう」と金比羅坊が言った。
「この地図では実際の距離はわからんけど、どうも、そのような気はしますねえ」太郎も地図を見ながら言った。
「それに、瑠璃寺は古くから赤松氏とのつながりがあるらしいからのう」
「行くしかないな」と風光坊は言った。
「そういう事じゃのう」
「明日の飲み会は延期だな」と探真坊は言った。
「何や」と八郎は聞いた。
「何でもねえよ」と風光坊は八郎の肩をたたいた。
「実はな、太郎坊、働き詰めだったんでな、明日あたり、気晴らしに下の町に行って、酒でも飲もうって言ってたんじゃよ」と金比羅坊が苦笑しながら言った。
「何や、そんな事か、おらたちも、ほんとなら今頃、酒を飲んでたわ。阿修羅坊の奴もやっつけたしな、のんびりするはずだったんや。この紙切れが出て来なかったらな」
「なに、阿修羅坊を倒したのか」と金比羅坊が太郎に聞いた。
「手下どもは全員倒し、阿修羅坊も手を怪我して、当分の間は刀も持てんでしょう」
「そうか、そいつはでかした」
「それで、今晩は、女子でも抱きながら酒でも飲もうって言ってたんや」
「もう少し待ってくれ」と太郎は皆に言った。「これが一段落したら、遊女でも上げて思い切り騒ごう」
「それは、本当ですか」と風光坊は目を輝かせた。
「ああ。置塩城下で一番大きな遊女屋で大騒ぎだ」
「そいつは、楽しみじゃ」と金比羅坊も笑った。
「早く、お宝を見つけて城下に帰ろうや」と八郎は浮かれて踊った。
「お前は気楽でいいな」と探真坊は笑った。
次の日、五人は瑠璃寺へと向かった。
朝早く、山を下りて行った太郎たち一行と入れ違いに、笠形山に向かっている阿修羅坊の姿があった。
笠をかぶり、骨折した右腕を首から吊し、苦虫をかみ殺したような不機嫌な顔をしている。相変わらず高下駄をはき、錫杖を突きながら歩いているが音はなかった。
太郎にやられた右腕は当分の間、使いものにならなかった。
相手を甘く見過ぎていた。まさか、あれ程の腕を持っているとは思いもよらなかった。阿修羅坊が今まで会った事のある連中の中でも、一番強いと言ってよかった。飯道山の高林坊が、わしより強いと言った時は、まったく信用しなかったが、まさしく、あの高林坊より強いかもしれない。しかし、倒さなくてはならなかった。幸いに、赤松政則はまだ帰って来ない。多分、あと半月は戻って来ないだろう。それまでの間に、太郎坊を倒さなくてはならなかった。
すでに、日輪坊と月輪坊、そして、瑠璃寺から呼び寄せた十人もの手下が太郎坊に殺された。城下に入って来る時点で八人もやられている。それぞれ、ばらばらにいたはずなのに、ほとんど同時に八人もやられたという事は、太郎坊は八人で来たという事か。
しかし、その八人は城下に入った途端、姿を消してしまった。そして、昨日の朝、河原で戦った時は太郎坊は二人だけだった。たった二人だけで、わしら五人を相手にして勝った。初めから二人だけだったのだろうか。
確か、太郎坊は『志能便の術』とかを使うと言う。その志能便の術で、八人を次々に倒して行ったのだろうか。
恐るべき相手だった。
阿修羅坊は昨日、使いの者を瑠璃寺に走らせ、新たに三十人の山伏を呼んだ。そして、今、美作の国で戦をしている宝輪坊と永輪坊の二人も呼ぶ事にした。瑠璃寺の山伏で、あの太郎坊と、少なくとも互角にやり合えそうな者は、その二人だけだった。
今朝になって、まず、四人が瑠璃寺から到着すると、別所屋敷の見張りと太郎坊の隠れ家を突き止める事を命じ、阿修羅坊は今まで放っておいた宝捜しをやろうと笠形山に向かった。まずは岩戸村を調べようと岩戸神社に行き、あれこれ調べていると神宮寺の社僧に声を掛けられた。
「お宝は見つかりましたかな」とその社僧は笑った。
「お宝?」と阿修羅坊は怪訝な顔をして社僧を見た。
「おや、違いましたか、これは失礼いたしました」と社僧は頭を下げて去ろうとした。
「ちょっと、待て。誰か、宝などを捜しておるのか」と阿修羅坊は聞いた。
「はい。瑠璃寺の阿修羅坊殿とかいうお方が、法道仙人が埋めたという黄金の阿弥陀仏様を捜しておられましたわ」
「何じゃと」
「まったく、最近はおかしな御仁が多いですな。法道仙人が埋めたお宝を本気になって捜しておるんじゃからのう」
社僧は思わず笑ったが、阿修羅坊の怒ったような顔を見ると急に視線をそらせた。
「その阿修羅坊とやらは一体、どんな奴なんじゃ」と阿修羅坊は怒鳴るような口調で聞いた。
「はい。大男じゃったのう。若いのを二人連れておったがのう」
「年は幾つ位じゃ」
「そうさのう、三十の半ばってとこかのう」
「うーむ」と阿修羅坊は遠くの山を眺めた。「二人の若い奴の名前はわからんか」
「さあな、そこまではのう」
「それで、そいつらは、ここで何を調べてたんじゃ」
「何でも、合掌に関する物はないかとか聞いておったがの」
「合掌? 確かに合掌と言ったんじゃな」
「はい」
「それで、そいつらはどうした」
「しばらく、この辺りを調べていたんじゃが、わからんと言って、お山の方に行ったようじゃのう」
「それは、いつの事じゃ」
「二、三日前じゃ」
「はっきり、わからんか」
「一昨日、いや、その前の日じゃな」
「三日前か‥‥‥」
「やはり、そなたも、そのお宝を捜してるとみえるのう」と社僧は言った。
阿修羅坊は返事をしなかった。
社僧は、「まあ、頑張って下され」と言うと神社の方に向かった。
これは、一体、どうした事だ、と阿修羅坊は立ち尽くした。
宝の事を知っているのは、浦上美作守と自分だけだと思っていた。しかし、誰かが自分よりも先に捜していた。しかも、そいつは自分の名を語っている。これは、一体、どういう事なんだ。
浦上美作守が自分の他に、誰かに頼んだというのか。
ありえない事はないが、自分に一言くらいは断るはずだ。それに、阿修羅坊を名乗っているというのがおかしかった。
太郎坊か、と一瞬、思った。置塩城下に来るのが、やけに遅かったし、城下に入る前に、ここに来たとも言える。しかし、太郎坊が宝の事を知っているはずはなかった。
太郎坊ではないが、誰かが宝を捜しているのは事実だった。
阿修羅坊は首を傾げながら笠形山に向かった。
笠形寺に着くと瑠璃寺の宿坊である観法院に向かった。観法院にいた善光坊は阿修羅坊を見ると、「おっ、いよいよ、親方のお出ましか」と笑った。
「どういう意味だ」と聞くと、阿修羅坊の手下と名乗る三人の山伏が山の中を歩き回って、黄金の阿弥陀像を捜していると言う。
「おい、本当に黄金の阿弥陀像なんてあるのか」と善光坊は真顔で聞いた。
「そんな物、知るか。それより、その三人というのは何ていう奴らだ」
「おぬしの手下じゃろう。名前も知らんのか」
「わしの手下じゃない」
「何だって? それじゃあ、奴らは何者だ」
「わからん。下の岩戸村では、わしの名を語りやがった。奴らは、まだ、ここにおるのか」
「さあな、昨日はウロウロしてるのを見かけたが、今日は見んのう。また、山の中に入ってるんじゃないのか」
「奴らは、ここにいたのか」
「いや、自在院にいるとか言ってたぞ」
「自在院? どこの宿坊じゃ」
「近江の飯道山じゃ」
「なに、飯道山? 奴ら、飯道山の山伏か」
「知らん。誰もおらんから、そこにおるんじゃろう」
「飯道山の山伏は誰もおらんのか」
「一人、おったんじゃがのう。いつの間にか山を下りたらしい。今は空き家になってるそうじゃ」
「それで、その三人の名は何と言うんじゃ」
「宮毘羅(クビラ)坊、伐折羅(バサラ)坊、迷企羅(メキラ)坊の三人じゃ」
「何だと、ふざけていやがる」
「おぬしの下には、十二神将(ジンショウ)の名を付けた十二人の手下がおるらしいのう」
「そんな者いるか。一体、そのふざけた奴らは何者じゃ」
二人は自在院に向かったが誰もいなかった。荷物らしき物も何もない。すでに、どこかに行った後らしかった。
ここを立ったという事は宝を見つけたという事か。
それにしても、一体、何者じゃろう。
阿修羅坊は善光坊と一緒に、三人を見た者はいないか調べてみた。
寺中を聞いて回った結果、わかった事は、その三人は今朝早く、山を下りて行ったという事、二人の職人風の男を連れていたという事、そして、黄金の阿弥陀像はこの山にはなさそうだと言っていた事、それ位だった。今度はどこを捜す、と聞いたところ、瑠璃寺に帰って阿修羅坊と相談すると言ったという。
「くそ! このわしを虚仮(コケ)にしていやがる」
「一体、何者かのう、奴らは」
「知るか」
「ただ、おぬしの事を知ってる事は確かじゃな」
阿修羅坊の頭にふと、正明坊(ショウミョウボウ)の顔が浮かんで来た。奴か、と思った。
正明坊は阿修羅坊と同じく、浦上美作守の下で働いている瑠璃寺の山伏だった。最近、会ってはいないが、奴なら浦上美作守に宝捜しを頼まれる可能性はあった。わしと一緒に宝を捜してくれと頼まれたとしても、奴の事だ、わしを差し置いて、一人で捜しているのかもしれない。善光坊に、その三人がどんな連中だったか詳しく聞くと、まさしく、そのうちの一人、岩戸神社の社僧が言っていた大男というのは正明坊に違いなかった。正明坊だとすると、奴はこの山で何かをつかみ、どこかへ行ったという事か‥‥‥一緒に連れていた職人というのは、一体、何の職人だろうか‥‥‥
正明坊がどこに行ったのか気になったが、そう簡単に、奴に捜せるわけないと思い、阿修羅坊は明日一日、この山の中を調べてみようと思った。
置塩城下に呼んだ瑠璃寺の山伏たちも、すぐには集まらないだろうし、美作の国にいる宝輪坊と永輪坊も、すぐには来られないだろう。太郎坊が楓を別所屋敷から連れ出す恐れもあったが、今の阿修羅坊にはどうする事もできない。また、楓にしても、ここまで来たからには弟に一目会ってからでないと、置塩城下から出る事はないだろうと思った。
阿修羅坊はさっそく、この山の事を調べるために、善光坊を連れて本坊へと向かった。
「お師匠はもう、置塩城下に着いたかなあ」と風光坊は遠くの山を眺めながら歩いていた。
「まだ、着かないだろう。あのとぼけた牛と一緒じゃな」と探真坊は錫杖の代わりに、太郎と同じ五尺の棒を突いていた。
「そうだな。しかし、あの牛に乗った男、変わった男だったな」
「一体、何者かな」
「わからんな。お師匠も変わっていると言えば変わっているからな。変わり者同士で気が合うんじゃないのか」
「そうだな。そう言う、お前も変わっているしな」と探真坊は風光坊に言った。
「何を言うか、一番、変わっているのはお前だ」と風光坊も探真坊に言う。
「何を言っとるんじゃ、二人して」と金比羅坊が笑った。「わしからみれば、お前ら、みんな、変わっとるわい。まあ、変わってるから面白いんじゃがな」
「金比羅坊殿、お師匠とはもう長い付き合いなんですか」と風光坊が聞いた。
「そうさのう、わしが太郎坊と初めて会ったのは、もう、五年も前になるかのう」
「その時のお師匠はどうでした」
「まあ、一言で言えば、生意気な奴じゃったのう。ただ、しぶとい奴じゃった。今も、剣術の稽古の時、例の鉄の棒を振らせるが、あの鉄棒を千回も振ったのは、未だに太郎坊だけじゃ」
「えっ、あの鉄棒を千回も‥‥‥」と風光坊は唸った。
「ああ、わしはおぬしの親父殿に頼まれたんじゃ。どんな事をしてもいいから太郎坊を鍛えてくれとな。途中で弱音を吐くようだったら、わしの見る目がなかったと諦めるが、一年間、最後まで残っていたら、おぬしもかなわん位、強くなるじゃろう、と風眼坊殿は言っていた。実際、太郎坊はわしのしごきに耐えて、わしなんかよりずっと強くなって行ったんじゃ」
「お師匠は金比羅坊殿より強いんですか」
「強いぞ。一年間で、奴はわしを追い越して行った。そう言えば、お前らはまだ、太郎坊の本当の強さってものを知らんのじゃないのか」
「ええ」と風光坊は探真坊と顔を見合わせた。
「まあ、そのうち、見る機会もあるじゃろう」
「お師匠のお子さんは今、幾つなんですか」と探真坊が聞いた。
「三歳だったと思うがのう」
「そんな子供がいたなんて。全然、知らなかったな」と風光坊は言った。
「子供どころか、奥さんがいた事さえ知らなかったよ」と探真坊は言った。
「まあ、それはしょうがない。太郎坊は有名になり過ぎたんじゃよ。あのお山で、太郎坊を名乗れるのは年末だけじゃ。しかも、顔は隠さなけりゃならん」
「驚きましたよ。火山坊殿が実は太郎坊殿だったなんて‥‥‥」
「わしは、あいつには驚かされ通しじゃわい」
かなり、きつい坂を登ると、ようやく、笠形寺に着いた。
山の中の広い境内には、僧坊がずらりと建ち並んでいた。金比羅坊は真っすぐに飯道山の拠点になっている自在院に向かった。まだ、建てたばかりのような新しい本堂の前を通り抜け、蔵王堂の裏の方に自在院はあった。自在院は新しい本堂と比べたら、今にも倒れそうな掘立て小屋のような建物だった。
その自在院にいたのは乗南坊という、いかにも、くたびれたという感じの先達だった。
金比羅坊は乗南坊を知っていた。しかし、乗南坊の方はわからないようだった。
「親爺、まだ、ここにいたんか」と金比羅坊は自在院の中にいた乗南坊を見つけると、懐かしそうに声を掛けた。乗南坊の方はきょとんとして金比羅坊を見ていた。
「金比羅坊じゃが覚えとらんかのう。まあ、無理もないのう。もう、十年近くも前じゃからのう」
「十年前?」
「まあ、いい。わしらは飯道山から来たんじゃ」
「なに、飯道山‥‥‥」
飯道山から来たと聞くと乗南坊の顔は急に気が抜けたようになった。そして、しばらくしてから、飯道山から来た、飯道山から来た、と繰り返しながら、だんだんと喜びの表情に変わって行った。
「飯道山から来なすったか、よく来てくれたのう、よく来てくれたのう、ずっと、待っておったんじゃ、ずっと」と金比羅坊の手を取りながら乗南坊は喜んでいた。目からは涙さえ溢れていた。
「三人も来たのか‥‥‥うむ、昔は三人おったからのう‥‥‥そうか、やっと、来てくれたんか‥‥‥まあ、疲れたじゃろう。今、お茶でも入れるからのう‥‥‥」
三人には乗南坊が何でこんなにも喜んでいるのかわからなかったが、乗南坊がやたら一人で喋っているので、ただ、黙って聞いていた。
乗南坊の話によると、彼がこの山に来て、もう十年にもなると言う。寛正五年(一四六四年)に、三年間の約束で、飯道山からこの山に来た。ところが、三年めの応仁元年に戦が始まり、代わりの者が来られなくなり、もう少しここに居てくれと言われるまま、十年が過ぎてしまった。やっと、今年になって、代わりの者をやるから、それまで、もう少し我慢してくれとの連絡が入り、代わりの者が来るのを、毎日、楽しみに待っていたと言う。
十年は長かった‥‥‥と乗南坊はしみじみと語った。
乗南坊がこの地に来た時、播磨の国は山名氏が支配していた。当然、この山も山名氏の支配下に入っていた。
寛正五年、乗南坊はこの山に二人の山伏を連れてやって来た。三人で、この自在院を管理していた。その頃は、飯道山から、よく、山伏たちがこの山に来ていた。この山を拠点にして、播磨は勿論の事、摂津や但馬まで信者たちを集めに回っていた。また、彼らが信者たちを連れて来ていたので、この自在院も賑やかだった。
それが、三年後、応仁の乱が始まり、約束の三年が過ぎても交替の者はやって来なかった。三人のうちの一人が頭に来て、飯道山に行って話を付けて来ると出て行ったが、そのまま戻っては来なかった。もう一人も話を付けて来ると出て行ったまま戻らず、結局、乗南坊、独りだけが残ってしまった。それから七年もの間、飯道山の山伏は一人も来ない。他の僧坊でも、他国から来ていた山伏たちは、ほとんど自国に帰ってしまったが、乗南坊だけは、たった独りで自在院を守っていた。
そのうちに、この山にも戦の波が押し寄せて来た。赤松氏が播磨に進攻して来て、あっと言う間に山名氏を追い出し、播磨は再び、赤松氏の支配下となった。この山にも赤松方の僧兵や山伏たちが攻めて来て、山名氏と通じていた者たちを武力で追い払った。
彼らは元々、この寺の僧や山伏たちだった。嘉吉の変の時、赤松氏の味方をしたため、この山に戻れなくなり、赤松一族と同じく、どこかに潜んで、赤松家の再興される日を待ち望んでいた者たちだった。その時、本堂を初め、多くの僧坊は焼け落ちた。
乗南坊はその戦の時も逃げずに、この自在院を守り通した。よそ者だという事で追い出されずに済んだが、その後、乗南坊もこの寺の山伏たちと共に戦に出て、赤松家のために戦うはめになった。戦をしに、はるばると美作や備前までも出掛けて行った。
最近になって、ようやく、戦も落ち着いて来て、前線まで行く事はなくなったが、それでも、情報を集めるために敵国の但馬には、よく行かされると言う。今回も但馬に行かされ、つい先程、帰って来たばかりだと言う。
「わしは、もうすぐ五十じゃ。もう、疲れたわ。早く、国に帰りたい」
乗南坊は本当に疲れ切ってしまっているようだった。
「飯道山の方はどうじゃ」と乗南坊はほんの少し目の色を変えて聞いた。
「向こうも戦はやっておるが飯道山はまだ大丈夫じゃ、安心せい」と金比羅坊は答えた。
「そうか、大丈夫か。わしのうちは土山の近くなんじゃが、あの辺りも大丈夫かのう」
「土山? あの辺りはちょっとわからんのう。あの辺りで戦があった事はある」
「なに、戦があった?」
「ああ、京極勢と六角勢の戦があった」
「わしの女房と子供がおるんじゃよ。大丈夫じゃろうな、もう十年も会っとらんからのう‥‥‥伜は、もう二十三にもなっとるのう。娘も、もう十九じゃ。もう嫁に行っとるじゃろうか‥‥‥伜の奴、まさか、戦に出て戦死などしてはおらんじゃろうな‥‥‥わしは帰る‥‥‥今すぐ、帰る。急に心配になって来たわ」
乗南坊はそう言うと、早速、荷物をまとめ始めた。
「乗南坊殿、帰るのはいいが、わしたちに、この山の事を詳しく教えてからにしてくれんかのう。わしら、来たばかりで何もわからんのじゃ」
「おう、そうじゃったの。一応、引き継ぎとやらをせにゃならんのう」
乗南坊は一通り、笠形寺の事や笠形山の説明をしてくれた。
笠形山の山頂は、ここより十四町(約一、五キロ)登った所にあり、薬師如来が祀ってあると言う。山中には天狗岩、天邪鬼(アマノジャク)の引き岩、鎮護岩(チンゴイワ)などがあり、滝の行場もいくつかある。金比羅坊が、合掌岩か合掌滝はないかと聞くと、そんなのは聞いた事もないと言った。
乗南坊は話し終わると、後の事はよろしくお頼み申すと言って、さっさと山を下りてしまった。
「どうするんです」と探真坊が金比羅坊に聞いた。
「まあ、そのうちに本物が来るじゃろう。それまで、ここに腰を落着けて、じっくりと宝を捜そうや」
「来なかったら、どうするんです」
「その時はその時だ。何とかなるさ」と風光坊は気楽に言った。「どうせ、しばらくは、この国にいなけりゃならんだろう。ここを拠点にすればいいさ。ここからなら置塩の城下も近いしな」
「それにしても、ひでえ所だな」と探真坊が部屋の中を見回しながら言った。「宿坊というより、ただの掘立て小屋だな」
「贅沢、言うな」と金比羅坊が言った。「雨露がしのげるだけでもいいと思え。乗南坊殿が必死に守ってくれたんじゃ。焼けてしまった僧院もかなりあったと言ってたじゃろう」
「乗南坊という親爺、くそ真面目な奴じゃな」と風光坊も部屋の中を眺めながら言った。
「ああ、まったくじゃ。代わりが来るまで、こんな所にいる事もないのにのう」
「こんな所に、よく十年もいたもんだ」
「戦にも行ったと言ってたのう。ああ見えて、結構、強いのかも知れんぞ」
「まさか」と探真坊は笑った。「戦場で逃げ回っていたんだろう。どう見ても、まともに刀が使えるようには見えん」
「人を見かけだけで判断すると、後で、大怪我するぞ」と金比羅坊が言うと、「それは言える」と風光坊は神妙な顔をして頷いた。
風光坊にしてみれば、八郎を見かけだけで判断して間違い、おまけに、師匠、太郎坊が化けていた火山坊までも、見かけで判断して間違っていた。確かに、見かけだけで判断するのはまずいと実感していた。
空が急に暗くなり、雨がポツポツ落ちて来た。遠くで雷も鳴っていた。やがて、大粒の雨が滝のように勢いよく降って来た。
「乗南坊殿も運の悪い男じゃのう」と金比羅坊が雨を見ながら言った。
「山を下りられた事が嬉しくて、雨なんか、気にならないでしょう」と探真坊は言った。
「そうかもしれんのう」
掘立て小屋のように、みすぼらしい自在院だったが、乗南坊が小まめに手入れしていたとみえて、雨漏りなど全然しなかった。
三人は夕立を眺めながら、それぞれが、それぞれの思いの中に浸っていた。
2
二日間、手分けして、笠形山の山中をくまなく捜してみたが、『合掌』に関する物は見つからなかった。
『岩戸』と言えるかもしれない洞窟もいくつかあり、中に石の仏像が安置してある所もあったが、決め手となるような物は何もなかった。一体くらい合掌している石仏がありそうなものだが、合掌している仏像はありそうで、なかなか、なかった。
笠形山の山頂から回りを見下ろせば、何かわかるかと思ったが何もわからなかった。
山頂には薬師堂と狼煙(ノロシ)台があり、山頂から少し下がった所に小屋が建っていた。小屋の中には誰もいなかった。山頂からの眺めは良く、遠くの方の海まで見渡せたが、『合掌』や『岩戸』らしき物は見つからなかった。
金比羅坊と風光坊、探真坊の三人は自在院の中で、笠形山の絵地図を前にして考え込んでいた。
外は、もう暗くなっている。
昨日までは、絶対に捜し出してやると張り切っていた三人だったが、二日間、山の中を隅から隅まで歩き回ってみても何も得る物はなかった。
阿修羅坊の名前を出し、浦上美作守の名前も出し、赤松氏のために働いている事にして、この山の長老や先達から色々と話を聞いてもみたが、『合掌』の意味する物はわからなかった。観音堂の中に合掌している千手観音が一体あったが、その仏像の中に宝を隠したとは思えなかった。また、千手観音が合掌しているのは何本もある手のうちの二手だけである。これを『合掌』と呼ぶのは、ちょっと無理があるように思えた。
三人は、どっと疲れが出て来たかのように、ぐったりとしていた。絵地図を眺めていても、これからどうしたらいいのか、いい考えもなかなか浮かんで来ない。
「不二と岩戸は良かったとしても、合掌がこの山の中にあるというのが間違ってたんじゃないのか」と探真坊が腕組みをしながら言った。「もし、この山に合掌に関する物があったとする。そうすると、合掌と不二は結び付くが、岩戸が一つ、はずれてしまう」
「それじゃあ、どこにあるんだよ」と風光坊は寝そべって屋根裏を眺めていた。
「わからん。わからんが、謎の言葉は四つあるんだろう。四つあるという事は、その四つの言葉が、ある一つの物を意味するか、それとも別々の物を意味して、その四つの物をどうにかすると宝のある場所がわかるとか‥‥‥」
「うむ、成程のう」と金比羅坊は唸った。「わしらは場所にこだわりすぎたのかも知れんのう。まず、宝を隠した性具入道になったとして、考えてみた方がいいかもしれんのう」
「ええ」と探真坊は頷いて話を続けた。「まず、宝を隠したとします。それを誰かに知らせるために四つの言葉に表すとしたら、普通、どうするでしょう。たとえば、この自在院に宝を隠したとします。金比羅坊殿なら、どんな四つの言葉を残します」
「ここに隠したとするわけか、そうじゃのう」と金比羅坊は考えた。「まず、不二。そして、薬師‥‥‥権現‥‥‥自在っていう所かのう」
「不二、薬師、権現、自在ですか。不二が笠形山、薬師が笠形寺、権現が、すぐそこの権現堂、自在は、ここですよね。金比羅坊殿の場合、四つの言葉は、すべて、場所を意味していて、その場所はだんだんと狭められていって、ここがわかるというものですよね」
「まあ、そうじゃな」と金比羅坊は頷いた。
「菩薩、天、鉤、牛、っていうのはどうだ」と風光坊が言った。
「なに、菩薩に天に鉤に牛‥‥‥何だそりゃ‥‥‥」
「わかったぞ」と金比羅坊が言った。「菩薩とは自在の事じゃ。天は自在天、鉤は自在鉤、牛は自在天の乗物じゃろう」
「その通り」と風光坊は頷いた。
「風光坊のは四つの言葉が、全部、自在を表す言葉ですよね」
「今度は、お前の番だ」と風光坊は腕枕をしながら探真坊を見た。
「ああ。それじゃあ、薬師、権現、稲荷、安住、この四つだ」
「何じゃと、薬師に権現に稲荷に安住‥‥‥」
「薬師はあの本堂だろ。権現は、そこの権現堂。稲荷もそこにあるし、安住坊も、すぐ裏にある。それが、どう、この自在院とつながるんだ」と風光坊が起き上がって聞いた。
「こういうわけだ」と探真坊は言うと、石ころを四つ拾い、絵地図の上に並べた。
「この石が本堂、これが権現堂、これが稲荷、そして、これが安住坊、この四つの石を結んで、交わった所に自在院がある」
「成程、そういう事か‥‥‥」
「しかし、俺の場合は、余り広い場所では使えない。たとえば、この石が笠形山で、この石が岩戸村、そして、たとえば、この石が雪彦山、この石が七種山だとしたら」
「そんなもん、わかるわけねえだろ」と風光坊は石ころを弾いた。
「そうだ、とてもじゃないが、その四つの場所を結ぶ事は不可能だ。俺の場合は、ある場所があらかじめわかっていた場合、その場所の中のどこにあるのかを知らせる時にしか使えない。風光坊のもそうだ。風光坊の場合も、ある限られた場所がわからなければ使えない」
「という事は、やはり、金比羅坊殿のやり方かな」と風光坊は言った。
「いや、それはわからんよ。赤松一族だけにわかる、どこか、特別の場所があったのかもしれん。その場所に、四つの言葉に関する物があるのかもしれん」
「そうなると、ますます、難しくなるのう」
「金比羅坊殿のやり方で行くと、まず、不二で、笠形山だとわかる。そして、岩戸で、その裾野の岩戸だとわかる。ここまではいいと思います。その後が続かない」
「あと一つがわかればなあ」と風光坊は、また寝そべった。
「明日、もう一度、岩戸村に行ってみるか」と金比羅坊が言った。
「それしか、ないみたいですね」
「金比羅坊殿、ついでに、明日、下の町に行って酒でも飲みませんか」と風光坊は期待を込めて金比羅坊を見た。
「おう、そうじゃのう。こう働き詰めじゃ、いい考えも浮かばんしな。ここらで、気分転換もいいかも知れんのう」
「そう、来なくっちゃな。そうと決まれば今日は疲れた、寝るとするか」
「疲れたのう」
三人が横になって、寝ようとした時だった。外で誰かが騒いでいた。
「うるせえなあ、なに騒いでるんだ」と風光坊が舌を鳴らした。
「どこにも、馬鹿はいるもんじゃな」と金比羅坊が笑った。
「そういや、八郎の馬鹿は今頃、何をしてるかな」と探真坊は言った。
「お師匠と一緒に城下で、いい思いをしてるんじゃないのか」
「まさか」
「おい、あの声、八郎じゃないのか」と金比羅坊が言った。
「まさか。暗くなってから、こんな所に来ないだろう」と探真坊は言った。
「いや、あの声は八郎の馬鹿だ」と風光坊は起き上がり、外に飛び出して行った。
耳を澄ましてよく聞くと、金比羅坊殿、風光坊、探真坊と大きな声で叫んでいた。金比羅坊も探真坊も外に出てみた。
外は月も星もなく、真っ暗と言っていい程だった。風光坊は八郎を見つけたらしく、二人の話し声が聞こえて来た。太郎も一緒にいるようだった。
太郎と八郎を加えた五人は播磨の国の絵地図を囲み、また、考え込んでいた。
太郎と八郎が、こんな夜になって、わざわざ、この山の上まで来たのは、それなりの重要な収穫があったからだった。
今朝早く、阿修羅坊を倒した二人は、しばらくの間は安全だろうと、今日一日はのんびりしようと思っていた。船着き場の近くにある湯屋(ユヤ)に行って垢をこすり、頭も洗い、さっぱりとして、賑やかな旅芸人たちの集まる河原の一画を見て回っていた。
そこへ到着したのが金勝座の一行だった。太郎は助五郎を河原者の頭、片目の銀左衛門の所に連れて行き、話をまとめると、みんなと一緒になって舞台作りの甚助を手伝い、金勝座の舞台を作ったりしていた。八郎も一座の女たちと一緒に浮き浮きしながら手伝っていた。
やがて、舞台もできあがり、一息ついている時、助五郎が袋に入った二振りの刀を持って来た。松恵尼から楓に渡してくれと頼まれた物だと言う。何だろうと思って、太郎は袋から刀を出してみた。
立派な太刀とそれと不釣合いな脇差が入っていた。それを見た途端、ぴんと来た。太刀の方は赤松家の跡継ぎが持つのにふさわしい、かなりの名刀のようだった。しかし、この際、どうでもよかった。問題は太刀と不釣合いな、どこにでもありそうな脇差の方だった。それは京の浦上屋敷で見た、あの三振りの脇差と同じ物だった。
「北畠殿が持っていた赤松彦次郎の物ですね」と太郎は助五郎に聞いてみた。
「御存じでしたか。何でも、嘉吉の変の時、伊勢の地で自害なされたお人だそうです。楓殿のお父上の従兄弟にあたるお人だとか‥‥‥」
「そう言われればそうですね」
太郎はさっそく、脇差の目貫(メヌキ)を抜いて柄(ツカ)をはずしてみた。思った通り、茎(ナカゴ)には紙が巻いてあった。太郎はゆっくりと、その紙を広げてみた。
『瑠璃』、そして、性具入道の花押が書いてあった。
『瑠璃』、その言葉はまったく意外な言葉だった。瑠璃と言えば、まず、浮かぶのは阿修羅坊の本拠地、瑠璃寺だった。瑠璃寺と言えば播磨の国の西部に位置している。笠形山とは、まるで正反対にあった。
これで『不二』『岩戸』『合掌』そして、『瑠璃』と四つの謎の言葉は揃ったわけだが、この四つの言葉の意味する物は、益々、わからなくなって行った。
太郎は性具入道の書いた紙切れを懐にしまい、刀を元に戻すと、太刀と共に、しばらく預かって下さいと助五郎に渡した。助五郎がその紙は何かと聞くのに対し、後で詳しく教えるとだけ言い、八郎を連れて真っすぐに笠形山に向かったのだった。
門前町に入った辺りから、すっかり暗くなってしまったが、太郎は構わず、山へと入って行った。かつて、智羅天のもとで修行していた頃、智羅天のように真っ暗闇でも目が見えるようになりたいと訓練したため、暗闇でも、ある程度、見えるようになっていた。
太郎はさっさと歩いて行くが、付いて行く八郎はたまったものではなかった。真っ暗で何も見えない。太郎の杖につかまりながらも、石につまづいたり、転んだりしながら、やっとの思いで付いて行った。どう、目をこらして見ても八郎には何も見えなかった。自分の前を平気で歩いている師匠が化物のように感じられた。どう考えても、人間とは思えなかった。
八郎は、ようやく笠形寺までたどり着くと、暗闇の中を叫び回っていた。そして、さも自分が自力で暗闇の中をここまで来たかのように風光坊に自慢していた。この時は興奮していて何も感じなかったが、次の日の朝になって、傷だらけ、血だらけになっている自分の足を見て、唖然とする八郎だった。
薄暗い自在院の中で、『瑠璃』と書いてある紙切れと播磨の国の絵地図を見つめながら、五人は考え込んでいた。
「瑠璃が、出て来るとはのう」と金比羅坊が伸びてきた顎髭をこすりながら唸った。
「金比羅坊殿、瑠璃寺に行った事はありますか」と探真坊が聞いた。
「いや、ない」
「これで、また、初めから、やり直しだな」と風光坊は言った。
「この山には瑠璃に関する物はなかったのですか」と太郎は金比羅坊に聞いた。
「ないのう。やはり、瑠璃と言えば瑠璃寺じゃろうのう」
「もしかしたら、瑠璃寺の方にも、不二や岩戸、そして、合掌に関する物があるのかもしれませんねえ」と探真坊は言った。
「きっと、そうだわ」と八郎も言った。
「だといいがな」と風光坊は言った。
「この地図で見ると、どうやら、瑠璃寺の方が笠形山より、性具入道が自害したという城山城(キノヤマジョウ)に近いような気がするのう」と金比羅坊が言った。
「この地図では実際の距離はわからんけど、どうも、そのような気はしますねえ」太郎も地図を見ながら言った。
「それに、瑠璃寺は古くから赤松氏とのつながりがあるらしいからのう」
「行くしかないな」と風光坊は言った。
「そういう事じゃのう」
「明日の飲み会は延期だな」と探真坊は言った。
「何や」と八郎は聞いた。
「何でもねえよ」と風光坊は八郎の肩をたたいた。
「実はな、太郎坊、働き詰めだったんでな、明日あたり、気晴らしに下の町に行って、酒でも飲もうって言ってたんじゃよ」と金比羅坊が苦笑しながら言った。
「何や、そんな事か、おらたちも、ほんとなら今頃、酒を飲んでたわ。阿修羅坊の奴もやっつけたしな、のんびりするはずだったんや。この紙切れが出て来なかったらな」
「なに、阿修羅坊を倒したのか」と金比羅坊が太郎に聞いた。
「手下どもは全員倒し、阿修羅坊も手を怪我して、当分の間は刀も持てんでしょう」
「そうか、そいつはでかした」
「それで、今晩は、女子でも抱きながら酒でも飲もうって言ってたんや」
「もう少し待ってくれ」と太郎は皆に言った。「これが一段落したら、遊女でも上げて思い切り騒ごう」
「それは、本当ですか」と風光坊は目を輝かせた。
「ああ。置塩城下で一番大きな遊女屋で大騒ぎだ」
「そいつは、楽しみじゃ」と金比羅坊も笑った。
「早く、お宝を見つけて城下に帰ろうや」と八郎は浮かれて踊った。
「お前は気楽でいいな」と探真坊は笑った。
次の日、五人は瑠璃寺へと向かった。
3
朝早く、山を下りて行った太郎たち一行と入れ違いに、笠形山に向かっている阿修羅坊の姿があった。
笠をかぶり、骨折した右腕を首から吊し、苦虫をかみ殺したような不機嫌な顔をしている。相変わらず高下駄をはき、錫杖を突きながら歩いているが音はなかった。
太郎にやられた右腕は当分の間、使いものにならなかった。
相手を甘く見過ぎていた。まさか、あれ程の腕を持っているとは思いもよらなかった。阿修羅坊が今まで会った事のある連中の中でも、一番強いと言ってよかった。飯道山の高林坊が、わしより強いと言った時は、まったく信用しなかったが、まさしく、あの高林坊より強いかもしれない。しかし、倒さなくてはならなかった。幸いに、赤松政則はまだ帰って来ない。多分、あと半月は戻って来ないだろう。それまでの間に、太郎坊を倒さなくてはならなかった。
すでに、日輪坊と月輪坊、そして、瑠璃寺から呼び寄せた十人もの手下が太郎坊に殺された。城下に入って来る時点で八人もやられている。それぞれ、ばらばらにいたはずなのに、ほとんど同時に八人もやられたという事は、太郎坊は八人で来たという事か。
しかし、その八人は城下に入った途端、姿を消してしまった。そして、昨日の朝、河原で戦った時は太郎坊は二人だけだった。たった二人だけで、わしら五人を相手にして勝った。初めから二人だけだったのだろうか。
確か、太郎坊は『志能便の術』とかを使うと言う。その志能便の術で、八人を次々に倒して行ったのだろうか。
恐るべき相手だった。
阿修羅坊は昨日、使いの者を瑠璃寺に走らせ、新たに三十人の山伏を呼んだ。そして、今、美作の国で戦をしている宝輪坊と永輪坊の二人も呼ぶ事にした。瑠璃寺の山伏で、あの太郎坊と、少なくとも互角にやり合えそうな者は、その二人だけだった。
今朝になって、まず、四人が瑠璃寺から到着すると、別所屋敷の見張りと太郎坊の隠れ家を突き止める事を命じ、阿修羅坊は今まで放っておいた宝捜しをやろうと笠形山に向かった。まずは岩戸村を調べようと岩戸神社に行き、あれこれ調べていると神宮寺の社僧に声を掛けられた。
「お宝は見つかりましたかな」とその社僧は笑った。
「お宝?」と阿修羅坊は怪訝な顔をして社僧を見た。
「おや、違いましたか、これは失礼いたしました」と社僧は頭を下げて去ろうとした。
「ちょっと、待て。誰か、宝などを捜しておるのか」と阿修羅坊は聞いた。
「はい。瑠璃寺の阿修羅坊殿とかいうお方が、法道仙人が埋めたという黄金の阿弥陀仏様を捜しておられましたわ」
「何じゃと」
「まったく、最近はおかしな御仁が多いですな。法道仙人が埋めたお宝を本気になって捜しておるんじゃからのう」
社僧は思わず笑ったが、阿修羅坊の怒ったような顔を見ると急に視線をそらせた。
「その阿修羅坊とやらは一体、どんな奴なんじゃ」と阿修羅坊は怒鳴るような口調で聞いた。
「はい。大男じゃったのう。若いのを二人連れておったがのう」
「年は幾つ位じゃ」
「そうさのう、三十の半ばってとこかのう」
「うーむ」と阿修羅坊は遠くの山を眺めた。「二人の若い奴の名前はわからんか」
「さあな、そこまではのう」
「それで、そいつらは、ここで何を調べてたんじゃ」
「何でも、合掌に関する物はないかとか聞いておったがの」
「合掌? 確かに合掌と言ったんじゃな」
「はい」
「それで、そいつらはどうした」
「しばらく、この辺りを調べていたんじゃが、わからんと言って、お山の方に行ったようじゃのう」
「それは、いつの事じゃ」
「二、三日前じゃ」
「はっきり、わからんか」
「一昨日、いや、その前の日じゃな」
「三日前か‥‥‥」
「やはり、そなたも、そのお宝を捜してるとみえるのう」と社僧は言った。
阿修羅坊は返事をしなかった。
社僧は、「まあ、頑張って下され」と言うと神社の方に向かった。
これは、一体、どうした事だ、と阿修羅坊は立ち尽くした。
宝の事を知っているのは、浦上美作守と自分だけだと思っていた。しかし、誰かが自分よりも先に捜していた。しかも、そいつは自分の名を語っている。これは、一体、どういう事なんだ。
浦上美作守が自分の他に、誰かに頼んだというのか。
ありえない事はないが、自分に一言くらいは断るはずだ。それに、阿修羅坊を名乗っているというのがおかしかった。
太郎坊か、と一瞬、思った。置塩城下に来るのが、やけに遅かったし、城下に入る前に、ここに来たとも言える。しかし、太郎坊が宝の事を知っているはずはなかった。
太郎坊ではないが、誰かが宝を捜しているのは事実だった。
阿修羅坊は首を傾げながら笠形山に向かった。
笠形寺に着くと瑠璃寺の宿坊である観法院に向かった。観法院にいた善光坊は阿修羅坊を見ると、「おっ、いよいよ、親方のお出ましか」と笑った。
「どういう意味だ」と聞くと、阿修羅坊の手下と名乗る三人の山伏が山の中を歩き回って、黄金の阿弥陀像を捜していると言う。
「おい、本当に黄金の阿弥陀像なんてあるのか」と善光坊は真顔で聞いた。
「そんな物、知るか。それより、その三人というのは何ていう奴らだ」
「おぬしの手下じゃろう。名前も知らんのか」
「わしの手下じゃない」
「何だって? それじゃあ、奴らは何者だ」
「わからん。下の岩戸村では、わしの名を語りやがった。奴らは、まだ、ここにおるのか」
「さあな、昨日はウロウロしてるのを見かけたが、今日は見んのう。また、山の中に入ってるんじゃないのか」
「奴らは、ここにいたのか」
「いや、自在院にいるとか言ってたぞ」
「自在院? どこの宿坊じゃ」
「近江の飯道山じゃ」
「なに、飯道山? 奴ら、飯道山の山伏か」
「知らん。誰もおらんから、そこにおるんじゃろう」
「飯道山の山伏は誰もおらんのか」
「一人、おったんじゃがのう。いつの間にか山を下りたらしい。今は空き家になってるそうじゃ」
「それで、その三人の名は何と言うんじゃ」
「宮毘羅(クビラ)坊、伐折羅(バサラ)坊、迷企羅(メキラ)坊の三人じゃ」
「何だと、ふざけていやがる」
「おぬしの下には、十二神将(ジンショウ)の名を付けた十二人の手下がおるらしいのう」
「そんな者いるか。一体、そのふざけた奴らは何者じゃ」
二人は自在院に向かったが誰もいなかった。荷物らしき物も何もない。すでに、どこかに行った後らしかった。
ここを立ったという事は宝を見つけたという事か。
それにしても、一体、何者じゃろう。
阿修羅坊は善光坊と一緒に、三人を見た者はいないか調べてみた。
寺中を聞いて回った結果、わかった事は、その三人は今朝早く、山を下りて行ったという事、二人の職人風の男を連れていたという事、そして、黄金の阿弥陀像はこの山にはなさそうだと言っていた事、それ位だった。今度はどこを捜す、と聞いたところ、瑠璃寺に帰って阿修羅坊と相談すると言ったという。
「くそ! このわしを虚仮(コケ)にしていやがる」
「一体、何者かのう、奴らは」
「知るか」
「ただ、おぬしの事を知ってる事は確かじゃな」
阿修羅坊の頭にふと、正明坊(ショウミョウボウ)の顔が浮かんで来た。奴か、と思った。
正明坊は阿修羅坊と同じく、浦上美作守の下で働いている瑠璃寺の山伏だった。最近、会ってはいないが、奴なら浦上美作守に宝捜しを頼まれる可能性はあった。わしと一緒に宝を捜してくれと頼まれたとしても、奴の事だ、わしを差し置いて、一人で捜しているのかもしれない。善光坊に、その三人がどんな連中だったか詳しく聞くと、まさしく、そのうちの一人、岩戸神社の社僧が言っていた大男というのは正明坊に違いなかった。正明坊だとすると、奴はこの山で何かをつかみ、どこかへ行ったという事か‥‥‥一緒に連れていた職人というのは、一体、何の職人だろうか‥‥‥
正明坊がどこに行ったのか気になったが、そう簡単に、奴に捜せるわけないと思い、阿修羅坊は明日一日、この山の中を調べてみようと思った。
置塩城下に呼んだ瑠璃寺の山伏たちも、すぐには集まらないだろうし、美作の国にいる宝輪坊と永輪坊も、すぐには来られないだろう。太郎坊が楓を別所屋敷から連れ出す恐れもあったが、今の阿修羅坊にはどうする事もできない。また、楓にしても、ここまで来たからには弟に一目会ってからでないと、置塩城下から出る事はないだろうと思った。
阿修羅坊はさっそく、この山の事を調べるために、善光坊を連れて本坊へと向かった。
15.河原にて1
1
赤とんぼが飛び回っていた。
毎日、暑い日が続いているが、少しづつ秋の気配が漂って来ている。
置塩城下の夢前(ユメサキ)川の河原に建てられた舞台の上で、助六と太一と藤若の三人娘が華麗な男装姿で踊っていた。舞台の回りは見物人たちで一杯だった。
金勝座がこの城下に来てから六日が経っていた。
初日は、舞台を作っただけで興行はしなかった。次の日、片目の銀左が佐介という男を連れて来た。興行に関しては、この佐介に任せろとの事だった。
佐介は頭を丸めてはいるが僧侶ではなさそうで、普通の格好をした小柄の男だった。年の頃はよくわからない。二十代から四十代まで何歳にも見えた。足が悪いのか片足を引きずるようにして歩いていた。
座頭の助五郎は佐介と相談して、一日おきに午後に二回、公演するという事に決めた。さらに、京の都から来た一座という事にして都振りの芸を演じるようにと決められた。そして、売上の三分の一は場所代として支払う事になった。
約束事が決まると、さっそく、佐介は手下の者を使って金勝座の宣伝を開始し、河原者を連れて来ると、あっと言う間に舞台の回りに竹矢来(タケヤライ)を組んで筵(ムシロ)を張り巡らし、入り口には木戸まで設けた。
次の日から興行は始まった。佐介の宣伝のせいか人気は上々だった。
今日で六回目の公演だった。
佐介が一日おきの興行と言ったのは、この城下にもう一つの芸能座があって、その一座と交替で興行をするという事だった。もう一つの芸能座は関東の地から来たという触れ込みの一座で、『武蔵座』という軽業(カルワザ)や奇術を中心とした猿楽座(サルガクザ)だった。
金勝座の出し物は、まず、三人娘の曲舞(クセマイ)で始まり、左近、右近のこっけい芝居、そして、助五郎が作った狂言を三人娘と左近、右近、見習いの千代も加わって全員で演じた。今回は都振りの物をやれというので、京都を題材にした物を選んで上演した。狂言の後に、また、左近、右近のこっけい芝居。そして、三人娘が一人づつ舞い、最後に全員で鉦(カネ)を叩きながら風流踊り(念仏踊り)を賑やかにやって終わりとなった。一回の公演は一時(二時間)位で、短い狂言の場合は二つ上演する事もあった。
今まで六回の公演をやったが、助五郎はすべて違う狂言を演じさせた。京の公家たちを題材にしたものや、京で戦をしている田舎の武士たちを風刺したもの、京に集まる乞食たちを題材にしたもの、徳政一揆を題材にしたもの、叡山(エイザン)の法師を風刺したものなど、今現在の事を面白おかしく演じたり、義経と弁慶の話や西行法師の話、ものぐさ太郎の話なども助五郎は彼流に話を直して演じさせた。
助五郎は唄も狂言に合わせて作っていた。京辺りで流行っている唄を処々にはさみながら自分で作った唄を歌わせた。また、唄作りには囃子方(ハヤシカタ)の弥助と新八や謡方(ウタイカタ)の小助も一緒になって作っていた。
日を追う毎に、金勝座の人気は高まって行った。三人娘の人気もあったが、狂言の面白さが人々に受けていた。
一日の公演を終え、金勝座の連中は後片付けをしていた。
薬売りの伊助が来ていて、後片付けを手伝っていた。
「太郎坊殿は一体、どこに行ってしまったのでしょうな」と伊助が助五郎に声を掛けた。
「さあ、わかりませんな」と助五郎は首を振った。
「今日で、もう六日になりますよ。やはり、助五郎殿の言う通り瑠璃寺まで行ったんですかね」
「わたしはそう思いますけどね」
「一体、何だったんでしょうね、あの刀から出て来た紙というのは」
「わかりませんね、赤松家に関係のある物だとは思いますけどね」
「そう言えば、阿修羅坊の姿も消えましたね。新しい手下どもの姿は城下に増えて来ましたけど、親玉の姿は見えませんね。みんな、一体、どこに消えたんでしょうな」
「わかりませんな。ところで、楓殿のご様子はいかがです」
「相変わらず、大丈夫です。ただ、かなり退屈しているようです。楓殿は働き者だったと聞いてますからね、あんな所にいたら退屈でたまらんでしょう。最近になって、ようやく、藤吉の奴が楓殿と直接会う事ができるようになりましたから、大分、中の様子がわかるようになりましたよ」
「白粉売りの人ですか」
「ええ、そうです。奴は足が物凄く達者なんですよ。速いし、疲れ知らず。便利な奴です」
「ほう、あの人がね」と助五郎は驚いた顔をした。「そうは見えませんね」
「ええ、奴には悪いが、一見しただけだと、のろまに見えますからね」
助五郎は集めたゴミをまとめて持って行った。
「伊助さん、また、太郎坊様の事ですか」と助五郎がいなくなると助六が横から口を出した。
助六は男装姿から普通の小袖(コソデ)姿に戻っていた。派手な男装姿も色っぽくていいが、清楚な小袖姿も、また、よく似合っていた。
「ええ、あの人の事だから、もしもの事なんて、ありえないとは思いますがね。どこにいるのかわからないというのは、やはり心配ですよ」
「そうですね」と助六は舞台の上に腰掛けた。
ようやく、いくらか、涼しくなって来た。
公演中の舞台の上は物凄く暑かった。ただでさえ暑いのに、大勢の見物人に囲まれ、しかも、筵を掛けた竹矢来で囲まれている。まるで、蒸風呂の中のようだった。今はもう竹矢来の筵は撥ね上げてあるので、川の方から涼しい風がいくらか入って来た。
「ねえ、どしたの」と今度は太一が寄って来て口をはさんだ。
太一は太一で、助六とはまた違った美しさを持っていた。助六はさっぱりとか、すっきりとか言う言葉がぴったりな美人だが、太一の方はきらびやかとか、華やかとか言う言葉がぴったりだった。
「何でもないのよ」と助六は言った。
「伊助さん、今日は次郎吉さんと一緒じゃないんですね」と太一は聞いた。
「ああ、あいつは仕事をしてるよ」
「へえ、珍しいのね。あの人が仕事してるの?」
「太一、失礼な事を言わないのよ」と助六がたしなめた。
「だって、あの人、見るからに遊び人て感じじゃない。真剣な顔して刀を研いでる姿なんて想像もつかないわ」
「ああ見えても、次郎吉の腕は大したもんだよ。ただ、太一殿の言う通り、滅多に仕事はせんがな。どうせ、昨夜、遊び過ぎて銭がなくなったんじゃろう」
「遊びって、遊女屋にでも行ったの」
「さあな、わしは知らんよ」
「そんな所、行かないで、あたしと遊んでくれればいいのに」
「ほう、太一殿は次郎吉が好きなんか」伊助はニヤニヤしながら太一を見た。
「そうよ」と太一は平気な顔をして言った。「ああいう苦味走った男を見ると体が震えてくるのよ」
「なに言ってんのよ、あんたの体は年中、震えてるじゃない」と助六が笑う。
「何ですって、姉さんこそ、何よ。せっかく、太郎坊様に会えたと思ったら、すぐにどこかに消えちゃったものだから、毎日、いらいらしてる癖に」
「いい加減な事、言わないでよ」助六は怒って、太一に飛び掛かろうとした。
「まあ、落ち着いて」と伊助は二人の間に入る。「いい女子(オナゴ)が二人してみっともないぞ」
「ふん」と言うと太一は団扇(ウチワ)をあおぎながら、どこかに行った。
「ああやって、よく喧嘩するんですか」と伊助は助六に聞いた。
「年中ですよ」と助六は照れくさそうに笑った。「でも、すぐ仲直りしますけどね」
「しかし、助六殿が太郎坊殿を思っていたとはね」
助六は慌てて首を振った。「あれは太一が勝手に言ってるだけですよ」
「そうですか。でも、太郎坊殿はどこか引かれる所のある人です。わしも初めの頃は、ただ、松恵尼殿に頼まれたので、この仕事を引き受けましたが、今では太郎坊殿のために何かをしたいという気持ちになっています。わしよりも十歳も年下なのに、男が男に惚れるって言うのか、武士だったら、あの人のために命を預けてもいいと言うのか、何か不思議な心境ですよ」
「伊助さん、太郎坊様って、どんなお方なのですか」助六は目を輝かせて聞いた。
「どんなと言われても困りますな。わしも大して知らんのですよ。ただ、滅法、強い事だけは確かです。あの次郎吉でさえ、太郎坊殿の強さには呆れてましたからな」
「そんなに強いのですか」
「一見しただけだと、そう強そうには見えませんけどね、どう表現したらいいのかわからん程強いですよ。でも、あの人に引かれるというのは、ただ、強いだけじゃなくて何かがあるんですよね。何だかわからんけど、その何かが人を引き付けるんだと思いますよ」
「何かがある‥‥‥」助六は伊助を見つめながら呟いた。
「ええ、何かがね」と伊助は頷いた。「もっとも、松恵尼殿があれだけ可愛いがっていた娘同然の楓殿を簡単に嫁に出した位ですからな、やはり、何かを持っている男なんでしょうな」
「楓殿っていう人は、どんな人なんですか」
「楓殿ですか、松恵尼殿に似てますな。血のつながりはないんですけどね、やはり、似てますよ。美人だし、薙刀の名人だし、頭も賢そうだし、まあ、太郎坊殿とは似合いの夫婦じゃろうのう」
「お子さんもいるって聞きましたけど」
「ええ、三歳の可愛いい男の子がいる。百太郎といって元気のいい子じゃ」
「桃太郎さんですか」と助六は笑った。
「いや、あの桃太郎とは字が違うらしい。何でも、ひゃく太郎と書いて、ももたろうと読むんだそうじゃ」
「ひゃく太郎‥‥‥面白いのね」
「まあ、あの太郎坊殿らしいと言えるがな」
「じゃあ、次の子は千太郎かしらね」
「かもしれんな」と伊助も笑った。
「お姉さん、お姉さん、大変よ」と太一が叫びながら飛んで来た。
「一体、どうしたの。何が大変なのよ」
「来たの、帰って来たのよ、太郎坊様が」
「えっ、ほんと?」と言うのと同時に助六は走り出していた。
「やはり、助六殿は太郎坊殿にいかれとるのう」と伊助は笑った。
「でしょう」と太一は言った。
「ところで、太郎坊殿が帰って来たと言うのは本当かね」
「本当よ、太郎坊様と八郎さん、そして、知らない行者さんが三人一緒にいるわよ」
「飯道山の山伏じゃろう」と伊助は言うと助六の後を追って行った。
太郎たちは船着き場の方から、こちらに向かって歩いていた。
皆、日に焼けて真っ黒な顔をしている。ひょうきんな八郎を先頭にして、若い山伏二人、そして、太郎と貫禄のある山伏が並んで歩いていた。
出迎える方は助六と太一を先頭に、助五郎、伊助を初めとして、金勝座の面々が太郎たちが来るのを待っていた。
夕暮れ時、二羽の白鷺(シラサギ)が夢前川の中洲に立って水面を見つめていた。
三人の武士を乗せた渡し舟が対岸へと渡っていた。
対岸には鞍掛城主、中村弾正少弼の屋敷があり、その回りに家臣たちの家が並んでいる。その下流には、川漁や川による運送業で生計を立てている川の民たちの小屋が並んでいる。さらに下流には清水谷城主の赤松備前守の屋敷があった。
太郎たち一行五人は置塩城下に帰って来ると、伊助と金勝座の者たちに迎えられ、今まで、どこにいて、何をしていたのかを説明した。これからも色々と協力して貰うため、赤松家の軍資金の事もすべて話した。
すでに、左近と右近、謡方の三郎とお文、見習いの千代の五人は木賃宿『浦浪』に帰っていて、いなかった。残っていた座頭の助五郎、助六、太一、藤若の舞姫三人、囃子方の弥助、新八、おすみ、謡方の小助、舞台作りの甚助、そして、伊助を含めて十人の者たちが舞台の上に座り込んで、太郎たちの話を聞いていた。
四日前の早朝、笠形山から瑠璃寺に向かった太郎たち五人は、一日掛かりで、ようやく、瑠璃寺までたどり着く事ができた。以外に瑠璃寺は遠かった。彼らが山伏でなかったら、到底、一日では行けない距離だった。前の日の暗闇の登山で、足を痛めた八郎は足を引きずりながらも、馬鹿な事を言い続けて何とか歩き通し、瑠璃寺の宿坊に着いた途端に倒れ込んだ。
次の日は手分けして、『不二』『岩戸』『合掌』に関する物はないかと、瑠璃寺から船越山一帯を捜し回った。
瑠璃寺にある飯道山の宿坊、普賢院には二人の山伏がいた。太郎も金比羅坊も知らない山伏だったが、彼らから阿修羅坊の動きを知る事ができた。
阿修羅坊は今、浦上美作守の仕事のために山伏を集めているとの事だった。すでに、二十人近くの者が置塩城下に向かったと言う。阿修羅坊は三十人送れと命じて来たらしいが、今、瑠璃寺に残っているのは年寄りばかりで、若い者たちは皆、赤松政則と共に美作の国に行っていていなかった。あとの十人は美作から呼び戻さなくてはならなかった。そして、美作で活躍している宝輪坊、永輪坊という二人も呼ぶらしかった。
宝輪坊と永輪坊の二人は、瑠璃寺でもっとも強いと言われている二人で、今は亡き有名な兵法家(ヒョウホウカ)、瑞輪坊の弟子だった。すでに死んでしまった日輪坊、月輪坊の二人も瑞輪坊の弟子であり、阿修羅坊もかつて瑞輪坊に武術を習っていた事があったと言う。
阿修羅坊は、その宝輪坊、永輪坊の二人と三十人の山伏を使って太郎坊を倒そうとしているに違いなかった。こちらもそれなりの作戦を立てて阿修羅坊一味を倒さなくてはならない。できれば宝輪坊と永輪坊の二人が美作から来る前に、雑魚どもを倒しておきたいと太郎は思った。
阿修羅坊の動きがわかったのは幸いだったが、肝心の宝捜しの方は少しも進展しなかった。絶対に笠形山のどこかに隠されていると思っていたものが、四つめの言葉『瑠璃』によって、あっけなくも、くつがえされてしまった。瑠璃が、全然、方角の違う瑠璃寺を意味するものとなっては、まったくわからなくなってしまっていた。
二日間、瑠璃寺の近辺を捜してみたが、不二と呼ばれる山は見つからないし、地名もない。岩戸と呼ばれる岩もないし、地名もない。合掌と呼ばれる物もない。宿坊の普賢院に、象に乗って合掌をしている普賢菩薩(フゲンボサツ)像があるくらいだった。
これはもう一度、初めからやり直さなくては駄目だと思い、次の日の早朝、嘉吉の変の時、赤松氏が最期に戦って、性具入道を初め一族の者たちが自害して果てたという城山城(キノヤマジョウ)に向かった。
その日は、一日中、変な天気だった。晴れているのに雨が降ったりやんだりしていた。
城山城は越部(コシベ)庄(龍野市)の亀山(キノヤマ)の山頂にあった。まさしく、あったと言うべきで、嘉吉の変で落城して以来、誰も入る事もなく、荒れ果てたまま放置されていた。
里の者に城への登り口を聞き、以前は城主の立派な屋形があったという広い草地に向かった。夏草が伸び放題に伸びている草地には、赤とんぼが飛び回っていた。屋形は完全に燃えてしまったのか、跡形も残っていなかった。処々に礎石だけが草の中に埋まっていた。
かつての大手道も草が生い茂り、かろうじて道がわかる程度だった。太郎の三人の弟子たちが交替で、道を作りながら登って行った。
途中で雨に降られ、雨と汗と埃と蜘蛛の巣にまみれて、びっしょりになり、真っ黒になり、やっとの事で城跡らしい山頂に着いたが、処々に土塁が残るだけで、城らしい建物は何も残っていなかった。それでも、かつて井戸だったらしい所には、今でも水が涌き出て流れていた。
その井戸の近くに、誰かが建てた供養塔が立てられてあった。その供養塔も半ば朽ち果てていた。多分、嘉吉の変のすぐ後に、赤松家の誰かが山名氏に隠れて立てたものだろう。その後、誰かがここまで登って来たような様子はまったくなかった。もしかしたら、この城跡に人が立つのは三十年振りなのかもしれなかった。
五人が城跡に着いて、しばらくして、ようやく夕立のような大雨は止んだ。五人はまず井戸の水を飲み、顔を洗い、濡れた着物を絞って体の汗を拭くと城跡を歩き回った。
本丸や二の丸があったらしい平地は草に覆われていて、どんな建物が建っていたのかもわからなかった。しかし、陶器のかけらや武器や鎧のかけら、人の骨や馬の骨などが、あちこちに落ちていた。
五人で手分けして、泥だらけになり、城跡中、くま無く捜してみたが、『不二』『岩戸』『合掌』『瑠璃』に関する物は見つからなかった。強いて言えば、なぜか、合掌をしている石仏があった位だった。石仏はそれだけではなく、あちこちに転がっていた。なぜ、こんな所に石仏があるのか不思議だったが、昔、この山に寺院があったのかもしれなかった。
この当時、要所要所の山の上には必ずと言っていい程、密教系の寺院があり、その寺を移動して、城郭を築くという事がよく行なわれた。この亀山にも寺院があり、城山城の落城と共に燃えてしまったのかもしれなかった。
その日は、城跡で夜を明かす事にした。
赤松性具入道の最期の地に来たわけだが、性具入道が一体、どこに宝を隠したのか、まったく見当もつかなかった。
「太郎坊、おぬしなら、どこに宝を隠す」と金比羅坊が食事が済むと聞いた。
五人は獣避けの焚火を囲んでいた。
「そうですね‥‥‥」と太郎は考えた。
「ちょっと待って下さい」と探真坊が言って荷物の中から一枚の紙切れを出して見た。「ええとですね、坂本城の落城が九月三日です。そして、ここの落城が九月十日です。という事は‥‥‥八日間ですか、八日間の間に入道殿は宝をどこかに隠した事になります」
「八日もあれば瑠璃寺に隠す事もできるし、笠形山に隠す事もできるな」と太郎は火を見つめながら言った。
「充分にできるな」と風光坊も言った。
「どちらにしても、あらかじめ知っている所じゃないと無理だろう」
「そうじゃろうな」と金比羅坊は頷いた。「向こうに行ってから隠し場所を捜してる暇はあるまい」
「ちょっと待って下さいよ」と探真坊が紙切れを見た。「坂本城が落城して、赤松氏はここに移って来ますけど、敵の山名軍もこちらに向かって来ます。あっという間に、この城は敵の大軍に囲まれてますよ」
「おお、そうじゃ。大谿寺の大先達も二万の大軍に囲まれたと言っておったのう」
「という事は、瑠璃寺にしろ、笠形山にしろ、宝を持って行くのは難しいな」
「という事は、お宝はこの近くにあるんやろか」
「うむ、その可能性は充分にあるな」
「しかし、この辺りに、あの四つに関連するものなど何もなかったぞ」と風光坊は言った。
「今はないが、当時はあったんじゃないのか」と探真坊は紙切れを大事そうに折り畳んだ。
「ところで、あの四つの刀を持っていた四人は、宝のありかを知っていたのかな」と太郎が言った。
「そりゃあ、知っていたじゃろう」
「もし、知っていたのなら、左馬助や彦五郎が挙兵した時に、すでに掘り起こして、使ってしまったという事も考えられませんか」
「そりゃ、ないわ」と八郎が嘆く。
「そうじゃ、すでにない宝を捜してるなんて、アホみたいなもんじゃ」
「もし、宝をすでに掘り起こしたとすれば、左馬助にしろ、彦五郎にしろ、その脇差を大事に最期まで、持ってはいなかったんじゃないですかね」と探真坊は言った。
「そうや、最期まで、大事に持ってたなんて、おかしいわ」
「という事は、四人は知らなかったと言う事になるな」
「入道だけが、知っていたというわけか‥‥‥」と金比羅坊は顎を撫でた。
「性具入道は初めから負けるという事がわかっていたのではないでしょうか」と太郎は言った。
「そんな馬鹿な‥‥‥」と金比羅坊は太郎を見た。
「大谿寺の遍照坊殿が言ってましたけど、当時、入道殿は病気でした。嘉吉の変の原因となった将軍暗殺も入道殿が決めたと言うより、嫡男の彦次郎と弟の左馬助が決めたらしいとも言っていました。播磨に引き上げ、幕府軍を迎える準備を始めますけど、中心になっていたのは、どうも、左馬助のような気がします。入道殿は初めから負ける事がわかっていて、負けるのを覚悟で、幕府軍を迎えたように思います。そして、ここが落城する以前に、前もって隠して置いた軍資金の隠し場所を謎の言葉に託して、四人を逃がしたと思うのですが、どうでしょう」
「うむ。成程のう、それはあり得る事じゃ」
「そうなると、隠す時間はたっぷりとあります」と探真坊は言った。
「笠形山も、瑠璃寺もあり得るわけだな」と風光坊は言った。
「ますます、わからんわ」と八郎は首を振った。
「難しいのう」と金比羅坊は唸った。
それぞれの意見を交わしてみたが、結局、宝の隠し場所はわからなかった。
その晩はその位にして、皆、横になった。誰の頭の中も入道の隠した宝の事で一杯だった。
次の朝、もう一度、城跡の回りを調べてから山を下りると、五人は坂本城へと向かった。
坂本城は円教寺のある書写山のすぐ側にあり、今も守護所として機能している城だった。播磨の国の政治の中心とも言え、国内の裁判沙汰は、すべて、ここで処理されていた。
この城に真っ昼間から忍び込むわけには行かなかった。この城も嘉吉の変の時、焼け落ちたが、その後、山名氏が建て直して、やはり、政治の中心として使っていた。応仁の乱後は山名氏を追い出し、赤松氏がまた建て直している。
嘉吉の変の当時の状況から見ても、この城に軍資金を隠したとは考えられなかった。性具入道が前もって隠すにしても、落城するかもしれない、この城に軍資金を隠すとは考えられない。また、まだ軍資金を隠していなかったとすれば、改めて戦うために、城山城に持ち出したに違いなかった。
五人は怪しまれない程度に坂本城の回りを見て回っただけで、置塩城下に戻って来たのだった。
一通り話を聞き終わると、金勝座の者たちは木賃宿『浦浪』へと帰って行った。
太郎たち五人は、城下には阿修羅坊の手下たちがうようよいて、浦浪は勿論の事、城下にいたら危険なので、とりあえず、城下から出る事になった。
城下から出て夢前川の下流に、丁度いい隠れ家を見つけておいたと伊助が言うので、しばらくは、そこに隠れて阿修羅坊の出方を見る事にした。
伊助の捜してくれた隠れ家はわりと快適だった。
山と山との間に隠れるように建っている古い寺院だった。崩れかけた寺院だったが、床板もまだ朽ちてはおらず、屋根も雨露は凌げそうだった。入り口の正面の上の方に、何となく場違いな感じがするキリンとバクの見事な彫刻が彫られてあった。
側に僧坊らしい小屋もあり、かつては何人かの僧が修行していたのだろう。裏手の方には綺麗な清水が涌き出ている所もあった。
円教寺のある書写山の裏側にあたり、城下の南にある清水谷城とも山を一つ隔てた所で、河原まで出れば、こちらから城下を見る事はできるが、城下からこちらはわからないという絶好の隠れ場所だった。多分、円教寺の僧が修行していたのだろう。そして、嘉吉の変の時、戦に巻き込まれて、ここから逃げて行って、それ以来、放ったらかしにされているに違いなかった。
寺の右側の山に登れば、丁度、谷を挟んで清水谷城が見え、その城の右側に城下の全貌を見渡す事ができた。
昨夜は伊助が用意してくれた酒を久し振りに飲んで、ぐっすりと眠った。
伊助の話によると、阿修羅坊の手下が三十人近く、城下に集まって来ているとの事だった。その三十人は大円寺と性海寺と白旗神社の三ケ所に分かれて滞在し、太郎の行方を捜し回っている。瑠璃寺で聞いた話と一致していた。もう、美作の国からの山伏たちも、この城下に入ってるとは驚きだった。
宝輪坊と永輪坊という名の強そうな二人が、すでに来ているかどうか、伊助に聞いてみると、その名前は何度か耳にしているが、どうも、まだ来ていないらしいと言った。そして、阿修羅坊本人の姿が太郎たちがいなくなったのとほぼ同時に、この城下から消えているという事を初めて知った。
「さては、お師匠にやられた傷がもとで、くたばったかな」と八郎がおどけて言ったが、そんな事はないだろう。多分、阿修羅坊もそろそろ宝捜しを始めたに違いなかった。あの腕では太郎たちと戦うわけにはいかない。仲間が揃うまで、宝捜しをしているのだろう、と皆の意見も一致した。
阿修羅坊は四つめの言葉『瑠璃』を知らない。阿修羅坊に宝が見つかるわけはない、という事も皆の一致した見方だった。阿修羅坊が留守ならと、昨夜は少し安心して、のんびりと酒など飲んだのだった。
翌朝、目が覚めると太郎は外に出た。すでに夜は明け、暑くなり始めていた。
他の四人はやはり疲れたのか、まだ、ぐっすりと眠っていた。
太郎は朝露に濡れた長く伸びた草をかき分けて河原に出た。
夢前川の上をゆっくりと朝靄が流れていた。
太郎は水際の石に腰掛けると、阿修羅坊をどうやって倒すかを考えた。
強敵らしい宝輪坊、永輪坊の二人が来る前に、今いる三十人を片付けたかった。この間は、うまい具合に城下の連中たちに気づかれずに片付ける事ができたが、今回は敵の人数が多すぎた。城下の者たちにわからないように消すには、城下の外のここにおびき寄せて片付けるしかないかなと思った。今の所、城下の侍たちまで敵に回したくはなかった。
敵は三十人、こちらは五人、いや、多分、伊助と次郎吉は断っても来るだろうから七人。七人で三十人を倒すには、まともにやったら不可能だった。奇襲を掛けるしかない。
敵の拠点に潜入して、一人づつ片付けて行くという手もあるが、初めの二、三人はうまく行くだろうが、そのうち敵も警戒して、逆にこちらがやられる可能性が高い。それに、その作戦だと時間が掛かり過ぎる。できれば、一挙に敵を全滅させたかった。
やはり、ここに敵をおびき寄せて、全滅させるのが一番いい方法だと思った。それにしても作戦をよく練らなければ、こちらもかなりの犠牲者を出してしまうだろう。
まず、飛び道具が必要だった。弓矢が一番いいのだが、弓矢を使える者はいない。こちらも人数がいれば、別に当たらなくても効果はあるが、七人しかいないのでは百発百中の腕が必要だった。弓矢が駄目なら手裏剣だが、手裏剣が使えるのは俺と探真坊、風光坊と八郎も稽古はしているが、まだまだ実践には使えないだろう。二人の手裏剣で何人倒す事ができるか。
まあ、多めにみても、五、六人だろう。残りは二十四人。一人あたり三、四人倒さなくてはならない。難しい事だった。何か、仕掛けを作った方がいいかもしれない。
一遍に大勢を片付ける事のできる仕掛けはないものか‥‥‥
待てよ、石つぶてという手もあるなと、太郎は河原の石を拾ってみた。石つぶても、こちらの人数が多ければ効果はあるが、小人数ではしょうがない。太郎は手の中の石を川の中に投げ捨てた。そして、水の流れを見ながら、この川の流れを利用できないものかと思った。
太郎はしばらく川の流れを見ていた。人の気配で振り返った。
探真坊が草の中をこちらに向かって歩いていた。
「お師匠、早いですね。おはようございます」
「ああ、おはよう。みんなは、まだ寝てるのか」
「いえ、金比羅坊殿は起きました。あとの二人は鼾をかいて寝てますよ」
「そうか、まあ、いい。今日の所は、まだ、のんびりしていても大丈夫だろう」
「大丈夫ですか。阿修羅坊は今度こそ、絶対に、お師匠を消すつもりでいますよ」
「だろうな。俺は奴らを、ここにおびき寄せて戦おうと思ってるんだがな、どう思う」
「ここですか‥‥‥」と探真坊は回りを見回した。「いいんじゃないですかね。敵が来るとすれば、この川を渡って来るしかないわけでしょう。まず、裏の山の方から来る事はないでしょう。川を渡るとすれば、清水谷の渡ししかない。あの渡しを渡って、こっちから来るわけだ」
探真坊は上流の方を見た。「あの山の上に隠れていて、河原を通って行く敵を狙えば敵の半数近くは倒せるでしょう」
「うん、いい作戦だ」と太郎は頷いた。「しかし、敵は山伏だっていう事を忘れるなよ。武士が相手なら、そうも行くが、敵は山伏だ。山の方からも来ると考えておかなけりゃならんぞ」
「そうか。阿修羅坊はこの間、お師匠にやられて懲りてるでしょうからね。今度は慎重に来るかもしれない。そうなると、三十人で、じわじわと回りから取り囲む事も考えられますね」
「そういう事だ」
探真坊はしばらく山の方を見回していたが、「山の方を調べて来ます」と言うと、さっさと山の中に入って行った。
「探真坊、この辺りの絵地図を作ってくれ」と太郎は声を掛けた。
「わかってます」と探真坊は頷いた。
「頼もしい奴だ」と太郎は探真坊の後姿を見送りながら呟いた。「あいつが俺を仇と狙っているとはねえ‥‥‥」
太郎はまた、川の流れを眺めた。
自分が阿修羅坊になったつもりで太郎は考えてみる事にした。まず、三十人を二手に分け、二十人はこの河原から攻め上がり、そして、残りの十人は裏山から攻める。
河原の二十人は舟で来て、ここから上陸するか、それとも清水谷の渡しを渡って来るか‥‥‥とにかく、ここまで来たとして、河原から僧院までの距離が約六町(約六百五十メートル)。二十人は横に広がり、一人も逃がさないように僧院を取り囲むように攻めて来るだろう。そして、ある程度まで近づけば、多分、火を投げるだろう‥‥‥
いや、火を使えば騒ぎが大きくなる。いくら城下の外とはいえ、こんな所で火事が起これば、城下の侍たちが黙ってはいまい。阿修羅坊にしても内密に事を運ばなくてはならないはずだ。火は使わないと見ていいだろう。火を使わなければ、やはり、敵も飛び道具で来るか。
完全に僧院を囲むように攻めて行き、裏山からも十人が攻めて来る。多分、こんな作戦だろう。
太郎は下流の方がどうなっているのか、行ってみた。
山側は崖のようになっていて、河原はだんだんと狭くなっていった。さらに先には大きな岩がせり出していて、そこから先へは進めなかった。対岸を見ると向う側の河原はかなり広い。ここを舟で渡るという事も考えられた。ここなら寺院からは見えないし、上陸するのに丁度いい場所だった。川の流れを見ると、流れは緩いが深さはかなりあるようだった。
今度は上流の方に行ってみた。こちら側も山がせり出していて、寺院への入り口に当たる辺りが少し狭くなっている。そこから清水谷の集落にかけては、かなり広い平地が続き、農家が何軒か建ち、田や畑もあった。そして、山側に張り付くように稲荷神社の森がある。
草地から河原の方に出ると、清水谷城も番城も良く見えた。こちらから見えるという事は、向こうからも良く見えるという事だった。城下への入り口、南の大門も樹木の間から見えた。この辺りをうろうろするのは危険だった。
太郎が引き返そうとした時、清水谷の方から誰かが近づいて来た。数人いるようだった。草の間から覗いてみると伊助たちだった。伊助と助六、藤若、千代、そして、もう一人、知らない男が一緒だった。
太郎たちは伊助が持って来てくれた豪勢な料理を腹一杯に詰め込んだ。若い娘三人を迎えて、古寺の中は華やかな雰囲気となっていた。
寝ぼけた顔をして裸でごろごろしていた風光坊と八郎は、助六たちを見ると、慌てて、どこかに消え、顔を洗い、髭を剃り、ぼさぼさな頭まで綺麗に直して現れた。そして、むっつりとしている風光坊と、一人ではしゃいでいる八郎はまったく対照的だった。探真坊は山の中に入ったまま、なかなか戻って来なかった。
伊助が連れていた男は吉次(キチジ)という名の鎧師だった。太郎が城下から消えてから二日目あたりに、ようやく到着したと言う。三十歳前後の小太りで丸顔のひょうきんな男だった。
「伊助さんから話はよく聞いています。大変な事になりましたな」と吉次は言った。
「ええ」と太郎は頷いた。
「太郎坊様、これから、どうするつもりですか」と太郎の隣に座っている助六が聞いた。
「そうですね、当分の間は、ここで、のんびり過ごしますか」と太郎は笑った。「結構、ここは快適ですからね。そうだ、今日は、みんなで金勝座の舞台でも見に行きますか」
「今日は休みです」と助六が言うと、「一日おきに、やる事に決まったんです」と藤若が説明した。
「そいつは残念だ。それじゃあ、明日、見に行こう」
「太郎坊様、そんな、のんきな事でいいんですか。阿修羅坊の手下が城下には、うようよいるんですよ」
「そうか。それじゃあ、変装して行かなけりゃならないな」
「おらは今度は偉そうな侍に化けたいわ」と八郎が胸を張って言った。
「俺は釣竿をかついで漁師にでも化けるかな」風光坊が魚を釣る真似をしながら、ぼそっと言った。
「わしは何にするかのう。頭でも剃って坊主にでもなるかのう」と金比羅坊が頭を撫でた。
「金比羅坊殿が坊主に、そいつはいい」と八郎は笑った。
伊助も藤若も千代も笑っていた。
「いっその事、この寺の住職になればいいわ」
「探真坊の奴は何がいいかな」と風光坊が言った。
「あいつは商人がいいんじゃないかのう」と金比羅坊が言った。
「いや、あいつには化粧させて女に化けさせた方がいいんじゃないのか」と風光坊は言った。
「そいつはいい。あいつ、わりといい女になるかもしれんわ」と八郎は大笑いした。
金比羅坊も腹を抱えて笑っている。
「ところで、お師匠は何に化けるんです」と風光坊は聞いた。
「そうだな、俺は乞食にでもなるかな」
「みんな、ふざけないで下さい」と助六が恐い顔をして言った。
「太郎坊殿、本当の所は、どうなんです」笑っていた伊助も真面目顔になって聞いた。
「早いうちに、片付けようと思っています」と太郎も真面目に言った。
「場所は?」
「ここです」
「わたしもここを見つけた時、丁度いい場所だと思いました。しかし、相手が多いですからね、綿密な作戦を立てた方がいいでしょうね」
「はい。実は伊助殿に頼みがあるんですけど」
「何です」
「武器が欲しいのですけど、手に入るでしょうか」
「武器なら小野屋さんに頼めば、いくらでも手に入ります。どんな物がいるんです」
「飛び道具です」
「成程‥‥‥後で、必要な武器を教えて下さい。すべて、揃えておきます」
「太郎坊様、わたしたち金勝座の者たちにも手伝わせて下さい」助六は太郎の方に向き直って言った。
「女子(オナゴ)は危険じゃ」と金比羅坊が手を振った。
「これでも、わたしたち、結構、使えるんですよ。ねえ、お姉さん」と藤若が言った。
「しかし、その綺麗な顔に怪我でもされたら困りますからね」と太郎は首を振った。
「一座の者は皆、武器が使えます」と助六は言った。「左近は槍の名人、右近は剣の名人です。弥助は棒を使いますし、小助に三郎は剣、新八は手裏剣を使います。甚助は弓の名人です」
「なに、あの甚助さんが弓の名人?」と太郎は聞き返した。
助六は頷いた。「結構強い弓を使って、狙った物は絶対にはずしません。それに素早くて、あっと言う間に数十本もの矢を射ます」
「そいつは凄い」
「相手は三十人もいるんですよ。味方だって多い方がいいでしょ」
「わかりました。考えておきます」
「わたしたちにも何か手伝わせて下さいね」と藤若がニコッと笑った。
「ええ、お願いします」と太郎は一応、頷いた。
助六たちは一時(二時間)程、古寺で、太郎たちと過ごすと稽古があるからと言って帰って行った。助六は帰る時に、もう一度、絶対に手伝わせて下さいと言った。
伊助も、また来るからと言って一緒に帰って行った。
「やはり、女子はいいもんじゃのう」と金比羅坊が助六たちの後ろ姿を見送りながら言った。
「そうやな‥‥‥」八郎も急に気が抜けたようだった。
「早く、阿修羅坊たちをやっつけねえと城下にも行けねえな」と風光坊も女たちの後ろ姿をいつまでも眺めていた。
「それにしても、助六殿はいい女子じゃのう」
「金比羅坊殿、助六殿に恋をしましたね」と太郎は笑った。
「何を言うか。ただ、いい女子じゃと言っただけじゃ」
「金比羅坊殿、まあ、いいやないですか」と八郎がなだめた。「でも、おらはお千代さんの方がええわ。可愛いもんな」
女たちが消えて行った方を見つめている風光坊を見て、「お前は誰が好きなんや」と八郎は聞いた。
「俺は‥‥‥」と言ったきり風光坊は口ごもった。
八郎はニヤニヤ笑いながら、「言わんでもわかるわ。太一さんやろ」と風光坊を肘で突いた。「お前は昨日、太一さんばかり見ていたからな」
「そんな事はない」と言いながらも風光坊は顔を赤くしている。
「隠す事はないわ。太一さんは別嬪やしな、好きになって当然や。でも、やっぱり、おらはお千代さんが一番や」
古寺に戻って、女の事を何だかんだ話していると、ようやく、探真坊が戻って来た。
「お前、どこ、行ってたんや。ついさっきまで、いい女子が来てたのに残念やったな」
「女子?」と探真坊は皆の顔を見回した。
「伊助殿と助六殿たちが来てたんだ」と太郎が説明した。「御馳走を持って来てくれた。お前の分も取ってある。うまいぞ、食べろ」
「そうだったんですか。お師匠、裏山ですけど危険です。清水峠から楽に、丁度、この裏に出る事ができます」
「清水峠?」
「ええ。清水谷の道を真っすぐ行くと鯰尾(ネンオ)という村に出るんですけど、その途中に清水峠があります。清水峠から南に谷の中に入って行くと、丁度、ここに出るんですよ」
「成程な、御苦労さん。腹減ったろう、まあ、食え」
「何や、お前、もう、そんな事、調べてたんか」
「探真坊にはちょっと休んでいて貰って、今度は、わしらでこの辺りを調べるか」と金比羅坊は言って立ち上がった。
「よし、行くぞ」と太郎も、風光坊と八郎を促した。
薬売りの伊助が来ていて、後片付けを手伝っていた。
「太郎坊殿は一体、どこに行ってしまったのでしょうな」と伊助が助五郎に声を掛けた。
「さあ、わかりませんな」と助五郎は首を振った。
「今日で、もう六日になりますよ。やはり、助五郎殿の言う通り瑠璃寺まで行ったんですかね」
「わたしはそう思いますけどね」
「一体、何だったんでしょうね、あの刀から出て来た紙というのは」
「わかりませんね、赤松家に関係のある物だとは思いますけどね」
「そう言えば、阿修羅坊の姿も消えましたね。新しい手下どもの姿は城下に増えて来ましたけど、親玉の姿は見えませんね。みんな、一体、どこに消えたんでしょうな」
「わかりませんな。ところで、楓殿のご様子はいかがです」
「相変わらず、大丈夫です。ただ、かなり退屈しているようです。楓殿は働き者だったと聞いてますからね、あんな所にいたら退屈でたまらんでしょう。最近になって、ようやく、藤吉の奴が楓殿と直接会う事ができるようになりましたから、大分、中の様子がわかるようになりましたよ」
「白粉売りの人ですか」
「ええ、そうです。奴は足が物凄く達者なんですよ。速いし、疲れ知らず。便利な奴です」
「ほう、あの人がね」と助五郎は驚いた顔をした。「そうは見えませんね」
「ええ、奴には悪いが、一見しただけだと、のろまに見えますからね」
助五郎は集めたゴミをまとめて持って行った。
「伊助さん、また、太郎坊様の事ですか」と助五郎がいなくなると助六が横から口を出した。
助六は男装姿から普通の小袖(コソデ)姿に戻っていた。派手な男装姿も色っぽくていいが、清楚な小袖姿も、また、よく似合っていた。
「ええ、あの人の事だから、もしもの事なんて、ありえないとは思いますがね。どこにいるのかわからないというのは、やはり心配ですよ」
「そうですね」と助六は舞台の上に腰掛けた。
ようやく、いくらか、涼しくなって来た。
公演中の舞台の上は物凄く暑かった。ただでさえ暑いのに、大勢の見物人に囲まれ、しかも、筵を掛けた竹矢来で囲まれている。まるで、蒸風呂の中のようだった。今はもう竹矢来の筵は撥ね上げてあるので、川の方から涼しい風がいくらか入って来た。
「ねえ、どしたの」と今度は太一が寄って来て口をはさんだ。
太一は太一で、助六とはまた違った美しさを持っていた。助六はさっぱりとか、すっきりとか言う言葉がぴったりな美人だが、太一の方はきらびやかとか、華やかとか言う言葉がぴったりだった。
「何でもないのよ」と助六は言った。
「伊助さん、今日は次郎吉さんと一緒じゃないんですね」と太一は聞いた。
「ああ、あいつは仕事をしてるよ」
「へえ、珍しいのね。あの人が仕事してるの?」
「太一、失礼な事を言わないのよ」と助六がたしなめた。
「だって、あの人、見るからに遊び人て感じじゃない。真剣な顔して刀を研いでる姿なんて想像もつかないわ」
「ああ見えても、次郎吉の腕は大したもんだよ。ただ、太一殿の言う通り、滅多に仕事はせんがな。どうせ、昨夜、遊び過ぎて銭がなくなったんじゃろう」
「遊びって、遊女屋にでも行ったの」
「さあな、わしは知らんよ」
「そんな所、行かないで、あたしと遊んでくれればいいのに」
「ほう、太一殿は次郎吉が好きなんか」伊助はニヤニヤしながら太一を見た。
「そうよ」と太一は平気な顔をして言った。「ああいう苦味走った男を見ると体が震えてくるのよ」
「なに言ってんのよ、あんたの体は年中、震えてるじゃない」と助六が笑う。
「何ですって、姉さんこそ、何よ。せっかく、太郎坊様に会えたと思ったら、すぐにどこかに消えちゃったものだから、毎日、いらいらしてる癖に」
「いい加減な事、言わないでよ」助六は怒って、太一に飛び掛かろうとした。
「まあ、落ち着いて」と伊助は二人の間に入る。「いい女子(オナゴ)が二人してみっともないぞ」
「ふん」と言うと太一は団扇(ウチワ)をあおぎながら、どこかに行った。
「ああやって、よく喧嘩するんですか」と伊助は助六に聞いた。
「年中ですよ」と助六は照れくさそうに笑った。「でも、すぐ仲直りしますけどね」
「しかし、助六殿が太郎坊殿を思っていたとはね」
助六は慌てて首を振った。「あれは太一が勝手に言ってるだけですよ」
「そうですか。でも、太郎坊殿はどこか引かれる所のある人です。わしも初めの頃は、ただ、松恵尼殿に頼まれたので、この仕事を引き受けましたが、今では太郎坊殿のために何かをしたいという気持ちになっています。わしよりも十歳も年下なのに、男が男に惚れるって言うのか、武士だったら、あの人のために命を預けてもいいと言うのか、何か不思議な心境ですよ」
「伊助さん、太郎坊様って、どんなお方なのですか」助六は目を輝かせて聞いた。
「どんなと言われても困りますな。わしも大して知らんのですよ。ただ、滅法、強い事だけは確かです。あの次郎吉でさえ、太郎坊殿の強さには呆れてましたからな」
「そんなに強いのですか」
「一見しただけだと、そう強そうには見えませんけどね、どう表現したらいいのかわからん程強いですよ。でも、あの人に引かれるというのは、ただ、強いだけじゃなくて何かがあるんですよね。何だかわからんけど、その何かが人を引き付けるんだと思いますよ」
「何かがある‥‥‥」助六は伊助を見つめながら呟いた。
「ええ、何かがね」と伊助は頷いた。「もっとも、松恵尼殿があれだけ可愛いがっていた娘同然の楓殿を簡単に嫁に出した位ですからな、やはり、何かを持っている男なんでしょうな」
「楓殿っていう人は、どんな人なんですか」
「楓殿ですか、松恵尼殿に似てますな。血のつながりはないんですけどね、やはり、似てますよ。美人だし、薙刀の名人だし、頭も賢そうだし、まあ、太郎坊殿とは似合いの夫婦じゃろうのう」
「お子さんもいるって聞きましたけど」
「ええ、三歳の可愛いい男の子がいる。百太郎といって元気のいい子じゃ」
「桃太郎さんですか」と助六は笑った。
「いや、あの桃太郎とは字が違うらしい。何でも、ひゃく太郎と書いて、ももたろうと読むんだそうじゃ」
「ひゃく太郎‥‥‥面白いのね」
「まあ、あの太郎坊殿らしいと言えるがな」
「じゃあ、次の子は千太郎かしらね」
「かもしれんな」と伊助も笑った。
「お姉さん、お姉さん、大変よ」と太一が叫びながら飛んで来た。
「一体、どうしたの。何が大変なのよ」
「来たの、帰って来たのよ、太郎坊様が」
「えっ、ほんと?」と言うのと同時に助六は走り出していた。
「やはり、助六殿は太郎坊殿にいかれとるのう」と伊助は笑った。
「でしょう」と太一は言った。
「ところで、太郎坊殿が帰って来たと言うのは本当かね」
「本当よ、太郎坊様と八郎さん、そして、知らない行者さんが三人一緒にいるわよ」
「飯道山の山伏じゃろう」と伊助は言うと助六の後を追って行った。
太郎たちは船着き場の方から、こちらに向かって歩いていた。
皆、日に焼けて真っ黒な顔をしている。ひょうきんな八郎を先頭にして、若い山伏二人、そして、太郎と貫禄のある山伏が並んで歩いていた。
出迎える方は助六と太一を先頭に、助五郎、伊助を初めとして、金勝座の面々が太郎たちが来るのを待っていた。
2
夕暮れ時、二羽の白鷺(シラサギ)が夢前川の中洲に立って水面を見つめていた。
三人の武士を乗せた渡し舟が対岸へと渡っていた。
対岸には鞍掛城主、中村弾正少弼の屋敷があり、その回りに家臣たちの家が並んでいる。その下流には、川漁や川による運送業で生計を立てている川の民たちの小屋が並んでいる。さらに下流には清水谷城主の赤松備前守の屋敷があった。
太郎たち一行五人は置塩城下に帰って来ると、伊助と金勝座の者たちに迎えられ、今まで、どこにいて、何をしていたのかを説明した。これからも色々と協力して貰うため、赤松家の軍資金の事もすべて話した。
すでに、左近と右近、謡方の三郎とお文、見習いの千代の五人は木賃宿『浦浪』に帰っていて、いなかった。残っていた座頭の助五郎、助六、太一、藤若の舞姫三人、囃子方の弥助、新八、おすみ、謡方の小助、舞台作りの甚助、そして、伊助を含めて十人の者たちが舞台の上に座り込んで、太郎たちの話を聞いていた。
四日前の早朝、笠形山から瑠璃寺に向かった太郎たち五人は、一日掛かりで、ようやく、瑠璃寺までたどり着く事ができた。以外に瑠璃寺は遠かった。彼らが山伏でなかったら、到底、一日では行けない距離だった。前の日の暗闇の登山で、足を痛めた八郎は足を引きずりながらも、馬鹿な事を言い続けて何とか歩き通し、瑠璃寺の宿坊に着いた途端に倒れ込んだ。
次の日は手分けして、『不二』『岩戸』『合掌』に関する物はないかと、瑠璃寺から船越山一帯を捜し回った。
瑠璃寺にある飯道山の宿坊、普賢院には二人の山伏がいた。太郎も金比羅坊も知らない山伏だったが、彼らから阿修羅坊の動きを知る事ができた。
阿修羅坊は今、浦上美作守の仕事のために山伏を集めているとの事だった。すでに、二十人近くの者が置塩城下に向かったと言う。阿修羅坊は三十人送れと命じて来たらしいが、今、瑠璃寺に残っているのは年寄りばかりで、若い者たちは皆、赤松政則と共に美作の国に行っていていなかった。あとの十人は美作から呼び戻さなくてはならなかった。そして、美作で活躍している宝輪坊、永輪坊という二人も呼ぶらしかった。
宝輪坊と永輪坊の二人は、瑠璃寺でもっとも強いと言われている二人で、今は亡き有名な兵法家(ヒョウホウカ)、瑞輪坊の弟子だった。すでに死んでしまった日輪坊、月輪坊の二人も瑞輪坊の弟子であり、阿修羅坊もかつて瑞輪坊に武術を習っていた事があったと言う。
阿修羅坊は、その宝輪坊、永輪坊の二人と三十人の山伏を使って太郎坊を倒そうとしているに違いなかった。こちらもそれなりの作戦を立てて阿修羅坊一味を倒さなくてはならない。できれば宝輪坊と永輪坊の二人が美作から来る前に、雑魚どもを倒しておきたいと太郎は思った。
阿修羅坊の動きがわかったのは幸いだったが、肝心の宝捜しの方は少しも進展しなかった。絶対に笠形山のどこかに隠されていると思っていたものが、四つめの言葉『瑠璃』によって、あっけなくも、くつがえされてしまった。瑠璃が、全然、方角の違う瑠璃寺を意味するものとなっては、まったくわからなくなってしまっていた。
二日間、瑠璃寺の近辺を捜してみたが、不二と呼ばれる山は見つからないし、地名もない。岩戸と呼ばれる岩もないし、地名もない。合掌と呼ばれる物もない。宿坊の普賢院に、象に乗って合掌をしている普賢菩薩(フゲンボサツ)像があるくらいだった。
これはもう一度、初めからやり直さなくては駄目だと思い、次の日の早朝、嘉吉の変の時、赤松氏が最期に戦って、性具入道を初め一族の者たちが自害して果てたという城山城(キノヤマジョウ)に向かった。
その日は、一日中、変な天気だった。晴れているのに雨が降ったりやんだりしていた。
城山城は越部(コシベ)庄(龍野市)の亀山(キノヤマ)の山頂にあった。まさしく、あったと言うべきで、嘉吉の変で落城して以来、誰も入る事もなく、荒れ果てたまま放置されていた。
里の者に城への登り口を聞き、以前は城主の立派な屋形があったという広い草地に向かった。夏草が伸び放題に伸びている草地には、赤とんぼが飛び回っていた。屋形は完全に燃えてしまったのか、跡形も残っていなかった。処々に礎石だけが草の中に埋まっていた。
かつての大手道も草が生い茂り、かろうじて道がわかる程度だった。太郎の三人の弟子たちが交替で、道を作りながら登って行った。
途中で雨に降られ、雨と汗と埃と蜘蛛の巣にまみれて、びっしょりになり、真っ黒になり、やっとの事で城跡らしい山頂に着いたが、処々に土塁が残るだけで、城らしい建物は何も残っていなかった。それでも、かつて井戸だったらしい所には、今でも水が涌き出て流れていた。
その井戸の近くに、誰かが建てた供養塔が立てられてあった。その供養塔も半ば朽ち果てていた。多分、嘉吉の変のすぐ後に、赤松家の誰かが山名氏に隠れて立てたものだろう。その後、誰かがここまで登って来たような様子はまったくなかった。もしかしたら、この城跡に人が立つのは三十年振りなのかもしれなかった。
五人が城跡に着いて、しばらくして、ようやく夕立のような大雨は止んだ。五人はまず井戸の水を飲み、顔を洗い、濡れた着物を絞って体の汗を拭くと城跡を歩き回った。
本丸や二の丸があったらしい平地は草に覆われていて、どんな建物が建っていたのかもわからなかった。しかし、陶器のかけらや武器や鎧のかけら、人の骨や馬の骨などが、あちこちに落ちていた。
五人で手分けして、泥だらけになり、城跡中、くま無く捜してみたが、『不二』『岩戸』『合掌』『瑠璃』に関する物は見つからなかった。強いて言えば、なぜか、合掌をしている石仏があった位だった。石仏はそれだけではなく、あちこちに転がっていた。なぜ、こんな所に石仏があるのか不思議だったが、昔、この山に寺院があったのかもしれなかった。
この当時、要所要所の山の上には必ずと言っていい程、密教系の寺院があり、その寺を移動して、城郭を築くという事がよく行なわれた。この亀山にも寺院があり、城山城の落城と共に燃えてしまったのかもしれなかった。
その日は、城跡で夜を明かす事にした。
赤松性具入道の最期の地に来たわけだが、性具入道が一体、どこに宝を隠したのか、まったく見当もつかなかった。
「太郎坊、おぬしなら、どこに宝を隠す」と金比羅坊が食事が済むと聞いた。
五人は獣避けの焚火を囲んでいた。
「そうですね‥‥‥」と太郎は考えた。
「ちょっと待って下さい」と探真坊が言って荷物の中から一枚の紙切れを出して見た。「ええとですね、坂本城の落城が九月三日です。そして、ここの落城が九月十日です。という事は‥‥‥八日間ですか、八日間の間に入道殿は宝をどこかに隠した事になります」
「八日もあれば瑠璃寺に隠す事もできるし、笠形山に隠す事もできるな」と太郎は火を見つめながら言った。
「充分にできるな」と風光坊も言った。
「どちらにしても、あらかじめ知っている所じゃないと無理だろう」
「そうじゃろうな」と金比羅坊は頷いた。「向こうに行ってから隠し場所を捜してる暇はあるまい」
「ちょっと待って下さいよ」と探真坊が紙切れを見た。「坂本城が落城して、赤松氏はここに移って来ますけど、敵の山名軍もこちらに向かって来ます。あっという間に、この城は敵の大軍に囲まれてますよ」
「おお、そうじゃ。大谿寺の大先達も二万の大軍に囲まれたと言っておったのう」
「という事は、瑠璃寺にしろ、笠形山にしろ、宝を持って行くのは難しいな」
「という事は、お宝はこの近くにあるんやろか」
「うむ、その可能性は充分にあるな」
「しかし、この辺りに、あの四つに関連するものなど何もなかったぞ」と風光坊は言った。
「今はないが、当時はあったんじゃないのか」と探真坊は紙切れを大事そうに折り畳んだ。
「ところで、あの四つの刀を持っていた四人は、宝のありかを知っていたのかな」と太郎が言った。
「そりゃあ、知っていたじゃろう」
「もし、知っていたのなら、左馬助や彦五郎が挙兵した時に、すでに掘り起こして、使ってしまったという事も考えられませんか」
「そりゃ、ないわ」と八郎が嘆く。
「そうじゃ、すでにない宝を捜してるなんて、アホみたいなもんじゃ」
「もし、宝をすでに掘り起こしたとすれば、左馬助にしろ、彦五郎にしろ、その脇差を大事に最期まで、持ってはいなかったんじゃないですかね」と探真坊は言った。
「そうや、最期まで、大事に持ってたなんて、おかしいわ」
「という事は、四人は知らなかったと言う事になるな」
「入道だけが、知っていたというわけか‥‥‥」と金比羅坊は顎を撫でた。
「性具入道は初めから負けるという事がわかっていたのではないでしょうか」と太郎は言った。
「そんな馬鹿な‥‥‥」と金比羅坊は太郎を見た。
「大谿寺の遍照坊殿が言ってましたけど、当時、入道殿は病気でした。嘉吉の変の原因となった将軍暗殺も入道殿が決めたと言うより、嫡男の彦次郎と弟の左馬助が決めたらしいとも言っていました。播磨に引き上げ、幕府軍を迎える準備を始めますけど、中心になっていたのは、どうも、左馬助のような気がします。入道殿は初めから負ける事がわかっていて、負けるのを覚悟で、幕府軍を迎えたように思います。そして、ここが落城する以前に、前もって隠して置いた軍資金の隠し場所を謎の言葉に託して、四人を逃がしたと思うのですが、どうでしょう」
「うむ。成程のう、それはあり得る事じゃ」
「そうなると、隠す時間はたっぷりとあります」と探真坊は言った。
「笠形山も、瑠璃寺もあり得るわけだな」と風光坊は言った。
「ますます、わからんわ」と八郎は首を振った。
「難しいのう」と金比羅坊は唸った。
それぞれの意見を交わしてみたが、結局、宝の隠し場所はわからなかった。
その晩はその位にして、皆、横になった。誰の頭の中も入道の隠した宝の事で一杯だった。
次の朝、もう一度、城跡の回りを調べてから山を下りると、五人は坂本城へと向かった。
坂本城は円教寺のある書写山のすぐ側にあり、今も守護所として機能している城だった。播磨の国の政治の中心とも言え、国内の裁判沙汰は、すべて、ここで処理されていた。
この城に真っ昼間から忍び込むわけには行かなかった。この城も嘉吉の変の時、焼け落ちたが、その後、山名氏が建て直して、やはり、政治の中心として使っていた。応仁の乱後は山名氏を追い出し、赤松氏がまた建て直している。
嘉吉の変の当時の状況から見ても、この城に軍資金を隠したとは考えられなかった。性具入道が前もって隠すにしても、落城するかもしれない、この城に軍資金を隠すとは考えられない。また、まだ軍資金を隠していなかったとすれば、改めて戦うために、城山城に持ち出したに違いなかった。
五人は怪しまれない程度に坂本城の回りを見て回っただけで、置塩城下に戻って来たのだった。
一通り話を聞き終わると、金勝座の者たちは木賃宿『浦浪』へと帰って行った。
太郎たち五人は、城下には阿修羅坊の手下たちがうようよいて、浦浪は勿論の事、城下にいたら危険なので、とりあえず、城下から出る事になった。
城下から出て夢前川の下流に、丁度いい隠れ家を見つけておいたと伊助が言うので、しばらくは、そこに隠れて阿修羅坊の出方を見る事にした。
3
伊助の捜してくれた隠れ家はわりと快適だった。
山と山との間に隠れるように建っている古い寺院だった。崩れかけた寺院だったが、床板もまだ朽ちてはおらず、屋根も雨露は凌げそうだった。入り口の正面の上の方に、何となく場違いな感じがするキリンとバクの見事な彫刻が彫られてあった。
側に僧坊らしい小屋もあり、かつては何人かの僧が修行していたのだろう。裏手の方には綺麗な清水が涌き出ている所もあった。
円教寺のある書写山の裏側にあたり、城下の南にある清水谷城とも山を一つ隔てた所で、河原まで出れば、こちらから城下を見る事はできるが、城下からこちらはわからないという絶好の隠れ場所だった。多分、円教寺の僧が修行していたのだろう。そして、嘉吉の変の時、戦に巻き込まれて、ここから逃げて行って、それ以来、放ったらかしにされているに違いなかった。
寺の右側の山に登れば、丁度、谷を挟んで清水谷城が見え、その城の右側に城下の全貌を見渡す事ができた。
昨夜は伊助が用意してくれた酒を久し振りに飲んで、ぐっすりと眠った。
伊助の話によると、阿修羅坊の手下が三十人近く、城下に集まって来ているとの事だった。その三十人は大円寺と性海寺と白旗神社の三ケ所に分かれて滞在し、太郎の行方を捜し回っている。瑠璃寺で聞いた話と一致していた。もう、美作の国からの山伏たちも、この城下に入ってるとは驚きだった。
宝輪坊と永輪坊という名の強そうな二人が、すでに来ているかどうか、伊助に聞いてみると、その名前は何度か耳にしているが、どうも、まだ来ていないらしいと言った。そして、阿修羅坊本人の姿が太郎たちがいなくなったのとほぼ同時に、この城下から消えているという事を初めて知った。
「さては、お師匠にやられた傷がもとで、くたばったかな」と八郎がおどけて言ったが、そんな事はないだろう。多分、阿修羅坊もそろそろ宝捜しを始めたに違いなかった。あの腕では太郎たちと戦うわけにはいかない。仲間が揃うまで、宝捜しをしているのだろう、と皆の意見も一致した。
阿修羅坊は四つめの言葉『瑠璃』を知らない。阿修羅坊に宝が見つかるわけはない、という事も皆の一致した見方だった。阿修羅坊が留守ならと、昨夜は少し安心して、のんびりと酒など飲んだのだった。
翌朝、目が覚めると太郎は外に出た。すでに夜は明け、暑くなり始めていた。
他の四人はやはり疲れたのか、まだ、ぐっすりと眠っていた。
太郎は朝露に濡れた長く伸びた草をかき分けて河原に出た。
夢前川の上をゆっくりと朝靄が流れていた。
太郎は水際の石に腰掛けると、阿修羅坊をどうやって倒すかを考えた。
強敵らしい宝輪坊、永輪坊の二人が来る前に、今いる三十人を片付けたかった。この間は、うまい具合に城下の連中たちに気づかれずに片付ける事ができたが、今回は敵の人数が多すぎた。城下の者たちにわからないように消すには、城下の外のここにおびき寄せて片付けるしかないかなと思った。今の所、城下の侍たちまで敵に回したくはなかった。
敵は三十人、こちらは五人、いや、多分、伊助と次郎吉は断っても来るだろうから七人。七人で三十人を倒すには、まともにやったら不可能だった。奇襲を掛けるしかない。
敵の拠点に潜入して、一人づつ片付けて行くという手もあるが、初めの二、三人はうまく行くだろうが、そのうち敵も警戒して、逆にこちらがやられる可能性が高い。それに、その作戦だと時間が掛かり過ぎる。できれば、一挙に敵を全滅させたかった。
やはり、ここに敵をおびき寄せて、全滅させるのが一番いい方法だと思った。それにしても作戦をよく練らなければ、こちらもかなりの犠牲者を出してしまうだろう。
まず、飛び道具が必要だった。弓矢が一番いいのだが、弓矢を使える者はいない。こちらも人数がいれば、別に当たらなくても効果はあるが、七人しかいないのでは百発百中の腕が必要だった。弓矢が駄目なら手裏剣だが、手裏剣が使えるのは俺と探真坊、風光坊と八郎も稽古はしているが、まだまだ実践には使えないだろう。二人の手裏剣で何人倒す事ができるか。
まあ、多めにみても、五、六人だろう。残りは二十四人。一人あたり三、四人倒さなくてはならない。難しい事だった。何か、仕掛けを作った方がいいかもしれない。
一遍に大勢を片付ける事のできる仕掛けはないものか‥‥‥
待てよ、石つぶてという手もあるなと、太郎は河原の石を拾ってみた。石つぶても、こちらの人数が多ければ効果はあるが、小人数ではしょうがない。太郎は手の中の石を川の中に投げ捨てた。そして、水の流れを見ながら、この川の流れを利用できないものかと思った。
太郎はしばらく川の流れを見ていた。人の気配で振り返った。
探真坊が草の中をこちらに向かって歩いていた。
「お師匠、早いですね。おはようございます」
「ああ、おはよう。みんなは、まだ寝てるのか」
「いえ、金比羅坊殿は起きました。あとの二人は鼾をかいて寝てますよ」
「そうか、まあ、いい。今日の所は、まだ、のんびりしていても大丈夫だろう」
「大丈夫ですか。阿修羅坊は今度こそ、絶対に、お師匠を消すつもりでいますよ」
「だろうな。俺は奴らを、ここにおびき寄せて戦おうと思ってるんだがな、どう思う」
「ここですか‥‥‥」と探真坊は回りを見回した。「いいんじゃないですかね。敵が来るとすれば、この川を渡って来るしかないわけでしょう。まず、裏の山の方から来る事はないでしょう。川を渡るとすれば、清水谷の渡ししかない。あの渡しを渡って、こっちから来るわけだ」
探真坊は上流の方を見た。「あの山の上に隠れていて、河原を通って行く敵を狙えば敵の半数近くは倒せるでしょう」
「うん、いい作戦だ」と太郎は頷いた。「しかし、敵は山伏だっていう事を忘れるなよ。武士が相手なら、そうも行くが、敵は山伏だ。山の方からも来ると考えておかなけりゃならんぞ」
「そうか。阿修羅坊はこの間、お師匠にやられて懲りてるでしょうからね。今度は慎重に来るかもしれない。そうなると、三十人で、じわじわと回りから取り囲む事も考えられますね」
「そういう事だ」
探真坊はしばらく山の方を見回していたが、「山の方を調べて来ます」と言うと、さっさと山の中に入って行った。
「探真坊、この辺りの絵地図を作ってくれ」と太郎は声を掛けた。
「わかってます」と探真坊は頷いた。
「頼もしい奴だ」と太郎は探真坊の後姿を見送りながら呟いた。「あいつが俺を仇と狙っているとはねえ‥‥‥」
太郎はまた、川の流れを眺めた。
自分が阿修羅坊になったつもりで太郎は考えてみる事にした。まず、三十人を二手に分け、二十人はこの河原から攻め上がり、そして、残りの十人は裏山から攻める。
河原の二十人は舟で来て、ここから上陸するか、それとも清水谷の渡しを渡って来るか‥‥‥とにかく、ここまで来たとして、河原から僧院までの距離が約六町(約六百五十メートル)。二十人は横に広がり、一人も逃がさないように僧院を取り囲むように攻めて来るだろう。そして、ある程度まで近づけば、多分、火を投げるだろう‥‥‥
いや、火を使えば騒ぎが大きくなる。いくら城下の外とはいえ、こんな所で火事が起これば、城下の侍たちが黙ってはいまい。阿修羅坊にしても内密に事を運ばなくてはならないはずだ。火は使わないと見ていいだろう。火を使わなければ、やはり、敵も飛び道具で来るか。
完全に僧院を囲むように攻めて行き、裏山からも十人が攻めて来る。多分、こんな作戦だろう。
太郎は下流の方がどうなっているのか、行ってみた。
山側は崖のようになっていて、河原はだんだんと狭くなっていった。さらに先には大きな岩がせり出していて、そこから先へは進めなかった。対岸を見ると向う側の河原はかなり広い。ここを舟で渡るという事も考えられた。ここなら寺院からは見えないし、上陸するのに丁度いい場所だった。川の流れを見ると、流れは緩いが深さはかなりあるようだった。
今度は上流の方に行ってみた。こちら側も山がせり出していて、寺院への入り口に当たる辺りが少し狭くなっている。そこから清水谷の集落にかけては、かなり広い平地が続き、農家が何軒か建ち、田や畑もあった。そして、山側に張り付くように稲荷神社の森がある。
草地から河原の方に出ると、清水谷城も番城も良く見えた。こちらから見えるという事は、向こうからも良く見えるという事だった。城下への入り口、南の大門も樹木の間から見えた。この辺りをうろうろするのは危険だった。
太郎が引き返そうとした時、清水谷の方から誰かが近づいて来た。数人いるようだった。草の間から覗いてみると伊助たちだった。伊助と助六、藤若、千代、そして、もう一人、知らない男が一緒だった。
太郎たちは伊助が持って来てくれた豪勢な料理を腹一杯に詰め込んだ。若い娘三人を迎えて、古寺の中は華やかな雰囲気となっていた。
寝ぼけた顔をして裸でごろごろしていた風光坊と八郎は、助六たちを見ると、慌てて、どこかに消え、顔を洗い、髭を剃り、ぼさぼさな頭まで綺麗に直して現れた。そして、むっつりとしている風光坊と、一人ではしゃいでいる八郎はまったく対照的だった。探真坊は山の中に入ったまま、なかなか戻って来なかった。
伊助が連れていた男は吉次(キチジ)という名の鎧師だった。太郎が城下から消えてから二日目あたりに、ようやく到着したと言う。三十歳前後の小太りで丸顔のひょうきんな男だった。
「伊助さんから話はよく聞いています。大変な事になりましたな」と吉次は言った。
「ええ」と太郎は頷いた。
「太郎坊様、これから、どうするつもりですか」と太郎の隣に座っている助六が聞いた。
「そうですね、当分の間は、ここで、のんびり過ごしますか」と太郎は笑った。「結構、ここは快適ですからね。そうだ、今日は、みんなで金勝座の舞台でも見に行きますか」
「今日は休みです」と助六が言うと、「一日おきに、やる事に決まったんです」と藤若が説明した。
「そいつは残念だ。それじゃあ、明日、見に行こう」
「太郎坊様、そんな、のんきな事でいいんですか。阿修羅坊の手下が城下には、うようよいるんですよ」
「そうか。それじゃあ、変装して行かなけりゃならないな」
「おらは今度は偉そうな侍に化けたいわ」と八郎が胸を張って言った。
「俺は釣竿をかついで漁師にでも化けるかな」風光坊が魚を釣る真似をしながら、ぼそっと言った。
「わしは何にするかのう。頭でも剃って坊主にでもなるかのう」と金比羅坊が頭を撫でた。
「金比羅坊殿が坊主に、そいつはいい」と八郎は笑った。
伊助も藤若も千代も笑っていた。
「いっその事、この寺の住職になればいいわ」
「探真坊の奴は何がいいかな」と風光坊が言った。
「あいつは商人がいいんじゃないかのう」と金比羅坊が言った。
「いや、あいつには化粧させて女に化けさせた方がいいんじゃないのか」と風光坊は言った。
「そいつはいい。あいつ、わりといい女になるかもしれんわ」と八郎は大笑いした。
金比羅坊も腹を抱えて笑っている。
「ところで、お師匠は何に化けるんです」と風光坊は聞いた。
「そうだな、俺は乞食にでもなるかな」
「みんな、ふざけないで下さい」と助六が恐い顔をして言った。
「太郎坊殿、本当の所は、どうなんです」笑っていた伊助も真面目顔になって聞いた。
「早いうちに、片付けようと思っています」と太郎も真面目に言った。
「場所は?」
「ここです」
「わたしもここを見つけた時、丁度いい場所だと思いました。しかし、相手が多いですからね、綿密な作戦を立てた方がいいでしょうね」
「はい。実は伊助殿に頼みがあるんですけど」
「何です」
「武器が欲しいのですけど、手に入るでしょうか」
「武器なら小野屋さんに頼めば、いくらでも手に入ります。どんな物がいるんです」
「飛び道具です」
「成程‥‥‥後で、必要な武器を教えて下さい。すべて、揃えておきます」
「太郎坊様、わたしたち金勝座の者たちにも手伝わせて下さい」助六は太郎の方に向き直って言った。
「女子(オナゴ)は危険じゃ」と金比羅坊が手を振った。
「これでも、わたしたち、結構、使えるんですよ。ねえ、お姉さん」と藤若が言った。
「しかし、その綺麗な顔に怪我でもされたら困りますからね」と太郎は首を振った。
「一座の者は皆、武器が使えます」と助六は言った。「左近は槍の名人、右近は剣の名人です。弥助は棒を使いますし、小助に三郎は剣、新八は手裏剣を使います。甚助は弓の名人です」
「なに、あの甚助さんが弓の名人?」と太郎は聞き返した。
助六は頷いた。「結構強い弓を使って、狙った物は絶対にはずしません。それに素早くて、あっと言う間に数十本もの矢を射ます」
「そいつは凄い」
「相手は三十人もいるんですよ。味方だって多い方がいいでしょ」
「わかりました。考えておきます」
「わたしたちにも何か手伝わせて下さいね」と藤若がニコッと笑った。
「ええ、お願いします」と太郎は一応、頷いた。
助六たちは一時(二時間)程、古寺で、太郎たちと過ごすと稽古があるからと言って帰って行った。助六は帰る時に、もう一度、絶対に手伝わせて下さいと言った。
伊助も、また来るからと言って一緒に帰って行った。
「やはり、女子はいいもんじゃのう」と金比羅坊が助六たちの後ろ姿を見送りながら言った。
「そうやな‥‥‥」八郎も急に気が抜けたようだった。
「早く、阿修羅坊たちをやっつけねえと城下にも行けねえな」と風光坊も女たちの後ろ姿をいつまでも眺めていた。
「それにしても、助六殿はいい女子じゃのう」
「金比羅坊殿、助六殿に恋をしましたね」と太郎は笑った。
「何を言うか。ただ、いい女子じゃと言っただけじゃ」
「金比羅坊殿、まあ、いいやないですか」と八郎がなだめた。「でも、おらはお千代さんの方がええわ。可愛いもんな」
女たちが消えて行った方を見つめている風光坊を見て、「お前は誰が好きなんや」と八郎は聞いた。
「俺は‥‥‥」と言ったきり風光坊は口ごもった。
八郎はニヤニヤ笑いながら、「言わんでもわかるわ。太一さんやろ」と風光坊を肘で突いた。「お前は昨日、太一さんばかり見ていたからな」
「そんな事はない」と言いながらも風光坊は顔を赤くしている。
「隠す事はないわ。太一さんは別嬪やしな、好きになって当然や。でも、やっぱり、おらはお千代さんが一番や」
古寺に戻って、女の事を何だかんだ話していると、ようやく、探真坊が戻って来た。
「お前、どこ、行ってたんや。ついさっきまで、いい女子が来てたのに残念やったな」
「女子?」と探真坊は皆の顔を見回した。
「伊助殿と助六殿たちが来てたんだ」と太郎が説明した。「御馳走を持って来てくれた。お前の分も取ってある。うまいぞ、食べろ」
「そうだったんですか。お師匠、裏山ですけど危険です。清水峠から楽に、丁度、この裏に出る事ができます」
「清水峠?」
「ええ。清水谷の道を真っすぐ行くと鯰尾(ネンオ)という村に出るんですけど、その途中に清水峠があります。清水峠から南に谷の中に入って行くと、丁度、ここに出るんですよ」
「成程な、御苦労さん。腹減ったろう、まあ、食え」
「何や、お前、もう、そんな事、調べてたんか」
「探真坊にはちょっと休んでいて貰って、今度は、わしらでこの辺りを調べるか」と金比羅坊は言って立ち上がった。
「よし、行くぞ」と太郎も、風光坊と八郎を促した。
16.河原にて2
4
機嫌の悪そうな顔をして阿修羅坊が、置塩城下に戻って来たのは、太郎たちより二日遅れた八月の一日だった。
二人の山伏を連れていた。美作の国の戦場から呼び戻した宝輪坊、永輪坊の二人だった。
笠形山で自分の他にも宝を捜している者がいる事を知った阿修羅坊は、笠形山中を充分に捜し回り、何も得られないまま坂本城に向かった。
もう一度、当時の事を詳しく調べようと、坂本城に残されている資料をすべて目を通してみたが、古い物はほとんど残っておらず、何の新事実も得られなかった。
そして次に、赤松家の最期の地、城山城へと向かった。雨に降られながらも城跡まで登り、あちこち調べていると急に大雨に襲われ、これはたまらんと木の陰に隠れて雨宿りをしていた。すると、何と目の前に太郎坊の一行が現れた。目の錯覚かと思ったが、紛れもない事実だった。
阿修羅坊は木の陰に隠れて、太郎坊たちの様子を窺った。幸いに雨のため、太郎坊たちに気づかれないですんだ。しかし、驚きだった。
どうして、こんな所に太郎坊が‥‥‥わからなかった。
やがて、雨も止み、太郎坊たちの声が聞こえて来た。宝という言葉が聞こえて来た。
どうして、太郎坊が宝の事を知っている。
阿修羅坊は頭の中が混乱して来て、何が何だか、まったくわからなくなって来た。
太郎坊には何から何まで、やられ通しの阿修羅坊だった。
一体、これはどうした事じゃ。まるで、悪夢でも見ているようだった。
阿修羅坊は心を落着けて、太郎坊たちを見守った。
よく見ると、太郎坊ともう一人は職人の格好をしていた。そして、山伏姿の三人の内の一人は三十半ば位の大男で、あとの二人は若い。まさしく、笠形山で宝捜しをしていた連中だった。正明坊ではなく、あれは、この五人だったのだ。
だが、どうして、太郎坊が宝の事を知っている。浦上美作守と自分しか知らないはずだった。
待てよ。浦上美作守から宝の話を聞いた次の朝、わしの頭の上に、太郎坊は月輪坊の吹矢を置いて行った。という事は、あの晩、太郎坊は浦上屋敷にいたという事になる。あの話をどこかで聞いていたというのか。それ以外に考えられないが、あの時、太郎坊がどこかに隠れて話を聞いていたなど信じられない事だった。
志能便の術‥‥‥大した事ないと侮っていたが、恐るべき技だった。さらに、もう一つ恐るべき事に、太郎坊は四つめの言葉も知っていた。志能便の術を使って、伊勢の北畠のもとから盗み出して来たのだろうか。
まったく、恐るべき相手だった。そして、その四つめの言葉が『瑠璃』だと言うのも驚きだった。瑠璃と言えば、やはり、瑠璃寺だろう。太郎坊たちは瑠璃寺から、ここに来たに違いなかった。瑠璃寺で何も得る物がなく、仕方なく、この城跡に来たのだろう。
阿修羅坊の調べたところ、ここにも宝捜しの手掛かりになる物は何もなかった。
阿修羅坊は太郎坊たちに気づかれないように山を下りると、真っすぐに瑠璃寺に向かった。
阿修羅坊は太郎たちとは違う道を登って来たのだった。太郎たちは城主の屋形のあった所から登る『大手道』を、阿修羅坊は『兵糧(ヒョウロウ)道』と呼ばれる、城山城への最短距離を登って来た。阿修羅坊は下りる時も、その兵糧道を通って下りたので、太郎たちには、まったく気づかれなかった。また、大雨のお陰で、阿修羅坊の痕跡はまったく消されてしまっていた。
瑠璃寺に着くと、阿修羅坊はまず太郎坊たち五人の事を調べた。確かに、そのような五人が飯道山の宿坊、普賢院にいたという事がわかった。ふてぶてしくも、ここでも阿修羅坊の名を出して、法道仙人の隠したという黄金の阿弥陀像を捜し回っていた。奴らは二日間、この辺りを捜し回っていたが、結局、諦めたのか、今朝早く、山を下りて行ったと言う。
太郎坊たちがここにいたという事は、こちらの動きを知っているという事だった。今の所、太郎坊たちはあの五人だけだろう。しかし、こちらが三十人集めている事を知れば、飯道山から仲間を呼ぶかもしれなかった。
例の志能便の術を使う連中を何人も呼ばれたら、かなわなかった。おちおち眠る事もできない。しかし、仲間を呼んだとしても、すぐには来られないだろう。ここから、近江の飯道山まで行くには早くても四日は掛かる。そして、戻って来るのに四日だとして、早くても八日は掛かる事になる。仲間が来ないうちに太郎坊を倒してしまおうと阿修羅坊は決心した。
奴らは今晩はまだ城山城にいるだろう。そして、明日、一日中、城山城を調べて、次は、やはり、坂本城に行くだろう。そして、置塩城下に戻るのは二、三日後という所だ。奴らが準備をしないうちにさっさと倒してしまおうと決めた。
南光坊にいた老山伏に聞くと、宝輪坊と永輪坊の二人はまだ、美作から戻って来ないが、他の三十人は、ほとんど置塩城下に向かったとの事だった。
阿修羅坊はとりあえずは、ここで宝の事を調べて置塩城下に帰ろうと思った。
四つめの言葉が『瑠璃』だったとは、阿修羅坊にしても、まったく意外な事だった。この瑠璃寺に『不二』『岩戸』『合掌』に関する物があるのか、瑠璃寺に残る古い絵地図や古文書(コモンジョ)などを調べてみた。
昔、行基菩薩(ギョウキボサツ)が尊善坊という天狗の案内で、瑠璃色の光を発している岩戸に行き、この世に二つとない瑠璃色に光る不思議な玉を見つけた、と書いてあった。しかし、その岩戸がどこにあるのかわからなかった。また、その瑠璃色に輝く玉というのも今はなかった。
別の古文書には、行基菩薩が山の中の瑠璃色に光る怪しい光に合掌すると、その光は三丈余り(約十メートル)もある薬師如来に変わったと書いてあった。
この二つの古文書を合わせると、昔、行基菩薩が瑠璃色の光を発している岩戸に行き、この世に二つとない不思議な玉を見つけ、その玉に合掌すると、その玉は薬師如来に変身したという事になる。
この中に四つの謎の言葉、すべてが含まれていた。瑠璃色の光の『瑠璃』、その光を発していたという『岩戸』、二つとない不思議な玉の『不二』、その玉に行基菩薩が合掌したという『合掌』、この四つの言葉は皆、薬師如来につながっていた。
薬師如来といえば瑠璃寺の本尊であり、本堂を初めとして、あちこちの子院や末院に置いてある。また、山の上の奥の院にも薬師堂があった。あの薬師堂のどこかに宝が隠されているのか。
阿修羅坊はさっそく、奥の院まで行って調べてみたが何もわからなかった。
次の日は船越山一帯の薬師如来を調べ回ったが何の収穫もなかった。
阿修羅坊はもう一度、古文書を調べてみた。性具入道がこの瑠璃寺に何かを寄進していないかを調べてみたが、当時の赤松氏に関する物はすべて削除してあり、何もわからなかった。阿修羅坊が古文書を調べている時、宝輪坊、永輪坊の二人がようやく到着したとの連絡が入った。
その晩、阿修羅坊は二人を料理屋に招待し、遊女を呼んで大いに騒いだ。そして、今朝早く、置塩城下に向かったのだった。
阿修羅坊は城下に入ると置塩山大円寺内の延齢院に向かった。
大円寺は赤松政則の叔父、勝岳性存(ショウガクショウソン)和尚を住職とする天台宗の大寺院で、領国内の天台宗寺院を支配下に置いていた。天台宗寺院を支配するという事は各寺院に所属している僧兵、山伏らを支配する事を意味していた。一国を支配するには武士だけでなく、力を持った寺院をも味方にしなければ難しい事だった。
大円寺は政則によって、寺院を支配するために、置塩城を建てたのと同時に城下に建てられたものだった。大円寺が支配しているのは寺院だけでなく、商人の座や山の民、川の民、河原者など、土地によって支配されている農民以外の者たち、すべてを支配していた。
当時、人々の支配するやり方には二通りあった。一つは武士や貴族や寺社による土地の支配。この支配には、当然、その土地を耕す農民が含まれる。もう一つは土地ではなく、人を直接支配するやり方で、商人や職人たちを座として支配していた。
元々、商人や職人たちは朝廷や寺社に所属していた『供御人(クゴニン)』『寄人(ヨリウド)』『神人(ジニン)』と呼ばれる者たちや、荘園に所属していた『散所者(サンジョモノ)』と呼ばれる者たちだった。供御人は朝廷や伊勢神宮に、寄人は寺院に、神人は神社に所属し、彼らは手工業、漁や狩り、運送業など、農業以外の仕事に携わって朝廷や寺社に奉仕していた。その見返りとして、その工芸品や収穫物の販売独占権や、国家権力からの課役免除、治外法権や各国を自由に渡り歩く許可などの特権を得ていた。散所者も同じく、荘園内の片隅に住み、領主のために農業以外の事を奉仕して来た者たちだった。やがて、彼らは分業して行き、商人や職人、運送業、漁師、猟師、整塩業、芸人などに分かれて行った。次第に朝廷や大寺院、公家たちの権力が弱まって行くと、彼らは領主たちから離れて独立するが、特権を得るために、依然、力のある寺社に所属していた。
武士が彼らを直接に支配するという事は、この当時はまだ行なわれていない。これより約百年後、織田信長が楽市楽座をやり、商人や職人を寺社から切り放して自らの支配下に置くまで、彼らは有力な寺社の保護の下で活動していた。
夢前川にいる河原者たちも、一見すると勝手に集まって来て、勝手に住んでいるように見えるが、乞食や流民(ルミン)に至るまで、すべての者たちが、どこかの寺社に所属しており、夢前川の河原にいる限りは大円寺の支配下にいる事になっていた。
金勝座は近江の国の飯道寺に所属しており、夢前川で興業している間は大円寺の支配下にあり、あの河原を仕切っている片目の銀左衛門は、夢前川の水源にある雪彦山金剛寺に所属し、大円寺より城下の河原を任されていたのだった。また、大通りに店を出している大手の商人でさえ、一応、有力な寺社に所属していた。赤松家と取引きしてはいても、直接的に赤松家の支配を受けているわけではなかった。
赤松政則は武士や農民だけでなく、寺社および、商人や職人など、領国内のすべての者たちを支配するために、叔父の勝岳性存を大円寺に置いたのだった。
その大円寺内にある延齢院が阿修羅坊の置塩城下における本拠地だった。瑠璃寺から呼んだ三十人の山伏たちは、ここ延齢院と大円寺より南東にある性海寺の東光院、城下の南方にある白旗神社内の霊仙坊の三ケ所に分かれて滞在していた。
阿修羅坊はさっそく、延齢院にいた正蔵坊に太郎坊の事を聞いてみた。
太郎坊の姿はどこにもないとの事だった。もしかしたら、城下にいないのではないかと言っていた。多分、まだ戻って来ていないのだろうと阿修羅坊は思った。しかし、今日か明日には戻って来るに違いない。
阿修羅坊は太郎坊と仲間の四人の人相書を描かせ、手下の者たちに配り、二人づつ組ませて城下の回りを固めた。この前、懲りているので充分に注意し、太郎坊一行を見つけても戦う事を禁じ、居場所を突き止めたら、一人は見張りとして残り、もう一人はすぐに延齢院に知らせる事を命じた。
夕方近く、太郎坊を見つけたという情報が入った。情報を持って来た山伏は、城下の南の大門の外の河原に太郎坊らしい五人がいると言った。もう一人が今、街道の側にある道祖神の祠の陰から見張っているので、すぐに来てくれと言う。
「そいつらは、本当に太郎坊たちか」と側にいた正蔵坊がおかしいという顔付きで聞いた。
昨日、正蔵坊はその河原に行って来たと言う。大門を見張っていた者から、その河原に不審な者がいると聞き、調べに行ってみたら、二人の乞食がその河原の奥の方にある破れ寺に住んでいた。雪彦山の祭りに行く所だが、一人の乞食が病にかかって動けないので、もうしばらく、ここで休ませてくれと言った。物凄く臭い乞食で、近寄る事もできない程だったという。
「破れ寺の事まではわかりませんが、五人の山伏が河原で飯の支度をしているのは確かです」と太郎坊を見つけた山伏は言った。
「よし、とりあえず、そこに行ってみるか」
阿修羅坊は正蔵坊を連れて街道筋の祠に向かった。太郎坊たちに気づかれないように山沿いに隠れながら祠まで行き、対岸の河原を見た。
山伏が三人、河原でのんきに酒を飲んでいた。太郎坊の姿は見えなかったが、城山城で見た若い三人に違いなかった。見張りをしていた者に聞くと、あとの二人は奥の方に行ったまま戻って来ないと言う。
阿修羅坊は河原の三人を見ながら、回りの風景を頭に入れた。太郎坊たちを倒すのに絶好の場所だと思った。そこは城下の外である。城下内で騒ぎを起こすのはまずいと思っていた阿修羅坊にとって、そこは絶好の場所だった。
太郎坊たちは多分、ついさっき、そこに着いたのだろう。城下にわしの手下が三十人いる事を知っている太郎坊は城下には入らず、そこを隠れ家に決め、志能便の術を使って、わしの手下を一人づつ倒して行くつもりに違いない。今晩は長旅に疲れて、ぐっすり眠っている事だろう。太郎坊を倒すのは今晩をおいてはないと思った。
阿修羅坊は二人の山伏をそのまま見張りとして残し、延齢院に帰ると作戦を練った。置塩城築城の時の普請奉行(フシンブギョウ)だった志水主計助(カズエノスケ)を呼び、あの辺りの地形を詳しく聞いた。
主計助の話によると、あの河原の奥に廃寺があり、その廃寺の裏の谷を通ると丁度、清水峠の辺りに出ると言う。多分、そこの寺に誰かがいた頃には、そこが道だったのだろうと主計助は言った。
阿修羅坊は主計助に、あの辺りの地図を書かせ、じっくりと作戦を練った。
太郎坊の事だ、いくら長旅で疲れているにしろ、見張りくらいは置くだろう。見張りを置くとすれば、この稲荷神社か、その上の山の上に違いない。たとえ見張りを置いたとしても、昼ならともかく、夜になれば大して見えない。しかし、太郎坊がこちらの動きに気づいて、逃げられでもしたら絶好の機会を逸してしまう。見つからないように気をつけなければならなかった。
外はすでに暗くなっていた。
今日は一日なので、うまい具合に月は新月だった。
主計助から現場の状況は詳しく聞いたが、実際にこの目で確かめていないので、どこがどうなっているのかわからない。暗い夜中に攻めて、同士討ちにでもなったら余計な犠牲者を出してしまう。夜明け前の、いくらか明るくなってから攻める事にした。
夜明け頃、すでに太郎坊が起きている可能性はあったが、起きていたからといって、三十人で同時に攻めれば何とかなるだろう。しかし、夜が明ける前にあの寺を包囲しておく必要はあった。
作戦は念のために三十人を三手に分け、宝輪坊と十人は清水谷の渡しから対岸に渡って北から向かう。永輪坊と十人は太郎坊たちがいる河原より少し下流を舟で渡って南から向かう。正蔵坊と十人は清水谷の渡しから清水峠まで行き、山の中を通って裏から向かう。月は出ていないし、敵に気づかれる事もあるまいと思った。もし、気づかれたとしても、三方から攻めれば逃がす事はあるまい。
正蔵坊と十人は少し早めに行って、太郎坊たちの寝ている寺のすぐ裏まで近づいて待機している。そして、宝輪坊と永輪坊は寺の前の草むらに隠れ、夜が明けると共に同時に攻めて行くという事に決めた。二十人が攻め始め、敵が裏の方に逃げて行ったら、正蔵坊率いる十人は片っ端から倒して行くという作戦だった。
宝輪坊と永輪坊の二人は、たった五人を倒すのに、この大袈裟な作戦は何事かと不服のようだった。太郎坊の事は二人に任せる、ただ、逃げられないように三十人で包囲しておくのだと言って納得させた。
阿修羅坊は本拠地を大円寺から現場に近い白旗寺社の霊仙坊に移し、全員を霊仙坊に集めた。
城下も寝静まった真夜中の丑(ウシ)の刻(午前二時)頃、正蔵坊率いる十人が、星空の下、清水峠に向かって出発した。それから、半時(一時間)程経って、宝輪坊と永輪坊がそれぞれ十人を率いて出発して行った。
今度こそ、太郎坊の命はないだろう。楓には悪いが、これが運命というものだ。誰も運命には逆らえないと諦めてもらうしかない。
阿修羅坊は星空を見上げながら、そんな事を考えていた。
静かだった。
川の水音だけが聞こえていた。
宝輪坊は十人の山伏を引き連れて、清水谷の渡しを渡ろうとしていた。
二艘の舟に分かれて夢前川を渡った。
夢前川はこの渡し場の少し下流の所で、清水谷を流れる川と合流する。二艘の舟はその合流点を越えて対岸に上陸した。上陸すると、宝輪坊と十人は草の中に隠れながら河原を下流の方へと進んで行った。
月はないが星は出ていて、何も見えない程、真っ暗ではなかった。また、彼らは全員、山伏である。常人よりは暗い夜道に慣れていた。
宝輪坊の一行が丁度、川向こうに城下への入り口の大門が見える辺りまで来た時、下流の方から騒がしい物音が聞こえて来た。人の悲鳴も聞こえて来る。
「一体、何事じゃ」と宝輪坊たちは下流の方へ急いだ。
一方、下流の方では永輪坊率いる十人が夢前川を渡っている所だった。
前もって用意しておいた舟に乗って川に漕ぎ出したが、その舟に穴があいていて、水が見る見るうちに溢れてきた。舟に乗っていた者たちは騒ぐが、どうする事もできず、舟は川の中程で沈んでしまった。
ほとんどの者が持っている武器を捨て、慌てて岸へと泳いだ。
泳げないで手をばたつかせていた者は何者かに斬られ、川の水を血に染めながら流されて行った。また、元の岸に戻って行った者も何者かに斬られた。
何とか対岸まで泳いでたどり着いた者には、休む間もなく手裏剣が待っていた。しかも、その手裏剣は川の中から飛んで来た。手裏剣を避け、上陸できたのは永輪坊を含めて、たったの五人だった。
川から飛んで来る手裏剣を避けて山側に行った五人に、今度は山から手裏剣が飛んで来た。また、二人が倒れた。
永輪坊たちは恐怖に襲われていた。姿の見えない敵に味方がどんどん殺されて行く。すでに三人しか残っていなかった。阿修羅坊は、敵は五人と言っていたが、とても信じられなかった。ここだけでも五人以上はいるだろう。
阿修羅坊の奴め、騙しやがったな。太郎坊を片付けたら、阿修羅坊の奴もただでは置かない、と永輪坊は怒り狂っていた。
三人は手裏剣から逃げた。
今度は何本もの丸太が音を立てて上から落ちて来た。一人が避け切れずに丸太の下敷になって死んだ。
残りの二人の前に、ようやく二人の敵が現れた。一人は金勝座の謡方の三郎、もう一人は研師の次郎吉だった。二人共、簡単な鎧を身に着けていた。三郎は太刀を構えて棒を持った山伏を相手にし、次郎吉も太刀を持って永輪坊の太刀を相手にした。
上流の方に目を移すと、下流の騒ぎを聞いた宝輪坊率いる十人は急いで下流へと向かった。これが命取りとなった。
先頭を走っていた四人の山伏が、次々と落とし穴に落ちて行った。落とし穴の底には何本もの竹槍が刺してあり、落ちた四人は見事に竹槍に串刺しにされた。
落とし穴に落ちないように慌てて立ち止まった者も、二人は弓矢にやられ、一人は手裏剣にやられた。
宝輪坊は川の中に逃げて無事だったが、川の中に飛び込もうとして、また一人、弓矢でやられた。
宝輪坊は、やはり、阿修羅坊の言っていた通り、太郎坊という奴は手ごわい奴だと思った。相手を甘く見過ぎていたようだ。しかし、今頃、後悔しても遅かった。すでに、ほとんどの者がやられ、残っていたのは宝輪坊とたったの二人だけだった。
その三人の前に姿を現したのは探真坊、そして、金勝座の左近、鎧師の吉次だった。
それより少し前、太郎坊を裏から攻めるため、清水峠から山の中を進んでいた正蔵坊と十人はのんきに歩いていた。
どうせ、出る幕はないだろう、高処の見物でもしているか、と気楽な気持ちで進んでいた。まったく、戦う意志がなかったと言ってよかった。ここなら火を使っても敵にはわからないだろうと、正蔵坊たちは松明(タイマツ)を手にして暗い山の中を歩いていた。
ところが、突然、先頭を歩いていた二人の男が消えた。落とし穴に落ちたのだった。二人の後を歩いていた三人は一瞬、何が起こったのかわからず、立ち止まり、二人が落ちた穴の中を覗き込んだ。落ちた二人が持っていた松明が、二人の無残な姿を照らしていた。二人共、目を剥き、大口を開けたまま事切れていた。二人の体は何本もの竹槍に串刺しにされていた。
後ろを歩いていた正蔵坊たち六人は何事が起こったのか、まだ、気づいていない。前の三人が立ち止まっているのを見て、「どうした、太郎坊でも出たのか」と正蔵坊は笑いながら声を掛けた。
「殺された!」と穴の中を覗いていた山伏が言って武器を構えた。
「何だと!」と正蔵坊たちは駈け寄って来た。
六人が穴の中を覗いている時、一人が悲鳴を上げた。
落とし穴を避け、先に行こうとしていた男が宙吊りにされ、胸には竹槍が刺さり、その竹槍は背中まで抜けていた。
まったく、予想外の事だった。何の障害もなく、目的地に行けるはずだった。そして、宝輪坊と永輪坊の二人が太郎坊たちを倒すのを、ただ、見ていればいいだけだった。死ぬ者など出るはずはなかった。ところが、すでに三人も殺された。しかも、敵の姿はどこにも見えない。
目の前で仲間が宙づりにされ、竹槍に刺されるのを見た男は恐怖のあまり逃げ出した。悲鳴を上げながら逃げて行ったが、その悲鳴は絶叫となって消えた。一人が後を追って調べてみると、悲鳴を上げて逃げた男は首から斜めに袈裟斬りに斬られていた。明らかに刀傷だった。
誰かがいる。しかし、姿は見えなかった。
残った七人は松明を捨て、落とし穴と罠に気をつけながら、武器を構えて見えない敵に備えた。
「固まるな。固まると、一遍にやられるぞ」と正蔵坊は指図した。
「離れるな、離れるとやられるぞ」とも正蔵坊は言った。
突然、音を立てて竹槍が飛んで来た。竹槍は一人の山伏の腕をかすって木に刺さった。
弓矢を持った山伏が、竹槍の飛んで来た方に何本もの矢を放ったが、何の反応もなかった。
正蔵坊は棒を構えながら竹槍の飛んで来た方に向かった。竹で作った大きな弓が木に縛り付けてあったが敵の姿はなかった。
「気をつけろ。敵は近くにいるぞ」と正蔵坊は怒鳴った。
誰かが悲鳴を上げた。悲鳴を上げながら落とし穴に落ちて行った。
落とし穴の方に行こうとした二人が弓矢に刺されて倒れた。
弓矢は二方向から同時に飛んで来た。
生き残っている四人は二手に分かれて弓矢の飛んで来た方に向かった。弓矢が再び、飛んで来たが弾き返した。
敵が姿を現した。一人は金比羅坊、もう一人は金勝座の右近だった。二人は弓を捨てると刀を構えて四人に対した。
金比羅坊は二人を難無く倒す事ができたが、右近は正蔵坊を倒すのに少してこずり、もう一人の相手に背中を斬られた。その時、八郎が現れ、右近の背中を斬った山伏を斬り捨てた。
清水峠から来た十一人は宝輪坊たちが川を渡る前に、すでに全滅していたのだった。
時を元に戻すと、下流の方では次郎吉が永輪坊と戦い、金勝座の三郎は棒術を使う山伏を相手にしていた。三郎は敵の棒に右腕をやられたが、そこに現れた太郎に救われた。次郎吉と永輪坊はいい勝負をしていた。ほんの一瞬の差で次郎吉が勝った。
上流の方では、鎧師の吉次が槍で宝輪坊の薙刀と戦い、左近が槍で棒を持った山伏と戦い、探真坊が棒で太刀を構えた山伏を相手にしていた。左近と探真坊はわけなく敵を倒したが、吉次は宝輪坊の薙刀に左股(モモ)を斬られて倒れた。
宝輪坊は吉次を倒すと、「太郎坊はどこだ」と叫びながら廃寺の方に向かった。
寺の方では金比羅坊と八郎と白粉売りの藤吉が待ち構えていたが、宝輪坊の前に突然、太郎が現れた。
「太郎坊は俺だ」と太郎は刀を構えた。
「お前か、お前が月輪坊と日輪坊を倒したのか」
「名前は知らん。名前は知らんが、阿修羅坊と一緒にいた二人なら倒した」
「お前を殺す」と宝輪坊は薙刀を構えた。
太郎は刀を中段に構えた。
宝輪坊は左足を前に出し、薙刀の刃を上にして右肩の上にかつぐようにして体の前に斜めに構えた。
ようやく、明るくなりかかって来た。
太郎は右足を後ろに引くと刀も後ろに引いた。
宝輪坊は右足を大きく踏み込み、太郎の首を狙って薙刀を振り下ろして来た。
太郎は体をほんの少しずらして薙刀を避けると、宝輪坊の右腕を狙って刀を横に払った。
宝輪坊は太郎の刀を薙刀で弾くと、そのまま、太郎の足元を狙って薙刀を振り回した。
太郎は飛び上がって薙刀を避け、宝輪坊の右腕を狙い、刀を振り下ろした。
宝輪坊は太郎の刀を避け、薙刀を振りかぶった。その時、太郎の振り上げた刀に右腕を斬られた。
宝輪坊の体は一瞬、ぐらついたが、倒れずに持ちこたえた。斬られた右腕は血を流しながら薙刀にぶら下がっていた。宝輪坊は右腕を斬られても左手で薙刀を構えていた。
「おぬしに恨みはない」と太郎は言った。「帰って、阿修羅坊に伝えてくれ。今度、また、攻めて来るようなら阿修羅坊の命はないし、浦上美作守の命もないとな」
太郎はそう言うと、刀に付いている血を振った。
「お前らは一体、何者じゃ」と宝輪坊は聞いた。
「おぬしたちと同じ山伏だ。何の恨みもないのに山伏同士で殺し会う事もないだろう」
「‥‥‥わかった」と言うと、宝輪坊は右腕から血を流しながら、斬られた腕のぶら下がったままの薙刀を担ぐと去って行った。
太郎の回りに皆が集まって来ていた。皆が去って行く宝輪坊を見送っていた。
敵で生き残ったのは宝輪坊、ただ一人だけだった。
さて、太郎たちが、どのようにして阿修羅坊の差し向けた瑠璃寺の山伏三十三人を見事に倒したのか、太郎の方から見てみよう。
太郎たち五人が、この廃寺に着いた次の日の朝、伊助が助六たちを連れて来た。そして、助六たちが帰ると、さっそく現場を見回って作戦を立てた。
まず、八郎を山の上の見張りに立たせ、裏山の敵が通りそうな所に落とし穴を掘り始めた。午後になって阿修羅坊の手下が一人来た。正蔵坊である。八郎はすぐに太郎に知らせた。この時は金比羅坊と八郎が乞食に化けてごまかした。
夕方、百姓に化けた伊助が来た。武器は揃えたが、どうやって、ここに運んだらいいのか相談に来たのだった。太郎は、武器はこちらから取りに行くと言い、伊助から金勝座の座員たちの事を聞いた。作戦は立てたが、どうしても味方の人数が足らなかった。金勝座にも手伝ってもらうしかなかった。伊助の話だと、金勝座の者たちは皆、かなり使えると言う。
その夜、木賃宿『浦浪』の一室に全員が集まり、作戦会議を行なった。武器は空が曇っているのを幸いに、闇の中、舟に積み込んで運び出した。
その夜のうちに、上流の入り口に大きな落とし穴を掘って竹槍を埋めた。そして、敵が舟で正面の河原に上陸した場合、隠れたまま弓矢を射れるように、人が潜れる程の穴を幾つも掘った。その穴は落とし穴としても使うつもりでいた。
次の日には、金勝座の舞台作りの甚助の指揮によって、山の中や河原に幾つもの罠が作られた。その日の午後、阿修羅坊が城下に戻って来たとの情報を藤吉が持って来た。藤吉は足が速いので、城下とこことの連絡係として活躍した。
準備が完了した、その日の夕方、太郎たち五人はわざと河原に出て酒を飲む真似をした。思っていた通り、二人の山伏が太郎たちを発見し、阿修羅坊が調べに来た。
この時、城下の阿修羅坊の本拠地、大円寺には伊助と助六、性海寺には金勝座の大鼓打ちの弥助と太一、白旗神社には謡方の小助と藤若、清水谷の渡しの近くにある八幡神社には藤吉と千代が待機していた。それぞれ、敵に動きがあれば娘たちが藤吉に知らせに走り、藤吉はその情報を太郎たちに知らせる手筈となっていた。
藤吉は清水谷の渡しを渡らず、川沿いに河原を走り、南の大門の前の小川を飛び越え、太郎たちのいる河原の対岸まで来て、簡単な情報の場合は矢文を弓で飛ばした。重要な情報は、こちら側の木から対岸の木に縛り付けてある綱を滑車で滑りながら川を渡って知らせる事になっていた。この仕掛けも甚助が作った物だった。勿論、太郎たちは阿修羅坊の手下が街道筋の祠から、こちらを見張っている事を知っている。藤吉も、その見張りに気づかれないように行動した。
日が暮れ、暗くなってから阿修羅坊は動き出した。大円寺にいた阿修羅坊を初め、宝輪坊、永輪坊など山伏十人余りが南に向かって移動した。大円寺を見張っていた助六は藤吉のもとへ走り、伊助は阿修羅坊たちの後を追った。性海寺の山伏たちも動き出した。太一が藤吉のもとへ走り、弥助は後を追った。
助六からの情報を得た藤吉は河原を走って太郎に矢文で知らせた。戻る途中、小川の所で助六と会い、助六から太一の情報を聞くと再び戻って太郎に知らせた。
大門の所の小川は身の軽い藤吉だから飛び越える事ができるが、普通の者が飛び越える事はまず不可能と見てよかった。助六と藤吉は八幡神社に向かった。八幡神社には太一が待っていた。やがて、藤若が大円寺の山伏も性海寺の山伏も皆、白旗神社に集合したとの情報を持って来た。藤吉はその情報を太郎に知らせた。三人娘はそのまま八幡神社に待機していた。白旗神社には伊助、弥助、小助の三人が見張っていた。
その後、しばらく、阿修羅坊の動きは止まった。
丑の刻(午前二時)頃、十人程の山伏が河原の方に向かっているとの情報を持って、弥助が八幡神社に来た。弥助が来るのと同時くらいに、こちらに向かって来る一団が見えた。一団は清水谷の渡しに向かった。その中に阿修羅坊の姿もあった。一団の後を付けていた伊助が八幡神社に来た。伊助は弥助を白旗神社に戻し、藤吉と共に阿修羅坊たちの後を追った。
阿修羅坊は正蔵坊と十人を川向こうに渡し、一人の船頭に二艘の舟を下流まで運ぶように命じた。正蔵坊たちが向こう岸にたどり着くのを確認すると、阿修羅坊は白旗神社には戻らずに大門の方に向かった。
阿修羅坊は大門の見張りの者に、「この先の河原でちょっとした騒ぎが起こるが心配しないでくれ。すべて、自分が責任を持つから目をつぶっていてくれ」と言い渡した。そして、しばらくしたら渡し場の船頭が一人、戻って来るから、入れてやってくれと頼むと、その場を去り、白旗神社に戻って行った。
後を付けていた伊助は藤吉を太郎のもとに走らせ、自分はまた阿修羅坊の後を追った。
藤吉からの情報を受けた太郎は、全員を戦闘配置に付けた。
まず、金比羅坊と右近、八郎の三人を清水峠に通じる谷道に向かわせた。もう一ケ所、山の中を通って廃寺の横辺りに出る谷があり、万一のために、そこを次郎吉に守らせた。
あとの者にはとりあえず、弓矢を持たせて草むらの穴に中に潜らせた。
やがて、目の前の川を二艘の舟がつながって下って行くのが見えた。乗っているのは船頭一人のようだった。二艘の舟は下流の岩が飛び出ている所より少し手前の対岸に上げられた。乗っていた船頭は舟を河原に上げると街道の方に消えた。
下流に舟を置いたという事は、あそこを渡るつもりだろう。二艘という事は、多分、十人位だろう。太郎は下流の上陸地点の上の山の中に、手裏剣を使う小鼓打ちの新八と、丸太を落とす役として謡方の三郎を配置した。そして、太郎は泳ぎの達者な風光坊を連れて川の中に入って対岸まで泳ぐと、二艘の舟に穴をあけた。風光坊はそのまま舟の側に待機させ、太郎は元の河原に戻って、次の情報を待った。
あとは残りの十人が、どこから来るか、だった。舟で正面の河原に上陸するか、清水谷の渡しを渡って、河原を歩いて来るか、どちらかだった。
それから半時程して、阿修羅坊たちの動きが伊助から藤吉に伝わり、藤吉は滑車を使って対岸に渡ると綱を切り、太郎に知らせた。
残りの二十人が二手に分かれ、一つは今、清水谷の渡しを渡り、もう一つは街道沿いに南に下っているとの事だった。
太郎はすぐに上流の入り口、大きな落とし穴を掘った所の山の中に、弓矢を持った甚助と左近、手裏剣を使う探真坊を配置し、そこを通り抜けて来た者を倒すため、槍を持った鎧師の吉次を配置した。藤吉は次郎吉の所に配置し、太郎自身は川に入って風光坊が待機している対岸の舟の所に向かった。
こうして、戦闘は開始された。
裏山の方では、落とし穴に落ちて死んだ者が三人。宙吊りにされて竹槍に刺されて死んだ者が一人。逃げようとして八郎に斬られて死んだ者が一人。金比羅坊と右近の弓矢に刺されて死んだ者が、それぞれ一人づつで二人。金比羅坊に斬られて死んだ者が二人。右近の背中を斬ったが、八郎に斬られて死んだ者が一人。正蔵坊は右近に斬られて死んで行った。裏山では全員が死んだ。
下流の方では、沈んだ舟から川に落ち、泳げずに暴れている所を太郎に斬られて流れて行った者が二人。同じく、風光坊に斬られて流れて行った者が一人。元の岸に戻り、風光坊に斬られて死んだ者が一人。泳いで対岸までたどり着いたが、川の中からの太郎の手裏剣にやられて死んだ者が二人。無事に対岸に上がったが、山からの新八の手裏剣にやられて死んだ者が二人。三郎が落とした丸太の下敷になって死んだ者が一人。六尺棒で三郎の右腕を折るが、太郎に右腕を斬られた者が一人。この山伏は三郎に止めを刺されて死んだ。永輪坊は次郎吉の太刀に袈裟に斬られて死んだ。ここでは手足を斬られて流されて行った者が三人いたが、あとの者は皆、死んで行った。
上流の方では、落とし穴に落ちて死んだ者が四人。甚助と左近の弓矢に刺されて死んだ者が二人。甚助の弓矢に背中を刺されたが、まだ生きていて探真坊の左股を刀で刺して、探真坊に止めを刺された者が一人。探真坊の手裏剣に顔と首を刺されて死んだ者が一人。探真坊の棒で喉を突かれて死んだ者が一人。左近の槍で胸を突かれて死んだ者が一人。宝輪坊は吉次の左股を薙刀で斬ったが、太郎に右腕を斬られた。ここでも、宝輪坊以外は全員、死んで行った。
伊助が宝輪坊たちの後を追って来た時には、戦闘はほとんど終わっていて、太郎が宝輪坊と戦っている所だった。
作戦は大成功だった。思っていたより、うまく行ったと言えた。
敵が夜明け前のまだ暗いうちに襲って来た事が、返って、うまく行ったとも言えた。夜明け近くの明るくなってからでは、こうも、うまく落とし穴には落ちなかっただろう。
味方の負傷者を調べてみると、鎧師の吉次が宝輪坊の薙刀に左股を斬られ、金勝座の右近が背中を斬られ、同じく金勝座の三郎が右腕を骨折していた。そして、風光坊が右頬と左腕を軽く斬られ、探真坊が左股を刺された。
探真坊は上流で宝輪坊たちと戦っていたが、一人の敵を棒術で倒した後、敵がまだ、どこかに隠れてはいないかと、落とし穴の辺りを探っていた。落とし穴の中の無残な死体を覗いている時、弓矢でやられて倒れていた男が、ふいに探真坊の左股を刀で刺して来た。探真坊はその男の止めを刺したが、まったくの不覚だった。
幸いにも、死に至るような深い傷を負った者はいなかった。
やがて、藤吉が助六たちを連れて来て負傷者の手当を行なった。
怪我をしなかった者たちは敵の死体を片付けた。敵の武器は回収し、死体はすべて、落とし穴の中に埋められ、冥福を祈るため、お経が唱えられた。そして、辰の刻(午前八時)頃には、何事もなかったかのように綺麗に片付けられた。
小鳥が鳴きながら飛び回っていた。
いつもと変わらぬ朝だった。
夢前川はいつもの様に流れ、街道にはいつもの様に旅人の姿も行き交っていた。
太郎は独り、河原に座って川の流れを眺めていた。着ている黒い志能便装束は泥だらけだった。
阿修羅坊の一味は倒した。作戦は成功した。しかし、いつものように戦闘の後の空しさに襲われていた。倒した三十人余りの山伏たちは、太郎とは何の関係も無い連中だった。ただ、阿修羅坊に命令されただけで、ここに来て戦い、死んで行った。
奴らは一体、何の為に死んで行ったのだろう。
幸い、味方には死人はでなかったが、怪我人は出た。彼らは何の為に怪我をしなければならなかったのだろう。
昨日までは、阿修羅坊一味を倒すために無我夢中になって作戦を練り、ろくに眠りもしないで、落とし穴を掘ったり罠を仕掛けていた。やらなければ殺される。殺されないために必死だった。しかし‥‥‥
「太郎坊様」と誰かが呼んだ。
太郎は振り返った。いつの間にか、すぐ後ろに助六が立っていた。
「どうしたんですか」と助六は首を傾げながら聞いた。
「いや‥‥‥」と太郎は首を振った。
「奥さんとお子さんの事を考えていたのですか」
「えっ、いや、そうじゃない」
「見事でしたね」と助六は笑った。
「怪我人の方はどうです」と太郎は聞いた。
「皆、大丈夫です。それ程、深い傷の人はいません」
「そうでしたか。でも、右近殿と三郎殿が怪我をして、金勝座の方は大丈夫ですか」
「三郎さんは手を骨折しただけですから唄は歌えます。ただ、右近さんの方は、しばらくは舞台に上がれません。でも大丈夫です。お頭が代わりに舞台に上がるでしょうから」
「そうですか。迷惑をかけて、すみません」
「迷惑だなんて」と助六は首を振った。「わたしたちは、これまでも危ない事を何度もして来ました。今回程、危ない事はなかったけど、これだけの怪我で済んだなんて、まるで嘘のようです。怪我をした人たちも、みんな、今回の戦がうまく行った事が嬉しくてしょうがないみたいです。わたしもほんとに驚いています」
「風光坊と探真坊の具合はどうです」
「風光坊様は左腕を斬られましたけど、それ程、深くありません。十日もすれば治るんじゃないでしょうか。探真坊様の左足の傷は結構、深いです。しばらくの間は起きられないでしょう。それと、吉次様の傷も結構、深いみたいです。探真坊様と吉次様と右近さんは小野屋さんが面倒を見てくれるそうです」
「小野屋さんが‥‥‥そうですか」
「これから、どうするつもりですか」と助六は聞いた。
太郎には答えられなかった。先の事など、まだ何も考えてはいなかった。
「もう、ここに隠れる必要もないんでしょ。『浦浪』に戻って来て、今日はゆっくりと休んだ方がいいですよ」
「そうですね」と太郎は頷いた。
助六は太郎に笑いかけて、川の側まで行くと、しゃがんだ。
「太郎坊様、今日は金勝座の公演があるんですよ。ぜひ、見に来て下さい」
「そうですね」と太郎は助六の後ろ姿に言った。「みんな、疲れ切っていますから、今日は、のんびりと芝居見物でもさせましょう」
「太郎坊様」と助六が振り返った。「奥さんとお子さんは、いつ、助け出すのですか」
「わかりません。ここのお屋形様が戻って来て、楓が弟に会ってからにしようと思います」
「いつ頃、戻って来るんでしょう」
「それも、わかりません。しかし、それまでに宝を捜し出さなくてはなりません」
「ああ、そうでしたね。一体、どこにあるんでしょう」
「さあ」と太郎は首を振った。「助六殿、そなたも一睡もしていないんでしょう」
「ええ」
「午後から舞台があるのなら、少し、休んだ方がいいですよ」
「わたしは大丈夫ですよ。それより、太郎坊様の方こそ疲れているでしょうに」
「わたしは、今日は、のんびりするつもりですから」
助六は笑った。太郎も笑った。
「太郎坊様、わたしの本名は奈々って言うんですよ。変でしょ。七日に生まれたから『なな』なんですって」
「奈々殿ですか」
「殿なんて変ですよ」
「わたしの本名は愛洲太郎左衛門と言います」
「愛洲? 愛洲っていえば、南伊勢の愛洲様ですか」
「御存じですか」
「はい、わたしが生まれたのは伊勢の国、松坂の近くの櫛田(クシダ)と言う所です。もう、昔の事ですけど、愛洲様のお城下、玉丸(田丸)や五ケ所浦で踊った事もありました」
「そうでしたか。五ケ所浦に行った事があるんですか」
「太郎坊様は五ケ所浦の出身なんですか」
「ええ」
「五ケ所浦といえば、海賊(水軍)ですか」
「まあ、そうです」
「そうだったのですか。金勝座の人はほとんどが伊勢の出身ですよ。お頭は松坂ですし、太一は山田です。藤若は愛洲殿のお城下、玉丸の生まれです。左近さんと大鼓の弥助さんと小鼓の新八さんの三人が大和の国の出身で、謡方の三郎さんと見習いのお千代ちゃんが近江の国の出身ですけど、後のみんなは伊勢です」
「そうですか。ところで、金勝座の人たちは、どうして、みんな、武術をやるんですか」
「みんなとは言いませんけど、わたしたち芸能一座の者たちは、ほとんどの者が身を守るために何らかの武術を身に付けています。わたしたちは一生、旅をして暮らします。知らない他所の地で、何かあった時に、頼りになるのは自分たちだけなんです。誰も助けてはくれません。わたしたちは芸を習うのと一緒に武術も習うのです。武術といっても護身のためのものですから、それ程大したものではありませんけど、金勝座の人たちは皆、一流の腕を持っています。松恵尼様が金勝座を作る時、芸だけでなく、武術の腕も持っている者たちを集めたのです」
「成程、そうだったのですか。それじゃあ、助六殿」
「奈々と呼んで下さい」
「奈々殿、いや、奈々さん、女の人も皆、武術を使うわけですか」
「ええ、皆、使います」
「あの、見習いのお千代さんも?」
「ええ、お千代ちゃんも小太刀(コダチ)を使います。か弱そうに見えるけど、お千代ちゃんの小太刀は本物ですよ。最近の中途半端なお侍さんなんか簡単にやっつけちゃうわ」
「へえ、あの娘(コ)がね」
「お千代ちゃんは一人娘だったんです。お父さんに、これからの世の中は、女でも強くなければ生きては行けないと、小さい頃から厳しく仕込まれたらしいの。お父さんはお侍だったけど戦で亡くなりました。お母さんはお千代ちゃんが小さい頃に亡くなったらしい。お千代ちゃんは去年、金勝座に入ったんです。踊りなんて全然知らなかったけど、小太刀の名人だけあって、覚えが早いし、筋もいいわ。武術と芸事っていうのは、どこか通じる所があるのかもしれませんね。武術が上達すると芸事も上達するし、その逆も言えます。よくわからないけど、武術のお稽古をすると心が澄んで来て、その心で踊るとうまく踊れます。だから、わたしは芸事のお稽古と一緒に武術のお稽古もしています」
「奈々さんは何をやるんです」
「わたしも小太刀です。太郎様、今度、私に剣術を教えて下さいな」
「わたしの方が負けるかも知れない」
「何を言ってるんですか、あなたに敵う人なんて、どこにもいませんよ」
「いや、男は女には弱いものです」
助六は笑った。「女も男の人には弱いものですよ」
太郎も笑った。
「今日も、暑くなりそうですね」と助六が言った。
「ええ」と太郎は頷いた。
「お姉さん」と誰かが助六を呼んでいた。
助六は立ち上がった。
藤若が来た。
「お姉さん、みんな、帰るそうよ」と藤若は助六と太郎を見ながら言った。
「そう、太郎坊様も帰るでしょ」と助六は聞いた。
「うん」と太郎も立ち上がった。
「太郎坊様も『浦波』に来るんでしょ」と藤若が聞いた。
太郎は頷いた。
藤若が助六を見ながら笑った。
三人は廃寺の方に戻った。
よく見ると、太郎坊ともう一人は職人の格好をしていた。そして、山伏姿の三人の内の一人は三十半ば位の大男で、あとの二人は若い。まさしく、笠形山で宝捜しをしていた連中だった。正明坊ではなく、あれは、この五人だったのだ。
だが、どうして、太郎坊が宝の事を知っている。浦上美作守と自分しか知らないはずだった。
待てよ。浦上美作守から宝の話を聞いた次の朝、わしの頭の上に、太郎坊は月輪坊の吹矢を置いて行った。という事は、あの晩、太郎坊は浦上屋敷にいたという事になる。あの話をどこかで聞いていたというのか。それ以外に考えられないが、あの時、太郎坊がどこかに隠れて話を聞いていたなど信じられない事だった。
志能便の術‥‥‥大した事ないと侮っていたが、恐るべき技だった。さらに、もう一つ恐るべき事に、太郎坊は四つめの言葉も知っていた。志能便の術を使って、伊勢の北畠のもとから盗み出して来たのだろうか。
まったく、恐るべき相手だった。そして、その四つめの言葉が『瑠璃』だと言うのも驚きだった。瑠璃と言えば、やはり、瑠璃寺だろう。太郎坊たちは瑠璃寺から、ここに来たに違いなかった。瑠璃寺で何も得る物がなく、仕方なく、この城跡に来たのだろう。
阿修羅坊の調べたところ、ここにも宝捜しの手掛かりになる物は何もなかった。
阿修羅坊は太郎坊たちに気づかれないように山を下りると、真っすぐに瑠璃寺に向かった。
阿修羅坊は太郎たちとは違う道を登って来たのだった。太郎たちは城主の屋形のあった所から登る『大手道』を、阿修羅坊は『兵糧(ヒョウロウ)道』と呼ばれる、城山城への最短距離を登って来た。阿修羅坊は下りる時も、その兵糧道を通って下りたので、太郎たちには、まったく気づかれなかった。また、大雨のお陰で、阿修羅坊の痕跡はまったく消されてしまっていた。
瑠璃寺に着くと、阿修羅坊はまず太郎坊たち五人の事を調べた。確かに、そのような五人が飯道山の宿坊、普賢院にいたという事がわかった。ふてぶてしくも、ここでも阿修羅坊の名を出して、法道仙人の隠したという黄金の阿弥陀像を捜し回っていた。奴らは二日間、この辺りを捜し回っていたが、結局、諦めたのか、今朝早く、山を下りて行ったと言う。
太郎坊たちがここにいたという事は、こちらの動きを知っているという事だった。今の所、太郎坊たちはあの五人だけだろう。しかし、こちらが三十人集めている事を知れば、飯道山から仲間を呼ぶかもしれなかった。
例の志能便の術を使う連中を何人も呼ばれたら、かなわなかった。おちおち眠る事もできない。しかし、仲間を呼んだとしても、すぐには来られないだろう。ここから、近江の飯道山まで行くには早くても四日は掛かる。そして、戻って来るのに四日だとして、早くても八日は掛かる事になる。仲間が来ないうちに太郎坊を倒してしまおうと阿修羅坊は決心した。
奴らは今晩はまだ城山城にいるだろう。そして、明日、一日中、城山城を調べて、次は、やはり、坂本城に行くだろう。そして、置塩城下に戻るのは二、三日後という所だ。奴らが準備をしないうちにさっさと倒してしまおうと決めた。
南光坊にいた老山伏に聞くと、宝輪坊と永輪坊の二人はまだ、美作から戻って来ないが、他の三十人は、ほとんど置塩城下に向かったとの事だった。
阿修羅坊はとりあえずは、ここで宝の事を調べて置塩城下に帰ろうと思った。
四つめの言葉が『瑠璃』だったとは、阿修羅坊にしても、まったく意外な事だった。この瑠璃寺に『不二』『岩戸』『合掌』に関する物があるのか、瑠璃寺に残る古い絵地図や古文書(コモンジョ)などを調べてみた。
昔、行基菩薩(ギョウキボサツ)が尊善坊という天狗の案内で、瑠璃色の光を発している岩戸に行き、この世に二つとない瑠璃色に光る不思議な玉を見つけた、と書いてあった。しかし、その岩戸がどこにあるのかわからなかった。また、その瑠璃色に輝く玉というのも今はなかった。
別の古文書には、行基菩薩が山の中の瑠璃色に光る怪しい光に合掌すると、その光は三丈余り(約十メートル)もある薬師如来に変わったと書いてあった。
この二つの古文書を合わせると、昔、行基菩薩が瑠璃色の光を発している岩戸に行き、この世に二つとない不思議な玉を見つけ、その玉に合掌すると、その玉は薬師如来に変身したという事になる。
この中に四つの謎の言葉、すべてが含まれていた。瑠璃色の光の『瑠璃』、その光を発していたという『岩戸』、二つとない不思議な玉の『不二』、その玉に行基菩薩が合掌したという『合掌』、この四つの言葉は皆、薬師如来につながっていた。
薬師如来といえば瑠璃寺の本尊であり、本堂を初めとして、あちこちの子院や末院に置いてある。また、山の上の奥の院にも薬師堂があった。あの薬師堂のどこかに宝が隠されているのか。
阿修羅坊はさっそく、奥の院まで行って調べてみたが何もわからなかった。
次の日は船越山一帯の薬師如来を調べ回ったが何の収穫もなかった。
阿修羅坊はもう一度、古文書を調べてみた。性具入道がこの瑠璃寺に何かを寄進していないかを調べてみたが、当時の赤松氏に関する物はすべて削除してあり、何もわからなかった。阿修羅坊が古文書を調べている時、宝輪坊、永輪坊の二人がようやく到着したとの連絡が入った。
その晩、阿修羅坊は二人を料理屋に招待し、遊女を呼んで大いに騒いだ。そして、今朝早く、置塩城下に向かったのだった。
阿修羅坊は城下に入ると置塩山大円寺内の延齢院に向かった。
大円寺は赤松政則の叔父、勝岳性存(ショウガクショウソン)和尚を住職とする天台宗の大寺院で、領国内の天台宗寺院を支配下に置いていた。天台宗寺院を支配するという事は各寺院に所属している僧兵、山伏らを支配する事を意味していた。一国を支配するには武士だけでなく、力を持った寺院をも味方にしなければ難しい事だった。
大円寺は政則によって、寺院を支配するために、置塩城を建てたのと同時に城下に建てられたものだった。大円寺が支配しているのは寺院だけでなく、商人の座や山の民、川の民、河原者など、土地によって支配されている農民以外の者たち、すべてを支配していた。
当時、人々の支配するやり方には二通りあった。一つは武士や貴族や寺社による土地の支配。この支配には、当然、その土地を耕す農民が含まれる。もう一つは土地ではなく、人を直接支配するやり方で、商人や職人たちを座として支配していた。
元々、商人や職人たちは朝廷や寺社に所属していた『供御人(クゴニン)』『寄人(ヨリウド)』『神人(ジニン)』と呼ばれる者たちや、荘園に所属していた『散所者(サンジョモノ)』と呼ばれる者たちだった。供御人は朝廷や伊勢神宮に、寄人は寺院に、神人は神社に所属し、彼らは手工業、漁や狩り、運送業など、農業以外の仕事に携わって朝廷や寺社に奉仕していた。その見返りとして、その工芸品や収穫物の販売独占権や、国家権力からの課役免除、治外法権や各国を自由に渡り歩く許可などの特権を得ていた。散所者も同じく、荘園内の片隅に住み、領主のために農業以外の事を奉仕して来た者たちだった。やがて、彼らは分業して行き、商人や職人、運送業、漁師、猟師、整塩業、芸人などに分かれて行った。次第に朝廷や大寺院、公家たちの権力が弱まって行くと、彼らは領主たちから離れて独立するが、特権を得るために、依然、力のある寺社に所属していた。
武士が彼らを直接に支配するという事は、この当時はまだ行なわれていない。これより約百年後、織田信長が楽市楽座をやり、商人や職人を寺社から切り放して自らの支配下に置くまで、彼らは有力な寺社の保護の下で活動していた。
夢前川にいる河原者たちも、一見すると勝手に集まって来て、勝手に住んでいるように見えるが、乞食や流民(ルミン)に至るまで、すべての者たちが、どこかの寺社に所属しており、夢前川の河原にいる限りは大円寺の支配下にいる事になっていた。
金勝座は近江の国の飯道寺に所属しており、夢前川で興業している間は大円寺の支配下にあり、あの河原を仕切っている片目の銀左衛門は、夢前川の水源にある雪彦山金剛寺に所属し、大円寺より城下の河原を任されていたのだった。また、大通りに店を出している大手の商人でさえ、一応、有力な寺社に所属していた。赤松家と取引きしてはいても、直接的に赤松家の支配を受けているわけではなかった。
赤松政則は武士や農民だけでなく、寺社および、商人や職人など、領国内のすべての者たちを支配するために、叔父の勝岳性存を大円寺に置いたのだった。
その大円寺内にある延齢院が阿修羅坊の置塩城下における本拠地だった。瑠璃寺から呼んだ三十人の山伏たちは、ここ延齢院と大円寺より南東にある性海寺の東光院、城下の南方にある白旗神社内の霊仙坊の三ケ所に分かれて滞在していた。
阿修羅坊はさっそく、延齢院にいた正蔵坊に太郎坊の事を聞いてみた。
太郎坊の姿はどこにもないとの事だった。もしかしたら、城下にいないのではないかと言っていた。多分、まだ戻って来ていないのだろうと阿修羅坊は思った。しかし、今日か明日には戻って来るに違いない。
阿修羅坊は太郎坊と仲間の四人の人相書を描かせ、手下の者たちに配り、二人づつ組ませて城下の回りを固めた。この前、懲りているので充分に注意し、太郎坊一行を見つけても戦う事を禁じ、居場所を突き止めたら、一人は見張りとして残り、もう一人はすぐに延齢院に知らせる事を命じた。
夕方近く、太郎坊を見つけたという情報が入った。情報を持って来た山伏は、城下の南の大門の外の河原に太郎坊らしい五人がいると言った。もう一人が今、街道の側にある道祖神の祠の陰から見張っているので、すぐに来てくれと言う。
「そいつらは、本当に太郎坊たちか」と側にいた正蔵坊がおかしいという顔付きで聞いた。
昨日、正蔵坊はその河原に行って来たと言う。大門を見張っていた者から、その河原に不審な者がいると聞き、調べに行ってみたら、二人の乞食がその河原の奥の方にある破れ寺に住んでいた。雪彦山の祭りに行く所だが、一人の乞食が病にかかって動けないので、もうしばらく、ここで休ませてくれと言った。物凄く臭い乞食で、近寄る事もできない程だったという。
「破れ寺の事まではわかりませんが、五人の山伏が河原で飯の支度をしているのは確かです」と太郎坊を見つけた山伏は言った。
「よし、とりあえず、そこに行ってみるか」
阿修羅坊は正蔵坊を連れて街道筋の祠に向かった。太郎坊たちに気づかれないように山沿いに隠れながら祠まで行き、対岸の河原を見た。
山伏が三人、河原でのんきに酒を飲んでいた。太郎坊の姿は見えなかったが、城山城で見た若い三人に違いなかった。見張りをしていた者に聞くと、あとの二人は奥の方に行ったまま戻って来ないと言う。
阿修羅坊は河原の三人を見ながら、回りの風景を頭に入れた。太郎坊たちを倒すのに絶好の場所だと思った。そこは城下の外である。城下内で騒ぎを起こすのはまずいと思っていた阿修羅坊にとって、そこは絶好の場所だった。
太郎坊たちは多分、ついさっき、そこに着いたのだろう。城下にわしの手下が三十人いる事を知っている太郎坊は城下には入らず、そこを隠れ家に決め、志能便の術を使って、わしの手下を一人づつ倒して行くつもりに違いない。今晩は長旅に疲れて、ぐっすり眠っている事だろう。太郎坊を倒すのは今晩をおいてはないと思った。
阿修羅坊は二人の山伏をそのまま見張りとして残し、延齢院に帰ると作戦を練った。置塩城築城の時の普請奉行(フシンブギョウ)だった志水主計助(カズエノスケ)を呼び、あの辺りの地形を詳しく聞いた。
主計助の話によると、あの河原の奥に廃寺があり、その廃寺の裏の谷を通ると丁度、清水峠の辺りに出ると言う。多分、そこの寺に誰かがいた頃には、そこが道だったのだろうと主計助は言った。
阿修羅坊は主計助に、あの辺りの地図を書かせ、じっくりと作戦を練った。
太郎坊の事だ、いくら長旅で疲れているにしろ、見張りくらいは置くだろう。見張りを置くとすれば、この稲荷神社か、その上の山の上に違いない。たとえ見張りを置いたとしても、昼ならともかく、夜になれば大して見えない。しかし、太郎坊がこちらの動きに気づいて、逃げられでもしたら絶好の機会を逸してしまう。見つからないように気をつけなければならなかった。
外はすでに暗くなっていた。
今日は一日なので、うまい具合に月は新月だった。
主計助から現場の状況は詳しく聞いたが、実際にこの目で確かめていないので、どこがどうなっているのかわからない。暗い夜中に攻めて、同士討ちにでもなったら余計な犠牲者を出してしまう。夜明け前の、いくらか明るくなってから攻める事にした。
夜明け頃、すでに太郎坊が起きている可能性はあったが、起きていたからといって、三十人で同時に攻めれば何とかなるだろう。しかし、夜が明ける前にあの寺を包囲しておく必要はあった。
作戦は念のために三十人を三手に分け、宝輪坊と十人は清水谷の渡しから対岸に渡って北から向かう。永輪坊と十人は太郎坊たちがいる河原より少し下流を舟で渡って南から向かう。正蔵坊と十人は清水谷の渡しから清水峠まで行き、山の中を通って裏から向かう。月は出ていないし、敵に気づかれる事もあるまいと思った。もし、気づかれたとしても、三方から攻めれば逃がす事はあるまい。
正蔵坊と十人は少し早めに行って、太郎坊たちの寝ている寺のすぐ裏まで近づいて待機している。そして、宝輪坊と永輪坊は寺の前の草むらに隠れ、夜が明けると共に同時に攻めて行くという事に決めた。二十人が攻め始め、敵が裏の方に逃げて行ったら、正蔵坊率いる十人は片っ端から倒して行くという作戦だった。
宝輪坊と永輪坊の二人は、たった五人を倒すのに、この大袈裟な作戦は何事かと不服のようだった。太郎坊の事は二人に任せる、ただ、逃げられないように三十人で包囲しておくのだと言って納得させた。
阿修羅坊は本拠地を大円寺から現場に近い白旗寺社の霊仙坊に移し、全員を霊仙坊に集めた。
城下も寝静まった真夜中の丑(ウシ)の刻(午前二時)頃、正蔵坊率いる十人が、星空の下、清水峠に向かって出発した。それから、半時(一時間)程経って、宝輪坊と永輪坊がそれぞれ十人を率いて出発して行った。
今度こそ、太郎坊の命はないだろう。楓には悪いが、これが運命というものだ。誰も運命には逆らえないと諦めてもらうしかない。
阿修羅坊は星空を見上げながら、そんな事を考えていた。
5
静かだった。
川の水音だけが聞こえていた。
宝輪坊は十人の山伏を引き連れて、清水谷の渡しを渡ろうとしていた。
二艘の舟に分かれて夢前川を渡った。
夢前川はこの渡し場の少し下流の所で、清水谷を流れる川と合流する。二艘の舟はその合流点を越えて対岸に上陸した。上陸すると、宝輪坊と十人は草の中に隠れながら河原を下流の方へと進んで行った。
月はないが星は出ていて、何も見えない程、真っ暗ではなかった。また、彼らは全員、山伏である。常人よりは暗い夜道に慣れていた。
宝輪坊の一行が丁度、川向こうに城下への入り口の大門が見える辺りまで来た時、下流の方から騒がしい物音が聞こえて来た。人の悲鳴も聞こえて来る。
「一体、何事じゃ」と宝輪坊たちは下流の方へ急いだ。
一方、下流の方では永輪坊率いる十人が夢前川を渡っている所だった。
前もって用意しておいた舟に乗って川に漕ぎ出したが、その舟に穴があいていて、水が見る見るうちに溢れてきた。舟に乗っていた者たちは騒ぐが、どうする事もできず、舟は川の中程で沈んでしまった。
ほとんどの者が持っている武器を捨て、慌てて岸へと泳いだ。
泳げないで手をばたつかせていた者は何者かに斬られ、川の水を血に染めながら流されて行った。また、元の岸に戻って行った者も何者かに斬られた。
何とか対岸まで泳いでたどり着いた者には、休む間もなく手裏剣が待っていた。しかも、その手裏剣は川の中から飛んで来た。手裏剣を避け、上陸できたのは永輪坊を含めて、たったの五人だった。
川から飛んで来る手裏剣を避けて山側に行った五人に、今度は山から手裏剣が飛んで来た。また、二人が倒れた。
永輪坊たちは恐怖に襲われていた。姿の見えない敵に味方がどんどん殺されて行く。すでに三人しか残っていなかった。阿修羅坊は、敵は五人と言っていたが、とても信じられなかった。ここだけでも五人以上はいるだろう。
阿修羅坊の奴め、騙しやがったな。太郎坊を片付けたら、阿修羅坊の奴もただでは置かない、と永輪坊は怒り狂っていた。
三人は手裏剣から逃げた。
今度は何本もの丸太が音を立てて上から落ちて来た。一人が避け切れずに丸太の下敷になって死んだ。
残りの二人の前に、ようやく二人の敵が現れた。一人は金勝座の謡方の三郎、もう一人は研師の次郎吉だった。二人共、簡単な鎧を身に着けていた。三郎は太刀を構えて棒を持った山伏を相手にし、次郎吉も太刀を持って永輪坊の太刀を相手にした。
上流の方に目を移すと、下流の騒ぎを聞いた宝輪坊率いる十人は急いで下流へと向かった。これが命取りとなった。
先頭を走っていた四人の山伏が、次々と落とし穴に落ちて行った。落とし穴の底には何本もの竹槍が刺してあり、落ちた四人は見事に竹槍に串刺しにされた。
落とし穴に落ちないように慌てて立ち止まった者も、二人は弓矢にやられ、一人は手裏剣にやられた。
宝輪坊は川の中に逃げて無事だったが、川の中に飛び込もうとして、また一人、弓矢でやられた。
宝輪坊は、やはり、阿修羅坊の言っていた通り、太郎坊という奴は手ごわい奴だと思った。相手を甘く見過ぎていたようだ。しかし、今頃、後悔しても遅かった。すでに、ほとんどの者がやられ、残っていたのは宝輪坊とたったの二人だけだった。
その三人の前に姿を現したのは探真坊、そして、金勝座の左近、鎧師の吉次だった。
それより少し前、太郎坊を裏から攻めるため、清水峠から山の中を進んでいた正蔵坊と十人はのんきに歩いていた。
どうせ、出る幕はないだろう、高処の見物でもしているか、と気楽な気持ちで進んでいた。まったく、戦う意志がなかったと言ってよかった。ここなら火を使っても敵にはわからないだろうと、正蔵坊たちは松明(タイマツ)を手にして暗い山の中を歩いていた。
ところが、突然、先頭を歩いていた二人の男が消えた。落とし穴に落ちたのだった。二人の後を歩いていた三人は一瞬、何が起こったのかわからず、立ち止まり、二人が落ちた穴の中を覗き込んだ。落ちた二人が持っていた松明が、二人の無残な姿を照らしていた。二人共、目を剥き、大口を開けたまま事切れていた。二人の体は何本もの竹槍に串刺しにされていた。
後ろを歩いていた正蔵坊たち六人は何事が起こったのか、まだ、気づいていない。前の三人が立ち止まっているのを見て、「どうした、太郎坊でも出たのか」と正蔵坊は笑いながら声を掛けた。
「殺された!」と穴の中を覗いていた山伏が言って武器を構えた。
「何だと!」と正蔵坊たちは駈け寄って来た。
六人が穴の中を覗いている時、一人が悲鳴を上げた。
落とし穴を避け、先に行こうとしていた男が宙吊りにされ、胸には竹槍が刺さり、その竹槍は背中まで抜けていた。
まったく、予想外の事だった。何の障害もなく、目的地に行けるはずだった。そして、宝輪坊と永輪坊の二人が太郎坊たちを倒すのを、ただ、見ていればいいだけだった。死ぬ者など出るはずはなかった。ところが、すでに三人も殺された。しかも、敵の姿はどこにも見えない。
目の前で仲間が宙づりにされ、竹槍に刺されるのを見た男は恐怖のあまり逃げ出した。悲鳴を上げながら逃げて行ったが、その悲鳴は絶叫となって消えた。一人が後を追って調べてみると、悲鳴を上げて逃げた男は首から斜めに袈裟斬りに斬られていた。明らかに刀傷だった。
誰かがいる。しかし、姿は見えなかった。
残った七人は松明を捨て、落とし穴と罠に気をつけながら、武器を構えて見えない敵に備えた。
「固まるな。固まると、一遍にやられるぞ」と正蔵坊は指図した。
「離れるな、離れるとやられるぞ」とも正蔵坊は言った。
突然、音を立てて竹槍が飛んで来た。竹槍は一人の山伏の腕をかすって木に刺さった。
弓矢を持った山伏が、竹槍の飛んで来た方に何本もの矢を放ったが、何の反応もなかった。
正蔵坊は棒を構えながら竹槍の飛んで来た方に向かった。竹で作った大きな弓が木に縛り付けてあったが敵の姿はなかった。
「気をつけろ。敵は近くにいるぞ」と正蔵坊は怒鳴った。
誰かが悲鳴を上げた。悲鳴を上げながら落とし穴に落ちて行った。
落とし穴の方に行こうとした二人が弓矢に刺されて倒れた。
弓矢は二方向から同時に飛んで来た。
生き残っている四人は二手に分かれて弓矢の飛んで来た方に向かった。弓矢が再び、飛んで来たが弾き返した。
敵が姿を現した。一人は金比羅坊、もう一人は金勝座の右近だった。二人は弓を捨てると刀を構えて四人に対した。
金比羅坊は二人を難無く倒す事ができたが、右近は正蔵坊を倒すのに少してこずり、もう一人の相手に背中を斬られた。その時、八郎が現れ、右近の背中を斬った山伏を斬り捨てた。
清水峠から来た十一人は宝輪坊たちが川を渡る前に、すでに全滅していたのだった。
時を元に戻すと、下流の方では次郎吉が永輪坊と戦い、金勝座の三郎は棒術を使う山伏を相手にしていた。三郎は敵の棒に右腕をやられたが、そこに現れた太郎に救われた。次郎吉と永輪坊はいい勝負をしていた。ほんの一瞬の差で次郎吉が勝った。
上流の方では、鎧師の吉次が槍で宝輪坊の薙刀と戦い、左近が槍で棒を持った山伏と戦い、探真坊が棒で太刀を構えた山伏を相手にしていた。左近と探真坊はわけなく敵を倒したが、吉次は宝輪坊の薙刀に左股(モモ)を斬られて倒れた。
宝輪坊は吉次を倒すと、「太郎坊はどこだ」と叫びながら廃寺の方に向かった。
寺の方では金比羅坊と八郎と白粉売りの藤吉が待ち構えていたが、宝輪坊の前に突然、太郎が現れた。
「太郎坊は俺だ」と太郎は刀を構えた。
「お前か、お前が月輪坊と日輪坊を倒したのか」
「名前は知らん。名前は知らんが、阿修羅坊と一緒にいた二人なら倒した」
「お前を殺す」と宝輪坊は薙刀を構えた。
太郎は刀を中段に構えた。
宝輪坊は左足を前に出し、薙刀の刃を上にして右肩の上にかつぐようにして体の前に斜めに構えた。
ようやく、明るくなりかかって来た。
太郎は右足を後ろに引くと刀も後ろに引いた。
宝輪坊は右足を大きく踏み込み、太郎の首を狙って薙刀を振り下ろして来た。
太郎は体をほんの少しずらして薙刀を避けると、宝輪坊の右腕を狙って刀を横に払った。
宝輪坊は太郎の刀を薙刀で弾くと、そのまま、太郎の足元を狙って薙刀を振り回した。
太郎は飛び上がって薙刀を避け、宝輪坊の右腕を狙い、刀を振り下ろした。
宝輪坊は太郎の刀を避け、薙刀を振りかぶった。その時、太郎の振り上げた刀に右腕を斬られた。
宝輪坊の体は一瞬、ぐらついたが、倒れずに持ちこたえた。斬られた右腕は血を流しながら薙刀にぶら下がっていた。宝輪坊は右腕を斬られても左手で薙刀を構えていた。
「おぬしに恨みはない」と太郎は言った。「帰って、阿修羅坊に伝えてくれ。今度、また、攻めて来るようなら阿修羅坊の命はないし、浦上美作守の命もないとな」
太郎はそう言うと、刀に付いている血を振った。
「お前らは一体、何者じゃ」と宝輪坊は聞いた。
「おぬしたちと同じ山伏だ。何の恨みもないのに山伏同士で殺し会う事もないだろう」
「‥‥‥わかった」と言うと、宝輪坊は右腕から血を流しながら、斬られた腕のぶら下がったままの薙刀を担ぐと去って行った。
太郎の回りに皆が集まって来ていた。皆が去って行く宝輪坊を見送っていた。
敵で生き残ったのは宝輪坊、ただ一人だけだった。
6
さて、太郎たちが、どのようにして阿修羅坊の差し向けた瑠璃寺の山伏三十三人を見事に倒したのか、太郎の方から見てみよう。
太郎たち五人が、この廃寺に着いた次の日の朝、伊助が助六たちを連れて来た。そして、助六たちが帰ると、さっそく現場を見回って作戦を立てた。
まず、八郎を山の上の見張りに立たせ、裏山の敵が通りそうな所に落とし穴を掘り始めた。午後になって阿修羅坊の手下が一人来た。正蔵坊である。八郎はすぐに太郎に知らせた。この時は金比羅坊と八郎が乞食に化けてごまかした。
夕方、百姓に化けた伊助が来た。武器は揃えたが、どうやって、ここに運んだらいいのか相談に来たのだった。太郎は、武器はこちらから取りに行くと言い、伊助から金勝座の座員たちの事を聞いた。作戦は立てたが、どうしても味方の人数が足らなかった。金勝座にも手伝ってもらうしかなかった。伊助の話だと、金勝座の者たちは皆、かなり使えると言う。
その夜、木賃宿『浦浪』の一室に全員が集まり、作戦会議を行なった。武器は空が曇っているのを幸いに、闇の中、舟に積み込んで運び出した。
その夜のうちに、上流の入り口に大きな落とし穴を掘って竹槍を埋めた。そして、敵が舟で正面の河原に上陸した場合、隠れたまま弓矢を射れるように、人が潜れる程の穴を幾つも掘った。その穴は落とし穴としても使うつもりでいた。
次の日には、金勝座の舞台作りの甚助の指揮によって、山の中や河原に幾つもの罠が作られた。その日の午後、阿修羅坊が城下に戻って来たとの情報を藤吉が持って来た。藤吉は足が速いので、城下とこことの連絡係として活躍した。
準備が完了した、その日の夕方、太郎たち五人はわざと河原に出て酒を飲む真似をした。思っていた通り、二人の山伏が太郎たちを発見し、阿修羅坊が調べに来た。
この時、城下の阿修羅坊の本拠地、大円寺には伊助と助六、性海寺には金勝座の大鼓打ちの弥助と太一、白旗神社には謡方の小助と藤若、清水谷の渡しの近くにある八幡神社には藤吉と千代が待機していた。それぞれ、敵に動きがあれば娘たちが藤吉に知らせに走り、藤吉はその情報を太郎たちに知らせる手筈となっていた。
藤吉は清水谷の渡しを渡らず、川沿いに河原を走り、南の大門の前の小川を飛び越え、太郎たちのいる河原の対岸まで来て、簡単な情報の場合は矢文を弓で飛ばした。重要な情報は、こちら側の木から対岸の木に縛り付けてある綱を滑車で滑りながら川を渡って知らせる事になっていた。この仕掛けも甚助が作った物だった。勿論、太郎たちは阿修羅坊の手下が街道筋の祠から、こちらを見張っている事を知っている。藤吉も、その見張りに気づかれないように行動した。
日が暮れ、暗くなってから阿修羅坊は動き出した。大円寺にいた阿修羅坊を初め、宝輪坊、永輪坊など山伏十人余りが南に向かって移動した。大円寺を見張っていた助六は藤吉のもとへ走り、伊助は阿修羅坊たちの後を追った。性海寺の山伏たちも動き出した。太一が藤吉のもとへ走り、弥助は後を追った。
助六からの情報を得た藤吉は河原を走って太郎に矢文で知らせた。戻る途中、小川の所で助六と会い、助六から太一の情報を聞くと再び戻って太郎に知らせた。
大門の所の小川は身の軽い藤吉だから飛び越える事ができるが、普通の者が飛び越える事はまず不可能と見てよかった。助六と藤吉は八幡神社に向かった。八幡神社には太一が待っていた。やがて、藤若が大円寺の山伏も性海寺の山伏も皆、白旗神社に集合したとの情報を持って来た。藤吉はその情報を太郎に知らせた。三人娘はそのまま八幡神社に待機していた。白旗神社には伊助、弥助、小助の三人が見張っていた。
その後、しばらく、阿修羅坊の動きは止まった。
丑の刻(午前二時)頃、十人程の山伏が河原の方に向かっているとの情報を持って、弥助が八幡神社に来た。弥助が来るのと同時くらいに、こちらに向かって来る一団が見えた。一団は清水谷の渡しに向かった。その中に阿修羅坊の姿もあった。一団の後を付けていた伊助が八幡神社に来た。伊助は弥助を白旗神社に戻し、藤吉と共に阿修羅坊たちの後を追った。
阿修羅坊は正蔵坊と十人を川向こうに渡し、一人の船頭に二艘の舟を下流まで運ぶように命じた。正蔵坊たちが向こう岸にたどり着くのを確認すると、阿修羅坊は白旗神社には戻らずに大門の方に向かった。
阿修羅坊は大門の見張りの者に、「この先の河原でちょっとした騒ぎが起こるが心配しないでくれ。すべて、自分が責任を持つから目をつぶっていてくれ」と言い渡した。そして、しばらくしたら渡し場の船頭が一人、戻って来るから、入れてやってくれと頼むと、その場を去り、白旗神社に戻って行った。
後を付けていた伊助は藤吉を太郎のもとに走らせ、自分はまた阿修羅坊の後を追った。
藤吉からの情報を受けた太郎は、全員を戦闘配置に付けた。
まず、金比羅坊と右近、八郎の三人を清水峠に通じる谷道に向かわせた。もう一ケ所、山の中を通って廃寺の横辺りに出る谷があり、万一のために、そこを次郎吉に守らせた。
あとの者にはとりあえず、弓矢を持たせて草むらの穴に中に潜らせた。
やがて、目の前の川を二艘の舟がつながって下って行くのが見えた。乗っているのは船頭一人のようだった。二艘の舟は下流の岩が飛び出ている所より少し手前の対岸に上げられた。乗っていた船頭は舟を河原に上げると街道の方に消えた。
下流に舟を置いたという事は、あそこを渡るつもりだろう。二艘という事は、多分、十人位だろう。太郎は下流の上陸地点の上の山の中に、手裏剣を使う小鼓打ちの新八と、丸太を落とす役として謡方の三郎を配置した。そして、太郎は泳ぎの達者な風光坊を連れて川の中に入って対岸まで泳ぐと、二艘の舟に穴をあけた。風光坊はそのまま舟の側に待機させ、太郎は元の河原に戻って、次の情報を待った。
あとは残りの十人が、どこから来るか、だった。舟で正面の河原に上陸するか、清水谷の渡しを渡って、河原を歩いて来るか、どちらかだった。
それから半時程して、阿修羅坊たちの動きが伊助から藤吉に伝わり、藤吉は滑車を使って対岸に渡ると綱を切り、太郎に知らせた。
残りの二十人が二手に分かれ、一つは今、清水谷の渡しを渡り、もう一つは街道沿いに南に下っているとの事だった。
太郎はすぐに上流の入り口、大きな落とし穴を掘った所の山の中に、弓矢を持った甚助と左近、手裏剣を使う探真坊を配置し、そこを通り抜けて来た者を倒すため、槍を持った鎧師の吉次を配置した。藤吉は次郎吉の所に配置し、太郎自身は川に入って風光坊が待機している対岸の舟の所に向かった。
こうして、戦闘は開始された。
裏山の方では、落とし穴に落ちて死んだ者が三人。宙吊りにされて竹槍に刺されて死んだ者が一人。逃げようとして八郎に斬られて死んだ者が一人。金比羅坊と右近の弓矢に刺されて死んだ者が、それぞれ一人づつで二人。金比羅坊に斬られて死んだ者が二人。右近の背中を斬ったが、八郎に斬られて死んだ者が一人。正蔵坊は右近に斬られて死んで行った。裏山では全員が死んだ。
下流の方では、沈んだ舟から川に落ち、泳げずに暴れている所を太郎に斬られて流れて行った者が二人。同じく、風光坊に斬られて流れて行った者が一人。元の岸に戻り、風光坊に斬られて死んだ者が一人。泳いで対岸までたどり着いたが、川の中からの太郎の手裏剣にやられて死んだ者が二人。無事に対岸に上がったが、山からの新八の手裏剣にやられて死んだ者が二人。三郎が落とした丸太の下敷になって死んだ者が一人。六尺棒で三郎の右腕を折るが、太郎に右腕を斬られた者が一人。この山伏は三郎に止めを刺されて死んだ。永輪坊は次郎吉の太刀に袈裟に斬られて死んだ。ここでは手足を斬られて流されて行った者が三人いたが、あとの者は皆、死んで行った。
上流の方では、落とし穴に落ちて死んだ者が四人。甚助と左近の弓矢に刺されて死んだ者が二人。甚助の弓矢に背中を刺されたが、まだ生きていて探真坊の左股を刀で刺して、探真坊に止めを刺された者が一人。探真坊の手裏剣に顔と首を刺されて死んだ者が一人。探真坊の棒で喉を突かれて死んだ者が一人。左近の槍で胸を突かれて死んだ者が一人。宝輪坊は吉次の左股を薙刀で斬ったが、太郎に右腕を斬られた。ここでも、宝輪坊以外は全員、死んで行った。
伊助が宝輪坊たちの後を追って来た時には、戦闘はほとんど終わっていて、太郎が宝輪坊と戦っている所だった。
作戦は大成功だった。思っていたより、うまく行ったと言えた。
敵が夜明け前のまだ暗いうちに襲って来た事が、返って、うまく行ったとも言えた。夜明け近くの明るくなってからでは、こうも、うまく落とし穴には落ちなかっただろう。
味方の負傷者を調べてみると、鎧師の吉次が宝輪坊の薙刀に左股を斬られ、金勝座の右近が背中を斬られ、同じく金勝座の三郎が右腕を骨折していた。そして、風光坊が右頬と左腕を軽く斬られ、探真坊が左股を刺された。
探真坊は上流で宝輪坊たちと戦っていたが、一人の敵を棒術で倒した後、敵がまだ、どこかに隠れてはいないかと、落とし穴の辺りを探っていた。落とし穴の中の無残な死体を覗いている時、弓矢でやられて倒れていた男が、ふいに探真坊の左股を刀で刺して来た。探真坊はその男の止めを刺したが、まったくの不覚だった。
幸いにも、死に至るような深い傷を負った者はいなかった。
やがて、藤吉が助六たちを連れて来て負傷者の手当を行なった。
怪我をしなかった者たちは敵の死体を片付けた。敵の武器は回収し、死体はすべて、落とし穴の中に埋められ、冥福を祈るため、お経が唱えられた。そして、辰の刻(午前八時)頃には、何事もなかったかのように綺麗に片付けられた。
7
小鳥が鳴きながら飛び回っていた。
いつもと変わらぬ朝だった。
夢前川はいつもの様に流れ、街道にはいつもの様に旅人の姿も行き交っていた。
太郎は独り、河原に座って川の流れを眺めていた。着ている黒い志能便装束は泥だらけだった。
阿修羅坊の一味は倒した。作戦は成功した。しかし、いつものように戦闘の後の空しさに襲われていた。倒した三十人余りの山伏たちは、太郎とは何の関係も無い連中だった。ただ、阿修羅坊に命令されただけで、ここに来て戦い、死んで行った。
奴らは一体、何の為に死んで行ったのだろう。
幸い、味方には死人はでなかったが、怪我人は出た。彼らは何の為に怪我をしなければならなかったのだろう。
昨日までは、阿修羅坊一味を倒すために無我夢中になって作戦を練り、ろくに眠りもしないで、落とし穴を掘ったり罠を仕掛けていた。やらなければ殺される。殺されないために必死だった。しかし‥‥‥
「太郎坊様」と誰かが呼んだ。
太郎は振り返った。いつの間にか、すぐ後ろに助六が立っていた。
「どうしたんですか」と助六は首を傾げながら聞いた。
「いや‥‥‥」と太郎は首を振った。
「奥さんとお子さんの事を考えていたのですか」
「えっ、いや、そうじゃない」
「見事でしたね」と助六は笑った。
「怪我人の方はどうです」と太郎は聞いた。
「皆、大丈夫です。それ程、深い傷の人はいません」
「そうでしたか。でも、右近殿と三郎殿が怪我をして、金勝座の方は大丈夫ですか」
「三郎さんは手を骨折しただけですから唄は歌えます。ただ、右近さんの方は、しばらくは舞台に上がれません。でも大丈夫です。お頭が代わりに舞台に上がるでしょうから」
「そうですか。迷惑をかけて、すみません」
「迷惑だなんて」と助六は首を振った。「わたしたちは、これまでも危ない事を何度もして来ました。今回程、危ない事はなかったけど、これだけの怪我で済んだなんて、まるで嘘のようです。怪我をした人たちも、みんな、今回の戦がうまく行った事が嬉しくてしょうがないみたいです。わたしもほんとに驚いています」
「風光坊と探真坊の具合はどうです」
「風光坊様は左腕を斬られましたけど、それ程、深くありません。十日もすれば治るんじゃないでしょうか。探真坊様の左足の傷は結構、深いです。しばらくの間は起きられないでしょう。それと、吉次様の傷も結構、深いみたいです。探真坊様と吉次様と右近さんは小野屋さんが面倒を見てくれるそうです」
「小野屋さんが‥‥‥そうですか」
「これから、どうするつもりですか」と助六は聞いた。
太郎には答えられなかった。先の事など、まだ何も考えてはいなかった。
「もう、ここに隠れる必要もないんでしょ。『浦浪』に戻って来て、今日はゆっくりと休んだ方がいいですよ」
「そうですね」と太郎は頷いた。
助六は太郎に笑いかけて、川の側まで行くと、しゃがんだ。
「太郎坊様、今日は金勝座の公演があるんですよ。ぜひ、見に来て下さい」
「そうですね」と太郎は助六の後ろ姿に言った。「みんな、疲れ切っていますから、今日は、のんびりと芝居見物でもさせましょう」
「太郎坊様」と助六が振り返った。「奥さんとお子さんは、いつ、助け出すのですか」
「わかりません。ここのお屋形様が戻って来て、楓が弟に会ってからにしようと思います」
「いつ頃、戻って来るんでしょう」
「それも、わかりません。しかし、それまでに宝を捜し出さなくてはなりません」
「ああ、そうでしたね。一体、どこにあるんでしょう」
「さあ」と太郎は首を振った。「助六殿、そなたも一睡もしていないんでしょう」
「ええ」
「午後から舞台があるのなら、少し、休んだ方がいいですよ」
「わたしは大丈夫ですよ。それより、太郎坊様の方こそ疲れているでしょうに」
「わたしは、今日は、のんびりするつもりですから」
助六は笑った。太郎も笑った。
「太郎坊様、わたしの本名は奈々って言うんですよ。変でしょ。七日に生まれたから『なな』なんですって」
「奈々殿ですか」
「殿なんて変ですよ」
「わたしの本名は愛洲太郎左衛門と言います」
「愛洲? 愛洲っていえば、南伊勢の愛洲様ですか」
「御存じですか」
「はい、わたしが生まれたのは伊勢の国、松坂の近くの櫛田(クシダ)と言う所です。もう、昔の事ですけど、愛洲様のお城下、玉丸(田丸)や五ケ所浦で踊った事もありました」
「そうでしたか。五ケ所浦に行った事があるんですか」
「太郎坊様は五ケ所浦の出身なんですか」
「ええ」
「五ケ所浦といえば、海賊(水軍)ですか」
「まあ、そうです」
「そうだったのですか。金勝座の人はほとんどが伊勢の出身ですよ。お頭は松坂ですし、太一は山田です。藤若は愛洲殿のお城下、玉丸の生まれです。左近さんと大鼓の弥助さんと小鼓の新八さんの三人が大和の国の出身で、謡方の三郎さんと見習いのお千代ちゃんが近江の国の出身ですけど、後のみんなは伊勢です」
「そうですか。ところで、金勝座の人たちは、どうして、みんな、武術をやるんですか」
「みんなとは言いませんけど、わたしたち芸能一座の者たちは、ほとんどの者が身を守るために何らかの武術を身に付けています。わたしたちは一生、旅をして暮らします。知らない他所の地で、何かあった時に、頼りになるのは自分たちだけなんです。誰も助けてはくれません。わたしたちは芸を習うのと一緒に武術も習うのです。武術といっても護身のためのものですから、それ程大したものではありませんけど、金勝座の人たちは皆、一流の腕を持っています。松恵尼様が金勝座を作る時、芸だけでなく、武術の腕も持っている者たちを集めたのです」
「成程、そうだったのですか。それじゃあ、助六殿」
「奈々と呼んで下さい」
「奈々殿、いや、奈々さん、女の人も皆、武術を使うわけですか」
「ええ、皆、使います」
「あの、見習いのお千代さんも?」
「ええ、お千代ちゃんも小太刀(コダチ)を使います。か弱そうに見えるけど、お千代ちゃんの小太刀は本物ですよ。最近の中途半端なお侍さんなんか簡単にやっつけちゃうわ」
「へえ、あの娘(コ)がね」
「お千代ちゃんは一人娘だったんです。お父さんに、これからの世の中は、女でも強くなければ生きては行けないと、小さい頃から厳しく仕込まれたらしいの。お父さんはお侍だったけど戦で亡くなりました。お母さんはお千代ちゃんが小さい頃に亡くなったらしい。お千代ちゃんは去年、金勝座に入ったんです。踊りなんて全然知らなかったけど、小太刀の名人だけあって、覚えが早いし、筋もいいわ。武術と芸事っていうのは、どこか通じる所があるのかもしれませんね。武術が上達すると芸事も上達するし、その逆も言えます。よくわからないけど、武術のお稽古をすると心が澄んで来て、その心で踊るとうまく踊れます。だから、わたしは芸事のお稽古と一緒に武術のお稽古もしています」
「奈々さんは何をやるんです」
「わたしも小太刀です。太郎様、今度、私に剣術を教えて下さいな」
「わたしの方が負けるかも知れない」
「何を言ってるんですか、あなたに敵う人なんて、どこにもいませんよ」
「いや、男は女には弱いものです」
助六は笑った。「女も男の人には弱いものですよ」
太郎も笑った。
「今日も、暑くなりそうですね」と助六が言った。
「ええ」と太郎は頷いた。
「お姉さん」と誰かが助六を呼んでいた。
助六は立ち上がった。
藤若が来た。
「お姉さん、みんな、帰るそうよ」と藤若は助六と太郎を見ながら言った。
「そう、太郎坊様も帰るでしょ」と助六は聞いた。
「うん」と太郎も立ち上がった。
「太郎坊様も『浦波』に来るんでしょ」と藤若が聞いた。
太郎は頷いた。
藤若が助六を見ながら笑った。
三人は廃寺の方に戻った。
17.白旗神社
1
太郎は一人で白旗神社に向かっていた。
吉次と右近と探真坊の三人を小野屋に移す事を金比羅坊と八郎と伊助に頼み、あとの者たちを木賃宿『浦浪』に帰すと、太郎は一人、阿修羅坊に会いに出掛けた。皆に言えば、一緒に行くと言い出すので、河原者の頭、片目の銀左に用があって、ちょっと会いに行って来る、と嘘を付いて来たのだった。
これ以上、無駄な戦いは避けたかった。できれば話し合いで事を解決したかった。阿修羅坊にしても、ただ、浦上美作守に命令されて動いているに過ぎない。簡単な気持ちで、俺を殺す事を引き受けたのだろう。楓の話によれば阿修羅坊もそう悪い奴ではなさそうだ。話し合えばわかってくれるかもしれないと思った。
白旗神社の境内は薄暗く、蝉(セミ)がうるさく鳴いていた。
小坊主が二人、庭を掃いているが、あとは人影もなく、ひっそりとしている。
白旗神社は赤松氏発祥の地、赤松村にある白旗明神を勧請(カンジョウ)して祀った神社だった。境内には神宮寺として大円寺の末寺である徹源寺(テツゲンジ)があり、その徹源寺の僧坊が五つ並んで建っている。阿修羅坊のいる霊仙坊は、その一つだった。
薄暗い霊仙坊の中で、阿修羅坊は長卓の前の椅子に腰掛け、うなだれていた。
長卓の上には、太郎たちの隠れ家の近辺を詳しく書いた絵地図が広げられてあった。
壁に宝輪坊の汚れた薙刀が立て掛けてあり、阿修羅坊のらしい錫杖が土間に倒れていた。
太郎は阿修羅坊の側まで行った。
阿修羅坊は顔を上げて太郎を見たが、もう、太郎を倒そうとする気力も残っていないようだった。
「見事じゃな」と阿修羅坊はかすれた声で言った。
「まだ、やるつもりですか」と太郎は聞いた。
「わからん」と阿修羅坊は左手で髪を撫で上げた。
「これ以上、犠牲者は出したくありません」
「ああ‥‥‥おぬしらは一体、何人いたんじゃ」
「実際、戦ったのは十三人です」
「十三人‥‥‥そんなにもいたのか‥‥‥しかし、信じられん。十三人で三十三人を倒したとはな。宝輪坊しか戻って来んが、あとの者は皆、死んだのか」
「成仏しました」
「やはりな‥‥‥おぬしの方は何人、死んだ」
「一人も死にません」
「何じゃと、一人も死なんのか‥‥‥信じられん‥‥‥一体、どうやって、あいつらを倒したんじゃ」
「ただ、正確な情報を集めただけです」
「成程、戦の基本じゃな。わしは、その基本を怠ったというわけじゃな」
「そういう事です」
阿修羅坊は溜め息をつくと俯いたまま黙っていたが、情けない顔で太郎を見ると、「黄金の阿弥陀像は見つかったのか」と聞いた。
「見つかりません」と太郎は答えた。
「見つけたら、どうするつもりじゃ」
「楓と交換します」
「楓殿とな、それは難しいかも知れんぞ。浦上美作守は今更、楓殿を手放すまい」
「飽くまでも、私を殺すというのですか」
「わからん‥‥‥わしはおぬしの事からは、もう手を引くつもりじゃ」
「本当ですか」
「もう、わしの持ち駒はなくなった‥‥‥だが、わしが手を引いても別の刺客が来るじゃろう」
「やはり、浦上美作守を消さんと駄目ですか」と太郎は言った。
阿修羅坊は顔を上げて太郎を見た。「やるつもりか」
「これ以上、続けるつもりなら」
阿修羅坊は太郎の顔を見つめながら頷いた。「おぬしなら、やるじゃろうのう」
「浦上美作守一人をやれば、他の者が死ななくて済みます」
「美作守をやったとしても、楓殿を取り戻すのは難しいぞ。すでに、赤松家の重臣たちは楓殿の存在を知ってしまっている」
「楓を取り戻す事は不可能だと言うのですか」
「多分な‥‥‥ところで、宝の事じゃが、なぜ、知っておるんじゃ」
「京の浦上屋敷で聞きました」
「どこで?」
「天井裏で」
「やはり、あそこにおったのか‥‥‥四つめの言葉はどうして知った」
「知りません」
「ごまかさなくてもいい。城山城で、おぬしらの話を聞いた」
「城山城で? あそこにいたのですか」
「ああ。わしが雨宿りをしていた時、おぬしらが登って来た。話は全部、聞いた」
「そうですか。あれは松恵尼殿が持っていたのです」
「ふん、また、松恵尼殿にやられたというわけか。それで、宝は見つかりそうなのか」
「全然、見当も付きません」
「わしも、まったくお手上げじゃ」
太郎は長卓を挟んで、阿修羅坊の向かい側に腰を下ろした。
「のう、太郎坊、宝の事はおぬしに任せるわ。どうせ、また、おぬしにやられるじゃろうしな」
「宝からも手を引くのですか」
「ああ」と阿修羅坊は力のない返事をした。「おぬし、さっき、楓殿と宝を交換すると言っておったのう。その話、わしに任せてくれんかのう」
「なぜです」
「おぬしが直接、取り引きしようとしても、おぬしの事を知っている者はおらん。おぬしが宝の事を説明しても誰も信じはせんじゃろう。返って、危険な目に会うだけじゃ。それより、わしが浦上美作守と話を付けてやる」
「楓との交換をですか」
「それは無理じゃ。無理じゃが、今、赤松家では有能な人材を捜している。おぬし程の者なら武将に取り立てても立派にやって行くじゃろう。どうじゃ、赤松家の武将にならんか。楓殿の夫として赤松家のために働いてみんか。おぬしがお屋形様の姉君、楓殿と出会って夫婦になったのも何かの縁じゃろう。おぬしの技を赤松家のために使ってみんか」
「どうして、急に、そんな気になったのです」
「おぬしが強すぎるからじゃ。まさか、これ程、強いとは思ってもいなかった。ただ、強いだけじゃない。戦も充分に知っている。これ以上、戦って味方を減らすより、味方にした方がいいと気づいたんじゃ。それに、楓殿のためにも、それが一番いいしのう」
「楓が、阿修羅坊殿には世話になったと言っていました」
「そうか」と言った後、阿修羅坊は眠りから覚めたかのような顔をして太郎を見つめた。「楓殿に会ったのか」
太郎は頷いた。
「一体、いつじゃ」
「阿修羅坊殿と戦う前の日です」
「なに、あの前の日? 前の日というと、おぬしがこの城下に着いた日じゃないのか」
「そうです」
「その日のうちに楓殿に会ったと言うのか」
「はい」
「まったく、おぬしという奴はとんでもない奴じゃのう」
「ところで、今、言った話はうまく行きますか」
「おぬしが見事、宝を捜し出す事ができれば、浦上殿にも、おぬしの才能がわかるじゃろう。そうすれば、おぬしはその宝を持って楓殿の亭主として迎えられるように、わしが取り図る」
「わかりました。考えておきます」
「宝の事を頼むぞ」
「阿修羅坊殿は、どこにあると思います」
「わしは瑠璃寺のどこかにあると思っておるが、どこだか、まったくわからん」
「瑠璃寺ですか」
「あそこの古文書を読めば何かわかるかも知れん。わしが一筆書いてやる。それを見せれば、古文書やら資料やらが見られるじゃろう」
阿修羅坊から書き付けを貰うと、太郎は霊仙坊を出た。
外は眩しく、暑かった。
蝉がうるさい位に鳴いていた。
太郎は空を見上げた。青空の中に白い雲が浮かんでいた。
ほんとに疲れた‥‥‥
ゆっくりと眠りたかった。
白旗神社から木賃宿『浦浪』に向かう途中、大通りで、太郎は河原者の頭、片目の銀左衛門と出会った。
「おい、若造」と銀左は後ろから声を掛けて来た。
太郎が振り返ると、六尺棒をかついだ銀左が手下の者を二人連れていた。
「観音は彫れたか」と銀左は聞いた。
「まだです」と太郎は答えた。
「人の解体はしたのか」と銀左は笑いながら聞いた。
「まあ、適当に斬り刻みました」と太郎も笑いながら答えた。
「物好きじゃのう。今、下流でな、溺死者が上がった。ちょっと傷はあるがの、新鮮な死体じゃ。斬りたけりゃやるぞ」
「溺死者?」
「おう、どこぞの山伏じゃ。三人上がったが、一人はまだ生きておった。誰にやられたのか知らんが、二人は腕を斬られ、一人は足を斬られておった。なかなかの凄腕じゃ。どうせ、侍と喧嘩して、やられたんじゃろ」
「そなたたちは人の死体の処理もするのですか」と太郎は聞いた。
「河原に上がればの。河原で起こった事は、すべて、わしらの領分じゃ。死人を処理する代わりに、死人が持っていた物は、すべて、わしらの物になる」
よく見ると、銀左の後ろの二人が抱えているのは死んだ山伏の着物や武器だった。
「その収穫はどうするんです」
「市で売るのさ」
「売れるんですか」
「ああ、よく売れる。今は戦続きで品不足じゃ。何でも売れるわ」
「成程‥‥‥銀左殿、ちょっと、聞きたい事があるんですけど、いいですか」
「何じゃ」
「ここじゃ何だから、河原にでも行って話したいんですが‥‥‥」
「おう。お前ら、先に行ってろ」と銀左は手下に命じて、河原の方に降りて行った。
二人が降りて行った河原では、紺屋(コウヤ)または紺掻(コウカ)きと呼ばれる藍(アイ)染めの職人たちが仕事をしていた。革作りの職人たちのいる所より、ほんの少し上流だった。
銀左は大きな石の上に腰を下ろした。
「毎日、暑い日が続くのう」と銀左は汗を拭きながら対岸の方を見ていた。
太郎も近くの石に腰を下ろした。
「話というのは何じゃ」
「別所加賀守殿の事なんですが、あの人はこの城下で一番偉いのですか」と太郎は聞いた。
「そんな事を聞いてどうする」
「どうも、別所殿はけちでして」と太郎はいい加減な事を言った。
「ほう、別所殿はけちかね。それで?」
「観音像を彫ってるんですが、実は銭を出したがらない。何でも、京から来たという御料人様に頼まれた観音様だと言うが、できれば、もう少し弾んで貰いたいのです」
「成程のう。別所殿は偉いと言えば偉いには違いないが、偉い奴なら長老がかなりいる。だが、実際、赤松家の中で力を持っている者と言えば、やはり、別所殿じゃろうのう。この城下ではじゃ。京の都も含めれば、やはり、一番、力を持っているのは浦上美作守殿じゃな」
「浦上殿の方が、別所殿より力があるんですか」
「そりゃそうじゃ。浦上殿は幕府にも顔が売れておる。だがな、城下にいる重臣たちの評判はあまり良くない。国元の事も考えずに、何でも独善的に決めてしまうのでな。特に、別所殿とは犬猿の仲じゃ。浦上殿のやる事には必ず反対するのが別所殿じゃ。わしらから見れば、京にいて幕府にくっついている浦上殿よりは、別所殿の方がよっぽど頼りになると言うものじゃ」
「別所殿は浦上殿のやる事には必ず反対するのですか」
「必ずと言っても、国元の事を考えて反対するんじゃ。浦上殿は国元の事など考えず、幕府の言いなりじゃからな」
「成程、しかし、浦上殿が京にいるんじゃ話にならんな。城下には浦上派はいないのですか」
「浦上派で力のある者と言えば、姫路城の小寺(コデラ)伊勢守殿、金鑵(カナツルベ)城の中村駿河守殿、豊地(トイチ)城の依藤(ヨリフジ)豊後守殿、枝吉(エダヨシ)城の明石兵庫助殿くらいかのう」
太郎は四人の名を頭に刻み、「その人たちは城下にいるんですか」と聞いた。
「依藤殿はお屋形様と一緒に美作に行っておるが、あとの三人は城下におるじゃろう」
「自分の城には帰らないのですか」
「今は、お屋形様が留守じゃからの。留守番のようなものじゃ。それにの、城下をもう少し広げるらしいからの、その縄張りの相談でもしておるんじゃないかのう」
「城下を広げる?」
「ああ。この辺りはそうでもないが、船着き場の辺りは、もう、びっしりじゃろう。赤松家が盛り返して来たものじゃから、城下にどんどん人が集まって来るんじゃ。もう、うちを建てる場所がなくなっちまったんじゃ。かと言って、たんぼを潰すわけにもいかんしのう。そこで、城下を北の方に伸ばすんじゃよ」
「北と言うと、あの市場の向こうに?」
「おう、四日市場の向こうにな。あの向こうはちょっと狭くなっておるんじゃが、その先が、この城下くらいの平地があるんじゃ。たんぼがいくらかあるが、あとは荒れ地のままじゃ。開墾すれば、かなりのたんぼができるし、町もできるというわけじゃ。もう、すでに荒れ地の開墾は始まっておる。材木もどんどん上流から運んでいるしのう」
「城下を広げるのか‥‥‥銭が掛かるだろうな。赤松家はそんなに銭を持ってるのか」
「持ってるんじゃろう」と銀左は他人事のように言った。
「別所加賀守も、それに銭が掛かるから俺の観音像に銭を出さんのだな」と太郎は探りを入れた。
「それは、どうか知らんがのう。おぬしの観音像、京から来た御料人様に頼まれたとか言ってたのう」
太郎は頷いた。
「その御料人様というのは、お屋形様の姉君様じゃないのか」と銀左は聞いた。
「よくは知りませんが」と太郎はとぼけた。
「京から来たと言えば、まさしく、そうに違いない。その御料人様の披露の式典が、お屋形様が帰って来たら大々的に行なわれるらしいの。その会場を今、新しくできる城下の地に作っている最中じゃ。その会場をなるべく早く完成させるために、大円寺から人足をもっと集めろと命ぜられたわ。何でも、その披露の式典には赤松家の被官を全部、呼ぶらしい。そうなったら偉い騒ぎじゃ。この城下は人で埋まってしまう。宿屋も新しく建てなくてはならんじゃろ。また、忙しくなるわ」
「その御料人様の披露式典とかを、そんな大袈裟にするのですか」
「おお、そうじゃ。なにせ、お屋形様の姉君じゃからの。それに、噂じゃが、えらい別嬪だそうじゃ」
「それにしても、大袈裟な事をするもんだな」
「なに、表向きは披露式典じゃが、本当の目的は赤松家を固める事なんじゃ。赤松家が再興されてから、まだ日が浅いからのう。国人たちの本心というものを確かめんと、いつ、ひっくり返されるとも限らん。祝い事に招待されたとなれば、兵を引き連れ、大人数で来るわけにもいかんからのう。祝い事にかこつけて、国人たちの忠誠振りを確かめるつもりなんじゃよ」
「成程ね。それにしても、赤松家は再興されたばかりなのに、えらい景気いいんだな」
「確かに景気がいい。人足たちにもちゃんと銭を払ってくれるしな」
「銭の出所は一体、何です」
「そんな事を聞いて、どうする」
「ほんとに景気いいのなら、お頭を呼んで、ここに腰を落ち着けた方がいいと思ってね」
「そういう事か。それなら呼んだ方がいいかもしれんぞ。城下を広げるとなれば、向こうの土地に、必ず、寺を建てる。そうすれば仏像が必要となるわけじゃ。おぬしのお頭が誰だか知らんが、その寺の仏像を任されれば相当な稼ぎになるはずじゃ」
「俺もそう思うが、確かな証(アカシ)がないとな。財源は一体、何です」
「よくは知らんが、鉄じゃないかの。今、どこの国でも戦続きで、武器はいくらあっても足らん。その材料が鉄じゃ。鉄は瑠璃寺が一括して扱っておるが、赤松家はその鉄を全部、買い取り、鍛冶師に武器を作らせて商人に売っている。その儲けがかなりあるんじゃろう」
「赤松家は鍛冶師も支配してるのか」
「実際に支配してるのは大円寺の勝岳上人(ショウガクショウニン)殿じゃがな。赤松家で支配しているのと同じじゃ」
「と言う事は、名刀の産地、備前の長船(オサフネ)も赤松家の支配下なのか」
「備前の長船と言ったら、赤松家というよりは浦上殿の支配下のようなものじゃ」
「浦上殿の財源か‥‥‥」
「だから、浦上殿は強きなんじゃよ」
「成程な、赤松家が鉄で商売してるのなら儲かるわ」
「おぬしも、お頭を呼んで、ここに腰を落ち着けた方がいいぞ」
「わかった。そうしましょう」
銀左はニヤニヤしながら太郎を見ながら、「おぬし、ほんとに仏師か」と聞いた。
「はい」と太郎は答えた。
「わしには、どうも信じられん。最初、会った時、わしの刀を軽く弾きおった。しかも、最小限の動作でじゃ。あの時は気づかなかったが、後で考えてみると、どうも腑に落ちん。あの時、おぬしはわしの刀を弾くのに、わしの方を一度も見ん。それなのに簡単に杖で弾きおった。あれ程の事を平気な顔をしてやるとは、おぬしは並大抵の奴じゃない。はっきり言って、わしは今まで、あれ程、使える奴には会った事もない。おぬしは一体、何者なんじゃ」
「あの時、大峯の山伏だと言ったでしょう」
「ふん。まあいい、そのうち、わかるじゃろう」
「多分‥‥‥」
太郎は、銀左に礼を言って別れた。
「今度、おぬしの彫った観音像を見たいもんじゃ」と銀左は言った。
太郎はただ、頷いた。
「見事じゃな」と阿修羅坊はかすれた声で言った。
「まだ、やるつもりですか」と太郎は聞いた。
「わからん」と阿修羅坊は左手で髪を撫で上げた。
「これ以上、犠牲者は出したくありません」
「ああ‥‥‥おぬしらは一体、何人いたんじゃ」
「実際、戦ったのは十三人です」
「十三人‥‥‥そんなにもいたのか‥‥‥しかし、信じられん。十三人で三十三人を倒したとはな。宝輪坊しか戻って来んが、あとの者は皆、死んだのか」
「成仏しました」
「やはりな‥‥‥おぬしの方は何人、死んだ」
「一人も死にません」
「何じゃと、一人も死なんのか‥‥‥信じられん‥‥‥一体、どうやって、あいつらを倒したんじゃ」
「ただ、正確な情報を集めただけです」
「成程、戦の基本じゃな。わしは、その基本を怠ったというわけじゃな」
「そういう事です」
阿修羅坊は溜め息をつくと俯いたまま黙っていたが、情けない顔で太郎を見ると、「黄金の阿弥陀像は見つかったのか」と聞いた。
「見つかりません」と太郎は答えた。
「見つけたら、どうするつもりじゃ」
「楓と交換します」
「楓殿とな、それは難しいかも知れんぞ。浦上美作守は今更、楓殿を手放すまい」
「飽くまでも、私を殺すというのですか」
「わからん‥‥‥わしはおぬしの事からは、もう手を引くつもりじゃ」
「本当ですか」
「もう、わしの持ち駒はなくなった‥‥‥だが、わしが手を引いても別の刺客が来るじゃろう」
「やはり、浦上美作守を消さんと駄目ですか」と太郎は言った。
阿修羅坊は顔を上げて太郎を見た。「やるつもりか」
「これ以上、続けるつもりなら」
阿修羅坊は太郎の顔を見つめながら頷いた。「おぬしなら、やるじゃろうのう」
「浦上美作守一人をやれば、他の者が死ななくて済みます」
「美作守をやったとしても、楓殿を取り戻すのは難しいぞ。すでに、赤松家の重臣たちは楓殿の存在を知ってしまっている」
「楓を取り戻す事は不可能だと言うのですか」
「多分な‥‥‥ところで、宝の事じゃが、なぜ、知っておるんじゃ」
「京の浦上屋敷で聞きました」
「どこで?」
「天井裏で」
「やはり、あそこにおったのか‥‥‥四つめの言葉はどうして知った」
「知りません」
「ごまかさなくてもいい。城山城で、おぬしらの話を聞いた」
「城山城で? あそこにいたのですか」
「ああ。わしが雨宿りをしていた時、おぬしらが登って来た。話は全部、聞いた」
「そうですか。あれは松恵尼殿が持っていたのです」
「ふん、また、松恵尼殿にやられたというわけか。それで、宝は見つかりそうなのか」
「全然、見当も付きません」
「わしも、まったくお手上げじゃ」
太郎は長卓を挟んで、阿修羅坊の向かい側に腰を下ろした。
「のう、太郎坊、宝の事はおぬしに任せるわ。どうせ、また、おぬしにやられるじゃろうしな」
「宝からも手を引くのですか」
「ああ」と阿修羅坊は力のない返事をした。「おぬし、さっき、楓殿と宝を交換すると言っておったのう。その話、わしに任せてくれんかのう」
「なぜです」
「おぬしが直接、取り引きしようとしても、おぬしの事を知っている者はおらん。おぬしが宝の事を説明しても誰も信じはせんじゃろう。返って、危険な目に会うだけじゃ。それより、わしが浦上美作守と話を付けてやる」
「楓との交換をですか」
「それは無理じゃ。無理じゃが、今、赤松家では有能な人材を捜している。おぬし程の者なら武将に取り立てても立派にやって行くじゃろう。どうじゃ、赤松家の武将にならんか。楓殿の夫として赤松家のために働いてみんか。おぬしがお屋形様の姉君、楓殿と出会って夫婦になったのも何かの縁じゃろう。おぬしの技を赤松家のために使ってみんか」
「どうして、急に、そんな気になったのです」
「おぬしが強すぎるからじゃ。まさか、これ程、強いとは思ってもいなかった。ただ、強いだけじゃない。戦も充分に知っている。これ以上、戦って味方を減らすより、味方にした方がいいと気づいたんじゃ。それに、楓殿のためにも、それが一番いいしのう」
「楓が、阿修羅坊殿には世話になったと言っていました」
「そうか」と言った後、阿修羅坊は眠りから覚めたかのような顔をして太郎を見つめた。「楓殿に会ったのか」
太郎は頷いた。
「一体、いつじゃ」
「阿修羅坊殿と戦う前の日です」
「なに、あの前の日? 前の日というと、おぬしがこの城下に着いた日じゃないのか」
「そうです」
「その日のうちに楓殿に会ったと言うのか」
「はい」
「まったく、おぬしという奴はとんでもない奴じゃのう」
「ところで、今、言った話はうまく行きますか」
「おぬしが見事、宝を捜し出す事ができれば、浦上殿にも、おぬしの才能がわかるじゃろう。そうすれば、おぬしはその宝を持って楓殿の亭主として迎えられるように、わしが取り図る」
「わかりました。考えておきます」
「宝の事を頼むぞ」
「阿修羅坊殿は、どこにあると思います」
「わしは瑠璃寺のどこかにあると思っておるが、どこだか、まったくわからん」
「瑠璃寺ですか」
「あそこの古文書を読めば何かわかるかも知れん。わしが一筆書いてやる。それを見せれば、古文書やら資料やらが見られるじゃろう」
阿修羅坊から書き付けを貰うと、太郎は霊仙坊を出た。
外は眩しく、暑かった。
蝉がうるさい位に鳴いていた。
太郎は空を見上げた。青空の中に白い雲が浮かんでいた。
ほんとに疲れた‥‥‥
ゆっくりと眠りたかった。
2
白旗神社から木賃宿『浦浪』に向かう途中、大通りで、太郎は河原者の頭、片目の銀左衛門と出会った。
「おい、若造」と銀左は後ろから声を掛けて来た。
太郎が振り返ると、六尺棒をかついだ銀左が手下の者を二人連れていた。
「観音は彫れたか」と銀左は聞いた。
「まだです」と太郎は答えた。
「人の解体はしたのか」と銀左は笑いながら聞いた。
「まあ、適当に斬り刻みました」と太郎も笑いながら答えた。
「物好きじゃのう。今、下流でな、溺死者が上がった。ちょっと傷はあるがの、新鮮な死体じゃ。斬りたけりゃやるぞ」
「溺死者?」
「おう、どこぞの山伏じゃ。三人上がったが、一人はまだ生きておった。誰にやられたのか知らんが、二人は腕を斬られ、一人は足を斬られておった。なかなかの凄腕じゃ。どうせ、侍と喧嘩して、やられたんじゃろ」
「そなたたちは人の死体の処理もするのですか」と太郎は聞いた。
「河原に上がればの。河原で起こった事は、すべて、わしらの領分じゃ。死人を処理する代わりに、死人が持っていた物は、すべて、わしらの物になる」
よく見ると、銀左の後ろの二人が抱えているのは死んだ山伏の着物や武器だった。
「その収穫はどうするんです」
「市で売るのさ」
「売れるんですか」
「ああ、よく売れる。今は戦続きで品不足じゃ。何でも売れるわ」
「成程‥‥‥銀左殿、ちょっと、聞きたい事があるんですけど、いいですか」
「何じゃ」
「ここじゃ何だから、河原にでも行って話したいんですが‥‥‥」
「おう。お前ら、先に行ってろ」と銀左は手下に命じて、河原の方に降りて行った。
二人が降りて行った河原では、紺屋(コウヤ)または紺掻(コウカ)きと呼ばれる藍(アイ)染めの職人たちが仕事をしていた。革作りの職人たちのいる所より、ほんの少し上流だった。
銀左は大きな石の上に腰を下ろした。
「毎日、暑い日が続くのう」と銀左は汗を拭きながら対岸の方を見ていた。
太郎も近くの石に腰を下ろした。
「話というのは何じゃ」
「別所加賀守殿の事なんですが、あの人はこの城下で一番偉いのですか」と太郎は聞いた。
「そんな事を聞いてどうする」
「どうも、別所殿はけちでして」と太郎はいい加減な事を言った。
「ほう、別所殿はけちかね。それで?」
「観音像を彫ってるんですが、実は銭を出したがらない。何でも、京から来たという御料人様に頼まれた観音様だと言うが、できれば、もう少し弾んで貰いたいのです」
「成程のう。別所殿は偉いと言えば偉いには違いないが、偉い奴なら長老がかなりいる。だが、実際、赤松家の中で力を持っている者と言えば、やはり、別所殿じゃろうのう。この城下ではじゃ。京の都も含めれば、やはり、一番、力を持っているのは浦上美作守殿じゃな」
「浦上殿の方が、別所殿より力があるんですか」
「そりゃそうじゃ。浦上殿は幕府にも顔が売れておる。だがな、城下にいる重臣たちの評判はあまり良くない。国元の事も考えずに、何でも独善的に決めてしまうのでな。特に、別所殿とは犬猿の仲じゃ。浦上殿のやる事には必ず反対するのが別所殿じゃ。わしらから見れば、京にいて幕府にくっついている浦上殿よりは、別所殿の方がよっぽど頼りになると言うものじゃ」
「別所殿は浦上殿のやる事には必ず反対するのですか」
「必ずと言っても、国元の事を考えて反対するんじゃ。浦上殿は国元の事など考えず、幕府の言いなりじゃからな」
「成程、しかし、浦上殿が京にいるんじゃ話にならんな。城下には浦上派はいないのですか」
「浦上派で力のある者と言えば、姫路城の小寺(コデラ)伊勢守殿、金鑵(カナツルベ)城の中村駿河守殿、豊地(トイチ)城の依藤(ヨリフジ)豊後守殿、枝吉(エダヨシ)城の明石兵庫助殿くらいかのう」
太郎は四人の名を頭に刻み、「その人たちは城下にいるんですか」と聞いた。
「依藤殿はお屋形様と一緒に美作に行っておるが、あとの三人は城下におるじゃろう」
「自分の城には帰らないのですか」
「今は、お屋形様が留守じゃからの。留守番のようなものじゃ。それにの、城下をもう少し広げるらしいからの、その縄張りの相談でもしておるんじゃないかのう」
「城下を広げる?」
「ああ。この辺りはそうでもないが、船着き場の辺りは、もう、びっしりじゃろう。赤松家が盛り返して来たものじゃから、城下にどんどん人が集まって来るんじゃ。もう、うちを建てる場所がなくなっちまったんじゃ。かと言って、たんぼを潰すわけにもいかんしのう。そこで、城下を北の方に伸ばすんじゃよ」
「北と言うと、あの市場の向こうに?」
「おう、四日市場の向こうにな。あの向こうはちょっと狭くなっておるんじゃが、その先が、この城下くらいの平地があるんじゃ。たんぼがいくらかあるが、あとは荒れ地のままじゃ。開墾すれば、かなりのたんぼができるし、町もできるというわけじゃ。もう、すでに荒れ地の開墾は始まっておる。材木もどんどん上流から運んでいるしのう」
「城下を広げるのか‥‥‥銭が掛かるだろうな。赤松家はそんなに銭を持ってるのか」
「持ってるんじゃろう」と銀左は他人事のように言った。
「別所加賀守も、それに銭が掛かるから俺の観音像に銭を出さんのだな」と太郎は探りを入れた。
「それは、どうか知らんがのう。おぬしの観音像、京から来た御料人様に頼まれたとか言ってたのう」
太郎は頷いた。
「その御料人様というのは、お屋形様の姉君様じゃないのか」と銀左は聞いた。
「よくは知りませんが」と太郎はとぼけた。
「京から来たと言えば、まさしく、そうに違いない。その御料人様の披露の式典が、お屋形様が帰って来たら大々的に行なわれるらしいの。その会場を今、新しくできる城下の地に作っている最中じゃ。その会場をなるべく早く完成させるために、大円寺から人足をもっと集めろと命ぜられたわ。何でも、その披露の式典には赤松家の被官を全部、呼ぶらしい。そうなったら偉い騒ぎじゃ。この城下は人で埋まってしまう。宿屋も新しく建てなくてはならんじゃろ。また、忙しくなるわ」
「その御料人様の披露式典とかを、そんな大袈裟にするのですか」
「おお、そうじゃ。なにせ、お屋形様の姉君じゃからの。それに、噂じゃが、えらい別嬪だそうじゃ」
「それにしても、大袈裟な事をするもんだな」
「なに、表向きは披露式典じゃが、本当の目的は赤松家を固める事なんじゃ。赤松家が再興されてから、まだ日が浅いからのう。国人たちの本心というものを確かめんと、いつ、ひっくり返されるとも限らん。祝い事に招待されたとなれば、兵を引き連れ、大人数で来るわけにもいかんからのう。祝い事にかこつけて、国人たちの忠誠振りを確かめるつもりなんじゃよ」
「成程ね。それにしても、赤松家は再興されたばかりなのに、えらい景気いいんだな」
「確かに景気がいい。人足たちにもちゃんと銭を払ってくれるしな」
「銭の出所は一体、何です」
「そんな事を聞いて、どうする」
「ほんとに景気いいのなら、お頭を呼んで、ここに腰を落ち着けた方がいいと思ってね」
「そういう事か。それなら呼んだ方がいいかもしれんぞ。城下を広げるとなれば、向こうの土地に、必ず、寺を建てる。そうすれば仏像が必要となるわけじゃ。おぬしのお頭が誰だか知らんが、その寺の仏像を任されれば相当な稼ぎになるはずじゃ」
「俺もそう思うが、確かな証(アカシ)がないとな。財源は一体、何です」
「よくは知らんが、鉄じゃないかの。今、どこの国でも戦続きで、武器はいくらあっても足らん。その材料が鉄じゃ。鉄は瑠璃寺が一括して扱っておるが、赤松家はその鉄を全部、買い取り、鍛冶師に武器を作らせて商人に売っている。その儲けがかなりあるんじゃろう」
「赤松家は鍛冶師も支配してるのか」
「実際に支配してるのは大円寺の勝岳上人(ショウガクショウニン)殿じゃがな。赤松家で支配しているのと同じじゃ」
「と言う事は、名刀の産地、備前の長船(オサフネ)も赤松家の支配下なのか」
「備前の長船と言ったら、赤松家というよりは浦上殿の支配下のようなものじゃ」
「浦上殿の財源か‥‥‥」
「だから、浦上殿は強きなんじゃよ」
「成程な、赤松家が鉄で商売してるのなら儲かるわ」
「おぬしも、お頭を呼んで、ここに腰を落ち着けた方がいいぞ」
「わかった。そうしましょう」
銀左はニヤニヤしながら太郎を見ながら、「おぬし、ほんとに仏師か」と聞いた。
「はい」と太郎は答えた。
「わしには、どうも信じられん。最初、会った時、わしの刀を軽く弾きおった。しかも、最小限の動作でじゃ。あの時は気づかなかったが、後で考えてみると、どうも腑に落ちん。あの時、おぬしはわしの刀を弾くのに、わしの方を一度も見ん。それなのに簡単に杖で弾きおった。あれ程の事を平気な顔をしてやるとは、おぬしは並大抵の奴じゃない。はっきり言って、わしは今まで、あれ程、使える奴には会った事もない。おぬしは一体、何者なんじゃ」
「あの時、大峯の山伏だと言ったでしょう」
「ふん。まあいい、そのうち、わかるじゃろう」
「多分‥‥‥」
太郎は、銀左に礼を言って別れた。
「今度、おぬしの彫った観音像を見たいもんじゃ」と銀左は言った。
太郎はただ、頷いた。
18.金勝座1
1
目をしょぼしょぼさせながら、久し振りに『浦浪』に戻った太郎は助六に迎えられた。
助六は大通りまで出て、太郎の帰りを待っていた。
太陽の光が眩しいのに、助六の姿はもっと眩しかった。
「どうかしたのですか」と太郎は助六に聞いた。
「いえ、何となく心配だったので‥‥‥」助六はそう言って、ほっとしたように笑った。
「俺がですか」と太郎は聞いた。
助六は太郎を見つめたまま頷いた。「先程の太郎坊様の様子から、何となく、いやな予感がしたのです。もしかしたら、一人で阿修羅坊に会いに行ったのではないかと‥‥‥」
太郎はじっと助六の目を見つめた。
「いやですわ。そんなに見つめて‥‥‥」助六は恥ずかしそうに視線をはずした。
「恐ろしいものですね、女というのは」
「では、やはり?」
「ええ、誰にも気づかれないと思ってましたが、奈々さんには気づかれましたか」
「阿修羅坊に会ったのですね」
太郎は頷いた。助六に話すつもりはなかったが、気づかれたのなら仕方がなかった。
「大丈夫だったのですか」と助六は太郎が怪我をしていないか観察した。
「大丈夫です。阿修羅坊は大分、がっくり来てましたよ。もう、手を引くそうです」
「えっ、それじゃあ、もう、安心して御城下にいられるのですね」
「当分の間は大丈夫でしょう」
「当分の間ですか」
「阿修羅坊が手を引いても、浦上美作守が手を引くとは限りません」
「また、誰かをよこすと言うのですか」
「多分‥‥‥ところで、伊助殿は帰って来ましたか」
「ええ、帰っています。伊助さんも太郎坊様を待ってますよ」
「そうですか」
二人は宿に入った。
伊助は部屋で待っていた。次郎吉と藤吉が気持ち良さそうに眠っている。
「河原者のお頭に何の用があったのです」と伊助は聞いた。
「嘘ついたんですよ」と助六が太郎の横で言った。「一人で、阿修羅坊に会って来たんですって」
「何ですって、そんな危険な事を‥‥‥まったく、あなたには目が離せませんな」
「これ以上、犠牲者を出したくなかったのです」
「阿修羅坊はどう出ました」
「手を引くそうです」
「ほんとですか」
「そう言ってました。そこで頼みがあるのですが」
「何です」
「阿修羅坊の事なんですが、もし、それが本当なら、一度、京に帰ると思うんですよ。それで、誰かに後を付けてもらいたいのです。口ではああ言ってましたけど、本当の事を知りたいし、それと、浦上美作守の出方も知りたい」
「わかりました。わたしが行きましょう」と伊助は即答した。
「いえ。別に、伊助殿じゃなくてもいいんですよ」
「実は、わたしも一度、帰ろうと思ってたんです。その事を言おうとして、こうして待っていたのです。商売道具の薬の方が、そろそろ切れそうなんですよ。一応、一段落しましたし、松恵尼殿にもその後の事など連絡しないと心配してるでしょうからね」
「そうですか、伊助殿が行ってくれれば、それに越した事はありません。当分の間は、こっちの方は安全でしょう。お願いします」
「ええ、それじゃあ、さっそく阿修羅坊でも見張りに行きますか」
「えっ、さっそくですか」
「逃げられたら大変ですからな」
「少し、休まないと無理ですよ」
「そうですよ、少し休んだ方がいいわ」と助六も心配顔で言った。「そう、急がなくても阿修羅坊の行き先はわかっていますし」
「大丈夫です」と伊助は笑った。「わたしは歩きながらでも寝られるんですよ」
「そんな」と太郎は助六と顔を見合わせた。
伊助はすでに荷物をまとめて帰る支度をしていた。
「なるべく、早く帰って来ます。何か、松恵尼殿に言伝(コトヅテ)はありませんか」
「お礼を言っておいて下さい。それと、飯道山に当分、帰れそうもないと伝えて下さい」
「わかりました」
伊助は荷物を背負うと出掛けて行った。
太郎と助六は伊助を見送った。
「働き者だなあ」と太郎は伊助の後姿を見ながら言った。
「ほんと」
「さて、少し寝るか。さすがに疲れた。奈々さんも少し寝た方がいいですよ。午後から舞台でしょ」
「そうね」
一眠りして起きたら、もう、昼過ぎだった。
風光坊はまだ眠っていたが、八郎と金比羅坊の姿はなかった。
厠から戻って来ると、金比羅坊がいた。
「起きたか」と金比羅坊は言った。
「ああ、よく寝た」と太郎は体を伸ばした。
「まだ、寝足りんじゃろう」
「もう、大丈夫ですよ」
「おぬしが寝てる時、別所屋敷から若侍が来たぞ」
「えっ?」と太郎は金比羅坊を見た。
「別所屋敷から、若侍が来たんじゃ」と金比羅坊はもう一度、言った。
「何で」と太郎は聞いた。
「金勝座を招待したいそうじゃ」
「本当ですか」
「ああ」
「いつです」
「明日じゃ。どうも、楓殿が呼んだらしい」
「明日か‥‥‥」太郎は風光坊の寝顔を眺めながら部屋を横切り、窓際に行って腰を下ろした。
「舞台を作るために甚助殿が別所屋敷に出掛けた」と言いながら金比羅坊も窓際に来た。「八郎を連れて行ったよ。わしも行こうとしたんじゃがな、目立ち過ぎると言うんじゃ。別所の侍どもに顔を覚えられたら、これから先、動きづらくなるからやめておいた方がいいって言うんでな」
「どうして、俺を起こしてくれなかったんです」と太郎は不満気に聞いた。
「よく寝ていたしな。それに、もし、別所屋敷に阿修羅坊でもおれば、おぬしと金勝座のつながりがわかってしまうからのう」
「そうか、そいつはまずい」
「しかし、その心配もなくなった」と金比羅坊は言った。「つい、さっき、旅の鋳物師(イモジ)が来ての、こんな物を置いて行ったわ」
金比羅坊は一枚の紙切れを太郎に見せた。その紙切れには、『八部衆の一人が帝釈天(タイシャクテン)と戦いに行った、伊の字』と書いてあった。
「阿修羅坊が京に行ったと言う意味ですか」と太郎は聞いた。
「じゃろうな。八部衆の一人というのは阿修羅の事じゃ。帝釈天は十二天の一つで東を守っておる。じゃから、阿修羅が東に行ったという意味じゃな」
「戦いに行ったというのは?」
「それは別に意味はないじゃろ。阿修羅は帝釈天と戦って敗れ、お釈迦様に教化されて八部衆の一人となり、お釈迦様を守っているとされてるんじゃ」
「ほう、伊助殿も色々な事を知ってますね」
「どうする。別所屋敷に行くか」
「そうですねえ」と太郎は言って、伊助の手紙をたたむと庭を眺めた。「行ったとしても楓と話ができるわけじゃないし、明日、行きますよ。明日、行けば、別所加賀守や赤松家の家臣たちの顔が見られるかも知れないですからね」
「成程な‥‥‥しかし、おぬしの子供もおるんじゃろう。子供に見つかったら、まずいんじゃないかのう」
「見つからないように面をかぶって行くつもりです」
「得意の天狗の面でもかぶって行くか」
「ええ」と太郎は頷き、手紙を金比羅坊に返した。「ところで、金比羅坊殿、久し振りにゆっくりしている所をすみませんが、明日から、また、宝捜しの方をお願いしたいのですけど」
「おお、わかっとる」
「すみません」
「なに、楓殿を取り戻すまでは、のんびりなどしておられんわ」
「助かります。探真坊が怪我をしたので、八郎を連れて行って下さい」
「奴は大丈夫かのう」と金比羅坊は気持ちよさそうに眠っている風光坊を見た。
「鼾をかいて、あれだけ寝られれば大丈夫でしょう。俺も明日、別所屋敷から帰ったら、すぐに後を追います」
今度は太郎が、懐から一枚の紙を出して金比羅坊に見せた。
「何じゃ。こいつは阿修羅坊が書いた物じゃないか。どうして、こんな物を持ってるんじゃ」
「阿修羅坊に会って来ました」
「何じゃと、河原者の頭とかに会いに行ったんじゃなかったのか」
「お頭にも会って来ました。でも、阿修羅坊にも会いました」
「一人で行ったのか」
太郎は頷いた。
「まったく、おぬしは何をしでかすか、わからん奴じゃのう」
「阿修羅坊は手を引くそうです。俺を殺すのも、宝を捜すのも」
「ほんとか。信じられん」
「宝を捜し出したら、浦上美作守との取り引きの仲立ちをしてくれるとも言いました」
「そんな事、信じられるか。おぬし、まさか、奴の言う事を信じたんじゃあるまいな」
「信じてはいません。伊助殿に後を追わせたので、阿修羅坊がどう出るかは、そのうち、わかると思います」
「そうか、伊助殿は京まで付いて行くのか」と金比羅坊は言って、改めて、阿修羅坊の書いた物を読んだ。「それで、阿修羅坊の奴は、宝と楓殿の交換をうまく取り持つと言ったのか」
「いえ、交換は無理だそうです。俺を赤松家の武将に取り立てると言いました」
「なに? おぬしを赤松家の武将に? 成程、これ以上、犠牲者を出すより味方にした方がいいと言うわけか。しかし、そんな事ができるか」
「わかりません」
「おぬしを武将として迎えるのはいいが、ただの武将では済まんぞ。お屋形様の姉君の旦那じゃからな。余程、地位の高い武将でなければまずいじゃろう。果たして、浦上美作守がそんな事をするかのう」
「わかりません」
「うむ。もし、迎えるとしたら、おぬしはどうする」
「わかりません。とにかく、ここのお屋形、赤松政則に会ってからです、決めるのは」
「うむ、そうじゃろうのう。それで、もし、赤松政則が立派な大将だったら、どうするつもりじゃ」
「とりあえず、赤松家の武将になります」
「なるのか」
太郎は頷いた。「それしか、道がないような気がします。初めは、宝と楓を交換するつもりでいましたが、そう簡単には行きそうもありません。もし、宝を見つけたとします。例えば、その宝を別所屋敷に持って行って、楓との交換を申し込んだとします。宝の事を知っているのは浦上美作守だけです。何だかんだ、説明してみても、どこのどいつだかわからん奴の話なんか、まともに聞いてはくれないでしょう。あげくの果てには、盗っ人呼ばわりされて、第二の阿修羅坊に狙われ、また、殺し合いをしなくちゃならなくなるでしょう。また、楓と百太郎を無事、助け出して逃げたにしろ、赤松家はどこまでも追って来るでしょう。一生、隠れて暮らさねばならなくなります。そう思いませんか」
「うむ、確かにそうじゃのう。楓殿を連れ出しても追っ手は来るじゃろうのう」
「追われるよりは赤松家の武将になった方がいい。実際、楓は赤松家の娘なんだから、婿に行ったと思えばいいだけです」
「そうじゃのう。じゃが、浦上美作守という奴が、そう簡単に、おぬしを迎えてくれるか、じゃな」
「さっき、河原者のお頭から面白い事を聞きました。浦上美作守と別所加賀守は犬猿の仲だそうです。浦上は国元の連中には、どうも嫌われているようですね。赤松家の中で一番の実力を持っているらしいけど、国元の事も考えないで、何でも自分で決めてしまうそうです。だから、もし、浦上が俺を武将に取り立てようとしても、別所加賀守が反対する可能性があります」
「国元で、一番、力を持ってるのは別所加賀守なのか」
「そうみたいです」
「それじゃあ、もし、別所加賀守がおぬしの存在を知って、浦上美作守がおぬしを消そうとしている事を知れば、逆に、加賀守はおぬしを助けようとするかもしれんのう」
「かもしれませんね」
「別所加賀守におぬしの存在を知らせる必要があるな。ところで、楓殿は加賀守におぬしの事を話さんのじゃろうか」
「俺は、すでに死んだ事になってるんですよ」
「それは聞いたが、楓殿が生きていると言い張れば、加賀守も楓殿の事を信じるんじゃないかのう」
「楓は赤松家が俺の命を狙っている事を知っています。加賀守も俺を殺そうとしている一味だと思って、何も喋らずにいるんだと思います」
「そうか‥‥‥いい方法はないかの。加賀守におぬしが生きてる事を知らせる方法は」
「しかし、俺の存在がわかったら、また、命を狙われる可能性もあります」
「それもあるのう」
「しかも、別所加賀守が相手となると、今度は本当に、赤松家を相手に戦わなければならなくなります。百人もの武士に囲まれたら間違いなく殺されます」
「そうじゃのう。加賀守だけじゃ駄目じゃのう。いっそ、この城下の者、みんながおぬしの存在を知ればいいじゃ。そうすれば、赤松家もおぬしを殺せなくなる」
「どうしてです」
「赤松家がお屋形様の姉の亭主を殺したなんて噂が立ってみろ。国中の豪族や国人たちが、赤松家を信用しなくなるわ。実の姉の亭主を殺すような大名にくっついていたら、自分らの命も危ないと、みんな、離れて行ってしまうじゃろう。せっかく、まとめた国が、また、ばらばらになってしまう。そんな事は赤松家だってするまい」
「成程‥‥‥」
「おぬしの存在を城下の者みんなにわからせればいいんじゃ」
「言う事はわかりますが、そんな事、不可能ですよ。俺が楓の亭主ですって城下中に触れ回って歩くのですか‥‥‥待てよ、噂を流すっていう手があるな。」
「おぬしが生きていたという噂を流すのか‥‥‥うむ、そいつはいいかもしれんな」
「こんな時、伊助殿がいてくれたらな」
「そうじゃのう。伊助殿ならうまくやりそうじゃの」
「伊助殿を帰したのは失敗だったな」
「太郎坊様」と誰かが呼んでいた。
太郎が部屋から出て見ると、金勝座の千代が太郎を捜していた。
「あっ、太郎坊様」
「どうしたんです、そんなに慌てて」
「どうしたじゃないですよ。助六姉さんが怒ってますよ」と千代は目を丸くして口を尖らせていた。
「はあ?」
「舞台を見に来るって約束したんでしょ。もうすぐ、二回目の舞台が始まりますよ。助六姉さん、怒らせたら物凄く怖いんですから、あたし、知りませんよ」
「ああ、そうだった。もう、そんな時間になるのか。すぐ行く」
太郎は金比羅坊を誘って河原に出掛けた。
千代にせきたてられながら、二人は金勝座の舞台に向かった。
頭の中で、鐘が鳴っていた。
昨夜は久し振りに酔っ払った。
昨日、金勝座の舞台を見てから、小野屋に探真坊と右近と吉次の三人を見舞い、太郎と金比羅坊は『浦浪』に帰って来た。
風光坊が寝ぼけた顔をして起きていた。ゆっくり休んだせいか、傷の痛みはほとんど消えた、もう大丈夫ですと笑った。目が覚めたら誰もいないので、独り、追いてきぼりを食らったのかと、がっかりしていたのだと言う。
やがて、八郎と甚助が別所屋敷から戻って来た。話を聞くと、舞台はほとんどでき上がり、明日、ちょっと仕上げをすれば完成する。明日は甚助一人でも充分だと言った。
楓と百太郎にも会ったと八郎は言う。金比羅坊が、楓殿と話なんかしなかっただろうな、と聞くと、八郎は少しだけした、と言った。向こうから太郎の事を聞いて来たので、少しだけ話をした。でも、側に別所の侍はいなかった。奥さんとお子さんと桃恵尼の三人だけしかいなかった、と言った。
お子さんは師匠そっくりで、いたずら小僧で、奥さんは前に多気で見た時より、ずっと綺麗だったと言った。太郎が、綺麗な着物を着ていたからだろう、と言うと、そうかもしれない、と言ってから慌てて首を横に振った。
阿修羅坊も倒した事だし、約束通り、遊女屋にでも繰り出して、今日は騒ごうと皆で言っている時、座頭の助五郎が顔を出して、小野屋さんが御馳走を用意してくれたというので、みんなして出掛けましょう、と誘ってくれた。まあ、素面(シラフ)で遊女屋に行くのも何だから、ちょっと一杯引っかけてから行くかと、みんなで小野屋に出掛けた。
小野屋の広い座敷に豪華な料理が並び、次郎吉、藤吉、それと、太郎は知らないが、楓と一緒に別所屋敷にいる弥平次、それに、金勝座の面々もいた。そして、太郎、金比羅坊、風光坊、八郎と今回の関係者が勢揃いした。遊女も八人加わって賑やかな宴会となった。
太郎の隣には、当然のように助六がいた。太郎にとっても嬉しい事だったが、酔っ払った自分に責任が持てなかった。また、自己嫌悪に陥りそうな気がした。
助六の隣に金比羅坊がいて、その隣にしっとりした雰囲気の遊女が入った。金比羅坊は鼻の下を伸ばして嬉しそうだった。
八郎の隣はお千代ちゃんで、八郎もやたらとお千代ちゃんを口説いている。お千代ちゃんも結構、楽しそうだった。
風光坊の隣は太一だったが、風光坊はただ、ひたすら酒を飲んでいた。太一の隣には次郎吉がいて、これもまた、むっつりと酒を飲んでいる。誰が席を決めたのか知らないが、人の心を読み取った席順だった。みんな、楽しそうに酒を飲んでいた。
ちょっと一杯飲んだら抜け出して、遊女屋に行こうと約束していたが、誰も行こうと言う奴はいなかった。皆、現在の状況に充分、満足していた。
夜が更けるに従って、一人づつ消えて行った。金比羅坊は隣にいた遊女とどこかに消えた。いつの間にか、次郎吉もいなかった。風光坊は飲み過ぎて伸びていた。
八郎と千代はしんみりと話し込んでいる。何を話しているのか知らないが、八郎は真面目くさった顔をして、お千代ちゃんに何かを言っている。聞いているお千代ちゃんの方も頷きながら真面目に聞いていた。うまく行っているようだった。
太郎は助六と太一を相手に飲んでいた。両手に花で、いい気分だった。
助六は太一に邪魔だからどっかに消えてよと言うが、太一は次郎吉に逃げられた腹いせか、じっくり腰を落着けて飲む気でいる。太一が片膝立てて足をあらわにすると、負けるものかと、助六は腕まくりをして対抗する。そんな二人の間に挟まれて太郎は御機嫌だった。
久し振りに緊張が溶けたせいか、太郎もすっかり酔っ払ってしまった。どうやって浦浪まで戻って来たのか覚えていないが、朝、目が覚めたら、浦浪の部屋で八郎、風光坊と一緒に寝ていた。
どうやら、助六と太一の部屋にもぐり込みはしなかったようだ。助かった、と太郎は胸を撫で下ろした。楓を救い出すために、みんなの助けを借りているのに、太郎が助六か太一に手を出したなんて事になったら、みんなに合わす顔がなかった。酔っ払っても自制心は働いたらしい。ほんとに助かったと思った。反面、勿体なかったなあ、とも思う太郎だった。
太郎が顔を洗っていると、金比羅坊が次郎吉と一緒にさっぱりした顔をして帰って来た。すっかり、二人は意気投合しているようだった。
太郎は八郎と風光坊を起こし、さっそく、金比羅坊と八郎を笠形山に、次郎吉と風光坊を瑠璃寺に、宝捜しに行かせた。そして、太郎は商売道具を持って早朝の河原に出て、金勝座の舞台まで来ると鬼の面を彫り始めた。
頭の中が、がんがんしていた。
昨日、金勝座の舞台を初めて見て、太郎は久々に感動した。
助六、太一、藤若の踊りも勿論良かったが、やはり、助五郎の作った狂言には感動した。
昨日の出し物は、小野小町(オノノコマチ)を題材にした狂言だった。
藤若扮する小菊という娘が母親を捜しに京に来て、昔、絶世の美女と謳われた母親、小野小町に再会するという話だった。母親の思い出の場面では、若き日の小町に扮した助六が舞台狭しと踊り、唄い、語った。普段の助六からは、まったく想像もできないような情熱的な素晴らしい演技だった。左近が、いい男だがちょっと抜けた所のある、とぼけた恋人、深草の少将役をうまく演じていた。太一は助六の恋仇として登場し、妖艶な踊りを披露した。最後の場面では、年を取って昔の面影もない老婆となった小町を助六は見事に演じていた。そして、その場面に、小町の有名な歌が小助によって唄われた。
〽花の色は、移りにけりな、いたづらに~
わが身、世にふる、ながめせし間に~
昨日、太郎は助五郎から、別所屋敷で演じる狂言に、ぜひ出演してくれと頼まれていた。右近が怪我をしたので人が足らないのだと言う。芝居や踊りなんてした事のない太郎は、そんな事、無理だと断ったが、難しい役じゃないから是非にと頼まれ、断り切れなかった。今日は金勝座の一員に成り済まして別所屋敷まで付いて行くつもりではいたが、まさか、舞台に上がるとは思ってもいなかった。
別所屋敷で上演する狂言は『太平記』を題材にしたもので、赤松家の初代の当主、赤松円心が登場する話だと言う。
助五郎は播磨に行くと決まった時から、是非、赤松円心の狂言を書こうと思っていて、太平記読みから話を聞いたりして色々と調べていたと言う。その狂言もようやく完成し、少しづつ稽古も始めていたらしい。そんな時、別所屋敷より招待され、その狂言を別所屋敷で初演する事に決めたのだと言う。
狂言は赤松円心が大塔宮(オオトウノミヤ)から令旨(リョウジ)を賜る場面から始まり、次の場面では、鎌倉幕府を倒すのに挙兵して活躍したにも拘わらず、後醍醐(ゴダイゴ)天皇の建武の新政には乾されて嘆いている円心を描き、次の場面では、後醍醐天皇に反旗を翻(ヒルガエ)した足利尊氏と会い、九州に逃げる尊氏に助言を与え、最後の場面では、白旗城において新田義貞と戦い、再び、九州より大軍を率いて上って来た尊氏と再会して、尊氏と共に京に攻め入るというところで終わっている。
円心役を左近がやり、尊氏役を助五郎がやり、円心の息子、信濃守範資(シナノノカミノリスケ)を助六、雅楽助貞範(ウタノスケサダノリ)を太一、播磨守則祐(ハリマノカミノリスケ)を藤若、弾正少弼氏範(ダンジョウショウヒツウジノリ)を千代がやり、太郎の役は二つめの場面に登場する白旗明神の化身という役だった。結構、重要な役処だが、舞台の上で、助六と太一の太刀をかわしながら跳びはねてくれればいいと言う。
昨日、少し稽古したが、今日もびっしり稽古を積まなければならなかった。ただ、素顔で演じるわけにはいかなかった。楓と共に百太郎も見ているに違いない。舞台の上の太郎を見たら、きっと、お父さんと叫ぶに違いなかった。まだ、太郎の存在を気づかせるには早すぎた。その事を助五郎に言うと、白旗明神の役は面をかぶる役だから大丈夫だと言った。
初め、鬼のような憤怒の相の面をかぶり、助六たちと戦ってからは穏やかな翁(オキナ)の面をかぶると言う。翁の面はあるが、鬼の面がないと言うので、太郎が自分で作る事にしたのだった。
太郎は金比羅坊と考えた、噂を流すという作戦をさっそく始めていた。白粉売りの藤吉に頼み、商人たちの間は勿論、商売先の町人たちの間にも噂を流させた。
噂の内容は『楓御料人様の旦那様は生きていて、もうすぐ、城下に来るだろう』というものだった。噂の性質上、すぐに城下中に広まるだろうと思った。
宝捜しの四人にも行く先々で、噂を流してもらう事にした。播磨の国中の者が、この噂を信じてしまえば、赤松家としても楓の旦那を登場させなくてはならないはめになるだろう。
太郎が河原で鬼の面を彫っていると、片目の銀左が通り掛かって覗き込んだ。
「おっ、なかなか、やるのう。鬼の面か」
太郎は顔を上げて銀左を見ると頷いた。
「観音像はやめて、今度は面打ちか」と銀左は笑った。
「いえ。ここの一座が、今日、別所屋敷で踊るんだそうです。鬼の面が足らんと言うので、ついでに作ってやってるんです」
「ほう。それにしても、おぬし、酒臭いのお。昨夜はお楽しみだったと見えるのう」
銀左はニヤニヤしながら太郎を見ていた。
太郎は首を振った。「楽しみだったんだか何だか、全然、覚えてないんですよ」
「何を言うか、この色男が。あまり、女子(オナゴ)を泣かせるなよ。後が怖いぞ」
「女子を口説く前に、酔い潰れてしまったらしい」
「情けないのう。酒を飲むのも修行じゃ。真剣に飲まなけりゃいかん。確か、ここの一座は金勝座じゃったのう。金勝座が別所屋敷にのう」
太郎は頷き、彫りかけの鬼の面を眺めた。
「銀左殿、楓御料人というお方には旦那さんがいたって知ってました?」
「おう、その位、知ってるわ。何でも、子供が一緒だと言うからの。しかし、その旦那っていうのは戦で死んだって言う話じゃぞ」
「ところが生きていたんですよ。昨日、別所屋敷でちょっと耳にしたんだけど、旦那さんは生きていて、もうすぐ城下に来るんだそうですよ」
「なに、そいつは本当か」
「本当みたいですよ。加賀守殿にしても、楓御料人様の旦那さんが、突然、現れると聞いて困っているみたいですよ」
「そうか‥‥‥旦那が生きておったか‥‥‥」
「ええ。ところで、銀左殿はどこに行くんです」
「あっ? ああ、新しい城下じゃよ。その楓御料人様の披露式典の会場の回りに宿屋をずらりと建てるそうじゃ」
「へえ、いよいよ、始めますか」
「おう。また、忙しくなるわ。それじゃあのう」
銀左は人足を引き連れて去って行った。
銀左でさえ、浦上美作守が京で流した噂を知っていた。という事は、太郎の噂もあっという間に広まるに違いなかった。銀左はそう簡単には信じないだろうが、後ろで聞いていた人足たちが噂を広めてくれるだろう。
太郎はまた、鬼の面作りに熱中して行った。
祭りが始まろうとしていた。
残暑の残る秋晴れの昼過ぎ、別所屋敷の広い庭園は人で埋まり、賑やかだった。
別所屋敷はうまい具合にできていた。くの字に曲がっている屋敷の庭に面している所は広い廊下になっていて、戸が全部はずされていた。
その廊下に着飾った身分の高そうな奥方や娘たちが、ずらりと並んでいる。その下の庭の筵(ムシロ)を敷いた所には家臣たちの奥方や子供たちが、そして、何も敷いてない所には女中や下女、使用人たちが舞台の側までびっしりと埋まっていた。
舞台の回りを四、五人の子供がはしゃいで走り回っている。その中に、元気に遊び回っている百太郎の姿もあった。
金勝座の舞台を見るために集まった客たちは、今や遅しと芝居が始まるのを楽しみに待っていた。座頭の助五郎の予想に反して、観客はほとんどが女子供だった。別所加賀守の姿も重臣たちの姿も見当たらない。
着飾った楓は侍女たちに囲まれて、南の客殿の回廊から舞台の回りで遊んでいる百太郎を見ていた。
太郎は舞台の後ろに建てられた支度小屋から楓や百太郎の様子を見ていた。百太郎に見られたらまずいと顔を面で隠しながら別所屋敷に入った太郎だったが、支度小屋が裏門のすぐ側にあったので、庭で遊んでいた百太郎に気づかれずにすんだ。
金勝座の者たちが別所屋敷に入った時は、まだ、見物人の数もそれ程でもなく、屋敷の回廊にも見物客の姿はなかったが、開演の四半時(三十分)前に太鼓を打ち鳴らすと、裏門から続々と客が詰め掛け、庭に作られた席は埋まってしまい、屋敷の回廊も着飾った女たちで埋まってしまった。
男の観客は少なかったが、楓の側に夢庵の姿があったのには太郎もびっくりした。この城下に着いた途端に消えてしまい、まだ、お礼さえも言っていない。きっと、赤松家の重臣の屋敷にいるに違いないとは思っていたが、まさか、別所屋敷にいたなんて、まったく以外な事だった。もしかしたら、楓も夢庵の事を知っているのかもしれない。夢庵とはもう一度、会って話がしたいと思った。
太鼓の音がもう一度、鳴り響き、観客が静まると、おすみの吹く笛の調べで舞台は始まった。おすみの笛に合わせて、新八の小鼓、弥助の大鼓が入り、小助が流行歌(ハヤリウタ)を歌った。その歌に合わせて三人の舞姫たちが男装で登場し、華麗な曲舞(クセマイ)を演じた。
ついさっきまで稽古していた『太平記』は急遽、変更となった。観客が女子供ばかりでは、あの話では面白くないだろうと、女子供に人気のある『義経』をやる事になった。
太郎の作った鬼の面は必要なくなったが、太郎は天狗の面をかぶって鞍馬山の天狗の役を演じる事になった。天狗になるのには慣れている太郎でも、まさか、舞台の上で、天狗を演じるとは思ってもいなかった。
三人の曲舞が終わると、座頭の助五郎と左京がこっけい芝居をやって客を笑わせ、その間に、舞姫たちが着替えを済ませて狂言芝居『源九郎(ゲンクロウ)義経』が始まった。
第一幕は鞍馬の山の中で、義経が天狗を相手に剣術の稽古をしている場面だった。義経役の藤若が、烏(カラス)天狗に扮した助六と太一を相手に剣術の稽古をしている姿を華麗に舞いながら演じた。やがて、義経が二人の烏天狗を倒すと、いよいよ、天狗に扮した太郎の登場だった。
太郎は義経役の藤若を相手に、舞台の上を所せましと飛び回った。稽古していた役とは違うが、やる事は同じだったので、太郎もうまくこなす事ができた。決めるべき所をきちんとやれば、後は天狗になったつもりで飛び回っていればよかった。最後に、太郎は義経に巻物を渡して舞台を降りた。
第二幕は五条の大橋、義経と弁慶の出会いの場面。弁慶の役は左京が演じた。
第三幕は吉野の山、義経と静御前の別れの場面。義経の家来、佐藤忠信に扮した太一が、山法師覚範(カクハン)に扮した左京を相手に艶やかに舞い、最後に、静御前に扮した助六が華麗な舞を見せた。
幕と幕の間には、助五郎が出て来て、場面のつながりを曲に合わせて説明をした。
狂言『義経』が終わると、小助と左京の二人がこっけい芝居をして、客をまた笑わせた。小助は謡方なのに芝居の方も結構うまかった。そして、助六、太一、藤若、千代の四人が巫女(ミコ)姿で登場し、鉦の音に合わせて賑やかな『念仏踊り』で舞台は終わった。
一時余りの舞台は、観客の喝采を浴び、大成功に終わった。
観客たちも帰り、後片付けをしている時だった。楓が老武士と夢庵を連れて、支度小屋にやって来た。
老武士は別所加賀守の執事(シツジ)で別所織部祐(オリベノスケ)といい、舞台がとても素晴らしかったと誉め、主人から預かった物だと言って、金一封を助五郎に渡すと帰って行った。
太郎もその場に居合わせ、楓の顔を見た途端、声が出そうになったが必死に抑え、ただ、楓の顔を見つめていた。
楓の方も同じだった。まさか、太郎が一緒に来るなんて思ってもいなかったのに、天狗の役をやっていたのは紛れもなく太郎に違いなかった。支度小屋の中にいた太郎を見つけ、思わず、声が出そうになり慌てて口を押えたのだった。
赤松家に命を狙われているのに、こんな所に来るなんて危険すぎる。幸いに、今日は加賀守様はいないけど、見つかったら大変な事になってしまう、と心配しながら楓は太郎を見つめていた。
執事が帰ってから、まず声を出したのは、太郎でも楓でもなく、楓の隣にいた夢庵だった。
「やはり、おぬしだったな」と夢庵は太郎に向かって言った。「あの天狗の物腰が、何となく、おぬしに似ていたんで、もしやと思って来てみたんだが、やはり、おぬしだったか」
「お久し振りです、夢庵殿」
「何やら、わけありのようじゃのう」と夢庵は太郎と楓の顔を見比べてから、「今、どこにおるんじゃ」と太郎に聞いた。
「『浦浪』という木賃宿です。河原の側の」
「河原の側?」
「ええ、紺屋たちがいる河原の側です」
「ああ、あの辺りか」と夢庵は頷いた。「今晩にでも行く。ちょっと話があるんでな」
「わかりました。待っています」
「さて、楓殿、そろそろ行きましょう。片付けの邪魔をしても悪いしな」
「はい」と楓は素直に頷いた。「皆さん、どうも、ありがとうございました。楽しい舞台を見させていただき、皆、喜んでおります。また、この次もよろしくお願いします」
夢庵と楓は帰って行った。
金勝座の者たちは荷物をまとめると別所屋敷を後にした。甚助が舞台を壊すために残ろうとしたが、舞台はそのままでいいと言うので、甚助も一緒に帰った。
もう一度、百太郎の顔を見たいと太郎は思った。しかし、百太郎は屋敷の中に戻ったまま、顔を出さなかった。
「河原者のお頭に何の用があったのです」と伊助は聞いた。
「嘘ついたんですよ」と助六が太郎の横で言った。「一人で、阿修羅坊に会って来たんですって」
「何ですって、そんな危険な事を‥‥‥まったく、あなたには目が離せませんな」
「これ以上、犠牲者を出したくなかったのです」
「阿修羅坊はどう出ました」
「手を引くそうです」
「ほんとですか」
「そう言ってました。そこで頼みがあるのですが」
「何です」
「阿修羅坊の事なんですが、もし、それが本当なら、一度、京に帰ると思うんですよ。それで、誰かに後を付けてもらいたいのです。口ではああ言ってましたけど、本当の事を知りたいし、それと、浦上美作守の出方も知りたい」
「わかりました。わたしが行きましょう」と伊助は即答した。
「いえ。別に、伊助殿じゃなくてもいいんですよ」
「実は、わたしも一度、帰ろうと思ってたんです。その事を言おうとして、こうして待っていたのです。商売道具の薬の方が、そろそろ切れそうなんですよ。一応、一段落しましたし、松恵尼殿にもその後の事など連絡しないと心配してるでしょうからね」
「そうですか、伊助殿が行ってくれれば、それに越した事はありません。当分の間は、こっちの方は安全でしょう。お願いします」
「ええ、それじゃあ、さっそく阿修羅坊でも見張りに行きますか」
「えっ、さっそくですか」
「逃げられたら大変ですからな」
「少し、休まないと無理ですよ」
「そうですよ、少し休んだ方がいいわ」と助六も心配顔で言った。「そう、急がなくても阿修羅坊の行き先はわかっていますし」
「大丈夫です」と伊助は笑った。「わたしは歩きながらでも寝られるんですよ」
「そんな」と太郎は助六と顔を見合わせた。
伊助はすでに荷物をまとめて帰る支度をしていた。
「なるべく、早く帰って来ます。何か、松恵尼殿に言伝(コトヅテ)はありませんか」
「お礼を言っておいて下さい。それと、飯道山に当分、帰れそうもないと伝えて下さい」
「わかりました」
伊助は荷物を背負うと出掛けて行った。
太郎と助六は伊助を見送った。
「働き者だなあ」と太郎は伊助の後姿を見ながら言った。
「ほんと」
「さて、少し寝るか。さすがに疲れた。奈々さんも少し寝た方がいいですよ。午後から舞台でしょ」
「そうね」
一眠りして起きたら、もう、昼過ぎだった。
風光坊はまだ眠っていたが、八郎と金比羅坊の姿はなかった。
厠から戻って来ると、金比羅坊がいた。
「起きたか」と金比羅坊は言った。
「ああ、よく寝た」と太郎は体を伸ばした。
「まだ、寝足りんじゃろう」
「もう、大丈夫ですよ」
「おぬしが寝てる時、別所屋敷から若侍が来たぞ」
「えっ?」と太郎は金比羅坊を見た。
「別所屋敷から、若侍が来たんじゃ」と金比羅坊はもう一度、言った。
「何で」と太郎は聞いた。
「金勝座を招待したいそうじゃ」
「本当ですか」
「ああ」
「いつです」
「明日じゃ。どうも、楓殿が呼んだらしい」
「明日か‥‥‥」太郎は風光坊の寝顔を眺めながら部屋を横切り、窓際に行って腰を下ろした。
「舞台を作るために甚助殿が別所屋敷に出掛けた」と言いながら金比羅坊も窓際に来た。「八郎を連れて行ったよ。わしも行こうとしたんじゃがな、目立ち過ぎると言うんじゃ。別所の侍どもに顔を覚えられたら、これから先、動きづらくなるからやめておいた方がいいって言うんでな」
「どうして、俺を起こしてくれなかったんです」と太郎は不満気に聞いた。
「よく寝ていたしな。それに、もし、別所屋敷に阿修羅坊でもおれば、おぬしと金勝座のつながりがわかってしまうからのう」
「そうか、そいつはまずい」
「しかし、その心配もなくなった」と金比羅坊は言った。「つい、さっき、旅の鋳物師(イモジ)が来ての、こんな物を置いて行ったわ」
金比羅坊は一枚の紙切れを太郎に見せた。その紙切れには、『八部衆の一人が帝釈天(タイシャクテン)と戦いに行った、伊の字』と書いてあった。
「阿修羅坊が京に行ったと言う意味ですか」と太郎は聞いた。
「じゃろうな。八部衆の一人というのは阿修羅の事じゃ。帝釈天は十二天の一つで東を守っておる。じゃから、阿修羅が東に行ったという意味じゃな」
「戦いに行ったというのは?」
「それは別に意味はないじゃろ。阿修羅は帝釈天と戦って敗れ、お釈迦様に教化されて八部衆の一人となり、お釈迦様を守っているとされてるんじゃ」
「ほう、伊助殿も色々な事を知ってますね」
「どうする。別所屋敷に行くか」
「そうですねえ」と太郎は言って、伊助の手紙をたたむと庭を眺めた。「行ったとしても楓と話ができるわけじゃないし、明日、行きますよ。明日、行けば、別所加賀守や赤松家の家臣たちの顔が見られるかも知れないですからね」
「成程な‥‥‥しかし、おぬしの子供もおるんじゃろう。子供に見つかったら、まずいんじゃないかのう」
「見つからないように面をかぶって行くつもりです」
「得意の天狗の面でもかぶって行くか」
「ええ」と太郎は頷き、手紙を金比羅坊に返した。「ところで、金比羅坊殿、久し振りにゆっくりしている所をすみませんが、明日から、また、宝捜しの方をお願いしたいのですけど」
「おお、わかっとる」
「すみません」
「なに、楓殿を取り戻すまでは、のんびりなどしておられんわ」
「助かります。探真坊が怪我をしたので、八郎を連れて行って下さい」
「奴は大丈夫かのう」と金比羅坊は気持ちよさそうに眠っている風光坊を見た。
「鼾をかいて、あれだけ寝られれば大丈夫でしょう。俺も明日、別所屋敷から帰ったら、すぐに後を追います」
今度は太郎が、懐から一枚の紙を出して金比羅坊に見せた。
「何じゃ。こいつは阿修羅坊が書いた物じゃないか。どうして、こんな物を持ってるんじゃ」
「阿修羅坊に会って来ました」
「何じゃと、河原者の頭とかに会いに行ったんじゃなかったのか」
「お頭にも会って来ました。でも、阿修羅坊にも会いました」
「一人で行ったのか」
太郎は頷いた。
「まったく、おぬしは何をしでかすか、わからん奴じゃのう」
「阿修羅坊は手を引くそうです。俺を殺すのも、宝を捜すのも」
「ほんとか。信じられん」
「宝を捜し出したら、浦上美作守との取り引きの仲立ちをしてくれるとも言いました」
「そんな事、信じられるか。おぬし、まさか、奴の言う事を信じたんじゃあるまいな」
「信じてはいません。伊助殿に後を追わせたので、阿修羅坊がどう出るかは、そのうち、わかると思います」
「そうか、伊助殿は京まで付いて行くのか」と金比羅坊は言って、改めて、阿修羅坊の書いた物を読んだ。「それで、阿修羅坊の奴は、宝と楓殿の交換をうまく取り持つと言ったのか」
「いえ、交換は無理だそうです。俺を赤松家の武将に取り立てると言いました」
「なに? おぬしを赤松家の武将に? 成程、これ以上、犠牲者を出すより味方にした方がいいと言うわけか。しかし、そんな事ができるか」
「わかりません」
「おぬしを武将として迎えるのはいいが、ただの武将では済まんぞ。お屋形様の姉君の旦那じゃからな。余程、地位の高い武将でなければまずいじゃろう。果たして、浦上美作守がそんな事をするかのう」
「わかりません」
「うむ。もし、迎えるとしたら、おぬしはどうする」
「わかりません。とにかく、ここのお屋形、赤松政則に会ってからです、決めるのは」
「うむ、そうじゃろうのう。それで、もし、赤松政則が立派な大将だったら、どうするつもりじゃ」
「とりあえず、赤松家の武将になります」
「なるのか」
太郎は頷いた。「それしか、道がないような気がします。初めは、宝と楓を交換するつもりでいましたが、そう簡単には行きそうもありません。もし、宝を見つけたとします。例えば、その宝を別所屋敷に持って行って、楓との交換を申し込んだとします。宝の事を知っているのは浦上美作守だけです。何だかんだ、説明してみても、どこのどいつだかわからん奴の話なんか、まともに聞いてはくれないでしょう。あげくの果てには、盗っ人呼ばわりされて、第二の阿修羅坊に狙われ、また、殺し合いをしなくちゃならなくなるでしょう。また、楓と百太郎を無事、助け出して逃げたにしろ、赤松家はどこまでも追って来るでしょう。一生、隠れて暮らさねばならなくなります。そう思いませんか」
「うむ、確かにそうじゃのう。楓殿を連れ出しても追っ手は来るじゃろうのう」
「追われるよりは赤松家の武将になった方がいい。実際、楓は赤松家の娘なんだから、婿に行ったと思えばいいだけです」
「そうじゃのう。じゃが、浦上美作守という奴が、そう簡単に、おぬしを迎えてくれるか、じゃな」
「さっき、河原者のお頭から面白い事を聞きました。浦上美作守と別所加賀守は犬猿の仲だそうです。浦上は国元の連中には、どうも嫌われているようですね。赤松家の中で一番の実力を持っているらしいけど、国元の事も考えないで、何でも自分で決めてしまうそうです。だから、もし、浦上が俺を武将に取り立てようとしても、別所加賀守が反対する可能性があります」
「国元で、一番、力を持ってるのは別所加賀守なのか」
「そうみたいです」
「それじゃあ、もし、別所加賀守がおぬしの存在を知って、浦上美作守がおぬしを消そうとしている事を知れば、逆に、加賀守はおぬしを助けようとするかもしれんのう」
「かもしれませんね」
「別所加賀守におぬしの存在を知らせる必要があるな。ところで、楓殿は加賀守におぬしの事を話さんのじゃろうか」
「俺は、すでに死んだ事になってるんですよ」
「それは聞いたが、楓殿が生きていると言い張れば、加賀守も楓殿の事を信じるんじゃないかのう」
「楓は赤松家が俺の命を狙っている事を知っています。加賀守も俺を殺そうとしている一味だと思って、何も喋らずにいるんだと思います」
「そうか‥‥‥いい方法はないかの。加賀守におぬしが生きてる事を知らせる方法は」
「しかし、俺の存在がわかったら、また、命を狙われる可能性もあります」
「それもあるのう」
「しかも、別所加賀守が相手となると、今度は本当に、赤松家を相手に戦わなければならなくなります。百人もの武士に囲まれたら間違いなく殺されます」
「そうじゃのう。加賀守だけじゃ駄目じゃのう。いっそ、この城下の者、みんながおぬしの存在を知ればいいじゃ。そうすれば、赤松家もおぬしを殺せなくなる」
「どうしてです」
「赤松家がお屋形様の姉の亭主を殺したなんて噂が立ってみろ。国中の豪族や国人たちが、赤松家を信用しなくなるわ。実の姉の亭主を殺すような大名にくっついていたら、自分らの命も危ないと、みんな、離れて行ってしまうじゃろう。せっかく、まとめた国が、また、ばらばらになってしまう。そんな事は赤松家だってするまい」
「成程‥‥‥」
「おぬしの存在を城下の者みんなにわからせればいいんじゃ」
「言う事はわかりますが、そんな事、不可能ですよ。俺が楓の亭主ですって城下中に触れ回って歩くのですか‥‥‥待てよ、噂を流すっていう手があるな。」
「おぬしが生きていたという噂を流すのか‥‥‥うむ、そいつはいいかもしれんな」
「こんな時、伊助殿がいてくれたらな」
「そうじゃのう。伊助殿ならうまくやりそうじゃの」
「伊助殿を帰したのは失敗だったな」
「太郎坊様」と誰かが呼んでいた。
太郎が部屋から出て見ると、金勝座の千代が太郎を捜していた。
「あっ、太郎坊様」
「どうしたんです、そんなに慌てて」
「どうしたじゃないですよ。助六姉さんが怒ってますよ」と千代は目を丸くして口を尖らせていた。
「はあ?」
「舞台を見に来るって約束したんでしょ。もうすぐ、二回目の舞台が始まりますよ。助六姉さん、怒らせたら物凄く怖いんですから、あたし、知りませんよ」
「ああ、そうだった。もう、そんな時間になるのか。すぐ行く」
太郎は金比羅坊を誘って河原に出掛けた。
千代にせきたてられながら、二人は金勝座の舞台に向かった。
2
頭の中で、鐘が鳴っていた。
昨夜は久し振りに酔っ払った。
昨日、金勝座の舞台を見てから、小野屋に探真坊と右近と吉次の三人を見舞い、太郎と金比羅坊は『浦浪』に帰って来た。
風光坊が寝ぼけた顔をして起きていた。ゆっくり休んだせいか、傷の痛みはほとんど消えた、もう大丈夫ですと笑った。目が覚めたら誰もいないので、独り、追いてきぼりを食らったのかと、がっかりしていたのだと言う。
やがて、八郎と甚助が別所屋敷から戻って来た。話を聞くと、舞台はほとんどでき上がり、明日、ちょっと仕上げをすれば完成する。明日は甚助一人でも充分だと言った。
楓と百太郎にも会ったと八郎は言う。金比羅坊が、楓殿と話なんかしなかっただろうな、と聞くと、八郎は少しだけした、と言った。向こうから太郎の事を聞いて来たので、少しだけ話をした。でも、側に別所の侍はいなかった。奥さんとお子さんと桃恵尼の三人だけしかいなかった、と言った。
お子さんは師匠そっくりで、いたずら小僧で、奥さんは前に多気で見た時より、ずっと綺麗だったと言った。太郎が、綺麗な着物を着ていたからだろう、と言うと、そうかもしれない、と言ってから慌てて首を横に振った。
阿修羅坊も倒した事だし、約束通り、遊女屋にでも繰り出して、今日は騒ごうと皆で言っている時、座頭の助五郎が顔を出して、小野屋さんが御馳走を用意してくれたというので、みんなして出掛けましょう、と誘ってくれた。まあ、素面(シラフ)で遊女屋に行くのも何だから、ちょっと一杯引っかけてから行くかと、みんなで小野屋に出掛けた。
小野屋の広い座敷に豪華な料理が並び、次郎吉、藤吉、それと、太郎は知らないが、楓と一緒に別所屋敷にいる弥平次、それに、金勝座の面々もいた。そして、太郎、金比羅坊、風光坊、八郎と今回の関係者が勢揃いした。遊女も八人加わって賑やかな宴会となった。
太郎の隣には、当然のように助六がいた。太郎にとっても嬉しい事だったが、酔っ払った自分に責任が持てなかった。また、自己嫌悪に陥りそうな気がした。
助六の隣に金比羅坊がいて、その隣にしっとりした雰囲気の遊女が入った。金比羅坊は鼻の下を伸ばして嬉しそうだった。
八郎の隣はお千代ちゃんで、八郎もやたらとお千代ちゃんを口説いている。お千代ちゃんも結構、楽しそうだった。
風光坊の隣は太一だったが、風光坊はただ、ひたすら酒を飲んでいた。太一の隣には次郎吉がいて、これもまた、むっつりと酒を飲んでいる。誰が席を決めたのか知らないが、人の心を読み取った席順だった。みんな、楽しそうに酒を飲んでいた。
ちょっと一杯飲んだら抜け出して、遊女屋に行こうと約束していたが、誰も行こうと言う奴はいなかった。皆、現在の状況に充分、満足していた。
夜が更けるに従って、一人づつ消えて行った。金比羅坊は隣にいた遊女とどこかに消えた。いつの間にか、次郎吉もいなかった。風光坊は飲み過ぎて伸びていた。
八郎と千代はしんみりと話し込んでいる。何を話しているのか知らないが、八郎は真面目くさった顔をして、お千代ちゃんに何かを言っている。聞いているお千代ちゃんの方も頷きながら真面目に聞いていた。うまく行っているようだった。
太郎は助六と太一を相手に飲んでいた。両手に花で、いい気分だった。
助六は太一に邪魔だからどっかに消えてよと言うが、太一は次郎吉に逃げられた腹いせか、じっくり腰を落着けて飲む気でいる。太一が片膝立てて足をあらわにすると、負けるものかと、助六は腕まくりをして対抗する。そんな二人の間に挟まれて太郎は御機嫌だった。
久し振りに緊張が溶けたせいか、太郎もすっかり酔っ払ってしまった。どうやって浦浪まで戻って来たのか覚えていないが、朝、目が覚めたら、浦浪の部屋で八郎、風光坊と一緒に寝ていた。
どうやら、助六と太一の部屋にもぐり込みはしなかったようだ。助かった、と太郎は胸を撫で下ろした。楓を救い出すために、みんなの助けを借りているのに、太郎が助六か太一に手を出したなんて事になったら、みんなに合わす顔がなかった。酔っ払っても自制心は働いたらしい。ほんとに助かったと思った。反面、勿体なかったなあ、とも思う太郎だった。
太郎が顔を洗っていると、金比羅坊が次郎吉と一緒にさっぱりした顔をして帰って来た。すっかり、二人は意気投合しているようだった。
太郎は八郎と風光坊を起こし、さっそく、金比羅坊と八郎を笠形山に、次郎吉と風光坊を瑠璃寺に、宝捜しに行かせた。そして、太郎は商売道具を持って早朝の河原に出て、金勝座の舞台まで来ると鬼の面を彫り始めた。
頭の中が、がんがんしていた。
昨日、金勝座の舞台を初めて見て、太郎は久々に感動した。
助六、太一、藤若の踊りも勿論良かったが、やはり、助五郎の作った狂言には感動した。
昨日の出し物は、小野小町(オノノコマチ)を題材にした狂言だった。
藤若扮する小菊という娘が母親を捜しに京に来て、昔、絶世の美女と謳われた母親、小野小町に再会するという話だった。母親の思い出の場面では、若き日の小町に扮した助六が舞台狭しと踊り、唄い、語った。普段の助六からは、まったく想像もできないような情熱的な素晴らしい演技だった。左近が、いい男だがちょっと抜けた所のある、とぼけた恋人、深草の少将役をうまく演じていた。太一は助六の恋仇として登場し、妖艶な踊りを披露した。最後の場面では、年を取って昔の面影もない老婆となった小町を助六は見事に演じていた。そして、その場面に、小町の有名な歌が小助によって唄われた。
〽花の色は、移りにけりな、いたづらに~
わが身、世にふる、ながめせし間に~
昨日、太郎は助五郎から、別所屋敷で演じる狂言に、ぜひ出演してくれと頼まれていた。右近が怪我をしたので人が足らないのだと言う。芝居や踊りなんてした事のない太郎は、そんな事、無理だと断ったが、難しい役じゃないから是非にと頼まれ、断り切れなかった。今日は金勝座の一員に成り済まして別所屋敷まで付いて行くつもりではいたが、まさか、舞台に上がるとは思ってもいなかった。
別所屋敷で上演する狂言は『太平記』を題材にしたもので、赤松家の初代の当主、赤松円心が登場する話だと言う。
助五郎は播磨に行くと決まった時から、是非、赤松円心の狂言を書こうと思っていて、太平記読みから話を聞いたりして色々と調べていたと言う。その狂言もようやく完成し、少しづつ稽古も始めていたらしい。そんな時、別所屋敷より招待され、その狂言を別所屋敷で初演する事に決めたのだと言う。
狂言は赤松円心が大塔宮(オオトウノミヤ)から令旨(リョウジ)を賜る場面から始まり、次の場面では、鎌倉幕府を倒すのに挙兵して活躍したにも拘わらず、後醍醐(ゴダイゴ)天皇の建武の新政には乾されて嘆いている円心を描き、次の場面では、後醍醐天皇に反旗を翻(ヒルガエ)した足利尊氏と会い、九州に逃げる尊氏に助言を与え、最後の場面では、白旗城において新田義貞と戦い、再び、九州より大軍を率いて上って来た尊氏と再会して、尊氏と共に京に攻め入るというところで終わっている。
円心役を左近がやり、尊氏役を助五郎がやり、円心の息子、信濃守範資(シナノノカミノリスケ)を助六、雅楽助貞範(ウタノスケサダノリ)を太一、播磨守則祐(ハリマノカミノリスケ)を藤若、弾正少弼氏範(ダンジョウショウヒツウジノリ)を千代がやり、太郎の役は二つめの場面に登場する白旗明神の化身という役だった。結構、重要な役処だが、舞台の上で、助六と太一の太刀をかわしながら跳びはねてくれればいいと言う。
昨日、少し稽古したが、今日もびっしり稽古を積まなければならなかった。ただ、素顔で演じるわけにはいかなかった。楓と共に百太郎も見ているに違いない。舞台の上の太郎を見たら、きっと、お父さんと叫ぶに違いなかった。まだ、太郎の存在を気づかせるには早すぎた。その事を助五郎に言うと、白旗明神の役は面をかぶる役だから大丈夫だと言った。
初め、鬼のような憤怒の相の面をかぶり、助六たちと戦ってからは穏やかな翁(オキナ)の面をかぶると言う。翁の面はあるが、鬼の面がないと言うので、太郎が自分で作る事にしたのだった。
太郎は金比羅坊と考えた、噂を流すという作戦をさっそく始めていた。白粉売りの藤吉に頼み、商人たちの間は勿論、商売先の町人たちの間にも噂を流させた。
噂の内容は『楓御料人様の旦那様は生きていて、もうすぐ、城下に来るだろう』というものだった。噂の性質上、すぐに城下中に広まるだろうと思った。
宝捜しの四人にも行く先々で、噂を流してもらう事にした。播磨の国中の者が、この噂を信じてしまえば、赤松家としても楓の旦那を登場させなくてはならないはめになるだろう。
太郎が河原で鬼の面を彫っていると、片目の銀左が通り掛かって覗き込んだ。
「おっ、なかなか、やるのう。鬼の面か」
太郎は顔を上げて銀左を見ると頷いた。
「観音像はやめて、今度は面打ちか」と銀左は笑った。
「いえ。ここの一座が、今日、別所屋敷で踊るんだそうです。鬼の面が足らんと言うので、ついでに作ってやってるんです」
「ほう。それにしても、おぬし、酒臭いのお。昨夜はお楽しみだったと見えるのう」
銀左はニヤニヤしながら太郎を見ていた。
太郎は首を振った。「楽しみだったんだか何だか、全然、覚えてないんですよ」
「何を言うか、この色男が。あまり、女子(オナゴ)を泣かせるなよ。後が怖いぞ」
「女子を口説く前に、酔い潰れてしまったらしい」
「情けないのう。酒を飲むのも修行じゃ。真剣に飲まなけりゃいかん。確か、ここの一座は金勝座じゃったのう。金勝座が別所屋敷にのう」
太郎は頷き、彫りかけの鬼の面を眺めた。
「銀左殿、楓御料人というお方には旦那さんがいたって知ってました?」
「おう、その位、知ってるわ。何でも、子供が一緒だと言うからの。しかし、その旦那っていうのは戦で死んだって言う話じゃぞ」
「ところが生きていたんですよ。昨日、別所屋敷でちょっと耳にしたんだけど、旦那さんは生きていて、もうすぐ城下に来るんだそうですよ」
「なに、そいつは本当か」
「本当みたいですよ。加賀守殿にしても、楓御料人様の旦那さんが、突然、現れると聞いて困っているみたいですよ」
「そうか‥‥‥旦那が生きておったか‥‥‥」
「ええ。ところで、銀左殿はどこに行くんです」
「あっ? ああ、新しい城下じゃよ。その楓御料人様の披露式典の会場の回りに宿屋をずらりと建てるそうじゃ」
「へえ、いよいよ、始めますか」
「おう。また、忙しくなるわ。それじゃあのう」
銀左は人足を引き連れて去って行った。
銀左でさえ、浦上美作守が京で流した噂を知っていた。という事は、太郎の噂もあっという間に広まるに違いなかった。銀左はそう簡単には信じないだろうが、後ろで聞いていた人足たちが噂を広めてくれるだろう。
太郎はまた、鬼の面作りに熱中して行った。
3
祭りが始まろうとしていた。
残暑の残る秋晴れの昼過ぎ、別所屋敷の広い庭園は人で埋まり、賑やかだった。
別所屋敷はうまい具合にできていた。くの字に曲がっている屋敷の庭に面している所は広い廊下になっていて、戸が全部はずされていた。
その廊下に着飾った身分の高そうな奥方や娘たちが、ずらりと並んでいる。その下の庭の筵(ムシロ)を敷いた所には家臣たちの奥方や子供たちが、そして、何も敷いてない所には女中や下女、使用人たちが舞台の側までびっしりと埋まっていた。
舞台の回りを四、五人の子供がはしゃいで走り回っている。その中に、元気に遊び回っている百太郎の姿もあった。
金勝座の舞台を見るために集まった客たちは、今や遅しと芝居が始まるのを楽しみに待っていた。座頭の助五郎の予想に反して、観客はほとんどが女子供だった。別所加賀守の姿も重臣たちの姿も見当たらない。
着飾った楓は侍女たちに囲まれて、南の客殿の回廊から舞台の回りで遊んでいる百太郎を見ていた。
太郎は舞台の後ろに建てられた支度小屋から楓や百太郎の様子を見ていた。百太郎に見られたらまずいと顔を面で隠しながら別所屋敷に入った太郎だったが、支度小屋が裏門のすぐ側にあったので、庭で遊んでいた百太郎に気づかれずにすんだ。
金勝座の者たちが別所屋敷に入った時は、まだ、見物人の数もそれ程でもなく、屋敷の回廊にも見物客の姿はなかったが、開演の四半時(三十分)前に太鼓を打ち鳴らすと、裏門から続々と客が詰め掛け、庭に作られた席は埋まってしまい、屋敷の回廊も着飾った女たちで埋まってしまった。
男の観客は少なかったが、楓の側に夢庵の姿があったのには太郎もびっくりした。この城下に着いた途端に消えてしまい、まだ、お礼さえも言っていない。きっと、赤松家の重臣の屋敷にいるに違いないとは思っていたが、まさか、別所屋敷にいたなんて、まったく以外な事だった。もしかしたら、楓も夢庵の事を知っているのかもしれない。夢庵とはもう一度、会って話がしたいと思った。
太鼓の音がもう一度、鳴り響き、観客が静まると、おすみの吹く笛の調べで舞台は始まった。おすみの笛に合わせて、新八の小鼓、弥助の大鼓が入り、小助が流行歌(ハヤリウタ)を歌った。その歌に合わせて三人の舞姫たちが男装で登場し、華麗な曲舞(クセマイ)を演じた。
ついさっきまで稽古していた『太平記』は急遽、変更となった。観客が女子供ばかりでは、あの話では面白くないだろうと、女子供に人気のある『義経』をやる事になった。
太郎の作った鬼の面は必要なくなったが、太郎は天狗の面をかぶって鞍馬山の天狗の役を演じる事になった。天狗になるのには慣れている太郎でも、まさか、舞台の上で、天狗を演じるとは思ってもいなかった。
三人の曲舞が終わると、座頭の助五郎と左京がこっけい芝居をやって客を笑わせ、その間に、舞姫たちが着替えを済ませて狂言芝居『源九郎(ゲンクロウ)義経』が始まった。
第一幕は鞍馬の山の中で、義経が天狗を相手に剣術の稽古をしている場面だった。義経役の藤若が、烏(カラス)天狗に扮した助六と太一を相手に剣術の稽古をしている姿を華麗に舞いながら演じた。やがて、義経が二人の烏天狗を倒すと、いよいよ、天狗に扮した太郎の登場だった。
太郎は義経役の藤若を相手に、舞台の上を所せましと飛び回った。稽古していた役とは違うが、やる事は同じだったので、太郎もうまくこなす事ができた。決めるべき所をきちんとやれば、後は天狗になったつもりで飛び回っていればよかった。最後に、太郎は義経に巻物を渡して舞台を降りた。
第二幕は五条の大橋、義経と弁慶の出会いの場面。弁慶の役は左京が演じた。
第三幕は吉野の山、義経と静御前の別れの場面。義経の家来、佐藤忠信に扮した太一が、山法師覚範(カクハン)に扮した左京を相手に艶やかに舞い、最後に、静御前に扮した助六が華麗な舞を見せた。
幕と幕の間には、助五郎が出て来て、場面のつながりを曲に合わせて説明をした。
狂言『義経』が終わると、小助と左京の二人がこっけい芝居をして、客をまた笑わせた。小助は謡方なのに芝居の方も結構うまかった。そして、助六、太一、藤若、千代の四人が巫女(ミコ)姿で登場し、鉦の音に合わせて賑やかな『念仏踊り』で舞台は終わった。
一時余りの舞台は、観客の喝采を浴び、大成功に終わった。
観客たちも帰り、後片付けをしている時だった。楓が老武士と夢庵を連れて、支度小屋にやって来た。
老武士は別所加賀守の執事(シツジ)で別所織部祐(オリベノスケ)といい、舞台がとても素晴らしかったと誉め、主人から預かった物だと言って、金一封を助五郎に渡すと帰って行った。
太郎もその場に居合わせ、楓の顔を見た途端、声が出そうになったが必死に抑え、ただ、楓の顔を見つめていた。
楓の方も同じだった。まさか、太郎が一緒に来るなんて思ってもいなかったのに、天狗の役をやっていたのは紛れもなく太郎に違いなかった。支度小屋の中にいた太郎を見つけ、思わず、声が出そうになり慌てて口を押えたのだった。
赤松家に命を狙われているのに、こんな所に来るなんて危険すぎる。幸いに、今日は加賀守様はいないけど、見つかったら大変な事になってしまう、と心配しながら楓は太郎を見つめていた。
執事が帰ってから、まず声を出したのは、太郎でも楓でもなく、楓の隣にいた夢庵だった。
「やはり、おぬしだったな」と夢庵は太郎に向かって言った。「あの天狗の物腰が、何となく、おぬしに似ていたんで、もしやと思って来てみたんだが、やはり、おぬしだったか」
「お久し振りです、夢庵殿」
「何やら、わけありのようじゃのう」と夢庵は太郎と楓の顔を見比べてから、「今、どこにおるんじゃ」と太郎に聞いた。
「『浦浪』という木賃宿です。河原の側の」
「河原の側?」
「ええ、紺屋たちがいる河原の側です」
「ああ、あの辺りか」と夢庵は頷いた。「今晩にでも行く。ちょっと話があるんでな」
「わかりました。待っています」
「さて、楓殿、そろそろ行きましょう。片付けの邪魔をしても悪いしな」
「はい」と楓は素直に頷いた。「皆さん、どうも、ありがとうございました。楽しい舞台を見させていただき、皆、喜んでおります。また、この次もよろしくお願いします」
夢庵と楓は帰って行った。
金勝座の者たちは荷物をまとめると別所屋敷を後にした。甚助が舞台を壊すために残ろうとしたが、舞台はそのままでいいと言うので、甚助も一緒に帰った。
もう一度、百太郎の顔を見たいと太郎は思った。しかし、百太郎は屋敷の中に戻ったまま、顔を出さなかった。
19.金勝座2
4
河原の方から、いくらか涼しい風が入って来るが蒸し暑かった。
じっとしていても汗が流れて来た。
西の空が真っ赤に焼けている。明日も暑くなりそうだった。
太郎は一人『浦浪』の薄暗い部屋の中で、播磨の国の絵地図を眺めていた。
一体、宝はどこに隠されているのだろうか‥‥‥
まごまごしていると、楓の弟、赤松政則が帰って来てしまう。何としてでも、帰って来る前に捜し出さなければならない。
今、笠形山に金比羅坊と八郎、瑠璃寺に次郎吉と風光坊が行っているが、何か、つかめただろうか。
台所の方から、うまそうな匂いが流れて来た。金勝座の女たちが夕飯の支度をしている所だった。昨夜、飲み過ぎて食欲がなかったので、今日はまだ何も食べていなかった。今頃になって急に腹が減って来た。太郎は匂いに誘われて部屋から出ると台所の方に向かった。
「おい」と後ろから声を掛けられて振り返ると夢庵が立っていた。
「あっ、夢庵殿、お待ちしていました。どうぞ」
太郎は夢庵を部屋の中に迎え入れた。
「なかなか、いい部屋じゃな‥‥‥おぬしの弟子とかいう若いのはどうしたんじゃ」
「あいつは、今、ちょっと旅に出ています」
「そうか。おぬしも旅に出るのか」と夢庵は広げられた絵地図を眺めながら聞いた。
「いえ、ちょっと見ていただけです」
「ほう、なかなか詳しい地図じゃのう。こんなのを赤松家の者に見られたら間者(カンジャ)に間違えられるぞ」
「はい。気をつけます」と太郎は地図をたたんだ。「ところで、わたしに話があると言ってましたが、どんな事です」
「おお。まあ、ゆっくり酒でも飲みながら話そうか」と夢庵は手に持っていた瓢箪(ヒョウタン)を差し出した。
太郎は台所に行き、二つのお椀と、ちょっとした肴(サカナ)を持って来た。夢庵の持って来た酒は実にうまい酒だった。太郎のすきっ腹に沁み渡って行った。
「実はのう、楓殿の事じゃ。はっきり言えば、楓殿の亭主殿の事じゃがな」と夢庵は言うと太郎の顔を見ながら酒を一口飲んだ。そして、また話し続けた。
「わしが先月の末、おぬしたちと別れて別所屋敷に行った時、すでに楓殿は別所屋敷に滞在していた。まあ、わしが今回、この城下に呼ばれたのも楓殿の事だったんじゃが、屋敷に着いた途端に、加賀守殿より楓殿の事を聞いた。
お屋形様の姉君だという事。そして、御亭主を戦で亡くされたばかりだから、その事には触れないでくれと言われた‥‥‥初めのうちは、わしもその事を信じていた。確かに、初めの頃、楓殿は悲しみにくれているような暗い感じだった。しかし、同じ屋敷内で何度も顔を合わせているうちに、どうも、腑に落ちないような気がして来たんじゃ。そこで、わしは加賀守殿に、楓殿の御亭主の事を詳しく聞いてみた‥‥‥それが、どうもはっきりとしない。加賀守殿も正確な事は何も知らんのじゃよ。
加賀守殿の話によると、京にいる浦上美作守殿がすべてを自分で決めて、楓殿を城下に送って来たと言うんじゃ。加賀守殿にしてみれば、急に、お屋形様に姉君がいたと言われても困ってしまったわけだが、すでに、在京の重臣たちには姉君として紹介した、と言うので、加賀守殿も仕方なく、お屋形様に連絡をした。お屋形様は自分の身内がいたと聞いて、大変、喜んだらしい。
加賀守殿も一応、楓殿を姉君として預かってはおるが、加賀守殿にしてみれば、浦上殿が送って来た楓殿を本当の姉君だとは、まだ信じてはいないようじゃ。浦上美作守殿が何かをたくらんでいるに違いないと考えておるらしい‥‥‥まあ、楓殿が本物にしろ偽物にしろ、お屋形様が帰って来次第、楓殿の披露式典が盛大に行なわれる事は確かじゃ。
加賀守殿も馬鹿じゃない。楓殿の存在をうまく利用して、赤松家を固めようというわけじゃ‥‥‥まあ、加賀守殿がどう考えていようが、この際、どうでもいいが、わしは楓殿に御亭主の事をそれとなく聞いてみた。楓殿もなかなか話してはくれなかった。そこで、今度は子供に父親の事を聞いてみた」
夢庵は話を止めると、太郎の顔を見て、酒を一口飲んだ。
「そしたらな、子供は言った。お父さんは子馬や人形を彫るのが、すごくうまいんだよ。観音様やお地蔵様も彫るし、木剣だって彫ったりするんだよ、とな」
そこで言葉を切ると、夢庵はまた、太郎の顔を窺った。
太郎は夢庵の顔を見ながら、すべてを知っているなと思った。
太郎は夢庵に酒を注いだ。夢庵は一口飲むと話を続けた。
「わしは子供の話を聞いて、すぐにおぬしの事を思い出したんじゃよ。その子の顔が、おぬしに似ていたのかもしれんのう。わしは、それから、おぬしの事を捜してみたが見つからなかった。やはり、ただの人違いだったかと諦めていたんだが、今日、金勝座の舞台で、おぬしを見つけたんじゃ。天狗の面をかぶってはいたが、あれは、まさしく、おぬしに違いないと思い、楓殿を誘って、あの小屋まで行った‥‥‥もう、これ以上は言わなくてもわかるじゃろう」
太郎は頷いた。
「どうするつもりじゃ」と夢庵は聞いた。
「この事は夢庵殿以外は知りませんね」
「ああ、今の所はな」
「もうしばらく、黙っていて下さい」
「いいだろう。しかし、おぬし、これからどうするつもりじゃ。もしかしたら、おぬし、命を狙われているんじゃないのか」
太郎は頷いた。「浦上美作守に狙われています」と正直に答えた。
「多分、そんな事だろうと思った。最近、別所屋敷の回りを山伏たちが、やたら、うろうろしていたようだが、おぬしの命を狙っていたわけじゃな。そいつらはやっつけたのか」
「ええ、今の所は安全です」
「そうか‥‥‥それで、楓殿をどうするつもりじゃ」
「まずは、お屋形様が帰って来て、楓が弟と会ってから何とかします」
「何とかするとは」
「まだ、わかりません」
「うむ、難しい問題じゃのう‥‥‥ところで、金勝座の連中たちはおぬしの仲間なのか」
「はい」
「いい仲間を持っておるのう」
「はい。ところで、夢庵殿、今日はゆっくりできるのですか」
「ああ。もう、わしの役目はほとんど終わった。あの堅苦しい屋敷から、そろそろ、おさらばしようと思っていたんじゃよ」
「そうですか。それじゃあ、今晩は一緒に飲みましょう」
「おお、いいね。久し振りに飲むか」
その言葉を待っていたかのように、助六と太一が部屋の中を覗いた。
「お話は終わりました?」と助六が太郎に声をかけた。
「ええ」と太郎が答えるより早く、二人は酒と肴を持って部屋の中に入って来た。
二人が入って来ると、その後から藤吉、左近、おすみ、三郎と金勝座の連中がぞろぞろと狭い部屋の中に入って来た。そして、ささやかな宴会が始まった。
昨夜、飲み過ぎたので、今日は飲むまいと思っていた太郎だったが、夢庵となら無理をしてでも一緒に飲みたかった。
やがて、金勝座の座員、みんなが加わり、明け方近くまで騒いでいた。
小雨が降っていた。
昨日とは打って変わって、肌寒く感じる程、涼しかった。
〽詮ない恋を 志賀の浦浪 よるよる人に寄り候~
助六は部屋の中から雨を眺めながら小声で歌っていた。
太一と藤若はまだ眠っている。
助六は雨空を見上げながら、せつなそうに溜息をついた。
昨日、太郎様の奥さんに会ってしまった‥‥‥会わなければよかったと思った。
伊助さんが言っていた通り、楓様は太郎様にふさわしい奥さんだった。そして、あの時、二人は何も話さなかったけど、二人の様子を見ていたら、あたしなんかの出る幕はないとはっきりと感じていた。
「あ~あ」と助六は、また溜息をついた。
どうしよう‥‥‥
〽花見れば袖濡れぬ 月見れば袖濡れぬ 何の心ぞ~
せつない恋の歌が自然と口から出て来ていた。
助六が太郎の事を思って悩んでいると、当の本人が裏口から中庭に入って来た。
助六の姿を見つけると、太郎は気楽に、「おはようさん」と声をかけて来た。
「あら、早いのね。まだ、寝てるのかと思ってたわ」
「ちょっと、夢庵殿と河原を散歩してたんだ」
「へえ、夢庵さんは帰ったの」
「ああ、帰ったよ」
「面白い人ね。夢庵さんて」
「ちょっと変わってるけどね‥‥‥助五郎さんは起きてるかな」
「まだ、寝てるでしょう。結構、飲んでたもの。お頭に何か用なの」
「昨夜、夢庵殿が言ってただろう。俺の事を舞台でやれば、城下中に俺の存在がわかるって」
「ああ、あの話、いい考えかもね。でも、きっと昼近くまで起きないわよ。ここの所、毎晩、遅くまで起きていたみたいだから」
「そうだな」
「久し振りよ。お頭があんなに酔うなんて」
「この間の小野屋さんの時も、そんなに飲まないで帰ったみたいだったしな」
「ええ、早く帰って本を直していたみたい。ねえ、ちょっと待ってて」
「えっ?」
「あたしも散歩したくなったの」
「濡れるぞ」
「濡れたいのよ」
太郎と助六は小雨の降る中、河原を散歩した。
丁度、『浦浪』の辺りで河原は区切られている。はっきりと境界線があるわけではないが、浦浪から南側の河原には紺屋と呼ばれる染め物職人たちが住み、北側には土木作業の人足たちが住んでいた。すでに、人足たちの姿はなかった。片目の銀左が言っていたように、新しい城下造りが始まったのだろう。いくつも建っている掘立て小屋には、怪我人や病人、腰の曲がった年寄りと、まだ小さな子供しか残っていなかった。働ける者は女子供までも総動員されているようだった。
二人は当てもなく、のんびりと河原を北に向かって歩いた。
「今日は確か、四日よね」と助六が言った。
「そうだな」と太郎は答えた。
「市が立つ日よ」
そう言われれば、確かに今日は北の市場に市の立つ日だった。この前、北の市場に市が立った日、二十四日は、太郎は南の市場で阿修羅坊と戦っていた。もう、あれから十日が経ったのか‥‥‥早いような気もするし、長かった十日だったような気もした。
「ねえ、市に行きましょ」と助六は誘った。
人足たちの掘立て小屋が建ち並ぶ一画を過ぎると、東から夢前川に流れ込む川にぶつかる。川には丸木橋が架けられてあった。橋を渡ると芸人たちの住む一画となった。
金勝座の者たちは木賃宿に泊まっているが、ほとんどの芸人たちは河原に小屋を立てて生活している。芸人たちは雨空を見上げながら仕事の準備をしていた。また、朝早くから市場の方に稼ぎに行っている芸人たちもいるようだった。
「ねえ。何か、向こう、賑やかよ」と助六が性海寺(ショウカイジ)の参道の方を見ながら言った。
太郎も見てみると、確かに賑やかだった。あの界隈は遊女屋や料亭が並び、夜はいつも賑やかだが、今日は朝から賑やかだった。
「縁日かしら」
助六の気が変わり、市場に行くのはやめて縁日の方に足は向かった。
参道の両脇には露店も並び、子供たちが楽しそうに遊び回っていた。
二人は露店を眺めながら、のんびりと歩いた。
助六は楽しそうだった。はしゃぎながら露店を見て歩いている助六は、舞台であれだけの芸を見せる助六とは、まるで別人のように可愛いい女だった。
助六が、ちょっとおなかが空いたと言うので、二人はまだ開けたばかりの団子屋に入った。客はまだ誰もいなかった。
「太郎様、また、宝捜しに出掛けるんですか」と団子を食べながら助六が聞いた。
「うん。どうしようかと思っている」
「一体、どこに隠したんでしょうね」
「どこだと思う」そう聞きながら太郎も団子を口にした。
「山の中とか、やっぱり人気のない所でしょうね」
「どうして」
「だって、隠す時、誰かに見られちゃうでしょ」
「成程、隠す時に見られるか‥‥‥」
「何を隠したんだか知らないけど、一人でやったんじゃないでしょ。きっと誰か、手伝った人がいるはずよ」
「そうだろうな」
「その手伝った人を捜せばいいのよ」
「そりゃそうだけど、それを捜す方が宝を捜すより、ずっと大変じゃないのか。なんせ、三十年以上も前の事だからな」
「そうか、もう死んじゃってるかもね」
「あるいは、殺されたかだな」
「殺された?」
「秘密がばれないように、口をふさいだのさ」
「そうね、あり得るわね。あたし、考えたんだけど、宝の隠し場所を知ってたのは、先代のお屋形様だけなんでしょう。でも、あの紙切れの入った刀を持っていた四人の人たちも、あの紙に書いてあった言葉が何を意味するかは知っていたんでしょう」
「それは知っていただろうな」
「でも、その言葉が四つ集まらなければ、宝の場所はわからない」
「そうだ」
「という事は、その四つの言葉の意味する物は、それを持っていた四人が、共通して知っていると言う事でしょ」
「まあ、そうだろうな」
「そうなると、場所は狭まらないかしら」
「うん‥‥‥」
「あたしの勘だけどね、城山城じゃないかと思うの」
「城山城? どうして」
「だって、あの頃、城山城が赤松家の中心だったんでしょ、今のここみたいに。今のお屋形様が宝を隠すとすれば、やっぱり、このお城下に隠すんじゃないかしら」
「そうかな。城山城には行ったけど、あの四つの言葉に関する物は見つからなかったよ」
「お城下は?」
「城下までは調べなかったな」
「お城下のどこかに隠したかもしれないわよ」
「そうだな‥‥‥落城前の城山城とその城下の様子がわかればなあ」
「どこかに、絵地図とか残ってないかしら」
「あるとすれば評定所(ヒョウジョウショ)か‥‥‥」
「あるいは奉行所(ブギョウショ)‥‥‥」
「普請(フシン)奉行か」
「そこにあるわよ、きっと」
太郎は助六を見ながら頷いた。
「それと、あの紙切れの入った刀を持っていた四人の事も調べた方がいいな。当時の記録はほとんど残っていないと思うが、何かわかるかもしれない」
「そうね、調べる価値はありそうよ」
「やってみるか」
いつの間にか、小雨が上がって日が差していた。
二人は団子屋を出ると、散歩のついでに評定所と奉行所まで行き、偵察をして浦浪に戻った。
噂を流し始めてから五日が経ち、効果は少しづつ出て来ていた。
旅の商人たちが、まるで自分の目で見て来たかのように真(マコト)しやかに話しているのを、太郎も聞いたし、金勝座の皆も耳にしていた。
──戦で死んだと思っていた楓御料人様の旦那様が生きていて、もうすぐ、置塩の城下にいらっしゃるそうじゃ。何でも、その旦那様というのは、公方(クボウ)様と同じ源氏の流れを汲む由緒正しい家柄だそうじゃ。まさしく、御料人様にお似合いの旦那様だそうな。立派な御家来衆を引き連れて、何でも今月のうちには来るらしいのう‥‥‥
などと噂は勝手に成長していた。この調子なら別所加賀守の耳に入るのも時間の問題だろう。
残暑の続く暑い昼下り、金勝座の舞台が始まろうとしていた。
今日は『楓御料人物語』を初めて演じる日だった。
『楓御料人物語』とは、太郎が助五郎に頼んで作ってもらった楓と太郎の話だった。面白くするために、多少、話は変えてあるが、ほとんどが事実だった。場所も登場人物も、ほとんど実名を使っていた。城下の者たちがこの芝居を見れば、ますます噂を信じる事になるだろう。そして、この芝居通りに、太郎は楓の旦那様として、この城下に登場するというわけだった。しかし、その後の事はどうなるのか、芝居でも演じられていないし、実際、太郎にもまったく見当もつかなかった。
第一幕、場所は甲賀の花養院、阿修羅坊が楓を訪ねて来る。太郎は戦に行ったまま行方不明。楓は尼になろうとして尼寺に来ていたが、阿修羅坊が現れ、赤松政則の姉だと知らせる。楓は迷うが、弟に会おうと播磨に向かう決心をする。
第二幕、場所は京都の浦上屋敷、赤松家の重臣たちに披露される楓。
第三幕、場所は置塩城下の別所屋敷、父親に会いたがる百太郎。
第四幕、場所は置塩城下、太郎登場、親子の再会。
助五郎は、阿修羅坊一味に狙われる太郎の場面も入れた方がいいと言ったが、太郎はやめさせた。そこまでやってしまうと金勝座が危険な目に会う可能性があった。これ以上、危険な目には会わせたくなかった。
『楓御料人物語』の初演は成功した。最後の親子の再会の場面では、感動して涙ぐんでいる人たちも多かった。
太郎は『楓御料人物語』の内容に満足して浦浪に帰った。
太郎は毎日、調べ事に熱中していた。
助六と縁日の散歩をしたその日の夜、さっそく、甚助を連れて評定所に忍び込んでいた。甚助は錠前(ジョウマエ)破りの名人で、どんな錠前でも開けてしまう腕を持っていた。図書(ズショ)奉行の図書蔵の鍵も、普請奉行の図書蔵の鍵も簡単に開けてしまった。
その日から毎夜、太郎は図書蔵に通っていた。錠前の開け方も甚助から教わり、二日目からは一人で行っていた。やはり、古い文書は少なかったが、それでも、役に立ちそうな物はいくつかあった。太郎はそれを借りて来ては調べ、次の晩に戻し、また、借りて来るという事を繰り返していた。三回、忍び込んで役に立ちそうな資料は、もう、ほとんど目を通した。文書からは大した収穫はなかったが、城山城の絵図面を手に入れる事ができたのは大収穫だった。それも、かなり詳しい図面だった。置塩城は城山城を見本にして縄張りをしたのに違いなかった。
文書類からわかった事といえば、嘉吉の変が起きる前、城山城にいたのは、今のお屋形様の祖父にあたる伊予守義雅。義雅は嘉吉の変の前年、将軍義教より所領を没収されて国元に帰っていた。京の赤松屋敷にいたのは性具入道の嫡男、彦次郎教康と弟の左馬介則繁。性具入道は狂乱を装って家臣の富田氏の屋敷にいた。という事くらいで、他の連中が、どこにいて何をしていたのかはわからなかった。性具入道がどこかに軍資金を隠したかもしれない、などというような事はどこにも書いてなかったし、例の四つの言葉に関係ありそうな事も何もわからなかった。
城山城の絵地図はもうしばらく預かっている事にして、他の文書類は今晩、返して来ようと思った。
太郎は体を伸ばして横になった。
蒸し暑かった。
疲れていたのか、いつの間にか眠ってしまった。
目が覚めたら、風光坊が部屋の中にいた。
「お師匠、さすがですね」と風光坊は言った。「よく眠っているんで、もしかしたら、お師匠でも寝ている所を襲われたら、やられるかなと思って、試そうとしたら、やはり起きましたね」
「そうか‥‥‥」太郎は寝ぼけていたが、無意識のうちに杖をつかんで構えていた。
「宝は見つかったのか」と太郎は聞いた。
風光坊は首を振って、腰を下ろした。「駄目でした。瑠璃寺の古文書類をすべて調べましたけど、手掛かりはまったく、つかめませんでした。あの辺りも隈無く捜してみましたが、岩戸も不二も合掌も見つかりませんでした」
「駄目だったか。噂の方は流したのか」
「はい、流しました。いくらか効果はありましたか」
「ああ、少しづつな」
「金比羅坊殿はまだ、戻って来ないのですか」
「ああ、まだだ」
「何か、つかんでいるといいですね」
「そうだな。次郎吉殿はどうしたんだ」
「多分、女の所でしょう。ずっと女っ気なしでしたからね。ところで、師匠はずっと、ここにいたんですか」
「ああ。この城下に何か手掛かりはないかと捜してたんだよ」
「見つかりました?」
「いや」と太郎は首を振った。
「ほんとに宝なんてあるんですかね」
「無ければ困る」
「これは何の地図です」と聞きながら、風光坊は部屋の隅に置いてあった地図を手にして見た。
「城山城さ」
「へえ、随分、大きな城だったんですね」
「当時は、そこが赤松氏の本拠地だったんだからな」
「あの山の上に、寺や神社まであったんですね」
「俺が思うには、寺や神社の方が先にあったんじゃないかと思う。飯道山のように、山の上に寺があって、そこに、新たに城を建てたんだろう」
「成程‥‥‥金剛寺に亀山(キノヤマ)神社か‥‥‥あの井戸があった所には『鶴の丸』っていうのがあったんですね。そして、庭園の跡が残っていた所が『藤の丸』っていうんですね‥‥‥ところで、この点はなんです。あちこちに打ってありますけど」
「さあな、わからん。縄張りする時の何かの目印じゃないのか」
「あの城に登る道は、俺たちが苦労して登った道の他にもあったんですね」
「あの時、泥だらけになった俺たちが井戸で顔を洗っただろう」
「ええ」
「あの時、阿修羅坊がすぐ側に隠れていて、俺たちを見ていたんだそうだ」
「えっ」と風光坊は驚いて太郎を見た。「本当なんですか」
「本当さ。俺たちの話を聞いて、四つめの言葉『瑠璃』を知り、慌てて瑠璃寺に帰ったんだそうだ」
「そうだったんですか」
「うん。しかし、阿修羅坊にも宝の隠し場所はわからなかった」
「阿修羅坊か‥‥‥手を引いたって聞きましたけど、もう、現れないですかね」
「さあな、懲りてるとは思うがわからんな。しかし、浦上美作守は新しい敵を送って来るだろうな。そろそろ、気を付けた方がいいかもしれない」
「これから、どうするつもりです」
「ここのお屋形様が帰って来るまでに、どうしても宝を見つけなければならん」
「いつ帰って来るんです」
「そろそろ、帰って来るだろうな。俺たちがこの城下に来て、もう半月も経つからな」
「もし、宝が見つからなかったら、どうするんです」
「どうするかな。成り行きに任せるしかないな」
「三十三ありますよ」と風光坊が言った。
「何が?」と太郎は聞いた、
「この点ですよ」と風光坊は地図の中の点を指差した。
「そんな物、一々、数えてたのか」
「ええ」
「三十三っていえば、観音様の数だな」
「ええ、この点は観音様ですかね」
「かも知れんな、寺の回りにあるからな」
「そういえば、あそこに石の仏さんが転がっていましたね。あれですかね」
「多分、そうだろう」
「確か、合掌してるのもありましたよ」
「瑠璃を持っているのも、あればいいがな」
「ええ」
金勝座の連中が帰って来たようだった。どやどやと騒がしくなった。
「みんな、帰って来たんですね」と風光坊は部屋から飛び出して行った。
どうやら、風光坊が次郎吉に付き合わないで、真っすぐここに帰って来たのは、お目当ての女がここにいるからのようだった。それは太一で、太一の方はどうやら次郎吉に参っているらしい。風光坊から次郎吉の事を聞いて荒れなければいいが、と心配した。が、太郎も人の心配などしていられる身分ではなかった。
風光坊と入れ代わりに部屋に入って来たのは助六だった。助六が自分に好意を持っているというのは太郎にもわかる。そして、太郎も助六の事が好きだから始末に負えない。このまま行ったら、また山に籠もらなくてはならなくなるだろう。楓と百太郎を救い出すまでは、じっと我慢しなければならない太郎だった。
次の日の昼過ぎ、金比羅坊と八郎が笠形山から帰って来た。
二人とも疲れ切っているようだった。あのうるさい八郎がやけに無口だった。それこそ虱(シラミ)潰しに、笠形山中を捜し回ったが宝はどこにもなかったと言う。
太郎は金比羅坊と八郎を休ませ、次郎吉と風光坊を呼んで、これからの事を考えた。
播磨の国の地図を広げると、太郎は瑠璃寺と笠形山に大きく×印を書き込んだ。
「さて、瑠璃寺と笠形山にないとすると、今度はどこを捜したらいいでしょう」と太郎は二人に聞いた。
「赤松村じゃないか」と次郎吉が言った。
「赤松村? どこだ」と風光坊が地図を覗き込んだ。
置塩城の西に城山城があり、さらにその西に赤松村はあった。播磨の国の西の端で、すぐ隣は備前の国だった。
「こんな所に本当にあるのかな」と風光坊は首を傾げた。
「可能性はある。赤松氏の発祥の地だからな」と次郎吉は言った。
「それと城山城下だな」と太郎が言った。「当時の中心地だったからな」
三人が地図を睨んでいると、金比羅坊がのっそりと入って来た。
「金比羅坊殿、どうしたんです」と風光坊が顔を上げた。
「寝ておられんのじゃ。早いとこ、宝を捜さなけりゃ、お屋形様が帰って来てしまうぞ」
「ええ」と太郎は頷いた。
「一体、どこに隠しおったんじゃろうのう」と金比羅坊は座り込み、地図を覗いた。
「今、赤松村か城山城下じゃないかって話していた所です」
「ここと、ここか」と金比羅坊は地図上の二ケ所を指さした。「行ってみるしかないのう」
「ええ、今度は俺が行って来ます」と太郎は言った。
「いや、みんなで行って、手分けして捜した方が早い」と次郎吉が言った。
「そうじゃ。みんなで行った方がいい」
「こんなのを手に入れました」と太郎は次郎吉と金比羅坊に城山城の絵図面を見せた。
「おっ、どうしたんじゃ、こんな物」
「ちょっと、無断で借りて来たんです」
「うむ。よく、こんな物があったのう」
「ええ。しかし、宝捜しの手掛かりになるような物は何も出ていません」
「無残なもんじゃのう。これ程の城が跡形も残っていなかったとはのう」
「ついでに、城下町の絵地図もあればいいんですけど、そこまでは残っていないようです」
「そうか。あそこも昔は、ここの城下のように賑やかだったんじゃろうのう」
「ここ以上に栄えていたかもしれませんよ」
「そうじゃのう。すると、その城下に例の四つの言葉に関する物があったのかもしれんのう」
「おい、何だ、ありゃ」と次郎吉が外を見ながら言った。
中庭に金色の角をした牛が入って来た。その背中に乗っているのは、当然のごとく、変わり者の夢庵だった。
「あいつはあの時の男じゃないか。まだ、この辺りにおったのか」と金比羅坊が言った。
「何者だ」と次郎吉が聞いた。
「茶の湯の師範の夢庵殿です」と太郎が笑いながら言った。
「茶の湯の師範? あいつがか」と金比羅坊は信じられないという顔付きだった。
「はい。ここのお屋形様にも茶の湯やら連歌やらを教えているそうです」
「ほう。あの男がのう‥‥‥」
「あれから、ずっと別所屋敷に滞在していたらしいです」
「なに、別所屋敷? 楓殿と同じ所におったのか」
「ええ。この間、別所屋敷で金勝座の舞台をやった時、それを見ていたんです。その晩、ここにやって来て、みんなと一緒に遅くまで飲んでたんですよ」
太郎は部屋から出ると、中庭にいる夢庵の所に行った。
「やあ。わしをしばらく、ここに置いてくれ」と夢庵は言うと牛から降りた。
「もう、用は済んだのですか」
「ああ、済んだ。しかし、一応、楓殿の披露式典の当日までは城下にいてくれと言うんでな。あそこにいても退屈だしな。ここで、のんびりするつもりで来たんじゃ」
「そうですか。そうだ、夢庵殿にも乗ってもらいたい話があるんです」
「何じゃ、面白い事か」
「ええ、面白いといえば面白いけど、ちょっと疲れるかもしれません」
「わしは暇じゃからの、面白い話なら付き合うぞ」
夢庵の牛を廐(ウマヤ)につなぐと、太郎は夢庵を皆の待つ部屋に連れて行った。
「おっ、懐かしい連中が揃っておるな」と夢庵は笑いながら、皆の顔を見回した。「一人、いや、二人、おらんようじゃのう」
「一人は疲れて寝てますよ。もう一人は、ちょっと怪我をして別の所で休んでいます」
「そうか。おぬしの仲間は皆、一癖ありそんな面構えをしとるのう」
太郎は夢庵を次郎吉に紹介した。そして、宝捜しの事を初めから順を追って夢庵に話した。
「ほう、初耳じゃな。そんな物があったのか‥‥‥」
「今の所、浦上美作守しか知らない事です」
「美作守が、また、勝手な事をしているわけじゃな」
「夢庵殿、不二、岩戸、合掌、瑠璃、この四つの言葉が何を意味しているのかわかりますか」
「不二、岩戸、合掌、瑠璃か‥‥‥不二と言えば、やはり播磨富士じゃろうのう。岩戸と言えば天の岩戸かのう。しかし、播磨の国にそんな物はないし、合掌は合掌鳥居かのう」
「合掌鳥居?」と風光坊が聞いた。
「ああ、山王(サンノウ)鳥居ともいうが日吉(ヒエ)の山王社の鳥居だ。これも、播磨ではあまり聞かないのう。他にも合掌観音というのもあるのう」
「合掌観音?」
「ああ、よくある合掌した観音様だ。こんなのは別に珍しくもないな。残りの瑠璃と言うのは、やはり、瑠璃寺しかないだろうな。しかし、その瑠璃寺と播磨富士にないとなると難しくなるのう」
「ええ、また、初めからやり直しってわけです」
「これから、どこを捜すつもりなんだ」
「とりあえず、こことここです」と太郎は地図の上を指した。
「成程な。ありえるな」
「夢庵殿、合掌観音て言いましたよね」と風光坊が言った。
「ああ、それがどうかしたか」
「城山城に、その合掌観音らしい石仏があったんですよ。確か、この辺りです」と風光坊は城山城の地図を広げて場所を示した。「多分、この点がそうだと思うんです」
「さっき、おぬしが出て行った時、風光坊から聞いたんじゃが、この点は三十三個あるらしいの。三十三観音かもしれん」と金比羅坊は言った。
「三十三観音か‥‥‥」と夢庵も地図を覗き込んだ。
「そう言えば、岩戸観音というのもあるのう」と夢庵は言った。
「瑠璃観音と、不二観音というのはありませんか」と風光坊が聞いた。
「あるかもしれん。連歌に観音尽くしというのがあるんじゃ。観音の名前を歌に入れて詠むんじゃがのう。白衣(ビャクエ)観音とか、水月観音とか、楊柳(ヨウリュウ)観音とかは、よく使うが、わしも詳しくは知らんのじゃ」
「調べればわかりますね」と太郎は聞いた。
「ああ、大円寺で調べれば、すぐにわかるじゃろう」
「調べて来ます」と風光坊が、さっそく行こうとした。
「待て、お前が行ったからといって簡単に教えてはくれまい」と太郎が止めた。
「わしが行こう」と夢庵が言った。
「誰か、知っている人がいるのですか」
「あそこの主(アルジ)を知っておる」
「お屋形様の叔父に当たるとかいう和尚様ですか」
「ああ、あの和尚も連歌が好きじゃからのう。観音尽くしの連歌を作ると言えば、三十三観音の名前くらい教えてくれるじゃろう」
「夢庵殿、お願いします」
「なに、いい暇つぶしができたわい」と夢庵は出て行った。
「決まりだな」と次郎吉は太郎に頷いた。
「まだ、わかりませんよ」と風光坊は言った。
「いや、お宝は、この城の中に眠っているよ」
「しかし、あの四つが観音の名前だとすれば、大分、前進した事になるぞ」と金比羅坊は眠そうな目をこすった。
「ええ、そうですね」
「観音様か‥‥‥年中、観音様を拝んでいる、わしら、山伏が気づかんで、歌を詠んでいる夢庵殿が気がつくとはのう」
「阿修羅坊の奴も、四つの言葉の意味が観音様だとは夢にも思わなかったでしょうね」と風光坊が地図の上の点を眺めながら言った。
やがて、戻って来た夢庵の顔は笑っていた。
夢庵が写してきた三十三観音の中に、合掌観音、岩戸観音は勿論の事、不二観音も瑠璃観音も載っていた。
「実はのう、楓殿の事じゃ。はっきり言えば、楓殿の亭主殿の事じゃがな」と夢庵は言うと太郎の顔を見ながら酒を一口飲んだ。そして、また話し続けた。
「わしが先月の末、おぬしたちと別れて別所屋敷に行った時、すでに楓殿は別所屋敷に滞在していた。まあ、わしが今回、この城下に呼ばれたのも楓殿の事だったんじゃが、屋敷に着いた途端に、加賀守殿より楓殿の事を聞いた。
お屋形様の姉君だという事。そして、御亭主を戦で亡くされたばかりだから、その事には触れないでくれと言われた‥‥‥初めのうちは、わしもその事を信じていた。確かに、初めの頃、楓殿は悲しみにくれているような暗い感じだった。しかし、同じ屋敷内で何度も顔を合わせているうちに、どうも、腑に落ちないような気がして来たんじゃ。そこで、わしは加賀守殿に、楓殿の御亭主の事を詳しく聞いてみた‥‥‥それが、どうもはっきりとしない。加賀守殿も正確な事は何も知らんのじゃよ。
加賀守殿の話によると、京にいる浦上美作守殿がすべてを自分で決めて、楓殿を城下に送って来たと言うんじゃ。加賀守殿にしてみれば、急に、お屋形様に姉君がいたと言われても困ってしまったわけだが、すでに、在京の重臣たちには姉君として紹介した、と言うので、加賀守殿も仕方なく、お屋形様に連絡をした。お屋形様は自分の身内がいたと聞いて、大変、喜んだらしい。
加賀守殿も一応、楓殿を姉君として預かってはおるが、加賀守殿にしてみれば、浦上殿が送って来た楓殿を本当の姉君だとは、まだ信じてはいないようじゃ。浦上美作守殿が何かをたくらんでいるに違いないと考えておるらしい‥‥‥まあ、楓殿が本物にしろ偽物にしろ、お屋形様が帰って来次第、楓殿の披露式典が盛大に行なわれる事は確かじゃ。
加賀守殿も馬鹿じゃない。楓殿の存在をうまく利用して、赤松家を固めようというわけじゃ‥‥‥まあ、加賀守殿がどう考えていようが、この際、どうでもいいが、わしは楓殿に御亭主の事をそれとなく聞いてみた。楓殿もなかなか話してはくれなかった。そこで、今度は子供に父親の事を聞いてみた」
夢庵は話を止めると、太郎の顔を見て、酒を一口飲んだ。
「そしたらな、子供は言った。お父さんは子馬や人形を彫るのが、すごくうまいんだよ。観音様やお地蔵様も彫るし、木剣だって彫ったりするんだよ、とな」
そこで言葉を切ると、夢庵はまた、太郎の顔を窺った。
太郎は夢庵の顔を見ながら、すべてを知っているなと思った。
太郎は夢庵に酒を注いだ。夢庵は一口飲むと話を続けた。
「わしは子供の話を聞いて、すぐにおぬしの事を思い出したんじゃよ。その子の顔が、おぬしに似ていたのかもしれんのう。わしは、それから、おぬしの事を捜してみたが見つからなかった。やはり、ただの人違いだったかと諦めていたんだが、今日、金勝座の舞台で、おぬしを見つけたんじゃ。天狗の面をかぶってはいたが、あれは、まさしく、おぬしに違いないと思い、楓殿を誘って、あの小屋まで行った‥‥‥もう、これ以上は言わなくてもわかるじゃろう」
太郎は頷いた。
「どうするつもりじゃ」と夢庵は聞いた。
「この事は夢庵殿以外は知りませんね」
「ああ、今の所はな」
「もうしばらく、黙っていて下さい」
「いいだろう。しかし、おぬし、これからどうするつもりじゃ。もしかしたら、おぬし、命を狙われているんじゃないのか」
太郎は頷いた。「浦上美作守に狙われています」と正直に答えた。
「多分、そんな事だろうと思った。最近、別所屋敷の回りを山伏たちが、やたら、うろうろしていたようだが、おぬしの命を狙っていたわけじゃな。そいつらはやっつけたのか」
「ええ、今の所は安全です」
「そうか‥‥‥それで、楓殿をどうするつもりじゃ」
「まずは、お屋形様が帰って来て、楓が弟と会ってから何とかします」
「何とかするとは」
「まだ、わかりません」
「うむ、難しい問題じゃのう‥‥‥ところで、金勝座の連中たちはおぬしの仲間なのか」
「はい」
「いい仲間を持っておるのう」
「はい。ところで、夢庵殿、今日はゆっくりできるのですか」
「ああ。もう、わしの役目はほとんど終わった。あの堅苦しい屋敷から、そろそろ、おさらばしようと思っていたんじゃよ」
「そうですか。それじゃあ、今晩は一緒に飲みましょう」
「おお、いいね。久し振りに飲むか」
その言葉を待っていたかのように、助六と太一が部屋の中を覗いた。
「お話は終わりました?」と助六が太郎に声をかけた。
「ええ」と太郎が答えるより早く、二人は酒と肴を持って部屋の中に入って来た。
二人が入って来ると、その後から藤吉、左近、おすみ、三郎と金勝座の連中がぞろぞろと狭い部屋の中に入って来た。そして、ささやかな宴会が始まった。
昨夜、飲み過ぎたので、今日は飲むまいと思っていた太郎だったが、夢庵となら無理をしてでも一緒に飲みたかった。
やがて、金勝座の座員、みんなが加わり、明け方近くまで騒いでいた。
5
小雨が降っていた。
昨日とは打って変わって、肌寒く感じる程、涼しかった。
〽詮ない恋を 志賀の浦浪 よるよる人に寄り候~
助六は部屋の中から雨を眺めながら小声で歌っていた。
太一と藤若はまだ眠っている。
助六は雨空を見上げながら、せつなそうに溜息をついた。
昨日、太郎様の奥さんに会ってしまった‥‥‥会わなければよかったと思った。
伊助さんが言っていた通り、楓様は太郎様にふさわしい奥さんだった。そして、あの時、二人は何も話さなかったけど、二人の様子を見ていたら、あたしなんかの出る幕はないとはっきりと感じていた。
「あ~あ」と助六は、また溜息をついた。
どうしよう‥‥‥
〽花見れば袖濡れぬ 月見れば袖濡れぬ 何の心ぞ~
せつない恋の歌が自然と口から出て来ていた。
助六が太郎の事を思って悩んでいると、当の本人が裏口から中庭に入って来た。
助六の姿を見つけると、太郎は気楽に、「おはようさん」と声をかけて来た。
「あら、早いのね。まだ、寝てるのかと思ってたわ」
「ちょっと、夢庵殿と河原を散歩してたんだ」
「へえ、夢庵さんは帰ったの」
「ああ、帰ったよ」
「面白い人ね。夢庵さんて」
「ちょっと変わってるけどね‥‥‥助五郎さんは起きてるかな」
「まだ、寝てるでしょう。結構、飲んでたもの。お頭に何か用なの」
「昨夜、夢庵殿が言ってただろう。俺の事を舞台でやれば、城下中に俺の存在がわかるって」
「ああ、あの話、いい考えかもね。でも、きっと昼近くまで起きないわよ。ここの所、毎晩、遅くまで起きていたみたいだから」
「そうだな」
「久し振りよ。お頭があんなに酔うなんて」
「この間の小野屋さんの時も、そんなに飲まないで帰ったみたいだったしな」
「ええ、早く帰って本を直していたみたい。ねえ、ちょっと待ってて」
「えっ?」
「あたしも散歩したくなったの」
「濡れるぞ」
「濡れたいのよ」
太郎と助六は小雨の降る中、河原を散歩した。
丁度、『浦浪』の辺りで河原は区切られている。はっきりと境界線があるわけではないが、浦浪から南側の河原には紺屋と呼ばれる染め物職人たちが住み、北側には土木作業の人足たちが住んでいた。すでに、人足たちの姿はなかった。片目の銀左が言っていたように、新しい城下造りが始まったのだろう。いくつも建っている掘立て小屋には、怪我人や病人、腰の曲がった年寄りと、まだ小さな子供しか残っていなかった。働ける者は女子供までも総動員されているようだった。
二人は当てもなく、のんびりと河原を北に向かって歩いた。
「今日は確か、四日よね」と助六が言った。
「そうだな」と太郎は答えた。
「市が立つ日よ」
そう言われれば、確かに今日は北の市場に市の立つ日だった。この前、北の市場に市が立った日、二十四日は、太郎は南の市場で阿修羅坊と戦っていた。もう、あれから十日が経ったのか‥‥‥早いような気もするし、長かった十日だったような気もした。
「ねえ、市に行きましょ」と助六は誘った。
人足たちの掘立て小屋が建ち並ぶ一画を過ぎると、東から夢前川に流れ込む川にぶつかる。川には丸木橋が架けられてあった。橋を渡ると芸人たちの住む一画となった。
金勝座の者たちは木賃宿に泊まっているが、ほとんどの芸人たちは河原に小屋を立てて生活している。芸人たちは雨空を見上げながら仕事の準備をしていた。また、朝早くから市場の方に稼ぎに行っている芸人たちもいるようだった。
「ねえ。何か、向こう、賑やかよ」と助六が性海寺(ショウカイジ)の参道の方を見ながら言った。
太郎も見てみると、確かに賑やかだった。あの界隈は遊女屋や料亭が並び、夜はいつも賑やかだが、今日は朝から賑やかだった。
「縁日かしら」
助六の気が変わり、市場に行くのはやめて縁日の方に足は向かった。
参道の両脇には露店も並び、子供たちが楽しそうに遊び回っていた。
二人は露店を眺めながら、のんびりと歩いた。
助六は楽しそうだった。はしゃぎながら露店を見て歩いている助六は、舞台であれだけの芸を見せる助六とは、まるで別人のように可愛いい女だった。
助六が、ちょっとおなかが空いたと言うので、二人はまだ開けたばかりの団子屋に入った。客はまだ誰もいなかった。
「太郎様、また、宝捜しに出掛けるんですか」と団子を食べながら助六が聞いた。
「うん。どうしようかと思っている」
「一体、どこに隠したんでしょうね」
「どこだと思う」そう聞きながら太郎も団子を口にした。
「山の中とか、やっぱり人気のない所でしょうね」
「どうして」
「だって、隠す時、誰かに見られちゃうでしょ」
「成程、隠す時に見られるか‥‥‥」
「何を隠したんだか知らないけど、一人でやったんじゃないでしょ。きっと誰か、手伝った人がいるはずよ」
「そうだろうな」
「その手伝った人を捜せばいいのよ」
「そりゃそうだけど、それを捜す方が宝を捜すより、ずっと大変じゃないのか。なんせ、三十年以上も前の事だからな」
「そうか、もう死んじゃってるかもね」
「あるいは、殺されたかだな」
「殺された?」
「秘密がばれないように、口をふさいだのさ」
「そうね、あり得るわね。あたし、考えたんだけど、宝の隠し場所を知ってたのは、先代のお屋形様だけなんでしょう。でも、あの紙切れの入った刀を持っていた四人の人たちも、あの紙に書いてあった言葉が何を意味するかは知っていたんでしょう」
「それは知っていただろうな」
「でも、その言葉が四つ集まらなければ、宝の場所はわからない」
「そうだ」
「という事は、その四つの言葉の意味する物は、それを持っていた四人が、共通して知っていると言う事でしょ」
「まあ、そうだろうな」
「そうなると、場所は狭まらないかしら」
「うん‥‥‥」
「あたしの勘だけどね、城山城じゃないかと思うの」
「城山城? どうして」
「だって、あの頃、城山城が赤松家の中心だったんでしょ、今のここみたいに。今のお屋形様が宝を隠すとすれば、やっぱり、このお城下に隠すんじゃないかしら」
「そうかな。城山城には行ったけど、あの四つの言葉に関する物は見つからなかったよ」
「お城下は?」
「城下までは調べなかったな」
「お城下のどこかに隠したかもしれないわよ」
「そうだな‥‥‥落城前の城山城とその城下の様子がわかればなあ」
「どこかに、絵地図とか残ってないかしら」
「あるとすれば評定所(ヒョウジョウショ)か‥‥‥」
「あるいは奉行所(ブギョウショ)‥‥‥」
「普請(フシン)奉行か」
「そこにあるわよ、きっと」
太郎は助六を見ながら頷いた。
「それと、あの紙切れの入った刀を持っていた四人の事も調べた方がいいな。当時の記録はほとんど残っていないと思うが、何かわかるかもしれない」
「そうね、調べる価値はありそうよ」
「やってみるか」
いつの間にか、小雨が上がって日が差していた。
二人は団子屋を出ると、散歩のついでに評定所と奉行所まで行き、偵察をして浦浪に戻った。
6
噂を流し始めてから五日が経ち、効果は少しづつ出て来ていた。
旅の商人たちが、まるで自分の目で見て来たかのように真(マコト)しやかに話しているのを、太郎も聞いたし、金勝座の皆も耳にしていた。
──戦で死んだと思っていた楓御料人様の旦那様が生きていて、もうすぐ、置塩の城下にいらっしゃるそうじゃ。何でも、その旦那様というのは、公方(クボウ)様と同じ源氏の流れを汲む由緒正しい家柄だそうじゃ。まさしく、御料人様にお似合いの旦那様だそうな。立派な御家来衆を引き連れて、何でも今月のうちには来るらしいのう‥‥‥
などと噂は勝手に成長していた。この調子なら別所加賀守の耳に入るのも時間の問題だろう。
残暑の続く暑い昼下り、金勝座の舞台が始まろうとしていた。
今日は『楓御料人物語』を初めて演じる日だった。
『楓御料人物語』とは、太郎が助五郎に頼んで作ってもらった楓と太郎の話だった。面白くするために、多少、話は変えてあるが、ほとんどが事実だった。場所も登場人物も、ほとんど実名を使っていた。城下の者たちがこの芝居を見れば、ますます噂を信じる事になるだろう。そして、この芝居通りに、太郎は楓の旦那様として、この城下に登場するというわけだった。しかし、その後の事はどうなるのか、芝居でも演じられていないし、実際、太郎にもまったく見当もつかなかった。
第一幕、場所は甲賀の花養院、阿修羅坊が楓を訪ねて来る。太郎は戦に行ったまま行方不明。楓は尼になろうとして尼寺に来ていたが、阿修羅坊が現れ、赤松政則の姉だと知らせる。楓は迷うが、弟に会おうと播磨に向かう決心をする。
第二幕、場所は京都の浦上屋敷、赤松家の重臣たちに披露される楓。
第三幕、場所は置塩城下の別所屋敷、父親に会いたがる百太郎。
第四幕、場所は置塩城下、太郎登場、親子の再会。
助五郎は、阿修羅坊一味に狙われる太郎の場面も入れた方がいいと言ったが、太郎はやめさせた。そこまでやってしまうと金勝座が危険な目に会う可能性があった。これ以上、危険な目には会わせたくなかった。
『楓御料人物語』の初演は成功した。最後の親子の再会の場面では、感動して涙ぐんでいる人たちも多かった。
太郎は『楓御料人物語』の内容に満足して浦浪に帰った。
太郎は毎日、調べ事に熱中していた。
助六と縁日の散歩をしたその日の夜、さっそく、甚助を連れて評定所に忍び込んでいた。甚助は錠前(ジョウマエ)破りの名人で、どんな錠前でも開けてしまう腕を持っていた。図書(ズショ)奉行の図書蔵の鍵も、普請奉行の図書蔵の鍵も簡単に開けてしまった。
その日から毎夜、太郎は図書蔵に通っていた。錠前の開け方も甚助から教わり、二日目からは一人で行っていた。やはり、古い文書は少なかったが、それでも、役に立ちそうな物はいくつかあった。太郎はそれを借りて来ては調べ、次の晩に戻し、また、借りて来るという事を繰り返していた。三回、忍び込んで役に立ちそうな資料は、もう、ほとんど目を通した。文書からは大した収穫はなかったが、城山城の絵図面を手に入れる事ができたのは大収穫だった。それも、かなり詳しい図面だった。置塩城は城山城を見本にして縄張りをしたのに違いなかった。
文書類からわかった事といえば、嘉吉の変が起きる前、城山城にいたのは、今のお屋形様の祖父にあたる伊予守義雅。義雅は嘉吉の変の前年、将軍義教より所領を没収されて国元に帰っていた。京の赤松屋敷にいたのは性具入道の嫡男、彦次郎教康と弟の左馬介則繁。性具入道は狂乱を装って家臣の富田氏の屋敷にいた。という事くらいで、他の連中が、どこにいて何をしていたのかはわからなかった。性具入道がどこかに軍資金を隠したかもしれない、などというような事はどこにも書いてなかったし、例の四つの言葉に関係ありそうな事も何もわからなかった。
城山城の絵地図はもうしばらく預かっている事にして、他の文書類は今晩、返して来ようと思った。
太郎は体を伸ばして横になった。
蒸し暑かった。
疲れていたのか、いつの間にか眠ってしまった。
目が覚めたら、風光坊が部屋の中にいた。
「お師匠、さすがですね」と風光坊は言った。「よく眠っているんで、もしかしたら、お師匠でも寝ている所を襲われたら、やられるかなと思って、試そうとしたら、やはり起きましたね」
「そうか‥‥‥」太郎は寝ぼけていたが、無意識のうちに杖をつかんで構えていた。
「宝は見つかったのか」と太郎は聞いた。
風光坊は首を振って、腰を下ろした。「駄目でした。瑠璃寺の古文書類をすべて調べましたけど、手掛かりはまったく、つかめませんでした。あの辺りも隈無く捜してみましたが、岩戸も不二も合掌も見つかりませんでした」
「駄目だったか。噂の方は流したのか」
「はい、流しました。いくらか効果はありましたか」
「ああ、少しづつな」
「金比羅坊殿はまだ、戻って来ないのですか」
「ああ、まだだ」
「何か、つかんでいるといいですね」
「そうだな。次郎吉殿はどうしたんだ」
「多分、女の所でしょう。ずっと女っ気なしでしたからね。ところで、師匠はずっと、ここにいたんですか」
「ああ。この城下に何か手掛かりはないかと捜してたんだよ」
「見つかりました?」
「いや」と太郎は首を振った。
「ほんとに宝なんてあるんですかね」
「無ければ困る」
「これは何の地図です」と聞きながら、風光坊は部屋の隅に置いてあった地図を手にして見た。
「城山城さ」
「へえ、随分、大きな城だったんですね」
「当時は、そこが赤松氏の本拠地だったんだからな」
「あの山の上に、寺や神社まであったんですね」
「俺が思うには、寺や神社の方が先にあったんじゃないかと思う。飯道山のように、山の上に寺があって、そこに、新たに城を建てたんだろう」
「成程‥‥‥金剛寺に亀山(キノヤマ)神社か‥‥‥あの井戸があった所には『鶴の丸』っていうのがあったんですね。そして、庭園の跡が残っていた所が『藤の丸』っていうんですね‥‥‥ところで、この点はなんです。あちこちに打ってありますけど」
「さあな、わからん。縄張りする時の何かの目印じゃないのか」
「あの城に登る道は、俺たちが苦労して登った道の他にもあったんですね」
「あの時、泥だらけになった俺たちが井戸で顔を洗っただろう」
「ええ」
「あの時、阿修羅坊がすぐ側に隠れていて、俺たちを見ていたんだそうだ」
「えっ」と風光坊は驚いて太郎を見た。「本当なんですか」
「本当さ。俺たちの話を聞いて、四つめの言葉『瑠璃』を知り、慌てて瑠璃寺に帰ったんだそうだ」
「そうだったんですか」
「うん。しかし、阿修羅坊にも宝の隠し場所はわからなかった」
「阿修羅坊か‥‥‥手を引いたって聞きましたけど、もう、現れないですかね」
「さあな、懲りてるとは思うがわからんな。しかし、浦上美作守は新しい敵を送って来るだろうな。そろそろ、気を付けた方がいいかもしれない」
「これから、どうするつもりです」
「ここのお屋形様が帰って来るまでに、どうしても宝を見つけなければならん」
「いつ帰って来るんです」
「そろそろ、帰って来るだろうな。俺たちがこの城下に来て、もう半月も経つからな」
「もし、宝が見つからなかったら、どうするんです」
「どうするかな。成り行きに任せるしかないな」
「三十三ありますよ」と風光坊が言った。
「何が?」と太郎は聞いた、
「この点ですよ」と風光坊は地図の中の点を指差した。
「そんな物、一々、数えてたのか」
「ええ」
「三十三っていえば、観音様の数だな」
「ええ、この点は観音様ですかね」
「かも知れんな、寺の回りにあるからな」
「そういえば、あそこに石の仏さんが転がっていましたね。あれですかね」
「多分、そうだろう」
「確か、合掌してるのもありましたよ」
「瑠璃を持っているのも、あればいいがな」
「ええ」
金勝座の連中が帰って来たようだった。どやどやと騒がしくなった。
「みんな、帰って来たんですね」と風光坊は部屋から飛び出して行った。
どうやら、風光坊が次郎吉に付き合わないで、真っすぐここに帰って来たのは、お目当ての女がここにいるからのようだった。それは太一で、太一の方はどうやら次郎吉に参っているらしい。風光坊から次郎吉の事を聞いて荒れなければいいが、と心配した。が、太郎も人の心配などしていられる身分ではなかった。
風光坊と入れ代わりに部屋に入って来たのは助六だった。助六が自分に好意を持っているというのは太郎にもわかる。そして、太郎も助六の事が好きだから始末に負えない。このまま行ったら、また山に籠もらなくてはならなくなるだろう。楓と百太郎を救い出すまでは、じっと我慢しなければならない太郎だった。
7
次の日の昼過ぎ、金比羅坊と八郎が笠形山から帰って来た。
二人とも疲れ切っているようだった。あのうるさい八郎がやけに無口だった。それこそ虱(シラミ)潰しに、笠形山中を捜し回ったが宝はどこにもなかったと言う。
太郎は金比羅坊と八郎を休ませ、次郎吉と風光坊を呼んで、これからの事を考えた。
播磨の国の地図を広げると、太郎は瑠璃寺と笠形山に大きく×印を書き込んだ。
「さて、瑠璃寺と笠形山にないとすると、今度はどこを捜したらいいでしょう」と太郎は二人に聞いた。
「赤松村じゃないか」と次郎吉が言った。
「赤松村? どこだ」と風光坊が地図を覗き込んだ。
置塩城の西に城山城があり、さらにその西に赤松村はあった。播磨の国の西の端で、すぐ隣は備前の国だった。
「こんな所に本当にあるのかな」と風光坊は首を傾げた。
「可能性はある。赤松氏の発祥の地だからな」と次郎吉は言った。
「それと城山城下だな」と太郎が言った。「当時の中心地だったからな」
三人が地図を睨んでいると、金比羅坊がのっそりと入って来た。
「金比羅坊殿、どうしたんです」と風光坊が顔を上げた。
「寝ておられんのじゃ。早いとこ、宝を捜さなけりゃ、お屋形様が帰って来てしまうぞ」
「ええ」と太郎は頷いた。
「一体、どこに隠しおったんじゃろうのう」と金比羅坊は座り込み、地図を覗いた。
「今、赤松村か城山城下じゃないかって話していた所です」
「ここと、ここか」と金比羅坊は地図上の二ケ所を指さした。「行ってみるしかないのう」
「ええ、今度は俺が行って来ます」と太郎は言った。
「いや、みんなで行って、手分けして捜した方が早い」と次郎吉が言った。
「そうじゃ。みんなで行った方がいい」
「こんなのを手に入れました」と太郎は次郎吉と金比羅坊に城山城の絵図面を見せた。
「おっ、どうしたんじゃ、こんな物」
「ちょっと、無断で借りて来たんです」
「うむ。よく、こんな物があったのう」
「ええ。しかし、宝捜しの手掛かりになるような物は何も出ていません」
「無残なもんじゃのう。これ程の城が跡形も残っていなかったとはのう」
「ついでに、城下町の絵地図もあればいいんですけど、そこまでは残っていないようです」
「そうか。あそこも昔は、ここの城下のように賑やかだったんじゃろうのう」
「ここ以上に栄えていたかもしれませんよ」
「そうじゃのう。すると、その城下に例の四つの言葉に関する物があったのかもしれんのう」
「おい、何だ、ありゃ」と次郎吉が外を見ながら言った。
中庭に金色の角をした牛が入って来た。その背中に乗っているのは、当然のごとく、変わり者の夢庵だった。
「あいつはあの時の男じゃないか。まだ、この辺りにおったのか」と金比羅坊が言った。
「何者だ」と次郎吉が聞いた。
「茶の湯の師範の夢庵殿です」と太郎が笑いながら言った。
「茶の湯の師範? あいつがか」と金比羅坊は信じられないという顔付きだった。
「はい。ここのお屋形様にも茶の湯やら連歌やらを教えているそうです」
「ほう。あの男がのう‥‥‥」
「あれから、ずっと別所屋敷に滞在していたらしいです」
「なに、別所屋敷? 楓殿と同じ所におったのか」
「ええ。この間、別所屋敷で金勝座の舞台をやった時、それを見ていたんです。その晩、ここにやって来て、みんなと一緒に遅くまで飲んでたんですよ」
太郎は部屋から出ると、中庭にいる夢庵の所に行った。
「やあ。わしをしばらく、ここに置いてくれ」と夢庵は言うと牛から降りた。
「もう、用は済んだのですか」
「ああ、済んだ。しかし、一応、楓殿の披露式典の当日までは城下にいてくれと言うんでな。あそこにいても退屈だしな。ここで、のんびりするつもりで来たんじゃ」
「そうですか。そうだ、夢庵殿にも乗ってもらいたい話があるんです」
「何じゃ、面白い事か」
「ええ、面白いといえば面白いけど、ちょっと疲れるかもしれません」
「わしは暇じゃからの、面白い話なら付き合うぞ」
夢庵の牛を廐(ウマヤ)につなぐと、太郎は夢庵を皆の待つ部屋に連れて行った。
「おっ、懐かしい連中が揃っておるな」と夢庵は笑いながら、皆の顔を見回した。「一人、いや、二人、おらんようじゃのう」
「一人は疲れて寝てますよ。もう一人は、ちょっと怪我をして別の所で休んでいます」
「そうか。おぬしの仲間は皆、一癖ありそんな面構えをしとるのう」
太郎は夢庵を次郎吉に紹介した。そして、宝捜しの事を初めから順を追って夢庵に話した。
「ほう、初耳じゃな。そんな物があったのか‥‥‥」
「今の所、浦上美作守しか知らない事です」
「美作守が、また、勝手な事をしているわけじゃな」
「夢庵殿、不二、岩戸、合掌、瑠璃、この四つの言葉が何を意味しているのかわかりますか」
「不二、岩戸、合掌、瑠璃か‥‥‥不二と言えば、やはり播磨富士じゃろうのう。岩戸と言えば天の岩戸かのう。しかし、播磨の国にそんな物はないし、合掌は合掌鳥居かのう」
「合掌鳥居?」と風光坊が聞いた。
「ああ、山王(サンノウ)鳥居ともいうが日吉(ヒエ)の山王社の鳥居だ。これも、播磨ではあまり聞かないのう。他にも合掌観音というのもあるのう」
「合掌観音?」
「ああ、よくある合掌した観音様だ。こんなのは別に珍しくもないな。残りの瑠璃と言うのは、やはり、瑠璃寺しかないだろうな。しかし、その瑠璃寺と播磨富士にないとなると難しくなるのう」
「ええ、また、初めからやり直しってわけです」
「これから、どこを捜すつもりなんだ」
「とりあえず、こことここです」と太郎は地図の上を指した。
「成程な。ありえるな」
「夢庵殿、合掌観音て言いましたよね」と風光坊が言った。
「ああ、それがどうかしたか」
「城山城に、その合掌観音らしい石仏があったんですよ。確か、この辺りです」と風光坊は城山城の地図を広げて場所を示した。「多分、この点がそうだと思うんです」
「さっき、おぬしが出て行った時、風光坊から聞いたんじゃが、この点は三十三個あるらしいの。三十三観音かもしれん」と金比羅坊は言った。
「三十三観音か‥‥‥」と夢庵も地図を覗き込んだ。
「そう言えば、岩戸観音というのもあるのう」と夢庵は言った。
「瑠璃観音と、不二観音というのはありませんか」と風光坊が聞いた。
「あるかもしれん。連歌に観音尽くしというのがあるんじゃ。観音の名前を歌に入れて詠むんじゃがのう。白衣(ビャクエ)観音とか、水月観音とか、楊柳(ヨウリュウ)観音とかは、よく使うが、わしも詳しくは知らんのじゃ」
「調べればわかりますね」と太郎は聞いた。
「ああ、大円寺で調べれば、すぐにわかるじゃろう」
「調べて来ます」と風光坊が、さっそく行こうとした。
「待て、お前が行ったからといって簡単に教えてはくれまい」と太郎が止めた。
「わしが行こう」と夢庵が言った。
「誰か、知っている人がいるのですか」
「あそこの主(アルジ)を知っておる」
「お屋形様の叔父に当たるとかいう和尚様ですか」
「ああ、あの和尚も連歌が好きじゃからのう。観音尽くしの連歌を作ると言えば、三十三観音の名前くらい教えてくれるじゃろう」
「夢庵殿、お願いします」
「なに、いい暇つぶしができたわい」と夢庵は出て行った。
「決まりだな」と次郎吉は太郎に頷いた。
「まだ、わかりませんよ」と風光坊は言った。
「いや、お宝は、この城の中に眠っているよ」
「しかし、あの四つが観音の名前だとすれば、大分、前進した事になるぞ」と金比羅坊は眠そうな目をこすった。
「ええ、そうですね」
「観音様か‥‥‥年中、観音様を拝んでいる、わしら、山伏が気づかんで、歌を詠んでいる夢庵殿が気がつくとはのう」
「阿修羅坊の奴も、四つの言葉の意味が観音様だとは夢にも思わなかったでしょうね」と風光坊が地図の上の点を眺めながら言った。
やがて、戻って来た夢庵の顔は笑っていた。
夢庵が写してきた三十三観音の中に、合掌観音、岩戸観音は勿論の事、不二観音も瑠璃観音も載っていた。
20.城山城
1
文句なしの秋晴れだった。
前回はひどい天気だったが、今日は雲一つない快晴だった。
太郎、金比羅坊、風光坊、八郎、そして、夢庵と金色の角を持った牛の一行は城山城に向かっていた。
探真坊はようやく傷も治り、歩けるようになって『浦浪』に戻って来た。探真坊も一緒に行きたいようだったが、まだ長旅は無理だった。
次郎吉も一緒に来るはずだったが、急に仕事が入って来られなくなった。次郎吉は、そんな仕事は断って一緒に行くと言い張った。仕事というのが赤松家の重臣からだったので、この機会に赤松家とのつながりを付けておいた方が、この先、いいかもしれない、と何とか納得させて置いて来た。
一刻も早く、城山城に行きたかった太郎たちも、夢庵の牛が一緒ではどうしようもなかった。夢庵は、わしなど気にせず、先に行っても構わんとは言うが、そうもできない。夢庵の考えでは、お宝を運ぶのにこの牛が役に立つと言う。そう言われれば、太郎たちは宝を運ぶ事までは考えてもいなかった。宝が何だかわからないが、荷車か何かが必要な事は確かだった。牛がいれば、後は荷車をどこかから借りればいい。いや、買い取っても構わないだろう。
太郎は金比羅坊と風光坊、八郎の三人を先に行かせて、夢庵とのんびり歩いていた。
夢庵は牛に揺られながら、のんきに横笛を吹いている。歌もうまいが笛もうまかった。
夢庵という男は、太郎が今まで付き合って来た人たちとは、まったく違った種類の男だった。茶の湯だとか、連歌だとか、太郎とはまったく縁のない世界に生きていた。太郎の知らない世界の事を色々と知っている。あまり口数の多い方ではないが、夢庵と一緒にいると色々とためになる事が多かった。
今回、旅をして金勝座や夢庵と知り合い、今まで、全然、興味も持たなかった歌とか踊りとかに、太郎も少しづつ興味を持つようになっていた。特に、大鼓打ちの弥助が吹いていた尺八を聞いて以来、太郎も尺八を吹いてみたいと思っていた。尺八は使い用によっては武器にもなるし、刀を腰に差しているよりも尺八を差していた方が楽しいだろう。そして、夢庵のように瓢々と、のんびり旅でもできたら最高だろうと思った。
牛の歩みに合わせて、のんびり歩いていても、正午ちょっと過ぎには城山城の裾野に着いた。この辺りはかつて城下町として栄えていたのだろうが、今は、まったく、その面影は残っていない。山名軍に攻められて城下町は再起ができない程、壊滅してしまったに違いなかった。
城への登り口の所で、八郎が太郎たちが来るのを待っていた。待っていたと言うより、道端で昼寝をしていたと言った方が正しいが‥‥‥
「大した弟子を持っているな」と夢庵が気持ち良さそうに眠っている八郎を見ながら笑った。
「ちょっと、うるさいですがね」と太郎は杖で八郎をつついた。
「誰だ」と八郎は刀に手をやりながら、太郎たちを見上げた。
「どこでも寝られるっていうのはいい性格だが、気をつけないとやられるぞ」
「お師匠、はい、すみません」と八郎は起き上がった。
「金比羅坊殿と風光坊は先に登ったのか」
「二人は先に行きました。ここから登るのが兵糧道だそうです。早く、行きましょう」
牛を近くの農家に預けると、三人は兵糧道を登って行った。
金比羅坊と風光坊が道を作ってくれたので楽に登る事ができた。この間、登った大手道と比べると距離も大分、短いようだった。
ようやく城跡に着き、太郎は絵地図を広げた。太郎が自分で写した城山城の地図だった。元の地図は金比羅坊が持っていた。
今いる所から、もう少し進めば『鷹の丸』跡に着くはずだった。その鷹の丸の回りに例の点が散らばっている。石でできた観音像のはずだった。とりあえず、鷹の丸に行ってから、その点を調べようと三人は進んだ。
鷹の丸跡らしい平地はすぐにわかった。かなり広い平地だった。かつては立派な屋敷が建てられていたのだろう。しかし、今はただの草原だった。その草原の隅の方で、金比羅坊と風光坊が何やらしていた。
「おおい、風光坊、何かあったんか」と八郎が走って行った。
「おお、来たか。岩戸観音があったぞ」と金比羅坊が叫んだ。「その観音様の下に大きな穴が空いているんじゃ」
太郎も夢庵も、金比羅坊たちの方に走り寄った。
金比羅坊の言う通り、石でできた観音様がいた。しかし、どうして、これが岩戸観音なのか太郎にはわからなかった。金比羅坊に聞いてみると、その観音様は側にある、ちょっとした岩屋の中にいたと言う。最初は、その岩屋の奥に宝が隠されているのだろうと思ったそうだが、どう考えても、こんな小さな岩屋に宝が隠せるわけないと諦めた。しかし、風光坊がその観音様の下を掘ってみると、その観音様が大きな岩の上に乗っている事がわかった。もしかしたら、この岩の下に何かあるかもしれないと、二人がかりで持ち上げてみたら、何と、その岩の下に穴が空いていたというわけだった。
五人は穴の中を覗き込んでいた。
「入れそうだな」と夢庵が言った。
「階段のようになっているみたいじゃのう」と金比羅坊が言った。
さっそく、みんなで松明(タイマツ)を作り、火を起こして穴に入る準備をした。
穴は以外に深かった。
ちょっと入って行けば、すぐに宝を拝めるだろうと楽しみにしていた五人の期待は、すっかり裏切られた。宝らしい物など、どこにもなく、洞穴はいつまで経っても奥深く続いていた。
「一体、どこまで続いているんや」と八郎が文句を言った。
「きっと、地獄まで続いているんじゃろ」と夢庵が笑いながら言った。
「こんな奥の方に隠すんじゃから、よっぽどの宝なんじゃろう」と金比羅坊が言った。
「金や銀が、ざっくざくや」と八郎は浮かれた。
何度も行き止まりにぶつかった。穴の中はまるで迷路のようになっていた。
四半時(三十分)程、狭い穴の中を歩き回った五人は、やっとの事で光の下へと出た。
「どういう事だ」と皆が思った。
「ここはどこや」と八郎がキョロキョロした。
「地獄ではないようじゃの」と夢庵が空を見上げた。
風光坊と金比羅坊は、ここがどこなのか、確かめに行った。
他の者も後を追った。やがて、見覚えのあるような道に出た。しばらく行くと見晴らしのいい場所に出た。どうやら山の中腹らしい。
「抜け穴じゃ」と金比羅坊が言った。
「抜け穴か‥‥‥」
「戦の時、敵に囲まれた時に逃げるための抜け道じゃな」と夢庵が言った。
「と言う事は、あの時、逃げた連中は、あの穴を通って、無事、逃げたというわけか」
「多分な」
もう一度、その穴の中をよく調べながら、元の入り口に戻ったが、結局、宝は見つからなかった。
元の岩戸観音の所に出ると、五人は一休みした。
「よくまあ、こんな穴を掘ったのう」と金比羅坊は感心していた。
「もしかしたら、四つの観音様は宝の隠し場所なんかじゃなくて、抜け穴の入り口の事なんじゃないのかな」と風光坊が言った。
「そうかもしれんのう」と夢庵も言った。
「そんな事はないじゃろうとは思うがな」と金比羅坊は言った。
「そうや、抜け穴やったら、そんなに大事に持ってるわけないんや」
「すでに、ここも落城したんじゃからな」
「しかし、また、ここを本拠地にするつもりだったんではありませんか」と風光坊は言った。「抜け穴というのは、絶対に敵に知られてはならない重要な事でしょ。当時にすれば、宝以上に重要な事だったのかもしれませんよ」
「成程、そう言われてみれば、そうかもしれんのう」
「おぬしはどう思ってるんじゃ」と夢庵が太郎に聞いた。
「えっ? まだ、ここだけじゃわからないけど、この穴は一体、誰が掘ったのだろうと、今、考えていたんです」
「そうじゃよ」と金比羅坊が言った。「この穴は自然にできたものじゃない。誰かが掘ったに違いない。大したもんじゃ」
「多分、金(カネ)掘りじゃないか」と夢庵が言った。
「金掘り? この山で金か何か、取れるのですか」と風光坊が聞いた。
「わからん。そういう事は皆、秘密にしておくからの。ただ、この山の名前が亀山(キノヤマ)じゃろう。元は金の山だったのかもしれん。それを隠すために字を変えたという事もあり得る」
「そう言えば、迷路のようにあっちこっち掘ってあったのう」
「金の山か‥‥‥」と八郎は唸った。
「金か‥‥‥」と風光坊も唸った。
「とにかく、あとの三つの観音様を見つけてみない事には話にならんな」と夢庵は言った。
「金比羅坊殿、合掌観音は見つけましたか」と太郎は聞いた。
「いや、まだじゃ。場所がわからんのじゃよ。あの時、探真坊が見つけて、みんな、その観音像を見たはずなんじゃが、それが、一体、どこだったのか、はっきり覚えておらんのじゃ。風光坊はこの辺りだったと言うし、わしはもっと向こうのような気がするっていうんで捜していたら、合掌観音より先に、この岩戸観音が見つかったというわけじゃ」
「あれがあったのは、もっと、あっちや」と八郎が言った。
「俺は、向こうだったと思うがな」と太郎は八郎とは別の方を指した。
「な、みんな、覚えている場所が違うんじゃよ」
「観音様は全部で三十三もあるんじゃ。手分けして捜せば、何か見つかるさ」と夢庵は言った。
太郎は絵地図を広げて見た。
今いる鷹の丸の東の方に金剛寺と亀山(キノヤマ)神社があり、その回りに観音様を示す点は散らばっていた。鷹の丸の北の方に例の井戸のある鶴の丸があり、その西に藤の丸と姫の丸がある。そこから少し北に行くと、亀の丸、北の丸があり、大手道へと続いている。また、鶴の丸の北の方には蔵がいくつも並び、その先に菊の丸というのもあった。
五人は地図を見ながら、大体の位置を頭に入れると手分けして観音様捜しを始めた。
日が暮れるまで捜して、見つけた観音像は二十三体あった。五体満足なのはあまりなく、首が取れていたり欠けたりしていた。また、定位地にあった物も少なく、とんでもない所で、土の中に半分以上埋まっている物も多かった。その中で、何とか名前のわかったのが十三体だった。
合掌観音を見つけたのは何と、夢庵だった。金剛寺の本堂の跡近くの草の中に倒れていた。以前は、側にある平らな岩の上に置かれていたに違いなかった。その岩の下にも抜け穴があるに違いないと、皆で岩をどけてみたが下には何もなかった。
不二観音も見つかった。不二観音は城山城の本丸に違いない藤の丸跡のはずれの庭園の跡の中にあった。首が取れていて、その観音像を見ただけでは何観音だかわからないが、近くに富士山のような山が築かれ、回りには池もあったような感じだった。その富士山の裾野辺りに、やはり平らな岩が置かれてあった。富士山の側にある事と、藤の丸の中にある事で、これは不二観音に間違いないと皆も思った。岩をどけてみると、ここにも穴が空いていた。
抜け穴だった。岩戸観音の所の抜け穴程長くはなかったが、こちらも迷路のように入り組んでいて、なかなか外に出られなかった。岩戸観音の抜け穴は山の東側、城下町の方に抜けていたが、こちらの抜け穴は、どうやら反対側の山の中の谷へと続いているようだった。穴から出た所は薄暗い山の中で、ちょっと下の方に細い谷川が流れていた。
穴の中をよく調べてみたが、やはり、宝が隠してあるようではなかった。
最後の瑠璃観音は見つからなかった。瑠璃観音が、どんな観音様なのか誰にもわからなかった。多分、宝石のような玉を持っているのだろうと、皆で捜したが見つからなかった。
八郎が御手洗(ミタラシ)池の側で、瑠璃観音を見つけたと言って騒いだが違っていた。確かに、その観音様は両手に何かを持っていた。しかし、それはよく見ると玉ではなくて壷(ツボ)だった。施薬(セヤク)観音に違いなかった。
鷹の丸、藤の丸に観音様がいたのだから、鶴の丸や姫の丸にもいるに違いないと捜してもみた。鶴の丸には確かに観音様はいた。しかし、瑠璃観音ではなく、蓮(ハス)を手にした持蓮(ジレン)観音だった。観音様の下の岩を持ち上げてみたが何もなかった。姫の丸には観音様はいなかった。その他、地図に点は付いていなかったが、亀の丸や北の丸、菊の丸も一応、捜してみたが、それらには、やはり観音様はいなかった。
観音像が見つかるたびに、地図に印を付けていたので、あとの十体が、だいたいどの辺にあるのかはわかっていた。明日、そこを捜せば瑠璃観音も見つかるだろうと、食事を済ますと皆、早々と横になった。
八郎は横になったと思ったら、もう鼾をかいて眠っていた。
「八郎の奴、相変わらず、馬鹿でいいな」と風光坊が八郎の寝顔を眺めながら言った。
「お宝の夢でも見るかのう」と金比羅坊は言った。
「この山に金があったというのは、本当ですかね」と太郎は横になったまま、隣で寝ている夢庵に聞いた。
「多分、間違いないじゃろう。金の山だったから、この山に城を築いたんだと思うがな。わざわざ、抜け穴のためにあれだけの穴を掘ったとも思えんしの。それに、やたらと迷路のように入り組んでいたじゃろう。抜け穴だけのためだったら、あれ程、複雑にはすまい。いつ掘った穴だかわからんが、後になって抜け道に利用したんじゃろうな」
「という事は、赤松家には金掘りの専門家がいたという事ですね」
「だろうな。全盛期だった頃の赤松家は、今とは比べものにならない程の勢力を持っていた。朝鮮や明(ミン)の国とも貿易をしていたに違いない。それらの国から優秀な技術者が入って来たのだろう」
「今は貿易はしていないのですか」
「貿易どころじゃない。国内をまとめるのが精一杯で、とても、そんな事まで手が回らない。それに、今の赤松家には人がいな過ぎる。一族も少ないし、優秀な家来も皆、死んでしまった。播磨一国を治めるのなら、今の連中たちでも何とかなるが、昔のように、備前、美作も治めるつもりなら、とてもじゃないが優秀な人材が少な過ぎるわ」
「そんなもんですか‥‥‥」
「ああ、そんなもんさ。まあ、宿敵の山名家の方も、赤入道(宗全)が亡くなったし、前のように、しつこく攻めては来ないとは思うがの。まあ、播磨だけでも、がっちりと固めておかん事には、せっかく再興した赤松家も長くはないかもしれんのう」
太郎は夢庵の話を黙って聞いていた。平気な顔をして、赤松家は長くはないかもしれないと言っている。こんな事を赤松家の者に聞かれたら、その場で首を斬られてしまうだろう。そんな大それた事を平気な顔をして言う夢庵とは、一体、何者なのだろうか、と太郎は改めて、夢庵の横顔を見ていた。
以前、同じような人間に会った事があった。
伊勢新九郎‥‥‥平気な顔をして幕府の事を批判していた‥‥‥
松恵尼の話だと、頭を丸めて坊主になって関東に下って行ったと言っていたが、今頃、どうしているだろうか‥‥‥もう一度、会ってみたい人だった。
太郎は急に昔の事を思い出し、なかなか寝付かれなかった。
次の日、ようやく、瑠璃観音は見つかった。
見つけたのは金比羅坊だった。
瑠璃観音は金剛寺から菊の丸に抜ける山の中にいた。この山の中まで戦火は及ばなかったとみえて、瑠璃観音は見つけてくれるのを待っていたかのように、大きな岩の上に乗って微笑していた。胸に掲げた両手の中には瑠璃と思われる玉があった。それは石でできた、ただの玉だったが、五人の目には、それは瑠璃色に輝いている宝石のように眩しく見えた。五人の男は我知らず、その観音様に合掌していた。
観音様の鎮座していた岩をどけてみたが下には何もなかった。
これで四つの観音様は見事に見つかった。それでも、宝がどこにあるのかは、まだわからなかった。
「一体、宝物はどこや」と八郎が瑠璃観音に聞いた。
瑠璃観音は笑っていた。
「どこかのう」と金比羅坊は瑠璃観音の回りを歩いていた。
太郎は地図を広げてみた。
「これが瑠璃観音だな」と、今いる場所の所に書いてある点に『るり』と書き込んだ。
ここと、ここと、ここと、ここだなと太郎は地図上の四つの観音様を指した。
瑠璃観音のある場所が、かなり高い所にあるので、他の三つの観音像のある場所を見下ろす事ができた。
「まず、考えられる事は、この四つの点を結んで交わる所が怪しいな」と夢庵が言った。
誰もが、そう思っていたところだった。
八郎が『鷹の丸』のはずれの岩戸観音の所に行って岩の上に立った。風光坊が『藤の丸』にある不二観音の所に行った。そして、金比羅坊が金剛寺の本堂の前にある合掌観音の所に行った。
瑠璃観音の立つ場所からは、その三人の姿がよく見えた。太郎が四つの観音像の中心辺りに行って立った。まず、八郎と夢庵の指示によって岩戸観音と瑠璃観音を結んだ直線上に立ち、次に、金比羅坊と風光坊の指示によって合掌観音と不二観音を結ぶ直線上に立った。その辺りが丁度、四つの観音像を結んだ交点に当たる場所だった。
「何かあるか」と皆が、太郎の側に近寄って来た。
草が伸び過ぎていて、よくわからないので、とにかく草刈りから始めた。
その辺りを綺麗に刈ってみても何も現れなかった。
「おかしいな」と皆、首を傾げた。
「観音様の位置が違っていたのかな」と風光坊が言った。
五人はまた、地図を覗き込んだ。
「点ひとつ違っていても、場所がずれるからな」と夢庵が言った。
「場所が違うとしたら、合掌観音しかないのう」と金比羅坊が言った。
岩戸観音と不二観音は、観音様の下に抜け穴があったから確かなはずだった。瑠璃観音も山の中に昔のままの様子であった。
合掌観音は草の中に転がっており、たまたま、近くにあった岩が台座だと思ったが、本当は別の所にあったのかもしれない。合掌観音の近くに点が三つあり、二つの観音様が見つかっていた。それらの観音様もちゃんと台座に乗っていたわけではなかった。もう一体あるはずだが、まだ見つかっていない。もしかしたら、違う台座の上に立っていたのかもしれないし、台座自体が移動してしまったのかもしれなかった。もう一度、確認してみる必要があった。
みんなで合掌観音の方に行こうとした時、「ちょっと待て」と夢庵が声を掛けた。
振り返ると、夢庵はさっき太郎が立っていた辺りを棒で刺していた。
「下に大きな石がある」と夢庵は言った。
「なに!」と皆、戻って来て、夢庵の言った事を確かめると土を掘り始めた。
五寸程の厚さの土の下に、畳一枚程の大きさの岩が隠されてあった。
かなり重い岩だったが、五人の力で移動する事ができた。思っていた通り、岩の下には穴が空いていた。この穴もかなり深いらしい。中は真っ暗で何も見えなかった。
早速、松明を作って穴の中に入った。
穴の中には階段があり、ずっと下まで続いていた。下まで降りると、そこは広くなっていて、穴はさらに奥の方に続いていた。奥まで行くと、ちょっとした部屋のようになっていて、その中央に石で出来た櫃(ヒツ)がおいてあった。
「あった!」と八郎が叫んだ。
皆、光をかざして石櫃を見つめていた。
確かに見つけた。
赤松性具入道が隠したという宝が目の前にあった。
今、やっとの思いで捜し当てた宝が、五人の持った松明に照らされていた。
松明に照らされた、その石櫃は重々しく、そこに存在していた。
「さて、お宝を拝むとするかのう」と金比羅坊が言った。
「一体、何が入ってるんやろ」と八郎が目を輝かせた。
「金さ」と風光坊は石櫃をじっと見つめた。
「だといいがな」と夢庵は落ち着いていた。
「何か、昔の石の棺桶(カンオケ)みたいやな」と八郎は恐る恐る石櫃の蓋(フタ)にさわった。
「縁起でもない事を言うな」
太郎と夢庵が松明を持って部屋の中を照らし、金比羅坊と風光坊と八郎の三人で石櫃の蓋を持ち上げた。
石櫃の中の物は豪華な錦織りの布で丁寧にくるんであった。
太郎はその布をゆっくりと剥がした。何枚もの布を剥がした後、中から出て来たのは金や銀ではなかった。何巻もの巻物がぎっしりと詰まっていた。
「何や、こりゃ!」と八郎が叫んだ。
夢庵が一つの巻物を手に取って開いてみた。巻物には漢字がずらりと並んでいた。
「何だ、こりゃ」と巻物を覗いた風光坊が言った。
「お経じゃな」と金比羅坊が言った。
「そのようじゃな」と夢庵も言った。
それぞれが巻物を開いてみたが、どれも、やはりお経のようだった。この中、全部がお経なのかと、下の方まで調べてみたが、巻物以外は何も入っていなかった。
「一切経(イッサイキョウ)という奴じゃな」と夢庵は言った。
「一切経?」と八郎が聞いた。
「ああ、大蔵経(ダイゾウキョウ)とも言う。お経のすべてが、ここにあるというわけじゃ」
「貴重な物なんですか」と太郎は聞いた。
「貴重じゃろうのう。この日本にも三つとはあるまい」
「ほう、そんな貴重な物なのか」と金比羅坊は手にした巻物を丁寧に巻き戻した。
「よくは知らんがの、これだけ揃っているのは珍しいじゃろ」
「成程な、これが赤松家のお宝というわけか‥‥‥」
「金や銀はどこにあるんや」
「金や銀が、これに変わったという事じゃ」と夢庵は言った。
「金銀で朝鮮か明の国から、これを買ったのですか」と太郎は聞いた。
「そういう事じゃのう」
「お経が宝だったとはなあ」と八郎は気が抜けたように腰を落とした。
「あ~あ」と風光坊も溜息をついて座り込んだ。
あれだけ真剣に捜していた宝物が、予想に反して金や銀ではなく、お経だった。太郎も少々がっかりしたが、かなりの値打ち物らしい。この一切経は楓との取引きには使えると思った。
「何だ、これは」とお経を調べていた夢庵が言った。
太郎が夢庵の見ている巻物を覗いてみると、それはお経ではないようだった。
「何ですか」と太郎は聞いた。
「うむ、これは連歌じゃのう。辞世(ジセイ)の連歌じゃ」
歌が並んでいた。そして、その歌の下に、性具、義雅、則繁、教康、則尚と名前が並んでいる。性具を除けば、他の四人は例の刀を持っていた四人だった。
「賦何人(フスナニヒト)連歌、嘉吉元年九月五日。山陰(ヤマカゲ)に、赤松の葉は枯れにける、性具。三浦が庵(イオ)の十三月夜、義雅‥‥‥虫の音に夜も更けゆく草枕、則繁‥‥‥」
夢庵は五人の連歌を読んでいた。
途中まで読むと夢庵は巻物を広げ、最後まで目を通し、「これは、百韻(イン)ありそうじゃな」と言った。
「百韻?」と太郎は聞いた。
「ああ、百句あると言う事じゃ。普通、連歌は百韻詠む事になってはおるが、しかし、敵の大軍に囲まれている時期によく、百韻も詠んだものじゃ」
「五人で百句、詠んだのですか」
「ああ、そういう事じゃ」
「何かあるような気がするのう」と夢庵は連歌を眺めながら言った。
「何かある?」と太郎は聞いた。
「ああ、九月五日と言えば、城山城が落城する数日前じゃろう。すでに、城の回りには敵の大軍が押し寄せて来ている。そんな時期に、どうして百韻もの連歌を詠む必要があるんじゃ。百韻の連歌を詠むには、少なくとも四時(八時間)は掛かる。あの大事な時期に一族の者が連歌に熱中などしておったら、城兵の士気は落ちてしまうじゃろう。時世の歌だったら何も連歌にする必要はない。一人が一首づつ詠めばいいはずじゃ。おかしいと思わんか。それに、わしらもよくやるんじゃが、隠し言葉を入れる事があるんじゃよ」
「隠し言葉?」
「まあ、遊びじゃがな。この歌の一番上の字を読んで行くと、ある言葉になるとかな。これはそんな簡単なものじゃなさそうだが、絶対に何かが隠されているに違いない」
「隠し言葉か‥‥‥」と金比羅坊も覗いたが、あまり興味なさそうだった。
「さて、どうする。このお経、全部、持って帰るのか」と金比羅坊は太郎に聞いた。
「どうします」と太郎は夢庵に聞いた。
「全部、持って行く事もあるまい。ここに置いておいた方が返って安全じゃろう」
皆の意見も一致し、お経を五巻と連歌の書いてある巻物一巻を持って行く事にした。そして、石櫃を元に戻して外に出た。風光坊と八郎は宝物がお経だった事に納得せず、他に何かがあるはずだと、穴の中を捜し回っていたが、結局、何も出て来なかった。
「金銀は初めから、なかったんやろか」と八郎は穴から出ると言った。
「いや、全然、なかったはずはない。嘉吉の変の時、全部、使ってしまったのかも知れんな」と夢庵は言った。
「全部ですか」と風光坊は不服そうに言った。
「いや、多分、かなり残っていたじゃろうが、負け戦というのは悲惨なものじゃからのう。味方の奴らに盗まれたのかもしれん」
「味方に?」
「ああ。大軍に囲まれて、もう負けるとわかれば、赤松家の被官となっていた国人たちは皆、寝返る。どうせ、寝返るのなら、何かを持ち出そうと思うのが人情というものじゃ。坂本城にいた時、相当の数の兵がいたが、ここに来た時は、わずか五百騎余りだったと言う。多分、坂本城で寝返った奴らが、軍資金を持ち出してしまったのじゃろう」
「軍資金は坂本城にあったのですか」と風光坊は聞いた。
「多分な。ここにあったとすれば、坂本城などに行かずに、真っすぐ、ここに来たじゃろう。守りを固めるとすれば、坂本城よりはここの方がずっといいからのう」
太郎も夢庵の言う通りかもしれないと思った。
穴の入り口は元のように岩でふさぎ、土をかぶせて、さっき刈った草で隠した。
「大した弟子を持っているな」と夢庵が気持ち良さそうに眠っている八郎を見ながら笑った。
「ちょっと、うるさいですがね」と太郎は杖で八郎をつついた。
「誰だ」と八郎は刀に手をやりながら、太郎たちを見上げた。
「どこでも寝られるっていうのはいい性格だが、気をつけないとやられるぞ」
「お師匠、はい、すみません」と八郎は起き上がった。
「金比羅坊殿と風光坊は先に登ったのか」
「二人は先に行きました。ここから登るのが兵糧道だそうです。早く、行きましょう」
牛を近くの農家に預けると、三人は兵糧道を登って行った。
金比羅坊と風光坊が道を作ってくれたので楽に登る事ができた。この間、登った大手道と比べると距離も大分、短いようだった。
ようやく城跡に着き、太郎は絵地図を広げた。太郎が自分で写した城山城の地図だった。元の地図は金比羅坊が持っていた。
今いる所から、もう少し進めば『鷹の丸』跡に着くはずだった。その鷹の丸の回りに例の点が散らばっている。石でできた観音像のはずだった。とりあえず、鷹の丸に行ってから、その点を調べようと三人は進んだ。
鷹の丸跡らしい平地はすぐにわかった。かなり広い平地だった。かつては立派な屋敷が建てられていたのだろう。しかし、今はただの草原だった。その草原の隅の方で、金比羅坊と風光坊が何やらしていた。
「おおい、風光坊、何かあったんか」と八郎が走って行った。
「おお、来たか。岩戸観音があったぞ」と金比羅坊が叫んだ。「その観音様の下に大きな穴が空いているんじゃ」
太郎も夢庵も、金比羅坊たちの方に走り寄った。
金比羅坊の言う通り、石でできた観音様がいた。しかし、どうして、これが岩戸観音なのか太郎にはわからなかった。金比羅坊に聞いてみると、その観音様は側にある、ちょっとした岩屋の中にいたと言う。最初は、その岩屋の奥に宝が隠されているのだろうと思ったそうだが、どう考えても、こんな小さな岩屋に宝が隠せるわけないと諦めた。しかし、風光坊がその観音様の下を掘ってみると、その観音様が大きな岩の上に乗っている事がわかった。もしかしたら、この岩の下に何かあるかもしれないと、二人がかりで持ち上げてみたら、何と、その岩の下に穴が空いていたというわけだった。
五人は穴の中を覗き込んでいた。
「入れそうだな」と夢庵が言った。
「階段のようになっているみたいじゃのう」と金比羅坊が言った。
さっそく、みんなで松明(タイマツ)を作り、火を起こして穴に入る準備をした。
穴は以外に深かった。
ちょっと入って行けば、すぐに宝を拝めるだろうと楽しみにしていた五人の期待は、すっかり裏切られた。宝らしい物など、どこにもなく、洞穴はいつまで経っても奥深く続いていた。
「一体、どこまで続いているんや」と八郎が文句を言った。
「きっと、地獄まで続いているんじゃろ」と夢庵が笑いながら言った。
「こんな奥の方に隠すんじゃから、よっぽどの宝なんじゃろう」と金比羅坊が言った。
「金や銀が、ざっくざくや」と八郎は浮かれた。
何度も行き止まりにぶつかった。穴の中はまるで迷路のようになっていた。
四半時(三十分)程、狭い穴の中を歩き回った五人は、やっとの事で光の下へと出た。
「どういう事だ」と皆が思った。
「ここはどこや」と八郎がキョロキョロした。
「地獄ではないようじゃの」と夢庵が空を見上げた。
風光坊と金比羅坊は、ここがどこなのか、確かめに行った。
他の者も後を追った。やがて、見覚えのあるような道に出た。しばらく行くと見晴らしのいい場所に出た。どうやら山の中腹らしい。
「抜け穴じゃ」と金比羅坊が言った。
「抜け穴か‥‥‥」
「戦の時、敵に囲まれた時に逃げるための抜け道じゃな」と夢庵が言った。
「と言う事は、あの時、逃げた連中は、あの穴を通って、無事、逃げたというわけか」
「多分な」
もう一度、その穴の中をよく調べながら、元の入り口に戻ったが、結局、宝は見つからなかった。
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元の岩戸観音の所に出ると、五人は一休みした。
「よくまあ、こんな穴を掘ったのう」と金比羅坊は感心していた。
「もしかしたら、四つの観音様は宝の隠し場所なんかじゃなくて、抜け穴の入り口の事なんじゃないのかな」と風光坊が言った。
「そうかもしれんのう」と夢庵も言った。
「そんな事はないじゃろうとは思うがな」と金比羅坊は言った。
「そうや、抜け穴やったら、そんなに大事に持ってるわけないんや」
「すでに、ここも落城したんじゃからな」
「しかし、また、ここを本拠地にするつもりだったんではありませんか」と風光坊は言った。「抜け穴というのは、絶対に敵に知られてはならない重要な事でしょ。当時にすれば、宝以上に重要な事だったのかもしれませんよ」
「成程、そう言われてみれば、そうかもしれんのう」
「おぬしはどう思ってるんじゃ」と夢庵が太郎に聞いた。
「えっ? まだ、ここだけじゃわからないけど、この穴は一体、誰が掘ったのだろうと、今、考えていたんです」
「そうじゃよ」と金比羅坊が言った。「この穴は自然にできたものじゃない。誰かが掘ったに違いない。大したもんじゃ」
「多分、金(カネ)掘りじゃないか」と夢庵が言った。
「金掘り? この山で金か何か、取れるのですか」と風光坊が聞いた。
「わからん。そういう事は皆、秘密にしておくからの。ただ、この山の名前が亀山(キノヤマ)じゃろう。元は金の山だったのかもしれん。それを隠すために字を変えたという事もあり得る」
「そう言えば、迷路のようにあっちこっち掘ってあったのう」
「金の山か‥‥‥」と八郎は唸った。
「金か‥‥‥」と風光坊も唸った。
「とにかく、あとの三つの観音様を見つけてみない事には話にならんな」と夢庵は言った。
「金比羅坊殿、合掌観音は見つけましたか」と太郎は聞いた。
「いや、まだじゃ。場所がわからんのじゃよ。あの時、探真坊が見つけて、みんな、その観音像を見たはずなんじゃが、それが、一体、どこだったのか、はっきり覚えておらんのじゃ。風光坊はこの辺りだったと言うし、わしはもっと向こうのような気がするっていうんで捜していたら、合掌観音より先に、この岩戸観音が見つかったというわけじゃ」
「あれがあったのは、もっと、あっちや」と八郎が言った。
「俺は、向こうだったと思うがな」と太郎は八郎とは別の方を指した。
「な、みんな、覚えている場所が違うんじゃよ」
「観音様は全部で三十三もあるんじゃ。手分けして捜せば、何か見つかるさ」と夢庵は言った。
太郎は絵地図を広げて見た。
今いる鷹の丸の東の方に金剛寺と亀山(キノヤマ)神社があり、その回りに観音様を示す点は散らばっていた。鷹の丸の北の方に例の井戸のある鶴の丸があり、その西に藤の丸と姫の丸がある。そこから少し北に行くと、亀の丸、北の丸があり、大手道へと続いている。また、鶴の丸の北の方には蔵がいくつも並び、その先に菊の丸というのもあった。
五人は地図を見ながら、大体の位置を頭に入れると手分けして観音様捜しを始めた。
日が暮れるまで捜して、見つけた観音像は二十三体あった。五体満足なのはあまりなく、首が取れていたり欠けたりしていた。また、定位地にあった物も少なく、とんでもない所で、土の中に半分以上埋まっている物も多かった。その中で、何とか名前のわかったのが十三体だった。
合掌観音を見つけたのは何と、夢庵だった。金剛寺の本堂の跡近くの草の中に倒れていた。以前は、側にある平らな岩の上に置かれていたに違いなかった。その岩の下にも抜け穴があるに違いないと、皆で岩をどけてみたが下には何もなかった。
不二観音も見つかった。不二観音は城山城の本丸に違いない藤の丸跡のはずれの庭園の跡の中にあった。首が取れていて、その観音像を見ただけでは何観音だかわからないが、近くに富士山のような山が築かれ、回りには池もあったような感じだった。その富士山の裾野辺りに、やはり平らな岩が置かれてあった。富士山の側にある事と、藤の丸の中にある事で、これは不二観音に間違いないと皆も思った。岩をどけてみると、ここにも穴が空いていた。
抜け穴だった。岩戸観音の所の抜け穴程長くはなかったが、こちらも迷路のように入り組んでいて、なかなか外に出られなかった。岩戸観音の抜け穴は山の東側、城下町の方に抜けていたが、こちらの抜け穴は、どうやら反対側の山の中の谷へと続いているようだった。穴から出た所は薄暗い山の中で、ちょっと下の方に細い谷川が流れていた。
穴の中をよく調べてみたが、やはり、宝が隠してあるようではなかった。
最後の瑠璃観音は見つからなかった。瑠璃観音が、どんな観音様なのか誰にもわからなかった。多分、宝石のような玉を持っているのだろうと、皆で捜したが見つからなかった。
八郎が御手洗(ミタラシ)池の側で、瑠璃観音を見つけたと言って騒いだが違っていた。確かに、その観音様は両手に何かを持っていた。しかし、それはよく見ると玉ではなくて壷(ツボ)だった。施薬(セヤク)観音に違いなかった。
鷹の丸、藤の丸に観音様がいたのだから、鶴の丸や姫の丸にもいるに違いないと捜してもみた。鶴の丸には確かに観音様はいた。しかし、瑠璃観音ではなく、蓮(ハス)を手にした持蓮(ジレン)観音だった。観音様の下の岩を持ち上げてみたが何もなかった。姫の丸には観音様はいなかった。その他、地図に点は付いていなかったが、亀の丸や北の丸、菊の丸も一応、捜してみたが、それらには、やはり観音様はいなかった。
観音像が見つかるたびに、地図に印を付けていたので、あとの十体が、だいたいどの辺にあるのかはわかっていた。明日、そこを捜せば瑠璃観音も見つかるだろうと、食事を済ますと皆、早々と横になった。
八郎は横になったと思ったら、もう鼾をかいて眠っていた。
「八郎の奴、相変わらず、馬鹿でいいな」と風光坊が八郎の寝顔を眺めながら言った。
「お宝の夢でも見るかのう」と金比羅坊は言った。
「この山に金があったというのは、本当ですかね」と太郎は横になったまま、隣で寝ている夢庵に聞いた。
「多分、間違いないじゃろう。金の山だったから、この山に城を築いたんだと思うがな。わざわざ、抜け穴のためにあれだけの穴を掘ったとも思えんしの。それに、やたらと迷路のように入り組んでいたじゃろう。抜け穴だけのためだったら、あれ程、複雑にはすまい。いつ掘った穴だかわからんが、後になって抜け道に利用したんじゃろうな」
「という事は、赤松家には金掘りの専門家がいたという事ですね」
「だろうな。全盛期だった頃の赤松家は、今とは比べものにならない程の勢力を持っていた。朝鮮や明(ミン)の国とも貿易をしていたに違いない。それらの国から優秀な技術者が入って来たのだろう」
「今は貿易はしていないのですか」
「貿易どころじゃない。国内をまとめるのが精一杯で、とても、そんな事まで手が回らない。それに、今の赤松家には人がいな過ぎる。一族も少ないし、優秀な家来も皆、死んでしまった。播磨一国を治めるのなら、今の連中たちでも何とかなるが、昔のように、備前、美作も治めるつもりなら、とてもじゃないが優秀な人材が少な過ぎるわ」
「そんなもんですか‥‥‥」
「ああ、そんなもんさ。まあ、宿敵の山名家の方も、赤入道(宗全)が亡くなったし、前のように、しつこく攻めては来ないとは思うがの。まあ、播磨だけでも、がっちりと固めておかん事には、せっかく再興した赤松家も長くはないかもしれんのう」
太郎は夢庵の話を黙って聞いていた。平気な顔をして、赤松家は長くはないかもしれないと言っている。こんな事を赤松家の者に聞かれたら、その場で首を斬られてしまうだろう。そんな大それた事を平気な顔をして言う夢庵とは、一体、何者なのだろうか、と太郎は改めて、夢庵の横顔を見ていた。
以前、同じような人間に会った事があった。
伊勢新九郎‥‥‥平気な顔をして幕府の事を批判していた‥‥‥
松恵尼の話だと、頭を丸めて坊主になって関東に下って行ったと言っていたが、今頃、どうしているだろうか‥‥‥もう一度、会ってみたい人だった。
太郎は急に昔の事を思い出し、なかなか寝付かれなかった。
3
次の日、ようやく、瑠璃観音は見つかった。
見つけたのは金比羅坊だった。
瑠璃観音は金剛寺から菊の丸に抜ける山の中にいた。この山の中まで戦火は及ばなかったとみえて、瑠璃観音は見つけてくれるのを待っていたかのように、大きな岩の上に乗って微笑していた。胸に掲げた両手の中には瑠璃と思われる玉があった。それは石でできた、ただの玉だったが、五人の目には、それは瑠璃色に輝いている宝石のように眩しく見えた。五人の男は我知らず、その観音様に合掌していた。
観音様の鎮座していた岩をどけてみたが下には何もなかった。
これで四つの観音様は見事に見つかった。それでも、宝がどこにあるのかは、まだわからなかった。
「一体、宝物はどこや」と八郎が瑠璃観音に聞いた。
瑠璃観音は笑っていた。
「どこかのう」と金比羅坊は瑠璃観音の回りを歩いていた。
太郎は地図を広げてみた。
「これが瑠璃観音だな」と、今いる場所の所に書いてある点に『るり』と書き込んだ。
ここと、ここと、ここと、ここだなと太郎は地図上の四つの観音様を指した。
瑠璃観音のある場所が、かなり高い所にあるので、他の三つの観音像のある場所を見下ろす事ができた。
「まず、考えられる事は、この四つの点を結んで交わる所が怪しいな」と夢庵が言った。
誰もが、そう思っていたところだった。
八郎が『鷹の丸』のはずれの岩戸観音の所に行って岩の上に立った。風光坊が『藤の丸』にある不二観音の所に行った。そして、金比羅坊が金剛寺の本堂の前にある合掌観音の所に行った。
瑠璃観音の立つ場所からは、その三人の姿がよく見えた。太郎が四つの観音像の中心辺りに行って立った。まず、八郎と夢庵の指示によって岩戸観音と瑠璃観音を結んだ直線上に立ち、次に、金比羅坊と風光坊の指示によって合掌観音と不二観音を結ぶ直線上に立った。その辺りが丁度、四つの観音像を結んだ交点に当たる場所だった。
「何かあるか」と皆が、太郎の側に近寄って来た。
草が伸び過ぎていて、よくわからないので、とにかく草刈りから始めた。
その辺りを綺麗に刈ってみても何も現れなかった。
「おかしいな」と皆、首を傾げた。
「観音様の位置が違っていたのかな」と風光坊が言った。
五人はまた、地図を覗き込んだ。
「点ひとつ違っていても、場所がずれるからな」と夢庵が言った。
「場所が違うとしたら、合掌観音しかないのう」と金比羅坊が言った。
岩戸観音と不二観音は、観音様の下に抜け穴があったから確かなはずだった。瑠璃観音も山の中に昔のままの様子であった。
合掌観音は草の中に転がっており、たまたま、近くにあった岩が台座だと思ったが、本当は別の所にあったのかもしれない。合掌観音の近くに点が三つあり、二つの観音様が見つかっていた。それらの観音様もちゃんと台座に乗っていたわけではなかった。もう一体あるはずだが、まだ見つかっていない。もしかしたら、違う台座の上に立っていたのかもしれないし、台座自体が移動してしまったのかもしれなかった。もう一度、確認してみる必要があった。
みんなで合掌観音の方に行こうとした時、「ちょっと待て」と夢庵が声を掛けた。
振り返ると、夢庵はさっき太郎が立っていた辺りを棒で刺していた。
「下に大きな石がある」と夢庵は言った。
「なに!」と皆、戻って来て、夢庵の言った事を確かめると土を掘り始めた。
五寸程の厚さの土の下に、畳一枚程の大きさの岩が隠されてあった。
かなり重い岩だったが、五人の力で移動する事ができた。思っていた通り、岩の下には穴が空いていた。この穴もかなり深いらしい。中は真っ暗で何も見えなかった。
早速、松明を作って穴の中に入った。
穴の中には階段があり、ずっと下まで続いていた。下まで降りると、そこは広くなっていて、穴はさらに奥の方に続いていた。奥まで行くと、ちょっとした部屋のようになっていて、その中央に石で出来た櫃(ヒツ)がおいてあった。
「あった!」と八郎が叫んだ。
皆、光をかざして石櫃を見つめていた。
確かに見つけた。
赤松性具入道が隠したという宝が目の前にあった。
今、やっとの思いで捜し当てた宝が、五人の持った松明に照らされていた。
松明に照らされた、その石櫃は重々しく、そこに存在していた。
「さて、お宝を拝むとするかのう」と金比羅坊が言った。
「一体、何が入ってるんやろ」と八郎が目を輝かせた。
「金さ」と風光坊は石櫃をじっと見つめた。
「だといいがな」と夢庵は落ち着いていた。
「何か、昔の石の棺桶(カンオケ)みたいやな」と八郎は恐る恐る石櫃の蓋(フタ)にさわった。
「縁起でもない事を言うな」
太郎と夢庵が松明を持って部屋の中を照らし、金比羅坊と風光坊と八郎の三人で石櫃の蓋を持ち上げた。
石櫃の中の物は豪華な錦織りの布で丁寧にくるんであった。
太郎はその布をゆっくりと剥がした。何枚もの布を剥がした後、中から出て来たのは金や銀ではなかった。何巻もの巻物がぎっしりと詰まっていた。
「何や、こりゃ!」と八郎が叫んだ。
夢庵が一つの巻物を手に取って開いてみた。巻物には漢字がずらりと並んでいた。
「何だ、こりゃ」と巻物を覗いた風光坊が言った。
「お経じゃな」と金比羅坊が言った。
「そのようじゃな」と夢庵も言った。
それぞれが巻物を開いてみたが、どれも、やはりお経のようだった。この中、全部がお経なのかと、下の方まで調べてみたが、巻物以外は何も入っていなかった。
「一切経(イッサイキョウ)という奴じゃな」と夢庵は言った。
「一切経?」と八郎が聞いた。
「ああ、大蔵経(ダイゾウキョウ)とも言う。お経のすべてが、ここにあるというわけじゃ」
「貴重な物なんですか」と太郎は聞いた。
「貴重じゃろうのう。この日本にも三つとはあるまい」
「ほう、そんな貴重な物なのか」と金比羅坊は手にした巻物を丁寧に巻き戻した。
「よくは知らんがの、これだけ揃っているのは珍しいじゃろ」
「成程な、これが赤松家のお宝というわけか‥‥‥」
「金や銀はどこにあるんや」
「金や銀が、これに変わったという事じゃ」と夢庵は言った。
「金銀で朝鮮か明の国から、これを買ったのですか」と太郎は聞いた。
「そういう事じゃのう」
「お経が宝だったとはなあ」と八郎は気が抜けたように腰を落とした。
「あ~あ」と風光坊も溜息をついて座り込んだ。
あれだけ真剣に捜していた宝物が、予想に反して金や銀ではなく、お経だった。太郎も少々がっかりしたが、かなりの値打ち物らしい。この一切経は楓との取引きには使えると思った。
「何だ、これは」とお経を調べていた夢庵が言った。
太郎が夢庵の見ている巻物を覗いてみると、それはお経ではないようだった。
「何ですか」と太郎は聞いた。
「うむ、これは連歌じゃのう。辞世(ジセイ)の連歌じゃ」
歌が並んでいた。そして、その歌の下に、性具、義雅、則繁、教康、則尚と名前が並んでいる。性具を除けば、他の四人は例の刀を持っていた四人だった。
「賦何人(フスナニヒト)連歌、嘉吉元年九月五日。山陰(ヤマカゲ)に、赤松の葉は枯れにける、性具。三浦が庵(イオ)の十三月夜、義雅‥‥‥虫の音に夜も更けゆく草枕、則繁‥‥‥」
夢庵は五人の連歌を読んでいた。
途中まで読むと夢庵は巻物を広げ、最後まで目を通し、「これは、百韻(イン)ありそうじゃな」と言った。
「百韻?」と太郎は聞いた。
「ああ、百句あると言う事じゃ。普通、連歌は百韻詠む事になってはおるが、しかし、敵の大軍に囲まれている時期によく、百韻も詠んだものじゃ」
「五人で百句、詠んだのですか」
「ああ、そういう事じゃ」
「何かあるような気がするのう」と夢庵は連歌を眺めながら言った。
「何かある?」と太郎は聞いた。
「ああ、九月五日と言えば、城山城が落城する数日前じゃろう。すでに、城の回りには敵の大軍が押し寄せて来ている。そんな時期に、どうして百韻もの連歌を詠む必要があるんじゃ。百韻の連歌を詠むには、少なくとも四時(八時間)は掛かる。あの大事な時期に一族の者が連歌に熱中などしておったら、城兵の士気は落ちてしまうじゃろう。時世の歌だったら何も連歌にする必要はない。一人が一首づつ詠めばいいはずじゃ。おかしいと思わんか。それに、わしらもよくやるんじゃが、隠し言葉を入れる事があるんじゃよ」
「隠し言葉?」
「まあ、遊びじゃがな。この歌の一番上の字を読んで行くと、ある言葉になるとかな。これはそんな簡単なものじゃなさそうだが、絶対に何かが隠されているに違いない」
「隠し言葉か‥‥‥」と金比羅坊も覗いたが、あまり興味なさそうだった。
「さて、どうする。このお経、全部、持って帰るのか」と金比羅坊は太郎に聞いた。
「どうします」と太郎は夢庵に聞いた。
「全部、持って行く事もあるまい。ここに置いておいた方が返って安全じゃろう」
皆の意見も一致し、お経を五巻と連歌の書いてある巻物一巻を持って行く事にした。そして、石櫃を元に戻して外に出た。風光坊と八郎は宝物がお経だった事に納得せず、他に何かがあるはずだと、穴の中を捜し回っていたが、結局、何も出て来なかった。
「金銀は初めから、なかったんやろか」と八郎は穴から出ると言った。
「いや、全然、なかったはずはない。嘉吉の変の時、全部、使ってしまったのかも知れんな」と夢庵は言った。
「全部ですか」と風光坊は不服そうに言った。
「いや、多分、かなり残っていたじゃろうが、負け戦というのは悲惨なものじゃからのう。味方の奴らに盗まれたのかもしれん」
「味方に?」
「ああ。大軍に囲まれて、もう負けるとわかれば、赤松家の被官となっていた国人たちは皆、寝返る。どうせ、寝返るのなら、何かを持ち出そうと思うのが人情というものじゃ。坂本城にいた時、相当の数の兵がいたが、ここに来た時は、わずか五百騎余りだったと言う。多分、坂本城で寝返った奴らが、軍資金を持ち出してしまったのじゃろう」
「軍資金は坂本城にあったのですか」と風光坊は聞いた。
「多分な。ここにあったとすれば、坂本城などに行かずに、真っすぐ、ここに来たじゃろう。守りを固めるとすれば、坂本城よりはここの方がずっといいからのう」
太郎も夢庵の言う通りかもしれないと思った。
穴の入り口は元のように岩でふさぎ、土をかぶせて、さっき刈った草で隠した。
21.松阿弥1
1
太郎たちが城山城で宝を捜している頃、右手を首から吊った阿修羅坊が、渋い顔をして播磨の国に向かっていた。
一人ではなかった。
痩せ細った僧侶が一緒だった。年期の入った杖を突き、時々、苦しそうに咳き込んでいる。ちょっと見ただけだと、どこにでもいるような時宗の遊行僧(ユギョウソウ)に見えるが、死神のような、近寄りがたい殺気が漂っていた。
僧の名を松阿弥(マツアミ)といい、浦上美作守が太郎を殺すために差し向けた刺客(シカク)だった。
阿修羅坊は京に帰ると、事実をすべて打ち明けた。美作守は阿修羅坊から話を聞いて、とても信じられないようだった。
山伏の小僧一人、消す事など何でもない事だと思っていた。すでに、太郎坊などこの世にいないものと思い込み、すっかり、太郎坊の事など忘れていたと言ってもよかった。久し振りに阿修羅坊が戻って来たと聞いて、さては例の宝を捜し当てたな、と機嫌よく阿修羅坊を迎えた美作守だった。
ところが、阿修羅坊の口からは思ってもいなかった事が飛び出して来た。阿修羅坊の手下が四十人もやられ、太郎坊は無事に生きていて置塩城下にいると言うのだ。阿修羅坊が、いつものように戯(ザ)れ事を言っているのかと思ったが、阿修羅坊の表情は真剣そのものだった。しかも、右手を怪我している。
詳しく聞いてみると、宝輪坊と永輪坊の二人も太郎坊にやられて、永輪坊は死に、宝輪坊は片腕を失ったとの事だった。美作守も宝輪坊と永輪坊の二人は知っている。彼らの実力も知っている。戦の先陣にたって、彼らが活躍している所を見た事もある。美作守が知っている限り、武士でさえ、あの二人にかなうものはいないだろうと思っていた。それが二人ともやられたとは、とても信じられなかった。さらに、この屋敷に忍び込んで、例の宝の話を天井裏から聞いていたというのだから驚くよりほかなかった。
──何という奴じゃ‥‥‥
──まったく、信じられん‥‥‥
美作守は厳しい顔で、何度も首を振った後、阿修羅坊を見て苦笑した。
「楓殿も大した男と一緒になったものよのう。楓殿の方はどうなんじゃ」
「大丈夫じゃ。別所屋敷で、のんびりと暮らしておる」
「太郎坊に盗まれはせんじゃろうのう」
「奴もそれ程、馬鹿ではないじゃろう。赤松家を相手に戦っても勝てない事くらい知っておるわ」
「奴は、どうするつもりなんじゃ」
「とりあえずは、お屋形様の帰りを待っておるんじゃろう。一度、対面させて、それから、どうするかは、奴もまだ考えていないらしい」
「まあ、どっちにしろ、あの城下から生きては出られまい」
阿修羅坊は頷いた。「ただ、こっちも、かなりの被害は出るじゃろう。奴の事じゃ。お屋形様を道連れにするかもしれんのう」
「そんな事ができるものか」
「いや、奴ならやる。この屋敷に忍び込んだくらいじゃからな」阿修羅坊は天井を見てから、美作守を見て、渋い顔のまま笑った。「そして、もし、生きて城下から出る事ができたら、まず、おぬしの首はないというわけじゃ」
「脅かすな」
「脅しじゃない。ありうる事じゃ。奴はただ強いだけじゃない。兵法(ヒョウホウ)も心得ておる。人の虚を突いて来るのがうまい。もしかしたら、すでに、この屋敷に忍び込んでおるかもしれん」
「ふん」と言ってから、美作守は気味悪そうに天井を眺めた。「おぬしの考えはどうなんじゃ」
「わしか‥‥‥わしはいっその事、味方にしたら、どうかと思うんじゃ」
「なに、楓殿の婿として赤松家に迎えろというのか」
「そういう事になるかのう」
「どこの馬の骨ともわからん奴をか」
「馬の骨かも知れんが腕が立つ。敵に回すよりは適策じゃと思うがのう」
「しかしのう‥‥‥」
「今の赤松家は優秀な人材が欲しい時じゃろう。とにかく、利用するだけ利用してみたらどうじゃ。消すのは後でもできる」
「今、できんものが後になってできるか」
「一度、味方にしてしまえば、奴だって油断するじゃろう」
「うむ」と美作守は仕方なさそうに頷いた。「おぬしがそれ程言うからには、余程の男なんじゃろうのう」
「味方にして損はない」と阿修羅坊は断定した。「家格など、どうにでもなるじゃろう」
「まあな。とにかく、一度、会ってみん事にはのう」
「わしが話を付けて、連れて来てもいいが」
「うむ。いや、その前に、奴をもう一度、試そう」
「試す?」
「ああ、今、うちに変わった奴が居候(イソウロウ)しておるんじゃ」
「何者じゃ」
「坊主じゃ。だが、ただの坊主じゃない。念流(ネンリュウ)の達人じゃ」
「念流? 剣術使いか」
「ああ、お屋形様の剣術師範、上原弥五郎殿と兄弟弟子じゃそうじゃ」
「と言う事は、上原慈幻(ジゲン)殿の弟子と言う事か」
「そうじゃ」
「ほう、そんな奴が、いつからおるんじゃ」
「去年の秋頃じゃ。ひょっこり現れてのう。わしの命はあと僅かしかない。最期に、赤松家のために働かせてくれ、と言って来たんじゃ」
「命が、あと僅か?」
「労咳(ロウガイ、肺結核)病みじゃ。かなり、重いらしいのう。だが、剣術の腕は一流じゃ」
「そいつを使うつもりか」
「ああ。奴が、もし、そいつより強かったら、おぬしの言う事も考えてみよう」
こうして、阿修羅坊は松阿弥という念流の達人を連れて播磨に向かう事になった。
美作守の話だと、松阿弥は浦上屋敷に来るまで、どこで何をしていたのかは、まったく語りたがらないという。ただ、時宗の徒として、あちこち旅をしていた、とだけ言ったという。しかし、阿修羅坊の見た所では、ただ、旅をしていたというだけには見えなかった。何度も修羅場をくぐり抜けて来た男のように思えた。また、はっきりと見たわけではないが、松阿弥の持っている杖は刀身が仕込んであるに違いなかった。そして、その刀は何人もの血を吸って来たに違いなかった。
松阿弥は時々、咳き込む以外はまったく静かな男だった。一言も松阿弥から話しかける事はなかった。阿修羅坊が話しかけても、ああとか、いやとか返事をするだけで、何も話そうとはしなかった。かといって、ぶすっとしているわけではなく、ちょっとした事で笑ったりもするが、余計な事は何も喋らなかった。
山伏と遊行僧の奇妙な二人連れの旅は続いた。
松阿弥は歩きながら、過去を振り返っていた。
自分の命が、あと一年と持たないだろうと覚悟を決めていた松阿弥は、浦上美作守から与えられた仕事を見事にやり遂げ、山の中にでも入って静かに死のうと思っていた。
赤松一族の庶流(ショリュウ)の子として生まれ、最期に、赤松家のために仕事ができれば本望だった。
過去を振り返れば、運命のいたずらというか、数奇な生涯と言えた。
松阿弥は本名を中島松右衛門といい、赤松一族の上原民部大輔頼政(ミンブノタイフヨリマサ)の家老、中島兵庫助の三男として、播磨の国の北条郷に生まれた。上原民部大輔は赤松性具入道の弟、祐政(スケマサ)の嫡男だった。
松右衛門が九歳の時、嘉吉の変が起こり、父親は上原民部大輔と共に戦死し、赤松家は滅び去った。
松右衛門は民部大輔の四男、弥五郎と共に鎌倉に逃げた。当時、鎌倉の禅寺に民部大輔の弟が慈幻(ジゲン)と称して出家していた。松右衛門と弥五郎は共に出家して禅寺に隠れていた。
弥五郎の叔父、慈幻は禅僧であったが、念流という武術の達人でもあった。
念流と呼ばれる武術は、この頃より百年近く前、念阿弥慈恩(ネンアミジオン)という禅僧によって開かれた武術の流派の一つだった。
慈恩には十数人の高弟がいて、中でも、中条(チュウジョウ)兵庫助、堤宝山、二階堂出羽守、樋口太郎、赤松慈三(ジサン)の五人が秀でていた。
中条兵庫助は中条流平法(チュウジョウリュウヘイホウ)を開き、その流れは越前の国(福井県)に伝わり、やがて、名人越後と呼ばれる富田(トダ)越後守が現れて富田流となり、伊藤一刀斎によって一刀流となって現在まで伝わっている。
堤宝山の流れは下野(シモツケ)の国(栃木県)に伝わって宝山流となり、二階堂出羽守の流れは美濃の国(岐阜県中南部)に伝わり、後に、松山主水(モンド)が現れる。樋口太郎の流れは信濃の国(長野県)から上野(コウヅケ)の国(群馬県)へと伝わり、馬庭(マニワ)念流となって現在まで伝わっている。
そして、最後の赤松慈三というのは性具入道の弟だった。早くから出家し、鎌倉の寿福寺において慈恩と出会い、弟子となり、念流を極めたのだった。その慈三の弟子となったのが上原慈幻で、松右衛門と弥五郎の二人は、その慈幻の弟子となった。
弟子となった二人は慈幻のもとで修行に励み、腕を磨いて行った。二人とも素質があったのか、兄弟子たちを追い越し、慈幻門下の二天狗と呼ばれる程の腕になっていた。二人の腕はまったくの互角だった。いつの日か、赤松家が再興される事を夢見て、二人は修行に励んでいた。
松右衛門が十九歳の時、千阿弥という時宗の老僧と出会った。松右衛門は千阿弥に感化され、松阿弥という時宗の僧となって鎌倉を後にし、千阿弥と共に遊行の旅に出た。旅は二年間にも及んだ。旅の途中で千阿弥は亡くなり、松阿弥は一人、鎌倉に戻って来た。
二十三歳の時、赤松彦五郎が赤松家再興のため、山名氏相手に合戦するというので、師匠、慈幻と共に播磨の国に向かった。合戦は、初めのうちはうまく行っていたが、山名勢の大軍が攻めて来ると逃げてしまう味方が多く、必死の思いで戦ったが負け戦となってしまった。ついに、彦五郎は備前の国、鹿久居(カクイ)島にて自害して果てた。
上原慈幻も戦死し、松阿弥も弥五郎も重傷を負った。二人とも、そのまま放って置かれたら死んでしまっただろう。しかし、二人とも悪運が強いのか無事に助けられた。
その時、助けてくれた相手によって、二人の人生は、まったく別々の道をたどる事となった。
まず、弥五郎を助けてくれたのは、備中の国の守護、細川治部少輔氏久の家臣、田中玄審助(ゲンバノスケ)だった。細川氏は当時より山名氏と敵対していたので、赤松一族の弥五郎を匿った。
傷の治った弥五郎は田中家の家臣たちに剣術を教え、やがて、諸国に修行の旅に出た。そして、赤松家が再興されてからは京に戻り、幼かった政則に近侍した。応仁の乱の時も政則の側にいて主君を守り、また、活躍もした。今でも政則の剣術師範として、時には軍師として側近く仕えている。
さて、松阿弥を助けたのは妙泉尼(ミョウセンニ)という美しい尼僧だった。それが、ただの尼僧だったら、松阿弥も弥五郎と似たような生涯を送っていたに違いなかった。しかし、その尼僧というのは、何と、宿敵、山名宗全の娘だった。
妙泉尼は小さいが立派な僧院に、五人の尼僧と暮らしていた。
倒れていた松阿弥は隣の禅寺に運び込まれ、妙泉尼は熱心に看病した。看病の甲斐があって、虫の息だった松阿弥は助かった。すっかり、傷の癒えた松阿弥は身の危険も顧みず、その禅寺から出て行こうとはしなかった。
そこは播磨の国内だった。当時、山名氏の領国となっていた。毎日、赤松の残党狩りをしているとの噂は聞いていた。しかし、誰も、松阿弥を赤松方だと思っている者はいなかった。旅の遊行僧が戦に巻き込まれて怪我をしたと思っていた。
松阿弥がそこから離れなかったのは、妙泉尼の美しさのせいだった。松阿弥も出家しているとはいえ若い男だった。美しい女を目の前にして、何とかしたいと思うのは当然の事だった。しかし、相手は出家していた。何とかしたいと思いながらも、何ともならずに、ただ、月日だけが矢のように流れて行った。
妙泉尼は毎日、近所を散歩するのを日課としていた。松阿弥は時々、妙泉尼を待ち伏せして、一緒に散歩するのを唯一の楽しみとしていた。
妙泉尼はいつも供の尼僧を連れていたが、そのうちに、松阿弥の姿を見つけると供の尼僧を先に帰すようになって行った。ほんの短い時間だったが、松阿弥は妙泉尼と二人だけの散歩を楽しんだ。
松阿弥は妙泉尼に自分が赤松家の家臣だった事は隠していた。関東で生まれて、鎌倉で僧になったと説明していた。妙泉尼は知らない関東の地の事を色々と松阿弥に尋ねた。松阿弥は千阿弥に連れられて、二年間、各地を旅していたため、色々な土地を知っていた。妙泉尼は松阿弥から自分の知らない国の話を興味深そうに聞いていた。自分の話を真剣な顔をして聞いている妙泉尼の顔を見るのが、その頃の松阿弥の最高の喜びだった。
「この国は百年以上もずっと、赤松家が治めていました」と妙泉尼は小川のほとりにしゃがむと言った。「今は赤松家は滅んでしまいましたが、いつか、きっとまた、赤松家が攻めて来るに違いありません」
妙泉尼の回りを赤とんぼが飛び回っていた。
「赤松家はもう攻めて来ないと思います。もう、当主と仰ぐ一族の者もいないでしょう」と松阿弥は妙泉尼の細い背中を見ながら言った。
「いいえ。赤松家はきっと再興されて、ここに攻めて来ます。わたしは詳しい事は知りませんが、播磨、備前、美作と三国を治めていた程の赤松家がそう簡単に滅びたままでいるはずがありません‥‥‥わたしが五歳の時、赤松家は滅びました。でも、八歳の時、生き残っていた赤松家の一族のお方が播磨に攻めて来ました。十二歳の時も、赤松家のお屋形様の弟というお方が兵を挙げました。そして、今年もまた、お屋形様の甥といわれるお方が攻めて来ました。きっと、また、一族のお方が攻めて来るに違いありません」
妙泉尼は松阿弥を見上げた。その目は悲しそうだった。
「ええ。そうかもしれません‥‥‥」松阿弥も妙泉尼の言う通りだと思った。きっと、いつか、赤松家は再興されると思っていた。思っていたというより願っていた。しかし、赤松家が再興されるという事は、ここ、播磨の国が戦場となるという事だった。
「人の国を取れば、必ず、報いはやって来ます‥‥‥戦が始まれば、また、大勢の人たちが苦しみます。松阿弥様のように、戦に関係ないのに戦に巻き込まれて怪我をする人や死んでしまう人も大勢います。絶対に戦をしてはいけないのです」
妙泉尼はいつも戦に反対していた。争い事のない平和な世の中が来る事を願っていた。
そして、ある日、妙泉尼が山名宗全の娘だと知らされた。信じられなかったが、本当の事だった。宗全と言えば父の仇であり、師匠の仇であり、赤松家の仇であった。皮肉にも、その仇の娘に命を助けられたのだった。
妙泉尼が仇の娘だとわかっても、松阿弥の妙泉尼を思う気持ちは変わらなかった。妙泉尼は、いつも、太平の世が来る事を望んでいた。戦をする父親を憎んでいた。松阿弥が父親の事を言うと、耳をふさぐ程、嫌っていた。わたしは出家した身、すでに、父親はいないものと思っていますとも言った。
松阿弥は覚悟を決めた。
素性を隠し、時宗の一僧侶として、山名宗全に近づいて宗全を殺そうと決心した。宗全がいなくなれば、いくらかは妙泉尼の望む太平の世になるだろうと思った。
松阿弥はさっそく行動に移した。山名家の重臣である垣屋(カキヤ)越前守の家臣、藤田修理亮(シュリノスケ)の食客(ショッカク)となり、剣術の腕によって、だんだんと頭角を現して行った。
十年の月日が流れた。
松阿弥はとうとう宗全の目に止まり、山名家の武術指南役となった。指南役となっても、松阿弥は欠かさず妙泉尼のもとへは通っていた。
松阿弥と妙泉尼との仲は十年前と変わらなかった。相変わらず、時々、会って話をするだけだった。ただ、十年前のように待ち伏せをする必要はなくなった。堂々と妙泉尼の寺に訪ねて行き、妙泉尼に歓迎された。妙泉尼の側に仕える尼僧たちも、何かと松阿弥を頼るようになっていた。
その頃、赤松家が再興されたとの噂を聞いたが、松阿弥は戻らなかった。
自分が元赤松家の家臣であった事など、すでに忘れていた。すっかり、山名家の家臣になりきっていた。山名家の家臣になってはいても、それは山名宗全に近づく手段に過ぎなかった。宗全に近づき、宗全を殺す。その頃の松阿弥は宗全を殺す事だけが生きがいになっていた。
親の仇や赤松家の仇のために、宗全を討つのではなかった。妙泉尼の願う、戦のない太平の世を作るためには、どうしても宗全には死んでもらわなければならないのだった。
宗全という男は松阿弥にとって乱世の象徴となっていた。この男さえ消えれば、世の中はいくらかは平和になるに違いないと信じていた。
妙泉尼の寺の庭に梅の花が咲いていた。
松阿弥は縁側に座って妙泉尼と話をしていた。
「赤松家が再興されて、また、ここで戦が始まるのかしら」と妙泉尼は言った。
「かもしれません。赤松家の残党たちが動き始めているようです」と松阿弥は言った。
「いやですね」と妙泉尼は悲しそうな顔をして、遠くの山を見つめていた。
松阿弥が妙泉尼に助けられてから十年の歳月が流れているのに、不思議と妙泉尼の美しさは変わらなかった。そして、松阿弥が妙泉尼を思う気持ちは強くなるばかりだった。しかし、どうにもならなかった。
十年の月日の間、何度、妙泉尼を抱きしめたいと思った事だろう‥‥‥
自分の気持ちを打ち明けて、一緒に暮らしたいと何度、思った事だろう‥‥‥
それでも、口にする事はできなかった。
松阿弥は妙泉尼の横顔を見つめながら、この人だけは絶対に戦に巻き込んではいけないと思った。
やがて、応仁の乱が始まり、松阿弥は京に呼ばれた。剣術の腕を見込まれて、宗全の身辺警固を命ぜられたのだった。
いよいよ、機会がやって来た。宗全も馬鹿な奴だ。自分の命を狙っている者に身辺の警固をやらせるとは愚かな奴だと思いながら、妙泉尼にしばしの別れを告げて松阿弥は京に向かった。
京に行った松阿弥は宗全の側に仕えた。殺す機会は何度もあった。しかし、松阿弥にはできなかった。いくら、仇だと思ってもできなかった。今まで自分が思い描いていた宗全と、実際の宗全とはまったく違っていた。鬼のような憎らしい男だと思っていた宗全は、人のいい親爺に過ぎなかった。勿論、西軍の大将として厳しく非情な面も持ってはいたが、松阿弥の前では人間味のある、ただの親爺だった。
宗全は松阿弥の事を気に入ったとみえて、常に側に置き、色々な事を相談して来た。妙泉尼から松阿弥の事は色々と聞いているらしく、まるで、松阿弥が身内であるかのように、何でも相談しに来た。
いつの間にか、宗全が自分の父親のような気がする程だった。仇を討つどころではなかった。宗全の嫡男、伊予守教豊が戦死した時、人前で涙など絶対に見せなかった宗全が、松阿弥の前で大声を出して泣いたのには驚きだった。
そんな頃、松阿弥は初めて血を吐いた。
時々、咳き込み、息苦しくなる事はあったが、大した事はないだろうと思っていた松阿弥はひどい衝撃を受けた。まるで、胸が破れたかと思う程、大量の血が口から溢れ出たのだった。自分の命がそう長い事はないと悟った松阿弥は、生きているうちに妙泉尼の願う、戦のない太平の世にしなければならないと思った。
戦を止めさせるにはどうしたらいいのか‥‥‥
すでに、応仁の乱は一年以上続いていた。
この戦をやめさせるには、どうしたらいいんだ‥‥‥
松阿弥は考えた。考えたが、とても一人の力で、どうなるものではなかった。
今回の戦は大きすぎた。普通の戦だったら大将を倒せば戦は終わりになる。しかし、今回はそう簡単には行かなかった。将軍や天皇まで巻き込み、全国が二つに分かれてしまっている。お互いに、大将が倒れたからといって簡単に手を引くとは思えなかった。戦に参加している大名たちは、勝てば守護職(シュゴシキ)を手に入れて領土を拡大できるが、負ければ今まで持っていた領土をすべて失い、路頭に迷う事になる。東軍も西軍も絶対に負ける事はできない戦だった。
松阿弥は死ぬまでに、何かをしなければならないと焦りながらも、相変わらず、宗全の側近くに仕えていた。
文明四年(一四七二年)の一月、宗全は細川勝元に和平を申し入れたが失敗に終わった。その頃より、宗全の体の具合が悪くなっていた。
松阿弥はすでに四十歳になっていた。痩せ細り、目は落ち込み、頬はこけ、実際の歳よりはずっと老けて見えた。
その年の十一月、妙泉尼が病に倒れたとの知らせが、京の宗全のもとに届いた。
松阿弥は宗全からも頼まれ、妙泉尼のいる但馬の国(兵庫県)に馬にまたがり大急ぎで向かった。死なないでくれ、と祈りながら松阿弥は休まず馬を走らせた。
馬を乗り換えながら、一睡もせずに松阿弥は妙泉尼のいる尼寺に向かった。
妙泉尼の思っていた通り、応仁の乱が始まると赤松軍が播磨に攻めて来た。妙泉尼は播磨から避難し、但馬の国の山名氏の本拠地、出石(イズシ)の城下に戻っていた。
今にも雪の降りそうな空模様だった。
松阿弥は馬から飛び降りると、「妙泉尼様!」と叫びながら尼寺に入って行った。
薄暗い奥の間に妙泉尼は横になっていた。思っていたよりも元気そうだった。松阿弥は一安心して、妙泉尼の枕元に座った。
妙泉尼は松阿弥の顔を見て笑った。
「大丈夫よ。そんなに慌てて、来なくてもよかったのに」
「心配で、心配で‥‥‥」と松阿弥は息を切らせながら言った。
「ありがとう‥‥‥」
「今度はわたしの番です」と松阿弥は言った。
「えっ?」
「妙泉尼様は、昔、死にそうだったわたしの看病を寝ずにしてくれました。今度はわたしの番です」
「そうね‥‥‥お願いしようかしら」
「はい。早く、よくなって下さい」
妙泉尼は笑った。「わたしね、今まで、逃げ続けて来たような気がするの」
「逃げて来た?」
「ええ。あらゆるものから逃げて来たわ‥‥‥まず、お父上から逃げたわ‥‥‥わたしの姉上はお父上のために利用されて、細川勝元様のもとに嫁いで行ったの。今、お父上が戦っている敵の大将のもとに嫁いで行ったのよ。さいわい、今の状況を知らないで亡くなってしまったのでよかったけど、生きていたら辛い思いをしたと思うわ‥‥‥弟の七郎は細川勝元様の養子にさせられたわ‥‥‥でも、勝元様に男の子が産まれると出家させられて、お父上は怒って手元に引き取ったの。知らない遠い国に行った姉上もいるわ。妹も二人いるけど、幕府内の有力者のもとに嫁いで行った‥‥‥わたしは、お父上には絶対に利用されないと思って、お父上に無断で尼になったの‥‥‥お父上はわたしのした事を許してくれて、わたしのためにお寺を建ててくれたわ。あの播磨のお寺よ。わたしはそのお寺で何不自由なく暮らしていた‥‥‥いつも、平和な世の中になればいいと祈っていたけど、自分では何もしなかったの。回りの人たちが戦で家を焼かれて、食べる物もなくて、さまよっていても、わたしは何もしてあげなかった。ただ、平和の世の中になるようにと祈るだけだった‥‥‥わたしは食べ物に不自由した事なんてなかったわ。わたしの食べ物をみんなに分けてあげたなら助かった人がいたかもしれない‥‥‥でも、わたしは何もしなかった‥‥‥」
松阿弥は黙って妙泉尼の話を聞いていた。何となく、いつもの妙泉尼と違うような気がした。
「わたしね、病で倒れて、うなされていた時、自分は今まで何をして来たんだろうって思ったの‥‥‥何もしてない事に気づいたわ‥‥‥何もしないで、ただ、平和が来る事を祈っていたなんて‥‥‥今、この時にも苦しんでいる人が大勢いるというのに‥‥‥わたし、病が治ったら、生まれ変わったつもりで困っている人たちのために何かをやろうと思ったの‥‥‥松阿弥様、わたしに力を貸して下さいね」
「はい。それは、もう‥‥‥」
「よかった‥‥‥」と言って妙泉尼はまた、笑った。本当に嬉しそうな笑いだった。その笑いは、松阿弥が最後に見た妙泉尼の笑いだった。
妙泉尼は翌朝、二度と目を覚まさなかった。
太平の世を願いながら、妙泉尼は三十六歳の若さで静かに死んで行った。
外では静かに雪が降っていた。
松阿弥は涙を流しながら、何度も何度も念仏を唱えた。
妙泉尼の葬儀の終わった後、松阿弥は、妙泉尼と共に暮らしていた尼僧から、病に倒れた妙泉尼が熱にうなされていた時、何度も松阿弥の名を呼んでいたという事を知った。
松阿弥は妙泉尼が大切にしていた小さな観音像を形見に貰って、京に戻った。
京に戻った松阿弥は、まるで、抜け殻のようになってしまった。以前に増して口数は少なくなり、用がなければ部屋に籠もったきり、妙泉尼の観音像に向かって念仏を唱え続けていた。
誰もが、松阿弥を気味悪がって近づかなくなって行った。
妙泉尼のいない、この世に何の未練もなかった。
咳込み、血を吐きながら、ただ、死が訪れるのを待っていた。
妙泉尼の死から四ケ月後、今度は宗全が亡くなった。七十歳の大往生だった。
宗全は死の直前、松阿弥を枕元に呼び、「わしは、もうすぐ死ぬ‥‥‥後は、右京大夫(勝元)が死ねば、この長い戦も終わる事じゃろうのう‥‥‥妙泉尼が、いつも言ってたように、どうして、人間という者は争い事を好むんじゃろうのう‥‥‥早く、太平の世が来ればいいのう‥‥‥」と力のない声で言った。
妙泉尼が死んでからというもの、生きる気力も無くなり、ただ、死を待っているだけの松阿弥だったが、妙泉尼と世話になった宗全のためにも、細川勝元を道連れにして死のうと思った。
宗全が亡くなり、そして、勝元が亡くなったとしても、今の戦が終わるとは思えない。しかし、両方の大将がいなくなれば、今の状況よりは少しはよくなるだろう。どうせ、自分の命はそう長くはない。どうせ、死ぬなら勝元を道連れにしようと決心した。
宗全が亡くなってから四十九日目、近くの寺院で法要がおごそかに行なわれていた。
松阿弥は行動を開始した。
勝元の屋敷は厳重に警固されていた。しかし、戦が長引いているせいと、敵の総大将、宗全が亡くなったためか、それ程、警戒している様子はなかった。警固している兵たちも形式的に仕事をしているだけで、敵が、ここに攻めて来る事など絶対にあるはずはないと高をくくっているようだった。
松阿弥は細川屋敷に忍び込むと、皆が寝静まるのを待った。
勝元は若い側室を連れて、新築したばかりの離れで酒を飲んでいた。うまい具合に、近くには警固の兵の姿はなかった。
松阿弥は床下に潜って勝元が眠るのを待った。勝元は若い側室と戯れながら、いつまで経っても眠らなかった。松阿弥は辛抱強く待った。ただ、若い側室の嬌声には悩まされた。妙泉尼には失礼だとは思うが、どうしても、妙泉尼を抱いている自分を想像してしまった。
明け方近くになった頃、ようやく、静かになった。
松阿弥は部屋に忍び込むと、夜具をはねのけ、あられもない姿で眠りこけている若い女と初老の男を見下ろした。
「これが、細川勝元か‥‥‥」と松阿弥はつぶやいた。
目の前で眠っている男は、ただのすけべな親爺に過ぎなかった。
どう見ても東軍の総大将には見えない。一瞬、こんな男を殺してもしょうがないと思ったが、宗全の最後の言葉を思い出し、松阿弥は刀を抜いた。
一瞬のうちに、勝元と女の首を斬り落とした松阿弥は、静かに屋敷から抜け出した。
それは、あまりにもあっけなかった。自分も一緒に死ぬ覚悟でいたのに、無事に抜け出す事ができた。
次の日、細川屋敷は大騒ぎするはずだったが、普段とまったく変わらなかった。次の日も何事もなく、四日目になって、ようやく、細川勝元が流行り病に罹って急死したと発表があった。
勝元をやったのは自分だと言い触らす気持ちなど初めからなかった。それでも、勝元が病死と発表されるとは、ちょっと、気が抜けた感じだった。
松阿弥は京を後にし、妙泉尼の眠る但馬の国に向かった。
妙泉尼の一年忌を済ませた松阿弥は再び、京に戻った。山名屋敷には戻らずに、浦上美作守の屋敷を訪ねた。
死ぬ前に、最期の仕事として赤松家のために何かをしたかった。もう先がいくらもない事はわかっていた。長い事、山名宗全のもとにいたので、赤松家の実力者が浦上美作守だという事は知っていた。浦上美作守に頼めば、最期の一花を咲かす事ができるだろう。そして、妙泉尼の待つ死後の世界に行きたかった。
浦上美作守はなかなか仕事をくれなかった。
両軍の大将が亡くなってから一年が経ち、それぞれの息子たちによって和睦が成立していた。大将同士が和睦したからといって、完全に戦が終わったわけではないが、京の都に平和が戻りつつある気配はあった。
八月の初めの暑い日だった。とうとう、美作守より重要な仕事が与えられた。ひそかに、赤松家のお屋形様の命を狙っている太郎坊という強敵を倒してくれと言う。太郎坊という男に恨みはないが、赤松家の害となる男なら倒さなくてはならなかった。
これが最期の仕事だ。これが終わったら但馬に帰り、妙泉尼のもとで静かに死を待とうと思っていた。
置塩城下は、楓御料人様の旦那様の噂で持ち切りだった。
誰もが、楓御料人様の旦那様がこの城下に現れると信じていた。
赤松家の侍たちも、その噂を聞き、重臣たちは京から何の連絡もないのに、これはどうした事だとうろたえ、真相をつかむために使いの者を京に走らせたりしていた。
別所加賀守は楓から、今まで一言も触れようとしなかった旦那の事を遠慮しながらも聞き出していた。
楓は何と答えたらいいのかわからなかったが、ありのままに、本名は愛洲太郎左衛門久忠ですと告げ、愛洲の水軍の大将の伜ですと言った。加賀守はしつこく聞いてきた。あとの事は適当にごまかし、今は山伏をやっているという事は隠した。
当の旦那様の太郎の方は木賃宿『浦浪』でごろごろしていた。無事に宝は捜し出したし、後は、お屋形の赤松政則が帰って来るのを待つだけだった。
宝が見つかったら遊女屋に繰り出して大騒ぎしようと、みんなで楽しみにしていたのに、その宝物がお経ではどうしようもなかった。大騒ぎするにも元手がない。今までの色々な資金は小野屋喜兵衛が都合をつけてくれたが、遊ぶ銭まで出して貰うわけにはいかなかった。
みんな、溜息を付きながら、ごろごろしていた。ただ一人、夢庵だけはお経の中にあった赤松一族の百韻(ヒャクイン)連歌と、毎日、睨めっこしている。
そんな時、伊助が戻って来た。伊助は荷物を置くより早く、太郎を捜すと、「大変です。阿修羅坊が戻って来ました」と顔色を変えて告げた。
部屋にいたのは太郎と金比羅坊だけだった。風光坊と八郎、そして、傷の治った探真坊の三人はどこに行ったのか、いなかった。
伊助は、阿修羅坊が松阿弥という時宗の遊行僧を連れて戻り、二人は浦上屋敷に入ったと知らせた。
「その松阿弥というのは何者です」太郎は百太郎のために彫っていた馬の彫り物を傍らに置くと、厳しい顔付きで伊助を見た。
「詳しくはわかりませんが、何でも念流とかいう剣術の使い手だとか聞いています」
「念流?」太郎は念流という流派を知らなかった。
「念流といえば、昔、それを使う奴が飯道山に来た事がある」と金比羅坊が言った。「丁度、風眼坊殿が留守の時でな、師範代の何と言ったかのう、名前はちと忘れたが相手をしたんだが見事に敗れた。そいつは、風眼坊殿の帰るのをしばらく待っておったが待ち切れなくて、そのうち、どこかに旅立って行ったわ」
「そいつが、松阿弥とかいう奴ですか」
「いや、違うじゃろう。名前は忘れたが、れっきとした武士じゃった」
「一体、念流とはどんなものなんでしょう」
「何でも、鎌倉の禅僧が編み出したものらしい」
「禅僧?」
「ああ、鎌倉から出た中条流、二階堂流など、皆、同じ流れらしい」
「中条流に二階堂流‥‥‥」
中条流というのは飯道山にいた時、太郎も聞いた事があるが、一体、それが、どんなものなのか見当も付かなかった。禅僧が編み出したという所が少し気になった。武士が考え出したものなら、当然、鎧兜(ヨロイカブト)を身に付けての剣術だが、禅僧が考え出したとなると山伏流剣術のように身軽な剣術かもしれなかった。
「敵が何を使うにしろ、やらなければならないな」と太郎は言った。
「敵は、その松阿弥とかいう奴、一人だけか」と金比羅坊が聞いた。
「はい、そのようです。余程、腕が立つに違いありません」
「一人か‥‥‥」
「俺がやります。伊助殿、金比羅坊殿、この事は、みんなには伏せておいて下さい。敵も、俺以外の者には手を出さないでしょう」
「しかし‥‥‥」と伊助は言った。
「これ以上、犠牲者を出したくないし、念流という剣術をこの目で見てみたいのです。お願いします。みんなに知らせれば騒ぎが大きくなります」
伊助は太郎を見つめながら頷いた。
「伊助殿、すみませんけど、浦上屋敷を誰かに見張らせて下さい」
「ええ、わかってます。私がやります‥‥‥それでは、私はまだ帰って来ない事にしておいた方がいいですね。幸い、誰にも会ってませんから」
「すみません。お願いします」
「わかりました」伊助は頷くと出て行った。
「とうとう、戻って来たか」と金比羅坊は腕を組んで唸り、「一人で大丈夫か」と太郎に聞いた。
「今回は、念流と陰流の戦いです。もし、俺が負ければ俺の修行が足らなかったという事です」
「しかしのう、おぬしが負けるとは思わんが、敵がどんな手で来るのかわからんというのは不気味じゃのう」
「戦う前に、どんな奴か、見ておいた方がいいかもしれませんね」
「おい、まさか、浦上屋敷に忍び込むつもりじゃあるまいな」
「そんな事はしませんよ」と太郎は言って、馬の彫り物を手にした。
「本当だな」と金比羅坊は太郎の顔を覗いた。
「ええ、危険な事はしませんよ」と太郎が言っても、
「おぬしは何をするかわからんからのう」と金比羅坊は疑っていた。「今回の敵は大物だぞ。おぬしが忍び込んでいるのを気づくかもしれん」
「大丈夫です。そんな事はしません」
「きっとだぞ」と金比羅坊は念を押して、「ところで、あの三人はどこ行ったんじゃ」と聞いた。
「さあ、ニヤニヤして、どこかに行きましたけど」太郎は何事もなかったかのように、また馬を彫り始めた。
「昼間っから、女でも買いに行ったのか」
「まさか、そんな銭は持ってないでしょう。多分、金勝座の舞台にでも行ったんじゃないですか」
「舞台? 今日は休みじゃろ」
「休みでも稽古をしています」
「おお、そうか、助六殿たちに会いに行っとるのか。金勝座にはいい女子が揃っておるからの。しかし、あの三人の手に負えるような女子らじゃないわい」
夢庵がのっそりと入って来た。
「わかったぞ」と太郎と金比羅坊を見ながら言った。「えらい事が隠してあったわ」
夢庵は太郎と金比羅坊の側に座り込むと、巻物を広げた。太郎と金比羅坊は、連歌の書かれた巻物を眺めた。夢庵は、この中に謎が隠されていると言うが、二人にはまったく、わからなかった。
「連歌において一番重要なのは、この初めにある発句(ホック)と言う奴じゃ」と夢庵は言った。
「発句?」と太郎は聞いた。
「この最初の句じゃ」と夢庵は最初にある性具入道の句を指した。
「『山陰(ヤマカゲ)に、赤松の葉は枯れにける』ですか」と太郎は読んだ。
「そう、それと、次の脇句(ワキク)と第三句も重要じゃ」
「『三浦が庵(イオ)の十三月夜』と『虫の音に夜も更けゆく草枕』か」と金比羅坊が読んだ。
「まず、発句じゃが、『山陰』にというのは山名の事で、山名によって赤松家が滅ぼされたという意味じゃが、ただ、それだけではない」
太郎と金比羅坊は巻物を見ながら、黙って、夢庵の話を聞いていた。
「問題は脇句なんじゃ。『三浦が庵』というのが意味がわからん。この辺りに三浦などという地はないし、それに『十三月夜』というのもおかしい」
「どうして、おかしいのですか」太郎にはわからなかった。
「これを書いたのが九月五日だから、もうすぐ、十三夜になるから詠んだというのならわかるが、脇句というのは発句を受けて詠むものじゃ。発句は『枯れにける』というから季節は冬じゃ。ところが、脇句の季節は秋じゃ。基本としては、脇句は発句と同じ季節を詠む事になっておる。それなのに、わざわざ、『十三夜』と秋の語を入れておる。第三句は脇句を受けて、秋を詠んでおる。第三句としては、もう少し変化が欲しい所じゃが、まあ、問題はない」
夢庵は、太郎と金比羅坊の顔を見比べた。二人とも、何が出て来るのか期待しながら、夢庵の話を聞いていた。
「さて、問題の『三浦が庵』じゃが、三浦というのは場所じゃなくて、『三裏』の事だったんじゃ」
「は?」と金比羅坊も太郎も夢庵の言った意味がわからなかった。
「詠んだ連歌を書くのに四枚の懐紙(カイシ)を使うんじゃが、その懐紙を二つ折りにして、一枚目を初折(ショオリ)といい、表に連歌を催した月日や賦物(フシモノ)を書き、初めの八句を書く。そして、裏に十四句を書き、二枚目を二折(ニノオリ)といい、表と裏に十四句づつ書く。三枚目を三折(サンノオリ)といい、四枚目を名残折(ナゴリノオリ)というんじゃ。この三浦というのは、三折の裏の事だったんじゃ」
夢庵は巻物をさらに広げ、小さく、『三、裏』と書いてある所を指差した。
「ここが、三折の裏じゃ。三浦というのは、ここの事だったんじゃよ。何句あるか、数えてみろ」
太郎と金比羅坊は数えた。
「十三です」と太郎は言った。
「うむ、十三じゃ。普通、十四あるはずなのに、ここには十三句しかない」
「一句は、どこに行ったんですか」
「一句ずれて、名残折の裏に九句ある。脇句にあった『十三月夜』というのは、この事だったんじゃよ」
「成程、三裏の十三か」と金比羅坊は十三句を眺めながら言った。
「この十三句に、何かが隠されているのですか」と太郎は聞いた。
「ああ、凄い事が隠されておる。ちょっと見た所、おかしい事があるんじゃがわかるかな」
太郎と金比羅坊は十三の句を読んでみたが、どこがおかしいのか、まったくわからなかった。太郎にしても、金比羅坊にしても、今まで連歌など全然、縁がなかった。一応、読む事ができると言うだけで、その歌の意味するものまではわからなかった。
「松という字じゃ」と夢庵は言った。
そう言われても、二人には何だかわからない。
「この中に、松と言う字が三つも出て来る。まず、この『松原』、そして『松の下(モト)』、そして、最後の『松に夢おき』じゃ。連歌において『松』という字は、七句以上隔てなければ使えないという決まりがあるんじゃ」
「へえ」と金比羅坊は感心した。
「どうして、隔てなければならないのですか」と太郎は聞いた。
「連歌において、一番嫌うのが同じような事を繰り返し詠む事じゃ。前の句の連想から次の句を詠む。その次の句の連想から、また次の句を詠む。しかし、三番目の句が一番初めの句と似ていたのでは、同じ所をぐるぐる回っているようで、全然、変化も発展もないんじゃよ。それで、次々と発展させるために、この言葉は何回まで使っていいとか、この言葉は何句か隔てれば、また、使ってもいいというような決まりができたんじゃ」
「という事は、『松』という字が、こう何回も出て来るのは良くないという事ですか」
「そういう事になる。まさか、性具入道殿を初め、誰も気づかなかったというわけではあるまい。また、戦の最中で、一々直す暇がなかったのかもしれんが、わしは、そこの所がどうも臭いと思った。何か、『松』という字を並べなければならない理由があるに違いないと思ったんじゃ」
夢庵が筆と紙を貸してくれというので、太郎は用意した。
夢庵は巻物を見ながら、まず、最初に、性具の発句を写し、その後に、三折の裏の十三句を全部、ひらがなに書き直した。
太郎と金比羅坊は、夢庵のする事を黙って見ていた。
山陰に赤松の葉は枯れにける 性具
あだに散るらん 生きのびるより 則尚
かかる世を 待ちはびて今 雲かかる 性具
露の命を 後の世にかけ 義雅
あかつきに 西行く雁の 影消えて 則繁
白旗なびく 松原の磯 則康
釣舟の 哀おほかる 櫓のひびき 則尚
悲しかるらむ 風の寒さに 性具
願はくは また来る春の 月を待つ 義雅
野に散る花の 浅き命を 則繁
甲斐なくて 闇にぞ迷ふ 松の下 教康
尽きぬ命を 舞ふ風に乗せ 則尚
秋空に 重ねる色の 哀なり 性具
流水行雲 松に夢おき 義雅
山陰に赤松の葉は枯れにける
あだにちるらん いきのびるより
かかるよを まちはびていま くもかかる
つゆのいのちを のちのよにかけ
あかつきに にしゆくかりの かげきえて
しらはたなびく まつばらのいそ
つりふねの あはれおほかる ろのひびき
かなしかるらむ かぜのさむさに
ねがはくは またくるはるの つきをまつ
のにちるはなの あさきいのちを
かひなくて やみにぞまよふ まつのもと
つきぬいのちを まふかぜにのせ
あきぞらに かさねるいろの あはれなり
りゅうすいこううん まつにゆめおき
「成程のう。口惜しそうに死んで行ったのが、何となくわかるのう」と金比羅坊は言った。
「いつの日か、また、再興されるのを願っているようにも感じられる」と太郎は言った。
「わしは歌の事はよくわからんが、『甲斐なくて闇にぞ迷ふ松の下』なんていうのは、いい歌じゃのう。敵の軍勢が城の回りまで攻め寄せて来て、もう終わりじゃ、という事が、実によく伝わって来る。そして、その次の句がまたいい。『尽きぬ命を舞ふ風に乗せ、秋空に重ねる色の哀なり』もう、死ぬ覚悟を決めたんじゃのう。そして最後が『流水行雲、松に夢おき』‥‥‥いいのう」
金比羅坊は一人で歌の批判をして、一人で感心していた。
「金比羅坊殿、なかなか、歌がわかるじゃないですか」と夢庵が褒めた。
「なに、そんな事はないわ」と金比羅坊は照れていた。
「この歌のどこに、謎が隠されているのです」と太郎は聞いた。
「まずな、一番簡単なのは、それぞれの句の頭の文字を読んで行くと、何か、意味のある言葉になるという奴じゃ」
太郎と金比羅坊は、句の頭の文字をつなげて読んでみた。
「あかつあしつかねのかつあり‥‥‥」
文章になっていなかった。
「これは、そんな単純なものではない」と夢庵は言った。「和歌にしろ、連歌にしろ、五文字と七文字の組み合わせでできている。五、七、五、七、七という風にな」
夢庵は、その五七五七七の頭の文字をすべて、丸で囲んだ。
「何か、気づかんか」
「うむ‥‥‥『ま』と『か』がやけに多いのう」と金比羅坊は言った。
「『あ』も多いですよ」と太郎は言った。
「鍵は、発句の歌にあるんじゃ」と夢庵は発句を指さした。
「『山陰に赤松の葉は枯れにける』‥‥‥この歌が鍵? わからんのう」と金比羅坊は首を傾げた。
「『山陰に』は、どうでもいい。問題は、その次ぎの『赤松の葉は枯れにける』じゃ。赤松の葉というのは、赤松の言(コト)の葉じゃ」
「赤松の言の葉は枯れにける‥‥‥」
「そうじゃ」
「『あかまつ』という四文字を抜くという意味ですか」と太郎が言った。
「その通り」
夢庵は、先刻、丸印を付けた文字から、『あかまつ』という四文字を抜いてみた。『あかまつ』という文字が五つも隠されていた。そして、残された文字を読むと、『いくのにしろかねのやまあり』という文になった。
山陰に赤松の葉は枯れにける
あだにちるらん いきのびるより
かかるよを まちはびていま くもかかる
つゆのいのちを のちのよにかけ
あかつきに にしゆくかりの かげきえて
しらはたなびく まつばらのいそ
つりふねの あはれおほかる ろのひびき
かなしかるらむ かぜのさむさに
ねがはくは またくるはるの つきをまつ
のにちるはなの あさきいのちを
かひなくて やみにぞまよふ まつのもと
つきぬいのちを まふかぜにのせ
あきぞらに かさねるいろの あはれなり
りゅうすいこううん まつにゆめおき
「生野に白銀(シロガネ)の山あり‥‥‥」と金比羅坊が言った。
「白銀‥‥‥」と太郎も呟いた。
「というわけじゃ」と夢庵は笑った。
「生野とはどこじゃ」と金比羅坊が夢庵に聞いた。
「丁度、播磨と但馬の国境辺りじゃ」
「夢庵殿、行った事はあります?」と太郎は聞いた。
「ああ、行った事ある。市川をずっと遡(サカノボ)って行くと真弓峠に出る。そこを越えれば但馬の国じゃ。生野というのは峠を越えてすぐの所じゃ」
「ほう。という事は笠形山のもっと北の方というわけじゃな」
「但馬の国か‥‥‥山名氏の領土ですね」
「そうじゃな。山の中で何もない所じゃった。昔は山名宗全の親父殿の隠居所として、立派な屋敷があったらしいが、今は何も残っていない。山の上に小さな砦があって、播磨の方を睨んでいるくらいのものじゃ」
「夢庵殿は、どうして、そんな山の中まで行ったのですか」
「その生野より、もっと向こうの山奥に黒川谷というのがあってのう。そこに大明寺という禅寺があるんじゃが、そこの和尚が連歌に凝っていてのう。連歌会をやるから、是非、来てくれというんでな、牛に揺られて行ったわけじゃよ」
「成程のう。連歌師というのも、なかなかいいもんじゃのう。敵も味方もなく、付き合いができるんじゃのう。山名に行ったり、赤松に行ったり」
「何を言う。おぬしら山伏だって似たようなもんじゃろうが」
「そう言われてみればそうじゃ。わしらもどこに行こうと勝手だったわい」
「ところで、この白銀の事は赤松家は勿論の事、山名家も知らないのでしょうか」
「知らんじゃろう。あんな所で銀を掘っている様子など、まったくなかった。銀が出れば警戒が厳重になり、山名家でも有能の奴が出張って来るはずじゃ」
「という事は、性具入道が極秘で突き止めた事実という事ですね」
「多分、そうじゃろう。嘉吉の変が起こって銀を掘る事ができず、性具入道殿は連歌の中にその事を隠した。いつの日か、赤松家が再興されて、誰かがこの謎を解いて、生野の銀を赤松家のために使って欲しいと願いながら死んで行ったんじゃろうのう」
「しかし、凄いのう。この連歌の中に、そんな謎が隠されておったとはのう。もし、夢庵殿がいなかったら、わしらではとうてい、この謎は解けなかったわ」
「ええ、ほんとです。この歌の中にそんな事が隠してあったなんて‥‥‥赤松家では昔から連歌をやっていたんですね」
「赤松家は幕府の重臣じゃからな。幕府に出入りするには連歌くらいできなくてはならんのじゃよ。特に、性具入道殿は熱心じゃったようじゃのう。まあ、昔に限らん。今でも、そうじゃ。幕府の重臣たちは皆、連歌に熱中しておる。お陰で、わしも、その連歌で食って行けるというわけじゃ」と夢庵は笑った。
太郎は父親の事は良く知らないが、祖父が時折、連歌会をやっていたのは知っていた。太郎はただ大人の遊びだろうと思っていた。武士の嗜(タシナ)みの一つとして、連歌というものが、それ程、重要な位置をしめていたとは思ってもみなかった。
「これが本当だとすると、えらい事になるぞ」と金比羅坊が難しい顔をして太郎を見た。
「大した宝が出て来たのう。おぬし、どうするつもりじゃ」と夢庵も太郎を見た。
「どうしたら、いいでしょう」と太郎は二人の顔を見た。
「難しいな」と夢庵は首を振った。「お宝が大きすぎるからのう。こんな事を、やたら、人に喋ったら殺される羽目になりかねんぞ」
「殺される?」
「赤松にしろ、山名にしろ、銀山が本物かどうか確認した上で、口封じのために殺すじゃろう」
「成程のう。重要な軍事秘密となるわけじゃからのう」
「そうじゃ。どっちにしろ、銀を掘るとなると赤松か山名、どちらかの力を借りなければ無理じゃろうな」
「楓殿がいるんじゃから、当然、赤松じゃろうのう」と金比羅坊が言った。
太郎は頷いた。「楓を取り戻そうと乗り込んで来たけど、どうやって取り戻したらいいのか、わからなくなって来た」
「おいおい、どうした、急に弱気になって」
「初めのうちは、楓と宝を交換して帰ろうと思ったけど、そう簡単には行きそうもない」
「確かにな。今、楓殿を取り戻すというのは、はっきり言って不可能に近いのう」と夢庵も言った。
「おぬし、あんな噂を流したんじゃから、お屋形様が帰って来たら堂々と乗り込むつもりじゃろう。そして、宝の事を話して楓殿を取り戻すつもりだったんじゃろう」
「そのつもりでした」
「いっその事、おぬしも楓殿と一緒に、ここに残ったらどうじゃ」と夢庵は言った。
「えっ」と太郎は驚いて、夢庵を見た。
「あれだけ噂が流れてしまえば、赤松家でも楓殿の旦那を迎えるしかあるまい。とりあえずは迎えるじゃろう。そして、ほとぼりがさめた頃、病死してもらうという筋書じゃろうな」
「まさか、そんな汚い事をするのか」と金比羅坊が言った。
「楓殿を利用する気なら、その位の事はするじゃろう。あれだけの別嬪じゃ。嫁に出して、実力者と手を結ぶという事も考えられるしな」
「うむ、それは考えられるのう」
「おぬし、別所加賀守殿に会ってみんか」と夢庵は言った。「わしが思うに、腹を割って話せば加賀守殿ならわかってくれるかもしれんぞ。浦上美作守がおぬしの命を狙っているなら、余計、加賀守殿はおぬしを助けたがるかもしれん。手土産として一切経を持って行けばいい。ただ、銀山の事はまだ隠しておいた方がいいな。最後の切札として取っておいた方がいいじゃろう」
「わしも、そうした方がいいような気がするのう」と金比羅坊も言った。
太郎は二人の顔を見ながら考えていた。
急に騒がしい話声がして、風光坊、探真坊、八郎の三人と金勝座の連中が帰って来た。
「みんなが戻って来たようじゃの。まあ、考えてみてくれ。段取りはわしがする」
夢庵はそう言うと巻物を丸め、太郎に渡すと部屋から出て行った。
──まったく、信じられん‥‥‥
美作守は厳しい顔で、何度も首を振った後、阿修羅坊を見て苦笑した。
「楓殿も大した男と一緒になったものよのう。楓殿の方はどうなんじゃ」
「大丈夫じゃ。別所屋敷で、のんびりと暮らしておる」
「太郎坊に盗まれはせんじゃろうのう」
「奴もそれ程、馬鹿ではないじゃろう。赤松家を相手に戦っても勝てない事くらい知っておるわ」
「奴は、どうするつもりなんじゃ」
「とりあえずは、お屋形様の帰りを待っておるんじゃろう。一度、対面させて、それから、どうするかは、奴もまだ考えていないらしい」
「まあ、どっちにしろ、あの城下から生きては出られまい」
阿修羅坊は頷いた。「ただ、こっちも、かなりの被害は出るじゃろう。奴の事じゃ。お屋形様を道連れにするかもしれんのう」
「そんな事ができるものか」
「いや、奴ならやる。この屋敷に忍び込んだくらいじゃからな」阿修羅坊は天井を見てから、美作守を見て、渋い顔のまま笑った。「そして、もし、生きて城下から出る事ができたら、まず、おぬしの首はないというわけじゃ」
「脅かすな」
「脅しじゃない。ありうる事じゃ。奴はただ強いだけじゃない。兵法(ヒョウホウ)も心得ておる。人の虚を突いて来るのがうまい。もしかしたら、すでに、この屋敷に忍び込んでおるかもしれん」
「ふん」と言ってから、美作守は気味悪そうに天井を眺めた。「おぬしの考えはどうなんじゃ」
「わしか‥‥‥わしはいっその事、味方にしたら、どうかと思うんじゃ」
「なに、楓殿の婿として赤松家に迎えろというのか」
「そういう事になるかのう」
「どこの馬の骨ともわからん奴をか」
「馬の骨かも知れんが腕が立つ。敵に回すよりは適策じゃと思うがのう」
「しかしのう‥‥‥」
「今の赤松家は優秀な人材が欲しい時じゃろう。とにかく、利用するだけ利用してみたらどうじゃ。消すのは後でもできる」
「今、できんものが後になってできるか」
「一度、味方にしてしまえば、奴だって油断するじゃろう」
「うむ」と美作守は仕方なさそうに頷いた。「おぬしがそれ程言うからには、余程の男なんじゃろうのう」
「味方にして損はない」と阿修羅坊は断定した。「家格など、どうにでもなるじゃろう」
「まあな。とにかく、一度、会ってみん事にはのう」
「わしが話を付けて、連れて来てもいいが」
「うむ。いや、その前に、奴をもう一度、試そう」
「試す?」
「ああ、今、うちに変わった奴が居候(イソウロウ)しておるんじゃ」
「何者じゃ」
「坊主じゃ。だが、ただの坊主じゃない。念流(ネンリュウ)の達人じゃ」
「念流? 剣術使いか」
「ああ、お屋形様の剣術師範、上原弥五郎殿と兄弟弟子じゃそうじゃ」
「と言う事は、上原慈幻(ジゲン)殿の弟子と言う事か」
「そうじゃ」
「ほう、そんな奴が、いつからおるんじゃ」
「去年の秋頃じゃ。ひょっこり現れてのう。わしの命はあと僅かしかない。最期に、赤松家のために働かせてくれ、と言って来たんじゃ」
「命が、あと僅か?」
「労咳(ロウガイ、肺結核)病みじゃ。かなり、重いらしいのう。だが、剣術の腕は一流じゃ」
「そいつを使うつもりか」
「ああ。奴が、もし、そいつより強かったら、おぬしの言う事も考えてみよう」
こうして、阿修羅坊は松阿弥という念流の達人を連れて播磨に向かう事になった。
美作守の話だと、松阿弥は浦上屋敷に来るまで、どこで何をしていたのかは、まったく語りたがらないという。ただ、時宗の徒として、あちこち旅をしていた、とだけ言ったという。しかし、阿修羅坊の見た所では、ただ、旅をしていたというだけには見えなかった。何度も修羅場をくぐり抜けて来た男のように思えた。また、はっきりと見たわけではないが、松阿弥の持っている杖は刀身が仕込んであるに違いなかった。そして、その刀は何人もの血を吸って来たに違いなかった。
松阿弥は時々、咳き込む以外はまったく静かな男だった。一言も松阿弥から話しかける事はなかった。阿修羅坊が話しかけても、ああとか、いやとか返事をするだけで、何も話そうとはしなかった。かといって、ぶすっとしているわけではなく、ちょっとした事で笑ったりもするが、余計な事は何も喋らなかった。
山伏と遊行僧の奇妙な二人連れの旅は続いた。
2
松阿弥は歩きながら、過去を振り返っていた。
自分の命が、あと一年と持たないだろうと覚悟を決めていた松阿弥は、浦上美作守から与えられた仕事を見事にやり遂げ、山の中にでも入って静かに死のうと思っていた。
赤松一族の庶流(ショリュウ)の子として生まれ、最期に、赤松家のために仕事ができれば本望だった。
過去を振り返れば、運命のいたずらというか、数奇な生涯と言えた。
松阿弥は本名を中島松右衛門といい、赤松一族の上原民部大輔頼政(ミンブノタイフヨリマサ)の家老、中島兵庫助の三男として、播磨の国の北条郷に生まれた。上原民部大輔は赤松性具入道の弟、祐政(スケマサ)の嫡男だった。
松右衛門が九歳の時、嘉吉の変が起こり、父親は上原民部大輔と共に戦死し、赤松家は滅び去った。
松右衛門は民部大輔の四男、弥五郎と共に鎌倉に逃げた。当時、鎌倉の禅寺に民部大輔の弟が慈幻(ジゲン)と称して出家していた。松右衛門と弥五郎は共に出家して禅寺に隠れていた。
弥五郎の叔父、慈幻は禅僧であったが、念流という武術の達人でもあった。
念流と呼ばれる武術は、この頃より百年近く前、念阿弥慈恩(ネンアミジオン)という禅僧によって開かれた武術の流派の一つだった。
慈恩には十数人の高弟がいて、中でも、中条(チュウジョウ)兵庫助、堤宝山、二階堂出羽守、樋口太郎、赤松慈三(ジサン)の五人が秀でていた。
中条兵庫助は中条流平法(チュウジョウリュウヘイホウ)を開き、その流れは越前の国(福井県)に伝わり、やがて、名人越後と呼ばれる富田(トダ)越後守が現れて富田流となり、伊藤一刀斎によって一刀流となって現在まで伝わっている。
堤宝山の流れは下野(シモツケ)の国(栃木県)に伝わって宝山流となり、二階堂出羽守の流れは美濃の国(岐阜県中南部)に伝わり、後に、松山主水(モンド)が現れる。樋口太郎の流れは信濃の国(長野県)から上野(コウヅケ)の国(群馬県)へと伝わり、馬庭(マニワ)念流となって現在まで伝わっている。
そして、最後の赤松慈三というのは性具入道の弟だった。早くから出家し、鎌倉の寿福寺において慈恩と出会い、弟子となり、念流を極めたのだった。その慈三の弟子となったのが上原慈幻で、松右衛門と弥五郎の二人は、その慈幻の弟子となった。
弟子となった二人は慈幻のもとで修行に励み、腕を磨いて行った。二人とも素質があったのか、兄弟子たちを追い越し、慈幻門下の二天狗と呼ばれる程の腕になっていた。二人の腕はまったくの互角だった。いつの日か、赤松家が再興される事を夢見て、二人は修行に励んでいた。
松右衛門が十九歳の時、千阿弥という時宗の老僧と出会った。松右衛門は千阿弥に感化され、松阿弥という時宗の僧となって鎌倉を後にし、千阿弥と共に遊行の旅に出た。旅は二年間にも及んだ。旅の途中で千阿弥は亡くなり、松阿弥は一人、鎌倉に戻って来た。
二十三歳の時、赤松彦五郎が赤松家再興のため、山名氏相手に合戦するというので、師匠、慈幻と共に播磨の国に向かった。合戦は、初めのうちはうまく行っていたが、山名勢の大軍が攻めて来ると逃げてしまう味方が多く、必死の思いで戦ったが負け戦となってしまった。ついに、彦五郎は備前の国、鹿久居(カクイ)島にて自害して果てた。
上原慈幻も戦死し、松阿弥も弥五郎も重傷を負った。二人とも、そのまま放って置かれたら死んでしまっただろう。しかし、二人とも悪運が強いのか無事に助けられた。
その時、助けてくれた相手によって、二人の人生は、まったく別々の道をたどる事となった。
まず、弥五郎を助けてくれたのは、備中の国の守護、細川治部少輔氏久の家臣、田中玄審助(ゲンバノスケ)だった。細川氏は当時より山名氏と敵対していたので、赤松一族の弥五郎を匿った。
傷の治った弥五郎は田中家の家臣たちに剣術を教え、やがて、諸国に修行の旅に出た。そして、赤松家が再興されてからは京に戻り、幼かった政則に近侍した。応仁の乱の時も政則の側にいて主君を守り、また、活躍もした。今でも政則の剣術師範として、時には軍師として側近く仕えている。
さて、松阿弥を助けたのは妙泉尼(ミョウセンニ)という美しい尼僧だった。それが、ただの尼僧だったら、松阿弥も弥五郎と似たような生涯を送っていたに違いなかった。しかし、その尼僧というのは、何と、宿敵、山名宗全の娘だった。
妙泉尼は小さいが立派な僧院に、五人の尼僧と暮らしていた。
倒れていた松阿弥は隣の禅寺に運び込まれ、妙泉尼は熱心に看病した。看病の甲斐があって、虫の息だった松阿弥は助かった。すっかり、傷の癒えた松阿弥は身の危険も顧みず、その禅寺から出て行こうとはしなかった。
そこは播磨の国内だった。当時、山名氏の領国となっていた。毎日、赤松の残党狩りをしているとの噂は聞いていた。しかし、誰も、松阿弥を赤松方だと思っている者はいなかった。旅の遊行僧が戦に巻き込まれて怪我をしたと思っていた。
松阿弥がそこから離れなかったのは、妙泉尼の美しさのせいだった。松阿弥も出家しているとはいえ若い男だった。美しい女を目の前にして、何とかしたいと思うのは当然の事だった。しかし、相手は出家していた。何とかしたいと思いながらも、何ともならずに、ただ、月日だけが矢のように流れて行った。
妙泉尼は毎日、近所を散歩するのを日課としていた。松阿弥は時々、妙泉尼を待ち伏せして、一緒に散歩するのを唯一の楽しみとしていた。
妙泉尼はいつも供の尼僧を連れていたが、そのうちに、松阿弥の姿を見つけると供の尼僧を先に帰すようになって行った。ほんの短い時間だったが、松阿弥は妙泉尼と二人だけの散歩を楽しんだ。
松阿弥は妙泉尼に自分が赤松家の家臣だった事は隠していた。関東で生まれて、鎌倉で僧になったと説明していた。妙泉尼は知らない関東の地の事を色々と松阿弥に尋ねた。松阿弥は千阿弥に連れられて、二年間、各地を旅していたため、色々な土地を知っていた。妙泉尼は松阿弥から自分の知らない国の話を興味深そうに聞いていた。自分の話を真剣な顔をして聞いている妙泉尼の顔を見るのが、その頃の松阿弥の最高の喜びだった。
「この国は百年以上もずっと、赤松家が治めていました」と妙泉尼は小川のほとりにしゃがむと言った。「今は赤松家は滅んでしまいましたが、いつか、きっとまた、赤松家が攻めて来るに違いありません」
妙泉尼の回りを赤とんぼが飛び回っていた。
「赤松家はもう攻めて来ないと思います。もう、当主と仰ぐ一族の者もいないでしょう」と松阿弥は妙泉尼の細い背中を見ながら言った。
「いいえ。赤松家はきっと再興されて、ここに攻めて来ます。わたしは詳しい事は知りませんが、播磨、備前、美作と三国を治めていた程の赤松家がそう簡単に滅びたままでいるはずがありません‥‥‥わたしが五歳の時、赤松家は滅びました。でも、八歳の時、生き残っていた赤松家の一族のお方が播磨に攻めて来ました。十二歳の時も、赤松家のお屋形様の弟というお方が兵を挙げました。そして、今年もまた、お屋形様の甥といわれるお方が攻めて来ました。きっと、また、一族のお方が攻めて来るに違いありません」
妙泉尼は松阿弥を見上げた。その目は悲しそうだった。
「ええ。そうかもしれません‥‥‥」松阿弥も妙泉尼の言う通りだと思った。きっと、いつか、赤松家は再興されると思っていた。思っていたというより願っていた。しかし、赤松家が再興されるという事は、ここ、播磨の国が戦場となるという事だった。
「人の国を取れば、必ず、報いはやって来ます‥‥‥戦が始まれば、また、大勢の人たちが苦しみます。松阿弥様のように、戦に関係ないのに戦に巻き込まれて怪我をする人や死んでしまう人も大勢います。絶対に戦をしてはいけないのです」
妙泉尼はいつも戦に反対していた。争い事のない平和な世の中が来る事を願っていた。
そして、ある日、妙泉尼が山名宗全の娘だと知らされた。信じられなかったが、本当の事だった。宗全と言えば父の仇であり、師匠の仇であり、赤松家の仇であった。皮肉にも、その仇の娘に命を助けられたのだった。
妙泉尼が仇の娘だとわかっても、松阿弥の妙泉尼を思う気持ちは変わらなかった。妙泉尼は、いつも、太平の世が来る事を望んでいた。戦をする父親を憎んでいた。松阿弥が父親の事を言うと、耳をふさぐ程、嫌っていた。わたしは出家した身、すでに、父親はいないものと思っていますとも言った。
松阿弥は覚悟を決めた。
素性を隠し、時宗の一僧侶として、山名宗全に近づいて宗全を殺そうと決心した。宗全がいなくなれば、いくらかは妙泉尼の望む太平の世になるだろうと思った。
松阿弥はさっそく行動に移した。山名家の重臣である垣屋(カキヤ)越前守の家臣、藤田修理亮(シュリノスケ)の食客(ショッカク)となり、剣術の腕によって、だんだんと頭角を現して行った。
十年の月日が流れた。
松阿弥はとうとう宗全の目に止まり、山名家の武術指南役となった。指南役となっても、松阿弥は欠かさず妙泉尼のもとへは通っていた。
松阿弥と妙泉尼との仲は十年前と変わらなかった。相変わらず、時々、会って話をするだけだった。ただ、十年前のように待ち伏せをする必要はなくなった。堂々と妙泉尼の寺に訪ねて行き、妙泉尼に歓迎された。妙泉尼の側に仕える尼僧たちも、何かと松阿弥を頼るようになっていた。
その頃、赤松家が再興されたとの噂を聞いたが、松阿弥は戻らなかった。
自分が元赤松家の家臣であった事など、すでに忘れていた。すっかり、山名家の家臣になりきっていた。山名家の家臣になってはいても、それは山名宗全に近づく手段に過ぎなかった。宗全に近づき、宗全を殺す。その頃の松阿弥は宗全を殺す事だけが生きがいになっていた。
親の仇や赤松家の仇のために、宗全を討つのではなかった。妙泉尼の願う、戦のない太平の世を作るためには、どうしても宗全には死んでもらわなければならないのだった。
宗全という男は松阿弥にとって乱世の象徴となっていた。この男さえ消えれば、世の中はいくらかは平和になるに違いないと信じていた。
妙泉尼の寺の庭に梅の花が咲いていた。
松阿弥は縁側に座って妙泉尼と話をしていた。
「赤松家が再興されて、また、ここで戦が始まるのかしら」と妙泉尼は言った。
「かもしれません。赤松家の残党たちが動き始めているようです」と松阿弥は言った。
「いやですね」と妙泉尼は悲しそうな顔をして、遠くの山を見つめていた。
松阿弥が妙泉尼に助けられてから十年の歳月が流れているのに、不思議と妙泉尼の美しさは変わらなかった。そして、松阿弥が妙泉尼を思う気持ちは強くなるばかりだった。しかし、どうにもならなかった。
十年の月日の間、何度、妙泉尼を抱きしめたいと思った事だろう‥‥‥
自分の気持ちを打ち明けて、一緒に暮らしたいと何度、思った事だろう‥‥‥
それでも、口にする事はできなかった。
松阿弥は妙泉尼の横顔を見つめながら、この人だけは絶対に戦に巻き込んではいけないと思った。
やがて、応仁の乱が始まり、松阿弥は京に呼ばれた。剣術の腕を見込まれて、宗全の身辺警固を命ぜられたのだった。
いよいよ、機会がやって来た。宗全も馬鹿な奴だ。自分の命を狙っている者に身辺の警固をやらせるとは愚かな奴だと思いながら、妙泉尼にしばしの別れを告げて松阿弥は京に向かった。
京に行った松阿弥は宗全の側に仕えた。殺す機会は何度もあった。しかし、松阿弥にはできなかった。いくら、仇だと思ってもできなかった。今まで自分が思い描いていた宗全と、実際の宗全とはまったく違っていた。鬼のような憎らしい男だと思っていた宗全は、人のいい親爺に過ぎなかった。勿論、西軍の大将として厳しく非情な面も持ってはいたが、松阿弥の前では人間味のある、ただの親爺だった。
宗全は松阿弥の事を気に入ったとみえて、常に側に置き、色々な事を相談して来た。妙泉尼から松阿弥の事は色々と聞いているらしく、まるで、松阿弥が身内であるかのように、何でも相談しに来た。
いつの間にか、宗全が自分の父親のような気がする程だった。仇を討つどころではなかった。宗全の嫡男、伊予守教豊が戦死した時、人前で涙など絶対に見せなかった宗全が、松阿弥の前で大声を出して泣いたのには驚きだった。
そんな頃、松阿弥は初めて血を吐いた。
時々、咳き込み、息苦しくなる事はあったが、大した事はないだろうと思っていた松阿弥はひどい衝撃を受けた。まるで、胸が破れたかと思う程、大量の血が口から溢れ出たのだった。自分の命がそう長い事はないと悟った松阿弥は、生きているうちに妙泉尼の願う、戦のない太平の世にしなければならないと思った。
戦を止めさせるにはどうしたらいいのか‥‥‥
すでに、応仁の乱は一年以上続いていた。
この戦をやめさせるには、どうしたらいいんだ‥‥‥
松阿弥は考えた。考えたが、とても一人の力で、どうなるものではなかった。
今回の戦は大きすぎた。普通の戦だったら大将を倒せば戦は終わりになる。しかし、今回はそう簡単には行かなかった。将軍や天皇まで巻き込み、全国が二つに分かれてしまっている。お互いに、大将が倒れたからといって簡単に手を引くとは思えなかった。戦に参加している大名たちは、勝てば守護職(シュゴシキ)を手に入れて領土を拡大できるが、負ければ今まで持っていた領土をすべて失い、路頭に迷う事になる。東軍も西軍も絶対に負ける事はできない戦だった。
松阿弥は死ぬまでに、何かをしなければならないと焦りながらも、相変わらず、宗全の側近くに仕えていた。
文明四年(一四七二年)の一月、宗全は細川勝元に和平を申し入れたが失敗に終わった。その頃より、宗全の体の具合が悪くなっていた。
松阿弥はすでに四十歳になっていた。痩せ細り、目は落ち込み、頬はこけ、実際の歳よりはずっと老けて見えた。
その年の十一月、妙泉尼が病に倒れたとの知らせが、京の宗全のもとに届いた。
松阿弥は宗全からも頼まれ、妙泉尼のいる但馬の国(兵庫県)に馬にまたがり大急ぎで向かった。死なないでくれ、と祈りながら松阿弥は休まず馬を走らせた。
馬を乗り換えながら、一睡もせずに松阿弥は妙泉尼のいる尼寺に向かった。
妙泉尼の思っていた通り、応仁の乱が始まると赤松軍が播磨に攻めて来た。妙泉尼は播磨から避難し、但馬の国の山名氏の本拠地、出石(イズシ)の城下に戻っていた。
今にも雪の降りそうな空模様だった。
松阿弥は馬から飛び降りると、「妙泉尼様!」と叫びながら尼寺に入って行った。
薄暗い奥の間に妙泉尼は横になっていた。思っていたよりも元気そうだった。松阿弥は一安心して、妙泉尼の枕元に座った。
妙泉尼は松阿弥の顔を見て笑った。
「大丈夫よ。そんなに慌てて、来なくてもよかったのに」
「心配で、心配で‥‥‥」と松阿弥は息を切らせながら言った。
「ありがとう‥‥‥」
「今度はわたしの番です」と松阿弥は言った。
「えっ?」
「妙泉尼様は、昔、死にそうだったわたしの看病を寝ずにしてくれました。今度はわたしの番です」
「そうね‥‥‥お願いしようかしら」
「はい。早く、よくなって下さい」
妙泉尼は笑った。「わたしね、今まで、逃げ続けて来たような気がするの」
「逃げて来た?」
「ええ。あらゆるものから逃げて来たわ‥‥‥まず、お父上から逃げたわ‥‥‥わたしの姉上はお父上のために利用されて、細川勝元様のもとに嫁いで行ったの。今、お父上が戦っている敵の大将のもとに嫁いで行ったのよ。さいわい、今の状況を知らないで亡くなってしまったのでよかったけど、生きていたら辛い思いをしたと思うわ‥‥‥弟の七郎は細川勝元様の養子にさせられたわ‥‥‥でも、勝元様に男の子が産まれると出家させられて、お父上は怒って手元に引き取ったの。知らない遠い国に行った姉上もいるわ。妹も二人いるけど、幕府内の有力者のもとに嫁いで行った‥‥‥わたしは、お父上には絶対に利用されないと思って、お父上に無断で尼になったの‥‥‥お父上はわたしのした事を許してくれて、わたしのためにお寺を建ててくれたわ。あの播磨のお寺よ。わたしはそのお寺で何不自由なく暮らしていた‥‥‥いつも、平和な世の中になればいいと祈っていたけど、自分では何もしなかったの。回りの人たちが戦で家を焼かれて、食べる物もなくて、さまよっていても、わたしは何もしてあげなかった。ただ、平和の世の中になるようにと祈るだけだった‥‥‥わたしは食べ物に不自由した事なんてなかったわ。わたしの食べ物をみんなに分けてあげたなら助かった人がいたかもしれない‥‥‥でも、わたしは何もしなかった‥‥‥」
松阿弥は黙って妙泉尼の話を聞いていた。何となく、いつもの妙泉尼と違うような気がした。
「わたしね、病で倒れて、うなされていた時、自分は今まで何をして来たんだろうって思ったの‥‥‥何もしてない事に気づいたわ‥‥‥何もしないで、ただ、平和が来る事を祈っていたなんて‥‥‥今、この時にも苦しんでいる人が大勢いるというのに‥‥‥わたし、病が治ったら、生まれ変わったつもりで困っている人たちのために何かをやろうと思ったの‥‥‥松阿弥様、わたしに力を貸して下さいね」
「はい。それは、もう‥‥‥」
「よかった‥‥‥」と言って妙泉尼はまた、笑った。本当に嬉しそうな笑いだった。その笑いは、松阿弥が最後に見た妙泉尼の笑いだった。
妙泉尼は翌朝、二度と目を覚まさなかった。
太平の世を願いながら、妙泉尼は三十六歳の若さで静かに死んで行った。
外では静かに雪が降っていた。
松阿弥は涙を流しながら、何度も何度も念仏を唱えた。
妙泉尼の葬儀の終わった後、松阿弥は、妙泉尼と共に暮らしていた尼僧から、病に倒れた妙泉尼が熱にうなされていた時、何度も松阿弥の名を呼んでいたという事を知った。
松阿弥は妙泉尼が大切にしていた小さな観音像を形見に貰って、京に戻った。
京に戻った松阿弥は、まるで、抜け殻のようになってしまった。以前に増して口数は少なくなり、用がなければ部屋に籠もったきり、妙泉尼の観音像に向かって念仏を唱え続けていた。
誰もが、松阿弥を気味悪がって近づかなくなって行った。
妙泉尼のいない、この世に何の未練もなかった。
咳込み、血を吐きながら、ただ、死が訪れるのを待っていた。
妙泉尼の死から四ケ月後、今度は宗全が亡くなった。七十歳の大往生だった。
宗全は死の直前、松阿弥を枕元に呼び、「わしは、もうすぐ死ぬ‥‥‥後は、右京大夫(勝元)が死ねば、この長い戦も終わる事じゃろうのう‥‥‥妙泉尼が、いつも言ってたように、どうして、人間という者は争い事を好むんじゃろうのう‥‥‥早く、太平の世が来ればいいのう‥‥‥」と力のない声で言った。
妙泉尼が死んでからというもの、生きる気力も無くなり、ただ、死を待っているだけの松阿弥だったが、妙泉尼と世話になった宗全のためにも、細川勝元を道連れにして死のうと思った。
宗全が亡くなり、そして、勝元が亡くなったとしても、今の戦が終わるとは思えない。しかし、両方の大将がいなくなれば、今の状況よりは少しはよくなるだろう。どうせ、自分の命はそう長くはない。どうせ、死ぬなら勝元を道連れにしようと決心した。
宗全が亡くなってから四十九日目、近くの寺院で法要がおごそかに行なわれていた。
松阿弥は行動を開始した。
勝元の屋敷は厳重に警固されていた。しかし、戦が長引いているせいと、敵の総大将、宗全が亡くなったためか、それ程、警戒している様子はなかった。警固している兵たちも形式的に仕事をしているだけで、敵が、ここに攻めて来る事など絶対にあるはずはないと高をくくっているようだった。
松阿弥は細川屋敷に忍び込むと、皆が寝静まるのを待った。
勝元は若い側室を連れて、新築したばかりの離れで酒を飲んでいた。うまい具合に、近くには警固の兵の姿はなかった。
松阿弥は床下に潜って勝元が眠るのを待った。勝元は若い側室と戯れながら、いつまで経っても眠らなかった。松阿弥は辛抱強く待った。ただ、若い側室の嬌声には悩まされた。妙泉尼には失礼だとは思うが、どうしても、妙泉尼を抱いている自分を想像してしまった。
明け方近くになった頃、ようやく、静かになった。
松阿弥は部屋に忍び込むと、夜具をはねのけ、あられもない姿で眠りこけている若い女と初老の男を見下ろした。
「これが、細川勝元か‥‥‥」と松阿弥はつぶやいた。
目の前で眠っている男は、ただのすけべな親爺に過ぎなかった。
どう見ても東軍の総大将には見えない。一瞬、こんな男を殺してもしょうがないと思ったが、宗全の最後の言葉を思い出し、松阿弥は刀を抜いた。
一瞬のうちに、勝元と女の首を斬り落とした松阿弥は、静かに屋敷から抜け出した。
それは、あまりにもあっけなかった。自分も一緒に死ぬ覚悟でいたのに、無事に抜け出す事ができた。
次の日、細川屋敷は大騒ぎするはずだったが、普段とまったく変わらなかった。次の日も何事もなく、四日目になって、ようやく、細川勝元が流行り病に罹って急死したと発表があった。
勝元をやったのは自分だと言い触らす気持ちなど初めからなかった。それでも、勝元が病死と発表されるとは、ちょっと、気が抜けた感じだった。
松阿弥は京を後にし、妙泉尼の眠る但馬の国に向かった。
妙泉尼の一年忌を済ませた松阿弥は再び、京に戻った。山名屋敷には戻らずに、浦上美作守の屋敷を訪ねた。
死ぬ前に、最期の仕事として赤松家のために何かをしたかった。もう先がいくらもない事はわかっていた。長い事、山名宗全のもとにいたので、赤松家の実力者が浦上美作守だという事は知っていた。浦上美作守に頼めば、最期の一花を咲かす事ができるだろう。そして、妙泉尼の待つ死後の世界に行きたかった。
浦上美作守はなかなか仕事をくれなかった。
両軍の大将が亡くなってから一年が経ち、それぞれの息子たちによって和睦が成立していた。大将同士が和睦したからといって、完全に戦が終わったわけではないが、京の都に平和が戻りつつある気配はあった。
八月の初めの暑い日だった。とうとう、美作守より重要な仕事が与えられた。ひそかに、赤松家のお屋形様の命を狙っている太郎坊という強敵を倒してくれと言う。太郎坊という男に恨みはないが、赤松家の害となる男なら倒さなくてはならなかった。
これが最期の仕事だ。これが終わったら但馬に帰り、妙泉尼のもとで静かに死を待とうと思っていた。
3
置塩城下は、楓御料人様の旦那様の噂で持ち切りだった。
誰もが、楓御料人様の旦那様がこの城下に現れると信じていた。
赤松家の侍たちも、その噂を聞き、重臣たちは京から何の連絡もないのに、これはどうした事だとうろたえ、真相をつかむために使いの者を京に走らせたりしていた。
別所加賀守は楓から、今まで一言も触れようとしなかった旦那の事を遠慮しながらも聞き出していた。
楓は何と答えたらいいのかわからなかったが、ありのままに、本名は愛洲太郎左衛門久忠ですと告げ、愛洲の水軍の大将の伜ですと言った。加賀守はしつこく聞いてきた。あとの事は適当にごまかし、今は山伏をやっているという事は隠した。
当の旦那様の太郎の方は木賃宿『浦浪』でごろごろしていた。無事に宝は捜し出したし、後は、お屋形の赤松政則が帰って来るのを待つだけだった。
宝が見つかったら遊女屋に繰り出して大騒ぎしようと、みんなで楽しみにしていたのに、その宝物がお経ではどうしようもなかった。大騒ぎするにも元手がない。今までの色々な資金は小野屋喜兵衛が都合をつけてくれたが、遊ぶ銭まで出して貰うわけにはいかなかった。
みんな、溜息を付きながら、ごろごろしていた。ただ一人、夢庵だけはお経の中にあった赤松一族の百韻(ヒャクイン)連歌と、毎日、睨めっこしている。
そんな時、伊助が戻って来た。伊助は荷物を置くより早く、太郎を捜すと、「大変です。阿修羅坊が戻って来ました」と顔色を変えて告げた。
部屋にいたのは太郎と金比羅坊だけだった。風光坊と八郎、そして、傷の治った探真坊の三人はどこに行ったのか、いなかった。
伊助は、阿修羅坊が松阿弥という時宗の遊行僧を連れて戻り、二人は浦上屋敷に入ったと知らせた。
「その松阿弥というのは何者です」太郎は百太郎のために彫っていた馬の彫り物を傍らに置くと、厳しい顔付きで伊助を見た。
「詳しくはわかりませんが、何でも念流とかいう剣術の使い手だとか聞いています」
「念流?」太郎は念流という流派を知らなかった。
「念流といえば、昔、それを使う奴が飯道山に来た事がある」と金比羅坊が言った。「丁度、風眼坊殿が留守の時でな、師範代の何と言ったかのう、名前はちと忘れたが相手をしたんだが見事に敗れた。そいつは、風眼坊殿の帰るのをしばらく待っておったが待ち切れなくて、そのうち、どこかに旅立って行ったわ」
「そいつが、松阿弥とかいう奴ですか」
「いや、違うじゃろう。名前は忘れたが、れっきとした武士じゃった」
「一体、念流とはどんなものなんでしょう」
「何でも、鎌倉の禅僧が編み出したものらしい」
「禅僧?」
「ああ、鎌倉から出た中条流、二階堂流など、皆、同じ流れらしい」
「中条流に二階堂流‥‥‥」
中条流というのは飯道山にいた時、太郎も聞いた事があるが、一体、それが、どんなものなのか見当も付かなかった。禅僧が編み出したという所が少し気になった。武士が考え出したものなら、当然、鎧兜(ヨロイカブト)を身に付けての剣術だが、禅僧が考え出したとなると山伏流剣術のように身軽な剣術かもしれなかった。
「敵が何を使うにしろ、やらなければならないな」と太郎は言った。
「敵は、その松阿弥とかいう奴、一人だけか」と金比羅坊が聞いた。
「はい、そのようです。余程、腕が立つに違いありません」
「一人か‥‥‥」
「俺がやります。伊助殿、金比羅坊殿、この事は、みんなには伏せておいて下さい。敵も、俺以外の者には手を出さないでしょう」
「しかし‥‥‥」と伊助は言った。
「これ以上、犠牲者を出したくないし、念流という剣術をこの目で見てみたいのです。お願いします。みんなに知らせれば騒ぎが大きくなります」
伊助は太郎を見つめながら頷いた。
「伊助殿、すみませんけど、浦上屋敷を誰かに見張らせて下さい」
「ええ、わかってます。私がやります‥‥‥それでは、私はまだ帰って来ない事にしておいた方がいいですね。幸い、誰にも会ってませんから」
「すみません。お願いします」
「わかりました」伊助は頷くと出て行った。
「とうとう、戻って来たか」と金比羅坊は腕を組んで唸り、「一人で大丈夫か」と太郎に聞いた。
「今回は、念流と陰流の戦いです。もし、俺が負ければ俺の修行が足らなかったという事です」
「しかしのう、おぬしが負けるとは思わんが、敵がどんな手で来るのかわからんというのは不気味じゃのう」
「戦う前に、どんな奴か、見ておいた方がいいかもしれませんね」
「おい、まさか、浦上屋敷に忍び込むつもりじゃあるまいな」
「そんな事はしませんよ」と太郎は言って、馬の彫り物を手にした。
「本当だな」と金比羅坊は太郎の顔を覗いた。
「ええ、危険な事はしませんよ」と太郎が言っても、
「おぬしは何をするかわからんからのう」と金比羅坊は疑っていた。「今回の敵は大物だぞ。おぬしが忍び込んでいるのを気づくかもしれん」
「大丈夫です。そんな事はしません」
「きっとだぞ」と金比羅坊は念を押して、「ところで、あの三人はどこ行ったんじゃ」と聞いた。
「さあ、ニヤニヤして、どこかに行きましたけど」太郎は何事もなかったかのように、また馬を彫り始めた。
「昼間っから、女でも買いに行ったのか」
「まさか、そんな銭は持ってないでしょう。多分、金勝座の舞台にでも行ったんじゃないですか」
「舞台? 今日は休みじゃろ」
「休みでも稽古をしています」
「おお、そうか、助六殿たちに会いに行っとるのか。金勝座にはいい女子が揃っておるからの。しかし、あの三人の手に負えるような女子らじゃないわい」
夢庵がのっそりと入って来た。
「わかったぞ」と太郎と金比羅坊を見ながら言った。「えらい事が隠してあったわ」
夢庵は太郎と金比羅坊の側に座り込むと、巻物を広げた。太郎と金比羅坊は、連歌の書かれた巻物を眺めた。夢庵は、この中に謎が隠されていると言うが、二人にはまったく、わからなかった。
「連歌において一番重要なのは、この初めにある発句(ホック)と言う奴じゃ」と夢庵は言った。
「発句?」と太郎は聞いた。
「この最初の句じゃ」と夢庵は最初にある性具入道の句を指した。
「『山陰(ヤマカゲ)に、赤松の葉は枯れにける』ですか」と太郎は読んだ。
「そう、それと、次の脇句(ワキク)と第三句も重要じゃ」
「『三浦が庵(イオ)の十三月夜』と『虫の音に夜も更けゆく草枕』か」と金比羅坊が読んだ。
「まず、発句じゃが、『山陰』にというのは山名の事で、山名によって赤松家が滅ぼされたという意味じゃが、ただ、それだけではない」
太郎と金比羅坊は巻物を見ながら、黙って、夢庵の話を聞いていた。
「問題は脇句なんじゃ。『三浦が庵』というのが意味がわからん。この辺りに三浦などという地はないし、それに『十三月夜』というのもおかしい」
「どうして、おかしいのですか」太郎にはわからなかった。
「これを書いたのが九月五日だから、もうすぐ、十三夜になるから詠んだというのならわかるが、脇句というのは発句を受けて詠むものじゃ。発句は『枯れにける』というから季節は冬じゃ。ところが、脇句の季節は秋じゃ。基本としては、脇句は発句と同じ季節を詠む事になっておる。それなのに、わざわざ、『十三夜』と秋の語を入れておる。第三句は脇句を受けて、秋を詠んでおる。第三句としては、もう少し変化が欲しい所じゃが、まあ、問題はない」
夢庵は、太郎と金比羅坊の顔を見比べた。二人とも、何が出て来るのか期待しながら、夢庵の話を聞いていた。
「さて、問題の『三浦が庵』じゃが、三浦というのは場所じゃなくて、『三裏』の事だったんじゃ」
「は?」と金比羅坊も太郎も夢庵の言った意味がわからなかった。
「詠んだ連歌を書くのに四枚の懐紙(カイシ)を使うんじゃが、その懐紙を二つ折りにして、一枚目を初折(ショオリ)といい、表に連歌を催した月日や賦物(フシモノ)を書き、初めの八句を書く。そして、裏に十四句を書き、二枚目を二折(ニノオリ)といい、表と裏に十四句づつ書く。三枚目を三折(サンノオリ)といい、四枚目を名残折(ナゴリノオリ)というんじゃ。この三浦というのは、三折の裏の事だったんじゃ」
夢庵は巻物をさらに広げ、小さく、『三、裏』と書いてある所を指差した。
「ここが、三折の裏じゃ。三浦というのは、ここの事だったんじゃよ。何句あるか、数えてみろ」
太郎と金比羅坊は数えた。
「十三です」と太郎は言った。
「うむ、十三じゃ。普通、十四あるはずなのに、ここには十三句しかない」
「一句は、どこに行ったんですか」
「一句ずれて、名残折の裏に九句ある。脇句にあった『十三月夜』というのは、この事だったんじゃよ」
「成程、三裏の十三か」と金比羅坊は十三句を眺めながら言った。
「この十三句に、何かが隠されているのですか」と太郎は聞いた。
「ああ、凄い事が隠されておる。ちょっと見た所、おかしい事があるんじゃがわかるかな」
太郎と金比羅坊は十三の句を読んでみたが、どこがおかしいのか、まったくわからなかった。太郎にしても、金比羅坊にしても、今まで連歌など全然、縁がなかった。一応、読む事ができると言うだけで、その歌の意味するものまではわからなかった。
「松という字じゃ」と夢庵は言った。
そう言われても、二人には何だかわからない。
「この中に、松と言う字が三つも出て来る。まず、この『松原』、そして『松の下(モト)』、そして、最後の『松に夢おき』じゃ。連歌において『松』という字は、七句以上隔てなければ使えないという決まりがあるんじゃ」
「へえ」と金比羅坊は感心した。
「どうして、隔てなければならないのですか」と太郎は聞いた。
「連歌において、一番嫌うのが同じような事を繰り返し詠む事じゃ。前の句の連想から次の句を詠む。その次の句の連想から、また次の句を詠む。しかし、三番目の句が一番初めの句と似ていたのでは、同じ所をぐるぐる回っているようで、全然、変化も発展もないんじゃよ。それで、次々と発展させるために、この言葉は何回まで使っていいとか、この言葉は何句か隔てれば、また、使ってもいいというような決まりができたんじゃ」
「という事は、『松』という字が、こう何回も出て来るのは良くないという事ですか」
「そういう事になる。まさか、性具入道殿を初め、誰も気づかなかったというわけではあるまい。また、戦の最中で、一々直す暇がなかったのかもしれんが、わしは、そこの所がどうも臭いと思った。何か、『松』という字を並べなければならない理由があるに違いないと思ったんじゃ」
夢庵が筆と紙を貸してくれというので、太郎は用意した。
夢庵は巻物を見ながら、まず、最初に、性具の発句を写し、その後に、三折の裏の十三句を全部、ひらがなに書き直した。
太郎と金比羅坊は、夢庵のする事を黙って見ていた。
山陰に赤松の葉は枯れにける 性具
あだに散るらん 生きのびるより 則尚
かかる世を 待ちはびて今 雲かかる 性具
露の命を 後の世にかけ 義雅
あかつきに 西行く雁の 影消えて 則繁
白旗なびく 松原の磯 則康
釣舟の 哀おほかる 櫓のひびき 則尚
悲しかるらむ 風の寒さに 性具
願はくは また来る春の 月を待つ 義雅
野に散る花の 浅き命を 則繁
甲斐なくて 闇にぞ迷ふ 松の下 教康
尽きぬ命を 舞ふ風に乗せ 則尚
秋空に 重ねる色の 哀なり 性具
流水行雲 松に夢おき 義雅
山陰に赤松の葉は枯れにける
あだにちるらん いきのびるより
かかるよを まちはびていま くもかかる
つゆのいのちを のちのよにかけ
あかつきに にしゆくかりの かげきえて
しらはたなびく まつばらのいそ
つりふねの あはれおほかる ろのひびき
かなしかるらむ かぜのさむさに
ねがはくは またくるはるの つきをまつ
のにちるはなの あさきいのちを
かひなくて やみにぞまよふ まつのもと
つきぬいのちを まふかぜにのせ
あきぞらに かさねるいろの あはれなり
りゅうすいこううん まつにゆめおき
「成程のう。口惜しそうに死んで行ったのが、何となくわかるのう」と金比羅坊は言った。
「いつの日か、また、再興されるのを願っているようにも感じられる」と太郎は言った。
「わしは歌の事はよくわからんが、『甲斐なくて闇にぞ迷ふ松の下』なんていうのは、いい歌じゃのう。敵の軍勢が城の回りまで攻め寄せて来て、もう終わりじゃ、という事が、実によく伝わって来る。そして、その次の句がまたいい。『尽きぬ命を舞ふ風に乗せ、秋空に重ねる色の哀なり』もう、死ぬ覚悟を決めたんじゃのう。そして最後が『流水行雲、松に夢おき』‥‥‥いいのう」
金比羅坊は一人で歌の批判をして、一人で感心していた。
「金比羅坊殿、なかなか、歌がわかるじゃないですか」と夢庵が褒めた。
「なに、そんな事はないわ」と金比羅坊は照れていた。
「この歌のどこに、謎が隠されているのです」と太郎は聞いた。
「まずな、一番簡単なのは、それぞれの句の頭の文字を読んで行くと、何か、意味のある言葉になるという奴じゃ」
太郎と金比羅坊は、句の頭の文字をつなげて読んでみた。
「あかつあしつかねのかつあり‥‥‥」
文章になっていなかった。
「これは、そんな単純なものではない」と夢庵は言った。「和歌にしろ、連歌にしろ、五文字と七文字の組み合わせでできている。五、七、五、七、七という風にな」
夢庵は、その五七五七七の頭の文字をすべて、丸で囲んだ。
「何か、気づかんか」
「うむ‥‥‥『ま』と『か』がやけに多いのう」と金比羅坊は言った。
「『あ』も多いですよ」と太郎は言った。
「鍵は、発句の歌にあるんじゃ」と夢庵は発句を指さした。
「『山陰に赤松の葉は枯れにける』‥‥‥この歌が鍵? わからんのう」と金比羅坊は首を傾げた。
「『山陰に』は、どうでもいい。問題は、その次ぎの『赤松の葉は枯れにける』じゃ。赤松の葉というのは、赤松の言(コト)の葉じゃ」
「赤松の言の葉は枯れにける‥‥‥」
「そうじゃ」
「『あかまつ』という四文字を抜くという意味ですか」と太郎が言った。
「その通り」
夢庵は、先刻、丸印を付けた文字から、『あかまつ』という四文字を抜いてみた。『あかまつ』という文字が五つも隠されていた。そして、残された文字を読むと、『いくのにしろかねのやまあり』という文になった。
山陰に赤松の葉は枯れにける
あだにちるらん いきのびるより
かかるよを まちはびていま くもかかる
つゆのいのちを のちのよにかけ
あかつきに にしゆくかりの かげきえて
しらはたなびく まつばらのいそ
つりふねの あはれおほかる ろのひびき
かなしかるらむ かぜのさむさに
ねがはくは またくるはるの つきをまつ
のにちるはなの あさきいのちを
かひなくて やみにぞまよふ まつのもと
つきぬいのちを まふかぜにのせ
あきぞらに かさねるいろの あはれなり
りゅうすいこううん まつにゆめおき
「生野に白銀(シロガネ)の山あり‥‥‥」と金比羅坊が言った。
「白銀‥‥‥」と太郎も呟いた。
「というわけじゃ」と夢庵は笑った。
「生野とはどこじゃ」と金比羅坊が夢庵に聞いた。
「丁度、播磨と但馬の国境辺りじゃ」
「夢庵殿、行った事はあります?」と太郎は聞いた。
「ああ、行った事ある。市川をずっと遡(サカノボ)って行くと真弓峠に出る。そこを越えれば但馬の国じゃ。生野というのは峠を越えてすぐの所じゃ」
「ほう。という事は笠形山のもっと北の方というわけじゃな」
「但馬の国か‥‥‥山名氏の領土ですね」
「そうじゃな。山の中で何もない所じゃった。昔は山名宗全の親父殿の隠居所として、立派な屋敷があったらしいが、今は何も残っていない。山の上に小さな砦があって、播磨の方を睨んでいるくらいのものじゃ」
「夢庵殿は、どうして、そんな山の中まで行ったのですか」
「その生野より、もっと向こうの山奥に黒川谷というのがあってのう。そこに大明寺という禅寺があるんじゃが、そこの和尚が連歌に凝っていてのう。連歌会をやるから、是非、来てくれというんでな、牛に揺られて行ったわけじゃよ」
「成程のう。連歌師というのも、なかなかいいもんじゃのう。敵も味方もなく、付き合いができるんじゃのう。山名に行ったり、赤松に行ったり」
「何を言う。おぬしら山伏だって似たようなもんじゃろうが」
「そう言われてみればそうじゃ。わしらもどこに行こうと勝手だったわい」
「ところで、この白銀の事は赤松家は勿論の事、山名家も知らないのでしょうか」
「知らんじゃろう。あんな所で銀を掘っている様子など、まったくなかった。銀が出れば警戒が厳重になり、山名家でも有能の奴が出張って来るはずじゃ」
「という事は、性具入道が極秘で突き止めた事実という事ですね」
「多分、そうじゃろう。嘉吉の変が起こって銀を掘る事ができず、性具入道殿は連歌の中にその事を隠した。いつの日か、赤松家が再興されて、誰かがこの謎を解いて、生野の銀を赤松家のために使って欲しいと願いながら死んで行ったんじゃろうのう」
「しかし、凄いのう。この連歌の中に、そんな謎が隠されておったとはのう。もし、夢庵殿がいなかったら、わしらではとうてい、この謎は解けなかったわ」
「ええ、ほんとです。この歌の中にそんな事が隠してあったなんて‥‥‥赤松家では昔から連歌をやっていたんですね」
「赤松家は幕府の重臣じゃからな。幕府に出入りするには連歌くらいできなくてはならんのじゃよ。特に、性具入道殿は熱心じゃったようじゃのう。まあ、昔に限らん。今でも、そうじゃ。幕府の重臣たちは皆、連歌に熱中しておる。お陰で、わしも、その連歌で食って行けるというわけじゃ」と夢庵は笑った。
太郎は父親の事は良く知らないが、祖父が時折、連歌会をやっていたのは知っていた。太郎はただ大人の遊びだろうと思っていた。武士の嗜(タシナ)みの一つとして、連歌というものが、それ程、重要な位置をしめていたとは思ってもみなかった。
「これが本当だとすると、えらい事になるぞ」と金比羅坊が難しい顔をして太郎を見た。
「大した宝が出て来たのう。おぬし、どうするつもりじゃ」と夢庵も太郎を見た。
「どうしたら、いいでしょう」と太郎は二人の顔を見た。
「難しいな」と夢庵は首を振った。「お宝が大きすぎるからのう。こんな事を、やたら、人に喋ったら殺される羽目になりかねんぞ」
「殺される?」
「赤松にしろ、山名にしろ、銀山が本物かどうか確認した上で、口封じのために殺すじゃろう」
「成程のう。重要な軍事秘密となるわけじゃからのう」
「そうじゃ。どっちにしろ、銀を掘るとなると赤松か山名、どちらかの力を借りなければ無理じゃろうな」
「楓殿がいるんじゃから、当然、赤松じゃろうのう」と金比羅坊が言った。
太郎は頷いた。「楓を取り戻そうと乗り込んで来たけど、どうやって取り戻したらいいのか、わからなくなって来た」
「おいおい、どうした、急に弱気になって」
「初めのうちは、楓と宝を交換して帰ろうと思ったけど、そう簡単には行きそうもない」
「確かにな。今、楓殿を取り戻すというのは、はっきり言って不可能に近いのう」と夢庵も言った。
「おぬし、あんな噂を流したんじゃから、お屋形様が帰って来たら堂々と乗り込むつもりじゃろう。そして、宝の事を話して楓殿を取り戻すつもりだったんじゃろう」
「そのつもりでした」
「いっその事、おぬしも楓殿と一緒に、ここに残ったらどうじゃ」と夢庵は言った。
「えっ」と太郎は驚いて、夢庵を見た。
「あれだけ噂が流れてしまえば、赤松家でも楓殿の旦那を迎えるしかあるまい。とりあえずは迎えるじゃろう。そして、ほとぼりがさめた頃、病死してもらうという筋書じゃろうな」
「まさか、そんな汚い事をするのか」と金比羅坊が言った。
「楓殿を利用する気なら、その位の事はするじゃろう。あれだけの別嬪じゃ。嫁に出して、実力者と手を結ぶという事も考えられるしな」
「うむ、それは考えられるのう」
「おぬし、別所加賀守殿に会ってみんか」と夢庵は言った。「わしが思うに、腹を割って話せば加賀守殿ならわかってくれるかもしれんぞ。浦上美作守がおぬしの命を狙っているなら、余計、加賀守殿はおぬしを助けたがるかもしれん。手土産として一切経を持って行けばいい。ただ、銀山の事はまだ隠しておいた方がいいな。最後の切札として取っておいた方がいいじゃろう」
「わしも、そうした方がいいような気がするのう」と金比羅坊も言った。
太郎は二人の顔を見ながら考えていた。
急に騒がしい話声がして、風光坊、探真坊、八郎の三人と金勝座の連中が帰って来た。
「みんなが戻って来たようじゃの。まあ、考えてみてくれ。段取りはわしがする」
夢庵はそう言うと巻物を丸め、太郎に渡すと部屋から出て行った。
22.松阿弥2
4
みんなが帰って来て、急に賑やかになった。
太郎は『浦浪』の一室から、外を眺めながら夢庵から言われた事を考えていた。
いつまでも、こんな所に隠れていてもしょうがない事はわかっている。宝も捜し出した事だし、そろそろ、表に出る頃合だとも思っていた。夢庵が間に立ってくれれば、うまく行くような気もした。阿修羅坊が連れて来た松阿弥とやらを倒したら、思い切って別所加賀守に会ってみようと決心した。
太郎がぼんやり外を眺めていると、見た事ないような職人が中庭に入って来た。どうも紺屋(コウヤ)の職人のようだった。その職人は太郎に軽く頭を下げると、「すんません。太郎坊様とかいうお方はおりますかいの」と言った。
「太郎坊というのは、わたしだが」
「はあ、そうですか。あの、行者さんが会いたいと言っておりますが‥‥‥」
「行者? どこにいるんだ」
「あの、あっちです」と職人は河原の方を指さした。
一体、誰だろう、と河原まで出てみると、そこにいたのは阿修羅坊だった。
「やあ、元気か」と阿修羅坊は馴れ馴れしく、太郎に声をかけて来た。今まで、太郎の命を狙っていた事など、すっかり忘れてしまったような口振りだった。
「どうしたんです」と太郎は阿修羅坊の顔色を窺った。
「ちょっと、話があってのう」
「よく、ここがわかりましたね」
「ああ、偶然、おぬしの連れを河原で見つけてのう、後を付けて来た。あの金勝座とかいうのも、おぬしの仲間か」
「ええ」
「おぬしには色々な仲間がいるようじゃのう」
「話とは何です」
「まあ、立ち話も何じゃから座って話そう」
阿修羅坊と太郎は川の側の石の上に腰を降ろした。
「浦上殿に、おぬしの事を話した」と阿修羅坊は言って太郎の反応を見た。
太郎はただ川の流れを見ていた。
「考えておく、と言った。ところで、おぬし、念流というのを知っておるか」
「聞いた事はあります」
「そうか、その念流の使い手を連れて来た。おぬしがそいつを倒せば、おぬしを赤松家に迎えるそうじゃ」
「えっ、ほんとですか」太郎は探るように阿修羅坊を見た。
阿修羅坊は任せておけと言うように頷いた。「おぬしの事をよく言っておいた。浦上殿も、敵に回すより味方にした方がいいと気づいたんじゃろ。おぬしを楓殿の亭主として迎えるそうじゃ」
「そうですか‥‥‥ところで、その念流の使い手というのは何者です」
「松阿弥という時宗の僧じゃ。浦上殿の所に食客(ショッカク)としていたらしい。ちょっと気味の悪い男じゃ。手ごわい相手かも知れん」
「その松阿弥という男は何を使います」
「得物(エモノ、武器)か」
太郎は頷いた。
「わからんのう。わからんが、多分、仕込み杖じゃないかの」
「仕込み杖?」
「ああ、奴の持っている杖がな、どうも、仕込み杖のような気がする」
「刀が仕込んであるという事ですか」
「多分な。わしも念流とかいう剣術の事はよく知らんが、昔、山名宗全のもとに念流を使う奴がいてのう。首を斬るのが得意だとか聞いた事がある」
「首を?」
「あっという間だそうじゃ。あっという間に、敵の首が飛んでいるそうじゃ」
「そんな奴がいたのですか」
「噂じゃ。本当かどうかはわからん」
「念流か‥‥‥」
「いつやる」と阿修羅坊が聞いた。
「明日の早朝」と太郎は迷わず答えた。
「場所は?」
「この前の荒れ寺」
「よし、わかった。敵は一人じゃ。おぬしも一人で来い。わしが検分役を務める」
太郎は頷いた。
「ところで、宝捜しの方はどうじゃ」
「まだです」
「そうじゃろう。そう、簡単には見つかるまい。瑠璃寺には行ってみたか」
「行きましたけど、何もつかめませんでした」
「やはり、駄目か。これから、どこを捜すつもりじゃ」
「赤松村と城山城の城下を当たってみるつもりです」
「うむ、わしも赤松村が臭いと睨んでおったんじゃ。見つかるといいがのう。まあ、それより明日は勝てよ。楓殿を悲しませたくないからのう」
太郎は頷いた。
「おぬし、愛洲水軍の伜だそうじゃのう。愛洲氏といえば、昔、南北朝の頃、赤松氏と共に南朝方で活躍したそうじゃ。しかし、建武の新政で、赤松氏と同じく、大した恩賞も貰えなかった。赤松氏は反発して播磨に戻り、やがて、足利尊氏と組んで南朝を倒し、足利幕府に協力して三国の守護職を手に入れた。愛洲氏の場合は場所が悪かった。伊勢に南朝の大物、北畠氏が入って来たからのう。結局、北畠氏に食われた形になって、伊勢の隅に追いやられてしまった。もし、立場が逆だったら愛洲氏が三国の守護職になっていたかもしれんのう」
太郎も、祖父、白峰から南北朝の頃の愛洲氏の活躍は何度か聞いた事があった。しかし、阿修羅坊がどうして急に、そんな事を言い出したのかわからなかった。
「愛洲氏も源氏だそうじゃな」
「ええ」
「由緒ある家柄というわけじゃ。しかし、赤松家に迎えるには釣り合いが取れんそうじゃ。何せ、楓殿はお屋形様の姉上じゃからな。おぬしはお屋形様の兄上という事になるわけじゃ。わかるか。赤松家と釣り合いのとれる家柄の名前に変えてもらうかもしれん」
「そうですか‥‥‥」
太郎にとって名前など、どうでも良かった。現に今、太郎は四つの名前を持っている。本名の愛洲太郎左衛門久忠、山伏名の太郎坊移香と火山坊移香、そして、職人名の三好日向。今更、もう一つ名前が増えようと、どうって事はなかった。
「まあ、明日は頑張ってくれ」と言うと阿修羅坊は立ち上がった。
「右手は大丈夫ですか」と太郎は聞いた。
「ああ、骨はくっついたらしい。心配するな。もうすぐ元に戻る」
「そうですか」
「おぬし、また、棒を使うのか」
「いえ、刀を使います」
「うむ、その方がいい。ところで、ここに戻って来る途中、面白い噂を聞いた。信じられなかったが、この城下に来てみたら、その噂で持ち切りじゃ。その噂を流したのはおぬしか」
太郎は頷いた。
「やはりのう‥‥‥楓殿の亭主として、堂々と城下に入場するつもりか」
「ええ」
「まだ、時期が早いぞ。もう少し待ってくれ。今、入場したとしても、おぬしが楓殿の亭主だとは信じてもらえまい。楓殿にも会わせて貰えんじゃろう。城下を騒がす、ふとどき者として捕まり、殺されるのが落ちじゃ。もう少し待てば、美作守が後押ししてくれるじゃろう。それには、明日、松阿弥を倒し、わしがもう一度、京に帰り、戻って来るのを待っていてくれ。悪いようにはしない。わしに任せてくれ」
そう言うと阿修羅坊は河原を北の方に歩いて行った。
太郎は阿修羅坊の後姿を見ながら、楓の言ったように、本当はいい奴なのかも知れないと思った。
雨が降っていた。
太郎は昨夜のうちから、この荒れ寺に来ていた。金比羅坊も一緒にいた。
一人でいいと言ったのに聞かなかった。向こうも阿修羅坊と松阿弥の二人なのだから、こっちも二人でもおかしくない。わしはただ、阿修羅坊を見張っているだけじゃと言った。無理に断っても、隠れて付いて来るのはわかっていたので、一緒に行く事にした。
あの後、伊助から一度、連絡があった。阿修羅坊は城下に出て行ったが、松阿弥の方は浦上屋敷から一歩も外に出ないと言う。浦上屋敷に忍び込もうと思っていた太郎も、松阿弥の事は、阿修羅坊から大体、聞いたのでやめる事にした。
太郎は荒れ寺の縁側に座って河原の方を見ていた。
草が長く伸びていて、川の流れは見えなかった。
「よく、寝たわい」と金比羅坊が近づいて来た。「よく、降るのう」
「もう、秋ですね」と太郎は言った。
「おう、すっかり涼しくなったのう」
「甲賀を出てから、もうすぐ、一月になりますねえ」
「もう、そんなになるか」と金比羅坊は言って、縁側に腰を下ろすと河原の方を見た。
「飯道山は相変わらず、忙しいでしょうね」
「ああ。もうすぐ秋祭りじゃのう」
「秋祭りか‥‥‥そう言えば、金勝座も秋祭りには出るんでしょう」
「そうじゃのう。出るじゃろうのう」
「そろそろ、帰らなけりゃなりませんね」
「まだ、大丈夫じゃろ。おぬしが無事に城下に迎えられるのを見届けてから帰るじゃろう」
「金勝座のみんなが、いなくなると淋しくなりますね‥‥‥金比羅坊殿も一緒に帰るんですか」
「わしか‥‥‥わからんのう。もう少し様子を見ん事にはのう」
「話は変わりますけど、金比羅坊殿に娘さんがいたなんて、初めて知りましたよ」
「別に隠していたわけじゃないがのう」
伊助が花養院の様子を話してくれた時、今、金比羅坊の娘が孤児院を手伝っていると言ったのだった。金比羅坊の娘は、ちいと言う名の十四歳で、よく子供たちの面倒を見ているとの事だった。金比羅坊殿には悪いが、とても、金比羅坊殿の娘とは思えない程、綺麗な娘さんだと伊助は言った。
「他にも、お子さんはいるんですか」と太郎は聞いた。
「五郎というガキがおる」と金比羅坊は照れ臭そうに言った。
「何歳です」
「八つじゃ」
「へえ、驚きですよ。女がいるっていうのは知ってましたけど、まさか、子供が二人もいたなんて、とても信じられませんよ」
「そりゃ、お互い様じゃ。おぬしの弟子たちも、おぬしに女房と子供がいたなんて信じられんと言っておったぞ」
太郎は笑った。「そう言えば、師匠にあんな大きな子供がいたなんて、びっくりしましたよ」
「おう。わしも全然、知らんかったわい。あれには、わしもびっくりしたわ」
「みんな、独り者のように見えて、家族がいるんですね」
「ああ、あの阿修羅坊にもおるらしいしな」
「伊助殿や次郎吉殿にもいるんでしょうね」
「おるじゃろうのう」
「松阿弥にもいるんでしょうか」
「さあな、時宗の坊主だというから、いないかもしれんのう。しかし、坊主も裏で何をやってるかわからんから、子供がおるかもしれん」
「金比羅坊殿、探真坊の父親が山崎新十郎だったって知っていました?」
「山崎新十郎?」と言ったが、金比羅坊は思い出せないようだった。
「昔、望月屋敷を襲撃した時、望月又五郎の手下だった男です」
「何じゃと。本当か、そいつは」金比羅坊は驚いて、目を丸くして太郎を見つめた。
太郎は頷いた。「探真坊は俺を仇と狙っていたんです。いや、今でも狙っているかもしれません」
「仇と狙っている奴を、おぬしは弟子にしたと言うのか」
「成り行きで、そうなりました」
「大した奴じゃのう、おぬしは‥‥‥そうじゃったのか、探真坊がのう」
「まだ、いるかも知れません。俺を仇と狙っている奴は‥‥‥」
「しかし、それは仕方のない事じゃろう。おぬしも、むやみに人を殺しているわけではあるまい。剣術で生きて行く限り、それは宿命というものじゃないかのう」
「金比羅坊殿はどうです」
「わしか‥‥‥わしも何人もの人を殺して来た。わしを仇と思っている奴もおるじゃろうが、今の所、まだ、会ってはいない」
「そうですか‥‥‥」
「どうしたんじゃ。急にそんな話をしたりして」
「わかりません。ただ、これから決闘をするわけですけど、俺は松阿弥という奴を知りません。向こうも俺を知らないでしょう。お互い、知らない同士がどうして殺し合いをしなければならないのだろうって思ったんです」
「まあ、それはそうじゃが、そんな事を言ってしまえば、きりがないぞ。戦にしたって、知らない者同士が、何の恨みもないのに殺し合いをしておるんじゃ」
「どうして、そんな事をしているんでしょう」
「そんな事はわからん。ただ、戦に勝つためにやってるんじゃろう」
「勝つためにか‥‥‥」
「そうじゃ、勝つためにじゃ」
雨はやむ気配はなく、返って強くなって来たようだった。
「遅いのう。奴ら、本当に来るんかい」
「雨がやむのを待ってるんですかね」
「そんな事もあるまいが‥‥‥腕貫(ウデヌキ)を付けた方がいいぞ。雨で刀がすべるかもしれん」
「ええ、もう付けました」と太郎は刀の柄(ツカ)を見せた。
「うむ」と金比羅坊は満足そうに頷いた。
「‥‥‥おっ、来たらしいぞ」と金比羅坊は立ち上がった。「いや、伊助殿じゃ」
びっしょりになった伊助が寺の中に駈けて来た。
「もうすぐ、来ます。ひどい雨になりましたね」
金比羅坊は伊助に乾いた手拭いを渡した。
「この雨の中、やるんですか」と伊助が顔を拭きながら聞いた。
「敵は二人だけですか」と太郎は伊助に聞いた。
「ええ、二人だけです。良くはわかりませんが、松阿弥という奴、どうも体の具合が悪いみたいですよ。途中で何度も咳き込んでいました」
「ふん、風邪でもひいたか」と金比羅坊が笑った。
「いや、どうも労咳(肺結核)のような気がします。顔色も良くないし、体も痩せ細って、まるで骨と皮のようです」
「労咳病みか‥‥‥」と太郎は呟いた。
「気を抜くなよ」と金比羅坊が言った。「たとえ、相手が病人だろうと決闘は決闘じゃ。気を緩めたら負けるぞ」
「ええ、わかっています」
赤い傘が二つ見え、やがて、阿修羅坊と松阿弥の姿が草の中に見えて来た。阿修羅坊に赤い傘は似合わなかった。
太郎は松阿弥の姿をじっと見つめた。確かに伊助のいう通り、病人のようだった。顔まではよく見えないが、痩せているのはわかった。頭を丸め、色あせた墨衣を着て、どこにでもいる時宗の僧と変わりなかった。二人は真っすぐ荒れ寺の方に来た。
「生憎の天気じゃな」と阿修羅坊は太郎と金比羅坊と伊助を見ながら言った。
松阿弥は三人をちらっと見ただけで、草原の方を見ていた。
「やりますか」と太郎は言った。
「どうする。雨のやむのを待つか」
「わたしはどっちでも構いません」
阿修羅坊は頷くと、「松阿弥殿、こちらが、そなたの相手じゃ」と松阿弥に太郎を紹介した。
松阿弥は太郎を見た。一瞬だったが、太郎は松阿弥の目を見た。その目は修羅場を何度も経験して来た男の目だった。
「阿修羅坊殿、ちょっと話がある」と松阿弥はかすれた声で言った。
「何じゃ」
松阿弥と阿修羅坊は三人から離れて行った。
「わしは赤松家のために、この仕事を引き受けた」と松阿弥は言った。
「そんな事は知っておる」
「奴を殺す事は、確かに、赤松家のためになるんじゃな」
「なる。奴を殺すために、わしは手下を四十人も失った。このまま生かしておくわけにはいかん」
「わかった‥‥‥始めよう」
雨の中、決闘は始まった。
山伏姿の太郎は刀を中段に構えて松阿弥を見ていた。
松阿弥は杖に仕込んであった細く真っすぐな剣を胸の前に、刀身の先を左上に向け、斜めに構えていた。
お互いに、少しづつ間合いを狭めて行った。
二人の間合いが二間(ケン)になった時、二人は同時に止まった。
太郎は中段の構えから左足を一歩踏み出し、刀を顔の右横まで上げ、切っ先を天に向けて八相の構えを取った。
松阿弥は剣を下げ、下段に構えた。
太郎は八相の構えから刀を静かに後ろに倒し、無防備に左肩を松阿弥の方に突き出し、刀は左肩と反対方向の後ろの下段に下げた。
松阿弥は右足を一歩引くと下段の剣を後ろに引き、驚いた事に、太郎とまったく同じ構えをした。
二人とも左肩越しに、敵を見つめたまま動かなかった。
じっとしている二人に雨は容赦なく降りそそいだ。
阿修羅坊も金比羅坊も伊助も雨に濡れながら二人を見守っていた。
太郎は革の鉢巻をしていたが、雨は目の中にも入って来た。顔を拭いたかったが、それはできなかった。
松阿弥の方は鉢巻もしていない。坊主頭から雨が顔の上を流れていた。松阿弥は目を閉じているようだった。
松阿弥が動いた。素早かった。
太郎も動いた。
それは、ほんの一瞬の出来事だった。
松阿弥が太郎に斬り掛かって行き、太郎がそれに合わせるように松阿弥に斬り掛かった。しかし、剣と剣がぶつかる音もなく、剣が空を斬る音が続けて二回しただけだった。
そして、何事もなかったかのように、二人は場所をほんの少し変えて、また、同じ構えをしながら相手を見つめた。
見ていた三人にも、一体、今、何が起こったのか、はっきりわからない程の速さだった。
松阿弥は素早く駈け寄ると、太郎の首を横にはねた。太郎の首は間違いなく胴と離れ、雨の中、飛んで行くはずだった。しかし、太郎は松阿弥の剣をぎりぎりの所で避け、逆に、松阿弥の伸びきっていた両手を狙って刀を振り下ろした。
松阿弥は危うい所だったが、見事に太郎の刀を避け、飛び下がった。
それらの動きが、ほんの一瞬の内に行なわれ、二人はまた同じ構えをしたまま動かなかった。
松阿弥にとって、すでに体力の限界に来ていた。今の一撃で終わるはずだった。今まで、あの技を破った者はいなかった。いくら、病に蝕まれているとはいえ、腕が落ちたとは思えない。それを奴は避けた。避けただけでなく、反撃までして来た。
何という奴じゃ‥‥‥
誰にも負けないという自信を持っていた。それが、あんな若造に破られるとは‥‥‥
松阿弥は笑った。それは皮肉の笑いではなかった。心から自然に出て来た笑いだった。
今まで死に場所を捜して来た松阿弥にとって、自分よりも強い相手に掛かって死ねるというのは本望と言ってよかった。剣一筋に生きて来た自分にとって、それは最高の死に方だった。血を吐いたまま、どこかで野垂れ死にだけはしたくはなかった。
瞼の裏に、妙泉尼の顔が浮かんで来た。
妙泉尼が望んでいた太平の世にする事はできなかった。しかし、自分なりに一生懸命、生きて来たつもりだった。もう、思い残す事は何もなかった。
松阿弥は死ぬ覚悟をして、太郎に掛かって行った。
運命は、松阿弥の思うようにはならなかった。
剣が太郎に届く前に、松阿弥は発作に襲われて血を吐いた。地面が真っ赤に染まった。そして、血を吐きながら松阿弥は倒れた。
見ていた者たちは、太郎が目にも留まらない素早さで、松阿弥を斬ったものと思い込んだ。
太郎は刀を捨てると、倒れている松阿弥を助け起こした。
松阿弥は目を開けて太郎の方を見ながら笑った。そして、そのまま気を失った。
松阿弥は生き返った。
決闘の後、太郎たちは倒れた松阿弥を戸板に乗せて、『浦浪』まで運んで来た。
すでに皆、起きていて、どうしたんだ、と大騒ぎになった。金勝座のお文さんが、手際よく、みんなを指図して、すぐに松阿弥の手当を行なった。
濡れた着物を脱がして体を拭くと、乾いた着物を着せ、布団の中に寝かせ、冷えきった体を暖めた。熱も出ていたので、伊助の持っている解熱の薬と滋養強壮の薬を飲ませて安静にした。
伊助にも太郎にも、労咳に効く薬というのはわからなかった。
阿修羅坊は、みんなに迷惑がかかるので、ここに置いておくわけにはいかない。わたしの知っているうちがあるから、そこに連れて行くと言ったが、お文さんは許さなかった。
「あんた、この人の連れかい。よくまあ、こんなになるまで放っておいたもんだね。殺す気かい。駄目だよ。今、動かしたら、一番、危ないんだからね。どこに連れて行くんだか知らないけど、どうせ、ろくに世話なんか、できやしないんだろ。歩けるようになるまで動かしちゃ駄目だよ」とびしっと言われた。
さすがの阿修羅坊も一言も返せず、お文の言うがままだった。
阿修羅坊は松阿弥の事を皆に頼み、浦上屋敷に帰って行った。
松阿弥は五日間、横になったままだった。
みんなの介抱のお陰で、松阿弥の具合も少しづつ回復に向かって行った。今まで無理をしていて、ろくに休みもしなかったのだろう。顔色もよくなり、目付きも穏やかになって行った。
金勝座の女たちは、お文さんを初めとして、みんながよく面倒をみてくれていた。
松阿弥は、すでに自分が死んでいるものと思っていた。
最初に目が覚めた時、丁度、笛吹きのおすみが看病していたが、松阿弥は妙泉尼だと思い込み、ようやく、死ぬ事ができたと安心して、また眠りに落ちて行った。
次に目を覚ました時にはお文さんがいた。最初、妙泉尼だと思ったが、何となく違うような気がして、よく見たら知らない女だった。そして、自分がまったく知らない場所に寝かされている事に気づいた。
わしは、まだ生きていたのか‥‥‥と思いながら、また眠りに落ちて行った。
三度目に目を覚ました時には太一と太郎がいた。女は知らないが、男の顔は見覚えがあった‥‥‥
松阿弥は思い出した。
情けない、敵に助けられたのか、と思った。体を動かそうと思ったが、体中が重く、動かす事はできなかった。
また、眠った。
次には夜中に目を覚ました。体が大分、楽になったように感じられたが、まだ動かす事はできなかった。力が全然、入らなかった。夜中だから誰もいないだろうと思っていたのに枕元に誰かがいた。決闘の時、太郎坊と一緒にいた山伏だった。
わしが逃げると思って見張っているのか、と思った。しかし、その山伏は頭に乗せてある手拭いを取り換えてくれた。
どうして、敵にこんな事をするのかわからなかった。松阿弥には理解できなかった。
松阿弥は朝までずっと、寝た振りをしながら起きていた。枕元にいる山伏は小まめに手拭いを換えてくれた。そして、夜が明ける頃、今度は太郎坊が来て山伏と交替した。しばらくすると、今度は娘が来て、太郎坊と交替して行った。みんなが自分の事を心配して、看病してくれているという事がわかった。
どうして、わしのような者をこんなに看病してくれるのだろう、松阿弥にはわからなかった。今まで、自分の事をこれ程、心配してくれたのは妙泉尼、ただ一人だけだった。
どうして、わしなんかに、これ程、親身になって世話をしてくれるのか、わからなかったが、松阿弥は好意に甘える事にした。
五日目に、ようやく起きる事のできた松阿弥は、お文の作ったお粥(カユ)を食べた。そのお粥は涙が出る程、うまかった。妙泉尼の死以来、涙なんか流した事もなかったのに、その時は、なぜか、涙があふれて来て止まらなかった。松阿弥の意志に逆らって、涙の流れは止まらなかった。
七日目に布団から出て、少し歩けるようになった。歩けるようになっても、松阿弥はほとんど喋らなかった。喋らなかったが、松阿弥がみんなに感謝しているという事は、みんなにも充分に伝わっていた。
十一日目に、松阿弥は、色々とお世話になりました、とみんなにお礼を言って、みんなに見送られて但馬に帰って行った。例の仕込み杖は持っていなかった。
松阿弥は但馬の国に帰り、妙泉尼の墓の側に小さな草庵を建て、剣の事はすっかり忘れて、ひっそりと暮らしていた。
乞食坊主と呼ばれながらも、そんな事は少しも気にせず、人の為になる事なら何でも、ためらわず行なっていた。人に誉められたいとか、人に良く見てもらおうとか、そんな事は少しも思わず、些細な事ながら人の為になると思った事は何でもやった。
剣を捨てて初めて、妙泉尼が死ぬ前に言っていた、人の為に何かをしたいという意味が、ようやく松阿弥にもわかるようになっていた。
松阿弥は心の中に生きている妙泉尼と一緒に、人の為になる事なら何でも実行に移していた。
いつでも死ねる覚悟はできていたが、死はなかなか、やって来なかった。
いつの間にか、松阿弥の回りに子供たちが集まって来るようになっていた。子供たちに何かをしてやるわけではなかった。時々、一緒になって遊んでやるくらいだったが、子供たちは、松阿弥の事を、和尚、和尚と言って集まって来た。
そのうちに、集まって来た子供たちに読み書きを教えるようになった。ただで読み書きを教えてくれるというので、子供たちがどんどん集まって来た。松阿弥は集まって来た子供たち一人一人に丁寧に教えた。
そして、太郎と決闘した日より三年目の秋、松阿弥は子供たちに囲まれながら、静かに息を引き取った。
その死に顔は穏やかだった。
太郎はただ川の流れを見ていた。
「考えておく、と言った。ところで、おぬし、念流というのを知っておるか」
「聞いた事はあります」
「そうか、その念流の使い手を連れて来た。おぬしがそいつを倒せば、おぬしを赤松家に迎えるそうじゃ」
「えっ、ほんとですか」太郎は探るように阿修羅坊を見た。
阿修羅坊は任せておけと言うように頷いた。「おぬしの事をよく言っておいた。浦上殿も、敵に回すより味方にした方がいいと気づいたんじゃろ。おぬしを楓殿の亭主として迎えるそうじゃ」
「そうですか‥‥‥ところで、その念流の使い手というのは何者です」
「松阿弥という時宗の僧じゃ。浦上殿の所に食客(ショッカク)としていたらしい。ちょっと気味の悪い男じゃ。手ごわい相手かも知れん」
「その松阿弥という男は何を使います」
「得物(エモノ、武器)か」
太郎は頷いた。
「わからんのう。わからんが、多分、仕込み杖じゃないかの」
「仕込み杖?」
「ああ、奴の持っている杖がな、どうも、仕込み杖のような気がする」
「刀が仕込んであるという事ですか」
「多分な。わしも念流とかいう剣術の事はよく知らんが、昔、山名宗全のもとに念流を使う奴がいてのう。首を斬るのが得意だとか聞いた事がある」
「首を?」
「あっという間だそうじゃ。あっという間に、敵の首が飛んでいるそうじゃ」
「そんな奴がいたのですか」
「噂じゃ。本当かどうかはわからん」
「念流か‥‥‥」
「いつやる」と阿修羅坊が聞いた。
「明日の早朝」と太郎は迷わず答えた。
「場所は?」
「この前の荒れ寺」
「よし、わかった。敵は一人じゃ。おぬしも一人で来い。わしが検分役を務める」
太郎は頷いた。
「ところで、宝捜しの方はどうじゃ」
「まだです」
「そうじゃろう。そう、簡単には見つかるまい。瑠璃寺には行ってみたか」
「行きましたけど、何もつかめませんでした」
「やはり、駄目か。これから、どこを捜すつもりじゃ」
「赤松村と城山城の城下を当たってみるつもりです」
「うむ、わしも赤松村が臭いと睨んでおったんじゃ。見つかるといいがのう。まあ、それより明日は勝てよ。楓殿を悲しませたくないからのう」
太郎は頷いた。
「おぬし、愛洲水軍の伜だそうじゃのう。愛洲氏といえば、昔、南北朝の頃、赤松氏と共に南朝方で活躍したそうじゃ。しかし、建武の新政で、赤松氏と同じく、大した恩賞も貰えなかった。赤松氏は反発して播磨に戻り、やがて、足利尊氏と組んで南朝を倒し、足利幕府に協力して三国の守護職を手に入れた。愛洲氏の場合は場所が悪かった。伊勢に南朝の大物、北畠氏が入って来たからのう。結局、北畠氏に食われた形になって、伊勢の隅に追いやられてしまった。もし、立場が逆だったら愛洲氏が三国の守護職になっていたかもしれんのう」
太郎も、祖父、白峰から南北朝の頃の愛洲氏の活躍は何度か聞いた事があった。しかし、阿修羅坊がどうして急に、そんな事を言い出したのかわからなかった。
「愛洲氏も源氏だそうじゃな」
「ええ」
「由緒ある家柄というわけじゃ。しかし、赤松家に迎えるには釣り合いが取れんそうじゃ。何せ、楓殿はお屋形様の姉上じゃからな。おぬしはお屋形様の兄上という事になるわけじゃ。わかるか。赤松家と釣り合いのとれる家柄の名前に変えてもらうかもしれん」
「そうですか‥‥‥」
太郎にとって名前など、どうでも良かった。現に今、太郎は四つの名前を持っている。本名の愛洲太郎左衛門久忠、山伏名の太郎坊移香と火山坊移香、そして、職人名の三好日向。今更、もう一つ名前が増えようと、どうって事はなかった。
「まあ、明日は頑張ってくれ」と言うと阿修羅坊は立ち上がった。
「右手は大丈夫ですか」と太郎は聞いた。
「ああ、骨はくっついたらしい。心配するな。もうすぐ元に戻る」
「そうですか」
「おぬし、また、棒を使うのか」
「いえ、刀を使います」
「うむ、その方がいい。ところで、ここに戻って来る途中、面白い噂を聞いた。信じられなかったが、この城下に来てみたら、その噂で持ち切りじゃ。その噂を流したのはおぬしか」
太郎は頷いた。
「やはりのう‥‥‥楓殿の亭主として、堂々と城下に入場するつもりか」
「ええ」
「まだ、時期が早いぞ。もう少し待ってくれ。今、入場したとしても、おぬしが楓殿の亭主だとは信じてもらえまい。楓殿にも会わせて貰えんじゃろう。城下を騒がす、ふとどき者として捕まり、殺されるのが落ちじゃ。もう少し待てば、美作守が後押ししてくれるじゃろう。それには、明日、松阿弥を倒し、わしがもう一度、京に帰り、戻って来るのを待っていてくれ。悪いようにはしない。わしに任せてくれ」
そう言うと阿修羅坊は河原を北の方に歩いて行った。
太郎は阿修羅坊の後姿を見ながら、楓の言ったように、本当はいい奴なのかも知れないと思った。
5
雨が降っていた。
太郎は昨夜のうちから、この荒れ寺に来ていた。金比羅坊も一緒にいた。
一人でいいと言ったのに聞かなかった。向こうも阿修羅坊と松阿弥の二人なのだから、こっちも二人でもおかしくない。わしはただ、阿修羅坊を見張っているだけじゃと言った。無理に断っても、隠れて付いて来るのはわかっていたので、一緒に行く事にした。
あの後、伊助から一度、連絡があった。阿修羅坊は城下に出て行ったが、松阿弥の方は浦上屋敷から一歩も外に出ないと言う。浦上屋敷に忍び込もうと思っていた太郎も、松阿弥の事は、阿修羅坊から大体、聞いたのでやめる事にした。
太郎は荒れ寺の縁側に座って河原の方を見ていた。
草が長く伸びていて、川の流れは見えなかった。
「よく、寝たわい」と金比羅坊が近づいて来た。「よく、降るのう」
「もう、秋ですね」と太郎は言った。
「おう、すっかり涼しくなったのう」
「甲賀を出てから、もうすぐ、一月になりますねえ」
「もう、そんなになるか」と金比羅坊は言って、縁側に腰を下ろすと河原の方を見た。
「飯道山は相変わらず、忙しいでしょうね」
「ああ。もうすぐ秋祭りじゃのう」
「秋祭りか‥‥‥そう言えば、金勝座も秋祭りには出るんでしょう」
「そうじゃのう。出るじゃろうのう」
「そろそろ、帰らなけりゃなりませんね」
「まだ、大丈夫じゃろ。おぬしが無事に城下に迎えられるのを見届けてから帰るじゃろう」
「金勝座のみんなが、いなくなると淋しくなりますね‥‥‥金比羅坊殿も一緒に帰るんですか」
「わしか‥‥‥わからんのう。もう少し様子を見ん事にはのう」
「話は変わりますけど、金比羅坊殿に娘さんがいたなんて、初めて知りましたよ」
「別に隠していたわけじゃないがのう」
伊助が花養院の様子を話してくれた時、今、金比羅坊の娘が孤児院を手伝っていると言ったのだった。金比羅坊の娘は、ちいと言う名の十四歳で、よく子供たちの面倒を見ているとの事だった。金比羅坊殿には悪いが、とても、金比羅坊殿の娘とは思えない程、綺麗な娘さんだと伊助は言った。
「他にも、お子さんはいるんですか」と太郎は聞いた。
「五郎というガキがおる」と金比羅坊は照れ臭そうに言った。
「何歳です」
「八つじゃ」
「へえ、驚きですよ。女がいるっていうのは知ってましたけど、まさか、子供が二人もいたなんて、とても信じられませんよ」
「そりゃ、お互い様じゃ。おぬしの弟子たちも、おぬしに女房と子供がいたなんて信じられんと言っておったぞ」
太郎は笑った。「そう言えば、師匠にあんな大きな子供がいたなんて、びっくりしましたよ」
「おう。わしも全然、知らんかったわい。あれには、わしもびっくりしたわ」
「みんな、独り者のように見えて、家族がいるんですね」
「ああ、あの阿修羅坊にもおるらしいしな」
「伊助殿や次郎吉殿にもいるんでしょうね」
「おるじゃろうのう」
「松阿弥にもいるんでしょうか」
「さあな、時宗の坊主だというから、いないかもしれんのう。しかし、坊主も裏で何をやってるかわからんから、子供がおるかもしれん」
「金比羅坊殿、探真坊の父親が山崎新十郎だったって知っていました?」
「山崎新十郎?」と言ったが、金比羅坊は思い出せないようだった。
「昔、望月屋敷を襲撃した時、望月又五郎の手下だった男です」
「何じゃと。本当か、そいつは」金比羅坊は驚いて、目を丸くして太郎を見つめた。
太郎は頷いた。「探真坊は俺を仇と狙っていたんです。いや、今でも狙っているかもしれません」
「仇と狙っている奴を、おぬしは弟子にしたと言うのか」
「成り行きで、そうなりました」
「大した奴じゃのう、おぬしは‥‥‥そうじゃったのか、探真坊がのう」
「まだ、いるかも知れません。俺を仇と狙っている奴は‥‥‥」
「しかし、それは仕方のない事じゃろう。おぬしも、むやみに人を殺しているわけではあるまい。剣術で生きて行く限り、それは宿命というものじゃないかのう」
「金比羅坊殿はどうです」
「わしか‥‥‥わしも何人もの人を殺して来た。わしを仇と思っている奴もおるじゃろうが、今の所、まだ、会ってはいない」
「そうですか‥‥‥」
「どうしたんじゃ。急にそんな話をしたりして」
「わかりません。ただ、これから決闘をするわけですけど、俺は松阿弥という奴を知りません。向こうも俺を知らないでしょう。お互い、知らない同士がどうして殺し合いをしなければならないのだろうって思ったんです」
「まあ、それはそうじゃが、そんな事を言ってしまえば、きりがないぞ。戦にしたって、知らない者同士が、何の恨みもないのに殺し合いをしておるんじゃ」
「どうして、そんな事をしているんでしょう」
「そんな事はわからん。ただ、戦に勝つためにやってるんじゃろう」
「勝つためにか‥‥‥」
「そうじゃ、勝つためにじゃ」
雨はやむ気配はなく、返って強くなって来たようだった。
「遅いのう。奴ら、本当に来るんかい」
「雨がやむのを待ってるんですかね」
「そんな事もあるまいが‥‥‥腕貫(ウデヌキ)を付けた方がいいぞ。雨で刀がすべるかもしれん」
「ええ、もう付けました」と太郎は刀の柄(ツカ)を見せた。
「うむ」と金比羅坊は満足そうに頷いた。
「‥‥‥おっ、来たらしいぞ」と金比羅坊は立ち上がった。「いや、伊助殿じゃ」
びっしょりになった伊助が寺の中に駈けて来た。
「もうすぐ、来ます。ひどい雨になりましたね」
金比羅坊は伊助に乾いた手拭いを渡した。
「この雨の中、やるんですか」と伊助が顔を拭きながら聞いた。
「敵は二人だけですか」と太郎は伊助に聞いた。
「ええ、二人だけです。良くはわかりませんが、松阿弥という奴、どうも体の具合が悪いみたいですよ。途中で何度も咳き込んでいました」
「ふん、風邪でもひいたか」と金比羅坊が笑った。
「いや、どうも労咳(肺結核)のような気がします。顔色も良くないし、体も痩せ細って、まるで骨と皮のようです」
「労咳病みか‥‥‥」と太郎は呟いた。
「気を抜くなよ」と金比羅坊が言った。「たとえ、相手が病人だろうと決闘は決闘じゃ。気を緩めたら負けるぞ」
「ええ、わかっています」
赤い傘が二つ見え、やがて、阿修羅坊と松阿弥の姿が草の中に見えて来た。阿修羅坊に赤い傘は似合わなかった。
太郎は松阿弥の姿をじっと見つめた。確かに伊助のいう通り、病人のようだった。顔まではよく見えないが、痩せているのはわかった。頭を丸め、色あせた墨衣を着て、どこにでもいる時宗の僧と変わりなかった。二人は真っすぐ荒れ寺の方に来た。
「生憎の天気じゃな」と阿修羅坊は太郎と金比羅坊と伊助を見ながら言った。
松阿弥は三人をちらっと見ただけで、草原の方を見ていた。
「やりますか」と太郎は言った。
「どうする。雨のやむのを待つか」
「わたしはどっちでも構いません」
阿修羅坊は頷くと、「松阿弥殿、こちらが、そなたの相手じゃ」と松阿弥に太郎を紹介した。
松阿弥は太郎を見た。一瞬だったが、太郎は松阿弥の目を見た。その目は修羅場を何度も経験して来た男の目だった。
「阿修羅坊殿、ちょっと話がある」と松阿弥はかすれた声で言った。
「何じゃ」
松阿弥と阿修羅坊は三人から離れて行った。
「わしは赤松家のために、この仕事を引き受けた」と松阿弥は言った。
「そんな事は知っておる」
「奴を殺す事は、確かに、赤松家のためになるんじゃな」
「なる。奴を殺すために、わしは手下を四十人も失った。このまま生かしておくわけにはいかん」
「わかった‥‥‥始めよう」
雨の中、決闘は始まった。
山伏姿の太郎は刀を中段に構えて松阿弥を見ていた。
松阿弥は杖に仕込んであった細く真っすぐな剣を胸の前に、刀身の先を左上に向け、斜めに構えていた。
お互いに、少しづつ間合いを狭めて行った。
二人の間合いが二間(ケン)になった時、二人は同時に止まった。
太郎は中段の構えから左足を一歩踏み出し、刀を顔の右横まで上げ、切っ先を天に向けて八相の構えを取った。
松阿弥は剣を下げ、下段に構えた。
太郎は八相の構えから刀を静かに後ろに倒し、無防備に左肩を松阿弥の方に突き出し、刀は左肩と反対方向の後ろの下段に下げた。
松阿弥は右足を一歩引くと下段の剣を後ろに引き、驚いた事に、太郎とまったく同じ構えをした。
二人とも左肩越しに、敵を見つめたまま動かなかった。
じっとしている二人に雨は容赦なく降りそそいだ。
阿修羅坊も金比羅坊も伊助も雨に濡れながら二人を見守っていた。
太郎は革の鉢巻をしていたが、雨は目の中にも入って来た。顔を拭いたかったが、それはできなかった。
松阿弥の方は鉢巻もしていない。坊主頭から雨が顔の上を流れていた。松阿弥は目を閉じているようだった。
松阿弥が動いた。素早かった。
太郎も動いた。
それは、ほんの一瞬の出来事だった。
松阿弥が太郎に斬り掛かって行き、太郎がそれに合わせるように松阿弥に斬り掛かった。しかし、剣と剣がぶつかる音もなく、剣が空を斬る音が続けて二回しただけだった。
そして、何事もなかったかのように、二人は場所をほんの少し変えて、また、同じ構えをしながら相手を見つめた。
見ていた三人にも、一体、今、何が起こったのか、はっきりわからない程の速さだった。
松阿弥は素早く駈け寄ると、太郎の首を横にはねた。太郎の首は間違いなく胴と離れ、雨の中、飛んで行くはずだった。しかし、太郎は松阿弥の剣をぎりぎりの所で避け、逆に、松阿弥の伸びきっていた両手を狙って刀を振り下ろした。
松阿弥は危うい所だったが、見事に太郎の刀を避け、飛び下がった。
それらの動きが、ほんの一瞬の内に行なわれ、二人はまた同じ構えをしたまま動かなかった。
松阿弥にとって、すでに体力の限界に来ていた。今の一撃で終わるはずだった。今まで、あの技を破った者はいなかった。いくら、病に蝕まれているとはいえ、腕が落ちたとは思えない。それを奴は避けた。避けただけでなく、反撃までして来た。
何という奴じゃ‥‥‥
誰にも負けないという自信を持っていた。それが、あんな若造に破られるとは‥‥‥
松阿弥は笑った。それは皮肉の笑いではなかった。心から自然に出て来た笑いだった。
今まで死に場所を捜して来た松阿弥にとって、自分よりも強い相手に掛かって死ねるというのは本望と言ってよかった。剣一筋に生きて来た自分にとって、それは最高の死に方だった。血を吐いたまま、どこかで野垂れ死にだけはしたくはなかった。
瞼の裏に、妙泉尼の顔が浮かんで来た。
妙泉尼が望んでいた太平の世にする事はできなかった。しかし、自分なりに一生懸命、生きて来たつもりだった。もう、思い残す事は何もなかった。
松阿弥は死ぬ覚悟をして、太郎に掛かって行った。
運命は、松阿弥の思うようにはならなかった。
剣が太郎に届く前に、松阿弥は発作に襲われて血を吐いた。地面が真っ赤に染まった。そして、血を吐きながら松阿弥は倒れた。
見ていた者たちは、太郎が目にも留まらない素早さで、松阿弥を斬ったものと思い込んだ。
太郎は刀を捨てると、倒れている松阿弥を助け起こした。
松阿弥は目を開けて太郎の方を見ながら笑った。そして、そのまま気を失った。
6
松阿弥は生き返った。
決闘の後、太郎たちは倒れた松阿弥を戸板に乗せて、『浦浪』まで運んで来た。
すでに皆、起きていて、どうしたんだ、と大騒ぎになった。金勝座のお文さんが、手際よく、みんなを指図して、すぐに松阿弥の手当を行なった。
濡れた着物を脱がして体を拭くと、乾いた着物を着せ、布団の中に寝かせ、冷えきった体を暖めた。熱も出ていたので、伊助の持っている解熱の薬と滋養強壮の薬を飲ませて安静にした。
伊助にも太郎にも、労咳に効く薬というのはわからなかった。
阿修羅坊は、みんなに迷惑がかかるので、ここに置いておくわけにはいかない。わたしの知っているうちがあるから、そこに連れて行くと言ったが、お文さんは許さなかった。
「あんた、この人の連れかい。よくまあ、こんなになるまで放っておいたもんだね。殺す気かい。駄目だよ。今、動かしたら、一番、危ないんだからね。どこに連れて行くんだか知らないけど、どうせ、ろくに世話なんか、できやしないんだろ。歩けるようになるまで動かしちゃ駄目だよ」とびしっと言われた。
さすがの阿修羅坊も一言も返せず、お文の言うがままだった。
阿修羅坊は松阿弥の事を皆に頼み、浦上屋敷に帰って行った。
松阿弥は五日間、横になったままだった。
みんなの介抱のお陰で、松阿弥の具合も少しづつ回復に向かって行った。今まで無理をしていて、ろくに休みもしなかったのだろう。顔色もよくなり、目付きも穏やかになって行った。
金勝座の女たちは、お文さんを初めとして、みんながよく面倒をみてくれていた。
松阿弥は、すでに自分が死んでいるものと思っていた。
最初に目が覚めた時、丁度、笛吹きのおすみが看病していたが、松阿弥は妙泉尼だと思い込み、ようやく、死ぬ事ができたと安心して、また眠りに落ちて行った。
次に目を覚ました時にはお文さんがいた。最初、妙泉尼だと思ったが、何となく違うような気がして、よく見たら知らない女だった。そして、自分がまったく知らない場所に寝かされている事に気づいた。
わしは、まだ生きていたのか‥‥‥と思いながら、また眠りに落ちて行った。
三度目に目を覚ました時には太一と太郎がいた。女は知らないが、男の顔は見覚えがあった‥‥‥
松阿弥は思い出した。
情けない、敵に助けられたのか、と思った。体を動かそうと思ったが、体中が重く、動かす事はできなかった。
また、眠った。
次には夜中に目を覚ました。体が大分、楽になったように感じられたが、まだ動かす事はできなかった。力が全然、入らなかった。夜中だから誰もいないだろうと思っていたのに枕元に誰かがいた。決闘の時、太郎坊と一緒にいた山伏だった。
わしが逃げると思って見張っているのか、と思った。しかし、その山伏は頭に乗せてある手拭いを取り換えてくれた。
どうして、敵にこんな事をするのかわからなかった。松阿弥には理解できなかった。
松阿弥は朝までずっと、寝た振りをしながら起きていた。枕元にいる山伏は小まめに手拭いを換えてくれた。そして、夜が明ける頃、今度は太郎坊が来て山伏と交替した。しばらくすると、今度は娘が来て、太郎坊と交替して行った。みんなが自分の事を心配して、看病してくれているという事がわかった。
どうして、わしのような者をこんなに看病してくれるのだろう、松阿弥にはわからなかった。今まで、自分の事をこれ程、心配してくれたのは妙泉尼、ただ一人だけだった。
どうして、わしなんかに、これ程、親身になって世話をしてくれるのか、わからなかったが、松阿弥は好意に甘える事にした。
五日目に、ようやく起きる事のできた松阿弥は、お文の作ったお粥(カユ)を食べた。そのお粥は涙が出る程、うまかった。妙泉尼の死以来、涙なんか流した事もなかったのに、その時は、なぜか、涙があふれて来て止まらなかった。松阿弥の意志に逆らって、涙の流れは止まらなかった。
七日目に布団から出て、少し歩けるようになった。歩けるようになっても、松阿弥はほとんど喋らなかった。喋らなかったが、松阿弥がみんなに感謝しているという事は、みんなにも充分に伝わっていた。
十一日目に、松阿弥は、色々とお世話になりました、とみんなにお礼を言って、みんなに見送られて但馬に帰って行った。例の仕込み杖は持っていなかった。
松阿弥は但馬の国に帰り、妙泉尼の墓の側に小さな草庵を建て、剣の事はすっかり忘れて、ひっそりと暮らしていた。
乞食坊主と呼ばれながらも、そんな事は少しも気にせず、人の為になる事なら何でも、ためらわず行なっていた。人に誉められたいとか、人に良く見てもらおうとか、そんな事は少しも思わず、些細な事ながら人の為になると思った事は何でもやった。
剣を捨てて初めて、妙泉尼が死ぬ前に言っていた、人の為に何かをしたいという意味が、ようやく松阿弥にもわかるようになっていた。
松阿弥は心の中に生きている妙泉尼と一緒に、人の為になる事なら何でも実行に移していた。
いつでも死ねる覚悟はできていたが、死はなかなか、やって来なかった。
いつの間にか、松阿弥の回りに子供たちが集まって来るようになっていた。子供たちに何かをしてやるわけではなかった。時々、一緒になって遊んでやるくらいだったが、子供たちは、松阿弥の事を、和尚、和尚と言って集まって来た。
そのうちに、集まって来た子供たちに読み書きを教えるようになった。ただで読み書きを教えてくれるというので、子供たちがどんどん集まって来た。松阿弥は集まって来た子供たち一人一人に丁寧に教えた。
そして、太郎と決闘した日より三年目の秋、松阿弥は子供たちに囲まれながら、静かに息を引き取った。
その死に顔は穏やかだった。
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